『エール』作者:リハーサル / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角10974文字
容量21948 bytes
原稿用紙約27.44枚
 カーン。
 鈍い金属音を置き去りにして、白球が空高く舞い上がる。打球は徐々に伸びを失い、やがて力無く落下してセンターを守るヤマちゃんのグラブに吸い込まれた。観戦していた人々からぱらぱらとしたねぎらいの拍手が送られ、マウンド上で身体中に張り巡らされた程良い緊張感が抜けていくのを感じた。
 忘れもしない。初めて味わった、勝利の瞬間。


 ――――――――――――――――


「…………ん……あぁ……」
 慣れないベットでの睡眠は無駄に神経を使う。いつものジメジメした畳敷きの部屋と違って清潔感あふれるこの空間はどうも居心地が悪く、初日の夜など、高校生にもなってこの程度の環境の変化で寝付けなくなる自分が本気で情けなかった。ただ、どうしても落ち着かないのだ。母さんは気を使って個室にしてくれたらしいが、こんなことなら大部屋の方が良かったのかもしれない。色々と面倒くさそうだけど。
 部屋の雰囲気だけが問題じゃないのは分かってる。テレビを見ていようが、食事のデザートにプリンが出ようが、ここに来てから一時たりとも心安らいだと感じたことがない。そのせいだろうか、最近同じような夢ばかり見る。そして目を覚ましては、目の前に広がる現実を見て、深いため息を漏らす。
 コンコン。扉を叩く音が狭い個室に響き渡る。
「吉井さーん。包帯を取り換える時間ですよー。入りますねー」
 いつもとまったく同じ時刻、担当の看護婦さんが間延びした声とともに病室に入ってくる。午前八時。今日もまた、何も起こらない退屈な一日が始まる。


 たまたま運が悪かったんだ。
 あの時はもう日が暮れていて、しかもバケツをひっくり返したようなどしゃ降りのせいで視界も悪かった。早々に壊れた傘をほっぽり出して、豪雨の中をがむしゃらに家まで駆けていた。
 俺だって気づいてなかった。今年からレギュラーになれて舞い上がっていたのかもしれない。
 まさか坂を下ってくる自転車に正面からぶつかるなんて思ってもみなかった。雨に濡れていたのに身体中がすごく熱くなって、人の声がひどく籠って聞こえた。死ぬんだと思った。
 次に意識がはっきりしたのは、知らない場所の知らないベットの上だった。周囲の騒々しさとは裏腹に、頭の中はひどく落ち着いているようにその時は感じた。自分の名前、齢、好きなこと、今日の昼飯、慎吾から借りた漫画の置き場所。大事なことからどうでもよさそうなことまで、とりあえず片っ端から思い出して、自分は大丈夫だと頭の中で言い聞かせた。今思えば、十分動揺していたのだろう。
 脇で母さんが泣いていて、静岡に出張に行ってたはずの父さんが何とも言えない顔でその肩に手を置いていた。しばらくして、病院に運ばれたときに血まみれになっていたこと、四日間意識が戻らなかったこと、その間もずっと母さんが泣いていたこと、自転車に乗っていた人は比較的軽症で済んだこと、そして……利き手で二度とボールが投げられないことを伝えられた。
 その日から世界が色あせて、あらゆるものがつまらなく感じるようになった。



「包帯取り替えますねー」
 この距離まできてようやく気付いたが、どうやらいつもと違う人らしい。新人さんらしく、少しぎこちない手つきで自身の仕事を進めていく。この作業中も最初はやや緊張したものだが、勝手が判ってくればなんということはない。要は顔を合わせなければいいのだ。お年頃なんだから仕方ない。
「だいぶ良くなってきましたねー」
「はい」
「吉井くん野球部だっけ?」
「はい」
「ピッチャーやってたんだって? かっこいいねー、長嶋みたいだね!」
「はい」
 長嶋はピッチャーじゃありません。
 疲れる。大して興味ないなら話を振らないでほしいものだ。それに気を遣ってるつもりなのかもしれないが、正直野球の話を振るのはどうかと思う。ようやく作業が終わり「すぐに良くなりますよ!」などと笑顔で言い残し、新米看護婦はいそいそと部屋から出て行った。なんとなく、外の空気が吸いたいと思った。


