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『牛 鬼  8』 作者:オレンジ / ファンタジー ファンタジー
全角26545.5文字
容量53091 bytes
原稿用紙約77.2枚
 
        1

 松庵(しょうあん)とその弟子二人は、編み笠を被り、蓑を纏って海岸沿いをもくもくと歩いていた。午前中に降り出した雨は静かに三人を濡らす。海からの吹き付けは全く感じられず、雨粒達は天から垂直に松庵一行の下へ絶える事無く落ちてくる。手にした錫丈の音と、水溜りに足を差し入れてしまった時に発する「ぴしゃり」と言う音が時折聞こえる事以外は、雨粒達が奏でる静かな旋律を妨げる物は無かった。松庵達の左手に広がる海面は、この雨の影響を多少は受けているであろうが、それ程時化てはいなかった。干潮時だろうか、波は街道のはるか先までしか届かない。その表面はしかし、黒く濁り、波の白い泡が紋様の様に浮かぶ。まるで黒曜石をこの広い海原一面に敷き詰めたかのようである。
 松庵は、幽霊や妖怪など魔物を退治する専門の僧侶である。齢既に五十を越えるも、その卓越した能力に衰えは無く、その技の切れは、他の同業者から頭ひとつ飛び出た存在であった。「松庵和尚の前に魔物無し」などと噂され、その名声は諸国に知れ渡っていたのである。
 松庵一行は「孫に魔物が取り憑いたかも知れぬ」という南方のとある村の大庄屋の屋敷へ向う途中であった。予定外の雨に襲われ、その行程は思うように進んでいない。間もなく夜も更けてくるであろう、見知らぬ土地の夜歩きは、たとえ体躯の良い男三人連れとはいえ少々危険である。本来の予定では、間もなく庄屋の屋敷に到着する筈だった。しかし、目的の村はこの海岸を過ぎた先である、更にはこの雨である、日没までに辿り着けるかどうか微妙なところである。何はともあれ松庵一行は大庄屋の屋敷へと一心不乱に進むしかなかった。
 
 海岸沿いに伸びていた街道が、少し反れて山の方へ向き掛けた辺りに松庵一行が差し掛かった時、その岩は姿を現した。見渡す限りに続く砂浜の中に突如として大地から顔を覗かせているその巨大な岩は、有に高さ十尺を越えるであろう。松庵は、その岩を見て「鬼の頭」を連想した。
 そして、その次に松庵が認識したものは、若い女の姿であった。その女は岩の中腹辺りにある少し平たい場所に、雨具も身に着けず、薄いかすりの着物一枚で座っていた。その視線の先は遠く地平線の更に向こう側の世界を見据えているようだ。どれ程の間雨に打たれていたのだろうか、背の中ほどまで伸びた黒髪はすっかり濡れ、顔や体に纏わりついている。肌も心なしか青ざめているようだ。女は雨に打たれながら、その胸にしっかりと赤子を抱いていた。まだ生まれて間もない赤子だ。赤子は特に愚図る様子も無く、大人しく女の胸の中に収まっていた。
 松庵は、その女の尋常ならざる姿に思わず見入ってしまい、不覚にもその歩みを止めてしまう。
 女と目が合った。
 女は松庵の彫の深い端正な顔をしばらく見つめると、不意に立上り、目を細め軽く微笑み返してきた。
『ああ、なんて幸せそうな笑顔なのだろう……』
 松庵も、女に微笑み返す。滅多な事では笑顔を作る事の無い松庵にとって何日振りの笑顔だろうか。
『不思議だ、此れほど幸せそうな笑みを見た事が無い……』
女は、ただ松庵の顔を見つめ微笑んでいるだけで、そこから動こうともしない。動き出したのは、五十を過ぎた壮年の男の方であった。松庵は、女の微笑みに引き寄せられる様に、一歩又一歩と街道を外れ、砂浜の巨大な岩に向って歩き出した。
「放ってはおけぬ……」
 どうやらその様な事を口走ったらしいが、松庵本人は記憶に無い。
「お師匠様、お待ちくだされ!寄り道をしている暇はございませぬ」
 その言葉で、松庵は弟子の存在を思い出す。自分のすぐ背後で弟子が叫んだのだ。
「お師匠様、今は他人に構っている時間はありませぬ。先を急がねば、我らが路頭に迷いましょう」
 弟子達の諌めにより、松庵は忘れかけていた自我を取り戻した。そう、確かに自分達の目的は、日没までに大庄屋へ辿り着く事だ。其処で、我々を必要としている者達が首を長くして待っているのだ。自分は、何を血迷ってしまったのだろうか。松庵は、再び街道へ戻り、先頭を歩み始めた。右手に握った錫丈が松庵の歩きに合わせて「しゃんしゃん」と鳴る。
 この歳になるまで、修行や退魔行に明け暮れ煩悩とは一切無縁の生き方をしてきた松庵にとって、この様な事は初めてだった。時折、妖怪の類が幻術を使い松庵を魅惑し陥れようとする事もあった。しかし、松庵はその強靭な精神や固い信念によってその様な幻術は悉く跳ね返してきた。また、私生活でも、浮いた噂なども聞いた事が無い。当然ではあるがこの歳まで伴侶を連れた事も無い。それが、何故あの女に対しては違ったのだろうか。弟子の二人も不思議に思ったに違い無いだろうが、最も腑に落ちないのは松庵本人であろう。
 女は、岩の上に立ちつくし、松庵の姿を微笑みを持って見送っていた。
 女の長い黒髪を伝い、雨の雫が毛先から零れ落ちる。
 依然として雨は降り続く、女の体を包み込むように。


