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『二人だけの星』 作者:灰羽 / 恋愛小説
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 世界は2つある。
 真っ黒い世界と真っ白い世界。それは僕の意思一つで変えることができる。この世界を真っ黒にするか、真っ白にするか。さあ、どうしてやろうか?
 僕は、迷うことなく真っ黒い世界を選ぶことにした。なぜなら今日は休日だからだ。
 真っ黒い世界とは目を閉じた暗闇の世界、真っ白い世界は目を開き頂上を目指し登っていく太陽の光が支配している世界といえる。僕はかっこよく言ってみたが、結局は寝ているか、起きているか、というしょうもないことだった。
 そして、さっきも言ったとおり今日は休日である。僕が真っ白い世界を選ぶことはない。覚醒しかけた頭をもう一度、眠りにつかそうと思う。
「おやすみ……」
 そっとつぶやいた。


「おやすみ……じゃないでしょ!」
 小気味よい音と共に俺の頭にかすかな痛みが走った。
「うわわ!すいません!」
 かすかな痛みはどうでも良かったが、ものすごく大きな声で叫ばれ思わず上ずった声で謝ってしまう。
「まったく、いつまで寝てる気?検温の時間よ、け・ん・お・ん」
 意識が覚醒した僕の前に立っていたのは、しっかりとナース服を着こなす一人の女性だった。
 ナース服の女性、検温。思い出した。僕は昨日からこの病院に入院することになったんだ。目の前の看護師さんは確か岡田さん。僕の担当の看護師さんだ。言葉遣いや挙動は乱暴的で大雑把だ。でも、悪い看護師さんじゃないと僕は思っている。
 その岡田さんの手には体温計や、血圧計ではなく丸めた新聞紙が握られていた。恐らく僕の頭をあれで殴ったのだろう。
「ほら、はやくしろー。右で体温計れ。左で血圧計るから」
 岡田さんはそうやって僕を急かす。僕は慌ててベッドの横に吊るされた袋から体温計を取り出し右の脇にはさんだ。岡田さんは僕の左腕に血圧計を巻きつける。しばらく経つと、体温計は小気味良い電子音を経てて僕の体温を示した。その頃にはとっくに血圧は測り終わっている。岡田さんは結果を紙に書き込んでいる。
 その後、尿と便の回数や食事の摂取量などを聞くと、とっとと出て行ってしまった。
 その嵐のようにやってきて嵐のように去っていく岡田さんを、僕は少しの間唖然として見送るしか出来なかった。



       ■



 僕の名前は更科光太(さらしなこうた)。
 県内の平均レベルよりちょっと下くらいのただの進学校に通っている高校2年生だ。今は右肩の手術をするためにこの病院に入院している。
 僕は小学校3年から中学の2年まで野球をしていた。野球は大好きだ。でも、その野球のせいで僕の右肩はぼろぼろになってしまった。僕は投手だったけど右肩がぼろぼろになったのは、僕がすごい投手であって、大会毎に決勝戦まで一人で投げ続けたから、なんて大層な理由ではもちろんない。投球フォームが致命的に悪かった。ただ、それだけ。
 僕は投球する時に、ひじが肩のラインより低いところのまま投げる癖があった。普通は肩のラインより上、あるいは同じくらいで投げる人ばかりだ。皆、特別に訓練したわけじゃなく、自然にそういう投球フォームを身につけている。
 初めて僕がそのことを指摘されたのは小学5年生の時だった。コーチが教えてくれた。
 お前は投げるときにひじが下がっている。そんな投げ方じゃいい球は投げられないし、肩を壊すぞ、と言われた。今思うと、この時ちゃんとコーチの言うことを聞いていればよかった。
 僕も最初は直そうとした。でも、頑張ってもなかなか癖は直るものではなく、僕は早々と諦めてしまった。コーチも思い出したときにたまに言うくらいで、気にしてなかったようだ。それに、その投球フォームのせいで試合で投げさしてもらえなかったり、厳しいフォーム矯正をされたりはしなかったので、その言葉の説得力は皆無に等しかった。
 僕はその時、はっきり言って自分は野球がうまいと思っていた。打順だって1番だった。それに、投手というポジションだったのが何よりの自信になった。少年野球では、うまい人イコール投手という構図がほぼ成り立つ。だから、僕は自分がうまいと思っていた。野球漫画の主人公だってほとんどが投手だ。

 そんな僕も、小学校を卒業して中学校に上がることになる。もちろん僕は野球部に入った。そこで先輩のプレーを見て僕は少なからず衝撃を受けた。先輩はみんなうまかった。
 小学校の野球と中学校の野球はぜんぜん違っていたんだ。センスだけで、がむしゃらにやるだけな小学校の野球とは違っていた。コーチにどこのポジションがしたい? と、聞かれたとき僕はもちろん投手、と答えた。認めたくなかったんだと思う。いや、自分の力を認めたかったのかもしれない。
 そして、僕はうまくもないのに致命的な投球フォームで投げ続けた。肩の痛みが酷くなったのは2年に入った頃だった。でも僕はそのことを隠した。そのまま投げ続けた。もちろん、そんな状態で良い球が投げられるはずなく、しょぼい投手のレッテルが貼られることになる。
 そして、2年の11月程に僕は野球部を退部した。僕は退部届に受験勉強に集中したいから、と書いたがそれは嘘だった。ただ逃げたかった。
 もちろん、部員の中には僕のことを悪く言うやつもいたけど、それは些細なものでいじめなどには発展しなかった。彼ら自身最後の大会が近づいていたし、何より彼らが野球部員だった、というのもあったかもしれない。

 それから月日は経ち、高校2年になった。ある日、体育の授業で野球をすることになった。その中のルールで『野球部員は投手をやってはいけない』というものがあった。僕のチームで、誰が投手やる? という話し合いになったときに同じ学校出身のやつが僕が中学の時に投手をしていたことを告げると、後は僕が投げるしかなくなっていた。
 それに、僕は内心少し嬉しかった。中学の時に誰も認めてくれなかった、僕の投手としての価値を皆が認めてくれたような気がした。だから僕はがんばって投げた。2年程投げていなかったこともあり、肩の調子は悪くなかった。あの頃より筋肉もついていていい球が投げれるようになっていた。僕はそのことがまた嬉しくて、ひたすら投げた。みんなの期待に応えるために。
 高校の現役野球部のやつを三振させたときは嬉しかった。本人は本気を出してなかった、と言っていたがそんなのは言い訳だ。
 嬉しくて、投げて。嬉しくて、投げて。肩のことなんか忘れてしまっていた。そして、それは突然僕を襲った。僕が次の一球を投げようとした瞬間、右肩に激痛が走った。握力をなくした僕の手からボールが明後日の方向に投げ出された。僕は右肩を押さえ、その場にうずくまる。じんじんと熱い痛みが体の中から沸いてくる。あまりにも痛すぎて僕はそのまま意識を失ってしまったらしい。
 そして、今はそんな出来事の4日後だ。こうして思うと、僕のこの肩は野球のせいでなったんじゃない。僕の自己責任だろう。また逃げようとしていた。そんな弱い自分が僕は嫌いだった。
「はぁ……」
 思わずため息がでた。



       ■



「この前やったMRI検査、もう一回やろう。今度はもっといろんな角度から撮るよ」
 僕の担当医の山崎先生がそう告げたので、僕はMRIを撮るはめになった。MRIは別に嫌いではなかった。ただ体を固定されて機械に入っていくだけで、痛かったりはしない。しいて言うなら、ヒマ。それにつきる。いろんな角度から撮るのならば、撮る枚数が多くなるので時間だってかかるだろう。動かすといけないし、大きな音もするので寝ることもできない。でも、やっぱり痛いのよりかはいいと思う。僕はじっと終わるのを待った。

 MRIが終わった後も、他の検査が僕を待っていた。血液検査や検尿、麻酔に関するアレルギー反応調査。それだけで僕の嫌いな注射を4本もされた。なんで病院ってこんなに注射好きなんだろう。嫌になってくる。
 しかも、アレルギー反応を見に来た先生は僕の嫌いなタイプだった。自分のことを完璧に「イケメンの金持ちの医者」と思っているのだろう。若い看護師さんの前ではしゃべり方や動作がいちいちキザだった。その看護師さんが呼ばれていなくなった瞬間、男の子供である僕しかいなくなったのでつまらなさそうな顔でさっさと検診を終えて出て行ってしまった。
 あいつはもてたいがために医者になったんだろうな。まあ自分ではかっこいいと思ってるその顔じゃ玉の輿狙いの金の亡者の女しかこないよ、バーカ。
 僕は内心で毒づいた。最近はいろいろあって、急に生活が変わってストレスがたまってるせいもあるだろう。僕ってやっぱり嫌なやつだな。他人に当たることで発散するしかできないのだから。

 その日の検査は午後2時前には終わっていて、後は全てヒマな時間だった。入院生活はすごくヒマだとは思っていたけど、本当にすることがない。右肩は手術前なので良くはないが、手を肩より上にあげなければ痛むわけではない。
 僕の目標は午後6時までの暇つぶしだ。午後6時になれば、ご飯が運ばれてくるし、それなりに面白いテレビ番組だって始まる。
「そうだ。病院の中でも探検してこよう」
 自分の提案に、うんうんと何度かうなづく。僕はまだこの病院にきてちょうど丸1日くらいしか経っていない。つまり僕はまだ病院初心者だ。売店や自販機、洗面所の意味は知ってるけど、僕の知らないところに面白いスポットがまだ隠れているかもしれない。
 そう思うと、自然と体は動いていた。本当は患者はスリッパで移動するのだが、僕はまだそのことに抵抗があったのでいつもはいている運動靴をはき、病室を出た。

