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『濁世の英雄たち(1〜3)』 作者:天姚 / 未分類
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第一戦 西に戦火ありて、秘子世に羽ばたく事



「頼んだぞ」
 前に静座する男はその言葉を受け、沈痛な面持ちで目を伏せている。闇夜に浮かぶ刃は月の光を吸い、妖しく輝いた。やがてその輝きは躊躇無く肉に溶け込む。生暖かい血がほとばしり男の衣を染めた。ごろりと落つるその体を、じっと眺める双眸には、先ほどまでの悲痛な色は見られない。ただ、冷たく冴えた瞳が注がれているばかり。
「全ては、法の為……か」
 吐かれた言葉は霜夜に舞う息と共に消えていく。やがて、その死体を一人の少年が見つめる事になるのは、半刻の後のこと。彼は月の魔力に目を覚ます。

「…………」
 意識が夢から呼び起こされる。妙な胸騒ぎを覚えて半身を起こし、部屋にある唯一の窓をのぞく。外界はいつもと変わらず、月をかぶり、星をたたえていた。ほっとため息をつき、再び眠りにつこうとしたが、頭はすっかり冴えてしまっていた。それにざわざわとした胸騒ぎは、依然として彼の心を締め付けていた。今まで経験した事のない心境に、いささか困惑しながら青い髪を掻き揚げると、その下から紅い瞳と、左目の眼帯が覗く。顔は、まだ幼い。
 彼は寝床から起き上がり、落ち着きなく部屋をウロウロする。十歩も歩けば、壁に当たるほどの小さな部屋。寝台以外には何も無い。厚い絨毯を踏みしめながら、やがて彼は、ゆっくりとした足取りで、廊下へと出た。
「……?」
 左右に流れる、長い廊下。しかし彼は、そこにいつもいるはずの兵士の姿が、一人もいない事に小首を傾げた。何かじっとしてもいられず、その廊下をゆっくりと歩き出す。辺りに照明はなく、足元は定かでないが歩きなれているのか、その歩みによどみはない。と、何かの違和感を覚えて立ち止まった。辺りを見渡す。ずらりと並ぶ扉。しかし少年は、何の迷いもなく、一つの扉の前に歩を進ませる。
「お父様?」
 そっと扉を押し開ける。冬の張り詰めた空気に交じって、血の匂いが彼の鼻を刺激した。おずおずと部屋の奥へと足を踏み入れる。ますます強まる匂い。ふと、床に目を落とす。暗がりのその空間に、うつ伏せになった死骸を見出すのには、さほどの時間は掛からなかった。瞬間、苦しいほど心臓が高鳴る。よく見ると、その死体の羽織る服は、まぎれもなく、父のものであった。自分の父親の死体だと分かっても、彼の顔は相変わらず無表情のまま。
「……お父様」
 悲しみはない。気が動転しているわけでも、呆然としているわけでもない。むしろ親の死体を目の前にしても彼の頭は冴えていた。その時、後ろから突然の声が襲う。
「璃由(りゆう)様!」
 しゃがれた声。振り向かずともその声の主は分かる。剣術の師である進宗(しんそう)。進宗は少年、璃由の横に並ぶと、自分に見向きもしない彼の目線を追った。そこに上官の死体を見出して、声もなく、目を見張った。しかし璃由は、相変わらずの冷めた表情から、冷めた言葉を吐き出す。
「何?」
 進宗は、何度か死体と少年を交互に見ていたが、急に声を荒げて、
「璃由様、お逃げください!」
「逃げる?」
「今すぐ外に出るのです」
 外、璃由にとって、これは特別な響きだった。彼は口の中でその言葉をつぶやいた。
「ここより北東に、成という国があります。なんとかそこまで逃げ延びてください。身どもは、お供できませぬが、地下通路を通り、ただひたすらに走ってください」
 そういって彼は、銀色の鍵を渡し、腰から剣を引き抜いて窓から外の様子を伺った。少年には、今何が起こっているのかはわからない。容易ならざる事態だという事は、なんとなく分かるが、しかしそれを考える事も、目の前で死んでいる父の事も、今の彼の頭には、浮かんでこなかった。ただ外に出られるという事で、頭がいっぱいであった。
「璃由様、成では決して、素性を明かしてはなりません。絶対にです」
 少年は静かに頷く。進宗はそれを確認すると、剣を持ち直して、部屋から出て行こうとした。ふと、振り返る。その顔は闇に包まれて、判別がつかなかった。やがて、震える声で一言言い残し、少年の視界から消え去った。
「璃由様、どうかお幸せに……」
 雪に埋もれた赤い花を、踏みしめて、暗闇にとける少年の姿を、その瞳は静かに見守った。



 時は乱世。群雄割拠する、戦乱の時代。かつて地上を支配していた王朝、法が求心力を失い、大陸は十四もの勢力にわかれて、それぞれが帝を僭称。そのうち、先ず北方の礼(れい)が諸国を制圧し勃興。西北では、采(さい)が異民族をまとめ上げ、一大勢力を築く。同じく南方の関(かん)、そして極東の成(せい)も台頭し、やがて天下は四分された。
 中でも北方の礼は、四国のうちで最も広大な国土をもち、民強く、国庫は金銀で満ちる。若き皇帝、蘭義帝(らんぎてい)の指揮の下、西は采と戦い、南は関を防ぎ、東は成を抑え、まさに名実共に天下統一にもっとも近い存在であった。しかしながら、他の三国も決して弱国というわけではない。四国は微妙な均等を保ちながら、未だに明けぬ夜を続けていた。
 しかし、そんな世にも例外はいくらでもある。特に、成の東にある公稜(こうりょう)は、戦争とは無縁な土地柄。その公稜の山のふもとに庵を結び、一人の隠士が住みついたのは、四国の形成からまもなくのことである。彼は名を珀(はく)といい、村人からは、珀師と呼ばれていた。人当たりもよく、穏やかで気立てのいい性格。知識も並々ならぬものがあり、彼の傍には自然と人が集まった。
 一日、珀がぶらりと、外に出かけたときのことである。彼は半月前から、朝早く家を出て、川辺に向かう事を日課としていた。そこで良質の山菜が取れることを、知ったのである。いつものように川辺に向かい歩いていると、その途中にある、寺のあたりで、何かの泣き声が、風に乗って聞こえてきた。不審に思い打ち捨てられた寺へと足を運ぶと、その寺の傍で、なにやら丸く白い布切れを、見つけた。近づいてみると、それは布にあらず、へその緒と共に包まれていた、赤ん坊であった。彼は腕でしっかりと抱きかかえ、添えてあった紙を見て云う。
「天奈(てんな)か……うん、いい名だ」
 赤子に付いた鈴の音が、あたりに木霊する。
 リン……リンリン……
 ……リン……リン
(鈴の音?)
 その音に瞳をゆっくりと開ける。鳥の鳴き声。小さな部屋。窓の帳から、光が漏れる。その光を、体に受けながら、今自分が、布団の上にいる事に気付いた。まもなく、ぼやける視界に、人影が映った。
「あ〜 師匠様。目覚ましたよ〜」
 少女の声。何度か瞬きをするうちに、彼女の顔までがはっきりとわかった。年頃は、十二、三であろうか。金色の髪に、青く大きな瞳。アヒル口が特徴的な少女。耳には、白い鈴が輝いていた。そして、彼女の声に答えて奥から出てきたのは、人のよさそうな白髪の老父であった。
「おぉ、気分はどうだね?」
 訝しげに見ていたのだろう。彼はすぐに事の次第を話した。
「さて、覚えていないか……。国境付近で行き倒れていたところを、ここまで引っ張ってきたのだが……」
 お礼を言わなければと思ったが、口から出るのは小さくかすれた声であった。その様子を見ていた老父は、そっと瓢箪を差し出した。
「さ、飲みなさい」
 しかし口に含んだ瞬間、その苦さにすぐに吐き出してしまった。
「お師匠様、それお酒ですよ」
「あ、すまん」
 改めて差し出される水筒に、思わずかぶりついた。更に老父は、肉団子をもった皿を、目の前においた。その時初めて自分が空腹であるという事に気付いた。肉をかきこみ、水でそれを流す。
「ふうむ、大分飢えていたと見えるの」
 白髪の翁は、食べ終わるのをまって、再び口を開いた。
「ワシは、珀と申す。ここ公稜で、童塾を開いている者。それと、この子は天奈。……名を聞いてもよいかな?」
「……璃由」
 とっさにそう答えた後、すぐに後悔の色をはいた。すばやく相手の表情を盗み見たが、珀は名前を聞いても、別段驚いた様子もなく、
「ほぉ、立派な名前だ」
 そういって笑顔を見せた。天奈という少女も笑みを見せていたが、窓からのぞく太陽を見つめて、
「師匠様、そろそろ子供たちが来ますよ?」
「もうそんな時刻か……。では、ゆっくり休んでなさい」
 珀はそう云うと、天奈と共に、部屋を後にした。
 
その夜、すっかり気力を取り戻した璃由は、珀に頭を下げた。
「先ほどは、どうも失礼しました。助けていただいた上に、お宅にまでご厄介になってしまって……」
「ほ、随分としっかりしておるのぉ。天奈も同い年ぐらいだというに……」
「む〜 私もしっかりしてるよぉ」
 珀は笑いをおさめて、璃由に問いかけた。
「ところで、あなたは何でまた、あんな危険地帯に?」
 口を開きかけたその時、進宗の言葉が再び脳裏をよぎった。素性を明かしてはならないと釘を刺されている身。これ以上はと、出かけた言葉を呑みこんで、すばやく機転を利かせた。
「どうも、記憶を失ったようで……」
「ふうむ、それはまた、お気の毒に。ご家族も心配しておろうが、記憶がなくては是非もない。……まぁその内に思い出す事もあるでしょう。暫くここにいるといい。なになに、遠慮はいらん。部屋もあるし、糧に困るものでもない」
 璃由にとっては、願ってもない話。偽っている事を申し訳なく思いつつも、ついその言葉に甘え、その日は部屋へと引き取っていった。
 横にごろりとなると、冷えた夜風が帳を揺らして吹きぬける。夜もまた深く、満天の星空を遠く故郷の方角に眺めると、密かに彼の頬に冷たいものが流れた。



 時は光陰の如く、瞬くうちに数年の歳月が流れる。しかしながら、未だ天下の争乱は、収まるところを知らず、果てのない戦いが、西の山で、東の野で繰り広げられていた。
 


――浅春、二人の男女がぼくぼくと田舎道を歩く。春の光を帯びた風が、二人の間を静かに駆ける。時より鼻をつく花の香に、少女の心は躍り、思わず声を出す。
「まう〜」
「……なんだ、それは」
 一人は少年。年頃は、十六、七であろうか、その目鼻立ちは、明らかに庶民のそれとは違った。凛とした眉に、青く短い髪。赤い瞳を持つが、左目には不思議な文様のある眼帯をつける。朱の腰帯に剣をつるし、青と白の混じる戦袍をまとい、茶の麻靴という装いであった。
これなん、数年前に外界へと飛び立ち、命からがらに、成へと逃れえた、璃由その人であった。
「それにしても……家中の酒を、持ち出されるとは」
「でも師匠様らしくていいよぉ」
 少女は楽しそうに云う。金色の長い髪に、一転の曇りもない青い瞳。年は璃由とさほど変わりはなさそうだが、彼と違い、キリリとしない口元。いわゆる、あひる口である。と、すれば正体は一つ。赤子の頃、古寺に捨てられていた少女、天奈である。彼女は別に剣を佩びず、服も旅人が着るようなもので、丈夫だが武装もされていない。先ほどから、木漏れ日を一身に受けている。
 暢気なものだ、と璃由は思う。同時に、頭の中には磊落的で、酒をこよなく愛する男の顔を、思い浮かべていた。
(……何も言わずに出て行くなんて)
また、二人の間に春の風が吹き抜ける。少女の耳についた白い鈴が、静かに鳴った。

 ……さて、この二人が公稜の庵からうち出て、旅具をそろえて久しい呈を見せているのは、一つに珀の存在があった。しかし、そのことを話す前に何故璃由が今なお珀の元に留まっているのかを、知っておく必要がある。
 彼は珀に助けられその温情で一時の憩いの場を、ここ公稜に得たわけだが、五日、六日とたつうちに、偽っている事に後ろめたさを感じ、また何時までも黙っているわけにもいかず、ついに人を払って、珀に己の身の上を話す事に決めた。とはいえ、彼自身も自分のことながら、あまり多くのことを知らない。とにかく、偽っていた事を謝罪した上で、自分が知っている限りの事を、彼に話した。
「私の父は、慶蘭といい、一城主をしておりました。母は私が生まれてすぐ亡くなっておりまして、兄弟、祖父母もございません。私は、唯一の肉親である父の言いつけで、幼少の頃から、外出を禁じられ、城の奥深くで育てられました。もっぱら剣術にばかりいそしみ、恥ずかしながら、自分の住んでいたところも、世の中の事も、何も知りません。……それでつい先頃、その父が非業の死を遂げ、また危機迫ったため、家臣の一人の言にしたがって、成へと逃れてきた次第です。しかし頼るものもなく、ましてや、外に出た事も初めて。ついに疲労と飢えで倒れたところを、幸いにも、珀様に助けていただき、ここにその命をつなげる事ができました」
 素性を明かした上は、何が起こるか分からない。おずおずと珀の顔を見る璃由であったが、意外にも彼は優しく語りかけ、
「まだ幼い身でかかる不幸におうて、何といってよいか分からぬが……よくよく聞けば、故郷にも戻れず身よりも無いとか。……どうだろう、もしあなたさえよければここに残って、この老父を助けてくれないか? 最近では体も弱ってきたし、天奈にいつまでも力仕事を任しておく訳にもいかぬし」
 璃由は、珀の厚情に涙して、感謝した。以来、珀に代わって家の雑務をこなし、また学問にもいそしみ、彼を師父と募った。