 松庵一行が、村の大庄屋、「大滝家」に辿り着いたのは、山の麓に日が落ち掛かる丁度手前頃だった。当然、この雨模様では日の位置を把握する事は出来ないし、周辺は既に暗闇の支配下に置かれていた。それでも無事松庵達が屋敷に辿り着く事が出来たのは、庄屋の主人が使用人を村の周辺に何人も配置させていたからである。予定の時刻を過ぎても、松庵達がやって来ないので主人が心配になり、配慮したようだ。
 使用人に先導されて、松庵一行は、高い白壁の塀に囲まれた暖かい屋敷の中へ招き入れられた。
「ようこそおいで下さいました。長旅お疲れ様でございましょう」
 屋敷の主人は、深くお辞儀をして慇懃に松庵一行を出迎えた。
「雨に当てられ、お体が冷えていらっしゃいましょう。お風呂を沸かしてありますのでまずはどうぞ」
 主人は肉付きの良い愛嬌のある顔に皺を蓄えた、正に大旦那の顔つきだ。とみに明るく振舞い、松庵一行の歓迎気分を壊さぬ様に気を使っている所が、その少しやつれた面持ちから想像出来た。
「いや、お心遣いかたじけなく思いますが、その前に、そのお孫さんを見せていただけませぬか。何事も早い方が良い」
 松庵はそう言って、主人の申し出を丁寧に断った。確かに、何事も早い方がよい。魔物に関して言えば、松庵達がやって来た事を察知して、急激な変化を起す場合もある。それが取り返しのつかない事態へとなるかも知れない。何かあってからでは遅いのだ。
「いや、しかし……既にお席も用意してございますので……お疲れでしょうから、今日はゆっくりなさいませ」
 主人の誘いは少々強引であった。松庵達が、その対応に苦慮していると、奥の方から一人の男が姿を現した。
「親父、それなら今から見ていただいたらどうだ」
 その男は、庄屋の主人の息子、今回魔物が憑いたと思われる子供の親、助清(すけきよ)である。がっちりとした鍛え上げられた体が威圧感を醸し出す。
「遠路はるばるご苦労様でした。早速で申し訳ないのですが、私の息子を見てやって下さい」
 男は父親のすぐ隣に正座をし、深々と頭を下げた。
「こら、助清、勝手な事を言うな。松庵殿はお疲れなのだ、失礼だろう」
「いやいや、ご主人、私共は構いません。ご案内頂けますか?」
 松庵は、そう言いながら編み笠を脱ぐ。松庵の頭髪の無い頭が露呈する。
「ありがとう御座います。では、こちらへどうぞ」
 松庵一行は、助清の先導で屋敷の奥へ向い、その後を屋敷の主人がしぶしぶ追っていった。
 松庵達が通された座敷には、薄暗い行灯の明りを受けながら、一人の女が手前に敷かれた小さな綿の布団を被った己の子供を見つめて、ひっそりと座っていた。女のまとめ上げた髪の毛には生気が無く、後れ毛が良く目立つ。行灯の光は、女のやつれた顔に陰影をくっきりと浮かび上がらせていた。
「お梅、様子はどうだ?」
 助清は、座敷へ入るとすぐさま、自分の妻に息子の様子を尋ねた。
「今は、大人しく眠っています……でも」
「もう大丈夫だぞ、松庵殿がお見えになったんだ」
 助清の妻、お梅は自分の旦那のすぐ後ろに立つ、禿頭の偉丈夫を見つけた。この人がかの有名な退魔師、松庵なのか。やっと私の目の前に現れてくれた。私の愛しい子供の救世主となる人物。
 お梅は座ったまま、松庵の方へ向き直り、軽く会釈をした。
「松庵殿、こちらへ来てわが息子を見てやって下さい。このおぞましい姿を」
 そう言って、お梅は松庵とその弟子達を座敷の中へ導く。
 松庵は、促されるままにそのやつれた女の横へと座り、軽く頭を下げる。それに続いて弟子の二人も軽く頭を下げた。退魔師三人の頭が上ったのを確認すると、お梅が綿の布団に手を掛けて、そっとその裾を折り返した。布団の中に納まっていたモノが、姿を現す。松庵達の視線は、自然と布団の中へと落とされる。
「む、むう……」
 思わす松庵は、唸り声を上げてしまった。
 布団で寝ていたのは、確かに大きさからしてまだ生まれて間もない赤子だろう。しかし、その姿は……。その小さな体は麻縄によって何重にも縛り上げられていて、とても赤子の扱いではない。赤子に対する扱いもさることながら、松庵達が最も驚いたのは、その顔であった。
「もう、半月程前でしょうか……」
 事を見守っていた助清が、座敷の中へと進み来て語り始めた。
「それまでは、息子は怪我や病気も無く、すくすくと成長しておりました。間もなく一歳の誕生日を迎えるというある日、息子の頭には、ご覧の通り二本の角が生えきたのです。始めは、頭をぶつけて瘤でも作ったのだと思っておりました。しかし、日が経つにつれ、その瘤と思っていたものは段々と伸びてきたのです。この辺りで名のある医者にも見せましたが、原因はさっぱり掴めず……。更には、この剛毛……とても赤子の顔とは思えぬ髭面……。そして、まだ歯も生え揃わぬのにこの犬歯だけが異様に長く鋭く顔を出してきて……」
 そこまで助清が話すと、すぐ横のお梅が、さめざめとした泣き出した。助清は、更に話を続ける。
「息子の泣き声は、まるでケモノが吼えているかの様に野太い物となり、そして、その力が……とても赤子の物とは思えない……。暴れ出すと、大の大人が三人がかりでも手が付けられない事もあります。まだ歩く事さえままならないというのに」 
 助清の説明どおり、その赤子の頭には、大きくうねった凶暴な角が二本生えている。そして、口元から鋭い犬歯が姿を出し、顔中髭を生やしている。頭髪も、産毛は見当たらず、剛毛が生えている。それは、まるでケモノの毛の様であった。隣では、お梅がとめどなく溢れる涙を堪えようと必至になっている姿が見えた。
『これは、恨みや妬み等の怨念や呪術の類では無いな』と松庵は自分の直感と、今までの経験によってまず判断を下した。この屋敷に入っても恨みや妬みといった念を感じ取る事が出来なかったのだ。また、呪術では、人の姿をこうまで変えてしまう事は出来ない。これは、まず人に在らざる者が関わっていると見た方が良い。妖怪の仕業か。
「いかがでございますか、松庵殿。息子は、息子は……助かりますか?」
 助清は、悲痛な思いを松庵にぶつける。
「情況は掴めました。明朝、護摩壇を設けて祈祷をしてみましょう。それでどのような反応を見せるかで、やり方を決めます」
「息子には何が起きたんですか?何故、息子がこんな目に。松庵殿、原因は何ですか?」
 泣きながら、お梅が松庵に詰め寄る。
「まだ、何とも言えません……明日行う祈祷の反応によっては原因が解るかも知れません」
「そんな、明日と言わず、今からでもやって下さいまし」
 お梅は更に詰め寄る。流石に見兼ねて、助清がその間に入った。
「我々は、今から明日の祈祷に備えて清めをしなければなりません。一晩お待ち下さい」
 松庵の後ろに控えていた弟子が口を挟む。
「そう言った訳で御座います。どうか、ご理解を……」
「失礼致しました。長旅でお疲れの所でしたのに、無理を言ってしまいまして」
 助清とお梅は、そう言って自分達の非礼を詫びた。それを受けて、松庵は若夫婦に語りかける。
「いえ、いいのですよ。お気持ちは察します……ところで、ひとつお聞きしたい事があるのですが」
「何でございましょう?」
「この辺りに、古くから伝わる妖怪や化け物の話などはありませんか?」
「え、妖怪でございますか?」
 助清は聞き返す。
「そうです、昔、この辺りで妖怪が暴れたとか、雨の夜になると現れる得体の知れない化け物がいるとか……」
「さあ……その様な話は、この村には無いですねえ」
 助清とお梅は目を合わせて確認してみたが、お互い心当たりは無いようだ。
「妖怪の話ならありますぞ。その二人は若いので知らんかもしれぬ」
 口を挟んだのは、助清の父親、この屋敷の主人であった。
「私が子供の頃、良く爺さんに聞かされていた話なのだが、その昔この村の近くにある浜辺に『牛鬼』と呼ばれる恐ろしい妖怪がおったそうな」
「ぎゅうき……ですか?」
 その名を聞いて、松庵の顔が少し曇った。
「そう、動物の牛と鬼で『ぎゅうき』と言います。何でも、人を丸呑出来る程の大きな体と口を持ち、頭は鬼の顔、体は蜘蛛の様に何本も足があって海から這い出てきては、村を襲っていたそうです。村の人間も牛鬼を退治しようとあらゆる事をしたそうですが、全く歯が立たず、困り果てていたようです。そんなある日、各国を修行の旅で巡っているという僧がひょっこりとこの村にやって来たのです。村人から頼まれ、その修行僧は牛鬼を退治する事を決めました。修行僧は、霊峰と呼ばれる山へ弟子達と共に向い、魔法を使い巨大な岩を切り出し、村へ運んで来たのです。そして、その岩にお札を貼り牛鬼を岩の下敷きにして封印してしまったというのです。その岩が、松庵殿もご覧になったかと思いますが、この村外れの浜辺にある巨大な岩だというのです。あの岩を、村人は『牛鬼岩』と呼んでおります」
 松庵は、じっと主人の話に聞き入っていた。その岩とは、多分あの赤子を抱いた女が座っていた岩だろう。あの女、雨に打たれ今頃どうしているのだろうか。松庵の頭の中に、女の濡れた笑顔が過ぎる。
「まあ、これも迷信の類でしょうな。実際あれほど大きな岩を切り出し、運んで来る事など不可能でしょう。よほどの神通力でもない限り。あの岩が、鬼の頭の様に見えるからその様な名前が付いたのだと私は思いますがね」
「なるほど……その言い伝えでは、牛鬼は封印されただけで死んでしまった訳ではないのですね」
「そうですねえ、確かに私の爺さんは岩の下敷きにして封印したと言ってました」
「解りました。どうもありがとうございます」
 松庵は両の掌を合わせて主人に礼を述べた。
「いえ、どういたしまして……何か孫の件の参考になりましたでしょうかねえ」
「いちおう、知識としてこの辺りの伝承や昔話は頭の中に入れておいた方がやり易いですから。……今回の件は、多分相手は人間以外の物でしょう、少々時間がかかるやも知れません。ですが、諦めずに頑張りましょう。いいですね、何があろうと諦めてはいけません……」