 まず、僕の現在位置を確認してみよう。
 僕が今いるのは、病院の東棟の7階だ。ここは整形外科の患者が入院するところであり、すれ違う人は松葉杖であったり、車椅子の人が多い。そして、あえて言うならみんな老人だ。若い人なんてほとんどいない。だからはっきり言って僕はけっこう目立つみたいだ。
 この病院は大きい方の部類に入ると思う。北、南、東、西の4つの棟からなり、その全ての棟で12階という高さを持っている。12階は展望食堂になっていて、4つの棟が繋がっている。展望食堂はまだ行ったことがないので後でどんなものがあるか見に行くのもいいかもしれない。
 僕はとりあえず、談話室に行くことにした。談話室と言うのは、各階を他の棟の各階と結んでいる渡り廊下の横に飛び出すようについている、ソファが何個か置かれている部屋だ。ここにはいつも数人の人がいる。病院の地図もそこにあるのでそれが目当てだ。
 地図を見て、それから行く場所を決める。僕の目標はこれで決まり。さっそく談話室に向けて出発した。

 談話室は思ったとおりの光景だった。老人の男女がソファに腰掛けて座って、なにやら話している。他の棟との間にあることもあり、ここには整形外科以外の患者もいる。老人の女の人の方は足を包帯で巻いていて、近くに車椅子を待機させていたが、男の人の方は点滴をつけているだけで他は元気そうだった。ほんのちょっとだけすごくかわいい女の子が談話室にいないか、と期待していたけどやっぱりいるはずもなかった。
 僕は低い位置に取り付けられている病院の地図に目をやる。なんでこんな低い位置に取り付けているんだろう。そりゃ背の縮んだ老人にはいいかもしれないけど、僕にとっては苦痛だ。ちなみに僕の身長は167cmくらいで高校2年生としては平均よりちょっと下くらいと思っている。勉強といい身長といい、僕はほとんどのことが平均以下だ。唯一、平均にはできる野球も今はこの体。嫌になってくる。
 そんなことを考えながら僕は地図に目をはしらせ続ける。そして、辿り着いた結論は一つ。
 この病院に面白いところなどない!
 どこに目をはしらせても小難しそうな名前が漢字で書かれているだけだった。元々ゲームセンターやインターネットカフェ、まんが喫茶などの娯楽施設なんて病院内にあるわけないのだから、当然といえば当然の結果である。
「はぁ……」
 僕はソファに腰を下ろすと、思わず落胆のため息を漏らす。護(まもる)だったら、まあ何もないってわかっただけでいいじゃんって言って喜びそうだけど、僕はそんなに前向きじゃない。

 護は僕が一番信頼している友達で、高校も同じである。
 小学校の時にいっしょに野球を始めて、キャッチャーとして僕をリードしていてくれた。護は本当に野球がうまい。中学校では3人いたキャッチャーの中でレギュラーを勝ち取った。僕とは違って強かった。野球も心も。僕が野球を辞めたとき、護はその真意が分かっていたのかもしれない。護は僕の肩が悪いこともよく知っていた。
 僕が退部した後、少しギクシャクした関係になってしまったが、今はもう元通りになっている。護は高校に入って野球の優先順位を下げてしまった。僕の県の高校で野球が強いところは勉強もできるところだった。スポーツ推薦で入れるほどうまくなかった護は結局、野球の強くないこの高校に落ち着くことになった。そして、野球に対する情熱も少しずつ薄れていっているみたいだ。護には野球をがんばっていてほしいけど、辞めてしまった僕からでは何も言えない。

 僕はソファに腰を下ろした。そんなに長い時間、地図を見ていたような気はしないのだが、さっきいた老人2人組はいなくなっていた。
「なにしよっかな……」
 ソファに深く座り上を向いて考える。
 寝ようか? いや、でも今寝てしまったら今度は夜に眠れなくなってしまう。それは結局ヒマな時間を夜にスライドさせたことにしかならず、夜は動きにくいだろう。だったら、今寝るのはあまりいい考えではないような気がする。
 そこで、僕の頭があることを思い出した。そう、さっき病室を出るとき展望食堂に行ってみようと思ったばかりじゃないか。地図とにらめっこして、深く考えていたせいで忘れてしまっていた。あそこのメニューでも見に行こう。それに、財布には小遣いだっていくらか入っている。景気付けにこの小遣いでなにかおいしい物でも食べようか。
 そう考えているとだんだんと希望がわいてきた。今日の午後はこれで潰せるかもしれない。
 僕はさっそくエレベーターに向かう。エレベーターは各階に2機ずつ用意されている。僕はソファから立ち上がり東棟に戻ると、すぐそばにあるエレベーターのスイッチを押す。病院のエレベーターというのはここからが長い。単純に一階に呼ばれることが多いし、来ても進行方向が逆で乗ってはいけないときがある。そうしてると5分もゆうに過ぎていることもあるくらいだ。僕は早く来い、と祈りながら待つのであった。



       ■



 僕は難なく12階まで上がることができた。同じ12階を目標としていた老夫婦に感謝する。12階の展望食堂はとても広く感じられた。もちろん、4棟が合体しているのだから広くて当たり前なのだが、それよりも広く感じられた。なぜなら「展望」食堂が指すように、窓の外から風景が見えるからだと思う。はっきり言ってビルやちょっと古臭いアパート地帯が見えるだけであんまりいい景色とは言えないけど、空が見えるだけで解放感はある。病院漬けの患者さんにとってはたまに登ってくるにはもってこいだろう。
 ここは食べ物を買う方法は食券方式なので、僕は食券販売機の前に立つ。
 日替わりランチ、酢豚、エビフライ定食、ツナサラダ、きつねうどん。ふむふむ、それなりにいろんなものが売られている。というか、四方八方に展開しすぎだと思う。これは味の保障はできないかもしれない。
 そんな食品群より、僕の目をひいたのは食券販売機の横に置いてある冷凍庫だった。中身はアイスだった。この時間帯なら定食や麺類より、おやつ感覚のこっちの方がいいだろう。種類もいろいろある。
 カップにコーン、モナカや棒付きアイスもある。味もバニラ、いちご、抹茶に加え、ヨーグルトとかソーダなどもある。さすがに体に悪いのか、チョコぎっしりのパフェとかはないみたいだ。
 僕は少しだけ迷ったけど、いちご味のカップアイスにした。なぜなら、僕がいちご味のアイスが好きだからだ。
 でも、いちご味のアイスにはけっこう当たり外れがある。ひどいのになったら、いちご味と書いているのにバニラアイスにいちご味の粒がちょこちょこ散りばめられているだけの物もある。僕はそんないちごアイスを見るたびに、落胆している。
 まあ、言ってしまえば僕はいちごアイスマニアなのだ。初めて見るいちごアイスはだいたい一度買ってみる。
 このいちごアイスはどうもこの病院オリジナルの物らしく、ラベルなどはシンプルに収められた、見たことのないタイプだった。このいちごアイスは果たしてどうなのだろうか。このいちごアイスの良し悪しで、僕の入院生活の良し悪しも変わってしまう気さえした。
 おっと、あまりにもいちごアイスに夢中になりすぎて、お金を払うのを忘れそうになってしまった。僕はカウンターのところにいるおばちゃんにお金を渡すと、どこか適当な席につく。もらったビニール袋からいちごアイスのカップを取り出す。
 まずはフタを開封する。見た目はきれいな薄いピンク色。悪くない。バニラアイスにつぶつぶいちごという最悪のコンボは免れた。つぶつぶが見て取れないのはいいことだ。僕にとってはいちごアイスとつぶつぶいちごのコンボでもダメなくらいつぶつぶいちごは嫌いだった。このいちごアイスはその点は完璧にクリアしている。
 そして、問題の味。僕はビニール袋から3本も入っていた昔懐かしの木のスプーンを取り出す。それをアイスに入刀させる。この手のアイスはカチカチに凍っていて苦戦することがあるが、老人の腕力を考慮してか、アイスはそこまで凍ってなくて簡単にスプーンですくうことができた。そのままアイスを口に運ぶ。
「ぐ、グレイトォォォォォ!」
 僕は思わず、小さく叫んでしまった。でも、本当にこのいちごアイスはいい味をだしている。いちごの酸味と甘味のバランスがとてもよく、調和が取れている。口の中でほのかな甘さをまとってとろけていく。
「これはかなりの逸品だ」
 まさか病院でこんな品に出会えるとは思っていなかった。早速僕は残りも食べてしまおうと、手を出す。
 そこで、この食堂の奥に小さな、外か屋上に繋がっていそうな扉があることに気がついた。どうせなら、外の空気に当たりながらこの味を満喫しよう。そう思い、僕はアイスのフタを閉め、ビニール袋に戻すとその扉に向かう。
 よく考えてみたら、屋上とかに繋がってても危ないからカギが掛かっているかもしれないな。まあそのときは元のテーブルで食べるか。
 そんなことを考えていたけど、その僕の考えは杞憂で終わってしまった。鍵穴はもちろん付いていたが、カギは掛かっていなかった。僕はそのまま扉を抜ける。
 その先は、僕の思ったとおり屋上に繋がっているようで、階段が現れた。そんなに長くない階段を僕は急いで登った。


