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『―アヤカシ― 第二部 其の三【一】』 作者:渡来人 / ファンタジー リアル・現代
全角96674.5文字
容量193349 bytes
原稿用紙約303枚
主人公、黒岸大悟は日々世の中の異形を倒す日々が続く。そして、ひょんな戦闘で左腕を失ってしまった。それを創ってもらいに秋田まで来たのはいいが、其処でもやはり厄介ごとに絡まれてばかりでどうなってしまうのか。
 



 ぷるるるるるる、という機械音で彼女は目覚めた。どうやら携帯が鳴っているらしい。アタシにかけてくるとは物珍しげな奴も居るものだ、などと朧げな思考を動かし考えた。
ベッドの中から手を伸ばし、携帯を取る。煩い音はまだ鳴り止まずに鳴り続ける。鬱陶しいので誰かを確認もせずに出ることにした。
『おっはよー! 元気? 私は元気だよ!』
 一瞬で右手の指が通話を切ろうと動く。それを解かっていたかのように、電話の向こうの女性は止めた。
『冗談だよ、本気にしないでって〜』
 ふざけた口調、徹底的までに天然の入ったそれは彼女の良く知る人物のモノのようだ。
「……なにか用か、真由」
 電話の向こうの女性――帯白真由という彼女の友人。
 通話するのも久方振りで、本当に懐かしい。
『うん、えっとね……今日多分そっちに少年が行くわ。黒岸大悟っていうの。左手の義手を作ってやって欲しいんだけど』
「面倒くさい」
 と押しの一言で逃げ切ろうとする。しかし、それをさせるほど帯白真由という人間は出来ない人間ではないようだ。一瞬で電話越しでも解るような威圧感で圧してくる。
 無言だが、それだけで彼女は解ったらしい。諦めたように首を振った。
「解ったよ、真由。お前の頼みじゃ断りきれないしな。で、何時来るか解るか?」
 ぜんぜん、と全く悪気無しに語る。
 ……蹴り飛ばしてぇ。
『じゃあねぇ、佳奈子。ご苦労様ー』
「あ、ちょっとま……」
 切りやがった。ぱちん、と携帯をスライドさせ、縮小させる。
 彼女は鎖骨ほどまで伸びている髪を掻き揚げてベッドから這い出る。時計を見てみた。五時五十分、いつもならば熟睡している時間帯だろう。起きても二度寝している時間だ。しかしながら、今日は何故か眠くならない。仕方が無いので起きることにしてカーテンを開く。
 爽やかな朝の光――はそれ程無く、木々の合間からもあまり日光は注いでこない。十月の終りともなれば朝というものはこんなものか……。と彼女は洋箪笥を開ける。
 上から下まで漆黒の服を着て、伊達の眼鏡を掛ける。眠たげな瞳。色は墨を塗りこんだように黒い。顔の輪郭ははっきりとしており、厳かな雰囲気を少しばかり漂わせる。しかし、何処かしらゆったりと流れる川の如く。微妙な印象を持たせてくれる雰囲気だ。
「黒岸大悟、か」
 彼女は一人呟く。
 真由が気にかけている人間なのだろう。長い付き合いだ、言動だけでも十分にそれは解った。左手の義手と言ったか。何故そのように為ったのか、理由を訊く前に切られてしまったしな……如何いうことだろうか。あの女の事だ、きっと破邪法師にでも仕立て上げてあるのだろう。じゃあ、それは妖にでもやられた傷か……。
 彼女はまだ朦朧としている思考をはっきりさせようと、部屋を出る。こんな朝は紅茶で眼を覚ますに限る。珈琲なんて外道だ、というのが彼女の後世まで受け継がれる言葉だろう。それ程紅茶に愛情を注いでいるということがはっきりと解る。
「ふぅん……しかし、実物を視てみないと何とも言えないな」
 実力も測ってみたい。
 ……それだったら大生(おおう)を呼んだ方が良いだろうか……いや、アキだけでも十分に事足りることだろう。危ない状況になったらアタシが出れば良いだけの話だ……。
 そう考えて彼女は――神檻佳奈子という人形師は、部屋の扉に手を掛けて、にやりと微笑った。






 妖 -アヤカシ- 第二部


 其の一



 一




 午前六時、いつものように眼を覚ます。布団から這い出て窓に掛かっている布を除け、外を見渡す。勿論此処からは木々しか見えない。山奥ともなれば当然のことだろう。日光はそれ程射し込んで来ない。もう冬へ入ろうとしている頃だ、別に不思議ではない。ん〜、と背伸びをして体をしゃっきりとさせる。ばきぼき、と豪快な骨の音が鳴り響き、少しばかり動きやすくなった。
 私は部屋を出て、さらに外へと出る。
「ふぅ……」
 心地良いくらいの寒さが私の体を震わせる。やはり眠気覚ましには外に出て空気を吸うのが一番良いな、などと思いながらも地面に積もっている落ち葉を踏み鳴らす。朝の寒い空気が私の鼻を通り肺へと抜け落ちる。
 はぁ、今日の朝は特に目覚めが良かった。何か良いことがあるのかな……。私は何か気分が良くて踊りだしたくなった。……でも、流石にしないよ? 周りには人は居ない。ってかこんな所に居たら此方がビックリする。何度もいうが此処は山の中。外への道は整備されているが、それでも此処まで来る人は稀だ。ある人を除いては……。
 ……何を考えてるんだろう。
 別に思ったって来てくれる訳じゃないのに。
しかも、この一年間、ろくに会ってもないじゃないか。
「あーあ、戻って紅茶でも作りますか……」
 つまらない独り言を呟いて、私は家の方向へと歩く。といってもそれ程動いていないのですぐに着くことだろう。十m程だし。視界に入る古いベルギーの家のような建築物は屋根の上には煙突を、家の周りに木のテーブルと椅子が設置されている。
 此処で紅茶を飲んだり本を読んだり、色々と安らげるようになっている。こんな所に居たって携帯は使えるし、TVだって観れる。此処には何か不思議な力でも宿っているのだろうか。だから、私は山暮らしだといって別に不満などは無い。不便じゃないし、慣れれば都会の生活よりも心地良い。
 家の扉を開ける。這入るとすぐに廊下が在り、奥には一つの扉。これが、居間と繋がっているのである。
 私が扉を開けると其処には見慣れた人影が。
「おはよう、アキ。いつにも無く早いな」
「神檻さんこそ早いですね、いつもならば八時まではぐっすりでしょうに」
 そうだろうな、と言ってその人影――神檻佳奈子さんは部屋の中央に置かれたソファに座る。まだ寝起きな所為か、立ち振る舞いが何処か抜けている。柄にも無い早起きをするからだ、と私は一人で笑い、台所へと脚を進めた。棚から紅茶の茶葉を取り出し、淹れる。朝からこれをするのが私の日課になっていて、いつもならば一人分しか作らない。しかし、今日は神檻さんが居るため二人分は淹れなければならないようだ。手馴れた無駄の無い動作でお湯を沸かし、ポットを用意し、そして淹れる。立ち昇るこの香りも楽しみの一つだなぁ、と一人満足してみる。
 そして出来上がった紅茶を居間まで持って行き、カップへと注ぐ。鮮やかな水色は見た目からして楽しませてくれる。うん、やっぱり紅茶の醍醐味はここから始まるね。
 少しばかり口に含む。芳醇な香りは頭を覚まし、濃厚な味は体の活動を活性化させる。一日を活きる気力はこれから湧いてくるに違いない。現代の若者は……全く、紅茶も飲まずしてどうやって一日を過ごすのか。TV観る暇が在るのならばポーションタイプでも良いから牛乳に淹れて飲めってんだ。
 私がくだらない事を考えている頃に神檻さんは紅茶を飲み終えてしまったらしい。もう少しゆったり飲んでも良いのになぁ。
「悪い、アキ。今日は少しばかり仕事が在るんでな」
 それならば仕方が無いと割り切って、私はまた紅茶を口に運んだ。
 時、程無くして七時になる。
 私は紅茶をごくり、と飲み干してから再度、台所へと向かう。朝食を作って食べてしまおう。神檻さんの分も作ってさし入れに行かなければならないし。
 さて、じゃ、クッキングと洒落込みますか。


 七時十二分。料理が出来上がる。神檻さんの仕事場、アトリエへ。別にアトリエと言っても家のすぐ後ろに在るし家からはほとんど繋がっているようなものだから移動には困らない。食事である和食を運ぶ。ご飯、味噌汁、アジの開き。うん、今回は結構上手に出来た。自分でも満足。
「朝食が出来ましたよ、神檻さん」
 少し遅れて返事が来る。
「今開ける」
 また少し間が空いて扉が開き、神檻さんが出て来る。上下共に黒の服の上にまた、白衣を着ている。今度は何を創っていたのだろうか、興味がある。
 神檻さんは人形師である。しかもそんじょそこらの人形を創る輩どもなどではない、創った人形を動かせるのだ。しかしながら、弦(いと)は要るらしく、視得ない弦を使っているらしい。弦を指の先につけて操るのだろうか、私はその妙技をいまだ見たことが無い。一回ぐらい見せてくれても良いのにな……。
 アトリエの中に這入る。其処には色々な人形があった。人間型の物から、得体の知れない型のモノまで多種多様である。これだけ創っているのにこのアトリエが溢れ返らないのは不思議でならない。
 端に置いてある机に朝食を置いた。ふと見やると造形の絵が在る。多分、次に何を創るのかを決めていたのだろう。其処には人間の左手だと思われるものが書いてあった。
「なんですか、これ」
 私は指でさしながら訊く。
「ああ、それかい。アタシの新たなる仕事だよ。今回は知人の依頼でね。早急に決めなくてはいけないんだ。まぁ、造形は後でも別に良いんだが……」
「ふぅん、その知人とやらに何を創ってあげるんですか?」
「何、詰まらんものさ……」
 はむ、と口にご飯を詰める。この人形だらけの部屋で食事を普通に食べるなんて相も変わらず並外れた神経してるなぁ。此処には気味の悪い人形も在るのに。
「気味の悪い人形とはなんだ。芸術を解らんのか」
「え、やだなぁ、気味の悪くて得体の知れないモノなんて思ってませんよ」
「そうかな? いま少し小言で喋っていたぞ?」
 ……マジ? 非常にヤバイ、逃げ出したい気分だ。
 私は顔が驚きの表情を作っているだろうことを一瞬で察知できた。それ程に心臓は高鳴り、体は固まって顔は強張っていると解るほどだったからだ。
「はっはっは、すぐに顔に出るな、アキは」
 …………。
 今の言葉から察するに、さっきの言動はただのハッタリ。また騙られた……! 悔しい、この人にはいつもいつもやられてばっかりだ。一回ぐらいは仕返しをしてやりたいものだ。
 しかし、今のままでは論争で確実に負けてしまう。
 力を……言葉争いに負けないくらいの力を……!
「食事作りませんよ」
「悪かった、失礼した、ごめん」
 祈りは通じたか、この一言で論争は私の勝ちとなる。うぃなー。
 では、と私はアトリエを後にする。朝食を食べていないので早く食べなくては。今の時刻は七時三十分。ご飯が冷めていないかが心配だ。自然と速足になる。
 扉を開けてその先に在るのはご飯。……うん、まだ冷めてない。それじゃあ、いただきます。
 黙って、黙々とご飯を咀嚼する。うん、やっぱり今回は良い出来だ。
「はぁ、暇だなぁ……」
 お箸をかたん、と食べ終わって空になった茶碗の上に置く。味噌汁を飲んで一息つく。また、外に行って空気でも吸おうかな、などと考えた。どうせ今の時間、TVなんて面白いものはやっていない。時計を見てみれば七時三十分を超えている。……まだ、朝の空気は吸えるな。
 私は食器類を台所へと運ぶ。別に洗うのは後でも出来る。どうせ神檻さんは昼まであそこから出ては来ないだろう。私は厚着もせずに外へ出る。
 柔らかな日差しが木の葉の合間から漏れて良い感じに明るい。自然の木々の匂いが体を駆け巡り、リフレッシュさせる。成程、森林浴とは言ったものだ。確かに快い空気に包まれて、浮遊感が残る。深呼吸をして、さらに快感を得ようとする。……うん、やっぱり今日は良い一日になりそうだ。
 私は家の前に在る椅子に腰掛ける。……なんだか眠たくなってきたぞ……。

「……何をやってるのかな?」
 
 深い深いまどろみ、それはある人物の一言によって掻き消される。ばっ、とテーブルから横っ飛びで離れて間合いを取る。しかし、その人物を見てから私は警戒を解いた。
「奈留髪(なるかみ)さん……」
 目の位置には下だけ黒で縁取られているハーフフレームの眼鏡。その奥の瞳には優しさに満ちており、柔らか。何処と無くおっとりとしている風貌。髪の毛は耳にも掛からないほどの乱雑に斬られたショートヘア、しかしそれが何とも似合っている。輪郭はぼやけているが存在していない訳ではない。紺のスーツを身に纏い背中にはリュックと、肩から腰まで掛かる程長い袋。何が入っているかは解らないけれど……。体格はがっちりとはしていない。
 これが私の知る限りの情報。
 目の前に居る男性――奈留髪大生の情報である。
「いやぁ、やっぱり此処へ来るまでは大変だ。車を降りてから実に三十分も歩いたよ」
 あっはっは、と微笑う奈留髪さん。
 本当に――懐かしい。
「秋楽(あきらく)さんも変わってないね。実に一年ぶり、懐かしいなぁ」
 ……呼び方も変わっていない。
「『さん』付けは止めてくださいといったでしょう? 『秋楽』か『登美(とみ)』、どちらかにしてください」
「ああ、これは失礼」
 秋楽、と言葉を繋げる。奈留髪さんの顔は柔らかに微笑っていて、いつも絶えない微笑みがそこにはある。私は反して顔がかぁっ、熱くなる。何度こう言っても、一度も呼んでくれなかった『秋楽』という、さん付けではない呼び方。うん、これは私を認めてくれたっていう証なのかなぁ?
 私は赤くなったと思われる顔が彼に見られないように、素早く彼に背を向けて俯いた。そして少しばかりの間を置いてから訊いてみる。
「なんでこんな所まで?」
「ん、いや、近くまで来たもんだし。一年ぶりとなったら普通来ない?」
 普通らしい。
 でも、素直に今は嬉しいけど。
 本当に久しぶり……。去年の夏、会ったきりだっけ。アレから一年と少しという歳月は奈留髪さんをさらに成長させたように見える。こう、雰囲気とか。雰囲気とか雰囲気とか。…………。
 いや、今は取り敢えず家に入れたほうが良いのだろう。
「まぁ、立ち話もなんです。どうぞ、紅茶でも淹れましょう」
 私は家の方向へと歩き出し、奈留髪さんを誘った。

 屋内、居間。端っこらへんには暖炉が設置されており、これは今も燃え上がっている。冬場はこれで部屋の温度を調節するのだ。下手なエアコンなどよりも風情があるし、暖かい。部屋の中央にはテーブルが置いてあってその両端にはソファが設置されている。部屋を出る扉は二つ、一つは神檻さんの寝室で、一つは廊下へと通じている。
 私は紅茶を淹れて、テーブルまで持っていく。
「ああ、有難う」
 私もテーブルを挟んで座った。まぁ、積もる話はこれからだ。お互い紅茶を一口含む。口の中で弄んで味わって――こくん、と喉に嚥下させる。なんとも言えぬなぁ。
「それで、何故こんな所まで?」
 私の問いに彼はむ、と顔をしかめて言った。
「だから、近くまで来たからって言っただろ」
「嘘つけ」
 う……。とたじろいで顔を掌で覆う。さらには左右に振ってかなりのオーバーリアクション。さて、去年からこんな大袈裟な人だったであろうか。
 ……ああ、図星見抜かれるとこういう動作したっけな。
「理由が無いとこんな所までは来ないでしょう」
「う〜ん、君は僕という人間を莫迦にしているのかい? 僕だって用も理由も無いのに友達の家にくらい行くさ」
 酷いなぁ、と最後に紅茶を口に運びながら答える。
 ……いや、莫迦にしてはいないけどさ……。
 こんな辺境の地だし、やっぱり来るのには普通理由が要るだろう。いや、それは私が考えているだけなのかもしれない。彼は本当に私や神檻さんに会いたくなったから来たかもしれないではないか。簡単にそんな事を言ってあげるなよ、私。彼に失礼極まりないぞ。
 私は謝ろうと手に持っていたティーカップを置いた。
 と同時にドアが開く。どうやらアトリエから神檻さんが戻ってきたようだ。完成したのかな、知人からの依頼の品は。いや、いくらなんでも早すぎるか。
 白衣は着ておらず、眠たそうな瞳をしている。……寝てたのかっ!? よくよく見てみれば歩き方もなんとも覚束なくて、頼りない。
「ん、大生か。久しぶりだな」
 私の隣にぼすっ、と座る。
「『眼』の調子は?」
 何気ない一言なのだろう。しかし、その言葉は彼を不機嫌にさせたらしい。表情には表さないけど一気に空気が変わった。なんだか糸のように張り詰めている。
「イキナリの第一声がそれですか。その話題は止めてくれませんか?」
 ……『眼』ってなんだろう、知りたいな。
 神檻さんはその言葉を聞いて眼を細めた。
「アキ、少しの間外に出といてくれ。奈留髪と少しばかり話をしたい」
 えぇぇ! なんでだよぅ、紅茶だって飲み終えてないし、私もさっきの話を聞きたいしいいじゃない! 仲間はずれは無しですよーっ!
 子供のように拗ねる私に奈留髪さんは真剣な眼差しで懇願してきた。
「悪い、秋楽。僕も、すこしばかり話をしたい……」
 その眼差しに圧されてか、私は渋々と部屋を出ることに。……残念だ。残念至極。陰鬱になりそうな気持ちを抑えつつも外へ出て和もうとする。しかし何処からか湧き出る苛立ちを抑えられず、私は近くの樹に少しばかり八つ当たりをした。……なんでこんなに苛々してるんだろう。自分でも解らないや。はぁ、と嘆息しながらもう二発ほど樹を蹴り飛ばす。がしがし、と音が鳴って上から木の葉が舞い落ちた。
 それを見て精神を静めようと努力してみる。
 が、無理だった。やはりもう二発ほど樹を蹴って苛々を静めようとする。それも叶わずか、仕方が無いので今度は歩くことにした。道なき道をひた歩く。周りからは木々の囁きが、小鳥達の囀りが耳に入る。秋風が身に沁みて……今の私は詩人と化した。どうやら苛々も治まってきたらしい。
 私はもう少しこの景色に魅入っておく事にした。





 ――十一時。
「おー、此処が秋田かー!」
 航空機から降りての第一声がこれだった。彼は急ぎ足でフロントまで行って荷物を受取る。大きめの鞄に細長い鞘袋。どうやらこれが彼の荷物らしかった。あー、と背伸びをして一時間半ほどのフライトで凝った体を柔らかくする。ポケットから紙を出してそこに書かれている情報を脳内にインプット。
 そうして彼は歩き出した。
「さぁて、どう移動すっかな」
 目的地までは少し遠い。紙には電車で行く、と書かれているが別にタクシーでも行けない事は無いだろう。だが彼は敢えて電車のルートを取った。
「んじゃ、左手の代わりを創ってもらいに、一路人形師の許へ……ってか?」





         ◇          ◇            ◇




「取り敢えず何をしよう」
 私は昼食を作りながら思った。昼からは何も予定が無い、そろそろ食材が無くなってきたし下界に降りてショッピングに行くのもいいが私一人だと歩きで行くことになってしまう。此処にはバイクが一台在るだけなのだ。しかも私はバイクに乗れない。うーん、ダメもとで乗ってみて死んだら嫌だしな……。
 ああ、そうだ。奈留髪さんに乗せてってもらえばいいか。それならば、車だって下に在るだろう。後で頼んで見るのも悪くは無いな、と考えながら料理の手は止めない。
 かんかん、とおたまを叩きながら昼食用の炒飯が出来上がった。熱い内に持ってかないと……。あ、皿を出してなかった。私は急いで棚を調べる。
「皿ならこっちだよ」
 と、背後から声が掛かった。彼は柔らかな動作で皿を広げて、炒飯を均等に分けようとする。
「ああ、それ位は自分でしますよ」
 私が言うと彼は、それだと何だか申し訳ないだろう、と言って止めようともしない。じゅわー、と油が焼ける音がして卵と細かく刻まれた叉焼が混ざった米粒が皿の上へと纏めて落ちていく。
 手際良くそれを終らせて今度はテーブルまで持って行こうとする奈留髪さん。危なっかしいので今度こそ手伝うことに。流石に皿三つはキツイだろう。
「おーごくろう」
 神檻さんは一欠片の悪気も無くそんなことを言ってのける。
 ……動けよっ、そこで暇してるぐらいならばっ。
「はははは、悪いな、私も忙しいんだ」
 成程、この人の『忙しい』はテーブルの前でソファに座ってTVを見て馬鹿笑いしていることらしい。仕事ぐらいしろよ、といつも思う。さて、と一呼吸ついてから私もその隣に座ってスプーンを配る。奈留髪さんはさらに気を配ってお茶まで持ってきたみたいだ。ちったぁ、見習えよ。
 朝は何か二人で話し合っていたらしいが、どんな内容なんだろうか。でも訊いても教えてくれるとは思えない。私は取り敢えず興味を失くす事にした。
「ん、美味しい」
 と彼は驚いた。
 多分私が料理上手だとは思っていなかったのだろう。失礼な。
「しっかし、こんな所に住んでると何かと不便じゃないのかい?」
「そんな事もありませんよ、TVだって移る、水道だって使える、電気だって通ってますからね」
「あ、それは此処が特別なだけだから。普通こんな所に住んでたら電気なんざ来ないよ」
「失礼だな、大生。特別なんかじゃないぞ」
 神檻さんの反論に、彼は「特別でしょうが」とさらに反論。バトルは激化しそうな予感だったので私はそこで戦線離脱、取り敢えず冷めない内に炒飯を食すことに。油を吸った米粒はからり、と仕上がっていて尚且つぱらり、と米粒が離れている。やはりこの感触が私は大事だと思うのだ。一歩間違えば炒飯では無くなり、ピラフと化してしまう。そこの所の調整が難しいところなのだ。炒飯とピラフは別物なのだから。
 奈留髪さんは炒飯を食べながらも尚、神檻さんと戦っている。かなり粘りが強いようだ。神檻さんは料理に手をつけてすらいないほど熱中しているようだ。
 ……どんなバトルだよ……。
「大体ですね、こんな所に住んでいるのが解りませんね、僕には」
「解らなくて結構。アタシは此処に住みたいから住んでるんだよ。此処は空気が澄んでいるし、何より創作意欲が湧き上がる。その点でアタシは此処に住むことを決めたんだよ。それについては口出し無用だろう?」
 因みに下界にも家は在るはずだ。
 私はこの二人を放って置いて炒飯を食べ終える。食器を台所へ持っていって後で洗おうと心に決めて暫し其処で呆然と立っていることにした。後二、三分も経てば争いも収まるだろう。ならば、紅茶でも淹れておけば良いのではないだろうか……。うーん、ダメだ。今は何か気分じゃない。
 外に行くでもないし、やっぱり呆と立っておくことにするか。
「あー……」
 意味も無く口に出す。それ程暇だということだ。
 しょうがないので眼を瞑って物思いに耽ろう。
 ……もしかしたら、昔の記憶も戻るかもしれない。

 私には十歳以下の記憶が無い。何故だかは解らない、けど気がついた時には此処に居た。多分神檻さんに拾われたか何かなのだろう。当時の私はまだ幼くて、初めて見る景色に困惑していた気がする。それに手を妬く神檻さんの姿が眼に浮かぶようだ。其処で私の奇妙な生活が始まったんだなぁ、と再度と思う。
 十一歳の時は初めて奈留髪さんと会ったっけ。やっぱり紺のスーツを着込んでいて、今と違うところといえば髪型だろう。あの頃は右眼だけ眼が隠れるまで掛かる位だった。当時は眼鏡をかけていなかったな……。私の頭をぐしぐし、と乱暴に撫でていたっけ……。
 十二歳の時は特に無かったかな……。うん、多分特に無い。
 十三歳もいつも通りで。十四歳も十五歳も。
 そして十六歳で――。
「何をしているのかな」
「うひゃうぁ!」
 肩を叩かれた。
 な、何をするんだ! こっちは瞑想中だったのだ、その邪魔をしないでもらいたい。び、ビックリしたぁ……正直お化け屋敷よりもビックリしてしまった……。
 私はばくばく、と鳴る心臓を抑えて言う。
「冷蔵庫の食材を足さないといけないかな、と思っていたところです」
 私は冷蔵庫の中身を見せる。見事に酒以外何も無い。あれ、予想していた以上にヤバイ事態だ。夕飯すら作れるかどうかも解らない。即刻即断で買出しに行かなければ……。
「ん、確かに何も無い。しょうがない、僕が連れて行ってあげるよ」
「サンキューです」
「今からでも移動する?」
 あ……、と私は今更ながら着替えていないことに気付く。くっ、せめて外に出れるぐらいまでにはしないと……。廊下に這入り、途中の扉を開けて這入る。
 此処が私の部屋だ。布団が敷かれており、壁際には机が在る。後はクローゼットがこれがまた端っこに。私はクローゼットを開けて、服を選ぶ。オーケィ、こうなったら適当だ! 眼を瞑って右手で物を掴む。眼を開くと其処には紅の長袖。……こんなもんか。ジャケットでも羽織れば中々様になった姿だろう。下はこれも適当にジーンズと決めて穿く。
 最後に鏡を見て終了。其処には首筋辺りで乱雑に切り揃えられているショートヘアの漆黒の瞳の少女が。……ああ、自分で少女というのは少しばかり無理があるか……。ち、と舌打ちして即行で外へと出る。お金とかも忘れずに。
 外に出ると彼はもう待っていた。流石に何と言うか……行動が速い。
「来たね。んじゃ、行こうか」
「はい」
 と私は彼と共に歩き出した。

 家を出てから二十分を過ぎた。歩くのは三十分ほどだから、あと十分もあれば十二分に車に着ける。道は舗装こそされていないものの、歩き易い工夫はされていてそれ程動きにくくも無い。オフロードバイクとかならば簡単に突破できるだろう。神檻さんはそのバイクを使っているらしいけれど……。紅葉もそろそろ終わりとなってきて道中の木々は少し葉が無くて寂しい。家の周りはまだまだ紅葉なのになぁ……。やはり日差しは十分に射し込んではいるものの、風は少し冷たい。はー、と息を吐けば忽ち白く濁る。
「ねぇ、奈留髪さん。『眼』って何のことなんですか?」
 さり気無く気になっていた事を訊いてみる。簡単に話してはくれないと思うけれど、訊かないよりかは気分が晴れるだろう。しかし、私の予想と反してか程無くして返事が返ってくる。
「う〜ん……簡単に言うと『魔眼』なんだよね」
「はぁ?」
「やっぱり? 素っ頓狂な声上げないでくれよ」
 こいつ、言うに事欠いてくれるじゃねぇか。
 よりにもよって魔眼は無いだろう、魔眼は。
 漫画とかでしか見たことの無いモノを信じれるわけないじゃないか! 嘘をつくのならばもう少しまともな嘘を付け! そんなことじゃ、今時の子供は笑わないぞ!
「信じてないね。別に良いさ、僕はどっちでも良いからね」
「そりゃ、魔眼とか言われて信じる人はいませんよ。どこぞの漫画とか小説とかじゃあるまいし」
 だろうね、と苦笑しつつも反論はしなかった。
 自分でも在り得ないモノだと自覚していっているのかな。
 さておき。
 私は下界に降りて、奈留髪さんと買い物に行くのでした。
 
 蒼い車、円形のフォルム。これが奈留髪さんの車らしい。別に車のことには興味が無いのでこの車が買われたわけとか秘話とかは全く知りません、あしからず。
 その車の中、ラジオも何もかかっていない。仕方が無いので外を見ることに。奈留髪さんと話してて事故って死ぬのはまっぴらごめんだしね。
 いつもとは違う都会の町並み。人の行き来は多いとも少ないとも、どちらにも取れない状態だ。それはそうか、平日の昼下がり、学生達は学校だし、大人達は昼休みも終って仕事の真っ最中だろう。窓は開けているので外からは近くの学校の体育の授業の風景と声が聞こえてくる。そんな中、運転中の奈留髪さんはコッチを向いて喋りかけてくる。私、死にたくないよ? ……っと、信号待ちかよ。
「学校へ行きたいのか?」
「別に……教養は十分ですから」
 ふぅん、と行った口振りで彼は微笑う。
 こいつぁ、強敵だね。
 回避しようとさらに窓の外を見る。……誰だろうか?
 地面に鞄を置いて、肩には長い鞘袋。帽子の唾が眼の部分を隠して見えない。体つきはがっしりともしなやかとも言えない矮躯。腹を押さえているし、どうやらお腹が減っているみたいだ。少年はだるそうに、一片の紙を見ながらあちゃー、とか言ってそうな動作をしている。
「ん? どうしたの?」
「いえ、なんでも」
 と私は急に話し掛けてきた彼の言葉を軽くスルーして、信号待ちしていた車はランプが青になって動き出した。
 私はこの後も先程見た男の姿が眼に焼きついたままだった。見た感じは学生だ、しかも今は学校の時間帯のはず……謎が謎を呼ぶと解ってきたので私は其処で思考を止めて、奈留髪さんにつれて来てもらったスーパーへと脚を運んだ。
 
 

