『雀の恩返し』作者:神夜 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角8000文字
容量16000 bytes
原稿用紙約20枚




 世界はなんて残酷で、世界はなんて不条理なのだろう。
 どれだけ頑張っても報われず、どれだけ足掻いても救われず。夢も未来もすべて失ってしまい、もはや生きている希望すら湧き上がらない。それでもこうして生き延びているのは、きっとある種の使命感だと思う。いや、使命感というよりは義務感か。毎月、一定の金が必要だった。自分ひとりを賄うくらいであればどうでもよかったのだが、しかしそれが、「かつての家族」を養うための金ならば仕方が無かった。
 全部自分のせいだった。自分のせいで、自分は夢も未来もすべて失ってしまった。
 自業自得。そんなことは判っている。判っているからこそ、生きる希望は無いのに、こうして義務感だけを頼りに生を全うしているのだ。自業自得であるのなら、せめてその罪は償わなければならない。これは自分ひとりの問題ではないのだ。自分のせいで、皆が不幸になった。だからせめてもの罪滅ぼしは、しなければならなかったのだ。
 不条理。実に自分らしい、安易な逃げ言葉だ。
 所詮、全部自分のせいなのに。
 残業を終え、終電ギリギリで帰路に着いた。
 途中でコンビニに寄って弁当を買い、1LDKのアパートに戻る。
 おかえりを言ってくれる相手は居なくて、ただいまを言う相手も居ない。そこは、ただの寝食を行うためだけの場所であった。カタチだけの、「家」であった。本来、そこにあるべきものはもう無い。失ってしまったモノはもう、きっと二度とこの手には戻って来ない。安っぽい袋に入ったコンビニの弁当が、まるで鉛のように重かった。
 薄暗い路地を抜け、二階建てのアパートに辿り着く。
 そして、いつも見慣れた薄汚いドアの前に、見慣れない光景があった。
 こちらを見据えて、丁寧に頭を下げていた。
「お久しぶりです」
 どこか見覚えのある顔だった。
「――その節は大変お世話になりました。十年前に助けて頂いた、雀です」
 そう言って、少女は笑った。


