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『HINA−0001  ―完―』 作者:神夜 / 未分類 未分類
全角93894.5文字
容量187789 bytes
原稿用紙約272.45枚





     「Serial No.AS-0001 『ひな』 起動」




 雛尾(ひなび)高校二年四組の紅葉秋祢(あきね)は寝るのが好きである。
 好きと同時に趣味でもある。学校などで「趣味はなんですか?」と訊かれれば素直に「寝ること」と答える。それくらい寝るのが好きなのだ。しかし本当のことを言ってしまえば、一度眠ると何があっても自然と目を覚ますまで起きないだけである。どんなに大音量の目覚ましの音でも起きないし、小学生の頃、早朝に震度五の地震があっても起きなくて、その日に「お前気づかなかったの!?」と学校で馬鹿にされた過去を持っているほどだ。
 そしてさらにタチの悪いことに、秋祢は寝ている間に起き出すことがある。しかもまるで酔っ払いのようにその時の記憶をほとんど憶えていないときていて、朝起きるとなぜかコンビニの弁当がテーブルの上に置いてあるということも希である。加えて休みの日などは平気で昼の二時くらいまで寝ている時があるし、下手をすれば夜まで起きないこともある。つまり、秋祢という人物はそういう感じで人生の大半を寝て過ごしているのだ。
 だから、今日もそんな感じだった。
 朝起きて、言い直すと昼の一時に起床し、寝惚けながら部屋のベットから這いずり出たのだ。瞬間、足を何かに取られて派手に転倒した。眠気は一発で覚め、何かにぶつけた足の小指が死ぬほど痛い。床に蹲って転げ回り、手で足の小指を摩って悶え苦しんでいる。そんな不様極まりない格好で痛みと格闘すること二分、遂に勝利の旗を挙げて秋祢は立ち上がった。涙で濡れた瞳を真っ直ぐに研ぎ澄まし、ベットの隣りに置いてあるそれに思考を巡らす。
 まず最初に思った。なんだっけ、これ。
 秋祢の部屋は家の二階の一番奥に二つの部屋から構成されていて、片方が廊下から繋がるドアが設置されているフローリングの洋室、片方が押し入れなどがある畳敷きの和室。両方とも八畳であり、一人で過ごすのには贅沢過ぎるほど広い。洋室の方には生活の色があって、テレビやゲーム、MDコンポなどの高校生に必要なものはそこにすべて設置されており、和室の方は高校生ではあまり意味のない勉強机と和室に似合うちゃぶ台と、窓際に置かれた学生に有るまじきタバコとライターと灰皿。今はそれはどうでもいい。問題は、秋祢が蹴躓いた物体である。
 ベットは洋室のドアのすぐ近くに置かれていて、それと平行するように床に並べられている巨大な木箱。まるで棺桶ほどの大きさの、人一人がちょうど入るくらいのその木箱が、なぜかここに置かれている。昨日の晩、寝る前にはなかったはずだ。確か昨日寝たのが夜の十一時過ぎ、起きたのが昼の一時過ぎ。十四時間ほど寝ていたことになるのだが、その間に何があって、どうしてこの木箱がここにあるのか、全く知らないし憶えていない。また例の徘徊病か、と秋祢は思う。
 今更なので別に驚きもしない。今日はたまたまその物が大きかっただけである。しかし、こんな物を運んでおいて丸っきり憶えていないとなると、そろそろ本気でやばいのではないかと少し心配になる。が、いつものことと割り切って問題のないとまめることにする。
 まずは、これは何なのか確かめようと思う。幸い今日は夏休み真っ只中で学校は休みだし、もし誰かの所有物なら返しに行ける。取り敢えずは、開けて見ないことには何とも言えないのが確かなのだ。
 木箱のすぐ側に、秋祢はどかりと座り込む。改めてその木箱を見てみる。立派な木の素材で出来ていると思う。骨董品などの鑑定はからっきしの素人だが、素直にすごいと感じる。そしてその木箱には一本のロープが頑丈に十字型に巻き付けられていて、そのちょうど中央、ロープが交わるそこに紙が貼り付けられていた。
 その紙を読んでみる。一番上に大きな字で『気まぐれ神夜の宅配便』と書かれていて、その下に秋祢の家の住所、到着予定時刻、さらに差し出し人の名前と何やらよくわからない文字。それだけ軽く流し読みして考えるに、これは秋祢宛てに来た届け物なのだろう。到着予定時刻は本日の十時になっている。埋もれていた記憶がゾンビのように這い出て来る。しかしまだ確信がないのでそれは保留とし、次に差し出し人の名前を確認してみる。差し出し人は、『紅葉秋雄(あきお)・紅葉静祢(しずね)』と書かれている。問題はない。それは間違いなく、秋祢の両親の名前である。
 が、疑問はある。そもそも、秋祢の両親は今から三ヶ月前に事故で他界しているのだ。仕事で家にいない方が多かった両親がいなくなってもほとんど日常に変わりはなかったが、喪失感はあった。一緒に何かをした記憶はあまり残っていないが、それでも両親は好きだったからだ。しかしそれも三ヶ月前の感情であり、今ではそれも乗り越えて平凡な生活を続けている。両親の残してくれた遺産と保険金がかなりあって、一生遊んでくらせるのではないか、とも思うものの、贅沢はせずに平凡に毎日を暮らしている。
 そして、そんな両親から、なぜ今頃になって宅配便が来るのか。少しだけ怖くなったが、差し出した日を確認して納得した。差し出し日は三ヶ月前の、両親が事故で亡くなる二日前だった。しかしなぜ三ヶ月もの時間を経て今日に配達されるようにしたのかはわからない。もしかしたら何か理由があるのかもしれないが、今となっては訊けない。
 いろいろと考えてはみやものの、面倒になったのでやめた。取り敢えず開けてみようと秋祢は思う。ベットの上に置いてある護身用にと思って買って来た軍用っぽいサバイバルナイフを取り出し、テーピングされたグリップを握って刃を引き抜いた。それを木箱に固定してあるロープに押し当て、ノコギリのように引く。流石に値段が高かっただけあって、ロープは簡単に切断できた。ロープを取り払い、木箱の蓋に手を掛ける。深呼吸を一つ、その蓋をゆっくりと開けた。そしてその中身を見――
 秋祢は、一瞬で蓋を閉めた。ナイフをその場に放り出して立ち上がり、部屋を横切って廊下に出て後ろでドアを閉めて深呼吸。落ち着いたら誰に言うでもなくこう言う。
「顔、洗おう」
 言った手前、本当に顔を洗いに洗面所に言った。冷たい水で顔を洗い、歯を磨いて便所に行った。気合一発で便所から出て、誰もいない台所の冷蔵庫を開け、買い溜めしてあるアミノサプリのペットボトルに口を付けてラッパ飲みする。飲み終わったらそれを元あった場所に戻し、秋祢は歩き出す。階段を上がって廊下に出て、一番奥の部屋まで進む。部屋のドアを開けたら木箱がなくなっていてくれれば最高だった。
 しかしやはりそんなことが起こるはずもなく、部屋のベットの隣りには木箱が堂々と置かれていた。諦めると同時に覚悟を決める。木箱まで歩み寄って、ナイフだけを片付けてさっきと同じ場所に座り込む。今度こそ、本当に秋祢は木箱の蓋を開け放った。
 見間違いではなかった。木箱の中には、先ほど見たものが、そのまま入っていた。
 言葉が尽きる。どう説明していいのかわからない。今、秋祢の目の前にある木箱の中には、確かに入っている。何が入っているのか。そんなもの答えは一つである。
 女の子だった。
 木箱の中には、まるで近未来のような、人を造るならこんな感じの機械だろうというようなカプセルが入っていた。上下が鈍い銀色の鉄で、そこから伸びる円形のガラスのような物から中身が見える。そこには、本当に女の子が一人入っている。何やら薄い緑色の液体の中で、眠るように蹲り、肩くらいの長さの髪が液体に揺られて舞っていた。見た目での年は秋祢と同じくらいだろうか。どこかの映画で見たような、遺伝子構造を組み替えて造るアンドロイドみたいだった。いや、事実そうなのだろうと秋祢は思う。それ以前に、もしこれが本当に生きた女の子だったらそれこそ怖い。事情はどうであれ、そうなのだったら殺人罪とか監禁罪とかを食らいそうだ。
 不思議と悩みはなかった。素直に現実を受け入れられた。それは、両親の仕事のせいかもしれない。詳しくは教えてもらえなかったし、こっちからも訊かなかったので知らないが、両親は夫婦揃って遺伝子工学とかそんな感じの仕事をしていたそうだ。いつかは忘れたが、その研究で造り上げたチワワを見せてもらったことがある。それは、世界的に禁止されている技術である。が、それは表面上のことであり、隠れざる裏側ではその研究はなかり進んでいるらしい。その研究で上の方に秋祢の両親は位置していたそうだ。責任者とかそんな感じの。
 つまり、この木箱の中の女の子は、そういう感じで造られた子なのだろう。何の理由でそれが秋祢宛てに送られて来たのか、何を思って両親はこれを三ヶ月経った今になって配達することを望んだのか。その訳はわからないが、そこに何かの真意があるのだろう。考えてもわかりそうにないので、取り敢えず行動してみようと秋祢は思う。
 それから少し木箱を捜索してみた所、いろいろとわかったことがある。一つ、これが木箱を含めてめちゃくちゃに重いこと。二つ、女の子は何か体に密着するような素材の服を着ていて、裸体のシルエットをそのまま写し出していること。三つ、カプセルの下の方にコードとコネクトがあること。四つ、パソコンで使うようなキーボードがあること。五つ、カプセルの脇に、一冊の本が挟まれていたこと。
 まずはその本を調べてみようと思う。手に取ってみると分厚く、本屋で売っているような単行本くらいの太さがある。表紙は表も裏も真っ白で、プラシチックのような素材でつるつるした手触り、裏には何も書かれておらず、表にこう書かれていた。
『Serial No.AS-0001 Explanatory Note』
 英語の成績は決して良いとは言えない。成績表でも最高で「3」しか取ったことがない。が、そんな英語に弱い頭を総動員で動かして、この単語の意味を探る。結果、秋祢なりに辿り着いた答えはこうだ。
『シリアルナンバーAS-0001 説明書』
 たぶんあっていると思う。心配になったのでわざわざ英和辞典で調べてみたけど、秋祢の勝利で正解だった。頑張れば英語の成績を上げれるような気もするが、その頑張る気がないので却下される。
 説明書を片手に、秋祢は立ち上がる。洋室の窓を開け放つ。と、さっきまではクーラーの冷気がまだ残っていたのでよかったが、窓から入って来た夏の熱気でたちまち室内が蒸し暑くなる。それを我慢して隣りの和室へ。そこの窓も開けて通気性を上げる。和室の窓際に置かれた安っぽいイスに腰掛け、手を伸ばせば届く所にあったタバコとライターと灰皿を取り寄せる。
 タバコはマイルドセブンのスーパーライトのソフトタイプ、ライターはホームランとの文字が書かれた百円物、灰皿は小学生の頃にお土産で貰ったディズニーランドのチョコレートの缶。箱からタバコを一本取り出し、ライターで火を付ける。煙を肺に送り込んでから吐き出して、寝起きの一服が一番美味いと思う。タバコを口に咥えたまま、手に持っていた説明書を開く。
 一発でやる気が失せた。中身は、すべて英語で書かれていた。流石にすべてを調べて解読する気にはなれず、今はタバコを吸うことだけに専念しようと思う。説明書を放り出し、タバコを手に持ち替えて立ち上がる。網戸を開けて手擦りに肘を押し当てて窓の外を眺める。
 何一つ変わらない、平凡な光景。すぐそこに見える田んぼの群れ、一軒一軒の庭が無駄に広い家、どこからか聞こえる車の排気音、聞き慣れた鳥の声、そしてさらにその向こう、霞んで見えるそこにコンビナートの煙突が今日も元気一杯で煙を吐き出していた。秋祢が住んでいる雛尾市は海沿いにコンビナートが立ち並んでいて、田舎には不釣合いな場所である。この辺りの人口は少しばかり少ないが、市の都心部に行けば人は大勢いる。昔に調べたことがあるのだが、雛尾市の人口は約二十九万六千九百四十六人らしい。その時にもう一つ調べたことがあるのだが、今から五十年くらい前には、コンビナートの廃棄物が原因でかなりの公害を叩き出したそうだ。今でも中学校などの教科書に載っている四大公害病の一つがそれで、『雛尾ぜんそく』という。
 しかし今の時代を生きている秋祢には全く関係のないのことで、そんな公害も昔の出来事である。今では他の町と変わらない普通の生活を過ごせるのだ。だからたぶん、今の学生などに「雛尾ぜんそくが起こったのは何年?」と訊いても即答出来るヤツなんてほとんどいないと思う。秋祢にしたってそんなこと調べるまでは起こった年など全く知らなかった。
 そういえばそんな感じだったな、などと思っていると、いつの間にかタバコをかなり吸っていたらしく、根本が微かに熱かった。灰皿にタバコをぐりぐりと押し付けて火を消し、畳の上に投げ出されていた説明書を拾い上げて隣りの部屋へ。木箱の側に座り込み、説明書の一番最初のページを開く。そこには英語と一緒に図でこのカプセルが書かれていて、それを頼りに設定をしていく。カプセルからコードを引き伸ばし、家のコンセントへコネクトを突っ込む。次にキーボードを引っ張り出してその一番上に位置している赤いボタンを押してみる。
 瞬間、カプセルの中の液体が微かに光った。酸素のような泡が次々とカプセル内で現れては消えていく。しばらく見ていたがそれ以上の変化はなかったので次に取り掛かる。説明書に書かれいる中で読み取れた行動で、キーボードの中の『Enter』のキーを叩く。すると、キーボードの真上にホログラム映像みたいな物が出て来た。本当に近未来みたいだ、と秋祢は思う。その映像の中に何かを書く欄が二つある。
 一つが『Master Name』、もう一つが『Nema』で、上にある『Master Name』の方でカーソルが点滅している。考えるに、恐らく上が所有者の名前を入力する欄で、下がこの女の子の名前を入力する欄なのだろう。本名でなくてもいいような気はするが、取り敢えずは本名をローマ字を打ち込んで変換する。『紅葉秋祢』と打ち終わったら『Enter』キー、するとカーソルが下の『Name』の方に移った。ここで、秋祢の作業が一時中断される。
 さて、どうしたものか、と秋祢は思う。ここまでは何となくで進ましてみたものの、いざ女の子の名前を決めるとなると戸惑いが生まれる。ここで初めて、この子を起動させていいのか、という考えが浮んだ。その場のノリでこの子を目覚めさせて、これからどうするつもりだったのだろうか。彼女に何をさせるつもりだったのか。友達、妹、姉、あるいは恋人にでもするつもりだったのだろうか。馬鹿馬鹿しい、と秋祢は思う。ここまで少しでもわくわくしていた自分が情けなくなった。一気に感情が冷めた。
 得体の知れないこの子を目覚めさせて何かとんでもないことになったらどうするつもりだったのだろう。そもそも、これが本当に動くかどうかさえ怪しい。実際に人間が生み出したチワワは見せてもらったことはあるが、別にその辺にいる犬を連れて来てそう言っても、あの頃まだガキだった秋祢を騙すのには容易いだろう。しかしならばその騙す意味がわからない。それにあの両親がそんなことをする必要もないしするとも思えない。
 というと、結論はこの女の子は本当に人間によって造り出されたということになる。だがしかし、だからといってこの女の子を起動させていいのかといえばまた違う。それとこれとは全く別問題である。何が言いたいのかというとつまり――
 くそっ、と秋祢は頭を掻く。考えがまとまらない。結局自分がどうしたいのかさえわからない。もういい、忘れようと思う。すっと立ち上がろうとしてふと目線を送った。カプセルの中の女の子はまだ眠ったままでいる。そのままじっと女の子を見つめる。この子は、今どんな思いでそうしているのだろう。眠ったままで、夢でもみているのか。それとも暗闇の中をたださ迷っているのか。それなら、少しだけ可哀想だなと思う。
 理由はわからないが、この子はここに送られて来た。もしかしたら、この女の子に両親は何かしらのメッセージを託しているかもしれない。もし何か大変なことになったら、その時に考えればいいだけかもしれない。間違ってもいきなり爆発なんかはしないだろうし。
 ため息を一つ、秋祢は座り直す。カプセルを眺めながら、眠る女の子につぶやく。
「……暗闇の中をさ迷ってるんじゃ、可哀想だもんな……」
 キーボードに向き直る。画面は『Name』の所でカーソルが点滅している。
 この子の名前。女の子らしい名前がいいと思う反面、そんな名前が自分から出て来るのか疑問に思う。取り敢えず部屋を見まわして何か元になるのはないかと探すが何もなかった。何かのキャラクターの名前を付けるのも気が引ける。では、自分自身で考えようとするが良い名前が浮ばない。
 どうしようかと悩んでいると、木箱の蓋が目に入った。そこで閃いた。『秋祢』という名前は、両親の名前を一つずつ取って名付けられた名である。だったら、この子も生まれたその場所から名前を取ってあげようと思う。
 ここは雛尾市。だったら――
 キーボードの上に手を滑らせる。一つ一つ、ゆっくりとした動作でキーを叩いた。ローマ字入力でこう書いた。
 H、I、N、A。
『HINA』
 日本語に変換するとこうなる。
『ひな』
 秋祢にしてみれば、それはかなり良い線に行っているんじゃないかと思う。
 そして、秋祢は『Enter』キーを押した。すると画面が切り替わり、画面の中央に『OK?』という文字が出て来た。口の中で「OKOK」とつぶやき、秋祢は再度『Enter』キーを押した。
 瞬間、緑の液体の光りが増した。たちまち目が開けていられなくなり、カプセルの中からキィィイイイィィンという耳鳴りのような音が聞こえ始めた。
 焦った。まさか爆発するまいと高をくくっていたのが裏目に出た。爆発する、と本気で思った。慌ててその場から逃げ出そうとして、しかし足を滑らせてまた転倒する。
 カプセルは光り続ける。
 視力を奪われ、目を開けていられなくなる。
 音と閃光は増す。


 そして、遂に音と光りは弾けた。


 次に目を開けた時、秋祢は目が合った。
 カプセルのから身を起こし、女の子――ひなは秋祢をじっと見つめていた。
 日常の中の非日常が始まる。
 高校二年生の夏休みの真っ只中の出来事だった。


 秋祢とひなの共同生活が始まりを告げる。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「秋兄ちゃんの浮気者」




 チャイムが鳴ったような気がして、ベットから這い出たような気がする。
 そのまま呆然と廊下を歩き、よろよろとした足取りで階段を降りた。ここでもう一度チャイムが鳴って、玄関にまで辿り着いた。ずっと昔からあるスリッパに足を突っ込み、ペタペタと音を鳴らして戸の鍵を開けた。引き戸のそれを開くと、紺色の制服に帽子を被った若い男が立っていた。
 彼は言う。
「おはようございまーす! 気まぐれ神夜の宅配便でーす! 紅葉秋祢様のお宅はここでしょうかー?」
 肯いた。彼は満面の笑みで笑う。
「それではサインをお願いできますかー? ペンはこれをお使いくださいー!」
 ペンを受け取って「秋祢」と殴り書きした。それを確認してから、彼は紙を閉まって後ろから何かを片手で持ち上げ、ゆっくりと音を立てずに玄関に下ろした。
「お届物ですー! 重いので注意してくださいー! それではーありがとうございましたぁー! また宅配物がありましたらーどうぞ気まぐれ神夜の宅配便をよろしくお願いしますぅー!」
 それだけ残し、「気まぐれ神夜の宅配便」と大きく書かれたトラックに乗り込んで走り去ってしまった。
 それを呆然と見送りながら、秋祢は動く。目の前に置かれた巨大な木箱に手を掛け、持ち上げようとする。が、何が入っているのかその重さは半端な物ではなく、必死にならなければ運べないほどの荷物だった。さっきの若い男性はこれを片手で持ち上げていた。あの腕力はどれほどのものなのだろう。
 そんなことを思い、ふとその木箱に貼られた紙を見た。目に付いたのは到着予定時刻。そこには今日の午前十時が記されている。玄関の時計で時刻を確認する。十時を二分過ぎていた。ぼやけた頭で、気まぐれのクセに時間はしっかりしているんだなと思った。
 取り敢えずこれを運ぼうと思う。外に出しっぱなしって訳にもいかないだろう。木箱の両脇を持って、力を込めて持ち上げた。すぐに筋肉が悲鳴を上げ、腕がぷるぷると震える。それでも必死に持ち上げながら玄関に入って、足で器用に戸を閉め、スリッパを抜いで階段に向った。そこら辺に置いておけばいいのに、寝惚けた頭では何も考えられず、なぜか必死になって部屋まで運んだ。
 ベットの隣りまで辿り着いた時にはほとんど気力が尽きていて、床に置いた瞬間に疲れと睡魔に襲われてベットに倒れた。そこでゾンビのような記憶がぷっつりと途絶えている。
 あの木箱の中身って、なんだったっけ、と秋祢は思う。


     ◎


 すっと目が覚めて、まず最初に目に付いたのは、カバーが剥ぎ取られて蛍光灯が丸見えの見慣れた電気だった。
 ここは自分の部屋である。ぼやけた頭でそう思って、しかしすぐにいつもと見える角度が違うと思った。上半身を起こす。部屋の窓際に置かれた、小学生の時に作った時計で時刻を確認する。昼の十二時を少し回っていた。そして、秋祢が寝ていたのは部屋にある二人掛けのソファだった。どうしてこんな所で寝てるんだっけ、と思う。なぜベットで寝ていないのかと考えたが思い出せず、視線を動かしてベットへ向ける。
 そこに、一人の女の子が眠っていた。その女の子を見た瞬間、すべてを思い出した。昨日、宅配便で送られて来た木箱、腕力がすご過ぎる若い男性、気まぐれのクセに時間に正確な宅配屋、クソ重い荷物、気力が尽きて襲って来た睡魔、足の小指をぶつけた痛さ、木箱の中身、近未来的なカプセル、薄い緑色の光り、コードとコネクト、キーボード、説明書、朝のタバコの味、爆発するかと思って転倒した焦り、そして、『ひな』と名付けた女の子。すべてがすべて、その時の感覚までもが一瞬で甦った。眠気は、すぐに覚めた。
 ソファから起き上がって歩き、そのままで放り出してあった木箱を避けてベットの横へと歩み寄る。そこに眠るひなを改めて見てみる。
 規則的に上下に揺れるタオルケットと、それと一緒に聞こえる微かな寝息。少しだけ白っぽいさらさらの髪が枕に広がっていて、頬は少しだけ赤みを帯びていた。これだけ見れば、人間の女の子と何一つ変わらない。もしかしたら、昨日のことは全部夢で、普通にどこかから連れ込んだ女の子ではないか、とも思えないこともない。が、すぐ後ろに木箱はあるし、それ以前にその日知り合った女を部屋に連れ込むほどの度胸は秋祢にはない。昨日の一連の出来事は、すべて現実なのだろう。
 昨日、ひなが目覚めた。引っくり返って尻餅を着いていた秋祢と目が合った。しばらくはそのままで双方無言の一分が過ぎた。そして、先に動いたのはひなで、口を微かに開いて何かを言おうとすると同時に、体が傾いて床に倒れてしまった。それかは全く何をしても起きず、しかもさっきまで着ていたはずの服が消え去っていて、これはやべえってことで適当に置いてあったシャツを着せておいた。床に倒れさせたままでも可哀想なのでベットに運んでみたものの、やはりひなは起きなくて、そうこうしている内に太陽は傾いて行き、結局は夜になっても起きなかったので遂に秋祢もソファで眠りこけてしまった。
 そしてついさっき、秋祢は目覚めたのだ。やはりひなは眠ったままで、もしかしたら何か手違いで誤ったまま起動させてしまったのではないか、と心配になる。説明書は何も読まなかったし、それっぽく設定して適当に起動させてしまったのだから問題が起きていても不思議ではない、ないのだが、それなら物凄く困る。どうしていいかなんて見当も付かない。
 ただ、今が夏休みだというのは唯一の救いだろう。いつ起きても秋祢は家にいるし、しばらくは何かと忙しくなると思うし。
 いつ起きるかわからないけど、今はそっとしておこうと秋祢は思う。もし何かしらのバグが起こっているとしたのなら、これを開発した場所、つまりは両親が働いていた場所に連絡を取ればなんとななるだろう。それを決めるまでは、もう少し掛かりそうだが、それまではゆっくりさせてあげよう。カプセルの中で、三ヶ月も眠っていたのだから、それくらいはしてあげなくては。
 そう思っていると、家のチャイムが鳴った。しかも連打である。来客の予想は出来た。そういえば今日来るとか何とか言っていたような気がする。ここに連れて来ると事情説明が面倒なので、取り敢えず居間にでも招いて対応しよう。
 それだけ考え、秋祢はベットで眠るひなを残して部屋を出て行った。


 誰もいなくなった部屋には静寂だけが取り残され、そこで一つの変化があった。
 寝息が聞こえなくなった。そしてゆっくりとタオルケットが捲れる音がして、ベットに眠っているひながその瞳を開けた。
 ベットに上半身だけ起こし、部屋を見まわしてこうつぶやく。
「……秋祢……?」


     ◎


 海里弘樹(かいりひろき)は秋祢と同じ高校の同じ学年の同じクラスの、幼稚園からの幼なじみである。家が近かく、家を空けることの多かった秋祢の両親は、弘樹の両親とは古い中で、幼少時代から何度も弘樹の家で秋祢を預かっていた。普通に計算すると、生まれた頃から一番多く過ごした友達は秋祢だと思う。簡単に言うところの、親友である。
 そしてその妹の海里凛(りん)は、雛尾中学校三年二組の十五歳である。生まれてからずっと兄の弘樹と海里家にいることの多かった秋祢と一緒に遊んでいて、幼稚園の頃に「あきにいちゃんとけっこんする」という契約を秋祢と交わして以来、凛は中学三年生になった今でも秋祢と結婚する気満々な元気一杯の少女である。
 そして夏休み真っ只中の今日、弘樹は秋祢から借りたコブクロのCDを返す約束をしていた。時間は昼過ぎじゃなければ秋祢は起きていないから、それを見計らって家を出ようとすると、居間から顔を出した妹の凛に「どこ行くの?」と訊かれた。誤魔化した方が賢明なのだろうが、バレたら後が怖い。だから弘樹は素直に答えた。
「秋祢の家だよ。凛も一緒に行く?」
 返答は決まっていた。大声で「行くっ!」と返答し、急いで身支度を整えて玄関まで走って来た。すると我先にと外に歩み出て、弘樹を放って先に行ってしまう。その後からゆっくりとした足取りで弘樹は秋祢の家に向う。と言っても、秋祢の家はここから二軒だけを挟んだ距離にあるのですぐに到着する。
 弘樹が家の前に着いた頃には、凛が嬉しそうに秋祢の家のインターホンを連打していた。
 迷惑だからやめろよ、と弘樹は思う。


