『エニグマ』作者:岩瀬かおる / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約11.89枚
 窓から光、揮発した潮、岩をはつる波の音。
 僕は足を投げ出し窓の真下。
 絨毯がなくても震えない石膏に、影と寄り添い座っていた。
 ボタンをかけず、袖を通しただけの白いシャツ。シャツからはだらしなく灰色のタンクトップが見えていた。ベルトを外した黒いスーツの片割れは、なんとか僕の脚に残っていたが、コートと上着は海の中。一足早く役目をなくし、裸にして捨てられた足は、ぴくりとも動く気配はなかった。まだ動かすことはできるが、もうすぐそれも、僕の意志から離れる機能の一つだった。
 右手にある回転式の銃は、僕の手よりは動きが小さく、静かだった。右脇、床におかれた玩具の小さなピアノも、唯一の高い音を出せず、ただ光に照らされていた。
 拳銃からシリンダを振り出し、六個の穴から空っぽの部屋を透かし見た。左手でシリンダを回転させる。光が穴を通過し、次々と打ち出され、埃の粒子が目に映る。
 目前には白い壁の五割を覆う、余計な意匠のない額に入った一枚の写真。
 重さに垂れる雲、草原を圧倒する空。
 スコールと霧の中、じっと耳をすます縞馬の群。
 シリンダに六個の弾を込め、また回転させた。光は遮蔽され、虚ろの塵と鉄の擦過音が加わった。
 シリンダを元に戻すと、写真に一発、撃ち込んだ。
 爆発音、ガラスの割れる音、落ちて床を奏でる音。遅れてきた火薬の匂い、乾いた唇が、笑ったように歪む音。
 まぶたに隠してきた僕のなけなしの誇りは、今ゼロになった。
 笑い声が聞こえた。一人分の拍手も送られてきた。左手側、扉の板がなくなり、蝶番が取り残された枠に、男が一人寄りかかって立っていた。
「崖下に、家が落ちるまで待てなくなったのか?」男は冷笑したままの顔で言った。「自然からの、逃避というやつだ」
 教育の行き届いた話し方、そう思った。教育なんてものがあるのかどうか、僕にはわからないが。僕は目を細めて黙って男を見た。ネクタイを着け、サングラスを外せば、葬儀屋に見えたかもしれない。もしくは一流の外科医に。光に当たり、茶色に見える髪は、肩に届く長さ。細く締まった体躯は六フィートを少し上回るぐらいだろうか。切れ長の目と薄い唇は、常に僕を見下ろすだろう。今もこれからも。
 男は革靴で、床を鳴らして僕に近づいた。
「止まれ」僕は言って、銃を彼に向けた。目は自分の足に向けていた。「僕に干渉するなと言わなかったか?」
「俺に銃を向けるなと言わなかったか?」男はゆったりとした動作で右手を使いサングラスを外した。「干渉するのが俺の仕事で、干渉されるのが君の才能だ」
 僕は発砲した。扉の脇、男の左耳側の壁が削られた。男はまだ笑顔だった。
「止まれ。そのいやらしい左手を動かすな」また発砲した。
 男の左腕をかすめた。
 男は目だけを動かし、自分のスーツから白いシャツが見えることを確認した。
 男は止まった。彼の左手に、いつの間にか取り出された小銃も。
 ため息をつくと、銃を彼に向けたまま、壁に手をつき立ち上がった。眩暈がした。
 男はすぐ近くにいた。
 そして僕の右手は銃ごと押えられていた。腹に衝撃、間抜けな音が出た。吐くものはなかったはずだが、出るものは出た。頭に、銃の把手が振り下ろされた。
「言っただろ。君の才能は、干渉されることだって」
 手がピアノを叩いた。僕が本気で弾くよりはましだった。男の声を、男の靴に、顔をあずけた惨めな姿で聞いた。精一杯の反抗に、靴を汚してやったが、僕の脳は、刺激を受けること、何かを感じることがひどく面倒になり、全てを閉じてしまった。

「車の調子はどうだ?」近くで男の声がした。
「悪くない」女の冷めたハスキィな声が聞こえた。やや遠い。
