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『夢魔の優しい唄』 作者:神夜 / 未分類 未分類
全角9845文字
容量19690 bytes
原稿用紙約28.15枚





 夢を支配し、それを喰らうことを糧とし生きる魔物。
 その名を、――夢魔(むま)という。

  小さな白い部屋の中、魔物が天使の微笑を浮かべ、
    ゆっくりと、
         夢魔が、
             儚くも脆く、
                   優しい唄を、詠う――。

            ◎

 鋭利な刃物が月の光を反射させ、獲物の喉笛を掻っ切る。
 真っ赤な血飛沫が吹き上がり、それがわたしの顔を染めた。
 生温かくて、錆びた鉄の味がする、本物の人間の血液。
 鮮やか過ぎる赤さに目眩がする。血が頬を滴る感触に吐気がする。
   それなのにも関わらず、
               いつものように、
                       わたしは、笑う。
   毎日毎日、
         繰り返し繰り返し、
                   同じ夢ばかりを、見る。
 素手で、凶器で、人を殺め、血を浴び、月明かりに照らされ、わたしは、笑う。
 誰か。お願いです、誰か。この声に、答えてください。お願いします、誰か。

   誰か、
      わたしを、
           止めて、ください――。



     「――夢魔の優しい唄――」



 覚醒したかのように、近藤優奈(こんどうゆな)は唐突に目を覚ました。
 自分が置かれた状況をすぐには理解できなかった。が、見慣れた天井と、電気の点いていない蛍光灯と、全身を流れる嫌な寝汗と、遮光カーテンの隙間から射す太陽の明かりと、窓の向こうから聞こえる小鳥のさえずりが徐々に理解を運んで来る。ゆっくりと動かした手を額に乗せ、目を閉じて大きなため息を吐き出す。毛布に包まっている体が嘘のように冷たい、吐き出す息が震えている。起きたばかりだから、ではなく、恐くて不安で、瞳が潤んで涙が出そうになる。
 ――また、あの夢だ。月夜の光に照らされ人を殺す、あの最低最悪の夢。
 どうしてこんな夢を見るのだろう。ここ一週間はずっと、毎日のようにあのような夢ばかりを見る。そしてその夢に毎日共通していることは、『人を殺す』ということ。その手段は様々で、時には素手で首を絞めて殺し、時には鈍器で殴り殺し、時には刃物で刺し殺し、時にはもっと残酷な方法で人を殺す。それが夢とは思えないほど現実味を帯びていて、まるで現実の世界で自分が人を殺しているような錯覚を受ける。いや事実、もしかしたら本当に自分自身が殺しているのかもしれないと最近では思う。なぜなら、その夢は、
 寝室のドアが小さな音を立てて開く。反射神経のようなものが働き、優奈が視線を慌ててそちらへ向ける。寝室のドアの向こうからこっちを見て、「起きたかい、優奈」と優しく微笑みかけてくれる黒いスーツ姿の男性。優奈の夫、近藤京二(きょうじ)だ。大学の頃に知り合って付き合い始め、京二が会社に就職して二ヵ月後に結婚し、今ではマンションに部屋を借りてふたりで暮らしている。
 幸せだった生活。優奈の描いていた理想の家庭がそこにはあった。それなのに、あの夢のせいで、近頃はそれが脅かされつつある。
 ベットの側まで歩み寄って来た京二が優奈の顔を覗き込み、心配そうな顔をしてつぶやく。
「……顔色が悪いね。もしかして、またあの夢を見たのかい?」
 悪夢に魘された子供のように、優奈は微かに震えながら小さく肯く。
 京二がベットに腰掛けると、スプリングが少しだけ軋んだ音を立てた。差し伸べられた手が、優奈の頬に触れる。
 京二の手から伝わるそのぬくもりだけが、優奈の心を救ってくれる唯一の光だった。
「恐がらないで、優奈。優奈にはぼくがいるから。だから、安心して。……ね?」
 微笑みかけてくれるその笑顔が何よりも大切で、何よりも心地良い。
 本当なら、力いっぱい抱き締めて欲しい。本当なら、このままずっと一緒にいて欲しい。だけど、寝室の時計はもう、時間を残してはいない。京二は直に会社へ赴かなければならない。それを単なる我侭で引き止めてはいけない。そのことをわかっていながらも、やはり心の奥底では怯えた感情が「側にいてください」と大声で叫んでいる。しかしそれを理性で圧し留め、優奈は小さく笑ってみせた。
「……うん。ごめんなさい、京二さん。今日も、朝御飯作ってあげられなくて……」
 それでも京二は笑ってくれる。
「いいさ。ぼくの仕事の時間に合わせていたら、優奈が体を壊してしまうからね。気にしなくていい。その代わりに、夕飯は飛びっきり美味いものを用意しておいて」
「……うん」
 頬に軽いキス、「いってきます」という声を残して京二が寝室を出て行く。
「いってらっしゃい」と小さく返して、優奈はゆっくりと視線を天井へ向ける。時刻は朝の五時半であるはずだ。京二はいつも朝一で会社へ行く。重役の迎えがあるんだ、まったく下っ端を何だと思ってるんだろうね、とよく京二は苦笑しながら愚痴を言う。それでも嫌な顔ひとつせずに早朝から会社へ赴く京二はすごいと優奈は思う。近藤京二という人間は、皆のお手本にしてもいいくらいの真面目で誠実な人だ。だからこそ、優奈は京二に惹かれた。男の人が恐かったはずの自分が、唯一自然体で接することのできた人。京二が、この世の誰よりも大切で大好きだった。
