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『世界の裂け目 3話』 作者:アタベ / 未分類 未分類
全角33973文字
容量67946 bytes
原稿用紙約105.9枚
今いる世界と別の場所に繋がっている世界の裂け目が見えることの出来るコウの非日常が日常へと変わっていく変なお話。
 サエを支える掌が血で滑る。そろそろ心臓を押さえ込むのも難しくなってきた。
 血の感触が気持ち悪いとか、息が切れては戻しそうな程に身体が悲鳴を上げていることとか、背後からチサトが追ってきていることを想像して感じる恐怖とか、そういったものをすべてひっくるめて、俺は気持ち良くなっていた。ランナーズハイという奴だろうか。足を止めようとは思わなかった。
「わたしを……降ろしなさい……よ」
 まだサエの意識はあった。よく分からないがあんな大きな穴が身体に六個も開いているのに気を失わないとは、やはり女は強い。
「怪我人は、黙ってろ! 馬鹿!」
 ひぃ、ひぃ、と喘ぎながらサエに怒鳴る。意地だけでなんとか出た言葉だ。
 ――糞っ、横腹痛えぇ。
 夜の街を考えもなしに疾走する。気がつけば住宅街からは離れ車通りの少ない旧道を走っていた。こんな人気のない場所にも申し訳程度に街灯が立っていて、情けない姿の俺を観察するように照らしていた。
 ――何処まで逃げればいいんだ?
 少しでも気を抜けばサエを落としてしまいそうだ。俺の握力も限界に近いらしい。
「馬鹿なのはあんたよ」
 何故か前方からチサト、もとい化け物の声が聞こえた。
 今感じていたランナーズハイを勘違いだと自覚させるのに十分な程に凶悪な存在、チサトが目の前に立っていた。張り付かせている表情は苛立たしい笑顔ではなく、恐怖を感じる素の表情だった。
 止める気もなかった足が、意識せず止まった。
 頬に激痛が走る。チサトの拳が俺の頬を容赦なく殴った。その衝撃で身体を支えきれず全身をアスファルトの地面に叩き付けた。自身の身体すら支えることもできない俺がサエの身体を支えることなどできる訳もなくサエの身体もアスファルトに無造作に放り出された。
 ――痛えぇ。親父もこんなにも強く殴ったことないぞ……。
 さっきまで走り続けた疲労が、身体を止めたせいで一気に俺の身体に浸透する。身体が持ち上がらない。
 チサトが仰向けに倒れた俺に跨り、俺を見下す位置に首を移動させた。
「カスが。頭が逝ってるにも程があるんじゃないの」
 俺の髪を乱暴に掴み、俺の上半身を力まかせに起こさせた。
 まるで頭の皮膚を思いっきり剥がされるような痛みが頭から足元まで伝わってくる。あまり経験のない痛みなだけに我慢するのも一苦労だ。男の意地で苦痛に歪む表情を見せていないが、それも時間の問題だろう。
「自覚してるっての」
 あえて笑ってみせた。
 ――勘違いした俺は相当な馬鹿だぜぇ。死んでも直らないくらいなんだからな!
 俺の虚しさ満点の笑顔にチサトは何の興味も示さず、俺の背後に視線を向けていた。
「あんた、その裂け目……?」
 今更ながらに俺の裂け目に気が付いたようだ。
「こんなに大きな裂け目を持っているのに、あんたは何もできないのね」
 明らかに俺を馬鹿にした笑い方だ。人を苛立たせるのに関しては天才だ。
「そんなカスがわたしの邪魔していいとでも思ったの?」
 ――この高飛車女が。
「あぁ、思ったね」
 邪魔できるかどうかは別にして、邪魔してはいけないと思う訳がなかった。
「そう。なら貴方がどんな目に遭うかもちゃんと分かっているのよね」
「知るか」
 にやつくチサトの表情が癪に障り、挑発のために光の速さで即答した。
「殺してあげる」
 チサトの表情が液体窒素で洗顔したかのように一瞬で凍りつく。チサトの放つ殺気はそれだけで人を殺せそうだ。いつもの俺なら殺されていたかも知れない。
「やめて」
 小さな、雨の一滴が水溜りに落ちた音のように小さな声がチサトの背後から聞こえた。かなり弱々しいがサエの声だ。サエがチサトに覆い被さるように背後からしがみついてた。
 ――あの傷で動けるのかよ。無茶してんじゃねぇ。
「先輩?」とチサトが振り返る。
 視線はサエに向けられているが俺の髪に込められた力は緩まることはなかった。
「貴女はわたしを殺したいんでしょう」
 はぁはぁと苦しげに喘ぎながら、
「コウは関係ないわ」
 言葉を続ける。
 サエの言葉にどんな意味が込められているのかを理解するのに数秒かかった。
 つまりはわたしを殺していいから俺に手を出さないでくれ、ということだ。
「何馬鹿なこといってんだよ」
 苦痛と疲労で大声が出せない。
 ――まったくどうしてこんなにも自分を犠牲に出来るんだ。それが俺のためになるとでも思ってるのかよ。
「怪我人は黙ってろって……言っただろ……!」
「こうなったのはわたし……の責任でしょう。それなのに……コウが殺される必要はないわ」
 サエの声に混じる苦しげな喘ぎが俺の耳を遠まわしに痛めつける。それ程にサエの声は痛々しい。
「黙りなさいよ。鬱陶しい」
 チサトは必死で言葉を紡ぐサエをその一言で切り捨てる。
「本当に先輩なんですか? あの先輩が他人のことを考えるなんて信じられないなぁ」
 纏わりつくような粘着質な声がチサトに対する嫌悪感を煽る。
「……自分でも……驚いているわ……」
 サエが痛みで顔を歪ませながら笑顔を浮かべた。
 ――だから、喋んなって。
「そう……」
 悪意に満ちた笑みを浮かべ、何もかもが気に入らないとでも云うような目つきでサエを睨む。
「変わっちゃいましたね。わたしのために必死になったこともない先輩だったのに」
 チサトが懐かしむような口調に恨めしがるような声音を混ぜ合わせた声を吐き出す。そのチサトの声に頭でも押さえつけられたか、サエは笑顔を隠して俯いた。
「とりあえず」
 どの声にも必ず、少なからず混じっていた明るい苛立たしい声を全開にしてチサトが言った。
「先輩には死んでもらいまーす」
 言い終えた瞬間、俺は悪夢をもう一度見ることになった。血だらけのサエの身体にチサトの肋骨が深々と突き刺さっていた。流れ続けていた血の勢いが決壊したダムから流れる水のように豹変し、馬鹿馬鹿しく感じる程に血が飛び散った。
 俺は目が離せなかった。瞳を閉じることも出来なかった。自分の顔に飛び散り付着したサエの血の熱さに全身で恐怖しながら、満面の笑みで血に塗れるチサトと血を流し続け、最後は搾りかすに成り果てるだろうサエを見ることしか、今は出来なかった。
「死んじゃった?」
 ぐったりとうなだれるサエにチサトがわざとらしく問いかける。サエの返事はなく首も動かない。
「おーい。せーんーぱーい」
 もう二度とサエの声は聞けないと分かっているだろうに、チサトはしつこくサエに返事を求める。チサトの愉しそうな笑顔を、俺はこれでもかという程に眼に焼き付けた。
「死んじゃったね」
 チサトは、空き缶を投げ捨てるくらいに躊躇なくサエを支えている肋骨を抜き取り、地面に放った。
「つまんないわね。叫び声の一つもないなんて」
 地面に転がるサエだった物にチサトは唾を吐き捨てるように言った。
 その一言は俺の頭を真っ白にして、純粋なチサトに対する憎悪の感情で塗り潰すのに十分すぎた。
 俺は力任せに髪を握るチサトの腕を振り解き、チサトの顔面を自分の指の骨が砕けたとしても後悔しない程に力を込め、殴った。掌に爪が刺さって血が滲んでいることなんて考える必要なんてなかった。
「ざけんな」
 チサトは怯んだが、それ以上の反応はなかった。チサトにとって俺の渾身の一発は痛み以外は肩を叩くか、名前を呼ばれるくらいの物だったらしい。
「なんで……」
 身体が震えた。声も震えた。きっと何かを我慢しているせいだ。我慢も限界に近い。そもそも、どんな理由で何を我慢しているのかさえいまいちよく分かっていない。
 とにかく俺が我慢するのを止めれば、世界に出してはいけないものが溢れ出してしまいそうで怖かった。
「なんでサエを殺した……」
 憎悪に塗り潰された俺の感情にサエの死に対しての悲しさとか寂しさとか、自分の無力さに対しての憤りだとかが、憎悪の上から淡く色を足していく。俺の頭の中では見るに耐えない醜い絵画が完成しつつあった。完成までにあと一つ足りない色。それがまだ分からない。何故だか分からないが俺はその絵画を完成させたかった。
「あんたに言わなきゃいけないの?」
 酷く面倒くさそうにチサトが答えた。ほんの少しだけ、最後の色のことについて分かりかけた。憎悪の色と似ていて憎悪よりも濃くて醜い色。
「いいから答えろよ」
「先輩がわたしのことを好きになってくれなかったからよ。だから殺したの。これでいい?」
 最後に「次はあんたの番だから」とチサトは付け足した。
 想像通り納得できるような答えではなかった。多分チサトの答えではどんな内容でも納得は出来ないだろう。
「まったく……。あんたもムカつくから死んでちょうだい。カスの癖にわたしの邪魔をして。挙句わたしを殴るなんていい加減にしてほしいわ」
「黙れ……!」
 少しずつ我慢していたものが溢れ出した。身体は勝手に動いてチサトの胸倉を掴んでいた。
「何よ。カスの癖にまだわたしにたてつく訳? 笑えないんだけど」
 ――あぁ、やっと分かった。最後の色。憎悪の色に似ていて、憎悪の色より濃くて醜い色。
 凄く心がすっきりした。我慢していたものも溢れるだけ溢れさせた。
 ――それは殺意だ。
「笑えない」
 瞬間、身体全体に激しい痛みが走った。身体の部分部分が焼けるように熱い。気色の悪いチサトの肋骨を見るのは今回で三回目だ。何度見ても慣れるものではない。それが自分の身体に刺さっているのなら尚更だ。
「うるさい」
 身体を駆け回る痛みを拳に力を込めることで耐え、再度チサトに拳をぶつけた。俺の拳をチサトは避けもせず顔面で受け止め、衝撃で数歩後ずさり、肋骨が俺から離れた。俺の身体から抜かれた肋骨にはサエと俺の血が混ざり合い、地面に滴っていた。
「痛くねぇ」
 よろめきながらも、俺は膝を付かなかった。痛くないというのはやせ我慢だが、我慢できないほどの痛みではなかった。
 よたよたと、ゆっくりと今にも倒れそうな勢いでチサトに近づく。
 ――あぁ、なんだ。馬鹿みたいに身体が熱い……。
「何よあんた……。気持ち悪いわね。さっさと死になさいよ」
 俺が余程気持ち悪いのか、チサトは自分から後ずさった。さっきの一撃は俺を殺すつもりだったらしく血を流しながら歩き続ける俺を見るチサトの表情には驚きというか、困惑というか、初めて見る表情をしていた。
 俺の歩みはあまりにも遅くなかなかチサトの傍まで近寄れない。チサトに近づくまでの時間で、妙に冷静になっていた。
 ――どうすればこいつを殺せるだろう。殴るだけじゃ殺せない気がする。けど殴る以外に何が出来る? こいつがサエを殺したみたいに何か鋭い物とかあると便利だよな。あぁ、でも都合良くそんなもんないし……。
「死になさいって言ってるでしょ!」
 四回目、もう痛いとかもよく分からない。とりあえず肋骨がまた俺の身体に刺さったようだ。
「お前なんかに殺されるか」
 チサトの顔を掌で鷲摑み、身体に刺さったチサトの肋骨など気に留めず自分の全体重をチサトに預け地面に叩きつける。さっきと立場が逆だ。今なら何でも俺の思いどおりになりそうな気がした。言うまでもなくチサトを殺せそうだ。
 ――どうしてこんなにこいつのことが憎いんだ……? サエを殺したから? 笑い方がムカつくから? 俺を殺そうとするから? 
 幾らかの考えが思い浮かんだがそれらはすぐに泡のように消えた。
 ――拒絶者だからかな? 分かんね。とりあえずこいつは許せない。
「なんで、なんで死なないのよ!」
 チサトが見苦しい程にうろたえる。さっきまでの余裕の表情は何処に消えたのだろうか。
「んなこと、俺も分かんねぇよ」
 身体に穴を空けられた痛みらしきものは感じているが、今感じている痛みが本当にチサトに付けられた傷の痛みなのかもよく分からない。身体に穴が開いているのに痛みは我慢出来る程のものなのか。
「放しなさいよ!」
 チサトがじたばたと、駄々をこねる幼児のように虚しく足掻いている。
 五回目。それがどうしたというくらいにしか感じない。完全に俺もおかしくなってしまったらしい。
 ――どうでもいいけど。
 俺は掌に握った虫を見るような目でチサトを見下していた。
「消えろ」
 そう呟き、そう心から願った。