 振動と掃除機のような音が聞こえた。しばらくして、自分のさえない顔が見えた。目の前をホンダのコンパクトが通り、右に消えた。僕は車のウインドウにべったり顔をつけていた。ついでによだれも。
 高速道路か。防音壁が見える。
「どんな感じだ?」男が聞いた。
 僕は答えようとした。
「呼吸するたびに、あんた何かを感じるわけ?」女が答えた。
 まだ僕は寝たままという設定らしい。
「いつか違う場所、もう少し暗いところで、もう一度同じことを言ってくれないか?」男はにやにやとして言った。
「いいよ、何度でも言ってあげる」女はミラー越しに、微笑んで言った。「あんたが死んでから何度でも言ってあげる」
「いいね。僕は君の下で眠るんだ。一夜に何回死ねるかな」
「あんまり汚さないでくれる?」
「大丈夫。僕はいつだって紳士なんだから」
「ばか。あんたじゃないよ」女は運転席から振り向き、僕を見て言った。
 女は黒のタトルネックに、タイトなジーンズをはいていた。鼻が少し曲がっていたが、それだけの高さがあるということか、それとも、そういった生活をしているのか。しみもしわもない額と、肉感的な唇。どこまでも冷めきった目が、肩の辺りで揃えた黒髪から覗いていた。
「なんだ、まだ生きてたのか」男は僕と共同している背もたれに左腕を載せ、またあの笑い顔で言った。「頭はしばらく痛むだろうが、気にしないよな。いつものこと、慣れたことだろ。な?」
「君が紳士なら、一生話をしなくてもすんだのに」僕は頭を右手で押えて言った。
「悪かった。俺は男に厳しい」男は左手でハンカチをポケットから取り出して言った。スーツに穴は開いていなかった。「これを使って窓を拭いてくれるか?この車は、あそこにまします、お嬢様のものになる予定なんだ」
「予定じゃない。この車はもう既にずうっと前からあたしのものだって」女がいらだったように言った。「前世から決まってんの」
「悪かった。君が正しい。さ、拭いてくれよ。悩ましき友人くん」
 僕はハンカチを受け取り、自分の口を拭いた。ついでに鼻水も搾り出した。そして考えた。なぜ僕は靴をはかせてもらえず、ボタン一つかけてもらえないのだろうかと。そしてついでに考えた。これからどこに行き、なにを僕はしなくてはならなくなるのかと。
 僕は時速百キロで走行していた。本来の走りではないなと思った。女はハンドルを人差し指の爪先で引っかいていた。女の左手、人差し指。僕は見てはいけないものを見た。あの指輪。禍々しい。女の名前なんかどうでもいいことだ。女の容姿なんかどうでもいいことだ。あの指輪以外に知るべきことはもうない。男は男の近くのウインドゥを見ていた。彼の名前は知らない。会うたびに、口を開くたびに、違う名前になっている。
「ハンカチを返してくれ」男は言った。左手を僕に向けた。「どんなに汚れても洗えば落ちるし、ついでに自分の手で捨てれれば気分もすっきりする。そうだろ?」
「いちいち僕に同意を求めるな。僕は君のママじゃない」
「ハンカチを返してくれよママ」男は僕を見て笑った。
「気に入ったんだ。くれよ」
「残念」いつのまにか男の左手にはハンカチがあった。「ずいぶん汚してくれたじゃないか」
「残念」僕はにやりとして言った。
「ほんと、どこ行ってもガキばっか」女があきれたように言った。
「ハートのクインは子供が嫌いなんだ」男は眉間にしわを寄せてハンカチをしまいながら言った。「カードには子供がいない」
「絵札以外が子供なんじゃないのか」僕は言った。「君はジョーカ。僕はジャック。じゃあ、キングは誰なんだ?」
「お前も俺も絵札じゃない」男は言った。
「失礼、間違えた。ディーラは誰?」
「あんたさぁ」女はミラー越しに僕を見て言った。
 僕は笑顔で返した。「チップはいりませんか?お嬢さん」
 女はため息をついた。「こんな馬鹿連れてきて大丈夫なの?」