     ◎


 いつまでも鳴り止まないチャイムを聞きながら、うるさいぞ凛と思って戸の鍵を開けた。
「おう、おはよぁうおあっ!」
 開けると同時に凛に飛び付かれた。
「秋兄ちゃんおはよう! 今日も元気一杯で凛ちゃん登場だよっ!」
 首からぶら下がるような格好で抱き付いている凛をそのまま放置し、すぐ後ろにいた弘樹に視線を向ける。
 弘樹は申し訳なさそうに苦笑していた。
「ぼくもこうなると思ってたんだけど、ごめん、後が怖いからさ……」
「いいよ、もう慣れたし、凛が子どもだから仕方ねえし。それより入れば? 暑いだろ。居間の方に上がってくれ」
 するとすぐ下の凛からクレームが掛かる。
「えー! あたし子どもじゃないよー! それより秋兄ちゃんの部屋行こー! 久しぶりにゲームしよ、ゲーム!」
 とんでもない。いま部屋に凛を入れたらどうなるかわかり切っている。ベットで眠るひなを見た瞬間、失神するか修羅の如く怒り狂うかのどちらかである。ここは家の平和も兼ねて居間にだけ止めておくのがベストである。
「ダメだ、おれの部屋は今現在立ち入り禁止。入ったらもう二度と凛とは口聞かないからな」
 その言葉を聞いた瞬間、凛はいきなり泣きそうな顔になり、それから渋々と肯いた。
 凛をあやすのは本当に簡単である。どんなに怒っていても泣いていても笑っていても、誰の言葉も聞かない時でさえも、秋祢の一言ですぐに黙る。弘樹が少し前に秋祢がいると凛が静かで便利だと言っていた。子守りも大変は大変だが、凛は根が素直なので楽なのも確かだった。
 凛を地面に下ろし、取り敢えず中に上がらせる。靴を抜いてまるで我が家のように遠慮なしに凛は歩み出し、居間に入ってその隣りにある台所の冷蔵庫から『凛専用 でも秋兄ちゃんなら飲んで良いよ』と書かれたアミノサプリのペットボトルを引き出し、コップを食器棚から出して注いで飲み始める。
 そんな凛の後から居間に入って来た秋祢は、やっぱり凛は子どもだ、と思う。続いて入って来た弘樹は居間に座り、手に持っていたコブクロのCDを秋祢に手渡す。
「ほらこれ、ありがとう。やっぱりいいね、それ」
「だろ? おれが一番好きな曲だからな」
「もうちょっとしたら新曲出すんだろ?」
「おうよ。もう予約したし」
「ねえ秋兄ちゃん、このちくわ食べていい?」
「あーそれ、たぶん賞味期限切れてる。でも凛なら平気だろ。食べていいぞ」
「うん、凛なら平気だと思う」
 無言で凛は歩き、台所の生ゴミの所へちくわを捨てる。
 それから無表情で弘樹の所まで来て、いきなりその頭をグーで殴った。
「あたしなら平気ってどういう意味よ!? それはあたしの胃袋が頑丈だって言いたいの!? 女の子に向ってそんなこと言う!? 信じらんない!! デリカシーってものがないの!? だからお兄ちゃんはいつまで経っても恋人ができないんだからねっ!!」
殴られた弘樹はそこを手で摩りながら、
「待て待て凛、それ言ったのぼくじゃない、秋祢だぞ。ぼくはただ付け足しただけであって、それにぼくに彼女ができないんじゃない、作らないだけなんだってば」
「うるさいうるさいうるさーいっ! 誰が信じるもんですか!! 彼女を作らない!? 作れない負け惜しみ言って格好つけないでよね!!」
「いやいや、実際そうなんだって。ぼくだってこう見えて結構告白とかされてるんだよ。それに彼女がいないのなら秋祢も同じだし」
「なにそれ!? 秋兄ちゃんを馬鹿にする気!? お兄ちゃんだからって許さないからねっ!! それに秋兄ちゃんにはあたしがいるもん!! だから彼女なんて必要ないのっ!!」
「違う違う、それは凛がそう思ってるだけだって。秋祢の意見を聞いてみようとぼくは思う。この意見に賛成?」
「あたしは黙秘します!! お兄ちゃんの口車に乗せられてたまるもんですかっ!!」
「もう喋ってるよ。黙秘してない」
「うるさい馬鹿!!」
 ここで秋祢が仲裁に入る。
「はい二人ともストップ。近所迷惑だからやめよう」
「でも秋兄ちゃ――」
「凛」
 すっと秋祢が凛を見据えると、凛はすぐに口を閉じた。そのあとから渋々肯く。
「わかった……ごめんなさい……」
「よし、良い子だ」
 その頭を撫でてやると、すぐに凛は上機嫌になった。
「ごめん、秋祢」
「いいって。慣れてるし」
 頭を撫でられている凛が、弘樹に向ってあかんべーをする。
 まったく、この兄妹は賑やかだと秋祢は思う。しかし一人で過ごすことの多かった秋祢にとって、この二人の賑やかさは心地良いものがあった。求めていたぬくもり、笑い、楽しみ。それが、この兄妹と一緒にいると一挙に手に入る。それはすごく心地良いことだった。
 夏休みは、こんな風にして毎日を過ごしている。賑やかだけど楽しい、そんな夏休みだ。
 この日常が、ただただ楽しかった。


 そして、この時はすっかり忘れていた。
 日常の中にある、非日常の存在を。


 それにまず最初に気づいたのは、凛だった。頭に手を乗せていた秋祢は、その気配の変化をすぐに感じ取った。
「どうした凛?」
 凛は、どこか一点に視線を向けたまま動かない。その目が見開かれていて、まるで幽霊でも見るかのように呆然としている。
 不穏な気配だった。そしてそれは弘樹に伝染する。「あっ」と声を出した切り、弘樹も凛と全く同じ一点に視線を送ったまま凍り付いてしまった。
 何がどうなっているのか全く理解出来ず、遂に秋祢だけが状況に追い付けずに取り残された。何だか迷子になった子どものような感覚に囚われ、心細くなって凛の頬を軽く叩いてみた。が、凛は身動きどころか瞬きもしない。これはただごとではない。何かとんでもないことを忘れているような気がいまになってようやくして、しかしそれが何なのかは全く思い出せない。
 必死にその原因が何なのか考えていると、その声を聞いた。
「……秋祢……?」
 聞いたことがない声だった。弘樹でも凛でもない、もっと柔らかい女の子の声。
 視線をそっちに向けた。そこは、弘樹と凛が見つめているその一点だった。
 そこに、ひなが立っていた。
 やっと納得した。そうかひなだ、ひなのことを忘れていたのか、と原因がわかって嬉しくなる。そしてもう一つ、弘樹と凛が固まっている理由はひなを見たからだ。一人暮らしの秋祢の家に、女の子がいればそりゃ驚くか。
 ……? ……待て? ……待てっ。待てっ!! やべえっ!! マジやべえっ!!
 ここでようやくことの重大さに気づいた。
 一人暮しの家に女の子がいる。しかもその子の姿は裸に男性物のシャツが一枚だけ。何も着ていないよりもっとぐっとくるものがある。そしてそれが一番の問題だった。そんな格好をしている女の子が出て来て、おれは何もしてないと弁解しても見苦しい言い訳にしか思えないだろう。ましてやその言い訳をする相手はあろうことか凛である。ただでは納得してくれないだろう。この後、凛がどういう行動に出るかで事態は変わる。失神してくれればなんとでもなる。が、怒り狂ったらそりゃ大変だ。
 三人の視線が集まるその場所に立っているひなは、本当に嬉しそうに微笑んだ。
 誰がどう見たって、それは恋人とかに見せる甘い微笑みだった。
 そして、凛がとうとう切れた。
 秋祢の手の下でわなわなと震えだし、その震えが最高潮に達した瞬間、凛は物凄い勢いで秋祢を振り返った。今まで見たどの凛より怖かった。
 その口を開いた第一声は、鼓膜が破れんばかりの叫びだった。
「秋兄ちゃんの、浮気者ぉお―――――――――っ!!」
 後者できたか、と耳を塞ぎながら秋祢は思う。
 突然の大声に驚いたひなは、びくっと体を震わして凛を不思議そうに眺める。
 弘樹はいつまで経っても固まっている。
 非日常は、始まったばかりである。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「秋祢とひなのルール」




 外は太陽に指示されてまるで砂漠のような真夏の暑さを保っている。窓から見える景色は日光が眩しく、せみの声が何重にも重なって耳に届く。どこにでも訪れる、真夏の日常である。
 が、紅葉秋祢の自宅は少し違った。砂漠のような熱気を元気一杯で保っている外とは正反対に、居間は冷気に満ちていた。クーラーなどという現代のハイテク機器を使っているのとは訳が違う。冷気を放っているのは他の誰でもない、海里凛である。今の彼女に触れれば火傷じゃなく、指が凍り付きそうな勢いだ。下等生物を軽蔑するような眼差しで、威張るほどもない胸の前で大儀そうに腕組みをしている。そしてその視線の先にいるのは、これまた他の誰でもない、紅葉秋祢とひなである。弘樹は凛の隣りで成り行きを慎重に見守っている。
 居間の木で作られているテーブルを挟んで、二人と二人は向き合って座っていた。この空間のテーブルの上にバナナでも置けば絶対に凍り付くはずである。凛から放たれる冷気は、本当にそこまで凄まじかった。
 この冷たい空間を最初に動かしたのは、張本人の凛だった。
「……説明、してくれるよね。秋兄ちゃん?」
 声はいつもの凛でも、表情と目付きには今にも刀でも取り出して切り掛かってこんばかりの気迫があった。
 しかし、秋祢にしてみても今のこの状況は不可抗力であり、弁解はしなければ死んでも悔いだけが残ってしまう。そもそも秋祢にしたって今のこの状況を全部理解していないのもまた事実であり、始まりを話せば昨日のことを最初から今に至るまですべて説明しなければならなくなる。死ぬよりかはマシなので、そうしようよ秋祢は思う。
 隣りにいるひなはいつまでもニコニコと笑っている。自分が原因でこうなっているということを理解していないのだろう。とんだ小悪魔だ。
「……あのな凛、一つだけ先に断っておくぞ。この子……ひなはお前が思ってるような子じゃない。ましてや彼女とかそんなんじゃないぞ。それだけは信じろ」
 凛は全く信じていない口調で、「じゃあ何でそんなカッコしてるの?」と投げやりな感じで言う。
 それに習って秋祢はもう一度ひなの今の服装を確認する。裸にたった一枚のシャツ。しかも微妙に大きくてキワドイ。……すいません、誤解するなって方が無理ですね。心の中でそう思ったが口には出さなかった。
 視線を凛に戻し、真剣に答えた。
「これからまずひなのことから話して行く。そうしたらわかってくれるはずだから。ひな、お前からも少し凛に説明してやってくれ」
 ニコニコ笑っていたひなが不思議そうに秋祢を見つめ、それから納得したように大きく肯いた。凛に真っ直ぐ視線を向け、満面の笑みでこう言った。
「秋祢はわたしのマスター。秋祢がわたしのすべて」
「待てっ!! 今の言い方はおかしいぞ!! それ状況が悪化するだけだ!!」
 不満そうにひなは秋祢を見つめ、泣きそうな声で、「……秋祢、わたしがいると迷惑……?」などと言う。
 泣きたくなるのはこっちである。そして凛がまた切れた。勢いよくひなに食って掛かる。
「あたしの目の前でイチャイチャしないでっ!! 秋兄ちゃんはあたしのものなんだからねっ!!」
 ひながカウンターする、
「秋祢は誰のものでもない。でも、わたしは秋祢のもの」
 凛の火山が噴火した。本当に噴火、というより爆発した。頭から湯気が上がった。普通の人間からは想像できないことである。
 そしてマグマが口からマシンガンのように噴射されるその瞬間、今まで黙っていた弘樹が素早く行動した。片手で凛の口を封じ、マグマの行き場をなくして逆流させ、何も言えなくなった凛を軽く抱き抱えた。まるで何でもないようなことのように弘樹は笑う。
「取り敢えず秋祢、今日は帰るよ。凛がいると話しがややこしくなりそうだから。明日また来るから、説明よろしくね。それじゃ、ひなちゃんもバイバイ」
 言うが早いか、ジタバタ暴れる凛を無視して弘樹は一瞬で居間を抜けて玄関から外に出て行ってしまった。しばらくしてからせみの声と一緒に「お兄ちゃんの裏切り者ぉお――――っ!!」との叫びと同時に金が鳴る音がした。恐らく、弘樹の目には星が飛んでいるのだろう。
 そんな雑音を右から左へとスルーさせ、二人だけが残された居間で秋祢は体勢を変えた。隣りのひなに向き合うように胡座をかいて座る。それに習うようにひなも向きを変えた。秋祢と違い、お手本のような正座をして秋祢を真っ直ぐと見つめてニコニコ笑う。
 頭痛がする。これからのことが心配で心配で胃に穴が開きそうである。
「……ひな。まず、状況を説明してくれ。質問するからそれに答えてくれ」
 ひなが肯いた。
 とにかく今は情報が欲しい。細かいのを合わせると数え切れないが、どうしても訊きたいことはまず三つ。
「一つ。ひなは一体何者だ? 二つ。どうして今になって起きた? 三つ。紅葉秋雄と紅葉静祢という人を知ってるか? 最初は取り敢えずこれだけだ。答えれるのから答えてくれて構わない」
 ひなは、全く悩まなかった。すぐに質問に答えた。
「わたしはSerial No.AS-0001。Nameは『ひな』、Master Nameは『秋祢』。最初に起動してから約十二時間、システムメンテナンス時間内は起きません。紅葉秋雄様と紅葉静祢様は、ASシリーズを造った責任者の名前です」
 一気に言われると頭が混乱する。簡単にまとめると、やはりひなは秋祢の両親が造ったものなのだろう。
 では次の質問である。
「一つ。なぜ三ヶ月も経った今になってひなは送られて来た? 二つ。ひなの目的は? これで一応は最後の質問だ。三つ。ひなは何の目的で造られた?」
 さっきと変わらず、ひなはすぐに答えを口にする。
「カプセルの中で眠っていたわたしには、その真意はわかりません。わたしの目的は秋祢が望むことをするだけです。最後の質問ですが――」
 ここで、初めてひなは言葉に詰った。少しだけ困ったような表情をしてから、すぐに視線を外してこう答えた。
「それは、言えません」
「なぜ?」
「……企業秘密、です」
 企業秘密か。そりゃそうか、と秋祢は思う。一般的に、ひなのような存在は認められていない。実際にひなを特殊な、そういうものを取り締まる機関に見付かれば犯罪になる。少し前にニュースで聞いたので憶えている。えらく大層な名前の法律で、なんちゃらこんちゃら法。ぶっちゃけ、そこは憶えてない。
 それはさておき、親がその研究に携わっていたと言っても所詮は部外者である。そんな秋祢に教えられる情報なんていうのは高が知れているのだろう。しかし、
「……望むことをするだけって……どういう意味かわかってる?」
 ひなはまだ少しだけ困ったような表情のまま肯いた。
 いや、絶対にわかってないと思う。仮にも秋祢は健康な男子高校生である。ひなのような可愛い子が何でもしますとか言った日にゃあそりゃもう速攻で大人の階段を登る。それこそ超特急である。が、よく状況を理解していない秋祢がそんな注文をできるはずもないし、ひなに向ってそんなことを言うのも気が引ける。そもそも条約に引っ掛かる。公共の場に示せなくなる。それはダメだ。
 ため息を吐く。テーブルの下に置いておいたタバコとライターを取り出す。その辺に放り出してあったガラスの灰皿を取り寄せ、パッケージからタバコを一本取り出して火を付ける。煙を吸い込んだ瞬間、ひなに叫ばれた。
「秋祢っ!!」
「げふっ、が、かぁっあぁあっ! ごふっ、」
 煙が気味の悪い所へ侵入する。目に涙が浮び、嘔吐するような勢いで咽返る。
 そんな不様な秋祢に、ひなははっきりと言った。
「未成年者のタバコは法律で禁じられています」
 待て、だったら、
「じゃあひなも法律で禁じられてるんだろ?」
 ぎくっとひながバツの悪そうな表情をする。
「そ、それは……」
「それじゃお互い様。これはおれの生きる気力である。それを剥奪するということは殺人罪に匹敵するとおれは思う。マスターを殺すのかいひな?」
 ひなは、泣きそうな顔で俯いて、「すいません……」と謝った。
 ふむ。これは凛と同じように扱い易いかもしれないと秋祢は思う。
 しばらくそうやって静かに秋祢はタバコを吹かしていた。が、異変に気づく。さっきから、ひながしきりに秋祢を上目づかいで見つめている。どうしたのだろう。中途半端に吸ったタバコを灰皿に押し付けて火を消し、ひなに視線を送る。と、ひなはさっと目を伏せた。ますます不思議に思う。
「……どうした? 何かおれの顔に付いてる?」
 ふるふると、俯いたままでひなは首を振る。それから少ししてからかなり小さな声でこうつぶやいた。
「……秋祢、怒ってる……?」
「……なんで?」
「……タバコのこと……」
 ああそれか、と秋祢は思う。
「別に怒ってないよ。ただタバコを吸うときはあんまり動かずゆっくり吸うってのがおれの流儀なだけ」
 ひなが恐る恐る顔を上げ、秋祢をじっと見つめる。
 秋祢は笑う。するとそれで安心したのか、ひなは本当に嬉しそうに笑い返してくれた。
 正直、そのときのひなはすごく可愛かった。


    ◎


 秋祢は料理が上手である。それこそそこら辺の主婦にも負けない腕前だ。
 子どもの頃から一人で過ごすことの多かった秋祢にとって、中学生まではスーパーやコンビニの弁当で済ましていた。しかし中学に上がってから健康管理を重視するようになり、中学一年生の春から本格的に料理を覚え始めた。我流だが、それがまた美味い。以前、弘樹に料理を御馳走したところ、「お前店開けるよ」と言われた。それから、秋祢は料理にはそれなりの自信を持っている。
 だから、今日の夕食も秋祢が作ってひなに御馳走しようと思っていた。
 が、ひなはその秋祢の上を行った。シャツ一枚ではさすがに我慢できないものがあったので、母親の部屋から適当な服を調達して手渡し、それに着替えさせた。少しだけ古臭いけど文句は言えない。そしてその上からエプロンを身に付け、ひなは自分から料理をしますと申し出た。お手前を拝見しよう、と秋祢が高みの見物気取りをしていたのも最初の二分だけである。ひなは、秋祢の三倍はスムーズに、秋祢の三倍は無駄のない動きで、秋祢の三倍は美味い料理を、秋祢の三分の一の時間で作ってしまった。
 食卓に並べられたどこぞの高級レストランのシェフが拵えたような品々。かなり前に凛がカレーライスを作ってくれたことがある。食えた物ではなかった。あの時の凛の料理と、今のひなの料理を並べておけば一時間は笑える。見た目だけでも、我流の秋祢とは比べ物にならないのだ。しかも味まで美味いときては秋祢に良いとこなしで、夕食が済んでから秋祢はずっとブルーな気分でタバコを吹かしている。台所からはひなの洗い物の音が聞こえ、それをぼんやりと耳に入れてさらにタバコを吹かす。
 窓の外の太陽はすでに消え去っていて、網戸からは夏の夜の風と虫の鳴き声が入って来る。夏っていいなぁ、と秋祢は思う。そろそろ限界が近くなったタバコを灰皿に突っ込み、気合一発で立ち上がる。と、ちょうどその時に洗い物が終って居間に来たひなと出くわした。
「どこ行くの?」
「ん? ああ、風呂だよ。ひなも入るんだろ? 水でも入れて来ようかなって」
「それだったらわたしが行って来ます」
 そして秋祢の返答を待たずにひなは歩き出し、風呂場の方へ姿を消した。
 一人で突っ立っている秋祢は、何もやることがなかった。今まで家事はすべて一人でこなしていた秋祢にとって、それがなくなると何をしていいのかわからなくなる。ゲームしようにもここ数ヶ月新しいのを買った憶えはないし、漫画なども昔のしかない。音楽を聴いても暇なだけであるし、タバコはさっき吸ったばっかりだ。結局良い案が浮ばず、綺麗なはずの部屋を無意味に掃除し始める。やっといつもらしくなったと思っていた矢先、風呂場から戻って来たひなにその役目までも奪い取られた。
 すごく、暇だった。風呂場を覗いてみたら浴槽にはまだ水は半分くらいしか溜まっていなかったが、することもないので入ることにする。脱衣所で服を脱ぎ散らかし、全裸でシャワーを浴びた。夜とはいえ夏である。体がベタベタして気持ち悪かったが、適度な温度のシャワーの水にそれをすべて洗い流された。気持ち良かった。シャワーを止めて遠慮なしに浴槽に体を任せた。めちゃくちゃ気持ち良かった。
 鼻の下まで浸かって、風呂場に上がる湯気を見ながらぼんやりとひなのことを考える。果たして、この共同生活を続けていいものなのだろうか。ひなは普通の人とは違うと言っても、仮にもその姿は年頃の女の子である。それに秋祢にしたって年頃の男の子だ。そんな男女が一つ屋根の下で暮らして本当にいいのだろうか。ひなは大丈夫だろう。問題は秋祢だ。ひなとずっと暮らして、理性を最後まで抑えられる自信はほぼ零に近い。しかもひなは秋祢の望むことなら何でもするとか宣言してしまっている。そんな状況下で、何もしない男が果たしてこの世に存在するのだろうか。もしいるとするならそいつは女性恐怖症か同性愛後者か、はたまた神の領域に達している紳士的な信じられないくらい奥の手の男だ。もちろん、秋祢はそのどれとも違う。健康な日本男児だ。
 ため息を吐くと、水面に泡が発生した。それが破裂してその水滴が顔にかかる。間抜けである。これからどうなるんだろう、と秋祢は思う。しかし、ひなとの共同生活に心配を抱くと同時に、ひなを返却する気にもなれないのが事実だった。やっと手に入れた、ずっと一緒にいれる家族なのだ。といってもまだ数時間しか一緒に過ごしていないが、秋祢の求めていた最後の一欠けらがそこにはある。ひなを、手放したくなかった。けど、本当にそれでいいのだろうか。
 自分の気持ちが自分でわからない。くそっと水を頭から被る。そんな感じでしばらく過ごしていると、脱衣所から声が聞こえた。
「秋祢?」
「……ひな? どうした?」
 ひなは、何の躊躇いも、何の恥ずかしみもなく、こう言った。
「一緒に入っていい? 背中流しますよ」
 風呂で溺れた。


「一つ、ルールを決めよう」
 風呂上りのひなに、秋祢はそう言った。
 ひなはタオルを首に捲き、片方の手で少しでけ白っぽい髪を拭いていた。服装は秋祢のTシャツとタンパンという格好である。それもなかなか似合ってはいるが、やはり大きさは合っていなかった。ひなは秋祢より一回り小さくて、そんなひなが秋祢の服を着ると本当にキワドイ。早くも理性崩壊の危機である。そうそう、一つだけ断っておくが、断じで秋祢はひなと一緒に風呂は入っていない。それだけは断っておく。男としての意地と理性で秋祢はそれだけはやめさせた。誉めてやって欲しい。
 居間に座っていた秋祢はひなを手招きで呼び寄せ、すぐ近くに座らせる。
「あのな、ひな。これからおれの言うことは絶対に守って欲しい」
「?」
 不思議そうに首を傾げるひなに、秋祢はこう提案する。
「今から、家事はおれとひなで分担すること。それに風呂は絶対に別々、何があっても、例え大地震があっても入って来るな。おれが大地震になる」
 まだよくわかっていないひなだが、何となくで肯いた。まあこれでいいだろう、と秋祢は思う。
 そして次のひなの意見を聞いて、秋祢はその考えを撤回する。
「じゃあ、一緒に寝ていい?」
 父さん、母さん、あなた達は、一体何を思ってこの子を造ったのですか?
 おれに早く大人になれ、とそう言いたい訳ですか?
 その手には乗りません。おれは、おれの信念を貫き通してみせますよ。
 てゆーか、勘弁してよ、マジで。
 ひなは、いつまでもニコニコと笑っている。
 夜は、ゆっくりと更けて行く。


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     「秋兄ちゃん争奪真剣一本勝負」




 凛がかなり険しい目付きで、
「ひなちゃん! 今度はクロールで勝負っ!」
 ひなはすごく嬉しそうに肯く。
 ひなは可愛い。たぶん、誰が見てもそう言うと思う。
 そして無邪気である。何て言うのだろう、世間知らずというか、ただの純粋と言うか。とにかく、無駄な知識を何一つ持っていない。人間の汚い部分というのが、ひなにはなかった。真っ直ぐな、素直な心だけをひなは持っていた。だから普通の人なら言えないようなことでもひなは平然と言ってのけてしまう。それが短所といえば短所になるのだが、同時に長所にもなる。天然なのかもしれない、と秋祢は思う。
 凛は泣きそうな顔で、
「また負けたっ! 次は潜水息止め勝負っ!」
 ひなはすごく嬉しそうに肯く。
 最初に言い出したのは、ひなだった。テレビを見ていたら、夏の特番ニュースでプールを放映していた。ここから少しだけ離れた場所にある遊園地の隣りにあるかなり大きいプールだ。海水とかウォータースライダーとかがある、夏の間はゴミのように人が集まる場所だ。しかし去年にジェットコースターの車輪がぶっ壊れてプールサイドを歩いていた人に直撃するという事件があったが、今はその影響はないらしい。別にそこに行く気はないので影響があっても知ったことではないのだか。
 つまり、そのニュースでプールの紹介をしていた訳だ。するとひなは目を輝かせてプールに行きたいと秋祢に申し出てきた。どうしたものかと悩んでいると、ちょうどその時に弘樹と凛が近くの市営プールに行こうと誘いに来て、成り行き上そうなってしまって行くことになった。行く途中でひなは水着を持っていないことを思い出し、近くのデパートで急きょ購入した。その時、凛がかなり落ち込んだ表情をしていた理由は言うまでもない。ひなと凛では体型に差があり過ぎだ。
 今度こそ本当に泣く五秒までみたいな瞳で凛は、
「むぅーまたぁ……ええっと、次はぁー……」
「もういい加減にやめとけば? ひなちゃんには勝てないって」
「うるさい! お兄ちゃんは黙っててっ!!」
 ひなは凛の怒っている理由など知りもせずに無邪気に笑っている。それがまた凛の気を立てるのだろう。
 さて。さっきからひなと凛は何をしているのか。その問いに答えよう。凛曰く、「秋兄ちゃん争奪真剣一本勝負っ!!」である。が、真剣一本勝負と言い出したのは凛のクセに、さっきから次、次、次の連呼だ。凛は運動神経が女子の中では群を抜いているものがある。活発な女の子にありがちのパターンだ。しかし、やはりここでもひなはその上を行く。最初はプールの縦二十五メートルを平泳ぎでの勝負だった。次は背泳ぎ、次はバタフライ、次はクロール、そしてさっきの潜水息止め。それらすべて、ひなが凛の三倍は速く泳ぎ、三倍は長い潜水時間でぶっちぎりの圧勝だった。凛が泣きそうになるのもわかる。料理でひなに負けた時も、秋祢もそんな感じだったからだ。
 単純に、ひなはすべてにおいて超人的な万能能力を秘めているのだろう、と秋祢は思う。そもそも人より劣る物を造る必要がない訳で、ひなはそういう風に造られているから、凛が勝てるはずもないのは当たり前だった。凛もそれは心の奥底ではわかっている。わかっているが言い出してしまったは凛であり、いまさら後には引けないのだろう。引いたらそれこそ負けを認めるようなものだからだ。そうなれば「秋兄ちゃん争奪戦」の軍配はひなに上がり、秋祢はひなのものになる。ちなみに秋祢の意見など鼻から無視である。凛の前では秋祢に人権は与えられない。
 凛が良い戦闘方法を思いつかず、結局は泣いているのかどうかわからない表情で「ここで少し休憩しよう」と休戦をひなに提案した。しかしひなはまだまだ泳ぎ足りないのか、プールサイドで弘樹と喋っていた秋祢を水面に引っ張り込んだ。それにまた凛が激怒し、「だったらあたしもっ!」と休戦を解除してプールに飛び込んで来た。プールサイドでは弘樹が一人で苦笑している。助けろっつーの、溺れてるんだぞおれ。
 ひなが秋祢の家に来てから、今日で四日になる。ひなのことはもうすでに弘樹と凛には話してある。少しは疑うと思ってはいたのだが、物的証拠のカプセルを見せるとすんなり信用してくれた。よくよく考えると、人工で造ったチワワを弘樹も凛も秋祢と一緒に見ているはずだから簡単に納得してくれたのかもしれない。秋祢の両親の仕事内容も軽くは知っていたこともあるのだろう。だが問題は凛で、ひなの存在を認めたは認めたのだが、それとこれとは話が別と言い出し、絶対に秋兄ちゃんに手を出さないでと何度も何度もひなに念を押していた。そしてそこはやはりひなで、何度も何度も肯き、しかしすぐに「秋祢、今日は一緒に寝ていい?」と訊いてさらに凛が怒った。そりゃもうゴジラみたいだった。誤解されるとアレなので断っておくが、この四日間、一度も秋祢はひなと一緒には寝ていない。秋祢がソファでひながベットで眠るという、『マスター』の立場など関係ない図式が成り立っていた。
 ひなと凛に拉致され、溺死させられそうになった秋祢は何とか岸に這い上がった。プールではまた凛がひなに決闘を申し込んでいる。懲りない奴だ、と秋祢は思う。
「……にしても、ひなちゃんって本当に素直だな」
 弘樹が何やら泳ぐ二人を見てそう言った。
 その隣りに秋祢は腰を下ろし、同じように、
「……まぁ、そうだな……。凛に何言われても平気な顔しているし」
「あれはすごいと思う。凛を相手に渡り合えるのって秋祢だけかと思ってたけど、ひなちゃんもそうだった」
「……まぁ、ひなだからな……」
「……ぶっちゃけ、実際のところはひなちゃんとどうなの?」
「どうって?」
「したの?」
 隣りで座る弘樹の頭を力の限りに殴る。
「殺すぞっ! てめぇ、優等生面して内面ではそんなことばっかり考えやがって! 今度そんな質問したら殴り殺すぞ!」
 殴られた頭を摩り、苦笑しながら弘樹は、
「冗談だって冗談。悪かった。秋祢のことはぼくが一番知ってるからそれは有り得ないって百も承知だよ。そもそも秋祢にひなちゃんを襲う勇気なんてないよ。精々押し倒すだけが限度だろうね。すぐに怖気付くと思う」
「……今すぐ殺してやろうか親友」
「降参です。すいません、ぼくが馬鹿でしたごめんなさい」
 もう一度その頭を殴ってから、秋祢はプールへと視線を向ける。凛がまた負けたらしく、次なる勝負を申し込もうとしている。そろそろ諦めても良い頃だと思うのだが、凛の性格上それはないのだろう。しかしまあ、ひなが楽しそうにしているからそれでいいか。凛には悪いけど。
 視線をプールから外して空を見上げる。雲一つない、完全なる快晴だった。そんな青空を見ると嬉しくなる。手を伸ばせば太陽にだって届きそうだ。耳を澄ますとせみの声が聞こえて、如何にも夏って感じがする。何だかかき氷が食べたくなる気分だ。そんなことを一度思うとその欲求が消せなくて、この辺にどこかかき氷の美味い店ってなかったっけと考え始まる。と、隣りの弘樹も同じことを思っていたのか、唐突に、
「ねえ、かき氷食べたくない?」
「食べたい。おれもそれ言おうとしてた。どっかに店あったっけ?」
「ミニストップは?」
「なんかコンビニでかき氷食うの微妙。もっと喫茶店とかならいいけど」
「あ、喫茶店か。あるある、ここから少し歩いた所に」
「マジで? これ終わったら行こうぜ」
「いいな、凛も喜ぶよ」
「ひなも喜ぶと思う」
「あたしとひなちゃんがどうしたの?」
 と、いつの間にかプールから上がった凛がそこにいた。すぐ後ろにはひながいる。どうやら戦いは休戦になったらしい。というより、凛の体力が尽きたのだろう。それに引き替えひなは息一つ乱していない。これはやはり相当なものなのだろうと秋祢は思う。
「かき氷食いに行こうと思ってな。ひなと凛も行くだろ?」
 凛がすぐに「行くっ!」と肯き、弘樹に向って「お兄ちゃんの奢りね」と甘える。弘樹が反論していつもの兄妹喧嘩が始まる。
 そんな光景をぼんやりと眺めていると、ひなが顔を寄せてそっと聞いていた。
「秋祢、かき氷ってなに?」
「かき氷、知らないのか?」
 小さく肯く。料理の仕方を知ってるクセにかき氷を知らないとはよくわからない知識である。しかしなぜこんなナイショ話をするように小声で訊くのか。何か聞かれるまずいことでもあるのだろうか。しかしひなにはひなの考えがあるんだろうと思い、合わせて秋祢も小声で答える。
「簡単に言えば凍りを削ったヤツだよ。そこにシロップかけて食べる」
「美味しい?」
「美味い。夏には欠かせない物の一つだな。夏の風物詩だよ」
 何やら期待一杯にひなが微笑んだ。かき氷くらいでこんなにも喜んでもらえるとは何て安上がりなんだろうと秋祢は思う。
 すると口論が終ったのか、凛がひなに向って、
「ひなちゃんはかき氷って知ってるの?」
 ひなは自慢気に答えを口にする、
「凍りを削った食べ物。その上にシロップかけて食べるの。夏には欠かせない物の一つ」
 それは、さっき秋祢が説明したのを少しだけ言い換えた言葉だった。
 へえ、知ってるんだと凛は半分関心、半分悔しそうな表情でひなを見つめる。ひなは得意顔で笑っている。そうか、そのためか。秋祢は小声で話すひなのことを思い出した。たぶん、凛に訊かれると「知らないの!?」とか大袈裟に言われてそれを理由に「秋兄ちゃん争奪真剣一本勝負」の勝利は自分に上がったと言い兼ねないと思ったのだろう。早くもひなは凛の性格を掴んでいる。というより、実はひなは負けず嫌いなのではないのだろか。今度訊いてやろうと思う。
 太陽は昼下がりのクセにまだまだ元気一杯である。たまに吹く風は心地良く、風鈴でもあれば最高だ。一夏の命しかないせみは、これでもかと言わんばかりに声を張り上げている。プールでは少年少女無邪気に遊んでいて、上がる水飛沫が眩しい。
 どれもこれも、夏の風物詩の一つなんだよな、と秋祢は思う。