 ここで過ごしていく内、自分が故郷を追われる事になった、あの一顛末の事情を彼は知る事になったが、それは後日に譲る事として、公稜での生活は瞬くうちに三年、四年と流れていった。人の心とは、移り気なもので、四季が巡り、月日が過ぎていくうちに、いつしか故郷のことを懐かしみ、涙する事も無くなり、この地での生活を心から楽しむようになっていった。彼にしてみれば、父の元で育った閉鎖された十数年よりも、ここに来てからの数年の生活の方が、どれだけ生き生きとし、幸せであったか分からない。
 しかし、そんな幸せな土地を捨てて、彼が旅路を急ぐ理由は、数日前にさかのぼる。
 璃由がいつものように、朝げを作る為、くりやに回ると、彼はそこの光景に仰天した。十樽はあっただろうか、狭いくりやに置いてあった、酒樽が一樽残さず、消えうせていたのだ。無論、それは酒好きの珀のものであった。急いで珀の元に駆けつけ、ことの次第を伝えようとしたけれども、彼の姿もまた、消えうせていた。
 その日が暮れても帰ってくる様子は無い。一日空けるだけでも、しっかりとその旨を伝えていた珀が、今回ばかりはなんの言葉も置手紙もなく、忽然とその姿を消したのだった。その内、璃由は不安を覚えた。いてもたってもいられず、ついに天奈を連れて、共に珀の庵を飛び出した次第……。以来何日かの旅路の末、その姿は今、深い森の中にあった。



「……天奈、どうした?」
「鈴のかたっぽ、無くしたからね……地面を揺らせば分かるかも〜? って思って」
 ドンドンと地団駄を踏むように飛び跳ねる。確かに、先ほどから鈴の音はする。耳についている方の鈴の音が……
「意味がないぞ……それに鈴ならそこにあるじゃないか」
 古ぼけた木のそば、白い鈴が輝いている。
「あ〜、本当だ、ありがと」
 耳に鈴をつけている天奈を横目に、璃由は地図を開く。
「……凱挌は……ここだな」
「むぅ、遠いねぇ……後どれくらいでつくの?」
「順調に行けば後五日くらいだっただろう、それよりも……」
 璃由はあたりを見渡した。厚い木々に覆われ、時刻さえ定かでない。遠くを見れば黒々とした闇ばかりが、二人の足を止めるばかりであった。
「ここはどこだ……」
 お約束のように迷子になり、呆然とする二人……いや一人。天奈の方は両方そろった耳飾りに、満足しているようだった。朝が来るまで待つのが賢明だろう、そう璃由が思った矢先であった。天奈の首がくるりと動く。
「あっちに何かあるよ〜?」
 指を突き出し、暗闇をさす。目を凝らすと、確かに一片の光が見える。
「なにかなぁ……家の明かりだったらいいね」
「……そうだな、行ってみるか」
折れた木の枝を踏みしめながら、光のほうへと進んでいく。ふと、璃由は兵法の一説を思い出した。
「眼前に兎を置き、足元に縄を仕掛ける」
 つまり、敵の目の見えるところに、注意を引くものを仕掛け、敵の死角を突いて攻撃を加えるということ。……考えすぎか、そう璃由が思っていると、突然後ろから叫び声が聞こえた。
「わ〜! なんか噛んだよ〜」
 天奈は半泣きになりがなら必死にもがいている。どうやら足を何かに挟んだらしい。見ると、獣類を捕獲する為の、いわゆる虎挟みを踏んだようだ。幸いのこぎり歯ではない。
「大丈夫。ただの虎挟みだ。動くと余計に食い込む」
 と言いつつ、璃由は苦笑をした。剣を取り出すと、虎挟みの隙間に差し込み、ぐっと力を加える。しかし、なかなか思うようにいかない。閉じた衝撃で鍵が掛かる仕組みになっているようだ。一方の天奈は泣きじゃくるばかり。
「どうしたものかな……」
 璃由はあたりを見渡しながら思考を巡らす。虎挟みがあると言うことは近くに人が住んでいる可能性は高い。そして向こうに見えるあの光。まず人家と考えて間違いなさそうだ。
「ちょっと、ここで待ってろ」
「ここで、って言ったって、動けないもん!」
「落ち着け。すぐに戻る」
 璃由は土を払うと、再び光に向かって歩き出した。……足元に気をつけながら……。
光に近づくにつれ、足音も変わってくる。おそらく、人が何度も行き来しているからであろう、いくつにも折れた枝ばかりが、散乱している。そして光の正体も分かった。やはり、家の窓から漏れる明かりである。なんとも質素な庵だが、不思議と温かみを感じる。 早速玄関に回り、扉をたたく。住人はすぐに出てきた。光が漏れる。決して強くはないが、今の璃由には、まぶしすぎる位であった。逆光で相手の顔は、良く分からないが、頭を下げて云う。
「夜分に失礼。ちょっと、連れの者が、猟具で怪我をしてしまって……」
「璃由……?」
「え?」
 突然、自分の名前を呼ばれ、さっと顔を上げる。
「やっぱり璃由じゃない、こんなところで何やってんの? 連れって天奈ちゃん?」
 矢継ぎ早に質問する顔を見て、思わず声を出す。
「羽英(うえい)先輩!」
 彼女は、緑眼を細めて、微笑んだ。
「二年ぶりかな、それよりも天奈ちゃんでしょ? 大丈夫かなぁ、あの子一人にして。……今頃、泣き出してるんじゃない?」
 久しぶりの再会よりも、天奈の方が心配らしい。壁にかけてあった鍵を取りながら、璃由を急かす。
「久しぶりの獲物が天奈ちゃんとはね、さ、行きましょ」
 羽英に促されるまま、璃由は来た道を再び引き返していった。



 半刻後、三人の姿は羽英の庵にあった。
「で、何しにここまできたの?」
 じつは、と話し始めたのは、彼らの共通の師匠、珀の事。数日前、忽然とその姿を消した経緯を語ると、羽英はやおら口を開いて、
「それで二人は、先生を追っている途中なのね。でも相変わらず先生は、奇異な行動を好む方ね」
 頷きながら、璃由は手掛かりが全く無いわけではないのです、と云う。
「いなくなった前日の夜なのですが、一人の来客がありまして、確か凱挌からの使者だと……先生は人払いをして、何やら長い間話を」
「ふうん」
「それと、切れ切れに聞こえてきた会話の中に、先生がしきりにハクモ、と言う言葉を口にされておりました」
「ハクモ? ハクモねぇ」
 と、ずっと眠気と痛みに黙り込んでいた天奈が、口を開く。
「む〜 ハクモって、白最さんの事じゃないのかな?」
「ふむ、あり得るわね」
 羽英が頷く。
「誰です?」
「あぁ、璃由は知らないのか。白最さんは昔、先生の弟子だった人。八年前に先生の下を去って、今は……確か中央に召されて官史になったと聞いているけど」
「なるほど……その方に会えば、何か分かるかもしれませんね」
 羽英は、天奈の傷口を見ながら、
「可能性はあるわ、でも凱挌に行くのなら、地図どおりには行けないわよ」
「どういう事でしょうか?」
「数日前から軍が、西の山の辺りで軍事演習を行っているの。今は立ち入り禁止になってる。 うかつに近づいたら、忍びの者と間違われて、殺されちゃうかもよ」
「そうですか……弱ったな」
「ま、もう遅いし、明日ゆっくり考えましょ。天奈ちゃんも、オネムみたいだし」
 見ると、天奈はいつの間にか、机にめり込む様にして、熟睡していた。……庵の光が消えたのは、それからまもなくの事であった。


第二戦 老師、再び中央に帰し、旧怨なお深い事



「さ、行こうか」
 羽英お手製のあさげを食べ終わり、一息ついた時の言葉であった。羽英の声に、璃由は頭を上げた。彼女は髪を蝶に結び、ゆったりとした青の旅装を身につけ、短剣を佩き、背には小さな荷を背負っている。
「…………」
 ここで何を云っても、ついてくるのだろう。それにこの先道は分からぬし、天奈の面倒ばかり見てもいられない。璃由は立ち上がって、頭を下げた。
「わ〜い 羽英さんもいっしょだ〜」
「天奈ちゃんよろしくね」
 飛び跳ねる天奈。それを見て微笑む羽英を瞳に収めながら、璃由ははや、羽英の庵を後にした。花で着飾った木々の間を、にぎやかな声が吹きぬける。
「そしたら師匠様がね〜」
「あら、まだ師匠様ってよんでるの?」
「そだよ?」
「お父さん、て、呼んでみたら?」
天奈は、ちょっとはにかみながら、
「ん〜 なんか恥ずかしいよぉ」
「ふふ、でもきっと喜ぶと思うよ。私もね、養父母に育てられたけど……」
お父さん……か。璃由は、父親の姿を思い浮かべようとしたが、どれもおぼろげな後姿ばかりであった。そういえば父を失ってから、あまり考えたことが無かった。礼の将軍だった父。遊んでもらった記憶も、話をした事さえ、ほとんど無かったかもしれない。顔も思い出そうとしても、出てくるのはのっぺらぼうの父だった。
 ふと、血だらけの父親と、雪に埋もれた赤い花が重なり、璃由の脳裏を掠める。頭を振った。自分でも、あの頃の記憶を捨てようとしているのが、分かる。たとえ良い思い出が無くても、実の父親の事、死んで、悲しくないわけではないが、あの頃を思い出すと、今でも息苦しい思いがした。
 そう思いを巡らしながら、空に垂れ込める黒雲を、璃由はじっと見つめていた。青の大地に、水が滴り落ちる。


 成の大将、文嶽(ぶんがく)は、建国当初から仕えた、古参の将である。その年四十。官は西逆将軍。名家の出身ではなかったが、若くして軍隊に入隊。もとより学は無かったが、弓馬の才能に恵まれていた事もあり、徐々に出世していった。賞罰も公平で、地位や身分にもこだわらず、良策と見れば一兵士の意見でも、積極的に取り入れた。かつて、歌(十四国のひとつ)との戦いでは、指揮官に抜擢され、その重責を果たしている。そのような人物であった。
 そしてこのたび、帝の命により、精鋭五万を率いて、隣国の礼の領土に侵入し、重要拠点の一つ、蓉比(ようひ)城を包囲していた。見ると、蓉比城のいたるところの壁は切り崩され、黒煙も立ちこめ、勝利は目前と思われる。そこに、一人の兵士が急報を知らせてきた。
「文嶽様、礼の援軍です。率いるのは、京紗(きょうしゃ)、その数二万」
 物見の兵の報告を、予期していたかのように、彼はすぐに命令を下した。
「蓉比城の落城は、もはや時間の問題だ。璃新(りしん)の部隊は、このまま攻撃を続行せよ。残りは我に続け、京紗に当たるぞ」
 副将の一人、璃新にそう命じると、文嶽は三万の兵を率いて西の平原に向った。そこには既に、堂々と陣を敷いた礼軍が、武振将軍京紗と大書された旗を高々と上げ、待ち構えていた。
 京紗、官は武振将軍と、窃府(国家機密を司る)を兼ね、年は文嶽よりもいくらか上であった。彼はもともと礼の端役人であったが、難関の国法試験(登用試験)に受かり、中央に召された。
 その後も、もっぱら政治家として出世していったが、五年前の関との戦いにおいて兵を指揮し、将としての才能も認められるようになった。その後、主に対成戦線で活躍し、成の進撃を度々退けては、彼らを大いに悩ましていた。
 文嶽は、敵軍の中に京紗のすがたを見つけるや、鞭で彼を指して、
「京紗、今日こそ貴様のそっ首を、刎ねてくれるわ!」
 と、大声を上げた。
「愚かな……卵を岩に投げつけて、何とする?」
「ほざくな!」
 云うや、自ら陣の先頭を切って、礼軍に突入した。その勢い凄まじく、成軍は一瞬、浮き足立ったと見えた。礼軍は陣を完全に崩され、どっと、退いた。
「この期をはずすな!」
 文嶽はここぞとばかりに、全軍を繰り出して、突撃を命じた。ところが、追走一里、忽然として礼軍の姿は、地上から消え去った。文嶽は怪しみ、兵をかえそうとした。
 その時、左右の藪から突然、天をもどよめかすときの声が、成軍を分断し押し包んだ。文嶽は動揺する兵士たちを叱咤し、逃れながら部隊を立て直そうとした。しかし、すぐにまた京紗率いる礼の伏兵によって、退路を断たれた。
「はっはっは、古い手に引っかかるものよ」
 京紗の屈辱の言葉に言い返す暇もなく、文嶽は血路を開いて東へと奔った。この時すでに、蓉比城陥落の知らせを受けていた文嶽は、
「蓉比城へ奔れ!」
 と、言い捨てておいて、自ら殿となって進んだ。しかし、すっかり士気の衰えた成軍は、半里と進まないうちに次々と討ち取られ、蓉比城へたどり着く頃には、その数を千騎に減じていた。無様にも敗走していく文嶽を、京紗はじっと見据えながら、
「敵は小城を盗って、三万の精鋭と、士気を喪った。二十日後の決戦は、火を見るよりも明らかだな」
 そう独語するや、手早く兵をまとめて、前線基地の殿業城へと引き返していった。



