『イマヌエル』作者:cryptomeria / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 完璧であるだろうと思っていたものが、ある日突然そうでなくなったなら、人はどう思うだろうか。彼は、この手に掴めるという可能性を見出した。
全角16513文字
容量33026 bytes
原稿用紙約41.28枚
 彼女が聴覚を失ったと知った時の、自分に湧いた気持ちを彼は忘れられない。
 近所の中で同級だったのはお互いだけだった。子どもが同い年ということもあって彼らの母同士の話は合うらしく、それに伴って二人の距離は狭まった。自然と幼稚園も小学校も同じだった。気付いたら二人はいつも一緒にいて、同い年の他の誰よりも共に時間を過ごした。それが当たり前だったし、二人の日常だった。だが、それは小学校に入学するとともに変化し始める。
 春といっては暑く、夏といっては涼しすぎる季節だった。葉月はどの服を着て行こうか迷った後、ワンピースにカーディガンを羽織ることにした。鏡で一度確認してからお気に入りの鞄を持って、葉月は自宅の玄関を出た。
 電車とバスを乗り継ぎしてやって来たのは設備が整ったある高等学校だった。その学校の体育館に入ると、ボールを床に打ち付ける多くの背の高い高校生の姿が見えた。葉月は制服姿の女子や男子、試合を見に来ている保護者たちがまばらに座っている観戦席へと足を向けた。
 上から見下ろす体育館はさっきよりも広く感じた。その中にいるはずの彼を探すために視線を端から端まで巡らせる。すると、二面あるコートの奥の方に黄色のゼッケンを付けた集団を見つけた。その中に、彼はいた。試合中らしく、真剣な顔をして相手チームと向き合っている。葉月は急いでコート近くの席に移った。
 幼馴染の試合を見るのは久しぶりだった。試合といっても公式なものではなく練習試合だが、それでも選手のひたむきさに違いはない。声援を送ることはできないが、心の中でひっそり彼の所属する高校の応援をした。数十分後、試合は幼馴染の高校の勝利で終了した。思わず笑顔で拍手を送った。
 黄色のゼッケンを着用した集団は次の試合が始まる前に早々と体育館を出るようであった。その後を追おうと思ったが、試合が終わった直後で疲れているだろうし、会いにいっても邪魔なだけかもしれない。それに今は部活中であるわけだし、自分を相手にする時間を割くことが迷惑になるかも、と葉月は考えて立ち止まってしまった。それでも、観に来ていいと言ってくれたのは彼で、少し挨拶するくらい、と思って葉月は足を前へ踏み出した。
 体育館の外の廊下は他の高校の選手がたくさんいて、しかもそれらのほとんどが体格のいい人ばかりであったので、実際の人数よりも密集して見えた。その中から目的の人物を探すのは困難であった。歩けば自分より何十センチも高い男子が行き交い、視界はあまりよくない。これはちょっと無理そうだ、それにもう他の場所に移っているかもと消沈していると、見知ったジャージを着た男子生徒が数人、前方を歩いているのを見つけた。彼らの背中には幼馴染が通う高校の名前が目立つように書かれている。葉月は嬉々として駆けだした。そして、気付いたらその中の一人のジャージを掴んでいた。
「あぁ? なんだ?」
 訝しげな声を出して振り向いたのは葉月の知らない金髪の男子生徒だった。よく考えれば、このジャージを着ているのは幼馴染の彼だけではないのだ。同じ高校の同じ部活の人は全員このジャージを着ている。そんな当たり前のことを葉月は頭から抜け落ちてしまっていたのだった。浅はかな行動だったと後悔するも、もう遅い。
「え、なに?」
 自分を見下ろす金髪の男子生徒の戸惑いに気付いて、葉月は慌てて掴んでいたジャージの裾から手を放した。
「どうしたの? なに、お前の知り合い?」
 先を歩いていた金髪の友人らしい黒髪の男子が、後ろを付いてこない金髪の男子生徒に気付いて何があったのだと振り返った。すると友人の前に女の子がいるではないか。女とはまるで無縁である友人に彼女ができたなんて聞いてないぞ、と思いながら彼は声を掛けたのだった。
「いや、違ぇ。引きとめられたんだよ」
「お前が? なにかの間違いじゃないの?」
「どういう意味だ、それ」
「それで、どうしたの? なにかこいつに用事?」
 おい、無視すんなと言う金髪を気にせず優しげに声を掛けてきた黒髪の男子生徒は金髪の方よりも威圧感はなくて纏っている空気も穏やかだ。まだ一言も口を開かない葉月のことを心配げに見つめている。それに少し落ち着きを取り戻した葉月は、肩に斜め掛けした鞄から携帯電話を取り出し文字を打った。その姿に男子生徒二人は瞠目したが、すぐにディスプレイを見せてきたため、不思議に思いつつもそれに視線を移した。
