『忘れな草 one』作者:森々 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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勇気が死んでから、俺の時間は止まったままだ。


一瞬の出来事だった。
信号を無視して直進してきたトラック。歩道を歩いていた勇気。
十字の形に2つはぶつかった。

「お父さ―ん」

泣き叫ぶ勇気。呆然と立ち尽くす運転手。
勇気の小さな身体はトラックの下に挟まれ、身動きができない状態だった。
けれどまだ生きていた。勇気はまだ「お父さん」と呼べるほどの力を持っていた。

「勇気!」

俺は必死で勇気を引っ張り出そうとした。
だが渾身の力を込めても、勇気の身体は解放されない。
諦めてトラックを動かそうと思い、周りの人達の助けをかりて必死で押した。

その時俺は横で立ち尽くす運転手に気付いて、そいつに向かって大声で叫んだ。

「早くこのトラックを退けるんだ!」

勇気の身体はトラックの後輪で挟まれている。
この後輪を少し後ろにずらせば、勇気の身体は解放される。
トラックの運転手は慌てて運転席に入ると、勢いよくアクセルを踏んだ。


…俺は忘れていた。
窮地に立たされている人間ほど、冷静な判断を下すことはできないということを。
運転手は完全に混乱していた。窮地に立たされていた。

思惑通り、運転手は「バック」ではなく、「前進」をしてしまったのだ。



「…」

当たりは沈黙に包まれた。
俺は全身の力を無くして、その場に座り込んだ。

目の前には夥しいほどの血と、トラックの隙間からはみ出している勇気の細い腕。
もう動くことはないその腕。
俺は全てを理解して立ち上がると、フラフラと運転手に近づいていった。
運転手は一瞬身体を震わせて、弱々しく「ヒィ」と叫んだ。
俺は運転手の前に立つと、勢いよく拳を振り上げた。

「この……っ」

運転手は細い腕で頭を隠した。
その姿勢を見た瞬間、俺は拳の行き場所を無くした。
必死で自分を守ろうとする人間。
その必死の思いに答えられなかった自分。
俺は振り上げた拳を下げると、ゆっくりトラックの方を振り返り、勇気の死体を今一度見つめた。
汚物でも見るような目をしている周囲。俺の視線に気が付くと、そそくさとその場を離れていった。

暫くして、救急車が到着した。




「別れよう」

雪菜は驚いた顔もせず、ただ黙って頷いた。

勇気の葬式が済んだ後、俺と雪菜は2人で縁側に座っていた。
暖かい陽射しの当たる場所。勇気が生きていた頃は、よく3人で昼寝をしたものだ。
雪菜はポロポロと涙を流し、勇気の位牌を抱いて呟いた。

「本当はまだ信じられないの…勇気が…まだここに、生きているような気がして…」

(俺も同じだよ) そう思ったが、言葉にできなかった。

俺の目にはあの時の光景が焼きついている。
今になって思うが、何故もっと冷静な判断ができなかったのだろう。
俺が運転手に「退かせ」などと言っていなければ。自分の力で勇気を助け出していれば、勇気が死ぬことはなかったのかもしれない。
雪菜はピンク色のハンカチで涙を拭った。

「まだ9歳だったのに…何故? 何故勇気が死ななければならないの?」

慰めの言葉も、励ましの言葉も、雪菜は欲していない。
雪菜が本当に欲しているのは、他でもない「勇気」しかいない。

『別れる必要はない。あなたは悪くないのだから』と雪菜は言っていたが、俺はどうしてもウンとは言えなかった。
雪菜と別れることで、自分に対しても、勇気に対しても、区切りをつけたかったのだ。
もう俺は「お父さん」ではない。父親失格に相当することをしてしまったのだから。

離婚届に印を押して、俺達は夫婦ではなくなった。




サワサワサワ………

風が緑木を揺らす。
春の心地よい日差しに照らされて、蓮華の花が元気いっぱいに咲いている。
近所に住む子供たちの遊ぶ声が、風に混じって此処まで届く。

あの日から3年…俺は古いアパートに身を移していた。
狭い6畳間と4畳間が二つ。風呂は男一人が入るのには小さすぎるが、全く気にしていない。
「どうしてこんなアパートにしたの?」と雪菜に聞かれたが、そこは適当に誤魔化しておいた。
俺がこのアパートを気に入った理由…それは、4年前の夏に遡る。



『お父さん、ここのお家、いいね』

『このボロアパートが好きなのか? 勇気は変わってるなぁ』

『うん! だってね、ここのお家、なんだかあったかい気がするの』

『暖かい気…?』

『なんかココロがあったかくなるような…ここにずっといたいなぁって思うの』

『勇気は此処に住みたいって思うのか?』

『思うよ。きっと、前にここに住んでたひとが、とってもあったかいひとだったんだよ』

『そうかぁ… お父さんもそんな人になりたいな』

『お父さんはもう充分だよ』

『そう?』

『うん、お父さんはあったかいよ。とってもあったかい!』



「あったかい…か。確かにな」

外見は本当に単なるボロアパートでしかないが、住んでみるとこれが悪くない。
悪くないというより、何か心の奥底にある「寂しさ」を、このアパートが癒してくれているような気がする。
何故だろう… 勇気の言うとおり、このアパートには何かあるのかな。

「勇気の言うとおりだったな…」

ゴロンと横になって勇気の写真を手に取った。
写真の中の彼は、まるで向日葵のように笑っている。

勇気が死んでから、俺の時間は止まったままだ。
それでも地球は回っているし、季節は移り変わって、花も咲いては散っていく。
地球上に住む人間の一人がいなくなっても、季節の中で育つ一人の子供の時間が止まっても、その花を見て綺麗だと言ってくれる人間が一人消えてしまっても。
世界は変わることなく動き続けている。
勇気の存在とはなんだ? 彼の存在こそが俺の命だったのに…
彼という軸を無くして、俺の心は無差別に癒しを求めている。
人間とはそこまで弱いものだったのか。そこまで臆病なドウブツだったのか。

勇気… お前が逝ってしまってから、もう3年も経ったなんて…
月日の巡る音も、ただ俺を傷つける刃となるだけだ。

勇気…戻ってきておくれ…




勇気…





勇気…







2004-01-12 14:45:55公開 / 作者:森々
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■作者からのメッセージ
連載モノにするつもりはなかったのですが…(^^;)
この作品に対する感想 - 昇順
続きが楽しみです。タイトルがちょっと気になったり…。変なラストを想像してしまった。ゴメンナサイ…。
2004-01-14 22:14:03【☆☆☆☆☆】COYN
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