     「雀の恩返し」


 雀だと名乗った少女は、どうやら「恩返しに来た」らしい。
 雀の体長は推定にして一四五センチくらいで、体重は不明だがどちらかと言えば痩せていて、髪の毛は薄茶色で肩まで伸びており、肌の褐色は良く健康そうで、目がくりくりしてて可愛らしく、人間の年齢に合わせると大体小学生高学年から中学生くらいだろうか。安っぽい羽毛で出来たような服を着ていて、靴は子供っぽい白色のスニーカーを履いていた。
 雀だと、少女は名乗った。
 そして、十年前に助けて貰ったことに対する、恩返しをしに来た、とも言った。
「雀が恩返しをするなんて知らなかったよ」と、僕は小さく笑った。
「雀だって恩返しくらいするんですよ」と、少女は可笑しそうに笑った。
 少しだけ沈黙が続いた後、僕はもう一度だけ笑う。
「立ち話もなんだし、中へ入ろうか。汚いところで申し訳ないんだけど」
「いえ、こっちそこいきなりおじゃましちゃってごめんなさい」
 小さく頭を下げて、少女は僕に道を譲る。
 スーツのポケットからキーを取り出して、ドアノブに差し込んでロックを解除した。真っ暗な室内に電気を通して、自分から先に中へと入って行く。
 汚いところ、とは少女に言ったが、実際はそんなことは無かった。汚くなる主な理由としては、それはきっとモノが多いからだ。そのモノが整理されずに積み重なっていくことにより、部屋は汚れ、散らかっていく。しかしこの1LDKの部屋の中には、そうなるだけのモノは、ほとんど無かった。
 必要最低限のモノしか、ここには無かった。
 台所には数枚の食器と数個の調味料しかなく。リビングには四方五〇センチ程度の小さなテーブルと簡易の安っぽいパイプベッドしかなく。テレビすら設置していない。家電用品なんて鞄に入っている仕事用のモバイルタイプのパソコンを除けば、冷凍食品を数点だけ蓄えた冷蔵庫と、コンビニ弁当を温めるだけの電子レンジと、コーヒーを飲む時に使う電気ケトルくらいしかない。本当に、必要最低限のモノしか、ここには無かった。
 生活観が無い場所。そう言ってしまえば、ただの一言で片付けられた。
 後ろから「おじゃまします」と言う小さな声を聞く。
 テーブルの上にコンビニ弁当を置きながら、
「中へ入ろうかと言った手前で申し訳ないけど。本当に何も無いんだ。お茶くらいしか出せないけど、いいかな」
「だいじょうぶです。へいきです」
「すまないね。あぁ、直で申し訳ないけど、そこ座ってて。そうだ、ご飯はもう食べたかい?」
「あ、いえ、まだ……ですけど」
「コンビニ弁当くらいならあるけど、食べるかい?」
「え、でも……」
「気にしないでお食べ。実はあんまりお腹空いてなかったんだ」
 嘘じゃなかった。近頃では、「空腹」というものをほとんど感じなくなっていた。ただ、生活を続ける上で食料を腹に入れることは必須で、これもまた、ほとんど義務感で食事を摂っていた。だから今日に一食くらい抜いたところで、お腹が減ったとは、まるで思わないのだった。
「少し待っててくれるかな。温めるから」
「あ、それならわたしがっ、」
「いいから座ってて。お客さんなんだから」
 コンビニ弁当を電子レンジに入れて加熱を開始する。
 その間、冷蔵庫から2リットルサイズのお茶のペットボトルを取り出してコップへ注ぐ。さすがにコップくらいは二人分用意しておいてよかったと思う。コップ二つをテーブルに置いたところで電子レンジが鳴いた。中から弁当の容器を取り出して、ビニールと蓋を剥がして持って行く。匂いは良かった。ただ、それを嗅いでもやはり、空腹は感じない。
「適当に選んだから生姜焼き弁当なんだけど、大丈夫かな」
「だいじょうぶ、です、けど……あの、」
 未だに戸惑う少女に対して、僕は言った。
「良かった。唐揚げだったら、共食いだったかもしれないね」
 僕の言葉に、少女は少しだけ悩んだ後、ようやっと意味を悟ってくれたのか、くすくすと笑ってくれた。
「そうですね。共食いだったかもしれませんね」
「さ、遠慮しないで食べて」
「すみません。ご馳走になります」
 少しだけ空気が穏やかになった。
 まだ遠慮がちだったが、それでも少女は、僕の目の前で、コンビニ弁当を美味しそうに食べてくれた。
 その光景を見ながら、お茶を一口だけ飲んで、言った。
「食べながらでいいから、少しお話をしようか」
「はい」
「確認するけど、君は雀で、十年前に僕が助けた。だからその恩返しに来た、と」
「そうです。憶えていますか?」
 十年前。
 記憶を想い馳せる。
 まだ何も失ってなかった頃の話だ。そう、夢も未来もあった頃の話。世界はこんなにも希望に満ちているのかと、そう思っていた。家に帰れば「おかえり」と言ってくれて、家に帰れば「ただいま」と言っていた。それはもう、十年も前の話。憶えている。鮮明に、憶えている。
 雀。そう。確かに十年前のあの日、雀を助けた事がある。
 ――けがをしてるみたいなの。
 怒られるとでも思ったのか、両手で優しく包み込むように雀を抱え、今にも泣き出しそうな顔でそう言ってきた。カラスにでも襲われたのか、その雀はボロボロで、このまま放っておけばすぐにでも死んでしまいそうだった。少しだけ迷いはした。それは怒っているとかではなく、野生の雀を保護してもいいのかという、僅かながらの葛藤であった。しかしそれは泣き出しそうな顔の前では何の効力も持たず、震える頭に手を置きながら、笑ってみせた。
 最初は大変だった。雀どころか、鳥すら飼ったことがなかったために、そもそも鳥をどう飼えばいいのか判らなかったし、食べ物だって知らなかった。獣医のところへ連れて行くと共に、近くのペットショップで急遽鳥かごなどを一式揃え、専用の餌も買った。さすがに生きている幼虫は触ることが出来なかったため、ドライフードを買うことにした。
 ただ、唯一の救いだったのが、野生だったはずなのに、その雀は案外早く、人に懐いたことだった。後にペットショップの人に聞いたことであるのだが、野生の雀が二三日で人に慣れるなんてことは、ほとんどないそうだ。
 それでも実際はその雀は物凄く人懐っこく、手を出せば指に停まるくらいには人馴れしていた。
 そして、遅かれ早かれ別れはくる。いくらその雀が人懐っこいと言っても、やっぱりそれは野生の雀であって、怪我が治ったのであれば、野生に返してやらなければならない。その日は朝から大変だった。大泣きされてほとほとに困った。それでも何とか説得して、家族揃って公園に行き、精一杯の笑顔と共に、雀を空へと帰した。
 もう、十年も前の話だ。
 まだ、世界が優しかった頃の話だ。
「――……憶えてるよ。あった。確かに、あった。僕は、僕達はあの日、雀を助けた」
 少女は言う。
「その雀が、わたしです。その恩返しのために今日、ここへ来ました」
 そっか、と僕は小さく笑った。
「恩返し、っていうのはどういうことをするんだい?」
 少女は胸を張る、
「何でもできますっ。洗濯でも洗い物でも料理でも! 家事は得意なんです」
 どうやらその恩返しとやらは家事専用らしい。
 今度こそ、僕は笑った。心から、笑った。
「じゃあそうだね。明日の朝御飯でも作ってもらおうか」
 そう言うと、少女は少しだけ身を乗り出しながら、
「他にもいっぱいできますよ。洗濯とかも全部やります!」
「すまないね。見ての通り、掃除とか洗濯は必要ないんだよ。好意はとても有り難いんだけど、明日の朝御飯だけでいいよ。その恩返しだけで、僕は満足だ。すごく、満足なんだ」
 少女は少しだけしょんぼりしたが、すぐに気を取り直し、
「では何が食べたいですか? 何でも言ってください!」
 きらきらと輝くような少女の瞳を見つめながら、僅かに考えた後、こう言った。
「……そうだね。じゃあ、玉子焼き、なんて出来るかな」
 少女は自信満々に笑う、
「任せてくださいっ。得意なんですよ、玉子焼きっ」
「そっか、そうだよね。うん。それは楽しみだ」
「楽しみにしててくださいっ!」