          2

 松庵達は、身を清める為に別室へと移動した。結局、主人の用意した風呂も、宴席も無駄に終わってしまった。まあ、その宴席の料理も、魚や肉などが大量に使われた物だったので、席に着いたところで松庵達は口にする事も出来なかったに違いない。退魔師の一行は、自分達で用意した握り飯を普段どおりにほお張っていた。やはり、体が資本の商売である、腹ごしらえは何があろうと必要だ。
「もし、牛鬼が相手となると、非常に厄介だな……」
 握り飯を口へ運ぶ手を止めて、松庵が呟く。
「お師匠様、そもそも牛鬼とはどの様な妖怪なのですか?あのご主人の話だけでは実態がつかめませんでした」
 松庵が、『厄介だ』などと口にする事は非常にめずらしい。その為、二人の弟子は正直、不安を禁じえないでいた。松庵は腕を組み、首を傾げて何やら考え込んでいる。
「牛鬼とは、得体の知れない妖怪だ。迂闊な事は出来ん。牛鬼に関する文献は、数多く残っておるのだが、その正体は諸説あってな、全く掴み所のない妖怪なのだ」
 松庵のいつもと違う細い声に、弟子たちは一層の不安を募らせる。
「いつになく、心配なされているようですが、何故それほどまでに? 」
「牛鬼は、その容姿からして諸説あるのだ。まず、ここの主人が話してくれた姿、頭が鬼で体は蜘蛛の様だったという物。これは、しかし土蜘蛛と呼ばれる別の妖怪の姿と同じなのだ。次に頭が鬼で体が牛という姿の物、またその逆で頭が牛、体が鬼という姿の物もある。これは、地獄の門番とされる牛頭、馬頭(ごず、めず)に通ずる。牛鬼の事が書かれた最も古い文献には『恐ろしきもの』というくくりでいくつも単語が並べられている所に、(うしおに)とはっきり書かれてるのだ。呼び方も『うしおに』と『ぎゅうき』とあるようだが、『うしおに』のが一般的な呼び方らしいな。つまり牛鬼は、地獄の門番など恐ろしい物の代名詞的な存在で、実際それが存在するのかどうかさえはっきりしない妖怪なのだ」
「それで、つかみ所が無いと……」
「では、ご主人が話した昔話、そこに出てきた妖怪も実は牛鬼では無かったと……」
 二人の弟子は、交互に師匠へ質問を投げかける。
「先程の主人の話を考察すると、この村に現れた妖怪は土蜘蛛だったのかも知れない。しかし、土蜘蛛の名を知らない村人は、恐ろしい物の代名詞となって古くから伝わる牛鬼という名を使ってそれを呼んでいたと、そう考えられない事も無い……しかし」
「しかし……なんでしょうか」
「元来、牛鬼とは、海辺や水辺に生息していると言われている。これは、どの文献にもある唯一共通した点なのだ。一方、土蜘蛛は都に出没する妖怪と言われている。仮に土蜘蛛であるならば、海から現れる事は考え難い。そうすると、この村に伝わる妖怪は、やはり牛鬼なのだろう。だが、牛鬼にはまだ別の姿があるのだ」
「別の姿ですか……」
 弟子達は、この捕らえ所の無い話に困惑の色を隠せずにいる。
「そう、牛鬼は女の姿で現れる事もあるという。しかも、その手には赤子を抱いている事が多いのだ」
――赤子を抱いた女――
 雨に打たれながら、我々を笑顔で見つめていた女、あの顔が弟子達の脳裏に浮かび上がる。そして、牛鬼岩と云う名前の岩。いくら初夏とはいえ、平然と雨に打たれ続けている女の姿に感じた違和感が、ふっと何かに繋がった気がした。
「お師匠様、では……あの時の女は……」
「まだ解らぬ! 」
 松庵は、少し声を荒げて、弟子が言わんとする事を途中で遮る。松庵本人は、きっと屋敷の主人から牛鬼の名を聞いた時から、その繋がりには気付いていた筈である。その繋がりこそが、松庵をいちばん悩ませている要因であるのだろう。
「牛鬼は、人を喰らう妖怪として知られている。牛鬼の持つ妖力で人間の姿形を変化させる事など出来ないし、多分しないであろう。人の姿を鬼の形相に変えた所で、牛鬼には何の得も無いからだ。だから、今回の件が果たして本当に牛鬼の仕業なのか、牛鬼が何らかの事に係わっているのか、その辺りも解らないのだ……」
 松庵と弟子二人は、沈黙の世界に身を置く。いろいろ話は出てきたが、何一つ決め手となる素材が無い。出口の見えない洞窟を進む気分だ。
「どちらにしろ、明朝行う祈祷の反応次第だな」
 結局は其処に辿りつく。松庵達は、明日の祈祷に備え、清めの業に入った。


        3


 松庵一行が、大滝家に着いた次の日の朝は、雨上がりの所為か異様に蒸し暑かった。松庵の弟子達は、額に汗を滲ませながら、座敷に護摩壇を設けている。間もなくその作業も終わろうとしていた。慣れている作業とはいえ、この湿気と暑さで弟子達は、いつに無い疲労感に襲われていた。そして、それを更に助長させる様に、赤子の泣き声が屋敷中に響き渡っている。いや、赤子の泣き声というより、ケモノのうめき声という感じだろうか。角や牙を持った赤子をあやせる者など此処には居なかった。昨夜同様、赤子は麻縄で何重にも縛られ、身動きが出来ない状態だ。そんな赤子をどうやってあやし、泣くのを止める事が出来ようか。助清の話では、しばらくすれば疲れて大人しくなるという事だが、今日に限っては、朝からずっと泣き続けている。
 お梅とその姑は、その泣き声に耐え切れず、祈祷を行う座敷からは退出して、奥の間で事が済むのを待つ事にした。しかし、奥の間にいても赤子の泣き声はお梅達の耳に届いて来た。
「おかあさま、私少しお屋敷の外へ行きます。申し訳ございません」
 お梅はそう言って、重い足取りで奥の間からも出て行った。
 その頃松庵は、白壁の塀を出て、屋敷の四隅を清めに回っていた。塩と神酒を携えて、広い敷地の周囲を東から南へ向う。そして、西南の角に差し掛かかろうとする時、松庵はそこに人影を見つけてふと立ち止まった。人影は二つ、男と女の様だ。人影の辺りには、丁度屋敷の裏口がある。この二人、何を企んでいるのだろう。松庵は、慎重にその二人組に近づいていったが、すぐに気付かれてしまう。目と目があう。松庵は、その目に見覚えがあった。その女には、確かに昨日出会っている……あの海岸で、牛鬼岩の上から松庵を見つめる視線、長い黒髪……胸に赤子を抱くその姿、忘れる筈もない。松庵の脳裏に鮮明に映し出された記憶と、その女の姿が完全に符合した。
 女は、固まってしまった松庵の目を見つめ、軽く微笑み会釈をした。しかし、それだけだった。昨日あの雨の中で立ち尽くしていた事など、微塵も感じさせない、さっぱりとした出で立ちである。松庵は、何か口に出そうと必至だが、何も口をついて出てくる物は無い。不甲斐ないと自分を責める。更に言葉を失う、正に螺旋地獄である。
 しかし、その螺旋地獄から松庵を救ったのは、もう一つの、男の方の影であった。松庵にも引けを取らない立派な体格をした、青年である。
「お坊様、庄屋様のお屋敷で何が起こっているのでしょうか?今日は、用事がありこちらへ来たのですが、このケモノの鳴き声の様な物は一体……」
 その問いかけに松庵はふと我に返った。
 話を聞けば、この男女は、夫婦であるという。まあ、赤子もいるので至極当たり前な組み合わせであろう。そして、今日は、今年収める年貢の件で相談をしにこの大滝家にやってきたという事だ。いつもの様に裏口から入って、主人に逢おうとしたところ、何やら怪しい呻き声が屋敷の中から聞こえてくるではないか。少し怖くなって、屋敷の敷地内に入るのをためらっていた所、たまたま松庵が通りかかったようだ。
「一体、何があったのです?」
 真実を伝える事は出来ない。依頼者に係わる内容は、絶対に部外者に漏らしてはならない、それが掟なのだ。
「いや、大した事ではありません。ご心配なさらずに」
「たいした事ないって、じゃあこの鳴き声は何ですか?お坊様。何か不吉な予感がするのですが」
「別に何もありません。ここのご主人の年回りが悪いので、お払いをしているだけです」
 松庵が、苦しい言い訳を考えていると、突然裏口が開いた。そして、そこから、お梅が顔を出したのだ。
「あ、お梅」
「お梅ちゃんおはようございます」
「あら、重蔵さんにお松ちゃん」
 三人は、何食わぬ顔で会話を始めた。知り合いらしい。
 この重蔵(じゅうぞう)と言う男、庄屋の息子助清と同い年で昔からの遊び仲間であった。なので、他の村人とは扱いが少し違っていて、結構気軽に屋敷へも足を運べる立場にあった為、お梅もその顔を良く知っているのだ。その前に、お梅の兄は源治(げんじ)と言って重蔵、助清達の同い年仲間の一人であった。なので、それでなくても既にお梅と重蔵は旧知の仲ではあるのだ。助清、重蔵、源治にあと一人吾郎と言う男を加えた四人で、今に至るまで付き合いが続いている遊び仲間を構成していた。やがて、その四人も大人になり、源治の妹、お梅は幼馴染の助清の下へ嫁ぎ、その後、重蔵が、他所の村からお松を嫁に迎え、お松とお梅は同じ年に男子を出産し今に至っているのだという。
 松庵は、昨日見かけた岩の上の女が本当にお松なのか確認したかったが、何故か、口に出す事が出来なかった。真実を知るのが怖い?今まで数々の退魔行を行って来た。退魔行には、情報収集は欠かせない。どんな些細な事でも疑問に感じたら聞くなりして調べなければならない、そうしなければ自分の命にも係わる重大な失敗を起すかも知れないというのに、何をためらうのか。
 重蔵とお松は話がついた様で、お梅に挨拶をした後、松庵にも『ご苦労様です』と丁寧にお辞儀をして去っていった。重要な問題ではあるが、実際今日は年貢の話などしている場合ではないだろう。重蔵とお松は体よく追い返された格好となった。
 松庵とお梅は、去って行く夫婦の後姿をしばらく眺めていた。正確には松庵はその妻の後姿を眺めていただけかもしれないが。そして、お梅がその若い夫婦に送っていた視線には、憎悪の念が込められていたのを松庵は見逃していなかった。女の嫉妬ほど恐ろしい物は無いと彼は思う。今まで数々の呪いを祓っては来たが、女の嫉妬のなんと粘着性の高い事か。なるべくなら係わりたくない仕事である。
 ほぼ同じ時期に男子を出産し、むこうの子は愛情いっぱいに健康的に育っているというのに、うちの子が何故あのような目に逢うのだろう。何故、私なのか?といった気持ちがお梅の深層心理でとぐろを巻いているに違いは無い。
 謂れの無い憎悪を背中に浴びながら帰路に着く、髪の長い若い人妻の身を少し危惧しつつ、松庵は軽く頭を下げて、お梅の前を横切り再び屋敷のお清めを始めた。
「お松殿か……」
 松庵は、その名を無意識に頭の中で繰り返していた。