「“井川夏芽がどこにいるか知ってますか?”て、あんた井川を探してんの?」
 そう言った金髪の男子生徒の口が井川と形作ったのを見て、葉月は大きく頷いた。
「そうなんだ。井川の知り合いかな? 井川ならこっちだよ。今から俺たちも行くとこだったんだ」
 人の良さそうな笑みでそう言う黒髪に葉月は無駄な力が抜けるのを感じた。こっち、と手招く黒髪に葉月は顔を明るくした。
 二人が向かった先はさっき葉月がいた場所と逆側の観客席だった。階段を上った先に同じジャージを着た男子が数人寛いで座っている。葉月が観客席から出て行った後、彼らは観客席に訪れていたというすれ違いを起こしていたようだ。
「おーい、井川ぁー。お前にお客来てるぞー」
 金髪の人がそう声を掛けると、他の高校の試合を観戦していたらしい幼馴染はこちらを向いた。
「客ってなんすか。いくら俺がイケメンだからって、ここお店じゃないっすよ」
 逆撫でするような物言いに金髪は「あぁ!?」と眉間に皺を寄せた。それにまぁまぁと落ち着かせるように黒髪の男子生徒は肩を叩いた。
「ほら、井川だよ」
 黒髪の男子生徒はそう言って葉月の背中を優しく押した。それに頭を下げて、前にいる金髪の男子生徒より前へ歩み出た。すると見知った顔が数歩先の場所にいて、ようやく会えたという思いがした葉月は駆け寄って幼馴染の胸に勢いよくダイブした。その反動で夏芽は少しよろけてしまったが、葉月をしっかりと抱きとめた。
「……あれ、葉月! お前一人で来たの?」
 夏芽が胸に顔を擦り付けていた葉月の肩に手を乗せて自分との間に距離を作ると、葉月はそれに合わせて夏芽を見上げた。首を傾げて、なに?という表情をした葉月に夏芽は手を素早く動かした。
「一人で来たの?」
 手の動きを見て、葉月は頷いた。それに夏芽は息を吐いた。こんな場所に一人で来させてしまった自分への苛立ちと最初は親と来ると言っていたくせに一人で来てしまった葉月への呆れがそこには含まれていた。
「先輩、葉月を保護してくれてありがとうございました」
 葉月の後方に目を遣って夏芽は頭を軽く下げた。
「おいどうした、井川が素直なんだけど」
「なんすか、俺いつも素直ですけど?」
「あぁ、違ったわ。やっぱお前生意気だわ」
 金髪の男子生徒は気が立ったのを隠しもせず近くの席にどっしりと腰かけた。それを苦笑しながら横目で見ていた黒髪の男子生徒は目線を二人に戻した。
「その子、お前の彼女か?」
 素朴な疑問を後輩にぶつけた。すると生意気な後輩は渇いた笑みを浮かべた。
「違いますよ。幼馴染です。彼女がいたらすぐにでも自慢してますよ」
「うん、まぁお前ならそうだろうな」
 彼女ができたと所構わず自慢する後輩とそれを聞いて仲良く言い合いを始める友人の姿が難なく想像できて笑いが込み上げた。
「えと、それで、その子、もしかして……」
 言い辛そうにする先輩に夏芽は何が聞きたいのか察した。こういう事は今まで何度もあったからだ。
「そうです。葉月はほとんど耳が聞こえないんです」
 夏芽はそう言いながら葉月の肩を抱き寄せた。それを当たり前のように享受する葉月は彼の顔を見上げた。平均よりも大分背の高い彼の顔は彼女から遠く感じる。視線も相手がこちらを見下げなければ自分は入ることができない。葉月は度々それをもの寂しく感じていた。
「そうなんだ。なんで全く話さないんだろって思ってたから、納得したよ」
「あ、なんかこいつ失礼なことしました?」
「いやいや、してないよ。ただ怖がらせてしまったせいで話せなかったのかな、って心配だっただけ」
「そうじゃないです。まぁ怖がっていないとはいえないですけど」
「えぇ!?」
「冗談ですよ」
 からからと笑う夏芽に先輩は、こら井川!と叱った。毎度決まったなだめ方に夏芽はおどけるように肩を上げた。もうしょうがないなぁ、と自分を簡単には敬わない後輩に肩を落としながら、黒髪の男子生徒はすでに観戦に夢中な金髪の横に座った。
 夏芽は先輩との会話を終え、ようやく葉月に顔を向けた。その目は優しげに細められ、それを見た葉月も自然と微笑む。
 夏芽は自分が座っていた隣の席を指差して座るよう促した。葉月が頷くと、二人は同時に席に着く。
「お前寒くないの?」
 慣れた手つきで手話をする夏芽は薄着に見える彼女の格好に顔をしかめた。
(寒くないよ)
 そう手を動かした葉月の手に夏芽は触れた。
「めっちゃ冷たいって。葉月?」
 たしなめるように名を呼んだ夏芽に葉月は視線を彷徨わして、再度彼を見上げて眉を下げながら、少し、と音は出さずに口を動かした。
「ほら、やっぱり! 帰るまでこれ、掛けとけよ」
 夏芽は自分が来ていたジャージを脱ぐと葉月の肩に掛けた。葉月は焦った顔をしながら慌てた調子で手を動かす。
(夏芽は寒くない?)