 時計の針が十一時を回る頃、雀の少女は眠りに落ちた。
 さすがにこのくらいの子がこんな時間まで起きているのは難しかったのだろう。うつらうつらしている少女に対して、「ベットでおやすみ」と言うと、慌てて「え、あっ、だい、だいじょうぶですっ」と言うが、数秒もすればまたうつらうつらする。終いには床に倒れ込むように眠りに落ちてしまったので、その身体をそっと持ち上げてベットへ寝かせ、布団を掛けてあげた。
 少女を起こさないように鞄からモバイルパソコンを取り出して、今日に持ち帰っていた仕事の後片付けに取り掛かる。
 カタカタとキーボードを叩きながら、時折聞こえる少女の寝息に、静かに耳を傾けていた。
 ――大きくなった。素直に、そう思った。
 あの時に助けた雀が、本当に大きくなった。さっき抱き抱えた時に、痛感した。十年。十年も経てば、成長するのも当たり前だ。残念でならないのは、その成長を間近で見ることが出来なかったこと。そのことだけが、胸の奥をチクチクと痛めた。
 世界はきっと、優しいのだろう。
 そして、優しいからこそ、――辛いんだ。

     ◎

 玉子焼きを作って欲しい、とは言ったものの、よくよく考えると、卵の買い置きなんてひとつも無かったのを思い出した。
 仕方が無いのでスーパーが開店してから買いに行こうと思っていたが、幸いにも、雀の少女はどうにも朝が苦手らしく、九時を回ってもまだ夢の中だったため、起こさないようにそっとアパートを出て、急いで卵を買いに行った。家に帰り着いて冷蔵庫に卵を入れながら、「雀が寝坊なんて可笑しいな」と笑い、「そういえば玉子焼きは共食いにはならないんだろうか」と首を傾げる。
 結局、少女が目を覚ましたのは十時前の頃で、酷い寝癖の頭をそのままに辺りをくるくると見渡しながら、「おはよう」と挨拶したこちらに対し、呂律の回っていない口で「おふぁよぅはぃまぅ」と言った。
「顔を洗っておいで。タオルはこれを使って」
 むにゃむにゃと返事をしながら、それでもベットから起き上がり、ふらふらの足取りへ洗面所へ向かって行く。それから十分くらいしてようやく少女が戻って来て、その頃には眠気も吹き飛んだのか、昨日の元気を取り戻していた。
「玉子焼きを作りますっ!」
 そう意気込んだ少女に笑いかける、
「そうだね。お願いするよ」
 少女の手際は、決して良いとは言えなかった。
 ただ、小さな台所でせっせと料理を行う少女の後姿からは、本当に一生懸命さが伝わって来て、それだけもう、お腹が一杯になる思いだった。随分と長い調理の後、それなりに綺麗な形の玉子焼きを皿に乗せ、少女がこちらに戻って来る。ものすごく自信満々の顔をしていて、テーブルの上に置いたところで、「どうぞ、食べてください」と笑った。
「うん。有難う。いただきます」
 玉子焼きを口に運んだ。
 噛んでまず最初に思ったこと。――甘い。
 玉子焼きには三種類あると思う。単純に言うと、砂糖などを入れる甘いタイプと、何も入れない普通タイプと、醤油や塩を入れる塩辛いタイプだ。少女の作った玉子焼きは砂糖を入れる甘いタイプで、おまけにその砂糖は、きっとかなりの量だろう。
 もともとは塩辛い玉子焼きが好きだった。むしろ、玉子焼きはそういうのが当たり前だと思っていた。十数年前に初めて、甘い玉子焼きがあることを知った。今となっては馬鹿らしい限りだが、それに対して口論になって喧嘩もしたことがある。その玉子焼きに対しての喧嘩は、長らく終結を見ないで停滞し、そしてそこからさらに数年後に、新勢力の意見により、遂に終結した。
 玉子焼きは、甘いものである。そう、結論付けされた。そして、その新勢力に対しては、反論することができなかった。
 初めて作った料理は玉子焼きだった。砂糖がいっぱいの、甘い玉子焼きだった。
 そこから、甘い玉子焼きも好きになった。今では、甘い方が好きだった。
 甘過ぎる玉子焼きだった。本当に、甘い。甘過ぎて、思わず涙腺が痛んだ。
「どうですか?」
 無邪気にそう聞いてくる少女に気づかれないように目元を押さえ、笑った。
「美味しい。本当に、美味しい」
 その返答に対して、「よかったです」と、少女は満足そうに微笑んだ。
 玉子焼きを食べながら、口を開く。
「これで、君の恩返しは終わりなのかな」
 その問いに、少女は少しだけ困ったような顔をした。
「他に何かあれば、何でもします」
