『八への鍵』作者:ア・ボウイ / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 どうやら、エレベーターが壊れているらしい。階段で行くしかない。
 
 彼は今、高校の帰りだ。もう午後八時を回っている。彼の目の前にあるマンションの八階の八八八号室では母が晩御飯の用意を済ませているだろう。
 そう、八階だ。階段では余りにも辛すぎる。しかも彼はサッカー部の帰りなのだ。なおさらである。しかし、当然に、上らないと家に帰れないのだ。晩御飯が食べられないのだ。駅のコンビニエンスストアでコロッケパンを食べたのだがそれだけで足りるはずもないだろう。食欲を満たすために家に帰るような言い方だが、実際、帰路上の彼を見ていると友人の前で何度「腹減った」と言っていたか。駅からここまでの、暗闇という静寂と緊張の詰まった道路で何度、腹からぐぅと情けない音を出していたか。そうしてやっと「家」に辿り着いた。しかし「彼の家」に入るには段差を延々と登らなくてはいけない。食事とはここまで貴いものなのか、と彼は考えているだろう。
 彼はふぅ、とため息をして階段を上り始めた。肩から下げている砂の付いた鞄が彼の腰の後ろ辺りに何度もぶつかる。この階段は段差が高いので、粘り気の強い沼で足を抜きながら歩いているように見える。顔は疲労を露骨に表している。彼がこの階段と、壊れたエレベーターに文句を思っているのが、特に目からうかがわれる。
 三階を過ぎた辺りで、壁に落書きがしてあった。下品な、くだらない落書きだ。そういうことを彼も考えたらしく、腹立たしくなったのか、眉間にしわを寄せるまでになった。足音は夜の中で響いたりせずに、靴の裏で潰れているような声を出している。何度も、何度も。
 五階を過ぎたら、彼はもう目を動かす気もなくなったようでずっと前を見ている。いや、うつろな目だ。前を見ているのではなく、階段を上がることによって揺れる視界というものを見ている。
 すると、靴の下でさっきまでとは違う、固い物がすれるような音がした。彼の目に生きている感覚が戻り、足を上げる。彼の目は大きくなった。
 鍵であった。珍しく白い、鍵であった。
 彼はそれを拾い上げ、眺めた。白い、といっても少し紫がかって輝いていた。彼はそれを気に入ったようで、気分を少し良くしたようだ。鍵をズボンのポケットに刺し込む。その後の足取りはいくらか軽くなったように見えた。
 彼はやっと八八八号室の前に立った。インターホンを鳴らすと母の声がした。彼がそれに応対すると、扉の内側で鍵を開ける金属音がして扉が開いた。その瞬間肉じゃがということがわかる匂いが彼の鼻に入り込んだ。彼の目に安心が感じられる。そして、彼は部屋に入った。



 次の日の彼が帰ってくる頃にはエレベーターは直っていた。午後八時二十四分、彼はホッとしてエレベーターに乗り込んだ。彼が「閉める」のボタンを押そうとすると、茶髪を肩まで真っ直ぐに伸ばしている女性が走って来た。その女性が乗ってからボタンを押すと、彼女は息を荒くしながら彼に礼を言った。
 エレベーターは扉を閉めると、二人を上に連れて行った。彼女は彼が既に押している八階のボタンをもう一度押した。そのとき、彼は少し不思議に思った。彼は同じ階に住んでいる人の顔は全員見たことがあると思っていた。しかし、彼女は見たことがない。二人は横の壁に、向かい合って立っていた。ちらりと彼女のほうに目をやった。美人ではないが、彼好みだったらしく、彼は少し頬を赤らめた。すると、彼女もこちらを向いたので、彼は焦って、意味もなく緊急呼び出しボタンの説明に目をやった。
「ねえ、あなた」
 エレベーターの機械音の中に彼女の声が聞こえた。彼は驚きと緊張を隠せない顔でそちらを向いた。彼女は彼の顔をじっと見ていた。
「私、昨日大切な鍵を無くしたの。あなた知らないかしら」
 彼はすぐに思い出した。そしてズボンのポケットを探った。その鍵を抜き出し、彼女に見せる。
「……これですか」
 女性は声を高らかにして嬉しそうに言った。
「ああ、そうよ、これ。ありがとう」
「何に使う鍵なんですか」
 彼は彼女がそれを受け取った瞬間、つい聞いてしまった。女性は彼の顔を見て、嬉しそうに、しかしさっきとは違う笑顔を見せた。
「そうね……」
 そう言って彼女はエレベーターの扉の前に立って、鍵を何も無い所に突き立てた。彼は少しばかりの不安と恐怖を感じた。どちらも女性の不可解な行動によるものだ。しかし、なんと鍵が扉の中に溶け込まれていくではないか。彼はただ驚いた。そして壁を触って、夢の感触ではないことを確かめた。彼女はすっかり鍵が扉に刺さっているようになると、それを回した。そして扉を、横ではなく前に開けた。
 星空が広がっていた。
 彼は恐怖でなく、胸が熱くなるのを感じた。彼の街の空ではなかった。ここまで星が沢山、綺麗に見えるわけがないのだ。そして彼は気づいた。下の方を見ても、星空が広がっている。そう、ここは宇宙であった。女性は彼のほうを見て微笑んだ。彼の目は丸くなっていたが、彼女を、その女性を、宇宙を背景に見ていた。
 彼が、腹が減っていることなど思い出す訳が、なかった。

2004-03-10 19:19:43公開 / 作者:ア・ボウイ
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