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『暑さも寒さも彼岸まで 第三話』 作者:月明 光 / リアル・現代 お笑い
全角34311文字
容量68622 bytes
原稿用紙約115.9枚
第三話 家政婦を見られた

「光様、起きて下さい。朝ですよ」
「ん……ん〜……」
 明の声が聞こえ、藤原は目を覚ました。
 重たい瞼を開くと、覗き込んでいる明の顔が見える。
「おはようございます、光様♪」
 明が笑顔で言い、
「お……おはよう……」
 藤原が覇気の無い声で答えた。
 それを確認すると、明はカーテンを開ける。
 朝の日差しが、部屋の中へと差し込んだ。
「朝食が出来上がりましたので、早く下りてきて下さいね」
「あ、あぁ……」
 そう言うと、明は部屋を出て行った。


 暫くして、藤原がリビングに現れる。
 どうやら、まだ半分は眠っている様だ。
 椅子に座ると、力無くテーブルに突っ伏した。
「大丈夫ですか、光様?」
「……休みがあった気がしない……」
 土曜日にアリスが来襲し、その後始末だけで休日が終わってしまったのだ。
 休みなど、有って無いようなものだった。
「新しい食器で、気分も新しくなりますよ♪」
 藤原とは対照的な声で言うと、明は朝食を持って来る。
 昨日買ってきたばかりの食器やコップが並んだ。
「物は言い様……って事か」
 そう呟いて、藤原は朝食を食べ始める。


 少し経って、チャイムが部屋に鳴り響いた。
「こんな時間に……誰でしょう?」
「俺が出るよ」
 立ち上がると、藤原は玄関へと向かった。


「お兄ちゃん、おはよう!」
 ドアを開けると同時に、背の低いツインテールの少女が飛び付く。
「な!? あ、アリス!?」
 突然の事に、藤原の目は一気に覚めてしまった。
 そんな事は意に介さず、アリスは元気な笑顔で藤原を見上げる。
「朝のご奉仕に参りました♪」
「まったく……一昨日一緒に後始末したのに、何でお前はそんなに元気なんだ……?」
 朝一番から誤解を招く発言をするアリスに、藤原は素っ気無く返した。
「だって、お兄ちゃんとの共同作業なら、どんな事でも出来るんだもん♪
何だったら、今、この場でケーキ入刀、そして誓いのキスだって……♪」
 アリスは一人で勝手に話を派生させ、妄想の世界へと旅立った。
 ふと、藤原がアリスの着ている服を見て気付く。
「あれ……アリス……その制服……」
「……あ、気付いた? お兄ちゃんの高校の制服だよ」
 現実の世界へと戻って来ると、アリスはその場で一回転した。
 制服のスカートが、ふわりと翻る。
「……何故?」
「ボク、お兄ちゃんと同じ高校に通うんだ♪」
 事も無げに言ってのけたアリスに、
「…………」
 藤原は暫し沈黙する。
「お兄ちゃんとの学園生活、楽しみだなぁ♪
放課後の教室とか、保健室とか、屋上とか♪」
 その間にも、アリスは偏った期待を馳せていた。


「まさか、またアリスと同じ通学路を歩くとはな……」
 通学路を歩きながら、藤原は呟いた。
「小学生以来だね♪」
 アリスが隣で楽しそうに答えて、藤原に抱き付こうとする。
 藤原がそれをかわすと、アリスはそのまま前のめりになって倒れた。
「…………痛い」
「やれやれ……急に抱き付こうとするからだぞ」
 呆れながらそう言うと、藤原は手を差し出す。
 アリスがその手を握ったのを確認すると、上に引っ張って立ち上がらせた。
「……ゴメンね、お兄ちゃん」
 立ち上がると同時に、アリスが囁く様言う。
「……? 別に、これくらいでそんな……」
「ううん、そうじゃなくて、その……一昨日の事……」
 どうやら、一昨日起こした事件の話らしい。
「もう良いよ。誰も怪我しなかったし、後始末は手伝ってくれたし、
窓や食器も弁償して貰ったし……今更怒る理由も無いだろ?
それに、あいつらならお前の秘密を口外する事も無いだろうし」
 そう言って、藤原はアリスの頭を撫で付けた。
 アリスは、嬉しさと恥ずかしさが混じった様な声で、
「うん……ありがと……」
 漏らす様に呟いた。


「はぁ〜……今から緊張するよ〜……」
 後者が見えてきた頃、アリスは溜め息混じりに言った。
「でも、一回は経験してるだろ?」
「八年も前の事だし、回数で慣れる事じゃないよ」
「いつもみたいに、片っ端から飛び付いてやれば良いだろ」
「むぅ〜、他人事だと思って……」
 藤原の対応に、アリスは不満げに頬を膨らませる。
 しかし、すぐに何かを思い付いた様だった。
「そうだお兄ちゃん、一昨日みたいに抱いて♪」
「…………何故?」
 アリスの突拍子も無い発言に、藤原は半ば呆れながら尋ねた。
「えっとね……お兄ちゃんに、勇気を分けて欲しいんだよ」
 おちゃらけた感じで言ったが、これがアリスの本心なのだろう。
 そうでなくても、転校初日は緊張するのだ。
 魔法使いの血が流れていて、特殊な事情を抱えているアリスなら尚更だろう。
「……やれやれ、今回だけだからな」
 藤原は止むを得ず了承すると、周囲に誰も居ない事を確認し、アリスを抱き寄せた。
「えへへ……八年経っても、ボクの居場所はずっと……」
 アリスは、とても幸せそうに呟く。
 そんな台詞とは裏腹に、小さな身体は震えていた。
「……もう良いだろ?」
 アリスの震えが収まり、藤原はアリスに尋ねる。
「うん、ありがと♪ ……よ〜し、頑張るよ〜!」
 自らを激励する様な声を上げて、アリスは駆け足になった。
「お、おい、先行って大丈夫なのか!? 道判るか!?」
「もう見えてるから、平気平気〜!」
 藤原の制止の声も、殆ど聞き流している様だ。
 アリスの声は、見る見る小さくなっていく。
「……やれやれ、忙しくなりそうだ……」
 半ば呆れながら呟く藤原。
 しかし、その表情は、若干微笑んでいる様にも見えた。


「じゃあ、呼んだら入って来て下さい」
「は、はい……」
 担任に促されるままに、アリスは廊下で待つ事にした。
「ここが……ボクの新しいクラス……」
 これから自分が通う教室をドア越しに見ながら、アリスは呟く。
 ドア越しに、生徒達の喧騒が聞こえた。
 心臓の鼓動が高鳴り、息が少し苦しくなる。
 気付いた時には、掌が汗を握っていた。
 廊下特有の冷たい空気と相俟って、ヒヤリとした感覚を覚える。
「ゴメン、お兄ちゃん……もう勇気使い切っちゃった……」
 アリスが自嘲気味に、誰にでもなく囁いた。
「はい静かに! 携帯や漫画は仕舞う!」
 教室から鶴の一声が聞こえ、喧騒が水を打った様に静まった。
「今日の朝のHRは、転入生を紹介する」
 が、すぐに響動めきが聞こえる。
「ちなみに、女の子だ」
 更に、男子の歓声が上がった。
「はい、はい! 野郎は騒がない!」
 それをどうにか沈めるが、余波が収まる気配は無い。
「も、もうすぐだ……」
 アリスは右の掌を開き、左の人差し指を宛う。
「……え〜と……何だったっけ……?」
 暫く考えた後、掌に『犬』と書いた。


「じゃあ、入って来て下さい」
 担任が言ってから少しの間の後、ゆっくりとドアが開く。
 そろそろと入って来た転入生を見て、生徒達は皆響動めいた。
 彼女は、どう見ても高校生とは思えないのだ。
 百四十センチ有るか無いかの身長。
 地毛と思われる、ブラウンのツインテール。
 全く膨らんでいない、本来女性の象徴であって然るべき胸。
 ――もっと、もっと下の学校の生徒ではないのか。
 そんな思いが、生徒達の頭の中を過ぎっていた。
 彼女は、どうにか教卓の前まで辿り着くと、生徒達の方を向く。
 明らかに緊張している様子で、顔は紅潮していて、青ざめてもいた。
「では、自己紹介をお願いします」
 担任に促されると、彼女は大きく息を吸って、吐いた。
 それでも言葉が出ないらしく、暫く生徒達を見渡す。
「…………ア…………です。よ…………お…………す」
 最前列で耳を澄ませてもまともに聞こえない声で、彼女は言った。
 それでも彼女にとっては必死の叫びだったらしく、
何かをやり遂げたかの様に深呼吸を繰り返す。
「……黒板に書いて下さい」
 担任は賢明な判断をした、筈だった。
 言われるままにチョークを手に取り、彼女は黒板に手を伸ばしたが、
「…………」
 上の方まで届かない。
 背伸びしてみたが、
「…………!」
 届かない。
 とうとうジャンプまで始めるが、
「…………! …………!」
 やはり届く事は無かった。
 見かねた担任が、台をそっと足下に置く。
 彼女はそれに乗ると、ようやく名前を書く事が出来た。
 少し小さめの文字で、『望月アリス』と書かれている。
「……まぁ、そう言う訳だ。仲良くしてやってくれ」
 担任は、半ば強引に纏め、教室を出ていった。
 同時に、教室は再び響動めきや歓声で満たされる。
 アリスは、とても気が気ではなかった。
 自分を欲望の眼差しで見つめる、二つの瞳に気が付かないくらいに。


「はぁ〜……疲れた……」
 一限目が終わり、アリスは溜め息混じりに呟いた。
 HRが終わり、担任が出て行った直後に、
クラスのほぼ全員から質問責めを喰らったのだ。
 それが一限目が始まるまで続いたのだから、堪ったものではない。
 力無く突っ伏していると、
「まさか僕達と同じ学校だなんて……一言言って下されば良かったのに」
 聞き覚えのある声が聞こえた。
 顔を見上げると、案の定そこには見覚えのある顔。
「え〜と……誰だったっけ?」
 しかし、名前までは出てこなかった。
「……堀です……」
 どうやら、かなりショックを受けてしまった様だ。
 暫く項垂れてから、どうにか立ち直った。
「それにしても驚きましたよ。一昨日はそんな事一言も……」
「あはは……あの時は、お兄ちゃんの事で一杯だったから……」
 アリスが、照れ笑いながら言う。
「ところで堀君……校舎を案内してくれる?
とは言っても、お兄ちゃんの教室を知りたいだけなんだけどね」
「僕は別に構いませんけど」
「その役目、私が引き受けるっス♪」
 堀が承諾しようとした時、一人の少女の声が、二人の会話に割って入った。
「……え?」
 二人が、同時に声が聞こえた方を向く。
 アリスのすぐ傍に、その声の主は居た。
 身長は百五十センチより少し高め。
 バランスのとれたスリーサイズ。
 背中辺りまで伸ばしたポニーテール。
 教室の喧騒の中でも良く聞こえる明るい声に、それに見合う明るい笑顔。
 素直で誠実、と言った印象を受ける。
「君は……?」
「あ、申し遅れました。クラスメートの新谷真琴(しんたにまこと)っス。
望月さん……でしたよね? これから宜しくお願いしまっス♪」
 軽く自己紹介をして、真琴は頭を下げる。
「よ、よろしく……」
 知らない人に親しげに声を掛けられ、半ば戸惑いつつアリスは応えた。
 そうでなくても、さっき辱めを受けたばかりなのだ。
 まともな対応が出来る筈も無い。
「新谷さんが引き受けて下さるんでしたら、任せましょうか。
校内の事も、僕より詳しそうですし」
 そんなアリスの代わりに、堀が応対する。
「はい! 新聞部として校内を駆け回っているので、この学校の事ならお任せっス!」
「じゃあ、お願いします。……望月さん、そう言う訳ですから。
勝手なのは存じますが、これを機に新谷さんと仲良くなって頂ければと」
「えっ、あ、う、うん……」
 いつの間にかとんとん拍子に事が進んでしまい、アリスは否応なく頷いた。
「では、昼休みに♪」
 授業開始のチャイムが鳴り、真琴はそう言い残して席へと戻っていく。
 堀も、一礼して自分の席に着いた。
「……これじゃあ、お兄ちゃんの教室訊けないよ〜!」