「そっか。そうだね……」
 玉子焼きは甘かった。少しだけ、その甘さに甘えてもいいだろうか。
 ほんの少しだけ。ほんの、少し、だけ。
「……じゃあ、話を。話を少し……聞いてくれないか」
「はい。何でも聞きますよ」
「有難う。……そうだね。ちょっとした、昔話だね」
「桃太郎みたいなのですか?」
 思わず笑ってしまった。
「うーん、ちょっと昔過ぎるかな、それは。もっと最近の、昔の話。あるところに、お人好しな人が居てね。その人は、誰かに頼まれると断れないような、お人好しだったんだ。いろんな人が彼を利用した。彼もそれをわかっていた。でも、彼は人の頼みを聞き続けた。断れない性格っていうのもあったんだけど、彼は、人の役に立てることが素直に嬉しいような、お人好しだったんだ」
 そう。お人好しだった。本当に、お人好しで、――愚かだった。
「でもそんなある日、そのお人好しに昔の友達が相談に来た。真摯に相談に乗った彼は、その友達の悩みを解決してあげた。名前ひとつで、友達の悩みは解決した。たったそれだけで、良かったんだ」
 でも、そのたったそれだけのことで、世界は、――壊れてしまった。
 あっと言う間だった。そこから先は転げ落ちるだけ。すべてを手放す結果となった。手放さなければ、すべてが壊されてしまうと、すべてが壊れてしまうと、そう、思ったから。
 愚かだった。本当に、愚かだった。自業自得。全部全部、自分のせいで、失ってしまった。
 気づけば雫が頬を伝っていた。
 それに気づいた瞬間、慌ててそれを拭った。
「っと、ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ、すまないね」
 そう取り繕うと、いつの間にか俯いていた少女が、小さく言葉を紡いだ。
「…………あの、」
「なんだい?」
 そして少女は、言った。
「…………お母さんが、再婚……します」
 一瞬だけ、少女が何を言ったか判らなかった。
 しかしすぐにすべてを理解して、すべてを納得させた。
「そうか……。そう、だよね。うん。すまないね。僕の代わりに、おめでとう、って伝えてくれるかな」
 俯いたままの少女が、搾り出すように言った。
「……どうして」
「え?」
 顔を上げた少女は、目に涙を必死に溜めて、心からの悲痛の叫びを上げる。
「どうしてっ。……どうして、戻って来て、くれなかったの……っ!」
 その台詞を聞いて、そして、その涙を見た瞬間、胸の奥が抉られるような感覚に陥った。
 もっともな主張だった。複雑な制約なんて少女は判らないだろうし、判ったところで関係なんてないのだろう。自分ばかりが辛い思いをしているなんて思っていない。しかし、心の底で、心の何処かで、自分が一番辛いのだと、思ったことはある。だが本当に一番辛かったのは、果たして誰であったのだろう。
 頬を伝った涙が、床に落ちていく。
「……もう、だめなの……? もう、……戻れないの……?」
 切実なその問いに、答えを返せない自分が居た。
 本当は。――本当なら、
 思考を捻じ曲げる。意志を捻じ伏せる。ダメだ、と自制する。
 思ってはいけないこと。確かに少女は今まで、寂しく辛い思いをしてきたのだろう。それは自分の想像を絶することなのかもしれない。だけど、今にようやく、少女は、少女たちはその痛みを消せるかもしれない岐路に立っているのだ。ここで自分が出て行って、彼女と、そして少女の邪魔をすることなんて、絶対にしてはいけない。自分の蒔いた種なら、最後まで摘み取らなければならない。ただ単純な話、もう――時間切れなんだ。
 悲痛な瞳を見据えながら、小さく息を吐いた。
 声が震えないかだけが、心配だった。
「……雀さん。君の居るべき場所はここじゃない。自分の場所へ、お帰り」
 その言葉を聞いた瞬間、少女が急に立ち上がった。
 そして、真っ直ぐにこちらを見据える。
 ――この時の少女の顔を、僕は、一生忘れないと思う。
 やがて少女は、何の言葉も発しないまま、自らの荷物をまとめて歩き出す。部屋を横切って、ドアから出て行くまで、少女はもう、何も喋らなかった。
 誰も居なくなってしまったボロアパートの一室で。心が空白に染まったかのようなその場所で。
 目の前にあった卵焼きを、呆然と食べた。
 甘い。甘過ぎる卵焼き。この甘さを、自分は、もう二度と。
 何年も忘れていた涙が、頬を伝っていく。