         ◇          ◇            ◇



 二

 彼は途方にくれていた。右にも左にも、食事をして休むところが無いのだ。これでは目的を果す前に餓死してしまう。それだけは避けたい、と彼は呟いた。
「兎にも角にも、何かを喰わないと物語にもお話にもなんねぇ……」
 その為には先ず動かないと。しかし動くと余計に腹が減る。しかし動かなければここで餓死するだけだ。いやまて、もしかしたら親切な人が来て俺に救いの手を……いや、無いな。それは無い。天地が引っ繰り返っても無い。ならば動くしかないだろう、食事所が在ることを祈るのみだ。
 彼はつまらない戯言を延々と繰り返した挙句に、この結論を出した。
「目的地に行きゃ何か在るかもしれんしな。さぁて、行きますか」
 歩き出す。
 しかし、山の方に尋ね人が居るなんてなぁ。おかげさまでコッチは大迷惑だぜ。左手は創らないといけないし……いっそのこと便利に俺をサイボーグ化とかさせてくんねぇかな。
 しかし、さっきの車。蒼の円形のフォルムが脳裏に焼きつくほど印象的だったな。中に乗っている人達も男女だったし、カップルか? ……どちらにしても、気になる二人組みだったな。
 彼は持ち前の視力の良さで、先程、車の中から観察していた人間のことを視認した。おちゃらけた態度の内にもこういう一面を日常に見せるのも、彼の特徴なのかもしれない。つまらない事は見逃さず、重要な事を見逃す。……駄目じゃん。彼は自分で思って自分で駄目押しをした。
 いつもこの位のペースで物事を考えたりしている。
「っと、スーパーかな……」
 前方に見える建物を見て、呟いた。でっかく看板が在って、其処には『マルオチ』というスーパー名が書いてある。……あそこで何か買うか。金は十分に在るだろう。建物も逃げはしないし、後はゆったりと歩いて近づけば良いだけの話。急く必要は何処にも無い。
 彼は考えて、少し歩調を速くした。およそ百m程の距離を一、二分で歩き終わって、スーパーの前に立つ。大きい。
「……田舎ってこんなに大きいスーパーが在るんだな……」
 彼の住んでいる場所は都会の田舎、と言ったところで、どちらにも所属しないのである。……いや、都会と田舎が極端に分かれていて、田舎のほうにはスーパーすら無いという表現が正しいな。と彼は改めなおした。ってかもうこれはスーパーじゃなくてデパートの広さだ。頼むぜ、これじゃあ年寄りが移動に困るじゃん。
 おっと、そんな事も言ってられない。早く何かを食べなきゃ……。
 中に這入る。外見からの予想通りに中はかなりの広さを有していた。壁から壁までを走ったら、確実に一分以上は掛かる。万人が這入ったって多分、まだ余力を残すことだろう。
 ……在り得ねぇ。こんな化け物スーパーなんて在るのかよ……。広すぎるって!
「くそぉ、食料品売り場は何処だッ!?」
 ただ今平日の昼下がり。つまり、客足はあまり無いのだ。するするとスムーズに動けるけれども、これでは何処にどれが在るかすら解らない! 頼りは上に吊るしてある案内板だけだ……!
「――見えたッ!」
 走って数分経ったか。彼は食料品売り場を見つけて、まさしく最速で飛び込んだ。飛び込んだのは野菜売り場らしく、少しだけだが人が居た。皆、イキナリ現れた少年の存在にビックリしているようだ。
 早く食い物……! と其処まで思ったところで彼は考えた。
 ……こんなに大きい所なら、食事所があるんじゃねぇのかな……。同じ食べるならばそちらの方が美味い。それだったら此処まで来る意味無かったじゃん! あーあー、ちょとまて、今の無し。リテイク希望。ってかみんなの視線が痛い……。
 彼は何事も無かったかのように歩き出した。取り敢えず此方で何か食料や菓子を買っておこうという事らしい。
 一番最初に行くコーナーが紅茶やらが置いてある場所というのが彼らしい。
「あ……あれは……」
 今話題のドリップタイプの紅茶。彼はこれを飲んだことがある。インスタントにしては上品な味でこれは美味かった。依頼、これを見たら即買いと決めているのである。
 ……あと一個……!
 手を伸ばそうとした瞬間。
「あっ……」
 右の方から声が聞こえた。その方向を向いてみると一人の女性が。
 髪の毛は首筋辺りで乱雑に切り揃えられており、漆黒の髪が艶やかだ。身長は女性にしては高い方だろう。彼と四、五cm低いと言ったところか。瞳は何処か間の抜けているような眼差し。顔立ちは凛としているのだから、何処かアンバランス。紅の服の上にジャケットを羽織っている。
 ……綺麗だなぁ。アイツも見習って欲しいもんだ。
「えっと、それ取るところですか?」
「あ、ああ。別に構いやしませんよ」
 嘘です。
 本当は欲しい。
「あ、でもなんか悪いし……」
「まぁ、気にせずにどうぞ」
 俺の気が変わる前に。
「…………」
 早く取ってくれ、いや取って下さい。
 そろそろ限界が来つつある彼は理性が抑えられないほどに大きくなっていく。このままでは爆発もとい暴発する! 彼はそれを抑えようと必死なのだ。
 いい加減にしてくれ……。内心で毒づく。ああ、怒号でもしてやりたい気分だ。
「あ、こういうのは如何ですか? 半分ずつお金を出し合って、で中身を半分こ」
 咄嗟に思いついたかのように彼女は述べた。……それならば、喧嘩にはならない。けど、なんか気が引けてしまう自分は何者なんだろうか、これが男としての普通の感情? ふぅん、変な感情だ。彼は脳内の思考を停止させて、彼女の方に振り向いて、頷いた。
 彼女は思い切り笑顔で応えてくれた。本当に綺麗だ。
「交渉は成立かい?」
 彼女の後ろのほうから声が掛かる。大きな男、身長はゆうに百八十を超えるだろう。下の部分に黒ぶちがあるハーフフレームの眼鏡を掛けており、その奥の瞳は柔らかだ。紺のスーツを着こなしていて、気品が漂う。如何にもこの彼女にしてこの彼在り、と言ったところか。お似合いのカップルだ、と彼は思った。
 しかし、訊く勇気は無いので巧くスルーしなければ。
「あ、それじゃ……」
「あっと、待ちなよ。良かったら家まで送っていくよ。君、学生だろ? 駄目だよ、学校サボっちゃ」
「あ、やっぱり学生だったのね。駄目ですよ」
 何度も言うが今日は平日だ。本来学校の時間である。彼は学生だというのに、平日うろうろしている自体がおかしいのだ。しかし彼は、学校のテスト休みを利用して来ている為、別に不自然ではないのだが、このカップルはそんなことは知らないだろう。一から説明するのも面倒だなぁ……。と思いながら彼はいい加減に何かを喰わなければヤバイ、という思考を同時に働かせていた。手っ取り早く一言で済ませよう。
「今、学校のテスト休みなんで」
「言い訳は駄目だよ」
 聞けよ。
 ぐきゅる、と腹の音が鳴る。それを聞いて一同が一気に笑った。
「何だ、まだ昼を食べていなかったのかい? 奢るよ、美味しいうどん屋が在るんだ」
「あ、ちょ、人の話を――」
 彼は口から出ようとする言葉を出すことは無く、そのまま力尽きて引き摺られるように男の車まで連れて行かれて乗らされ、そして車が発進した。
 ああ、俺、どうなるんだろうな……。
 彼はそんなことを考えながら空腹を抑えた。


 確かに美味い。つるつるとした喉越しが絶妙で喉を通り過ぎる時に快感すら覚える。麺のコシは上々で噛む度に滲み込んでいたつゆが滲み出る。つゆの味があっさりとしていてまた絶品。これ以上の一品が何処にあるのか、捜すだけ無駄だ、と思った。彼は黙々と腹に詰め込む。
 つゆまで飲み切り空になった丼を更に覗き込む。まだ足りないようだ。
「……凄いね」
 あまりの食べっぷりに男は感心した。
 うん、やっぱり子供はこうでなくては。自分も幼い時はこの位美味しそうな顔をして食べたなぁ。
「ご馳走様でした!」
「一段落したかな? んじゃ、家まで送っていこうか」
 彼はその言葉を聞いた瞬間合わせていた手が止まった。男は相変わらずにっこりとした微笑みを持続させている。……いい父親になれるだろうな、と彼は思った。
 しかし、眼は笑っていない。真剣な眼差しそのもので、心を見透かすような圧力が掛かる。
「家は近畿ですよ。いい加減信じて下さい。俺はテストの休みを利用してきたんです」
「嘘はいいのよ。本当のことを言って」
「だからぁ!」
 苛々して立ち上がろうとした彼を男は右手を出して止めた。
 それを見て冷静さを取り戻したのか。周りは少し驚いたような表情で此方を見ている。少し恥ずかしげに腰を下ろす。
「……それで、大悟君とやら。わざわざ秋田まで何の用かな?」
 男は深く椅子に凭れて腕を組み、脚を組む。余裕と冷静さが雑ざったような表情と瞳が彼の全体像を捉える。
 ……あの鞘袋は何だろうか……刀、というのは早合点だろうし、竹刀ならばもう少しまともなものに入れるだろう……いや、良く見てみると立派な袋だな。後は……あの地面に置かれた鞄だけか。此方は別に問題になるものは入っていないだろうな。鞘袋のほうからは……異様な匂いがぷんぷんと漂ってるしね。いずれにせよ、僕の予測に過ぎない。口には出さないで置こうか。そのほうが危ない目にも合わないだろうし。
 男はこう考えていたが、次の彼の一言で考えを改めた。

「神檻さんって言う人を訪ねるんですよ」

 ――僕の予想が当たったかな?
「神檻さんに……っ!?」
 男の横で黙っていた女性が声を上げる。
「えっ、秋楽さん知ってるんですか?」
「ああ、知ってるよ。連れてってあげようか?」
 応えたのは男だった。顔は相変わらず
 彼はそんな事も気にせずに「有難う御座います!」と即答する。
 ……男は静かに含み笑いをした。


「此処だよ」
 男――奈留髪大生が案内してくれたのは山だった。標高は三百と無いだろうけれども、山は山。彼はその麓に立って、人形師――神檻佳奈子が住んでいると言われる山を眺めている。
 何処か異様な雰囲気を匂わせるこの場所。ち、と舌打ちをして彼は内心で毒づく。
 ……なんでこんな所に住んでるんだよ。迷惑これ極まりない、といった表情で彼は俯く。しかし、行かなければならないのだ。左手の代わりは自分じゃ創れない。此処に住んでる人しか作れないというのならば――行く価値はあるだろう。しかし、危険なような気がしてならない。
 そこまで考えたところで女性――秋楽登美が話し掛ける。
「別に強制はしないわよ。それじゃ、縁が合ったらまた会いましょう」
 彼女等は車に乗り込んで、此方に手を振っている。彼も手を振り、応えた。蒼い車が発進して……彼はまた一人となった。藍色の帽子を深く被りなおす。上着を軽く手直しして屈伸をする。
 ――行くか。
 道無き道へと、歩き出す。
 一歩這入った瞬間に更に異様な気配に包まれた。やっぱり何かあるんだな……。
「……来い……」
 肩から掛けていた鞘袋から、一本の日本刀が飛び出して彼の手に収まる。
 彼――黒岸大悟は刀を一振りする。
 ざむ、ざむ、と地面に積もっている落ち葉が音を立てる。木々は最早紅々とはしていない。木の葉が無くなり掛けている小枝の合間から、太陽の光が射し込んでくる。しかし、暗い。暗雲が立ち込めたかのように、昏い(くらい)。彼は緊張の糸を張り詰めながら更に歩く。
「ふぅ……」
 これほど神経が磨り減るような出来事には此処最近あっては無いな……。一ヶ月前のあの一戦以来か。
 彼は思う。
 しかし、此処は相手の地の利が在るからな……戦闘になんかなったりしたら今まで以上に苦戦しそうだ。それこそ一巻の終わりかも知れねぇ。
 彼は考える。
 それならいっそのこと逃げれば良いだけの話……ならば精神を集中させて――!?
 彼は瞑想――するのを止めて走り出す。
 木々の合間を縫うようにして前へとひた走る。矢のように木が横を通り過ぎて冷たい冬の空気が頬を切る。
 速過ぎる……ッ! いくらなんでもまだまだ序章といったところだろうが! こんなに速く襲撃を受けるなんて予想外だ……。彼はそこで完全に思考を停止させ、走ることに集中する。より迅く、疾走するために。
 いくら走ったか。辺りの景色は殆ど変わらない。相も変わらず小枝の合間からは燦々と太陽の光が射し込んで来るくせに、何故か暗い。しかし、もう慣れてきたのか景色は見易くなっている。
 よし、これなら逃げ切れる。
 彼は大分遠ざかったと思われる『敵』の気配を探って、停止させた思考をまた復活させた。
「いける……!」

――――かしん。

 ロボットが動くような音が聴こえた。
 それはだんだんと近づいて来ており、彼もその『敵』の接近に気付いていた。だが、何故。
 彼は自分自身でも判る程に加速して、後続のモノ達を引き離した。このスピードならば、永遠に相手は近づけないのに……。何かが、おかしい。けど、何が? ……くそっ、考えるのは止めだ。今は襲来に備えるしか――!

――――かしん。かしんかしん。かしんかしんかしん。かしんかしんかしんかしん――――

 確実に近づいてくる『敵』。
 不安と恐怖が同時に襲ってくる。
 ……くそがっ、邪魔な考えは棄てろ、俺!
 消えない。
 何故身震いする。こんなもん、慣れているだろう?!
 止まらない。
「たかだか、左手が使えないだけじゃねぇか! なんで畏れる必要がある!」
 そう、彼は左手が使えない。動かないのだ、一ヶ月前の戦いで。かろうじて敵は倒したが、彼自身にも多大な被害が出た。それが、左手。彼は敵を倒したが、代償として左腕を相手に持っていかれた。
 そして、これが。
 左手の無い時の、初めての戦いとなる。

――――かしん。

 音が已んだ。
 彼は前を見る。
 其処には二体の人。周りを探ってみれば、もう一体が隠れていた。……否、『人』ではない。
「……人形……?」
 そう、目の前に居るのは人形。色々な衣服を着てはいるものの、人間だとは思わせない。それ程異様な雰囲気が漂っている。人にしか見えない人形で、けっして人ではない人型(ヒトガタ)。
 『それら』は各々武器を握っている。
 一体は薙刀。一体は爪(クロウ)そして隠れている一体は西洋の両刃剣。
 かしん、とそれらが前へと出る。
 彼も呼応するように、前へと出た。
「行くぜェッ!!」
 刹那で一体の前へと移動し、もう一刹那で刃を振り薙いだ。
 ひゅん、と刃が風を斬り、一瞬だが真空を作り出す。軌道は横一文字、その直線上にあるモノは一切合財を真っ二つに切り裂き、薙ぐ。
 ……一体の左腕を切り裂いた……しくじったな。くそっ、このままじゃ反撃が来る。
 横っ飛びすると、先程まで立っていた所に両刃剣が突き刺さった。それを握っている人形ががきり、と首を捻じ曲げて此方の方向を向く。しかし彼はそれを視認しているほど余裕ではない。薙刀による第二波と、爪による第三波を避けなければならない。彼は伏せて薙刀の一撃を避け、そのまま横へと転がって爪での一撃を躱した。
「一番厄介なのは薙刀だな……」
 ならば、一気に勝負を決める。
 彼は如何考えても投擲用ではない『刀』を思い切り投げた。
 クルクルと廻って薙刀を持った人形へと襲い掛かる。
 しかし、なんなくそれを弾き飛ばし、再び正面を向く人形。
 その一瞬の隙が仇となった。
「――楓燕衝!(ふうえんしょう)」
 彼は五m程在る距離を刹那で詰めて拳を放った。渦巻く風を纏った一撃は人形の腹を穿ち、吹き飛ばし、そして壊す。木は三本ほど折れて倒れた。其処にはかつて人形だった残骸が残っている。
 戸惑いを隠せない人形達。否、人形に感情など在るはずも無い。予想外の出来事にインプットされていた行動情報が改め直されているだけだろう。
 彼はその隙さえも見逃さず、刀を持って駆け出した。一体が宙へと逃げるように舞い上がる。それには眼も呉れずに地上に残った一体を斬り捨てた。
 斬(ザン)と落ち葉が音を鳴らす。半分となった人形の上半身は耐え切れずに落ちたようだ。
 そして、木の上に居る一体を睨み。
「其処かッ!」
 飛び上がり、斬る。
 あまりにも迅い斬撃は真空を作り出し、さらに人形を斬り刻む。
 そして、彼はズタボロになった人形を見て言った。
「なんだ、結構いけるじゃねぇか」
 もう、左手が無いという恐怖など、微塵も無かった。



         ◇          ◇            ◇



 山奥の家。その中に一人の女性が佇んでいる。
 服装は上下共に黒のスーツで、上に白衣を羽織っている。どうやら先程まで仕事をしていたようだ。
 はぁ、と嘆息して、ソファへと乱暴に座る。ぼすっ、と鈍い音がして彼女を受け入れた。
 そして呟く。
「くっそぉ、アソコまで打ち壊すこたぁ、ねぇだろ……アレ作るのにいくら時間費やしたと思ってるんだ……?」
 ……どうやら人形が壊れたのが惜しいようだ。
 彼の手によって壊された人形が。




         ◇          ◇            ◇

 


「奈留髪さん、あの少年、何だったんでしょうね」
 秋楽が僕に問い掛けてくる。勿論僕もそんなことは知らないから、憶測でモノを言うことしか出来ない。それでもやっぱり答えなきゃな、と思いながら僕はその憶測を口に出す。
「多分、殺し屋かなんかじゃないかな。昔の僕みたいな」
「あんな子供が、ですか?」
 そんな……と、秋楽が俯いて呟く。
 僕だって信じたくは無いけど、今の所この考えしか浮かんでこない。刀を持っていて、見た感じもあれは相当場馴れをしている。あんな闘気は、近々見たことが無い。
 それなりの覚悟をして此処まで来たのだろうことが容易に窺えるほど巨大だった。彼は、危険だ。
「世の中には色んな人が居るもんだねぇ……」
 そんなことを考えながら山道を歩く。枝々から射し込む光は眩しく辺りを照らし出している。柔らかな風は体に纏って流れていくかのようだ。
 ただ今の時刻は午後三時。大悟君は、三十分前にこの山に這入った……。それなら、もう戦闘は終っている頃か。
 そんなことを考えていると目の前に建物が見えてきた。
 僕は躊躇わずにその建物の中へと這入る。手馴れたものだ、何回か来ているし。
 居間に這入ると神檻さんが中央のソファに座っている。なにやら頭を抱えて深刻そうだ。いつもはこんな行動を見せたことは無いのに、どうしたことだろうか。相変わらず暖炉からはぱちぱち、と火花が散っている。これが部屋全体を暖かくしているのだろう。それなのにも関わらず、神檻さんは全身黒という、暑そうな格好をしている。
「どうしたんですか、神檻さん」
「人形がやられた……三体も。正直ショックだ、鋼(はがね)の硬度を誇る魔力コーティングを斬り裂くとは」
 神檻さんの人形がやられた……? 神檻さんの人形は周りを魔力でコーティングしてあるから、生半可な攻撃は通用しないはず……それを斬り裂くなんて、相当の手練ということになるな……今回は僕が行った方が良いか。
 無関係な秋楽や、お世話になった神檻さんを傷つけたくは無い。僕一人が犠牲になれば良いだけの話なのだから。オーケー、心は決まった。ならば、早速実行に移すだけだ
 僕は端に置かれている袋を肩から担ぐ。
「僕が、行ってきますよ」
 秋楽が立ち上がって何かを言おうとしたが、僕はそれを片手で制する。神檻さんはそれをただ、何も言わずに見守っていた。僕は一回深呼吸をして居間を出る。
 僕は殺し屋を辞めた身だ。正直、何処までやれるか判らないけれど、二人を守るために限界まで戦いつくそう。
 長い長い廊下。いつもならば数秒で通り過ぎるだろうこの通路が、なんだかヤケに長く感じた。永久に続く無限回廊のような、それとも刹那で終ってしまう灯火のような……そんな気分が僕の心の中で巡る。クルクルと廻って輪廻のように終らない。僕はポケットに手を入れて煙草を出す。滅多に吸わないのだけれど、こういうときは特別だ。かち、とライターで火をつける。ゆらゆらと靡く炎を見ていると、何故か集中できた。
 はぁ、と煙草から吸い出した白い煙を思い切り吐く。
 扉を開けて、外に出る。爽やかな空気は失われておらず、少し肌寒い秋の終わりの風を体に感じる。陽射しも相変わらず空間を照らし、和やかにする。
 ……黒岸、大悟……。
 僕は眼鏡を外して左眼だけを瞑る。きゅいん、と頭の中に周りの詳しい情報が脳内に展示される。これが僕の右眼。≪灼眼≫と呼ばれる紅い眼だ。この魔眼は周りの景色を全て『熱』へと変換して僕の脳へと送り込んでくれる。つまり、周りの熱を感知する能力、いわゆるサーモグラフィか。微弱な温度の違いでもすぐに判り、熱の移動や鼓動も視える。
 
 ……殺し屋の時は良く使ってたなぁ……。
 
 およそ六年前か。神檻さんに会う前まで、僕は殺しを生業として生きてきた。依頼されればなんでも殺した。関係の無い富豪、悪名高い政治家、罪の全く無い一般人まで……そうだ、一回、妖(アヤカシ)というモノを殺ったな……人のようで、人ではない。全く、その点に関しては神檻さんの人形と似ているな。しかし、そんな異形と出遭ったから、僕は神檻さんという人外にも出会えたんだな、と今も思う。
 昔のことを懐かしがっていると、南東方向から人間の熱が感知できた。
 往こう。
 僕は歩き出す。
 ざむ、と落ち葉が鳴り、僕の旅立ちを嘆いているかのよう。耳に入ってくる小鳥達の囀りは、僕の旅立ちを悲しむ鎮魂歌(レクイエム)かのよう。木々から射し込んでくる陽射しは僕の旅立ちを――祝福してくれているかのよう。僕は微笑って走り出した。
 
 侵入者を排除する――ただの殺し屋となって。


 木々を掻き分けて着いた場所。
 其処には少年が一人。座って暢気に紅茶を飲んでいる。さも当たり前かのように、嬉しそうに飲んでいる。持たれたティーカップからは湯気が立ち昇り、如何にも暖かそうだった。
 しかし、此方の気配に気付いたのか、刀を持って立ち上がる。淡い緑の上着が翻り、下に来ている紅色の長袖がひらり、と靡いた。しかし、此方の姿を見て安堵したようにまた座る。どうやら人形じゃなかったから安心したらしい。いや、それとも相手が僕だから……?
「なんで奈留髪さんがこんな所に居るんっすか……?」
 先に質問してきたのは彼の方。
 僕はそれに慌てずに対処する。
「君を、殺すためさ」
 彼に驚きの表情が雑ざる。
「どうしたんだい、別に不思議じゃないだろう? 君だって神檻さんを殺そうとしているんだから……」
「なっ、何言ってるんですか……?」
 彼は驚きを隠しきれずに喋る。
 図星を言い当てられて困惑しているのか、濡れ衣を着せられて困惑しているのか……彼の体に纏う熱がさっ、と退き、代わりに内部の血液の移動速度が速くなったようだ。つまり動悸が激しくなっている。
 どくん、どくん。
 まるで心臓の鼓動が聴こえてきそうなほど辺りは緊迫している。
 僕は冷静に、彼を問い詰める。
「ふふっ、図星みたいだね……」
「違う。俺は左手の代わりを創りに来ただけだ……」
「問答は終りだ。もう必要が無い」
 僕は肩に担いでいた袋を下ろして中身を出す。
 断首刀……ただ、相手を斬ることのみに特化した剣。
 先端の尖った部分は無い。平らで、突く部分など無い。
 処刑の時にこれを使うらしいけれど……今の僕には関係ないだろう。
 逆手に持って、目の前に翳す。

「僕は君を殺す。君も、僕を殺す気で掛かって来い。黒岸大悟!」

 僕は地面を思い切り蹴飛ばした。
 その反動で一気に移動して、刃を揮(ふる)う。
 ひゅん、と風斬り音が鳴り、木々が一瞬にして何本か倒れた。
 手応えは無かった、つまり逃げられたという事。
 ちっ、と舌打ちしてまた周りを探る。そう遠くへは行ってない筈だ。
「……其処かい?」
 一本の木を薙ぎ倒す。ずん、と鈍い音が続いて鳴り、枝の合間から人の影が見えた。それは逃げようと必死に藻掻いてるように見えて酷く滑稽。
 そして僕は微塵の遠慮も躊躇もせずに――

 ――刃を彼の首筋へと動かした。




         ◇          ◇            ◇



  終



 がきぃん、と金属音。
 攻撃を受けた方は吹き飛ばされ、攻撃をした方は少しばかり立ち尽くした。やがて吹き飛ばされた少年は立ち上がり、右手に日本刀を握っている。被っていた帽子など、とうに無く。露わとなった両眼が目の前の男をしっかりと捉えていた。
 少年は既に荒い呼吸を隠し切れず、一方の奈留髪は冷静に『敵』と見做した少年を睨んでいる。
 右眼は紅く光っており周りの熱を奪っていくかのよう。左手を紺のズボンのポケットへと入れ、右手で先の無い断首刀と呼ばれる代物を逆手に持っている。
 奈留髪は冷静に少年に語る。
「やっと殺る気になったか……」
「ああ、違うっつってんだろ! 俺は左手の代わりを創ってもらいにきただけだって!」
「問答は終わりだって言っただろ」
 奈留髪はそう言って一歩詰め寄る。少年はそれに反応して少し後ろへと下がった。風は亡く、それでも木々は揺れる。陽射しは傾いてきて、朧げな淡い紅色が彼等の体を照らしている。じりじり、と間合いを詰める奈留髪。暫くの膠着状態。二人の息遣いだけが辺りを支配する。
 先に動いたのは少年。瞬く間も無く最速で奈留髪との距離を詰めて最小の動きで筋肉を動かした。連動して腕と共に腰も、脚も捩れる。そして刃は右腕へと軌道を伸ばす……。
 しかし奈留髪はそれが解っていたかのように剣で防御する。
 金属音が鳴り響き両者は間合いを取る。

「――朧」

 少年の右頬が斬り裂かれる。何故斬られたかも解らず、痛みすら感じさせない。つぅ、と血が垂れて地面に落ちた。
 ……いつやられた……。奈留髪さんは動いていないし、そんな動作すらも見せなかった……でも、これは斬撃だ。くっそ、見切れねぇ……!
 そんな少年のことなどいざ知らず、奈留髪は悠々とした態度で少年に語る。
「おいおい、今のぐらい避けてくれよ。その程度じゃ勝てないぜ?」
「畜生、黙ってりゃ調子に乗りやがって……! 一飯の恩があるが、絶対手加減してやんねぇ!」
 それでいい、と一言。
 しかしその言葉を発するよりも迅く、少年は接近してきた。眼付きはまるで人を殺すことのみを考えたケダモノの眼。血走り、最早別のことなど全く考えてなどいないようだ。
 ――――ッ!
 声に鳴らないケダモノの雄叫びが谺して木々へと吸い込まれるように消えて逝く。辺りは既に暗くなっている。夕闇は辺りを覆い尽くすように蠢き始める。ましては此処は山の中。枝で光が覆い隠されて、すぐに漆黒が場を治めるであろう。揮われた一撃は間違い無く奈留髪を捉えた。しかしこれにも刃を併せる。刀は弾け、宙へと舞う。しかし少年は怯まずに次の行動を既に開始していた。
 ヴン、と大気中に響く衝撃。
 風が少年の右手に渦巻き容(かたち)を為す。
「――楓燕衝!」
 それは奈留髪の鳩尾を捉えて――吹き飛ばした。
 みしり、と骨が軋む。吹き飛ばされながらも奈留髪は冷静に事を判断していた。
 ――やられた。肋骨(アバラ)が何本かいったな……。口から血が滴り落ちる。どうやら内臓も少し傷付いたらしい。外傷こそ無いものの、内部の傷は深刻かもしれない。後ろは木。叩きつけられたら更に状況は悪化してしまう。そんなことになったら此方の圧倒的不利となる。それだけは避けたい……!
 後ろに迫る木の壁。
 ぶつかる前に奈留髪は発音した。
「――幻(まほろば)」
 奈留髪の姿が消える。否、消えたのではない、移動したのだ。その証拠に奈留髪は十m程横の木に凭れ掛かっている。口の中に溜まった血を飲み干して木から離れる。いやな鉄の味が口の中、喉の奥からしてきて、気持ちが悪い。吐きそうになった気分を抑えてなんとか吐かずに済んだが、次は我慢できる保証は無いぞ……と奈留髪はふざけた考えを頭の中に巡らせる。
 じゃあ、とっとと終らせるだけだろう?
「目覚めろ。≪エイトビート・ヒート≫……!」
 その言葉を境に、奈留髪の断首刀が変形し始める。分解され、再構築。周りに熱気が溢れ、少年は近づけない。既にサウナのような状態となった辺りは木々が揺らめき、陽炎のよう。
 見れば変形している刃からは炎が湧き出ている。
「――≪ブレイズファング≫」
 最早原形すらも留めていない奈留髪の凶器。……一本の巨大な『斧』と化している。奈留髪はそれを一振りして肩に担ぐ。
「それじゃあ、第二回戦と洒落込もうか」


 奈留髪の持っている斧。柄は長く、槍のよう。歪な形状の刃からは炎が絶え間無く纏っており触れれば一瞬で焼き尽くされそうな程の勢いが在る。少し離れた少年にもその熱さは伝わって来る為、ゆうに千℃を超えていると見た方がいい。触れればバターさながらに跡形も無く融けてしまうだろう。
 ……あちぃ。くそっ、服がべったりくっ付いてきやがる。しっかしなんだありゃ? 武器が炎を纏ってるし、さっきと武器が違う……剣から斧へ、形状変化なんて聞いたことがねぇ。しかもあの紅い眼は何だ? 噂に聞く魔眼か? ……はぁ、左手は使えねぇし誤解はされるし……厄日だ。
 ってか山火事になんねぇの?
「んなもん使ったら山火事ですよ、奈留髪さん」
 少年は少しでも場を和めようと、張り詰めた空気を打破しようとふざけた口調で語りだす。
 これは一種の時間稼ぎ。もしかしたら上手く誤解を解けるかもしれない。あんなもん振り回されたら、こっちが終わりだ。しかもこのまま戦り合ってて勝てる自身など、微塵も無い。
 山という地形において彼は圧倒的不利。彼の得意の焔術が使えないからだ。
「面白い事言うね、でも心配は要らないさ。神檻さんが結界で囲ってくれてる区域だ、燃やしたって外見からは燃えているようには見えないし、この区域だけならば神檻さんの力で直ぐに直せる……」
 余裕たっぷりの微笑を少年へと向ける奈留髪。
 少年はそれを見て内心で毒づいた。
 余裕ぶってるけど、楓燕衝は絶対に効いてる筈……なら、無傷のはずが無い。絶対に余裕なんかじゃない。下手したら俺より重傷の筈だ……。
 少年が睨むと、奈留髪は斧をしっかりと握った。
 そして、大きく斧を振りかぶって、振り下ろす。
 勿論、大きく空振り。十mは離れているのだ、当たるはずが無い。虚しく空を斬った刃は地面へと突き刺さり――
 ――火柱を出現させた。
 それは次々と噴き上がり、少年の方へと近づく。
 冗談じゃねぇ、こんなもん喰らったら本当に跡形も残らねぇ! そんな死にかたは嫌だぜ……。だけど、どうする……かなり大きい火柱だ。生半可な動きじゃ避けきれねぇ。縮地はこんな地形じゃ使いにくいし……。
 ふと、上を向く。太陽の光は既に無く、目の前の火柱が周りの灯りを受け持っていた。
 ……上なら!
 刹那、彼の姿が消え、木の枝へと移動していた。
「此処なら……」
「甘いな」
 ずん、と鈍い衝撃と共に少年の体が地面へと叩きつけられる。攻撃されたと知覚する時には既に遅く、口からは鮮血が飛び散った。次いで鈍い何かが体中を駆け巡り痛みに変わる。痛みに眼を見開くと其処には奈留髪の姿があった。手に持たれた斧は振り上げられている。
 火柱はただのフェイント……? ヤバイッ! 殺られる……――!
 少年は脊髄反射で右手を目の前に翳して唱えた。
「……爆焔と共に舞い上がれ……!」
 奈留髪が斧を振り下ろせば終る、そんな状況下で少年はまだ諦めていなかった。
 首筋へと狙いを定めて。
「終わりだ!」
 振り下ろす、渾身の力を以て。纏う炎は揺らめき、まさに陽炎の如く。
 勝負は一瞬。
 少年は何かを呟いた。
 
 ――封爆華……!
   