 ―――――――――――――――


 ここの病院の中庭は、太陽が出ている間はずっと日が当たる造りになっている。向かい側には入院している男女の老人が二人、色とりどりに咲く花壇の花を指さしては会話をし、時おり優しい笑顔を見せる。
 息苦しい個室を抜け出しては定位置である中庭のベンチの一つを陣取って、無意味に時間を過ごすのが毎日の日課となっていたのだが、流石に五月の半ばを過ぎるといささか日差しが暑い。とはいえ他に行く場所なんてない。やりたいこともない。本当につまらない。
 ポーン。
(……またあの子か)
 軽やかな音がした方に目を向けると、そこにはこの病院で最も古い大樹がしっかりと根を張って立っている。ここの病院に立派な木があることは地元でも有名だったが、想像以上だった。夏になれば生気あふれる緑葉が生い茂り、秋になれば鮮やかな紅で彩られるのだという。さぞ手入れも大変だろう。
 その大樹の下、小学生位の女の子が跳ね返ったゴムボールを一生懸命に追いかけていた。いつも長い黒髪を後ろで一つに束ねて、その上に水色のキャップ帽をかぶっている。さっき聞こえたのは、投げたゴムボールがあの太い幹に当たった音だ。
 
 
 彼女は一週間ほど前から現れて、昼食後に三十分くらい、ああやってボール遊びをしている。
 正直言うと、初めは目障りだった。見たところ大きな怪我をしているわけでもなさそうだし、そんなに元気ならさっさと退院して遊べばいいのに。ずっとそう思っていた。だがその光景を見ているうちに、幾つかの不可解な点に気付くようになった。
 彼女は三十分だけ外にいる。三十分きっかりだ。しかもその間は、必ず何人かの看護婦がその行動を監視するように見守っている。彼女が肩で息をしたり、しゃがみこんだりすれば、すぐに駆け寄ってきて一言二言会話を交わし、彼女は笑顔でそれに受け答えてボール遊びを再開しようとする。
 おそらく運動していい時間が決められているのだろう。いや、もしかしたら決められているのは外に出ていい時間で、本当は身体を動かすことすらしてはいけないのかもしれない。
 間違いない。彼女は何か重い病気を患っている。
 頭の中でそう勝手に決めつけてからは、彼女のことを必要以上に意識しないようにした。同情する気持ちはあれど、所詮は他人。ボール遊びをする様子も次第に景色に溶け込み、これまで通り何も無い、無味一色の世界でただただ生きていく。それが一番楽だ。そうなるはずだった。

 
「すみませ〜ん」
 初めそれが自分に向けられたものだとは思わなかった。
 見ると例の女の子がこちらに走ってくる。そこでようやく、自分の足元に青いゴムボールが転がっていることに気が付いた。ベンチから立ち上がり、左手でボールを拾って彼女の小さな手に渡す。
「ありがとうお兄ちゃん!」
 満面の笑顔でお礼を言う彼女からは太陽の匂いがした。多分それが原因だ。
「野球、好きなのか?」
 話しかけるつもりはなかった。唐突に言葉が出てしまったのだ。
 内心で後悔する俺をよそに、彼女は一瞬不思議そうな顔をしてから再び笑顔に戻った。
「うん! 大好きだよ!」
 素直な答え。
 一か月程前の自分だったら、彼女と同じような答えが出せただろうか。今の自分には眩しすぎる模範解答だ。
「お兄ちゃんは、野球好きなの?」
「……わかんない」
 本当に最低な答えだ。
「何で? お兄ちゃんは野球する人でしょ?」
 すぐに言葉が出なかった。何故分かったのだろうか。
「……何で?」
「だってお兄ちゃんの頭、こないだのこーしえんで野球やってた人とおんなじだもん」
「…………」
 この子はどうやら、短髪か坊主頭の人間はみんな野球をやってると思っているらしい。なんという短絡的思考。いかにも子供っぽい発想だ。その時はそれが、妙におかしく思えた。
「えっ? なんで笑ってるの!」
 気付かぬうちに口元が緩んでいたらしい。子供は嫌いではなかったが、特別好きなわけではない。らしくないことをしている自分に、ただただ驚いた。
 突然笑われたことが不快だったのか、彼女は少し怒ったような表情で問いただそうとする。それがまたおかしい。その様子を見て、監視の看護婦さんが少し動揺しているようだが、今はそんなことどうでもいい。雨上がりの虹を見たような、そんな気分になった。