 お梅の兄、源治は大滝家から程近い、藁葺き屋根の一軒家に一人で住んでいた。幼い頃に両親を失くし、兄妹二人で世間の荒波を乗り越えながら、今まで暮らしてきた、そんな源治の全てが詰まった小屋である。
「兄さん、兄さん、開けて」
 家の入り口をドンドンと叩く音が聞こえ、源治は目を覚ました。それは、助清の嫁であり、源治のたった一人の妹お梅であった。
 源治は、冷たい板に横たえていた体を起してゆっくりと土間に降り立つ。
「お梅、どうした?こんな朝早くから」
 そう言いながら、入り口のつっかえ棒を取り払い、妹を中に引き入れた。もう、太陽はすっかり昇りきっており、日差しがさあっと土間を照らす。
「そういやあ、今日は例の坊さんか何かが来てるんだったなあ」
 源治は、右頬の古傷を摩りながら、妹に床に座るよう促した。
「どうなんだ、子供の方は?」
 お梅は、俯いたまま兄の問いに答える。
「もうすぐお祈りだか何だかが始まるみたい……でもあたし、見てられなくて……すごく泣くの、あの子、すごく苦しそうで……」
「なあにが苦しそうだ!甘い事いってんじゃねえ! 」
 源治は、俯くお梅を一喝した。お梅の体が条件反射的に強張る。頭を引っ込めて固く目をつむった。兄の拳が繰り出されるかと思ったお梅は、しかし肩透かしを食らった。兄は、拳を振り上げるより先に喋り出した。
「いいか、お前の子供があんな化け物になっちまった事が村中に知れ渡ったどうなると思う?お前は、化け物の母親として村中からひどい仕打ちを受けるに決まってる。あのボンクラの助清は責任逃れをするぞ、庄屋のメンツを護って。そうすると、お前一人だけが化け物の親って事になるんだ。終いにゃ絶対お前は村中になぶり殺しにされるぞ、もう目に見えてるだろうが! 」
 源治は、床板に拳を打ち下ろした。
「うん、わかってるけどさ、でも……」
「誰のお陰で今まで生きてこられたと思ってるんだ?お梅。俺が居なきゃ今頃は、とっくに飢え死にだ。お前は、俺のやり方に従っていればいいんだ」
 お梅は、眼に涙を浮かべ、兄の怒声を聞く。
「あの、お人好しだけが取り得の庄屋の息子に取り入って、お前を嫁がせる事までは、順調だった。だが、何故お前の子供があんな事になったんだ?俺達が、あの屋敷を乗っ取るには、お前の子が絶対必要だ、あの屋敷に俺達の血を残さなきゃあならん。だが、あの姿では、下手すれば、お前と子供、どちらも捨てられてしまう。そうなると、今まで俺がしてきた苦労は全部水の泡になっちまうだろ。お前の子供だけはどんな事をしてでも元通りにしてもらうんだ。苦しそうだ何だと泣き言を言ってる場合じゃないんだ」
 わが子の悲鳴に耐え切れずに訪れた実家であったが、更に追い討ちをかける様に浴びせられる兄の怒声。お梅の疲弊した心を癒す命の泉は何処にも湧いていない。腹の底から響かせる低音の源治の怒鳴り声を聞いて、お梅は幼い頃の辛い思い出を辿りながら思う。『やっと掴んだ幸せである。凡庸だが優しい夫もいるし、食べる事もそれ程不自由は無い。たとえ神様であろうと、この幸せをあたしから奪う権利など無い筈だ。それが、どうして……』
「さあ、屋敷に戻ってお前の子供の様子を見て来るんだ、ぐずぐずするな!……いいか、これは生き残る為だ」
 源治は吐き捨てる様に怒鳴ると、お梅に背を向け、再びその床に横になった。
 お梅は、今日最初の涙を零した。


           4


 その頃大滝家の座敷では、既に護摩壇に火が焚かれ、退魔師達による祈祷が始まっていた。部外者が立ち入らぬように、屋敷の周りは使用人が取り巻き物々しい様相を呈する。対魔師三人の、真言を唱える声が、競い合うように掛け合いながら、屋敷の空気を支配している。屋敷の中に出来たその異空間では、松庵と赤子の対決が繰り広げられていた。
 焼香の煙が鼻を刺激する、座敷全体を霞がかった様にぼやけさせる。そのぼんやりとした空気の先に、麻縄で縛り上げられた赤子が寝かされていた。腹の底から捻り出す様な叫び声をあげ、赤子はその頭を激しく振り苦悶の表情を浮かべている。
「苦しかろう!救って欲しくば返事をせよ。何故、この赤子に憑依する? 」
 松庵の背後では、弟子の二人が同じ真言を繰り返し繰り返し唱え続けている。五十鈴の音と、大音量の真言が人々の心を高揚させていく。その様は一種の集団催眠を彷彿させるものであった。
 赤子は、松庵の呼びかけには答えようとせず、ただ悶え苦しんでいる様だ。祈祷を始めて間もなく二時間が過ぎようとしていた。そろそろ、休憩を入れなければ赤子もそうだが、我々が疲弊してしまう。このまま同じ事をしていても多分埒は明かない、一旦休憩を取り、作戦を練り直すべきであろう。
『休憩に入る前に一つ試してみるか』松庵は、弟子に錫丈を持って来させた。五尺程の長さの、所々金が剥げ落ちた後がある鉄の棒を弟子から受け取ると、松庵はおもむろに立上り、足早に赤子の枕元に詰め寄った。松庵は赤子を見下ろした。赤子と松庵の視線がぶつかる。赤子の眼差しは、鋭く研ぎ澄まされていて、触れる物全てを切り刻もうとしている。松庵は、眼をかっと見開き、赤子の目玉を見据えて、叫んだ。
「まだ、喋らぬか!喋らねば、この錫丈でそなたの目玉を貫くぞ! 」
 赤子は、更に吼える、その視線を松庵の目一点に絞りながら。
「何とか申せ! 」
 赤子の姿勢は変わらない。松庵は、錫丈をぐいと振り上げた。
「きえええーっ! 」
 松庵の気合と共に、錫丈が赤子の顔面向けて振り下ろされる。無論、松庵は本当に赤子の目玉を貫く気など毛頭ない。本当にこの赤子は何も喋れないのか、寸止めをして、鎌をかけてみるつもりであった。周囲の者達は、彼が錫丈を振り下ろした瞬間、赤子の目玉が無残にも破壊され、そこから深紅の血が噴出す場面を思い描いていたが、その様な場面は
彼らの目の前では繰り広げられる事は無かった。
 錫丈は、赤子の目の前で寸止めされる前に、松庵の手を離れ、座敷の隅へ跳ね飛ばされていた。その腕に痺れを感じながら、松庵は一瞬何が起こったのか解らずに、畳の上に転がる錫丈を見た。赤子は、その凶暴にひね曲がった角を器用に使いこなして、自分の眼を襲う金色の錫丈を跳ね除けたのである。松庵が再び赤子に目を向けると、赤子は既に彼をその視界に捉えていた。その視線に込められたものは
――殺気――
 松庵は反射的に身構える。弟子の二人も、咄嗟に身構えた。
 赤子は、自身の背筋力を使って仰向けだった体を反転させ、うつ伏せに身構えた。その体勢の方が動き易いのは自明の利である 。
「ヤメロ……」
 赤子が口走ったその声を松庵は聞き逃さなかった。低くてかすれた声だったので、少し聞き取り難いが、確かに赤子はそう言ったのである。
「何を?」
 松庵が、聞き返すとほぼ同時であった。赤子は、その脚力のみを駆使して松庵に向って飛び掛ってきたのである。恐ろしい程の瞬発力と跳躍力で、赤子は松庵の首筋向って飛んでくる。少し不意を付かれた松庵ではあったが、体はしっかりと反応して、かろうじて赤子の角を避ける事に成功する。しかし赤子の角は、彼の顔の皮膚一枚を僅かに剥ぎ取っていった。そして松庵の横をすり抜けた赤子は、その後ろに控えていた彼の弟子の肩を鋭い角で貫いた。
「ぐっ」
 思わず、弟子が唸る。普段の彼ならば避けられない事態では無い筈なのに、やはりこの蒸し暑さと長時間の祈祷による精神力の低下が原因なのだろう。しかし、かろうじて急所からは外れていた。松庵は、片膝を付く弟子に手を差し伸べる。
「お師匠様、申し訳御座いませぬ」
 松庵が『大丈夫か? 』と聞く前に弟子は素早く謝ってみせた。赤子は、体を麻縄で縛り上げられた状態なので、手も足も使えない。よって自ら角を引き抜く事が出来なかった。だが、その体勢が嫌なのかじたばたと体をくねらせていて、それが更に角を奥まで食込ませる原因となってる。
「お師匠様、無理に引き剥がす事はありません。こいつが身動き出来ない今の内に!このままお続け下さい」
 松庵の弟子は、赤子がその肩で暴れる度に顔を痛みで歪ませるが、角を抜いてくれとは一言も言わなかった。松庵は、その弟子の心意気に痛く感じ入った。
「解った。しばらく我慢せよ」
 赤子の体力は未だ衰えていない。「ヤメロ」とうめきながら派手に体をくねらせている。
「貴様、喋れるのなら、何故、今まで何も言わなかったのだ」
 松庵が赤子に問いかける。赤子は、一瞬体の動きを止め松庵を睨む。そして、おもむろに喋りだした。
「オボエタ……オマエタチノコトバ、カンタン……スグツカエルヨウニナル……オマエタチ、喋レ喋レト煩イカラ、オボエテヤッタノダ……」
「覚えただと?それは、つい先ほど覚えたという事か? 」
「クダラヌ……」
 赤子は、再び角を肩から抜こうともがき出す。弟子が、痛みで顔を歪める。
「貴様の正体は何だ?何故、この赤子に憑依する? 」
「煩イ……オレハ、オレダ……イイカゲン二シロ……」
 赤子のかすれた声が妙に心に響く。
「この屋敷に何か恨みでもあるのか? 」
「オレニ、カマウナ……殺スゾ…… 」
 そう言って赤子は更に激しくもがきだした。どうも会話が成立しない。少しの苛立ちを覚えながらも松庵は、核心に触れる質問を赤子に投げかけた。
「貴様は、牛鬼なのか? 」