「おお、いい風だ」
 屋上は思った通り、気持ちよかった。僕の体を洗うように前から後ろへ、風が流れていく。でも、その風は冷たくなく、むしろどこか温かいものを運んできてくれる。
「だれ?」
「うわっ!」
 唐突に声が聞こえ、無防備状態だった僕は思わず悲鳴をあげてしまった。
 よく見れば、フェンスを背もたれにして座っている女の子が一人いた。確かによく考えてみると、ここへの道は誰でも通れるようになっていたんだから僕以外の人がいてもおかしくない。
 その女の子は、長い髪を温かい風にのせながら、うさんくさそうな目で僕を見ている。
「べ、別に誰って言われても……」
 突然言われて妙にあせってしまい、言葉が続かない。
 女の子は僕にじっと向けていた視線を下におろした。その視線の先にはさっき買ったアイスが入ったビニール袋。
「あ、そうだ。僕はアイスを食べにきたんだよ。別に怪しいやつじゃないよ」
 女の子は相変わらずうさんくさい視線を向けたまま、ふーん、とでも言いたげだった。
「そのアイス、おいしい?」
「そりゃもちろん! すごくうまいよ」
 それは僕がさっき身をもって体験している。あの甘くとろける感触は、まだ口の中にほのかに残っている。
「じゃ、ちょうだい」
 女の子はなんのためらいもなく言った。その顔はもらって当たり前のような表情をしている。
 はっきり言って、ちょっとムカついた。人にものを頼むときには礼儀が必要だろう。それがこの子にはぜんぜんない。
「いいじゃない、別に。君なんてどうせいつでもアイス食べれるんでしょ?」
 女の子の言い方に少し引っかかるところがあった。そっか、ここは病院だ。目の前の女の子は上着を羽織ってはいるものの、中にパジャマらしき服をのぞかせている。
 それに対して僕はほぼ一般人と変わらない服装だ。きっと、僕を友達のお見舞いかなにかで来た一般の人と勘違いしているのだろう。
 そして、女の子の口ぶりからするとこの子はアイスを自由に食べられないようだ。つまりは、食堂や売店では売ってもらえないのだろう。
「だめ?」
 確かにこのアイスはうまい。手放すのは惜しい。でも、僕はまた買えばいいけど、この子はそうもいかないみたいだ。
 僕は観念して彼女の前まで行くと、ビニール袋を地面に置いた。僕もその場に腰を下ろす。女の子が微妙な視線を向けていたので、僕はビニール袋を女の子の方に押してやる。
「いいの?」
「いいよ。あ、でも僕はこれでも一応入院してる患者だからな。そこんとこよろしく」
 勘違いされたままではなんだか気分が悪いので、ちゃんと言っておく。
「春菜理沙(はるなりさ)……」
 彼女がとつぜんつぶやくので、僕はそれが目の前の女の子の名前と気付くのに時間がかかってしまった。
「あ、えーと、僕は更科光太。よ、よろしく」
「名字長い。名前で呼ぶ」
「じゃあそっちも名字のほうが長いから、僕も名前で呼ばしてもらうよ?」
「好きにすれば」
 う、本当は名前で呼ばれたくなかったから、あんなこと言ったんだけど否定されなかった。
 女の子とあんまり接しない僕にとって急に名前で呼ばれるのは照れくさい。それに、長い黒髪、ちょっと吊り上がった目じり、整えられた眉毛、うすい唇。理沙はものすごく美人だったのだ。そう考えれば名前で呼び合う権利も悪くないかもしれない。いや、けっこう恥ずかしいことにかわりはないけど。
 そんなことを思っていると、理沙はもうビニール袋からアイスのカップを取り出しているところだった。たどたどしい仕草にちょっとドキドキしてしまう。理沙はカップのフタを開けた。その途端、表情が険しくなる。
「なんでバニラ味じゃないの?」
「え……僕がいちご味が好きだからだけど」
 理沙はまた僕の方をじーっと見る。僕は緊張しながら理沙の次の言葉を待つ。
「いらない」
 アイスのフタを閉めると僕の方に返してくる。
「バニラ味の買ってきて」
「は?」
「いいから買ってきてよ。お金なら後でいくらでもあげるから」
 僕は理沙のわがままさに頭が痛くなった。きっと親に甘やかされて育ったんだろう。それに「お金なら後でいくらでもあげるから」なんて文句、いまどき流行らないよ。
「ねえ、私の言うこと聞く気あるの?」
 僕が返答に困っていたら、理沙がますます表情を険しくする。
「はぁ……」
 結局、僕は理沙の言いなりになってしまう。なんというか、僕は人に頼まれるのに弱い。断れないタイプだ。ほら、学校の宿題って写す人と写される人ってだいたい固定だ。僕はその写される人の部類だ。そりゃ、自分ががんばってやったのを写されると少しは嫌な気分になる。
「わかったよ。買ってくればいいんだろ」
 僕は、立ち上がって来た道を帰るために振り返る。と、そこに一人の男の人が突然現れた。
「ぜぇぜぇ……き、君。お嬢様を見かけなかったか? はぁはぁ……あー、えっと、君と同じくらいの年の女の子なんだけど」
 何を慌てているのか、すごく息を切らしている。
 お嬢様。同じ年くらいの女の子。ひょっとして理沙のことかな?
「あ、それならここにい……」
 俺は理沙がいるはずの後ろにまた振り返る。しかし、そこに理沙の姿はなかった。不思議に思い右を見てみると、そこには給水塔に隠れるように身を忍ばせている理沙がいた。そのうすい唇が「いないって言って」と声なき声をあげていた。
 僕は右だけしか見なかったら怪しまれそうだったので、左の方もよそよそしく見る。
「えーと、おかしいなぁ。さっきまでその辺にいたような気がするんですが……」
「む、そうですか。お手数かけました」
 男は頭を一つ下げると、早く見つけないとどやされてしまう、とつぶやきながら去っていった。理沙と違って礼儀のいい人だ。
「今日もがんばるね。豊臣君は」
「いいのか? あんなことして」
「うるさいなー」
「ご、ごめん」
 理沙がきつく言うので、反射的に謝ってしまった。すると、さらに理沙の顔が険しくなる。
「ごめん、なんて私の前では言わないで」
「え?」
「私、ごめんなさいって言葉がこの世で一番嫌いなの」
 そう言う理沙の目は本当に冷め切っていた。僕はまたごめん、と言いそうになったのをなんとか喉元で飲み込んだ。
「アイス……。早く」
 今は理沙は不機嫌のようなので、そのとばっちりを食らわないうちに僕はさっさと展望食堂におつかいに行くことにした。



「ただいまっと」
 僕はバニラアイスの入ったビニール袋を理沙の前に置くと、そのまま座る。
 理沙は、おかえりの一言もくれず、ビニール袋の中からバニラアイスを取り出す。
 このバニラアイスはカップだ。最初はカップにすればいいのかコーンにすればいいのか、それともモナカにすればいいのかわからなかったけど、さっきのカップのいちごアイスの少なくとも「カップ」の部分には怒らなかったのでカップでいいはずだ。
 理沙はそのバニラアイスをなんと僕の方に差し出した。カップじゃダメ、とか言われるのだろうか。
「これは光太が食べるの」
「え、僕?」
 理沙はコクコクうなずく。代わりに、と理沙はいちごのアイスに手を伸ばした。
 こ、これはどういう風の吹き回しだ?
「私はバニラが好き。光太はいちごが好き。私はいちごはどうでもいい。光太はバニラは別に」
 ふむ、何が言いたいのかだいたいわかってきた。
「つまり、お互いがお互いの好きなものを好きになろうってことか」
「バカ。違うわよ。光太にバニラの偉大さを教えたいだけ」
 そう言っていちごアイスを口に運ぶ。
 あれだけうまいいちごアイスだ。年相応の子だったら、きゃーおいしいーとか言うんだと思うけど、理沙は顔色一つ変えずに食べていた。
 僕もバニラを口に運ぶ。最初の方は僕が食べるたびに理沙が反応をうかがうような視線を向けていたけど、僕は特に何も反応を示さなかったのでつまらなくなったのか、少し経つとそれをやめていた。
 バニラもおいしいことにはおいしいけど、あのいちごアイスの衝撃が口の中に残っていた僕にとって、そのおいしさは半減されていた。
「ねえ、光太って何の病気で入院してるの?」
 アイスを口に運んでいると、不意に理沙が聞いてきた。その理沙は、木のスプーンをたばこのようにくわえて、ぶらぶらさせていた。
「病気じゃなくて怪我かな。右肩をちょっとね」
「治るの?」
「簡単な手術すれば、ね」
 理沙は無関心を装っていたが、少しだけ表情が揺れたような気がした。なんというか、少し悲しそうというか。
「そういう理沙はなんなの? 肺炎とか?」
「んー、うん。そう。肺炎。軽いやつ」
 理沙はわざとらしく、せきを数回する。
 肺炎か。肺炎ってけっこうよく聞く病気だけど、別にたいしてひどい病気じゃないと思う。
「そろそろ戻る。豊臣君にも悪いしね」
 そう言うと、理沙はフェンスを支えに立ち上がった。その姿は妙に弱々しく見える。
「そういや理沙ってすごいんだな。お嬢様とか呼ばれてたじゃん」
 豊臣という名前が出てきたのでそのあたりのことに僕は食いついた。
 僕はまだ理沙とわかれたくなかった。なんとなくだけど、もうちょっと話がしたい気分だった。
「さっき戻るって言ったでしょ。続きはまた今度」
 理沙は不機嫌そうに、だけどちょっとだけ嬉しそうに見えた。
「あ、うん。ごめん」
 言った途端、理沙に睨みつけられる。そこで、またごめんと言いそうになってしまう。
 ああ……なんて悪循環だ。困るよ。
「明日、同じ時間ここにいる」
 理沙はそれだけ言うと、この屋上から去っていった。片手をあげてぼんやりとする僕と、空になったアイスのカップとビニール袋だけが、風にやわらかく抱かれていた。