 次の瞬間爆音と共に周りが弾け飛んだ。奈留髪とて例外ではない。たじろいで後ろへと下がる。
 少年は噴煙の中で奈留髪の姿を見る。
 どうやら奈留髪の武器は歪な刃の部分だけが吹き飛び、ただの棒になっているようだ。
 ……あれじゃあ、もう戦えないな……。
 武器として扱えないソレでどう俺と戦うって言うんだ。
 そんなのはただの自殺行為に等しいはず……!
「奈留髪さん、もう諦めましょうよ……」
 煙が晴れて少年が出て来る。
 奈留髪さんとはもう戦いたくは無い、だから降参して欲しい。
 少年は思いを言葉に紡いだ。
「そんな棒切れじゃ俺には勝てない……降参して神檻って人の所に通してください。お互い、もうボロボロだから」
 奈留髪はくくく、と哂(わら)う。
「は、はははは……確かに棒切れじゃ勝てないだろうね。でもなぁ……僕の武器は、これだけじゃあ、ない!」
 棒がパキパキ、と音を立てて粒子状に成っていく。それは奈留髪を覆い隠すように拡がり、そして容を為していく……。
 少年は勿論、ただ単にそれを見ているだけではない。
 刀を構えて、疾走する。少年の刀には焔が纏われていて、奈留髪の武器同様に燃え上がっていた。
 どんなモノより尚紅く。
 どんなモノより尚熱く。
「焔蛇刀(えんじゃとう)……」
 一秒も経たずに近づき終えて、後は刀を振るうのみ。
 しかしそれよりも疾く、奈留髪の武器は出来上がっていた。
「――≪ヘヴンズ・サイズ≫」
 出来上がったソレを振り回されて少年は間合いを広げる。
 ……誰がどう見ようとそれは一個の『鎌』としか見えないであろう。先端の部分には殆ど刃は無く、そのかわりその下の部分から横に曲線の刃が大きくはみ出ていた。
 漫画なんかにある死神の鎌……? 物騒な、それだったら別に≪天国の≫って名前にしなくてもいいだろうに。あれじゃあ、≪死神の鎌≫が妥当な線だろうよ。
 ふん、と少年は鼻で笑う。
「ソレの何処が天国の鎌なんですか、死神の鎌の方がよっぽど似合ってますよ」
 悠長に会話している場合ではないことは解っているが、相手の能力が解らないので迂闊に近寄るわけにもいかない。首を刎ねられて、ジ・エンドだ。
 ちぃ、と舌打ちして走り出す。
 無謀としか言えないその疾走。
 奈留髪はそれに躊躇う事無く、刃を振るった。
 しかし少年は更に加速してそれを躱す。
 だが、日本刀を振るうのには遅すぎた。
「……ハァッ!」
 奈留髪の鎌の刃が折り畳むように柄へと収められる。
 そしてその過程で、少年の首を刎ねるつもりらしい。
「嘗めんなッ!」
 上空。少年の体は其処にあった。
 首は刎ねられる事無く、彼の体に付いている。
 どうやらとっさに空へと逃げたようだ。
 だが、少年は後悔する。
 このままだと、落ちた時に首をズバッとやられるのがオチか。何とか避ける手立ては無いかな……。右、左を見ても何も無い。……本格的に、ピンチかも。こうなれば、アレをやるか。かなり危険だけど仕方が無い、死ぬよかマシだろう。
 そこまで考えて少年の刀は空を斬る。
 そう、空を『斬った』のだ。
 刃の軌道上に狭間が出来て、開く。
 落下中の少年は狭間にすっぽりと嵌まり、姿を消した。
 頼むから上手くいけよ……少年は心の中で祈りながら眼を瞑り、ただ、成功を願った。

「……空間歪曲……? そんなハイレベルなことが出来るのか彼は……」
 少年が居なくなった場所で、呟く。
 奈留髪の右目は紅く光っていた。





 一方少年は地面に突っ伏している。
 どうやら着地に失敗して倒れた、といったところだろう。暫くそうして、少年は立ち上がった。傍らには一つの背負い鞄。屈んで取り、肩に掛ける。
 ……どうやら上手くいったみたいだな。ああ、心配だった。正直昔みたいにどっか遠くの果てまで飛ばされるかと思ったぜ。慣れない土地ってのは距離感も感覚も掴み難いからなぁ。
 死ななくて良かった。……で、此処、何処?
 周りを見やる。辺りは夕焼けの茜色の光に染まっていて、柔らかでとても幻想的。何処からか聴こえる鳥の囀りは耳元で囁かれたような、少しくすぐったく少し心地良い感覚。少し肌寒く通り過ぎる風は体の奥まで透き通るような爽快感と余韻を残して消えていく。歩けば落ち葉が音を鳴らし歓迎してくれた。ふと前を向けば其処には一軒の家。レンガを使って造ったような古いベルギー風。外にはテーブルと椅子が在り、休息の為の物かな、と彼は思った。
「まぁ、なんとも風情の在る家だ……此処に神檻って人が住んでるのかな……」
 よたよた、と覚束無い足取りでその家へと向かう。
 此処が神檻って人の家ならば事情を話して即終了なんだけどなぁ……う〜ん、こればっかりは天運に任せるしかないのかなぁ。嗚呼、俳句でも詠ってやろうか……。
 
 秋の旅 終着点は 天国か

 苦笑しつつ、本当に天国にいったらお終いだな、などとふざけた考えを頭の中に創って、少年は玄関の扉を叩いた。




         ◇          ◇            ◇





 ……しっかし本当に山奥だな。こんな所に人が住んでる自体がおかしいんだけどなぁ。ふむ、神檻って人は変人なのか? 流石は帯白さんの御友人、ある意味でヤバイ。
 にても遅い。かれこれ一分、いい加減出てきて欲しいものだ。俺はもう一度扉を叩く。……反応なし、ムカついたので開けてみる事に。これまたビックリ。開かないと思ってたのに開いてしまった。無用心すぎるだろ……山奥だから誰も這入ってこないとでも思ってんのかこの家の人は。
「……這入りますよ」
 呟いて靴を脱いで上がる。住居不法侵入。気にしてられるか。奥の扉まで一直線に歩き、開ける。どうやら居間なのだろう。真ん中にはテーブルが、その両端にはソファが置いてある。壁際には暖炉が一つ、ぱちぱちと音を立てて燃え上がっていた。……誰も居ない。留守か? と、思ったけどどうやら違うようだ。人の気配は確かにある。そうしてつっ立っていると何処からか声が聴こえてきた。
「遅かったですね、奈留髪さん」
 少し高めのアルト……この声は、秋楽さんか。どうやら発信源は台所らしい。此方に背を向けて洗い物をしている。……どう切り抜けるか……。うーん、困ったな。バレたらどうせまたなんかやられそうだし。
 奈留髪さんの真似するか?
「黒岸君はどうしました? ……殺して、きましたか?」
 その言葉に俺の胃がずん、と重くなる。はは、やっぱり俺は殺される予定だったのか。ああ、今こうして生きていること自体が幸せなんだな……。
「どうしました、奈留髪さん」
 ぎくぅ。
 ちょっとヤバイかな。
 こうなったら声真似しかないな。
 俺は少し喉を叩き出来る限り奈留髪さんの声を思い出して、再生した。
「ん、ああ。ところで神檻さんは何処だい?」
「ああ、アトリエですよ。其処の扉から行けるんで」
「悪いね」
 どう致しまして、と台所から声が聞こえる。どうやら騙しきれたらしい。……ぷはぁ、生きた心地がしねぇぜ。このまま本当に天国逝きなんて洒落になんねぇからな。出来るだけ足音を立てず、俺は目の前の扉を開ける。
 少しばかり外に通路があってもう一つの家みたいなのに繋がっている。どうやら目の前に建つ建物がアトリエらしい。結構広い。多分、今這入った家と同じくらい大きいのではないか、と思ってしまうような大きさ。もしかしたらこんなに距離が近いからそう感じるだけなのかもしれない。俺はアスファルトで出来たと思われる『道』を歩く。十mも無い。しかしまた人形が襲ってこないとも限らないから気が抜けない……。
 落ち着いて、焦らずにその十mを歩く。
 扉の前。荒くなる呼吸を落ち着けて――扉を開ける。
 其処には人形が立ち並び、殆どがそれで埋められている。人間のモノから獣のモノ、はたまた不定形でなにか解らないモノ。それが所狭しと並んでいる。そしてその端に佇む一つの影。上下ともに黒に着込み、そしてその上に更に白衣を着ている。丁度医者や画家が着るようなもの……。
 これが、≪人形師≫神檻さんか。
 少し見ただけで解る。この人は強い。常人じゃないオーラが纏わり付いている……。おいおい、おいそれとこんな人とやれるかよ。奈留髪さんと戦ったときと同じ気分になっちまうぜ……。
「ああん、誰だ? アタシは今忙しいんだとっととどっか行け」
 俺の方を向かずに喋りかけてきた。どうやら何かの作業中らしい。俺はふぅ、と一息ついて口を開く。……長かった。
「神檻さんですね?」
「やけに改まった言い方だな……誰だ?」
 此方を振り向いた。赤ぶちの眼鏡を掛けていて、奥には眠たげな瞳。これは美形の部類に入るんだろうな……可愛いでも可憐でも天真爛漫でもない。この人には綺麗、という一言だけで全て事足りるだろう。俺はその顔に見惚れながらも口を動かす。

「初めまして、俺はおびしろ――」

 ――ずん、と響く。
 次いで言葉を発しようとしたが、次に出たのは鮮血だった。朱い。次々に出て来るソレを手で受け止めて確認するように色を見る。朱い。地面を穢し俺の衣服を濡らす。朱い。口の中に残る嫌な血の特有の味――。
 ごぽ、と俺は体から何かが離れる音を聴いた。骨から響いてくるような音。同時に鋭い痛みが俺を支配していく。俺は激痛に耐えながら後ろを振り向く。其処には乱雑に切り揃えられ、ゆらりと揺れる漆黒の髪。俺は瞬時にその人物が秋楽さんだと認識する。……でも、何故。
 背中の衣服に血が染み込んで重くなる。耐え切れずに膝をつき、後ろ眼に秋楽さんが持っているナイフを見た。其処には朱い鮮血がべっとりと付着している。そしてその顔は、冷酷かつ残酷な表情で俺の倒れ行く様を見詰めていた。うつ伏せに倒れ果てる。
  
 なんで、なんで、なんでなんでなんで―――。
 
 は、はは……詠ったように、本当に天国逝きになっちまったよ。
 いや、沢山アヤカシを殺したし……地獄逝きか。
 ああ、沢山の人も殺したっけな……。
 思い出したくも、ねぇ。
 なぁんだ、俺、生きてる、価値ない、じゃん。
 ……目の前が霞んで来やがった。もう、話してる声も、聴こえ辛い。
 ぎゃーぎゃー、と。
 何言ってんだよ、うるせぇ、なぁ。
 折角人が、死に掛けようと、しているのに。
 辞世の句も、詠めやしねぇ……。
 嗚呼。
 せめて最後に皆に……。
 田渕に、桜井に、帯白さんに、紅阪姉弟に、母さんに、華夜に――
 ――そして和葉に。
 会いたかった、な。
「だ ら、く  し  ごはア  の  」
 うるせぇ、ぞ、潔く、逝かせろ、ってんだ……。
 俺は其処まで思ったところで意識が途絶えて真っ暗になった。





         ◇          ◇            ◇





 夢。夢を見た。嫌な夢だ。六年前の嫌な現実。思い出しただけでも吐き気がする。

 目の前に広がっていたのは人間と妖の区別がつかない位に積み上げられた死体の山だった。周りにはどす黒く変色した血の河が流れている……。屍山血河、とはよく言ったもの、この光景を見れば誰もがその言葉の意味を理解するに違いない。それ程――残酷な光景。空は本当に血を塗りたくったように真っ赤で、気が狂いそうなほどに朱かった。
 死臭が満ちるこの平原。風は引切り無しに吹いている。普段は爽やかと思えるはずの風が、今はすごく気持ちの悪いネバネバしたスライムかと思えた。
 通称≪破邪の宴≫。約六年前に起こった現実。妖と破邪法師の全面戦争だった。
 まさに血で血を洗い、肉で肉を削ぎ落とし、骨で骨を払いあうような戦い。
 生き残っているものは極僅か。まともに立ち上がっている者など居ない。
 しかし、一人。その屍の山に向かっていく少年の姿があった。
 傷などは殆ど無く、上半身は裸。血を浴びて紅に濡れている。
 左手には何も持たずに、右手には何かを持って。
 屍の山の上に立って呟いていた。
「詰まらんな……もう少し楽しめると思ったんだが……」
 右手のモノが振り回される。付いていた血やら肉やらが吹き飛ばされ、地面に嫌な音を立てて落ちる。すごく気持ちが悪かった。
 そして気が狂ったかのように、哂った。
 深く、深く、深く、この世の全ての負の念が籠ったような。
 最後にソイツの顔が太陽の光に反射して見える。
 茜色に染まったその顔は紛れも無く――


 ――俺自身だった。





         ◇          ◇            ◇


 其の二


 一



 むくり、と俺は鬱な気分のまま起き上がった。周りには特に何も置かれておらず、ベッドだけが存在している。その上に俺が寝転がって居て、すぐそばに在る窓からは燦々と陽が照っている。窓は開いていて其処からしっとりとした風が入ってくる。かなり気持ちが良い。じゃなくてだ。
 此処は天国か? それとも地獄か? 天国ならば納得いくのだが、地獄ならばこんなに生易しくは無いのではないか? なんで上半身裸なのかも訊きたいな……誰に? 良く見たら包帯巻かれてるし。親切な地獄もあったものだ。
 えっと、先ずは思い出せ。何があったっけ……? 確か奈留髪さんに誤解されて逃げてきて……で、神檻って人の家に着いて……秋楽さんにバレそうになって……神檻って人と会って、背後から刺されて殺されたんだよな。
 ちっ……起きるか。
 俺は左手をつっかえ棒にして立ち上がろうと頑張った。が、結果は左に向かって思い切り転がり地面に落ちたのだった。どうなってんだ? 左手を見やる。
 無い。其処には左腕として存在するはずのモノが無かった。根元からすっぱりと綺麗に斬られている。そして切断された面は包帯か何かで保護されていた。
 今度こそ、と右手で立ち上がろうとするが、背中に鋭い痛みが走ったのでこれも敢え無く撃沈。まだ痛みは残っている。
 むぅ、立てない。
 しかしそれでも諦めずにトライしたところ、三十二回目の挑戦で漸く立てた。歩く度に少しばかり背中が痛むけど、我慢できるぐらいの痛さなので問題無い。
 俺は近くに置いてあった鞄を取って部屋を出ようとする。……あれ? なんで荷物あんの? おかしくね?
 どうやら地獄の鬼はとても親切らしく、俺の鞄など一切合財を全て持ってきてくれたようだ。中身を見てみるとちゃんと全部在る。しかし、見回しても俺の刀だけが無い。閻魔様が代償として受取ったのかな、とふざけてみる。地獄でも俺の思考はまともでは無いらしい。くく、と笑って扉を開けた。
 開けた視界は居間のような風景だった。暖かい雰囲気に満ちているこの部屋は何処かで見覚えがある。……どうやら走馬灯が流れていっているらしい。
 俺は横断してまた扉を開けた。少ししかないアスファルトの歩道。続いている先には小屋らしきもの。また、これにも見覚えがあった。俺は少しの痛みを我慢しながら近づいて扉を開ける。……其処には沢山の人形が在った。小屋いっぱいいっぱいに在るソレは様々な容を為している。
 その端の机の上に、刀が在った。
 ……見つけた。
 俺はソレを右手で持ち、小屋を去ろうとする。しかし、何者かによってそれは止められてしまった。
「良くないな。それは良くないよ、黒岸大悟君。今は鞘の研究をしているところなのだから」
 その言葉に俺ははっ、と気付く。そういえば鞘が無い。……危険だ。
「早く返せッ! 取り返しのつかない事になるぞ!」
「おっと、何を怒っているんだい? まぁ、いい。此処の作品を壊されたら敵わんからな、ほれ」
 人形の奥から投げられた鞘を受取り、刀をその鞘へと収める。かしゅ、と音を立てて繋がったそれを肩に掛け、今度こそ小屋を去ろうとする。
「待て」
 また呼び止められた。鬱陶しい、黄泉路へ旅立つ俺を呼び止めるなよ。いや、此処はもう地獄なんだから黄泉路なんてとっくに過ぎたのかも。
 はぁ、と嘆息して振り向く。
 其処にはやはり見覚えの在る人物が。
「……あれぇ?」
 其処には紛れも無い、神檻さんが居た。真っ黒の服で身を染めて、暑苦しそうな格好だ。正直、此方が熱くなってくるので止めて欲しい。
「あれぇ、じゃねぇよ。重傷患者。さっさとベッドに戻って寝てきなさい」
 ……あれぇ?
 何で地獄に知ってる人が?
 おいおい、どうなってんだよこれ。
 ってことは……。
「俺、生きてる?」
「おいおい、ボケたか?」
 まぁいい、と口にして神檻さんは俺の横を通り過ぎ、扉を開ける。少し寒い風が入り込み、びく、と体を震わせた。そして親指で出るように仕向けてくる。……どうやらさっさと戻って寝て来い、ということらしい。何もすることもないのでそれに従い俺は元居た部屋へと戻ることにした。微妙な痛みを堪えながら歩き、元の家の扉を開ける。暖炉がまだ燃えており、空気は暖かい。寒くなった体を温めながら部屋を横切り、扉を開けようとすると……。
 いきなり扉が開いて俺の体にびたん、と張り付く。胸に響く鈍い痛みと背中に響く鋭い痛みが見事にデュエットして転げまわりそうなほど痛む。
 ……死ぬからッ! マジ死ぬからッ!
 しかしそれでも大声を上げずに耐える俺は素晴らしいのかどうなのかを問いたい。
 扉を俺にぶつけた張本人は俺に気付かずにもう一つの扉から這入ってきた神檻さんに慌てふためき話し掛ける。息は荒く、なんだかすごく緊急事態っぽく見えた。多分、緊急事態なんだろう。因みにまだ俺の体には鋭い痛みが残留している。立ち上がれない。
「ベッドに彼が居ません! 何処へ行ったんでしょうか!?」
 多分俺のことだ。
 此処に居るぞ。
「……ああ、彼の事か。んーとな……」
 話し合っているほうへと視線を上げる。眼が合った。なにやら煙草まで吸っている。どうやら此処は喫煙可能区域らしい。そして俺に指を指し一言。
「其処で逝きそうになっている奴のことじゃないか?」
「ええ! あ、何故そんなところにっ」
 最早何も言うまい。
 俺は起き上がろうと頑張って壁に凭れる。が、勿論そんな上手くいくはずも無く二回三回転んで秋楽さんに助けを求めた。……背中痛いし左腕が無いから立ちにくいのだ。
 そのまま促されるままに俺は元のベッドの在る部屋へと戻り寝転がりなさい、と命令形で言われる。
「ビックリしましたよ、大悟君。なんで勝手に何処かへ行こうとするんですかっ!」
 取り敢えずキャラが変わっている所から突っ込ませてもらいたい。シリアスキャラでは無かったのか、貴方は。しかし、本当に心配そうな顔を見ると、そんな思いもすぐさま消えてしまう。……そんな顔をしないでもらいたい。此方まで気が沈んでしまうではないか。やがて顔を俯けた。
 無言が交錯する。
 気まずい。窓の外から陽射しが射し込み、部屋の中を明るくしてくれている。しかしこんな雰囲気ではこの明るく柔らかな日差しも逆効果だ。相乗効果、とでもいうのだろうか。より一層、気まずさと重苦しい雰囲気を強めてくれる。なんてこった、これじゃ俺が悪いみたいだ。
 やがて、秋楽さんが口を開いた。
「ごめんなさい……」
 速攻で嫌な気分になった。多分露骨に顔に出ていること百%間違い無しだ。
 思ったとおりの言葉を口にしたからな。それは謝罪の気持ちで心一杯満たされているのだろう。……俺はそんな事気にしてすらないというのに、だ。怪我したのは俺の説明不足の所為で勝手に他人の敷地内に這入ったりしたからだというのに。そんなに心狭い人間じゃないという事を何よりも先ず、知って欲しかった。そりゃ、初めて会って一時間ほどで別れたのだから知って欲しいも何もあったモンじゃないと思うが。全く、自分を責めるのも程々にして欲しいものだ。周りで見ている人がそれを見てどれ程いたい思いをしているのか――いや、それ以上に、本人が傷付いている……か。ちぃ、知った風な口を利くな、俺。
 ややこしい。人間ってのは俺が考えている以上にややこしい。
 秋楽さんは暫く無言で、そして決意を決めたように俯けていた顔を上げて口を開ける。俺はそれを右手で制止させた。……正直これ以上聴きたくは無い。
「もういいです。さっきの言葉で十分」
 俺の言葉に驚いて少し口を閉じた。きゅっ、と下唇を噛み締めたようだ。半端ではない力が籠っているに違いない。少し紅い血が流れた。
「でも」「でもじゃないです」
 喋ろうとした秋楽さんを再度黙らせる。
「いいですか? 言っちゃえばぜーんぶ俺が悪いんですよ。そりゃ日本刀持ち歩いてて神檻って人に会いに行く、なんか言ったら誤解されるに決まってます。次いで不法侵入に器物破損、ああ、あとは銃刀法違反でしたっけ。法律的に言えば俺が悪い訳です。説明もしてないし、こんなしがない高校生だ。疑られるのは当たり前。だから、そんなに罪悪感を溜め込まなくていいですって」
 最後に悪いのは俺なんですから、と締めて口を閉じた。
 呆気にとられた表情をとって此方を見やる秋楽さん。
 ……また何か言いそうだな。
 ちっ、と舌打ちして俺は付け足した。
「罪を贖いたいですか? それなら紅茶を下さい。とびきり美味いやつ。それで、今回の件は全部水に流しましょう」
 その俺の言葉に、秋楽さんは俯いた顔を少し上げて微笑んで、了承してくれた。じゃあ、と一言告げて部屋を去っていくその背中を見ながら、優しい人だと思った。
 きっとあの人は他人を責める事が出来ないのだろう。そういうモノがひしひしと感じられた。他人を責める事が出来ないから、自分を責めてバランスを保つんだ。別にそれは不幸とも思わないし幸福とも思えない。でも、悲しいかな、そうして溜めてきたモノは自分に跳ね返る。身体の異常や精神の異常……まったく、良くない事尽くめだ。
 実に似ていると思った。昔会った奴に。
 へぇ、と口の端を歪めて微笑い俺の話に応じてくれる。銀髪の頭の良い野郎だったな……ま、今となっては会えないだろうが。と、そこで、
「失礼するよ」
 と神檻さんが這入ってきた。黒服に白衣というアンバランスな格好が似合っているのが少し可笑しかったが。眼鏡は掛けておらず、右手には熱そうな飲み物を持ってきていた。
 それを口に運んでから語りだす。
「悪かったな、秋楽のことは許してやってくれ。悪気が在ってやった訳じゃあないんだ」
 解ってますよ、と苦笑いしながら応えて視線を窓の外に移す。飲み物の温かさが此方に伝わってくるかのようだった。……なんだか眠くなってきた。
 それでな、と神檻さんは続ける。
「秋楽なんだが……なんだ、その顔はもう気付いているのか?」
 俺の顔色を窺いながら神檻さんは訊いてきた。気付いている、というのはやはりあの事なのだろうか。流石というのか……かなり鋭いなぁ、この人。ぜってぇ油断できないタイプの人間だ。
 ええ、気付いてますとも。
 そんなことはとうのとっくに。
 初めて会った時の違和感。
 それだけで解ってしまった。
 ……良くないことだ。
 秋楽さんは――
「秋楽さんは、人間じゃありませんね」
 俺が放った言葉に頷き、神檻さんは一言添えた。
「ああ」




         ◇          ◇            ◇



 私は台所で少し苛々していた。先程すれ違うようにして部屋に這入った神檻さんは一体彼と何を話しているのだろうか。妙に気になって少しばかり紅茶の分量を間違えそうになってしまったじゃないか。後で少し文句を言ってきてやろうか。
 とびきり美味いやつを、という注文に応えられなくなってしまう。それは避けたい。でも……うん、やっぱり彼の言葉に少し気持ちが和らいだ……かな。うん、ああやって言える人はそうそう居ないよ。絶滅寸前の希少種なみだ。ああ、私が殺してしまったら本当に絶滅してしまうんじゃないか。そうなったらかなりヤバイぞ……などとふざけた考えを頭の中で創ってみる。
 ふふ、と口元に手を当てて少し笑ってみた。そしてもう一度、神檻さんは一体何を話しているのだろうという所へ論点を戻し考える。
 そのころピーッとやかんから湯気が勢い良く吹き出てお湯が沸騰したことを告げた。全く感傷にも浸れないとは。私は手馴れた動作でやかんを取り、ティーポットにお湯を勢い良く注いだ。中で茶葉が勢い良くジャンピングする。やはり此処から紅茶の醍醐味は始まるのだ。立ち昇る匂いは鼻腔を擽り、肺へと這入った香りは胸を満たす。おっと、今回は私が楽しむために淹れたのではないのだった。ちゃんとしたお客様がお待ちになっているのだから早く行かなきゃ……。お盆に(和風のもので洋風のものを運ぶのは少し妙だが)乗っけて部屋を目指す。零さないように慎重かつ丁重に……っと。
 片手で扉を開けると其処には当たり前のように煙草を吸っている神檻さんと、ベッドから半身を起こしている大悟君の姿が在った。
「はい、お待ちどーです」
 ベッドの横の小棚の上に一式を置き、少し待ってから紅茶をカップへと淹れる。お〜、と一人だけの喝采が聴こえてから、
「有難う、秋楽さん」
 と微笑んでそのカップを手に取った。
 ごくん、と飲んで一間拍。どのような感想が出るのか。どきどき。
「うん、いいなぁ、この味。俺もこういう味を出してみたいんだけどなぁ……少しばかり、ご教授願いたい」
「え、はい、いつでも」
 良かった、と微笑った顔はとても穏やかに見えて、なんだか可愛らしかった。それはそうと心の中でガッツポーズを決めていた私は次の神檻さんの言葉で少しきょとんとしてしまう。
「アキ、私の分は無いのか?」
「……はい、無いです」
 まぁ、お約束通りというか、なんというか。今回は多めに見てやってくださいよ。と、軽く応対して私は壁へと凭れ掛かる。神檻さんは簡易式の椅子に座っているので少しせこいと思ってしまった。良いけどね。暇だったので頭の中で何かゲームをやっておこうと思い立ち、少ししてやはり何も思いつかなかったので止めた。これで完全なる暇に包まれたわけだ。つまらん。
 ふぅ、と嘆息して大悟君の方を見やると本当に嬉しそうな顔で紅茶を飲んでいる。微笑ましい光景なのだろうな、と私は心の中でそう思った。
 壁に設置された時計は既に午前の九時を過ぎている。昨日の出来事からまる一日、というわけでもないが日付は変わったわけだ。時間というものは少し残酷なのかもしれない。誰かが傷付いても、死んでも、居なくなっても、その時間を戻してはくれないのだから。そう思うと、きっと神様というモノはなんにでも平等なんだ。絶対不変で絶対不偏の平等主義者。金持ちであろうと貧乏人であろうとその平等は変わらないし、騙らない。きっと、永遠に。全くなんて有り難い神様だ。消えちゃえ。
 そのとき、がちゃりと扉が開いた。
 奈留髪さんの登場だ。今度は服装がいつもとは違う。焦げ茶のパーカーにごく平凡なジーンズ。それでも似合うと思えるのは、多分体格が良いのと、顔作りが若々しいからだろう。そう思わせて欲しい。
 私と同じように壁に凭れて、大悟君の方を見る。じっくりと。
 それを見て大悟君は奈留髪さんににっこりと微笑みかけた。もうその微笑だけで十分なほど温かみが満ちている。この子はきっと育った環境が良かったのだろう。きっと、私の偏見ではないはずだ。多分。
「全員揃ったな。それじゃ、少し大悟君には質問に答えて貰いたいんだが、宜しいかな?」
 神檻さんの声が部屋中に響く。
 大悟君はその問いに、オーケィと頷いた。
「んじゃ、先ずは君が黒岸大悟だという証拠を見せてくれ。それが無いとアタシは君を敵と見做し排除する……つまりは死んでもらうって事だな」
 おいおい、この人はモノをあっさり言うのが好きだな本当に。証拠が無けりゃ死ねってそれは言い過ぎというものではないのだろうか。まぁ、神檻さんはそんなの気にする人ではない……か。それでも皆に多大な迷惑をかけている気がするのは私だけなのだろうか?
 大悟君ははぁ、と嘆息して少しばかり思案しているようだ。暇なのでじっと見てみた。眼が合った。ビックリした私に対して彼は少し微笑んだようだ。本当、良く微笑うな。
「俺の携帯を取って下さい。んでメモリから帯白さんの番号を探して掛けて下さい。連絡するの忘れてたし丁度良い」
「掛けるならアタシのからしてくれ。掛かったらこの横のボタンを押す。そうすれば、皆に声が聞こえるから証拠にもなるだろ」
 と神檻さんはポケットから携帯を取り出して操作する。どうやら帯白さんの番号を探しているようだ。
 指を離して大悟君に渡す。
 これで証拠が出なかったら……そのときはまた、やるのか。
 正直嫌な気分。