 夏芽はパーカー姿になった上半身を見回して、笑みを作った。
「俺は大丈夫」
 彼の顔に葉月はほっとした顔を見せた。葉月の様子に夏芽も肩の力を抜いた。
「葉月はいつ帰んの?」
(夏芽の次の試合見たら帰るつもり)
「そっか。じゃあ俺頑張んないとな」
(応援してる)
 微笑を浮かべて頷くと夏芽は葉月の手を掴み、それを自分の太ももの上に置いたまま固定して前を向いた。それ以降二人は示し合わせたように目の前の試合が終わるまで会話をしなかった。
 二人のその姿を見ていた夏芽のチームメイトは、さながら恋人同士の二人を嫉妬や羨望の眼差しで見つめていた。だが、黒髪の先輩は微笑ましく思いながらもなぜか釈然としなかった。後輩と彼女を繋ぐ手に、覚束なさを感じたのだ。二人を見たのは初めてだし、二人のことをよく知るわけでもないが、妙な気がかりが胸を巣食う。よくわからない思いに消化不良をおこしながら、彼は試合へ思考を集中させた。
 次の試合の前に少し身体を動かすからと、葉月を心配げに見ながら夏芽は立ち上がった。声を掛けられても知らない人には付いて行かないように、とか変な人に声をかけられたらすぐに逃げるか俺のところに来いとか色々言いつけた後、ようやく夏芽は葉月の傍を離れた。それをチームメイトは呆れた顔をして見ていた。
「お前、過保護すぎだろ」
 と同輩に突っ込まれた夏芽はいたって真面目な顔をして、
「そうか? 普通だろ」
 と返事をしていた。その会話を一歩離れたところから静観していた桜坂は自分の黒髪を無造作に梳いた。いつも先輩に対して図々しかったり、無遠慮な言葉を吐く後輩の今まで見せることのなかった姿に驚嘆となぜか憂慮を抱いてしまい、それを拭いきれなかった。
 試合は卒なく進み、強豪校である夏芽の学校は難なく勝利をおさめた。その後、時間を置きながらいくつか試合に参加して、陽が沈んできた頃、集まった各学校の生徒たちは疲労感を覚えながら解散していった。夏芽たちもいったん自分たちの学び舎に帰ることになっていた。体育館に戻り、今日挙がった課題とその対策をするためである。
 夏芽が家に帰ることができたのは夜のドラマが始まる時間より少し前のことだった。さっきからまるで鳴りやまない腹の虫をおさめるため、帰って早々母が温め直してくれた夕飯をたいらげた。腹を満たしたところで、風呂に入って汗まみれの身体を洗い流した。身体が疲労を訴えていたが、それは達成感も相まって不快に感じなかった。
 すぐにでもベッドに身を沈めたい気はしたが、夏芽は試合会場を出る前に交わした葉月との約束を守らなければ、と足を玄関に向ける。葉月のとこに行ってくるわー、とリビングにいるはずの母へ声をかけて、夏芽は家を出た。向かい側の家の隣のもう一つ隣の家が葉月の家だ。夏芽の家から斜め前にある彼女の家には十秒もしないで着く。彼女の家のインターホンを鳴らすのは、これが何度目かわからない。いつも心の浮遊感と少しの懸念を抱きながら扉を開ける彼女を待つ。
 階段を下りる音が聞こえてすぐに扉は開かれ、隙間から彼女は顔を覗かせた。自分を見て綻ぶ彼女に夏芽は胸を撫で下ろした。
 お邪魔します、と一言断って、そのまま向かうのは葉月の部屋だ。自分とは違う淡い色調の部屋にはもう大分見慣れた。
「それで、何の用?」
 ベッドの前に二人腰かけて、その側面を背もたれにしながら夏芽は尋ねた。
 ウォーミングアップをするために席を立つ夏芽を引き留めて、今日帰ったら部屋に来てほしいと言って来たのは葉月だった。暇ができれば彼女の元を訪れてはいるし、彼女から改まって招かれる機会はそう多くない。なにか特別な用事があるのでは、と夏芽は鼓動を速めていた。
 葉月は夏芽の問いかけに腰を上げてベッドの端から何かを取り出した。長方形の厚みがあるそれはカンヴァスで、その表面には色彩豊かな風景が描かれていた。
(昨日描き終わったの。一番に見せたくて)
 そういって笑う彼女はどこか満足げだった。
「そっか。すげぇ綺麗。これどこ?」
 一番早く自分に、という彼女の言葉が夏芽の心にふんわりと積もった。
(夏芽と見る景色)
「……へぇ、まじか」
 絵はどこかの風景だとはわかるが、輪郭がはっきりしてなくて具体的な場所まではわからない。そんな不透明な景色は花が舞うかのように鮮やかで優しく、祝福の色をしていた。
 夏芽は隣で絵に目を向ける彼女をそっと見た。絵と同じ色をして笑む彼女は美しい。
 葉月の目に世界はこんな風に見えているのだろうか。黒の割合が多いその瞳は瞬きするたびに反射する。夏芽の視線に気づいたらしい彼女はその瞳をこちらに向けた。
「嬉しいよ。ありがとう」
 そう伝えれば、彼女の顔はより一層輝いた。
 葉月が、自分の胸の内を知ったらどう思うのだろう。今手にある絵の景色はもっと暗い色に変わったりするのだろうか。夏芽は、真っ直ぐ見上げてくる彼女の白い頬に手を添えた。
 何をするのも一緒だった二人の関係は小学校入学とともに少し変わってしまった。休み時間過ごすのは他の同性の友達になった。下校するのも二人一緒ではなくなった。幼稚園ではそこまで感じなかった性差が二人を隔てるようになった。一緒に遊ぶのは同性同士が当たり前になっていった。男子は外で球技を、女子は中でお絵かきを。そんな状況が常になった。
 夏芽はそれを不満に感じていた。いや、不満なんてもんじゃない。幼心にはふさわしくない、まるで全ての絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような、そんな気持ちだ。なんで女の子なんかを選ぶのか、なんで隣にいるのが自分ではないのか。女子の集団に混ざる葉月を見るたび、怒りにも似た思いが彼の中に渦巻いた。
 別に、葉月が夏芽より他の友達を優先していたわけではなかった。実際二人は登校を共にし、家に帰れば一緒に宿題をして、休日は夏芽と過ごすことの方が多かったのだ。なのに夏芽の心はまるで晴れなかった。
 それはお気に入りのおもちゃを取られた時のような、幼い故の独占欲か。そう問われれば、夏芽は間違いなく否定するだろう。根本的には同じなのかもしれない。でも、肯定するにはそれはあまりに永続的だった。
 もう欲しくない、と言えたらどんなに楽だろう。いくら欲してもまるで手に入らないのに、手を伸ばさずにはいられない。今にも零れ落ちそうな掌を絡ませるのに必死だった。だから、夏芽にとってあの時の気持ちは忘れられないのだ。
(なに、どうしたの?)