 昼休みが始まると同時に、アリスは真琴に連行されていった。
 教室から一番近い手洗い、職員室、保健室、視聴覚室、体育館、学生食堂と、
取り敢えず使用頻度の高そうな場所を案内され、校舎の大雑把な構造も教えて貰う。
 藤原の教室は訊けなかったが、二年生の教室が上の階である事は判った。
 そして最後に、屋上へと連れて行かれる。
「わぁ〜、気持ち良い〜!」
 校舎内と屋外を隔てるドアを開けてすぐに、アリスは言った。
 屋上は、とても心地良い風が吹いている。
 晴天も相俟って、外に出るにはこの上なく最適な状態だった。
「でしょう? 一部で話題の人気スポットっス♪」
 アリスの後から、真琴も屋上へ出る。
 両腕をいっぱいに広げ、思いっきり伸びをしながら、アリスの許へと歩み寄った。
「ここで昼食を食べる人も居るので、一番最後にしたっス。
……どうやら、誰も居ないみたいっスね。今なら、私達の貸し切りっス♪」
 嬉しそうに言って、真琴はどこからかパンを取り出した。
「と言う訳で、少し遅いっスけど、昼食にするっス♪
親交の証も兼ねて、このパンは私の奢りっス♪」
 そして、笑顔でそれをアリスに手渡す。
 アリスは戸惑いつつも、取り敢えず受け取る。
「……良いの?」
「女に二言は無いっス!」
 ――折角だし、貰っちゃおうかな?
 アリスは少し悩んだ末、ここで昼食を頂く事にした。


 屋上の真ん中に座り込んで、二人は昼食を取り始めた。
 クリームパンと牛乳を飲み食いしながら、談笑出来るポイントを模索する。
 何か一つ共通する価値観を見付ける事が出来れば、話に困る事はまず無くなる筈だ。
「あっ……ふふ、クリームが付いてるっスよ♪」
 アリスの頬に付着しているクリームに気付き、真琴はそれを指で取った。
「はわわ、全然気付かなかった……」
 アリスが、恥ずかしそうに頬を紅く染める。
 その様子を見て、真琴はくすくすと笑った。
「……舐めちゃうの?」
 真琴の指の先に移ったクリームを、アリスが潤んだ瞳で見つめる。
 アリスの意図を悟った真琴は、アリスの目の前で、
クリームの付いた指を、蜻蛉を捕まえる時の様にクルクルと回した。
 案の定、アリスはそれを目で追いかける。
 思わず吹き出しそうになるのを何とか堪えて、
十分に楽しんでから、真琴はクリーム付きの指をくわえた。
「あああああぁぁぁぁっ!!!!!」
 それと同時に、アリスが悲鳴に近い声を上げ、
「……ボクの……ボクの……!」
 半泣きになりながら呟いた。
「ご、ごめんっス! 私の残り食べて良いっスから!」
 予想以上のリアクションをされ、真琴は焦りながら自分のクリームパンを差し出す。
 それを受け取って、一口食べ、どうにかアリスは平静を取り戻した。
「……あれ……ボクは一体何を……?」
 真琴の『信じられない行為』以降の自分の言動を思い出せず、アリスは呟く。
 が、自分の手元にある、二つの食べかけのクリームパンに気付き、全てを察した。
「あぁっ! ご、ゴメン! ボク、甘い物の事になると、正気じゃなくなるから……」
 甘い物が絡むと、どうしても我を忘れそうになるのが、自覚している短所で、
酷い時には、魔力を暴発させかけてしまったくらいだ。
 今のところ問題こそ起こした事は無いものの、もう少し『大人』にならなければ。
 しかし、目の前のクリームパンの誘惑に耐えられる程、
アリスは大人の思考を持ち合わせていなかった。


「ふ〜♪ 美味しかった♪」
 クリームパンを食べ終え、アリスは顔を綻ばせた。
「まだ、予鈴まで時間があるっス。どうするっス?」
 携帯電話で時間を確認して、真琴がアリスに問う。
「う〜ん……じゃあ、もう少しだけここに居ても良いかな?」
「別に良いっスよ」
「判った。ありがと♪」
 真琴に許可を貰うと、アリスはフェンスへと駆け寄っていった。
 フェンス越しに見下ろす、八年ぶりの街の風景。
 あれから、色々と変わったのだろう。
 どこかの建物が立て替えられたかも知れない。
 あるいは取り壊されたかも知れない。
 新しい建物が建ったかも知れない。
 ガタガタだった道が舗装されたかも知れない。
 殆ど覚えてはいないが、それでもどこか懐かしい雰囲気が漂っている。
 それを感じると同時に、自分がこの街に帰ってきた事を改めて実感した。
「……ただいま……」
 誰に言うでもなく、アリスは呟いた。


「間接とは言え、唇を奪った責任は取ってもらうっスよ……♪」
 外を見下ろしているアリスの背中を見ながら、真琴は呟く。
 そして、指にまだ残っていた、アリスの頬に付いていたクリームを舐め取る。
「はぁ〜……見れば見る程、可愛いっスね〜……♪」
 欲望で満たされた視線を、アリスに向けた。
 身長と言い、容姿と言い、仕草と言い、どれもが心を擽る。
 まさか、本当に頬にクリームを付けてくれるとは。
 半泣きであれなのだから、泣き顔もさぞかし可愛いのだろう。
 やはり、子供は良い。
 無邪気な笑顔、無垢な瞳、純真な心、思わず突きたくなる頬……挙げれば限りがない。
 今まで見かけた好みの子供は、全て写真に収めてきた。
 だが、写真は写真以上の存在にはなれず、実物とはとても同一視出来なかった。
 ずっと諦めてきた。子供は夢の中の生き物なのだと。
 しかし、今日、奇蹟は起きた。
 自分と同い年の女性が、好み通りの心身をしているなんて、とても信じられない。
 しかも、自分と同じクラスで、こうして友達になろうとしているのだ。
 撮りたい。否、それだけでは足りない。
 折角目の前に居て、触れる事も可能なのだ。写真では出来ない事も沢山やりたい。
 手を繋いだり、お喋りしたり、一緒に出かけたり……。
 考えれば考える程、胸の奥が熱くなる感覚が強くなる。
 これが、俗に言う『母性本能』だろうか。
「今は見ているだけで幸せっスけど……必ず私のものにしてみせるっス!」
 麗らかな屋上で、一人決意を固める真琴であった。


 その後、午後の授業も恙無く終わり、真琴は部室へと向かった。
 校舎の片隅にある、今は使われていない教室が、真琴の所属している新聞部である。
 部活動の功績から、生徒一人一人の成績表やスポーツテストの結果、
更には次のテストの内容までもが、ここで調べられていると言う。
 充実している内容や、筆者の独特な切り口と文体等が話題を呼び、
全校生徒の八十%が校内新聞を購読している。
「こんちわーっス」
 真琴が部室に入ると、既に何人かが部室に居た。
 作業をしている者もそうでない者も、その姿勢のまま挨拶を返す。
 真琴はまず、ホワイトボードに今日の予定を書いた。
 ――今日は、将棋部にインタビューっスね。
 そして、仕事に必要な準備を一通り整える。
「新谷さん、ちょっと良いかしら?」
「あ、はい、何スか部長?」
 準備中に、部長に声を掛けられる。
「貴女は、一年の割にはとても頑張っているわ。
他の部員からの人望も厚いし、業績も良いし」
「あ、ありがとうございます」
「でも、『表』の記事だけじゃなくて、『裏』の記事も集めてくれると嬉しいんだけどな」
「う、裏っスか……」
 部長の言葉に、真琴は言葉を詰まらせる。
 裏の記事とは、早い話が生徒の恋愛等、プライバシーに関わる記事だ。
「貴女も、部費の殆どが裏新聞の売り上げだって事、知っているでしょ?」
「は、はい……」
 真琴は、今までずっと裏新聞への助力を拒否してきたのだ。
 裏新聞の恩恵で、自由に活動出来ているのは解っている。
 しかし、パパラッチ紛いの行為は、真琴が望んでいた事ではない。
「文芸部にエッセイを書かせた功績を買って言っているのよ。
彼、貴女以外の誰が行っても断る程の頑固者だったんだから」
「で、でも私は……」
「貴女がパパラッチ紛いの行為をしたくない、と言うのは判っているわ。
でも、したいとかしたくないとかじゃ、どうにもならない事もあるのよ。
いつも綺麗な仕事だけ出来る訳じゃないの。汚れた仕事も出来てこそ。違う?」
「…………」
 とうとう真琴は黙ってしまった。
 部長の言い分も間違ってはいない。間違ってはいないのだが……。
 そんな真琴の様子を見て、部長は彼女の肩に手を置いた。
「ま、報道に正義を求める事自体、間違っているって事よ。
取り敢えず、今日の仕事を終わらせてきなさい。
答えはいつでも良いから。……良い返事、待ってるわね」
 そう言うと、部長は他の仕事へと向かっていった。
「『大人』は……汚いっス……」
 小さく呟いて、真琴は部室を出ていく。
 ――着くまでに、この表情をどうにかしないと。