     ◎


 秋祢達がいた市営プールから徒歩で十分ほど行くと、弘樹の言っていた通りに一軒の洒落た感じのする喫茶店が建っていた。
 ドアを開けると鈴がカランと乾いた音を出す。クーラーが効いている室内は涼しくて、コーヒーの鼻に付く香りとウエイトレスの声に出迎えられる。床やイスやテーブルも含めて、目に付く物すべてがアンティークっぽくて落ち着いた感じのする造りだった。客は疎らにいて、取り敢えず四人掛けの席に座った。
 ひなは始めて見る喫茶店に興味津々でさっきからきょろきょろと辺りを見まわしている。席に到着すると同時に凛が「秋兄ちゃんの隣りに座る」と主張し、それにひなも「わたしも秋祢の隣り」とぶちまけて譲らなかった。ここで口論をすると迷惑(特に凛)が掛かるので、席の座り方は弘樹の提案で男女に別れることとなった。そこでひなと凛の間に正当なジャンケンが適合され、秋祢の向いにはひな、弘樹の向いには凛という席順で落ち着いた。が、凛はいつまでもぶーぶーと文句を足れ、しかし弘樹の「帰ったらぼくに甘えさせてやる」という提案に激怒し、弘樹を一発殴って渋々納得した。
 四人揃ってテーブルの中央に置いたメニューに視線を落とし、すぐに秋祢はかき氷のメロン味を注文する。それに続いてひなもメロン、凛が好物のレモン、そして弘樹は恥ずかしげもなくメロンとイチゴとレモンのミックスを注文した。さすがはかき氷だけあって、来るのは早かった。だがその器が思ったより巨大だったことに戸惑ったが、頑張れば全部食えないこともない。
 全員が一緒に食べ始まる。秋祢が「冷てぇ」と苦笑し、弘樹が「甘い」と笑い、凛が「頭痛〜」とこめかみを押さえ、ひなはノーコメント。不思議に思って向いに座っているひなに視線を送ると、微妙な光景が繰り広げられていた。ひなが、なぜかかき氷を夢中で食っていた。他の三人の視線に気づきもせず、スプーンが食器に当たる度にカチカチと音が鳴っている。
 しばらく呆気に取られて見守っていた秋祢だが、何とか口を開いた。
「ひな……?」
 その声に気づき、ふっとひなが顔を上げる。スプーンが口に入ったままで不思議そうに秋祢を見つめて首を傾げる。
「……美味い?」
 ひなは満面の笑みで肯く。と、それ以上は何も言わずにまた食べ始めた。邪魔しないでおいてやるか、と秋祢は思う。各々がそう思ったのか、ひなにはそれ以上何も質問せずに皆が自分の分のかき氷を食べ直す。
 久しぶりに食べるかき氷は、普通に美味かった。口に含んだ時の冷気も、喉を通る時の冷たさも、こめかみが痛くなるその感覚も、全部が全部かき氷であり、それがなければかき氷とは言えない。これで食べている場所が外だったらまた違う味がするのだろうが、今はそんな贅沢は言っていられない。外で食べるのなら祭りの時にでも食えばいいのだから。今はただこのかき氷を味わうのが先だった。
 全員が半分くらい――といってもひなはもう少ししか残っていなかったが――食べ終わった時に、不意に弘樹が思い出したかのように「そうだ」とつぶやいた。視線を向けると、秋祢を見ながら弘樹は言う。
「ぼく達さ、明日からじいちゃんの家に行くんだよ」
「明日? どうして?」
 弘樹はスプーンで暗い色のかき氷を掻き混ぜながら、
「うん、明日。ほら、もうすぐお盆だろ?」
「ああ、もうそんな時期か……。そういえば弘樹の実家って、かなり遠くなかった?」
 苦笑しながら弘樹は答える。
「飛行機乗って行かなくちゃならないからね。向こう行ったら一週間くらい帰って来ないから。秋祢は行かないの?」
 少しだけ考え、隣りにいるひなに視線を向ける。それからまた弘樹に向き直り、
「いや、今年は行かないよ。交通手段がないし、それに――ひなもいるし」
 自分の名前が出て来たのに、ひなは一向に気づかずに残り僅かなかき氷へとラストスパートを掛けている。
「原チャリは? 秋祢の家にあったよね? 免許も持ってなかった?」
「両方持ってるけどさ、原チャリで行くには遠い。それにひなを後ろに乗っけてって捕まるのは勘弁だしな」
「そっか……」
「ま、おれ達はのんびりとこっちで過ごすよ。気ぃ付けてな」
 羨ましい、とでも言いた気な表情で弘樹は肯いた。と、それまでひなの隣りでじっとその話しを聞いていた凛が急に立ち上がった。
 隣りでまだ夢中でかき氷を食っているひなにびっと指を差し、
「ひなちゃんっ! あたしが留守の間、絶対に秋兄ちゃんに手を出したダメだからねっ! まだ勝負は着いてないんだから、間違っても秋兄ちゃんを襲ったりしないようにっ!」
 それは例えが逆だろう、と秋祢は思ったが口には出さなかった。
 そして、急にひながピタリとその動きを止めた。カチャっと音を鳴らしてスプーンを食器に置き、視線をゆっくりと上げて行く。
 突然のそのひなの行動に怖気付いた凛は、全体的にあとづさって「な、なによっ?」と虚勢を張る。
 ひなの視線が、秋祢の視線とぶつかって止まった。ひなが、その口を開く。
「秋祢、」
 微かに驚きつつ、何とか返答する。
「なに?」
 ひなは、言った。
「かき氷、ちょうだい」
 見れば、ひなの器にはかき氷がなかった。すでに食べ終わっていた。秋祢の器には、まだ半分近く残っている。
 凛が「もぉーっ! ひなちゃんっ!」と叫ぶが、ひなは何がなんだかわからないという感じで怒る凛を不思議そうに眺める。
 弘樹が苦笑する。秋祢はため息を吐いてそっと自分の器とひなの器を取り代える。それに気づいたひなはまた嬉しそうにかき氷を食べ始める。そしてまた凛が怒り出す。喫茶店にいる人が何事かと注視し、事情をずっと見ていたバイト風の若い女性のウエイトレスがくすくすと笑っている。
 ひなの好物に、『かき氷』が追加された瞬間であった。
 何だかひならしいな、と秋祢は思う。
 太陽は、まだまだ傾こうとはしない。
 夏休みは、もうしばらく続くのだ。
 非日常が、日常へと変わりつつある。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「ひなとわさび」




 秋祢のとって、夏休み、というのは寝るためにあるようなものだった。
 ただでさえ勉強しない秋祢は、夏休みの宿題などするはずもなく、そもそもその存在自体を忘れて今も鞄の中で眠っている。学校がある平日でも弘樹が起こしに来てくれなければまず間違いなく遅刻である。それが原因で留年しても不思議ではない。しかも弘樹と一緒に登校してもまだ寝惚けていて、一時間目が終った辺りで急に我に返って「あれ? おれってなんでここにいるの?」とか普通に言うことがある。クラスの面々も、そして教師もすでに慣れていて、最初の方こそ突っ込みはあったが今は完全無視で通っている。
 つまり、秋祢は夏休みはやはり寝て過ごすのだ。遊びに行きたいとも思わないし、別にやりたいこともない。そんなことに無駄な労力を使うのなら、睡眠で体力を温存したいという何ともぐーたらな私生活を送っていた。毎年、こんな感じである。親があまり家にいなかったので、いつまでも経っても起きて行かなくても「朝食が片付かないから早く起きて来い」とか、「遅刻するから早く起きろ」とか、そういう言葉を聞く機会がほとんどなかった。それが原因で、秋祢はこんなにもよく寝るようになったのかもしれない。寝る子は育つと言うが、タバコを吸っている秋祢に成長の見込みはなかった。と言っても、すでに身長は十分な高さまで達しているので問題はないのだが。
 そして、去年までと何も変わらなかった秋祢の学生夏休みであるが、今年の夏休みの中盤を過ぎた辺り、それもここ一週間でかなり変化があった。その変化をもたらしたのは他の誰でもない、ひなである。
 ひなの生活は、秋祢とは全く逆にかなり早くに始まる。朝の九時きっかりに目覚め、正反対の壁際のソファで寝ている秋祢を確認してからベットから起き上がる。秋祢を起こさないように部屋を出て階段を下り、洗面所で顔を洗う。それから秋祢の母親、静祢の部屋に行って着替えを済ませる。服はひなのために数多く用意されている。服がないと困るだろう、と秋祢が買ってくれたのだ。どの服を選んでいいのか全然わからなかったけど、そこは凛が選んでくれた。下着などと買う時、凛がなぜか悲しそうな、怒っているような、不思議な表情をしていたのは今でも謎である。
 服を着替え終ったら家事だ。ご飯は秋祢と一緒に昼食だけ食べればいいので朝食はいらない。そもそも、ひなに取っての活動原力の大体は太陽の光で蓄積出来る。簡単にソーラーエネルギーとかそんな感じの原理で。しかしそれだけでは満足に蓄積出来ないこともあるので、人間同様に食物を摂取することもある。それも最低限の物を食べれば十分足りるのだが、ひなの考えではご飯は美味しいのであり、必要なくても食べたいのだ。ただ一人で食べても美味しくないので、秋祢が起きるまで待つというのがひなの中で決められていた。秋祢が起きるのは昼過ぎなので、必然的に朝食は抜きで、昼食から食べることとなる。
 家事は掃除と洗濯だ。秋祢と家事は分担とのルールがあるのだが、その二つはひなに任せられていた。ちなみに秋祢は風呂掃除と食事の用意である。たまにひなが食事を作ったりすることもある。そして、今日も最初は掃除から始める。今まで一軒家で一人暮らしを続けていたのにも変わらず、掃除はかなりの範囲まで行き届いていた。秋祢曰く、「掃除くらいしかすることがなくてさ」だそうだ。しかし理由は何であれ、掃除を毎日続けられるのは素直に凄いことである。ひなはそんな秋祢の意思を受け継ぎ、家の隅々まで綺麗にする。物置などはやらなくていいと言われたが、それでも時間が余るのでいつもやってしまっている。一つだけ例外なのが秋祢の部屋だ。以前、そこを掃除していて、本棚に置いてあった雑誌を手に取って表紙を眺めたことがある。女の人が写っていた。興味が出て、秋祢に「これなに?」と訊いたら、秋祢は飲んでいたジュースを吐いて素早くひなの手からその雑誌を奪い取ってしまった。それから本当に焦ったように「これからはこの部屋は絶対に掃除しないことっ。おれがするからっ。新しい決まりなっ」と言っていた。よくわからなかったけど肯いておいた。凛が怒っていた理由といい、秋祢が焦っていた理由といい、よくわからないものだ。あの雑誌は何だったのか、未だに教えてくれない。
 掃除が終ったら今度は洗濯である。ひなの服と秋祢の服を洗濯機に突っ込んでスタート。ひなは、回っている洗濯機を見るのが好きである。ウィンウィンゴォンゴォン音を出しながら回る洗濯機は見てて飽きない。以前、何だか楽しそうだったのでひなも洗濯機の中に入ろうとしたら秋祢に思いっきり怒られた。ここでもう一つルールが追加される。「洗濯機の中には絶対に入るな!」
 洗濯機が止まったら中身をカゴに移して外に出る。夏の陽射しは暑かったけど、それがすごく気持ち良い。体が暖まる。自然と元気が沸いて来て、何だかすごく楽しい気分になる。洗濯物を物干し竿に引っ掛けて日光のよく当たる場所へ。隣りの家の雅子さん(二人の子どもを持つ四五歳の現役の主婦)がひなに気づいて軽く挨拶をしてくる。ひなは笑い返す。洗濯をする当初、雅子さんは一人暮らしの秋祢の家に女の子がいることに気づいてかなり驚いていた。しかしそこは秋祢のナイスフォローで恋人と同棲しているという何とも典型的で一番マズイ状況説明をしてしまった。それに凛が激怒、秋祢が産まれる前から家の庭にあった大きな木が一本お亡くなりになられた。
 雅子さんに軽く挨拶を済ませ、洗濯物をすべて干し終わったら次は日光浴である。これは天気の良い日に限るが、ここ一週間はすべて快晴である。玄関の近くにある石で出来たイスに座って眩しい太陽を見上げる。薄く目を閉じて光りを体一杯に浴びる。と、庭の隅に動く気配を感じた。見ればそこに茶色の猫が一匹歩いている。雅子さんの家が飼っているミュウである。ひなが微笑んで「にゃー」と鳴くと、それに共鳴してミュウも「みゃー」と返してひなに近づいて来る。足元まで来たミュウを抱き抱え、一緒に日光浴を続ける。しばらくするとミュウが日光浴に飽きたらしく、ひなの腕を飛び出してとこかに行ってしまった。あんな可愛い猫が大きくなったら虎になる、と秋祢に教えられた。不思議である。「バイバイ」と手を振ってひなも立ち上がる。
 玄関から中に入って時計を見ると、すでに十二時を回っていた。お腹が減った、とひなは思う。ひなは腹が減っても別に支障はない。が、ひなはそれにすごく拘る。そろそろ秋祢を起こそうと思い立ち、階段を上がって二階へと向かった。廊下を歩いて一番奥の部屋、そこが秋祢の部屋だ。ドアを開けるとカーテンが閉め切ってあって暗く、その中でソファの上で死んだように眠る秋祢の姿がある。
 そこまで歩んで行く。ベットとソファの間にあったひなが入っていた木箱とカプセルはすでに片付けてある。木箱は必要ないので解体して焼き払った。カプセルは押入れに突っ込んだままで放置されている。あのカプセルの正式名称を『フェイザー』という。が、あれは初期の設定とメンテナンスをするためだけの物であり、一度起動したらほとんど用無しであった。
 ソファのすぐ側まで歩み寄ったら、幸せそうに眠る秋祢を揺する。しかし一向に起きる気配はない。「秋祢、秋祢」と言って揺すってみても結果は同じで、全くの無意味だった。いつものことなので諦めている。秋祢は、ソファから落として蹴るくらいしないと起きないのだ。それに、よく秋祢は夜中に起き出すことがある。その時の秋祢に何を言っても何も返してくれず、真夜中にどこかに出掛けたりする。しばらくしてからコンビニの袋を持って戻って来たことがこの一週間で一回だけある。あの時の秋祢は少し怖かった。
 眠る秋祢の表情を眺める。気持ち良さそうに寝ている秋祢の寝顔を見ていると、こっちまで嬉しくなって来る。秋祢の表情で一番好きなのは、寝ている顔と笑っている顔だった。二つとも、見ているとこっちまで嬉しくなって来のだ。だから、ひなはよく秋祢の寝顔を見守っていたりする。笑っている顔を見ていると、秋祢が不思議そうな顔をするのでダメなのだ。一番よく見れるのは、寝顔。秋祢を起こす前はこうやって見守ることが多い。
 そして、ふと気づいた。秋祢が汗をかいている。少しだけ苦しそうに息を漏らす。もしかしたら夏風邪を引いたのかもしれない、とひなは思う。最近ではずっと秋祢はソファで寝ていたし、そこはクーラーが直に当たる場所でもあった。もし本当に風邪なら大変である。どうしようかと悩み、体温計の場所を訊いていないことを思い出してさらに悩む。右手を自分の額に当て、もう片方を秋祢の額に当てる。テレビで見たことがあるのだが、こうすれば相手に熱があるかどうかわかるらしい。しかし、ちっともわからなかった。そして、その時にもう一つ思い出した。そのテレビで次にやったこと。それは、この手でやるよりは少しだけマシに思えた。
 ひなは、これしかないとばかりに肯いて、眠る秋祢の顔をじっと見つめる。
 やがて、そのひなの顔が、秋祢の寝顔へと近づいて行く。


 まず最初に感じたのは、圧迫感、とでも呼ぶようなものだった。
 何かが来る、とかそんな感じの。違和感を憶えた秋祢は、不本意ではあったが、眠たい意識を何とか回転させ、その目をゆっくりと開いた。
 その時、眼前にあるのが何なのか、秋祢はすぐには理解できなかった。
 近い、なんて生半可なものではなかった。本当にすぐそこに、まるで今からキスをするかのように、ひなの顔がそこにあった。思考が停止していたのは0.0001秒くらいだ。秋祢は人間の限界を超えた反応を見せた。衝突するコースから戦線離脱し、ソファの上で銃弾から逃げる兵士のように転がって床に落下した。そこですぐさま体勢を立て直した時、ソファではひながさっきまで秋祢の顔があった場所へ顔を沈めて「ふみゅっ」とどこぞのマニアが聞いたら飛んで喜ぶだろうという何とも不思議な声を出した。
 それからゆっくりと顔を上げ、酷いとでも言いた気に秋祢を睨む。酷いのはどっちか、寝込みを襲うなどそっちの方が酷くないのか、凛からの忠告を忘れたのか。心臓が今になってバクバクと暴れ始める。もう少しで大切なものを失うところだった、と秋祢は思う。
 口が上手く回らない。
「お、お前っ、い、今なにし、しようとしたっ!?」
 ジト目で秋祢を見つめるひなは、ただこう言った。
「秋祢が心配で……」
 その理由を、秋祢はもちろん知らない。だから、秋祢の理解の仕方はおかしなもので、心配だからキスをしようとしたのかお前は、という結論に達した。これは、どちらが悪いのだろうか。
 洋室と和室のカーテンと窓が開けられる。窓の外からはせみの声が聞こえる。太陽が今日も元気一杯で輝いている。どこかで隣りの家のミュウが「にゃあ」と鳴いた。
 夏の日々は続く。


     ◎


 ひなが昼食を食べたいと言ったので、秋祢は用意をすることにした。
 家はすでに綺麗に掃除してあり、庭では洗濯物が風に揺れていた。つまり、ひなは自分のするべきことはすべてしたということなのだろう。それでは次は秋祢の番だ。しかしこのクソ暑い中で凝った料理を作るのは面倒なので、簡単に用意できる夏の定番とも言える素麺を提案する。初めて聞いたその食べ物の名前に興味津々でひなは秋祢に「美味しい?」と訊ね、秋祢が「美味い」と答えるとそれでいいと嬉しそうに肯いた。やっぱりひなの知識は偏っていて、知っていそうな物を知らず、知らなくてもいいようなことを知っている。どう思ってこういう設定にしたのかは未だに謎だった。
素麺の束を二人分取り出し、鍋でお湯を沸かす。それまで暇だったので素麺の茹でる前のパリパリしたままのその一本を引き抜いて食べる。茹でたのも美味いが、こうやって生で食うのも美味いと秋祢は思う。微妙な塩加減がなんとも言えない味なのだ。それを隣りで見ていたひなは、秋祢の真似をするように束の中から一本を取り出し、口に入れる。お菓子感覚でそれを食べ、隣りの秋祢に驚いたような視線を向ける。
 秋祢は少しだけ得意そうに笑う。
「美味いだろ?」
 ひなは素直に肯く。それから半分だけ食べた素麺をしげしげと眺め、
「これが素麺?」
「そうだけど、今からこれを茹でるんだよ。そんで汁に付けて食べる」
「それも美味しい?」
「美味いよ」
 ひなは嬉しそうに笑う。何だか、そんな当たり前のことで笑ってくれるとこっちまで嬉しくなる。ひなは無邪気だった。疑うということを知らない。何でも信じてしまう。以前、テレビに出て来た虎に興味を示したひなに、「隣りの家のミュウな、大きくなったら虎になるんだぞ」と言ったら本気で信じた。誤解を解くのにかなりの時間が掛かってしまったが、今でも信じているような気配がある。何かとんでもないことに巻き込まれないように保護しておかなければならない、と秋祢は思う。
 鍋の中の水が適度な温度になったので素麺の束をばらして入れる。その間に冷蔵庫から素麺の汁を取り出して小さ目の器二つに注ぐ。ひながそれを少しだけ舐めて何とも言えない表情をする。汁だけを飲むなよ、とひなの額を軽く小突く。しばらくやることがなく呆然と鍋を見つめる。時間になったらざるに移して水切りをして水道水で軽く流す。素麺に合うようなガラスの器に盛り、その上に冷蔵庫から出した凍りを五つほど投入する。これで完成である。
 台所のテーブルに置き、秋祢は席に着く。その隣りにひなが座り、秋祢の分の箸を手渡す。
「サンキュ」
「食べていい?」
「おう」
 二人揃って「いただきます」と手を合わせる。
 ひながガラスの器から素麺を摘み出し、汁が入った器へと移動させる。そしていざ食べようとして、ふと隣りの秋祢に視線を送る。それに気づいて秋祢はひなを見つめ返す。微妙な沈黙だった。
「……どうした?」
 そう問うと、ひなは秋祢の手に視線を落として、
「なんで?」
 ひなに習って秋祢も視線を下に落とす。秋祢が手に持っているもの。ただのわさびである。
「なんでわさびを入れるの?」
 ああそういうことか、と秋祢は思う。
「いや、入れると美味さが増すんだよ。ひなも入れるか?」
 ひなは肯いて秋祢の手からチューブのわさびを受け取る。そして自分の素麺が入った器へと、遠慮なしにわさびをぶち込んだ。うわっと秋祢が驚き、その動揺で、それ食うの待てと制するのが一歩遅れた。「そ」と口に出した時にはすでに、ひなは素麺を口に入れていた。
 わさびをそのまま食っても、しばらくはどうってことないものである。小さな頃に秋祢は罰ゲームでやっているので間違いない。が、その直後にそれは来る。嵐の前の静けさというもので安心したのがそもそもの間違いだったのだ。まずは違和感を感じる。そしてその時にはすでに手遅れである。何かが鼻を突き抜けるような感覚に囚われ、一瞬で目の前が真っ白になる。なぜだか涙が溢れて口が回らない。何でもいいから飲み物が欲しくなるのだ。
 ひなは、まさにあの頃の秋祢を見ているようだった。急にピタリと動きを停止させ、唐突に目から涙がぶわっと溢れた。口元を手で押さえ、涙が流れる瞳で秋祢を見つめて必死に何かを訴える。両足をバタバタと動かして声にならない悲鳴を上げる。秋祢から手渡された水を死にもの狂いで飲む。
 この瞬間、ひなの嫌いな物に『素麺』が追加されたのだった。
 別に素麺に罪はない、原因は『わさび』である、そしてその原因を作ったのはひな自身だ、素麺を嫌いになる必要はない。という秋祢の説得に、ひなは断固として納得しなかった。まるで親の仇のように素麺を、それを貪り食う秋祢を、涙で濡れる瞳でずっと睨んでいた。
 なんともやるせない気持ちになる秋祢だった。
 結局、秋祢は素麺を二人分まるまるを一人で食べた。
 しばらくは素麺を見たいとも思わない、そんな夏の日々だった。


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     「お揃いのプレゼント」




 秋祢は昼過ぎにひなに叩き起こされた。寝惚けたままの秋祢にひなは「デパートに行きたい」と言った。
 以前、服や水着を買った時に随分と気に入ったらしく、夏休みを家でぐーたらと過ごす秋祢に渇を入れんばかりに猛然とそう主張し続けた。「デパートは涼しいから秋祢にとっても気持ち良いし、わたしも見たい物があるから行きたい、でも一人で行ってもつまらないから秋祢も一緒に行こう、それにわたし一人じゃお金がないから何にも買えない、それとも秋祢はわたしとどこか出掛けるの嫌? 一人で行った方がいい? わたしは秋祢と一緒に行きたいけど、どうしてもダメって言うなら我慢する……ダメかな、秋祢?」そんなことを涙目で、しかも至近距離から永遠と言われたら断る方が無理な話である。秋祢はヤケクソになって「わかった、わかったよ! 行けばいいんだろう、行けばっ!」とひなの主張を受け入れた。
 弘樹や凛と一緒に行く時は歩いて行った。ここから徒歩で十五分程度だからだ。しかしあの時はプールという目的などもあったのでそうしただけで、今回はただひなと二人でデパートに行って帰ってくるだけである。無駄な体力を使う必要もないし、デパートまでは裏道が数多くあるので捕まりはしないだろうと秋祢は思う。身支度を済ませるとひなと一緒に外に出た。瞬間、夏の暑い太陽に肌を射貫かれて動く気力が失せる。が、ひなは秋祢の手を引っ掴んでズイズイと歩いて行く。こうなっては諦めるしかなかった。
 道路に歩み出して歩いて行こうとするひなを制止する。
「ひな、待て。今日は歩いて行かない」
 じゃあどうするの? とでも言いたそうに首を傾げるひなをその場に残し、庭の端っこにある車庫へと向った。三ヶ月前のあの日から、ここは一度も開けてなかったことを思い出して、まだちゃんと動くのか少しだけ心配になる。閉まり切っていたシャッターを三ヶ月振りに開けた。薄暗い車庫に光りが刺し込み、その光りを反射させるボディが二つ。両親の車だった。さすがにこれを売る気にはなれず、しかし秋祢には乗れないのでずっと放置しっぱなしだった。もちろんこれに乗って行くのではない。運転は出来るが事故を起こさない自信はなかった。
 ではなぜここを開けたのかと言うと、答えは二台の車の真中に眠っていった。そこに、車庫に射し込む光りを反射するもう一つの小さなボディがあった。秋祢はそれに近づき、シートに手を乗せて埃を軽く払う。秋祢の目の前にある物、それは一台のスクーターだった。三ヶ月前までは免許も持っていたことから乗り回していたのだが、両親が死んで以来家の家事が忙しく、乗る暇がなかった。言い換えると、単に外に出るのが面倒臭かったからなのだが。
 キーは刺さったままで放置されている。ハンドルを持ってスクーターを押し、車庫の外で待っていたひなの所まで持って行く。ひなは不思議そうにスクーターを眺めて首を傾げる。
「秋祢、運転出来るの?」
 どうやらスクーターの存在は知っているらしい。
「もちろん。しばらく運転してなかったけど自転車と同じですぐに慣れるよ。ひな、後ろ乗れ」
 スクーターに跨り、秋祢はそう言った。ひなは少し心配そうだったが、秋祢の言葉を信じてスクーターの後ろに座る。それを確認してから、久々に真正面からアクセルを握った。
 シリンダーに突っ込まれたままのキーを回転させてメインスイッチをON、ブレーキを握ってイグニションボタンを押す。が、しばらく放置されていたので一発ではエンジンは掛からなかった。二度三度、そして四度目でエンジンがやっと息を吹き返した。三ヶ月振りに聞く、自分のスクーターの排気音だった。その場でしばらく吹かし、ガソリンメーターに目をやる。まだ半分近く残っている。デパートまでの距離なら往復で十分に足りる量だった。
「掴まってろよ。途中で落ちても知らないからな」
 後ろでひなが肯いて、秋祢の肩をぎゅっと掴む。それと同時に秋祢はアクセルを開け、庭から道路に飛び出――
 クラクションが聞こえてブレーキを思いっきり握った。後輪が一瞬だけ浮き上がり、体重が前に押し出される。後ろのひなが秋祢の背中にぶつかって「みゅっ」と声を出す。すぐにスクーターの前輪の数センチ横を一台の乗用車が通り過ぎて行き、その車が鳴らしたクラクションがいつまでも耳に残っていた。
 しばらく双方無言で、スクーターが出すエンジン音だけが響いていた。
「……歩いて行くか」
 そんな秋祢の問いに、後ろでひなが重々しく肯いた。
 エンジン音が止まると、その変わりにせみの声が聞こえ始める。
 命を失う三秒前だった。二人乗りはやめよう、と秋祢は思う。