2014-07-16 21:51:29公開 / 作者:神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶり、いつも付き合ってくれている方はどうもどうも、卵焼きは甘いものしかないんだと高校生まで信じていた神夜です。
今回は短い物語です。いつもの神夜ではない物語です。つまりは「誰だよ」と「白い何か別なモノ」と同じ系統のヤツである。たまにこんなのを書いてみたくなるのは、発端を作ったどっかのロリコンのせいである。うん。間違いない。
結婚というイベントを経たら子供が産まれるのは仕方が無いことであるのだけれども、神夜は三次元の子供が大嫌いである。本当に嫌いである。だけど知り合いには「お前は子供が出来たら絶対に親馬鹿になる」と口を揃えて言われます。薄々判ってはいるんだけれども、きっと女の子なら親馬鹿になる気がする。女の子ならつけたい名前はいろいろ考えることが出来る。男なら知らん。太郎でいいんじゃね。
そんなことはさて置き、きっとどこかではこんなやり取りをする家族もいるんじゃないだろうか、と思って書いた物語。ハッピーエンド大好き神夜では考えられないラストである。こうならないように頑張ろう、とかそんなことを思いながら仕事もせずに小説を書く神夜なのでした、まる、と。
暇潰しにでも読んで頂ければ幸いですと思いながら、神夜でした。
この作品に対する感想 - 昇順
こんばんは。さっそく読ませていただきました。
ああ、久しぶりに、神夜さんの別系統のほうの作品ね、と思いながら読み始めて、でもやっぱりファンタジー要素は入ってくるんだなあと思って読み進めて……ところがファンタジーのかけらもなかった…。最後の辺りはファンタジーであってくれと思って読んでたが、願いもむなしく救いのない終わり方。ハッピーエンドしか認めないはずの神夜さんにしては確かに珍しいけど、僕でもこの小説はこういう終わり方にするだろうなと思いました。
「誰だよ」なんかに比べると、描写の量は減っていますが、空気感は出ている気がします。コンビニ弁当が鉛のように重い、の一言だけで、孤独な男が歩いている情景が浮かびます。
しかし、時折こういうものを書かれていることが、神夜さんのメイン系統の小説にも確実にプラスになっているように思います。最近のメイン系作品、段々深みを増しておられるように感じるからです。もちろん、リアル人生での色んな経験によるものもあるんでしょうけどね。実際にお子さん(=「太郎」)が出来たら、どんな物を書かれるか楽しみです。