 将棋部は、今日も緩る緩ると活動していた。
 部員は、藤原、秋原、堀の三人。
 藤原と堀は対局しているが、
「おい堀! 銀は横に行けないって何度言わせるんだ!?」
「始めから諦めていたら、何も出来ませんよ」
「…………」
 まともな対局になっていないのは言うまでもない。
 余っている秋原は、
「ふむ……シナリオがこの人なら、それだけでも十分買いだな。しかしこの会社は、後でパッチ配れば良いと言わんばかりのバグが……」
 雑誌を読んでギャルゲーを吟味していた。
 こんな部が大会に出る度に賞を貰って帰るとは、俄には信じられないだろう。
 だからこそ、この人数で部が存続出来ているのだが。
「ちわっス―♪」
 そんな部室に、明るく弾んだ声が響く。
 三人が同時に声の方を向くと、そこには笑顔の似合うポニーテールの少女が居た。
「お、真琴か。そう言えば、インタビュー今日だったっけ」
「よく来てくれた真琴嬢。さあ、温めておいたから座るが良い」
 そう言って、秋原が真琴に席を譲ろうとする。
 もちろん、ついさっきまで自分が使っていた椅子だ。
「止めやがれ変態」
 一喝して、藤原は他の椅子を持って来た。
 真琴は会釈して、その椅子に座る。
 やむを得ず、秋原は再び自分の椅子に座った。
 対局は自然消滅し、三人が真琴と向かい合うように座る。
「今回も、大会前のインタビューか?」
 手慣れた口調で、藤原は言う。
 去年の三年生が引退してから、ずっと部長を務めているのだ。
 『前代未聞! 部長の座に着いた一年生!』の時のインタビューと比べれば、その他のそれは肩の力を抜く事が出来る程である。
 真琴も頻繁にここに来ているので、それなりに仲が良い。
 つまり、緊張する要素が無いのだ。
「はい。聞き飽きたかも知れないっスけど、毎回賞を貰う部なんですから、
今回も注目されているんですよ。ですから、大会の度に来させて貰うっス!」
「やれやれ……。新入部員も来ないのに、注目されても嬉しくないぞ。言っとくけど、必ず勝てる勝負なんて無いんだからな。次は一回戦敗退、と言う可能性も低い訳じゃない」
「そ、それはそうかも知れないっスけど……」
 藤原の諭す様な言葉に、真琴は言葉を詰まらせた。
「まぁ、主人公は必ず勝つ、若しくはリベンジするからな。ストーリー的に仕方が無いとは言え、そう思うと緊張感に欠ける」
「何の話だよ……。ま、折角来てくれたのに、説教するのも変な話だな」
 秋原に軽くツッコむと、藤原は真琴に優しく言った。
 真琴は頭を下げて、インタビューを始める。


 前もって用意しておいた質問を、真琴は次々と藤原に投げかける。
 藤原は、それら全てに的確に答えていった。
 真琴は質問を重ねながら、時に相槌を打ちながら、メモを字で埋めていく。
 秋原と堀も、最初は二人の遣り取りを見ていたが、いつの間にか山崩しを始めていた。
「それにしても、緩る緩るした雰囲気っスね」
「まあ、結構好き勝手してるからな……」
 真琴に言われ、藤原はばつの悪そうな表情を浮かべる。
「こう言うの、私は好きっス♪」
「俺が面倒くさがってるだけだけどな」
「いやいや、それだけじゃないと思うっス! 藤原先輩が部長として立派だからこそ、この雰囲気が可能だと思うっス!」
 謙遜する藤原に、真琴は強く言い切った。
 頑固にならない程度の我をしっかり持っていなければ、この絶妙な雰囲気は到底成し得ないだろう。
 真琴は、この部の雰囲気が好きだった。
 他の部は、規律や礼節を重んじており、少々居辛い。
 だが、この部は違う。
 気合いに満ち満ちている訳でもなく、血反吐の出そうな猛特訓をしている訳でもない。
 只々緩る緩ると練習したりしなかったりしているだけ。
 三人しか居ないので上下関係が殆ど無く、ジャンケンに負ければ部長さえもパシリになる。
 しかし、決して部として瓦解している訳ではなく、適度なバランスを保っているのだ。
 まるで家の中に居る様な暖かい空気が、真琴は好きだった。
 だから、真琴はいつも、この部のインタビューを自ら申し出ているのだ。
「部長として、か……」
 真琴の言葉を、藤原は静かに繰り返す。
「去年の部長には、足元にすら及ばないよ。棋士としても、人間としても」
 そして、開いている窓を眺めながら、黄昏気味に言った。
 自然と、足が窓際へ動き出す。
 去年のあの時から、自分は成長しているだろうか。
 ほんの少しでも、彼女に近付いただろうか。
 そんな思いが、藤原の頭の中を巡る。
「あっ! お兄ちゃんだ〜!」
 しかし、聞き覚えのある声が聞こえると同時に飛び付かれて、それは中断させられた。
 動転する頭を抑えながら状況を確認すると、ブラウンのツインテールが見える。
 もう少し下を見ると、童顔の少女が、抱き付きながら自分を見上げていた。
「探したよ〜! もう離れないからね、お兄ちゃん♪」
「ば、馬鹿! 離れろ!」
 公私構わずベタベタしようとするアリスを、藤原は慌てて押し返した。
 が、既に手遅れだ。
「何!? アリス嬢がうちに転校してきただと!? お約束と言ってしまえばそれまでだが、流石にこれは……」
 秋原は意外と冷静に処理してくれたが、
「えええええぇっ!? 藤原先輩と望月さんは兄妹なんスかっ!?」
 真琴はそう言う訳にはいかなかった。
 何も知らない人が見れば、間違いなく驚くであろう風景だ。
 真琴がパパラッチ的な行為を嫌う事は知っているが、そう言う問題ではない。
「苗字が違うって事は……両親が離婚したとかっスか!?」
「うちのは未だにバカップルだよ」
「じゃあ養子っスか!?」
「だったら苗字同じだろうが」
「それとも世を忍ぶ為の偽名!?」
「誰からだよ」
「お義兄さん、これからよろしくっス……」
「訳解んねえよ」
 平静を欠いた真琴の質問に、藤原は冷静に返した。
 だが、放置しておけば後々問題になりそうだ。
 仕方がないので、簡単に事情を説明する。
 当然、魔法云々は割愛して、だが。
 興奮している人に言って聞かせるのは容易ではなく、かなりの労力と時間とツッコミを要する事になってしまった。
「へぇ〜、お二人は幼馴染なんスか」
 ようやく理解出来た真琴が、驚きながら言う。
 一度は引っ越した友達が帰って来るなど、そうそう無い話である。
「うん。お父さんの仕事次第で帰って来る予定だったんだけど、
ボクが思っていたより早く帰って来れて良かったよ……」
 そう言って、アリスは藤原の腕に縋る。
 藤原は、すぐに振り解いた。


「素晴らしい……実に素晴らしい……」
 そう呟きながら、秋原はアリスをジロジロと見つめていた。
 藤原が真琴に説明している間、ずっとである。
「おい秋原。変態染みた言動をするな」
 藤原が注意したが、それが秋原の点火薬になってしまった。
「変態だと!? 藤原、お前は解らんのか!? 帰ってきた幼馴染の、初めての制服姿なのだぞ! ここは萌えるべきシチュエーションだろうが!」
「また始まったよ……」
 藤原は頭を抱えながら、重たい溜め息を吐いた。
 秋原が一度語り出せば、暫くは止まらないからだ。
「初めての制服と言えば、このだぼつき感と初々しさだ。だが、それだけなら新入生でも出来る。転校少女の真の魅力、他の追随を許さぬアイデンティティーは、やはり『転校』と言う環境にこそあるのだ! 面識の無い連中の視線が気になっている時の、ちょっと緊張したあの表情! ほぼ百%の確立で隣の席になるのはお約束! そんな彼女を、ついつい横目で見てしまう、新しい出会い特有のあの感覚! そして彼女の心髄と言えば、やはり初めての自己紹介! ……アリス嬢、実に素晴らしかった。こんな言葉すら野暮に聞こえる程だ。あのガチガチの言動、演技では決して出来ん。その上、黒板の上の方に手が届かぬとは……! っはぁ! 思い出すだけでどうにかなってしまいそうだ!」
「……もう、なってるだろ」
 湯水の如く言葉を放出する秋原に、藤原は冷静にツッコんだ。
「え!? 何でアッキーが知ってるの!?」
 後半の秋原の台詞に、アリスが激しく反応する。
「ふっ……俺の人望と情報網をナメてもらっては困る」
 しかし、秋原はさらりと言った。
 どうやら、各所に同志が居るらしい。
 更に秋原は続ける。
「それにしても、実に良い眺めだ。ニーソックスとスカートの間に、僅かに覗かせる肌……。まさに、『絶対領域』と言う言葉が相応しい。アリス嬢も、前回の敗北からレベルアップしたと言う事だな。俺も、今のまま満足していてはいかんな……。妹と幼馴染の相互干渉について原稿四百三十六枚の論文を書き上げた、若かりし頃の熱意を大事にしなければなるまい」
 そう言って、秋原はしみじみと頷いた。
「……ところでアリス嬢、『アッキー』とは?」
「今頃気付いたのかよ……」
 話に熱中していた秋原が、ようやく尋ねる。
「秋原だからアッキーなんだけど……どうかな?」
 アリスはそれに答え、更に尋ねた。
「アッキー……アッキー……アッキー……」
 秋原はそれに応えず、呟くように連呼した。
 そして席を立ち、ゆっくりと窓へ移動する。
 窓の桟に手を置き、空を見上げた。
「アッキー……か……」
 味わう様に、ポツリと漏らす。
 新しい何かに目覚めた時の、とても爽やかな顔をしていた。
「お、お兄ちゃん……」
「心配するな。喜んでるから」


 暫くして、秋原が戻って来た。
 心なしか、全体的に雰囲気が軽くなった印象を受ける。
「ふっ……今日は調子が良い。もう一つ話をしてやろう」
「いや、頼むから止めてくれ」
 藤原が制止するが、秋原の耳には一切届いていない。
 もう誰も止められはしない。
 それ以前に、藤原以外に止めようとする人が居ない。
「真琴嬢とアリス嬢が居るのだ……『後輩』の話には打って付けの状況だな。アリス嬢が『妹』と『幼馴染』である事は周知の事実だ。一方の真琴嬢は、『後輩』と位置付ける事が出来る。二人共同じ年齢、学年だ。身体的特徴は……まぁ、今回は無視しよう。こうして見ていると、『妹』と『後輩』は同じ様なキャラに見える。どちらも年下である故、致し方ない話だ」
 そこまで言って、秋原は一息吐く。
 そして、両手で机をバンッと叩き、身を乗り出した。
「しかし、『妹』と『後輩』は、それぞれ全く違う個性を持っている!
その差は不変的な物であり、決して埋められはしない!」
「……それで?」
 ツッコむ気力さえ失せた藤原が、半ば開き直りながら続きを促す。
「ふっ……まぁ慌てるな。論より証拠だ。アリス嬢、普段、藤原を何と呼んでいる?」
 秋原の突然の振りに、アリス少し戸惑うが、
「えっ? お、『お兄ちゃん』だけど……」
 素直に答える。
「これが『妹』だ。次は真琴嬢、頼む」
 続く真琴は、
「藤原先輩♪」
 軽快に答えた。
 真琴は、自分の趣味の関係上、秋原の思想に共感する部分がある。
 彼の熱の入った語りも、彼女の楽しみの一つなのだ。
「解るか!? これが『妹』と『後輩』の違いだ! 主人公を『先輩』と呼ぶのは、後輩のみに許された特権! そして『先輩』と言う言葉には、形容し難い力が込められているのだ! ……だが、『先輩』は誰でも使える言葉ではない。基本的に、他の属性との相乗効果で絶大な破壊力を発揮する為だ。真琴嬢の場合は、『元気系』との組み合わせだな。非常にオーソドックスな組み合わせだが、それだけに強力だ。明るい気さくな声で『セーンパイ♪』なんて言われれば、それだけで滅入ってしまうであろう! 即ち! 『後輩』とは、他の属性を力強く支える、上級者向けの名実兼ね揃えた属性なのだ! ……これ程の属性を使いこなす美少女がすぐ傍に居るとは、俺達も恵まれたものだ……」
 秋原が一気に語り、荒くなった息を整える。
「あ、あの……」
 そんな秋原に、堀が遠慮しながらも声を掛ける。
「僕はどうなんですか、『秋原先輩』?」
 ふと疑問に思い、尋ねるが、
「…………」
「…………」
「…………」
「……すいませんでした……」
 沈黙と冷たい視線に耐えられなくなり、堀は引っ込んだ。
「さて……そろそろ帰るか……」
 藤原は相手にする事無く、さっさと帰宅の準備を始めた。