     ◎


 デパートは駐車場が無駄に広い。そもそもそのデパート自体がデカイので無理はないような気もするが、それでも無駄に広かった。しかしそんなにも広いクセに、土日や休日ともなるとその駐車場が三分の二は埋まるので不思議なものだった。それだけこのデパートは儲かっているということなのだろう。
 デパートは二階建てで構成されており、一階に食品や生活に必要な雑貨用品、衣類やその他、それにチェーンのファーストフード店が数軒。二階にはゲームセンターとスポーツ店、軽い電化製品に本屋、そして小さなアクセサリーを扱う専門店。ひなが行きたいと言ったのは、そのアクセサリーを売っている場所だった。何やら女の子みたいだと思ったすぐに、ひなは女の子だろと一人で突っ込んで赤くなる。
 ピアスやネックレス、指輪などがショーケースに並べられている。別に高い代物なわけじゃない。単なる万引防止である。アクセサリーは若者向けが多く、秋祢と同年代、あるいは年下の少年少女が客層としては一番多かった。その中にひなが混じっても、何ら違和感はなかった。服装は凛が選んだだけあって今時風だし、それがひなには似合っていた。ショーケースを覗いて嬉しそうにしているひなは、普通の女の子と何一つ変わらなかった。
「普通……か」
 そうつぶやいて、ひなが見える位置にあった喫煙所へ向う。堂々とタバコを吸っていれば大抵は見逃してくれる。こそこそと吸うから逆に怪しいのだ。上着のポケットからタバコのパッケージを取り出し、そこから一本出して火を付ける。煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。煙を吸い込む機械がそれを綺麗に吸い取ってくれた。途中でひなが秋祢を探しているような仕草をしたので、手を振ってやる。それに気づいたひなは安心したように笑って、またショーケースへと視線を戻す。
 タバコを吸う。先ほど思った、『普通の女の子』について思考を巡らす。最近、いや、最初からそうだったのが、最近はより強く思うことが多くなった。ひなは、普通の人間と何が違う、と。日に日に、毎日を一緒に過ごすに連れ、その思いは大きさを増していった。ひなは普通の女の子と何一つ変わらない。逆に変わった所を探せという方が難しいと思う。だからなかもしれない。今は押入れに閉まってあるカプセル――ひなが言う『フェイザー』――が、どうしても現実の物とは思えなくなっていた。現にひなはあそこから産まれた訳で、その現場に秋祢は立ち合っている。が、それでも、どうしてもあれが現実だとは思えない。ひなは普通の人である――その考えだけが現実味を帯びて行く。弘樹や凛も同じように思っていたはずだ。だからこそ、秋祢と接するのと何一つ変わらずにひなに接して来たのだ。そして何より、
 タバコの最後の一口を吸い終わり、灰皿に捨てる。ひながまたこっちを見た。手を振ってやる。ひなが笑う。秋祢も笑う。
 そして何より、ひなは、秋祢がずっと欲しいと思っていた、ずっと一緒にいてくれる家族である。言葉に出したことはただの一度もない、思ってもそれを否定し続けてきた。両親を心配させたくない、両親の仕事の邪魔をしたくない。小さな頃からそう自分に言い聞かせ、同時に諦めていた。しかし、心の奥底ではいつもそう思っていたのは、どうしようもない本音だった。そして、仮定はどうであれ、秋祢の前に家族が現れた。秋祢の満たされない気持ちを一発で消し去ってくれた、『ひな』という存在。彼女は、今の秋祢に取って、何よりも大切な存在になっていた。笑ってくれればこっちも笑える、一緒にいると楽しい。そう思えるのが家族なんだなって、改めて秋祢はひなに教えてもらったのだ。
 少し深く考え込んでいると、ひなが秋祢のすぐ近くまで来ていた。
「どうした? 欲しい物、あったか?」
 ひなは肯く。買ってやるか、と秋祢は思う。家族への、ささやかなプレゼントである。
 ひなと一緒にショーケースまで戻ると、ひなは「これ」と並べられた品物の一つを指差した。それを見てみる。クロスのチョーカーだった。黒い革製の紐の先に付いているシルバーの十字架。シンプルだけどどこか惹かれる、そんなデザインだった。秋祢も一目で気に入った。が、これはひなへのプレゼントである。自分が欲しがっても仕方がない。
 秋祢はショーケースの向こうにいた店員に声を掛け、それを買った。箱に入れるかどうか聞かれたが、どうせ開けるのだからここでひなに手渡そうと思ってその申し出を断った。店員から受け取ったチョーカーをひなに差し出す。
「ほら。ひなに似合うと思うぞ」
 素直にそう言ってやると、ひなは予想外の行動に出た。チョーカーを受け取って、すぐに秋祢に差し出す。意味がわからずにひなを見ると、嬉しそうに微笑んでいた。そして、こう言った。
「これは秋祢の。わたしが似合うと思って選んだ」
 その言葉で、初めて理解した。ひなは、これを秋祢のために選んで、ひな自身のための物ではなく、秋祢へのプレゼントなのだ、と。これを秋祢に渡すために、あんなにも必死にデパートに行こうと誘った。そう思うと、心が温かくなった。
 秋祢は笑う。
「そっか。ちょっと待ってろよ」
 チョーカーを手にしたまま、秋祢は再度ショーケースを覗く。そこから一つを指差して店員に求める。また代金を払い、受け取ってから秋祢はそれをひなに差し出した。
 秋祢が持っているチョーカーと同じデザインの、しかし一回り小さいクロスのチョーカーだった。
「これがひなからのプレゼントなら、これはおれからのプレゼントだ」
 驚いたように秋祢を見つめるひなは、その意味をかなりの時間を掛けてやっと理解した。
 そして、今まで見たどの表情より嬉しそうな笑顔で、ひなは微笑んだ。
「ありがとう、秋祢」
「こちらこそ、ありがとう」
 ひなは秋祢からチョーカーを受け取り、照れ臭そうにそれを首に付けた。それに習って秋祢も付ける。ひなは自分の胸元と秋祢の胸元にあるチョーカーを交互に見つめ、嬉しそうにこう言う。
「お揃い」
「お揃いだな」
 凛に見付かったらまた大変だ、と秋祢は苦笑する。
 しかし、ひなが本当に喜んでくれている。それだけで十分だった。
 ひなが笑っている。たったそれだけで、満足だったから。ひなが本当に愛おしく、何よりも大切な家族だった。失いたくない最後の一欠けらが、ここに来てようやく完成したような気がした。何もいらない。ひなだけがいてくれればそれでいい。心の底から、そんな風に思えた。
 たったそれだけを望んだ。
 ひなが、好きだった。


 そして、たったそれだけを望み、想った。
 なのに、一体、誰が想像出来ただろうか。
 いつまでも続くと思った日常が、夏の日々が、こんなにも無残に、残酷に、容赦なく叩き潰されるなんて、
 一体、誰が想像出来ただろうか?


 それは、デパートから家に帰り着いて、秋祢の部屋でひなと一緒にジュースを飲んでいた時だった。
 ひなはさっき買ったチョーカーを本当に嬉しそうにちょんちょんと突ついていた。そんなひなを秋祢は微笑んで見守っていた。
 ――唐突に、日常の中の非日常は、終りを告げる。
 微笑んでいたひなの動きが、いきなり止まった。漠然とする気配の変化を感じた。その異常なまでの変化に秋祢は戸惑い、ひなに声を掛けることができなかった。ひなはどこか部屋の一点を見つめて全く動かない。そんな不可思議な、しかし刺々しい沈黙がしばらく続いた。
 秋祢がその口を必死で開き、自分でもわからない言葉を吐こうとし、しかしそれをひなの声が遮る。
「――……来る」
 なにが? という質問は返せなかった。
 ひなの瞳が、変わった。まるで暗闇に放り出した猫のように、瞳孔が鋭くなった。今までのひなからは想像の出来ないような険しい表情でいきなり立ち上がる。そのまま走り出し、隣りの和室へ。網戸を引き千切るような勢いで開け、手擦りに身を乗り出すように夏の空の彼方を見据える。ひなの突然の行動に思考を奪われていた秋祢は、それでもひなに続いて和室へ向った。ひなのすぐ隣りに立って手擦りの向こうの空へ視線を向ける。が、ひなが見ている視線の先には何もなかった。意味がわからなかった。
 せみの声だけが響いていた。
 そして、『それ』に気づくことが出来たのは、たぶん偶然だったと思う。空の彼方から、何かがこっちに向って突っ込んで来る。とんでもない速さだった。最初は小さなシャー芯のような黒い点だった『それ』は、一瞬で大きさを増し、いつしか鉛筆くらいの黒い点になっている。目を凝らすがわからない、耳を澄ますとせみの声に混じって何かの音が響き渡る。腹に響く、重い音。
 『それ』は、秋祢には何なのかわからなかった。だが、ひなにはわかっていた。
 ひなは、手擦りを飛び越えて屋根の上に降り立つ。そして視線は黒い点に向けたまま、秋祢に叫んだ。
「秋祢っ! 部屋の中に入って隠れてっ! 絶対に出てきちゃダメっ!!」
 状況が理解出来ない、ひなの指示をそのまま受け入れられない。
 目の前で起こっている光景が、何一つわからない。


 ひなは、五段階ある内のリミッターを、三段階まで一気に外した。
 足の下の瓦が音を立てて弾け、家全体が震える。風がひなを中心に巻き起こり、割れた瓦の破片を空へと吹き飛ばす。吹き荒れる風が髪を舞わせ、視界に『それ』を捕らえる。
 視線の先にある物――それは、一閃の悪魔だった。核兵器と同等の力を持つ、人を殺すためだけに造られた殺人兵器。遥か上空、宇宙から地球を監視している『それ』の正式名称、人工衛星『レヴァ』。そこから撃ち出される、質力を最大にすれば一撃で小国を撃ち滅ぼすほどの威力を持つ一閃のレーザー砲、『リヴァ』。誤差は、一メートルもない。それが、ひなの真上から遅い掛かっていた。
 わたしのせいだ、とひなは思う。しかし今はそんなことを考えている暇はない。
 ――秋祢だけは、絶対に守るっ!!


 ひなの指示に、従うことができなかった。そもそもその指示を脳が受け付けていない。
 空気が変わるその中、ひなは屋根の上で両手を上げる。そこにあるのは、もはや点ではない金色に輝く一閃の光りの柱。
 そして、秋祢の目の前で、その柱は、ひなの両手と衝突した。
 世界が壊れる。
 窓から溢れる激しい閃光と轟音で視力と聴力を奪われ、その中で吹き飛んで部屋に転がり込むひなを庇えたのは、単なる偶然だった。
 意識が遠のく。腕の中のひなを必死に抱き締める。
 そこで、秋祢の意識は途絶えた。


     ◎


 タバコはマイルドセブンのスーパーライトのソフトタイプ、ライターはホームランとの文字が書かれた百円物、灰皿は小学生の頃にお土産で貰ったディズニーランドのチョコレートの缶。
 罅割れた窓を開け、網戸はどこか吹き飛んでなかった。ひしゃげた手擦りに手を付き、灰皿を窓際に置く。パッケージからタバコを一本だけ取り出して口に加え、ライターを口元まで持って来てタバコに火を灯す。煙を吸い込むとカラカラに乾いた喉に微かな痛みが走った。メンソールならともかく、ノーマルのタバコを水分なしで吸うのは少し辛いと秋祢は思う。窓から身を乗り出し、唾を吐く。赤い液体が混じっていた。血、なのだろう。部屋を転がった際にどこかぶつけたらしい。が、体中が痛いので今更気にも止めなかった。
 空は砂煙で灰色に曇っていて、そこから弱々しい太陽の光りが見える。夏の空とは思えない光景だった。まだ二口ほどしか吸っていないタバコを灰皿にぐりぐりと押し付け、窓を開けたまま洋室へ足を向ける。部屋がぐちゃぐちゃになっていた。窓から入って来た砂埃に塗れ、本棚から本が飛び出して床に散乱している。その中の一冊の雑誌、以前ひなにそれに付いての詳細を訊かれたことがある。あの時は恥ずかしくて答えられなかったが、何のことはない、ただのエロ本だ。
 そしてその問いをしたひなは、ベットで眠っていた。力を使い果たしたように、いや、事実そうなのだろう。ひなは力を使い果たし、ベットで眠っていた。その姿は酷いもので、両手は赤く腫れ、服は焼け焦げてボロボロで、頬は炭のように黒く汚れている。
 一体、どうしてこうなってしまったのだろう。いつまでも続くと思っていた夏の日々。ひなと一緒に、ずっと。たった一週間でひながいる非日常は、秋祢にとっての日常へと変化していた。いつしかひなといられる時間を、何よりも大事にしていた。家族が出来た、と本当にそう思っていた。ひなはただ一人の普通の女の子で、そして秋祢はそんなひなが好きで。たったそれだけ、それだけだったはずだ。過ちは、一体どこから始まっていたのか。一体、どうしてこんなことになってしまったのか。考えは永遠にまとまらない。その答えを持っているひなは、まるでこのまま起きないかのように眠っている。
 ひなを起こさないように、秋祢はタオルで頬の汚れを落としてやった。それが終ったら、秋祢は再び和室へ戻る。タバコのパッケージから一本取り出し、さっきと同じ動作で火を付ける。手擦りに体重を預け、窓から見える光景を眺める。そこから見える景色は、平凡だったはずだ。しかし、今は違った。
 地平線の向こうに見えるキラキラと輝く物は、海だろうか。今まではコンビナートなどに阻まれて見えなかったが、こうなるとここからも海が見えることに気づかされた。
 窓から見える光景は、もはや平凡ではなかった。すぐそこに見えたはずの田んぼの群れも、一軒一軒の庭が無駄に広い家も、どこからか聞こえる車の排気音も、聞き慣れた鳥の声も、そしてさらにその向こう、霞んで見えるそこに元気一杯に煙を吐き出していたコンビナートの煙突も、何一つなかった。
 窓から見える光景は、見渡す限りに広がる茶色い荒野だけだった。その荒野の中心に、秋祢の家はまるで取り残されたように建っている。
 火を付けたタバコは、結局一口も吸わなかった。吸うだけの力が、残っていなかった。
 ひなだけがいればそれでいい、そう、望んだはずだった。
 だけど、まさか、本当にこうなるなんて、一体、誰が想像出来ただろうか。
 ベランダの手擦りに体重を預け、紅葉秋祢はたった一人で、泣いた。


 雛尾市の、秋祢の住む街は、跡形なく消し飛んでいた。
 雛尾市の人口は約二十九万六千九百四十六人。その内の約三分の一、九万八千三百六十八人もの人間が、
 ――死んだ。
 その中で生き残れたのは、秋祢と、ひなだけだった。
 せみの声は、聞こえなかった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「さようなら、秋祢」




 わたしのせいだ、とひなは思う。
 秋雄と静祢に言われたことを怠ってしまった。一時、たった一瞬の隙が誤りの始まりだった。秋祢とお揃いの胸で光るチョーカーが本当に嬉しかった。今まで感じたどの感情とも違う、心の底から暖かくなるようなその感覚。心地良かった。そして、その感情が油断を生んだ。ジャミングを掛けるのを、一瞬だけ忘れていた。一瞬だったから大丈夫だとは思った。そもそも、その時はジャミングのことも忘れていた。目の前にいる秋祢の笑顔だけを見ていたかった。
 しかし、『レヴァ』はそんなにも陳腐な代物ではなかった。一瞬の隙でも、一瞬の確認でも、その場所を誤差一メールで割り出し、ジャミングを打ち消してずっと追跡された。そのことに、全く気づかなかった。デパートから家に帰って来るまで、ずっとトレースされていた。『レヴァ』が行動に移したのは、秋祢の部屋でジュースを飲んでいる時。
 ひなの中にある、忘れていたはずの、忘れようと思っていたはずのシステムが動き出した。宇宙で始動し始めた『レヴァ』の波動を感じ、『レヴァ』が何をしようとしていることさえもが鮮明に伝わって来た。『レヴァ』の中心にある『リヴァ』。そこから、一閃の悪魔が撃ち出されようとしていた。威力は最小限まで抑えてあるのはすぐにわかったが、その最小限でも被害が計り知れないのが『レヴァ』から放たれる『リヴァ』である。
 秋祢だけは守ろうと思った。いや、秋祢だけしか守れなかった。
 屋根の上に飛び出し、忘れようとしていたシステムを稼働させた。リミッターを三段階まで一気に外した。システムはオールグリーンで問題なく稼働、そして攻撃ではない防衛プログラムを一秒で完成させ、襲い掛かる『リヴァ』と衝突させた。威力は弱められた。結果的に、秋祢と、秋祢の家だけは守れた。そう、秋祢と、秋祢の家だけは。
 『リヴァ』が衝突したことで、その二つの変わりに、爆発は辺りを飲み込んだ。吹き飛ぶ視界の中で、それを見た。家が崩れ、田んぼが蒸発し、車が紙屑のように舞い、木が圧し折れ、コンビナートの煙突が真っ二つに別れた。最後に衝撃波が、それらを、すべて無に変えた。
 残ったのは、茶色い荒野だけだった。その時、被害範囲にいた人の数は、九万八千三百七十人。その中で、生き残れたのはたった二人。残りの九万八千三百六十八人は皆、一瞬でこの世から消えた。死んだのだ。
 わたしのせいだ、とひなは思う。ジャミングを緩めたこと、トレースされているのに気づかなかったこと、もっと上手く『リヴァ』を打ち消さなかったこと、九万八千三百六十八人もの人間が命を失ってしまったこと、それらすべてが、自分のせいだとひなは思う。
 最初から、なかったことにしたかった。秋祢と二人で、ずっと一緒にいたかった。
 ――秋雄、静祢。わたしは、どうしたらいい?
 ――秋祢……わたしは、ここにいちゃ、いけないのかな……?


     ◎


 目が覚める切っ掛けになったのは、外から聞こえる大音量の排気音のせいだった。車のタイヤが地面を抉るエンジン音、ヘリの風を切り裂くローター音、両方とも、半端な数ではなかった。
 窓の外の光景を見た瞬間、しばし言葉を失っていた。車はまるでアリのように地面を這っていたし、ヘリはまるで虫のように空を飛んでいた。その数を数えようとする気にもなれなかった。それらが、秋祢の家を目指して前進して来ていた。
 しかし、別に驚きはしなかった。そもそももうそんなこと事態では驚かなくなっていた。現にその時、秋祢は空がいつものように快晴に戻っていたことの方が気になっていた。ある種の現実逃避なのだろう。窓の手擦りに手を置き、そういえば昨日はあのままここで寝たんだよなと思う。昨日振りに見た景色は、やっぱり茶色くて、何もなかった。ただそこを車とヘリが舞っている。
 秋祢は力なく笑う。まったくご苦労なこった、とため息を吐く。答えは、一晩寝たら頭の中で出来上がっていた。ひなに訊く必要はもなくなっていた。『連中』は、ひなを奪いに来たのだ。昨日見た光景のほとんどを覚えていなかったが、それでも見た憶えのある光景を繋ぎ合わせるとそういう結論にまとまった。秋祢の街を破壊したあの光りの柱、それから秋祢を守ったひな。そもそも、『あれ』はひなの力を試すものだったのだ。それくらいで死ぬようなら不必要だ、とかそんな感じで。そしてひなは生き残った。だから、『連中』はひなを奪いに来たのだ。そしてそれの被害を受けたのは九万八千三百六十八の人間。皆、死んでしまったのだろう。実感はなかった。知り合いも多くいたこの街だが、その人達が皆死んでしまったという現実が受け入れられなかった。いや、受け入れいるからこそ現実とは思えないかもしれない。ただ、その中で弘樹と凛がここにいなかったということだけが不幸中の幸いとでも言えるのだろうか。
 麻痺しているのだと思う。恐怖はなかったし、目の前の光景をそのまま見据えられた。踵を返す。ベットがる洋室へ足を進め、そこに眠るひなを見つめる。ベットの脇に腰掛け、秋祢はその頬に手を添えた。温かい、秋祢と何一つ変わらないひなのぬくもり。それだけが、今は大切だった。心を決める。もう、何も失いたくはないから。
 眠るひなへ微笑み掛ける。
「ひな、お前はおれが守るから。絶対に、守るから」
 自分に何ができるのかなんてわからない。だけど、やれることをしようと思う。外からこっちに向って来る奴らに、抵抗してやろう。今更人を殺したところでどうってことないだろう。すでに万単位で人が死んでいるのだ。
 ベットの脇に置いておいたはずのナイフを探す。昨日の一連でどこかに吹き飛んでしまったらしい。ぐちゃぐちゃの部屋を探し回ると、ナイフはベットの下に転がっていた。それを掘り起こし、埃を払う。今の秋祢にあるのは、たったこれだけだった。この一本のナイフで、一体何が出来るのだろうか。しかし、やらねばならない。家族を、再び失ってたまるか。ひなを、失いたくはない。
 突然、外から聞こえる排気音がふっと止んだ。変化だった。不思議に思い、まさかもう攻めて来るのかと慎重に窓際に移動しようとして、背後でいきなり電子音が響いた。電話だった。身動き一つせず、しかし思考は信じられないくらいのスピードで回っていた。おかしい、とまず最初にそう思った。街が消し飛んだことから電柱は愚か電線までもなくなっている。だから家の電気は付かないし、水道も使用不可能だった。つまり、電話がこうして生きていること自体、有り得ないことだった。が、このまま無視しても何も始まらないのは明白だった。取り敢えずは出るだけは出てみようと思い立つ。
 受話器を上げるといきなり『諦めろ』とかそんな声が聞こえてくるのかと思っていたのに、向こうから聞こえたのは以外にも柔らかな声だった。
『初めまして紅葉秋祢君。わたしはリディール・ファルケンス。君のご両親の上司をやっていた者だ。今はこんな状況になってしまい、無理矢理回線を復旧させてそちらの回線に捻じ込んでいる。聞こえているかね? 何か喋ってくれたまえ』
「ひなを、奪いに来たのか」
 自分でも驚くほど冷たい声だった。受話器の向こうのリディールは少しだけ嘲笑いのような口調になり、
『ひな……それが、君がSerial No.AS-0001に付けた名前かね? 良い名前ではないか。そしてそれのことでそこまで冷たい声で話すとなると、どうやら君はAS-0001を随分と気に入っているようだね。愉快だ、実に愉快だ』
「何がおかしい」
 受話器を握り緊めると、すぐに答えが返って来る。
『まさか君はAS-0001に何か特別な感情を抱いているのではないか? 例えば、恋愛感情、など』
 一瞬だけ黙った秋祢に対し、リディールはすぐに理解した。
『そうか、やはりそうか。やめておきたまえ、君ではあれは扱えない。そもそも君があれの何を知っ――』
「黙れ、ひなを物みたいに言うな」
『……失礼。では言い直そう。君が、ひなの何を知っているというのだ? 君のような高校生に「Explanatory Note」をすべて解読出来たとは思えない。せいぜい最初の初期設定部分だけを読んでひなを起動させたのだろう? そんないい加減な気持ちで起動させた君に、ひなは扱えまい。もしや君はひなのことを友達、妹、あるいは恋人にでもしようと思い起動させたのではあるまいな? もしそうだとしたらこれ以上馬鹿げた話はない。君は、ひなのことを何も知らない。ASシリーズ生産の目的は知っているか? 知らないだろうな。ひながわざわざ話すとは思えない。大事な大事なマスターを巻き込むことはしないだろうからね。……君に一つ話を聞かせてあげよう』
 秋祢の返答を待たずに、リディールは続けた。
『我々が最初に、君のご両親が一番最初に造り上げた自立起動型ASシリーズの名をSerial No.AS-0000、わたし達はデルタと呼んでいた試作タイプの話だ。デルタの、ASシリーズの生産目的、それは殺戮なのだよ。戦争という名の戦いに人ではない、しかし人より遥かに優れた物が導入されればどうなると思うね? 今までの歴史もそうだったように、それは素晴らしいことなのだ。銃器然り、戦車然り、戦闘機然り、どれも戦争では画期的な物だった。そして歴史はまた動き始めるのだ。今までのどれとも違う素晴らしい殺人兵器、それがASシリーズだ。デルタの戦闘能力を知っているか? 五つある内のリミッターを三つ外した時点でのデルタの戦闘能力は、シュミレートでの計測結果、戦闘機と四機、戦車を七機、兵隊百七十二人を破壊し尽くした。それも、五分で、だ。それがもし本当の戦場に導入されたらと思うとワクワクしてこないかね? リミッターを全部外したらどうなるのか考えただけで震えが止まらなくならないかね? 誰もが恐れ、そして誰にも破壊できない最強の存在。それがASシリーズなのだ。つまり、今君がひなと呼んでいるSerial No.AS-0001。これは、デルタをも超える史上最強の存在なのだ。君に、それを扱うだけの資格があるのか? 悪いことは言わない、それを、我々に渡してくれないだろうか?』
 はっきり言って、その話はリディールの虚言だと思った。
 が、秋祢は実際に見ている。この街を消し去った物から、秋祢を守ったひなの姿を。
 しかし、それとこれとは話が違う。ひなを、失ってたまるか。ひなをなくしてしまったら残る物なんてもう何もない。それだけは嫌だった。最後の一欠けらがようやく完成したのだ。ここに来て、それを崩れさせてたまるか。
 返答は、決まっていた。
「断る。誰がお前らなんかにひなを渡すか」
 受話器の向こうで、リディールはせせら笑う。
『止めておきたまえ。先の話を聞いていなかったのか? 君の側にいるであろうひながその気になれば、たった一機だけで世界を変えることも可能になるのだ。それとも何かね? ひなの力を使い、我々を殺すか? ひなに特別な感情を抱いている君に、それが出来るかどうか考えなくてもわかるがね。ひなはただの殺人兵器だ。人間ではない物へそのような感情を抱いてどうする。……君は、どこまでもご両親と似ているな。だからその身を滅ぼすのだよ』
 その時、三ヶ月前の感情が甦った。一人になった絶望、孤独、暗闇。気づいたら、叫んでいた。
「どういう意味だっ!? まさか、お前が……お前達がっ!!」
『だったらどうだと言うのだ。……が、そうだな、君には教えてあげよう。君のご両親、紅葉秋雄と紅葉静祢はわたしが殺した』
 何の躊躇いもなくそういうリディールの言葉に、目の前が真っ暗になった。そんな秋祢に、リディールは容赦なく言葉を浴びせる。
『君のご両親には随分と迷惑したよ。デルタだけではなくAS-0001にまで自惚れた感情を抱きよってからに。挙げ句の果てにはSerial No.AS-0001のフェイザーごと持ち出し姿を消したんだからな。やっとのこと所在を掴んだと思ったらフェイザーを持っていないと来た。いろいろと面倒なことになりそうだったんで、飛行機事故に見せ掛けて殺した。確かあの時は……他に百八十二人ほど死んだんだったかな……。まあ忘れたからいい。そしてそれ以降フェイザーの反応はない、こっちもお手上げ状態だった訳だ。が、そんな時に、見付けたのだよ。Serial No.AS-0001の所在を。まさか紅葉の家で普通に稼働しているなど思ってもみなかった。灯台下暗しとはまさにこれだった。少しだけ腹癒せと一緒に、その力を試してみたのだ。その時の犠牲は……君が知っている通りだ。しかしAS-0001は……ひなは生き残った。だから連れ戻しに来た。――本題に入ろう。君も、命が欲しければひなを渡せ』
「……クソ食らえだっつーの。奪いたいならてめぇで奪いに来い」
 それだけ吐き捨てて、秋祢は電話の回線を切った。受話器を元の位置に置き、拳を握り緊める。
 少しでも気を緩めれば、体が震えて涙が溢れそうだった。今まで知らなかった、知りたいとも思わなかったことを一度にすべて聞かされた。両親のことは、仕事で移動する際に使った飛行機のエンジントラブルで墜落、そして他界したと報告を受けた。それが、事故ではなく故意に起こされたトラブルで、その目的は両親を殺すことだった。そんなこと、知りたくもなかった。普通の事故で死別してしまったと思っていた方が、ずっと楽だった。
 そして何より、衝撃を受けたのはひなのことだった。これこそ本当に知りたくもなかった。ひなと一緒にずっと、平凡に日常を過ごしていたかった。隣りにいるひなはいつも嬉しそうに笑って、少しだけドジやって。それを秋祢が見守っていて、「なにやってんだよひな」って微笑みながら助けてやる、そんな普通の生活がやっと出来ると思ったのに。また、家族が出来たのに。失った家族の痛みが、やっと消えたのに。なのに、どうしてこうなってしまったのか。何も出来ずにまた失ってしまうのか。自分の与り知らぬ所で何もかも失って、結果だけが後から付いて来て。
 もう沢山だ。絶望も孤独も暗闇も、もう沢山だ。そんな物、二度と味わいたくはない。それを味わうくらいなら、大切な人を守って死んだ方がよっぽどマシだ。ひなを守って、死ねるなら、どれほど楽だろう。
 手に持っていたナイフのグリップを握り緊める。
「……どうしろってんだよ……父さん……母さん……おれ、どうしたらいいんだよ……」
 視界が歪む。死ねればどれほど楽だろう。だけど、もし死ねなかったらどれほど辛いんだろう。家族を失い、そして大切なひなまでも失ったその時、自分は一体どうなってしまうのだろう。誰でもいい、誰でもいいから答えを与えて欲しい。どうすれば正解なのか。たったそれだけでいい、それだけでいいから。普段、神様などいないと思っていた。祈ることも信じることもしなかった。しかし、今だけはそうするしか方法がなかった。他に、何も思い付かなかった。
 背中にぬくもりを感じたのは、その時だった。
 ひなに、後ろからぎゅっと抱きしてめられていた。
「……ありがとう、秋祢……。でも、もういい……。わたしは、すごく楽しかった……。だから、もういいよ……」
 いつの間に起きたのか、ということは当たり前過ぎるが故に考えもしなかった。ただ、後ろにいるひなに泣いているのを勘付かれたくないと必死に声を押し殺していた。
「何が、もう、いい、んだよ……」
 ひなが首を振るのがわかった。
「全部、だよ。秋祢に、これ以上傷付いてほしくない。だから、もういいんだよ。……わたしのことは、忘れて……。……今まで、ありがとうございました、『マスター』」
 首筋に微かな揺らぎが生じた。涙とは違う物で視界が歪み、一気に天地がわからなくなって、立っていられなくなる。その場に膝を着き、ぐるぐる回る視界を必死に動かして背後へ。そこに、ひなが立っていた。すごく、悲しそうな顔で。ひなが何かを言っている。が、その言葉は耳に入って来ない。ひなは歩き出す。秋祢の手の届かない場所へ。必死に手を伸ばすが無駄な抵抗だった。膝から力が抜け、その場にうつ伏せに倒れ込む。消えゆく意識と視界の中で、ずっとひなを見ていた。ひながいなくなる瞬間に、その胸に輝くクロスのチョーカーを見た。
 ひなは、最後の最後に一瞬だけ微笑み、窓からその身を投げた。何もない茶色の荒野へ降り立つ。その時にはすでに、秋祢の意識はなかった。
 やはり、せみの声は聞こえない。