            5


「なあ、お松。やっぱり助清の所、何かあったんだろうなあ……」
 重蔵は、大滝家のあの奇妙なうめき声がどうも頭から離れないでいた。緑眩しい田植えが終わったばかりの田圃の中を、恋女房と自分の息子を連れて歩いている最中でも、あの不気味な声が頭の中で響いているのだ。
 お松は、重蔵の問い掛けには特に反応せず、両腕に抱きかかえた自分の子供をみつめていた。『我が女房ながら綺麗だなあ、いつ見ても』重蔵は、心底お松に惚れている。重蔵は、あの屋敷の声を頭から掻き消す為に、お松の事を考える事にした。

 もうあれから一年過ぎたのか。重蔵が初めてお松に逢ったのは、まだ肌触れる風が少し冷たい春間近の海岸であった。その日重蔵は、村外れの海岸へ晩飯に使うあさりを獲りに来ていた。腰に付けたびくも一杯になり、潮も満ち潮に変わってきたので、そろそろ帰ろうかと帰り支度をしていた時である。普段はあまり近寄らない不気味な岩―牛鬼岩―の近く、波打ち際に人の形をしたものが横たわっているのを重蔵は発見した。興味本位で近寄ってみると、それは、うつ伏せで半分海水に浸かった状態で倒れていた。長い黒髪に華奢な体、どうやらそれは人間の女性のようだ。しかし、黒髪の隙間から覗かせる顔は青ざめていて、血の気は全く感じられ無い。何処からかドザエモンが波に運ばれてこの砂浜に流れついたのだろう。『嫌なもの見つけちまったな』しかし、見過ごす事も出来ず、重蔵はそれをうつ伏せの状態からひっくり返してみた。腕や首がだらりとだらしなく曲る。女物の着物を纏っていた事もあり、確かに女だと解った。重蔵は、両の掌を合わせ拝むようにしてその顔を覗き見た。
 なんと美しいのだろう、と重蔵は、しばらく本当に時の経つのを忘れてその顔に見入ってしまった。鼻筋の通った、端正な顔立ちにきめ細かな肌。どれをとってみても、この世のものとは思えない美しさだ。この村では、源治の妹で幼馴染のお梅が村いちばんの器量良しとして知れ渡っているが、申し訳ないけど比較にならないと思う。
 重蔵は、しばらくその顔をみつめていたが、やがて、ふと空しさが心の中をかすめた。いくら美しくても、所詮は水死体なのだ。たとえ自分の今の気持ちを打ち明けた所で、肉の塊に話しかけているに過ぎない。そう思うと重蔵はいたたまれなくなり、その場から逃げ出したくなった。重蔵が立ち上がり、女を見ながら後ずさりを始めたその時、――ひたり――と何か冷たいものが足首に触れた。女の手である。弱々しいが確かに重蔵のごつごつのくるぶし辺りを握っている。
「ひいっ」
――死体が動いた――
 重蔵は恐怖におののき、その場に尻餅をついた。腰が抜けて思うように動けない。
「ああ、ひいい〜」
 情けない声を出してその場に座り込む重蔵だったが、次の瞬間、更に目を疑うような光景を彼は目の当たりにする。女の口元が、微かだが確実に動いているのだ。
「まさか、生きているのか……? 」
 重蔵は此処に来て、もう一度その女の体を良く見てみた。溺死をした者ならば、水をたらふく飲んで、腹はもとよりその顔も含めて全身が醜くむくれ上がっている筈である。しかしこの女は、外傷も無ければ、むくれてもいない。水浸しで顔面蒼白でなければ、普通に眠っているのではないかと思える程だ。重蔵は、恐る恐る女の体に近付き、その胸辺りに自分の耳をそっと置いた。弱々しいが周期的な鼓動が重蔵の鼓膜に響く。心音が聞こえる。生きている!
「おい、しっかりしろ! 」
 重蔵が呼びかける。女の口元が僅かに反応する。その口元へ重蔵は耳を近づける。弱々しいが、呼吸が確認出来た。しかし、何か言いたげなその口元からこぼれる息だけでは、この女が何を言おうとしているかは理解出来なかった。重蔵は、その女を肩に担ぐと、先程尻餅を付いた時にばら撒いてしまったあさりには目もくれず、自分の家へと歩き始めたのである。しかし、普通に歩いても一時間はかかる距離を女の体を担いで歩ききった体力は一体何処から出てきたのだろうか。
 重蔵は、家に着くとすぐさま自分の寝床をその女の為に提供してやった。母親に濡れた着物を着替えさせ、布団を在るだけかぶせて、女の体温を保温する。重蔵は、その枕元から一歩も動かずに、じっとその女の様子を見守っていた。
 驚いたのは重蔵の両親であった。息子は確かあさりを獲りにいった筈ではなかったか。それが、肝心のあさりは殆ど無くて、代わりに見ず知らずの女を持ち帰って来るとは。重蔵に問うても、その女の素性は知らないと言う。
 重蔵は、その女の意識が戻るまで、丸一日以上睡眠も取らずに見守っていた。女の目が覚めた時に感じたあの安堵感と嬉しさは、今となっては例えようが無いが、重蔵が生きていて初めて神を信じた瞬間だったのかもしれない。
 女は、お松と名乗った。しかし、どうも記憶の断片が途切れているらしく、何故自分が海で溺れていたのか、何処に住んでいたのか等はさっぱり思い出せないようだ。今は、要らぬ疑いを掛けられない様に、便宜上、お松は隣村の出という事にしてある。そんなお松に、重蔵が結婚を申し込んだのは、海岸で出あってからわずか三日後の事であった。「行き場が無いなら、俺の所に一生住んだらええ。面倒は見る。なあ、俺の傍にずっといてくれないか」
 お松は、断って、一時は夜中にこっそり出て行こうともしたが、重蔵のその優しさと押しの強さに根負けした形で彼の求婚を受けたのであった。後に、『重蔵は潮干狩りに行って嫁さんを狩って来た』などと揶揄される事となるのだが、それでも彼は幸せであった。お松も同様に重蔵の優しさに包まれながら、まるで故郷に住んでいるような居心地の良さを感じながら生活を営んだ。
 この夫婦に関して、不安や不和等という言葉は二人を死が分かつまで使われる事はないだろう。しかし、そんな中にも重蔵は、お松に対して少しだけ妙な所を感じる事がある。お松は死なないのだ。二人が夫婦になって二回ほどお松は命を落しかけたのだが、二回とも、奇跡としか言いようの無い回復を見せたのである。最初の出会いの時もどう見ても死んでいるとしか思えない情況から、息を吹き返したし、その次は、イノシシに追われて崖から転落した時、崖の下で発見されたお松は、首が異常な向きに曲り、耳や鼻から血を流していたが、それでもしばらくして息を吹き返したのだ。最近では、田の作業をしている時、手入れが悪かったのか、鍬の先が何かの拍子で柄から取れて飛んでしまった事があった。それが偶然にも、お松の頭に命中してしまったのだ。鍬の先はお松の額に深々と突き刺さり、その顔を深紅に染め上げていた。しかし、その時もお松は後遺症一つ無く持ち直したのである。重蔵は、そんな事を計三回は目の当たりにしている。偶然が重なったのか。お松の体はどうなっているのだろうか。いろいろな事が頭を駆け巡るが、重蔵は神のご加護だと信じている。それに、お松の笑顔をそのすぐ横でみていると、そんな事は他愛も無い事の様に思えてくるのだ。今、幸せならばそれでよい。良く働き良く笑う、母親としての責任感も申し分ない、器量良しのお松、お前と子供さえいてくれたら他には何もいらない。
 心の底から思う重蔵であった。