 天井を仰いでいた瞳をゆっくりと閉じ、何も考えないように心を塞ぐ。起きて何かをする気力はまだ無くて、だからと言って京二がいないこの家でひとり眠る勇気も無い。京二が側いて、一緒に寝てくれるからこそ、優奈は眠ることができる。ひとりではもう、眠ることなどできないのではないのだろうかと思う。理由は、ひとつしかなかった。あの夢を見るのが、恐い。寝れば必ず、あの夢を見るだろう。この一週間でそれを嫌というほど思い知らされた。寝ればまた人を殺す。自分自身が現実には関与していないただの夢であるはずのそこで、間違い無く自分は人を殺すのだ。
   そして、
       その夢は、
             ――正夢になる。
 今日のあの夢もまた、正夢になった。朝の八時七分、着替えを済ましてリビングで朝食を食べていた優奈の視界の隅で垂れ流しにされていたテレビの画面に映ったニュースキャスターが、こんなことを言う。
『昨夜未明、三重県四日市市の住宅地の裏路地で、男性が殺害されているのを近くを通り掛った老人が発見しました。殺害されていた男性は春日部徹(かすかべとおる)さん三十四歳の会社員で、死因は喉を刃物のようなもので刺されたことによる即死。目撃情報は無く、犯行に使われた凶器もまだ見つかっていません。警察は殺人の方向で捜査を進めると共に、近隣の方に目撃情報を――』
 全身が凍りついた。食べていた食パンをテーブルの上に落とし、優奈の視線がテレビの画面を凝視する。
 映し出された春日部徹という人物の顔写真。そして、殺害現場とされる住宅地の裏路地。春日部徹という人物に会ったことなど無いし、その名前を聞いたことも無いし、現実にそこを訪れたことも無いし、普段なら何の気にも止めないはずのニュースだった。しかし一週間前からは、それまでがまるで違っていた。これで七回目、つまりは七人目。
 優奈は、春日部徹という人物の顔を知っていて、殺害現場を知っている。どこで知ったのかなんて実に簡単だ。今日の夢で、見た。月明かりに照らされて立っていたのは間違い無くこの場所であり、首を掻っ切られて血を噴き出して倒れ込んでいったのも間違い無くこの男である。夢であるはずの光景を鮮明に憶えている自分が異様で、しかし忘れられない映像として脳裏に焼きついている。
 テレビはすでに天気予報に移ってしまったのにも関わらず、優奈は画面を凝視しながら蒼白な表情で震えていて、自分でも気づいていない内に静かに涙を流す。震えているこの手が、春日部徹を殺してしまったのではないだろうかと本気で思う。今までの六人同様に、寝ている間に自分が殺してしまったのではないだろうかと本気で思う。いずれの殺人もまだ犯人が捕まっていない。なぜなら、犯人はこの自分だからなのではないのだろうか。そうではなければ、見覚えの無いはずの顔と場所に見覚えがあるはずがないのだから。そうでなければ、あんな夢など毎日繰り返して見るはずはないのだから。夢だと思っていたあの光景は、本当は現実ではないのだろうか。
 ――わたしが、殺してしまった……?
 小さな悲鳴を上げ、優奈はテーブルから離れて寝室に向おうとする。が、その途中で足を取られて転倒し、近くのソファに倒れ込んで停止した。動く気力が無い、動いてしまったらまた見知らぬ誰かを殺してしまうのではないかという不安に駆られる。絶対に違うと否定する反面、自分以外に犯人はいないのではないかとも考える。しかしもし自分が犯人だとしても、どうやって人を殺したのか。赤の他人を簡単に殺せるとは到底思えないし、例え殺したいほど憎んでいたとしても、自分に人を殺せるだけの度胸は無いと思う。
 それにもしあれが現実の光景だったとするのなら、優奈はこのマンションから夜中に外出していることになる。そのことに、京二が気づかないはずはない。気づいていたのなら、「どこへ行っていたのか」という質問が来るはずだ。でも京二はそんなことなど言って来ないし、そもそも優奈にはもちろんマンションから外出した記憶などまるで無い。あるのはただ、人を殺すときのあの光景だけ。つまりはあれは、正夢に似た予知夢ではないのか。一週間前のあの日から、そんな能力が自分に芽生えてしまったのではないのか。
 誰かが人を殺す場面を、自分は自らの視点で見ているだけではないのか。
 この一週間、毎日毎日繰り返し繰り返し同じ夢を見る度に、毎日毎日繰り返し繰り返し同じことを考え、毎日毎日繰り返し繰り返し同じ結論に辿り着く。夢の恐怖に侵され、塗り潰された思考で考え、そして救いの自己満足に過ぎない結論に辿り着かなければ、精神が当たり前のように保たない。今もこうして普通に生きていることが、優奈自身にしてみれば不思議だった。京二にも言ったことがないその夢の事実。人を殺す夢を見る、というのは京二には話したが、その夢が現実のこととして起こるとは言っていない。言ってしまうのが恐い。京二がどんな反応をするのかが恐い。京二なら受け止めてくれるかもしれない、だけどもしかしたら自分から離れて行くかもしれない。京二が後者を選んだのなら、もう自分は生きて行けない。
 京二が側にいてくれるからこそ、自分はまだ近藤優奈という存在を保てるのだと思う。
 京二が早く帰って来てくれることだけをただ願う。京二が側にいて抱き締めてくれることだけをただ望む。
 ソファに縋り、静かに涙して、気づけばいつしか、優奈は気絶するような形で眠りに落ちていた。