 何もない、かつて街だった場所をひなは歩く。その先にあるのは数え切れない車とヘリの群れ。
 その中の一台の車のドアが開き、誰かが出て来た。髪型はまとめられたオールバックで、白衣のような物を着ている男だった。ゆっくりとそこまで歩き続けるひなに向かって、まるでその男は微笑み掛ける悪魔のように笑った。大袈裟に両手を広げ、ひなを受け入れるという意思表示を表す。ひなはその男――リディールの前に立った。
 ひなはリミッターを一段階だけ外した。すぐさま他の車の影から数十の銃器の先端が顔を覗かせ、それらすべてがひなをロックしていた。が、それをリディールは手で制す。一斉に銃器が隠れた。
「よく来てくれた。歓迎するよ、Serial No.AS-0001……いや、『ひな』と呼ぶべきかな?」
 瞬間、リミッターが一気に四段階まで外れた。ひなの足もとの地面が抉れ、その破片が空中に浮び上がった時点で塵となる。風が突風のように舞い、その風で車が何もしないのに動き始まる。飛んだ石が車のフロントガラスにぶち当たって割れる。台風を一ヶ所に凝縮したような状況だった。しかし、その中でリディールだけが身動き一つしない。リディールは、ただひなの変化を本当に嬉しそうに見守っている。
 ひなの髪が、真っ白になっていた。リミッターを四段階まで外した証だ。五段階まで外せば、瞳が紅くなる。
 ひなは、無表情でこう言った。
「お前がわたしをその名前で呼ぶな」
 そして、胸元で輝くクロスのチョーカーに手を添える。
 真っ直ぐにリディールを睨み、こう言った。
「秋祢に何かしたら、わたしがお前達を殺す」


 ひなは思う。
 わたしの大好きなマスター。
 マスターは、わたしが守るから。だから、安心して。
 一人でも、悲しまないで。わたしがいなくても、弘樹も凛もいるから。
 だから、
 わたしのことは、忘れて。
 さようなら、秋祢。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「Serial No.AS-0000 『デルタ』 遭遇」




 そのニュースを見た時、心臓が止まるかと思った。
 雛尾市の、自分が住んでいた街が、消滅した。
 テレビに映っているのはまるで火星の表面のような有様で、どこがどこなのか全くわからなかった。目印になる物が、何一つないのだ。見渡す限りに広がる茶色い荒野。どうしたらこんな風になるのだろう、という問いの答えは、ニュースに出て来た専門家などが長々と話していた。テロだのガス爆発だの核兵器だの、どれもこれも自己満足を視聴者に押し付けているだけにしか聞こえなかった。被害はかなり広く及んだ。その被害範囲にいた人間の数は不明だが、少なくとも九万人もの人間が死んだとされる。死体がなく、すべて消滅していたので何とも言えないのだが、どこかの施設の研究所が発表していた。約九万八千三百六十八人が、死んだ、と。
 そのテロップを見た時、海里凛は手に持っていたコップを取り落とした。ガラスのコップが床に落ち、中の水を撒き散らして割れた。しかし、そんなことはもはや凛の頭には入っていない。その場に立ち竦んでいたのは、ほんの一秒足らずだったはずだ。すぐに家の中を走り、電話に飛び付いた。頭の、微かに冷静な部分が無駄と意見し、混乱している部分がそんなことはないと否定する。どちらが正しいのかは、今わかる。
 凛に少し遅れてそのニュースを見た弘樹も、真剣な表情で電話がある所まで走って来た。言葉は交わさなかった。ただ、凛のしようとしていることがわかったので、それを黙って見守る。
 震える指を何とか落ち着かせ、凛は電話をプッシュしていく。六桁の数字を入力するに連れ、不安がどんどん大きくなっていく。一桁、そんなはずはない、絶対に生きている。二桁、電話を掛ければ、絶対に出てくれる。三桁、運良くどこかに出掛けているに決まっていた。四桁、二人揃ってどこか旅行に行っているのだ。五桁、被害は九万八千三百六十八人を飲み込んだ、だからどうした、その中に含まれている可能性なんてないのだ。六桁、あの状況で、助かるわけ、ない。最後の最後で思ってしまったことを踏み倒し、凛は息をするのも忘れて受話器を耳に当てた。
 しばらくは何の反応もなかった。その「しばらく」が永遠に思えた。何の反応も示さない無音の電話に泣きそうになる。目元がじわりと熱くなり、しかしそれを必死で堪える。後ろにいるはずの弘樹は何も言わない。ただ黙って凛を見守る。受話器を握り緊め、涙を堪え、そして何も聞こえない無音の通話口に耳を澄ます。
 死ぬずなんてない。だって、あたしは秋兄ちゃんと結婚するんだもん。良い子にしていたら考えてやるって、秋兄ちゃん言ってくれたもん。だから死ぬはずない。ひなちゃんだってそう。悔しいけど、秋兄ちゃんとずっと一緒にいるはず。秋兄ちゃんが生きていれば、絶対にひなちゃんも生きている。まだひなちゃんとの勝負は着いていない。だから、死なないで。ひなちゃんも、秋兄ちゃんも、絶対に死なないで。もうちょっとしたらこの電話に出て、秋兄ちゃんがあたしの名前を呼んでくれるはず。あたしならまだ待てるから、もう少しなら待てるから、だから――。早く出てよ……秋兄ちゃん……。
 堪えていたはずの物が一気に溢れた。涙も声も、すべてが我慢できなくなった。死んでしまったなんて認めない。ニュースに出て来た人が言ってたあれは絶対に嘘だ。あれはあたしを騙そうとしているだけなのだ。絶対にそうだ。絶対に、そうなのだ。そうだと、思いたかった。今、兄に何か下らない慰めの言葉なんて言われたら、恐らく本当に兄を殴っていたと思う。それでも、兄は何も言って来ないのは、兄も自分と同じことを思っているからなのだろう。
 何秒、何分経ったかわからない。希望が打ち砕かれたと思ったその瞬間、凛の想いは届く。受話器から、呼び出し音が聞こえ始めた。静寂が包んでいたこの場所には、その音はよく響いた。凛も弘樹も縋り付くように耳を澄ます。呼び出し音は続く。
 早く、お願いだから早く出て、秋兄ちゃん――。
 十七回目の呼び出し音の後、遂に相手は出た。


     ◎


 お前はおれが守るから。絶対に、守るから。
 よくそんな大口が叩けたものだ、と秋祢は思う。確かにあの時、秋祢は心を決めてそう言った。が、それとこれとは話が全く別だった。そんな格好良い台詞を吐いたのにも関わらず、実際、自分は何が出来たのだろう。受話器から聞こえて来たリディールの声を黙って受け入れ、勝手に苦しんでいただけだ。挙げ句の果てには、守ると言った秋祢の方がひなに守られてしまった。ひなは、秋祢のためを思って自らここを出て行った。止めることも、意見することも出来なかった。
 お前はおれが守るから。絶対に、守るから。
 よくそんな大口を叩けたものだ、と秋祢は思う。守ることも出来ず、引き止めることも出来ず、結局は守られている。前と同じだ。両親を失った時と同じだ。仕事に行かないで、一人にしないで。そんなことを言うことも出来ず、ただ黙って諦めていた。結果、失ってしまった。自分の与り知らぬ所で。そして今回も同じなのだ。ひなを失ってしまう。目の前にいたはずのひなに、何も言ってやれなかった、何もしてやれなかった。後悔ばかりが押し寄せてくる。何をする気力も起きない。ひなだけを、失いたくはなかった。
 わたしのことは忘れて。とひなは言った。
 忘れられるはずないじゃないか、と秋祢は思う。ずっと望んでいた家族がやっと出来たのだ。それをはいそうですかと忘れられるはずないじゃないか。大切な、好きな人をのことをそんなに簡単に忘れられるくらいなら、元々もそんなもの望みもしなかった。だけど秋祢は望んだ。ひなとずっと一緒にいれるように。隣りで笑っているくれるように。それが間違いだとは思わない。どうしようもない本音だったからだ。しかし実際は本音を言う前にひなはいなくなった。何も出来ないまま、ひなはいなくなった。ひなだけを、失いたくはなかった。
 胸に光るクロスのチョーカーを握り緊める。
 これは何のためのプレゼントだったんだよ、と秋祢は思う。何のためにお揃いにしたのか。それは、絆の証ではないのか。忘れてと言って出て行くならなぜ、ひなはこのチョーカーをしたままここを出て行ったのか。置いて行けば、捨てて行けばそれで収まるはずなのに。なのにそれをしないで持って行ったということはどういう意味なのか。それは、ひなも秋祢と一緒のことを思っていたからではないのか。しかしその考えを押し殺して、秋祢のためを思ってここから出て行ったのでないのか。
 電話が鳴った。それと同時に和室の窓際に歩み寄り、タバコのパッケージから一本取り出して火を付ける。煙を吸い込んだら咽た。どうやら今はタバコの煙は喉が受け付けないらしい。タバコを灰皿に捨て、窓から唾を吐き飛ばし、その時に視界に入る一台の車。天井に巨大なアンテナを付けた白いバンだった。どうやらあの車の御かげで電話がまだ生きているようだ。他には車もヘリもない。すべてここから立ち去ったにも関わらず、アンテナ付きのバンだけがここに取り残されている。手切れ金とでも言いたいのだろうか。吐き気がする。
 電話は鳴り続ける。誰だよ、と秋祢は思う。リディールが掛けている必要はもうないだろう。なにせひなを奪うという目的を果たしたのだから。それに知り合いなんてものはもう殆どいないし、電話を掛けてくるとしたら――いや、まだ知り合いはいる。幼なじみの親友と、その妹。そう思った瞬間、秋祢は電話に出るかどうか一瞬だけ悩み、しかし結局はすぐに出ていた。
 受話器を耳に当てると同時に、声が聞こえた。
『秋兄ちゃんっ!? ねえ秋兄ちゃんなんでしょ!? だいじょうぶなのっ!? そっちはどうなったの、ニュース見てそれで、でも秋兄ちゃんはだいじょうぶなんだよね!? ねえ秋兄ちゃん!! 何とか言ってよっ!!』
 久しぶりに聞く凛の声は、泣き声だった。それも酷く慌てた。
 力なく、秋祢は言う。
「……凛、落ち着け。おれはだいじょうぶだから。だから泣くな」
『でもっ! 本当にだいじょうぶなんだよねっ!? ねえ秋兄ちゃん!!』
「ああ、だいじょうぶだ。そこに弘樹いるか? いたら代わってくれ」
 受話器の向こうで微かな物音がした後、弘樹の声が聞こえた。
『……秋祢、だいじょうぶなのか?』
 落ち着いた声だったが、その裏に隠された焦りと不安が受話器からヒシヒシと伝わって来た。
「まあな」
 そして、弘樹はいきなり核心を突いた。
『ひなちゃんはどうなった? そこにいるのか?』
 言葉に詰ったのは、少しだけだった。
「ひなはここにはいない。だけど……だいじょうぶ……だと思う」
 弘樹の返答は遅かった。向こうで何かを考えているような沈黙の後、無駄な検索は一切なしの親友の言葉が聞こえた。
『……ぼくの、ぼく達の力が必要か? そっちに行った方がいい?』
「いや、いい」
 秋祢の返答は早かった。向こうには見えないであろうが、秋祢は今、笑っている。心の底から、笑っている。
「おれ一人で十分だ。ひなは、おれが守る」
 秋祢にはわからないだろうが、受話器の向こうで弘樹も笑っている。
『そっか。それでこそ秋祢だよ。気を付けて』
「ああ。凛に代わってくれ」
 すぐに凛の声が再び聞こえる。
『秋兄ちゃん、何がどうなってるの!? ひなちゃんがいないってどういう――』
「凛」
 そのたった一言で、凛の慌てた声が止んだ。秋祢は噛み締めながら、こう言う。
「また会おうな。絶対」
 受話器の向こうで鼻を啜る音。それから強がりの親友の妹の声が聞こえた。
『うんっ。その時にはあたしの気持ち、ちゃんと伝えるから覚悟しといてね』
「おう。それじゃ、また後で」
『気を付けて、秋兄ちゃん』
 そうして、会話は途切れた。
 何も聞こえなくなった受話器を置き、秋祢は一人で目を閉じて大きく深呼吸をした。そして次に目を開けた時、そこにいるのは覚悟を決めた紅葉秋祢という男だった。
 大切な人は、まだちゃんといる。弘樹と凛にまた会うために、その輪の中にひながいるために、今出来ることをしよう。ひなの胸にチョーカーがある限り、ひなはまだ自分を忘れていない。自分の胸にチョーカーがある限り、ひなのことを忘れない。二人の胸にクロスのチョーカーがある限り、いつまでも一緒に歩んで行けるのだ。隣りにいるのだ。二人揃って、笑うのだ。
 今度は守り通す。守ってもらうのではなく、今度は守ってやる。まずは、ひなを、連れ戻す――。
 決意が決まれば行動は早いものである。ベットの脇に置いてあったナイフを手に取り、それを腰に巻き付ける。和室の方へ行き、タバコのパッケージに手を掛け、しかし思い止まってそれは置いて行く。ドアから廊下に出て階段を二段飛ばしで下り、一階の端にある父の部屋へ。ここに入るのは掃除する以外の目的では初めてだった。ドアを開ける。掃除してあるだけあって、主がいなくなった三ヶ月を少しも感じさせない。部屋の本棚に歩み寄り、そこに並べられているファイルを何冊か手に取ってざっと見まわして行く。ない。ファイルをすべて見終わったらそれを片付けることもせず、次はデスクの上に置いてあるデスクトップ型のパソコンを起動させる。ファイルは何度か見たことがあるが、このパソコンを見るのは初めてだった。今は亡き父に断りを入れる。パソコンの中のファイルを何個か開けた時に、画面にパスワードの文字が出て来た。これだ、と秋祢は思う。そしてそのパスワードは、一発でわかった。キーボードに手を滑らせ、『AKI−NE』と打ち込む。父がいよく言っていたこと。親の名前と子どもの名前を一緒に言えるその合言葉。それが、答えだ。
 マウスを動かしてそれで実行。パスワード一致と承認してからすぐにファイルが現れた。その中のお目当ての物を探す。いくつかファイルを開いた後、秋祢は遂にお目当ての物へと辿り着いた。それは、両親が揃って働いていた研究所の所在だった。それを頭に叩き込み、パソコンの電源を落とした。ここからそう遠くない、車で一時間も行けば着く場所だった。そしてそこは、まだ残っている。被害範囲内にはないのだ。父の部屋から秋祢は飛び出す。家の玄関から靴を履いて外に歩み出て、そこで初めて足が止まった。
 こうなってしまったのは、一体誰のせいなのだろう。眼前に広がる光景にただ呆気に取られる。二階から見るのは訳が違う、本当の現実の姿が茶色い荒野として広がっていた。それは秋祢のせいなのか、それともひなのせいなのか。もしくはリディール・ファルケンスのせいなのか。思考の泥沼に沈んでしまいそうになったのを、意思の力で捻じ切って捨てた。茶色い荒野へ歩み出す。地面を踏み締める度に、かつてはここにも何かがあったんだなと思う。今は何もないけど、だけど、少し前、つい三日前まではすべてがあった。田んぼの群れ、一軒一軒の庭が無駄に広い家、どこからか聞こえる車の排気音、聞き慣れた鳥の声、そして霞んで見えるそこにコンビナートの煙突。すべてが消滅していた。被害にあった人も、例外ではなかった。文字通りに、すべて消滅していたのだ。平凡な、その光景が。今は何もない大地を秋祢は行く。
 夏の太陽は、下界がこんなことになっているのに相変わらずそこにあった。そうれもそうだろう。どれもこれも、本当に下界の都合なのだ。そして秋祢は、誰がおれんちの車で行ってやるか、と思う。目指すは屋根に馬鹿でかいアンテナを付けた白いバン。車の運転は出来る。事故らない自信はないが知ったことではない。どうせあいつ等の車だ。ペシャンコになろうと自分さえ助かればそれでいいのだ。バンに近づくと、フロントガラスを除くすべての窓が真っ黒のスモークで隠されていた。まさか中に人は乗っていないだろうと思う反面、スモークがある方が好都合だと思う。気合一発、ナイフに手を掛けて運転席のドアを開けた。中には誰もいなかった。使う気もなかったナイフから手を離す。と、シリンダーにキーが刺さったままだったのに気づく。それが、来れるものなら来てみろ、という挑発の意味に思えた。
 秋祢は獰猛に笑い、運転席に座った。キーを回してエンジンを掛け、それと同時に何かが動いた。窓から身を乗り出して見ていると、アンテナが折り畳まれていた。それがゆっくりと競り下がり、バンの後部座席に収まる。不思議な光景であり、やはりそれは来てみろという挑発に思えてならなかった。秋祢は、親の見よう見真似と試しに運転してみた時のことを思い出し、その通りに動かした。アクセルをゆっくりと踏み込むと車がちょろちょろと動き出す。それが煩わしかったので大胆にアクセルを踏み込んだ。一瞬だけ後輪が荒野の砂にスリップし、しかしその後で爆発的な加速を見せる。度肝を抜かれた。まさかそんな加速をするとは思ってもおらず、慌ててブレーキを踏んだらシートベルトをするのを忘れていてハンドルに思いっきり額をぶつけた。その拍子に、何もない荒野に不様なクラクションが響く。
 安全運転はしないとならない、と改めて思う秋祢である。
 それなりに速いスピードで、白いバンは走り始める。
 やがて、せみの声が聞こえ始まる。
 そこから、夏が始まっていた。


 秋雄と静祢が勤めていた研究所の名を『オリネムAS』という。
 それは山奥の、辺りに何もない所に建っていた。辺りに何もないというのに、その門の所には警備と思われる人間が二人もいた。しかも、ここは日本という考えクソ食らえで、秋祢の目がおかしくなければ、その二人が腕に持っているのはまず間違いなくマシンガンだった。どこかの要塞や基地じゃあるまいし、そんな光景が嘘のように思えた。が、そもそもすでに人を何千何万をも無にしている集団の溜まり場だ。それもおかしくないのかもしれない。
 しかし、それとこれとは別である。その門をバンで通る際、秋祢は口から心臓が飛び出しそうだった。顔を確認されたらどうしようとか、何か特殊な合言葉やIDカードがなければならないとか、そんな決まりがあったら間違いなく死んでいたんだろうと思う。最初は気休めとして、バンの助手席にあった研究所の制服のような物を着ておいた。今となってはそれが本当に助けになった。もし私服でこの門を潜っていたらのなら、命がいくあってもたりなかっただろう。しかし考えると、それも挑発に思えて仕方なかった。今となってはどうでもいいのだが。門を通るには、どうやら車のナンバーと車体が関係していたらしい。何か不思議な、エックス線みたいな光りを発するゲートを通った時にそう思った。
 敷地に入ると、まるでどこぞのドームみたいな建物があって、その入り口付近に駐車場があった。そこにバンを無造作に止め、警戒して車を降りた。一番気を抜いてはらないのはここからだった。もし入る前なら追い返されるだけで済んだかもしれない。だが、今は中に侵入している。こんな犯罪丸出しの場所に忍び込んで、ただで済むとは思えない。しかし今更怖気付く気はない。
 ひなを、連れ戻すのだ。ここにいるであろうひなを。それだけのために、来たのだ。拳を握り、一応威嚇にとナイフに手を掛けた瞬間だった。カチャっと無機質な音が響き、そして、
「紅葉秋祢……だな?」
 何でもないことをさらっと言う、無愛想な声が聞こえた。背中に押し当てられている堅く丸く細い物の正体は、すぐにわかった。そして理解したと同時に寒気が走り、しかしすぐに行動に移した。両手を静かに上げる。すぐ後ろから満足そうに笑う声がして、秋祢はゆっくりとこう言った。
「ひ、弘樹……お、お前も出て、来い」
「なに!?」
 侵入者は一人と聞かされていたその男は、驚きで後ろのバンを振り返った。銃口をそっちに向けた瞬間、秋祢は心の中で「嘘だよ馬鹿」とつぶやいて走り出す。背中から撃たれる可能性は十分にあった、あったのだがここは日本である。そんな簡単に発砲はして来ないと思
「クソっ! 止まれっ!!」
 いきなり撃って来た。それこそ本当に殺すつもりで。少なくとも、秋祢にはそう思えた。足元で何発も弾けたし、銃弾がすぐ横を通り過ぎる死の感覚を味わった。それでも、恐怖より、度胸が勝った。歩みを止めない、銃声を聞き付けた男の仲間が集まり始める。このままではすぐに囲まれて蜂の巣だ、と思う。どこかに隠れる場所はないのか、どこか――。ドーム状の建物の裏手に回り込んだその時、ちょうど人が隠れれそうな茂みを見付けた。そこに飛び込み、やり過ごそうと微かに安心した瞬間だった。
 ガコっと音が響き、地面が割れた。突然のことに行動出来なかった。気づいたら、真っ暗な穴に落ちていた。まるで暗闇の滑り台みたいだとピントのずれたことを思ったのも束の間、いきなり光の元へと放り出された。体がコンクリートの地面に遠慮なしにぶつかり、ナイフのグリップが変な角度で腹に食い込む。吐くように咽返るとジメジメした空気が肺に入った。ここはどこだろうと見まわしたその時、目が合った。
 牢屋のような場所のそこに、両手両足を馬鹿でかい鎖で縛られた、黒髪に微かな白を混ぜた男だった。
 その面影が、ひなと重なった。男は、黙って秋祢を見つめている。
 不思議と理解は出来た。こいつが、リディールの言っていた『デルタ』。
 ひなの前に、最初に造られた、自立起動型ASシリーズ、その名をSerial No.AS-0000 『デルタ』。
 凄まじい戦闘能力を誇る、そのデルタが、そこにいた。
 合った目が、外せない。
 天井から落ちる雫が、ピチャっと音を立てる。
 肌寒い空間だった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「一人と二人」




 胸で輝くクロスのチョーカーへ手を添える。
 無機質な空間を眺め、ひなは一人、秋祢から初めて受けた質問のことを考えていた。
 一つ。ひなは一体何者だ? その問いに対し、嘘はない。Serial No.AS-0001。Nameは『ひな』、Master Nameは『秋祢』。それは嘘偽りのない、ひなが答えるべき内容だった。二つ。どうして今になって起きた? 最初に起動してから約十二時間、システムメンテナンス時間内は起きません。これも本当だ。フェイザーの中でナノマシンの調整から起動設定まですべてその時間内に行う。三つ。紅葉秋雄と紅葉静祢という人を知ってるか? 紅葉秋雄様と紅葉静祢様は、ASシリーズを造った責任者の名前です。秋雄と静祢に、『様』を付ける必要はなかった。しかし、そうしなければならなかった。
 その三つの問いに対し、ひなはすべて本当のことを答えた。そして、嘘と偽りがあるのは、ここからだった。
 一つ。なぜ三ヶ月も経った今になってひなは送られて来た? カプセルの中で眠っていたわたしには、その真意はわかりません。確かに、カプセル、フェイザーの中で眠っていたことは事実だ。が、その真意をひなは知っていた。秋雄と静祢に、ちゃんと説明してもらった。Serial No.AS-0001を、オリネムASの連中から隠すため。二つ。ひなの目的は? わたしの目的は秋祢が望むことをするだけです。これは嘘ではない、嘘ではないが偽りがある。本当の目的は、『秋祢に、連中の手から守ってもらうため』。三つ。ひなは何の目的で造られた? それは言えません、企業秘密です。別にそんなもの、企業秘密でも何でもなかった。本当は、「わたしが造られた理由は、人間が困難、もしくは出来ない作業をこなす、あるいは人間では助け出せない事故などに巻き込まれた人を救出するべく造られました」、そう、すべてを伝えるべきだった。しかし口から出たのは企業秘密という下らない言葉だった。
 秋雄と静祢の間に出来た、秋祢というマスターを、巻き込みたくはなかった。もしすべてを話せば、最初から最後まで、秋雄と静祢、そしてひなが最も嫌った部分を説明しなくてはならくなる。自分が本当は何者で、本当は救助などという目的で開発されたのではない、と。少なくとも、最初はそうだったのだ。人間が出来ないことをするために、ひな、ASシリーズは造られた。秋雄と静祢は、そう望んでいた。
 ――しかし、自立起動型Serial No.AS-0000、デルタが製造され、その身体能力を計測し、その結果を見た一人の研究の責任者が狂い出した。その男は、亡霊に取り付かれていた。戦争という名の、亡霊に。彼は表面上は紅葉夫妻が発案した意見を取り入れ、デルタの身体能力の強化、増幅を図った。デルタはまさに人間を超越した、救助者としては予想を遥かに上回る実績を示し、デルタはまさに今までのどの兵器をも超越した、殺人兵器としては核兵器以上の性能を誇った。意見が真っ二つに分かれたのは、そこからだった。
 秋雄と静祢が主張する人のためにASシリーズを世界に奉げるか、亡霊に取り付かれた男が主張する私利私欲のために戦場に奉げるか。その二つの意見のぶつかりはしばらく続いたが、結果的に、後者が勝った。前者を取る場合、名声を手に入れることができる。しかし後者を取る場合、国に対してASシリーズを売買出来ることから莫大な金を手にすることができる。結局は金なのだ。
 少数派となった紅葉夫妻の派閥は、形だけ亡霊に取り付かれた男の派閥の支持に従ったのだが、そこに一つのある目的を持っていた。それが実行されることになったのは、デルタをも超える、史上最強の兵器、自立起動型Serial No.AS-0001、後に『ひな』と呼ばれるがASシリーズが造られた時だった。紅葉夫妻の率いる少数の派閥の、私利私欲のために動かなかったオリネムASの研究者達は、Serial No.AS-0001が入ったフェイザーを奪取し、外の世界へと持ち去った。もう一つの派閥は怒り狂い、それをすべての手を使って探し出そうとしていた。
 宇宙に破壊力と探知力だけならASシリーズも超越する人工衛生『レヴァ』まで打ち上げた。その包囲網を掻い潜り、紅葉夫妻とその派閥は、遂にフェイザーを隠すことに成功した。郵便局に紅葉夫妻の住所を書き記し、騒ぎが収まった頃であろう三ヶ月後に届くようにした。最後に、フェイザーにアクセスを掛け、まだ目覚めていないSerial No.AS-0001に伝言を残す。『――わたし達の息子、紅葉秋祢に出会ったらすべてを話し、協力してもらってくれ。秋祢は少し頼りないかもしれないが、いざと言う時には必ず君を守ってくれる――』
 その数時間後、紅葉夫妻の派閥は、『レヴァ』の探知に引っ掛かりトレースされる。それから三日後、紅葉夫妻の派閥に属していた人間、二十四人はすべて書類状では事故死している。それが本当に事故だったかどうかは定かではない。しかしその二十四人の犠牲が、Serial No.AS-0001に三ヶ月と十日という短くも長くもない時間を与えたのだった。
 そして。
 その犠牲の御かげで与えてもらった時間を、Serial No.AS-0001、ひな自ら失うことになる。『レヴァ』にトレースされ、あの惨劇を呼んだ。今度の犠牲は九万八千三百六十八人。その代わりに与えられるのは、世界各国での破壊と殺戮。
 胸に輝くクロスのチョーカーを握り緊める。
 ――わたしは、どうしたらいい……? 一人でいるのは辛い……だけど秋祢を巻き込むのはもっと辛い……。秋雄、静祢、わたしは、どうしたらいい……? 秋祢……お願い、わたしを、助けて……。ここから、助け出してよ……。
 わたしは、秋祢が――