宿の窓から璃由の顔がのぞく。憂鬱そうに、益々強まる多雨を眺めるその眼には、水の糸が時折、地から生じ天に昇っていくように見えている。
「本当ならね、そこから見える祈山の裾野を通っていけば、すぐにでも凱挌につくんだけどね」
 祈山は成のほぼ中央に位置し、凱挌から見れば真東にあたる。祈山と称しているが、標高は低くなだらか。ここを越えて行けば、労せずして凱挌に辿り着ける。
 「そうですか」と答える璃由は、相変わらず外を見つめるばかりであった。
「……璃由は、先生を大切に思ってるんだね」
 羽英は何を思ったか、突然そんな言葉を吐いた。璃由が振り返る。心臓が大きく鼓動した。
「天奈ちゃんはさ、楽天的で今回の先生の事も心のどこかでは何とかなる、って思ってるんだろうね。ちっとも心配した素振り見せないんだもん。それだけにさ……」
 羽英は珍しく言葉を濁す。
「……先生は」
 璃由の記憶。その霞む視界に珀の姿が映った。
「師父は、命の恩人ですから」
 璃由は自分が礼からの亡命者である事を、師父と仰ぐ珀以外には、話した事はなかった。当然、事情の知らない羽英であったが、その言葉を聞いても別に追求もしなかった。
「ま、心配すること無いわよ。大方美酒の噂をかぎつけて、遠方に出ているんでしょう」
 羽英は、ぐっすりと午睡している天奈の頭をなでながら、根拠の無いことを言う。璃由もまた、そうであってほしいと思うが、どうも拭い去れぬ、嫌な予感が頭をかすめる。と、
「里賊が、来たぞ!」
 そう騒ぎ立てる声が、外のあちらこちらから聞こえてきた。
「なんだろ?」
 羽英はつと立ち上がり、円窓から覗いた。遠くから聞こえる馬蹄の音。それから逃れるように、町人は走って家の中へと潜んだ。宿の亭主に尋ねた羽英は、
「ここら一帯を荒らしている、賊らしいわ。律儀にも定期的に山を降りて、金品、食物を強奪してるんだって」
と、少しあきれ顔で璃由に伝えた。
「賊……ですか」
「今時、こんな古い手を使う人間もいるものね」
 云いながら彼女は、荷から皮袋を取り出し、腰の匕首を確かめると、宿を出ようとした。
「先輩、外は危険なのでは?」
「わかってるわよ、その賊とお話しするだけ」
「お話って……」
 宿の主人も後日の咎めを恐れて、羽英を止めようとしたが、聞かなかった。璃由は、羽英の性格をよく知っている。
「不義をみて、心偽るは、義士にあらず」
 羽英は、これを信条としていた。悪い事と知りながら、見てみぬふりを決めこむ事は、彼女にはできなかった。
 はや、出て行こうとする羽英に、「私も参ります」と、共に外へ繰りだすと、そこには手馴れた手つきで、畑から作物を抜き取り、家に押し入って、くず銭をぶんどる、賊の姿があった。当然、すぐに絡まれた璃由たちは、この一団の頭とおぼしき男の前に、突き出された。
「ここらの事情を知らないらしいなぁ、悪いが荷を検めさせてもらうぜ」
 羽英は落ち着き払って、
「こんなくだらない事は、やめなさい」
 と、堂々といい放った。
「くだらんだと?」
 男は怒りの声を荒げ、羽英の首をつかんだ。
「いい大人が、弱いものいじめて楽しい?」
「ふざけるな!」
 「たたんじまえ!!」とお決まりの台詞を吐きながら、踊りかかる賊を、羽英は匕首をとって応戦した。璃由もまた、体を押さえつける賊をねじ伏せて、すばやく身をひるがえす。峰で首を強かに打たれた賊は、泡を吹いて倒れ、たちまち賊二十人ばかりを、地にうつぶせて置いた。
 一人残った頭は狼狽しながらも、飛叉を向けて羽英に襲い掛かった。しかし、彼女が皮袋から取り出した飛礫を腕に受け、得物を取り落とし、璃由に縛り上げられる、醜態をさらした。
「放せ!」
 なおも暴れる男に羽英は、
「あなたたち、歌人でしょ! 元々自分たちの土地だからって、いつまでも暴れまわっているんじゃないの!」
 ここら一帯は、十四国時代には、「歌(か)」という王朝が治めていた。今から十数年ほど前に、成は歌を滅ぼすと、歌人の住んでいた土地をことごとく奪った。北威という寒地に追い払われた歌人は、飢えと寒さに苦しみ、死んでいったが、敗兵を中心とした一部の人々は、こうした山賊行為を行い、町村を襲っては飢えをしのいでいる。成の度々の討伐で、今ではかなり下火になってきているだが……
「こんな事でもしなきゃ、俺たち歌人は生きていけないんだよ!」
「何を馬鹿なことを!」
 羽英は、眉を吊り上げた。
「今更、歌人だの成人だの言っている人なんかいないわよ。武器の使い方じゃなくて、くわの握り方を覚えないさい」
 言い返そうとする男を、羽英は言葉でさえぎった。
「それにさ、せっかく法の時世を生き抜いたんだから、悪事から足を洗ってまっとうに生きなきゃ。身代わりになって死んだ人たちに、申し訳がたたないでしょ」
 璃由は、当然法の時代を知らない。だが、彼より年上の羽英や、ここにある壮年の男は、あの血塗られた日々をよく知っていた。

 法は、かつて地上を支配していた王朝で、あの頃は、生きることさえ、難しかったという。法は、最後の皇帝、仰帝の時。打ち続く凶作にくわえ、民には鉱山、治水工事などの過酷な賦役が課せられた。さらに、法律を厳しくし、例え軽罪であっても、家族は連座とし、時には村全体が巻き込まれる事もあった。国民の生活は、食べ物一つに対しても、規制が行われるようになった。
 もちろんこの過酷さを直訴したものもいたが、そうした義士はことごとく処刑された。さらに、仰帝の愚かな所業によって、多数の民が虐殺されたのも事実である。その一例を挙げれば、帝の行幸に際して、ある足の悪い老父が避け遅れて、その進行を阻んだ形となった時、それに激怒した仰帝は、老人を牛引きにしただけでなく、その村の人々を皆殺しにした上、村に火を放った。それも一度や二度の事ではない。
 法の末期には、「盤遊(ばんゆう)」、「卑豚(ひどん)」と称した、公開処刑も行っている。前者は、政治犯を盤上の駒に見立て、互いに殺し合いをさせるというもの。後者は、重犯者の手足をもぎ取り、目をつぶし、耳に蝋を詰め、舌を切るという、とても人間のやることとは思えない、刑であった。これら非道の数々を、仰帝は自ら行う事もあった。  
 しかし、こんな国が支持されるわけも無く、やがて各地で叛乱が相次ぎ、十四国時代の時、成によって滅ぼされた。この頃になると全人口は、法の最盛期の三分の一に減じていた。羽英の言うように、彼らの死の上に今の自分たちがいるならば、心が疼かずにはいられない。
 
 羽英は、一つため息をついて、
「とにかく、金輪際町を荒らすんじゃないわよ」
 そういって羽英は、縄を解いてうなだれる男の手をとり、立ち上がらせた。



 ――凱挌(がいかく)
 大陸の最東端に位置する成の国都であり、かつては天瞬(てんしゅん)とも称した。法の時代には、この地で大虐殺があり、建物は焼き尽くされ、何万もの住民が、その犠牲となった。しかし成が建国されると、再び民が戻り、現在では大国礼には遠く及ばないものの、戸数は十万を下らず、人口も四十万を超える。神殿・寺院が立ち並び、市外には大小さまざまな露天が軒を連ねる。学問も大変盛んで、大学の数は三十以上。制限を設けず、能力があれば、貴族、庶民にかかわらず誰もが入学できた。成の皇帝が、どれだけ学問に力を入れていたかが分かる。
 また、凱挌は天然の要塞としても知られている。北に成の霊山、富厳山(ふげんざん)を構え、西を見れば大双(だいそう)、方化(ほうか)、両山脈がこれを貫き、南西には大陸でもっとも大きく雄大とされる、斉茂(さいも)の滝が敵の侵入を阻む。その滝から流れる水は、豊かな土地を生み出すと共に、巨大な大河を形成し、凱挌一帯を覆うように流れる。結果、西からの移動は制限され、かつて十四の勢力が覇を争った時代、成は小国であったにもかかわらず、この地形を利用し法の精鋭十万をわずか八千で退けた。
 以来、一度も敵に害されること無く、凱挌は繁栄を極めていた。
 若き将軍白最は、その凱挌へと続く道に、馬車を走らせている。何とか目的を達した彼の心は、しかしながら、漠然とした不安に、苛まれていた。白最はその心のうちを、敬愛する師に語るのを、ためらっていた。信頼しているからこそ、どうしても言い出せなかった。師はそんな弟子の心を見通したのか、急に口を動かした。
「白最よ、兵家はどんな時でも、心を乱してはならぬ。気を緩めていいのは、厠にいる時だけだ」
「……肝に銘じます」
 師の諧謔も、今の白最にとっては不安になる一要因である。
 しかし、と師は話を続ける。
「どうも遅々として進まぬのぉ……やはりこの酒樽が重いか」
 そう言いながら、樽をトントンと叩く。
「白最よ、どうだ、凱挌につくまでもう一杯」
「……もう、着きますので」
 その言葉の通り、彼らの視界にまもなく、凱華の大正門がうつった。近づいてみると、青塗りの大門には、左右に白馬と黒馬があしらわれている。成では馬を、繁栄の象徴としていた。
「変わらぬのぉ、ここは」
 珀は、長旅のほこりを掃い、宮廷へと続く街路を歩く。傍らを行く白最は、蒼白な顔を往還する人々に晒している。
「ところで白最よ、お主の子は元気か?」
 白最は先ほどから、師の問いに曖昧に答えながら、別のことを思っていた。
(陛下の下命を受け、なんとか師匠を説き伏せたことができた……が、しかし師は一向に、今回の件について触れては下さらぬ……。もちろん、師匠を信じていないわけではない。ただ、今だ、思うところを打ち明けて下さらないのは、一体どうしたものか……)
 白最はそこまで考えると僅かに苦笑した。
(私も同じか……)
やがて宮門をくぐると、既にそこには数人の官史が待ち構えていた。その中の一人が、珀に拝礼するや、
「遠路はるばるお出でいただき、感謝の念に耐えませぬ。この度の大事に是非、先生のご意見をいただきたく……」
 珀はそこまで聞くと微笑と共にかぶりをふった。
「すでに致仕した身です。ま、そう畏まらなくても」
 ますます恐縮する官史の案内で、中門を抜け、堂へと向かった。その途中、ふいに、珀の眼に一人の人物が止まった。遠くにいるので良くは分からないが、白の印象が強い。珀は隣に控えていた、白最に問うた。
「あれは?」
「あ、彼女は真城の守将、誡偉(かいい)殿です」
 官史の一人が付け足して云うには、誡偉は元々隣国礼の将であったが、先頃、あらぬ讒言を被り、成に亡命。帝は彼女を歓迎し、西威(将軍号の一つ)の称号を与え、礼との境にある真城の守将に任じたのだという。
「ほ、仮にも敵国の将であったものを、何故に対礼の重要拠点の守将に、任じられたのか?」
 白最が答えて云う。
「誡偉殿は、篭城戦を得意とします。彼女が国境を守れば、礼軍にやすやすと境を侵される事も無いと……それと、亡命の手土産として陛下に献じた品も、信用された理由の一つです」
「それは何かな?」
「奏維(そうい)の首です」
「ふむ!」
 奏維、彼は礼の重臣の一人で、対成戦線の総指揮官であった人物である。
 遠ざかる彼女の姿を、珀は意味ありげに眺めていた。
 いよいよ、帝の待つ堂に入ると、帝は自ら段を降りて出迎えた。
「統史よ、よく来てくれた」
 帝は珀の事をそう呼んだ。白最と珀はその場で拝跪すると、改めて帝の竜顔を眺めた。黒の頭髪に、褐色の眼。整った眉と口元には、珀が知る、先代の帝の面影が残る。三十の境を出ないが、帝としての威厳を十分備え、その双眸には覇気がみなぎっていた。
「統史、白最からおおよその事は聞いていると思うが、今一度、私の口から云わせてほしい」
 と、前置きをし、語り始めた。
「我が父である先帝の後を継ぎ、麗帝(れいてい)と称して十余年。呪国、法が滅んで、天下が四分され久しいが、今だ国境は定まらず、剣戟の響きが絶えることは無い。なかでも西方の礼は、領土、兵力共に諸国に抜きん出て、これと数度にわたり戦を起こすも、天運我に至らず、敗北を繰り返すばかり。そして、今また礼は本国を併呑せんと、殿業(礼と成の国境の地名)に三軍を集結させた。その報を受け、私は将兵を励まし、決戦のほぞを固めたものの、心中には必勝の策も無く、むなしく手を拱いている次第。また敵の多きを恐れ、見方の寡勢なるを憂うのは、やむを得ぬことではある」
 珀は述べるところを、ただただ黙って耳を傾けていたが、やおら口を開いてこういった。
「三軍の勝敗は、天にありと申す。ましてや兵の優劣で決するのでは、ございませぬ」
 彼の言葉に大きく頷くや、改めて礼を正して、
「師よ、改めてお願い申す。かつて父を助け、成を一大勢力に導いたその才幹をもって、再び我国の為に、力を貸してはくれぬか」
 と、切願した。
 珀は地面に跪き、家臣の礼をとって、これに答えた事だった。