 木々が風に揺られてざわめく森の中で。
 手に握られた斧の刃を獲物の頭に突き立て。
 飛び散った血と肉片を顔に浴び、何度も何度も、斧を振り下ろす。
 殺意を込めて。憎悪を込めて。そして、愛しみを込めて。
 わたしは、笑う。大声を上げて笑い、獲物を殺した。
 笑った表情の下で、わたしは、絶叫する。
   誰か、
      わたしを、
           止めて、ください――。

「優奈……? おい、優奈っ!!」
 肩を激しく揺さ振られ、脳内に浮かんでいた映像が掻き消え、瞳を開いたそこに京二の顔を見た。
 状況をまるで理解できなかった。吹き抜ける風に揺られてざわめく木々の音が、握っていた斧の感触が、斧を振り下ろしたときの感覚が、飛び散った血と肉片が、顔に浴びた生温かい異物が、斧に込められた殺意と憎悪と愛しみが、森に響き渡る自分自身の笑い声と絶叫が、それらすべてが現実のものであったような気がして、目前にある京二の顔が現実のものとは思えなかった。口が動かせず、呂律も回らない。魂が抜けてしまったかのような感覚だった。抜けていた魂が戻って来る切っ掛けをくれたのは、京二の手が優奈の頬に触れたときに伝わったぬくもりだった。
 唐突に我に返った。すべてが逆転した。前者が現実のものとは思えず、後者だけが現実のものだと感じる。
 京二だけが、今の優奈の世界だった。
「……京二、さん……? どう、して……? 今は、お仕事のはずじゃ……」
 そうつぶやいてからようやく、優奈は気づく。
 リビングに射す明かりは太陽のものではなく蛍光灯の光で、窓の外はすでに日が暮れて黒く染まっていた。秒単位で時を刻む大きな時計は、午後の九時四十五分を指している。記憶の欠落、なんて大層なものではなかった。何のことは無い、ただソファに倒れ込んで眠ってしまっていただけ。そしてその中で、またあの夢を見てしまっただけ。今度は月明かりの下ではなく、白昼堂々の森の中でのあの光景を。血の気が引く、吐気が押し寄せる、蒼白の顔に悲しみの表情が宿る。
 涙で歪む視界の中で、京二は心底安心した風に息を吐いた。
「……脅かさないでくれ、頼むから。優奈が倒れたのかと本気で思った……」
 ごめんなさい、京二さん。その言葉を言いたいはずなのに、喉で引っかかっている。
 今すぐにでも京二に抱きついて泣きたいはずなのに、体が動いてくれない。不安だった。恐かった。今ここで京二に抱きついたら、京二を殺してしまうのではないかと本気で恐かった。どうすることもできず、安心した顔をする京二を子供のように見つめる。やがて唐突に京二に引き寄せられ、優しく力いっぱいに抱き締められた。「良かった」とつぶやく京二の声が心に届く。それが本当に心地良くて、これ以上無いくらいのぬくもりに満ちていて。引っかかっていた言葉があふれる、動かない体が動く。
 京二に縋って泣いた。
「……ごめんなさい、京二さん。ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
 ゆっくりと慰めてくれる京二が、今は何よりも愛おしい。