 結局、真琴のインタビューが終わると同時に部活は終わった。
 山崩しで、藤原が鍵閉めをする事になる。
 真琴は他の仕事へ向かい、秋原と堀は先に帰った。
 秋原と堀は、すぐに家に来るらしい。
 いつまでもベタベタしてくるので、アリスは部室に閉じ込めた。
「……何で、山崩しで決めたんだろう……?」
 赤く染まった空を見上げながら、藤原は校門を通過する。
 それとほぼ同時に、後ろから誰かに目隠しをされた。
 不意を突かれ、藤原は少し戸惑う。
「だーれ」
「アリスだろ?」
「ま、まだ言ってないのに……」
 が、すぐに正体を当てる事が出来た。
 少し驚きながら、アリスは藤原の横を歩く。
 何故、部室から脱出出来たかは、敢えて訊かない。
「何で判ったの?」
「こんな事、お前しかしないだろ」
「あはは、そうだね……」
 藤原に言われ、アリスは苦笑する。
 幼い頃から甘えさせて貰っていた藤原にとって、アリスの行動は筒抜けなのだ。
 だが、それは同時に嬉しくもあった。
 例え照れ隠しに部室に閉じ込めても、八年前の『アリス』をちゃんと覚えていてくれたのだから。
「一緒に帰ろ、お兄ちゃん♪」
 弾んだ声で言って、アリスは藤原の腕に縋り付く。
 藤原は溜め息を吐いたが、
「……ま、それも判ってたけどな……」
 拒否の態度は見せなかった。


 そんな二人の遣り取りを、ポニーテールの少女が観察していた。
 すぐには察知出来ない距離、且つ、向こうの声が聞こえる距離を保って。
「先輩と望月さんには悪いっスけど……私は……」
 真琴は、今も自分の行動に疑問を抱いていた。
 確かに、藤原とアリスの関係は気になる。
 アリスが藤原に好意を抱いているのは、誰が見ても明らかだ。
 藤原は冷めた対応をしているが、男性は公の前でベタベタする事に抵抗がある筈。
 ――もっとも、最近は『バカップル』とか言う連中が、公私問わずイチャイチャしているが。
 だから、こうして尾行すれば、部長に言われた『裏』のネタが見つかるかも知れない。
 しかし、それではパパラッチになってしまう。
 他人のプライバシーに土足で踏み入る様な愚考は、記者と言えども許されない。
 それくらいの事は、真琴も十分判っている。
 それでも、真琴は二人を追いかけていた。
 部長に言われた一言が、ずっと頭の中を過ぎっていたからだ。
 ――汚れた仕事も出来てこそ。違う?
 受け入れるには抵抗があるが、どうしても否定は出来ない。
 集団の一員になった以上、その集団に従うのは義務だ。
 それが出来ない者は、異端として切り捨てられてしまう。
 例え望まない仕事でも、我儘を言う訳にはいかない。
 それが、個人の都合を顧みない『大人』の世界なのだ。
 二種類の『正義』が頭の中でぶつかり合いながらも、真琴は二人を追いかけていった。


「どうだった、転校初日は?」
 朝に歩いた道を戻りながら、藤原は尋ねる。
 アリスの歩幅に合わせる為に、ゆっくりと歩きながら。
「あはは……スゴく緊張しちゃったよ……」
 朝の一連の事件を思い出し、アリスは苦笑した。
 『緊張した』などと言うレベルではないのだが、その辺は敢えて割愛する。
「ま、そうだろうとは思ったけどな……。友達になれそうな奴は居たか?」
「えっとね……新谷さんと、友達になれそうだよ♪」
「お、真琴か……。あいつは結構しっかりしてるし、お前には丁度良いな」
「むぅ、どう言う意味?」
 藤原の言葉に、アリスは頬を膨らませる。
 その仕草は、幼い子供と大して差異は無い。
「そのまんまの意味だ」
 藤原は、顔がにやけるのを、どうにか堪えながら答えた。
 どんなに背伸びをしても、この辺りは八年前のままの様だ。


「ふ、膨れっ面……可愛い過ぎるっス!」
 真琴は二人に気取られないように、デジカメでアリスを撮る。
 こう言う表情は、カメラを向けられると、なかなか出来ないものだ。
 隠し撮りとは、被写体の自然な姿を撮影する為の技術の一つであり、決して犯罪ではない。
 それが、真琴が幾多の子供を撮影する中で覚えた事である。
「はわぁ……撮ってしまったっス……」
 デジカメの中に収まった幼女に、真琴は思わず呟いた。
 無邪気な幼女が機嫌を損ねた時の表情は、いじらしくて可愛い。
 暫くの間、真琴はそれに見入っていた。
「…………。『友達になれそう』……っスか……」


 色々と話をしながら、帰路の真ん中辺りまで来た時。
「お兄ちゃん、あの娘……」
 アリスと藤原の前で、一人の少女が泣いていた。
 歳は、恐らく小学生未満。
 小さな手を、清水溢れる瞳に擦り付けて、声を上げて泣いている。
「つい最近、似たような状況に遭った気が……」
 少女の泣き声に、藤原は蹌踉めいた。
「どしたのかな? ボクで良ければ、教えてくれない?」
 アリスは、少女と目線を合わせて尋ねた。
 少女とは対称的な表情である。
 恐らく、『お姉さん』である事をアピールしているのだろう。
 折角無視しようとしたんだから構うな、と藤原は言いたかったが、この雰囲気では言えそうもない。
「…………!」
 少女は言葉すら出せず、片手で空を指差した。
 二人が――藤原は両耳を塞ぎながら――指の先を見る。
 赤い風船が、背の高い街路樹に引っ掛かっていた。


「はわわ、私はどうすれば……」
 思わずアクシデントに、真琴は動揺していた。
 あの娘の泣き顔を笑顔に変えたい。
 泣き顔も良いのだが、やはり笑っている顔が一番だからだ。
 しかし、今飛び出しては尾行がバレてしまう。
 かと言って、このまま離れた場所で隠れていても、何も出来ない。
 ジレンマに悩まされながらも、真琴は取り敢えず様子を見る事にした。


「う〜ん……仕様が無い、上って取って来る」
 藤原は考えた末、樹に上ろうとするが、
「だ、ダメだよお兄ちゃん!」
 アリスにすぐに止められる。
「あんな高い所に引っ掛かってるって事は、ヘリウムガスの風船でしょ? 下手な事して揺らしたりしたら、飛んでっちゃうよ。それに、枝が頑丈かどうかも判らないのに、下りられなくなったらどうするの?」
 珍しくアリスにまともな反論をされ、藤原はばつの悪い表情を浮かべた。
 出来れば、さっさと解決してしまいたいのだが……。
「じゃあ、どうするんだ?」
「そ、それは……」
 藤原に問われ、アリスは戸惑う。
 ――手段は、有るには有るんだけど……。
 手段が有るか否かと、それを使えるか否かは、似ている様で別問題なのだ。
 苦渋の表情を浮かべているアリスの袖を、小さな手が掴んだ。
「お姉ちゃん……取って……くれるの……?」
 少女が、目を潤ませながら尋ねる。
「…………」
 その一言に、アリスの表情が見る見る変わっていった。
「よ〜し、『お姉ちゃん』が取ってあげるからね!」
「……そんなに年上扱いが嬉しいか?」
 アリスの意を察した藤原が、呆れながら言った。
 少なくとも年相応には見られないだろうから、解らない事も無いが……。
 周囲に三人しか居ない事を確認すると、アリスは少女と同じ目線になる。
「良い? これから『お姉ちゃん』がする事は、絶対に他人に言っちゃダメだよ」
「…………うん」
「ありがと。じゃ、集中したいから、なるべく静かにしててね」
「…………うん」
 二回とも少女が首を縦に振った事を確認すると、アリスはニッコリと微笑む。
「集中……って、まさか……」
 藤原がアリスの言葉の意味を解した時、アリスは既に詠唱を始めていた。
 普段の彼女とは結びつかない程に凛とした表情。
 彼女を中心に、形容し難い何かが渦巻いていることが、肌で感じられる。
 先日の理性を失っていた時のそれとは、明らかに違っていた。
 少女にも『不思議な何か』が判るらしく、不安げな表情を浮かべる。
 しかし、アリスとの約束は、ちゃんと守っていた。
「…………ふぅ、上手くいったかな?」
 詠唱を終えると、アリスは深く息を吐いた。
 全身の緊張が一気に体外へ流されていく。
「終わったのか?」
「うん、一応。結構難しい魔術だから、あんまり自信は無いけど」
「……けど、まだ引っ掛かったままだぞ」
「今のは、飛んでいかないようにする為の呪文だよ。直接手を触れずに風船を外そうと思ったら、この手しか無いでしょ?」
 藤原の質問に答えると、アリスは再び詠唱を始めた。
 強い風が吹くが、前回のそれに比べれば、とても大人しかった。
 その風に吹かれて、木の枝に引っ掛かっていた風船が外れる。
 自由になった風船は、ゆっくりと少女の眼前に落ちた。
「あれ……あれ?」
 不思議そうな顔をしながら、少女が風船を抱える。
 さっきは上に飛んでいった風船が、今度は下に落ちてきたのだ。
 普通に考えれば、有り得ない事である。
「お、お姉ちゃん……」
 だが、これは『少女の風船』ではない。
 空へと浮かび上がらない風船は、『少女の風船』ではない。
「大丈夫大丈夫♪ 最後の仕上げが残ってるから、本体じゃなくて紐の方を持ってね♪」
「う、うん……」
 首を傾げながら、少女は両手で紐を握った。
 手から放たれた本体は、地面で小さくバウンドする。
 アリスが三度呪文を唱えると、風船は再び上昇を始めた。
 少女の体ごと、夕空へ飛んでいってしまいそうな程だ。
「わあぁ、スゴい! どうやったの!?」
 目の前で起きた一連の出来事に、少女は驚きながら尋ねた。
「ヘリウムガスが外の空気よりも軽いから、風船は浮かぶんだよ。だから、ボクの魔術で一旦ヘリウムを空気と同じ重さにしたんだ。後は枝から外してあげれば、息で膨らませた風船と同じ様に落ちるって訳。で、ヘリウムを元の重さに戻せば、何もかも元通り♪」
 アリスが得意気に話すが、少女の頭には『?』が浮かんでいる。
「え〜と……つまり、ボクの魔術の力なんだよ」
 結局、一番簡単な説明にした。
「お姉ちゃん、魔法使いなの!?」
 本でしか見た事の無い存在に、少女は目をキラキラさせる。
 アリスは一瞬躊躇するが、すぐに笑顔に戻った。
「そうだよ。だからボクは、正体をバラしたらダメなんだ。解るでしょ?」
「うん♪」
 少女は、笑顔で頷いた。
 正直、口外しないか否かは怪しいが、言ったところで、誰も信じはしないだろう。
 アリスは、風船の紐を、少女の腕に巻き付けた。
 これで、もう飛んでいったりはしない筈だ。
「じゃあ、もう離したらダメだよ」
「うん。魔法使いのお姉ちゃん、ありがとう!」
 少女は頭を下げると、嬉しそうに駆けていく。
 その後を追う様に、赤い風船が引っ張られていった。