 長かった、と戦争という名の亡霊に取り付かれた男――リディール・ファルケンスは思う。
 すべてを実行に移せる段階まで来てのタイムロス、それは三ヶ月と十日。無駄な時間を費やしてしまった。が、もうすぐ望みは叶う。デルタの欠陥を補い、さらに強化したASシリーズが手に入ったのだ。これ以上それを強化する必要はない。なにせ、それが最高にして最強なのだから。後はそれをコピーし、大量生産すれば、誰もが恐れ、誰もがひれ伏す、誰も壊すことの出来ない世界最恐の殺人兵団が完成する。
 目の前でクロスのチョーカーを握り緊めているSerial No.AS-0001。暴れられると厄介なので力をこちらで制御した。今はリミッターを外すこともできない。せいぜい人の三倍程度の身体能力があるだけの、一人の少女だった。
 自然と笑いが込み上げ、しかしすぐにその笑いを打ち消すような声が聞こえる。
「リディール様、報告です」
 リディールは後ろを振り向きもせず、そこにいるであろう部下に先を促す。
「なんだ?」
「はっ。先ほど、ここに侵入者が現れました。車のナンバーとIDからして、恐らくは紅葉秋祢ではないかと」
 体にコードを繋げられたSerial No.AS-0001はその名を耳にしてばっと顔を上げる。微かな希望に溢れた、リディールが最も嫌う顔だった。
 リディールは、容赦なく言う。
「殺したのか?」
「いえ、失態で取り逃がしました。しかし見つけ次第、ここに連れ――」
「構わん、殺せ」
 その声に、Serial No.AS-0001は声を上げる。
「待って! 約束が違うっ! 秋祢には手を出さないって約束でわたしは――」
 希望で溢れたその顔が、怒りと絶望に変わる。リディールが、最も好きな顔だった。彼は笑う。実に楽しそうに。
「いや、約束は守っているとも。もし彼に手を出したら、君が我々を殺すのだろう? やってみたまえ、Serial No.AS-0001。出来るものなら、な」
「そんなっ! 待って、それじゃっ――」
 その声を、リディールの笑い声が遮る。まるで地獄の底から聞こえてきそうな声だった。
「無駄だ、お前にすでに抵抗出来るだけの力はない。行け、紅葉秋祢を見付け次第――殺せ」
 今まで何人も殺して来た。ここを嗅ぎ付けた特別捜査員、自分に逆らった同志達、それと一緒に何も知らない、何の罪もない民間人。どの時とも違う、快楽がそこにはあった。目の前で泣きそうなSerial No.AS-0001が、紅葉秋祢を殺すことでどんな表情をするのか考えただけでゾクゾクする。感情などない方がいいと思ってはいたが、今にしてみるとそっちの方が楽しい。
 さあ、楽しい楽しいショータイムの始まりだ。君はどこまで逃げ切れるかな、紅葉秋祢くん。
 楽しませてくれたまえ。


     ◎


 地下にあるであろうそこは、今が夏だと感じさせないくらいに寒かった。
 天井から数秒置きに雫が落ち、無機質なコンクリートを濡らしている。その空間の広さは大体学校の教室くらいで窓はなく、ドアすらなかった。全くの密室なその部屋の天井に、換気扇のような機械が取り付けられている場所があったのだが、今は壊れていて人間が一人通れるほどの大きさの穴が開いていた。そこから、秋祢は転がり込んで来たようだった。そして部屋の真ん中には牢獄のような鉄の柵があり、壁の突き当たりに一つのベットが設置されている。パイプ製の、刑務所で囚人が使うようなベットだった。シーツは水滴で濡れ、黒く汚れてボロボロだった。枕はなく、毛布なども一切なかった。
 そんなベットには不釣合いな、頑丈な鎖がある。天井から二つ、床から二つ、計四つの鎖がベットの上へと伸びており、その先は像でも捕らえているのかと思わせるほど巨大な鉄輪が繋げられている。その鉄輪に両手両足を拘束された男が一人、ベットに座っていた。
 薄暗いその空間、鉄の柵を挟んで秋祢はそこにいた。
「……デルタ……」
 声が自然と漏れた。その声に、ベットの上に座っていたデルタは少しばかり驚いたような表情を見せた。しばらく秋祢をじっと見つめ、やがて納得したように笑った。ひなのような、無邪気な笑みだった。
「……そうか、君が紅葉秋祢か。静祢様によく似てる。君は知っているようだが、改めて。わたしはSerial No.AS-0000、デルタ。以前、君の両親と共に過ごした者だ」
 秋祢はその場を動かず、デルタをずっと見据えている。
「母さんを知ってるのか?」
 昔を懐かしむように、デルタは肯いた。
「知ってるも何も、わたしの以前のマスターは静祢様だ」
「……以前? 今は違うのか?」
 返答はすぐに返って来た。
「ああ違う。わたしの今のマスターはリディール・ファルケンス。書き換えられたんだ、あの男に」
 その名を耳にした瞬間、今までの驚きと好奇心の感情が消え失せた。
 一発で自分はここに何をしに来たのか思い出し、腰に捲いたナイフの感覚が甦った。
  そしてその変化を感じ取ったのか、デルタは秋祢が何を言うより早くに話しを切り出した。
「君のご両親はとても心優しい方だった。自分のことより他人のことを大切にする、人の痛みがわかる素晴らしい人達だったよ」
「……何の話、」
「だからSerial No.AS-0001が造られた時も真っ先にここからフェイザーと一緒に持ち去り、君の所へ送った。わたし達の生産目的、それは人を助けることだった。静祢様と秋雄様はそう思い、願い、望み、わたしを造った。しかしここでわたしの現マスター、リディール・ファルケンスが狂い出した。わたし達の生産目的を、人を助けるから人を殺すことに塗り替えたんだ。やがてその目論見が叶い、わたしの欠陥を補い、強化した、史上最強の兵器を造り出した。それが、君の所へ送られたSerial No.AS-0001だ。君は、その子に名前を付けたかい? わたしと違い、女性型だったはずだが」
 秋祢は、その問いに何とか答えを返した。
「……ひな……」
 デルタは嬉しそうに笑う。
「ひなか。良い名前だ。……君は、そのひなを取り戻しに来たんだろう?」
 秋祢の目的をデルタに言い当てられたことに驚いた。言葉に詰っていると、さらにデルタは続ける。
「やめておけ。今の君の力では彼等からひなを取り戻すなど到底不可能だ。犬死するだけだぞ。君も、ご両親と同じ場所へ行きたいのか? 死ぬ覚悟で、ひなを助け出せるのか? 危険が、死ぬ可能性の方が数倍多い。それでも、君はひなを助けたいのか?」
 その答えだけは、譲れなかった。
 秋祢は肯く。
「ああ。おれは約束したんだ。ひなは、おれが守るって。だからおれは助けに行く。死ぬもんか。もう大切な物は何一つ失いたくない。だからおれは死なない。もしあんたが邪魔するんだったら、おれはあんたを倒してでもひなを助けに行く」
 啖呵を切った手前、体が震えるのだけは何とか堪えた。今目の前でベットに座っているデルタを倒すなど、出来るわけないのだ。もしリディールの言っていたことが嘘だとしても、秋祢にナイフを抜いてデルタに襲い掛かる勇気も度胸もなかった。しかしそれでも、譲れない物がある。
 ひなを守る。これだけは、何があっても貫き通す。
 そんな秋祢の心情を察したように、デルタは目を閉じて一息付いた。
「……静祢様がここから出て行かれる時、わたしにたった一言だけ残していった。『もし秋祢が来たら、力を貸してあげて』。まさか本当に来るとは思ってはいなかったが、現実に君はここに来た。……いいだろう、力を貸そう。何よりわたしがこの世でたった一人愛したマスターからの願いだ。断る道理はないのだから」
 その言葉の意味を、秋祢はしばらく理解出来なかった。
「それって……つまり、」
 デルタに繋がっている鎖が音を立てる。ベットから立ち上がり、デルタは秋祢を見据えた。
「わたしも、ひなを助けに行こう。最初で最後の、ASシリーズの反乱だ。現マスターが誰であろうがわたしが心を奉げたのはただ一人のマスターだけだ。行こうか秋祢。君の、力になろう」


 その瞬間だった。
 秋祢のすぐ後ろの壁が爆発した。いきなり轟音で吹き飛び、背中に爆風が直撃した。まるで玩具のように秋祢の体が飛び、部屋の真ん中の鉄柵に体がぶち当たる。体中に痛みが走ると同時に爆発した衝撃で弾けたコンクリートの破片がナイフに当たり、直撃は逃れたものの息が詰る。その場に立っていられなくなり、鉄柵に体を預けて座り込む。
 視界が虚ろだった。何もかもがぐにゃぐにゃの曲線にしか見えず、耳鳴りが響く。死ななかっただけでも不思議に思えた。そしてその虚ろな視界の中で動く物が二つ。両方とも人間くらいの大きさがあるが真っ黒で、爆砕したコンクリートを踏み付ける度に変な音がした。
 それは、オリネムASの武装集団の一派だった。軍用機のパイロットのようなヘルメットと防護服を身に纏い、その手に持っているマシンガンを構え、座り込む秋祢へ銃口を合わせる。トリガーに指が置かれ、変声期を通したような鈍い声が聞こえる。
『紅葉秋祢捕捉。任務遂行』
 トリガーに置かれた指に力が入り、秋祢の視界が段々と戻って来るその中で、すべてが一瞬で始まって一瞬で終っていた。
 鎖が弾け、鉄柵が砕け、座り込む秋祢の横を風の如く通り抜け、銃を構える武装兵士二人のヘルメットを鷲掴み、そのままコンクリートの壁に激突させた。骨が折れる奇妙な音が聞こえたような気がした。
「貴様等如きがわたしに勝てるとでも思ったか」
 そう言って、デルタは身動き一つしなくなった兵士二人のヘルメットから手を離した。ずるりと二人の体は滑り落ち、湿った地面に横たわる。コンクリートの壁には人型の罅割れが付いていた。
 呆然と見上げる秋祢と、ゆっくりと見下げるデルタ。
 やがてデルタがその手を秋祢に差し出す。
「わたしが力になってやる」
 秋祢はゆっくりと、その手を握った。
 デルタは笑っていた。それは、今は亡きマスターに奉げる笑みだった。
 秋祢は真剣に肯く。これから何があってももう遅れは取らない。
 デルタみたいにはなれないけど、それでも、自分に出来ることをしよう。
 ひなを、助け出す――。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「終らせるために」




 響き渡るのはコンピューターの作動音とコンソールを叩く音。
 無機質なその部屋の四方に何台ものPCが並べられており、そこから伸びる無数のコードが部屋の中央へ向っている。ある一ヶ所でそれが束ねられており、最終的には一本の細いコードへと変換している。その先にあるのは注射器のような細い針。そしてその針が、部屋の中央にいたひなの右腕に刺し込まれる。
 作動音が渦巻く中、一人の作業員が声を発する。
「システムオールグリーン。ナノマシン異常なし。いつでも行けます」
 その声を聞いたリディールは、目の前にいるひなへと視線を向ける。イスに座ったまま身動き一つしないSerial No.AS-0001。先ほど麻酔プログラムを注入したので全機能が一定時間停止しているのだ。その間にすべてを終らせる。ひなの中の記憶と感情を一切消去し、マスター名をリディール・ファルケンスに上書き。そしてマスターの命令だけに忠実に従う戦闘兵器に仕立て上げる。その後はそれをコピーし大量生産すれば目的は達成出来る。
 そう思うと、自然と笑みが零れた。すぐ近くにいた作業員に視線を向ける。
「……Serial No.AS-0001の記憶及び感情を消去、同時に『Master Name』を『リディール・ファルケンス』に上書き変更。後の作業はお前達に任せる。……やれ」
 作業員がコンソールに手を置いた瞬間だった。
 部屋のドアが音を立てて開き、そこから一人の男が乱入して来た。オリネムASの武装集団の一人だった。
「待て」
 リディールの声で作業員の手が止まり、乱入して来た男がリディールに報告する。
「り、リディール様っ! 大変なことになりましたっ!!」
 その男の姿は酷い物で、防護服はボロボロでヘルメット砕け、ゴーグルもしておらず銃器も持っていなかった。武装集団がそうなるということはつまり――
 男は、言い切った。
「デルタが、暴走し始めましたっ!!」
 その一言でリディールの表情が変わる。
「なに? なぜだ? デルタは密閉空間で幽閉されていたはずだ。わたしは指示を出してはいない。ならばなぜ動――」
 そこまで言い、リディールは気づいた。信じられないことではある。マスターの命令を破り、それでも動くなどASシリーズにとっては致命的だ。しかし現にデルタは動いている。その原因は何か。考えればすぐにわかった。このオリネムASに忍び込んだ紅葉秋祢。そして、未だにデルタの心に存在する紅葉静祢。その二つが混ざり合えば、デルタはリディールの命令では動かなくなる。その二人の命令に従う可能性がある。リディールは奥歯を噛み締める。
 親子揃ってどこまで邪魔をすれば気が済むのか……っ!
 男に指示を飛ばす、
「貴様等はデルタを止めろ。Serial No.AS-0001の作業が終るまで絶対にここに来させるな。作業が終ればこちらのものだ。Serial No.AS-0001が完全体となったその時、デルタなど恐れるに足らん」
「はっ! 了解しました!!」
 男が踵を返して走り出す。
 その背中を見据え、リディールは思考を巡らす。所詮奴等は人間だ、デルタ相手に勝てるなど微塵も思わない。が、足止めくらいにはなるだろう。問題はその時間だ。最低でも十分は欲しい。二十分足止め出来れば上出来だ。その間には終っている。しかしもし十分も足止め出来なければ――
 憎悪の炎が沸き上がってくる。まさか紅葉秋祢に噛まれるなどとは思ってもみなかった。ただ簡単に殺せる蟻だと思っていた。だが現実に蟻はデルタを引き込んだ。人間がどれだけ束になって掛かろうと、デルタには到底勝てまい。勝てるのは同じASシリーズ、Serial No.AS-0001だけだ。今は一刻も早く作業を終えなければならない。
 リディールはもう一度声を出す。
「作業を開始しろ。一分一秒でも早くにだ。デルタにここに来られては都合が悪――」
 閉まっていたはずのドアが、もう一度音を立てて開いた。いや、壊れたという表現の方が合っているのかもしれない。
 金具が吹っ飛び、ドアを背に、先ほどの武装集団の男が部屋に転がり込んで来た。有様はさっきより酷い。意識はなく痙攣していて、口から血を吐き出している。肋骨と両手の骨が何本か逝っている。そしてこんなことが出来るは、ただ一人だった。
 壊れたドアから影が一つ浮び上がる。聞き慣れた声が響いた。
「わたしが来ると都合が悪いらしいな、マスター」
 そう言って、デルタが笑う。


 デルタの強さは、秋祢が想像していたのよりも遥かに凄かった。
 確かにその強さはリディールから聞かされた。が、聞くのと見るのではやはりかなりの大差があった。
 あの密閉空間を出てすぐに銃器を持った兵士三名に遭遇した。結果は一瞬で出ていた。秋祢が銃器に驚き目を瞑り、衝撃音が聞こえて目を開けたらその三名はすでに床に倒れていた。そこに立っているのはデルタ一人だった。拳を振るえば壁が砕け、骨が砕け、人間の機能が停止しする。その時点でまだ、デルタはリミッターを二つしか外していなかった。しかしそれでも、もやは普通の人間ではデルタに遠く及ばなかった。まさに史上最強に恥じぬ存在だった。
 そしてそんなデルタを見ると、必ずその姿がひなと重なった。リディールの言っていたことが本当ならば、ひなの能力はこのデルタをも超える。もしひなが力を振るえば、人を簡単に殺させるのだろうか。一瞬で、なかったことにしてまえるのか。ひなとは、そんな存在なのだろうか。
 させない、と秋祢は思う。ひなはひなだ。秋祢が知ってるひななのだ。ひなは料理が出来て、運動も出来て、かき氷が好きで、素麺が嫌いで、凛といつも遊んでいる、そんな無邪気な子なのだ。 争いは好まないはずだ。確かに凛とはよく勝負していた。負けず嫌いのようだった。しかしそれとこれとでは話しが違う。何かを殺す、何かを失う、そんな争いは、ひなは絶対に望まない。ひなと過ごした時間は少ないけど、それだけは言い切れる自信がある。だって、何より、ひなのことだから。秋祢の大切な、ひなのことだから。
 だから、絶対にさせない。ひなに、人を殺させはしない。
 デルタが立ち止まったのは、建物の中を数分走り回った時だった。その数分で人を数え切れないくらい機能停止に追い込んだ。しかしデルタが言うには殺してはいないらしい。曰く、『もう二度と元通りにはなれない』だけである。そんなデルタが立ち止まったのは、一つの扉の前だった。その扉をじっと見つめ、デルタは身動き一つしない。
 秋祢が声を掛けようとした瞬間、いきなりドアが開いた。中から男が出て来る。見覚えがあった。ここに来る少し前、デルタが取り逃がした男だ。そして、秋祢はその考えが間違いであることを知る。
 その男がデルタに気づく一瞬早くに、その顎を鷲掴みにされた。
「一つだけ訊く。お前はそのために逃がしてやったんだ。いいな、肯くか首を振るか、その二択以外は有り得ない。もし下らないことをしたら、殺す」
 顎を鷲掴みされた男は持ち上げられ、下から睨み付けるデルタに何度も何度も肯いていた。
「この中に、リディールとひなはいるのか?」
 男は何も言わなかった。黙秘でもしているつもりなのだろう。デルタは容赦なく、その脇腹に拳を入れた。鉛筆が束で圧し折れる音がした。鷲掴みにされた男の口から血が吹き出し、それがデルタの顔を染める。その血を拭うこともせず、デルタは再び同じ質問を繰り返す。
「この中に、リディールとひなはいるのか?」
 遂に、男が肯いた。
「最初からそうしておけばよかったものを。秋祢」
 男から手を離さず、デルタは秋祢を振り返った。最終確認を求められた。
「この先にひながいる。が、今がどうなっているのかはわからない。もしかしたら秋祢にとって辛い光景かもしれない。それでも、行くか?」
 その問いに、即答が出来た。
「ああ。行くよ。おれは、ひなを助け出すって決めたから」
 デルタは笑った。それは、初めて秋祢に向けられた微笑みだった。
「それでは行こうか。すべてを、終らせるために」
 その声と共にデルタが腕を振るい、鷲掴みした男をドアに叩き付ける。金具が吹っ飛んで男はドアと一緒に部屋へ転がり込む。そして、デルタはその一歩を踏み出した。
 中にいるリディールの声は、デルタに聞こえていたんだろうと秋祢は思う。


 その室内に入った瞬間、まず目に止まったのは他の誰でもない、ひなだった。
 部屋の中央のイスに俯いて座り、その右腕に点滴のように注射が刺し込まれていた。が、それは点滴と表現するにはあまりに残酷で、痛々しい光景だった。針の先にあるのはチューブではなくコードで、それが途中から数え切れないほど枝分かれしている。そしてそのすべては部屋の四方に設置されているPCへと伸びていた。
 ドアの側にいたデルタを通り越し、秋祢は叫ぶ、
「ひなっ!!」
 今すぐにでもひなを助け出したい、そう思うがデルタに制止された。そこで初めてその近くにいる一人の人物に気づく。白衣を着ている、髪型がオールバックの男性。その男が誰なのか、秋祢には一発でわかった。実際に顔を見たことはない、だけどそうだと言える確信がある。コイツがすべての元凶、リディール・ファルケンス。両親を殺し、そしてひなまでも苦しめた張本人だ。
 自分でもどうしようもない怒りが腹に溢れ返る。そんな秋祢を見据え、リディールは忌々しげに顔を歪める。
「……紅葉秋祢……デルタ……っ! 貴様等、自分が一体何をしているのかわかったいるのか……っ!?」
 下らない会話などクソ食らえだった。だからたった一言、秋祢はこう返す。
「ひなは、返してもらうぞっ!」
 デルタの制止を振り切り、秋祢は走り出す。それを見ていたリディール以外の作業員がいきなり立ち上がり、懐からハンドガンを取り出す。その銃口が秋祢を捕らえる前に、デルタは行動に移した。作業員がトリガーを引く前に、デルタの拳が顔面に食い込んで骨が軋む。全員がトリガーを押し込む前に、デルタが終らせていた。
 この部屋に立っているのは、すでに秋祢とデルタと、リディールだけだった。そしてもう一人、ひな。秋祢はイスに座って身動き一つしないひなへ近づき、いきなり頬を殴り飛ばされた。走った分体の揺らぎが激しく、ひなを目前に派手に転倒する。そんな秋祢の顔面を、リディールは容赦なく踏み付ける。
 そして秋祢など見もせず、デルタに向って声を上げる。
「そこまでだデルタ! 少しでも動いたらコイツの頭蓋骨を踏み砕く」
 デルタは、まるで焦った様子を見せなかった。何でもないようなことのようにリディールに向き直り、
「貴方ならわっているはずだ。わたしが動けば貴方が秋祢の頭蓋骨を踏み砕く前に、貴方の頭蓋骨が砕けることくらい。なにせ、貴方がそうわたしを強化したのだから」
「確かにそうだろう……が、これならどうだろうな?」
 リディールが、微かに笑った。そして、こう言った。
「『デルタ、マスター命令だ。そこを動くな』」
 初めてデルタの表情が歪んだ。その場で全く動かなくなる。
 リディールに踏み付けられていた秋祢は、そのデルタの変化の様子が理解出来なかった。なぜデルタが動かなくなったのか、リディールのたった一言でなぜ自由を奪われたのか、それが全くわからなかった。床に頬を付けたまま、秋祢は叫ぶ。
「デルタっ! どうしたっ!?」
 その問いに答えたのはデルタではなく、真上のリディールだった。
「無駄だ。お前が聞いているかは知らないが、デルタのマスターはこのわたしだ。マスター命令は絶対。デルタはもはやお前の味方ではないぞ。そしてわたしが一言命令すれば、お前の敵と化す。諦めろ、どう足掻こうとお前はSerial No.AS-0001を助け」
「……リディール、一つだけ忘れてるぞ……」
 その声を発したのは他の誰でもない、デルタだった。
「確かにマスター命令は絶対だ……が、それはわたしには通用しない。忘れた訳ではないだろう? 静祢様の設定したプログラムを」
 デルタが動く。しかしその足取りは重く、さっきまでもキレも素早さも微塵も感じさせなかった。
 秋祢の真上から声が出る、
「動くなっ! コイツを殺すぞデルタ!」
「いいさ、やれよ」
 秋祢がその言葉に弾かれたようにデルタを見やり、しかしデルタは笑っている。
「だがな、これだけはこっちでもやらせてもらうぞ」
 デルタが手を上げる。その真下にあるのは一台のコンピュータ。しかし他のと比べてやたらと大きい。それは、この部屋にあるすべてのPCを管理統一するメインコンピュータだった。Serial No.AS-0001の設定を変更するのに最も重要な物だった。リディールには、デルタがやろうとしていることがすぐに理解出来た。
「待てっ!! 今それを壊せばSerial No.AS-0001のプログラムが崩壊するんだぞ!? リミッターが外せなくなるんだぞ!? そうなったSerial No.AS-0001など何の価値も――」
 それでいいんだよ、とデルタは言う。
「それが、静祢様と秋雄様、そしてわたしが望んだことだ。ひなは、わたしとは違う。まだ戻れるんだ。だから、これですべてを終らせる。秋祢、」
 デルタの手に力が篭り、秋祢はその言葉に耳を澄ます。
「ひなを、助け出せ」
 そして、デルタは腕を振り下ろした。リディールの叫びを聞いたような気がする。
 メインコンピュータが、音を立てて砕けた。瞬間、部屋に大音量のサイレンが響き渡る。
 秋祢を踏み付けていたリディールの足の力が弱まったのはその時だった。その一瞬を、秋祢は見逃さない。腕を床に着いてリディールの足を跳ね除けて立ち上がる。突然の行動に反応が遅れたリディールは数歩よろめき、しかし今は秋祢などには興味がないようにデルタが破壊したコンピュータを目を見開いて凝視して叫んでいる。サイレンは鳴り続けている。
 立ち上がった秋祢はすぐに走り出し、イスに座るひなの元へと歩み寄る。意識がないが眠っているだけのような気がする。が、今はそんなことに構っている暇はない。ひなの右腕に刺し込まれたコードの先端を引き抜いた。針に微かな血が付着していたが気に止めている時間はない。ひなを一発で背中に背負わせ、秋祢はまた走り出す。何事かを叫ぶリディールの脇を通り越し、ドアのすぐ側で立ち止まってデルタを振り返る。
「デルタっ! お前も来いっ!!」
 しかしデルタは首を振る。そして、ゆっくりと笑った。
 サイレンの中でも、その声だけは鮮明に聞き取れた。
「わたしはわたし自身のケジメを着ける。だからお前達だけで行け。秋祢、ひなを、守ってやれ」
 悩んだのは一瞬だけだった。今のデルタはすべてを見透かしていた。もしここで秋祢が無理にでもデルタを連れ出そうものなら、思いっきり殴られていたと思う。だから、秋祢は最後の最後に、ありがとう、と言い残し、その場を後にした。
 背中に乗せたひなのぬくもりが、すごく温かく感じた。


 室内に残されたのはデルタとリディールだけだった。
 叫んでいたリディールがいきなりその声を止め、悪魔のような形相でデルタを睨み付ける。
「貴様っ……!! よくもっ、よくもわたしの計画を台無しにしてくれたなっ!! 殺す、必ず殺すぞSerial No.AS-0000っ!!」
 デルタは、そんなリディールに臆することなく、こう言った。
「さあ、終らせようか。わたし達と、お前達との戦いを」
 体の自由はもはや元通りになっていた。
「ケジメを着けようじゃねえかリディール・ファルケンスっ!!」
 デルタは、
 リミッターをすべて外した。
 一瞬で髪が真っ白に変化し、瞳が紅く輝く。足元の床が弾け飛び、部屋の四方にあったPCがすべてぶち壊れる。


 デルタは思う。
 わたしはここで死ぬだろう。
 だけど、それでもいい。それで十分だ。
 秋祢、ひな。幸せになれ。わたしと違い、この世界で生きろ。
 秋雄様、わたしは貴方を尊敬しています。
 静祢様、わたしは貴方を愛しています。
 そして。
 わたしは、すべてを終らせます――。