 頬に触れた手を嫌がりもせず、そのまま片手を動かす葉月に夏芽は笑みを向けた。
「いや、なんでもない。俺、そろそろ帰るわ」
(そうだよね、疲れてるよね。来てくれてありがとう)
「うん、また来るよ」
 夏芽は立ち上がって葉月の部屋を出ると、玄関の前で葉月に見送られながら帰宅した。
 葉月は幼い時からひどく優しかった。それは夏芽にばかりではなく、周りの誰にでもそうだった。そんな彼女は小学校低学年時の同級生に快く受け入れられ、友達は多く、いわばクラスの人気者だった。夏芽にも友達はいたが、不器用で歯に衣着せぬ物言いをする彼を避けるものは同じくらいいた。だが、夏芽はそれを別段気にしていなかった。彼の心が向かう先はいつも葉月で、クラスメイトが自分をどう思うかよりもクラスメイトが葉月をどう思い、どう接しているのかの方が気になって仕方なかったからだ。クラスメイトに囲まれて綺麗に笑う彼女に、彼は何度腹が立っただろう。
 二人の世界は二人だけのものだ、と心の底で勝手に思っていた。だが、世界は二人のものではなくて、その世界でさえも隔絶された個別のものだったのだ。それに気付いたのは、自分ではない誰かへ向けられた葉月の笑顔を何度か見た時だった。
 もう自分と彼女の世界が繋がることはないのだろうか。離れていきそうな彼女を、こちらにどう向けさせようか、と夏芽は思案していた。それは二人が小学二年生の時だった。
そして、彼女は聴力を失った。
 母から葉月が入院したと聞いて、急いで病院へ向かった。そこで葉月の母親から涙ながらに呟かれたのは、でも生きててくれて良かった、という言葉だった。
 面会の許しを得て病室に入ると、葉月はまだ目を伏せたままだった。もともと肌は白かったが、目の前の彼女は冬の日の雪化粧された景色に似ていた。夏芽はシーツの上に横たわる彼女の手を、そっと握った。それは温かくもなければ冷たくもなかった。生と死の狭間にいるような中途半端な温度だった。
 夏芽はその時、身が湧き立つような思いがした。興奮、快哉、感動。あらゆる感情が身体を巡った。きっと葉月は自分のものになる。葉月が自分から離れていかない可能性を夏芽は見出したのだった。しかもその可能性は限りなく一に近いと、彼は確信した。
 その予想が彼を裏切ることはなかった。
 暫く休養していた葉月が久しぶりに登校した日、クラスメイトたちは葉月を大いに心配した。よく彼女を連れまわしていたクラスの友達は幼い気遣いを盛大に見せていた。それに葉月も嬉しそうにして、入院前と変わらないように思えた。
 だが、時間が経つにつれてそれは勘違いだったと葉月は思い知った。意志の伝達がままならない彼女をクラスメイトたちが面倒になるのは早かった。楽しくない、と放置されるようになった。葉月も今までできたことができなくなって、どうしたらいいのかわからなかった。
 あるドイツの哲学者は、耳が聞こえないことは人と人を切り離す、という言葉を残したという。夏芽はそれを一番近くで目の当たりにしたのだ。悦びを訴える心臓の音を耳に感じながら。
 夏芽はこれまで以上に葉月の隣に寄り添った。学校へ行かずこもりがちになった葉月の元へ足しげく通い、一緒に手話も覚えた。離れていかない夏芽にだけ葉月は笑顔を見せた。夏芽が彼女の元へ通えば通うだけ、葉月は明るくなっていったようだった。そのうちに家族に見せる笑顔の数も増えていった。少し元気になった彼女は母に言われて、特別支援学校へ通い始めた。
 その頃には、葉月の心の中心は夏芽になっていた。学校で嬉しいことがあればすぐ夏芽に報告したし、悲しいことがあれば夏芽に愚痴を吐いた。すべてを共有した。
 その中で夏芽が大層褒めたことがあった。学校の課題で一番大事な人の顔を描く、というものが出て、葉月は迷わず夏芽を描いた。前から絵を描くのは好きで、わりと得意としていたことだったため、先生やクラスメイトに賞賛された。夏芽はなんていってくれるだろう、と気分よく帰宅して、その絵を興奮気味に葉月は彼へ見せた。それを見るなり夏芽は、すげぇな!と捲し立てて、テーマが一番大事な人だと伝えると彼はさらに破願して、純粋に喜んでくれた。それ以来、葉月は絵を描くのがもっと好きになったのだ。
「夏芽、あんたまた葉月ちゃんのところに行ってたの?」
 玄関で靴を脱いでいると、いつの間にか母が廊下に立っていた。
「あぁ、そうだけど?」
 床に上がりながらちらりと夏芽は母を見遣った。あまり口出さない母が、自分をこんなところで待っていることは滅多にない。眉を下げている母に自然と顔が強張る。
「こんな遅くにいくらなんでも迷惑じゃないの?」
「葉月が呼んだんだよ」
「そうなの? まぁ、ならいいけど」
「じゃあもう部屋行っていい?眠いんだよ」
 話は終わったと思って、階段の前で夏芽は母に背を向ける。
「あ、夏芽」
「なに」
 夏芽は疲労感が頂点に達している身体を気怠げにねじって、母へ顔を向けた。
「あんた、そろそろ幼馴染離れした方がいいんじゃない?」
「……は? なにそれ」
 思いもしなかった言葉に、夏芽は困惑の表情を浮かべた。