 ――信じられないものを見てしまったっス……!
 二人から隠れた場所で、真琴は只々驚愕していた。
 自分が追いかけていた幼女に、こんな秘密が有っただなんて。
 これは、とんでもない特ダネを見付けてしまった。
 全身が震駭しているのが、ハッキリと判る。
 恐らく、驚きと興奮によるものだろう。
 撮影するのを忘れてしまった程だ。
 だが、こうして追いかけていれば、今度こそ撮影出来る。
 そう確信した真琴は、更に二人を追いかけていく。
 彼女の中で、何かが芽生え、何かが萎れた瞬間だった。


「良かったのか、あんな事して?」
 少女が去っていった後、藤原はアリスに問う。
 幼い事に自分を苦しめた魔法の力を、躊躇い無く使ったのだ。
 流石に、年上扱いされた事だけが理由とは考え難い。
 藤原にとっては、不思議な事である。
「うん。少なくとも、後悔はしてないよ」
 当のアリスは、ずいぶんとサッパリしていた。
 更にアリスは続ける。
「ボク、最近思ったんだ。目の前に居る人の為なら、魔術を使っても良いんじゃないかなって。今までは、この能力の所為で自分の存在意義が判らなかったけど、『魔術師』は『ボク』の一部でしか無いって思ったんだ。『魔術師』の力を使う事で『ボク』の存在を認められるなら、それも間違ってないかなって……どうかな?」
 自分の心境を話し、アリスは藤原に尋ねた。
 同意を求める為のそれではなく、純粋に、藤原の意見を聞きたい様だ。
「……ま、アリスがそう言うなら、俺は別に良いんだけど」
 藤原は、特に否定はしなかった。
 アリスも、徐々に成長しているのだろう。
 存在を認めてくれる事を求める一方だった彼女が、自ら存在意義を見出そうとしているのだ。
 『魔術師』と言う檻に閉じ込められていた彼女が、それと向き合い始めたのだ。
 昔のアリスを知る藤原にとっては、喜ばしい事である。
 アリスが友達付き合いを苦手としているのは、彼女の生まれによるものだろう。
 だが、きっといつか、それを乗り越える日が来る筈だ。
 少なくとも、その時までは、彼女の生きる理由で在り続けよう。
 アリスを横目で見ながら、藤原は固く誓った。


 そんなこんなで、藤原の家が見えてくる。
「アリスは、こっちの道で良いのか?」
 この数日は押しかけてきたから訊かなかったが、藤原はアリスの現住所を知らない。
 恐らく、家の近くなのだろうが……。
「うん、前と住所同じだから」
 と言う事は、八年前と同じ、走って三十秒の場所にあるのだろう。
 流石に毎日押しかけられては、藤原の身が持たない。
 近いうちに、何かしらの対策を考えなければならないだろう。
 そう思っているうちに、藤原宅の前に着いた。
 庭では、明がメイド服姿で掃除している。
「……あ、光様。お帰りなさいませ」
 藤原とアリスに気付き、明は笑顔で迎えた。
 二人も、それに応える。
「間も無く掃除が終わりますので、紅茶を煎れましょうか?」
「うん、お願い!」
 明の誘いに、藤原よりも早くアリスが反応した。
 先日の件の後始末をしている時、明が煎れた紅茶を、かなり気に入ってしまったのだ。
 実際、彼女の煎れる紅茶は、スーパーで購入した茶葉とは思えない逸品で、堀や秋原も絶賛していた。
 当然、藤原も例外ではない。
「光様さえよろしければ、私は構いませんよ」
 突然の客にも、明は寛大であった。
 こうなると、藤原には選択の余地が無い。
「……ま、別に良いか……」


 ――だ、誰っスかあの人!?
 当たり前の様に藤原宅を掃除している女性に、真琴は思わず叫びそうになった。
 よく見てみると――否、普通に見ても、彼女が着ている服はメイド服だ。
 西洋のロングドレスにエプロン、更にヘッドドレスとなれば、間違える訳が無い。
 メイドの何たるかを理解していないバラエティ番組やメイドカフェ以外で見るのは、これが初めてである。
 藤原宅、女性、メイド服。この三つが示す答えは……!
 意外だ。藤原は女性関係の話とは無縁だと思っていたのに。
 今までだって、新聞部の情報網を以てしても、そんな話は聞いた事無かった。
 精々、去年の将棋部部長との関係が、僅かに噂された程度である。
 ――あれ? ちょっと待つっス……。
 アリスは、明らかに藤原に好意を抱いている。
 久しぶりに藤原と再会したのだから、さぞかし喜んでいるのだろう。
 しかし、藤原宅に居る彼女は……。
 どんなに頑張っても、想像が昼ドラの様な泥沼へと発展してしまう。
 藤原に限って、そんな事は有り得ないと信じたいのだが……。


「おや、真琴嬢ではないか。どうしたのだ?」
「えっ!? ひ、ひゃわぁっ!?」
 秋原が声を掛けると、真琴は驚いて飛び退いた。
 予想外のリアクションに、秋原はもちろん、連れていた堀も驚く。
「あ、秋原先輩!? え、えっと、あの、私は、その……」
 真琴はどうにか会話をしようとするが、まるで文章になっていない。
「お、二人共、早かったな。……あれ、真琴?」
 急に騒々しくなったので、藤原達も三人の存在に気付いた。
 それと同時に、藤原は真琴がここに居る理由を考える。
 制服姿だが鞄らしき物は持っておらず、代わりにデジカメを持っている。
 そして、今、藤原宅の庭に居るのは……。
 藤原が全てを悟った時には、真琴は既に逃げ出していた。
 校内でもトップクラスを誇る脚は、ぐんぐんその場から離れていく。
 真琴は走りながら、自分自身を責めていた。
 こんな筈ではなかった。こんな筈ではなかった。
 自分がジャーナリズムに求めたのは、こんな事ではない。
 ここまで判っているのに、何故自分は逃げているのだろう?
 答えが見つからないまま、真琴は走っていた。
 しかし間も無く、右手首を掴まれ、グイと引っ張られる。
 ――私に追いつくなんて……。
 驚きを隠せないまま、真琴は足を止めた。
 一気に全身を気怠さが襲い、呼吸が荒くなる。
 振り向くと、自分の腕を掴んでいたのは、アリスだった。
 自分と同じ様に、肩で呼吸をしている。
 少し経って、まだ呼吸が落ち着かないまま、
「どうして!?」
 アリスは叫んだ。
「どうして……!?」
 そして、絞り出す様な声で、同じ事を叫ぶ。
 見上げる瞳は、激昂を帯びて、真琴を突き刺した。
 それは決して、自己紹介の時の緊張した面持ちでも、昼の屋上で見せてくれた無邪気な表情でも、さっきの子供に見せていた優しい表情でもない。
 只々、怒りと憎しみのみが、その顔に映っていた。
 アリスの目に串刺しになったまま、真琴は改めて己の行動を後悔する。
 ――新谷さんと、友達になれそうだよ♪
 あの時に、止めておけば良かった。
 自分は、およそ最低の行為をしてしまったのだ。
 そんな自分に、気を許した表情を見せてくれる訳が無い。
 何故、こんな事になってしまったのだろう。
 自分のしたかった事は、自分がすべき事は――


 真琴を捕まえたアリスは、既に全身を憎悪に支配されていた。
 平穏を犯そうとする憎々しいその人を、怒りに任せて殴りつける。
 暴発寸前の魔力を込めた殴打は、その人を数メートル吹っ飛ばした。
 人の後を付けて、秘密に踏み込むだなんて、信じられない。
 こいつに魔法をバラされたら、もう平穏な生活は不可能だ。
 絶対に、こいつをこのまま帰してはならない。
 無事に帰してはならない。生きて帰してはならない。
 倒れたまま動かないその人に、アリスは早足で歩み寄る。
 その人は頭を打ったらしく、グッタリと横たわったまま動かない。
 ――でも、まだ、こいつは息をしている。
 止めを刺すべく、アリスは両手に魔力を集め始めた。
 詠唱によるコントロールの伴わない魔力は、アクセルのみの車と同じだ。
 もちろん、今のアリスに、そんな事は頭に無い。
 ――あと少しで、こいつを消せる程の魔力が溜まる。
 一種の安心感さえ覚え始めた時、突然身体を温かい感触が包んだ。
「……そうじゃ……ない……だろ……?」
 そして、世界で一番大切な人の声が聞こえる。
 ここまで必死に走ってきたらしく、言葉が途切れ途切れだ。
 その一言に、アリスの昴ぶっていた感情が、見る見る静まっていった。
 平静を取り戻した身体は、集めていた魔力を安全に静める。
 狭まっていた視野が広がると同時に、自分がしてしまった事をまざまざと認識する。
 頭から血の気が引いていき、その場に力無くへたり込んだ。


 私は、物心付いた頃から、パパが嫌いだった。
 仕事で家に居ない日の方が圧倒的に多くて、私やママの誕生日さえメールで済ます。
 運動会も、卒園式も、入学式も、その他家族ですべき行事も、パパが参加した事は無い。
 パパが休日にどこかへ連れて行ってくれるなんて、私にとっては有り得ない。
 きっと、ママが一人でどれだけ大変なのかも知らないのだろう。
 そんなパパが、私は嫌いだった。