 俺の目の前、サエの背後、アスファルトの敷かれた地面に裂け目が出来た。
 それは、頭上に広がる闇夜のように無限大のように広がっていき、俺の周りすべてを黒くしていった。


 誰かに名前を呼ばれた。けど目の前は何も見えない。瞼を閉じていることに気付いた。目を開いた。瞼は特別重くもなく、俺が思った以上に簡単に持ち上がった。感覚的には寝起きにも似ていたが、どうやら違うらしい。
 視界も良好。俺はガードレールを背に腰を下ろしていた。そして目の前には見覚えのある人間離れした透明な肌を持つ男、マーセが立っていた。
「マーセ……?」
 状況が飲み込めない。
 ――チサトは? サエは? それよりも、傷は?
 俺の身体を見下ろす。傷どころか服に穴さえ開いていない。もちろん血痕などありもしなかった。
「俺は……死んでないのか」
 確認のために服の上から傷があったと思われる箇所を擦ってみる。想像どおり痛みもない。
「見てのとおりね」
 マーセが俺を見下ろしながら笑う。
「なんであんたが?」
 訳が分からない。分からないことだらけだ。考えても、思い出そうとしても水を掴むようで、何も掴める気がしない。
「さっきまで俺は死にかけて……」
 水は掴めなくても雫は掬えた。そう、チサトはサエを殺した。それで俺は……。
 ――殺してやりたいって思ったん……だよな……。
 なんとか掴んだ記憶の雫は、俺の中に芽生えた殺意を再認識させるに十分過ぎた。その感情の醜さから目を逸らそうとする自分の意思の弱さが嫌になる。
 サエが殺されて、自分でも何を考えているのかよく分からなくなって、何回もチサトの骨に突き刺されて、馬乗りになって……。
 ――俺はチサトに何をした?
 思い出せないが、記憶に無い訳でもない。今度の記憶は水ではなく、持ち上げることのできない程に重い鉄塊のようだった。思い出そうとしているものには触れることが出来る。だが手触りだけでは何も感じ取れず、思い出せず、想像もつかない。
 俺は最も重要な記憶を抱え揚げよう必死になっていた。腕に負担がかかるように頭に負担がかかる。
「マーセは知ってるんだろ、何が起きたのかを。頼む、教えてくれ」
 この男が俺の目の前に立っているということは、何か異常なことが起こったことの証明だ。俺の記憶の中には鮮明に異常な出来事が記憶されている。マーセのお陰でその記憶が夢ではないことを確信出来る。
「本当に思い出せないのかい? 困った人だね」
 素顔か作った笑顔か区別の付かない妖しい笑みを浮かべ、無言で「僕は何でも知っているよ」と語っていた。マーセの笑顔は俺の質問に答えるかどうか迷っているようだった。どちらを選べば面白くなるだろう、とでも考えているのか。
「頼む」
 俺の置かれた状況を何も考慮しないマーセの態度に理不尽に腹を立てつつ、再度頼む。
「うーん……」
 わざとらしく額に手を添えてマーセが唸った。
「仕方ないね」
 楽しそうにマーセは承諾した。
「それで、何を教えて欲しいのかな?」
「俺を襲った拒絶者はどうなった?」
 早くそれが知りたくて、気持ちが急いて仕方が無かった。
「それが人に質問する時の態度かい? まぁいいか」
 マーセは俺を焦らして楽しんでいるのだろう。俺だってすぐに質問に答えてくれるとは考えていない。
「君が消したんだよ。狭間にね。サエも一緒に消えた」
 マーセの声音には、楽しいとか面白いとか、そんな感情は一切込められていなかった。ただ単純に事実を伝える、情報としての音でしかなかった。その音の冷たさを初めて知ったような気がした。
「俺……が?」
 思い出せなかった、持ち上げられなかった記憶がどうにか持ち上げられる程度の重さになった。ゆっくりと、記憶を持ち上げていく。記憶を持ち上げていくと同時に、布が水を吸うようにじわじわと、頭の中に新たに記憶を思い出していく。
 それは、さっき嫌悪していた殺意よりも更に醜い俺の本性だったり、殺されたサエの表情や、サエを殺したチサトの表情だったり。
 でも、そんなことは重要ではない。俺の知りたいことはもっと大切な……。

 浮き上がる、忘れていた光景。地面に見えた大きな黒い空間。

 高揚しきった俺の感情。

 恐怖に歪むチサトの表情。

 俺の身体に刺さるチサトの骨。

 チサトの断末魔の叫び声。

 黒に消えていくチサトの身体。

 笑っている、俺。

 ――黒い空間。

 思い出すのを止めようとしたが記憶は洪水のように溢れ出し、俺の心を何処かに流していきそうな勢いだった。
 息が詰まる。嫌な汗が止まらない。
 生々し過ぎる。
 ――俺はチサトに何をした?
「はぁ……はぁ……」
 チサトを消した。間違いなくこの手で。裂け目を作り出して。
 顔を両手で覆い、汗で湿った皮膚に力を込める。そうすることで気休め程度に気を落ち着かせることが出来たからだ。
 やっとまともに頭が回り始めた。
 アキは鞄を開くくらいに簡単に裂け目を生み出し、拒絶者を消していた。少なからず、俺にはそう見えていた。見るのと実行するのでこうも差があるものなのか。拒絶者を消すことがこんなにも負担のかかるものなのか。拒絶者を消すことがどういうことを意味するのか。
 拒絶者を消すことも人間を消すことも何も違いはない。
「思い出せたようだね。よかったよ」
 酷く冷たい一言がマーセの口から発せられた。
「なぁ、マーセ」
「何かな」
「俺は一体何なんだ?」
 本当に俺は人間なのか、自分が人間だと完全には信じられなかった。あれだけ滅多刺しにされてなんで俺は無傷なのか。なんで俺には裂け目が見えて裂け目を作り出すことが出来るのか。今まで裂け目のことに深く考えなかった自分は、救いようのない馬鹿野郎だ。
「君はコウだよ」
「んなこと分かってるんだよ!」
 あまりにも当たり前過ぎる、分かりきっていることを答えられて、俺は身体を制御することが出来ず感情に身を任せ大声で怒鳴りマーセに掴みかかる。こんな大きな声を出したのは久しぶりだ。
「なんで俺は無傷なんだ! なんで俺には裂け目が見える! なんで裂け目を作れる! 普通の人間がそんなことできんのかよ!」
 息が切れそうなくらいにマーセに必死に叫んでいた。
「俺は……何なんだよ……」
 最後は捨て犬のような細い声で、情けなくマーセに訴えた。指に力も入らず、掴んでいたマーセの服から腕が離れた。
 自分が何者なのか、それが分からないだけ暗闇の中に一人で放り込まれるよりも何倍もの心細さを感じる。
「自分でも分かっているんじゃないのかな。自分は普通じゃないって。君が想像していることで殆ど間違いじゃない」
 淡々とマーセが語る。
「君が無傷なのも簡単なことだよ。拒絶者と君では存在する世界が違う。別世界に存在する者には普通は干渉出来ない。普通はね」
 普通という単語を強調して言葉を続ける。つまり、お前は異常だと言われている。俺は質問も反論もせず、黙ってマーセの言葉を聞くしかなかった。
「傷も君が錯覚していただけで、実際は何一つ傷なんてないんだよ。君は一方的に拒絶者に干渉出来る、いわば拒絶者の天敵といってもいい」
 マーセは俺を突き放すように、冷たく悠長でいて言葉を叩きつけるようなそんな口調で言った。
「コウ。君もそろそろ異常とか通常だとか、そんなくだらないことを考えるのは辞めることだね。意味がない。君はこの世界では異常だよ」
 最後の一言は俺にとってかなり凶悪で無慈悲な言葉だった。足を怪我した者から松葉杖を奪い取るように、俺の心の逃げ場所を一瞬で、一言で奪い取った。
「はっきり言いやがって……。だったら、俺はどうすりゃいいんだよ」
「認めることだ。裂け目も拒絶者も、君の能力も、すべてをね」
 それを俺に出来ると思ってマーセは答えたのだろうか。
 ――そんなこと、出来る訳ないだろ。
「と、少しお節介が過ぎたね。あとは自分で考えた方がいいよ。僕の言葉なんて聞き流してくれていい」
 言いたいことを言い終えたのかマーセの口調が何度か聞いたことのあるおどけた様子に変わった。
「それじゃ、また会ったときはよろしく」
 風で揺れる芒のように黒いコートを靡かせ、マーセは俺に背を向け風と共に消え失せた。
 いつも俺は最後に一人残される。孤独を嫌う俺には拷問にも近い。今のように精神が不安定な時な尚更だ。