「葉月ちゃんのママから言われたのよ。夏芽くん、格好良いのに葉月のせいで彼女ができないんじゃないかって。あんた葉月ちゃん以外女っ気ないしねぇ。葉月ちゃんママにまで心配されちゃったわよ。葉月のことは気にしなくていいからねって。夏芽くんは気遣わずに普通の女の子と付き合っていいんだからねって。まぁあんたもいつまでも葉月ちゃんばっか言ってられないでしょ?葉月ちゃんだって夏芽ばっかじゃいられないしね。だから」
 随分久々だった。こんなに強く怒りを感じたのは。そう夏芽が思った瞬間、玄関に大きな音が響いた。それは夏芽が壁を拳で殴った音だった。
「なんだよ、それ」
「ちょっと夏芽、いきなりどうしたの」
「そういうの、有難迷惑っていうんだよ。言っとくけど、俺は葉月からこれっぽっちも離れる気なんてねぇから!」
 そう吐き捨てて、夏芽は階段を踏み鳴らしながら上っていった。後ろで母が自分の名前を呼ぶ声が何度か聞こえたが、それに答える気には全くなれなかった。
 母が自分の葉月に向ける気持ちを全くわかっていないというのは、ずっと自分たちを見てきたくせにとか思って苛立ったが、それ以上に葉月の母から自分が拒否されたことが夏芽には痛かった。外面では、自分は葉月によく尽くしているように見えていたはずだ。彼女から離れなかったのは彼女の家族以外で自分くらいだったし、彼女が喜ぶことならなんでもしていたと自負しているからだ。
 それなのに離れろって、どういうことだよ。彼女の母が、自分を思って言ってくれたのはわかる。大人から子どもへの、よくある気遣いだ。でも、夏芽には自分が葉月の傍にいてはならない、と言われた気がした。それは、どこかで自分自身そう思っていたからなのだろう。
 運悪くも、その日から葉月と会える日が激減した。部活の大会がすぐ迫っていて、そのための練習、合宿、練習、そして大会当日と忙しない日が続いていた。帰ってきたら疲労する身体をベッドから起こすことができず、葉月の家へ行くことができなくなっていた。
 何か月ぶりかの公式戦。夏芽の学校は三回戦で優勝候補と当たって敗退した。同時に三年生が引退し、自分らの学年が学校を背負っていくことになった。
 先輩との最後の練習、その終わりに夏芽は主将を任じられた。黒髪の、自分より背が低い、けれども頼もしいその主将の背中を入学の時から見てきた。その先輩から主将のたすきを渡され、夏芽は驚くしかなかった。他にもっとちゃんとした人がいるのに、なんで自分なのか。先輩に向かって生意気な態度を取っていた、全部最後には笑って許してくれたけど。先輩にむかって嫌味なことをいったこともある、全部受け流してくれたけど。そんな後輩に大切にしてきたチームをなぜ任せようと思ったのか、考えてもわからなかった。
 主将の重荷とか責任とか全然気にしないなんてこと、夏芽にはできなかった。今まで十分厳しかった練習はさらに自分を叱咤することで熾烈さを増していったように思う。
 気付いたら葉月と二週間は会ってなかった。今までこんなに長く会わないことはなく、夏芽は焦りを感じた。
久しぶりに練習を早めに切り上げることになり、その足で葉月の家へ向かった。呼び鈴を鳴らして出てきたのは彼女ではなく葉月の母親で、一瞬気まずい空気が流れたが、すぐに笑って中へ入れてくれた。
 葉月の部屋の扉をほんの少し開くと、すぐに気付いた彼女はその隙間から顔を覗かせた。久しぶり、と手を動かした葉月に同じ言葉を返したら、彼女は扉を大きく中へ開いて招いてくれた。
 隣り合わせに二人は座って、夏芽はこの二週間の出来事を彼女に簡潔に話した。試合に負けた、先輩が引退した、主将になった、一年生が色々面倒、でも今度は負けない。
 表情を歪めたり、真剣だったり、輝かせたりする夏芽を葉月は見ていた。その真っ直ぐな瞳に自分が入り込むことはこの先きっとないのだと、確信的な想いを彼女は抱いていた。
 年とともに身長とともに、二人の距離が遠くなっていくのを感じていた。だって、彼が屈まなければ彼の視界に自分は映らない。そんな手間、この先ずっと誰が好んでやり続けるだろうか。夏芽は違う、夏芽だけは周りの誰とも違うと何度も思い直したこともある。確かに今まではそうだった。葉月が聴覚を失っても夏芽は離れて行かなかったし、傍にいてくれた。でも、だからといってこれからもそうだとは断言できない。
「幼馴染離れした方がいいって言ったの」
(え、なに?)
「夏芽くんに、伝えるように言ったのよ」
(どうして?)
「夏芽くん優しいでしょ。ずっと葉月にこんなに良くしてくれて。だから葉月が重荷になったらあなたも嫌でしょ?そんな素振り全く見せないけど、いつか一緒にいられなくなるだろうから、葉月も幼馴染離れしといた方がいいわよ」
 夕食を取りながら、母に言われたのはそんな先の遠くない未来の話だった。それが現実になるのは数年後か、数か月後か、それとも明日か。考えるだけで恐ろしくなった。葉月は、夏芽とずっと一緒だと勝手に思っていたのだ。母から聞いたときはそんなまさかと言い聞かせたが、実際夏芽が全く自分に会いに来なくなって、葉月はようやく理解した。彼もそのうち離れていくのだということを。あの、いつかのクラスメイトと同じように。
(それで?その後輩の子はなんて言ったの?)