 ベットの中、優しく抱き締めて一緒に眠ってくれる京二のぬくもり。
 これがあるから、自分はまだ正気でいられるのだと優奈は思う。
 これがあるから、自分はまだ眠れるのだと優奈は思う。
 そして優奈はいつしか眠りに落ち、いつもと同じ、だけどいつもと違う夢を見た。

 ――……違う。
 まず最初に、そう思う。
 人を殺す夢を見る場合、この一週間でも獲物は必ず目の前にいて、それを認識した瞬間に殺していた。それなのにも関わらず、今回の夢だけは違っていた。
 視界に入って来たのは、見慣れた寝室だった。しかしベットの上にあるのは毛布に包まって眠る優奈自らの姿だけで、京二の姿はどこにも無い。寝室の時計は五時半を指していたのがはっきりと確認できた。五時半、つまりは京二が仕事へ行く時間だ。だったらもう、京二は仕事へ行ってしまったのだろうか。このままでは自分が自分自身を殺してしまうのだろうかと不安に駆られたが、優奈の意志などまるで無視して視点は動く。寝室を出てリビングを通り越し、廊下を抜けて玄関から外へ。四階から階段を伝って一気に一階まで降り立ち、誰もいない早朝の道を獣のように直走る。
 ――どこへ行くの?
 その問いの答えは、当たり前のように返って来ない。
 優奈の意志を再び無視して、視点は走り続ける。マンションが見えない位置に到達したら右折、赤信号の交差点を突っ切って商店街を抜け、この時間でも少しだけ人通りの多い大通りへ飛び出す。バス亭などにはスーツ姿の男性が目立つ。恐らくはこれから京二のように出勤するのだろう。そして京二のことを思った刹那、不穏な考えが湧き上がった。なぜ、この夢の始まりは寝室からだったのか。思い出す。先ほどこの視点が通った道程は、京二がいつも通る道程ではなかったか。ならば、この夢の獲物は、
 ――やめてっ!!
 絶叫するがもう遅い。
 視点が走り出し、バス停に並ぶスーツ姿の男性の中、前から四番目にいた近藤京二を見据える。獣のように近づいていく視点がついに京二に到達し、並んでいた京二がこちらに気づいて優しく笑う。優奈は、その笑みを知っている。それは、優奈にだけ向けられる京二の優しい微笑みだ。つまりはこの視点の主は、やはり優奈自身のものなのか。しかしだとしたら、もしかしたら、それなら、
 京二が何かを言おうとしたとき、その体を人間ではない何者かの手が突き飛ばした。驚くようなスローモーションの光景、京二の体がゆっくりと背後へ倒れ込んで行き、そして、高速で突っ込んで来た大型トラックに持っていかれた。本当に持っていかれたのかと思った。遅れて衝撃音、京二の体の各部分が在り得ない方向へ捻じ曲がり、体中から噴き出した血が朝焼けに煌めき、降り注ぐ血液が視点を赤に染める。
 アスファルトに墜ちた京二の首は、百八十度逆を向き、トラックのタイヤに押し潰されていた。
 生きているはずがなかった。近藤京二という存在が、この世界から消えた。
 そして、視点が、自分が、人間ではない何者かの手が、京二を殺した――。