余談ながら、読んでいてミスチルの「くるみ」のPVを思い出しました。あれはもうちょっと前向きですが。
2014-07-17 19:38:04【★★★★☆】天野橋立
読ませていただきました。
ショートだと思っていなかったので、少女の存在を勘違いして(本当の雀と思って)読了してしまい、初め、???と。改めて読み返し、ああ、この主人公は、堕ちるべくして堕ちた人間だと深く感じました。
捨てなくても済む物も捨て、立ち上がれる筈の場面で泣き崩れ、救いの手を疑い拒んだ哀れな男だと。ハッキリ言って大嫌いな部類の人間だ。つまり、正に自分がこの男と何ら変わらないのが嫌なんですね。
この長さなので、仕方ない事ですが、幾つか思った事を。・・・彼の状況から推察される彼の内面的ヤサグレ感がない。堕ちた人間の割には生活面に悲惨さが足りない。後、作者様がこの駄目男に優し過ぎる。
ただ、総合的に言うと現実ってもっと悲惨だけど、恩返しなのだから、この位の救いがあってもいいよね? て、素直に思います。やはり、優しい書き手の物語は優しさが随所に滲むのでしょう。
後、かなり私的な意見ですが、神夜様には余りこの手の話(これより悲惨な話)を書いて欲しくない、と思います。折角の明るい文章文体に、影を感じたくないのです。勿体ないな、と。
この哀れな男にはもう、かつての家族を養う義務も無くなった様ですが、彼は今後、何の為に生きるのか。・・・そんな彼には、『前を向け、キッと天を見上げ深く息を吐き出し吸い直せ、さすれば再び生き返れる』と告げた僧侶の言葉を捧げます。
読ませて頂き、ありがとうございました。
2014-07-19 19:55:46【★★★★☆】半獣
 ……同じような題材で書いていたところだったので、読んだ瞬間「あ、かぶった」と思ってしまいました(笑) 神夜さんはこう書くのか、というような目線で読んでしまったので、まともな感想は書けなさそうです。ただ一点、雀さんがかわいすぎて――かわいすぎる分、現実味がすこし感じられなかったかなと思います。えらそうにすみません。しかし、新婚でこんな話を書けるものなんですね……? びっくりしてしまいました。お二人の未来に幸多きことを祈ります。
2014-07-20 00:20:58【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
こんにちは。御作を読ませていただきました。木の葉の家の卵焼きは甘いです。
ファンタジーかと思ったら違いましたね……最後まで、何か救いはないものかと探してしまいました。主人公の言葉遣いが丁寧で、きっと素敵な方なのだろうと想像し、それゆえに辛すぎるお話だと思いました。私もハッピーエンド主義者なので……。ラストで、彼が雀さんに「自分の場所へお帰り」と言うことしかできなかったというところに、少しひっかかったというか……結末は変わらなくとも、彼ならもう少し、別の言葉をかけてあげられたかもしれないのになあと、出過ぎたことを思ってしまいました。
「世界はきっと、優しいのだろう。そして、優しいからこそ、――辛いんだ。」この台詞に泣かされました。次回も楽しみにしています。ありがとうございました。

2014-07-20 16:39:42【☆☆☆☆☆】木の葉のぶ
お久しぶりです。
作品を読ませていただきました。
相変わらず綺麗にまとめてくるなぁ。テンポよく読め楽しく読ませていただきました。恩返しというありきたりの題材を主人公的には辛いことかもしれないけど優しく降着させているのはいいですね。
ただ、冒頭の主人公の状況(心情)が、ありきたりな印象を受けました。また、雀に恩返しに来たと言われたときの主人公の心情を切り捨てているため後半部分に対して、前半部分が淡泊な印象は否めませんでした。同時に主人公の冒頭部分と、雀との出会いでの反応の薄さで雀の正体が何となく見えてしまうのもざんえんだった。もっと引っ張っても良かったかも。
と、色々と書きましたが面白く読まさせていただきました。次回作品を期待しています。
2014-07-20 19:48:10【☆☆☆☆☆】甘木
いやいや、狸にとっては、これもたいへんに心の温まる、冬の白金懐炉(古い?)のような好短編でした。最後の涙は一見塩辛いながら、よくよく味わえば砂糖入りの卵焼きのように、ちゃんと甘い涙じゃないかと。
ひとつだけ注文。読み始めは、なるべく早めのうちに、主人公の年格好を判別できるキーワードがあると吉。狸がアホなだけかもしれませんが、かなり読み進めるまで、もうちょっと若い世代かと思いこんでおりました。
2014-07-20 20:52:08【★★★★☆】バニラダヌキ
ご返信が遅れて申し訳ありません。8月が週休一日、お盆休みまで消滅する事態に陥って蕩けてしまいそうになっています。ごめんなさいごめんなさい。

天野橋立さん>
ファンタジー要素なんて微塵もないぜよ。最初はもっと「雀ちゃんきゃっきゃうふふ」な作品にしようと思ってたのに、そのままの流れて書いてたらこうなって、気づいたら救いの無い終わりで着地してた。書きながら「なんで自分はこんなもん書いてんだ?」と首を傾げ続けてた。「誰だよ」ではなくどっちかって言うと「白い」と同じパターンで、「短く何かを書く」が前提のため、とりあえず今回は描写に拘ってない結果です。
ふむ。深みが増しているのか。いや個人的には「こういう物語」を書くことによって、確かに何か徐々に神夜の中で変革みたいなもんがあるのではないだろうかと思っていたりするのですが、その具体的例がよく判らないんだ。ただ天野さんがそう言うのであれば、きっと何かあるんだろう。でもやっぱり小説を書く上で大切なのは経験なのだとつくづく思う。十年近く前の作品とは本当に天と地だ。太郎が出来たら子育ての物語でも書くんだろうか、自分。
読んで頂き、ありがとうございました。