「先輩のこと尊敬してますって。あんな扱いしておいてそれはないよな」
 この二週間の出来事の中で、しつこく自分に指導を仰いでくる後輩を思い出して夏芽は笑っていた。
 葉月にはこの笑顔を繋ぎとめておける自信がなかった。掌から抜け落ちていく感覚を拭うことができずに、彼女は自身にただ絶望するしかなかった。

 夏芽が疑問に思い始めたのは、それが三回目を超えた時だった。部活終わりに彼女の家を訪れても、彼女の母にやんわりと断られてしまうのだ。体調でも悪いのか、と思ったりもしたがそれが二度三度と続くと、どうやらそうではないらしいということに夏芽は気付いた。その事実を、葉月が自分を避けている、と脳内で変換した夏芽は、今までにない虚無感を覚えた。
 彼女に何かしただろうか、と考えを巡らせてみても思い当らなかった。ただ一つ頭につっかかるのは、この前長く彼女に会いに行けなかったことだ。いや、でもその後会った時彼女はいつもと変わらなかった。自分の話に笑みを浮かべて頷いてくれていた。だとしたらもっと他に原因があるのかもしれない。
 考えても考えても適当な答えは見つからず、なら葉月に直接聞くしかないと家に突撃してみるが、彼女は不在だったり会える状況ではないとよくわからない理由で断られたりした。
 必死に絡めていた手がすり抜けて行く。あの時感じた可能性の崩れる音が頭に鳴り響くのを夏芽は止められなかった。
「お前、どうしたんだよ」
 屋上へと続く踊り場、教室で昼休みを過ごす気がしなかった夏芽は、そこで一人サイダーを飲みながら壁にもたれかかっていた。そんな彼に声を掛けたのは部活の前主将だった。
「なんすか桜坂さん。お昼休みにこんなとこ来るなんて暇なんすか」
「お前はすぐそんなこと言う。心配してんだからちょっとは甘えてこいよ」
 桜坂は夏芽の横に座った。床が意外と冷たくて身体が少し跳ねた。
「みんな言ってたぞ。最近井川が変だって。俺のとこにどうしたらいいか、なんて聞いてくるくらいに。お前、なんかあったのか?」
 人のよさそうな顔をして夏芽を見る先輩は決して男らしくはないが、大きい。それは彼の器だとか、周りからの信頼の厚さだとかがそう見せているのだろう。まだ全然敵わないな、と夏芽は目を細めた。
「別におおっぴらに話すことでもないんで、チームメイトには言わないだけです」
 言ったところで気分悪くするだけだし、と夏芽は呟いた。
「でも、なんか悩んでんだろ? 一人で解決できることなのか?」
 桜坂の言葉に夏芽は黙ってしまった。一人で考えてもどうすることもできないのは確かだった。でも、他人に話して何か変わるのか。それもあまり期待できないような気がした。横目で前主将の顔を覗く。いつにも増して真剣な表情だった。ほんと、くそ真面目な先輩だ、と夏芽は苦笑した。
「……ずっと欲しくて欲しくてたまらないものがあるんです」
 静かに息を吸って、夏芽は呟いた。
「へぇ、お前にもそんなものがあるんだな」
「ありますよ、俺にだって。でも、ずっとない頭を絞って画策してきたのに、とうとう手から離れてしまったみたいなんです」
「そうか」
 桜坂が彼の方を見ていても、夏芽の目と合うことがなかった。彼の視線は目の前の床と壁を彷徨っていた。
「そりゃそうですよ。こんな男傍に置いておけないって」
 自身を鼻で笑う夏芽は、いつも何かと突っかかりたがる後輩のイメージを隠してしまっていた。
「そんなことないだろ。お前意外と真面目だし」
「なんすか意外って。いや、そんなことじゃなくてですね。だって俺、葉月が耳聞こえなくなった時、喜んだんですよ」
 夏芽は飲み終わったペットボトルを床に置いた。
「それに、彼女が耳のせいでクラスメイトと上手くいかなくなった時も何もしなかったんです。俺が仲介すれば、もしかしたら彼女は友達を失わなかったかもしれないのに。むしろ彼女の友達なんていなくなってしまえって思ってましたからね」
 酷い男だ、と渇いた声を漏らす後輩の顔は歪んでいて、自慢の男前が台無しだった。
「どこかに閉じ込めておけたら、と何回思ったことか。勝手に離れていかないように、自分に縛り付けておきたかったんですよ。でも、現実にはそんなことできずに、結局葉月に避けられてるし」
「どうして、お前はそんなに執着するんだ?」
 桜坂がそう口にすると、後輩は初めてこちら視線を寄越した。その瞳はガラス窓から漏れる日に当たって一瞬光ったが、こちらを向いたことですぐに影に隠れてしまった。
「それは、翼をもがれた天使が翼を取り戻そうとする行為に似てますかね」
「なんだそれ、意味わからないぞ」
 後輩の返答に桜坂は顔をしかめた。予想の範疇をこえていて、彼の言葉の意図をかみ砕けない。
「桜坂さんて、案外浪漫がないんすね」
「お前は俺をどう思ってるんだ」
「わりと頼りになる先輩だとは思ってます」
 わりとは余計だ、と思いながらも好意的だった後輩の自分への印象が嬉しくて桜坂は眉を下げた。
「じゃあそのわりと頼りになる先輩からアドバイスだ」
 眉間に皺を寄せて渋い顔をしながらも期待でいっぱいな後輩の目を見ながら、桜坂は諭すようにことばを送った。
 悪いけど今日部活休むわ、と夏芽は副主将に告げた。放課後の教室掃除をする生徒らを背景に、副主将は目を白黒させた。副主将がそうなるのは、夏芽が常はふざけた奴であっても部活は大切にしていることを知っているからだった。
「……わかった。今日は任せろ」
 きっと彼にとって部活と同じくらい、もしくはそれ以上の大切な用事があるのだろうと副主将はなんとなく察した。
「報告できるようになったら、ちゃんとするよ」
 力強く紡いだことばに似合わず、主将の顔は空虚であった。
「あぁ」
 頑張れ。待ってる。期待してるよ、といくつか頭に浮かんだ言葉は声に出せなかった。事情を全く知らない自分には何を言っても陳腐に聞こえるだけだ。頷くしかできない副主将に、夏芽はじゃあ、と手を上げて背を向けた。
 普通に授業がある日で、この時間に帰ることなんてほとんどない。一年生の時から、もっと言えば中学の時から部活に身を投じてきた。