 家に帰った時には朝日が昇ろうとしていた。自転車で坂を上がる気力の無かった俺はだらだらと自転車を押して坂を上り、一時間以上かけて家に帰った。
「ただいま」
 低く抑揚のない、自分でも聞き取れないくらいの情けない声で一応帰宅したことを告げた。
「おかえり」
 声が返ってきた。母さんの声だ。声は台所から聞こえた。俺は母さんの声に引き寄せられ、気が付けば台所に立っていた。
 台所では母さんが椅子に腰を下ろしていた。
「遅かったね」
 一晩も連絡もなしに外出していた馬鹿息子の行動を咎めるでもなく、学校から帰ってきた俺を自然に迎え入れるように、母さんが言った。
「ごめん」
 多分母さんは寝ていない。理由は良く分からないが直感的に俺はそう感じた。
 母さんの顔が見られない。こんな気分は何年ぶりだろう。
「携帯持ってるんだったら、連絡くらい入れなさいよ」
「ごめん」
 そうとしか答えられなかった。申し訳なさで潰れてしまいそうだ。
 短い沈黙。俺に向けられる母さんの視線。
「大丈夫なの?」
 その母さんの言葉で俺のことをどれだけ心配してくれていたのかが良く分かった。
 ――逃げ場所はこんなにも近くにあったんだ。
「分かんね。でも、マジでヤバイって思ったらちゃんと相談するからさ」
 頑張って笑顔で答えてみた。嘘の笑顔だということを母さんは分かっているのだろうが、子供なりに意地も張りたい。
「そっか。じゃあわたしは寝るわねー」
「おう。お休み」
 母さんが椅子から立ち上がり、寝室に向かう。立ち上がる母さんからはかなりの疲労が感じ取れた。
 本当に、馬鹿なことをした。
「そうだ母さん」
「ん?」
「今日、俺学校休むわ」
「勝手にしなさい」
「おう」
 これから学校になど、行ける気がしなかった。無理をして学校に行ったところでろくに勉強など出来ないだろう。今まで一度も学校を休んだことがないし、一回くらい授業を受けなくてもさして問題でもない。
 出来るだけ短く会話を済ませて、俺の部屋に向かう。これ以上母さんを俺に付き合わせるのは忍びない。早く寝て欲しい。
 部屋に入るなり俺はベッドに倒れこんだ。俺もかなり疲れているらしい。身体的も精神的も。
 一度横になったらもう立ち上がれる気がしない。脱力感とベッドの心地よさが俺をベッドに縛りつけ、眠気を誘う。
 ――眠ってしまえば、少しの間だけでもあの事を忘れられる。
 そんな安直な考えを抱きながら、自ら眠気に拘束されることを望んだ。



間章



 目を開いた。見覚えのある場所。多分一生その風景を忘れることはない場所。チサトという化け物に遭ってしまった公園に俺は立っていた。
 俺の視界を埋める風景には何一つ現実身がなかった。踏み締めている土も本当に土なのかも分からない。違和を感じて仕方が無い。雲は浮かんでいるのに少しも動かない。光が世界を照らしているのに暖かさも柔らかさもない。肺に送り込む空気に湿気もない。空に色もない。
 ――夢だと思えば納得出来るか。
 夢ならば、なんていかにもいった場所だろうか。
 なんて、無感動な世界だ。
 俺は公園から出る気になれず出られる気もしなくて、夢から覚めるのをベンチにでも座って待つことにした。
 待っているだけでは永遠にここから抜け出せないような気がした。それでも俺はここから抜け出したいとか夢の世界に嫌悪も何も感じない。嫌でもないが良くもない。良くないだけがこの世界から抜け出したいと思うにはパンチが足りない。
 不意に、聞き覚えのある声が俺の名前を呼んだ。自信に満ちた威風堂々した声。
「サエさん……」
 振り向くとサエが声と同じく自信に満ちた表情を浮かべて立っていた。そんな表情をしているから自身満々の声が出せるのかと、今更納得した。
 見ていて自分が惨めに感じるサエの自信に満ちた表情。
「不思議な場所ですね」
「そうね」と相槌を打ちながらサエが俺の隣に腰を下ろした。
 何故サエが動き、喋り、俺と会話しているのか、何も疑問に思わなかった。俺の頭はこの世界では何が起こっても良い世界だと認識しているらしい。
「なんて云う場所なんですかね? ここ」
 特に話題も思いつかず、考えなしに喋ってみた。どうでもいいといえばそれまでだが、知って損をする訳でもない。
 返事が返ってこなかった。
「夢の世界?」
 このまま待っていたらサエの返事が返ってきたのかも知れないが、堪え性のない俺はサエの返事を待てなかった。
「意外とメルヘンチックな考え方ね」
 隣から笑い声が聞こえた。すぐ隣から聞こえているのに何故か遠くから聞こえてくるような、別の世界から届いている声のような、俺とサエの間の見えない壁が声を遮っているような、理解不能な不思議な感覚。
「笑わないでくださいよ」
 笑われてもあまり悪い気はしないが、少し恥ずかしい。
「じゃあサエさんは分かるんですか?」
 今度はサエが答えてくれるまで待っていよう。
 沈黙。そしてサエの声。
「わたしもよく分からないわ。雰囲気は狭間に似てる。でもわたしが知っている場所じゃない。やっぱりコウの云う夢の世界って表し方が一番適当かも知れない」
 結局サエもこの場所については殆ど分からなかった。分からないならそれでも構わない。
 会話が途切れた。次は何を喋ろうかと動かない雲の浮かぶ、偽者かも本物かも分からない空を見上げる。
 沈黙を切り裂くのは俺の声。
「サエさんは狭間に行けましたか?」
 俺はサエを、正しくはサエだった物を狭間に送ったらしい。自身の目で確認出来なかった俺はマーセの言葉を信じることしか出来なかった。
「残念だけど、狭間にはいけなかったわ」
 サエは残念だと口にしているが口調には狭間に行けなかったことに対しての後悔も何も含まれていなかった。むしろ清々しささえ感じる。
 ――なんでだよ。
「貴方が送ったのはわたしの身体だけ。あの時わたしの精神はもう身体にはなかったもの」
 サエの声に微かに笑い声が混ざった。
 俺にはサエの気持ちが何も分からなかった。何故笑うのか、何故俺を責めないのか、何故そんなにも心地よさ気な笑顔を浮かべていられるのか。本当に何も分からない。
「つまり、わたしの精神はまだ貴方の居る世界に残ったまま。だからこうしてコウと話せる訳だけど」
 整理の付かない俺を置いてきぼりに追い討ちをかけるように整理すべき情報がサエから伝えられた。
「あぁ」と何か思いついたようにサエが声を漏らす。
「云ってみればここも狭間なのね。物質世界と精神世界の狭間がここなのね。雰囲気が似ているのもそのせいなのかしら」
 感慨深くサエが呟く。そのサエの感動は俺には伝わらなかった。
 今は誰かが笑っているからと一緒に笑えるような気持ちにはなれない。
 サエが声を発し動いていようが、過去は変わらないしあの光景が俺の記憶から消えて無くなることはありえない。
 そんなこと考えていると俺は会話することを忘れ黙り込んでいた。どのくらいの間沈黙が続いていたのかもよく分からない。
「えらく落ち込んでいるのね」
 的確に今の俺の心情を言い当てた。
「誰のせいだと思ってるんですか」
 あまりにも明るく世間話でもするようなサエの口調が、俺の気持ちを和ませてくれた。
「目の前で人が殺される場面なんて見せられたらそりゃあへこみますよ」
 サエの態度につられて俺も明るく振舞うことが出来た。サエが殺されたことすら笑い話のような雰囲気だ。
「あら、それはごめんなさい」
 屈託のない笑顔でサエが軽く謝る。その笑顔が俺には逆には辛かった。
 サエがどんな表情を浮かべようが、どんな態度を取ろうが、その雰囲気に流されてはいけない。明るく振舞うことが出来ても、振舞って良い訳がない。
 流されかけた自分の意思をしっかりと抱え込む。
「それに、俺のせいでサエさんが殺されたようなもんだし……」
 サエが殺されたのは仕方の無いことだと思えない。俺にはサエを助ける力があった。チサトに出遭う前に狭間に送ることも出来た筈だった。
「俺がもっと早く裂け目を開けるようになってれば」
 今更どうしようもないことを零してしまう。自分を慰めるだけの意味のない言葉。ただの音。多分、他人を不快な気持ちにさせる雑音。
 それでも、俺は意味のない言葉を零さず飲み込むことが出来なかった。
「馬鹿ね」
 サエが一言で俺の緩みきった声の蛇口を閉めてくれた。
「もしかして、責任でも感じてるの?」
 笑いを堪えながらサエが訊いた。そんなに俺は可笑しなことを漏らしていたのだろうか。サエの笑いは治まりそうにない。
「変なことでもいいました?」
「ええ。可笑しくて笑えるわ」
 サエが口を押さえて笑いを堪えている。ぽたぽたと滴る雫のようにサエの口から堪えきれない小さな笑い声を俺の耳が拾う。
 数秒間はサエの口から笑い声が零れなくなることはなかった。湧き出る笑いをどうにか抑え込んだらしいサエは緩んだ表情で俺を見た。
「そんな必要なんてないのに」
 他人を慰める時の定番の台詞をサエから聞くことになるとは驚きだ。そんな文句を素直に聞き入れる人間は何人くらい要るのやら。
「そんなこと言われると、逆に落ち込みますよ。俺に気を遣ってるみたいで」
 言い終えてから、かなり自惚れた発言だったなと反省した。
 ――サエがなんで俺を気遣うんだよ。
「落ち込んでる割にはいつもどおり軽口は吐けるのね」
「性格ですよ」と俺は即答した。
「そう」とサエもそれ以上は訊かなかった。
「元はといえばチサトの気持ちに気がつけなかったわたしが悪いのよ。自分のことしか考えていなかったわたしがね」
 そうサエが控えめに笑った。俺の知っている挑戦的な笑顔は存在していなかった。
「痛い目を見るまで気が付かないなんて、わたしも馬鹿だったわ」
 いつも自分のすることに間違いはないと言動で示していたサエが、初めて自分の非を認めた。
「何よ?」
 小さな感動を覚え、言葉を失っていた俺にサエが咎めるような視線を送った。
「あ、なんでもないっす」
「ふーん」と納得のいかないことを態度で示す。
「じゃあサエさんは、チサトに殺されても良かったって思うんですか?」
 何故こんなことを質問するのか、俺の知的好奇心とやらは異常らしい。おおいに納得出来る。
「そうね」
 迷わずサエが答えた。
「どうして?」
 俺も迷わず訊いた。
「チサトの気持ちと自分の馬鹿さ加減が分かったから。だから満更でもないわ」
 それが狭間へ行くことや、死にも並ぶ程に重要なことなのか。
「理解出来ない?」
 どうにも俺の心情は簡単に読めるようだ。
「すみませんけど、こればっかりは」
 以前サエに、個人の考えを肯定する義務があるだなんて偉そうなことを口走っていたが、流石にこれは肯定するのも難しい。
「謝らなくていいわ。価値観の違いよ。仕方の無いこと」
「それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます」
 今、この場で肯定しろと言われれば無理だが、肯定するための努力はこれ以降でも出来る。
「と、そろそろ時間がない」
 サエの視線が俺から外れ、正面に向き直る。サエが見据える先では、色のない空がじわじわと黒色に侵食され始めていた。
 空が黒に塗り替えられていく。俺たちに迫ってくる黒色に初めて現実身を感じた。
「最後に一言言っておくわ」
 空を確認し終えたサエがベンチから腰を上げ、再度俺を見る。
「今回のことはどうしようもなかったのよ。そう思った方が絶対楽よ。自分のせいでこうなってしまったとか、馬鹿らしいことを考えるのは辞めなさい」
 そうサエが言い終えた頃には空を塗り潰す黒色が俺の目の前まで迫っていた。
「でも……!」
「それじゃ、さようなら。楽しかったわよ」
 反論しようとした俺の声を遮り、サエが言った。サエの表情は凛々しく、俺の言葉を華麗に奪った。
 黒色が俺たちを塗り潰した。
 目の前は真っ暗で何も見えない。立っているのは浮いているのか、落ちているのか飛んでいるのか、一気に何も分からなくなった。
 何か音が聞こえた。
 携帯の着信音。
 耳障りな音。