半獣さん>
すみませんすみません、神夜が題名に「その一」だったり「前編」だったりをつけない場合は、必ずその場で終わる読み切りなんです。ただ、最初は「本当の雀」にしようと思って書いてたんです。きゃっきゃうふふしたかったんです。でも気づいたらこうなってたんです。不思議。
半獣さんはこんな感じのお人なのか。神夜は「自分に甘く他人に厳しく」がモットーで生きていて、何かあっても「何とかなるだろ」と全部を楽観視して世を渡っているから、正直な話をすると、こういう思考をすることがなかったりします。だから責任感も皆無なのです。きっとこういう人は、どこかで強い責任感を持っているのに、その方向を誤ることがあるのではないかと考えています。まぁ神夜の勝手な想像ですけれども。
優しい書き手の物語には優しさが随所に滲む、か。なんかすごい言葉を貰ったぞ。神夜なんて「物語は全部ハッピーエンドだろ常識的に考えて」とか思ったり、「やべえニーソ少女可愛いよハァハァ」とか思ったりしながら小説書いてるんだけど、優しさはあるんだろうか。いやあるな。登場する女キャラは神夜の理想に近い、だからこそそこに優しさが滲むんだ。そうに違いない(キリッ 冗談は置いておいて、神夜も普段はこんな物語はほとんど書かないんです。でも一年か二年くらい前に初めてこれ系統の話を書いた結果、時折書いてみたくなるんです。その切っ掛けを作ったどっかのロリコンのせいです。攻めるならそいつを攻めて、どうか神夜は見捨てないでください。
読んで頂き、ありがとうございました。

ゆうら 佑さん>
マジか。ゆうら佑さんと似たような内容の作品だったのか。ということは、ゆうら佑さんが投稿したら「盗作ニダ!起源はウリにあるニダ!」と批判すればいいのか。いやすんませんつい。しかし題材が似たようなものだというのは非常に楽しみである、ゆうら佑さんがどんな物語を投稿してくるのか心待ちにしております。
雀さんに関してはすみません、これは神夜の妄想であるが故です。だって、雀さんは超絶美少女なのです。神夜の小説に出て来る女の子は全員美少女で可愛いのです。体重は天使の羽のように軽くてトイレにだって行きません。いいじゃないか。自分の脳内でくらい理想の女の子ときゃっきゃうふふしてもいいじゃないか!
新婚生活が全部希望に満ちているなんて思わない方がよろしいですわよ。今まで実家暮らしで料理なんてしたことなかったけど、相手方が要領悪いせいで全部自分がやるようになってしまった。半年で料理レパートリーが信じられない速度で加速して、ほとんど主婦化している昨今なのです。
読んで頂き、ありがとうございました。

木の葉のぶさん>
ね。卵焼きは甘いものだと信じてました。ただ塩辛い卵焼きはご飯のオカズになるんですよね。
救いなんてないんや。救いがあったらこの作品に神夜自身が未練を残してしまいそうだったから、最後の台詞もこうした。突き放して、救いの無い物語で叩き潰しておかないと、この物語の「続き」がいつか神夜の頭の中で再生されそうだったから。「ハッピーエンド」でも「バットエンド」でも、そこで終わりにしておかないと神夜はダメなんだ。どっちに転ぼうとも未練が残ってしまうと、神夜はそればっかり気になってしまう。引っ掛かりを感じたのも、きっと無理矢理叩き潰したがゆえだと思います。すみません。次書くならもっとハッピーエンドな物語を書くので、機会がありましたらまたお付き合い頂ければと思います。
読んで頂き、ありがとうございました。

甘木さん>
甘木さんもガンガン作品書こうぜ。艦コレはまぁ仕方が無いにしても作品書こうぜ。甘木さんの明るい感じの物語が読みたいんや。あんな暗いもんいらんのや。やめてくれ死にたくなるんや。
最初は本気で何も考えてなかったがゆえの、冒頭のありきたり感だと思います。久々に感情移入もせずに書いてしまったから、たぶんそう思われているのではないかと考えます。そして、ご存知の通り、神夜は伏線とか、最後のどんでん返しとか、そういうのがものすごく苦手なのです。だから「雀の正体って娘だったのか!」とか、そういう驚かし方がまったく出来ない。これはもう神夜の限界である。だから開き直って「初っ端から正体判るだろドヤァ」レベルで書いてる。引っ張る書き方が本当に出来ないんだよなぁ……
読んで頂き、ありがとうございました。