       ■



「うがー!」
 僕は病室でとつぜん叫びをあげた。時間は午後6時30分ちょっと前。まだ叫んでも怒られる時間帯ではないはずだ。
「これはやばい。非常にやばいことになってしまったぞ……」
 僕は、ベッドから上半身だけを起こした状態で頭を抱える。
 そう、僕はあることを思い出してしまっていた。それは今までどうヒマを潰すかで脳をフル回転させていたため、理沙のことで頭がいっぱいだったために忘れ去られていた事実。
――僕の手術って明日じゃん!
 理沙の声が頭の中でよみがえってくる。
――明日、同じ時間ここにいる。
 つまり、午後2時30分すぎには理沙は屋上で僕を待っていることになる。しかし、当の僕自身はその時間帯は麻酔の効果でぐっすり眠った状態だ。
 確か、僕が手術するのはその日の2番目。朝一番は僕が今いる2人部屋の相室者だ。どうも右ひざの半月板を痛めているらしい。その人が10時から1時間程の手術を行い、僕はその後、午後1時頃から手術することになっている。麻酔科の担当の先生が言うには麻酔の効果は約3時間程度で、僕が起きたころにはもう午後4時。理沙のあの性格を考慮すると、30分ですら待っていてくれないだろう。
 これは困ったことになった。
 僕が再び頭を抱えて微妙なうめきをもらしていると、突然、豪快だけどシャープな音を発して病室のドアが開いた。こんなドアの開け方をする人は僕は一人しか知らない。
「おい、少年よ。いるかー?」
「見てわかるでしょ」
 やっぱり岡田さんだ。
「いや、あれよ。3時くらいに来たときにはいなかったからさ」
「そのあたりをブラブラしてただけです」
「そうか。7時過ぎには山崎先生来ると思うから、大人しくしとけよ」
「わかってますよ」
 今日は7時過ぎから明日の手術について担当の山崎先生から話を聞くことになっている。前にもいろいろと聞いているので、だいたいは分かっているけど確認も兼ねて。
「あと、明日は起きたら何も食うなよ。飲むのも禁止だ」
「わかってますよ」
 そんな注意を聞いていると、急に岡田さんのポケットに入っているものが音を発しながら光った。
「ちっ、呼び出しかよー。めんどくせーな」
「あっ、待ってください!」
「ん、なんだー?」
「あの、肺炎について詳しく教えてくれませんか?」
 もちろん聞いた理由は理沙のことが気になっているからだ。岡田さんは珍しく、最初はキョトンとしていたが、だんだんといやらしい笑みに変わっていった。
「よし! おねえさんが教えてあげよう」
 岡田さんは張り切りだした。どうやら、病気に関する知識を披露する機会がやってきて喜んでいるみたいだ。
「肺炎ってのはいろんな病原菌が感染して肺が炎症した状態のことだ。一般的に免疫力の弱い老人の方がかかりやすいな。免疫力が高けりゃなんにも起こんないけど、やられちまえば死ぬ時だってある。確か日本のここ何十年かの死因順位トップ5には入ってたな。発展途上国なら1位だったはず。そんで、肺炎の主な症状はせき、発熱、悪寒、胸痛、喀痰、呼吸困難などで……」
「も、もうオッケーですよ」
 なんだか岡田さんはいつになく真面目でこのまま延々とスピーチが続きそうだったので、早めにきってもらっておく。
「えー、今からいいとこなんだぞ?」
 岡田さんは少し残念そうに笑っていた。
「まあ、肺炎で死ぬっつっても、そういうのは免疫力の弱い老人だったり、他に重い慢性的な病気を持ってる人ばっかだから心配すんな」
 それだけ言うと、岡田さんは病室を出て行ってしまった。
 はっきり言って、看護師という職業はものすごくめんどうくさいと思う。耳の遠い老人には根気よく何度も話しかけてちゃんと理解させたり、患者のちょっとしたことでナースコールを連打されたり。めちゃくちゃ忙しいのだ。僕だったらきっと3日ももたないだろう。
 そう考えると、やっぱり看護が好きじゃないとできない仕事だと思うし、岡田さんもすごいと思う。
「はぁ……」
 僕は起こしていた上半身をまたベッドに寝かした。
 ちなみに、運ばれてきた夕食にはほとんど手を付けていない。食べたのはご飯と肉とほうれん草のみ。僕は基本的に野菜が嫌いなのだ。特にきゅうりがダメだ。あの青臭いにおいがどうしても好きになれない。ほうれん草や野沢菜あたりがぎりぎり食べれる程度だ。
 肉のほうもさすがは病院。味付けはものすごく薄かった。というか味がしないに近い。これから数日間こんな食生活をしなければならないなんて僕はごめんだ。売店と展望食堂に大いにお世話になりそうだ。

――コンコン

 そんなことを考えていると、扉がノックされた。扉はそのままシャープな音を立てて開く。
「えーと、更科君。手術の説明に来たよ」
「あ、はい。どうぞ」
 現れたのは、僕の担当医の山崎先生。まだ毛はうすくなっていないくらいの年で、なかなか言い方がおもしろい先生だ。なんというか、イントネーションが多少他人とずれている。あのアレルギー反応を見に来たやつに比べたら何十倍もいい。
「あれ? お母さんは話を聞きには来ないのかな?」
「あ、はい。忙しいらしくて。まあ僕一人でも大丈夫ですよ」
「まいったなぁ。未成年の人には親にサインをしてもらわないといけない書類が数点あるんだけどなぁ」
「あ、それなら岡田さんに聞いていたので、ちょっとだけ来ていた時に書いてもらいました」
 僕はテーブルの引き出しの中から書類を数点取り出し、山崎先生に渡す。
「ナーイス」
 山崎先生はその書類に目を通すと満足そうにうなずく。
「では手術の説明をしよう。まず、これは君のMRIで撮った写真なんだけど、この肩の骨。あきらかーにおかしいでしょ?」
「は、はぁ……」
 山崎先生は写真の僕の右肩の骨を、指でなぞりながら話す。
 確かに僕の右肩の骨はおかしかった。ちょうど関節のあたりを覆っている軟骨っぽい部分に白い筋のようなものが何本か見て取れた。それに剥がれているらしく、腕側の方に引っ付いてしまっている。
「これを治すためには、こっちの骨とこの骨を糸を使って固定しなくちゃだめなんだ。それでー、そのために君の体のこの辺に3つくらいメスでかるーく切って、そこから内視鏡を入れて……」
 その後も、僕のMRIで撮った写真を使った山崎先生の力説は続いたが、僕は適当に返事をして別のことを考えていた。それはもちろん理沙のことだ。
――明日、同じ時間ここにいる。
 理沙はそう言った。その時は僕がごめんと言ってしまったから不機嫌そうだったけど、その前に「続きはまた今度」と言った時はどこか嬉しそうだった。
 僕は正直、手術なんて放っておいて理沙に会いに行く方が大事だった。なんで今日初めて会った子にそこまで思うんだろうか?
 理沙の顔を思い出す。笑ってくれた事はなかったので、不機嫌そうな顔しか思い出せなかったけど、それでもかわいく見える。性格は悪いけど、やっぱり理沙はかわいかった。
――じゃあ僕は、理沙のことが好きなのだろうか?
 そう聞かれると、いいえと答える僕がいた。好きじゃないんだけど、なんというか、こう…………あー!もう!
 僕は頭の中に浮かんでくる理沙の顔を消した。それでもすぐにまた理沙の顔は現れる。それをまたすぐに消す。そんなことを繰り返していると、山崎先生の話も終わっていたようで、山崎先生は去っていった。
「はぁ……」
 今日何回目かのため息をする。
 もうこのまま眠ってしまおうか。明日になって時間がくれば僕はきっと手術室に行くんだろう。さっきは手術を放りだしてでも理沙に会いに行きたいなんて思ってたけど、結局僕はそんなことできないんだ。僕にはそんな勇気なんてないんだ。僕は臆病で誰にも逆らえず、何にも逆らえず、ただ毎日を過ごすだけ。それなら考えるだけ無駄だ。
「はぁ……」
 またため息がもれる。と、その瞬間僕はひらめいた。
 今から理沙に会いに行って明日はダメなことを話せばいいんだ。この病院は車は午後8時までしか置いておけない。それ以降も置くためには、高いパーキングエリアに移動しなければならない。今は午後7時40分くらい。だから、昼にいた豊臣さんだってもうそろそろ帰っているだろう。
 問題は理沙の病室はどこかだ。岡田さんに聞けばわかるかもしれないけど、それはちょっと恥ずかしすぎる。
 結局は、それっぽい科の人が入院してるところをあたっていくことに決める。僕は、愛用の運動靴をはいて上着を羽織ると部屋を出た。