 ―――――――――――――――


「へぇ、さっちゃんは俺よりも前から入院してたんだな」
「うん。去年の夏休みからここにいるの」
 秋本 幸。通称『さっちゃん』と大樹の木陰の下で色々と話をした。
 さっちゃんは生まれつき身体が弱く、少なくとも週に四回は病院で検査を受け、長期間の入院をすることも珍しくはないらしい。
「前の年は二月に退院してね、ずっと元気だったの。跳び箱だってやれたんだよ。だけどね、夏休みに入ってからお熱がたくさん出て、お母さんにまた病院に連れてこられて、そのままここにいるんだ」
 そう話すさっちゃんの表情は心なしか不安そうだ。
 そりゃ怖いだろう。退院してもいつまた体調が悪くなるか分からないのだから。
「お兄ちゃんはピッチャーなんだよね。お手てをケガしたの?」
 首にぶら下がっている包帯でグルグル巻きの右腕を、さっちゃんが心配そうに覗きこむ。
「ああ。ちょっと自転車とぶつかってな」
「……痛くなかった?」
「あ〜、よく分かんなかった」
 実際本当によく分からなかったのだ。記憶もあやふやで、どこからどこまでが現実だったのか、改めて思い返してもやっぱり分からない。
 そんな適当な答えだったにも関わらず、さっちゃんは一度だけ頷いて、俺の右手の甲の辺りの手を置いた。
「早く元気になるといいね。サチも元気になったら、お兄ちゃんが投げてるところみたいな」
 見上げてくるのは先程と同じ眩しい笑顔。それが小さな重圧となって、肩にのしかかる。
 この子の望みはおそらく叶うことはないだろう。あの日以来、もう一度野球をやりたいと思ったことなどないのだから。
「そうだな。さっちゃんも元気になった時は、一緒にキャッチボールでもするか」
「うん! 約束だよ!」
 さっちゃんがか細い左手の小指を出し、俺もそれに応じて左手で指切りをする。
 決して果たされることのない、偽りの約束。
 その時、薄々気づいていたのかもしれない。さっちゃんは多分。


 ―――――――――――――――


 部屋に戻ってすぐ、母さんが面会に来た。
 なにか不自由はないか、欲しいものはないかと聞いてくる母さんの表情は常に笑顔だ。無理をしているのが一瞬でわかるくらいの作り笑い。少し痩せたのかもしれない。
「そういえば今日、山本君から電話があってね」
 肩がビクついたのが自分でも分かった。色々な思いが胃の辺りで渦巻く。
「明日は練習が休みだから、四時頃にお見舞いに来てくれるって」
「……ん」
 ヤマちゃんが来る。
 面会の許可が下りた時から、いつかこの日が来るんじゃないかとは思っていたが、ついに来たか。明日を迎えるのがひどく億劫になった。


 ヤマちゃんとは腐れ縁、きれいに言えば幼馴染だ。
 小学生の時から地元のチームで一緒に野球をして、中学高校と同じ学校に進学した。ヤマちゃんは聞き上手で面倒見がよく、同世代は勿論、先輩や後輩からも頼られるチームの中心だ。
 人の感情を読み取る洞察力が高くても、分かったところでそこに深入りをしようとする人間は少ない。俺もそうだ。
 だけどヤマちゃんはあえてそこに踏み込んで、その人の本質というか本音のようなものをいとも簡単に引き出してしまう。傍にいてくれてこれ程頼もしい親友はいない。本当にあいつと出会えてよかったと思ってる。

 そのヤマちゃんが明日来る。すべてを見透かす親友が。
 今の俺の変わりようを見たら何と言うだろうか。十年以上も一緒に居たのに、ヤマちゃんの心理が想像できない。それがすごく恐ろしい。
「それじゃ拓也。お母さんもう帰るから。また明日来るわね」
 少し放心状態になっている間に、持ってきた花を花瓶に移し替えた母さんは部屋を後にした。あまり匂いのきつくない色とりどりの花。この花の名前はなんだったか?
 再び部屋が閑散とする。やっぱりここは、居心地が悪い。


 その夜はいつも以上に寝つきが悪かった。すでに日付が変わり、時計の針は間もなく1時を指そうとしている。退屈だと思っていた一日は、随分と内容の濃いものになった。
 さっちゃんとの不思議な出会い。そして、ヤマちゃんからの突然の襲撃予告。
 どちらもサビついた精神に強い衝撃を与えるものであったが、その質は全く違うものだ。前者が有名洋菓子店の絹ごしプリンを初めて食べたときの感覚だとすれば、後者はモチをのどに詰まらせたときのものだろう。
 なんにせよ、ヤマちゃんが来ることは決定事項だ。それなりの心構えをしているうちにこんな時間になってしまった。
 ヤマちゃんには何と伝えよう。恐らくもう投げられないことは母さんから聞いているだろう。ならば余計な事を言う必要はない。言わなくてもあいつならわかってるだろう。ただ起こったことだけを伝えて、あいつらのこれからの活躍にエールを送ればいい。
 俺はただこう伝えればいいだけだ。
 