 初めはそんなつもり全くなかったのだ。葉月の傍にいられればいいって思っていたから、部活に入ってその時間が削られるのなんて言語道断って思っていた。でも葉月はそんな自分にばかり構う夏芽を気にしていたし、しかも入った中学が全生徒部活動参加を強制していた学校で、外で直射日光に当てられるよりかはましかと思ってなんとなく入った部活だった。部活に入ったと伝えれば葉月は喜んでくれたし、入った部活は意外と面白くて、気付いたら夢中になっている自分がいた。中学、高校なんて短い時間だけど、この期間が自分にとって葉月と一緒にいる時間と同じくらいには大切になるんだろうって薄々感じるくらいには熱中しているのだろう。
 だけど、その有限な時間の一日を放ってでも今行かなくてはならないんだと、夏芽は顔を上げて真っ直ぐに前を見据えた。
 向かった先は自分の家からさほど遠くない最寄駅だった。この駅をもちろん葉月も利用している。彼女がここを通るのは確実で、彼女の方が通学時間の長いことを考えれば、彼女とのすれ違いは起こしていないと予測できた。
 数十分間、駅から出てくる人々を見つめた。時間帯もあって駅を行き来する層はまばらだ。電車が通り過ぎる音とともに小さな子どもを連れた主婦が改札から出てきた。手を繋ぎ、仲良さそうにする二つの影の後ろから、風で髪をなびかせた葉月が静かに夏芽の視界に入った。駅前の変なオブジェの脇にいた夏芽は彼女が帰り道を行こうとするのを、息を呑んで見つめた。
 なんでそんなに執着するんだ、という前主将のことばが夏芽の脳にこだました。なんでって、彼女を見るたび、彼女に会うたびに何回でも認識させられてしまうんだ。
 ただ見てるだけでいいとか、思えない。彼女の幸せを傍から見守ることができれば十分だとか、そんな綺麗ごと言えやしない。その手を掴んでいたいんだ、と夏芽は勢いよくコンクリ―トの地面を蹴った。
「葉月!」
 無理やり左手を取って引き留めた葉月がこちらを振り返った。吃驚した顔は夏芽を見るなり強張って、すぐに俯いてしまった。
「葉月、おいこっち向けよ」
 肩を揺らして問いかけても葉月は見上げようとしなかった。アスファルトを見つめる彼女のつむじしか夏芽には見えない。こちらを見てくれないと話もろくにできないので、歯痒さに空いている方の手を爪が食い込むほど握りしめる。
 葉月の手は離さないまま、夏芽はどうしようかと荒々しく後頭部を掻いた。浮かんだ案が一つ思いつくも、こんなところでやるのは少々恥ずかしい。だがそうも言っていられないだろ、と夏芽は息を一つ吐いた。
「俺のこと避けてるの?」
 夏芽は葉月の前に片膝をついて、彼女の顔を覗きこんだ。葉月は一瞬びくりと肩を上げて、申し訳なさそうに眉を下げた。
(ごめんなさい)
「なんで避けたの」
 見上げる彼女の顔は今にも泣きそうだった。俯いているせいで光が入らない瞳は潤っていく。
(いつか離れていくなら、もういらないって思ったの)
 息が詰まる。夏芽は葉月の垂れた髪を耳にそっと掛けた。
「どうしてそんなこと思ったんだよ。そんなことあるわけないだろ」
(でも、いつかそうなるって)
 鼻をすする葉月の淡い頬を夏芽は撫でた。きっと母親にでも言われたのだろう、自分と同じように。
世の中の幼馴染はそうなのかもしれない。誰より長い時間を一緒に過ごしてきたからって、その後も一緒に過ごすとは限らない。いくら惹かれあっても、ほとんどはいずれ違う道を歩んで、お互いじゃない大切な人を見つけ、その人と残りの時間を共にしていくのだろう。でも、自分はそうではない。そんなありふれた幼馴染像ではなくて、縷々たる関係でいたいと思ってしまうんだ。
「俺は全ての時間を、葉月を愛することに使ったっていいと思ってる」
 至極真面目に言ったつもりの夏芽の言葉に、葉月は呆然とした。彼女の反応に夏芽は途端にやっぱり恥ずかしくなって、いやでも部活の時間はちょっと欲しいけど、と付け加えたら、彼女は困ったように笑った。
(それってずっと一緒にいてくれるってこと?)
「うん。いるよ」
 世界は二人だけのものだと勘違いをしていた頃から夏芽の心はこれっぽっちも変わってはいない。そのことを話すのはまだ先になるかもしれないが、この止めどない思いが少しでも伝わればいいと思って夏芽は彼女の瞳を見つめた。
(だったら私も)
 永遠を誓う、と葉月は言った。
 ぬるかった手が熱を持っていくのを夏芽は感じた。その熱がどちらのものかなんてわからなかった。二人の手はしっかりと繋がれて、冷えた温もりも白さも全部共有しているのだと理解し合えたから、二人にはそれだけで良かった。

「ちょっと先輩! 聞いてくださいよ!」
 廊下で自分たちを見つけたらしい後輩は手を上げて嬉しそうにこちらへ走ってきた。自分に葉月とはどうなったか報告しに来たのかな、と思った桜坂は、自分ではなく隣の金髪の友人の前で立ち止まった後輩を不思議そうに見つめた。
「あ? なんだ? お前元気そうじゃねぇか」
「はい! 元気になりました! なんたって、彼女ができたんですから!」
「はぁぁ!?」
「羨ましいですか? 羨ましいですよね!? だって先輩全然モテないですもんねー。可哀そうなくらいですし」
 この前まで消沈していた後輩はどこいった、と思わずにはいられないほどの煽り口調に金髪は米神にしわを寄せた。
「わざわざ、自慢しに来たのかよ!」
「え? 当たり前じゃないですか。一番に先輩に言いたくて、うずうずしてたんすよ!」
「あーあーそうかよ、じゃあもう聞いたから俺行くわ」
 金髪は苛立ちを散らすように大股で先を歩いて行ってしまった。
「桜坂さん」
 友人を見て苦笑していた顔を後輩に向けると、さっきとは打って変わって後輩は照れくさそうにして横に立っていた。
「どうした?」
「……ありがとうございました」
 頭を下げる彼に、桜坂は笑った。
「良かったな」
 そう言って肩を軽く叩くと現主将は、はいと返事をして綺麗に目を細めた。心底嬉しそうな顔を見せる後輩にこちらも胸が温かくなるのを桜坂は感じた。