 僕は今、西棟の5階を歩いている。ここの棟の5階と6階は内臓とか器官が悪い人が入院している、と岡田さんに聞いたからだ。肺炎の患者はどこに入院してますか、と聞けなかったのは、やっぱり恥ずかしかったからだ。
 それにしても西棟は意外と遠い。北棟と南棟なら渡り廊下ひとつで繋がっているが、東棟から西棟への直通ルートはない。いったん北棟か南棟に出て、そこから行かなければならなかった。
 注意深く、名前のプレートを確認しながら進む。しかし、この5階に春菜理沙という名前のプレートはなかった。そして、それは6階においても同じだった。
 正直僕は困った。あんまり遅くに行っても理沙に迷惑なので、せめて9時ごろまでには理沙の病室に行きたい。
「今は8時過ぎくらいか」
 僕は携帯のディスプレイを見て、時間を確認する。
 病院では携帯電話禁止と一般に言われているが、その規制はすごく緩い。看護師さんの前で堂々といじっていても、注意されない人の方が多いくらいだ。さすがにマナーモードにはしてるけど。
 行き詰った僕はとりあえず、西棟6階と北棟6階を繋いでいる渡り廊下の談話室のソファに腰を下ろす。さすがにこの時間に出歩いている老人は少ないみたいで、誰もいない。
 ただ闇雲に探し回ったのでは見つからない気がする。病院は思ったより広いんだ。僕は改めてそれを思い知らされる。
 ちなみに北棟には主に重病の患者が多く入院している。個室なども北棟にしかない。
「重病の患者ねぇ……」
 北棟にも内臓や器官が悪い人が入院している。でも、理沙の病気は肺炎。重病と称すには値しないと思う。軽いやつって言ってたし。
 とりあえず、後少し考えて何も浮かばないなら、あてずっぽうで走るしかない。
「はぁ……」
 僕は自分の浅はかさが嫌になる。どうせ考えてもいい案なんて浮かんでこないだろう。むしろ走ってでもいないとあきらめてしまいそうだ。
「よし」
 気合を入れて西棟に引き返そうと身をひるがえしたしたその時、僕は唖然とした。
 そこには昼に屋上で少しだけ見かけた豊臣さんがいた。手には売店の袋が握られていて、ペットボトルの水が中からその先頭部をのぞかしている。
 豊臣さんは西棟から北棟に歩いていっている。西棟から降りたところに売店はあるので、おおよそ理沙のわがままで8時に閉まる売店にギリギリ滑り込んだのだろう。
 このまま豊臣さんの後をつければ、きっと理沙の部屋までいけるはずだ。後は豊臣さんが帰るのを待って、理沙に会えばいい。よし、ナイスアイディアだ。
 僕は豊臣さんと一定の距離を保ちながら進む。豊臣さんが階段を下りれば僕も下り、右に曲がれば僕も右に曲がる。豊臣さんの足を見ながらつけているのは、前に見たテレビでこうしておけば相手が振り返っても目が合わない、と言っていたからだ。
 少しすると豊臣さんはある病室の前で止まった。僕は豊臣さんに怪しまれないように、何食わぬ顔で彼の後ろを通り過ぎ、突き当りを右に曲がってそこから様子をうかがう。
 通り過ぎるときに確認した503号室の名前のプレートには「春菜理沙」とだけ書かれていた。恐らくは個室なのだろう。北棟の個室ということは、理沙はけっこう重病の可能性がある。
――まあ、肺炎で死ぬっつっても、そういうのは免疫力の弱い老人だったり、他に重い慢性的な病気を持ってる人ばっかだから心配すんな。
 岡田さんの言葉がよみがえる。理沙は他に慢性的な病気を持ってる人なのだろうか? というか、慢性的な病気ってなんだろうか?
 そんなことを思っていると、豊臣さんが503号室から出て行くのが見えた。
 よし、やっとチャンスが巡ってきた。
 僕は豊臣さんが去っていくのを確認すると503号室、理沙の病室に向かった。

「理沙!」
 僕ははやる気持ちを抑えきれずに、思わずノックもせずに叫びながら病室に入ってしまった。理沙は、キョトンとした顔で僕を見る。そしてその後どうでもいい、とでも言いたげな表情に変わる。
「どうしたの?」
「あ、あのさ……」
「早くここから出て行ったほうがいいわよ。豊臣君、戻ってくるから」
 そういうと理沙は、布団を頭からかぶってしまった。
「あ、あのさ。理沙の病気って本当に肺炎なんだよな?」
「うん。そう。肺炎。軽いやつ」
 あの時と同じ答えが返ってくる。それが逆に作られた答えのようで恐い。

――コンコン

 その時、扉をノックする音が聞こえた。
 やばい。絶対に豊臣さんだ。僕に逃げ場はない。どうしよう。
「光太は黙ってるか、適当に私に相槌」
 理沙はそれだけ小さく言う。
「失礼しま……」
 だいぶ聞き慣れてきた扉を開ける音と共に豊臣さんは現れた。その顔はもちろん予期せぬ来客者のせいで驚きに満ちている。
「彼、ちょっとした顔見知り。偶然私の部屋見つけて入ってきたみたい」
「あ、あはは……すいません」
 僕はぼりぼりと頭を掻きながら頭を下げる。その動きはもちろんぎこちない。
「む、そうですか。すいませんが、今夜はもう遅いので、お引取りください」
 豊臣さんは、僕と理沙の間に立つと無言のプレッシャーをかけてくる。
 もちろん僕はそのプレッシャーに負ける。なんというか、豊臣さんはけっこういかつい顔をしているし、体つきもいいし、サングラスもかけている。黒いスーツにネクタイをしめている、というのもなんとなく暴力団関係者みたいで恐い。
「そして、もう二度とこの病室には近づかないでください。いや、近づくな」
「え……?」
 その後の豊臣さんの言葉に僕は唖然とした。
――二度と病室には近づくな。
 一体どういうことだろう。理沙の病気はそんなに悪いのだろうか。
 僕は無言のプレッシャーを放つ豊臣さんに背を向けると、逃げるように走り出した。何が何だか混乱してしまい、全てを振り払うように走った。
 理沙の病気のこと。豊臣さんに釘を刺された理由。渦巻いては消えていく思考に嫌気がさした。
 僕が理沙に手術があるから屋上に行けないということを伝え忘れたのに気付くのはだいぶ後のことになる。



「ねぇ、豊臣君」
「なんですか?」
 理沙は寝返りを打って豊臣に背を向ける。
「光……今の男の子、どう思った?」
「どう、と言われましても。私にはどこにでもいる普通の男に見えましたが」
 豊臣は少し困ったふうに顔をゆるめて答える。
「彼ね、右肩の手術するんだって。簡単な手術で治るんだって」
「お嬢様の病気だって簡単な手術ですぐに治りますよ」
 力なく、つぶやくように言う理沙に豊臣は力強く言ってみせる。
「ふふふ。豊臣君。そのセリフはもう聞き飽きたよ」
 理沙は少しだけ笑顔を作る。その笑顔はとても力なく、少しでも力を入れれば壊れて消えてしまいそうだった。
「ねぇ。アイスって食べてもいいの?」
「アイス、ですか? 別にいいんじゃないですか?」
「じゃあさ、いちごのアイス買ってきて」
「バニラじゃないんですか?」
「今日はいちご」
「わかりました」
 さっきも売店におつかいに行かされていたのに、豊臣は嫌な顔ひとつせずに立ち上がった。しかも、今は売店ももう閉まっている。ということは近くのコンビニにでも行かなければならない。けっこう疲れることは間違いない。
「あ、ちょっと待って」
 理沙はまた寝返りを打ち今度は、スーツのちょっとした着崩れを直していた豊臣の方に向く。
「さっきの男の子の手術の日がいつか調べといて」
「し、しかし……」
「いいから調べて。絶対」
 それだけ言うと、理沙は布団をかぶってしまった。
 豊臣はため息をつきながらも理沙の言うことに従うことにした。
「本当にいいのだろうか?」
 病室を出た豊臣は小さな声でつぶやく。まだあの男がいるかもしれないので一応気配は探っておいた。今は近くには誰もいないようだ。
 それを確認すると、豊臣は廊下を歩き出した。


「簡単な手術……」
 私は独りになった病室でそっとつぶやいた。
 それでも、簡単な手術でも、がんばれくらいは言ってあげようと思う。光太はきっとそれだけで喜ぶと思うし、頑張れると思う。だって、見るからに単純でバカそうなんだもん。
 明日はなに話そうかな? あ、豊臣君に調べてもらわなくても明日光太に聞けばいいんだ。いつも頑張ってる豊臣君には悪いけど、明日も病室をこっそり抜け出させてもらおう。
 別に光太のことが好きなわけでもないし、光太の話が特別おもしろいわけでもない。それでも、ただなんとなく会いたいと思う。この気持ちはなんだろう?
「アイスのこと、嘘ついちゃった」
 私は自分の気持ちを紛らわしたくてポツンとつぶやくと、また寝返りを打った。