         6


「ギュウキ……」
 松庵は、その鋭い眼差しを赤子へと向ける。赤子の反応、その全てを見逃さないように。
「シランナ」
 赤子は、ふと松庵から視線を外す。何やら、反応が怪しい。
「隠すと為にならんぞ。貴様は牛鬼なのだろう」
 そう言って松庵は床に転がる錫丈を再び手に持った。錫丈の先の部分を持ち、おもむろにひねる。すると、ねじ蓋になっていた先の部分が取れて、そこから鋭く尖った鉄の刃が姿を現した。怪しく黒光りしたその刃先を松庵は見つめ、そして未だ赤子の角が刺さったままの弟子に語りかけた。
「赤子が暴れても耐えるのだぞ。しっかり抑えておけ」
「解っております、お師匠様……」
 松庵は、その刃先を赤子の臍のすぐ脇辺りに近づけた。
「貴様が牛鬼でないのなら、此処をこの刃で突いても大丈夫だな。ここには肝がある。貴様が牛鬼でないのならば、肝を突かれても死ぬ事はあるまい。肝は牛鬼の唯一の急所、さあ、正直に申せ。さすればこの刃を収めよう」
 すると、赤子の顔色が変わった。脇腹に突き付けられた刃先を見て青ざめる。
「どうした、何故喋らぬ、喋らねば……」
 松庵は、更に刃先を赤子の腹に近づけた。
「ヨ、ヨセ……タシカ二オレヲ産ンダアノ女ハ、ギュウキトヨバレテイタ……。ダガオレハ、イッタイ何ナノダ?オマエタチ、ウスギタナイニンゲンジャナイ事ハタシカダガナ」
「あの女だと? 」
 松庵が、赤子の発した言葉に気を巡らせていたそのほんの僅かの隙だった。赤子は、勢い良くその体を跳ね上げた。赤子の体は、錫丈の刃先を掠める。紙一重とは正にこの事だろう、赤子の体は、上手に麻縄だけを松庵の持つ刃先に合わせ、体の勢いだけで自分の体を取り巻く縄を斬ってしまったのだ。
 はらりと麻縄が畳の上に落ちた。赤子が、にやりとその口を歪める。赤子は、その短いが毛深い自分の手足を駆使して、松庵の弟子の体を蹴った。弟子の肩から角が抜け、その反動で、弟子の体は隣の部屋まで飛ばされる。赤子が飛ばされた先の護摩壇は、勢い良く飛んで来た赤子の体によって破壊される。折り重なる護摩壇の残骸を掻き分けて、赤子はまだ未発達である筈の短い足で立ち上がった。
 一部始終を見ていた大滝家の主人や助清達は、あまりの事にただ、呆然とその場に居座る事しか出来ないでいた。
「オマエタチ、オレノイヤガル事バカリスル……。オマエタチキライ、ニンゲンキライ!殺シテヤロウカ……」
「危ない、皆逃げるんだ、この場から逃げて下さい! 」
 唖然としている大滝家の人々に、松庵は怒鳴る様にしてこの場所からの非難を命じた。
「皆を、安全な場所へ誘導するんだ」
 次に松庵は、肩に怪我を負っていないもう一人の弟子に、大滝家の人々の安全確保を命ずる。
「さあ、早く、こちらへ」
 我に返った大滝家の人々は、事の緊急さに気がついて、我先にと座敷から逃げ出す。
「こ、殺してくれ!もうそんな孫は要らん!さっさと殺してくれ! 」
 大滝家の主人は、そう言い残して、一番最後に座敷から出て行った。それを見て、弟子も大滝家の人々の後を追って座敷を出て行った。
 松庵と赤子、そして肩を角で射抜かれ倒れたままの弟子、その三名のみが、この広い座敷に残る格好となった。依然として、赤子と松庵の睨み合いが続いている。が、口を開いたのは松庵であった。
「貴様の目的は何だ。何故、牛鬼である貴様がこの屋敷にいるのだ」
 それを受けて赤子は、面倒くさそうに喋りだした。
「ダカラ、ワカランノダ。何故、オレガココ二イルノカ。ドウシテオマエタチハ、オレノイヤガル事バカリスル? イイカゲン、ウンザリダ」
「また、そうやって誤魔化すのか?」
「ゴマカシテナドイナイ……」
 松庵は、再び真言の詠唱を始めた。右手で十文字に手刀を切る。
「ヨセ……」
 赤子が再び苦悶の表情を浮かべる。松庵は、ますます声量を上げ赤子へと近づいていく。
「苦しかろう、この真言が貴様を苦しめている事自体が、貴様が牛鬼である事の証だ」
 松庵は、左手に錫丈を携え、右手で手刀を切りながら更に歩を進める。赤子の呻き声が徐々に大きくなっていく。
「殺ス……」
 赤子の眼が松庵の喉元を捉えた。赤子は、予備動作無しで大きくそして素早く飛んだ、勿論、松庵の喉元をめがけて。松庵は、左手の錫上を振り上げる。すると錫丈の先は、赤子の角とぶつかり合い、金属的な高音がこの場所にいる全員の鼓膜を痛いほど刺激した。赤子は弾き飛ばされ、床の間の掛け軸にぶつかりそうになるが、体勢を空中で入れ替えると、その手足でがっしりと壁に張り付いた。松庵は、動じる事無く再び真言の詠唱を始める。再び、赤子は松庵に飛び掛っていった。しかし、今回も同様に錫丈の一撃を喰らい、無様に畳に背を打ち付ける格好となった。畳の上でもがく赤子を見下ろしながら、更に松庵は、詠唱を続ける。
「オマエ、ホントウ二イヤナヤツ……」
 赤子は、そう呟いて松庵を見上げた。その松庵の威圧感をまともに受けて、赤子は本能的に自分が敵う相手では無いと気付いた様だ。
「プッ――」
 赤子が、口から吐き出した物が、松庵の右スネの外側辺を直撃した。
「ケッ、ザマミロ……」
 赤子がその口から飛ばした物は、鋭い犬歯(というよりは牙に近いかもしれない)であった。松庵とのやり取りで、折れたのか抜けたのかしたのだろう。口から物凄い圧力で吐き出された犬歯は、松庵の右足を見事に捕らえたのである。一寸程の犬歯だが、確実に松庵の右足にめり込み、出血させている。また、犬歯が骨に達している可能性もある。
 それを見て、赤子は体を翻し座敷の外へと飛び出した。
「逃がすか! 」
 松庵が赤子に向かって飛びつこうとした時、右足に力が入らない事を彼の脳が察知した。しかし、体は既に飛ぶように反応していた為、松庵は足をもつれさせて、その場に倒れこんでしまったのである。
「逃げられる! 」
 松庵がそう思った時、障子の裏から閃光の様に飛び出す人影が、赤子の体をがっしりと捕らえた。その人影は、肩を負傷した松庵の弟子であった。弟子は、肩からおびただしい血を流しながら、赤子を縁側にねじ伏せる事に成功した。
 赤子が叫ぶ。その声を聞きながら、弟子は懐から短刀を取り出した。それを鞘から抜き取ると、赤子の腹、肝のある場所に狙いを着ける。
「止せ!その赤子を殺してはいかん! 」
 血が大量に抜けた所為で、血色の悪い顔を自分の師匠に向け直し、弟子は尋ねる。
「何故ですか!こやつは妖怪でしょう。もう正体は解ったではありませぬか」
「いや、違うのだ……」
「違う? 」
「もし、そなたがこの赤子を殺したら、次は、そなたが牛鬼となってしまうのだ」
「それは、どういう事ですか……」
「牛鬼は殺されると、その殺した者の体を使って復活してしまうのだ……」
 