 脳が覚醒した。見覚えのある風景。俺の部屋。耳障りな音を発光して伝える使用頻度の低い携帯。
 さっきまで俺がいた世界は何だったんだろうか。本当に夢の世界だったのだろうか。夢だったのならあのサエは俺の想像から生まれた偽者だったのだろうか。何故こうも鮮明に頭の中に記憶が残っているのか。
 サエの言葉が頭の中で再生される。現実味のない、声。
「どうしようもなかったなんて、簡単に思える訳ないだろうが……」
 もう二度と会えないだろうサエに、声に出して毒づいた。
「糞っ!」
 抑えようのない苛立ちが俺の身体を駆け巡る。サエの清々しすぎる笑顔や、理解出来ないサエの考えや、結局尻切れた具合に終わってしまったサエとの会話など、俺の心を乱す要素が多すぎた。
 しつこく着信音を鳴らす携帯を乱暴に手に取り画面を覗く。
「誰だよ。うるせぇ」
 携帯の着信音も然り。
 メルマガだったら携帯をへし折るかも知れない。そのくらい俺は気が立っていた。
「て……アキからか……」
 アキからメールが届いていた。アキにメールアドレスを聞かれた覚えも、教えた覚えもないのだが。
 少々不思議に思いつつもアキが送ったメールの内容を確認する。ちなみに今は午後三時過ぎ。アキのメールは午前十一時頃に届いていた。
「調子悪いの? 大丈夫? ……か」
 この二行だけだった。アキは当然ながら俺が今日はサボりということを知らない。こうして心配されると俺のなけなしの良心が少し痛む。
 淡く現実とは別世界をうろついていた俺の精神をアキのメールが現実に引き戻した。
 ごめん。今日は気分が乗らなくて学校行く気が起きなかっただけ。心配してくれてありがと、と慣れない携帯のボタンを悪戦苦闘しながらゆっくりと押していき、なんとかすべて打ち込むことが出来た。そして送信。
 アキにメールを返信した後は何もすることがなく、結局またベッドに横になることにした。
 横になったところでさっきまで惰眠を貪っていただけにすぐには寝付けなかった。
 意識しなくても今まで俺の身に起きた出来事が、考えたくもないことばかりが頭の中で増殖し続ける。
『君はこの世界では異常だよ』
 これはマーセの言葉。その言葉を認めることが、群れから離れることのようで怖かった。自分が人間であることを否定するような気がするから。でも異常だとか、通常だとか、そんなことを考えて苦しむよりはマーセの言葉どおり幾らか楽なような気がする。一番の問題は、俺には人並みの決断力がないことだ。
 そもそも、何故俺は狭間に対して抵抗がないのか。
 見えるから仕方無い? だからって、そう簡単に認められることでもないだろう。表面では否定しているつもりでも俺は、無意識の内に認めていたのか。
 いや、そうじゃない。多分。昨日まで、本当の意味で狭間を理解していなかったからだ。あんなに簡単に人が消せるものだなんて知らなかったのだから。
 本当にそうなのか。自分は通常だと思い込みたいだけなのではないのか。
 分からない。自分のことなのに。何も分からない何も見えない。何も。
 矛盾だらけだ。このままだと矛も盾に分かれた俺の心がぶつかりあって壊れそうだ。
 なまじ身体の疲れが取れたせいもあり、睡魔は俺に近寄りもしない。目を瞑っておくだけでも苦痛に感じる程だ。
「糞っ……」
 葛藤や矛盾や苛立ちに我慢できず、我慢するために毒付く。
 数時間先に訪れるだろう睡魔を横になって待つ。昼飯も食べる気がしなかった。



 最近木の葉が色付いてきたと思ったら今は鮮やかな色をくすませ、枝にしがみつく力すらなくした木の葉が風と共に流されていく。
 この世界の風景の流れは本当に早い。面白い場所だなと、落ち葉の舞う林の中で時間が過ぎるのをマーセは待っていた。自分にとっては最早意味のない概念だが。
 マーセから数メートル離れた木に、マーセと同じ黒いコートを着た男がもたれかかっている。
「君のお陰でコウはやっと力を覚醒させたよ」
 声だけを男に伝える。マーセの姿勢も、男の姿勢も変わることはない。
「そのことには礼を言うよ。ラウ」
 声に感謝の意など微塵も込めるつもりもなかった。
「少しは君の強引さを見習わないといけないのかな」
「お前が消極的過ぎるんだよ。自分の想像どおりに動かないのなら自分の好きなように動かせばいい。それだけのことだろ」
 当然のことのようにラウは言った。
 コウにチサトを合わせたのはラウだ。
「だが、力を目覚めさせたはいいがもしかしたらコウは潰れてしまうかも知れない」
 それに加えて犠牲者も出た。
「そこまでは知らないな。それは個人の問題だ。あの程度で潰れるくらいなら力を覚醒しようがしまいが関係ないだろう」
 他人事のことのように正論をラウが述べた。正論なのだがラウの考えはどうにも好きになれなかった。個人を駒のように見るようだからだ。
「確かに。君の言うとおりだよ」
 もう過ぎてしまったことを考えるのも虚しいし馬鹿らしい。結果コウが覚醒した。それで十分だ。
「最後に決めるのは本人だからね」
 コウには気の毒だが、決断してもらわなくてはいけない。
「決めるっても、どうせこの世界じゃ生きていけないだろう」
「まぁ、僕もそう思うけど。可能性がない訳じゃない」
 完全に否定するような発言も癪に障る。
「はっ、面倒くさいことだな」
 理解不能だと言わんばかりに吐き捨てた。
「まったくだ。でも嫌いじゃない」
 風がマーセ達の周りを駆け回る。風の動きを落ち葉が伝えてくれる。
「そういえば、もう一人の方どうなんだい?」
 コウの他にも門が開ける人間がいた筈だ。確かコウの友人だったと記憶している。
「あれか。望みは薄いが暇潰しには最適だな」
 見下したような笑い声が風と共にマーセの耳に伝わる。
「まったく君は……」
 ははっ、と気のない笑いを浮かべ、
「とりあえず、今は待つことしかすることがないし、僕も僕なりに暇を潰してるよ」
 半ばうんざりしながらラウに答える。
「それじゃあこっちもぶらついてくるか」
 落ち葉が擦れる音が聞こえた。ラウが動いたようだ。もう気配はない。ようやく一人になれた。
「コウも本当に運のない」
 裂け目が見えるせいで本来なら起こることもない災難に遭い、挙句心が折れかけている。同情の念が拭いきれない。
 これからコウはどうなっていくのか。コウには悪いが興味が湧いて仕方が無い。
「同族嫌悪か……」
 風にさりげなく言葉を乗せてみた。何処まで運ばれて行くのか、興味も湧かなかった。



