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『金属製の無機質な白い“扉”』 作者:崎 / 未分類 未分類
全角26648.5文字
容量53297 bytes
原稿用紙約84.8枚
あー、夢か。
見渡す限り真っ白の世界で、彼はそう思った。
まるで白い砂漠のような所で一人ポツンと立っているのは長身痩躯で黒髪を中途半端に伸ばした少年。彼の名は風間佐美。名前だけだとよく女だと思われるが、歴とした男だ。
彼は面倒くさそうに溜息を吐いて、大股で歩き出した。この夢の結末は知っている。もうそろそろ扉が見えてくるはずだ。いつも、その扉を開ける直前で夢は終了する。小さい頃から何度も見ているので慣れた物だった。
ビシュン……
風が吹くような微かな音がして、佐美の目の前に金属製の無機質な白い扉が現れた。
彼は目の前に突然現れたドアに驚くこともなくドアノブに手をかける。ここで夢が終了し――なかった。
「……お」
冷たいドアノブの感触に、彼は思わず声を上げた。ここまで来たのは初めてだ。
彼は所詮夢と知りつつも少しだけ喜びを感じながら、そっとドアノブを回した。と、今度こそそこで世界が途切れた。
 
目を開けると、蛍光灯とクリーム色の天井が見えた。目覚めたのかと気づくまでしばらく時間が掛かった。
まだ寝ぼけている思考で、時計に目を向ける。この朝、土日以外で見ることの出来ない方向に針が向いていた。
……9時。授業が始まるのが、8時。ここから学校まで、30分。もうどうしようもない。
「はぁ……」
彼は溜息を漏らしてベットから這い出た。
このくらい遅れると逆に急ぐ気も起こらない。寝坊は一人暮らしの難点の一つだ。――あの夢を見た後はいつもこうだった。決まって目覚めが遅い。いつもより遅いのは、夢がいつもより進行したからであろう。いい迷惑だ。
あの夢をよく見るようになったのはいつ頃からだろう、と歯磨きをしながら殊更ゆっくり考える。
幼稚園の頃か、ブランコから飛び降りて側にあった電柱に頭を打った。その後3日間昏睡状態になって、その間ずっとあの夢を見ていたという記憶がうっすらとある。そう言えばあの時からか・・・。頭ぶつけた時の数ヶ月間は妙な特技を持っていたらしいが、今はもう覚えていない。
……まぁどちらにしろ、ものすごく迷惑なだけだろう。途中で考えるのが面倒くさくなった。夢は夢だ。
「行ってきまーす…って誰もいないか」
彼は支度を整えて自宅から出た。自宅と言っても、死んだ叔父が使っていた古い家だが。
彼が一人暮らしをする羽目になったのは、偏に彼の父親の影響だった。彼の父親は有名な大企業の副社長だった。次期社長とも言われており、偶然というか必然というか、プライドが高い。よって彼は都会の有名な私立高校へ入学するためにわざわざ親元を離れてここに移り住んだのだった。幸い彼は何もしなくても学力に問題はなく、比較的楽な一人暮らし生活を楽しんでいる。ちなみに、彼の父親が望んでいるように会社を継ぐ気もさらさらない。彼は気楽に過ごしたいのだ。
「あー、さぼろっかな……」
彼はそういうことに罪悪感は感じなかった。別段行きたくて行っている学校ではないので、他の一所懸命な生徒には悪いが面倒くさい。しかし学校に行かないと想像を絶する退屈が待っている。
住宅街の立ち並ぶ灰色の無愛想な地域から、活気溢れる国道の交差点に差し掛かった。もう少しで学校に到着する頃だ。早く休みたいので足を速める。
と、その時、彼はふと違和感を覚えた。
「……?」
しかし、周りを見ても後ろを振り返っても見慣れた服屋のショウウインドウと迷惑そうな顔をした歩行者が避けて通り過ぎていくだけで、いつもの代わり映えのしない日常が続いている。
気のせいか、とガラスに映る自分を見ながら首を傾げた瞬間、目の前のショウウインドウが波打った。
突然で非現実的な現象に絶句するのも束の間、そのショウウインドウから“何かが飛び出してきた”。
「は?あっ!ちょっ……!」
人に見えなくもなかったので受け取ろうか受け取るまいか一瞬で百万秒分くらい考えた挙げ句、彼はそれを受け取った。思ったより重く、筋肉が悲鳴を上げる。だが片膝を付いてどうにか転倒は免れた。
出てきたのはぐったりとした人間の女性。佐美と同い年か、せいぜい1コ上くらいの赤みがかった髪の少女だった。というか見覚えがある。確か……。
「おい、お前あ…秋…秋月だろ。お前なに寝て?」
彼はとりあえず周囲の奇異の視線を無視して彼女を電柱にもたれ掛からせた。肌はまるで陶器のように白く、よくできた人形のようだ。なにか近寄りがたい美しさがある。
(……おい?)
本当に人形のピクリともしないので、心配になって顔を近づけた。甘い果実の香りが強まり――その瞬間、彼女はかっと目を開いた。至近距離にいた佐美は驚いて尻餅をついてしまう。
「……え、あれ?ここどこ?あれ、風間クン?あなたどうして?というか何して?」
「よく喋る奴だな、どれか1個にしてくれ。俺にだってわかるか」
佐美は舌打ちしながら立ち上がるついでに彼女の腕を取って立ち上がらせた。
佐美が知っている限り、名は秋月沙希。彼女は美術部で、成績も良好。容姿も中々いい。確か情報部の部長の話では『彼女にしたいランキングin男子生徒(極秘)』で3位か4位くらいだったと思う。我ながらよく覚えている。
と、記憶の底から知識を引っ張り出して、それ以前に聞かなければならない事を思い出した。佐美は若干警戒して言う。
「……お前どっから出てきた?」
「え?」
今気が付いたように彼女は佐美の後ろ、つまりショウウインドウを見た。
「え?」
彼女は不思議そうに呟いて、周りを見渡した。そして先ほど佐美に掴まれた腕を見て、小首を傾げる。
「あれ?」
「……大丈夫か?」
怪訝そうに聞くと、彼女は佐美
の存在に今気付いたようにバッと佐美に振り向いた。突然の行動に心持ち引く。なんかイライラしてきた。俺がなにかしたか?
「あのさ、さっきから挙動不審だけどパニックになりたいのはこっちな訳でまぁ気持ちはわからなくもないんだけどちょっと説明してくれる?」
一息で長ったらしく言うと、彼女は少し怯えながらも(だから何で)頷いた。
やっと普通の質問が出来ると思っていると、周囲の視線にいまさら羞恥した。
「場所……変えるか?」
コク、と彼女は頷いた。
出来れば、もう帰りたいんだけど……面倒くさいことになりませんように……。
もちろん、そうはならなかった。