       ■



 僕は今、病室のベッドに寝転んでいる。今の時刻は午前10時30分。
 今日、最初に起きたのは朝6時30分の定期検温の時だ。もちろん僕はその時間に起きているはずもなく、また岡田さんに叩き起こされた。完全に眠りから覚めていない状態で、僕は体温と血液の検査を済ませまた眠りにつくことになる。
 その後、浣腸のために9時過ぎに起こされ、それからはボーっと過ごし今に至る。お腹に違和感が残っていたが気にならなかった。

 結局、昨日は理沙に伝えられなかった。その事がずっと気がかりになっている。今から言いに行く、という選択肢も考えついた。でも、豊臣さんの存在が僕にその実行を許してくれない。
 とことん僕はダメな人間だ。何も言えずに何もできない。ただ流れに身を任せ、漂っていくだけだ。逆らうことができない。
 いつもは面白いと思うであろうテレビ番組も、今日は全くつまらなく感じる。いや、実際は面白く感じるのかもしれないが、番組の中身が頭に入ってこない。ただ映像が流れていくだけ。

 誰もいなくなった、隣の人のベッドを見る。彼は家族に見送られて手術室に向かっていった。僕には見送りに来てくれる家族はいない。
 父さんはけっこう前に病気で死んでしまった。母さんはその穴埋めをする為に、今も一人で必死に働いている。もちろん保険金はもらったが、それに頼り切るわけにもいかないだろう。
 そう、父さんは僕が10歳の時に死んだ。その日は休日で、母さんと僕と3人でちょっと高級なレストランに食事に行こうと話していた。そのときの笑顔を僕は今でも思い出せる。
 父さんは急にその笑顔を歪ませると、奇妙な声をあげながら胸を押さえその場に倒れた。
 母さんの悲痛な叫び。父さんの尋常じゃない痛みに対する叫び。全部がぐちゃぐちゃに混ざって、気付いた時には僕は音の感じない世界にいた。音声がない映画を見ているような気分だった。
 救急車が家に来て、僕たち3人はそれに乗った。母さんは僕を抱きかかえ、両手を組み祈っていた。父さんは酸素マスクを口に付け、応急処置を受けていた。

 病院で父さんの顔に白い布がかぶさっていた。母さんはその父さんに抱きついて涙を流し続けていた。僕の見ていた音のない映画は終わった。僕が初めて「死」に触れた時だった。
 今でもその映画を思い出すことができる。最初から最後まで、1分1秒たりとも抜け落ちることなく。あいかわらず、音声だけは抜け落ちているけど。
 ちなみに、僕は父さんの葬式では泣かなかった。というより泣けなかった。実感がなかった。僕は何日か経てばまた父さんは帰ってくると思ってた。もちろんそんなことはなく、父さんは僕の日常から姿を消した。
 これが「死」なんだと僕はその時やっとわかった。帰ってくることのない父さんを思うとどうしようもない気持ちになった。

「はぁ……」
 嫌なことを思い出してしまった。どうして人は嫌なことを綺麗さっぱり忘れてしまえないんだろう。それができたらどんなに楽か。
 そんなことを思っていたら、不意に携帯が振動を始めた。僕は左腕を伸ばし手探りで携帯を探し当てると、それを目の前まで持ってくる。
 携帯のディスプレイは護からのメールの受信を表していた。

――よお、元気か? あ、元気ならそんなところにはいないか。まあ、あれだ……頑張って来い! 俺はお前の復活を待ってるぞ〜。

 そんなに長くはない一通のメール。だけど、護の温かい気持ちを運んでくるには充分だった。今までの嫌な気持ちが一気に晴れた。
 手術までのヒマな時間、僕はずっと護とメールをして過ごした。



「ん…………」
 僕は目を薄っすらと開いていく。でも、まぶたがぜんぜん開かない。少しだけ見える、周りの景色も輪郭がぼやけてはっきりと捉えることができない。
 頭はなかなか起きてくれない。覚醒しない。僕は寝ているのか起きているのかわからない曖昧な時間をしばらく過ごす。

 そんな曖昧な、どこか気持ちいい時間も時間の経過と共に薄れていく。そこを見計らったかのように山崎先生が扉を開けて入ってきた。
「もう起きてるかい?」
「あ、はい。今起きました……」
 僕は先生に失礼のないように、上半身を起こそうとする。
「あ、そのままでいいよ」
 山崎先生は慌ててそれを止める。
「えーと、まあ手術は無事に成功したよ。おめでとう」
 山崎先生はどこか誇らしげに笑ってみせた。
「それで、今後のことなんだけど。今、君の骨を治すために入れた器具をもう一回取り除く手術をしなければならない、というのは前に言ったね?」
「あ、はい。なんとなく覚えてます」
「それで、その手術がだいたい10日後を検討してるんだ。それで、はっきり言ってしまうと君は3日で退院できると思うんだよね。若いし」
「は、はぁ」
「一回退院する? それとも10日後までずっと入院しておく? それを考えておいてほしいんだ」
 退院。
 山崎先生から放たれた言葉。退院。僕が病院からいなくなってしまったら理沙に会える時間がなくなってしまう。2時30分なんてまだ授業中だし、この病院は自転車で来ようとすればけっこう遠い。
 理沙に会えなくなる。別に理沙は僕の特別な人でも何でもない。それでも、理沙に会えなくなると思ったら急に胸の中に大きな不安が現れた。
「僕、ずっと入院しときます」
「いいのかい? 学校の授業だって遅れるし、欠課も増えるよ?」
「構いません」
 そうだ、構うもんか。今は理沙との繋がりがなにか欲しかった。それを失ってしまうと途端に生ぬるいつまらない日常に戻ってしまう気がした。僕の中で理沙がいたことが無くなってしまうような気がした。
「わかった。それじゃあそれでいくことにするよ」
 そういうと山崎先生は口笛を吹きながら去っていった。
 僕は動く左手でテーブルの上を探り、携帯を手に取った。ディスプレイは今の時刻を4時15分と告げていた。2時30分から数えると、ここは1時間45分後の世界。
 理沙には悪いことをしてしまったと思っている。僕は本当にこのまま理沙に会っていいのだろうか?
――二度と病室には近づくな。
 そう言った豊臣さんが頭の中に現れる。
 なんでこの映画には音声があるんだろう。なんで、父さんが死んだ時に音声はなかったのにこいつの時にはあるんだろう。あの豊臣さんの一言さえ聞こえなければ僕はもっと理沙に積極的になれたかもしれない。でも、豊臣さんのあの異様な雰囲気がどうしてもぬぐいきれない。
 それでも、僕は屋上に行ってみることにした。屋上なら豊臣さんはいないと思ったからだ。
 僕は自分の身体をいろいろと確認してみる。まず、右肩。包帯をぐるぐる巻きにされているだけで、吊られていたりはしなかった。肩は動かないが、指や手首はなんとか動かすことができた。左腕には点滴の針が刺されていて、それがテープのような物で覆われて固定されている。それ以外の部位は何もないようだ。
 僕は左手を使って上半身を起こす。ちょっと点滴のチューブが邪魔だった。
 テーブルの上を見ると、一枚の紙が置かれていた。それには今日と明日は動いてはいけない、ということが書かれていた。それでも、僕は行ってみようと思う。どこかで自分を変えたいと思っているのかもしれない。
 僕はこの病院に来て、初めてスリッパをはいた。上着を羽織り、とりあえず岡田さんには見つからないように辺りを伺い、点滴台を押しながらエレベーターに向かった。