バニラダヌキさん>
おい、いいのか。これに関しては狸さんに読まれないんじゃねえのかとか、読まれても「青二才がくたばれ」とか言われるんじゃねえのかと心配してたんだけど。マジか。誉めて頂けるのか。うむ。投稿しようか実は迷っていたりしたのですが、えがったえがった。うん。
すみません。冒頭部分は薄々感じてはいたのです。ただ、おっさんの主人公をほとんど書いたことがない神夜のため、そのキーワードの入れ方が実はよく判らないんです。高校生とか大学生は簡単なんだけど、社会人以上だと、「会社」としかか書けないんだけど……これはあれか。天野さんとかの作品からパクるのがいいのかもしれない。
読んで頂き、ありがとうございました。
2014-07-24 17:35:57【☆☆☆☆☆】神夜
 初めまして、御作を拝読させて頂きました。
 優しいけれど悲しい物語ですね。この文量でこのメッセージ性はひとえに作者様の筆力の賜物であると思います。構成も安定していて文章も無駄が無く、読み易さと懐の深さを感じました。今までにもお書きになった御作をひっそりと拝読させて頂いたこともあったのですが、読者の期待を裏切らないなぁといつも感嘆してしまいます。
 他の方も書かれていますが、唯一つ、主人公の年齢層がわからなかったのがウィークポイントかと思います
。もう少し「くたびれたおっさん」(笑)を強調しても良かったかもしれないですね。読み進めていくうちに合点がいったのでそれも一つの成功要素かもしれませんが。
 他の作品も読ませて頂こうと思いつつ、これくらいで失礼します。
2014-07-31 11:59:47【★★★★☆】夏海
おひさしぶりです、お元気ですか、ごきげんよう。カフェオレだよ。
社畜になったおかげで毎日が短く、登竜門に足を運ぶのも難しくなったけど、久々に来てみたら幻さんの短編が出てたから読んだ。
正直な話、俺は幻さんの勢いのある物語は当然好きなんだけど、こういうバカっぽさがない話の方が好きなんだよ、きれいにまとまってる感じがしてね。
これもいいなあと、素直によかったという。結構みなさん、年齢の話をしていたのだけど、俺はその辺を含め好きだった。
この作品ははっきりとした表現をさけてる。断定的な言い方をせず、こういう言い方をすれば大方わかるでしょという表現におさえてる。だから、主人公もそれでよかったと思う。
まとまりすぎてて、もう一山物語として盛り上がりがあってもよかったかなと思うけど。
ああ、最後の娘の表情だけが、気になる。あれはどんな顔をしてたんだろう。いろんなパターンが想像できる。ただ、どれも決していいものじゃないけど。
久々に足を運んで、これ読めてよかった。長編の方も、お盆に時間があればなんとか読みたい。
では。
PS:結婚したの? 式呼べって言ったのに。
2014-08-04 01:24:43【☆☆☆☆☆】コーヒーCUP
ご返信が遅れて申し訳ありません。

夏海さん>
初めまして、神夜です。お読み頂きありがとうございます。
筆力の賜物なんてお言葉を頂くとケツの方が痒くなるのですが、お褒めのお言葉、有難く受け取らせて頂きます。描写のことを誉めて頂けるとそれだけ神夜は満足です、どうもありがとう。
しかし過去作品、読んで頂けたことがあったのですか。そちらに関しても感謝を捧げます。おやでもおかしいな、感想なんてどこにも――嘘ですすんません。
年齢に関しては自分の頭の中で完結していたがゆえ、描写として残してはいませんでした。いやむしろ、神夜の頭の中ではぶっちゃけ、明確な年齢設定はしてないんです。その辺り、適当に考えながらその場その場で書いてるもんで……。「くたびれたおっさん」(笑)と標記されるとダメだ、シモネタ言ってひとりでゲラゲラ笑う奴しか思いつかなくなってしまう。
このような物語でも、少しは何かを受け取って頂いたみたいで感謝です。
読んで頂き、ありがとうございました。

コーヒーCUPさん>
おうコラ、久々に顔出したじゃねえかカフェオレコラ。アイス混ぜんぞ。なんだ、てっきり就活失敗してニートまっしぐらかと思ったら、案外ちゃんと社会人やってんのか。今度飯でも奢れよ。前に奢ってやっただろ?お返しはするもんだぜ。
勢いが無い物語って、でも神夜の能力だとこれくらいの短編が限界なんだよ。だからこそ綺麗にまとめることが出来ているのかもしれないんだけど、こういうのばっかり書くのは案外疲れるんだ。やっぱりハッピーエンドであったり、可愛い女の子ときゃっきゃうふふしたいんだよ。
もう一山物語として盛り上がり。その通りだと思う。ただいつもの如く何も考えて無いから、どうしようもないんだ。最初のプロローグから、何とか着地に向かって歩いていたらこう終わった、というのが神夜の素直な印象。何とか出来ればよかったんだが、そうするときっとこの物語は封印されてたと思う。
最後の表情だけは絶対に描写しない。だからこそ想像して貰う。珍しく神夜が読んでくれる人に丸投げした描写である。
読んで頂き、ありがとうございました。
PS:てめえふざけんな、甘木さんとこかどっかで、ここに連絡よこせっつってアド書いてやったのに、無視したの貴様だろぶっ飛ばすぞ。
2014-08-13 19:13:08【☆☆☆☆☆】神夜
計:16点
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