『もしもし』
 と響く声。これが帯白さんの声らしい。実に高い、ソプラノだ。
「あ、俺です。黒岸です。ちょいとね、俺の無実を晴らして欲しいんですけど、いいですか」
『なんで加奈子の携帯から掛けてるのよ?』
「ちょっと事情が。で、無実晴らしてくれますか?」
『めんどい』
 ざけんな! と部屋中に大声が谺する。
 こんな適当な人だったのか、帯白さんというのは。
「俺の命が掛かっているというのにその楽観は何だァッ! アンタはつまり俺の命がどうでもいいのかッ!」
『うん』
「奈落の底で詫びて来いッ!」
 ぶちっ、と回線が切断される。
 なんだか電話の向こう側の人の顔と先程までの体勢などが詳しく解ってしまいそうなほど適当な応答だったな。あれで証拠にでもなるのだろうか。
 それよりも携帯の方は無事なのだろうか、かなりの握力で握られてたと思うのだが。
「……すいません、友達の方へ掛けてもよろしいですか」
 神檻さんの方を向いて言う大悟君。
 それに神檻さんは反応してこう言った。
「ああ、もういいよ。十分だ。君は本当に黒岸大悟君みたいだな。真由とあれだけくだけて喋れるのは友人ぐらいだからな」
 …………。
 果たしてやる意味はあったのだろうか、第一回目の問いは。いや、意味はあるとは思うけどさ。私は一度壁から離れて、また壁へと凭れる。少し立ってるのが面倒になってきた。ふむ、と神檻さんが呟いて指を二本立てて突き出す。どうやら二回目の問いをするぞ、ということらしい。うん、それもする意味あるのかな? 神檻さん。と突っ込みたいのを堪えつつベッドに半身を起こしている大悟君を見る。悠長に紅茶を飲んでた。余裕だ、この子。
「刀在っただろ? なんでアタシが鞘をいじってると駄目なのかな。イキナリ怒られてもコッチが困るんでね。そこら辺はちゃんとしておかなくちゃいけない。説明してくれ」
「あの事を、ですか……。正直長くなるからなぁ……うん、この紅茶を飲んでからで構いませんかねぇ?」
 大悟君は真面目な表情で、そんなふざけた事を言ってのけた。



「つまり、そういうことです」
 つまり、そういうことらしかった。
 要点だけ纏め上げてみよう。
 大悟君の刀は別名妖刀≪八咫烏≫。空間を斬ることが出来るという何とも稀有な能力を持つ日本刀らしい。何時の時代に作られたかは解らないが。黒岸家代々伝わる家宝で昔の、本当に昔のアヤカシと呼ばれる存在を封印したとか。そいつは有名度で言うと八岐大蛇(ヤマタノオロチ)と並ぶほどの存在だったとか。だけど、生半可な封印程度では力は抑えきれずに溢れてしまうから幾重にも織り廻らし、最後に幾ら力を吸い取っても腹が減るアヤカシ(アヤカシの力を喰らうアヤカシらしい)を鞘へと封印して溢れ出る力を大分抑えて外界への影響を無くしたとか。で、その力を利用しようとして何人かが死んだとか。ようやく制御に成功して今のような空間歪曲、つまり空間を斬ることが出来るようになったとか。延べ二十分にも及ぶ彼の演説はそうして終わりを告げた。
 最後まで聴いた時、神檻さんは微動だにしなかったけど奈留髪さんの方はふぅん、とかへぇ、とか相槌を打っていた。やめれ。流石に私も信じられないが、本当のことらしい。そんな御伽噺にしか存在しないようなモノが居るとは……いや、神檻さんの人形も同じようなモノ、なのかもしれない。もしかしたら奈留髪さんの『眼』も……。
 其処まで考えてぷるぷる、と顔を振った。いいや、別に。そんな事考えなくても良いだろう。神檻さんは神檻さんで、奈留髪さんは奈留髪さんだ。そう、ただそれだけの事。
 ん……閑話休題。
 神檻さんは眠たげに欠伸をしている。二十分程度で音を上げるなよ……ずっと立ちっ放しの私を見習えよ……全く、何処か外れてるんだからなぁ……。
「んじゃ、最後の質問かな。君は不思議な力を使うだろ? アレは何処で手に入れたものなのかを教えてもらおうか」
「ああ、それは簡単。我が家は元々妖と戦う一族だから、術とか習ってたんですよ。実に簡単な理由でしょ」
 いや、ちょとまて。そんな理由で済ませて良いのかッ?!
「物騒だな、そんな所が未だに在るのかよ」
 なに普通に受け答えしてるんですかッ!
「全く持って。実践投入は十歳からでしたからね」
 もういいや、心の中で突っ込むのは止めにして……と。
 非常にヤバイと思うのは私だけなのだろうか。十歳って言ったら小学校四年生だぞ……? 無邪気に笑ってはしゃいで遊んで、でたまに勉強してる時にそんな事やっているとは……いやはや、色々な家庭も在るものだ。正直十歳から死地へと赴きたくは無いな、などと思考してみる。
 しかし、あどけない笑顔を見せているので、それなりに充実はしてたんだろなー。
 ふぅん、と呟いて、私は物思いに耽ることにして眼を瞑った。頑張って昔のことを思い出してみよう。十歳以前の記憶を辿ってみよう。……いったい、私の子供時代はどんなものだったのだろうか。妙に気になる過去を振り返って思い出そうとするものの、いつも思い出せないでいるもどかしさったらありゃしないのだから……。

 ずきん、と頭が疼く。
 う、ぐぅうぅ……!
 世界が反転する。
 いつもこうだ。十歳より前の過去を覗こうとすると拒絶するかのように頭痛や眩暈が私を襲って正常ではいられなくなる。
 まるで脳へと気持ち悪い蟲が這入ってくるような……。
 ぐるんと胃の中のものが食道を逆流してきて吐きそうになるのを堪える。
 思わずへたり込んで顔を伏せてしまった。
 真っ先に反応したのは大悟君らしく、大袈裟なまでに驚いた声で私の名前を呼ぶ。
「秋楽さん!」
「へい、き……気にしない、で」
 はぁ、と途切れる呼吸をなるべく抑えながら返事をする。
 無理だ、この程度じゃあ、誰も平気だとは信じてくれない……。
 無理矢理痛覚などの感覚を遮断して立ち上がる。
 そして笑みを込めて言う。
「全然大丈夫! でも少し寝てきても良いですかね……?」
 神檻さんに向けた問いを奈留髪さんが代わりに答えてくれた。
「早く寝てきたほうが良いよ、安静にして。きっと疲れが溜まったんだろう」
 そういわれて私はにっこりと、作り笑いだけど微笑んで部屋を後にした。
 



         ◇          ◇            ◇



 二


「ありゃなんですか? 神檻さん」
 僕は神檻さんに訊いてみた。神檻さんは然程気にした風も無く頷いて、ポケットから煙草を取り出し口に銜え火をつける。今回の展開の速さに突っ込みを入れたいと思いつつも自分はそんなキャラではないな、などと冷静に事を判断して敢えて無言で佇んでいた。もしこんなシナリオを書く作者が居たら少し文句を入れたい気分になった。……まぁ、実際問題はそちらの方向ではない。多分頭痛だろうと思われる類に悶えていた秋楽の方だ。全く、彼女は平気だと言っていたが、明らかに顔は青ざめていてげんなりとしていたので確実に何かがあっただろうことが窺える。
 ちぃ、と舌打ちをして僕は壁に凭れ直した。
 全く持って、こういうときに限って自分に何も出来ないと思うと少し悔しくて、自分が無力なんだなと思い知らされた気がする。悔しげに歯軋りをしてみると、神檻さんがそれに気付いて一言告げてくれた。
「そんなに心配するほどでもない。じきに収まるからな……とは言え、今回のは少しキツめだったな」
 ふぅ、と煙草の白い煙と一緒に息を吐き出した。
 今回? 心配するほどでもない? っていうことはいつも起こってるってことか? ……秋楽も大分苦労しているな、神檻さんはこんな性格だし、今思えばこんな山奥に住んでるし……この人の我儘に付き合ってあげる必要は無いぞ、秋楽。と、心の中で語りかけてみた。テレパシーの如くに秋楽の心に届いていたらそれはそれで良しとしよう。
 色々と言いたい言葉を喉の奥に押し込んで黙る。
 暫くの沈黙。
 大悟君は少しお気楽に窓の外をのんびりと眺めている。立ち並ぶ木々の様子に魅入っているご様子だ。……そんなに珍しい光景か?
 神檻さんは相も変わらず煙草を口に銜えながら椅子をかたかたと鳴らしていた。
 やはり何かと落ち着かないらしい。……なんだかんだ言って結構心配しているんだよな、神檻さんって。案外優しい人だ。人は見掛けに拠らないという良い見本かもしれない。
 やがて、神檻さんが僕の方を向いてにっこりと微笑んだ。
 見たことの無い顔だ。何か裏が在りそうな気がしてならない。
「辛気臭い話は無しにして、大悟君歓迎会だ! 料理を作ってくれ! 期待してるぞ大生!」
 気軽にこんな事を言ってのけた。

 …………。
 えぇええぇぇえ!?
 ギャグかなんかですか、冗句だ、そう冗句に決まっている!
 くそっ、テンションの高さで説明の無さと展開の速さをカバーしようとするな! だれだこんなシナリオ書いた奴は!
 イキナリの発言に僕は戸惑う。
 それもそのはずで……言っておこう、僕は料理が作れないのだ。
 この前(といっても一年ほど前になるか)僕が料理しようと台所を借りて作ったら、見るに無残な食事が皿の上に乗っかっていたのを覚えている。味は言わずもがな。泣く泣く食べて……自分で作ったものを泣く泣く食べるというのは変だな。取り敢えず食べきって、もう料理は作らないと決めたのだ。
 練習しないことには上達もしないけどね……。
 無理ですよ、と一言神檻さんへ向けて言う。
 結果は予想通りに恐ろしいまでに睨んできた。そんなに睨まれても此方が困る。…………。はぁ、と嘆息して少し投げやりに神檻さんを見やり、大袈裟に腕を広げて、
「味は保証できませんし何時になるかも解りませんし食中毒になるやもしれませんが良いですか?」
 何気に嫌そうな顔してきた。いや、この場合は露骨に嫌そうな顔してきたって表現の方が正しい。煙草の先端を指で握り潰し(熱くないのだろうか)携帯灰皿を取り出して煙草をその中へと入れた。……蔑んだような瞳で僕を見るのは止めて欲しいのだが……。
「君はどうやって今まで生きてきたんだろうね。料理も作れないで独り暮らしなんて出来ないと思うが」
「心配御無用です。隣の家の人が料理を作ってきてくれるんでしてね」
 便利だなぁ、オイ。
 神檻さんからキツイ一言を浴びて少し怯む。
 勘弁して欲しい。
「しょうがない、アタシは自分でモノ作って食べるから君達は勝手にしといてくれたまえ。秋楽が復活したら歓迎会だ」
 以上、と締めて神檻さんは部屋を出て行ってしまった。案外適当な人だなぁ、と再認識して先ほどまで神檻さんが座っていた椅子を引き寄せて丁度背凭れを前にして凭れ掛かるような体勢をとる。かこんかこん、と前後に忙しなく動かして少しばかりの暇を中和してみた。時刻を見ればとうに十一時を回っており、それに気付いたら僕も少しながら腹が減ってくる。時間の流れは本当に速いと思いながら、欠伸をする。
 大悟君は眼を瞑りながら上半身を起こしていた。正直眠っているかのように見える、いや本当に眠っているのかもしれない。だとしたらかなり器用なものだな。その様子を見ていると、急に眼を開けて僕の方を見てきた。あまりにも急だったので椅子ごとひっくり返りそうになる。……なんなんだろうか、なにもやってないんだけどな。そして大きく口を開けて、
「いやはや、神檻さんってあんな人なんですねぇ。流石帯白さんの御友人、変わってるな」
 独り言なのか僕に向かって会話しているのか解らないぐらいの声の調子と大きさで喋る。此処は反応するべきか否か、するべきである。
「ごめん、迷惑掛けちゃったかな。神檻さんに代わって謝るよ」
「いえいえ、別に……」
 少し大袈裟に右手を振りながら言ってきた。
 なんだかその行動をする度に包帯で巻かれている左腕が見えて、痛々しい気分になった。此処は普通謝っとくべきところなんじゃないのか? 僕。
 悪かった、殺し屋と間違えて傷だらけの君と戦ってしまって。挙句の果てまで殺そうと襲い掛かったことを。あの時は本気で戦ってたからな……殺していたら今頃この子の友達とかに何と言ったら良いのか解らなかっただろうな……。
 ふむ、自分が同じ境遇に立った時、これを考えてみよう。
 僕がもし、しがない高校生で日本刀を持っていて左手が無く、テストの休みを利用して秋田まで来て、そして僕を殺そうとする人に会ったら……。僕等が戦ったのはこの山。つまり其処は人の領地のはず。ならば先ず不法侵入。正々堂々の殺し合いということで殺人未遂。大悟君と同じように家の中まで這入ったのならば住居不法侵入。すべて説明不足の故――。
 ……全部此方の所為という事になってしまうのかな? 法律的に見れば僕が悪いのは歴然……。
 謝って欲しくないなぁ、僕は。
 というわけで個人的妄想で謝らないことにしておく。
 多少気まずくなるけど……仕方ないと思って割り切ろうか。そんな簡単なものではないが。
「もう一回戦ってみたいな……」
 誰にも聴こえないよう呟く。
 しかし二人しか居ない空間な為か、案外声は響いて簡単に聴き取られてしまっていたらしい。大悟君はにこり、と微笑って、
「手合わせならば、何時でも相手しますよ」
「あらら、聴こえてたか。……そういえば、まだちゃんと挨拶してないねー。……改めまして宜しく、黒岸大悟君」
 僕は立ち上がって、大悟君の傍まで行って右手を出す。
 大悟君は同じように、右手を出して僕の右手に被せる。
「こちらこそ、よろしく。奈留髪大生さん」
 にっこりと笑ったその顔は何の迷いも思いも無い、清々しい顔だった。



 結局昼はほとんど食べずに終えてしまった。食べたといえば、冷蔵庫にあったつまみと菓子ぐらいなものだ。よって今も腹はぐぅ、と音を上げている。しかしながら夕飯時まではかなり時間が在る。しかしヤバイほどに腹が減っている僕はあまり満足に動けず、居間で空腹を抑えるための苦いブラック珈琲を飲むくらいしか出来ないで居る。
 ふむ、と手に持っていた熱い珈琲を口へと運んで一息つく。勿論砂糖もミルクも入れていない。これで何杯目になるか、と数えながら喉の奥へと流し込む。時刻は午後の二時を越えた。夕飯時は六時ぐらいになるだろう。それまで珈琲だけで過ごせるのかは解らないが耐えるしかないだろうな、と思って再度珈琲を口へと運んだ。苦い。
 そして恐ろしいまでの暇に耐え抜く為に、TVのチャンネルを漁ってみる。
 ……駄目だ、面白いものが何一つとやっていない。
 ちぇ、と舌打ちしてリモコンを放り投げた。
 本格的にすることが無くなった。暇だ。
 多分暇すぎて死ぬという言葉は僕のために在るのだろう。
 いやマジで。
 …………。
 くそっ、外の空気でも吸うか……。
 僕は立ち上がってすぐ傍の扉を開けた。廊下が短くも続いており、玄関が見える。
 部屋を出るとイキナリ寒気が襲ってきた。ああ、もう……! 少し速歩きで外へと出て思い切り空気を吸う。
 さむっ!
 こんなに寒いとは思いもしませんでしたがッ!
 はぁ、と息を吐けば白く空気と融け込んで、周りの木々は風に揺られ音を鳴らした。やはりなんだかんだと言っても山奥だ。太陽の光は存分に降り注がないからな……。いや、此処が特別なだけかも、こんなに枝に木の葉がついてるとか今の季節在り得ないからな。
 切り裂くような冷たい風に体を震わせながら周りを見やると、少し横の木に秋楽が居た。
 ……何やってんだろうか?
 歩いて近づく。
 ざむざむ、と落ち葉が小気味良い音が鳴って寒さを紛らわしてくれた。
「気分はどうだい?」
「ああ、結構良好ですよ。あ、昼ご飯どうしました? もしかしたら食べてないんじゃ……!」
 振り返って此方に気付いたと思ったら、こんな気楽なことを言ってのける。
 うん、やっぱりこういう秋楽のほうがしっくりくるな。
「食べたよ。そんな気にするほどでもないさ。今は自分の体を心配しなって」
 半分は嘘が入っているが。
 ぽんぽん、とにこやかに微笑みながら肩を叩いてみた。
 むぅ、と頬を膨らます。うわっ、すごい可愛い。それこそ神檻さんの作ではないが、人形みたいな顔だ……。
 秋楽は顔を赤らめて、と、とにかくと仕切りなおした。
「夕飯はかなり豪勢にいきますからねッ! 期待していてくださいよ!」
「ああ、今からが楽しみだよ」
 これは本音だった。
 今から秋楽がどんな夕飯を作るのだろうという事で、多分時間は潰せるだろうと思う。
 なんだか、わくわくしてきた。
 僕は胸に期待を秘めながら、木の下へと移動して落ち葉の中へと埋れるように座る。秋の終わりの落ち葉の匂いが僕の鼻腔を擽った。
「汚れますよ?」
「ああ、良いんだよ。こうするのは好きだからね……」
 ふぅ、と息を吐き出して枝々の合間から見える空を見る。雲はやや多いものの、結局は天気予報で言う晴れに属する天気なのだろう。太陽の光を浴びて煌く空は儚い夢のように思えた。多分、昔の自分が思っていた夢と同じなのだろうと思う。しかし、その夢は今叶っているのだから、別にどうでも良い。
 もう、と秋楽が呆れて僕の隣へと腰掛けた。
「汚れるよ?」
 秋楽と同じ言葉を繰り返してみた。
「お互い様でしょう?」
 くすり、と微笑って僕の眼を見る。
 黒く塗りつぶした瞳に僕が映る。
 さて、秋楽には僕がこう見えているのだろうか……?
 ふざけた考えが浮かぶ。
 なんだか可笑しくて、少し笑って眼を瞑った。
「ねぇ、秋楽」
「はい?」
 前々から訊きたかった言葉を口に出す。
「今、生きていて楽しい?」
 眼を開けて、秋楽の瞳をじっくりと見据えて訊く。秋楽はわざとらしく手を口元に当てて考えるふりをし、少ししてから微笑んで答えた。
「……楽しいですよ。今、私はすごく楽しいです。最近会った大悟君も前々から知っていた神檻さんも――そして奈留髪さんも。貴方達みたいな友人を持って、私はすごく幸せです」
 予想通りの答えが返ってきた。
 しかし、その友人の中に僕が入っていたのは予想外。
 なんだか、むず痒かったけど顔は綻び、喜んでたんだろうと思う。
「そうか……んじゃ、家へと戻るかな」
 立ち上がって、笑う。
 燦々と射し込む陽射しは少し眩しかった。
 僕は秋楽から差し出された手を握って立ち上がらせる。
 いつまでも、秋楽が平和でありますように、と。
 脈絡も無くそう思った。

 そして本当に今日の夕飯は豪華絢爛で、珍しく秋田のきりたんぽ鍋だった。
 多分これは大悟君のために作ったものだろうと思われる。
 そうだ、秋田に来たからにはこれを食べなければ始まらないだろう。
 そういえば、自分も此処に来てこれを食べていなかったのだ。
 一石二鳥っと……。
 そう思って、きりたんぽを口へと運んだ。




         ◇          ◇            ◇



 いつものような朝。
 神檻は早朝だというのに起きていた。
「……ふぅ」
 いやはや、徹夜なんて何年ぶりか。……全く、柄でもないことをさせてくれるよなぁ、真由よ。お前が大悟君をやってこさせたのが悪いんだ……。
 嘆息する。しかし、あながち悪い気分でもないな、と思いながら傍らに在った紅茶を飲み干した。
 義手は中々良い感じに仕上がった。予備にもう一つ創っておいてやったし、これならば暫くはもつだろう。
 仕事を完成させて集中力が切れたためか、一気に睡魔が襲ってきた。……まぁ、今回は特別だ。此処で寝てしまっても良いだろう。机に突っ伏して思考を切り替える。
 がしっ、と頭を小突かれた。
「ちぃ、なんだ……?」
 呟いて、小突いたモノを見る。
 一体の人形が浮いていた。翼を持っていてばさばさ、と羽ばたいている。見た目は燕みたいに見えるだろう。なにやら伝えたいことが在るらしい。忙しなさでそれが解った(しかし人形にも感情が在るのかといったら否なのだが)
「解った、視せろ」
 神檻はそう言って眼を瞑った。
 人形が神檻の頭の上に乗っかって翼を休める。
 頭の中に流れる映像。
 一人……二人……ちぃ、三人も居るのか。
 視終って神檻は再度呟く。
「くそっ、面倒なことになりそうだ……」



         ◇          ◇            ◇




「ん……よっと」
 俺は寝起きでボケている体に無理矢理喝を入れて起き上がった。そばに在った携帯で時刻を確認すれば七時十分、標準の時間だな。もう、此処の生活にも慣れてきたところで、四日目になる。窓から降り注ぐ陽射しは最高に気持ちが良いし、風は冷たいけど爽やかだ。俺が暮らしていた荒薙市とは大違い。全く、こういうところが全然無いから日本人の心はギスギスしてしまうんじゃないだろうか。
 ……あー、ちょっとまてよ?
 ……何か忘れている気がする。いや、確実に忘れている。
 ……しまっ!
「今日から学校のテストじゃねぇかァッ!」
 やべぇ、非常にヤバイ! のんびりしていたのが仇となったのか? なんにせよ、これはかなり危険な状況だ! 下手すれば……くそぉ、考えたくねぇ! ってかまだ左手も出来てないんだよね……。
 非常に危険な状態。
 取り敢えず田渕にでも電話して言い訳してもらうか……。七時十分なら十分に起きている時間帯だろう。まぁ、携帯持っていないかもしれないけど。早速十秒前程にベッドに置いていた携帯を再度取り直しメモリを見る。……在った。機械音が鳴り響き、清々しい気分を一瞬で消し去ってくれる。やってくれるじゃねぇか……!
 コール音が続く。
 ――早く繋がれっ。
『大悟! お前連絡ぐらいしろよ馬鹿野郎ッ!』
 直後つんざくような雄叫びとも怒号ともとれるほどのボリュームで俺の耳を貫いてくれた。耳がキーンってする。果てしねぇ……。
「悪いな、色々大変なんだよこっちも。でな、ちぃと伝えといてくれねぇ? 帰るの何時になるか解らんから、今日のテストは出席出来ん」
 軽く懇願して田渕の反応を待った。
『……オッケ。でもなるべく早く帰って来いよ。皆が寂しがってるぜ?』
 くくく、と笑い声が聴こえた。
 どういう意味だか全く真意が掴めない。
 意味深長。
「二、三日したら多分目処が付く。んじゃな、元気にやってろよ!」
『お互い様ッ!』
 俺は通話を切断した。つーつー、と機械音が鳴り響く。
 俺は携帯を折り畳んで置き、取り敢えず服を着替えようと提案する。……しかし片腕では中々着替えれないだろう。これもリハビリの一環か、と嘆息して鞄から服を取り出した。此処に来た時に奈留髪さんと戦って受けたダメージ、怪我ともに中々回復した。殴られた時に肋骨が少し痛んでいたのはビックリしたが。戦闘の時はあんまり痛みを感じないから、こういうところでビックリするんだよね……。それもやはり鍛えてたりする所為かもう大丈夫。……『氣』を操れるからだとも思うが。
 案の定、ズボンを穿くところで滅茶苦茶苦戦した。てめぇ、このやろう!
 破れそうな勢いで思い切り足を蹴りだし、ベッドの角に小指をぶつけ悶絶。
「つうああぁあ!」
 ……朝から踏んだり蹴ったりだよチクショー!

 仕切り直して部屋を出ようと扉に近づく。なんだか、さっきの時間が数十分にも思えたのは何故だろうか。ああ、痛みの所為か。扉を開ければ景色が広がった。暖炉がぱちぱち、と燃えていて暖房の代わりとなっている。……あれ、誰も居ねぇ。いっつも誰か居たのにな……いや、いっつもって言っても三日泊まっただけじゃ解んねぇよな。うん、そうそう解んない! と無駄にハイテンションを繕って誤魔化す。いや、何を?
 ぐぅ、と腹の音が鳴る。
 ……取り敢えず朝を食べないことには始まらないだろう。
 それならば皆様が何処へ居るのか捜さないといけねぇな。
 その場で脚踏みをして半ば眠っていた両脚を起こし、自動的に行動を開始。と、言っても脳内から命令が来ているので脚が勝手に行動しているわけじゃあないけどね。
「アトリエ小屋に居るかも知んねぇな」
 呟いて動き出す。少し軽めの格好なので外は寒いかもしれないけれど、それはそれで眼を覚まさせてくれるかもしれない。扉を開けて、外へと出た。
 ……寒いぃあぁ!
 脱兎の如くに元居た場所へと戻って、鞄の中より持ってきていたふかふかの上着を取り出す。全体的に黒で統一されていて、周りにふさふさの白い毛が付けられており少しゴージャスな気分になれるという代物だ。素晴らしい。因みに俺のものではない。またまた素晴らしい。桜井のものだ。つまりどのように扱っても良いということだ。大袈裟に振って背中より羽織る。見た目通りに暖かく、このまま貰ってしまおうか、と思ってしまった。元はといえば俺の家に忘れていった桜井が悪い。
 再度外へと出る。大分寒さは緩和出来たので良しとする。どうせ、十mも無い距離だ。
 扉を開けて、アトリエの中へと這入る。
 いつもと変わらぬ、変に人形がぎっしりと詰め込まれたような、例えるならば缶詰の中身のようなアトリエ内にて唯一の空間。それは机の周りのスペースのみで。
 其処に神檻さんが居たわけで。
 でもなんか机に突っ伏して一見寝ているように見えるわけで。
 ってか寝てるだろうな。
 起こすのも無粋だ、と思ってその場に立ち尽くしながら開けっ放しの扉を閉める。吹き晒していた冷たい秋風が唐突に止んで、空白と言うか、静寂が訪れた。
 すぅ、と緩やかな寝息を立てている。
 こうして見ると、いつもの邪険な態度などは全く見られないのに。
「……ん……ああ、おはよう大悟君」
 あ、起きた。
「おはようございます、神檻さん」
「なんだ、温そうな格好をしてるな。アタシにくれよ、それ」
「朝っぱらから勘弁してください」
 マジで。俺を殺す気かよ?
 寝惚け眼の瞳で俺の顔をじっと見ている。人の裏側まで見透すような漆黒の眼は、なんだか相対しているだけでもあまり気持ちの良いものではないのだが……慣れというやつなのか、最早微塵も気にならなくなった。おぉ、微笑ましきや。これで帯白さんと会っても怯まずに済むぜ! いや、楽観してられる問題じゃねぇって。
 基本的に黒で統一していることは相も変わらず変わらない。毎日同じ服かと思ったら色が同じだけで服は違うというなんとなくちぐはぐした感じだ。……あれ? 下がズボンだ。いつもは普通のスカートなのにな……。……にしても、こんな所で寝ているとは。この三日間で全くそんな事無かったのに、少しばかり不自然……かな? ま、俺が知らないだけで、よくある事なのかもしれないだろうな。
 見渡す限り、人形に埋もれているこのアトリエ。ぶっちゃけ空間の使い方が下手といっても過言ではないんじゃねぇの? 流石に本人を前にしてそんなことは言えないが。
 ……ん、そういやアソコ一帯だけが人形に囲まれてないな……。
 何か在るんだろうか。
 そんなことを悠長に考えていると、唐突に神檻さんが身を起こし立ち上がった。……ビックリするから俺に一言申し出てから行動してください。そのまま無言で、さっき俺が凝視していたスペースへと這入っていく。流麗な動作で行われる行動はまったく無駄が無い。今更ながら、この人は普段の生活にもなんだか警戒心でも張っているのではないか、と思ってしまった。俺の思い違いであれば嬉しいのだが。
 それを見ていると、神檻さんの右手が俺を誘っているかのように見えた。
 ……ついて来い、ってことか?
 ……行ってみますかね。
 そう呟いて、俺は神檻さんの後についていった。

 案外空間が長かった。
 てか長すぎ。
 ただの廊下の癖して百m前後在るんじゃねぇかと思わせてくれる。いや、多分在る。絶対在る。
 通路は大分狭くなっていて、一人分しか通行できないほどの狭さだ。灯りは本当に申し訳程度。小さい白色電球が吊り下がっているだけ。ぶっちゃけ安っぽい。もう少し予算を回しても良かったのではないか? 変なところで予算削るなよ……。
 無駄にふざけた考え事をしながら歩く。最早神檻さんの姿は見えない。速すぎ。
 地面の感触はあまり気持ちの良いものではなかった。ひんやりとしていて、気持ちが悪い。因みに俺は今、スリッパを履いているがそれでも関係無く透き通るように浸透してくる。
 しかし、さっきからぐるぐる回っている気がする。ずっと、右へ曲がり、右へ曲がりばっかしてるし。本当に神檻さんに追いつけるのだろうか? 時々見える扉はダミーだと思われるし(触ろうとしたらなんか弾けた。意味解らん)正直どうしたら良いのだろうか。真面目に考える必要が在るだろう。
「……百m軽く越したよな?」
 はぁ、と嘆息する。正直言って、長すぎる。先程も言ったが。
 いい加減諦め気味に、俯いて顔を掌で覆う。そのまま顔を上げた。
 ……っと、あれが目的地かな。
 指と指の隙間から見えたのは突き当たりと扉。
「またダミーじゃねぇだろうな……」
 呟いて近づき、覚悟を決めて思い切り扉を開く。
 思い切り部屋の中へと開きすぎて勢い余ってこけた。
 いてぇ!
 追撃のように何かが背中へと落ちた。
 さらにいてぇ!
 いや、連続で来られても困るからっ!
 雪崩のように押し込んでくる何かが背中へとぶつかる。実際はあんまり痛くなかったけれど、ノリで。
 