翌日、改めて対礼戦線の大評議が開かれた。そこには、成の文武百官が、顔をそろえていた。その主なものの名を上げれば、即ち成の宰相、羽聞(うぶん)、司法を司る賢章(けんしょう)、行政を司る簿忠(ぼちゅう)。軍人では、参尉(軍事顧問)の白最を始め、西逆将軍(将軍号の一つ)の文嶽、成護騎士団(成の中央に常駐する部隊)団長の王韓(おうかん)、そして、あの真城城主の誡偉らが、会議の席に並んだ。先ず、宰相の羽聞が口火を切った。
「忍びの者の報告によると、礼軍は既に殿業(でんぎょう)城周辺に、精鋭三十万の兵を配備。北方からは猛将韓派(かんぱ)率いる十五万が、更に南方の対関戦線からは、甫色(ほしょく)が十万の部隊を率いて北上中との事」
 その言葉が終わる前に、王韓が
「集結前に敵を討つにしかず!」
 と息巻いた。
「待たれよ」
 そう云ったのは、賢章であった。
「礼は、西に采を、南には関という油断ならぬ敵を、背後においている。故に、礼軍が短期決戦を望んでいるのは、明白である。ここはあえて決戦を避け、堡塁を設け、砦を高くし、天嶮を利用し敵を疲労せしめておいて、しかる後に軍を進めれば、礼軍を成の野から一掃することも、様での困難ではありますまい」
 文嶽はかぶりをふった。
「御事は実戦を知らぬ。我が軍は十五万、それに対し礼は五十万を越える大軍団である。些かの堡塁や、濠を巡らしたとしても、如何ほどの事があろうか。のみならず、その軍を率いるのは凱華。この者にかかれば、天嶮もどれほどの役に立つか分からぬ」
 礼の凱華(がいか)と言えば、武神華(ぶしんか)の通り名で知られる名将である。主に南方戦線で活躍していたが、先に秦維が故殺されたため、東北武軍将に任じられた。即ち対成戦の最高指揮官である。
 天文・地理・兵法学はもとより、医学・音楽・文学にも造詣が深く、筆を持ては忽ち名文をものにし、口を開けば、人の心を打つ。また、一度戦場に出れば、兵を己が手足の如く動かし、百戦錬磨の噂は四海にとどろいていた。
 文嶽の言葉に、賢章は、薄ら笑みを浮かべながら、
「そうでしたな。どなたかが、小城を取るために、精鋭五万を失っていたことを、忘れており申した」
 と、痛烈に非難した。麗帝は、文嶽の形のよい眉が、びくりと痙攣するのを見とめるや、
「勝敗は、兵家の常だ。責めるのは無用」
 そういって取り成すと、おもむろに珀に眼を移した。
「卿の意見も聞きたい」
 しかし珀は、その問いに直接答えなかった。
「その前に、こちらより申し上げたき議がございます」
「なんであろうか?」
「昨日、陛下より西討軍務総監(臨時の対礼戦線の総司令官)を拝命致しましたが……お引き受けいたしかねます」
「なに!」
 珀の突然の言葉に、堂内が騒然とした。
「先ず、お聞きいただきますよう……法の権威が衰え、天下が四分されて十数年。その中でも特に、礼が隆盛を極め、人材、兵力は遺憾ながら我国を圧倒しております。しかしそれだけの武をもってしても、未だに天地を収めるに至らず。それを考えれば、我々が西は礼を滅し、西北の采を手なずけ、南方の関を倒し、ついによく、天下を統一することが、いかに年月を要する事か、改めて申すまでもありますまい。この度、西討軍務総監という大任を承りながら、それを辞するのは、期待に背くことを恐れての事ではありませぬ。或いは天運我にあり、礼を退ける事ができるかもしれません。しかし」
 珀は、おのれが身をたたいた。
「老いたこの身、臣の命もよくもって十年。その間に、諸国を併呑し、統一王朝を切り開くことは、不可能でございます。実戦は万書より、知をあたうる、と申します。どうか、此度の戦には、若く、有望な家臣に、全軍の指揮をおとらせあそばしますよう。さすれば、やがて来る好機をもって、かの者を副帥となし、陛下自ら軍を進めますならば、たちどころに覇業は成就いたしましょう」
 と、滔々と述べた。しかし麗帝は手を拱いて、
「もっともな理ではある。我が家臣に、有能なものは多い。が、卿を置いて、これほどの大任を果たせる人物が、いるだろうか?」
「僭越ながら、名を挙げさせていただければ……」
「うむ」
麗帝は思わず身を乗り出した。
「此度の戦、白最をして総監といたしますよう」
諸侯の目は、一斉に白最に注がれた。突如として己が名を出された白最も、目を見開いた。彼は、高位にあるものの、未だ大した功もなく、戦の経験も少なかった。諸侯が首を傾げるのも、無理は無い。しかし、麗帝は長い沈黙の後、ただ一言、白最に云った。
「策をまかす」
白最の心臓の鼓動が、堂内に響き渡る。

第三戦 志士、戦乱に身を投じ、西の勇士動く事



 ここで、目を西に転じてみる。 
 礼は、蘭義帝の時世。首都大許は、折からの春風に木々が色を実らせ、その香が、帝都中に満ちていた。史上最大の規模を持つ、当時の大許の戸数は三十万。戸籍に登録されている者の数だけでも、百万人を超えていた。
 市場も多く、大陸中からあらゆるものが集まっている。北からは生糸、南からは色とりどりの果物や香料が運ばれる。また、西には多くの山脈があり、鉄鋼や銅はもちろん、金、銀、はては水晶に至るまで、様々な鉱物が発掘されている。それらの莫大な恩恵を受け、三国の国境に大軍を養い、広大な領土の隅々まで交通網を巡らしていた。
 その帝都の街路を、黒の軽鎧を身にまとった長身の騎士が、宮廷へとひた走ったのは、成が珀を迎えて、まもなくの事であった。
「伝戎(でんかい)様、お疲れ様です。聖上がお待ちです。どうぞこちらへ」
 彼は無言で、官史の後に続く。
 伝戎、官は西事諜官(成の諜報機関長)と殿業城主を兼ねる。長身で、長い髭を持ち、細長く黒い瞳。冷徹で、隙のない人物。有能だが、その性格から武神華のように、人から好まれる人物ではなかった。
 宮中に入ると、礼の若き皇帝は形だけでも、いんぎんに彼を労った。
「おぉ、伝戎か、わざわざご苦労であった」
 伝戎はその長身な体を屈して、跪いた。
「ではさっそく報告をしてもらおうか」
「は、成はこちらの動きに対し、いよいよ統史を説き伏せ、軍師に迎え入れたゆえ、成軍は少数ながら士気盛ん。国境には、経山城の法轟をはじめ、璃新、そして誡偉が守備を固めておりまする」
 帝は苦い顔をした。
「やはり統史を起用したか。……さても、今度ばかりは凱華をもってしても、勝敗は分からぬ。勝つにしても、多大な犠牲者が出るな」
 と云いつつ、隣に控えている人物に意見を求めた。
「お主はどう思う?」
 呼びかけられた人物は、礼の参尉を勤めている希隆(きりゅう)である。かつて彼女は、成が支配していた徐春という地域を、一夜にして攻め落とした実績を持つ。本来であれば、凱華に従って、出陣する所であるが、他の二国の動きを心配し、帝の命により宮廷内に留まっていた。希隆の紅が動く。
「浅慮いたしますに、凱華は少し統史を軽んじているようにも思います。彼女はわたくしに申しました。韓派・甫色両将軍の到着を待つまでも無く、成軍を野から一掃すると。また短期決戦を思うあまり、些か焦っているようにも思われます」
「なるほど……」
 希隆は、懐から紙を取り出しなら云う。
「これに一書をしたためましたゆえ、陛下の印璽を頂ければ、凱華も軽々しい行動は慎みましょう」
 蘭義帝は、それを一読して、微苦笑した。
「そうか、殊叡(しゅとく)がおったな……」
そう呟くと、金箱から印を取り出し、希隆の文書に捺した。
「伝戎。ご苦労だが、凱華にこの書状を届けてくれ」
彼は帝から勅書を押し頂くと、その日の内に再び国境へと続く道へ馬を走らせた。



璃由たちの姿は、成の都、凱挌にあった。
「わぁ、大きな町だねぇ」
 天奈の声が、橙色に照らされる街路に響き渡る。
「凱挌は、成随一の都だからね、なんでもあるよ」
「ほんと? ちょっとお店見てくるね、璃由もいこうよぉ」
「いや、私はいい」
 天奈はちょっと、しょ気たようだが、とことこと一人で歩き出した。羽英はそんな天奈の姿を目で追っていたが、やおら向き直ると璃由に話しかけた。
「取り合えず、白最さんに会いに行こうか」
「……そうですね」
 璃由は、凱挌の華やかな市外を見渡しながら答えた。ちょうど夕も迫って、通りを行く人々の足は、どことなく忙しく見える。璃由の目線に気付いた羽英が云う。
「凱挌の人口は四十万。立ち並ぶ建造物の美しさは、大許をも凌ぐといわれるわ」
頷きながら、璃由はふと眉をひそめた。
「ですが、何にでも例外というのは、付き物ですね」
 その言葉が吐かれたのは、表通りではなく、奥にひっそりと延びる小道に目を奪われたからであった。表通りの煌びやかな光景とは裏腹に、腐りかけた木と、割れた瓦が並ぶ家々がのぞく。さらに、街路を進んでいくと、道の中央に赤い花が一面に咲き誇る、小さな丘があった。否、咲いているのではない。手向けてあるのだ。その周りには、ちらほらと、人の姿もある。
「これは法の産物よ」
「法の?」
「この辺りはね、反法運動が、もっとも盛んな地域だったの。もう何十年も前の話だけど、それを鎮圧するために、法は軍を送り込んで、凱挌を包囲し、この地の人々を皆殺しにした。七夜の攻撃で、死者は五万人を超え、殺された人々は、その丘の辺りに積まれて、町と一緒に、焼き払われたそうよ」
 璃由は、その言葉を聞くと、改めて、その丘を見やった。風にそよぐ花の香が、璃由の鼻をくすぐる。
「あの赤い花は、綺夜(きや)の花っていうの。一年中花を咲かせる。花言葉は……なんだっけな」
「……」
 と、その時、突如として璃由の口に熱い物が放り込まれた。
「!?」
「はい、羽英さんも」
 天奈の手には、丸い焼き物が見えた。
「あ、気が利くねぇ、ありがとう」
 羽英が天奈の頭をなでる。
「な、何するんだ!」
 璃由は、目を白黒させながら、天奈を叱り付けた。本人は、きょとんとしながら、大きな瞳を璃由に向ける。
「凱挌焼きだよ?」
「そんなこと聞いてない!」
 そんな二人を面白そうに見つめる羽英。
「さ、白最さんに会いに行きましょう」
「は〜い」
 璃由もひとまず、天奈に対する怒りを納めて歩き出した。
 白最の邸宅は、すぐに見つかった。大きな門構えに、左右に広がる長い白塗りの壁。当然のように、門衛に阻まれた三人は、事の次第を説明したものの、あいにく白最は不在であった。
「この一大事に、こちらにいらっしゃる訳が無かろう」
「え、何かあったの?」
 羽英がそう云うと、門衛の男は、心外そうに
「なんだ知らんのか? 礼軍が本国に対して、進撃の構えを見せているのだ」
「ふうん、また戦争か」
「これでは暫く会えそうにありませんね」
 途方にくれる三人。そんな折、羽英が通りの向こうを歩いている人影を見て、大声を上げた。
「岳礼(がくれい)!」
 人影がこちらを振り向く。近づいてくる人影に、天奈も璃由も見覚えがあった。岳礼、彼もまた、珀の門下生である。羽英とは同期で、数年前に官史になるべく、上京していた。
「わ〜い、岳礼さ〜ん」
 岳礼は異様な速さで近寄る。もう傍まで来ているのに、その背丈は、羽英より小さい。彼は有無をいわさず三人を鷲づかみにし、すさまじい勢いで、わき道へと入っていった。
「何をするんだ、何を」
 羽英が抗議する。すると岳礼は静かな声色で尋ねた。
「お前ら、先生を追ってここへ?」
「何故分かったの?」
「やはりそうか……こっちへ」
 そういうと、一軒の真新しい家に連れて行かれた。その一室に三人を導くと、扉を閉め、帳を下げる。と、三人がいっせいに話し出した。
「ここはどこだ?」
「先生の居所を、ご存知で?」
「わ〜い、岳礼さ〜ん」
「やかましい!」
 間髪いれずに、突っ込む岳礼。
「ここは俺の家で、先生の居場所も知ってる!」
 璃由が改めて口を割る。
「それで、先生はこの凱挌に?」
「いや、それなんだが……参ったなぁ」
「さっさと云いなさいよ」
 羽英が急かす。しかし岳礼は、遠まわしに云った。
「お前ら、統史(とうし)って知ってるか?」