 今日学校にコウが来なかった。こんなことは初めてかも知れない。
 アキは図書館の窓から空を見た。
 空は昨日と変わりなく赤く染まり始め一日が終わりに近づいていることを皆に知らせていた。くだらなくてつまらない講義もすべて終わり後は自宅へ帰るだけだった。自宅へ帰るためには電車に乗らなくてはいけないが目的の駅に向かう電車が最寄りの駅に着くのは早くても今から一時間はかかる。その持て余した時間はいつもコウが自分の相手をしてくれていたので気に留めることもなかったのだが、共に時間を共有してくれるコウはいなかった。
 コウがいないのなら何故自分は学校に来ているのだろうか。ただ無駄に時間を浪費している自分が酷く愚かに感じて仕方が無い。この学校で習う内容など教科書を読んでいれば理解できる。教科書を読むだけなら家でも出来る。
「つまらないなぁ」
 机に肘をつき、掌に自身の顔を乗せ虚しいと思いながらも呟いた。声に続いて溜息も意識せず漏れた。
 このままでは気だるさで身体が動かなくなりそうだ。椅子が自分の腰を力一杯に押さえつけているようだ。自分でもその椅子の見えない力に身体を任せている。動こうという気が起きない。いつもはコウが自転車で駅まで送ってくれていた。学校と駅の間を一人で歩いたことなどここ一ヶ月で覚えがない。コウと話しながら浪費できる時間の楽しさと自分の足で歩かなくていい快適さを身体が覚えているため、にコウと仲良くなる前の生活に戻るのはかなり努力が必要だ。元より戻る気もないので努力することもないだろうが。
「や、アキ君」
 無駄に明るい声で自分の名前を呼びながら歩み寄ってくる人物。アサカだ。
「一人?」そう聞きながらアキの隣の椅子に腰を下ろす。
「見てのとおり」
 分かりきっていることをわざわざ聞かないでほしい。
「やっぱりコウ君がいないとつまらないな」
 事実、コウがいないだけでこれほどまでに生活にめりはりが無くなっている。
「コウもアキ君といると楽しそうだしね。でも、あいつが学校休むなんて珍しい」
 アサカは昔の、自分の知らないコウのことを知っている。それがアキには悔しくもあり羨ましくもあった。今のようにアサカがコウの昔のことを自然にひけらかすような時はどうしても不機嫌な感情を抑えられない。
「そんなにコウ君は身体が丈夫なの?」
 出来れば本人から聞きたいが、この際コウのことが少しでも分かるなら誰から聞こうが構わなかった。アサカが抱いているコウの姿はある程度信用できる。
「かなり丈夫だよ。馬鹿は風邪を引かないって言うじゃない?」
 明るい表情によく似合う声でアサカが笑う。冗談でもコウのことを貶されるのはあまり良い気分はしない。それでもこの場はアサカと一緒に笑った方が懸命だ。コウの友人を無碍にもできない。
「逆に休む時は基本的にはサボり。サボり自体年に一回あるかないかだけど」
「そうなんだ。流石幼馴染だね。コウ君のことを良く知ってる」
 嫌味や嫉妬の感情を表に出さないように細心の注意を払い、あくまで感心していると思わせるような口調でアキが言った。
「腐れ縁だからね。小中と同じ学校に通うのは仕方無いとしても、高校まで同じになるとは」
 アサカは何処か嬉しそうな、柔らかな笑みを浮かべる。
「嬉しいの?」
 どうせ図星だろうが、あえて探りを入れてみた。
「嬉しい……かぁ。どうなんだろ。あいつ面白いからね。楽しいのは確実だけど……よくわかんない」
「ふーん」
 上手くもないが下手でもない言葉選びでアキの質問をアサカははぐらかした。可能性は低いが本当に分からないのかも知れない。
 制服のポケットが揺れた。携帯がメールを受信したようだ。自分の携帯にメールを送ってくるのはコウ以外にいないことは分かっていた。携帯をポケットから取り出すのに焦って手間取った。
 メールの内容を確認する。予想どおりコウからのメールだった。
 『ごめん。今日は気分が乗らなくて学校行く気が起きなかっただけ。心配してくれてありがと』
 コウらしい素っ気ない文章だ。それでもコウが感謝の気持ちを表していることは分かる。コウが学校を休んだ理由がアサカの言うとおりサボりだったことには少々苛立ったが、コウが健康ならそれで良い。
「コウから?」
 さりげなくアサカが訊いた。
「うん。アサカさんの言うとおり調子が悪い訳じゃなかったみたいだ」
 気分が乗らないとはどういう意味だろうか。何かひっかかる。コウは気まぐれで学校を休むような性格はしていない筈だ。
「心配なの?」
「え!」
 迂闊だ。感情がそのまま表情に表れていたらしい。アサカに声をかけられるまで気が付かなかった。
「う、うん」
 出来るだけ自分の感情は悟れたくはないが、今回は別に悟られたとしても何も問題はないのでアサカの言葉を肯定した。
「コウの家まで行ってみる?」
「え?」
 今度は素直に驚いた。
「あいつの家の近くにバスが走ってるから時間もかからないよ」
「そうなんだ」
「値段も往復五百円と高くも……いや、どうだろ」
 言いかけて、アサカが言葉を濁した。
「とにかく、行こうと思えば簡単に行けるよ」
 コウの家。興味がないといえば嘘になる。むしろ行ってみたい。
「でも、おしかけたりしたらコウ君も迷惑じゃないかな」
 それが心配なのだ。自分の欲求を満たすためにコウに嫌われては本末転倒だ。
「あぁ、大丈夫大丈夫」
 アキの心配事を、埃を吹き飛ばすように簡単に笑い飛ばした。
「あいつ友達少ないから普通に喜ぶよ」
「でも……」
 アサカの言葉を信じていいものか。絶対と言い切れないのが不安だ。
「とりあえず、家の場所を教えておくね。行くかどうかはアキ君が決めればいいし」
 アサカが鞄から紙を取り出し、簡単に地図を書き出す。
「行くんなら急いだ方がいいよ。バスがなくなっちゃうから。帰りはコウに送ってもらえばいいし」
 アサカが地図を描き終え、紙をアキに手渡した。
「そろそろわたしは帰るね。うちって未だに門限とかあるから。遅れるとうるさいのよ」
 それじゃ、と軽く手を振りアサカが図書館から急ぎ足で出て行った。
 一人残されたアキは地図を握り締め、悩み、そして心を決めた。
 向かった先は駅前のバス停。



 良く寝たと思う。疲れてもいないのに無理して寝るとこうもだるいものなのか、と重い頭を何とか起こす。外は薄暗い。気温も低そうだ。間違いなく夕飯時だ。外からカレーの香りでも漂ってきそうだ。睡眠を取って思考を途切らせることが乱れた心を落ち着かせるためには何の意味もないことは分かっているが、目が覚めていれば否応なしに思考は再開し、自分を責めるのを止めようとしない。俺を責めているのは俺だけで俺以外は誰も俺を責めたりはしていない。サエだって笑っていた。どうしようもなかったと思えばいいと言ってくれた。
 ――本当にそれでいいのか?
 答えなんて出やしないのに、また思考が再開される。目が覚めては繰り返す。これで何度目だろう。いい加減辞めにしたい。俺は自分の決断力の無さを呪った。
 ――このままじゃ、本当にどうにかなっちまう。
 身体の内側から得体の知れない物が俺の身体を引き裂こうとしているようだった。
「あぁっ! どうすりゃいいんだよっ!」
 考えなしに壁に拳を叩きつけ、叫んだ。拳が痛んだ。反射的に片方の手で叩きつけた拳を摩っていた。
 ――情けねぇ。情けねぇ。情けねぇ!
 いよいよ限界が近いらしい。頭が正常に動いていないことだけが分かった。漠然と自分が惨めに感じそれが地味に俺の心を蝕んだ。
 目を拭う。少しだけ袖が濡れた。それだけだった。
 腹が盛大に音を鳴らした。
「腹減ったなぁ……」
 今日は朝飯も昼飯も食っていない。空腹なのは当たり前だった。その空腹が思考を切り替えてくれた。むしろ切り替えた。流石人間の三大欲求の一つだ。微かに頭の中に残る気持ちの悪いものを振り払いながら、食べ物を探した。探すといっても食べ物がある場所など台所以外には思いつかなった。
 家には俺以外に誰もいないようだ。母さんはどうせパチスロでも打ちに行っているのだろう。台所には夕食の用意など何一つされていなかった。炊飯器に白飯が入っているくらいか。今日の晩飯は白米とふりかけだけか、それとも少し豪華なファーストフードか。程よく期待して待つことにしよう。
 色々と物色してみたが食べ物は米以外になかった。現実を知ることでさっきよりも増して空腹が身体に堪える。
 ――米があるだけマシか……。
 一膳だけでも腹に入れておこうと食器棚から茶碗としゃもじを取り出す。気分が腐りすぎて悪臭でも発していそうなテンションのまま、炊飯器の蓋を開けた。
「マジか……」
 米は恐らく昨晩の物だろう。淡く黄色になっている粒を見て俺はそう判断した。食欲をなくすのには十分過ぎる米だった。
 兵糧攻めにでも遭ったような気がした。
 ――自分の指でも食いちぎるか……?
 そんな馬鹿な考えをめぐらせていると、家のチャイムがなった。新聞の料金の集金だろうか。
「はいはいー」
 気のない返事で留守でないことを知らせ玄関に向かおうとしたが、茶碗としゃもじを手に持っていることを忘れていた。もう少しでそのまま玄関に向かっていた。
 ――逆となりの晩御飯か。
 机の上に手に持っていた物を置き、気を取り直して玄関にとぼとぼと歩いていった。
 一息ついて玄関の扉を開いた。
「や、やぁ……」
 目の前には気不味そうに笑う見慣れた少年が立っていた。背が俺より低くて髪が少し茶色で女みたいに綺麗な顔をしている。
「はい?」
 間違いなくアキが俺の目の前に立っていた。
 ――なんで?
 時が止まった。いや言い過ぎか、時の流れが淀んだ。
「なんでお前が俺の家を知ってるの?」
 今の気分のせいもあり少々不機嫌な口調になった。俺の質問の声のトーンの低さでアキの表情が曇ったのを確認した。
 ――最悪だ……。
「ごめん。迷惑だったかな?」
 何時までも振れ続ける天秤のように、ほんの少し力を込めれば簡単に安定を崩せそうな、そんな表情をアキが浮かべて言った。
 ――頼むから、そんな表情すんなよ。
 沈みきった気持ちに鞭を入れぎこちないだろう笑顔を浮かべる。
「んな訳ないって。単純に気になっただけだよ。だって普通驚くでしょうよ。もちろん良い意味で」
 必死なっている俺がかなり滑稽だ。アキにも俺が無理して笑顔を浮かべ明るく振舞っていることが分かっているのだろう。本当に自分が嫌になる。もし俺が目の前に立っていたら問答無用でぶん殴っているだろう。
「ま、まぁ上がれって。外寒いしさ」
 もう、開き直った方が楽だ。このままのテンションを維持していこう。
「遠慮すんなって」
 玄関の前から一向に動こうとしないアキを再度上がるように促す。
「うん。じゃぁ、お邪魔します……」
 アキの声はフェードアウトしていき語尾は聞き取れなかった。
 ――人の家に上がるのってそんなに緊張するものか?
 あまりにも挙動不審なアキの態度に呆れながら、アキを自分の部屋まで案内する。一応人を上げられる程度には片付いている、と思う。
「適当に腰下ろしててくれな。なんか飲み物でも持ってくるよ。つってもコーヒーか茶しかないだけどな。どっちが良い? もちろんコーヒーはインスタント。茶は烏龍」
 部屋のドアの前でアキがコーヒーか茶か、どちらかを選択するのを待つ。アキはといえば挙動不審な態度を改める気がないらしく、正座して部屋にちょこんと座り込んでいた。こたつがあるにも関わらず、座布団があるにも関わらず、何もない場所に正座しているのだ。そのアキの態度が妙に微笑ましくて、演技ではない笑みが零れた。
「足崩せって。お前ってそんなに正座が好きなのか?」
 アキの緊張が少しでも和らげばと、明るくいつもの自分を演じるよう努めて、茶化すようにアキに言った。
「そ、そんなことないけど」
「じゃ、足崩せって。何処でもいいから腰下ろしとけよ。あと座布団もあるんだからさ、床に腰を下ろすのはオススメ出来んぜ。久しく掃除機なんてかけてないからな。寒けりゃこたつの電源も入れとけ。むしろ入れといてくれ」
 ――疲れるな。自分のことでも精一杯なのに、アキに気遣わないといけないなんて……。いや、逆にアキを気遣うことでサエのことを意識しないで済むか。
「それで、どっちにするのさ。コーヒー? 茶? どっちもいらないってのは却下な」
 俺に促されて、のろのろとアキが座っていた場所から移動しだした。
「もてなしくらいさせろ」
 笑ってみせた。今浮かべている笑顔が普段の笑顔とどのくらい違うのだろうか。
「それじゃ、コーヒーをください」
 アキが笑顔で答えた。見慣れた笑顔だ。緊張は完全に消えてはいないが、限りなく違和感のない、学校で何度も眺めることの笑顔だ。
「なんで敬語やねん」
 ノリで使い慣れない関西弁を使ってみた。アキは笑顔で突っ込みを流した。
「了解。コーヒーな。砂糖は?」
「一つでいいよ」
「あいよ。じゃちょっと待ってな」
 アキの注文をすべて聞き終えた俺はアキを部屋に残し、コーヒーを注ぎに台所に戻った。
 マグカップに濃い茶色の粉末を注ぎ、次に白い粉末をスティック一本分を加えて、ポットから湯を注ぐ。粉末が泥に変わり、最後が泥水に変わる。
 ――俺って単純だよな。アキが来た途端にここまで気持ちを切り替えられるんだから。
 単純に独りぼっちで寂しかっただけなのかも知れない。だからといってアキ以外の人物が一緒に居てくれたとしてもこうも気持ちは切り替えられないだろう。アキの存在が自分にとってかなり大きく成長していたことを実感する。
「と、冷めちまう」
 意識が飛んでいた。この寒い日にアイスコーヒーを出してしまうところだった。危ないところだ。危機一髪だ。