 覚醒したかのように優奈は目を覚まし、荒い息のまますぐさま横を見た。
 そこに、京二の姿は無かった。寝室の時計は、朝の五時半を指していた。
 ――夢が、正夢になる。
 じっとしていられるはずが無かった。着替えることも靴を履くことも忘れ、パジャマに裸足のまま玄関から飛び出して階段を下り、アスファルトを踏み締めながらマンションから遠ざかる。足の裏から全身に響き渡る苦痛を無視し、前だけを見据えて商店街を突っ切り、人通りの多い大通りへと辿り着いた。夢が正夢になってしまう前に止めなければならない。どうやって止めればいいのかはわからないが、それでも止めなければならない。京二を失うわけにはいかない。京二だけは、失ってはいけないのだ。もし自分が身代わりになれるのなら、それでもいい。京二だけを、死なせてはならない。
 僅かに息を整えながら、視線を視界の中で彷徨わせる。その一瞬で、バス停に並ぶサラリーマンの列を見た。夢の中と同じ、前から四番目に立っていた京二を視界に捕らえ、今まで走ったことのないような速さで優奈はアスファルトを蹴り、その刹那に突如として京二の背後に何者かの手だけが滲み出し、そっと背を押そうとする。それを脳が認識した瞬間に、優奈は無意識の内に京二の名を呼びながら絶叫していた。バス停に並んでいたサラリーマンが一斉にこちらを振り返り、そして京二もまた、優奈を振り返っていた。
 距離を隔ててふたりの視線が噛み合い、泣き叫ぶ優奈へ向い、京二が微笑む。
 全身が凍りついた。京二の浮かべた笑みは、夢の中で見たような優しいものではなかった。
 今まで見たこともないような笑みを浮かべた京二が、優奈へ向って小さく手を振り、
 優奈の体が背後に突き飛ばされた。
 気づいたときには、遅かった。
   クラクションの音、
            ブレーキの音、
                    タイヤがアスファルトを滑る音、
   車のボンネットが脇腹に食い込む音、
                       体の骨が一瞬で砕ける音、
   地面に激突する音、
              意識が飲み込まれて行く音、
   京二の笑い声と、
            小さな少女の笑い声――。