 その問いに、三人は顔を見合わせた。璃由が代表して答えた。
「無論存じております。成の初代皇帝に仕えた、大軍師様でしょう」
「そうだ、小国であった成を、四国の一角にまで伸し上げた天才策士。実は数日前、白最様が、その隠棲していた統史を訪れ、宮中に伴ってきたんだが……」
 そこで一旦言葉を区切ると、改めて三人を見渡した。
「俺はその日、宮中の中門でその統史様とすれ違ったんだよ。んでさ、伝説の男の顔を一目見てやろうと思って、頭を下げながらちらっと覗いたらさ」
「不逞な奴ねぇ」
 羽英が、ちゃちゃをいれる。
「しまいまで、静かに聴け!」
 一つ咳払いをして、三人を順々に眺めた。そして、
「なんとそれが……珀先生だったのよ」
「え!?」
「あの統史様が……師匠……」
 璃由も驚愕とした。それも当然である。統史といえば、もはや伝説と化していた、成の偉人。外来人である璃由でさえ、その名を聞いてひさしい。財力も兵力も乏しい中、成軍を率いて、東の歌・凌(共に十四国の一つ)を併呑し、西ではかつて地上を支配していた、法を滅亡に追い込んだ。特に歌との戦いは有名で、統史は法の前線にいながら、一度も歌の戦場に行くことなく、東西両軍の指揮を取り勝利を収めるという、神がかり的な事をやってのけた。十五年ほど前、成の安定を見届け官を辞し、今は何処かに姿を消したと聞いていたが……
「それで……その、先生には宮中に」
「いや、ここにはいない」
 少し間を空けて、再び口を開く。
「経山城(けいざんじょう)だ」
「経山っていうと、礼との国境付近の要塞ね。難攻不落の堅塁」
 経山城は、城と称するが、城下はなく、要塞としての役割を担っている。成の西城砦群のなかでは、最も古くからあり、北に大双山脈を構え、南に芙原を望む、天険に守られた要塞である。
「お前らも知ってるだろ、近々礼との戦があるとは」
「さっき聞いたわ」
「今回の礼は本気だ。今までの小競り合いとは違う。あの凱華が、三軍の指揮を取るって話だ。そこで帝は、先生を召しだし、礼との決戦に備えた。それを承諾した先生は、一軍を率いて前線へと向った」
 成は、一度も凱華と戦ったことは無いが、その鬼神ぶりは、三尺の幼児ですら、知っていた。凱華は、礼の名家の生まれで、幼い頃から俊茂で知られていた。十五の時に郷里で役人となり、わずか一年を経て、丞(城主の補佐官)となった。
 十七の時、故郷が関の襲撃を受けると、降服しようとする城主を止めて、ろくに訓練もしていない農兵五千をもって、関兵三万を退けた。この功で中央に召されて、要職を歴任。今から五年前に、対関戦線の総指揮官に就任していた。
 璃由は先ほどから口を閉ざしている。何事を考えているのか、目を険しいものにし、うつむき加減である。天奈は……露天で買った菓子を口にくわえながら、他人事のように、聞いている。
「ま、なんにしてもだ……先生がいる限り、成は負けないし、安心して帰りな」
 璃由が不意に顔を上げる。
「……私も行く」
「そう、皆で帰るこった」
「そうじゃありません。私も先生の下に」
 璃由の突然の言葉に、岳礼は唖然とした。
「おいおい、何考えてんだよ」
「璃由……」
「わ〜い 師匠様に会いに行く〜」
 しかし、その冴えたまなこを見た瞬間、岳礼も羽英も、続くべき言葉が出なかった。岳礼は無言で頷くと、柄にも無く優しく云った。
「あした、白最様に引き合わせよう」
「……ありがとうございます」

 やがて、陽は月に追われて地上から去り、その夜空に白煙が立ち昇った。その煙の元をたどれば、雑炊を煮る鍋がぐらぐらと音を立てて、彼らの食欲をかき立てる。
「ところでさ、岳礼は宮廷でなにやってるの?」
 薪をくべ、鍋を覗き込みながら、羽英はたずねた。
「西逆将軍であらせられる、文嶽様の下で一軍を任されている」
 当然来るであろう反応を、岳礼は期待していたが、その期待は見事に打ち砕かれた。
「ふうん」
「おい! なんかもっと言い方があるだろうが!」
「出世したな」
「だからよ、今度から俺を閣下と呼ぶのだ」
「やだ」
「……」
「わ〜い かっか様〜」
「うんうん、天奈はいいやつだ」
 天奈は、笑顔をおもてに出しながら、鼻を動かした。
「ん〜 いい香りがしてきたよぉ」
「もういい頃ね、天奈ちゃん璃由呼んできて」
「は〜い」
 廊下を駆ける天奈の足音が、小さくなる。それを確認すると、岳礼はかつて机を並べた友に尋ねた。
「……お前はどうするんだ?」
 ややあって、羽英の声が聞こえる。
「さあね」
 同じ師についたもの同士、瞳を読み取るのは早かった。岳礼はそれ以上追及せず、濁り酒に映る月を、ゆっくりと飲み干した。



やがて、中天の月が青に飲み込まれる頃。その陽の下で、瞳を赤く染めた白最は、膨大な資料を読み漁り、その場で倒れこんでいた。彼の頭には今、師の言葉がよみがえっていた。
 ある夜、白最は万灯の火に照らされ、静かに座す師を訪れていた。
「先生」
「……白最か、入りなさい」
「失礼します」
 白最は師と対座すると、こう切り出した。
「先生、私は先生の下で、天文・地理を学び、法学・兵学を修め、その己が学びしところを、幸いにも陛下にお認めいただき、参尉の地位を盗むことができました。さらに、この度先生の推挽を受け、西討軍務総監という大任を、陛下より任されました。しかし……」
 白最は、師の瞳を改めて凝視した。
「私には……自信がありません。先の議会でも、ついに直答することをはばかりました」
 珀は弟子が語る一言一言に深く頷いた。師は云う。
「ワシがかつて先帝に仕え、参謀として微力を尽くし、西の国々を制圧し、東は法を討ち、或いは南の慶(十四国のひとつ)を退け、ついに成の基盤を確固たる物とするには、無数の戦いがあった。人はワシを天才と呼ぶが、しかしそのいずれの戦いも、必ず勝つという確固たる自信などは無かった。仲間の裏切りがあった。罪も無いものを殺さねばならぬ時もあった。時には、民を見捨て国を守り、時間をかけて練り上げた策も、ただ一人の失敗で、泡と化したこともある。……真に、事を完全に運ぶことは難しいことだ」
 珀はさらに声を強いものとした。
「しかし、失敗を恐れてはならない。ましてや、どんな局面にたたされても、あきらめてはならない。大切なのは、自信ではない。指揮官となった者は、事に及んで常に冷静で、時には周りから冷徹とも思われることも、勝利のためであれば、それを断行しなくてはならない。もとよりお主の才は、凱華に引けを取るものではない。しかし、それができるかどうかが、もっとも重要なことだ」
 弟子は、師の瞳にうつる自分を見た。その顔には、先ほどまでの心の揺らぎは見えない。
「白最、お前だけに重荷は負わせんよ」
 師はその言葉を最後に、軍を率いて前線へと去っていった。

「……お父様」
 意識が引き戻される。廊下を見ると、少女が下座しているのが見えた。
「桃舜(とうしゅん)か……」
「お客人です」
「何人かな?」
「岳礼将軍様です。火急にお話したいことがあると……」
「……お通ししなさい」
 桃舜は頭を下げると、奥へと消えていった。白最は冠を整え、襟を正すと、にこやかに岳礼を出迎えた。
「おぉ、羽英もいるのか。ひさしいな」
「天奈も――ん? あなたは?」
 璃由は名乗り、自分も珀の弟子である事を告げると、白最は大いに喜んだ。
「白最様、お忙しいところ、真に申し訳ないが……すぐにでもお伝えしたいことがございまして」
 岳礼がそう伝えると、璃由は改めて礼を正し、白最に願い出た。
「白最殿、お願い申します。どうか先生と共に戦うことを、お許しください」
「むぅ……」
 白最が黙り込むと、岳礼が代わって云った。
「実戦の経験は無いとはいえ、彼は先生の下で兵法を学び、剣の覚えもあります。先生を思う気持ちは、誰よりも強いですが……決して大局を見捨てて、私情に走るような人物ではありませぬ」
 白最は西の空を見上げ、呟いた。
「……この国難に至り、先生の教えを受け継ぐ士が集まった。どうして、礼軍に敗れようか」
 璃由は、地に頭をつけ、謝した。


「なんとした事だ!」
 蓉比城城主の璃新は、少数の敵に、いいように翻弄される、自軍を見て呆然とした。所々で軍が包囲され、次々と斃れていく兵たち。喚声が上がるたびに、兵の首が飛び、野を朱に染める。
「これ以上持ちません!」
 前線に出ていた、部下の一将が戻ってきて、そう報告した。確かに、血の臭いは確実に、本軍に近づいていた。
「やむを得ぬ……全軍撤退!」
 その命令はすぐに実行された。旗が振られ、兵が一斉に退き始める。しかし半里と走らぬうちに、部隊はたちまちにして、礼軍に蹂躙された。
「囲まれたか!」
 悲痛の声が、璃新の口から漏れる。
「璃新様! 私が血路を開きます!」
 先の一将、舞蓉の叫び声であった。璃新が答えた時には、彼女はすでに礼軍の肉壁に突っ込んでいた。敵を次々に切り裂き、赤に染まっていく舞蓉。やがて、その行く手を、巨大な戟が立ちふさがった。地にどっしりと刺さった戟の上に、小さな少女が寄りかかっているのが見える。大きな鈴のついた帽子に、橙色の服。戦場にも関わらず、鎧をまとわず、代わりに、少女を覆いつくすような、巨大な戟。
「夜朱(やしゅ)!」
 成軍の間から恐怖の声が聞こえる。血の混じった、その悲痛の声を耳にまとい、少女は薄ら笑った。全ての動きが止まったような感覚。彼女の声だけが、舞蓉の耳に憑く。
「今日は何の日か知ってる〜?」
 舞蓉は、馬上から夜朱を睨みつけた。
「そんな目で見たら……やしゅ嫌いになっちゃうよ?」
 そういいながら、夜朱は腰にある袋から、一匹の禍々しいネズミを取り出した。
「今日はねぇ、この子の誕生日なの。お肉が大好物なんだよ?」
 夜朱は品定めでもするように、じろじろと舞蓉を眺めている。と、その視界から、突然舞蓉の姿が消えた。彼女は馬をいななかせるや、一気に少女を肉薄にしにかかった。夜朱の喉元に、舞蓉の剣がきらめく。その刹那。戟が突如として唸り、眼前に血飛沫が上がった。舞蓉の腕が、空を舞うのが見える。その時には、すでに第二撃が、舞蓉の頭にきていた。
 一方、璃新は蓉比城へとひた走っていた。決して距離的には遠くない。ところが、礼軍の執拗な攻撃を前に、なかなか撤退できずにいた。
「恐れるな! 蓉比城までひた走れ!」
 その声も、剣戟と、血で埋もれゆく。璃新は、馬蹄を轟かしながら、必死に敵を切り伏せる。と、その前方に新たな荒波が響き渡った。その喊声は、礼軍を蹴散らし、璃新の顔に安堵の表情をもたらした。
「将軍! こちらへ!」
 璃新は、援軍に助けられ、息を吹き返した敗残兵をまとめて、何とか蓉比城へと逃れた。すぐさま、望楼にのぼり、野を眺めるや、礼軍は夜朱と大書された旗印を殿に、静々と引き上げていた。後にはただ、累々と重なり合う死体が、横たわるばかりであった。
 この一戦で、成は五千の兵を失った。疲れ果てた将兵を、礼が再び攻撃するのも時間の問題であった。
「再び敵に囲まれる前に、凱挌に使者を送らねばならん」
 決死の使者は、凱挌までの距離を僅か二日で駆け抜けた。