「ママは、本当にパパの事が好きなの?」
 ある日の夕食の時間、私はママに尋ねた。
 ママは一瞬驚いて、すぐにクスクスと笑う。
 そんなに変な事を訊いたのだろうか?
「好きじゃなかったら、こんな生活している訳無いでしょ」
 そして、ママは笑って言った。
「真琴は?」
 すぐにママが返してくる。
 私の答えは、言うまでもない。
「そっか……。真琴の気持ちも、良く解るわ。でもね、真琴。私は、仕事をしている真っ直ぐなパパが好きになったのよ。だから私は、仕事を理由にパパを嫌って欲しくないの」
 何故、ママはパパの弁護をするのだろう?
 私には、とても理解出来なかった。
 お互いに助け合って、温もりを感じ合って、同じ理由で泣いたり怒ったり笑ったりするのが、私の思う『夫婦』だからだ。
 ママは、今、とても淋しい筈なのに。
 私では到底埋められない穴が、心の真ん中に空いている筈なのに。
 寝惚け眼で、パパの名前を呼びながら、私に抱き付いてきた事もあったのに。
 その事を話すと、
「真琴は優しいのね……。そう言う所、パパにそっくりよ」
 微笑みながら私の頭を撫でてくれた。
 最早、理解不能だ。
 でもね……とママは小さく呟いて、更に続ける。
「どんなに淋しい思いをしても、好きな人には『好きな人』のままで居て欲しいの」
 やっぱり全然解らなかった。
 これでは、仕事を理由に帰って来ない人が、ママの『好きな人』と言う事になる。
 そんな淋しい関係が、『女の幸せ』と呼ばれる物の筈が無い。
「じゃあ、パパは、どんな仕事をしているの? ママが好きになった人は、何の為に、まともに家に帰って来ないの?」
「……そっか、真琴は知らなかったっけ。ちょっと待ってて」
 そう言うと、ママはリビングから出て行く。
 階段を上がる音が聞こえ、間もなく真上のママの部屋から足音が聞こえる。
 少し経って、階段を下りる音が聞こえ、リビングのドアが開いた。
「お待たせ」
 ママの手には、何枚かの紙が有った。
 机の上に広げられて、それが写真である事が判る。
 それらには、ボロ布を纏った、痩せ細っている、明らかに日本人ではない子供の姿や、見るも無惨な、建物だったと思われる瓦礫の山が写されていた。
「…………?」
「これが、パパの仕事。戦争の醜さを伝える為に、戦地で写真を撮っているのよ」
「……戦争?」
「命の重みを知らない大人達が、相手も同じ命である事が解らない大人達が、命に比べれば取るに足らない何かの為に、国中の命を巻き込んで起こす殺し合いの事よ」
「…………」
 ママの答えに、私は何も言う事が出来なかった。
 信じられなかったのだ。
 朝はママに起こされて――時々私が起こして――朝食を食べ、学校に行き、授業を受けて、友達と色々喋って、家に帰り、ママが出迎えてくれて、宿題をして、夕食を食べ、テレビを見たりして、自分の部屋に戻って寝る。
 そんな毎日が、多少の差異が在るにしても、どこでも当たり前だと思っていたのに。
 国を挙げて殺し合いなんてしていたら、到底不可能な事だろう。
 不思議だった。
 私がこうしている間にも、どこかで誰かが理不尽な殺し合いに巻き込まれている事が。
 もしかしたら、私は、偶々平和な場所に生まれただけなのかも知れない。
 運次第で、生きる事で精一杯な生活を強いられていたかも知れない。
 あるいは、既に命すら失っていたかも知れない。
 そう思うと、今のこの生活は、死体の山の上に成り立っていると言う考え方も出来る。
 だとすると、それはとても恐ろしい事だ。
「戦争は、何としても止めなければならない事なの。『平和なんて綺麗事だ』って言う人も居るけど、私はそうは思わないわ。だって、今、戦争を止める事を諦めたら、次は私達が犠牲者になるかも知れないもの。パパは、その為に具体的な行動を起こしているのよ。戦地の人の為、そして、私達の為に。その事だけは、ちゃんと解って欲しいの。そして……親が子供の将来を狭めてはいけないのは判っているけど、出来れば、最後にはパパに共感して欲しいな、って思ってる」
 ママは、私を諭し、写真を片付け始めた。
 私は、黙って頷く。
「……さ、冷めないうちに食べましょう。なるべく残さないようにね」
 それ以後の食事は、まともに箸が進まなかった。
 様々な思いが、私の頭の中を巡っていたからだ。
 私がパパに抱いていた思いは、間違いだったのだろうか。
 私の安穏とした生活は、果たして『当たり前』なのだろうか。
 そして、これから私がすべき事は――


「――傷の処置は、一通り終わりました。そのうち目を覚ますと思います。暫く寝かせておいてあげましょう」
 藤原家のリビング。
 気を失ったままの真琴をソファに寝かせて、明は怪我を診ていた。
 幸い、大した怪我は無く、どれも絆創膏で済む程度だ。
 明の言葉に、テーブルを囲んでいた一同――藤原とアリス、秋原に掘――は胸を撫で下ろす。
 アリスは、自責の涙で顔がボロボロである。
「お兄ちゃん……ごめんなさい……ボク……また……!」
 そして、藤原に必死に謝っていた。
 今回は、とうとう負傷者を出してしまったのだ。
 いくら謝っても、到底謝り切れない。
「もう良いって。同情の余地が有るし。……第一、謝るべきなのは俺じゃないだろ?」
 藤原は、そんなアリスの涙を拭っていた。
 付近から羨望の眼差しを感じるが、敢えて無視する。
「新谷さんは、望月さんによって、身体に傷を負いました。しかし、望月さんが負った心の傷も、同等の物ではないでしょうか? ……少なくとも、私はそう思いますよ」
 明も、アリスをフォローする。
 そして、全く手が付けられていない紅茶を、再び勧めた。
 少し落ち着いたのか、アリスはゆっくりとそれを飲む。
 楽しみにしていた筈なのに、およそ味と呼べる物を感じる事が出来なかった。
「等価交換と言ってな……」
 唐突に、秋原が口を開く。
 如何な内容でも口調は真面目だが、今回は特に真剣な雰囲気だ。
「何かを得るには、何かを捨てなければならない。同様に、何かを守るには、何かを傷付けなければならんのかもな……」
「じゃあ、これからも新谷さんを傷付け続けるの!? そんなの嫌だよ!」
 秋原の話に、アリスは激しく反発した。
 自分や家族の為とは言え、そんな事は出来ない。
 これ以上、自分の所為で誰かが傷つく事には耐えられない。
 きっと、まだ、何らかの方法が残っている筈だ。
 絶対に、誰かを傷付ける手段だけは選びたくない。
「ふっ……ならば、相応の努力が必要であろうな。魔女っ娘アニメは、正体がバレたら最終回を迎えねばならん。これは、触手攻めと並ぶ暗黙の了解だ。誰にも覆す事は出来ん」
「結局それか……」
 秋原の言葉に、藤原は溜め息を吐いた。
 珍しく真面目な話をしていると思えば、最後にはこれである。
 耳を傾けた自分に、改めて自己嫌悪を抱いてしまう。
「まあ、そう言ってくれるな。そうでなくとも今回の俺達の出番は少ないのだ。今のうちに喋らねば、本当に後半の台詞が一行のみになってしまうであろう」
 『俺達』に反応し、堀が何か喋ろうとした時、
「ん……んんっ……」
 真琴が小さく声を上げた。
「もうすぐ起きそうだ。アリス、一旦部屋から出ていけ」
「え……何で?」
「真琴が、興味本意だけで俺達を追い回したとは思えない。だから、じっくりと話を聞きたいと思う。あんな事の後だ。お前が居たら話し難いだろ。秋原や堀も、居ない方が良いな。大勢の前じゃ言い辛いだろうし」
「うん……」
 藤原の言葉に、アリスは何度も真琴を気に掛けながら部屋を出ていく。
「やはりな……行くぞ、堀」
 秋原も――何か言いたげな堀を半ば強引に連れて――出ていった。
 部屋には、藤原と明と真琴の三人だけになる。
 それと同時に、真琴が目を開けた。
「あれ……私‥…?」
 目が虚ろなまま、上体を起こす。
 どうやら、まだ現状が飲み込めないらしい。
「目を覚ましたか……心配したぞ」
「大丈夫ですか? 痛む所は在りませんか?」
 藤原と明は、あくまでも優しく対応した。
 自分が最も解っているであろう罪を、これ以上責めても意味が無い。
 冷静に事情を話して貰う為にも、無意味に刺激する事は避けなければ。
「……そうでした……私は……私は……!」
 手や脚の絆創膏に気付いて、真琴は現状を理解した。
 アリスと藤原を尾行して、大変な物を見てしまって、当然の報いを受けて……。
 自分の悪行を改めて思い出すと、急に目頭が熱くなってくる。
 猛烈な罪悪感と自責の念が、そうさせているのだろう。
 少なくとも、決して傷の痛みではなかった。
 何か喋ろうとすると、涙が溢れてしまいそうだ。
 それでも無理矢理口を開くと、案の定次々と涙が伝い始める。
 一度湧出した涙は、思う様には止まってくれない。
 人前だと言うのに、とうとう嗚咽まで上げて泣き出してしまった。
「やれやれ……『そっちの傷』は重傷みたいだな」
 藤原は、そんな真琴にハンカチを渡し、頭をそっと撫でてやる。
 ドアの向こうから、男性一人分の『声にならない声』が聞こえるが、無視した。
「紅茶はいかがですか? 気分が落ち着きますよ」
 答えを聞かずに、明はキッチンへ向かった。
 止め処なく溢れる涙をハンカチで抑えている真琴を見て、藤原は確信する。
 ――絶対に、只の興味本意じゃない。
 自分のしてしまった事を、これ程後悔しているのだ。
 責任を他人に擦り付ける様な、責任すら自覚しない様な下衆とは違う。
 彼女は間違いなく、自分の知っている『新谷真琴』だ。
 恐らく、何かしらの発端が在るのだろう。
 如何な時間を掛けても、何としても、それを聞き出さなければ。
 真琴の為に、そして、アリスの為にも。