「じゃぁ、あんたはガラスに突っ込んだって事か?」
「うん、多分。そうしたら、別人みたいな風間クンや変な建物がいっぱいあったの」
あれから5分後、佐美と沙希は取り敢えず近くにあった喫茶店に入った。
初めて来たが、壁や蛍光灯などを暖色に統一された店内は落ち着いた雰囲気を醸し出していて、経営者の人柄が伺われる。中々良い店だ。……と、思わず現実逃避。今はそれどころではない。
佐美は一番奥の厨房に一番近い席に座り、5分前に起きた事を沙希から聞き出していた。最初は聞くだけ。
『いいか。まずは相手の話を聞き、追って質問をするのだ。その方が手っ取り早く、相手も話しやすい』。変人で有名な情報部の部長(リポートも担当)の言だ。
沙希が言うには、学校に遅れて急いで走っていると、誰かに後ろから押されて服屋のショウウインドウに突っ込み、気付いたら目の前に佐美が居た、と言うことらしい。信じがたいが取り敢えず信じなければ始まらない。実際目の前で起こった事だし。
「そうか…。じゃぁ次、具体的に。まず気になるから俺が別人みたいって事から」
「あ…えと……これは友達から聞いたんだけどね……」
沙希は言いにくそうに、申しわけなさそうに言った。
「風間クンは、冷徹で、無愛想で、無意味な事は一切しなくて、手段は選ばない人って聞いた……んだけど」
「そりゃ別人だな。絶対。かなり人違い」
佐美は即答した。
自分に自信を持ったことなどないが、そこまで冷血な筈はない。その『友達』にどういうつもりか直接聞いてみようと心に刻みながら(何たくらんでるんだっ)、次の問題に移る。
「次、変な建物って? まさかコンクリートのビルを知らないってことないよな?」
「ううん。私もよくわからないんだけど……なんて言うか…左右反対? あ、そうそう。反対」
「反対って?」
一人で納得している沙希に聞き返す。
「うん、反対。まずここが……そだ、ペンある?」
「は? ああ……はい」
佐美がブレザーの内ポケットからシャープペンシルを渡すと、沙希はサイフから何かのレシートと思しき物の裏に地図を書き始めた。まずは適当に十字を書き、ペン先でそれを示して言う。
「さっきの交差点」
「ああ、わかる」
沙希はそこを中心にして地図を書き足していった。各部の横断歩道、北側の歩道橋、そして沙希の現れた南東側の服屋。全て特徴が一緒だ――いや待て、と佐美は違和感を覚えた。これは……。
「……歩道橋って南じゃなかったっけ?それに服屋も……」
「ううん。違うことないよ。これが私の居たところ。1年住んでるから覚えてるよ」
「………………」
「それに」 と沙希は話を続ける。
「これも変」
と、沙希はこの店のメニューの表紙を示した。白地に墨で『くつろぎ場』と書かれてある。
あー、そういえばこの店の名前だったようなまぁ確かに変な名前だな、と自覚しながら曲がった解釈をしてみる。もちろんそれは冗談で。
「それがどうか?」
「鏡文字……なんだけど」
「鏡文字?」
何年ぶりかに聞いた言葉だったので一瞬理解できなかった。しばらくして鏡に映った変な文字だということを思い出す。
あんた頭の方は無事か、と思わず聞きそうになって、ちょうどそのタイミングに店員が来て危うく助かった。一旦話を中止して店員の言葉に耳を傾ける。
「ご注文は?」
「俺ホットコーヒー。あーお前なんか飲む?」
「あっ、うん。私もホットコーヒーで。代金もう払っておきますね」
「かしこまりました。300円になります
「はい」
と、彼女はサイフから百円玉を3枚取り出して店員に渡した。「ありがとうございま…あれ?」と代金を確かめる店員の顔つきが変わった。
「あの…これは何ですか?」
「え…お金……ですけど」
「…うそっ、まさか偽――」 
佐美もそれをのぞき込み、状況を一瞬で理解して鋭く叫んだ。
「逃げるぞ!」
佐美は、店員の手のひらに乗っている“左右反対”の100円玉を引っ掴んでついでに沙希の手も掴んで店を飛び出した。後ろから制止の声が掛かるが、止まれと言って止まる奴がこの世のどこにいるというのかと理不尽な言葉を心の中で叫ぶ。
「な、なにっ? どうしたのっ?」
「いいからっ! ちょっと俺ン家っ!」


    
いつもは憂鬱な帰路も、走ってみれば速いもので気が付けば佐美の自宅の前に居た。だが長距離を走るのは流石にキツイ。
「お前、あの金、どう、したんだ?」
息も切れ切れに言うと、沙希は既に話せる状況ではないようで首を振るだけだった。それもそうか、と他人事のように思いながら沙希を促して家の中へ入れた。
取り敢えず、玄関から一番近いところにある客間に連れて行き、佐美は台所の冷蔵庫からオレンジジュースを引っ張り出して沙希の前に置いた。沙希はそれを一気に飲み干して、やっと一息ついた。
「あービックリした……。どうしたの突然」
「あのな…いや、まずこれを見ろ」
佐美は自分のサイフから取り出した100円硬貨と沙希の持っていた“左右反対の”100円硬貨をテーブルの上に置いた。
沙希は不思議そうに目の前に置かれた2つの硬貨と佐美の顔を交互に見比べる。
「これ……」
「偽物じゃねぇぞ。俺が持っていた方が本物だ」
「そんなっ……」
「わかってる。話を最後まで聞け。おぼろげだけど見えてきた」
佐美は2種類の100円玉をポケットにしまった。
「あんたはこの世界の人間じゃない。そうでないとしたらあんたは馬鹿だってことが」
「え?」
つまりな、と佐美は続ける。
「ガラスから出てき来て、鏡文字しか読めなくて、こんな左右反対の硬貨を偽造する馬鹿がこの世界のどこにいるのか、と言うことだ」
「うん………?」
「わかってねぇな……。まぁいいや。こんな無意味な事をする奴は『この世』にいない。『この世』にはな」
「じゃぁ、私は『この世』の人じゃないってこと? 大丈夫?」
多分な、と佐美は答える。
佐美自身、こんな考えは馬鹿らしかった。だが、沙希が狂っていないと仮定してそうとしか考えられない。
『鏡の世界』――何かの本で見たことがあった気がする。似て非なる世界。今回の沙希の事件と酷似していた。
「信じるか信じないかはあんたの勝手だがな……」
と、佐美は自分で考えた推測を沙希に話し始めた。



あー、夢か。
見渡す限り真っ白の世界で、佐美はそう思った。
「俺いつ寝たっけ?」と意識が途切れる前の事を思い出す。
佐美が本で読んだ『鏡の世界』の事を話した後、取り敢えず家に帰るのはやめた方がいい、と言うことで佐美の家に泊まることになった。若い男女だと色々あれなので大いに問題だが、幸い佐美の家には空き部屋がいくつもあった。取り敢えずベットのある佐美の部屋に彼女を案内して、佐美は色々と部屋の説明したあと客間で寝転がって……寝た、と。
この寒い時期に客間で寝て無事だろうか、と他人事のように思い、さっさと覚醒するために白い世界を歩き出した。
ビシュン………
風が靡くような微かな音がして、例の如く唐突に金属製の無機質な白い扉が現れた。何百回と見てきているので驚くに足らない。佐美はあー今日も寝坊かと思いながら慣れた拍子でドアノブに手をかけた。
「…ふ〜ん。やっぱ進んだんだ」
スチールの冷たい感覚を確かめ、ドアノブを回す。昨日のように夢は途切れることなく継続した。
最近変わったことが多いな(いや本当に)、と思いながらドアを押すと、ガチッという音がして開かなかった。引いても結果は同じだった。
「鍵……?」
見ればドアノブの中心に鍵穴らしき物がある。鍵なんて持ってたっけ、とポケットの中を探ると、左右逆さまの100円硬貨が出てきた。そう言えばポケットに入れたままだったっけ。だがそんな物を見つけても意味がない、と自分に呆れかけて、ドアの横に小さな穴が開いているのに気付いた。自動販売機の小銭投入口のような小さな穴だ。前まではなかったはずで、よくよく考えれば鍵穴だってなかった気がするのに……。
佐美はそんなことお構いなしに迷うことなく逆さまの100円硬貨を入れた。チュリンという小銭が入る音がして、数秒後にカサ、という音がして佐美の足下に紙が落ちてきた。佐美は純白の空を見上げて首を傾げる。
(誰が何処の空から? いや夢か)
気を取り直して周りの風景と同化しそうな白い紙を拾い上げ、裏側に隠れて見えなかったワープロ文字を読んだ。
『一度きりの招待券』 よく見るとさらにその下に小さい達筆の文字で 『友は信用するな』
「………?」
佐美は首を傾げた。
(意味わかんねぇ……いや夢なんだけどさ)
夢は終了した。