白最が堂に入ると、すでにそこには百官が集まっていた。彼の後ろには、士官の装いをした璃由がいる。まもなく、麗帝が座に着くと、簿忠が口を開いた。
「蓉比城から、火急を知らせる使者が参りました。蓉比城は、二日前、礼軍の攻撃を受け、甚だしい損害を被ったと……。城主の璃新は無事であったものの、再び礼軍に取り囲まれれば、陥落も時間の問題かと」
 そう報告を受けると、帝は眉をひそめた。
「璃新は弱将ではない。これほどまでの損害を与えたとは、一体何人の攻撃にあったのか?」
「……百虎将軍の夜朱率いる一軍です」
 夜朱と聞いて、堂内に衝撃が走った。武神華・凱華が礼を代表する名将軍であるならば、夜朱は礼軍最強、いや大陸最強の武人といってはばかり無いであろう。彼らの衝撃もやむをえない事である。
「凱華に、夜朱が加わったとなれば、猶予はならん。即刻手を打たねばなるまい」
 王韓がそれを受けて、
「ならば、そこにある白最閣下のお考えを、お聞きいたしましょう」
 と、皮肉まじりに云った。王韓は若輩の白最が総指揮官に任命されたことを快く思っていなかった。堂中全ての目が、一斉に白最に向けられる。白最はゆっくりと口火を切った。
「夜朱が蓉比城の攻撃を行っているのであれば、これに援軍を差し向けても、被害が拡大するばかりです。それよりも、最重要拠点である、経山城への補給路の確保を優先すべきです。経山城さえ落とされなければ、礼軍は前進しては参りませぬ」
 その言葉を聴くと、王韓はからからと、笑った。
「これは、これは……大軍師統史殿に認められた人物の言葉とは思えぬ。白最殿。貴方は敵の一将を恐れて、蓉比城の落城を、指をくわえて観望なさるのか。統史殿がお聞きになれば、さぞかしお嘆きになるだろうな」
 文嶽が堪りかねて、口を出す。
「やめぬか……今は家臣同士、争っている場合ではない。それに、白最殿の申すことも一理ある」
 帝は、白最の顔を見ると大きく頷き、
「お主に任せよう」
 と云うや、その場で、白最を改めて西討軍務総監とし、副帥に文嶽を、参軍に去梨(羽聞の子)、先鋒に王韓を任命した。勇躍して諸官が堂を後にすると、白最は璃由を伴って、密かに、後堂にあった麗帝に、面会を求めた。
「是非陛下に、お引き合わせしたい人物があります」
「ふむ」
「これなるは、統史の弟子の一人で、名を璃由と申します。彼の下で、天文・兵学を学び、剣技にも長け、心は義に富み、私が見るところ、将来有望な士であります。どうか彼を此度の戦で使うことをお許しいただきたく、お願いに上がった次第です」
 麗帝は改めて璃由を眺めた。帝の御前だというのに、彼は顔色一つ変えず、涼やかな瞳を麗帝に向けていた。
「なるほど……なかなか見所があるな」
 白最はその言葉を、良しと解した。璃由はその場で、歩軍士(将軍の一等下)の位を授かった。
 帰路の途中、璃由は白最に感謝を述べた。彼は微笑しつつ、かぶりをふった。
「帝があなたを認めたのは、先生の弟子であるからでも、私の口添えがあったからでもない。ひとえに、あなたの才能がもたらしたものだ」


――その夜、
白最は自宅に、主だった将士を集めた。白最は文嶽に、酒を勧めながら云った。
「王韓殿は先刻、一万の兵を率いて、理山へと向かいました」
 理山は、大双、方化の間に位置する、小高い山である。また、蓉比城と経山城との、ちょうど中間点に存在し、ここを押さえていれば、前線への補給を欠くことは無い。
「ふむ、統史殿は、もう経山城へ到着したであろうか?」
「定刻通りであれば、もう入城している頃かと」
「うむ、彼が経山城を守れば、安心だな」
 周りの武将も、異口同音にそう云う。
 その光景を目の当たりにし、白最はふと、ある種の不安に襲われた。あまりにも諸将が、師を信頼しきっているのだ。否、将士だけではない。帝も、果ては一兵士、一市民に至るまで。白最自身も、師を信頼していないわけではない。しかし、慢心や、心の緩みは、戦場では死につながりかねない。
 それともう一つ。このたびの総大将は、自分である。ところが将兵は皆こぞって、師を頼りとしている。それ故に、戦場で自分の命に従わないものが現れる恐れがあった。
 談笑の笑顔の下、彼は師の言葉を思い浮かべていた。
 ――勝利のためなら、冷徹にならなければならない
 はたして、それが自分にできるだろうか。命に背くものを斬り、必用であれば、仲間を見捨てる。そうして得た勝利とはなんであろうか、……彼は、自問を繰り返すばかりであった。
 末席には、そんな白最の苦悩など知るよしも無い四人が、酒を酌み交わしていた。
「しかし、陛下の御前で平静を保つなんて、肝が据わっているというかなんというか……ま、とにかく、俺の部下第一号に乾杯だな」
「え? あんたの下につくの?」
「さっき、白最様からそう云われた」
 羽英は少し考えた風であったが、すぐに顔を上げて、
「天奈ちゃんは、どうするの?」
「私も師匠に、会いに行く〜」
「じゃあ、岳礼の下につこうね」
「おい! 俺はお守りじゃないんだぞ! それに、正式な軍人じゃないじゃないか!」
「岳礼の身銭で雇ってくれればいいのよ」
「お前なぁ……」
 岳礼はほとほと困った風であった。と、そこへ杯を持った女性が、ふらふらと璃由たちの元へやってきた。長い黒髪を後ろに縛り、灰色を双眸に収める。筋骨たくましく、背丈は元々長身なのだろうが、岳礼のせいで、余計に大きく見えた。
「岳礼、やけに顔が冴えないじゃないか? 優秀な部下が与えられたっていうのに」
 その双眸が、璃由に向けられる。璃由はすぐに礼を正した。
「この度、岳礼様の副将に任命されました、璃由と申します。お見知りおきを」
「岳礼と違って、礼儀正しいじゃない。私は、椰希(なき)。白信(白最の事)の幕僚で、官は馬軍中将(大将の補佐官)。岳礼とは同期なんだよね」
 椰希はふと、羽英と天奈に目を向けた。
「ところで、そちらのお二方は?」
 岳礼の口を制して、羽英が笑顔を浮かべながら、
「私は岳礼様の記室(秘書官)の羽英といいます。この子は書官(秘書官の補佐)の天奈です」
 天奈も満面の笑みで、椰希に頭を下げた。
「おねぇさん よろしくね」
「ね、岳礼様」
 駄目押しの羽英の言葉に、岳礼はすっかり閉口してしまった。そんな彼の様子を見て、椰希は、にやけながら、岳礼の耳元でささやいた。
「夫婦の天下は、染糸の如し」
 白糸を一度でも染めてしまえば、それを元に戻すことは難しい。夫婦も一度どちらかが天下を取ってしまうと、それを奪還する事は難儀である。椰希はそのことを云ったのだ。岳礼が向きになって怒る横で、天奈は璃由の顔を覗き込んでいた。
「このお酒おいしい?」
「うん、なかなかの美酒だが……飲むのか?」
 天奈は、ふるふると首を振り、いつもの笑顔を見せながら、
「師匠様に、これもっていってあげようよぉ。きっと喜ぶよ?」
 璃由はそんな天奈の様子を不思議そうに眺めた。何故、天奈はこんなに平静でいられるのだろうか。天奈にとって師は、親代わりである。彼の居所が分かったとはいえ、そこは生と死が交錯する、戦場のど真ん中である。もしかしたら、明日にも敵の矢を受け、命を落とすかもしれない。それなのに……磊落的、理由はそれだけではない様に思えた。



同日、夜――
水面に映る青い月。それを見つめる、薔薇色の双眸があった。桃色の紅唇もまた麗しく、腰まで伸びる黒髪は、折の夜風に揺れ、花の香りを醸す。月光に照らされた麗姿には、思わず見惚れてしまうものがある。
 と、彼女の後ろから、一人の人物が現れた。長身だが細身で、顔色も白く、お世辞にも威厳があるとはいえない風貌。彼は、普鴎(ふおう)といった。外見は、そのようであったが、兵法軍略に通じた、礼を代表する策士家である。
「凱華様、ご決意なさいましたか」
 彼女は静かに振り返り、口唇を動かした。
「……将軍一同を本営に集めよ」
「はっ」
 普鴎が下がった後、凱華は尚もしばらく、水面を眺めていたが、やおら本陣へと足を進めた。彼女は、全将士が集まっていることを確認すると、先ほどとは打って変って、凛とした声色をもって、口火を切った。
「先の夜朱将軍の活躍もあり、敵の士気は大いに下がった。成を叩くには、この機を逃してはならぬ……。長らく成の前線で戦ってきた勇士達よ。その間に多くの戦友を失ってきたことであろう。しかしそれももう終わりだ。我らはこの戦いで勝利を収める。そして、成の旗を落とし、礼帝の御旗が翻る時、勇士の御霊は初めて、天へ召されるだろう。勇者たちよ、武器を取れ! 今こそ、出陣の時! 彼らの無念を晴らすときぞ」
 陣営中から、天をも揺るがす大歓声が上がった。凱華はその歓声が収まるのを待ち、再び口唇を割る。
「夜朱」
 彼女は、相変わらず薄ら笑みを浮かべながら、前へ進み出た。
「あらためて、五万の兵を与える。蓉比城を包囲し、これを手中に収めよ」
「次に殊叡」
「は!」
進み出た人物は、まだ三十の境も越えぬ、若い将軍であった。筋骨たくましく、凛々しい眉に、鋭い瞳。腰に金装飾の見事な太刀をはき、粋な陣羽織の下に覗く白銀の鎧もまた、名のある者の作であろう。その素性を明かせば、元対成戦線総指揮官、奏維の一子である。周知の通り、父である奏維は、真城城主である誡偉に殺されている。
「あなたには、真城への攻撃を命じる」
「心得ました」
「但し、断じて私情を見せてはならぬ」
「誓って、御意の如く」
 彼女は再び、目を転じ、将士を見渡した。
「京紗は、いるか」
「ここに……」
「あらかじめ申しておくが、この戦いの成否に関わる、重要なことであるということを心せよ」
 凱華は、二人の兵が持ち上げる大地図を指しながら、
「ここより東南に理山(りざん)という山がある。成の主力は必ずここに本陣を構えるであろう。しかし忍びの者の報告によれば、成は軽率にも先発の陣営構築に、王韓を起用した。王韓は勇余って、知に乏しき人物であるゆえ、これを蹴散らし、理山を手中に収めよ」
「承知いたしました」
 凱華は命じた後、ふいに思い返し、付け加えた。
「いや、まて。統史は食えぬ男と聞いている。ひょっとしたら、王韓に意外の策を授けているやも知れぬ。くれぐれも用心してかかられよ」
 いよいよ成へ総攻撃を、くわえようとした矢先。帝都から使者が遣ってきたとの報を受けた。帝の勅使では無下にはできない。凱華は已む無く、全軍に待機を命じると、使者を招きいれた。その使者を見るなり、凱華の顔が一瞬曇った。
「伝戎か、何のようだ」
 と、白々しく問うた。凱華もまた、彼の事をあまり好ましく思っていない。何を考えているのか分からないし、その冷めた瞳を見るだけで、なんだか見下されている様な気がしてならない。
「陛下より、勅書を授かりました」
 伝戎は、うやうやしく手渡した。披いてみると、そこには次の一文がしたためられていた。
 貴官が、成の前線に立ち、将士を励まし指揮を取れば、日ならずして、成は本国の一部と成るであろう。しかし、朕は次の三文を憂うものである。
 ひとつに、成軍には、貴官ほどの力量者はおらぬが、密かに聞くところ、成は統史を起用し、此度の総大将としたゆえ。これは漢羽(古代の名将)に比肩する人物である。貴官は決してこの人物を軽んじてはならぬ。
ふたつに、今、北方からは韓派が、南方からは甫色がそれぞれ一軍を率いて、援軍に駆けつけている。貴官は、功をあせり、到着前に攻撃を開始することのないよう。最後に、人選にはくれぐれも用心されたし。以上、ここに特に忠告するものである。
 凱華は黙々と読み終わると、目を伝戎に向けた。
「……今、返書を書くゆえ、しばし待たれよ」
 と、言い残し、幕舎を離れた。外には、普鴎の姿があった。
「使者はなんと?」
 凱華は黙って、詔勅を手渡した。
 普鴎はすばやく読み終えると、かぶりをふった。
「これは、帝が草したものではありますまい」
「私もそう思う」
 凱華はもう一度詔勅を眺めながら云う。
「このへりくだった文章は、おそらく希参尉(希隆)のものだろう」
「しかし、彼女が奏したものでも、勅命は勅命です。如何なさいますか、閣下」
「……私は、今まで南方の戦線の経験のみで、統史と直接戦ったことは無いが、彼の恐ろしさはよく分かっている。分かっているが故に、全軍の到着を待つわけにはいかないのだ。今すぐにでも理山を攻略せねばならん」
 理山は一見、なだらかな傾斜を持つ、小さな山である。これを攻め取るのは、容易いように思えるが、年間を通して山を中心に、強い風が吹き下ろし、弓を射ても、忽ち、風によって流される。
 逆に頂からは、弓に恐ろしいほどの飛距離をもたらし、そこから火矢でも放たれようものなら、ひとたまりも無い。ここに成軍が集結するようなことがあれば、攻略には多大な犠牲と、時間がかかる。
「勅命に逆らえば、大勝利を収めたとしても、後日お咎めを受けましょう」
 わかっている、と云いつつ、凱華は一人の人物を、呼び入れた。彼は名を文慶(ぶんけい)といい、若くして弁舌・文才に長け、凱華の秘書官を勤めていた。
「帝都に返書を送らねばならぬ。私が望むことはただ一つ。この好機を逃さず、進撃をする事だ。即刻、文を草して、帝都へ向かえ」
「御意の如く」
 凱華は、再び本営へ姿を現し、改めて、全軍に命を下した。彼女には元より、帝の許可が下りるのを、待つつもりなど無かった。
 先ず、京紗が軽騎兵一万、後詰五万を率いて理山へと出撃した。ついで殊叡も勇躍して、真城に迫った。夜朱も闇夜の中、粛々と兵を進めた。
 将兵を送り出した後、凱華は望楼に登り、遠く、黒雲に霞んで見える月を、その瞳に映した。手に提げた朱色の瓢を、あおる。酒には弱いのか、やや火照った顔を夜空に向け、桃の紅唇を震わせ、静かに歌う。