 紅茶が冷め切った頃、ようやく真琴は落ち着き始めた。
 ハンカチを藤原に返すと、小さな声で洗面所の場所を尋ねる。
 藤原が答えると、真琴は洗面所に向かった。
 そして、それ程掛からずに戻って来る。
 顔を洗った様だが、泣いた後はまだ残っていた。
 色々と覚悟が出来たのか、再びソファに座る。
「もう、大丈夫か?」
 藤原が尋ねると、真琴は小さく頷いた。
 涙こそ止まったが、まだ表情は曇っている。
 声を殆ど出さないのも、また泣き出しそうな気がするからだろう。
「初めまして。メイドの西口明と申します。光様の御両親が海外赴任の間、この家の事を任されました。不束者ですが、以後よろしくお願いします」
 真琴の様子を見計らって、明は自己紹介をする。
 まだ驚きを隠せないらしく、真琴は怖々と頭を下げた。
「ま、普通は驚くだろうな……。取り敢えず、そう言う訳なんだ。本題に入りたいから、ひとまず今は納得してくれ」
 そんな真琴を半ば強引に納得させ、藤原は続ける。
「まず……明さんを、撮ったか?」
 藤原の質問に、真琴は小さく頷いた。
 そうか……と藤原は呟き、更に続ける。
「じゃあ、アリスの……その……何て言うか……」
「魔法……スね?」
 藤原が言葉を選んでいるうちに、真琴が小さく言う。
 その言葉で全てを確認出来た藤原は、只溜め息を吐いた。
「撮ってないっスから……大丈夫っス……」
 真琴は、再び小さく呟く。
 撮ったか否かの問題ではない事は、真琴も十分承知していた。
「……こんな筈じゃ……なかったっス……」
 著しくトーンが低い声で、真琴は細々と話し始めた。
 普段の真琴からは想像も出来ない程の声だが、二人は黙って耳を傾ける。
「私は……只……望月さんと……藤原先輩の関係が気になって……。背徳的な……行為なのは……判って……いたっス……。
でも……私は……好奇心に……負けて……しまったっス……」
 何度も言葉を詰まらせながら、真琴はゆっくりと話した。
 段々顔が俯き始め、比例するかの様に涙声になってくる。
「でも! あんな事になるなんて、本当に思わなかったっス! 望月さんを傷付けるつもりなんて……本当に……本当に……!」
 急に、真琴の声が強くなった。
 何の言い訳にもならない事は、本人が一番判っている。
 それでも、自分の中の防衛本能が、自然と口を動かしていた。
 言ってしまってから、真琴は更なる自己嫌悪の深みに沈む。
 ――どうして、この期に及んで自己弁護なんて……!
 早足で『理想』から遠ざかっている自分を悟ると、冷め始めたばかりの目頭が再び熱せられる。
 一度目のそれと比べて、二度目のそれはいとも簡単に溢れ出した。
「お、おい!?」
 そんな真琴に、藤原は狼狽した。
 知らず知らずのうちに、きつい状況に置いてしまったのだろうか。
 話を聞きたいのに、これでは埒が明かない。
「無理なさらないで下さいね。冷めてしまいましたけど、紅茶はいかがですか?」
 明は動じる事無く、尚かつ優しく対応した。
 そんな二人の優しさに、真琴は尚更自己嫌悪に陥る。
 揺らぎ始めた『自分』が、自分の何もかもを否定的に捉えていた。
 ――きっと、こうやって二人に取り入ろうとしているんだ、私は。
 こうして弱い自分を見せていれば、相手に強く責められない事を知っているのだ。
 ジャーナリストとして『正義』を目指していた自分は、本当は只の狡猾な人間だったのだ。
 父を嫌っていたあの頃から変わらない、我が身が最も可愛い人間だったのだ。
 そう悟った途端、今までの『自分』が、音も立てずに崩れていった。
 自分が欲しかったのは、こんな『自分』じゃない。
 自分の『理想』は、揺るぎない信念を抱いて離さない、父の様な人だった筈だ。
 それが、今はどうだろう。
 上からの圧力に負け、己に負け、それでも尚傷付く事を恐れている。
 『理想』には遠く及ばない、矮小で低劣な人間ではないか。
 ――私は、何て醜いのだろう。何て醜いのだろう、私は。
 自己防衛の為の涙は、止まる気配を見せなかった。


「新谷さん……」
 リビングと廊下を隔てるドアに背を預けて、アリスは呟く。
 真琴の本音が垣間見える度に、胸の奥に刺す様な痛みを覚えた。
 ――新谷さんが、あんなに思い詰めていたなんて。
 自分は、何も解っていなかった。
 只怒りのみに任せて、彼女を心身共に傷付けてしまった。
 傷付けたのは、身体だけではなかったのだ。
「ふっ……どうする、アリス嬢? このままでは、真琴嬢は全てを受け入れられなくなってしまうが?」
「えっ……?」
 同じく廊下で話を聞いていた秋原が、アリスに話しかける。
 だが、アリスにはその意味を解する事が出来ない。
「真琴嬢とは、それなりに付き合いが長いのでな……。汚い事を何よりも嫌う事も、真っ直ぐ過ぎる程に真っ直ぐな性格である事も解っている。恐らく彼女は、許しを請おうとしている自分にさえも嫌気がさしている筈だ」
「そんな……!」
 秋原の言葉に、アリスは愕然となった。
 それでも、秋原は淡々と話を続ける。
「真っ直ぐなのも、度が過ぎると考え物だ。如何様な生き方をしても、潔白のまま生涯を閉じる事など有り得ん。自分で思っている以上に、『自分』とは醜い生き物だからな。例えば、一時の感情が理性をも凌駕する事は、先程の件で明らかであろう?」
「そ、そうだけど……」
「大抵の者は、『皆もそうだから』とか、『〜〜だから仕方無い』とか理由を付けて、自分を正当化する。素の自分を直接受け止めていては、身が持たんからな。……だが、真琴嬢は、それが極端に苦手だ。恐らく、理想が大き過ぎるのであろう。理想と現実のギャップには、誰もが苦しむ。真琴嬢なら、尚更の事だ。悪行を犯して尚、許しを請おうとしている『自分』に失望しても、不思議ではない」
「…………」
 アリスは、声すら出なかった。
 ――許して貰う事すら、新谷さんにとっては悪い事なの?
 そんな筈が無い。
 他人を傷付けずに生きられる程に器用な人間なんて、居ない。
 ――現に、ボクは……。
 数日前に起こした事件を思い出し、胸がチクリと痛む。
 今日の真琴や自分と同じく、一時の感情に全てを支配された事が原因だ。
 あの時は何もかも滅茶苦茶にしてしまって、皆に迷惑を掛けてしまった。
 ……でも、自分は許して貰えた。
 許して貰えたから、藤原達と、普通に接する事が出来る。
 そんな自分が、今、すべき事は……。
「アッキー、ボクは……」
「まあ、こう言う場合、当事者が最も良い案を思い付くものだ。アリス嬢が正しいと思うなら、俺は止めはせん。……早くした方が良い。自分を信じられなくなれば、他人も信じられなくなる。そうなれば、誰の声も届かなくなり……ふっ、これ以上は言うまでもあるまい」
「……ありがと、アッキー」
 秋原に背中を押されたアリスは、リビングと廊下を隔てるドアを開け放った。
「ふっ……手を貸すとするか」
 そう呟くと、秋原は携帯電話を手に取る。


 急にドアが開かれ、リビングに居る三人のうち、二人の目線がそこに集まる。
 そこに居たのは、背の低い、ダークブラウンのツインテールが特徴的な少女だった。
「あ、アリス……」
「ゴメン、お兄ちゃん。でも、ボクが居ないままじゃ、いけないと思うんだ。新谷さんがここまで苦しんでいるのは……ボクの所為なんだから」
 アリスが、自分に言い聞かせるかの様に言う。
 藤原は溜め息を吐いて、
「……ま、それもそうだな」
 入室を承諾した。
 アリスは部屋に入ってきて、大胆にも真琴の隣に座る。
 そこでようやく、真琴はアリスの存在に気付いた。
 顔が一気に青ざめ、ソファから立ち上がろうとするが、
「待って!」
 アリスの一喝で動きを止めた。
「……許して貰おうとする事って、そんなに悪い事なのかな? 新谷さんは、許して貰う事を、何か勘違いしているんじゃないのかな? ……許して貰うのって、簡単な事じゃないんだよ。許して貰えない時は、例え何をしても許して貰えない。言い訳したって、嘘泣きしたって……心から謝っても、許して貰えないかも知れない。許して貰うって言うのは、相手に信じて貰う事なんだから。そして、許して貰う以上、やるべき事はやらなきゃいけないんだよ。……ちゃんと、しっかり話してくれる?」
 アリスは優しく、かつ謹厳とした態度で真琴に話した。
「で、でも、私は……」
 だが、真琴はなかなか口を開こうとはしなかった。
 それでも、アリスは強く責めようとはしない。
 一昨日、自分が明や藤原にそうされた様に。
「……さっきはゴメンね、殴っちゃって。新谷さんも傷付いてるって事も知らずに……ボクは……」
「そ、そんな事無いっス! 望月さんが謝る必要なんて……!」
 頭を下げるアリスを、真琴は必死に庇った。
「じゃあ、ボクも新谷さんを許すよ」
「えっ……?」
 躊躇い無く言ったアリスに、真琴は唖然となる。
 当のアリスは、当然と言った表情だ。
「新谷さん自身が一番自分を責めてるみたいだし、ボクはもう良いよ。お兄ちゃんが信頼する人なら、ボクも信じられるし。この件は……え〜と……『暖簾分け』って事で」
「……『痛み分け』?」
 藤原と明が、同時に言った。
 アリスが特に気にする様子は無い。
「どうして……私を庇おうとするっスか?校内を案内した人が、一緒に昼食を食べた人が、裏切ったんスよ? 藤原先輩だって……私は……」
 真琴が、震える声で尋ねる。
「ボクは、今まで何度も許して貰ったから。十年前に、ウソを吐く事を許して貰えた。八年前に、魔術師である事を受け入れて貰えた。そして一昨日、自制の利かなかった自分を許して貰えた。だから、ボクは新谷さんを許してあげたい。……いや、許さなきゃいけないんだよ。そして、その為には、どうしてこうなったのかを知らないとダメなんだ。でないと、また同じ事が起こるかも知れない。また……傷つけ合っちゃうかも知れない。そんなの、ボクは嫌だもん」
 そんな真琴に、アリスは微笑んで答えた。
 アリスに続く様に、
「何か裏が在るんだろ? 正直に言ったらどうだ?許すにせよ、許さないにせよ、理由くらい言う義務があるんじゃないか?」
 藤原が凛然と言った。
 暫くの静寂の後、真琴は小さく頷く。
「私は……パパの様な……仕事を……したかったっス……。何よりも……正義を重んじる……パパの様な……命懸けで……戦争の醜さを……伝えようとしている……パパの……。だから私は……記者として……正義を……貫きたかったっス……。剣よりも強いペンで……私も……パパの様に……なりたかったっス……。新聞部は……その一環だったっス……。でも……入部して……気付いてしまったっス……。道徳的な『正義』とは別の……集団の中の『正義』に……」
「裏新聞……だな」
 真琴の話で、藤原は大体を察した。
 真琴は、小さく頷く。
「裏……新聞?」
 最近来たばかりの二人が、ほぼ同時に尋ねた。
「新聞部の悪趣味な連中が書いてる、プライバシーもへったくれも無い新聞だ。先生が目を通す新聞は、それを誤魔化すカモフラージュと言っても言い過ぎじゃない。同じく悪趣味な連中の需要が高いから、部費の大半をそれで稼いでいるらしい」
 そんな二人に、藤原は簡単に説明した。
「詳しいね、お兄ちゃん……もしかして」
「まさか。秋原から聞いたんだ。あいつの情報網は広いからな」
 補足を加えると、藤原は真琴に続きを促す。
 真琴は小さく頷くと、更に話を続けた。
「自分で言うのも何スけど……私‥…部員では優秀な方っス。少なくとも……部長に気に入られたのは……間違いないっス。だから……裏新聞を書くメンバーに……誘われたっス。丁重に断ったスけど……だけど……。……私だけっス。今まで……部長の誘いを……断ったのは……。他の部員は……不本意でも……部長には逆らえないっス。それが……団体の中での『正義』っスから。……でも……私は……納得出来ないっス。他人を陥れる様な『正義』なんて……」
 そこまで言って、真琴は一息吐く。
 今日だって、部長に誘われて断った。
 弱者を守るのが『正義』の筈だ。
 真逆のベクトルに在る『正義』などに、手を貸せる訳が無い。
「そんな私っスから……部には快く思わない人も居るみたいっす。部室に居る時に……直接聞く訳じゃ無いっスけど……確かに感じるっス。『良い子ぶりやがって』『ちょっと成果出しただけで調子乗るな』『部の和を乱すなよ……』『正義の味方のつもりか?』『やる気無いなら辞めちまえ』……それでも……私は考えを曲げなかったっス。後ろ指を指されても……気付かない振りをしたっス。『正義』たるもの……少々の弾圧で挫ける訳には……いかないっスから。……あっと言う間でしたね。それが……崩れたのは。もしかしたら……知らないうちに……色々と限界が来ていたのかも……知れないっス。好奇心に駆られた自分を……止められないなんて……。……もう……解ったっスよね? 私は、正義でも何でもなかったっス。途中で投げ出すのは……何もしなかったのと……大して変わらないっスから」
 一通り話し終えると、真琴は自嘲気味に溜め息を吐いた。
 改めて、自分の偽善者振りが良く判る。
 上からの圧力、横からの重圧、自分の中の弱い心。
 それらに決して屈しないのが、本来の『正義』の筈なのに。
 自分は、それらに負けてしまった。
 偽りの正義なのだから、当然なのだろう。
 それでも、ショックだった。
 今まで拠所にしていた『正義』が無くなれば、自分は何をすれば良い?
 全てを失った自分は、何の為に生きれば良い?
 丸腰で外に放り出された様な虚無感が、真琴を襲った。
「もう……諦めてしまうんですか?」
「え……?」
 明の一言に、真琴は怪訝な表情を浮かべる。
「一度挫けただけで、立ち上がれなくなる程度の信念だったんですか? 本当に貫きたい信念なら、たとえ何度地を嘗めても、その度に立ち上がる筈です。簡単に手が届かないから『理想』……私は、そう思います」
 諭す様に話す明に、真琴は何も言えなかった。
 更に明は続ける。
「貴女の信念は、これからじゃないですか。何度膝を付いても、立ち上がれなくなるまで戦い続ける……それが、本当の『正義』だと思いますよ」
「でも、私はきっと……また膝を付くっス。一度諦める癖が付いたら、そうそう直らないっスから」
 真琴は、自嘲気味に反論した。
 もう、真琴には自信が無かった。
 また同じ様に、圧力や負の心に負けてしまいそうな気がして。
 そんな未来が、目を閉じたら浮かんでくる気がして。
 明の話を続ける様に、アリスが口を開いた。
「新谷さんは、今まで一人で頑張ってきたんだよね?物理的には皆で居ても……心は一人だったんだよね。だったら、もう大丈夫だよ。もう、新谷さんは独りじゃないもん。今まで、その事を誰にも言えなかったんでしょ?それを言えたなら、きっと何かが変わるよ。ボクもそうだったし……ね」
 そう言って、アリスは藤原の方を見る。
 藤原は、照れ臭そうに目を逸らした。
「ま、新聞部は、かなり上下関係が厳しいらしいからな。寧ろ、真琴は長く持った方じゃないのか? 早い奴は一月持たないらしいし……。折角そ今まで頑張ったんだから、もう一度くらい頑張ってみたらどうだ?俺や秋原や堀は、お前の味方だ。アリスもそうだろ? 流石に、余所の部に出しゃばった事は出来ないけど、後ろ盾くらいにはなれるぞ。一人で出来ない事も、誰かが手を貸せば、どうにかなるかも知れない」
 藤原も続ける様に言い、とうとう三人掛かりになった。
 三人の言葉が、真琴の中で何度も繰り返される。
 自分は、もう一度『正義』の為に立ち上がれるだろうか。
 彼らが支えてくれるなら、もう一度頑張れるだろうか。
 その答えが出るのに、それ程時間は掛からなかった。
 今までは、ずっと一人で『正義』を叫んできた。
 だが、一人では何かと限界がある。
 支えがない、求められてもいない『正義』に、大きな力は無い。
 しかし、今、自分は支えられようとしている。
 『正義』を叫ぶ事を、求められようとしている。
 ならば、もう、迷う理由は無い。
「私が貫くべき『正義』は……これっス」
 そう言うと、真琴はデジカメのデータを消去した。
 ――これで、良いっス。
 自分が貫くべき『正義』は、道徳的な物でも、団体の中での物でもない。
 自分が信じた、自分だけの『正義』だ。
 何を以てしても揺らぐ事の無い、自分自身だ。
「望月さん、藤原先輩、明さん、本当にすみませんでした。……そして、本当にありがとうございました。私、ようやく『正義』を見付ける事が出来たっス」
 真琴はソファから立ち上がると、深々と頭を下げる。
「そうですか……。信念を貫く事は、決して容易ではありません。四方八方からの弾圧にも、貴女は耐えられますか?」
「はいっ! 求める声が在る限り、最後に必ず正義は勝つっス!」
 威勢良く返事をしながら上げた顔には、屈託の無い笑顔が戻っていた。