「おい、起きろ。もう昼だぞ」
「ん……?」
低い、少し掠れた声に沙希は眠りから覚めた。見慣れない部屋だったので一瞬どこかわからなかった。自分が顔を埋めている布団の中に染み込んだ汗の匂いでようやく風間佐美という少年の部屋という事を思い出した。ついでに自分の置かれている状況を。
「……寝てるのに入ってきたの? デリカシーないね」
「すまん、気付かなかった。まさか俺よりも寝ているとは到底思えなかったもんでな。まさか1時まで……」
うわぁ皮肉だ、と沙希は半眼でこちらを見下ろしている少年を睨んだ。
「疲れてたのよっ、きっと」
ありきたりな抗議をすると、佐美はやれやれと首を振って踵を返した。と思うと思い出したように立ち止まって半分だけ振り返り、
「昨日、説明しただろ? ちょっといいこと思いついたから客間……あー昨日の部屋に来い」 と言ってさっさと部屋を出た。
「……あれって説明なの?」
沙希は佐美が出て行った木製のドアを睨みつけて一人呟く。
『ちょっと本で読んだんだけど、鏡の世界ってのがあるらしいから、多分あんたはそこの人』
昨日、佐美が話した『説明』だった。あれが説明なら日常会話のほとんどが説明になるんじゃないかと思う。
――しかし佐美の読みは異常なほど早い。どうしてあんな突拍子もない事を理解したのだろうか(まだ推論って言ってたけど)。まるで“誰かの考えをそのまま読み取った”ような言い方だった。いや気のせいには違いはないのだけれど。
妙に体が重く、体を引きずるようにして客間にはいると、佐美は辞書のように分厚い本を片手にオレンジジュースを飲んでいた。その横顔が真剣だったのでドキッとして思わず固まっていると、佐美のほうから気づいて本を閉じてこちらに振り向いた。
「よう。あー何? 大丈夫?」
「うん。なに、その大きい本」
あーこれか、と佐美は本を指す。
「『鏡の世界』。わかりやすいな。どうやら叔父さん…ってここの前の持ち主なんだけどその人の遺品らしい。今朝書斎で見つけた。多分俺はこれを読んだんだ。全然記憶ないけど」
「そうなんだ。じゃぁ何かわかった?」
と言うと、彼は頭を振った。『鏡の世界』を読んでも今以上に収穫はなかったらしい。その代わり、と彼は言った。
「さっき言ったけどいいこと思い付いた。俺の友達に助けてくれそうな奴が居る。信じてくれそうな、な」
ふぅん、と沙希は思い、思い当たる人物を見つけた。
「それって、大藤広之クン?」
「ああ。やっぱ知ってた?」
うん、と沙希は頷く。
「風間クンの悪友で、無口で、風間クンに何故かほぼ服従してる……私の居た所ではね」
「この世界ではヒーローみたいな正義の味方だ。もう連絡したから、もうすぐ来るんじゃないか?」
と、佐美は言った。しかし、疑問が残る。
「でも今日学校は?」
「今日テストだから昼まで」
「……うそ」
すっかり忘れていた。そういえば今日がテスト最終日だったような……。
「心配するなよ、俺だって行ってないし。なんたって起きたのが10時だからな。ここまで来ると笑えるだろ」
「………笑えない」
そんなこと言われても何の説得力もない。文字通り住む世界が違うし。
「ねぇ、その人来るの何分くらいある?」
頭の中を渦巻くショックを紛らわすために沙希は口を開いた。佐美は腕時計を見て言う。
「遠いからな……あと3・40分くらいだろ。何すんの?」
「家に帰る」
「ふーん……」
奇妙な空白があり、
「は? なんで?」
と、佐美は呆れたような、いきなり何言い出すんだというような声を上げた。そんなこと言ったって。
「着替えたいのよ。なんか気持ち悪いし、シャワーも浴びたいし。なんでここシャワーないの?」
「純和風建築なんだよ。別にいいだろ。第一、俺はお前が『この世界』でどんな性格なのか知らないんだ。下手したら親に病院に連れて行かれるぞ、頭の」
「大丈夫よ、きっと。なんとかするから。ね?」
「ダメ。行くな。俺が暇」
「暇って……じゃぁあとで何かしてあげるから……」
「…………………………………チッ」
再度頼むと、佐美は根負けしたようにそっぽを向いて、追い払うように手を振った。
「俺は責任とらないから。絶対。止めたし」
「……根性曲がり……」
「フンッ。それが信条でね」
開き直って意味不明なことを言う佐美を放って沙希は家を出た(体が悪いのは単に寝起きだからのようで大体直っていた)。
先ほどの佐美を見ていると段々騙されているような気がしてくる。鏡の世界なんてありえないし、自分で作った話のようにすぐに解いたし……。
でもそれは決して真実じゃなくて、気のせいでしかなくて、沙希の自宅は全く逆方向にあった。おかげで迷った。
「ゴメン風間クン……ちょっと遅れる」
沙希は足を速めた。
頭の芯に鈍痛がはしった。その時はそれだけだった。
 


「おせぇ……」
佐美は今日何度目かの言葉を口にした。朝から何回言ったやら。
「鏡か……」
暇つぶしに自分の推論について考えてみる。まず、我ながら馬鹿げてる。だが何となく一番先に浮かんだのがそれだったし、もう頭から湧き上がってくるような感じだった。ある意味快感。それに状況から見ても辻褄が合う。しかし何というか、妙に引っかかる事がある。ハッキリとは言い表せないが、頭の中のもう一人の自分が『おしい。けど違う』と言っている。頭の中の自分が100人居るとしたら99人が『鏡の世界説』に賛成なのだが、後一人が納得していない、そしてその『後一人』も実はなにが違うのかわかっていなかったりする、という状況だった。その『後一人』の自分を納得させるために呼んだのが、正義の味方・大藤広之なのだが、例え広之でも『後一人』を納得させることは無理だろう。しかし、広之の実家は寺だ。何か知っているかもしれない――根拠はないが。取り敢えず、まずは広之を待たないと。……暇つぶし終了。
「あーくそ。暇だぁ……」
何となしに天井を仰いでそのまま寝っ転がると、直後机の上で電話が鳴った。佐美は緩慢な動作でそれを手に取ると、誰かも確かめずに通話ボタンを押した。まず耳に入ってきたのは、耳を劈くようなひどいノイズだった。
「あー、クソ、なんだんだ。もしもし、誰?」
『俺だ』
それだけで殺傷力がありそうな低い声が電話越しに聞こえた。長い付き合いだ。ノイズの障害があってもそれだけで誰かがわかる。
「広之か。どうした?」
佐美の思い付いた『いい考え』、大藤広之である。佐美の高校に入ってからできた友達で、クラスもずっと同じだったこともあってかれこれ1年の付き合いである。容姿は短髪、怖面、長身、筋肉質。性格は実に温厚で誠実、無口。子供が大好きで、自分自身の事は晩飯の次ぐらいに考えるんじゃないかというほどの無茶をする正義漢である。この前なんか台風の影響で増水した川でおぼれている子供を泳いで助け、肩に流木が突き刺さったこともあったらしい(本人は平然と帰ったらしいが)。もし聞いたことがないのも合わせて本を作ったら結構な作品ができるんじゃないかと佐美は思う。
とにかく、佐美の『いい考え』からの電話だった。だが、来たのは悲報だった。
『すまん。用事が出来た。はずせない用事だ』
「へぇ……いや、それは困った」
『すまん』
滅多に約束を破らないのに奴なのにと佐美は疑問を感じたが、別に来れなくてもよかったので情報だけ聞き出すことにした。
「あー……じゃぁ何かわかったか? あのこと」
広之には沙希のことを全て話していた。一応、このクソ忙しい時に電話したので。電話の向こうで頷く気配がする。
『俄に信じがたい話だが、一応調べておいた。と言っても、情報部の部長に言ったんだがな」
げ、と佐美は唸った。噂好きでも有名な情報部の部長は話をあらぬ方向へとねじ曲げて言いふらす傾向にある。佐美と沙希の事を言われたらたまらない。その欠陥さえなければ――いやなくとも……――いやないと仮定して――きっと、いい人なのに。
「俺の名前出してないよな? 頼むぞ」
『大丈夫だ。で、得た情報によればそういう専門の霊能者が居るらしい。この俺たちの学校で』
「霊能者ぁ? 胡散臭え……信じられるンのかよ……」
って人のこと言えないか、佐美は心の中で溜息をつく。
『人のことを言えるのか?』
相手も同じ事を考えていたようで、生真面目な広之には珍しく茶化すように言った。佐美は舌打ちをして、強引に話題を変える。
「で、そいつの住所は?」
『ん…ああ、2丁目のな……』
広之は一つ咳払いをしていつもの言い方に戻って淡々と住所を言った。意外と近いな、と思いながら広之に聞きたかった事を言う。
「後もう一つ、秋月沙希って女はどんな奴だったんだ? 話したことあるか?」
『……最悪だ』
今日は広之の意外な場面をみる事が出来た。あの正義漢が人を罵るとは。
『奴と一週間以上付き合うことができた男はいないという噂だ。衝動買いのようにすぐに飽きるそうだ。さらに奴は目をつけた奴にかったっぱしから告白するらしい。驚いたことに奴が告白してOKをもらえなかったのは俺とお前の2人なんだがな。あの悔しがった顔が昨日のことのように目に浮かぶだろう?』
「へぇ、よく知ってん……おいおい、ちょっと待て。秋月と話したのは昨日が初めてだぞ?」
思わず聞き流しそうになって、慌てて拾い上げる。そうだったか、と広之は妙に浮かれ口調で言った。
佐美はその広之とは思えない言葉に、はは〜んと一人笑みを浮かべた。
「お前、用事ってデートだろ」
『なっ…………………………………………そう言うことだ』
ものすごくたっぷり間をおいて広之は言った。あの堅物でも恋をすると変わるな、と佐美はその堅物がどこかの多分美人の女の子と楽しそうにデートをしている所を想像しようとして途中で失敗しながら思った。
「じゃ、もういいや。ありがとな。デート楽しめよ。電波状況が悪いぞ」
と言って佐美は電話を切った。
「デート、ねぇ……」
佐美は再び畳の上に寝っ転がって呟いた。
あんな禁欲主義の塊のような男が女の子とデートなんてある意味鏡の世界よりビックリだ。……だがそんな事はどうでもいい。問題なのは……。
「くそ。先こされた……俺だってなぁ」
まぁ、あてがない訳でもないが……それは今自分がやろうとしている事と矛盾しているわけで、この思いは決して受け入れてはならない、だろうと思う。でもなぁ……。
考えていたら、いつの間にか眠っていた。