 からん。
 乾いた音と共にそれは已んだ。
 舌打ちをして体を起こす。
「遅い」
 それが目の前に居た神檻さんの第一声だった。
 部屋は大分眩しい。蛍光灯はちゃんと付けられているし、フル稼働している模様だし、空気清浄機完備。ぼやける視界を振り絞って見ると、人形があった。アトリエは優に百体を超していただろう(多分)でも、此処に在るのはたった数体。かなり少ない……が、一つ一つに洗練された業が見られる。雰囲気としては実にライト。端に人形が在る以外は、ほとんど家と同じだ。アンティークな家具が揃っている。中央には紅と茶が丁寧に織り込まれた絨毯とイタリア風のテーブル。地べたに座れということなのだろうか。この部屋は半分に分断されてるんだろう。半分は私的スペース、半分は仕事スペース。
 まるで時間軸がゆったりとずれているかのような雰囲気。うわぁ、解りにくいっ。
「あ、君正解」
「はぁ?」
 素っ頓狂な声を上げて、座っている神檻さんのほうへと近づく。コートの衣擦れ音が、部屋を満たす。
「だからね、此処って時間軸ずれてんの。外の三十分が、此方の一時間に相当するわけなんだよ」
「ちょっ、それって空間歪曲ですよね? なんでそんなことが……!」
 空間歪曲とは我が≪八咫烏≫の能力と同じと思ってください。いじょ。
 ……悪かった、ちゃんとする。つまり、この場合は空間を捻じ曲げて、元の空間より広くしよーっ! ってな使い方が出来るわけです。レヴェル高し。普通の人たちには出来ません。普通ってか俺も≪八咫烏≫無いと出来ません! 今度こそ以上!
「ああ、違う違う。『時軸歪曲』だから」
「すいません、聞きなれない単語が入ってたのは気のせいですよね」
 時軸歪曲ってなんですか?
「簡単に言うと、『空間歪曲』と原理は同じなんだよ。その方向性を時間へと変えただけ」
「解りにくいです」
「理解力ゼロかよっ。まぁ、いい。つまりだな、本当に簡単に言うと、時間の流れ方を変える、ということだ。空間を広く見せるのと同じ。時間を長く感じさせるんだよ。まぁ、正確には全く違うんだが、大体としては合ってるだろう。今度こそ解ったかい?」
 矛盾しているようで矛盾していないような言葉を述べて、ふぅ、と息を吐いた。
 こくん、と頷く。大体は呑み込めた。つまり、時間を長くするのか。
 道理でなんかゆったりしてると思ったぜ。
 ……多分、時間を長くするで合ってると思います。理解できた皆は手を挙げて!
 オーケィ、話を進めようじゃないか。
 取り敢えず、神檻さんの座っている場所からテーブルを挟んで俺も座ることにした。なんか、人形から威圧感みたいなものが絶え間無く出ているような気がする。気のせいと思いたい。
 それとは反して神檻さんは立ち上がった。かつかつ、と何処から出しているのか解らない音をさせて、端に在った大きな作業机の上から何かを取る。
 此方を振り向いて、にぃ、と笑った。
「君の義手が完成したから着けようと思ってね」
「で、出来たんですか?!」
 ああ、と頷いて右手に持ったモノを見せてくれた。それはれっきとした人間の腕そのもの。何処にも義手とは感じさせないつくりだ。正直神業と言っても良い。……関節部分どうやって創ったんだろうか?
「すげ……」
 思わず感嘆の声が漏れてしまった。
 それほど精巧なつくり。
 義手だとは思わせず、完璧な人間の腕の構造――。
 此処に来た時戦り合った人形は、精巧に創られていたが、反面確実に人間ではないと解ってしまう創りだった。完璧すぎて完璧じゃない、と言ったところだろうか。
 ……で、これどうやって着けるの?
「ちょっと動くなよー……」
「……何ですか、全く」
 義手を持って近づいてきた神檻さんに聴こえないように呟く。ついでにコートも脱いだ。
 しゅるしゅる、と包帯の取れる音がして、切断された部位が露わとなる。
 ……見てて気持ちの良いモンじゃないな……。
 どす黒く変色した血が、止血の効果を齎してくれているのだろう。しかし、それはあまりにグロテスク。微妙に波打つ血管が見えて、普通の人間だったら吐き気を催すだろう。最悪だ。筋肉がびくびくと動くのも見れる。……吐き気がしてきた。
 しかし、神檻さんはものともせずに切断面と接合面を合わせて、指でその部分をなぞっていく。
 指が通り過ぎた部位は、ピッタリと皮膚と接合していた。ありえねぇって!
「だぁ、動くなっ! この後まだやる事があるんだ!」
「すいません!」
 思わず返す声にも力が入る。
 接合し終わったら、今度はなんか寝かされた。更に上半身裸にされた。それ以前に地面でこれするっておかしくねぇ? 普通さ、手術台の上とかでするだろ。
 ベタベタと俺の左腕を丹念に触る。多分異常が無いかを触診で調べているのだろう。流石その筋をいっている人である、的確かつスピーディにその動作は行われ、十分程度で終ったんじゃないかな。いや、まだ寝かされたまんまなんだけどね。一部工程が終ったのか、少し休んで口を開いた。
「痛覚はいるか?」
「自分でシャットダウン出来るならば欲しいですね」
 ん、と頷いてまた作業に掛かった。
 ってか痛覚って後からつけたせれるモンなんですねー、マジビビッたが。
 なんか、それからは触っていじってばっかだった。
 つまらないから寝ることにしよう。
 おやすみー……。

 恐ろしいほどの痛みで眼が覚めた。どうやら義手を思い切り殴られたらしい。成程、痛覚を付けてくれたのか。今の痛みを知ると、有り難いのやら有り難くないのやら。まぁ、俺は別に人間の域を逸脱する気は無いから良いんだけどね。
「起きたか……アタシに何回叩かせたら気が済むんだ?」
「何回?」
「十回。……ところでどうだ。痛覚の方は。意識すれば全然痛く無くなるはずなんだが」
 ……意識するとはどのような事を?
 ああ、痛むなー、って念じりゃ良いのか。
 念じてみると、だんだんと痛みが薄れていく。徐々に、徐々にだが。
 結局痛みが取れたのは二分ぐらいしてからだった。正直、これじゃあ無かったほうがマシだった。未来見えてたらこんな事してねぇよ! ばかー!
「あらら、まぁ多分体に慣れてないからだろう。巧く動かせないだろ、それ。数時間で完全に接合するからな」
「ふぅん……」
 だから今動かせないのか。ぶらん、と垂れ下がった義手を見る。動け、と頭の中で命令しているのだが全く動かない。いっそのこと、吹き飛べと命令してみたらどうだろうかいや止めておこう。この歳で死にたくないからな!
「んじゃ、私はまだやる事が在るから、暫く此処に居て腕を慣れさせてくれ。紅茶とかは其処の小部屋に一式在るから淹れれる」
 最後に、解ったな、と念を押して神檻さんは不恰好な黒のスーツケースらしきもの(かなり横に長く、人が一人ほど入っても余裕だろう)を持って出て行った。
 なんだか、不審に思った。何かを急いているように見えたけど……。
 ちっ、と舌打ちして起こしかけた体をまた倒す。
 ……心配だが、言わないということは多分自分でどうにかできるという事だ。ならば、俺が進んで手を貸す必要もない気がする。それ以前に今の俺では足手纏いもいいところ、か……。
「少なくとも、今の俺には何も出来ねぇな……」
 出来るだけ速く、接合を完了させようと思って、俺は寝ることにした。
 いや、寝る子は育つって言うしね!
 眼を閉じて最後に思ったことは、皆が無事でいますように、ということだった。
 まどろみに堕ちていく――。


 一昨日の夢を見た。
「ああ、じゃあやりますよ」
 大悟が呟く。
 何故、俺がこんなことをしなければならないのか。元はといえば神檻さんが原因だったんだ。
 なぁ、術を見せてくれよ。まずは神檻さんのこの一言から始まって皆に伝染、でもって病人の俺がこんなことをしなきゃならなくなったんだ。病人をおいそれと起こすなと言う。マジでふざけんな!
 皆が見守る中で結局やることになってしまったのだった。後で皆呪ってやる……!
 くそぉ! 心の中でぼやきながら、精神を集中させる。
「砲閃火!」
 ばう、と大悟の右掌からでた閃光は目の前の木々を一瞬にして焼き尽くし、倒していく。踏ん張りの利かない両脚で立っていたので大悟は少し後ろへと反動で下がった。ていうか、こけた。
「っつ……」
「あっはっは、悪い悪い」
 神檻が大悟の手を引っ張って起こす。
「でも、すごかったな。アタシも今度機会が在ったら使ってみるか」
「あー、勘弁してください。俺の存在感が無くなります」
 苦笑しながら大悟も応答する。
 全くこの人は、どうにも掴みづらい人だけど、こういうときは素直に面白い人なんだよな。心のうちで呟いて、また苦笑した。なんだか可笑しい。
「それじゃあ、少し早いけど昼ご飯にしますか?」
 秋楽がにこやかにそう言った。
 勿論これには全員が頷き、各々で家の中へと這入っていく。
 大悟は神檻の横顔を見て、なんだか意味深な顔をしているな、と思った。


         ◇          ◇            ◇





 かつかつ、という音がアトリエ内を満たしている。
 人形の合間を縫うようにして現れた神檻は早速椅子に座って、脚を組んだ。今日はいつものようにスカートではなく、黒に塗られたジーンズだ。神檻の特注製で、大分丈夫に出来ている。
 ふぅ、大悟君をあそこへ何時間抑えてられるかな? ……いや、もしかしたら数十分かもしれない。それならそれで、別に良いか。……多分それぐらいには終るだろう。
 スーツケースを適当に置いて、辺りの人形を見回す。
 ……何者かが紛れている気配はない。
 早朝に視た光景では、敵は三人といったところだろう。増援を呼んでくれていないことを祈るのみだ。正直大悟君が居ない今、これ以上の人数は相手に出来ない。
 神檻はポケットより煙草を取り出して手馴れたように愛用のジッポライターで火を付ける。しゅぼっ、と小気味良い音が鳴って先端から紫煙が吐き出された。安らぎの一時、何時壊されるかも解らない。出来るだけ遅くが良いな、と神檻は悠長に考えていた。煙草を唇から離す。合間から紫煙が零れた。直後。
 
 風。風が流れた。
 頬を撫ぜるように緩やかに――そして迅く。
 
 けたたましい轟音と共にアトリエの壁が決壊を始める。穴が開いていた。しかも向かい合っている壁もまた、穴が開いている。
 ……これが風の正体か……。
「ちっ、こんなに速くからか……っ!」
 立ち上がって、スーツケースを思い切り蹴飛ばす。それとほぼ同時に第二波がやってきた。雷が奔ったような鋭い轟音。壁に穴を開けて去っていく。第三波。数体の人形の頭が吹き飛ばされた。焦って神檻はスーツケースの方向を見る。そして次の瞬間何事も無かったかのように外へと駆け出た。
 人影が見える。気配を探ってみると、目の前の人影以外存在しないようだ。人影の右腕が動き、弾ける。神檻の遙か後方の木々が大きな音と共に穿たれた。
「危ない事してくれんじゃねぇか……」
 目の前の人影に向かって放たれた言葉。
 青年が其処には立っていた。
 飄々とした風貌は何処と無く少年を連想させ、しかし顔立ち決して幼くは無く年齢は二十代前半といった所だろう。周りの景色に溶け込むように、焦げ茶の服とマントを羽織っている。下は普通のベージュのズボンだ。恐ろしいまでに、マントと服装が合っていない。今風の若者の服装に古風なマントは如何にも怪しげな人間にしか見せてくれないようだ。青年の赤銅色の髪はぼさぼさ、と纏まりが無く、同じく赤銅の双眸は貫くような鋭さを持つ。
 おもむろに口を開いた。
「≪蒐集者(ハンター)≫……≪十二人の戦士(トゥエルブ)≫のNo8(オーガスタ)、ベリアルだ」
「ややっこしいな。読者様に申し訳が立たないだろうが。もう少し解り易い説明は出来ないのか?」
「生憎、性分なんでな」
 くく、と口を歪ませる。先程の少年の風貌は何処へやら。風に乗って何処かへ行ってしまったらしい。
 ≪蒐集者≫と言えば、フランスを中心とした対怪物組織のはず……ちぃ、人外どもが。
 神檻は心の中で毒づきながら目の前のベリアルという青年を睨み、煙草のフィルターを強く噛み締める。唇の合間から紫煙が零れ落ちた。冷静に状況を考察する。右手に見えるのは銃だろう。リボルバータイプで銃身が短く、でかい口径を持っている。六発式、銃弾は……先程のアトリエの壁を貫通するところを見ると特別製……?
 いや……。
「おっと、先に言っとくが、この弾丸はハイドラショックなんかじゃねぇぜ?」
「思考を先読みとは恐れ入るよ。じゃあ、特別製ってことになるのかな?」
 ……成程、それもそうか。ハイドラショックだったらアトリエの厚い壁を貫くなんてそうそう出来やしない。
 ハイドラショックとは物体衝突時に弾頭が潰れ、衝撃を直接伝える構造となっているため、物体の貫通力が落ちるものの、衝撃、威力共々恐ろしいまでになる。特に人体に与える被害は計り知れない。上級警察官、法執行人などしか使用が許されていない弾丸である。
「はっ、お喋りはこれ位で良いだろう? とっとと戦り合おうぜ……!」
「オイオイ、気が早いな。そんなんじゃ女の子にモテないぞ」
 軽く応じて受け流す神檻。
 相手の武器が解ったとしても、実力はまだ計り知れない。……このまま戦うのは少しばかり不利だ……。もう少し先延ばしに出来ると、この上なく嬉しいのだが。
「一つ訊こうか。何故、フランスのお前らがこんな極東の僻地まで来た」
 煙草の吸殻の先を指で潰して携帯用の灰皿の中へと入れる。
 そしてまた箱を出して、一本を口で銜えて火を付ける。
 その紫煙を思い切り肺へと吸い込み、吐き出す。
「安易。知れたことだろ? 手前の立場を考えろってんだ」
「流暢な日本語だ。何処で学んだ」
「脳内にチップが埋め込んであんだよ。それが翻訳機の役割を果してくれるわけだ」
「現代の科学力じゃ考えられないことだな、全く。つくづく嫌気が差すよ」
 飄々とした態度で話すベリアル。
 それをあくまで冷静に受け流す神檻。
 戦いはもう始まってると言っても過言ではない。
 約三十mの距離。そんな中で会話しているのだ。
 相手の得物は銃。
 その気になれば打ち抜くことなどわけない――。
「っとォ。話し過ぎちまったか。……さて、これで俺には語ることが無くなった訳だ」
 ベリアルが大袈裟に体を後ろに反らしながら言う。
 確かに神檻としても、これ以上訊いても何も得られないことは確実だろう。
 ってか、もう相手はヤル気じゃねぇかよ……。
 構える。

 一発の銃声が鳴り響く。
 それが戦闘開始の合図となった。



「ばん!(BANG!)」
 遊びじゃねぇんだぞ……!
 そんな思いがふと、神檻の脳裏を過ぎる。
「ははっ、どうした?! ほら、もっと攻めてこいよっ」
 鬱陶しい。
 あれじゃあ、ただの戦闘狂だ。
 外国の組織とはあーいうものばかりなのか……。
「つまんねぇぞォ!」
 銃声が轟く。
 次いで神檻の足元が穿たれた。
 くそがっ……。
 先程から戦況は変わらない。
 ベリアルは木の上に飛び移ったらしい。少し上を向けば、それが解った。其処から神檻に向かって銃撃している。まるで、動くターゲットを狙うような狂喜の笑みが、其処にはあった。
 一方神檻は地面を走り回っている。一箇所に固まっているとベリアルの銃撃で蜂の巣にされるからだ。今のところ打開策は見受けられない。
 走る度に落ち葉が鳴り、先程まで居た所に落ち葉が舞い、穿たれる。
 このままじゃあ、イタチごっこも甚だしい。
 ジリ貧に持ち込まれて此方の負けだ。
 ……何か対策を練らなければ。
「どうしたっ」
「ちぃっ……煩い……」
 戦闘狂が。
 此方は逃げ回るのに精一杯だというのに……。
 思考する。その間にも足元は穿たれていく。リロードは一体何時行っているのだろうか、と頭の片隅に思いながら、神檻は打開策を練る。
 ……ん?
 閃いた。神檻は少し笑う。確かに自分には遠距離用の技は無い。だが、しかし。
 『他人の技』ならば、遠距離用の技が在る。二日前に見せてもらったきりだが……。
 あの時はまぁ、こんな速くに使うとは思ってなかったし、ってか実際使う日なんて来ないと思っていたのだが。あの時はあの時だ、今使わないで何時使う。
 確かこうやって……掌に『氣』を集中させるんだったか? ……ああ、アタシはそんなもの操れなかったな。ならば、『魔力』で代替可能かな?
 神檻は右手を緩やかにベリアルの方へと向けて、内側に在る力を掌へと収斂させる。一抹の不安も拭いきれなかったが、今はこれに賭けるしかない。もし、上手くいったのならば、時間稼ぎにはなるだろう。確か名を……。
「砲閃火……」
 神檻の右掌から出た閃光。
 それは正確かつ的確にベリアルを捉え、進んでいく。
「なっ……!」
 驚きの声を上げたのが聴こえる。
 だが、それに気付いた時にはもう既に遅い。
 ベリアルの目前まで直進した閃光。
 その閃光はベリアルを弾き飛ばす……はずだった。
 ぱぁん、と弾ける音が鳴って、急に閃光が掻き消される。
 何かが絶ち込める。言うなればそれは魔力の霧みたいなものだった。
 それが晴れて現れたベリアルの姿を見て神檻は少しばかり驚いた。
 ……無傷かよ。
「っはぁ。危なかったぜ。何、今の。東洋の神秘?」
「なんだ、今の。西洋の神秘?」
 神檻は嘆息しながら、口に銜えていた煙草を棄てる。やはり、『氣』と『魔力』じゃ、根本から違うから代用にはならなかったか……。少し悔しい。
「はぁ、魔力をぶつけただけだろ? 珍しいことでもあるまいに」
「なのに得物に頼るか……自分の質を落としていることに気付かないか」
 少し歯軋りが聴こえた。
 顔を見ると苛立ちに満ちている。
「言ってくれるじゃねぇか……」
 ……短気だな。
「命取りに」
 なるぞ、と全部言う前に、それはベリアルの銃声によって消された。少しの静寂は見事に破られ、緊迫感が一気に増していく。絶え間無く銃口からは硝煙が上がり、その度につんざくような音が轟き神檻の耳を貫いていく。先程までならばどうすることも出来ない状況に縺れ込んでしまった。、
 しかし、今ならば応戦ぐらいは出来るだろう。
「後悔させてやるぜ……」
 落ち葉の鳴る音が聴こえてその方向を向くと、ベリアルが木の上から降りてきている。そして、此方へと疾走してきた。銃口が此方に向けて在り、どうやら近距離から打ち抜く算段だろう。
 ……短気が。
 神檻は呆れてモノを言うことも出来なくなった。
 銃というモノは接近戦では如何程の価値も無くなる。何故ならば銃とは所詮遠距離用の為に開発されたモノだからだ。遠距離から相手の反撃を受けずに殺傷させる……それが銃の真骨頂。接近戦ではナイフなどの方が圧倒的優位に立てる。しかも更に、走りながらでは狙いを定められない――。
 ベリアルの疾走に対して、神檻も疾走する。
 ベリアルが此方に銃口を合わせて、引き金を引く。が、勿論当たらない。銃身は絶え間無く動いている為正確に狙えるほうがどうかしているのだ。
 両者の距離はあっという間に縮まって――。
「遅い」
 掌底をベリアルの鳩尾に深く押し込む。次いで宙に浮いた体を蹴り飛ばし、追い掛けて落下間際のベリアルへと右腕を振り下ろす。全く無駄のない、流麗な動作から繰り出されたそれを回避する術は無く、ベリアルは地面へと叩きつけられた。がはっ、と喘ぎ声と共に鮮血が吐き出される。
「無様。雑魚の癖にしてでしゃばるんじゃない」
「テメェ……まだ決まったわけじゃねぇんだよっ」
 跳ねるようにして起き上がり、後ろへ飛んで間合いを取ってきた。
 ……何をすると言うのか。
 銃撃ならばもはや通用しないことは解りきってるだろうに……。
 半ば呆れ気味に吐いた溜息。それは怖気と共に吹き飛んでいく。
「なっ……」
 ベリアルの両手に細長い閃光が往き交っている……。
 ヤバイ。これはヤバイ。
 神檻は直感的にそう感じた。
「消えろっ!」
「くそがっ……」
 言うなればそれは爆音にも似ていた。
 紫電が迸り、圧倒的な脅威となって襲い掛かる。
 神檻の見える世界は真っ白に染まる。

「……ぷはぁ……っ」
 危ない危ない……当たっていれば確実に消し炭になってただろう。かといって、次に来た時に避けろといわれてもそんな事出来る自身も無い。さて、どうすれば良いか……。戦闘を始めて二十分余りか、此方としても決めに掛かりたい頃合だ。ていうか、蹴り飛ばしたケースは何処へ行った……?
 神檻は辺りを見回す。丁度先程のベリアルの攻撃を境に小休止、と言ったところだろうか。神檻は今、アトリエの陰に隠れている。少し覗くとベリアルが手に力を溜めて待ち構えているのが見えた。今出れば死は免れないだろう。
 ……ちぃ、ケースは何処だ……?
 辺りを更に見回す。
「……あった」
 恐らく先程のベリアルの攻撃で吹き飛んだのだろう、木々の合間に隠れていた。全く、在り得ないというか……多大な迷惑をかけてくれる。……ベリアルから見たら解らないだろうからバレる心配は無い。しかし、取りに行くとなると身を危険に晒さなければならない。木々との間は二十mほど在る。しかも其処を通るときにベリアルの真正面へと出てしまう。
 くそっ……どうするか……。
 幸いまだ自分も含めて見つかっていない。考える時間は在る。
 …………。
 数秒か、数分か、はたまた数時間かもしれない。いや、数刹那ということも在り得るぐらいの時間で、神檻は策を考え付いたのだった。我ながら速いな、と呟きながらその方法を実行しようと呟いた。
「≪人形遣い≫は腐っちゃいないからな」
 そうすれば、先ずは人形から手にしなければならないだろう。幸い此処はアトリエの近く。這入って直ぐの部屋の人形はほとんどカモフラージュの為に置いてあるといっても、使い物にならない訳でもない。相手の虚をつくには十分な出来だろう。アタシは不十分なモノは創らない主義なんだ、と誰にとも無く神檻は呟いて動き出す。アトリエの決壊した壁に手を伸ばす。人が這入れるまでとは言わないが、取り敢えず手が這入るぐらいの余裕は在る。其処に手を入れて近くに在った数体の人形に触れる。そうしてから、一息吐いて、
「……動け」
 命令するように、言った。恐らくは人形に対して向けられた言葉。
 別に人形に思考など在るわけは無い。神檻が人形を動かす時に必ず言う言葉である。いわば、人形を動かすための鍵。
 ――かしん。
 程無くして、数体の人形が動き出し、神檻の方を向く(と言っても穴越しだが)。人形に意志は無いので神檻が動かしたようなものだが。
 はぁ、と息を大きく吸う。
 眼を瞑って精神を集中させる。
 チャンスは一度きり。これをミスったら次は無いと思え、神檻佳奈子。
 最後に自分自身の顔をぴしゃりと叩いて喝を入れる。
「オーケー……」
 呟いて、覚悟を決めた。
 瞑っていた両眼と共に両手を開き、両腕を思い切り左右へと広げた。
 それに呼応するように、様々な形の人形達が、左右へと散る。目標は両側面に在る窓。神檻の≪人形遣い≫のスキルを持ってすれば、数体の人形を同時に動かすのは容易い。
 ばりん、と硝子の割れる音がした。すぐさま、
「其処かァ!」
 とベリアルの怒号が聴こえ、アトリエの左右を紫電が奔る。
 今だ……!
 僅かなチャンスをモノにするため、神檻は直ぐに行動を開始。言ってしまえばほんの二十mほどの距離。三秒もあれば軽く超えれる。
 恐らくは、ベリアルのあの技は『溜め』がいるはず。
 そう踏んで、神檻は危険な賭けにでたのだ。
 一秒経った。落ち葉の所為で地面は安定してはおらず、少しぐらついて転びそうになりながらも走る。ざむ、と大きな音が鳴ったがベリアルはまだ気付いてはいないようだ。はっ、と大きく息が漏れて、神檻の背後へと流されながら白く濁り空気と混ざり合って消えていく。二秒経った。
「ダミー……?」
 ベリアルが気付いて此方を向いたが――遅い。
 神檻は既にケースの場所まで着いていた。
 勢い良く開けて、中身を出そうとする。
「やらせるとでも思ってんのかよ……っ」
 振り返れば、ベリアルの両手が紫に光っている。
 計算違い……っ!? くそ、溜め無しでも撃てるのか、それは。卑怯だろ、いくらなんでも。
 ああ、愚痴を言ってる場合でもないのか。
 しかし、この状態じゃ、避ける方法は無いに等しいし……。
 受け止めるしか。
 神檻は右手をケースの中へと突っ込み、中身を引き摺り出す。そして素早く、人形の体中を触って、思い切り後ろへと腕を引いた。がくん、と人形が座り込み、項垂れる。
「終わりだ!」
 先程と同じような紫電が目の前に広がる。
 神檻はあくまでも冷静に、今度は思い切り腕を交差させる。
 手を熊手型に広げ、握り込んだ。
 それに併せて人形が動く。
 耳を切り裂くような轟音が、体の心を駆け抜けるようにして通り抜け、紫電の眩しさに眼は眩む。衝撃が体を貫き、思考を完全に肉体から分離させてくれた。木々は吹き飛んで焼け焦げ、落ち葉は塵となって消え失せる。最早神檻にもどうなったかすら解らなかった。



 静寂が訪れる。
 風が吹いた。
 紫電が巻き上げた煙を払い除けていく――。
 佇んでいるのは人形。先程の攻撃でかなり焼け焦げた痕が見られる。
「は……はっはっはっ!」
 高らかに嘲笑する声が聞こえる。
「俺を、莫迦にするからだ……まぁ、どの道殺すつもりだったけどなぁ」
 嘲笑は続く。
「痛み無く逝けただけでもよしとしろよ?」
 嘲笑は続く。
「生きるのにも疲れてたんだろ? 有り難く思えよ」
 嘲笑は続く。
「この俺に殺されたんだから誇りに思っても良いぜぇ」
 嘲笑は続く。
「じゃあな、地獄で安らかに眠れよ。≪壊れた漆黒≫さん。くくくくく……」
 嘲笑は続――。
「煩いんだよ、阿呆」
 遮るように、
 何処からと無く声が聴こえた。思い出すだけでも苛々する、先程と同じ自分を莫迦にした口調。空間に響き渡る透き通るような声――。
「テメェ、何処に居る……」
 自然と歯軋りをしてしまう。
 いや、それ以前に何故生きている。
 先程の一撃で完全に消し去ったはずなのに……。
「さっきの一撃、やばかったぞ。もう少し反応が遅れてたら確実に死んでいた。とは言っても、かなりあちこちにガタが来たがな」
 冷静すぎる神檻の声。
「だから、なんで、生きてんだよッ!」
 対してベリアルは雄叫びを上げる。
 ふざけるな。
 思いが脳裏を過ぎる。
 ふざけるな。
 神檻に対しての負の念が沸々と湧き上がる。
 ふざけるなふざけるなふざけるな――。
「ふざけんなァァァァッ!」
 ベリアルは渾身の力を両の掌に集める。
 紫電が形成されて、
 ばちばちと音が鳴って、
 いよいよ放出するというときに。
 