 時遥か遠く、花はそれを語る

 骨と、影と風

 夢におぼれ、壊れゆく心

 枯れた花に、朱が踊る

 忘れられた涙、心は虚ろ

「…………」
「信義は万骨の上にのみなるものか……」
 冷めた声色が、夜空の星を輝かせた。


第四戦 義士奮戦し、老将、秀麗の将と対陣する事



 理山。今はそのなだらかな山はすっかり武装され、成の旗はいたるところにひるがえっている。眼下には緑の平野が覆っているのだが、まだ空は暗く、さながら墨をまかれた大地に、彼らの陣営だけがぽつりと光を上げていた。
「ふむ、こんなところだな」
 王韓は、陣営の巡邏を終えると、そう洩らした。熟練の将である王韓にとって、陣地を築くことは造作も無いことである。とはいえ、突貫して進めてきたために、些かの眠気が、王韓を襲う。頭を一振りすると、視界が青紫に変色した。
「年は取りたくないものだな……」
 彼自身、まだ五十の境も越えていないが、ついそんな言葉が口をついた。側近の将を呼び寄せると後を任せ、出来上がったばかりの幕舎で眠りについた。
やがて、大地の墨が引くと同時に、辺りにはこの地特有の濃い朝靄が覆い始める。指呼の間も定かでない白一色の世界。その奥からしずしずと、襲撃者の足音が聞こえてくる事に、迂闊にも王韓は気付かなかった。

 ……どれくらい経ったであろう。王韓は喉の渇きを覚えて、目を開けた。喉をくっと鳴らして、竹の水筒に口をつけようとしたその時。一将があわただしく、寝室に入ってきた。
「将軍! 西から敵の部隊が!」
「なんだと!」
 王韓は、鎧をつけるいとまもなく、傍らに置いた刀だけを掴むと、慌てて幕舎をでた。すでに眼下には、薄くなりつつある霧の中に、礼の旗がゆらりと翻っている。その合間を、黒々とした甲冑を身につけた礼軍が
「おのれ!」
 王韓は憤怒すると、大声を上げて、全軍に命じた。
「迎撃準備! 弩弓手前へ!」
 王韓の対応は迅速であったが、すでに礼軍は風を掻き分け、陣地に襲い掛かっていた。王韓は抜刀するやいなや、迫り来る敵兵の首に刃を向ける。たちまちにして、その場で十人を切り倒した。兵士たちも必死に応戦したが如何せん、疲労しきった成軍の士気は上がらない。のみならず、後方からは礼の大軍勢が迫りつつあった。
「已む無し!」
 王韓は撤退を余儀なくされた。
「旗を振れ、全軍撤退! 本体と合流するぞ!」
 王韓自ら殿となり、敵の剣をはじき、弓を防いだ。なんとか敵の攻撃をかいくぐり、合流に成功したものは、五百人に満たなかった。

 理山陥落。
 この報が白最らにもたらされたのは、理山まであと二里と迫った時であった。彼らは已む無く理山から少し離れた辺に陣を築き、評議を開いた。
「礼の動きが、これほどまでに積極的とは……」
 文嶽がうめいた。参軍の去梨も沈痛な面持ちで
「凱華は、理山の戦略的重要性に気付いたのでしょう。こちらが集結する前に、理山を押える。その上で、経山城を攻撃する」
「いずれにしてもこのままでは、我が軍も進むことはかなわん。なんとしてでも、理山を今一度、手中に収めなくては」
 諸将が議論を重ねている最中、白最はその会話を聞かず、無残に敗れた王韓を睨みつけているばかりであった。と、突然、彼は座を立ち上がると、王韓に対して怒鳴り散らした。
「私は出陣に際して、重ねて申した筈! かの地には濃い朝靄が出るゆえ、朝方には広くかがり火を焚き、周囲の警戒を怠らぬ様にと。しかし兵の報告によれば、貴方は警戒を解いたばかりか、敵の攻撃の直前まで惰眠をしていたとか」
 一瞬、水を打ったような静けさが本陣を包んだが、文嶽があわてて仲裁に入った。
「白最殿、確かに将軍は忠告に従わなかったが、なにも将士の集まる面前で……」
 しかし白最は聞かなかった。それどころか、更に声を大にして、王韓を責めたてたのである。
「いや、これは大罪である。私は陛下から、西討軍務総監という大任を任されている。思うに貴方は私が若年にて、大将の位についたことを妬み、命に従わなかったのであろう。そうに決まっている!」
 と、決め付けた。王韓が反論しようとしたが、それを遮って、
「ここで貴方を敢えて許せば、軍令が乱れ、さらに我が命に従わぬものが出てくるであろう。大患は未然に防がなければならぬ」
白最はそう言い放つと、傍らの従者から剣を取り上げ、王韓に投げつけた。
「自ら首をはねて、軍律を正せ!」
 王韓の方も、たまらず言い返した。
「この白面朗が! 実戦の経験も実力も無いくせに、大言壮語ばかり並べおって!」
 去梨も必死の面持ちで、白最に忠言した。
「将軍の罪はまさしく、重いものかと存ずるが、後日の働きを見たうえで罪を問うても遅くはありますまい」
 その後も諸将が進み出て、白最をなだめ、王韓を落ち着かせたが、二人の怒りは一向に収まらなかった。やむなく会議を中断し、二人を引き離す事にした。
 岳礼、羽英は、その一部始終をただ唖然として見守るばかりであった。璃由も、この騒動をただ黙って見ていたが、一刻の後、そっと幕舎にある白最をたずねた。不機嫌な面持ちで、璃由の面会に応じた白最であったが、
「味方を欺いて、いかなる策を立てられましたか?」
 という彼の問いに、白最は一瞬、驚きの色を見せた。
「何のことだ?」
 そう白を切ったが、璃由は相手の顔をじっと見据えて、
「……なおも偽るとは、よほどの事なのでしょうが」
 白最は、密かに彼の慧眼に下を巻いた。
「だとすれば、何とする?」
「私は難しい事は分かりません。ただ、私は白最様のおかげで今の地位にあるもの。この微力で何か役に立つことがあれば、是非申し上げていただきたいのです。今こそ白最様のご恩に報いるときだと思っております」
そういわれて、白最は何事か考えていたが、ふいに壁に掛けてあった地図を取り、
「危険極まりない任務ゆえ、無理にはお願いできぬのだが……」
 と、前置きしておいて、璃由に耳語した。
再び会議が始まったのは、陽がすっかり沈んだ、夜のことであった。



 理山が落ちれば、経山城が危うい。
 去梨の判断は正しかった。凱華は、理山攻略成功の報を聞くや、自ら軍を率いて、経山城へと向かった。しかし、その行軍のさなか、凱華の表情は冴えなかった。それと見て取った普鴎が、尋ねると、
「どうも解せぬ……成は本当に統史を起用したのだろうか? こうも容易く、理山を攻略できたのは、怪しむべきだ」
「どういうことでしょうか?」
「……分からぬ」
 凱華は、陽にきらめく旗を、目を細めて眺めていた。

 一方、蓉比城、真城、経山城には、礼軍が相次いで到着していた。
 真城の城壁では、誡偉が白銀の長髪をなびかせながら、静かな声色で命じた。
「全兵配置に付きなさい。合図があるまで、撃ってはならない」
 改めて野を眺めるや、礼軍は城を包囲し、正面には東武大将軍殊叡の旗が翻っていた。
「やはり殊叡を起用したか」
誡偉はそう独語すると、自らも弓を構えた。
心中、彼女の心には複雑なものがあった。
殊叡から見れば、私は父を殺した憎むべき相手なのだろう。もしここで私が勝てば、彼は一生不快な思いを胸に止める事になる。しかし、私が負ければ、私は彼に真実を伝えてしまう。
……そこまで考えると、彼女は密かにかぶりを振った。そんな事、成に逃亡したときから分かっていたのだ。今更考えるところではなかった。
「殊叡、この私を打ち破ってみよ」
やがて、殊叡の手が高々と上がり、振り下ろされる。一斉に動き出す礼軍。
「まだだ、敵を引き寄せよ」
 礼兵が、外壁一町に迫った時、誡偉は初めて攻撃を命じた。満天に引き絞った弓から、一斉に矢が放たれた。一万の凶器は、一万の体を貫いた。
「軍士を狙え。弓はなるべく、引き寄せてから射たてよ」
しかし、近づいてくるのは生身の兵だけではない。兵の断末魔をかいくぐり、がらりがらりと音を立てて近づいてきたのは、
「誡偉様! 衝車が西門に接近中!」
「あわてるな、下段へ火を放て」
 その命令の通り、すぐさま火矢が衝車めがけて一斉に放たれた。火達磨になって車から出てくる力士を、更に矢が襲う。起動能力を失った衝車は、巨大な壁となり大地にたたずんだ。城壁にかけられた梯子も、次々と押しのけられ、仲間の渦に飲まれた。
 この攻防を間の辺りにした殊叡は、苛立ちながら、
「さすがは誡偉だ。ではこれならどうだ」
 と、部下に砲の準備を命じた。砲は人力によって、弾丸を発射する投石器である。一門につき百人ばかりの兵が、曳き索を掴む。発射の太鼓が打たれるや、計五門の砲から、一挙に巨石が飛び交った。巨石は意外の速さで空に飛んで、轟音と共に城壁の一部を崩し、数十人の兵が、城壁の上から叩き落された。
「いいか! 城壁の一点に、集中して攻撃を加えろ!」
 また爆音がこだまする。
「西門に軋みが!」
「砲には砲で対処せねばならない」
 誡偉は、相変わらず冷静な口調で命じた。
「できるだけ、砲の回転軸を狙いなさい」
 砲の脚柱や、梢(砲の中心となる棒)は、いくらでも取替えはきくが、回転軸には替えが少ないことを、彼女はよく知っていた。また、誡偉にみっちり訓練されている成兵は、的確に目標を攻撃できる技術を得ていた。唸り声を上げ、石は引き寄せられたように、礼の砲に向って激突した。血反吐を吐いて倒れる兵を横目に、 殊叡は、まなじりを引き裂いて激怒した。
「おのれがッ、あの女め!」
思わず兜を地に叩きつけると、
「全軍攻撃の手を緩めるな! 遮二無二突っ込め!」
 その苛烈な指示に、幕僚の一人がたまらず進言した。
「凱華様のお言葉、よもやお忘れではありますまい。私情は禁物ですぞ」
「分かっておる!」
 殊叡の手が、再び高々と上がった。


「いいか、隊列を乱すな!」
 経山城城主である法轟(ほうごう)の言葉であった。彼の姿は今、城外に打ち出て乱戦の最中にあった。対陣する敵が名将武神華であっても、法轟はいささかも恐れるものではなかった。
「西南より、敵の部隊が接近中!」
「よし、青旗を振れ!」
 一斉に旗が振り下ろされる。その合図を見て取った成将たちは次々と叫んだ。
「二町後退! 急ぐぞ」
礼兵たちは、敵が退くのを見て躍起になって追撃した。
と、刹那。先頭を行く騎兵どもが、嘶きを残して突如として地上から消えうせた。一瞬のことで何事か分からなかったが、すぐにそれは判明した。
「陥穽(落とし穴)だ!」
「全軍止まれ!」
 将卒が大声を上げて命じたが、一度速度を上げた兵を、容易に停止することはできなかった。恐怖の声を上げて次々と落下していく兵たち。ある者は仕掛けられた竹に貫かれ、またある者は仲間によって押しつぶされた。地上に踏みとどまった者も、いつの間にか引き返していた成兵の矢に貫かれた。
 遠く、馬上の上からその様子を眺めていた凱華は、感嘆の声を上げた。
「なるほど……さすがは法轟だ」
 別に焦った様子もなく観望していた凱華は、隣に控える普鴎に目を移した。
「連歩の部隊の到着まで、後どれほどであろうか?」
「もうそろそろかと」
 一刻後、東の空に黒々とした煙が立ちこめた。凱華は密かに勝利を確信した事だった。