あー、寝たのか。
と、佐美は思った。佐美は今、壁や天井などをガラスで覆われた廊下に立っていた。10メートルくらい先には金属製の無機質な白い扉がある。どうやらあの夢は更新されたらしい。
「……ほんと最近変わったこと多いなぁ。いや夢だけど」
佐美はそう呟きながら横手にあるガラスの壁に触れた。冷たく硬い感触が手のひらを通して返ってくる。
しかしこの壁……意味がわからない。
何処がと言えば厚さ5ミリほどのガラスの向こうには灰色のコンクリート壁があることだ。何故わざわざガラスを貼る必要があるのか、理解に苦しむ。インテリアか。
佐美は呆れたため息をついて白い扉へと向かった。さっさと夢から覚めなければならない。寝ている場合ではないのだ。
「鍵、開いてたりして」
しかし佐美のささやかな希望は呆気なく破壊され、ドアノブはガチャガチャと拒絶の声を上げた。夢覚めないし、と愚痴りながら後ろを見るがガラスの廊下が永遠に続いているだけで何もない。
「どうしろと……?」ともう一度扉の方へ振り返えったとき、何もなかった白い扉に紙が貼られていた。赤い文字で、こう書かれていた。
『うつし鏡の世界。それはガラスの世界。ガラスの内側は恒に鏡であり、表もあれば裏もある。鏡と鏡は合わさる。それはガラスの世界。そこは似て非なるガラスの世界。禁じられたガラスの世界』
意味はわからなかった。
所詮、夢の話――

ヴゥーン……!
違法改造された車の轟音で目が覚めた。何気なく空を見ると紅に染まっていて、昼の終わりを象徴していた。およそ4時間は寝たようだ。
佐美は頭を軽く振りながら上半身を起こした。
「ずっと寝てたの?」
と、突然そんな声が頭上からかかった。天井を振り仰ぐようにして後ろを向くと、黒髪を腰まで伸ばした魔女のような少女が佐美の真後ろでこちらを見下ろしていた。佐美は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに半眼で少女を睨んだ。
「……人ン家の入り方は教わらなかったか? 強盗」
「ここには何もないでしょう? 風間佐美君」
なんで名前を――佐美はさらに警戒心を高めた。それを微塵も隠さず、低い声で佐美は言う。計画的犯行か。
「だれだお前……」
「私? 私は――」
と、その時インターフォンの音が鳴った。しかしその訪問者は佐美が向かう前に玄関を通って客間の障子を開けた。
「ご、ごめん……風間クン」
無遠慮な訪問者は沙希だった。
佐美は半分腰を浮かした不安定な体勢で数秒固まった後、脱力したように座り直した。
「……遅い」
口の中だけで呟く。大方迷ったのだろう。佐美は座るように沙希を促し、沙希はわざわざ佐美の真横に座った。
若干緊張しながら、再び侵入者を問いつめようとした時、侵入者は陽気な声を上げた。
「やっほー。やっぱりまた会った。縁があるね、沙希ちゃん」
「小夜さん? なんでここに……」
「………知ってるのか?」
うん、と2人は同時に答えた。
「さっき、ここに来る途中で会ったのよ。君に会いに来る途中に。ね?」
「え、うん」
「ここに来るって……」
佐美は言った。
「じゃあ、お前が広之の言ってた霊能者なのか?」
「そうだよ。風間君。ホントは君から来る予定だったんだけどね」
と、小夜子は言った。
佐美は探るような視線を小夜に送ったが、嘘を言っているようには見えない。少なくとも本人は霊能者と信じているようだ。
「お前は何ができるんだ?」
佐美が聞くと、小夜は若干得意顔で言った。
「私自身は魔術師じゃないから何も出来ないけど、『知識』と『見る力』を持っているわ。あなたの助力になるために来たの」
「……本当か?」
佐美はなおも小夜を疑った。遊ばれているのでは困る。
「嘘言ってどうするの? 悪戯なんかただの自己満足よ。私はそんなに愚かじゃない。それに、楽しめそうだからね」
佐美は黙って小夜を見る。一瞬でもそのような素振りを見せたら追い返すつもりだった。小夜もそれを察したようで、
「本当よ。“彼”から話は聞いているけど、異世界からきた人ってのは誰?」
と、小夜は佐美と沙希を交互に見て言った。少々強引だが、辻褄はあっている。
「彼女だ。別世界から来た奴ってのは」
追求を諦めたように佐美は言った。小夜は指された沙希を見て、驚いたような、やっぱりというような顔をした。
「ふぅん。じゃあ、風間君の意見を聞こう。どこから来たと思う?」
「鏡の世界」
自信をもって佐美は言った。
「根拠は?」
「左右反対の硬貨を持っていたし、『向こうの世界』と『こっちの世界』とは沙希の人格が正反対だ」
「そう言うこと……」
小夜子は言った。
「それは違うね」
「なっ……!」
佐美は絶句した。信じられない顔をしている佐美に向かって、小夜は裏付けるように続ける。
「いい? 鏡の世界ってのは確かに存在する。けど、あそこは『基本』である『こっちの世界』に完璧に一致してるの。違うのは君が言うように左右反対ということだけ。それ以外に何もないの」
「そんな………それは確かなのか?」
「私が『知る』かぎり、事実よ」
小夜は沙希を見ながら言った。
「でも確かなのは沙希ちゃんが確実にこの世界の人ではないと言うこと。だってあなた自身の『魂』はここにはないもの。それも魂がないのは無関係とは考えにくいわ」
「どういう意味だ?」
佐美は難しい顔をして言った。小夜はわかりやすく、丁寧に説明する。
「『魂』とは、形がそうであろうとする力、『存在意志』とも置き換えられるの。沙希ちゃんの場合、『魂』則ち『存在意志』が別のモノと入れ替わっているの。『形』はとてもよく似てる。けど、本質的に何かが違う。私に『見える』沙希ちゃんの姿は、とても異常よ? 普通、生きとし生けるもの全ては壊れやすい『魂』を守るために『器』、つまり肉体があるのだけど、あなたの『魂』は『器』の外にある。完全に、ではないから物理的にも精神的にも干渉はできないけど、自然崩壊で徐々に壊れていっている……」
「……もしかして……」
「多分ね。あなたは頭痛と思っているようだけど、『魂』と『器』の歯車があわないせいでうまく『器』が機能していないのかもしれない」
「…………………」
佐美にも心当たりがあった。沙希の起床は佐美より遅かったし、怠いと言っていた。
「もう、時間は少ないのかもしれないわ……」
小夜は言った。笑い飛ばしたくなるような馬鹿げた話も、現実と受け取らざるを得ない。それくらい有無を言わさぬ迫力が小夜の語りにはあった。
「でも、異常なのは沙希ちゃんだけじゃない。もう一人同じような人がいるの」
「なに?」
佐美の目を真っ直ぐ見つめ、小夜はある人物の名前を言った。
『大藤広之』
「……なんだと?」
佐美は言った。
「あいつが別世界の住人? 今日話したけど全然――」
と、そこまで言って今日の広之の言葉が頭を過ぎった。妙に楽しそうな、嘲るような弾んだ声。
――悔しそうな顔が目に浮かぶ。 最悪だ。 すまん……。
思えば、おかしいことだらけだった。何故気づかなかったのか。
「そんな……馬鹿だ。俺は……」
佐美は頭を抱えた。一番の友を見抜くことが出来なかった。そんな思いが頭の中をグルグルと回った。
そんな佐美に、小夜は冷静に言葉を掛ける。
「今は感傷に浸っている場合ではないわ。彼の目的は不明。資料もないんじゃなにもならない。いい? 今は忘れるの」
「…………」
「忘れるの。いい?」
念を押すように小夜に言われると、不思議と黒い思念が収まった。佐美は冷静に戻った頭で話を戻す。
「それで、結局沙希はどこから来たんだ?」
「『鏡』でも『基本』でもない世界……それ以上はわからないけど、最近気になることがあるわ」
「気になること?」
小夜は頷いた。
「最近市内にすごく大きいビルが建ったでしょう? そのビルが異常なのよ」
「………どこが?」
佐美はどこか苦い顔をして聞いた。
「あそこには『魂』が集まり過ぎているの」
「……わかりやすく言ってくれ」
「うん。『魂』は『存在意志』って言ったわよね。普通、建物に限らず全ての物には『存在意志』が宿ってその形を保とうとするの。それが強いほど硬く、強固になるんだけど、そのビルはその『力』が異常なほど大きいのよ。あのビルは壊すことはできるけど、存在を消すことはできない――人の心から消えることがないほど強い存在なのよ。私はそんなのを見たことがない」
「……それだな」
と、佐美は言った。
「今から行こう。入り方はわかる。あんたも来るよな?」
「え、うん。でも警備はすごいわよ?」
小夜の言葉に、佐美は片頬を吊り上げ、しかし苦虫を噛み潰したように笑った。
「そこ、親父の新・本社だから。風間企業。ある程度融通は利くだろ」
小夜は度肝を抜かれたように押し黙った。こんなところで父の世話になるとは。会社を継ぐのも少しくらい考えておこう。
佐美はやりもしない事を思いながら、何気なく視線を横にずらした。そして、『気づくいた』。
沙希は机に突っ伏して荒い息を吐いていた。
「沙希っ! 大丈夫かっ」
慌てて肩を揺すると、沙希は力なく首を振った。
小夜に目を向けるが、小夜も気づかなかったのか顔を強ばらせていた。
――何故だ。
佐美は自問自答する。
――何故気づかなかった? 目の前で少女が苦しんでいるというのに――
「医者をっ!」
佐美は叫んだ。だが、小夜は首を振った。
「ダメ。彼らは何もできはしないわ。なぜなら彼女を見つけることさえできないだろうから」
そう言われて、佐美はその意味を知った。
こうしている間にも、沙希の存在を忘れかけていた。何故医者を呼ぼうとしたのかも忘れそうになる。
あきらかに、異常だった。
「行こう。そのビルへ。沙希ちゃんを救うのよ」
佐美は頷いた。そしてしっかりと沙希の手を握る。沙希を見失ってしまわないように。
佐美の手にすっぽり収まってしまうほど小さな手は、死人のように冷たかった。佐美はその小さな存在を見失わないよう、強く握りしめた。
「行くぞ……」
佐美は低い声で言った。
「…………」
どこかで誰かのため息が聞こえた気がした。