――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「デルタの絆」




 わたしが最初に目が覚めて聞いたのは、大歓声だった。大勢の人間が何かをやり遂げた時のように大声で叫んでいる。全員が大声で叫びつつも近くの者と手を合わせて笑い、わたしを取り囲んでいた。その中の一人が歩み寄って来て、優しく微笑んだ。女性だった。彼女は、こう言った。
 ――初めましてデルタ。わたしは紅葉静祢。あなたのマスターです。
 そこで、記憶が途絶えた。
 次に目を覚ました時には、すでに静寂に包まれていた。辺りを見まわし、そこでやっと自分の体がベットで寝ていることに気づく。ゆっくりとその身を起こすと、すぐ近くに人の気配を感じた。座りながらベットに身を預け、彼女は寝ていた。理解は出来た。この人が、わたしのマスター。名前は、紅葉静祢。優しそうな人だった。
 そして、そこからわたしの物語りは始まる。
 静祢様には夫がいた。紅葉秋雄という方だ。静祢様も優しかったが、それに負けず劣らず秋雄様も優しかった。わたしは二人が好きだった。何よりも他人の気持ちを考え、人に痛みがわかる心清らかな人達だったからだ。そんな二人にわたしの生産目的を聞かされた。二人はすごく真剣に、そして希望に溢れた表情でその話をわたしにしてくれた。わたしの生産目的は人を助けることだそうだ。まだ試作段階らしいが、それでも十分だった。この世に出て初めて会ったのがこの二人だったのを心より嬉しく思った。
 二人の期待に答えられるよう、二人に喜んでもらえるよう、わたしは自分のすべてを掛けてテストを受けた。その結果が良かったのか、二人だけじゃなく周りにいた作業員なども本気で喜んでいるようだった。それだけで、わたしは幸せだった。そして、静祢様の声を聞けるだけでわたしはもっと幸せになれた。
 ――デルタデルタ。すごいすごいよ。これかなら困ってる人をわたし達が思っていた以上に助け出せそう。
 彼女は、姿や雰囲気は大人のようなのに、どこか子どものような幼さを持っていた。それとは逆に秋雄様は無口で、しかしテキパキと作業をする人だった。そんな二人だからこそ上手くやれるんだろうなと思った。
 ――この仕事が一段落したら秋祢とちゃんと暮らすんだ。あの子には、寂しい暮らしさせちゃってるから。
 静祢様と秋雄様には子どもがいた。秋祢というらしい。しかし彼が幼い頃からこの仕事に携わっていた静祢様達は、彼を家に残してここで寝泊りをすることが多かったそうだ。実際、わたしがこの世界に出てからもそれが多かった。家に帰ったのは本当に数えるくらいだったのではないだろうか。けど二人はいつも言っていた。秋祢は何よりも大切な宝ものだって。いつかわたしも会ってみたいと思う。二人に似て、優しいのだろうか。
 幸せな日々は、永遠に続くと思っていた。わたしの隣りにはマスターの静祢様がいて。そして近くにはその夫の秋雄様がいて。それだけで満足だった。いつしか、わたしは本当の人間のようになっていた。だから、こんな日々が永遠に続くと思っていたのかもしれない。あの悪魔のような声は、今でも鮮明に思い返せる。
 ――デルタは、戦闘用に改良する。世界の戦争に、ASシリーズを送り込む。
 リディール・ファルケンス。静祢様と秋雄様と同じ立場に立っていた一人の研究者。それに静祢様は猛然と抗議したのを憶えている。
 ――なぜデルタの思考回路をこんなにも発達させたと思ってるの!? それは救助者を助け出した時にその人を不安にさせないためでしょ!? 安心して助け出せるためでしょ!? なぜわたしがマスター命令を無視してまで行動出来るようにしたと思うの!? それは現場に近いデルタの方が状況判断が確実の時があるからでしょ!? 戦争とかそんな、争いにためにデルタを造っんじゃないっ!! なんで貴方にはそれがわからないのっ!!
 しかしその抵抗虚しく、リディールの派閥は人を集め、ついに静祢様の派閥を制圧した。が、静祢様と秋雄様はそんなことで挫けるような人ではなかった。わたしの欠陥を補い強化して造り出した、わたしをも超える存在。Serial No.AS-0001。二人は、彼女を戦場なんかには入れないと心に決めていた。
 静祢様と秋雄様が行動に移るその日。リディールによって自由を奪われたわたしの元へ静祢様が来た。彼女は泣いていた。泣いたままでわたしをゆっくりと抱き締めてくれた。涙で振るえるあの声は、絶対に忘れないと思う。
 ――ごめんね、ごめんね。
 静祢様は、最初から最後までわたしにそう言って謝った。
 ――貴方も一緒に連れて行けなくてごめんね……。本当に、ごめんね……っ。
 わたしは彼女を抱き締め返した。
 ――いいんです静祢様。わたしは貴方と、貴方達と出会えて嬉しかった。それだけで十分なんです。だから、謝らないでください。
 ――デルタ……、わたしからの、マスターからの最後のお願い……。もし、もしも秋祢が来たら、力を貸してあげて……。身勝手なのはわかってる、だけど、お願い……デルタ……。
 わたしは肯いた。それが、わたしと静祢様を繋ぐ最後の絆になることを知っていたからだ。
 そして、わたしは最後の最後まで言えなかった。
 静祢様に、自分の気持ちを伝えることが出来なかった。
 それから数日後、二人はこの世からいなくなった。
 最後の絆だけを残して。


     ◎


 あれから三ヶ月と十日。絆は遂に尽き果てようとしていた。
「動くなっ!!」
 そんな声と共に室内に大量のAS武装集団が乱入して来た。壊れたコンピュータの残骸を踏み砕き、計算された動きでデルタを囲う。一斉に銃口がデルタを捕らえ、その近くに位置するリディールの指示を待つ。
 デルタは気にも止めなかった。銃弾など、今のデルタには無意味だった。リミッターをすべて外したデルタに、敵はないのだから。
 視線をゆっくりとリディールへと向ける。リディールは歯を食い縛り、忌々しげにデルタを憎悪が漲る目で睨んでいた。
「リディール……。終らせようか、すべて」
「ふざけるなっ!! お前などにわたしの計画を邪魔されてたまるかっ!! Serial No.AS-0001はわたしのものだっ!!」
 錯乱しているんだろう、とデルタは思う。ゆっくりとその首を振る。
「違う。ひなは誰のものでもない。しかし、秋祢にとってひなはいなくてはならない存在だ。お前がそれを奪うと言うのなら、わたしはお前を殺してでも止める」
 それが、最後の絆だからだ。
「黙れっ!! やれっ!! デルタを殺せっ!!」
 その声でトリガーに置かれた多数の指が一斉に押し込まれた。室内に爆音のような銃声が響き渡り、デルタを、床を、天井を、壁を、容赦なく抉った。部屋が壊れるに連れ煙幕が捲き起こり、数秒先にはなにも見えなくなっていた。すべての銃器が弾切れになったその時、部屋のシステムが作動して煙幕を吸い取り始める。
 やがて、その煙幕の中央からデルタがゆっくりと歩み出す。傷一つ負っていない。銃弾は、デルタに当たる直前にすべて消滅していた。今のデルタに触れば、それだけで指が吹き飛ぶ。大気がまるでデルタを守るカマイタチのように変質していた。歩み寄る先にいるのは他の誰でもない、リディールだ。しかしそのリディールに言うのではなく、この部屋にいるすべての人間に対してデルタは言う。
「死にたくなかったら動くな。今のわたしは制御など出来ない。次に誰か動いたら、その瞬間に皆殺しにする」
 誰一人動かなかった。全員わかっている。デルタに、勝てるはずない、と。しかしそれでもAS武装集団だ。命に代えてでも敵を殲滅することを主とする。だが誰一人動かない。全員が本能で察しているのだ。動いてはならない、と。
 デルタが、リディールの目の前に立つ。
「お前はわたしのマスターを殺した。それは今でも恨んでいる。しかしそれ以上に、お前には怒りがある。なぜお前はそうまでしてひなを手に入れたがる。なぜお前はそうまでして戦争に拘る。死に急ぐようなことをして、一体何の価値がある。お前の目的は、一体何だ?」
 リディールが、遂に壊れた。狂気に曲った瞳をデルタに向け、
「わたしの目的は殺戮だ!! すべてを殺し、すべてを無に還す!! それがわたしの望みだっ!! すべてを、わたしの思うが侭に動かすのだっ!! 誰にも邪魔はさせん!! お前にもだデルタっ!!」
「……そうか……」
 デルタは目を瞑り、そして開けた。紅い瞳がリディールを真っ向から見据える。
「お前は、ここで殺しておかねばならない。それが、っ!!」
 瞬間、デルタの体が崩れた。文字通り崩れたのだ。皮膚の断面が腐ったかのように床に落ち、顔がボロボロと剥がれ落ちる。
 もう来たか、と心の中でデルタは悪態を付く。デルタの欠陥、それは他の何でもない、体の負担が抑え切れないことだった。デルタは、リミッターを四段階以上外すと体が崩壊する。それが最も深刻な欠点であり弱点だった。リミッターは体の制御を守るための物であり、それを外せば体が崩壊するのは道理だった。その欠点を補ったのがSerial No.AS-0001、ひなだ。彼女は、リミッターをすべて外しても体の制御を抑えることが可能だった。が、それがデルタには出来ない。リミッターをすべて外した今の状況で、稼動できるのは後僅かな時間しか残されてはいなかった。
 話をしている余裕はない。
「終らせるぞ、リディール」
 デルタは目を瞑る。体の中のナノマシンの構造を造り変える。ひなには備わっていない、実験段階でデルタに植え付けられた能力。しかしその能力はあまりにも危険で、結局ひなには備えられることはなかった禁忌の力。足元の床を体の一部へと吸収、変換する。デルタの周りの物質が分子単位で分解され、すべてがデルタの体を造り変える一部と化す。
 デルタの右腕が、形を造り始めた。それと同時に、デルタは意識を転送する。
 遥か上空、宇宙にまでそれは及んだ。そこにある人工的浮遊物、人工衛生『レヴァ』。デルタは、『レヴァ』にアクセスを掛ける。体の構造を造り変えつつ、『レヴァ』のメインコンピュータへハッキング。すべての暗号キーを力任せにぶち破り、主導権を握る。無理矢理『レヴァ』を起動させ、その中央にある『リヴァ』の先端を向ける。誤差は一メールなく、地球のデルタをトレースしていた。
 そして、デルタの右腕は変貌を遂げていた。それは、一対のレーザー砲だった。敵地に侵入した際、一瞬で相手を無に出来るように。敵に攻められた際、一瞬で一掃出来るように。それだけに特化された、自分の体の構造を犠牲にするASシリーズ、Serial No.AS-0000にしか備わっていない切り札。威力は『リヴァ』には劣るものの、距離と正確さはそれに匹敵するもう一対の一閃の悪魔だ。
 その先端が、『レヴァ』を捕らえている。『リヴァ』の先端は、デルタを捕らえている。
 すべてを終らせるには、これしかなかった。
 自分を捨ててでも、終らせてみせる。そう、すべてを。『レヴァ』さえなくなれば、オリネムASさえなくなれば、ひなを縛る物はもう何もない。だから、こうするしかないのだ。
 デルタは目を開けた。そこに、リディールもAS武装集団もいなかった。神経を二つに割り当てていたせいで気づかなかったらしい。が、どうでもいいことだった。もう逃げられはしない。『レヴァ』の探知を始動、三つの稼働体を探す。一つはこの部屋から三つ離れたラボいる。それがリディールだ。何をしているのかは興味がなかった。そして残りの二つは――。
 デルタは安心する。ぎりぎりで、『リヴァ』の被害範囲を出ている。この速度で移動するとなると、車だろう。考えたものだ。そしてそれでこそ静祢様と秋雄様の子どもだ。
 ……最後の最後で、また言えなかった。
 秋祢に、両親がどれだけ彼を愛していたのか、伝え損なった。自分はいつもそうだ。静祢様にも言えなかった、秋祢にも言えなかった。結局、肝心な所で馬鹿をするのだ。
 だが、これだけは成し遂げてみせる。すべてを、掛けて。


 デルタのいる部屋から三つ離れたラボにリディールはいた。そこにあるコンピュータのコンソールに向って信じられない速度でプログラムを構成していた。腐ってもオリネムASの責任者を務めるほどの男だ。そこらの凡人とは訳が違った。そして彼はそのプログラムを完成させ、それを『レヴァ』に向って送信した。それが完了してから、リディールはコンソールを殴り付けた。
 すべてが終ってしまう。長年思っていたすべてが。が、タダでは終らせない。どうせもうすぐデルタの力によって滅ぼされる身だ。だったら、道連れを用意しようではないか。そう。道連だ。それは、お前だ、紅葉秋祢。そしてもう一人、Serial No.AS-0001。貴様には地獄を用意しておいた。苦しめ、自分に感情があることを悔いて醜く行き続けろ。それが、わたしからの最後のプレゼントだっ!!
 リディールは、狂ったように笑う。


 デルタは、意識を完全にシステムの中に埋め込んだ。
 右手のレーザー砲を『レヴァ』に、『リヴァ』を自分に、完全トレースした。
 そして、その引金を二つ同時に引いた。


 瞬間、デルタの右腕から想像を絶する波動が生まれた。部屋が一瞬で弾けて天井が砕け、そこを突き抜けて一閃の悪魔が天空へと撃ち出される。
 刹那、『レヴァ』の微かな動きと共に、『リヴァ』から一閃の悪魔が撃ち出される。
 二つの悪魔が空中で擦れ違い、真っ直ぐにそれぞれの獲物を狙う。宇宙でそれを感じた『レヴァ』は自動的にセキュリティを稼働させた。微かに動き出し、それの直撃を避けようとし――しかしそれは一瞬で『レヴァ』の横っ面を食らった。
 天空から襲い掛かるそれを、デルタは避けようともしなかった。それから目を反らさず見据え、最後にデルタは笑う。
 横っ面を食われた『レヴァ』は、すぐには消滅しなかった。中身が剥き出しになったそこから火花が散り、そして一つの伝達を受信する。それをプログラムに従い生き残った部分で瞬時に転送する。それは、すぐさま地球へ戻って行った。そして、宇宙で一厘の花が咲く。音は聞こえない。その花は、やがて静かに光りを失って行った。
 一閃の悪魔は、それぞれ、獲物を確実に捕らえていた。
 デルタは光りの中にいた。気づいた時には、すべてがなくなっていた。
 静祢様。わたしは、貴方を――。


 山が一つ、消し飛んだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「風が舞う中で」




 どこをどう走ったのかはよく憶えていない。
 闇雲に走っていたような気もするし、何かを感じ取って走っていたような気もする。しかし理由はどうであれ、ひなを背負った秋祢はオリネムASの建物の外に出ていた。その時のことだけは鮮明に憶えている。分厚い自動ドアを潜った瞬間、夏の太陽に体を射貫かれて目を庇った。ゆっくりとその目を開けた時、そこがすごく懐かしい世界に思えた。たかだか数時間しか室内にいなかったのに、なぜか外の空気を肌で感じ、辺りを囲んでいる木々を見てそう思った。
 考えるより早くに行動していた。駐車場に止めておいたバンに近づき、助手席にひなを座らせ、運転席に秋祢が乗り込む。キーはやはりシリンダーに刺さったままだった。何も考えずにエンジンを始動させ、バックなどさせずに無理矢理ハンドルを切って方向を変えた。バンパーを隣りの車にぶつけが知ったことではない。アクセルを踏み込んでバンを発進させる。
 行きに通ったゲートを素通り、閉じていた門をぶち破って外に出た。不思議なことに、行きにいた門番どころか、人っ子一人いなかった。しかしその理由はすぐにわかった。デルタを止めるため、全員が駆り出されたのだろう。デルタが撃退した人数なんて数えてもわからないと思う。だからそれでも納得できた。そしてそちらの方が好都合だった。
 道路を爆走する。山の中だけあって他の車の気配なんてなかったし、そもそも行きも一台も擦れ違わなかったので大丈夫だと高をくくっていた。それに車が来たら来たらでその時だ、今は何も考えずに一刻も早くにここから遠ざかりたかった。
 バンをぶっ飛ばして進むこと数十分、やがて山を抜けて一般道路へ流れ出た。が、やはりまだまだ田舎のような道であり、秋祢とひなを乗せたバン以外に車はいなかった。一直線に伸びる道路をアクセルを全開まで踏み切って突き進み、やがて緩やかなカーブへと差し掛かる。もうかなり離れたはずだ。そこで秋祢は少しだけ安心し、アクセルを緩めた。
 刹那、頭上の色が変わった。何事かと思う前に急ブレーキを掛けタイヤがスリップし、その拍子にサイドミラーに移った二本の光りの柱を見た。見覚えがある。すべての元凶が、再び放たれていたのだ。しかも二閃。一閃は地上から天上へ、一閃は天上から地上へ。一瞬の出来事だった。それぞれが空中で擦れ違い、そして、激突した。
 急ブレーキを掛けたのが幸いした。タイヤと道路から上がった煙が消え去るより早くに、激しい閃光が生まれた。視界が一気に白黒に染まり、背後で轟音と共に爆発。爆風が木々を薙ぎ倒し、砂を舞わせ、バンを動かした。ガードレールまでバンが移動させられ、ガズッと鈍く響いてバンが停止する。しばらくは白黒の視界が支配していた。
 すべてが終った時、何もかもが元通りになっていた。慌ててバンから降り、先ほどの何かが衝突したと思われる場所を凝視する。が、そこは違う山が邪魔で全く見えず、しかしその場所と思わしき所から幾つもの煙が上がっていた。
 場所は、大体で検討が付いた。そこは、さっきまで自分達がいた場所だ。敢えてどうなったのかは検討しない。車で引き返すなどもっての他だ。ただ、それでも一つだけ思うことがある。
 煙が上がる場所を見上げ、拳を握り、夏の風と太陽の陽射しを体で感じ、ケジメを着けるというデルタの声が甦った。
「……デルタ……お前、まさか……」
 それから先を、秋祢は言葉に出さず、心の中でも思うのをやめた。今はその時じゃない。今は、ただひなを守ることだけを考えるべきだ。そう思いを改め、秋祢はバンへと戻って行く。開けっぱなしの運転席から中に乗り込み、微かに感じるエンジン音に心を落ち着かせる。
 助手席には、ひなが座っている。未だに意識は戻らない。眠ったように俯き、身動き一つしない。そっとその頬に触れ、ゆっくりと髪を上げる。そしてその胸で輝くクロスのチョーカーに気づいた。たったそれだけなのことなのに、秋祢は自然と笑う。自分の胸にあるお揃いのそれをそっと握り緊め、目から涙が溢れた。
 ひな。辛い思いをさせてごめん。本当に、ごめん。これからずっと守ってやるから。おれが、絶対に守ってやるから。だから、
 ひなの頬に添えた手に、微かな変化があった。それは、止まった歯車が再び動き出す感じだった。
 その瞳をうっすらと開け、ひなは目覚めた。上手い言葉が出て来ない、口が全く動いてくれない、体が動くのを放棄していた。しかしそれでも視界だけは鮮明に写し出している。目を開けたひなは、本当に寝起きのようにぼんやりとしていて、呆然と辺りを見まわす。その視線が、やがて秋祢と結びつく。
 それは、微笑ましい時間だった。まるで夢の中の出来事のように、ひなはぽつりとつぶやく。
「……あき、ね……?」
 上手い言葉が見付かった、口が動く、体が動くのを再開させた。
 秋祢はこう言った。
「おはよう、ひな」
 ひなの目が見開かれる。自分の胸と秋祢の胸にあるチョーカーを交互に見つめ、そして。
 泣いた。初めて見る、ひなの弱々しい表情だった。いつも笑って、いつもニコニコしていた、ほのぼののひな。そんな彼女が、初めて秋祢の前で泣いた。秋祢の胸にしがみ付き、ひなは大声で泣いている。そんなひなを、秋祢は優しく抱き締めた。
 もう二度と離さないから。もう二度と一人にはさせないから。
 もう二度と、泣かせはしないから。おれが、絶対に守るから。
 だって。ひなが、何より大切な家族で、そして、好きだから。
 おれ達は、二人で歩んで行く。


     ◎


 バンの近くの丘で、秋祢とひなは並んで座っていた。芝生のようなその地面の感覚が心地良く、たまに吹く風が本当に気持ち良かった。
 ここで少しだけ休んでいこうと言い出したのは秋祢である。ひなは酷く不安定な感じで、まだ体の制御が効かないらしかった。ひなが言うには、体に打ち込まれた麻酔プログラムがまだ残っていて、それが完全に抜けるまでしばらく掛かるそうだ。だからそれがなくなるまでここで休んでいこうと秋祢は思った。たぶん、もう追手は来ない。
「ごめんなさい秋祢……。何も言わずに、勝手に出て行ったりして……」
 ひなはそう言って俯いてしまう。その頭を、秋祢は無造作に掻き回した。
「バカ。もう良いって言ってんだろ。さっきからそればっかりじゃないかよ」
「……うん。ごめん……」
「謝るなって」
 またくしゃくしゃと掻き回す。
 ひなは抵抗しなかった。それは嬉しくて、ではなく、恐らく罪の意識からなのだろうと秋祢は思う。ため息を一つ、目の前に広がる田んぼの群れに視線を移す。
「あのさ、ひな」
 ひなはやはりこちらを向かない。それでも秋祢は続ける。
「もしお前がおれに対して申し訳ないと思ってるんだったら、これからに生かせ」
 俯いていたまま、ひなはぽつりと、
「どういう意味……?」
「そのままだよ。もう二度と一人でどっかに行くな、何か心配ならおれに相談しろ、辛いことがあっても一人で抱え込まずにおれに言え。それが約束だ。……ひな、守れるか?」
 うん、とひなは言う。
「絶対に守る……。もう、わたし一人じゃないってわかったから……。秋祢が、いてくれるから……」
「よし、上出来だ」
 よっこいしょっ、と秋祢は立ち上がる。隣りのひなに手を差し出し、
「帰ろうか、おれ達の家に。立てるか?」
 差し出された秋祢の手をそっと握り、ひなも立ち上がる。その後で上目づかいに秋祢を見つめ、
「……本当に、いいの……? わたしは……その……」
 まだ言うか、と秋祢は思う。繋いだ手を一気に引き寄せ、ひなを抱き締める。わざとかなり強めに。「ふぎゅ」とひなが意味不明な声を出し、それからジタバタ暴れて「痛い秋祢っ」と訴える。その力を一向に緩めもせず、秋祢は言う。
「ひなはひなだ。他の誰でもない、おれの好きなひななんだ。もし今度今みたいなこと言ってみろ、こうしてやるからな」
 さらに力を込める、
「ごめん秋祢っ、もう言わないから、痛い、離して、痛いってばっ!」
 しばらくしてから秋祢はその腕を離した。恨めしげにひなは秋祢を睨み、当の秋祢は笑う。
「行くかひな」
 もう一度手を差し伸べる。今度は、笑ってくれた。久しぶりに見る、ひなの笑顔だった。やっと笑ってくれた、と秋祢は思う。さっきからずっと気に掛かっていた。ひなが笑わないことが。ひなの心境はわかる、だけど俯いてばかりいられても意味がないのだ。前を向いて歩いてもらわなければ、何もかも止まったままになってしまうから。ひなには、前だけを向いていて欲しいから。
 丘を二人で歩き始める。幸せだった。もうひなを縛る物は何もないと自然と感じていた。これからひなは苦しむ必要もないのだ。何もかも捨て、そして新たな一歩を踏み出すのだ。知らないこと、知る必要があること。それはまだまだあるのだろう。だけど、今だけはそれがどうでもよく思えた。そんなもの、今は必要ないのだ。
 ひなと歩んで行く。秋祢と一緒に。そして、今はいない凛と弘樹と、一緒に。普通の女の子として、ひなは歩んで行くのだ。
 これ以上の幸せが、どこにあるだろうか。
 風に乗って、呪いの言葉が降り掛かる。


 ――リミッターを外せなくなってよかったなぁSerial No.AS-0001? が、それでお前が普通の女の子だと? 笑わせる。お前は他の何でもない、ただの殺人兵器だ。それ以下でもそれ以上でもない。それを、忘れるな。苦しめ、そして、受け取れ。これがわたしからの最後のプレゼントだ。わたしのすべてを掛けたウイルスだ。楽しめ、苦しめ、そして、己を呪い行き続けろSerial No.AS-0001。


 その声は、秋祢には聞こえなかった。しかし、ひなには聞こえた。
 歩みを止め、ひなは頭上を一瞬で振り変える。その表情は恐怖と絶望に染まっていた。その変化に気づいた秋祢はひなを振り返り、そこに移る表情を見て驚く。ひなに向って声を上げようとした時、『それ』は降り注いだ。
 今度は形がなかった。目に見えない『それ』が、ピンポイントでひなを直撃する。『それ』はひなに受信されると同時にプログラムに従い、Serial No.AS-0001の中枢まで侵食する。強硬なセキュリティーをすべて無効化にし、暗号キーなど初めからなかったかのように粉砕する。身体の制御システムを強奪、神経は愚かナノマシン、細胞の一つ一つまで飲み込む。すべてを侵食し尽くした『それ』は、行動に移した。
 ひなが絶叫する。
「うああぁああ、ああああぁぁああ、あああああああああっ!!」
 その場に膝を着き、焦点の合わない瞳で辺りを探る。
 異常な光景だった。考えるより早くに行動していた。秋祢はひなの目の前に膝を着き、両肩を掴んでその瞳を直視する。
「おいどうした!? ひなっ!! 何だ、何が起こったっ!?」
 秋祢の声はすでにひなには届いていなかった。秋祢の視線とひなの視線は決して結び付かない。なおもひなは絶叫し続ける。怖かった。ひながひなでなくなるような気がした。すべてがこのまま終ってしまうような気がした。
 そして、それは的中する。
 ひなの叫びが止まると同時に前のめりに倒れる。秋祢に体重を預けるように凭れ込んで静かになり、しかしひなの頭の中では声が響き続ける。
 ――リミッターを外せなくても可能なことだ。なにせリミッターが外せないと言っても普通の人間の数倍の身体能力は持っているのだからな。さあ、やれ。獲物はそこにいる。凶器もある。目の前にいるそいつを……殺せっ!!
 ひなを抱き抱えるようにしていた秋祢は気配を感じる。すっとひなの手が動く。それが、秋祢の腰にある何かに触れた。忘れていた重みが甦る。そういえばそんな物を持っていたな、と秋祢が思った刹那。
 白刃の刃が疾った。
「――っ!!」
 鋭い痛みを感じてひなから手を離した。反射的に数歩下がり、膝を着いたままのひなへ気を配りつつもそこを見る。右腕の肘の辺りから、真っ赤な鮮血が流れ出ていた。傷口は浅いが真っ直ぐに伸びる赤い線が入っていた。そこからドロリと新たな鮮血が溢れ出て、芝生のような地面を染めて行く。
 状況処理が追い付かない。眼前で立ち上がったひなへ視線を向ける。凍り付いた。
 ひなが笑っている。無表情で笑っている。その手には秋祢が持って来ていた、グリップにテーピングがされた、ギザギザの刃が付いたサバイバルナイフが握られている。その切っ先から血が数滴滴り落ちる。それが自分の血だということがしばらく理解できなかった。
 呆然とその光景を眺めていると、歪んだひなの口から掠れた声が漏れる。
「……、て……」
 逃げて。ひなの口がそう言っていた。
 切られた傷が無性に痛む。まるでそこに熱された刃物でも押し当てられている感覚がした。何もかも投げ出したくなった。切られた、ということなんかよりも、ひながナイフを持って自分を見下げているという事実の方が何倍も、何十倍も恐ろしかった。カッコイイ言葉など何一つ思い浮かばない、キレイごとなど吐ける気力もない、ナイフを握り見据えてくるひなに、何一つできなかった。度胸も勇気も、そのどうしようもない現実には無意味だった。何の役目も果たさなかった。体が震え出す、口から自分のものとは思えない呻き声が出た。
 ひなの足が微かに動く。秋祢に向って、少しだけ前進する。体が行動する。ひなが歩を進めた分、秋祢が後ろへと下がる。そんな自分が死にたくなるくらいに情けない。しかし自分の意思では体は動いてはくれず、意思に反して体は動く。何もかも忘れ、恐れという感情だけが体を支配していた。
 今までのひなを知ってる分、この現実が何よりも恐ろしかった。ひなに殺される。そう思っただけで、目の前が真っ白になった。
「……やく……に……っ!」
 早く逃げで。今度はそうひなの口が言っている。
 その声で、秋祢は弾かれたように立ち上がる。一瞬でひなに背を向けて走り出す。おい、待て、何逃げてんだ、どうして逃げてんだよ、止まれよ、止まれっつてんだろっ! おいっ! 止まれよっ!! 何がひなを守ってやるだ!! またその約束を破るのか!? またひなを裏切るのか!? もう一度、ひなをどん底に叩き落とす気かてめえはっ!! 恐怖に支配されていない理性はそう叫ぶ。が、感情が恐怖に支配され、理性の声など届かない。とにかくここから早く逃げろ。それしか感情は言わない。
 丘を駆け上がり、道路に辿り着いた時、風に乗ってひなの声が聞こえたような気がした。

 ――あり、がとう――

 その一言で、秋祢の足は停止する。
 目を力一杯閉じ、拳を限界まで握り緊める。肘から流れた血がその拳を通って滴り落ちて行く。指の間に生温い液体が広がり、それでも秋祢は拳を握るのをやめない。
 バカかおれは。思考が一発で始動し始める。ふざけんな。ひなを守ってやると抜かしたのはどこのどいつだ。恐怖を捨てろ。度胸と勇気を絞り出せ。流れ出ている血が何だってんだクソが。デルタはすべてを掛けてケジメを着けた、だったら、今度は自分の番ではないのか。何もかも掛け、ひなを助け出すべきではないのか。逃げている場合ではないのだ。恐怖など捨ててしまえ、捨てれなければ立ち向かう度胸と勇気に変えろ。度胸を持って向きを変えろ、勇気を持ってひなを見据えろ。すべてを掛け、ひなを助けろ。守られるのではない。守るのだ。
 自分のこの手で、ケジメを着けろ。デルタのように。父さんと母さんのように、信念を貫き通せ。終るのではダメなのだ。終わらせるのだ。
 目を開け、拳を開いた。度胸を持って体の向きを変える。勇気を持ってひなを見据える。
 ひなは、ナイフを片手に秋祢を見ていた。無表情のクセに泣いている。それが、酷く悲しかった。なんとしてでも、開放してやりたかった。
 ひなの口が「逃げて」とまた動く。誰が逃げるか、と秋祢は思う。
「止めてやるよ、ひな。約束だ。おれが、絶対に守ってやる」
 その声が引金になったかのように、ひなの体の制御が完全に奪われた。ナイフを構え、地面を蹴り、ひなが飛ぶ。ナイフの切っ先は、秋祢の心臓を真っ直ぐに狙っていた。
 秋祢は身動き一つしない。両手を広げ、瞬きもせずに現実を受け入れる。
 赤い鮮血が弾ける。
 風が舞う。