 数か月後の公式戦、夏芽が主将として出た初めての試合には、周りにこれでもかと自慢しまくっていた噂の彼女が応援しに来ていた。桜坂含め引退した三年生たちから少し離れた場所で、手すりから前のめりに顔を出して真剣な眼差しをコートに向けていた。
 試合後、二人が寄り添いながら立ち話をする後ろ姿を桜坂は帰り際に偶然見かけた。二人の手はさり気なく絡まっていて、その様子はもう以前のような心もとない感じはなかった。例えるなら、枯れていた白い薔薇が本来の紅さを取り戻したかのようだ、といえば少しは浪漫があるだろうか。
 隣で文句を垂れて、今にも二人の邪魔をしに突撃しそうな金髪の友人を引き留めながら、桜坂はそっと祝福の言葉を彼らの背中に送った。
2015-01-03 04:21:35公開 / 作者:cryptomeria
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■作者からのメッセージ
 まず、作品内に耳に障害を持つ登場人物がいますが、これに関して作者は知識が乏しく、さわり程度しか調べておりませんので、作品の表現等で嫌悪感を抱かせてしまったなら謝罪いたします。ただ、この作品はあくまでフィクションですのでご理解いただけたらと思います。
 この作品を書こうという前に、友人に幼馴染のことが忘れられず今なお引きずっているという話を聞いていて、それが複数人いたものですから、幼馴染の恋をどうにか結んでやりたいとの思いで書き始めた作品です。
 世の中には幼馴染設定の作品が多数存在しますが、現実ではそんなことはないのだな、と認識させられました。きっとどこかにはあるのでしょうが、その少なさに個人的には残念に思ってしまいました。
 初めての投稿ですので、表現や字の誤りなどがあると思いますが、率直な批評、感想をしていただけたら嬉しいです。どうぞよろしおく願いします。
この作品に対する感想 - 昇順
 作品を読ませていただきました。
 気合いの入った文章ですね。作者の思いもこもっている。短編の物語として一応完結していて、執筆を始められて間もない方の作品によく見られる途中で息切れしたような雑さもない。色々素晴らしいところはありますが、中でも特に主人公に光るものがありました。この主人公なら長編小説の主人公もつとまる。キャラクターとして薄っぺらさを感じず、考えがしっかりしていて、見せ方によっては読者を物語の中へ深く引きずり込むだけのポテンシャルを備えている。素晴らしいと思いました。初めてでこの主人公を描けるというのはまぎれもなく才能です。
 一方で、冒頭から誰の視点で物語が語られるのかあやふやで、非常に読みにくかったです。夏芽視点、葉月視点、作者が上から俯瞰するように書く完全三人称の視点と言ったように視点があっちこっちに飛び、誰がどのようにしているのか、判読するのが非常に困難な場面がありました。また、一部文章が非常に説明的で、小説として語るべきところが、設定の羅列のように淡々と語られてしまっています。短編にまとめるためには仕方がなかったのかもしれませんが、最低でも夏芽が葉月に何故そこまでベタ惚れなのかというのを読者に伝えるのはこの物語の魅力にも直結してくるところですので、この辺りを含め、微妙な心の揺れ動きを小説の『シーン』としてきちんと表現してほしかったなと思いました。
 また、葉月の魅力の表現についてもやや気が回っていない印象を受けました。僕自身、ラノベ物書きだからと言うこともありますが、ヒロインの可愛さをそっちのけで幼馴染との愛だけを強調されるのはちょっといただけない。この枚数にまとめるのであれば確かに難しい。それも初めての方ではほとんど不可能なのではないかとは思いますが、作品に込められた思いが素晴らしい分、そんなふうに欲張りな願いも抱いてしまいました。
 それにしても――初めてでここまで書ける人もいらっしゃるのですね。本当に驚きました。確かに粗いところはあって、読みにくく、単調でしたが(ごめんなさい)、貴方自身の経験、そして参考にされたお友達の経験、それらに裏打ちされた力を感じました。菊池寛は人生経験や人生観を小説に生かすことを重視していましたが、まさにその通りなのだなと。
 拙い感想ですが、以上です。ピンク色伯爵でした。
2015-01-03 13:50:25【☆☆☆☆☆】ピンク色伯爵
 ピンク色伯爵様、ご感想ありがとうございます。
 視点のことですが、自分でも読み返す際に分かり辛いなと思う箇所が何個かあったのは気付いていたのですが、あれも書きたいこれも書きたいと欲が出てしまって結局どの箇所も直さずに投稿してしまいました。本当は第三者視点で書きたかったのですが、なかなか上手くいかないものですね。次からはそうならないよう努めていけたらと思います。
 夏芽がななぜ葉月にべた惚れなのか、については考えていなかったというか、書くことを避けていたところがあります。それはただ夏芽が葉月に向ける愛を全面に押し出すことに注意を惹かれていたからかもしれません。葉月に向ける好きの理由を場面として描き、夏芽の愛に肉付けをしていくことがとても重要なのだとピンク色伯爵様の指摘で気付き、理解できました。ありがとうございます。
 また、葉月の可愛さがそっちのけである、という意見ですが、確かにそうだったと思わされました。葉月に対する描写があまりに少なかったと反省しております。女の子の可愛さについてどう描写するのか考えていかなければならないと思いました。
 最後に、全体的に読みずらいとのことで、このことについては大変申し訳ありません。小説の中で自分の哲学をどう表現すればいいか試行錯誤しているうちに、登場人物に語らせるというより作者の地が出てきてしまって、説明的な文章になったのだろうと思います。これも気を付けなければいけませんね。
 鋭いご指摘、丁寧なご感想感謝しております。この意見を胸にとどめ、精進していければと思います。ありがとうございました。
2015-01-03 15:40:50【☆☆☆☆☆】cryptomeria
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