このお人好しが……

自覚してるよ。沙希を背負いながら、佐美は言った。




そのビルは、市の中心に位置していた。50階、地下4階建ての巨大なミラービルだ。国際的大企業なので本来はアメリカに本部を置くべきなのだろうが、現社長である佐美の祖父・風間陣に死期が近づき、事実上主権は父親・風間亮にわたったために祖国である日本に本社を建てたのだった。噂では、亮が会社を無理矢理乗っ取ったといわれている。どうでもいいが。
そして佐美ら3人はその風間企業本社の前にいた。辺りはすでに暗く、満月の月明かりがビルに反射して不気味な光を放っている。
「さて、私も行きたいのだがダメか?」
「わかってるのなら聞かないで下さいよ、先輩」
佐美は車の運転席から聞こえるよく響く声に冷たく言い返した。
『波乱の黒幕』の異名で有名な情報部の部長・影山太刀であった。眉目秀麗の美しき美貌は今はスモークのかかったサイドガラスの向こうだ。もちろん、高校生なので無免許だが、太刀のドライビングはレーサーのように正確かつ速く、本来このビルまで1時間ほどかかるのが半分以上縮まった。それを見越して佐美が太刀に『依頼』したのだが、代金無料のかわりに明日学校でどんな目に遭うかは予想不可能、むしろ神秘の領域だ。
明日があれば、だが。
「ふむ……残念だな。アディオス! お二人さん!」
太刀は渋々とハイテンションを併せ持った器用な動作で車を出した。しっかりとアスファルトにブラックマークを残して。
「……ふぅ……」
佐美はチラリと自分の背中で静かな吐息を漏らしている沙希を見た。
沙希の病状は、このビルに近づくにつれて改善されていった。今ではこの通り、人形のように静かに眠りの世界に入っている。しかし、だからといって油断はできない。なぜなら最後まで太刀は沙希の存在に気づかなかったし、このビル近づいて病状が収まると言うことは“当たり”である可能性が高いからである。
佐美は一つ気合いを入れてビルの玄関に近づいていった。ガラスの自動ドアは当たり前だが動かない。だがよく見ると受付の所に警備員がメールで遊んでいるのが見える。あとで言いつけてやろう、と考えながら、佐美は扉を叩いた。ビクッ、と警備員は体を揺らし、訝しげにこちらに歩いてきた。
「君たち、こんな時間にこんな所に何のようだ?」
警備員はガラスの向こうで低い声で言った。だが説得力の元素さえ発見できないので佐美は無視する。
「俺…私は風間佐美だ。お前達の依頼人というわけだ。今日はクソ親……父の頼みでここへ視察に来た。彼女は私の秘書だ。入れろ」
「うそつけ、ガキ」
佐美が長々とそれらしい台詞を吐くと、警備員は鼻で笑った。
頬をひきつかせながら再度説得を試みようとすると、横にいた小夜が佐美の袖を引っ張って制止した。
小夜は一度集中するように1秒ほど目を伏せると、言った。
「いい? 彼の言ったことは本当よ。彼はこの会社の次期社長の息子であり、一声であなたを退職させることも容易だわ。彼は嘘を言っていない。入れなさい。私たちを中に入れなさい」
彼女がそう言った瞬間、警備員の態度が激変した。
「はっ…はいっ! 失礼しました!」
警備員は突然態度を変えて鍵を外し始めた。佐美はその光景を呆然と見て、問いかけるように小夜に視線を投げた。小夜は得意顔でウインクして言った。
「ちょっと意識に入ったの。一種の催眠術ね。それぐらいなら私にもできるのよ」
「ふーん。……ってお前、俺にもやっただろ、さっき。まぁ助――」
そこまで言って、佐美は顔を強ばらせた。小夜もその意味に気づき、沈黙する。
“意識を逸らされた”。
何を自分たちは楽しげに談笑しているのか。
「チッ……回数が多くなってきてるな……。早くしないとマズイかもしれない……」
「うん……」
佐美達はそのまま黙して、耳鳴りがしそうなくらい物音一つしないロビーを歩いた。だが電球もまだ付けられていない建物内は暗く、中々エレベータを発見できない。
10分後、ようやく佐美は暗闇に目を懲らしながらようやくエレベータを見つけた。幸い、電力は宿っていてすぐにエレベータの扉は開いた。しかし、パネルに書かれた数字の数に佐美は冷や汗をかいた。
「どうするの……?」
「一つずつやってる暇はない……どうするか………」

地下3階だ。そこにはガラスの世界が広がっている……どうせ止めても無駄だろ。

突然、頭の中で声がした。聞き覚えのある声。だが誰かはわからなかった。幻聴なのは承知の上だが、佐美はそれに頼ることにした。藁にもすがる思いとはこのことだ。
「地下3階だ」
「え…どうして?」
「俺が知るかよ」
佐美は忌々しげに吐き捨てるように言ってボタンを押した。扉が閉まり、一瞬の浮遊感があって数秒後に扉が開いた。
そして、目の前に広がる光景に呆然とする。
「……これは……」
佐美は硬直した。まるで体の使い方を忘れたかのように体が言うことをきかない。猛烈な『恐怖』が佐美をそうさせたのだった。
廊下のコンクリートの壁を包むように貼られた無意味なガラス。床も、天井も、全てガラスで、そこはまさしく『ガラスの世界』だった。そして、その廊下には見覚えがあった。佐美がよく見る夢のそれと非常に酷似していた。ただ違うのは、廊下の向こうにあるのが扉ではなく、向こう側が見えないほど分厚いガラスだと言うことだ。それ以外に、物は見あたらない。一体何のために作られたのかも、一切不明だった。
ただ、そのことは視覚が情報を受け取ってくるだけで理解はできていない。
佐美の目は廊下の向こうに続くガラスの壁に釘付けになっていた。
「……来たか……」
“それ”は嗤っていた。片頬を吊り上げ、嘲るように。
“それ”は近づいてきていた。分厚いガラスが波のように揺れ、“それ”はガラスの世界から這い出た。
“それ”は口を開いた。少し掠れた低い声で、静かに。