             7


 松庵は、体を起して縁側へと向かう。足の方は、確かに犬歯が骨まで達している様だが、ほぼ問題なく動いた。足をもつれさせた原因は、突然侵入した異物に足の筋肉が反応し、一瞬だけ萎縮したからだろう。松庵は少しだけ右足を引き摺りながら、縁側の弟子と赤子の傍まで辿りついた。そして、顔面蒼白の弟子の顔を覗き込む。弟子の眼を見ると既に焦点が合っていない。最早、彼の目には松庵の全体像をはっきりと捉えられる程の力は無さそうだ。肩からのおびただしい出血は、弟子から視力も奪っていく。
「もう良い、後は任せよ」
 松庵はうつ伏せになった赤子の首元を掴んで、相当無理をしている自分の弟子に対して、赤子を押さえ込むその任から開放してやった。
「こやつは、まさしく牛鬼だな……。牛鬼、つまり鬼……」
 松庵は、自分の腕の下でもがく角の生えた赤子を見下ろす。赤子は弟子にかなり強く押さえつけられた様で、先程までの元気は残っていない。「ハナセ」だとか「殺ス」だとか汚い言葉で松庵達を罵るのが精一杯といった所か。
「鬼とは、古くは死霊や魂魄を意味する言葉であったのだ。やがてそれが、目に見えない物、隠れている物と言う意味合いを持つようになる。人間にとって目に見えない物は恐怖を非常にかき立てられる。その恐怖の形が鬼として今日まで伝えられておるのだ。昔の人々は、牛の角を持ち、その巨体を持って襲い来る化け物が、実は殺されると、殺した人間の魂を乗っ取り、再び復活するという事に並々ならぬ恐怖を感じたに違いない。牛の角を持つ魂の化け物……牛の鬼……それが、牛鬼の名の由来だろう。厄介な妖怪だ」
「お師匠様、ではこの赤子をどうするおつもりですか?殺せば、自分が牛鬼となってしまうのでは……手の施しようが無いではありませぬか」
 弟子の言は最もだ。松庵は、少し顔をしかめて弟子の言及に耳を傾ける。
「いくつか方法はあるのだが……」
「それは、どうすれば? 」
「まあ待て。まだ気になる点がいくつかある。それをもう少し調べてみてからだな」
 そう言って、松庵は懐から梵字の書かれた一枚のお札を取り出した。
「赤子よ、貴様も我々を相手にして疲れたであろう。しばらく体を休めておけ」
 言い終わると松庵は、二つ三つ短い呪文を唱え、そのお札を赤子の額に貼り付けた。すると、腕の下でもがいていた赤子の動きがぴたりと止まってしまった。罵詈雑言も最早その口から零れ出る事は無かった。
「よし、これで一晩は動けまい」
 松庵は、力なく横たわる赤子の体を抱きかかえると、先程の戦いで破壊されてしまった護摩壇に向かった。四隅に飾ってあった御幣を拾い集め、赤子を座敷の中央辺りに寝かせる。松庵は、その周りに御幣を立てていく。
「これで良い」
 そう言って、彼は次に自分の弟子を見やる。
「大丈夫か?早く傷の手当をしなければ……。ここは、任せておけ、お前はお屋敷の者達と行動を共にして、じっくりと養生するのだぞ。よくやってくれた、ありがとう」
 弟子は、朦朧とした意識の中でも、その顔を笑顔で歪めた。
「ははっ」
 深々と頭を下げると、師匠の肩を借りて彼は立ち上がった。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
 そう言って、弟子は屋敷の奥へと姿を消していく。
 嵐が過ぎ去った後の座敷には、お札が貼られ動けなくなった赤子と、禿頭の偉丈夫、退魔師松庵だけが残された。
「さて、どうするかなあ」
 そう言って松庵は、赤子のすぐ脇にあぐらをかいた。そして、横たわる赤子の姿を見ながら、話し始めたのである。
「しかし、貴様も可哀相だなあ。別に何か悪さをした訳でも無いのに、ただその容姿が人と違うというだけで、これ程の仕打ちを受けてしまうのだから。それに、ご主人のあの言葉は何だ『そんな孫は要らん、殺してくれ』だと……。仮にも自分の孫だろうが、それを殺してくれなどとよく言えたものだ。同情するぞ、貴様にはな」
 松庵は、独り呟きながら、なにやら心の中にやり所の無い怒りが湧き上がってくるのを感じていた。
「だがしかし、貴様をこのままにしておく事は出来まい。何故、貴様が此処に現れたのか、知りたいだろう。貴様も、きっと訳も解らぬまま、こんな事になってしまった事に戸惑っていたのだろ。……まあ、何となく全貌は見えてきてはいるがな」
 語りかけても、返事は無い。不毛な会話を続けている最中、松庵は庭先がどうも騒がしい事に気がついた。やがて、廊下を駆ける足音が屋敷の中を騒がせるようになり、その足音は座敷にいる松庵の元へ辿り着き止まった。
「お師匠様、お梅殿が、屋敷の皆に捕らえられて……!如何なさいますか!このままではお梅殿が……」
 それは、屋敷の住人を避難させた松庵のもう一人の弟子であった。
「お梅殿が……! 」
 松庵が最も危惧していた事が起こってしまったようである。お梅が牛鬼で、その為に、牛鬼と人間のあいの子が産まれたのであると大滝家の住人や一族は解釈したのだ。今、大滝家にとってお梅は、家に災いを運んだ憎き妖怪でしかない状態。間違いなくお梅は迫害され、命を落しかねない。
「バカな、まだそうだと決まった訳では無いのに。まずいぞ、無駄な血がまた流れてしまう」
「お師匠様、お梅殿は……」
「まだ、はっきりとした訳では無いが、多分お梅殿は牛鬼では無い。早く屋敷の者達を説得せねば、お梅殿は要らぬ罪を着せられ殺されてしまうぞ。今、皆は何処にいる?案内を頼む」
「解りました」
 松庵と弟子は、その理不尽な行いを静止させるべく、座敷を飛び出していった。

 お梅は、兄源治の冷たい言葉を受けて、失意のまま大滝家へと戻ってきた。途中、このまま屋敷へは帰らずに何処かへ消えてしまおうか、村の外れの大崖から身を投げてしまおうかなどと幾度思った事だろう。しかし、お梅はそんな時、頭に飾ってある唯一のかんざし、緋い珠のついたかんざしを触る事で心を持ち直してきた。この緋い珠のついたかんざしは、彼女の夫助清に唯一贈られたものであった。祝言の際に大滝家に古くから伝わる高価なものだと言って渡されたのである。この黒髪を纏め上げる緋い珠にそっと自分の節くれだってしまった指が触れる度に、自分には、優しい夫が居てくれるではないかと、心強く思えるのだ。
 やがて、お梅は屋敷の裏口に到着した。もう、子供の呻き声は聞こえては来ないが、どうも屋敷の中全体が物々しい雰囲気に包まれているのを感じながら、お梅は裏口を潜る。すると、お梅は、そこで長さ六尺程の木製の棍棒を持った使用人と出くわした。いつも見慣れたその顔は、お梅の姿を見た途端に引きつり、そして使用人は突然叫び出したのである。
「い、いたぞ!化け物の母だ! 」
 呆気に獲られるお梅に、突如使用人の棍棒が振り下ろされた。棍棒は、お梅の右肩をしたたか打ち付ける。たまらずお梅は地面にふさぎ込んだ。棍棒の攻撃は容赦なく二度三度とお梅を襲った。
 いつも見慣れた使用人の目は冷たく、空々しい。使用人は、お梅の襟首を掴むとそのまま体をを起させて棍棒を使って羽交い絞めの体勢に持っていった。
「この、妖怪が!よくも俺達を騙してやがったな」
 お梅は、訳の解らぬまま恐怖の中へ身を置いている。やがて、どやどやと数人がお梅の周りに集まってきた。その中には大滝家の主人と夫の助清の姿もあった。