 左腕から血が吹き出した。シャツを切り裂き、肉が割れた。そこから右腕とは比べ物にならないほどの血が吹き出し、シャツが真っ赤に染まって行く。
 心臓を貫かれなかったのは、ひなの御かげかもしれない。ひなは、意図的に狙いをズラしていた。残った最後の部分がそうさせたのかもしれない。が、もはやどうでもいいことだった。
 すぐそこにいるひなを抱き締める。力を篭める度、左腕から血か激しく溢れ出た。吐き気がする。頭がくらくらする。血を流し過ぎなのかもしれない。不思議と痛みは感じない。まだ右腕の方が痛いくらいだ。麻痺しているのだろう。頭の中にフィルターが掛かったかのようにぼんやりする。息が上手く出来ない。呼吸が荒れる。左腕が震え始め、それでも必死にひなの背中に回して抱き締める。
 秋祢の後方に流れたひなのナイフを握った右腕がまた動く。瞬時に逆手にグリップを握り返し、それがゆっくりと秋祢に背中に向って進み出す。
「……おねが、い…あき、ね……に、げて……」
 これでも秋祢を守ろうとするひなの言葉に腹が立つ。
「ふざけんなよ……っ」
 少しくらいは頼ってくれてもいいじゃねえかよ。
「誰が逃げるかっ……! ひなを見捨てて行くくらいなら、ここで死んだ方がマシだっつーの……!」
「だって……っ!」
 ひなのしゃくりあげるような嗚咽。
「わた、しは……へい、きなんだ、よ……? ひ、とをころ、す、へいき、なん、だよ……っ? だ、から……」
 だから何だと言うのだろう。だからひなを見捨てて逃げろとでも? そんな理由で逃げるなどクソ食らえた。もう後ろは向かないと決めたのだ。
 そして、ひなが縛られている一番の原因。それが、すべての鍵となるのだ。
 ナイフは動き続ける。その先端が、秋祢に背中に微かな傷を付ける。恐怖は感じない。痛さえ感じない。秋祢は力の限り叫ぶ。
「お前がっ!! 一体いつ人を殺したっ!!」
 叫びは絶叫となる、
「お前は人を殺したのかっ!? 殺してねえだろっ!! それで何で人を殺す兵器なんだよっ!! まだしてもいないことを言ってんじゃねえっ!!」
 びくっとひなの体が震え、それでも秋祢は止めない。
「そんな理由で諦めないでくれっ!! 頼むからっ、それだけで諦めないでくれ……っ! おれがいるから……ひなに、人を殺させはしないから……っ!! 約束だ……ひなは、おれが全力で守るからっ!! おれは、」
 ケジメを、着けるんだ。守られるのではなく、終るのではなく。
 守り、そして終らせるのだ。
「ひなが、好きなんだっ!! 他の誰でもない、お前が好きなんだっ!!」
 感情が高ぶり、涙が溢れた。
「だから、兵器とか言わないでくれ……っ。頼むから、そんな理由で諦めないでくれ……っ。お願いだから、ひな……っ!」
 カシャン、と無機質な音が響いた。ナイフが道路を転がってやがて制止する。
 嗚咽と一緒にひなの声が聞こえる。
「やっと、あきねのこと、ちゃんとわかったきがする……」
 鳴き声が混じった微笑み、
「……わたし、も、あきねが、すき……」
 秋祢に背中にきゅっと手を回し、ゆっくりと抱き締め返す。
「……あきねといっしょにいれて、たのしかった……ありがとう、ますたー……」
 ――さようなら。秋祢。


 消滅したはずのプログラムを無理矢理甦らせる。リミッターを外すことはできない。が、それでも十分だった。甦らせたすべてプログラムを始動させ、体を支配していたウイルスを根こそぎ破壊する。すべてを破壊しつくまでに、十秒と掛からなかった。しかし負担は半端なものではなかった。そもそも不正にプログラムが消滅し、更にそこにウイルスが入り込み、そしてそれを無理矢理甦らせたプログラムでぶち壊した。
 生半可な不可ではなかった。
 力は、もう残ってはいなかった。


 ひなの体から力が抜ける。秋祢に抱きついたまま、完全に動かなくなる。
「……ひな……? おい、ひな……? どうしたっ?」
 呼び掛けにひなは一切応じない。目を閉じ、呼吸もしていなかった。それは、まるで死んでしまったかのような有様だった。
「嘘だろ……? 何でだよ、何でこうなるんだよ……! 守ってやるって言ったばっかりじゃねえかよ……っ!! なのに、何でこうなっちまうんだよ……っ! なんでっ……!!」
 体の底から冷たくなる感じがした。頭が真っ白に染まる。立っていられなくなる。
 足から力が抜け、秋祢はひなと一緒に道路へと倒れ込む。
 すぐそこにいるひなへと手を伸ばす。しかしその手は届かない。視界が段々と狭くなって行く。
 ……待てよ、これじゃあんまりじゃねえか……まだ、何も守ってないのに、こんな終り方ってあるかよ……頼む、ひなだけは、ひなだけでも助けてくれ……おれはどうなってもいい、だから、ひだけは……っ!!
 そこで意識は途絶える。
 最後に見たのは、お揃いの二つのクロスのチョーカーだった。
 風がまた舞う。


 闇がすべてを支配する。


――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「エピローグ」




 目を開ける前に、鼻で感じた。
 薬と太陽の匂い。それからゆっくりと目を開けると、そこには見たこともない光景が広がっていた。今更に窓から差す直射日光に気づいて右手で目を庇う。ここはどこだろうとまだはっきりしない意識の中でそう思う。どうしてここにいるのか、ここはどこなのか。その疑問がそんなに簡単に解決できるはずもなく、やっと太陽の光に慣れてきたので右手をそっと退け、左手で起き上がろうとして、
 左手が全く動かない事に気づく。ふと見れば自分の左手が骨が折れた時みたいにギブスと包帯でぐるぐる巻きにされている。特に肩の辺りが徹底的だった。どうして包帯なんてしてるんだっけ。ここを怪我した記憶なんてないし、ここにいる理由にも心当たりもない。今度は右手を見れば、さっきは気づかなかったが点滴が打ち込まれていた。規則的な速度で点滴が落ちて来るのが見える。それに肘の辺りにも包帯が少し捲かれていた。ますます意味がわからなくなる。
 まずはここがどこか知りたかった。少しでも多くの情報を得ようと室内を見渡す。どうやらここは病院のようだったが、窓の外の景色は森ばかりで見え覚えがなく、隣りにはカーテンが敷かれていてそれ以上は確認できない。普通の病院ではないような気がする。患者のためのテレビもないし人の気配が全くない。ここは二人部屋なのかもしれないが、それにしては大部屋のように部屋が広い。
 唐突に時刻が知りたくなった。今は何時で、何でこんな所にいるのか、それをはっきりさせたかった。腕時計なんてものをしてないし、携帯電話も持っていない。部屋を見まわしても時計は発見できず、結局はどうしようもなかった。起き上がって部屋を探索しようにも左手が思うように動かず、しかも右手には点滴が打ち込まれているのでちょっとやそっとじゃ置き上がれなかった。そもそもどうして怪我をしているのか、その理由さえも思い出せない。何かとてつもなく大事なことを忘れていて、それが後少しで出て来そうだけど出て来ない、そんな奇妙な感覚に囚われている。が、いつまでも悩んでいる訳もいかず、まずは行動に出ようと秋祢は思う。
 ベットの上でなかなか起き上がれずに格闘すること数分、いきなりドアのような物が開く音がした。身を強張らせて動きを停止させ、足音に耳を澄ます。少しずつ近づいて来て、それがやがて秋祢のベットの前で止まる。カーテンに人影が移っている。まさか宇宙人ではあるまい、不思議な所もないし頭もでかくない。人間なのだろう。ならば、誰だ――そう思った瞬間、その人影によりカーテンが開け放たれた。
「……お? 目ぇ覚めたか」
 見た事もない男性がそこにいた。アイロンなど掛けていないであろうヨレヨレのスーツに身を纏い、ネクタイをだらしなく付けている。無精髭が生えているクセに髪型だけはなぜかすっきりしていた。少しだけタレ目で、酔っ払うと下ネタばかり言いそうな男だった。年齢がよくわからないが、たぶん二十代後半ではないだろうか。下手をすれば三十を超えていそうな気もする。
 その男は言う。
「君の名前は紅葉秋祢。間違いないか?」
 状況が理解出来ないがそれでも秋祢は肯く。男は満足げに笑い、つかつかと歩み出して秋祢が横たわるベットに遠慮なしに座った。それから何でもない冗談を言う口調で、
「いやぁ焦った焦った。オリネムが消し飛んだって情報受けて掛け付けたら道端で君が倒れてたんでマジでビビった。結構な血ぃ流してたんで死んでるんだと思ったけど、近づいたら息がある。そこからはおれの素早い処置で一命を取り止め、三日間昏睡状態だったんだぞ君。事情も聞けないからいろいろと戸惑ったが、少し調べればわかった」
 そこで男は少しだけ表情を曇らせ、やがて昔を懐かしむように微笑んだ。姿勢を正し、秋祢に向き直る。
「初めまして。オリネムASの整備及び改造担当だった江本だ。君のご両親の下で働いていた人間だ。で、ぶっちゃけてしまうと書類上では事故死している人間です」
 最後の方でいきなり笑い出し、秋祢に向って「はいここ笑うとこ」と促す。
 笑えるはずもなかった。意味がわからない。頭の中の最後の壁が崩れそうで崩れず、何かすっきりしない。まだ何かとんでもないことを忘れているような気がする。そして微かに冷静な部分が、この男はそのとんでもないことを知っていると予言する。
 江本と名乗った男は続ける。悪まで冗談のような口調で。
「いやさ、実はおれの名前って本当は江本じゃねえんだわ。だけど戸籍とかいろいろ面倒で偽名使ってんの。ああそうそう、少しへヴィな話になるけど、紅葉夫妻を含めた二十四人中、生き残ってんのおれだけなんだ。交通事故だったんだけど、上手く生き延びたわけ。んでそれから独自にオリネムASのその後調べてたんだよ。何か間違い起こったら、すぐさま爆破――じゃない、制圧するために。それで何か動きはないかと探ってたらいきなり『レヴァ』からの攻撃。オリネムは吹っ飛んだ。そんで君に遭遇。……君が血ぃ流して倒れてたのには驚いたが、更に驚いたのはその次だったな……」
 江本はそこで話を切り、どこから話そうかと考えてるように悩み出した。
 口が、自然と動いていた。
「……何に、驚いたんですか……?」
 おっ、と江本が驚いたように秋祢を見つめ、やがて呆然と、
「……まさか憶えてないのか?」
「何を?」
江本が、それを口にする。

「自立起動型Serial No.AS-0001のこと」

 最後の壁が、音を立てて崩れた。
 何もかも思い出した。とんでもないことを忘れていた。忘れてはならないことを、秋祢は忘れていたのだ。
 ――ひな。
 さっきはあれだけ頑張っても起きれなかったのに、今回は一発で起き上がれた。ベットの上で立ち上がった拍子に点滴の針が腕から抜け、微かな血と透明の液体が数滴落ちた。気にも止めなかった。
「おいどうした、何だ、おい――」
「ひなはどこにいるっ!?」
 江本の言葉を遮り、秋祢は叫ぶ。
「ひなはっ!? あそこにひなもいたはずだっ! 今はどこにいるんだっ!?」
 掴み掛かるように迫った秋祢に、江本は焦ったように、
「待て待て、暴れるな傷に響くぞ? だいじょうぶだ、Serial No.AS-0001……ああ、『ひな』っていうのか。可愛い名前だな」
「そんなことはどうでもいいからっ!! ひなはどこにいるんだっ!!」
 傷が本当にズキズキと痛むが構っていられない。今は何より、ひなのことが心配だった。
 その気持ちが江本にも伝わったのか、「わかったわかった、おれが悪かった」と弁解して歩き出した。窓を開けてから部屋の中を歩き、そして秋祢のベットの横に引かれていたカーテンをぐっと掴む。それを一気に開けた。窓から風が拭き、カーテンが風に揺れ、そこにはベットがあった。秋祢に使っている物と同じベットで、真っ白のシーツが窓から射す光に照らされていた。
 そして、そこにひなが眠っていた。ベットから即座に降り、そこに歩み寄る。ベットで眠るひなの頬に右手を触れ、腹の底が冷たくなった。
 ひなは、呼吸をしていなかった。すべてがあの時のまま、何も変わっていはいない状態で、ひながそこにいる。
 絶望に叩きのめされそうになった秋祢の心を読み取ったかのように、江本は言った。
「……安心しろ、死んじゃいねえよ」
 その言葉に絶望が失せ、希望が溢れた。江本を降り返り、
「ほ、本当ですかっ!?」
「ああ。パソコンでいうスリープモードに似てる。君が眠っている間に少し調べたが、一体何があった? Serial……ひなの体の中がぐちゃぐちゃだ。まるでわからない。プログラムは大半ぶっ壊れてるし、何かに侵食された後が所々ある。普通にしてたんじゃまずこんな状況にはならない。オリネムASで一体何があった? 『レヴァ』はなぜ起動した? 君はどうしてあそこで血塗れになって倒れていた? ひなは何でこんなことになってる? 君達は、一体何をした?」
 一気に質問を投げ掛けられ、困惑する秋祢を見ていた江本が、急にニカっと笑った。
「とまあ仕事熱心な奴ならそう言うだろう」
「……え?」
 手を軽く振り、江本は言う。
「オリネムがなくなったんじゃもうおれが何かする必要はねえんだわ。だから検索はしない。たぶん、君に取っても辛いことなんだろう。だから無理に聞き出さない。だが、力にはなれる。おれを、信用するか?」
 信用するか。そう問われても、答えは一つしかなかった。頼れるのは、この江本だけだった。
「……教えてください。ひなは、どうすれば起きるんですか……?」
 真剣な秋祢の瞳に、江本もそれまでの冗談のような口調を打ち消した。
「……さっき言ったよな? パソコンでいうスリープモードに似ているって」
 肯く、
「ひなの現状状況は酷く厄介だ。自己回復が行われているかどうかもわからない。ただ、何かの弾みに起動する可能性は零じゃないことは確かだ。今の状況は、ひなの中の原動力を最小限に抑え、それを回復に回そうとしている、とおれは思う。そんなプログラムを設定した憶えはあるが、本当にそれが今も残っているのかは断言出来ない。……言っちまえば、おれだけでどうにか出来るかといえば、それも断言出来ないんだ。どう足掻いても無理かもしれないし、もしかしたら出来るかもしれない。ひなは、人間でいう意識不明の昏睡状態だ。さっきまでの君のように眠り続けている。呼吸をしていないからってASシリーズが死ぬなんてことはない。そう見えているだけで、実際はしてるんだ。……ああくそっ、よくわかんねえ」
 頭を掻き、江本は最後の問いを口にした。
「紅葉秋祢。君に問う。ひなを目覚めさせるのは、おれが手伝った方がいいか? それとも、君一人でやるか? 好きな方を選べ」
「――それって……」
「そのままだ。もし手伝えっていうなら、おれが全力で作業に掛かる。一人でやるというなら、その他のことはすべてやってるが、ひなのことは君に任せる。どちらにしても、ひなが起きる可能性ははっきりしない。君はどうする? 君が決めてくれたことに、おれは従う」
 その言葉を聞き、秋祢はゆっくりと江本から視線を外した。ベットに眠るひなへ視線を向ける。
 そこで、秋祢はふと目に付いた。ひなの胸にあるチョーカー。はっとして自分の胸の辺りを探る。そこに、ひなのしている物とお揃いのクロスのチョーカーがあった。それをそっと握り、秋祢は笑う。
「……江本さん」
 江本は返事をせずに、秋祢をじっと見つめる。
 秋祢はひなの手を握った。
「おれは、一人でやります。そうじゃなきゃ意味がないんです。約束しましたから。おれが、守ってやるって。だから、おれ一人でひなを助け出してみせます」
「そうか……。それでこそ秋雄さんと静祢さんの息子だ。他のことは全部おれに任せおけ。君は、ひなのことだけを考えろ」
「はい」
 最後に江本は笑うと、踵を返して歩き出す。ドアに手を掛け、そこで秋祢はその背中に声を掛ける。
「江本さん!」
「ん?」
 秋祢は、頭を下げた。
「ありがとうございます」
 以外そうな顔をした江本だったが、やがて照れ臭そうに笑い、
「おう。彼女のこと、大切にな」
 そうして、江本は部屋から出て行った。
 残されたのは、秋祢とひなだけだった。窓から吹き込む風がカーテンを揺らす。どこからせみの声が聞こえていた。夏が、帰って来る。
 ひなのベットに座り、繋いだ手にそっと力を込める。心の中でつぶやきかける。
 ひな。安心しろ。おれが、絶対に助け出すから。そこから、お前を連れ出してやるから。また一緒にどっか行こうな。今度は原チャリで。ちゃんと運転練習しとくからさ。だから早く起きろよ。一緒に、笑おう。もう逃げない。真っ直ぐに、ひなを見据えれる。
 帰ろうか。おれ達の家に。ずっと一緒にいような、ひな。
 一回言ったけど、もう一度言うよ。
 終わらせ、そして始めるために。
 世界は、巡って行く。
 おれは、ひなと二人で歩んで行く。
「ひな。おれは、お前が好きだ。この世の、何よりも、誰よりも。
 ……今日も、天気がいい。透き通るような青空だ。手が届きそうだ――」


     ◎  ◎  ◎


 季節は巡る。
 早いもので、あれから今日で一年になる。再び、夏休みという季節が巡って来たのだ。
 そして、非日常の中の日常に、少しだけ触れておこうと思う。

 雛尾市について。
 十万もの人間の命を奪ったあの惨劇から一年が経ち、街は復興に向けて動き出している。結局、あの原因はうやむやになったままだった。テロだのガス爆発だの核兵器だの、いろいろな憶測が新聞や雑誌、メディアに載せられた。が、やはりどもれこれもはっきりとした証拠がなく、真相は闇の中だ。だがそれから半年ほど経った頃、上からの、国自体が圧力を掛け、原因はコンビナートの暴発ということで落ち着いた。元々工業が発達していただけあって、それが一番有力となった。異議を唱える者もいたが、詳しくは一般には公開されていないし、国が動いているのでどうしようもなかった。
 街はかつての活気を取り戻しつつあった。ここでも国が動き、全力で街の復興に乗り出したのだ。全国から寄付金を集めたのも幸いして、復興にはあまり時間は掛からなかった。人が移住し、コンビナートがまた建ち、荒野を耕し畑や田んぼへ変化させ、家が増えた。昔の光景を、多少なりとも違えど再現していた。それに連れ、昔の光景を思い出して悲しい気持ちになることもある。が、後ろばかりも向いていられない。前を向いて行かなければ意味がないのだ。
 また、平和な日常が戻って来る。

 オリネムASと『レヴァ』について。
 これは知る限りでは、公には全く公開されていない。そもそもその研究を進めていたのは政府のお偉いさん方で、街の復興に乗り出した理由も、『レヴァ』の攻撃をうやむやにした理由も、そこにあった。一般には公開されていないが、独自でそれを嗅ぎ付けた者もいるのだろう。が、例外なくそのことを黙認しているような節がある。そこで何が行われていたのかは闇の中だが。
 オリネムASと『レヴァ』は、この世から完全に消えていた。最初からなかったかのように、あの一連の出来事が夢だったかのように、跡形なく消滅していた。これも詳しいことは知らないが、その跡地には何か政府の施設が設けられたそうだ。証拠を握り潰すためなのだろう。しかしあの過ちが二度と起きないのなら、どうでもいいことだった。
 デルタのことについても、全く消息が掴めなかった。
 もうこの世にいないのか、それともどこかで静かに暮らしているのか。しかし生きているのであればいずれ会うことになるだろう。だから、追求はしない。それがデルタを信じているということになると思ったからだ。

 海里兄妹のことについて。
 あの惨劇で住む場所がなくなり、しばらくは親戚の家で暮らしていた。しかし半年ほどして新たな住まいが出来、今はこちらに戻って来ている。最初は戸惑いもあったが、今では何も変わりなく日々を過ごしている。
 凛はいつもに増して元気一杯だし、今日も負けじと宿敵に戦いを挑む夏の日々だ。よくも飽きないものだ、と思う。
 弘樹はいつまで経っても彼女を作ろうとはしない。本当に作らないのか作れないのかそこは定かではないが。実をいうとシスコンなんじゃないだろうか、と思う。しかしそれも定かではない。
 昔と変わらず、二人はうるさく、しかしのんびりと過ごしている。日常は戻りつつある。世界が戻って来るのだ。

 江本について。
 あの病院のような施設の見送りを最後に、江本とは一度も会っていない。しかしこちらが上から何も言われないということはつまり、江本が手を回してくれたということなのだろう。江本にはいくら感謝しても足りない。いつか会うことが出来たのなら、必ずもう一度お礼を言わなければならない。心から、ありがとうございましたと頭を下げるべきなのだ。

 紅葉秋祢について。
 取り敢えず街の復興を秋祢に出来る限り手伝い、落ち着いた頃になってバイトをし始めた。親の遺産だけでやっていけるとは思う。が、これからは自分の力で歩んで行こうと決めた。だからタバコも止めた。自立しなければならないのだ。何もかも捨て、そして新たな一歩を踏み出さなければならないのだ。
 十万人の死を見送ったたった一人の人間として。事情を知っている人間として。忘れようとは思わない。背負った上で、新たな一歩を踏み出そうと決めたのだ。だから取り敢えずバイトである。怠けてる場合ではないのだ。この街に出来る限りのことを、しようと思ったのだ。
 日常は、そんな風にして戻って来たのだった。

 最後に。秋祢は得意ではなかった英語を勉強している。自己流で、辞書を片手に『Serial No.AS-0001 Explanatory Note』を必死に解読した。と言ってもすべてを完全に飲み込めたわけではない。大まかに何がどう書いてあるのか、またその意味は何なのか。そんな感じで一つ一つ解読していっているのだ。押入れに突っ込んであったカプセル、『フェイザー』を引っ張り出し、そこから『Serial No.AS-0001 Explanatory Note』を元に最善を尽くした。
 いつか、また会えることを願い。
 いつか、またその笑顔を見えることを願い。
 そうして、秋祢は約束を果たすのだ。もう一度、暗闇から助け出してみせる。
 それが、約束だから。


     ◎


 今、秋祢達は流し素麺をやっていた。
 結構本格的な流し素麺である。発端は凛が「前からずっとやってみたっかから今からやろう」と言い出し、どこからもぎ取って来たのか巨大な竹を引き摺って参上した。乗り気ではなかったが、凛に強引に進められやることとなった。となればそこからは秋祢と弘樹の出番で、竹を縦に叩き割り、一本の道として形を変えさせた。それを庭から二階の窓へ上げ、針金で固定する。買って来た新品のホースで一階の水道から水を引き揚げて竹に流し込む。見た目は簡素で不恰好だが、どこからどう見ても流し素麺だった。
 台所で茹でた素麺を持って弘樹が二階に上がり、窓からそれを流す。つまりは貧乏クジだった。凛曰く、「お兄ちゃんは後でね。今はあたし達が食べるから」だそうだ。何だか弘樹には申し訳ないが、凛の前では秋祢同様に弘樹にも人権は与えられないのだった。それに流すのは面倒臭そうなので食べる方が断然良かった。
「行くぞー」
 二階の窓から弘樹が言う。
「おー!」
 と手を振り回し、手に素麺の汁が入った器を持った凛が答える。弘樹が肯き、竹へと素麺を投入する。水に流れ、標的は順調に進んで行く。そこには箸を持って危険な目をする凛がいる。ちょうどベストな所に流れ着いた瞬間、凛が素晴らしい動きで一本残らず素麺を掻っ攫った。器に移して汁に付け、口に含んで満喫する。別に部屋で食っても味は変わらないはずだ。が、やはり気分の問題で十分違う。祭りで食う焼きそばのように、海の家で食うラーメンのように、流し素麺で食う素麺は格別に美味いはずだ。
 凛が顔をほころばせる。
「美味しい! 秋兄ちゃんも食べなよ!」
「おう。弘樹ー今度はおれなー」
「任されたー」
 さっきと同じような動作で弘樹が素麺を流す。順調に素麺が流れ、やがてベストな所まで流れ着く。先ほどの凛のように素晴らしい動きで素麺を掻っ攫い、器へ移す。……とまあ凛のように素晴らしい動きではあったが、半分くらいは逃して竹の先端のざるに辿り着いたのだった。
 凛が「ヘタクソだね」と言って笑う。「うるさいそこ飯は静かに食う」と負け惜しみの反論を返し、素麺を食う。美味かった。すげえ美味かった。何だか不思議な感覚がして、しつこいようだが本気で美味い。
「やべえ、マジ美味い」
「でしょ? お兄ちゃーん! もっとバンバンやっちゃってー!」
「……任されたー……」
 弘樹も食いたいんだろうな、と秋祢は思う。しかし凛が飽きるまで弘樹に食べる順番は回って来ないだろう。許せ弘樹、おれも食う方がいい。
 素麺を器を手に、秋祢は空を見上げる。今日も快晴だ。あの時と同じように透き通るような青空だ。そう、手を伸ばせば届きそうである。
 そして秋祢は、後ろを振り向く。視線の先には一年前凛が叩き倒した木のキリカブがある。そこに、人影がムスっと座っている。何やら物凄い怖い目つきである。親の仇のように秋祢を、水が溢れる竹を、流れ来る素麺を睨んでいる。
「だからさ、あれは素麺が悪いんじゃなくてわさびだって」
 そう言ってみるが、キリカブの上に座った人影は何の変化も表さない。
 苦笑混じりに笑い、秋祢はその人影に近づいて行く。
「お前も一緒に食えって。美味いぞ」
 しかし人影は首を振り、
「……やだ、素麺嫌いだもん……」
 まったく、と秋祢はため息を吐く。何も変わっちゃいない。
 だけど、それが嬉しくもあった。よし、と秋祢は肯く。
「だったらかき氷作ってやる。この前作るヤツ買ったし、シロップもある。食うか?」
 人影が立ち上がる。秋祢に抱きつくように攻め寄り、本当に嬉しそうに、
「本当!? かき氷作ってくれるの!?」
「おう。何味?」
 即答する、
「メロン!」
 何かが光りを反射する。キラキラと輝くそれは一つのアクセサリー。黒い革製の紐の先に付いているシルバーの十字架。クロスのチョーカーだった。そして、秋祢の胸にもそれとお揃いの物がある。
 日常は、戻って来たのだ。
「よっしゃ、任せとけ」
「うん! 秋祢も一緒に食べよう!」
 そう言って、彼女は笑う。
 その笑顔が、何よりも嬉しかった。

 さてと。かき氷でも作りますか。
 夏の風物詩である。そして、彼女の大好物だ。
 おれ達は、ここから歩んで行く。
 新たな一歩を、踏み出すのだ。
 永遠に続く、その道を。凛と、弘樹と。
 それと、彼女と一緒に。

 彼女の名前は『ひな』。
 秋祢の、大切な人だ。

 そうして、世界は巡って行く。



2004/07/16(Fri)14:55:17 公開 / 神夜
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■作者からのメッセージ
さて、これにて【HINA−0001】は完結となります。
最後はやはりやっつけみたいな感じになってしまったことを心よりお詫び申し上げます。しかし自分の中ではこれでいいのではないか、とか甘ったれたことを思い、こういう形で完結とさせて頂きました。っつても、作者の自己満足が一番厄介なのかもしれませんけどね(苦笑
今まで読んでくれた皆様には心よりお礼を。やっと一段落着いて現状は夏休みへ。これからはシリアス(?)っぽいのからは少し距離を置き、またほのぼので書いて行きたいと思います。遊べる最後の夏休みを満喫するべく。……まあ来年も遊ぶ気満々ですけどね(マテ
では最後のお礼を。
笑子さん、卍丸さん、明太子さん、緑豆さん。そして今まで読んでくれたすべての読者様へ。未熟者の神夜の作品を呼んでくれてどうもありがとうございましたっ!!またお時間があれば、お付き合いしてくださることを願っております。
それでは、また別の作品でお会いできれば光栄です。
最後にもう一度。
愛読、誠にありがとうございましたっ!!
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