 がくん、と膝が折れた。

 何が起こったかが解らず、辺りを見回す。特に変わったことなど無い。ならば、何故。ベリアルの頭の中に次々と疑問が浮かび上がる。何時の間にか掌の光も消え去っていた。
 なんで……。
 うつ伏せに倒れた。
 体中が凍て付いたように動かなくなった。最早指先一本をほんの僅かにも動かせない。
 困惑に満ちた自分の心が、これほどまでに鬱陶しく感じられたことは無い。
 まるで肉体と魂が別々に、何処か遠くへ離れさってしまったような感覚。
「ふん、オーバーロードか。当たり前だな、あんな大技を其処彼処にぶっ放しているからだ。しかも振るパワー」
 あくまで冷静な、神檻の声が耳に入った。
 うざってぇ……とっとと消え失せろよ。
 舌打ちをする(といっても実際にした訳ではない)。
 顔も動かすことが出来ないので、神檻が何をしているのかは実際には見えなかったが、しゅぼっ、という音で煙草に火をつけたのだろうという事が解った。
 落ち葉が踏み鳴らされて、音が此方へと向かってくる。
 何かに引かれるような感覚がして、自然とその方向へと転がった。仰向けになって少し呼吸がやりやすくなった。有り難いといえば有り難いが、無性に苛々するのは何故だろうか。そうか、成程。嫌いな、大嫌いな野郎に親切なことをされると無償に腹が立つんだよな。ああ、苛々する。其処彼処にあたり散らかしたい気分だ。
 眼前には神檻の覗き込むような顔が見えた。髪が無造作に乱れて下がり、風に揺れている。少し見詰め合う形となり、ベリアルは唐突に顔を横へ向けようとした。が、勿論動かない。結局はそのままの形で時間が過ぎていくのみだった。神檻の冷めたその表情が気に入らず、ベリアルは顔を顰めようとした。動けないのだから顔の筋肉さえも上手く動かせないのだが。
 十分ぐらい時間が経ったような気がする。神檻は途中で飽きてそこら辺の木に寄り掛かっていた。体も口だけぐらいなら動かせるまでになった。少し皮肉げに何処と無く呟く。
「……殺さないのかよ」
「何、殺して欲しいのか?」
 神檻が少し驚いたような声を上げた。
 表情は見えないが、簡単に想像することが出来た。どうせ、眼を見開いてそんな莫迦な、というような顔をしているに違いない。ああ、むしゃくしゃする。
「はっ、惨めな姿晒すぐらいなら死んだ方がマシなんだよ」
「アタシとは百八十度違う考え方だな」
「ほぅ、じゃあテメェは何だ? 惨めな姿晒しても生きてりゃ良いのか? はん、くっだらねぇ」
「死にたいんだったら自分で死ね。丁度凶器(エモノ)も其処に在る。頭打ち抜きゃ即死だ」
 軽々しく言ってのける神檻。
 コイツと話してると俺の思考回路が狂うかもしれない。
 緩やかな風が頬を撫ぜ、冷たいながらも心地良さを残して去っていく。余韻は殆ど残らなかった。地面の匂いはなんだか母国とは違って変な感じだ。陽射しはあまりキツくはない。しかし、直接眼に入り込んでくるので少し眩しかった。……眠い。
 はっは、全く惨めにも程が在るぜ。無様、無様、実に無様。こりゃあメンバーになんて言われるかもわかんねぇや……。……寒い。
「お前は……何故、此処に来た」
 視界の外から声が掛かる。神檻のほかには居ないだろう。
 はっ、と嘲笑してからベリアルは答えた。
「手前の立場を考えろっつったろ? 貴様のやったことなんてとうのとっくに世界に知れ渡ってるぜ」
 もう一度笑おうとして咳き込んだ。体が動かないのでかなり苦しい体制になって喘ぐ。いっそのことこのまま死ねたらどれだけ良いか。
「……質問を変えよう。今回の任務にアイツは来ているのかどうか」
「……誰のことだよ」
 怪訝に思って訊き返す。
 何を言いたいのかがさっぱり解らなかった。
「エレインの事だよ」
 一瞬ベリアルは不思議そうに顔を歪めようとする。勿論動かせない。
 そしてまた一瞬後に驚いた表情を作ろうとする。勿論動かせない。
 その言葉の意味を理解するのと、言いたくなった言葉を喉元に押し込み嚥下することに数秒の遅れを取ってしまった。微妙に苦しい。
 そして、一旦呑み込んだ筈の言葉が再度と喉の奥のほうから口へと出てきて言葉になって出て行く。
 なんで……っ!
「お前が隊長を知ってんだよっ!」
「あー、やっぱり」
 がほっ、と咳き込む。若干の血が混ざっていたのかもしれない。口の中に鉄の味がして、滅茶苦茶嫌な気分と無茶苦茶気持ち悪い後味を残してくれる。しかも、頬に伝わる変な感触のおまけつきだ。疑問が頭を巡りに巡る。何度か咳き込んで、視界に紅い液体が飛び散ったのかもしれない。知ったことじゃない、そんなことは今は全くといって良いほどどうでもいい、瑣末な問題だ。今の問題は何故神檻が我が≪蒐集者≫の内部の人間を知っているか、だ。ベリアルはとっさに思考する。組織は秘密裏に創設されているし、組織の本部は険しい山を越えていった後に森の中へと這入っていかなければ見つからない。空から捜そうとしても魔術の幕が掛かっていて幻術を見せてくれるので外界にバレる心配は皆無であるはずなのに。神檻が組織に入っていたとしても、だ。組織を抜けた輩ならば然るべき協会の方から処罰が下される。厳密に言えばそれは死ぬ、ということに等しい。仮に逃げ切れたとしても――否、逃げ切れるはずが無いのだ。四方八方から襲い掛かる協会の手からは逃れられない。
 ならば――何故。我が部隊の隊長を知っているのか。しかも先程の口振りからして、知り合いということも解る。……何故、この極東の地の人間が。
 ベリアルは口の残った鉄の味がする液体を飲み干す。喉越しが最悪で食道を通る時にべとついて離れない感じがした。少し息がし辛くなっただけで、その他には支障は無い。
 突然、神檻が立ち上がって此方に向かってきた。足音でそれが解る。
「……んだ……」
 なんだよ、と言おうとしたがなんだか呂律が回らなかった。いや、それ以前に、かなり呼吸が困難になってきている。ほんの数十秒前までは普通に呼吸できていたのに。
 驚いたことに、神檻はそのままベリアルの真横を通り過ぎて奥のアトリエへと這入っていこうとした。なんだよ、俺の存在はもうどうでも良いのかよ……。
「暫くそうしておけ、今薬やらを持ってきてやる」
 更に驚いた。
 ……敵として現れた俺に、殺そうとしていた俺に、そして倒された俺に。処置を施すなんてな。……なんて惨めだ……これじゃあ、俺が悪者なんかじゃない感じだ……。
 神檻は少しの間俺の反応を待ったらしい。扉の音が全く鳴らなかった。その後扉の音がして、完全に神檻はアトリエへと消えた訳だ。
 …………。
 不思議と苛々しなかった。
 寧ろ何だか清々しかった。
 どうやら、本当に思考回路がイカれてしまったらしい。
 こんな風に思うとは。
 思考していると、ざむと落ち葉が鳴る。
 一瞬風か、と思ったが直ぐにそれは人が落ち葉を踏み締める音だと解った。重量感の在る足音がだんだんと近づいてくる。
 変な圧力が俺の頭を持ち上げてくれた。重力法則無視か?
 足元に何も無くなり、ぶらんと宙吊り状態になる。
 眼前に見えたのは、ベリアルの部隊の隊長、
「エレイン隊長……」
 頭には鍔付き帽の鍔を後ろにして被っていて、それをカチューシャ代わりにしているらしい。隙間から見える白髪はさらりと風に靡き、金色の双眸は貫き通す威圧感が在る。視線を変えれば、左腕に金属製の甲手が白銀に煌く。残りは全体的に赤茶のコート(両腕の部分が無い)で隠してあって解らない。外見に常に威風堂々のオーラを纏わせているような存在である。
「≪壊れた漆黒≫はどうした……」
 高い、かなり高い音階の響き渡るような声でベリアルに話しかける。
「……逃しました」
 眼を閉じて、なるべく残念そうに呟いてみせる。こうする事で同情は誘えないだろうが。
 びきぃ。
 頭蓋骨が鳴った。
 激痛がベリアルの体を奔り抜ける。
 ――――っ!
 声に鳴らない声が谺して、一瞬意識が飛んだ。
「……ふむ、それは任務失敗、という解釈で良いのだな」
「いえ、次は……」
 ベリアルは喘ぐ。
 それを聴いて、エレインは顔を歪めた。
 ベリアルを吊り上げている右腕に力が籠るのを感じた。
「がっ、あぁぁあぁあ!」
「残念だったな。次は無い。そして使えない奴は斬り捨てる。それが、我が組織だ」
 悶え苦しみながらも、霞む視界でベリアルはエレインの顔を捉えて、其処に視線を固定して離さない。何故ならば、其処には驚くほど無表情で無機質な、まるで機械のような顔が在ったから。
 ……おかしい。ベリアルは歪む脳内で思考する。
 隊長は確かに厳しい人だった。でも、俺がこの隊に入った当時はこんな人物じゃなかったはずだ。使えない奴は斬り捨てるなんて一度も言ったことは無い。俺が任務を失敗した時でも、怒りこそはしたが、こんな処罰は下されたことは無かった。

――――まるで

――――何かが

――――狂ったような

 何時頃からだったか、そんな印象を見受けられる。
 右腕の力が緩んで、どさっ、と地面へと落ちた。頭が疼いたが、この程度ならばほとんど支障は無いだろう。
「安心しろ、痛みは無いはずだ。奈落の底で、永久(とわ)に罪を贖え」
 そう言った眼は冷たくて。
 隊長は既に武器を手にしていた。相手を『貫く』ことだけに特化した突撃槍。それを思い切り振り上げて――。

 世界が全て黒白へと陥ったような感覚を覚えた。それを満たすようにベリアルの胸から吹き出る血潮の朱が末端から染めていく。ぐらぐらと視界が揺れた。全身に力は入らない。血飛沫が体に跳ねて、ぴちゃぴちゃと音を立てた。皮膚に感じるその朱は、温かかったけど、何処となく冷たくて。口に入ると錆びた鉄のような味と匂いしかしなくて。人間というものはまるで金属みたいなモノだと思った。
 終る瞬間は唐突に現れて、呆気無く消え去って逝く。神と言うものがくれた時間も残り少なく、痛みも感じない世界で、ただ刻一刻と死へと近づいていった。
 最後に見えた景色は金色の双眸だけで、あまり印象には残らず。
 最後に思ったのは、先程まで話していた神檻のことで、最期にアイツと話せて良かった、と本心からそう思った。
 視界はまるでTVの電源を切ったかのように、ぶっつりと消えて無くなる。
 痛みも無く、感慨も無かった。
 ただ、日本の大地で死ねて良かったと。
 そう思った。



         ◇          ◇            ◇


   三


 山の中。木々は揺れ動き、日はだんだんと南中しつつある時刻。葉ももう余りは残っておらず、剥き出しになった枝々が、風に身を委ねる。そんな中、一人の男が木の根に凭れ掛かって座っていた。黒のハーフフレームの眼鏡を掛けて、奥に映る瞳は若干精気を失いつつある。短く乱雑に整えられた髪の毛が風に靡く。荒い呼吸は忽ちに白く濁り、大気へと混ざって消え逝く。左の肩口に掛けて、大きな傷口が袈裟に斬られている。大量の血液が零れ落ち、紺色のコートを中心からじわじわと、緋色へと染めていく。右手には物騒な刃が握られていた。うろんげな眼差しを虚空へと移し、そのまま少し固定していた。
 一方その前に立つのは少女。此方は視線を男へと向けている。深緑の双眸が男を捉えて、そして離さない。桃色の髪はショートヘア。血に塗れて、最早元の色が解らなくなっているセーラー服を着ていている。表情には何の感情も含まれていないような、無表情。それが容姿と反しているので少しおかしな気もするが。右手には物騒なアーミーナイフが握られている。深紅に染まった刃は艶かしい煌きを放つ。
 相対している二人。時間は流れていく。
「さぁて、決着は着いたんだ。手っ取り早く終らせてもらうよ」
 少女が言葉を発する。しかし、その言葉は最早男の耳には届いてはいない。ただただ、うろんげな眼差しを少女の遙か後方の虚空へと停滞させるのみだった。
 ……死というものは、意外に呆気無いものなんだな……。
 男は思う。
 映る景色は黒白と深紅。どうやら、脳内で認識出来ていないようだ。かろうじて見える少女の風貌。冷めた視線を此方へと遣るのみの、無表情の顔。
 残された時間はもう少ない。男は、直感でそう感じ取っていた。
 人生とは本当に呆気ないものだ。死んだら其処でお終いなのだから。しかも、死の瞬間なんて誰にも予知できないし、死ぬ寸前その時まで解らないものなのだ。ある人はトラックに撥ねられてその瞬間を体験するのかもしれない。ある人は首を吊ったその時にその瞬間を体験するのかもしれない。
 そして、今まさに男にとって、今が『死の瞬間』なるものだった。
 あーあ、しくじった。まさか、ブランクってもんがこんなにも重いもんだとは思わなかった。
 男は思った。
 死を眼の前にして、これ程冷静に居られるとは思わなかった。これほどふざけた事を思えるとは予想外だ……。成程、死ぬなんて事は、本当は大した事ではないのかもしれない。
 少女が動く。
「んじゃ、コッチも忙しい身なんで。終らせようかな」
 少女の右手が動いて、切先が男の方向へと向く。
 そのまま少女は、躊躇う事無く心臓へと刃を突き立てた。
 ぶしゅ、と鮮血が舞う。
 ああ、死ぬんだな。男は思う。
 痛みは感じなかった。
 苦しくも無かった。
 ただ、何か虚しかった。
 男は蒙昧とする意識化で、最後に思った。
 
 ……悪いな、もう、二度と会えないよ……秋楽……。






 起き上がる。何時の間にか寝てしまっていたようだ。いや、眠ろうと思って寝たんだけどな。正直なところ、今も視界がかすれてかなり眠い。さて、何時間経っただろうか……ってこの部屋外と時間の流れが違うんだっけ。時計も約にたたねぇなぁ、おい。
 取り敢えず行動を開始する。って言ってもまぁ、こんな小さな部屋で何をしろと。ええ、まぁやる事在りませんよ? 勿論。……愚痴ってすまない。
 一旦外に出て時間を確認するか……まだ体にだるさが残ってはいるが、近くのコートを羽織って俺は部屋を出ることにした。一歩、扉に近づく。
 途端、何だか嫌な予感がした。胸騒ぎがする。
「はぁ……」
 嘆息して、もう一度歩き出す。扉を開けて外へ。
 部屋とは違って、微妙な寒気が襲う。通路になってると言ってもこの寒さはねぇだろ、おい。しかも、思うけど狭いぞ、此処。電球は本当申し訳程度にしかないしさー、ダミーの扉はなんだか触りたくなっちゃうしさー。俺、困っちゃうよ! ……早く抜けよう。自然と歩調が速くなる。コートの音がばっさばっさと少し煩いが、この際温かさの代償として割り切ることに。……あー、田渕達にも少しは連絡とらないとな。
 歩きながら、左手を少し動かしてみる。馴染んできたのか、グーパーするとかは出来るようになっていた。流石に寝た効果は在ったらしい。寝る子は育つのだ。
 スリッパを通しても、冷気が浸透してくるのでだんだんと寒くなってきた。
 寒いっ! ああ、寒すぎる! こりゃあ、とっとと出るのが吉だな!
 速歩きから、小走りに変更して一気に通路を駆け抜ける。角が多くてスピードを出しにくいが、それもご愛嬌だ。ぺたぺた、とスリッパが鳴る。ダミーの扉を開けたくなるが我慢しろ俺! 
 何回角を左へ曲がっただろうか。漸く本物の扉へとたどり着いた。たかが、数百mの距離がかなり長く感じたぞ。曲がり角を多くするとこういう事が起きるから好かないんだよなぁ。
 少し呼吸を整えて、扉に手を掛けようとする。
 どくん、と心臓が波打った。嫌な予感。嫌な胸騒ぎ。……何か、不吉なものを感じられずにはいられない。
 頭を振る
 馬鹿が。物事をそう悪い方向へと持ってくなよ俺。そう考えていると、物事は悪い方向へと進みだすんだ。ポジティブシンキングが大切なんだよ。オッケー、いけるぜ! いや何が?
 気を取り直して扉を開ける。肌寒い空気が俺の頬を撫ぜていく。あれ、こんなに寒かったっけか?
 いつもと変わらぬ景色。人形が所狭しと立ち並び、その横には机。別に特に変わったところは……あった。横に三つ程穴が空いている。あと、蒼空が完璧に見える。屋根が無い。多分其処から風が入ってくる。寒い。ちょっとまて、なんでこうなってるんだよ。
 何だか最近こういうのばっかりだな……。
 寒さ対策にフードを被る。そして深呼吸。
 せーのっ。
「なんじゃこりゃあああああ!」
 叫んでみた。
 室内に谺する。
 誰も来ない。いいよ、別に。解りきってた事だし。
 ……はぁ。
 其処彼処に転がっている人形達を多少乱暴に蹴り飛ばしながらアトリエを出ようとする。顔に多少呆れの色が出ているだろう。それを無理矢理に直して更に前進する。まずは部屋で戦闘準備をすることが先決だ。どう考えてもこの状態は何か危ないことに巻き込まれてるとしか思えない。
 今日ぐらいは何事も無く過ごしたかったんだがなぁ……。
 今は朝だから、夕方ぐらいには帰ろうと思ってたんだけど……。
 荒薙市の平凡な日々がもう懐かしくなってきている。やばい、それ程今の俺は危険に満ちているのか……。さっさと帰ってテストもやらないといけないし……悪い事ずくめだ。
 外に出る。
 秋風が寒い。
 だが、それだけじゃない。
 周りを見れば、人形が焼け焦げて転がっているではないか。……そういえば、窓も割れてたしな……。落ち葉も一箇所、というよりかは一区間と言った方が良いのかな? 焼け焦げて落ち葉が無くなり、小道が出来ていた。おお、便利。いや何が?
 たかが、十m程の道を歩き終え、家へと這入る。
 温かい……って暖炉の火ィまだ燃えてんのかよ!
 あぶねぇなぁ、もう。
 俺は暖炉に近づいて、ごうごうと燃え盛っている火を消そうとする。しかしそこで、どうせ時間が経ったら酸素無くなって自然に消えるだろ、と思いなおして自分の荷物を取りに。
 すると、台所の方から物音が聴こえた。
 気のせいかと思って立ち止まる……が、気のせいではない。
 聴こえる。さて誰か。
 無言で近づく。気配は取り敢えず消せるだけ消す。
 足音は立てない。
 動かせる右手は開いて閉じてを繰り返し、馴らしておく。
 何時、相手が襲ってきても応戦ぐらいは出来るように。
 ……緊張感が増す。
 こちとら、左手がまだ馴染んでないんだぜ。
 ったく、迷惑な野郎だ……。
 一歩にじり寄る。
 台所に人影が見えて。
 人影が見えて――襲ってきた。
 中々に速い。
 でも、俺の相手をするには遅かったな。
 開いた右手を、相手の出してきた腕へと向かわせて掴む。
 そのまま相手の反動を使って後ろへと思い切り引く。
 体勢の崩れた相手を押し倒し、そのまま腕を羽交い絞めに。
 呻き声が聴こえたが力は緩めない。
 そのままの姿勢で数秒間。
「……誰だ?」
 問う。
 命令的口調で。いや、そうしないとさ……答えてくれないかもじゃないですか。
 反応はすぐに返ってきた。
「……その声は、大悟君?」
「ってなんだ……」
 秋楽さんですか、そうですか。
 すぐに手の力を緩めて解放する。
 襲ってくる必要性も無いだろうに……って俺も人のこと言えませんか。
 秋楽さんが起き上がる。
 組んだ方の腕が痛いのだろう、筋肉をほぐすように揉んでいた。コッチもある程度本気で締めていたので痛いわけは無いのだろうが……すいません。
 先程は気配の方にばかり気がいっていたので気付かなかった……ではすまないだろう。
 滑らかな漆黒の髪が少し乱れている。確実に俺の所為だ。凛とした瞳がこちらを見据える……滅茶苦茶な威圧感が俺の体を、俺の意識を襲う。
「……すいません」
「いえ……私だって……」
 気まずいってーの。なんとか打破したい。俺が責任を持って。
 ぱちぱち、と暖炉の火が爆ぜる。それのお陰で暖かいのでなんとなく、先程火を消さなくて良かったなと思ったが、やはり消しといた方が良かったと考え直した。この静寂に爆ぜる音だけが満ちるのはかなり遣り辛い空間を創ってくれている。なんてこったこの野郎、後で正々堂々と水を掛けて完膚なきまでに叩き消してやるぜ。
 そんな事を考えていたとき、
 ぐぅ、と腹の音が鳴った。
「あ……はははははは」
 俺は照れながら頭を掻く。多分ね、今の俺の顔は真っ赤ですよ。
「……うふふ」
 それに対して秋楽さんも笑った。
 優しい微笑。
 微笑ましい。
 さて、それでも腹の虫は治まらない。そりゃ、朝を食べていないから当然と言えば当然なのであって、必然であって偶然ではないのである。だから……難しい言葉を使ったって腹が減っているという事実には変わりないのだ。いやー、このままじゃヤバイかも。
 それを察してくれたのか、秋楽さんは、
「何か作りましょうか?」
 と、またもや笑顔で言ってくれたのだった。

 俺は今、食事をしている。当然といえば当然の事で、ところで朝を食べなければその後一日の活動が朝を食べているよりかは低下するとか、しないとか。という訳で来たるべき戦いに向けて食事を摂っておくのは戦士として当たり前の行為であって……つまり、秋楽さんの料理は美味しかった、と。……文脈が繋がってないのはご了承だ。
 トーストを焼いたのは俺だ。しかし、中身の具を作ってくれたのは秋楽さんである。簡素なサンドウィッチという形で作られた食事は、中身にレタスとスクランブルエッグ、そしてウィンナー。トーストの方にはバターとマヨネーズがぬってある。たっぷりと。朝っぱらから高カロリーで実に腹の持ちが良いので重宝される我が家特製の食物だ。無理を言ってスクランブルエッグを作ってもらったのだが……絶妙だった。
 そう、俺の愚鈍で乱雑なウィンナーの焼き加減に絶妙に繊細に焼き加減と味を合わせてくれ、そして尚且つ他の具にも合うように作られている。俺は今からこの人を料理の鉄人と呼ぶことにしよう。それぐらい上手くて、美味かった。三日間の料理も美味しかったが、この繊細さには恐れ入る。ご馳走様を忘れずに。
「さてと……有難う御座いました、秋楽さん」
「いえいえ」
 こんな軽い食後の挨拶を含めながらも自分の荷物の置いて在る部屋へと直行する俺は実に可愛げの無い存在だと自分で自負している。駄目野郎だ。
 部屋へと這入る。左手は、もう殆ど自分の意志で動いてくれる。握力の方は知らないが。
 窓から射し込んでくる陽の光が妙に気持ち良い。風はざわざわと周りの木々を鳴らす。
 その中で大きな鞄を漁る俺。やばい、変な人にしか見えない!
 漁っているうちに、奥のほうに黒い衣装が見えた。……これは……ははっ、持ってきちまったのか。引っ張り出す。殆どを黒で統一された服。少しゆったりとした……普通の服っぽいモノ。これが、俺、破邪法師としての正装らしい。全く、どうせなら法衣とかにして欲しかった気もするが……。
 苦笑しながらももう一度ちゃんとたたんで鞄の中へと直そうとすると、
「なんなんですか、それ?」
 秋楽さんが這入ってきた。取り敢えずノックぐらいしてください。
 そんな俺のことなどいざ知らず、ずけずけと近づいてきてたたんでいた服を奪い、広げる。黒に塗られた全貌が明らかになる。俺はファッションなどには興味が無いのでどうにも表しにくいが、忍者の服を現代版にもじった、とでも言えば良いのだろうか。黒装束を現代のスーツに近づけたような感じ。俺に絵が描ければ良いのだが、生憎美術の才能は無いに等しいので割合させてもらう。顔を隠す部分は当たり前のように無い。
 で、まぁ。
「わぁ……」
 なんでそれに興味を持つんだよっ!
 やめてくれ、俺を見るな。その輝かしい瞳で見るな。それは反則だ、その瞳は反則だ! 俺の着ろというのかそれを。今の段階で着ろと申すのか!
 やめろってなんで瞳を光らすかなぁその服で。
 ……秋楽さんが現れた!
 襲ってくる敵に俺は背中を見せて逃走する……が!
 それでも今の秋楽さんを止めることは出来ずに捕まり、強引かつ無理矢理に服を着せられた。やぁぁぁめぇぇぇてぇぇぇ……。
 ……結果。
 イマイチ首筋は慣れていないのか、がさがさと気持ち悪いがすぐ慣れる事だろう。黒一色というのはどうも気分が落ち着かないものだ。ズボンは大分穿き心地が良い。大分昔に着たものなのだが……ふむ、なごりか。上着も、うん。かなり動きやすいようには作られているからなぁ……。
 秋楽さんは歓喜の声を上げながらきゃー、とかわぁ、とか言ってくれている。有り難いのやら恥ずかしいのやらだ。俺はコスプレイヤーではないので解らない。
 ……オーケー、もうやけくそだ。
 俺は歓喜する秋楽さんを無視して部屋の奥に在る刀を手に取る。
 ――妖刀≪八咫烏≫
 俺は一度鞘から刀身を抜き出して様子を見る。そして鞘へと戻して外へと出ようとする。
「何処へ、行くんですか?」
「ま、神檻さんとかも気になりますしね。捜しに行きますよ」
 俺はベッドへと座って応対する。
 急ぐ理由は全く無いのだから、此処でもう少し話しててもバチは当たるまい。
 気楽な俺とは反対に、心配そうに、秋楽さんは顔をひそめる。先程の表情とは大違いだ。
「私も……付いていってもいいですか?」
 今度は俺が顔をひそめる番だった。
 暫く押し黙り、やがて口に出す。
「ま、月並みに言うと駄目ですね。さっきのアトリエを見る限りこれは裏の人間の仕業だ。妖ならば、活動は夜にするからね……ま、それでも新種が居ますから怪しいもんですが」
 新種……この前戦った、人間であって人間ではないような異形が居るから。
 確か……≪氷獣≫フェンリルといったか。
「行くのならば、それなりの覚悟が必要だ。いや、それなりどころじゃない。死の匂いすら漂う血塗れの場所だ。貴女は言えば、此方側……表側の人間だ。ま、俺は狭間を行き来している身ですがね」
「それでも……私だって何かはしたいですよ。皆さんが戦ってるのに、私だけ蚊帳の外みたいな展開ですもん……」
 そりゃあな、今の急展開を見ればすぐに解るだろうけれども。
 とはいえ、秋楽さんは本気らしい。顔を見れば解る。小さいけれど、闘志の焔に満ちた眼と、無理に作ったようだが、強気の顔が気迫を出している。
 成程。それなりにマジらしい。
 だが、
「無理ですね」
 あっさりと音速却下。
 及び拒絶する。
「なんで……ですか」
「秋楽さん……貴女が思ってる程甘い世界じゃないんだ。もし、貴女が血で血を洗い流し、肉で肉を削ぎ落とし、骨で骨を払い合うような世界に身を投じ、その身に屍の山を築き上げ、血の河を創り上げたとしても――貴女は、それでも純白だ。穢れられないんだ。そんな貴女に、この世界は辛すぎる……」
 俺は黙々と語る。
 正直な話が、秋楽さんには此方側に這入って欲しくは無いのだ。
 穢れを知らぬまま生活をしていて欲しいと思う。
 桜井や和葉達と同じように。
「一番最初に俺を刺した時のように、きっと殺した相手に同情なんかをしてしまう。そんな事をしていられる程、悠長な世界じゃあ、ないんだ!」
 だから――来ないで下さい。これが、俺の切なる願いだ。
 ベッドから腰を上げる。秋楽さんは俯いて喋らない。
 俺は俯いている秋楽さんの横を通り過ぎるように部屋から出る。もう、会話することなど無い。此処に残って身を案じて居てくれ。
 ぎしり、と床が軋む。それさえも俺を恨んでいるような感じがした。
 後になって俺も後悔の念が浮かぶ。……言い過ぎた。あれは流石にきつすぎた。馬鹿だ、俺……あんなにも突き放すことは無かったのかもしれない。あんな時期は俺にも在った事だろう。俺も同じような経験者なのに、なんであんな言い方をしてしまったのだろうか。もう少しぐらい緩い言い方を考え付かなかったのだろうか。……謝っても赦されないことだろうな……じゃあ、事が終ったらすぐに帰るか。書置きの一つでもしていけば良いだろう。後になって電話をすれば良いことなのかもしれない。とにかく、顔をあわせないようにしよう。俺はそう心に決めて、歩き出す。
 扉を開ければ其処は山の中。何故か木々が枯れないというのが謎では在るが、今も紅葉真っ最中。在り得ないといえば在り得ない。在り得るといえば在り得るのだが。
 まぁ、取り敢えず気配が在る方へといってみよう。此処からなら……。俺は周りを詮索開始。精神を統一させてサーモグラフィ展開、空間把握能力のリミッターを外して数km先までを範囲内へ。……熱反応、もとい気配を察知……ターボ始動、発射します!
 しっかし俺の脳内もふざけた事で一杯になっているのはまだまだ余裕という印なのだろう。微妙に安心した。
 察知した方向へと、疾走する。このスピードならば数分と掛かるまい。本当は空間を斬り裂いていきたいのだが、あんまり遠く過ぎると軸がずれて別の場所出ることがあるので自粛。数十mならば可能だが。
 暫く黙々と木々の合間を縫うようにして移動する。
 淡々と流れる景色。
 光が射し込む昼前の時刻。
 気配は一向に動かない。
 ……俺が動いていることに気付いていないのか。
 まぁ、それよりも先決の事が在る。
 そして、俺はぴたと脚を止めた。
 ……敵、か?
 今のところ感じるのは、三人のみ。
 神檻さんと奈留髪さんとして、敵は残り一人のはず……。
 近くにもう一人居たのか? 灯台下暗しというやつかもしれない。
 …………。
 一瞬。
 一瞬だったが、油断したのか木々の陰から相手が姿を見せてきた。
 しっかりとは見えなかったが、人影ぐらいは見えたので場所は特定できる。しかも焦ったのか、音まで鳴らしてしまったので、確定だ。逃げようとしているのだろうが、遅い。
 俺は脚に力を溜めて、跳躍する。約数mの跳躍を数度繰り返し、人影を発見。勢いに任せて木の幹に脚を掛け、そのまま蹴り飛ばすように跳ぶ。その結果人影の眼の前に落ち葉を削る音を鳴らしながら着地出来た。とっとと終らせて、他のところへ行ってやる!
 そして≪八咫烏≫を鞘から抜刀……しかけた。
 その姿を見て俺は固まる。眼が点になる。
「……秋楽さん」
「ど……どうも」
 確実にどうもでは済まない気がするのは俺だけであろうか。今も眼の前にある事実にちょっと眩暈がしかけている。いっそのこと夢だと思いたい。
 それにしても……何故此処に居る?
「来るな、といったはずですが?」
 少し威圧的に顔を凄めて、一歩秋楽さんの方向へと寄って問い掛ける。本気で怒るぞ、俺は。聞き分けの悪い奴は大嫌いだぜ?
「成程……今のように、殺されてもいい……とでも?」
 反応は無い。
 だが、それでも続ける。
「自分の体を粗末にするんですか……今の貴女は自殺志願者他ならない」
 反応は無い。
 だが、それでも続ける。
「ふざけないでくださいよ、秋楽さん。自殺するために俺を使うんですか」
 反応は……。
 在った。
「そうじゃない……私は、覚悟を決めた。死ぬ覚悟も、人を殺す覚悟も、此方の世界へ這入る覚悟も!」
 決意に満ちた瞳。
 顔付きもより凛々しく。
 大抵の人を貫くような威圧感……。
 確かに、覚悟は決めたみたいだな、秋楽さん。
 だが……。
「足りない。実に足りないな。それだけの覚悟で、此方に這入るつもりかよ……冗談じゃねぇぜ! 自分が死ぬ、人を殺す、世界へと踏み入れる覚悟? その程度で……覚悟したとは言えねぇんだよッ!」
「…………っ」
「大体、覚悟を決めるにゃ時間が要るんだよ……あれっぽっちの時間で決めたぁ? その程度の決意(よろい)、一瞬で崩れ去っちまう程脆いモンなんだよ!」
 ……ヤベェ、自分のイメージが崩れていく。まさか、思ったより口が先に動くとは思わなかった。非常に言い過ぎた。非常にきつすぎた。……顔をまともに直視出来なくなってきた。あれ、どうしてだろうか、心が泣いているよ……あははは。
 しかし、激昂していた俺はそれでも止める事が出来なかった。
「偽りの覚悟で此方側に脚を踏み入れない方が良い……」
「偽りなんかじゃ――」
「どうかな……多分、いや絶対。敵と相対した時に貴女は戦うことが出来ない」
 だから……、とその続きを言い掛けたときに何処からとも無く殺気を感じた。ぞくり、と俺の体が震える。……敵が来たのか? だが、次の瞬間にはその殺気は余韻すら残さずに消え去っている。……気のせい……じゃあ、ない。違う、そんなはずはない。
 ちぃ、何処に隠れているのかは知らんが相当の使い手か?
 苛々してるってんのにさぁ……。
 ああ、もう面倒面倒……だけど、秋楽さんを巻き込むわけにもいくまい。
 それに、此方の厳しさを教える良い機会かもしれないしな。……やってやるよ……。
「……今から見せてあげますから、その身で感じ取ってください」
 秋楽さんに背を向けて、鞘から刃を取り出す。気配は感じない。殺気も感じない。何処へ隠れたか……なんにせよ、気配を消せるということは中々に強いはず。油断は出来ない。
 俺は右手に刀を構えて待った。




         ◇          ◇            ◇



  終

 森閑とした木々の隙間を縫うようにして射し込む陽射しを背に浴びて、一人の少年が私の眼前に立っている。その少年、黒岸大悟君は右手に刀を構えたまま動かない。どうやら敵が現れるのを待っているらしい。息遣いに訓練を施された威圧感が奔る。さぞかし敵側から見ると怖気を感じるのだろう。今の、味方である私でさえも少し背中に悪寒が奔るのだ。……末恐ろしい。
 敵側は何もしてこない。まるで様子見をしているという風に。
 私はその光景を見ながら、熟考する。
 ……一体、私の何が駄目だったのだろうか。
 覚悟が足りないって、何の覚悟が足りないのだろうか。
 私が人とは戦えないというのは、どういう意味なのだろうか。
 私の覚悟は全て、彼が言うように偽りの覚悟なのだろうか――。
 解らない、解らない。けど、答えは出さなくちゃいけない。
 だから、今は眼の前の光景に眼を逸らさずに見なければならない……はず。自信は無い。
 そんな中で私が考えている間に、きぃん、と金属音が鳴り響く。何かと思ってみてみれば、地面にはナイフが突き刺さっていた。……敵……?
 彼の視線が右へ左へと忙しなく行き交う。どうやら敵の姿を捉えようと必死みたいだ。……それはそうか、敵を見つけなければ話にならないのだから。
 空気が張り詰める。まるで空間が悲鳴を上げそうなほどに、震(しん)としていて、何処か脆く崩れ去ってしまいそうなほどに頼りない空間。彼の心に現れているだろう緊迫感が、心臓の鼓動をもが聴こえて来そうなほどに静かで、何より恐ろしい。
 彼がイキナリ横へと跳ぶ。何かと思ってみると、地面にはナイフが、彼の右肩は衣服が破れて少し血がにじんでいる事が解った。……何時行動したのかすら解らないほどの速度。ナイフは見えずに、彼の行動すら解らないなんて……迅すぎる……。そんな速度が人間に出せるものなんだろうか。彼等の身体能力は常人を遙かに逸脱しているのは解っていたけれど、あまりにも違いすぎるよ……。
 そして彼が何故かは解らないが、刀を一振りした直後。
「……っ」
 思わず悲鳴に近いものを洩らしかけてしまった。
 彼の右の肩甲骨にはナイフがずぶり、と柄の部分まで突き刺さっていた。それでも決して傷を負った風には見えない。解らない。
 彼は頭を振って平然と立っている。まるで何事も無かったかのように。
 ……すごい。
 これしか思えない。
 わざと避けなかったのか、それとも避けられなかったのかは解らない。私は最早蚊帳の外だ。何をやっているのかすら、解らないのだから。

 ――くふふ、掛かったね?