「法轟様! 西北から三万の騎馬部隊接近中!」
「南方からも急進」
 優勢に乗じて攻撃を続けるのは危険だ。急報をうけた法轟は、即断した。
「ここらが引き時であろうな、全軍経山城へ帰還する」
 実は、凱華の策ではこの時すでに迂回した奇襲部隊が、がら空きとなっている経山城を落としていた筈であった。先ほどの黒煙は、その合図であった。
 法轟追撃の任に当たったのは、礼でも屈指の勇将である、連歩(れんぽ)という将。連歩は、退却する成軍を猛追していたが、経山城に差し掛かった時、彼の眼前に、予想だにしない光景が広がった。凱華の策を心得ていた連歩は、経山城には既に、礼の旗が揚がっているとばかり思っていた。
 しかしそこには、依然として成の旗が、翻っていた。当然のように、城壁上から矢が、驟雨の如く降り注ぐ。あわてて引き返そうとする連歩であったが、その退路をはばんだ一隊があった。不意の攻撃にさらされた連歩軍は、散り散りに敗れ、彼自身もかろうじて血路を開いて、本陣へと引き返していった。
凱華の策は、帰る巣を奪い、法轟を追い詰める所か、逆に退却の憂き目にあう結果となった。
 報告を受けた凱華は、名状しがたい憎悪感を覚えた。今まで、策を立てて成らざることは無かった彼女である。自分の立てた計画が、こうも容易く見破られ、のみならずそれを逆手に取られた。不快になるのも無理はない。
「法轟の計略でしょうか?」
 凱華は考えるまでも無く、云い切った。
「彼は名将だが、鬼謀を巡らすような人物ではない」
「それでは……」
 凱華と普鴎に、一人の人物の名が挙がった。統史である。しかし、
「では今主力を率いているのは、誰だ」
 彼女も主力を率いるのは、当然統史であると思い込んでいた。伝戎の報告も、そうなっている。暫くの沈黙が続いたが、普鴎の問いによって、静寂が破られた。
「攻撃を続行いたしますか?」
凱華は少し迷った風を見せたが、
「攻撃は一先ず中止。但し包囲は解くな。それと平行して成の本陣に探りを入れる」
 本来であれば伝戎の仕事なのだが、彼は何故か病を理由に、殿業城を出ようとしなかった。凱華の命令はすぐに実行された。

 一方、その凱華が囲む経山城の中では、城主法轟が珀に上座に譲り、歓迎していた。
「統史様が当城に参った事は、百万の大軍を得たことよりも心強い」
 法轟もかつて、珀の下で働いた武人の一人である。珀は微笑しながら、礼を返す。
「貴公がこの地を堅く守っていれば、凱華が大軍をもってしても、一兵たりとも抜くことはかないますまい」
 やがて、二人の会話は早々に軍事に移った。
「それにしても、先の戦いはどうしたことでしょうか? 礼軍の攻撃が緩いのを、奇策ありと見ておりましたが、むざむざ某が城へ撤退するのを、観望していたばかりか……」
 つと、外を眺める。礼軍は相変わらず、沈黙を守り続けているばかりである。
「あの一戦以来、攻撃を再開する気配がないのも、解せませぬ」
「ふむ……」
 実は、凱華の読みどおり、彼女の策を頓挫させたのは、珀であった。彼は、昼の行軍 をさけ、目立つ指物を一切携帯せず、闇夜にまぎれて静々と経山城へと進んでいた。その為、予定よりもかなり遅れて、経山の地に到着したのだった。
 その途中、幸運にも迂回していた敵の奇襲部隊を発見し、珀はこれを撃破した。降将からの情報で、凱華の作戦を聞いた珀は、すばやく策を巡らし、わざと合図の狼煙を上げ、追撃してきた連歩の退路を立ち、これを散々に打ち破ったのだった。
 しかし、何故か珀は法轟にこの事を話さなかった。さりげなく話を変えて、
「まぁ、敵が攻撃を仕掛けてこないのは幸い。兵をゆっくり休めて、城壁を修理し、再びの攻撃に備えるべきでしょうな」
 法轟は頷くと、疑問を押し込め、どこまでも続く礼の大軍を見据えていた。



 白最の指が、大地図の上に影を落とす。その回りには、文嶽、去梨、王韓らが彼の言葉に耳を傾けていた。
「ここ理山には元々、大きな町が広がっていました。打ち続く戦乱により、人々は凱挌に流れ、現在では瓦礫も残さぬ有様でありますが……」
「ふむ」
「地上にはほとんど町の面影はありませんが、地下には今だ、水路が張り巡らされています。この水路を使い、兵を送り込み」
「奇襲を行うと?」
 白最はかぶりを振った。
「水路の大きさは人一人が通れるほどで、大軍を送り込むことはできません。さりとて、拡張を行えば時間も危険も伴う」
 と、白最は古びた地図を取り出した。そこには、水路の構造が示されている。
「そこで、少数の精鋭を送り込み、礼陣の方々に火を放つ。ご存知の通り、理山の風は内から外へと流れている。火は短時間で延焼し、礼軍を襲う。煙と火で炙り出された兵が、山を下りたところを、我らは総力を持って叩き潰す」
 白最はふいに机を打ち、言葉をつなげた。
「とはいえ、あれほど密集していれば、熟練の忍びの者でも、容易に火を放つことはできない」
 白最は、まだ生傷の残る王韓を見据えた。周囲に緊迫した空気が流れる。
「将軍には、囮の部隊を率いて、敵正面に堂々と布陣し、太鼓を打ち鳴らして、騒ぎ立てていただきたい。但し、絶対に打って出てはならない」
 この時、王韓の心は完全に白最から離れていたが、表面では渋々承諾してみせた。王韓が、出陣の準備のため、幕舎を後にすると、こんどは文嶽に、
「将軍には、西の山林に一軍を伏せて、東に合図の石火矢が上がったら、一気に斜面を駆けて、礼軍を攻撃していただきたい」
と、命じた。
「承知した。……ところで敵本陣に送り込む、決死の戦士を募らねばならないが」
 文嶽の言葉に、白最は傍らにいた椰希に、目配せをした。彼女はすぐに一人の人物を供って戻ってきた。藍の髪に、赤い瞳が印象的な少年、璃由であった。
「彼は私と師を同じくする璃由と申します。戦士としては一流で、このたびの危険な任務に、自ら名乗りをあげてくれました」
 文嶽は璃由を見て頷いたものの、
「白最殿がすすめる人物であれば、異論は無いが……合戦の経験はおありであろうか?」
と、問うた。
「その点はご心配なきよう。部隊の指揮は、ここにある椰希が取ります」
 璃由もまた、
「私個人、いささかも死を恐れるものではありません。ここに血をもって、誓紙をしたためました。任務遂行のため、死力を尽くす所存です」
 と断固たる態度を示した。文嶽はその意思が硬いと見るや、腰に帯びた愛用の刀を渡し、送り出した。
 璃由は幕舎に戻ると、手早く身支度を済ませた。そして、椰希と共に勇士を従え、本陣からはや出ようとしていた。とそこに、天奈、羽英、岳礼の三人が足早に追ってきた。
 岳礼は頭をかきながら、云う。
「お主が決めたことだから、多くは云わん。立場上、命を惜しめとはいえんが……どうせ死地に向うなら、死なないように死ぬ気でいって来い」
続いて羽英も、璃由の手をぎゅっと握り締めると、
「璃由、気をつけてね。皆さんも御武運を……」
 一方の天奈は、羽英の陰に隠れながら顔をうつむかせていたが、
「……ん」
と差し出したのは、大きな焼き菓子。
「特製凱挌焼き、向こうでおなか減ったら食べてね」
 表情は分からなかったが、璃由はその感情を汲み取った。菓子を懐に忍ばせて、
「行って参ります」
 と力強く言い残し、本陣から数町と離れていない、水路の入り口へと向った。
 白最には悪いが、璃由がこの度の危険な任務に志願したのは、白最に恩義を感じたからでも、成の勝利を望んできたからでもなかった。否、結果的には成の勝利に繋がるのだろうが、璃由をこの危険な任務に駆り立てたのは、やはり恩師、珀の存在であった。この理山攻略が失敗すれば、勝利の望は絶たれ、もう珀と生きて対面する事はできないだろう。そう思うと、彼はいても起ってもいられなかったのだった。
 しかし、内心璃由は生きて帰れる自信は無かった。
 ほつ、と落つる水滴をつむじに受け、はっと我に返った理由は、自分の心臓が更に高鳴っている事に気付いた。
 水路の中は、白最の話の通り、人一人がやっと通れるほどの細い幅しかなかった。足場も悪く、一寸先も定かではない。頼りは、手にもつ、小さな照明だけである。時より、ぽたりぽたりと、背をなでる水滴をはらいながら進んでいくと、やがて前方の道が開けて、外からの風が、どこからともなく、吹きぬけた。
「ここね……」
 椰希は、灯火に照らされた顔を見渡しながら、静かな声色で云った。
「これが成功するか否かで、戦況は大きく変わる……武運を祈る」
 璃由は、緊張した面持ちで目を瞑る。そんな彼の肩に手をのせるた椰希は、
「大丈夫、天文を見るに、勝運は成にあるわ。生き残って、褒美の品をもらいましょ」
 璃由は、椰希の気遣いに感謝した。後は、地上の合図を待つばかりであった。



 一方、地上では王韓が、おとりの部隊を率いて、敵の真正面に陣取り、角笛を吹き鳴らし、全軍にときの声をつくらせていた。しかし、彼の心は愉しまなかった。将士の面前で、弱輩の白最に罵倒されたことは、誇り高い彼とってはらわたが煮えくり返る思いであった。
 のみならず、王韓には先の失敗もある。なんとしてでもここで、兵の信頼を取り戻し、白最に一泡吹かせてやろうという思いがあった。ゆえに、王韓は白最の云うとおりに動くつもりなど、毛頭無かった。
「堅子めが……。この度の功は渡さぬぞ」
 王韓は風吹きすさぶ中、ついに号令を下した。
「よし、理山を取り戻すぞ! 全軍突撃!」
 と自ら先頭を行き、一気に斜面を登った。
 理山にある京紗は、王韓進撃の報告を受けると、冷笑した。
「おそらく、王韓は先の失敗を取り戻すべく、味方を差し置いて、攻撃を仕掛けてきたのだろう。……愚かなことだ。叩き潰してくれる」
地下にあった璃由たちは、そんなこととも知らず、突如として頭上に騒ぎが起こったとみるや、心を定めて、ふたを押しのけ突入した。最初に飛び出た璃由は、近くにいた礼兵を切り伏せると、大声をあげて、
「敵襲! 成軍は陣内の西側にいるぞ!」
 と、散々騒ぎ立てながら、咆哮の下、紅の旋風を巻き起した。礼兵十数人を屍にしつつ、朱に染まった刀をきらめかせた。他の勇士たちも、それに励まされて、礼兵を切り伏せながら、陣内に火を放った。思いもよらぬところからの攻撃に、たちまち礼軍は大混乱に陥った。
 この後方の騒ぎは、すぐに京紗の耳に入った。さすがの彼も、これには驚いた。
「成軍はこれが狙いだったのか!」
 京紗はしかし冷静に判断を下した。
「東の弩手もこちらに回せ! 王韓の部隊を殲滅させよ!」
と、命じた。同時に、自ら軍を率いて西方の消火に当たった。
「急がなくては、手の施しようがなくなる」
 京紗が劫火をかいくぐり、成の奇襲部隊を視界に捕らえた、その時であった。
 突如として天をも驚かす鯨波が、左右からどっと、とどろいた。京紗が、それと気付いた時にはもう遅く、成軍は弩弓手のいない斜面を一気に駆け、あっという間に、頂に到着し、たちまちにして、礼軍を飲み込んでいった。
 京紗は弓手を正面に集中させていた事を悔いた。慌てて、反撃を試みようとしたが、完全に主導権は、成に奪われていた。更に白最率いる中軍も、理山の頂上に到達していた。彼は無念のほぞをかみつつ、数騎の側近に囲まれながら、血路を開いて、理山から退いた。
 
 その頃、璃由は火が辺りを包み込んだ後も、なかなか撤退できずにいた。彼は乱闘の中、仲間とも引き離され、ただ一人で、戦い続けていた。二重三重に囲まれながらも、必死に敵を切り伏せ、水路の口を探し回った。既に体は赤に染まり、鬼気迫る姿をさらしている。ぶるんと頭を振ると、汗と返り血があたりに飛び散った。
 なんとか退路を切り開き、安堵したのも束の間、また一人、成兵が奇声を上げて躍りかかってきた。反射的に刀を振ると、兵の肉は両断され、激しく顔に血を浴びた。思わず瞳を閉じる。その時、璃由は嫌な予感に襲われた。だがそれも一瞬の事。
 次にまぶたを開くと、弓を満天に引き絞った礼兵の姿が、視界に入った。
「っ!!」
 体に衝撃が走る。暖かいものが、璃由の胸に広がる。
(しまった……)
 胸には矢が刺さってきた。膝ががくりと力を失い、地につく。頭もそれを追って地面に叩きつけられた。
 それきり、彼の意識は遠のいていく……。
2005/06/04(Sat)18:56:15 公開 / 天姚
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■作者からのメッセージ
(作品)
はじめまして、天姚(てんよう)と申します。本作が処女作となります。拙作ですが、読んでいただければ幸いです。随時更新していく予定ですので、よろしくお願いします。
(更新)
皆様のご意見を反映できぬまま、また更新をしてしまいました天姚です。今回の更新分は、はて? と自分でも思ってしまう内容ではございます。そんな状態のものを乗せるのは心苦しいですが、あまり間が開くのもどうかと思いましたので、思い切っての更新致しました。
お目汚し失礼致しました。
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