「……会いたかったぞ。忌まわしき『ガラスの住人』よ……」




……夢? 
と、沙希は思った。
その夢は非常に奇妙だった。何がと言えば、廊下らしい空間のコンクリートの壁や天井にガラスが張り付けられているからだ。景色が見えるわけでもないのに、なぜガラスが貼ってあるんだろう。
だがそれより気になるのは、少し先にある金属製の無機質な白い扉だ。鍵穴も装飾もない、質素な扉。
どうにも場違いなその扉は、意志をもっているかのようにも取れた。
強烈な存在感。呼ばれているような、引き寄せられているような。
(そっか……私、死んだんだ……)
と、沙希は絶望的なことを妙にすっきりとした思考で思った。きっと、あの扉の向こうには死の世界が広がっているんだろう。
そんなことを勝手に想像して、ふとそれもいいと思った。どうせ、自分の為にしてくれる人間などいない。沙希は一人頷いて、ゆっくりと一歩を踏み出した。
なぜそんにも早く想像ができるのかもその時は気にならなかった。確か知人にも同じような人がいたような気がする。
「何処に行く気だ?」
「うわっ!」
突然うしろから声をかけられて、沙希は思わず悲鳴を上げた。沙希は反射的に振り返る。
そこには永遠に続くガラスの廊下を背景に、見知らぬ少年が立っていた。中途半端に伸ばした黒髪に、風に傾きそうなほど華奢な長身の少年だ。なんだか珍しく真剣な顔をして、……珍しく?
少年は静かな瞳で沙希を見つめて言った。
「そっちはあんたが進む道じゃない。そっちは、ダメだ」
「あなたは……だれ?」
当然の如く聞くと、少年は少し意外な顔をして、しばらく間を置いて言った。
「俺は……ま、鏡の住人……かな?」
「鏡?」
少年は何故か苦笑しながら言った。しかも言っていることが意味不明だ。……でも何となく、自分はこの少年のことを知っているんじゃないかと思った。不思議とこの少年を見ていると心のどこかが安心する気がした。
「行こう沙希。いるべき所に、俺が案内してやる」
彼はそう言うと、呆気にとられている沙希に左手を差し伸べた。キュトンとして彼の顔と手を交互に見比べると、彼は焦れたようにぶっきらぼうに言った。
「………手」
「あっ」沙希は慌てて左手を指し出して、それでも遠慮しつつ華奢だけど大きい少年の手を握った。ひんやりとした心地よい感触が手に伝わる。男の人と手を繋いだのは初めてだ。
「あっ…私、秋月沙希」
「……知ってるよ。……誰よりも」
「え……?」
彼は横目でチラリと沙希を見て言った。さらに問いつめようとすると、
「行くぞ。急がないと結構ヤバイ」
強引に早口でねじ曲げられ、促すように軽く手を引いた。何か釈然としなかったが本当に急いでそうだったので顔が赤くなるのを感じながら永遠の廊下を2人で並んで走った。
「……ぃぃ…? でき……を逸……情報を……」
「………?」
走りながら、少年は口の中でブツブツと何かを呟いていた。




「会いたかったぞ……忌まわしき『ガラスの住人』よ……」
低い、少し掠れたどこかで聞いたことのある声。見慣れた中途半端に伸びた黒髪に、鋭い瞳。
「あ?」
間違えるはずがない。というかいつも鏡の前で見ている。
目の前にいる“それ”は佐美だった。しかし、佐美本人でもない。何かはわからないが、確実に言えるのは紛れもなく異質な存在であること。
いや、この世界に相応しくない存在、だろうか。
“それ”は嗤っていた。しかし嗤っているはずなのに、その目の奥には強い憎しみが渦巻いている。それが誰に向けられているか、それがわからないほど鈍くはない。
「ククク……こんなにも早くか……」
まるで感情まで逆さに映る立体鏡を見ている気分だった。多分、自分は物凄く不快そうな表情をしているだろう。
“それ”(個別してやる義理はない)はそんな佐美を見下しながら言った。
「まさか……ここまでうまく行くとは思わなかったよ、ガラスの住人」
「……何がだよ…」
“それ”はまた嗤った。
「わからないか? 貴様はここまで連れてこられたのだ」
「なに?」
苛立たしげに疑問を受かべる佐美を見て、“それ”は笑みを深めた。
「貴様は実に都合良く引っかかってくれたよ……魚釣りだな。教えてやろうか?」
「もったいぶるなよ物真似野郎……」
佐美は不快感をまったく隠さずに言う。しかし“それ”は気にした風もなく、まるで明日の天気を語るように軽く言った。

「秋月沙希……あの娘を餌につかった。一番手頃だったのでな」

――一瞬、目の前の男が何を言っているのかわからなかった。
「わからないのか? 私がこの世界に出るために、秋月沙希を利用したのだ」
「……り…よう…?」
飄々と頷く“それ”。
どこかで何かが切れる音が聞こえた気がした。
「そう。この私が、秋月沙希をこの世界へたたき落としたのだ。中々美しい娘だっただろう?」
こいつか……。
「たまたま近くにいたのでな」
自分の胸の中で熱いモノがくすぶり始めているのがわかった。
「まぁ私にとっては、皆同類。クズ同然だったがな」
こいつが……目の前にいるこの男が、沙希をこの世界に連れてきた張本人だ。こいつが全ての元凶だ。
いつもは冷静な佐美に紛れもない怒りがマグマの如く湧き上がってくる。食いしばった歯の隙間から獣のような荒い吐息を吐き、握りしめた拳は白く変色していた。
「すべて……お前の仕業だったのか……!」
佐美は恫喝して“それ”を睨みつけた。しかし、“それ”は表情一つ変えない。
頭の中で、何かが切れる音が聞こえた気がした。思考が驚くほどすっきりして、殺すという明確な目的がくっきりと浮かび上がった。
「……っ!」
だが、予想外な事が起こった。
「なん…?」
体が、動かない。まるで脳の命令を無視しているかのように体が硬直していた。力は入るのに、行動ができない。
「……クククク……」
荒々しく舌打ちする佐美に、“それ”は世にも楽しそうに嘲笑する。
「実に愉快だな……。教えてやろうか。私がこの世に出てきた以上、貴様に身動き一つできん。このガラスの空間は私の世界だからな。後ろの巫女も例外ではない」
と、回想するように目を閉じながら“それ”は言った。
その直後、佐美の脳裏に、喉もとを抑えて息を荒くしている小夜の姿が浮かぶ。
「……?」
「今のは、私が送った『記憶』だ。ククク…これでまた一つ謎が解けたろう? お前の謎解きの早さに」
「……そういうことかっ」
読んだとこもない本。異常な直感力。友ではなかった友。偶然にも出会った霊能者。
佐美は歯軋りをした。
全て……仕組まれていたのか……
「さぁ、謎・その2だ。なぜ、私がわざわざ餌を使い、下僕の力を借り、貴様をガラスの住人と呼ぶのか……」
まるで奇術師のショウのように両手を拡げ、“それ”は言った。
「答えは簡単だ。この私こそ、この『基本の世界』の住人だからだ」
「……なに?」
思いもしなかった言葉に、口から素っ頓狂な声が漏れた。
何言ってんだこの馬鹿は。
「わからないようだな。まあ、貴様は私と違って脳天気そうだから、気づかなかったのだろう。教えてやる」
佐美の心を読み取ったように“それ”は言った。
そして、また目をを閉じ、ゆっくりと話し出す。
「……貴様の様子から見て、覚えていないだろうが、私は6歳の時、不覚にもブランコから落ちてコンクリートに頭をぶつけた時があったのだ」
「ん……? ああ知ってるよ。親父から聞いた」
そうだろう、と“それ”は頷いた。
「私も父から聞いた。それから3日後だ。だが父が私に話しかけた時、気づいた。私の父は父ではなかったのだ」
「どこが? 俺は別になんとも思わなかったがな」
「それは貴様が覚えていなかったからだ」
と“それ”は嘲笑する。
「私の父は、厳しく、プライドの高い、尊敬に値する人間だった。だが、目覚めた時は全くその逆だ。優柔不断で弱い男だった」
「親父が弱い? 冗談よしてくれ。あれが弱い人間だったら世界中の人間が弱くなる」
「ふんっ…まだ、わからないか?」
“それ”は何故か軽口を叩くようになった佐美を不思議そうに一瞥して、どうでもよかったのか話を戻した。
「まあいい。次、だ。私はその怪我の後数ヶ月で快復し、退院した。だが病院を一歩出た途端、目に入った光景は信じられないものだった」
“それ”の声は段々と熱を帯びていった。佐美はそんな彼を黙って睨み据える。
「左右反対の文字群だ! 看板も建物の位置までまるで! 貴様にこれがどういう意味かわかるか!?」
「知るかよ。あんたがおかしいんじゃないか?」
荒々しく叫ぶ“それ”に佐美は冷静に応じる。すると佐美に影響されたのか、“それ”は打って変わって無表情になった。
「違う。その不可解な現象が起こる理由として導かれるのはただ一つ、貴様と私が入れ替わったということだ」
「…………へぇ」
どうだ、というふうに言う“それ”に佐美はさも興味なさそうに言った。肩すかしを食らったように、“それ”は奇妙な顔をする。
「……驚かないか?」
「驚いてほしいのか?」
沈黙が降りる。
佐美からすれば、驚くわけもない。なぜなら、そんなことは昔話が始まった時点でわかっていたからだ。
……なんというかこう……頭の中から沸いてきた。この感じは……そう、最初に沙希に会った時や、さっき“それ”に記憶を送られた時見たいな感じだった。
その直感…いや、『記憶』は、こう告げた。