 壮絶な鮮血を撒き散らし、近藤優奈という存在がこの世界から消えた。

     ◎

 近藤京二が夢魔と出逢ったのは、今を遡ること二週間前。
 ある日突然、夢魔は京二の目の前に現れ、こう言った。
 ――美味しい夢を見せてくれるのなら、貴方の言い成りになる。
 疑いや不安はもちろんあったが、夢魔と話している内にそれを利用することを思いついた。成功すれば下らない会社へ行く必要も無く、能無しの上司にへこへこと頭を下げる必要も無くなり、何よりも最も煩わしい存在である優奈を始末できる。大学の友人と行ったゲームの罰ゲームで優奈と喋った。少し猫を被っていれば優奈はすぐに落ちた。外見は可愛かったし、遊んでいる風にも見えなかった素直な子だった。それを認めるし、一途に京二だけを想っていてくれたことも少しだけ嬉しい。が、だからこそ煩わしいのだ。束縛されているようで気分が悪い。優奈の実家が金持ちではなかったら、優奈の通帳に多額の金が入っていなければ、京二は間違っても優奈と結婚などしなかっただろう。ただ、結婚して猫を被ったまま生活していくのもいいのではないかと少しは思っていた。そうすればどの道、一生安泰の生活を送っていけるのだから。
 が、猫を被らずとも一生安泰の生活を送れる手段がここに降って湧いたのだ。それを、使わない手はなかった。
 二週間前、優奈に多額の保険金を賭け、一週間前から夢魔の力を通して優奈の夢を操った。優奈が見るはずだった夢を夢魔に喰わせ、その代わりに別の人間の視点をそこへ捻じ込む。人を殺す場面が一番効率が良かった。夢魔の力を借りれば人を殺そうとしている奴を見つけるのは容易い作業であり、それを優奈に見せ、「自分の見ている夢は予知夢ではないのか」と思わせる。毎晩毎晩人を殺す映像ばかりを見れば多少なりとも気が狂うはずだった。心の優しい優奈ならなおのことだ。
 もうそろそろ優奈の精神が限界だと悟ったら、最後の仕上げに入る。殺人者の視点を優奈の頭に捻じ込むのではなく、夢魔に夢を作らせてそれを優奈へ見せる。その偽造夢は、京二が死ぬ場面。それまでの夢を「予知夢である」と微かにでも意識しているのなら、必ず行動を起こす。京二を一途に想う優奈ならその可能性は格段に上がる。そしてそれは見事に的中し、優奈はバス停まで駆けつけて来た。優奈の死因は事故死でなくてはならない。自殺なら保険金は降りず、京二が殺したのでは意味が無い。そこで使うのが、毎日必ずこの時間にここを通る引っ越し屋の大型トラック。それと優奈を衝突させる。確実に殺すために、頭から突っ込ませる。
 ――計画は、実に簡単に成功した。
 少し離れた道路にできた野次馬の群れ、パトカーと救急車のランプの閃光。
 優奈は、即死だった。大型トラックとの衝突なのだ、当たり前である。
 野次馬を掻き分けて妻の下へと走ることなどせず、京二はゆっくりと踵を返してそれとは逆方向へ歩き始める。やがて人のいない裏通りに入った所で、唐突に京二の背中の空間がぐにゃりと歪み、そこから黒いワンピースを着た小さな少女が這い出てくる。長く蒼い髪をした、美しい綺麗な女の子だった。少女は父親にじゃれつくかのように京二の背中から腕を首に回し、まるで風船のように宙に浮きながら嬉しそうにつぶやく。
「――これでよかったの、ご主人様?」
 京二は笑う、
「ああ。完璧だったよ、夢魔」
 京二の背にしがみつくこの少女こそが夢を喰らう魔物、夢魔。
 そして、優奈を道路へと突き飛ばした者。
「……これで保険金と優奈の金がすべてぼくに転がり込む。夢魔、何か欲しいものはあるかい? 何でも用意してあげるよ」
 ふるふる、と夢魔は首を振る。
「いらない。ご主人様から、もう美味しい夢をもらってるから」
「……お前は可愛い。手放せない最高の魔物だ」
 側にいた夢魔と深い口づけを交わし、
   天使の笑みを浮かべる魔物を背に、
     近藤京二は高らかに笑いながら、朝霧の仲へと消えて行く――。

     ◎

 小さな白い部屋の中、心電図の音が一定の間隔を隔てて鳴り響く。
 病室に並んだ二つのベット、そこに眠るは夫婦だった男と女。
 彼と彼女は、二週間前から起きることなく、原因不明の昏睡状態に陥っている。
 ベットの傍らにいた長く蒼い髪をした少女がひとり、男の頬に軽くキスをした。
 そして、大凡人間では考えられないような綺麗な笑みを浮かべて、笑う。
「だから言ったでしょ、もう美味しい夢をもらってるって。……ね、ご主人様」

 小さな白い部屋の中、魔物が天使の微笑を浮かべ、
   ゆっくりと、
        夢魔が、
            儚くも脆く、
                  優しい唄を、詠う――。








2005/04/13(Wed)16:26:49 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
「って、どこが優しい唄やねん!」
「アホ言え、子守唄は優しい唄やろ!」
「んなアホな!」
「「どうも、ありがとうごいざいましたー!」」

……書いてて自分でも恥ずかしいことはさて置き、さてさて、こんちにちは、あるいは初めまして、真面目な話最近「ポテトチップスを飯のおかずにすれば何気に美味いのではないか」ということを密かに考える神夜です。
今回のこのショート、結局何がしたかったのかと言えば、最初の五行だけが書きたかっただけです。こういう系統の話は自分にはやっぱり自分には合わないらしいス。投稿しようかどうか悩んだのですが、取り敢えず時間稼ぎに投稿、と(何に対しての時間稼ぎなのかは自分でも不明(オイ)
しかし、それでも読んでくれた皆様、誠にありがとうございました。ひとりでも楽しい……と思ってくれる方がいないだろうなと不安になりながらも、楽しんで頂けたのなら涙が出るほど嬉しいです。
次回作はやっぱり長編。題名を【緋真幻想歌】にするか【ひさなの幻想歌】にするかどうかを悩みつつ、神夜でした。
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