       ■



「遅い」
 理沙は僕の姿を見つけると、不機嫌そうにそれだけつぶやいた。
 そう、理沙はいたのだ。もう4時30分になろうかというこの時間にまだ理沙は屋上にいてくれた。それがただ嬉しかった。
「ご、ごめん」
 言ってから気付く。またやってしまった。何でもかんでもごめんと言ってしまう癖が出てしまう。
「何で遅かったの?」
 理沙は不機嫌そうな顔を一時も緩めることなく僕に言う。
「そ、その、僕の肩の手術が今日でさ。麻酔で寝ちゃってたんだ。ほ、ほんとは昨日の夜に言おうと思ったんだ! でも、その、忘れちゃってさ」
 今度はごめんとは言わずに、ただ頭を下げる。
「別にいい。来てくれたから」
 理沙はそう言うと、地面を何回かペチペチと叩いた。たぶん座れってことだと思う。
 僕は理沙の近くまで行くと腰を下ろす。その時、つい癖で右手を地面についてしまう。その瞬間、右肩に激痛が走った。
「いてて!」
「バーカ。無理して私なんかに会いに来るから」
「あはは……」
 僕は左手で頭をボリボリと掻く。
「あのさ、理沙のことちゃんと教えてほしいんだ」
「そうだね、教えてあげてもいいよ」
「ほんと?」
 理沙があっさり了承してくれたので、僕は驚いてつい聞きなおしてしまう。
「でも、ただで教えるのはつまらない」
 理沙はちょっとだけ笑った。
「じゃんけん。光太が勝ったら知りたいこと。私が勝ったら光太は恥ずかしい経験を暴露」
「ちょっと待ってよ。それって不平等じゃんけんじゃ……」
「文句言わない。決定」
「はぁ……」
 でも、僕は別にいいと思う。理沙がさっき、ちょっとだけだけど笑ってくれたから。理沙が初めて笑ってくれたから。
 このじゃんけんをすれば、もっと理沙の笑顔が見れるような気がする。そう思っただけでドキドキしていた。
「最初はグーよ」
「う、うん」
 さて、何を出そうか。そういえば、この前テレビでジャンケンではグーを出す人が多いと言っていた。確か、グーは58%くらいだったと思う。それを鵜呑みにするのもどうかとも思うけど、僕はパーを出すことにする。
「さーいしょーはグー」
 僕は定番のフレーズに誘われグーを出す。当然、理沙もこの時はグーを…………出さなかった。理沙の手は握られていなかった。開かれていた。
 つまりは、理沙はパーを出していた。
「やった。私の勝ち」
「そ、それはなしだろ」
「うるさいなー。早く恥ずかしい話」
 理沙はいたずらっぽく笑うと、期待に満ちた目で僕を見てくる。
「恥ずかしい話って言われてもなぁ」
「光太の初恋の話とか聞きたい」
 なんで理沙はそんなこと聞きたがるのだろうか。ただの興味本位なのだろうか。
「僕の初恋の人の話かぁ」
 僕は理沙に話し始めた。そりゃあ初恋の人の話なんかしたくないけど、理沙になら言えるような気がした。おもしろおかしく言えるような気がした。その話で理沙が少しでも楽しんでくれるなら、いいと思った。
 僕はまず、その初恋の人に出会ったときの話をした。
 僕が傘を忘れて困っていると、その子が傘を差し出してきて、相々傘をして帰るはめになった。それが僕の初恋のきっかけで、その時はドキドキが止まらなかった。
「何それ、ありきたりねぇ」
 理沙は馬鹿にしたようにケラケラ笑う。
「ちぇ。ほっといてくれよ」
 その後は僕がその子にアタックした時の話をした。
 アタックすると言っても、僕には何かをする勇気がなかった。土日は野球だったので、遊びにも誘えなかった。だいたい、小学校で男女が遊ぶなんて格好の餌食だった。
 それでも、僕は一回だけ勇気をだして手紙を書いた。ぞくに言うラブレターってやつだ。内容は、今思えばひどいものだった。その手紙の内容だけは生涯で誰にも話すまいと思っていたけど、理沙には言ってしまっていた。その手紙の最後の1文。
『君にゾッコンふぉーりんLOVE』
 書いた当時の僕は小学4年生。
「何それ、ただのバカじゃない」
 理沙はその一文を聞いた途端、声をあげて笑い出した。
 確かにひどい文だと思う。小学4年生だったから、で済まされるレベルじゃないような気がする。あの頃の僕はただの無知で、何で見たかもわからないようなことを信じてそれが頭の中でごちゃごちゃに混ざって、結局こんな文にいきついたんだろう。もちろん、そんな告白がオッケーされるはずもない。はっきり言って、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「その子とはどうなったの?」
「うん、その子は4年の終わりに転校してどっかに行っちゃったよ」
 そう、彼女は突然僕の前からいなくなった。転校するその日まで先生は教えてくれなかった。駅まで追いかけていくなんていうドラマみたいなこと、僕にできるはずなかった。僕はただ、事実を否定したくて笑っていたような気がする。
 途端に理沙の顔から笑顔が消えてしまった。
「そっか、残念だね」
「そりゃあ悲しいよ。でも、いいんだ。小学校とか中学とかの恋なんてそんなものだよ。地方に残る人とどこかに行ってしまう人。会社勤めとフリーター。そんなこんなですれ違いが起きちゃう」
「でも、思い出として胸の中には残る。今、光太の胸の中にその子の思い出があるように」
 理沙は自分の胸を押さえながらながら言う。
「う、うん」
 理沙は今までで一番優しい顔をしていた。昨日会った理沙は、ニコリともせずに不機嫌そうな顔ばっかりだったけど、今日はよく笑ってくれる。優しく微笑んでくれる。それがとても嬉しい。
「光太は話してくれた。私も話す」
 理沙は僕の目をまっすぐに見つめてきた。僕はドキドキして目をそらしてしまう。
「私のお父さんはね、社長なの。春菜コーポレーションって知らない?」
 その言葉に、僕は自分の耳を疑いたくなった。
 春菜コーポレーションと言えば、日本ではかなり有名な会社だ。最初は小さなベンチャー企業だったが、IT時代の波に乗り大きな利益を得て、今では四方八方に営業を展開している、日本有数の会社だ。少し前からニュースやドキュメントで頻繁にその成功の特集などが放送されている。僕でもよく知っているほど有名な会社なんだ。
 理沙の話が本当ならその社長令嬢が今、目の前にいることになる。
「え、それマジ?」
「ほんと」
 確かにそれなら豊臣さんのようなボディーガードがついているのにも納得がいく。でも、それだったらますます理沙は僕なんかが会ってはいけない存在のような気がする。住む世界が違う人なのだ。
「病気のことも話さないとだめ?」
「いいよ。別に。肺炎なんだろ? 軽いやつ」
 僕は無理に笑ってみせた。もし、ここで理沙の本当の病気のことを聞いて癌(がん)とかそういう不治の病を言われるのが恐かった。初恋の人が転校していった時のような、父親が死んだのを初めて実感した時のような、あのどうしようもない気持ちがよみがえる。
 理沙だって、僕が北棟にどんな人が収容されるか知っていると思っているだろう。だから、病気のことを話そうとしたのかもしれない。
「くしゅんっ!」
 その時、理沙が小さなくしゃみをした。
「おっと、もう日が暮れてきたからそろそろ帰ったほうがいんじゃないかな?」
「明日も同じ時間」
 理沙が鼻をすすりながら言う。
「うん。お互い無理して抜け出そう」
 僕は岡田さんから、理沙は豊臣さんから。
「そうだ」
「ん?」
「ほんとは『がんばれ』って言いたかったんだけど、もう手術終わったから『よくがんばった』にしとく」
 理沙は小さく笑うと屋上を出て行った。理沙がすぐに屋上を出ていってくれてよかった。
 僕の顔は今、真っ赤だったから。僕はちょっとの間風にあたり、火照った頬を覚ましてから病室に戻ることにした。



       ■



「それにしても昨日はやってくれたなぁ」
 岡田さんが点滴の液を新しい物に取り替えながら言う。
「ちゃーんと、わかりやすいようにテーブルの上に紙置いてたのになぁ」
 岡田さんは笑顔だ。
「なーんで気付かなかったのかなぁ」
 その笑顔がむちゃくちゃ恐い。笑顔の後ろに隠されている怒りを隠そうともしない。
「なーんで見えなかったのかなぁ」
「あ、あはは……。ぜんぜん気付きませんでしたよ」
 僕はぎこちない手つきで頭を数回掻く。もちろん目は泳ぐ。その間、岡田さんは点滴の液が落ちるスピードを計って、調整していた。

 僕は昨日、屋上からの帰り道に岡田さんと遭遇してしまった。そこで僕は仕方なく、出歩いちゃいけないなんて知りませんでした、と思いつきで嘘をついた。もちろん僕は出歩いてはいけないことを知っていた。
 今思えばあそこで嘘なんてつくんじゃなかった。嘘で痛いめにあうことなんて今までだって何度も経験してる。
 携帯のメールで二人同時に相手するのが面倒くさくなって片方に「勉強するからまた今度な」なんて嘘のメールを送った。次の日に学校で、遅くまでメールで盛り上がった友達が「昨日お前が11時過ぎくらいに送ってきたメールにさぁ――――」なんていきなりしゃべりだした。
 その途端、もう一人の友達が顔を険しくする。もう一人の友達とはもちろん昨日、勉強すると嘘をついた友達だ。
 別にその友達は何も言わなかったけど、数日間はぎこちない雰囲気で過ごすことになってしまった。
 嘘なんてついてもいいことはない。嘘はどこからばれてしまうかわからない、不確定なものだ。そんなものに頼ってはいけない。

「だいたい、そんなにすぐに動けるようになるとはねー。若いのっていいわ、やっぱ」
 口を動かしながらでも、岡田さんの手が止まることはない。
 そういえば岡田さんは何歳なのだろうか。三十路前くらいかな。本人に聞いたら確実に殴られるので、僕は想像するだけにしておく。
「よし、終わりっと。午後に針抜きに来るから、そんときいなかったらわかってるよなぁ?」
「は、はい。わかってますよ」
「そっか、ならいい」
 岡田さんは不気味な笑顔をたたえたまま病室を出て行った。

 今は午前9時過ぎ。今日は僕の体力を考慮してか、定期検温がなかったので起きたのは今さっきだ。それを見計らったかのように岡田さんが検温及び点滴交換にやってきた。
「午後か。2時30分より前に来てくれたらいいんだけど」
 僕は、もし2時30分までに岡田さんが来なかった場合のことを頭の中でシュミレートしてみることにする。