――いいか? 出来るだけ情報を聞き出して、無茶するな。冷静に、5分待て。そうすれば何とかなる。あと、その馬鹿の言うことは本当だけど気にするな。入れ替わったとかなんとか言い出すが、そんなのお互い様だ。それに……物事を客観的に見る天才だからな。俺は。

やけにフレンドリーな直感だと思った。というか内容が長くて無意識に五分の一ぐらい端折った気がしないでもない。お人好しがなんとか言ってた。……言ってたって……誰が?
「……おい……」
と、考えている内に“それ”はいつの間にか佐美を肉薄していた。実に、不愉快そうに。どうやら、無視されたと思われたらしい。知ったことか。
「……聞いているのか? 私の話を」
30…29…
目の前で声をふるわせている偽物を今度は故意に無視し、唯一自由な眼球を巡らして腕時計を見る。5分は、もうすぐだ。
その様子に、“それ”は耐えきれなくなったように激昂して叫んだ。
「わかっているのか! 貴様が私の人生を滅茶苦茶にしたのだ! 私の目的はただ一つ……!」
“それ”はなおも無視する佐美を顎を掴んで強制的に振り向かせ、片方の手に握られた黒光りする軍用ナイフを佐美の首元に突きつけた。
まさかそう来るとは思っていなかったので思わず唾を飲む。
「貴様を殺して……私がこの世界に住まうことだ……」
“それ”は最後の言葉とばかりに優しく言うと、ナイフを首に押しつけ、撫でるように横に移動させた。ナイフは、佐美の皮膚を軽々と引き裂き、頸動脈を目指して正確に突き進んだ。だが、
「やめてっ!」
頸動脈の数ミリ手前の所で、鋭い声がガラスの世界に響いた。その瞬間、“それ”の動きがピタリと停止する。
佐美は眼球だけを動かして“それ”の向こうにある分厚いガラスの方を見た。そこには沙希の姿があった。紅の唇を硬く結び、黒目がちの瞳には何よりも強い意志が芽生えている。手には……金槌? 
「やめろぉ!!」
“それ”が叫ぶと、金縛りが切れた。だが、忽然と現れた沙希を見て、その目的を悟った佐美は動くことが出来なくなっていた。
「沙希……ダメだ」



白い光の手前で、2人は足を止めた。これが、この世界からの出口なのだろう。呼ばれているような錯覚も受ける。
「俺が案内出来るのは、ここまで。鏡の領域は、外でも内でも、干渉することができない」
「……うん」
沙希の声は暗かった。やはり、あの事は沙希の胸に深く突き刺さっていた。
ここの出口まで案内して貰っている間、鏡の中の佐美という青年からこれからどうするかについて話をしてくれた。その内容は、あまりに信じられず、残酷な内容だった。
『基本』『鏡』『ガラス』の間にまれに起こる記憶の疎通の事や、今の『基本』における佐美の状況の事。そしてその状況の唯一の対処法……それを実行することによって、佐美と永遠に別れを告げなければならない事……。
「そんな顔すんなよ……お前がやんないと、あいつが勝手に世界を越えたせいで世界のバランスが崩れて世界そのものが消えるんだ。さっき説明しただろ?」
「わかってる……けど」
別れるなら、もうちょっと話してから別れたかった。おそらく、彼に聞いた限りではゆっくり話す時間などないだろう。別れるのは、辛い。出来れば、ずっとずっと、一緒に居たかった。
でも、やらなければならない。後で後悔することは、しない。決断は早い方だった。
「よし。もう大丈夫だな」
「……やってみる」
彼は、沙希に無骨な金槌を手渡した。女性にも使える脱出用の小型の金槌だ。
「さあ、行ってこい。鏡の世界は監視役だ。向こうの俺の目を通して、見守っててやる」
「うん」
「行け」
「うん」
背中を押されて、ようやく光の方へ足を運んだ。一歩、二歩進んで、ずっと繋いでいた手が外れると、引き寄せられるように光の中へ突入していった。




ずっとずっと一緒に居たかった。だから、佐美の顔を、声を聞いた時、気持ちが揺らいだ。それを断ち切るように、金属製の金槌を力一杯握りしめた。これから、多分人生最大の決心をしなければならない。怖い決断だった。
「佐美君……もうこれしか方法がないの」
言葉にしてしまわないと、自分は自分のために世界を滅ぼそうとしてしまいそうだった。後々後悔することはしない。きっと、佐美だって許してくれるだろう。ちゃんとした別れも告げずに還ることも。
「この扉を壊せば、あなたも、私も……元の世界へ強制的に送り返される事になるわ。わかる?」
自分でも驚くぐらい明瞭な声が出た。抑揚のない、死んだような声だった。いつも無表情な佐美の顔が苦痛に歪んだ気がした。
「やめろぉ! その扉を破壊したら、二度と来れなくなるぞ! それどころか空間ごと私たちが吹き飛ぶ可能性だってある!」
“それ”は目の色を変えて叫んだ。
「……わかってる。だから、やるの」
「……チッ!」
沙希がそう言うと、“それ”は棒立ちになっている佐美を羽交い締めにして人質に取った。
「や、やってみろ……こいつも死ぬぞ」
「………沙希」
これも予想出来ていた事だ。支障はない。暖めていた言葉を佐美に告げて、扉を叩き割れば、済むことだ。
「佐美君……私ね……佐美君のことが……」
告白して、さよなら。別れるのが辛いことを告げて……でも、気が変わった。
「バイバイ……佐美君。楽しかった」
きっと、自分は二度と佐美と会えないだろう。自分に魔術的な知識はない。だから、彼の記憶の中に残って、苦しめたくない。そう、思った。
震える手で、金槌を振りかぶる。

「女と男が別れるのに……」

と、金槌が振り下ろされるその瞬間、凛とした、それでいて無邪気な声がガラスの空間を震わした。
「うがっ……!」続いて低いうめき声と、壁に肉が叩き付けられる鈍い音が響き、最後にナイフの落ちる疳高い音が響いた。
一瞬の隙をついて“それ”を羽交い締めにして地面に押さえつけたのは、先ほどまで虫の息だった小夜だった。
「『楽しかった』はないんじゃないかな? やっぱりちゃんと言わないと。ねぇ佐美クン」
「………俺は」
佐美はまだ放心状態のようだった。小夜の方を向いていて表情はこちらから見えないが、背中がどんな顔をしているか教えてくれる。改めて細い背中だと思った。
「俺はどうでも……どうせ結果は同じだし」
子供が言い訳をするようなか弱い声だった。初めて、彼の弱さを知った気がした。
「へぇ、そう」
小夜は暴れる“それ”を床に押さえつけながら、溜息混じりに言った。
「どうでもいいなら、そんなもの出ないでしょ?」
「……ぁ」
佐美の華奢な手が自分の頬に触れた。そして自分自身に驚いたような声を発する。
「俺は……」
「行ってきなよ。言い残したことあるんでしょ? 後悔するよ」
小夜は子供を諭す母親の笑みを浮かべた。
「ほら、男の子でしょ? 逃げないで」
「…………………子じゃないし逃げてなんかねぇ」
ゴニョゴニョとはっきりしない言い訳をした後、少年は服の袖で顔をゴシゴシと擦った。
「あー」と彼の口から苛立たしげな声が腕の隙間から漏れる。
「……はぁ」
キュッ、と溜息と共に靴底がガラスを擦る音がした。