 アキがマグカップに口を付ける。その様を正面からは見ずに横目でさりげなく確認する。カップの中身も半分ほど減っている。
「アサカがねぇ。納得だ」
 俺の頭の中にあぐらをかいて座っていた疑問をやっと追い出すことが出来た。落ち着いて想像すれば分かるようなことだった。
「コウ君の家に来る前に連絡しておけばよかったね。ごめん」
「謝らんでいい」
 度々謝られると自分を見ているようで腹が立つ。
「俺に気遣ったって損するだけだぞ」
「うん……」
 あまり納得がいっていないようだが、返事だけは返した。アキの性格を考えると難しいか。
「謝るのは俺の方だよな。気紛れで学校サボったせいでアキにここまでさせちゃったんだからな」
 アキにここまで行動力があるとは思わなかった。アキが家まで逢いに来てくれたことは素直に嬉しいが、それと同じくらいに申し訳ない。
「本当に気紛れなの?」
 アキの口調と目付きが変わった。
 ――やっぱり分かるもんなのか?
「僕はコウ君がそんなに無責任なことをするとは思えないよ」
「買い被りすぎだって」
 照れ臭くてアキの真剣な表情に笑い声で返事を返す。
「僕は真剣だよ」
 俺の笑い声を咎めるようにアキが強く言った。
 ――分かってるよ。そんなこと。
「どうして隠すのさ? 僕には言えないことなの?」
 完全に隠しきれていなかったらしい。予想できたことだが。
 アキが真っ直ぐに俺を視線で突き刺す。その視線から僅かに感じ取れる悲しさや怒りから発せられる圧力を受けて、俺は顔を上げることが出来なかった。
 こんなアキの表情、初めて見た。
「ねぇ、コウ君」
 アキの追求が続く。すべてアキに告げた方が楽なのか、このまま黙り続けて誤魔化した方が楽なのか、短い時間で考える。
 声が出ない。顔が上げられない。沈黙が、アキの視線が辛い。
「分かるのか?」
 アキとの間に生まれた沈黙に潰されそうで、沈黙から受ける圧迫感に耐え切れず一言だけ言葉を吐き出した。ほんの少しだけ、楽になったような気がした。
「コウ君がいつもと違うってことだけは確信出来るよ」
 アキの視線は俺を責めているのではなく、俺を心配してくれていることに気が付いた。
「そっか」
 ここまで感付かれているのなら隠しても無駄だろう。
 ――アキには叶わないな。
 俺は幸せものだ。そう感じられることが嬉しくて、笑えた。
「はぁぁぁぁあぁぁぁぁ」
 盛大に身体に溜め込んでいた空気を吐き出した、身体が軽くなった。よくもここまで溜め込んだものだと自分に感心する。
「どうしてお前は……」
 ――俺がいてほしいって思った時にいてくれるんだろうな。
 言葉が続かなかった。全身の力が抜けたように感じ、喉を震わすことも難しかった。
「コウ君?」
 アキが俺を見て顔をしかめる。
 喉は振るえないのに腹は震えていた。腹の底から小さな笑い声が量産されている。
「お前には隠し事はできないのかな」
 力を込め直し、喉を震わす。
「サエがさ……」
 そして俺は、アキに昨晩のことを語った。



 すべてのことを話し終えた。
 拒絶者に襲われたことも、サエが殺されたことも、自分も裂け目を作られるようになったことも、拒絶者を狭間に消したことも、全部話した。
 俺の話を聞きながら、いちいち表情を変えながらアキは俺の顔から視線を逸らさず、最後まで真剣な表情のまま聞いてくれた。
「それでさ、流石に俺もへこんで学校どころじゃなかったんだよ。正直、まともに頭が働きそうにないんだ」
 少しでも話の内容を軽くしようと軽薄な笑みを浮かべてみたが、逆効果だった。意識したような笑みなど浮かべられる訳もなく、どうやら自虐的な笑みを浮かべたらしい。俺の顔を見てアキがまた表情を曇らせる。
「そんな時にお前が来てくれるんだもんな。独りじゃどうにかなってたよ。本当に助かった」
 アキの憂いを纏った表情に見つめられるのに耐え切れなくて、アキの視線から逃げる。
「そんなことがあったんだね」
 自分の身に起こったことを省みるように、アキが言った。
 アキも俺の告白に何と返せばいいか分からないのだろう。言葉を返せないことに負い目でも感じているかのようにアキの声音は低い。
「サエがさ、俺にこう言ったんだ」
 言葉を返せないままアキを放置するのは忍びなく感じ、途切れた会話を強引に繋ぎ合わせた。
「仕方のないことだって。俺は悪くないって」
 アキは言葉を発しない。アキが言葉を用意するまで俺は言葉を繋げ続ける。
「本当にそうなのかなぁって思うんだ。そんなの都合が良過ぎるんだよ。人が俺の目の前で殺させて、俺にはサエを助ける力があったのに何も出来なくて、それなのに俺は悪くない? 仕方の無いこと? ふざけんなって話だろ」
 自虐的な笑みが抑えられない。あまりにも自分が滑稽すぎるからだ。
「ごめんな。こんなことアキに言ってもなんて答えればいいか分からないだろ」
 俺の笑みの内側をアキに見られているような気がした、そのくらいアキの視線が鋭かった。
「コウ君は、僕に君は悪くないって言ってほしいの?」
 その言葉で被っていた笑みの仮面を引っぺがされた。アキの声が俺の身体の中心を貫いた。自分でも意識していなかった本心を言い当てられた。
「……!」
 咄嗟に否定しようとしたが自分に嘘は付けず、言葉は出なかった。それでも、何か叫びたくてしょうがなかった。声が出ていれば、図星を突かれたことが恥ずかしいのか、悔しいのか、良く分からないがその感情を否定するように大きな声でアキの指摘を否定していたと思う。
「多分……そうなんだろうな」
 自分のことなのに、他人事のようにしか答えられない。責任から逃れて楽になりたい浅ましい考えを持っている自分を認めたくないからだろうか。
「コウ君は何も悪くないよ。もしコウ君が悪かったとしても僕はコウ君を責めたりしない。僕はコウ君の味方だよ」
 ――なんてくさい台詞だ。でも、悪くないな。
「コウ君は悪くない」
 子供に言い聞かせる母親のような口調でアキが言った。なんて説得力のある声だ。
 声が出なかった。アキの声が俺の心を昂ぶらせる。
 ――俺の弱点に直撃だなちきしょう。弱点までお見通しか。
 少しでも力を抜くと崩れてしまいそうだ。
「本当にそう思ってもいいのかな?」
「コウ君が僕のことを信頼してくれてるんだったら、そう思えるんじゃないかな」
 ――本当に俺のことを良く分かってるよ。
「なるほどね」
 そう言われれば、アキの言葉を受け入れるしかない。
「ありがとう」
 アキは本当に優しい。甘えても構わないと思う程に優しすぎる。
「……ありがとう」
 もう一度呟くように言った。
 捻れきったゴムから力を抜いた時のように俺の心は急速に捻れを元に戻し始めた。壊れそうな緊張から開放された反動か涙が溜まりだす。
「ごめん、落ち着くまで時間かかりそう」
 我慢しながら不思議に感じていた。何で我慢しているのだろうと。理由なんて分からない。意味なんて多分ない。子供の頃は声を大にして泣き喚いていたのに何故今はそれを拒絶するのか。目から水が零れるだけなのに何故そこまで嫌うのか。
 分からない。分からないけど、我慢しないといけないような気がする。ただの意地なのかも知れないが、俺は自分の考えを尊重した。
 両目を掌で押さえ付け、俯く。
 アキは何も喋らず、目を覆って何も見ようとしない俺に気配だけを伝えていた。そのアキの気配を感じられることが自分の心の安心に繋がっていた。
 この涙はきっと反動だけの物ではなくて、自分は悪くない、仕方の無かったことだと認めることが悔しくて流れているのだと思う。それを自分で決断できなかった情けなさや、サエに対する申し訳なさや、アキの優しさが、色んな物が混ざり合って俺の感情を震わせていた。
 涙の量に比例してだんだんと冷静になってきた。感情を昂ぶらせている自分を、客観的に見つめている自分。その二つに俺の心が別れたような気がする。思えば、サエに涙を流したのは今が初めてかも知れない。ずっと自分のことしか考えていなかった。どう思えば自分が楽になれるのか、それだけを考えていた。薄情な人間だ。
 ――これでいいんだよな。
 結局は自分のためにサエの言葉を認めることになったが、それでもサエは俺を悪く思わないだろうか。俺のためにあの言葉を残したと思っていいのだろうか。それでは都合が良すぎるのではないか。答えはやはりでないけれど、今はアキの言葉を信じればいい。アキの言葉なら信じられるのだから。涙も流れるだけ流せばいい。涙が心の緊張を解してくれるのだから。
 自分のことだけを考えていればいい。アキが許してくれる。
 ――ごめん、サエ。甘えさせてもらう。
 それでも、俺に罪がないとは思えなかった。その罪をどう償えばいいかなど分かる気もしないが、このままうじうじと悩み続けていては何も出来ない。罪を償うためには、仕方の無かったと思うのが最適だ。
 ――俺がヘタレなのは分かってるよな。
 届くはずもない言葉をサエに向かって心の中で呟いた。自己満足にも程がある。
 俺の嗚咽が虚しく部屋の中で空気と混じる。
 涙はまだ流れていた。アキは、俺が泣き止むまで何も喋らなかった。