 そんな思考をしていると、突如何処からともなく声が聴こえた。声の調子からして女性だということが解る程の声。まるで幼い少女のような声。でも、私はその声に戦慄たるものを感じずにはいられなかった。体が知らずのうちに震えだす。
 そして、
 何も無いところから一人の人影が現れた。
 その姿はまさに少女の風貌。何も感じられないほどの無表情からは眠たそうだが、透き通った深緑の瞳。白桃色の髪は肩まで届き、風に揺れる。セーラー服を着ており、襟には深緑に塗られた中央に一本白のボーダーラインが入っていて、それを立てている。黒のニーソックスと対比する肌。細い細い華奢な手脚は可憐で清楚な感じを漂わせる。が、それと反して右手にはアーミーナイフが握られていた。
 彼は背中のナイフを無造作に抜き棄てて、眼の前の少女と相対する。
 睨む彼の眼光は鋭く見透す。並大抵の人間ならば、その威圧に怯んでしまう事だろう。だが、少女は違う。無表情で相対するのみ。本当に、何も、含まれていなかった。
「君……実にユニークな格好をしてるね」
 くす、と少し笑う。だけど、やはり感情は含まれてはいない。作り笑いの愛想笑い、といったところだろうか。
 それに対して彼も皮肉めいた笑みを見せる。
「くだらん会話なんざ無しにしようぜ。こちとら急いでんだよ……」
「急ぐ必要など皆無……」
 少女が言葉を言い終わるか終らないかの内に、彼は疾走を始めていた。目標に向かって一直線に、しかし、疾駆する獣の如くに迅く。
 しかし、少女は微動だにしない。本当に、表情に一片の感情も含まさず、その場からも動こうとはしない。まるで、殺されようとしているかのように。
 腰を捻る、肩を回す、腕を捩る、手首を返す。一連の流麗なる、委細の無駄の無い動作。見ている此方が惚れ惚れするほどの華麗さで放たれる刃は白銀の弧を描く。彼の眼に一切の雑念や躊躇や遠慮や配慮など無く。見詰める先は深緑の双眸。軌跡の終着点は少女の華奢な首筋。まさに音速、まさに光速、その刃が生む斬撃に断てぬものなど皆無!
 だが。
 だが、それは少女の一歩手前の空間で静止――否、制止させられた。何故か、何も無い空間で火花が飛び散り、嫌な音が響き渡る。そして彼は後ろへと跳んで間合いを広げた。
 ……何、今のは?
 私が眼の前の在り得ない出来事に唖然としていると、彼はおもむろに口を開いて言葉を紡ぐ。少女に向かって、威嚇をするように。
「超常現象起こすのはやめてくれよな……ま、おかげでお前らの正体は解ったが」
「ボク達から見れば、君達の方がよっぽと異端者さ。非科学的な事象を起こさないで欲しい」
「黙れ、インテリ軍団。鬱陶しいんだよ、消すぜ」
「元々、此方もそのつもりさ」
 一通りの会話が終わり、今度は少女の方から行動を開始する。
 何も無い空間に数式みたいなモノが展開して、螺旋を描く。その中央に、だんだんと何かの塊が形成されていって……大気の衝動と共にナイフが現れた。それを指の間に挟んで、彼へと投擲する。空を裂き、風を斬り、空間を断って、飛翔する殺意の刃。
 それを彼は体制を低くして疾駆する事で躱し、先程と同じように刀を振り薙ぐ。が、やはり一歩手前で制止させられ、今度は少女の右手のアーミーナイフが奔る。
 さらにそれを体を後ろへ逸らす事によって回避。そのまま、刀を戻す反動で後退、地面へと反動を残しながらも着地する。そのまま彼は右手を掲げて掌を少女へと向ける。
 あれは……。
 私の脳裏を過ぎったのは二日前に見せてもらった光景。
 ……そう、あの構えは砲閃火!
 私がそう思った瞬間に彼の掌からは閃光が迸り、少女を襲う!
 これには少女も危機を感じたのか、両手を交差させて防御体勢。迫り来る閃光へと迎え撃つ。ぐんぐんと縮まる距離。そしてついには空間と火花を散らし、爆ぜ合って弾けた。これには少女も堪らなかったのか、衝撃を緩和しきれなかったのかは解らないが、後方へと吹き飛んでいく。
 そうして、彼は皮肉めいた笑みを再度と浮かべた。
「派手に吹き飛んでくれちゃってー、演技派だなぁ」
「舐めて……っ!」
 皮肉めいた彼の言葉に、少女が激昂しながら返す。
 さも、余裕の表情を浮かべている彼には集中力という言葉は無いのだろうか。
 いや、緊張感を持て。
 そんな事を思っているうちに、少女は泥だらけになった服を無理矢理に起こして口の中に入った砂を唾と共に排除、そして土を払って彼と向き合う。
 それに倣って彼は刀を鞘へと収める。
 顔は既に真剣そのものだ。
 左の腰に挿し、左手で支えて右手で柄を握る。
 少し屈んで息を吐き出す。
 俗に言う『居合』。
 そして少女はそれを見て鈍色(にびいろ)のナイフを一本取り出す。右手には逆手に握られたアーミーナイフが艶かしく光る。
 ――疾走。
 それも同時に。
 みるみると彼等の距離は縮まる。
 落ち葉がざくり、と鳴る。
 私の心臓がばくん、と鳴る。
 さらに戦闘は激化する。
 そんな予感、そんな確信。
 私はそれらを振り払って傍観者を演じる。
 少女が走りながらも精確に、投擲用だと思われるナイフを瞬速で放つ。
 寸分の狂いも無く投げられたナイフを彼は体勢を低くすることで回避。しかし、逆方向に動いてるからナイフの速度は加速して見えたはずなのに……それを躱すなんて。
 そして彼は一歩踏み込む。
 がきぃん、と音が三つ鳴り響く。
 何時の間にか鞘には刀は収まっておらず、彼の右手にしっかりと存在していた。……何をしたのかすら解らない速度。白銀の剣閃は煌いて消える。
 それを聴いた二人はそれぞれ苦い顔を合わせた。
 少女は深緑の双眸を見開き、焦りの表情を作り出し。
 彼は漆黒の瞳を細くして、苦虫を噛み潰したような顔をした。
 それは一瞬の内に消え去って。
 瞬時、少女のアーミーナイフが奔る。鈍色の軌跡が彼の心臓を捉えて一直線に突き出される。
 体を傾げて紙一重で回避。彼の衣服が千切れて飛ぶ。
 そのまま彼は刀を薙ぎ払って、攻撃。
 それも空間に弾かれて、彼の手から離れていく。
 すかさずその隙を狙って少女の手が奔る!
 だが、
 それよりも迅く。
 彼の右手に焔が現れていた。
「零距離でぶっ放されりゃ、流石に堪えるだろ?」
 光に、包まれた。


「……ぁ」
 私の口からは声にならない声が絶えずに繰り返し出て行く。
 そうして私は考える。
 私は此方の世界を舐めすぎていたのかもしれない。今の戦闘の一片を見ていれば解る。たった今、私の眼の前では平然と殺し合いが行われているのだ。
 その間には私情が含まれてはいけない。
 だから彼らは、喜悦も恐怖も、悲哀も憤怒も、感情という感情を全て押し殺して、ただ、敵と対峙するんだ。何の代償も求めずに。彼らにとっては生きる事全てが贖罪なのではないか? 皆を護るために自分の事は厭わない。……なんて覚悟。なんて決意。それじゃあ、私が敵う訳が無いかもしれない。
 だって今も正直に恐い。
 恐い。
 怖い恐いこわいコワイ恐い怖いコワイコワイコワイコワイコワイコワイ。
 ただただ、そんな羅列が頭へ浮かんでくる。
 今だって、叫べる事ならば叫びたいのに……そんな事は、出来やしない。もう、口が動かない。喉は畏れ枯れ果てている。体なんて言う事聞かない……。
 
 ――嗚呼、私は馬鹿だ。
 
 そのまま私は崩れるように。
 ぺたんと、その場にへたり込んでしまった。
 そうして、更に私は考える。
 どれだけ愚かな考えをしていたことかを。
 どれだけ此方の世界を舐めていたのかを。
 どれだけ私が幸せなのかを。
 私は――無力だ。
 彼に思い知らされた。
 悔しい、悔しい、悔しい。
 それでも私は無力。
 何の力も持ってはいない。
 ならば、潔く。
 余計なことに首を突っ込むのは止めなければ。
 ……でも。
 でも、今だけは。
 そう、私が何も出来ないのならば、せめて彼の戦いを見るべきだ。
 私にはその義務が在る。
 私はそれだけを心に決めた。
 それだけが、私に出来る唯一の事だから。


 噴煙の中に人影が見える。
 彼はもう、煙からは退避していたので存在の確認はオーケイ。つまり必然的に――少女ということになるだろう。現れる。華奢な手足や服は泥が飛び散り無残、ふらふらしている体をやっとのことで支えているという風だ。だが、それでも眼からは闘志の焔が燃え尽きない。深緑の双眸は見据えるように、彼を貫く。
 だが彼の態度は飄々としていて見ている此方がムカつく。
 真面目にやれっ。
「ほー、流石に倒れた訳じゃ無かったか。結構破るのは簡単だったな。ようは自然の摂理だろ?」
「な……に……?」
 怪訝そうな眼付きで、彼を睨む。
「なぁに、つまり弱肉強食ってやつだ。簡単に言うと――」
 ……それは、余りにも残酷で非情なる言葉。
 少女の肺腑を、じっくりと、しかし深く深く。
 抉る。
「お前は雑魚。だからせめてもの情けに……」
「――あああああああああ!」
 少女が咆哮する。
「次の一撃で終いにしてやるよ!」
 死闘の終結も近い。
 それは彼等の怒号で解る。
 ……彼の決め台詞なのかもしれない。
 彼の左手が開いて閉じてを繰り返している。どうやら慣らしているらしいことが解った。って、何時その左手が戻ったのか。謎だが取り敢えず保留にしておこう。その左手が、動く。だらんとぶら提げていた左手をそのまま右へと。熊手型に広げられていた五本の指からは細長く、紅い焔の筋が煌く。
 少女はそれを見て、手を前へと翳した。
 そして、腕の周りに見たことも無いような記号の羅列……いや、あれは数字か? 否、数式というに相応しいだろう羅列が螺旋状に折り重ねられて、球体を描いている。そしてその中心には光り輝くモノが在った。
「ちっ……理論を世界に干渉させるのはマジで止めて欲しいモンなんだが……」
 彼は呟く。
 申し訳ないのだけれど言っている意味が全く解らない。
 そして、彼は思い切り疾走を始めた。少女はそれを迎撃すべく、腰からナイフを引き抜いて彼目掛けて投げる。彼は迫り来るナイフを衣服を翻すだけで無効と化し、そのまま自分も回転、その勢いで一気に加速した。五指に紅の閃光が煌きたなびく。
 しかし少女も負けてはおらず、蒼い閃光が少女の腕を取り囲む。そのまま指で五芒星を描き、中央に手を添える。そして放出。
 蒼の光は無数の氷の塊となって彼を襲う!
 だが、それを彼は。
「前戦った奴の千倍は甘いわっ!」
 地面を踏んで、焔の壁を作った。
 焔の壁は勢いを持って彼を包み球体と化す。その壁の前に仇為すものは全て灼かれるのみ!
 じゅ、と一瞬にして氷が蒸発。
 彼の疾走を止めるものが無くなった。
 少女の顔に驚きが表れ、瞬時に後ろへ飛び退く、が。
 それを彼は刹那の時で合間を埋めて接近。
 左手の五条の閃光が交わり螺旋となって貫手を放つ!
 しかし、少女の周りには貫通不可能の不可視の壁が在るはず……。
 案の定出された貫手は一歩手前の空間で――止まらなかった。
 空間を穿ち、貫く。
 五条の閃光が一筋の焔になって、放たれる!
 ……っ!
 私が驚く。
 そして、刹那、
 にぃ、と哂う彼。
 驚愕が少女の顔に張り付く!
 そのまま少女の右頬を掠り、紡がれた焔が白桃色の髪を焦がす。
 そう、まさに刹那の間に行われた攻防。
 怯んでいた少女へと左脚での回し蹴りを放つ。
 少女はそれをもろに受けて、吹き飛ぶ。
 みしり。
 骨が、軋む。
 骨格が、捩れる。
 少女の顔が苦痛に歪む。
 口からは嗚咽が零れ。
 そして、縮んだ撥条(ばね)が弾け跳ぶように。
 地面に数回バウンドしながら少女は転がり。
 落ち葉は舞い。
 土は抉れて。
 木々は揺らぎ。
 陽射しが射して。
 柔らかな風が。
 小鳥の囀りが。
 全てが交わり詩を唄って。
 この戦いは終結を迎えた。


 私は彼のそばまで駆け寄って、喜ぶ。
 それと同時に心配する。
 一番最初に刺された肩甲骨の傷は大丈夫なのかと。
 見たら殆ど血が固まって傷が塞がっている。
「大丈夫?」
「体だけは丈夫です」
 それだけを言うと、彼は少女の近くへと歩き出す。
 破れた衣服は戦いの凄まじさを現していて。
 私は少し絶句した。
 破れているのは衣服だけなのだ。
 その奥に在る皮膚は薄皮一枚たりとも千切れてはいない。
 そして、汗を掻いてはいないのだ。
 まるで今のは全然余裕とでも言うように。
 ……全く、世界が違う。
 私はこんな世界へと脚を踏み入れようとしていたのか。
 ほとほと呆れて、私は自分自身に嘆息をした。
 そのままとてとて、と彼の後ろについていく。
「おーい、大丈夫かよ」
 おい、あんたが大丈夫かよっ。
 負けた相手に話しかけるのかよっ!
 別に良いけど。
「う……っ……か……は……」
 喘ぎ声が聴こえる。
 それほどまでに苦しいのか。
 少女の苦悶の表情が、みているだけで非常に苦しい。
 それを――
 彼はぺちぺちと平手で頬を叩く。
 …………。
「ちぃ、まだ訊きたい事とかあんのにな……」
「……くそぉ」
「あん?」
 少女が苦しみながらも、何かを声へと出す。
 それは何処か、悲しみが含まれていた気がした。
 大半は屈辱のほうだと思うのだが。
「なんで、毒が……?」
「あー、ナイフ刺さった直後に解毒した」
「ちょっ、毒って?!」
「ああ、一番最初に刺さったナイフ。アレ、毒が塗ってあったんですよ」
 平然と話す大悟君。
 いや、そんなに軽い話題ではない。
 ってか今の雰囲気がそんな軽くはしてくれない。
 いや、いやいやいや。
 今こそ軽く行くべきでは?
 私にそんな事をする勇気は全く無いのだが。
「因みに解毒法は秘密だ」
「いや、そんな事訊いてないから……」
 コメディとシリアスの切り替えが早すぎだこの人は。
 場と身分を考えてから行動を起こして欲しい。
「あ、っくぅ……うわぁぁ……」
 ほとんど嗚咽に近い声。
 それに気付いてみてみると、少女が負けた悔しさからか、泣き出してしまった。大粒の泪を眼に溜めて、構わずにぼろぼろと流している。
 ……かわい、いやいや違いますよ。私はそんなことは考えてませんって!
「あり、泣いちまった」
 彼が困る。
 いや、私も困る。
 そうして数秒。
 彼と私は顔を見合わせて、はぁ、と同時に嘆息し、
「一旦家に戻りましょう」
 と、彼が言ったのだった。 




         ◇          ◇            ◇
 

 俺は少女を背負って家へと戻った。
 其処には知らない人が居た。
 誰だよコイツ、などと思いながらその人を見る。白髪に金色の双眸という珍しい瞳を持っていた。ガイジンだった。なんだ今日はガイジンとよく会う日だな畜生。
 あ、眼が合った。
「アンセム!」
 一目散に走りよるその先に見えているのはきっと俺の背中の少女。成程、アンセムという名前なのか、これ。いや、人をこれ扱いするのは駄目か。
 俺は背中からアンセムという名前の少女を降ろす。それに向かって一目散のガイジン。
「……貴方は、誰だ?」
 そうくるか。俺は少し戸惑いながらも応対する。だって、ガイジンと話すのは苦手だから。なんか雰囲気違うし。当たり前だけど。
「……貴方こそ、誰ですか?」
 此処に珍妙な空間が出来上がった。なんだか、こんな場面ばっかり。
 言い忘れたけれど此処は居間だ。暖炉がぱちぱちと爆ぜている。
 神檻さんが紅茶を飲んでいて(美味そうだ)秋楽さんが台所へ向かって、俺は寝室へとアンセムとやらを送り届けるところだったのだ。突飛すぎる出現。ちょっと待ってくれ、整理券をください、俺の頭の中の整理をするために。
「ふー……紹介しようか、私の友人の、エレインだ」
「初めまして、≪蒐集者≫のNo4(エイプリル)、エレイン・ローゼンバークだ」
 いや、フルネームはいらない、覚えれないから。
 じゃなくて、なんで、あれ?
 さっきの子は好戦的だったのに、コッチは平和的だぞ?
 あれ……なんで?
 そんな俺の顔を見てか、神檻さんが説明し始めた。
「……大悟君、簡単に言うぞ。コイツ等はな……操られてたんだ、洗脳、洗脳。解る?」
「はい?」
 其処から俺が状況を把握するまでに十数分の時間を要した。
 つーか、なんだこの急展開は。




 
 其の三


 一





 いい加減そろそろ荒薙市に戻らないとヤバイ、という訳で今日の夜、此処を立つ事にした。なんとまぁ、急展開な事か。素晴らしい事だなぁ、馬鹿野郎。という訳で、ただ今田渕に電話中。最後ぐらいは連絡を入れておかなければならないだろう。てか、テストの結果を訊きたい。撃沈するのは俺だけれども。……おっせぇな、早く繋がれっつーか出ろボケ田渕! 
 ……繋がった。
『てめっ、今非常事態なんだよっ!』
「はぁ?」
 久しぶりに電話してやったのにそれか、あ、違った朝電話したっけしてないような気もするけれど。
 いやいや、そんな事じゃなくて、俺はお前のテストの出来を訊きたい訳だ。ああ、俺の方が粉砕するのは解っているが訊かなければ漢ではない。男ではなく、『漢』だ。字の違いは全ての方向性の違いだ。もう、なんてーか言葉じゃ表せないくらい違うぜ、この漢字。エライ人にはそれが解らんのですよはい。
 じゃなくて。
「どうした、緊急事態ならば俺が駆けつけてやろうか?」
『そのテメェが原因なんだよボケェ……』
 余計訳が解らん。どう関係があるというのか。
『ちゃんとお前が渡辺に説明しないから、俺に訊きに来たんだよっ! 流石に、化物と戦ってるよ、なーんて言えねぇだろーがっ!』
 ……あー。
 そういえば、確かに和葉には詳しく説明はしていない。桜井なんて言うまでも無く言ってない。俺の事を知る唯一の普通の人間……いや、確か霊の類が見えたっけな。それを祓う為に俺のコルトガバメントを渡したという悲しい過去があるのだ。正直、アレは高かったんだけれども。破魔の銀弾も合わせて。妖と戦れるまではいかないが、そこらの陰ぐらいは余裕で破邪出来る筈である。あ、陰ってのは悪い霊って事です。取り敢えず。あれ、話がずれたぞ?
 ……まぁ、なんつーか。
 グッジョブ田渕君! そのまま逃げ続けてくれ! 捕まったら承知しないぞっ♪
『語尾を可愛くしても駄目ってか逆に気持ち悪いわっ』
「いやいやいや、これは俺がお前のヤル気を出すのに尽力した結果なんだよ……」
『無駄な努力はいらねぇ、だから今の状況をどうにかしろっ!』
 ……ゆうに六百kmはある道のりをどうやって数分で横断しろというのだ。馬鹿かテメェ、ちったぁ頭を使え頭を。俺がそんなくだらない事を考えていると、携帯ごしから荒い息遣いが聴こえる。多分、田渕の息遣いだろう。不規則に雑音も入っているため、かなりの全速力で走っているのではないだろうか。ってか、そんなに走ってるんだったら呼び出しに出るなよ。俺だったら出ないぞ、絶対に。
 それにしても、何故か懐かしいな。たかが三日。三日コッチにいるだけで何もかもが懐かしく思える。眼を瞑れば田渕のヴィジョンに侵入出来そうな気さえしてくる。なんとなく俺も、わざとらしくざむ、と音を鳴らしながら落ち葉を踏む。その都度に、携帯という機械で繋がった向こうから、田渕の必死な息遣いが聴こえてくる。
 まぁいいじゃん。俺のコルトガバメント盗ってった罰って事で!
『字が違うっ! 後アレは貰ったモンだ! ってか、俺が捕まったらお前の秘密全部バラすぞ!?』
 だぁっ! それは困るっ!
 あろう事か、田渕の野郎は俺の秘密を和葉にバラす、いや二年生中にバラす、否、全校中にバラす、いやいや、学園内にバラすだとォ! てめっ、在り得ない事言ってんじゃねぇ!
 実際にはそんなに飛躍的にぶっ飛んだ方向へは行っていないのだが。
 そんな事は関係無く、本当に不味い。それをされると俺の命さえもが危ない。
 ただ、帯白さんが連合の奴等に言って、諜報部員の奴等に催眠を全校中にばら撒いて洗脳するって事をやってもらえれば別だが。洗脳といっても軽度のもので、俺の秘密の事を気にしなくなる、程度のモノである。記憶を消した方が速いのだが、手間が掛かるのだ。詳しい説明は省くが。
 まぁ、ともかく。
「俺を殺す気かァァァッ!」
『ふん、助けなければそうなる』
「ちぃ、急用を思い出したぜっ。幸運を祈る、ぐっどらっく!」
『大悟てめ』
 ぶつん。
 俺は無理矢理通話を切断する。決して自分に都合が悪くなったとかではない、決して。断じて違う断固拒否絶対否定。……ふぅ、危なかった。まぁ、田渕の事だ。生き延びているに違いない。多分。悪運が良いから、きっと。……捕まったらどうしようか。やっぱり一抹の不安は拭いきれないのであった。
 俺は携帯を折り畳んでポケットへと仕舞う。今日帰るといったものの、チケットが取れなければそれで終ってしまう程薄っぺらい信用な訳で。まぁ、無理矢理にでも取れるわな。
 ……さて。
 俺は枝々の合間から見える空を仰ぐ。昼下がり、午後二時ぐらい。俺は着替えて、飯は喰い終わり、後は気楽な午後を過ごしていた。なので、俺は外へ出て田渕に報告をしていたわけなのだが、ピンチだったみたいなので後で掛けなおす事にしよう。いやはや、田渕の声を久しぶりに聴いた気がするなぁ、朝も掛けた気がするけど。
 そんな俺の背後から、声が掛かる。
「……随分と楽しそうな会話だったな」
「……エレインさんですか」
 振り向く。
 白髪は長く、前髪の方は帽子の唾を後ろ向きにして被って止めている。金色の瞳は光を反射して煌く。輪郭は細く、整った顔立ちといった方が言いのだろうか。とにかくこれが、俺が家に戻ってから現れた新キャラである。背は俺よりも少し高いぐらいで、なんとなく、変な感じがする。俺は背の高い女性なんてあんまり見た事がなかったから。なにやら、俺が会ったときとは違う服に着替えている。紅のスカートに茶のダッフルコートが映えるファッションだった。
 ≪蒐集者≫の≪十二人の戦士≫のNo4(エイプリル)とか。知らんよそんな事。ともかく、彼女等は組織の秘密を覗いてしまったらしく、そのために裏切り者として扱われ、此処に洗脳されてやってきたのだとか。実に恐い事である。
 任務は神檻さんの抹消だとか。まぁ、それは俺とか神檻さん自身によって失敗に終った。で、叩きのめされたお陰で洗脳が解けて、今の状態に至る。
 おっと、≪蒐集者≫の説明がまだだったかな? あんまり説明的にいくと俺も疲れるんで簡潔にいくぜっ!
 ≪蒐集者≫とは俺と同じ、異形との戦闘、抹消を専門とした組織だ。フランスに居住地を置いていて、そこからヨーロッパ各地に派遣される。ただ、この組織の違うところは、俺達のように非科学的なモノは利用しないという事だ。つまり、『科学力』のみで異形を殲滅する。故に、現代の遥か未来を映し出したような科学を持っている。例えば、理論を現実に干渉させて魔術同様の現象を起こしたり、物質を原子レベルまでに分解して圧縮、数式化、そしてどんな時でもどんな場所でも物質化して取り出すことが出来る。つまり、物をそのまま持ち運ぶ必要が無いのだ。俺は楽だから覚えたいのだが、生憎俺にはそんな科学力は持っていない訳で。残念至極だ。
 科学こそが至高と思っているので、他の組織との抗争が無いわけでもない。ただ、日本とは比較的友好的なため、たまに交流があったりする。
 ……それが別に今じゃなくてもいいんだけど、ねぇ?
 まぁ、俺はガイジンというのは比較的苦手なのだよ。あ、何故かって? ……んなこといいから! ってか、何俺自分で自問自答してんだよっ! 訳解らん!
 ……取り敢えずはシリアスな場面じゃないからどうでもいいとしておこうかな。
 そんな俺の様子を見てか、エレインさんは喋る。
「いやはや、貴方はユーモラスな人だな、クロギシ」
「……まぁ、好きでやってるわけじゃないんですけれどね」
 じゃあなんでやってんだよ俺。
 なんだか頭の方が混乱してきて言動と思考が一致していない。
 そういえば人間は脳の一%しか使ってないとかいう話題を聴いた事がある。二%出せばなんでも思い通りになるとか、ならないとか。関係ねぇよ。
 そんな俺の思考とは関係なく、エレインさんは距離を詰めてくる。どうしてガイジンって此処まで初対面の人に踏み込んでこれるのか、文化の違いだと解っていても体が正直に反応してしまうのであります俺でした。
 少し、後ずさる。
「どうした、クロギシ。何かあるのか?」
「いえ、何かあるわけでも無いけれどなんとなく退がってみようかなとか思ったり思わなかったり」
 意味不明だ。
 ってーかなんで俺こんな状況に居るのか、まずはそれを教えてくれよ神様。
 関係なく、距離は詰められる。
 五cm。
 俺の五cm手前で止まって俺の眼を見据える。なんだこの近さ。
 ああ、ちょっと待って俺の頭が暴走しかけてるってか半分オーバーヒート? ってかなんとまぁ初対面の人に対して馴れ馴れしい距離だなぁこん畜生。
「有難う、クロギシ」
 へ?
 頬に柔らかい感触が触れる。途端、俺の視界が白一色に染められあげて思考が途切れる。それは一瞬だったけれども。頬に手を伸ばす。
 まさかっ?!
 き、きす、すき、すすすせ、っぷん?
 ぼう、と俺の体が一気に火照る。
「ああ、あなあな、たは、なにををを!?」
「おや、日本ではこういうふれあいは無かったのか。だとしたら、失礼だったかな?」
 失礼どころでは、無いっ!
 ってーかさっき何をした、何をされた? なんだこれ、頭の中が真っ白に。今俺が此処に居るのかさえも解らないし地面に俺立ってるの? あらあら世界がくるりと廻ってるよ神様。この体はちゃんと俺のものであって他の人のものではなくて、ってちゃんと解ってるじゃんでも俺の脳内逃避行中で結局はなんだか俺の口から心臓というか魂が飛び出そうなのは気のせいですよね気のせいだと思わせてください。
 俺の自我がぼろぼろと、ぼろぼろとっ!
「うわぁぁあぁぁあ!」
 崩れ去るっ!
 俺は有らん限りの力を振り絞って脚に集中、思い切り地面を踏み締めて加速を始める。次の瞬間俺は疾風となって木々の間をすり抜ける!
 荒い息が俺の後ろを過ぎていく。これじゃあ、先程の田渕の二の舞だ。お前の気持ちが解ったような気がしたよ、田渕。眼の前に在る木の幹を蹴りつけて、無理矢理に方向を転換する。そしてそのまま反動を使って移動、だん、と弾けるような音が俺の後方で聴こえる。
 ――何十mぐらい離れただろうか。
 俺は落ち葉の敷布団の中、別名地面へダイブする。
 体力が……持たん……!
「そりゃ……そう、か。……縮地、をあれだけ、使ったん、だから……」
 息も切れ切れに呟く。肩で息をしないと間に合わないぐらいに本気で疲れていた。汗が流れる。多分、大半が冷や汗っつーか緊張のせい? 喉がからからだ。オカシイぐらいに体が水分を欲している。……水を、くれ。
 ……っはぁ……。
 取り敢えず、何とか危機は脱した。
 俺は疲れた体に鞭を打ち、立ち上がる。ふらふらしながらも、家まで歩いて戻ろう。なんとなく、田渕に申し訳が立たないというかマジで田渕さん大変なんだなぁ、と解らされた。
 ごめん、田渕。本気で帰ったら謝る。土下座だって何でもやるから許してくれ、頼むぞ……。