情けない。
と、佐美は心の中で毒づいた。
こんな簡単な答えもわからなかったのか自分は。できれば思いっきり叫びたい気分だった。思ったより自分は鈍いことに今頃気づいてきた気がする。
「あー」
思う存分袖で目を擦った後、先ほどの場面を3回ぐらい反芻してさらに情けないと思った。腕に顔を埋めて頭を冷やす。
断るとか…無理だよなぁと往生際の悪い事を考えたら溜息が出た。後戻りはできないか。
「はぁ……」
もう一度溜息をついて、凄まじく抵抗をする足を引きずるようにしてその場を回れ右をした。ガラスの床に付着した自分の血のせいで靴底が思ったより大きい音を立てる。
「…………………」
一歩足を薦めるたびに、薄い赤毛の少女の姿が近づく。悲しみと喜びが同居した何というか複雑な表情だ。
2歩手前、1メートル弱ぐらいの距離で、佐美は足を止めた。薄茶色の瞳と視線がぶつかる。
「あーなんだ……」
「えっとあの……」
2人は同時に声を発した。一瞬奇妙な沈黙があって、微かに笑い合う。こうして話すのが久しぶりな訳でもないが、新鮮な感じがした。
「お別れ…だね……」
佐美は頷いた。
「ああ。でも、言い残した事がある」
「……うん。聞いてあげる」
頭に血が上るのがわかった。動いてないとどうかしそうだったので、小さく一歩前に出た。さらに動悸が速くなって逆に後悔した。
「俺さ……」
言葉を一度止め、深く深呼吸してみる。
「俺……沙希のこと、好き…なんだと思う」
もうちょっと工夫した言葉はないのかと思える言葉を言い終えると、透き通りそうなほど白い沙希の頬に、うっすらと朱がさした。
沙希は、悪戯っぽく首を傾げた。
「だと思うの?」
沙希は笑った。だから、つられて自分も笑った。その笑顔を見たら、緊張が解れた。
「いや、なのかな…と」
「なのかな、なの?」
「いや、多分」
「多分?」
「うーん…初めてだから…な」
「ふーん。それで?」
「……あーえーと……」
言葉を紡ぐのが面倒くさくなって、沙希の肩に、そっと手を回した。思いつきでやってしまったのでどうかと思ったが、沙希は抵抗なく、佐美の胸辺りに顔を埋めてくれた。髪の毛の香りが誘うように鼻を刺激した。出会った時と変わらない、甘い香りだった。
「俺、沙希が好きだ。誰よりも。もう会えないかもしれないけど、この瞬間を忘れたくない。沙希もそうであって欲しいと思う」
一拍おいて、
「……うん。嬉しい」
強く、背中に回っている小さな腕に力が入った。佐美もそれに負けないほど、強く沙希を抱きしめた。そこに実在するモノを、確かめるように。
しばらくして、ゆっくりと2人は離れた。
「未来に、佐美君が私意外の人を好きになって結婚とかしても、私を忘れないで…好きでいてくれる?」
「ああ。絶対、ずっと、この想いは変わらない。約束す……あ」
と、佐美は唐突に何かを思い出した様な声を出した。
「約束って言えば、この前何かしてあげるって言ってなかったっけお前」
「約束? えっと……あ、言ったかも」
たしか、着替えたいとか言っていた時だ。なぜか何となく覚えていた。
いいこと思い付いた。
「じゃあ、やって欲しい事がある」
「なに? 時間の掛かることは無理だと思うけど……」
チラッと小夜達の様子を見る。確かに、もう少しで“それ”が拘束から抜け出しそうだ。
「大丈夫だ。今じゃなくていい。ただ、いつか……」
佐美はそう言って、床の金槌を拾い上げ、沙希に差し出した。
「俺と会ってほしい。生きて、沙希と会いたい。それでその時に……その…キスとか」
と、突然、何となく明後日の方向へ向けていた顔を頬を掴まれて正面に向かせられた。
「ちょっ……!?」
「………っ」
唇にくすぐったい吐息が掛かり、一瞬だけ柔らかいモノが触れた。世界が回ったような気がした。
「……っ!!」
「えへへ」
中学生がするような、唇を合わせただけの、けれども初めてのキスだった。
驚愕に顔を赤くしながら唇を奪った犯人に向き直ると、彼女の方も気の毒なほど顔が真っ赤になっていた。
「今度は、佐美君の方からしてよね?」
「……俺がするつもりだったのに……」
「いいからいいから」
沙希は相変わらず微笑みながら、差し出された金槌を手に取った。その重さに、微笑みは消える。
「…………………」
硬く唇を引き結んでいる沙希の細い手に、男にしては華奢で角張った手が重なった。
「手伝う」
「……ありがと」
沙希に微笑みが戻った。
「やめろっ!」
「佐美クン! 沙希ちゃん!」
小夜が警告を発する。“それ”が近づいてくる。手に力が入る。
「じゃあ、また」
「ああ。また」
短いやりとりの後、二人は重い金槌を二人で振り下ろした。
「やめっ――!」

カーン――……

薄暗いコンクリートに囲まれた廊下に、鉄の落ちる音が静かに反響した。




〜エピローグ(絶え間ない暇による暇つぶしの日記)〜

あの日から2日。結局、あの日から全ては元通りになった。
扉を叩き割った途端にコンクリートの廊下に変わった、あのガラスの空間はもうない。ビルも壊されたそうだが、業者の者に聞いてもそんな地下室などなかったという。まぁどうでもいい話だ。
そう言えば、小夜って女もどこかにいなくなった。元々この辺の住人じゃなかったようで、用は終わったとばかりに風のように去っていった。なんでも、依頼料ってのはいらないらしい。よかったな。それに広之も、この世界の沙希も、みんな戻っていた。飛ばされていた時の記憶はないらしく、話した途端むちゃくちゃ変な顔された。あれは俺のミスだ。広之に言った俺が馬鹿だった。という事にしておく。まぁ終わったことはどうでもいいか。
ああ、あと最後まで謎だった“それ”がこの世界の人間だと言うやつが今日やっと解けた。解けたというか、直感でそう思ったのだが、考えてみれば簡単な話だ。要するに、記憶の一部が共有された訳だ。奴が俺の記憶に細工したように。世界は入れ替わっていないのに、記憶だけ変わった。ただそれだけだ。多分ブランコから落ちた時のショックからだと思う。頭の中に響いたもう一人の俺みたいな奴も、きっと他の世界の自分だと思う。もうどうでもいいけどな。
どうでもよくない話。
今でも思い出す。あの日の彼女の表情を、声を、甘い香りも……気持ちに答えてくれ時の、あの不思議な感じも。それに約束も忘れていない。無理ってのはわかってる。俺だって馬鹿じゃない。でも、嘘と希望を持つ事とは違うと思う。俺はそう、信じてる。たまには情報部のキザ部長の名言も役立つもんだ。
あ、もう一つ謎があったな……うん。いつからあいつは、俺を名前で呼び出したんだっけ……?
どうでもいいな。


「ふぅ……暇だ」
と少年は溜息をつきながらペンを置いた。ヒュウ…と家の中に草の香りのする風が入り込んできた。
「あー…玄関、開けてたっけ」
風の吹いてきた方向をボンヤリと見ながら、少年は低く少し掠れた声で呟いた。
「ん?」
と、不意に気付いて視線を落とすと、風に乗ってきたのか一枚の紙切れが少年の指に挟まってピラピラと風に靡いていた。別に目的もなく、その紙を拾い上げる。小さい文字が書かれていた。
「なになに……一度限りの招た――」
キップくらいの大きさの紙に書かれた文字を見た途端、少年は突然立ち上がり、転げそうになりながら玄関へと走っていった。
ヒラヒラと、『一度きりの招待券(使用済み)』は誰もいなくなった部屋で舞った。

甘い香りのする風が、家の中に駆け抜けていった――

                                                        END
2005/06/01(Wed)21:36:11 公開 /
■この作品の著作権は崎さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めて書き込みます。下手かもしれませんが(いや実際そうなんですが)感想やアドバイスなどをもらえれば非常に光栄です。
あと、『佐美』は『サミ』と読みます。
ジャンルはよくわからなかったんですが、多分ミステリーかと。
うわっ…書いてたら文章ばかりになった気が……。
と、取り敢えず、よろしくお願いします。

そうですね、ファンタジーと思います(自分でも)。すいません。
皆さん、アドバイスありがとうごさいます。

自分でも何がなんだかな書き方になったと思います……まだ表現力がたりないな。もっと練習しなければ……

初めての高校生活…忙しすぎです。おかげでこんなにも時が経ってしまいました。本気ですみません。
で、“扉”はこれで終わりです。間が空いちゃったんで矛盾点があるやも知れませんが、文法間違っている所もあるやも知れませんが、終わりです。またこんな事がないように、今度は計画的に書いていきたいと思います。と言うわけで未熟者ですがまだ書こうと思いますので、またアドバイスお願いしたいと存じます。
今までアドバイスして下さった皆さん、本当に感謝しています。ではまた。
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