「もしもし。俺だ。――そうか。取り込み中に済まんな。――あの真琴嬢が、新聞部部長の魔の手に狙われているのだ。――ああ。部員に電話で直接聞いたのだから、間違い無かろう。――その心配は無い。彼女はもう……独りで悩む必要が無いからな。――うむ。無論そのつもりだ。真琴嬢の為とあらば、皆も躊躇うまい。お前に頼みたいのは――ああ、そうだ。新聞にエッセーを載せているお前なら、発言力も強かろう。俺は、現美研の連中に協力を要請する。新聞部の返答次第では、強硬手段も辞さん。かの新聞部も、流石に将棋部・文芸部・現美研・プラスアルファの圧力には耐えられまい。――ふっ、こう言う労力は惜しまん。彼女の苦悩を見抜けなかった俺にも、責任の一端は有る。――判った。詳しくは追々話そう。彼女のペンを握る手、汚すわけにはいかんからな。頼んだぞ……棗よ」


「じゃあ、私はそろそろ帰るっス」
 真琴の涙も乾いた頃。藤原家の玄関。
 真琴は色々と吹っ切れたらしく、すっかり笑顔が戻っていた。
 その手には、明のデータを消去したデジカメが有る。
 アリスの膨れっ面の写真は、彼女だけが知る秘め事だ。
「そう言えば、鞄はどうするの、マコちゃん?」
「そうっスね……特に大事な物も入れてませんし……。……マコちゃん?」
 自分の名前である事に気付き、真琴が尋ねる。
 アリスは頬を紅く染めて、少し俯いて上目遣いで見つめて、
「真琴だから、マコちゃんなんだけど……。
その……ぼ、ボク達……もう、友達……だよね……?」
 指をモジモジさせながら尋ねた。
 その仕草に、真琴は一気に興奮し、
「も、もちろんっス! 全然OKっス!」
 迷わず即答した。
「あ、あの……その代わりと言っては何ですけど……私だけが望月さんや藤原先輩の秘密を知っているのもなんですし……その……私の秘密を……聞いて欲しいっス……」
 そして、少し躊躇いつつも、話を始める。
「私‥…小さい子供が好きっス。普通の人の『好き』よりも、きっと、ずっと。だから……その……え〜と……何と言うべきか……」
 真琴は暫く悩み、覚悟を決めると、何度か深呼吸をした。
「私、望月さんが大好きっス!」
「え……ええええええぇぇぇっ!!!?」
 唐突過ぎる真琴の告白に、アリスは驚きを隠せなかった。
 初めての体験に、アリスの頭の中で、得体の知れない何かがグルグルと廻る。
「で、でも、ボク、子供じゃないよ!?」
 パニックになりつつも、アリスは必死に否定した。
 が、
「年齢はそうかも知れないっスけど……」
 そう言いながら、真琴はアリスの頭に手を乗せる。
 十五センチ以上も身長差があるので、子供が宥められている様に見えてしまう。
「こんなに身長が低いし……」
 そう言って、今度はアリスの胸を触る。
 高校生の女性にしては、全くと言って良い程膨らんでいなかった。
「胸も全然っス♪」
「な、何するんだよ!?」
 嬉しそうに言う真琴に、アリスは思わず紅潮して後退る。
「くぁ―――――! 真っ赤になった望月さんも可愛いっス!」
 しかし、そんな仕草すらも、真琴を発狂させる要素になってしまうらしい。
 理性を失った真琴が、少しずつアリスに歩み寄る。
 アリスの目の前に立つと、姿勢を低くして同じ目線になる。
「えっ……な、何……?」
 アリスの側頭に両手を添え、動かないように固定する。
「まさか!? だ、ダメだよ! ボクには――!」
 アリスの言葉を無視して、真琴は彼女の額にそっと口付けをした。
 その瞬間、二人の周りに、百合の花が咲き乱れる。
 未知の世界を垣間見たアリスは、その場で固まる。
 真琴は数歩下がり、
「じゃあ、また明日っス♪」
 弾んだ声で言い、軽快な足取りで駆けていった。
 アリスは暫く、その場で立ち尽くす。
 そして、ゆっくりと藤原の許へと歩み寄った。
 顔は、既に半泣きだ。
 それを隠す様にして、アリスは藤原の胸に顔を埋める。
 細い腕を背中に回して、ギュッと抱き付いた。
「お兄ちゃん……ボク……ボク……!」
「判ったから皆まで言うな」
 藤原も流石に哀れに思ったらしく、素直に抱き付かれた。
 だがそれ以上に、アリスが自分の力で友達を作る事が出来た事が、嬉しかった。
 昔は、只々自分の後を付いてくるだけだったからだ。
 普通の人ではないとは言え、助力無しで対人関係を築けないのは、色々と厳しい。
 そんなアリスが、確かに一人で歩き始めたのだ。
 どうやら、もう、只の甘えたがりではないらしい。
 もちろん、当のアリスはそれどころではないが。
「一段落つきましたし、紅茶はいかがですか? 望月さんも元気になられた様ですし、お茶菓子も出しますよ」
「うんっ♪」
 だが、明の提案によって、一瞬で回復した。
 ――やっぱり、まだまだ子供か……。
 藤原は、安堵にも似た溜め息を吐いた。
 八年ぶりの土地で得た友達は、アリスに何をもたらすのだろうか。
 少なくとも、それは決して安穏な物ではないだろう。


「百合か……ふっ、それも悪くない。だが、魔女っ娘はキリシタンではないであろうな……」
「…………」
「……どうしたのだ、堀よ?」
「後半の僕は……出オチ扱いですか……」
「ふっ……何を言い出すかと思えば。お前は、素晴らしい物を得たではないか」
「えっ……?」
「地味キャラと言う、不動のポジションだ」
「……そう……ですか……」
2006/01/27(Fri)21:12:41 公開 / 月明 光
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■作者からのメッセージ
甘木さんと京雅さんに指摘されたので、真琴の言動に納得して貰える様に頑張ってみました。
早い話が加筆です。
そろそろ編集画面が重くて仕方無いので、これで決めてしまいたいですね。
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