 情けなく泣きじゃくった後、アキを駅まで自転車で送った。俺の肩に乗っているアキの掌の温かさや、いつもより重い自転車のペダルとかが、俺の愛して止まない日常を感じさせてくれる。アキと一緒に見る景色はいつもより少し暗くて、夕日はもう地平線に帰り、淡い藍色の空をしていた。俺達を抜き去る自動車のライトが妙に感傷的に感じた。この時間帯は道路も混んでいて自動車が列車のように繋がっていた。この自動車の列車を引いているのは何だろうかと取り留めのないことを考えながら駅に向かっていた。
 アキを駅に送り、家に帰ると母さんが家に帰っていた。台所にはケンタッキーフライドチキンが袋のまま無造作に置かれていた。
「お帰り、学校サボって遊びに行くとはなんとも学生らしいねぇ」
 俺が帰ってきたことに気がついた母さんが奥から台所に出てきた。
「そりゃね。現役の学生だし」
 昨晩よりは自然に話せた。
「て、今日はパチンコで勝った訳? 勝ってもマックが良い所なのに、ケンタなんてえらく豪華じゃん」
「そのとおりー。もう勝ち過ぎてつまらないくらいだったわぁ。これは明日も勝ちに行かないとね」
「辞めときなさい。どうせ明日は負けて帰るんだから。行くなら晩飯代三千円くらい置いてきな」
「その三千円が三万に化けるかも知れんでしょうが」
「化けんよ」
 経験上それはありえない。こんな会話を何回繰り返したことか。何度言ってもすべて金を使い切る母さんはある意味尊敬、できないな。
 とりあえずは良い反面教師ではある。
 母さんのテンションに乗せられて、陽気に振舞うことが出来た。多分母さんは狙ってやっているのだ。
 ――流石、一七年も俺を育ててきただけのことはあるな。
 もしかしたら、本当はパチンコで勝っていなのかも知れない。
 ――考えすぎか。
 とにかく、いつまでも気を遣わせる訳にもいかない。笑え。
「おし、んじゃ辞めてくれってくらいに貪り食うぜ。鳥インフルエンザなんて怖くねぇ」
 無邪気に笑えているかどうかを不安に感じながら、今日の夕食のフライドチキンに歯を立てた。
 ――てか、食い物で立ち直ると思われてる俺って……。まぁ、いいか。
 今、腹の中に鶏肉を入れることが大切だ。
 とにかく、明日から頑張ろう。




 『もう日常は戻らないと悟って』


 
 今夜は月が良く見えなかったが星はちらほらと確認出来た。月が肉眼で確認できなくても確かに月は俺の足元を照らしている。道路の隅に一定の間隔で設置されている街灯の灯りの他に感じる暖かな光は月が照らしてくれているものだと俺は信じていた。
 時間は零時を過ぎている。夜風も冷たく散歩に適しているとは言い難い。だが俺はこの時間でも家で睡眠を取る訳でもなく家の近所を捨て犬のように歩き続けていた。あまり遠くまでは行かないように自制しながら歩いているので帰れなくなることはありえない。この年で迷子になっては笑い話にもならない。近くに公園があるので俺は深夜になるといつもその公園に訪れていた。
 俺が向かっている公園は、元は百年以上前に住んでいた金持ちの敷地だったらしいが、今は一般解放されている。公園といっても遊具は何もなくただ自然があるだけの散歩道のような印象が強い。俺はその公園が嫌いではない。
 俺がわざわざ深夜に外を出歩き公園まで歩いて向かっている理由は、日常を取り戻すための努力のようなものだ。目的は拒絶者に遭う事。敵意のある拒絶者でも大歓迎だ。要は俺の目覚めた力に慣れたいだけの話だった。毎日拒絶者に遭える訳ではないが一週間に一回遭える時もある。意外と拒絶者は多いもので学校の帰りにも見かけることもあった。中途半端に力を持っていた俺が見えなかっただけなのかも知れない。一応今は自力で裂け目を作ることも出来るし拒絶者に襲われても撃退は出来る筈だ。サエの一件以来拒絶者に襲われることはないが大丈夫だと自信はあった。力に目覚めた自覚はある。
 サエの一件から一ヶ月が過ぎていた。その間俺は力に慣れようと必死だった。人の背に見える裂け目にも。俺は裂け目の本当の意味を知った。裂け目を少し弄れば人を消すことが出来る。そんな人の命を左右するものが俺には見えて、弄ることが出来る。つまり、俺がその気になれば、人の命をどうにも出来るのだ。俺のような小心者にはそんなものは毒でしかなかった。その毒は日に日に俺の神経を蝕んでいた。俺はその毒に抵抗するように裂け目を作り、狭間に繋がる門を作り出していた。
 日常を取り戻すために非日常の力を使うのも矛盾している気もするが、俺は力に慣れることが日常を取り戻すことへの近道だと判断した。仮にその判断が誤っていても後悔はないようにしたい。
 今夜は拒絶者に遭えるだろうか。心の隅で強く期待しながら公園に向かった。



 いつからこんな考えを持つようになったのだろうか。深く考えて決断した訳ではなかったと思う。自然に、そう思うのが普通なんだと思うようになった。ただ漠然と自分の力から逃げて、目を逸らし続けるのは嫌だなと思っていたくらいだ。
 きっかけは何だったか。久しぶりに思い出してみる。。
 確か、裂け目を作り拒絶者に送る夢を毎日のように見始めた頃だ。始めのうちはその夢に恐怖して夜中に何度も目を覚ましたし、目が覚めた後に残る感情は間違いなく恐怖だけだった。
 だが夢に叩き起こされた後の感情は少しずつ変わっていった。恐怖の塊の一欠片に高揚感。または力に対する興味。じわじわと岩石を風化させる風や水のように恐怖を削っていったのだ。俺が力に抱いていた感情はやがて恐怖から、力を現実で使ってみたいという衝動に変わっていった。高揚感の割合も日に日に増していった。
 そしてある日、魔が差した、とでも言えばいいのか。毎晩夢の後に生じる感情を抑え込むのに疲れ果てていた時だ。バイトの帰り道。時間は午後九時過ぎ。例外を除くすべての街灯が灯りを付けて道を照らしている時間。田舎な町で人の殆どいない時間に、俺は見つけてしまったのだ。拒絶者を。
 今ではその出来事が、運が良かったのかも悪かったのかも分からないが、その時の俺は間違いなく運が良かったと思った。
 俺は道路の端で立ったまま動かない少女に声をかけられた。「私の事が見えるんでしょう?」と。
 数ヶ月前の記憶を掘り起こされたように感じたのは今でもはっきりと覚えている。その拒絶者の少女に俺は記憶の中のサエを重ねていた。
 次に言った言葉は「私を狭間に送ってください」だ。少女の声は、彼女に意識を集中させていないと殆ど聞き取れないような細い声だった。だが細い声の中には切実な気持ちが痛い程に込められていて。彼女の声に俺の聴覚は支配されていた。
 その瞬間の動悸の苦しさや、葛藤の複雑さや大きさ、俺の心の振動を忘れることは出来ない。
 少女の願いにどう行動すればいいか決断できず、うろたえることしか出来ない俺に少女はもう一度、さっきと同じ言葉を俺に向けた。
「狭間に送ってください」
 その声は俺の記憶の中に焼き付けられ、何回再生しようがあの瞬間の緊張は色褪せることはない。