 たかが数十m程の距離を十分も掛けて歩いた俺は玄関につくやいなや近くの木の椅子へと座り込んだ。ご丁寧にテーブルまで在る。多分木陰のティータイムと洒落込む為の用意じゃないのか、と思う。いやぁ、俺もいっぺんやってみたいとは思ってたんだけどねぇ、今は実現できないのである。
 あー、眠い。……どうせ、今日の夜までは時間があるんだし、寝ても良いよな?
 就寝体勢に入る、体の各器官の運動レベルを下げていく。睡魔ミサイル、とう……
「おーい……」
 かっ!
 後頭部に鈍い衝撃が奔った。痛い。
「……誰だ?」
 俺は面倒だとは思いながらも、後頭部に手を当ててさすりながら、頭を上げて後ろを向く。
 白桃色の髪を振り撒きながら、眠そうな深緑の瞳が此方を見る。柔らかそうな短い髪が風に靡く。セーラー服が綺麗になっている。……同じのに着替えたのだろうか? 俺には考えられない思考だな。華奢な体躯は小さくて、俺が立つと俺の肩辺りに頭が当たる程度の背だろう。まさに少女。しかし実年齢は確か十六歳。此処が一番信じられないんだよ、俺と同じなんだぜ!? 高校一年か、二年生の年なんだよ。良くて、俺の妹の華夜と同じぐらいの背だ。ちっこい、ちびっ子。
 アンセム、これが俺の眼の前の少女の名である。
「少女じゃないよ、同い年だよ」
「それが一番信じられねぇんだっつの」
 これも、エレインさんと同じように組織に利用されたらしい。≪蒐集者≫の科学力を持ってすれば、洗脳なんてお茶の子さいさいなのだ。赤子の手をひねるより簡単なのだ。
 恐い組織だよ畜生。
「ねー、クロギシは何処に住んでるの?」
 眠たそうな瞳のまま俺に訊く。
 いや、俺に訊いてどうするんだよ、お前俺の家になんかこねぇだろうがっつーかくんな。俺の平穏な生活が砕けていくような気がする。
「……近畿六県の何処かで御座いますお嬢様」
「ケチだね」
 誰がケチだっ!
 ってか、何処をどうしたらケチになるんだよ!
 俺から言わせればお前らの方が馴れ馴れしすぎるんだよ馬鹿野郎。
 ……はぁ、俺もなんだか変になってきてる。この生活がオカシイってのは解ってるんだけれども……くそぉ、なんだかすぐに普通の生活に戻りたくなってきたぜ。何故かってそりゃあ、ガイジンとかに囲まれる事も無く知り合いどうしで暮らしていける。なんとこれが素晴らしい事か。それが解らない奴は俺が磔刑に処してやるぜ!
 俺は立ち上がって、家の玄関の方へ向かう。
 悪いが付き合ってられん! これから俺は忙しいのだ、そう宿題というモノに追われているのだ! ってーか今頃気付いたよ……ちゃんと持ってきてはいたんだが、完璧に忘れてた。ちょっと今からやっても間に合わないけれどやるだけやるしかない! 死ぬと解っていても漢は戦わなくてはならないのだ! いけ、俺!
「シュクダイ? ああ、ホームワークね。ボクも手伝おうか?」
 是非とも!
「ってかさ、なんで英語なんだ? フランス語とかじゃないの?」
「ボクはイギリス生まれだよ。だから」
 イギリスって英語だっけ? 忘れたよ、俺。
「科学の力で日本語話せるとは言っても、なんか変な感じだな」
「そかな、ボクは普通だけど」
 俺が普通じゃないのかよ、その言い草じゃそうなるが?
 俺は少し苦笑して、玄関に向かって今度こそ歩き始める。その後ろに、微笑んだアンセムが並んで歩く。てくてくと可愛らしい動作がなんだか心地良かった。
 んじゃま、本職の英語を手伝ってもらいますか!
 我が疲れて眠い瞳を無理矢理に起こして、頑張る事にしましょう!
「あ、お前は其処に居てていいよ。外でやるから」
「え、寒くないの?」
「ヤル気が出るだろ、寒いと」
 そーかなぁ、と首を傾げるアンセム。
 そうだったらそうなのだ!
 俺は日本海側の暮らしをしているが、そこそこ寒いといった所の方がヤル気が入る。だから、俺はテスト勉強をする時はわざと風通しを良くして寒い寒い言いながら勉強するのだ。それが結果で風邪を引いた事があるくらいだ。今思い出しても阿保だと思う。はいはい、煩いっての。
 玄関から這入って、自分の荷物を取りに戻る。……お、在った在った。リュックごと持ち去って、外へと出て行く。少しとは言え、中で暖まった体に外の寒い風は身に沁みる。
 ……っ、ヤル気が出るねぇ!
 早速やるか!
 俺はテーブルの上に英語の宿題をこれでもかと広げる。プリント四枚。たかが四枚、されど四枚。正直言って、俺は別に頭は悪くは無い。寧ろ良い方である。ただ、宿題系統は面倒だからやらない主義なのだ。いや、最低限はやる。だが、手を抜く。だって面倒だし。
 だが、今回は強力な助っ人が居るのだ! 今回は手を抜かずに行こうと思う。
 それではスタートだ。
 俺はテーブルの上に散乱した用紙の一枚を手元に寄せて、何処からとも無く取り出したシャーペンで単語を書き始めるのだった。


「あ、其処違うよ。これをこうして、此処に入れるんだよ」
「あー、あーあーあー。解った解った。本腰入れてみると違うもんだな、助っ人居るし」
 勉強を始めてから三十分ほどが経つ。俺はまだ英語の宿題をしていた。しかし、アンセムの助けもあってもう四枚目のプリントへと移行している。そして、これが最後の問題。
 がり、と渾身の力を込めて書き切った最後の一文字。
 ……終了。
 椅子に凭れ掛かって、背伸びをする。
 ばきり、と小気味良い音が鳴った。
 反動で元の体勢に戻り、指でくるり、とペンを回す。その様子を見てアンセムが言う。
「へぇ、意外と器用なんだね」
 意外とはいらないぞ。
 くるり、と再度と回す。
 森閑とした中で俺たち二人だけが存在する。
 世界がとても小さく思えた。
 ……ふむ。
 俺は立ち上がる。
「少し散歩でもしようぜ、疲れたわ、俺」
 指で森の方を指して、アンセムに笑いかける。それに応じて、アンセムの顔もにこり、と微笑む。
 決定だな、と俺は呟いて、歩き出した。
 横にアンセムがついてくる。とてとて、と可愛らしい仕草が俺の眼に焼きつく。……そういえば、華夜や母さんはどうなってるんだろう。三日家を空けただけだというのに、俺は心配性らしい。
 変わらない景色は適度に感覚神経を刺激して、リラックスさせる、と聴いた事がある。そして、少し酸素濃度が高いところへ行くと、心身ともに疲れが抜けるようだ。なんて、科学者ぶって解説してみても俺のお陰とかそういうわけではないのだが。近くを通った木を、少し叩く。こっ、と音が響いた。
「お前ら、って此処に三人で来たんだよな?」
 んー、と少し考える仕草をするアンセム。
 一つ一つの動作がいちいち可愛らしい。
「うん、そうだね。ベリアルが居ないんだけど……何処いっちゃったのかなぁ……」
 空を仰いで、独り言のように呟いた。
 ……知らないんだな……。
 俺は再度木の幹を叩く。
「なぁ、お前はなんで洗脳されたりしたんだ? それなりの理由が在るんだろ?」
 少し気になっていた事柄をさり気無く訊く。
 アンセム達は、≪蒐集者≫の組織を裏切ったか何かの罪で洗脳されたらしい。だから今は、背徳者、と言われて組織から永久脱退させられたとか。その最後の任務(洗脳されていた時の)が、神檻さんの抹消。多分、組織の結果としては神檻さんとの同士討ちあたりが一番都合の良い結果だったのだろうが、結局今のような状況に至るのだ。
「う〜ん。ボク等は魔術とかの行使を隊長から認められてたんだよ。古臭いからって。それが第一の原因で、二つ目は組織の裏を見たから、じゃないかな」
「組織の裏って?」
「敵との交信をキャッチしたの」
 ……成程。
 確かにそれは重大な組織の裏だろう。
 そして拍車を掛けるように、魔術の使用許可。
「……使用許可は組織全体から下りた訳じゃないんだよな?」
「うん、隊長からだけど」
 ……先に言ったように、≪蒐集者≫とは科学組織だ。そして魔術などを良しとしていない……この状況下で魔術などの制限を外すのは組織の考えに背く事になり、当たり前に罰則だろう。
 まぁ、確かに俺も古臭いとは思うけれども。
「成程ね。そういえば、ベリアルとやらは洗脳されてたのか? 神檻さんの話を聴く限りではそうは思えなかったが」
「うーん、そうかもね。任務のすぐ前にボク達の隊に戻ってきたから。一年前ぐらいにどっかの支部に飛ばされたんだよ、確か」
 ふぅん。
 少し、納得が行く。
 ベリアルとやらが、洗脳されていなかった、という事は多分、元々神檻さんが言った性格だったのだろう。一年前のエレインさん達は操られていなかったのだから、まぁ、性格は違ったのだろうが……普通は違和感を感じるものじゃないのか? それだけが俺の頭には引っ掛かる。……どうとでも後付けの理由を付け足せれる解釈では在るが……。
 さて、で、ベリアルはエレインさんによって殺された……。神檻さんはその場面を見てぶん殴ったんだっけか。それが結局エレインさんの洗脳を解く結果になった……。苦しいな、≪蒐集者≫がその程度の衝撃で解けるような洗脳はしないだろうし……まぁ、結局は科学なのだから……綻びは何処にでも在るんだけど。
「……ま、俺は深くまでは訊かねぇよ。色々と、な」
 俺は少し意味深な口調を込めて言う。
 それを訊いたアンセムが、少し俯いて黙り込む。
 俺は脚を止めて、近くの木に背を預ける。
 風が俺達の合間を縫うようにして流れていく。
 アンセムも脚を止める。
 そして、後ろ手を組み、空を仰いでいた。
 口を、開く。
「ねぇ、クロギシ。ボクがね――」
 俺は眼を瞑る。
 瞑想するように、眠るように。
 アンセムの言葉に耳を傾ける。

「人を殺した、っていったらどうする?」

 ……沈黙が徐々に周りを侵し始める。
 その沈黙の中で俺は、頭の中でその言葉を反芻する。
 多少は、予測は出来ていた。
 解ってる、わかってる。
 一番最初に、俺がお前と出会う前の気配を探す段階で、少しは解っていた。
 奈留髪さんの気配は、他の人の『それ』とは少し違うのだ。
 普通の気配にでさえも、凶々しい殺気が籠っている。
 つまり――お前が奈留髪さんを殺した、という事ぐらい。
 解ってるさ。
 だから、
「そう、気負う事はねぇだろ」
「え……?」
 そこで、アンセムの顔色が変わる。
 こんな華奢な体に、全てを負わせる必要は無いと思う。
 それこそ、その罪や咎の重みに潰されてしまいかねない。
「それはお前が本心でやった訳じゃないんだろ? ほら、今だってちゃんと反省や後悔が出来てるじゃないか。だから、俺はお前を赦す」
 そこで俺はにっかり、と笑う。
 アンセムの驚いた表情が、俺の顔を見る。
「だってさ、本当にお前がやったとしても、お前に怒るなんてお門違いだ。そんなモン、矛先は≪蒐集者≫の組織の方へ行かなきゃオカシイっての。……な、違うか?」
 ……だから、自分で全てを背負い込む必要は無い、俺はそう思う。
 アンセムはまた俯いて、黙り込む。
 俺はそれを見て、木から離れてアンセムへと近づく。
 落ち葉の音が静寂を響く。
 アンセムの白桃色の髪を、撫ぜようと手を伸ばす。
 びくり、と怯えるように体を竦ませるアンセム。
 それを無視して、俺は髪を掴んでわしゃわしゃ、と撫ぜる。
「……もう戻ろうぜ、言ってる内に、四時を越えた。お前は気負わなくていいんだ。出来る事をやっていけばいい」
 そうだ、だから、俺はお前を赦す。
 確かに、奈留髪さんが居なくなったのは悲しい事だ。
 だからといって、お前を責める事は出来ない。
 反省が出来るのなら前を見てくれ。
 過去は大事だ、だけれども、未来はもっと大事じゃないのか。
 過去に起こった出来事はもう変えられない、だから、せめて未来ぐらいは変えるように頑張ろう。
 今から償えばいい、今から贖えばいい。
 後悔が出来る内は、そうやって生きていけばいいんだ。
 ……手遅れじゃあ、ないんだから。
 俺はアンセムの小さい背中を押し出す。
「ほれ、戻ろう」
「……あり、がとう……うぐっ」
 俯く。
 しかし、泣き崩れてくしゃくしゃの顔が俺の眼に映る。
 俺の胸の中に飛び込んでくる小さな体。
 俺は包み込むように背中に手を回して、抱きしめる。
 誰も居ない、俺たち二人だけしか居ない森の中で、泣き声だけが谺していた。



         ◇          ◇            ◇



「……俺、そろそろお暇しないといけないみたいです」
 俺は皆が居間で団欒としているところで、突拍子も無くそういってのけた。
 眼の前には湯飲みに入った緑茶が湯気を立てている。
 しかし、皆はイマイチ反応せずに、へぇ、とか、はぁ、とか言うだけだった。一番大きいリアクションがアンセムの、ふーん、というのはかなり悲しい。そうか、そんなに俺が帰るのがどうでもいいんですね、とは言える訳もなく。皆の反応には少し拍子抜けだけれども、まぁ、これはこれで良いかと思っている俺が居る訳で。結局、俺的にも都合が良いかな、とか思ったりして、でも少し寂しかったりもする。……眼の前の緑茶をすする。
 時刻は六時二十分を丁度指したところで、先程夕飯を食べ終えたところだった。TVからはバラエティに富んだ番組が映し出されている。
 かたり、と湯飲みをテーブルの上に置く。中身の無くなった湯飲みからは、まだ暖かいため湯気が立ち昇っていた。
 結果としては、あの後チケットは取れた。よって、帰ることになったのだが、これが時間が八時半。主に歩きのために七時前には此処を出ないといけないのである。確か、此処にくる時は一時間ほど掛かった筈だから。暖炉は俺の気も知らずにぱちぱちと爆ぜていた。
 TVから歓声が上がる。どうやら、芸人が何かを成し遂げたらしい。それと共にアンセムが歓喜する。エレインさんは本を読んでいた。カバーが掛かっていて何の本かは解らないが、哲学系の本ではないのではないだろうか。神檻さんは……寝てるのかな。秋楽さん、編み物か……。
 ……何もやる事が無い。でもこれでいいのかも。こういう時間は意外に貴重なものだし、大切に使わなくては。
 ……ゆったりと流れる時間の中で考える。物思いに耽ると言ってもいいかもしれない。
 そうだ……約三日ぶりの我が家。心の底から嬉しいと思っている。皆に会えるのだ、母さんにも、華夜にも、田渕にも、桜井にも、和葉にも。……三日しか経っていないのに、田渕なんて、昼に携帯で話したばっかりなのに、本当に懐かしく感じられる。まるで何年も我が家に帰っていないような――そんな気分が俺には在った。
 けども、やはり寂しいのは寂しい。
 たった、三日間とは言え……此処で過ごした日々はかなり充実していた。確かに俺は殺されかけたり、戦り合ったり、いろいろな事が在った。だけど、この三日間に勝るものを、俺は一体これまでで何回経験してきただろうか?
 そして、なによりも心に残るのは、奈留髪さんが居なくなった事だ。秋楽さんにはまだ言ってはいない。きっと、言えばどうしようもなくなるだろうから。自分がとても無力に思えてくる。大事なものは何も護れない、そんな気がして悲しくなる。いつもそうだった。自分は結局何も護れていなかった。無力。どうしようもなく。親しくなった人が死ぬのは……俺にとっては二度目の事。もう、そんなことは無いように……って心掛けたのに……結局は、それさえも護れなかったんだ。今だってこんなことを考えると、胸が苦しくて、張裂けそうで、砕けそうで、崩れ去りそうで、儚くて……たた、泣きそうになる。俺は悲愴になりそうな顔を必死で調整しながら考える。帰る前に心配を掛けたくは、無い。
 ……駄目だ、これ以上考えると、本当に狂いそうだ……。
 俺は立ち上がろうと少し重心を前へと移動させる。すると、秋楽さんが立ち上がる。なんだか少し急いでいるようにも見えた。
「っと、そろそろお風呂を沸かさなきゃ」
 そう言って、秋楽さんは風呂場の方向へと歩を進める。俺はそれを見て、少し寂しさを感じた。
「さて……アタシは少し残っている仕事があるから」
 ……神檻さんも、今度はアトリエへと通じる方の扉を開けて出て行った。少し怪しいな、と感じながらも敢えて追求はせずにそのままでいる。此処から去った時に、誰も悲しまないというのは、俺にとって一番の最良だと思うから。此処が万一の時に敵に狙われたりしても困るし……な。
「ボク、もう眠くなっちゃったや。……お休み〜」
 アンセムが秋楽さんの部屋へと動いた。本気で怪しいと思い始める。なんだ、この連続的な行動の嵐は。オカシイ、皆何か隠しているんじゃないだろうな? などと思いながらも、言及はしない。
「それでは、私も少し勉強でもさせてもらおうかな」
 怪しすぎます。なんなんだよ、皆して。俺を避けてるのか、そうか避けられてるのか俺は。……まぁ、無理も無いことだと思うけれどさ。……寂しさを拭いながら、俺は眼の前の湯飲みに茶を注ぐ。
 湯気。立ち昇るそれは途中までは見えるけれどもすぐに消え去ってしまう。儚さや切なさをふいと断ち切るそれは、今の俺の状況と何かが似ている気がしないでもない。元々、俺は今の田渕達以外とはあまり人とは関わらないはずだったんだけどな……。
 ぐい、と緑茶を飲み干す。時刻は既に六時四十分を指していた。
 時間的に不味い、そう思いながら立ち上がる。隣の部屋へと歩を進める。
 扉を開ける。真っ暗闇の中に光る一つの物体。俺のリュックだった。それを微量の光と手探りで持ち上げて、鞘袋をほとんど手探りと感性のみで取る。
「……この、ぐらいか……最後に挨拶に行かないとなぁ……」
 ブツクサと俺は呟いて、後頭部を掻く。
 先ずは……アトリエから行ってみるか。神檻さんには左腕の恩があるし、何かしたいのはやまやまなんだが生憎とて何も用意が無い。しょうがない、誠意で許してもらおう。
 くだらないことを考えながら俺は歩き出した。扉を開けると冷たい風が肌に刺さる。小走りで抜けて、アトリエの扉を開けた。
「……あれ?」
 誰も居ない。少し呆然とする。おかしいな……なんで居ないんだろ。あ、他の皆に会ってるのかもしれないな。
 ……ふむ……でも怪しい。
 俺はまた居間に戻って、今度は風呂場を探す事にした。秋楽さんが風呂洗いをしているはずだ。
 たん、と床を踏み鳴らして動く。
 ……が、居ない。
 ……なんというか、これは、怪しい、よな……?
「なんつーか……どうせ、この調子じゃ誰も居ねぇよなぁ……」
 まぁ、誰とも会わずに消えるのも潔しっちゃあ、潔しだわな。うっし、書置き残して消えるとしますか。その方が、きっと迷惑を掛けずに済む。
 俺は適当に紙を拝借してテーブルの上に置いてあったペンを取る。
「そろそろ時間もヤバイので……俺は此処から去らせて頂きます。結局皆さんに迷惑を掛けっぱなしでしたが、楽しい時間でした……」
 俺は少し躊躇う。書きたい言葉は沢山あるのだが、その代表を書くべきか、書かないべきか。多分書いたらこの後色んな意味で迷惑が掛かるだろう……。ふむ、書かないで置こう。
「……それではさようなら。いつか萩原(はぎわら)市にも来てください……おっし、簡素だが中々の文だ」
 自画自賛しながら俺はそれを飛ばないようにペンで押さえて置く。
 ……帰ろう。寂しいけれど、仕方が無い。
 俺は俯きながら廊下を歩く。気分はイマイチ優れないが、気にしない。
 そして、玄関。
 扉を開ける。
「――あらら」
 其処には、四人が並んでいた。俺から見て右から、秋楽さんが風呂敷で包んだ食べ物を持って立っていて、神檻さんが煙草を吸いながら仁王立ちしていて、エレインさんが優雅な振る舞いで佇んでいて、アンセムが華奢な体を精一杯伸ばして胸を張っていた。……くす、と笑いが漏れる。それと同時に、眼の奥の熱いモノを必死で堪える。……予想外だよ、これは。
 ……ああ、手紙を書いてきたのに、全く、無駄な事をしてしまった。
「さて――お別れだな」
「そういう事に、なりますかね」
 神檻さんが言う。
 少し恐縮しながら俺は返す。
「これ、お土産として持っていってください」
「有難う御座います。大事に食べさせていただきます」
 秋楽さんが、微笑み、風呂敷を差し出す。
 俺はそれに同じように微笑って返事して、それを受取った。
「会ったばかりだったが、中々に楽しかったぞ」
「此方こそ、結構充実してましたよ」
 エレインさんが喋りながら握手を求めてくる。
 俺はそれに応じて、同じ手をだして握手する。
「それじゃあ、またね」
「また、何時か何処かで会おうぜ」
 アンセムが拳を作って前へと突き出す。
 俺は同じように拳を作って、アンセムの拳と突き合わせた。
 風が吹く。暗がりの山の闇の中には俺達五人しか立っていない。月明かりが照らすこの場所には、何か神秘的なものを感じられずには居られない。
 結局は真剣な場面になってしまった訳だ。……このさいだ、受取ってしまえ。たまにはこんな雰囲気も悪くは、無い。
 俺は姿勢を正して、四人と対峙する。
「本当に、有難う御座いました」
 風が已んだ。俺は顔を上げて、四人の顔を見る。
 ――それじゃあ、これで一時的なお別れだ。
 四人が四人、俺のために両脇に退いて、通路が開く。どうやら、通っていけ、との事らしい。
 ……お言葉、じゃないけれども甘えよう。
 ざむ、と落ち葉を鳴らしながら歩く。四人の瞳に見守られながら。
 何も言わない、誰も動かない。
 お互いに解ってる事だから、言葉を交わせば、また愛しくなるんだ。
 結局これが、『仲間』の概念。
 ……だけど、やっぱり一言だけ言わせてもらえるならば。
 いや、言おう。俺は、作られた道を通り抜けて、四人に背を向けている状態になる。
 其処で俺は振り向いて、にこやかに微笑いながら言う。
「……それでは、また縁があったならば――」
 そして、
 秋楽さんが、にこりと微笑む。
 神檻さんが、煙を吐き出す。
 エレインさんが、柔らかに笑う。
 アンセムが、にっかりと口を歪ませる。
 俺が大仰に空を仰ぐ。
 五人が五人、同時に同じ言葉を吐く。

『――また会おう』

 


         ◇          ◇            ◇




 小鳥の囀りさえも聴こえてきそうな朝。窓からは惜しげも無く日光が降り注いでいた。少し眩しさを感じながらも俺はベッドから立ち上がる。そして次の瞬間少し不安になる。
「……全部夢オチ、とかじゃねぇよな?」
 そう思うと恐かった。此処までのストーリー、約三百枚前後がパーになるのだ。作者を殺さねばやってられないというものだ。おっと、殺す、というのは縁起が悪いか。
 左腕を動かす。なんの違和感も無しに動いたそれを見て、余計に不安になる。試しに自分の頬を抓ってみた。痛い。ってかこれは夢じゃないのね。試しに左腕を傷つけてみれば解るのだろう。きっと。血は出ない……と思う。ってか、もし本当に人形だったらこれどういう造りになってんだ?
 ……待てよ……。
 携帯を反射的に取って、時間を見る。七時。そして火曜日。学校です。……いや、まだ焦る事は無い、焦る事は無いぜー、俺。まだまだ間に合う。そう、まにあ……。
「おっきろ〜!」
 ばん、と大きな音を立てながらそして誰かが這入って来た。
 パジャマ姿の華夜は大きく胸をはだけて……は、おらず第二ボタンまでが開いているといった少々の露出であった。妹だから欲情も何も無いが。
 俺はいつも通りに苦笑しながら、起きてるよ、と一言だけ言う。そして出て行くように促すが、動かない。
 ……あの〜……出来る事ならさっさと出て行ってください。着替えれない。
「何言ってるの、私達は兄妹なんだよ!」
「関係ねぇよ」
 一蹴して無理矢理外へと出す。朝っぱらから……全く。
「だってさー、大兄昨日まで秋田行ってて会えなかったもん。寂しかったよー」
 ……夢じゃ、ない。俺はその言葉を聴いて思った。
 あーあ、全部本当の事なのか……。
 苦笑する。
「駄々こねんじゃねぇよ」
 うー、と唸る野獣(野獣というほど凶暴ではないような気もしないでもない)を扉の外に置いて、俺は数十秒で着替えを終らせた。ってか焦ってたけど余裕で間に合うじゃねぇか、おいおい焦って損した。
 朧げながらもくだらない思考を働かせて俺は部屋を出る。華夜はまだ其処に居た。
「何やってんだ? 学校はどうした」
「中学は今日からテスト期間休みだよー。へへ、頑張ってねー」
 ざけんな。
「俺だけ勉強なんて気に喰わん。課題出すからこれやっとけ」
 俺は部屋に戻って適当に中学レベルの問題集を漁りだす。
 最上級問題集中学一年生用! と書かれた本を取り出してぱらぱら、とページを捲った。……おし、これなんかが丁度良いだろ。そのページを開きながら、華夜に渡す。
「問二。中一の問題だから解けるよな?」
 俺はそう言って階段を下りた。
 オーケー、悲鳴が聴こえたのは気のせいだ。そして苦悩する華夜の姿が上から俺を見下ろしているのもきっと気のせいだ。幻だ。
 さて、どうせ今日もお馴染みの献立の朝食が出てくるのだろう。だけど、三日間喰ってない味は五臓六腑に染み渡るのだろうか。なんとなく、その辺が気になってしょうがなかった。
 がたん、とわざと音を鳴らし、居間へと這入る。
 そして希望は絶望へと移り変わった。
「ごめん、寝坊したからご飯なし」
 ……は? そうして思考回路は凍りついた。
「……米はあるんだよな?」
 こくりと頷く母さん。
 俺は手を組む。……オーケー……くっきんぐたいむ!
 俺は先ず手を洗って、塩を用意する。王道のおにぎりだ。おむすびとおにぎりの違いは確か道具を使って作るか手で握って作るかの違いとかこの前TVでやってた気がするってそれ関係ない。
 タッパーに入っている米をレンジに入れて一分半。ふっくらと温めあがった米を手に塩を付けて握り始める。
「よっ……ほっ……出来た」
 あっという間に三個の握り飯が完成。その一つを口の中に押し込むようにして食べる。……むぅ、塩が多すぎた。ちぃとしょっぱい。だが文句は言ってられず、今日のテストの為に頭を働かせるために、喰う。もっきゅもっきゅ、と俺の口の中で米粒が音を立てて唾液と混ざり合っていく。仄かな甘みが俺の口の中を少しずつ満たしていく……ごくん。
 それを三回繰り返す。
 結果、まな板の上の握り飯は消えて無くなった。否、俺の腹の中で有効利用される形となった。いや、食事に関しての突っ込みは無しの方向で。ほら、一口で喰えたのは俺の口が大きいから。
 そして俺は反射的にTVのリモコンを持ち、電源を入れる。朝のニュースは何かと情報収入源になっているのだ。コッチで何か変わっている事は……。無し、と。
 そのまま気楽にTVを見る。朝のニュース番組はバラエティに富んでいて結構面白いというのが俺の感想なのだが……ま、人それぞれだよな。その時、居間の引き戸が開く。
「大兄! 無茶な問題出すなー!」
 華夜、大声出すな。
「無茶じゃない、じっくりゆったり煮込めば解る」
 あと、朝っぱらから煩すぎ。俺は学校があるの。
 眼を擦る。目ヤニがたくさん出てきたのでそれをティッシュに包んでゴミ箱へと放り投げた。一連の動作を見て、再び華夜が怒鳴る。
「高校生なら解るけど中学生には解らんのじゃー!」
 いや、それ中学生レベルの問題なんだけど。ってか図形の面積の求め方ぐらい解れ。中学二年生にもなって恥ずかしいったらありゃしない。……えっと……うん、俺も出来てた……よな? うん、いや、えっと多分。
 微妙に、華夜に気付かれないぐらいに頷きながら考える。
 ……つーか。ああ、この雰囲気なんだなぁ……。
 非常に懐かしい。
「……何故解らん、ってか今日一日考えてみろよ。帰ったら教えてやるからさ」
「う〜絶対やで!」
 なんで関西弁になってんだよってああ、此処関西か。
 基本、俺の周りは全員標準語だからなぁ……う〜ん、関西人としての誇りというものが消えているのかもしれない。別に構わないが。
「……んじゃま、行ってくるよ」
「んー? 滅茶苦茶速いで?」
「いいよ、たまには」
 時刻は七時半を指していた。ああ……確かに速すぎるかな? まぁ、いいだろう。
 俺は二階へと上がって、ほとんど何も入っていない鞄を取り上げる。これは学校に教材全てを置いてきているからである。……なんだよ、別にいいんだよ。誰でもやってる事だろ? 部屋の扉を開けて、階段を下りる。玄関には三足の靴が置いてあった。靴の種類は解らない。自分のスポーツシューズを見つけ出してそれに脚を突っ込む。
 背伸びをする。関節が鳴る音がして、少し動きやすくなり、コリも少しだけ消えた気がする。
 ――さて、それじゃあ、皆に会いに行きますか。

「行ってきます」
 俺はそう言って、玄関の扉を開けた。
 これまでの事を全部忘れてしまいそうな、そんな朝の明るい陽射しが燦々と降り注いでいる。






 〜了〜


2006/03/03(Fri)20:00:55 公開 / 渡来人
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■作者からのメッセージ
一ヶ月というのは速いもので……orz 申し訳御座いません、すいませんでした。今回はなんだか変な終り方になってしまいました。反省はしてもしきれないぐらいです。
多人数視点というのは非常に難しい事がよく解りました。書き辛い、というのが一番の原因かもしれません。……これぐらいにしておきます、不快になったのならば申し訳ございません。
それでは、過去ログまで堕ちてしまいましたが、読んでくださった皆様に、此処で最上級の感謝と好意を。本当に有難う御座いました。
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