 まずは、理沙との約束を優先した場合だ。2時過ぎくらいに部屋を抜け出す。そして展望食堂に行くためにエレベーターに乗る。この過程で岡田さんに見つかってはいけない。そんなことがあれば、今度は不気味な笑みではすまないだろう。
 しかし、難所と言うのはあるものである。最近気付いたんだけど、エレベーターは看護師さんたちの詰め所の前にあるのだ。つまりエレベーターを待っている間、僕は看護師さんたちに丸見え。岡田さんに見つかる可能性がけっこう高いと思われる。
 そこで、僕はひらめいた。なにも7階のエレベーターを使う必要はないんだ。全てのエレベーターは展望食堂につながっている。それなら、8階まで階段で上がってそこからエレベーターに乗って展望食堂に向かえばいい。幸い、階段は看護師さんたちの詰め所からはぎりぎり見えない角度だ。僕はひらめいたアイディアに満足する。
 そして、僕は屋上に行き理沙と話す。そして時間は過ぎて帰る時間に。
 そう、問題はここからだ。理沙とどれくらい話をするかわからないけど、僕が話している間に岡田さんが僕の病室に来ていたらアウトだ。何かいい手はないか、と考えてみたけど、こればかりは神頼みだ。
 はぁ……神様、頼んだよ。

 そして、次に岡田さんの魔の手を優先する場合を考える。
 僕の考えでは、岡田さんは3時30分くらいまでには来ると思う。4時以降になるのなら、午後か夕方と言いそうだと思ったからだ。この場合は理沙を1時間くらい待たせることになる。
 昨日も待たせて、今日も待たせて。そんなのダメだよな……。
 それに、これが原因で「もう会わない」とか、理沙にまで「二度と病室に近づかないで」なんて言われたら、もう僕は壊れてしまいそうだ。粉々に崩れ、春風にのって飛んでいってしまいそうだ。
 そんなことを考えていると、僕は岡田さんのことなんてどうでもよく思えてきてしまった。
 理沙に嫌われてしまうのが、今は何より恐かった。昨日の理沙は本当によく笑ってくれた。その笑顔を僕が壊してしまうと思ったら、とても耐えられなかった。
「はは。何考えてるんだろう」
 本当に僕は何を考えてるんだろうか。僕にとって理沙は大事だ。理沙と話している時は素直になれるし、ドキドキが止まらない。あの初恋の人と相々傘をした時のように。
 僕の理沙への気持ちは少しずつ恋に近づいていってるのかもしれない。

 でも、理沙はどうだろうか?

 そうだ、理沙はあの春菜コーポレーションの社長の娘だ。僕なんかとは住む世界が違う。
 それに理沙はかわいいと思う。その気になれば普通に人気のイケメンアイドルとかと付き合えると思う。こんな弱気でヘタレな僕とイケメンアイドルじゃ勝敗は明らかだ。
 そんな理沙が僕のこと気にしているはずないじゃないか。僕と会うのだって、豊臣さんから逃げるというちょっとしたスリルを味わいたいだけだ。そうじゃなきゃ僕と会うはずなんてない。
「はぁ……」
 僕は寝返りを打ち、もう一度寝ることにした。



       ■



「お嬢様、確かに病院でおヒマなのはわかります。しかし……」
「うるさいなー。私がどうしようと勝手」
 理沙は豊臣に、テーブルの上に置いてあった朝ごはんのデザートのバナナを投げつけた。しかし、バナナは豊臣に当たることなくあさっての方向に落ちた。
「言児(げんじ)さんのお気持ちにもなられてください」
「うるさいうるさい! あんな人のこと知らない!」
 理沙は今度はお皿まで投げつけ始めた。上にはまだ朝ごはんが乗っていて、それが床にぶちまける。
「どうせならお母さんじゃなくて、あの人が死ねばよかったのに!」
 そう叫ぶと理沙はふとんに顔を押し付けて泣き始めた。
「お嬢様……」
 豊臣はかける言葉が見つからず、床に散らばるお皿と朝ごはんを拾い始める。
 その作業が終わり、豊臣がテーブルにそれを置くころには理沙は泣き止んで落ち着いていた。
「ごめん。豊臣君」
 理沙は申し訳なさそうに小さく頭をさげた。
「いえ、構いません」
 今度は豊臣が一礼する。
「お父さんは忙しいからお見舞いに来てくれない。私にも冷たい。わかってる」
 理沙は枕をギュッと抱きしめた。
「それでもやっぱりさみしいよ。さみしい……」
 その時、唐突に豊臣の携帯電話が振動を始めた。
「すいません」
 携帯電話を取り出しながらそれだけ言うと、豊臣は病室を出て行った。


「光太の家族、どんな人なんだろう」
 独りになった病室で私はつぶやく。
 きっと、お父さんは頼りないんだろうな。とっても大らかでやさしくって。でもどこか抜けてるの。光太といっしょ。
 それで、お母さんはしっかり者。目を離すと、子供といっしょに迷子になってしまいそうな、大好きな人を微笑みながら見ている。間違えそうになったらちゃんと道を正してくれる。いつもは厳しいけど、本当はすごくやさしいの。
 そんな家族はとってもとってもあったかくて、ぬくもりに満ちていて、楽しくって。
 光太を見てたら、そんな気がする。私の家族もそんなのだったらいいのに。
 お金なんていらないから、あったかかったらいいのに。
 こんなこと今頃思ってもしょうがないのに、それでも思ってしまう。
 私がそんなことを思っていたら、再びドアがノックされた。もちろん入ってきたのは豊臣君。
「お嬢様。言児さんが明日お見舞いに来られるそうですよ」
 豊臣君の顔はとても嬉しそうだった。きっと、彼自身久しぶりにあの人に会えて嬉しいのだろう。でも、私にはどうしても信じられなかった。
「お父さんが? うそ……」
「本当ですよ。良かったですね」
「う、うん……」
 私は曖昧に返事を返す。まだ、実感がなかったから。

 いつも、なによりも仕事を優先させていたお父さん。お父さんは滅多に私とは会わない。
 誕生日は大きなくまのぬいぐるみとバースデーカードを送ってくるだけで、ずっと仕事をしていた。
 ピアノの発表会のときなんて、来ると言っておきながら結局お父さんが来ることはなかった。もちろん仕事をしていた。
 お母さんが病院のベッドで苦しそうにしていた時も仕事をしていた。

 そんなお父さんでも、娘が死ぬ前くらいは会いに来てくれるんだね。

「ねぇ、豊臣君。ちょっと一人にさして」
「わかりました」
 豊臣はさっきと同じように病室を出て行った。

「私、死んじゃうんだよね」
 そんなことを思うと、急に光太のことが頭に浮かんだ。
 光太はいつも困ったような顔をして笑っている。私といる時は光太はずっと笑っている。光太は何種類も笑顔を持っている。
 それがまぶしかった。だから私も光太の前では笑っていようと思った。
 今日はうまく笑えてたかな? 明日はもっと笑えるかな?
 光太は私のことどう思ってるだろう? ただの話相手? 異性の友達? それとも……。
「だめだよね。そんなこと思ったら」
 だって、私は死ぬから。
 死んじゃうから求めちゃいけない。残されたものはいつだって悲しいから。一生背負わなきゃいけないから。笑顔を曇らせないといけないから。

 私はテーブルの上に置かれているシンプルなデザインの時計を見た。
「もうそろそろ行こう」
 扉を開け、向こうにいた豊臣君に一言、
「りんごジュース買ってきて」
 そう告げた。豊臣君はひとつうなずくと、廊下の奥に消えて行ってしまう。私はそれだけで光太に会いに行くことができた。簡単に抜け出すことが出来た。
 あまりにも簡単に手に入る幸福があって、少しだけ恐くなった。
2005/05/19(Thu)21:35:18 公開 / 灰羽
■この作品の著作権は灰羽さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
え〜と、お久しぶりの灰羽です。
初めての方もそうじゃない方もどうも、こんばんわ。

えーと、前にあんなドロドロしたものを書いていた私がいきなり恋愛小説なんぞを書き出してびっくりした方もいるでしょう(え、いない?(滅

ちなみにこの話は15〜20%ほどノンフィクションであり、更科光太の半分は灰羽成分でできております(笑

更科光太の半分は灰羽成分ですが、好き嫌いはそこまで激しくありません。出された物はとりあえず食べます。


ごめんなさい。ただいまかなりの鬱状態です。
しかも、一旦みなさんへの返事を書いたんですけど、

エラー2つの入力されたパスワードが間違っています→戻る→ページの有効期限切れ→こ、これはまさか……→案の定書いたの消え

ふふふ、今のグロッキー状態の私には厳しすぎる一撃です……

次回更新時に今回の分の返信も書くので、今回はご容赦の程を(礼


返信はいつもどおりこちらへ〜。

京雅さん、お読みくださりありがとうございました。
これはいろいろあったのかな?(汗
肩の手術の話ですが、案外すぐ動くもんなんですよ。若いうちは回復が段違いにいいそうです(笑
体は大切に使いましょう〜。


甘木さん、お読みくださりありがとうございました。
えっと、入院費用の話ですが、確かに入院日数の多い方が費用はかかりますね。更科光太は母のがんばりも知っています。
しかし、更科光太は母に特に好意的でもないというのが現状であり、むしろ二人の仲は冷たいものであるんですよね。
まあお互いがお互いを嫌っているわけではありませんがね。よって、春菜理沙を優先させてしまいます。


夕空さん、お読みくださりありがとうございます。
はじめましてですね。よろしくお願いします。
タイトルは「二人だけの星」になっていますが、実はその前は「二人の夜に輝く星は」だったんですよね。でも、タイトルでこれはちょっと違うかな? と思い変えました(汗
上記のように、更科光太の野球人生の多少は灰羽自身ですねー。いや、まさか自分でもこうなるとは思ってませんでした。



本当にみなさん有難うございます!
こんな物語ですが、最後までお付き合いいただけたら光栄です(礼
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