 公園の街灯には殆ど灯りが付いていなかった。こんな時間だから当たり前のことでもう分かりきったことだ。申し訳程度に足元を照らす灯りはあるので別に問題はない。
 公園の中心には池が掘られていてその周りに道が出来ている。道の両端には木々が植えられていて妙に閉鎖された空間のように感じた。
 俺はいるかも知れない拒絶者を探しながらゆっくりと公園内を散策し、夜の空気を楽しむことにした。人ごみの中にいる時は裂け目に囲まれて落ち着かないが夜でしかも独りだと裂け目も夜の黒に気持ちだけ薄れて気にならない。本当に気分が良い。出来れば人ごみの中でも今に近い気持ちになれればいいのだが、それはまだ高望みだと思う。少しずつ慣れていけばいいと自分を甘やかしておこう。
 視界に人影が入り込む。今夜はどうやら運が良いらしい。
 ――今日は当たりか?
 気持ちが昂ぶっているのが分かる。
 ――興奮、してるのか? 俺は変態か?
 ちょっとした自己嫌悪に陥る。俺は日常に戻りたい筈だ。だがどうしても非日常に対する憧れが否定できなかった。この気持ちが生まれてくることは仕方の無いことなのだろうか。むしろ俺が認識出来ていない本心が憧れているのだろうか。そもそも、何故そこまで日常に執着しているのかもよく分からなくなっていた。今は盲目的に力に慣れることだけを考えていれば瞬間的にだが気持ちが楽になれる。
 だから俺は、拒絶者を求めているのか。俺は日常よりも楽な生き方を求めているのかも知れない。
 ――怠惰な生き方だな。
 盛大に自身を嘲笑しながら拒絶者かも知れない人影に歩み寄る。
 人影は男だった。年齢は二十歳過ぎといったところか。男の肩幅程度の太さの木に背を預けて動こうとせず何処を見ているか想像できない。
「こんばんは」
 男に声をかけた。
 男の視線が俺に向けられた。男の表情には生気が感じられなかった。視線にも意思が感じられない。背後に裂け目も見られない。間違いなく拒絶者だ。
「暇そうだねぇ」
 特に恐怖もなかった。当たり前のことのように男に声をかけた。もちろん、一度俺を殺しかけた拒絶者と同類かも知れない可能性も理解している。
「お前……俺が見えんのか?」
 男は驚いたような、意外そうな表情を張り付かせて俺を見る。
 似たような反応をされた記憶がある。その反応も当たり前といえば当たり前の反応だ。普通の人間には見えないことは拒絶者にとっては常識だからだ。拒絶者にとって俺は非常識な存在らしい。
「見えるから声かけてるんだよ」
 何処までも俺は冷静だ。笑みを浮かべる余裕すらある。むしろ浮かべていた。相手が俺の笑みを見て苛立つことは予想できていたが何も抵抗なく笑顔を浮かべていた。嫌味なことこの上ない。
「何の用だよ」
 いかにも気だるそうに答えた。自分の姿が見られていることにはもう何も疑問はないようだ。
「別に用とかはないんだけどね。ただ気紛れで話しかけただけだし」
 男の目の前でにやつきながら会話を続ける。単純に拒絶者とコミュニケーションが取るのも悪くない。相手が俺のことをどう思っているかは分からないが。
「こっち側にきて、なんか良いことあった?」
 拒絶者に遭う度に毎回質問していることだ。俺の素朴な疑問。
「分からねぇ」
 意外と素直に男が答えた。今回は一応会話は出来そうだ。
「どうやってこうなったのかも覚えてない。まぁでも、前よりは居心地はいいかもな」
 俺は男たちのことを拒絶者と呼んでいるが男にその自覚はない。狭間の存在を知らない者が殆どだったが、狭間に繋がる門を見れば拒絶者は門がどんなものかを本能的に理解しているようだった。
 無意識の内に世界を拒絶し世界から抜け出そうとする。その無意識の力の大きさは想像もつかない。
「あんたは世界が嫌い?」
 これも素朴な疑問。
「好きじゃないな。煩いし面倒くさいし」
「前にいた場所に帰りたいとかって思う?」
「どうだろうなぁ。分からねぇや」
「このままでいたいって思う?」
 俺が生きている世界から一歩離れて、永遠と世界を眺め続ける。それが狭間に行けない、行かない拒絶者の行き方だと思っている。中には拒絶した世界を壊そうとする拒絶者もいるが。
「それも悪くない」
 声を聞けば、男の言葉が見栄でも嘘でもないことくらいは分かった。
「そですか」と一度質問を辞め次の質問を考えた。
 風が吹いた。暗くて見えないが落ち葉が風に飛ばされる音が聞こえた。聞いているだけで寒く感じる。
「ねぇ」
 覚悟を決めて再度口を開いた。
「こことは別の世界に興味ってある?」
 笑みももう生み出されなかった。俺の周りの空気が今よりも増して温度を失っていく。その冷たさが妙に心地よかった。
「どういうことだよ」
 流石に俺の言葉足らずな一言では意味を理解できなかったようで、男は「何意味分からないこと言ってやがる」とでも言わんばかりの口調で聞き直した。
「俺にはね、あんたたちを別の世界に送る力があるんだよ。あんたのことが見えるだけの人間じゃないってこと」
 俺は闇夜の中の何もない空間に手を伸ばした。そして、何もない空間に指を引っ掛けるようなイメージを頭の中に浮かべる。想像なのに指には何かが触れているような感触がある。例えるなら世界の殻か何かか。
 ――開く。開く。開く。
 頭の中をその言葉で埋め尽くしていく。開く以外には何も考えない。考えていはいけない。
 ――開け!
 ここだ、と力を込める瞬間を感じ、力任せに指に引っ掛かっている何かを開く。腕が千切れそうなくらいに力を込める。そのくらい力を込めないと何かは動きそうになかった。
 津波のような疲労感が頭の中を初期化していく。俺の手元を見ると、黒の中に一層黒い小さな、人一人が何とか入られそうな空間が出来上がっていた。
「つまりはこういうこと。これ、俺は門って言ってる。門はこことは別の世界に繋がってる。厳密に言えば世界と世界の間、狭間だけど」
 全部マーセの受け売りだ。
 男は俺の作り出した裂け目に目を奪われていた。困惑の込められた表情が裂け目に釘付けにされていた。俺にとっては見慣れた光景だ。
「な、なんだよ。お前」
 男の声は得体の知れない者に怯えているような印象があった。そんな声も何回か聞いたことがある。
 初めて男が木から背を離した。数歩、俺の作り出した裂け目から離れる。それでも裂け目から視線を逸らしはしなかった。
「俺もよく分からないんだ。俺も知りたいくらいだよ」
 俺の声を聞き男の視線が俺に向けられる。裂け目を見る目も、俺を見る目も大きな差はなかった。
「どうする? 決めるのはあんただ」
 男は引きつった顔のまま黙り込んでいる。男が俺の問いに答えようと努力しているのは分かる。即答は中々出来ないだろう。
「これの向こう側に行きたくて堪らないって奴にも遭ったことがある」
 参考にでもなればと思い、俺の経験談を男に告げる。サエ以外にも、確かに狭間に行きたがる拒絶者もいた。
「俺はその狭間がどんな場所かは何も分からないけどな」
 決して強要はしない。判断は相手に任せる。
 男は答えない。何時まで待たされようが俺には何も問題はない。
「どうする? 悩むくらいだったら止めといた方がいいと思うけど」
「行ってみるわ」
 男が狭間に行かないと思い始めた矢先だった。俺を見る男の表情には微かに怯えも感じられる。
「チャレンジャーだね。怖くない?」
「怖くないことはないけど。このままぼーっとするのも悪くないけどまぁ、面白そうだし」
 男の言葉が虚勢には思えなかった。面白そうだと思うのは男の好奇心のせいだろうか。好奇心のせいなら妙に親近感を覚える。拒絶者といっても自分たちと同じようなものだ。向こう側にいるか、いないかの違いくらいしかないのかも知れない。
「じゃあ、確認するけど、あんたは狭間に行くんだね」
「あぁ。で俺はその門、か? それに入ればいいのか?」
 男が俺に、むしろ門に近づく。声音も何処となく肯定的だ。
「それだけでいいよ」
 門を開いたまま維持するのは俺にとってかなり辛い。意識していないと肩で息をしていると思う。
「そんなにも早く決断出来るなんて、尊敬するよ」
 嫌味ではなく素直にそう思った。
 俺は門に指を掛け、今よりも門を大きく開いた。その分の疲労も半端なものではない。
「いつでもどうぞ」
 準備は完了した。後は男が門を潜るだけだ。門を潜ってちゃんと狭間に行ければいいのだが。
「おかしな奴もいるもんだよな」
 男の覚悟は決まっているようだ。いや、決心の付かない自分を言い聞かせているのかも知れない。
「認めたくないけど俺はおかしいらしいからね」
 自嘲気味に笑い返す。むしろ自嘲している。
「さっさと入っちゃってよ。俺も結構きついんだ」
「あ、あぁ」
 男の表情が少しだけ引きつっていた。俺は疲労で笑顔が引きつりそうだ。何故笑おうとしているのかさっぱり分からないし意味のある行動かも分からないが、なんとなくで行動するのが俺らしさだ。なんでもかんでも理由付けするのは好きではない。
 男は門に一歩ずつゆっくりと歩みより、恐る恐る腕を門に突っ込んだ。
「この中に入るんだな……」
 腕を門の中に消したまま男は動かない。
「ステキなところに行けるといいねぇ」
 俺は門の中には入らない。だからこそ軽口を叩ける。
「それじゃ、送るわ」
 門で男を挟む位置に移動し、男の胸を押し門の中に無理やり押し込んだ。
 突然のことに男が、驚きや抗議が込められた言葉にならない声を上げていたが聞こえないふりをした。
「どんな場所に行ったとしても俺は責任取れねぇからな」
 男の体がすべて門の中に消えたのを確認し、そう吐き捨てた。
 そして俺は、力任せに門を閉じた。



 木を背にして俺は地面に座り込んでいた。疲労も限界に近い。今日はよく眠れそうだ。
「お疲れ様」
 聞き覚えのある声が聞こえた。マーセに違いない。
「お前が言うと嫌味に聞こえるな」
 マーセの口調はいつもと何も変わらない。俺が捻くれているだけのことだ。俺には「こんなにも疲れてるけど、その疲労に意味はあるのかい?」と問われているように聞こえる。性格悪すぎだ。
「そんなつもりはなかったんだけど」
 マーセが見下すような微笑を張り付かせている。そう感じるのは俺が捻くれているからとかは関係なく誰が見てもそう感じるだろう。
「しかし、君は変わったね」
「知るか。んなこと自分で自覚できるかって」
 俺は変わったのだろうか。確かに裂け目や拒絶者が見えるようになり門を開けるようになるといった大きな要因はあるが、自分自身変わったかどうかを意識したことはない。
「僕の言葉を真に受けたのかな?」
「お前の?」
 一瞬何のことを言っているのか理解出来なかったが案外すぐに思い出せた。
 確かすべてを認めてしまえだとか、そんなことを言っていたような気がする。
「あぁ、そうかもなぁ」
 思い出し、考えてみて確かにマーセの言葉に影響されている感が否めない。力に慣れようと身体に負担がかかることも省みず拒絶者を狭間に送ってきた。それは自分で考えて決断したものだと思っていたのに。それが完全な自分の意思ではなくて他人の言葉に影響されたものだったと思うと俺の身体を重くしている疲労がどうにも虚しく感じる。
「素直だね」
 マーセの言葉が嘘に聞こえて仕方が無い。
「だからどうした」素っ気なく聞き流す。
「どうもしないよ」
 軽薄で控えめな笑い声が聞こえる。マーセの声には感情は乗っていない。笑みと一緒に言葉を吐く時には確実に。
「てか、何の用だ」
 今までマーセが雑談のために俺の目の前に現れたことは一度もない。今はへらへらと笑っているが何かしら伝えるべきことがあるのだろう。
「今日は忠告をしにきた」
 笑みが消えた。俺の予想は大当たりだ。
「無理はしない方がいい。僕には君が自棄になっているように見える」
 マーセの声に顔を弾かれ、俺はマーセの笑顔の消えた真顔の表情を睨みつけていた。マーセの忠告が苛立つ程に気に入らなかったからだ。いつもの表情で言われるよりも何倍も苛立った。
「大きなお世話だ!」
 苛立った感情に任せて声を荒げた。みっともないのは十分承知している。
 こうして苛立つのも自覚があるからだ。自身のことを理解しきれていない自分に対する苛立ちもある。その理解しきれていない部分を簡単に悟って俺に口出しするマーセは本当に憎たらしい。
「僕はお節介なんだよ。覚えておくといいよ」
「どうしてお前は人を苛立たせるのが上手いんだろうな」
 完全に俺の感情は乱れきっている。素直にマーセの忠告を聞ける訳がない。俺の意地がマーセの言葉を認めない。
「褒めてくれてると思っておくよ」憎たらしくマーセが笑う。
「勝手にしてくれ」俺はマーセにそう言い返した。
「それじゃ、そろそろ退散するかな」
 弾むような声音でマーセが言った。言葉が闇の中に消えた後、言葉どおりマーセはこの場から消え失せた。最後に残されるのはいつも俺だ。
「帰るか……」
 重い身体に力を込めゆらゆらと立ち上がり、足を引きずりながら家を目指す。二十分は歩くだろう。
 拒絶者を狭間に送った後には、毎回虚しさがついてくる。完全に自分の行為が正しいと、意味があると思えないからだ。力から逃げても苦しくて、向かっていっても同じ位に苦しい。俺が何をすべきなのかも分からない。教えてくれる人もいるはずもない。俺は後どれだけ苦しめばいいのか、考えただけでも嫌になる。
「どうしたもんかなぁ」
 小さな声で呟く。普段ほどの声量は出せていない。
 とりあえず、日常に戻られるのか、今の非日常が日常に変わってしまうのか、この二つに希望を持とう。どちらにしても日常は取り戻せる。
 少しだけ前向きに考えることにした。
2006/03/24(Fri)13:55:31 公開 / アタベ
■この作品の著作権はアタベさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
更新しました。今回より前の分は過去ログ-20051115 に投稿させてもらっています。毎回拙い文章ですが、読んで頂けると幸いです。更新しました(少し書き直し) 二回目。三回目誤字を少しだけ修正(追加)四回目。更新しました。3話書き直し。
3話書き足し
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