              8


 お梅は、そのままの体勢で屋敷の裏、納屋の前まで集団で連行された。
「やめてください。なんなのですか?一体何があったのですか? 」
 懇願するお梅の顔を見る一族の眼は、冷たい刃物の様だ。お梅の扱いに一切の容赦は無い。引き摺られる様に納屋の前まで連れてこられたお梅は、体中青痣と擦り傷だらけであった。
「この妖怪風情が!よくも我が一族をたぶらかしおって。あやうく薄汚い化け物に屋敷を乗っ取られるところであったわ! 」
 大滝家の主人が、地面にうずくまったお梅を恫喝する。
「何の事ですか?あたしには何の事だかさっぱり……」
「とぼけおって、まだわしらを欺くつもりか?お前が牛鬼という化け物だって事は解っているのだ。わしの息子をたぶらかし、妖怪の子を産み、この大滝家を乗っ取る算段だったのであろう。何とも狡猾な雌妖怪よ。さあ、どうしてくれようか」
 いつしか、お梅の周りは完全に人の壁が出来上がってしまっていた。その威圧感は、小さくなったお梅の心持を更に押し潰す。
「あたしが妖怪?ご、誤解です……何かの間違いです、それは……。す、助清さま、何とかおっしゃって下さいまし、あたしが何故妖怪などと間違われなければならないのです、助清さま! 」
 お梅と助清の視線が交差したのはほんの僅かな瞬間であった。今までのお梅と助清の人生の中では、その瞬間など風に吹き飛ばされる塵芥程も無いだろう。だが、お梅にはそれは永遠に感じた。助清は、困惑した表情を見せ、お梅と眼が逢うと意識的にその視線を逸らしたのである。
「助清さま……」
 助清は、真っ青な空を見上げたまま、お梅の呼びかけには一切反応しない素振りを見せる。
「助清さま、何故何もおっしゃってくださらぬのです?助清さま、これは何かの間違いでございます」
 助清に詰め寄ろうとするお梅を、使用人が取り押さえる。
「この期に及んで往生際の悪い、こやつを縛り上げろ」
 お梅の叫びは誰の心にも届く事が無かった。最も信頼を寄せていた助清にまで、その門戸を堅く閉ざされるとは。
「助清さま……あなたまでもが信じて下さらぬのですか……」
 使用人の一人が縄を携えてやってきた。お梅は、その縄を見つめながら、既に抵抗する事を止めていた。
「さあ、この雌妖怪を締め上げろ! 」
 屋敷の主人の無慈悲な命令が下され、数名の使用人が動き出したその時、お梅を取り囲む人の輪の中に禿頭の退魔師松庵の太くてよく透る声が響き渡った。
「お待ちくだされ、何をしておられるのですか」
 人の輪がざわめき立つ。松庵とその弟子は、人の輪を掻い潜りその中心に位置するお梅の傍まで飛び込んできた。
「お梅殿をどうなさるおつもりですか」
 突如輪の中心へと躍り出た松庵に当惑せずに対応出来たのは屋敷の主人だけであった。主人は深くお辞儀をすると、「いやあ、松庵殿。この度は誠にありがとう御座いました。お陰で妖怪にこの屋敷を乗っ取られずに済みそうです。もうあの赤子の方は退治なさったのですか?いや、流石で御座いますなあ」と松庵に謝辞やら世辞やらを述べると、今度はその返す口で再びお梅を薄汚いだの、狡猾な雌妖怪だの、息子をたぶらかす淫婦だのと罵り出す。その痛々しさに耐え兼ねた松庵は、主人の発言を「お待ち下され」と遮った上で、自分の意見を述べ始めた。
「お梅殿が牛鬼だと決まった訳ではありません。もっと冷静な姿勢でこの事には対応していただきたい」
 屋敷の主人は少し顔を傾げ、何を今更言い出すのかといった様な訝しげな表情を見せて松庵の意見に異を唱える。
「いやしかし、赤子の妖怪がはっきりと言っておったじゃないですか。母親は牛鬼だと。ならば、あの赤子を産んだこのお梅こそ牛鬼の親、全ての元凶でしょうが」
「確かに、赤子はそう言っておりましたが、拙僧にはどうもお梅殿が牛鬼であるとは思えぬのです」
「私だって思いたくありませんよ。この屋敷に妖怪が住み着いていたなんてねえ」
 そう言って屋敷の主人は『ふん』と鼻を鳴らした。
「まだ、拙僧には気に掛かる所がありまして、お梅殿を判断するのはそれがはっきりしてからでも、問題は無いでしょう。もう少し時間をくださらぬか。気になる所を調べますゆえ……」
「まあ、松庵殿がそこまでおっしゃるのなら……」
 屋敷の主人はお梅を一瞥する。
「解りました、松庵殿のお気の済むまでお調べ下さい。しかし、コヤツは事がはっきりするまで納屋に閉じ込めさせてもらいます。いつ本性を現して我らを襲い来るか解りませんからな。事がはっきりするまでは、我らも身を護らねばなりません。よろしいですかな、松庵殿? 」
「いた仕方ありませんな……」
 松庵は、その拳を固めてこの事態を招いた自分の失態と、お梅を解放できなかった己の不甲斐なさを心の中で悔いた。
「よし、そうと決まればこいつの兄貴、源治もひっ捕らえるのだ。ヤツにも妖怪に血が流れているやも知れぬからなあ。よし、お前たち、今から源治を捕らえに行け。先手必勝だ。村の衆の力も借りて、何が何でもここへ連れてくるのだぞ」
 にわかに人の輪が崩れ、再び事態が動き出した。
「松庵殿、お疲れでしょう。お座敷でしばらくごゆるりとなさったらいかがですか。それからでもお調べ物は十分でしょう。これ、松庵殿をお座敷へお連れ致せ、それと食事のご用意もな」
 松庵と彼の弟子は、屋敷の使用人数名に背中を押されて半ば強引に座敷へと導かれて行くのだった。お梅に対する真に申し訳ない気持ちを引き摺りながら。
 全体像は掴めてきたのだ。もうあと少しでこの屋敷で起きた不可解な現象全てが解明される。それには、やはりあの女の事を知る必要がある。雨に打たれながら赤子を抱き微笑みかけてきた、あの女。
「お松殿か……」
 松庵は、昨日の曇天を吹き飛ばした強力な青空を仰ぎながら、独り呟いた。

 お梅を背中で送り出した源治が、もう一眠りしようとしばらくその冷たい床板に体を預けていた時である。突然小屋の引戸を破壊する大きな音が鳴り響いた。引戸は、上下にほぼ真っ二つに割られて、土間にその無残な姿を晒していた。破壊された引戸の先には、数人の男が、何やら木製の棍棒の様な物を携えて、禍々しい殺気を漂わせながらこちらの様子を伺っていた。殆どが源治の知った顔である。
 源治は、そのただならぬ雰囲気に反射的に身構える。すると、その見知った顔の男達は、断りもせずその破壊された引戸からずけずけと入り込み、源治の領域を侵してきた。
「何だお前ら」
 源治は、突然現れえた侵入者達をじっと見据えた。その眼力に一瞬たじろぐ者もあったが、侵入者の中でも体躯の良い一人が威嚇する様な大きな声で話し始めた。
「源治!……いや妖怪牛鬼よ、大人しく捕まれ!無駄な抵抗さえしなければ手荒な事はせん」
「ようかい……? 」
 源治は、その鋭い動物的な勘で全てを察知した。最も恐れていた最悪の事態が起こった様だ。源治の危機察知能力は、親のいない不遇の人生を送ってきた過程で極限まで研ぎ澄まされている。
『とんでもない濡れ衣を着せられたな。お梅の身が心配だ』
 男達は次第に源治を取り囲むようにじりじりとにじり寄っていく。
「俺が妖怪だと?ははっ、笑わせてくれるじゃねえか」
「やれ」
 体躯の良い男の号令で、一斉に侵入者は源治に襲い掛かった。源治は、それをまともに受けず、後ろへ飛び退いた。そのまま、木の格子に肩から飛び込んでいき、その勢いで格子を全部折って小屋の外へ出たのである。
「馬鹿やろうが! 」
 そう言って源治は、小屋の角柱を渾身の力で蹴倒した。角柱は倒れ、小屋の屋根を支える一点が平衡を失う。そうなると家屋とは本当に脆いものである。やがて屋根がその自重に耐え切れずに傾き始める。すると一気に柱はその均衡を崩し、屋根を支える事が出来なくなる。小屋は音と煙を立ててあっという間に崩壊してしまった。藁葺き屋根とはいえ、人を押し潰すには余りある重さである。中の人間も無事では済むまい。
「ざまみろ。俺を捕まえようなんざ百万年早いんだよ」
 源治は、そう言って、とりあえず隠れる場所を探そうと、村の外れの方へと姿を晦ましていった。


続く







2005/04/07(Thu)17:31:28 公開 / オレンジ
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■作者からのメッセージ
第8話アップです。いつの間にかまた過去ログに来てるし……。この話もいよいよ中盤〜終盤と言ったところでしょうか。思ったよりも長い話になってしまいました。どうか皆様懲りずに読んでやって下さい。仕事の合間をぬってこそこそと描いております。


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