「大丈夫なんて言ったか?」男は言った。
「僕を無視しないでくれ。そうされると夜はいつもこっそり泣けてくるんだ」
「あんた黙りなよ」
「ひどいな」僕は言った。「僕はまだ胴元を聞いたわけじゃないし、その手足頭に糸をつけたやつのことも聞いていない。上を見たって下を見たって横を見たってきりがないんだ。そうだろ?僕たちはさしずめ二次元に住むぺらぺら漫画の登場人物。枠をはみ出したところで僕たちが三次元に移行できるってわけじゃあないし、突然僕が車を飛び降りたところで」鍵を外してもドアが開くことはなかった。予想通り窓が収納されることもなかった。「空気を大胆に入れ換えたい気分なんだけど、君たちはどう?」
「俺は大丈夫なんて言ったか?」男は言った。
「言ってない」女は煙草をくわえた。「もういいよ」
「そう言うなよ」男は運転席に乗り出し、女の煙草に火をつけた。
「窓を開けてくれないか?僕はその臭いがだめなんだ。また吸いたくなる。あなたの香水よりもほんの少し、耐えがたい」
「私はあんたの存在が耐えがたい」女が煙を吐いて言った。
「僕も常々感じているよ。君って優しい人なんだね。そういうこと、誰も教えてくれないんだよ。君は、窓を開けてくれるんだろう?」
 運転席側の窓がほんの少し、十四ミリほど開いた。
「ありがとう」僕は自分の近くの窓を見て呟いた。「実に大胆な行動だ」
 少し冷たい空気が流れ込んできた。
 防音壁は相変わらず景色を閉じ込めていた。

 車は遊園地の駐車場に着いた。ホラータウンという名前で、まだオープンしてから一ヵ月も経っていないテーマパークらしい。客の年齢層は二十代をピークとして、あとはフラット。僕の見たところ、ここは野戦病院だ。入場する人間は皆どこかしら怪我をし、包帯をし、血を流している。そして何よりも、顔色が悪い。悪すぎる。真っ白だ。
「ここで何をするんだ?献血ならお断りだ」僕は窓からゾンビを見て言った。「お医者さんごっこなら良いけど」
 女は鼻で笑った。「そう、これからあんたには、ごっこをしてもらうの」
「君が医者?それとも僕?」
「あんたは救われない患者。永久に恍惚の顔を浮かべるマゾヒスト」
「ありがとう、詩的だね。永久のサディズム医学の権威。あなたは素敵な看護婦か」
「してき?舌が回ってないな」男が言った。「頭を打ちすぎたな。今は看護師と呼ぶんだ」
「ご指摘ありがとう。知り合いの看護師さんはそう呼んでも気にしないって言ってたもんだからね。それよりスカートをどうにかしてもらいたいんだそうだ」
「君には知り合いがいないはずだ。一人も」
「そうか。やっぱり君は人間じゃなかったんだな」僕は言った。
「違う。君が人間じゃないんだ」
 僕は内臓だ。とびきりやる気のない不幸な内臓だ。心配だ。時給七百四十円はちゃんと貰えるのだろうか。原型はたぶん熊だ。全長およそ百八十センチで二頭身。全体の色はオレンジ。目は虚無的で過度の寝不足を感じさせる隈がある。手術痕のような縫い跡が全身にあり、包帯が左耳と右腕と腹に巻かれ、右耳はちぎれている。指六本の内、三本の爪が長すぎる右手には刃渡り約六十センチの包丁が縫い込まれ、指が四本の左手には十四個の色とりどりの風船を握っている。口は開きっぱなしで鋭角の歯を見せつけ、まるで歯槽膿漏のように血らしき青いものがついている。ヘモシアニン。軟体動物が好物なのか、それともこいつ自身が軟体動物なのか。たぶん後者だ。脊椎がない。それに内臓も。内臓の変わりに人間が入れるようになっている。これで二足歩行を可能にしている。
 僕は内臓だ。とびきりやるせない、不幸な熊の内臓だ。
 
2004-03-16 13:17:27公開 / 作者:岩瀬かおる
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