 もう一緒に野球はできないと。


 ―――――――――――――――


「大分ちゃんと当たるようになってきたな」
 跳ね返ってきたボールをうまくキャッチしたさっちゃんにそう言うと、彼女は嬉しそうに笑いかけてくる。
 今日もさっちゃんが的当てをしていたので、少し投げ方のコツを教えてみた。元々運動は得意なようで、素直に指導を聞いていたさっちゃんの腕はみるみる上達した。何よりコントロールが安定して、幹の丸みの部分に当てて変な方向に跳ね返ることが少なくなった。この短期間で大したものだ。
「お兄ちゃんが教えてくれた通りにやったら、ちゃんと当たるようになったんだ。やっぱりお兄ちゃんはすごいね」
「さっちゃんのセンス良いんだよ。本当に上手くなった」
「せんすって何?」
 少し解答に迷った結果、前に有名な監督が言っていたやや臭いセリフを拝借することにした。
「そうだな〜……本当の野球好きが持ってる、見えない宝物ってとこかな」
「見えないのはつまらないね」
「全くだ」
 そう言ってまた、俺もさっちゃんも笑った。もうすぐ規定の三十分。この後はヤマちゃんとの面会だ。
 もう少し。あともう少しだけ。


 ―――――――――――――――


「よお、故障者リスト入り! 記憶喪失とかなってないだろうな!」
 いきなりこれだ。俺は今、すごく安心したような顔をしているだろう。
 人がどんな心構えで会えばいいか散々悩んでいたというのに、この親友の軽口を発する声と、底抜けの明るい表情を前にすると、本心を隠そうとして幾重にも建てた心の壁が一遍に吹き飛び、張り巡らされた緊張の糸がブツリと切れる。その結果として、不覚にも表情が緩んでしまった。
「全然面白くねーぞ」
「結構結構。……まあ……とりあえず元気そうだな、タク」
 ヤマちゃんはそう言って、手近にあった丸椅子を引き寄せて座る。
 暫く見ない内に、また体つきがでかくなったみたいだ。なるべく気付かれないように、少し細くなった自分の左手を掛布団の中に隠す。
「部の方は心配すんな。とりあえず夏大の予選はともやんが投げてくれる。スライダーの制球力がずいぶんと上がってな。あれなら大丈夫だ」
「……そっか」
 正直そこだけが心配だった。大事な予選を前にして突然こんなことになって、チームに迷惑をかけたんじゃないかと思ったが、問題なかったようだ。
「それと慎吾が言ってたぜ。『もしタクが死んでたら、あの漫画取り返しに行きにくいからな。生きててくれてありがとう』、って」
「知らねーよ! 勝手に持ってけよ!!」
「あと、マネのゆかり先輩がお見舞いでアップルパイ焼くとか言ってたからそのうち来るかもな」
「去年の合宿ん時、あの人の作った料理で死人がでかけたろ。丁重にお断りしろ」
 いつもの日常が少しだけ帰ってきた気がした。
 なんというか、相変わらずのようだ。
「にしてもお前、何日もこんな辛気臭い場所に閉じこもって一体何して過ごしてんのかと思えば、まさか幼女をたぶらかしていたとはなぁ〜」
「…………は?」
 唐突な発言に思考が追い付かない。母さんは知らないはずだ。話してないんだから。
 知っているのは俺と…………あぁ、そういうことか。
「会ったのか」
「ああ。ここに来る途中の廊下ですれ違ったら、『お兄ちゃんとおんなじ、野球してる人の頭だあ〜!』ってさ」
 またその間違った解釈で判断したのか、あの子は。というか、真似をするな。気持ち悪い。
「随分懐かれてるみたいだな。楽しそうにお前のこと話してたぞ。ああ、そういや職業体験で保育園行った時も、ちっちゃい子に人気者だったな〜お前」
 ……不味い。完全にヤマちゃんのペースに乗せられてる。
 このまま本題に入れば確実に丸め込まれる。やはりこちらから切り出すべきだ。
「うるせーよ…………なぁヤマちゃん……他に聞きたいことがあってここに来たんだろ?」
 できる限り感情を隠して、無表情を保ちながら言い放つ。場の空気が一変した。
 そんな俺の態度を見て、ヤマちゃんは一瞬寂しそうな表情を見せると、下を向いて大きくため息をついた。
「やっぱりだ……元気はあるけど余裕はないみたいだな、タク」
 ヤマちゃんがゆっくりと顔を上げる。
 不敵な笑みを浮かべながらも、その眼差しは真剣そのもの。
 チャンスで打席に立つ時と同じ、力強い表情だ。
「面倒くさいから直球でいくぞ、タク…………お前、また野球ができるのか? ……いや……本気でまた野球をやる気があるのか?」
 
――――野球をやる気があるのか?

 頭の中で同じ言葉が何度も響き渡る。ヤマちゃんが来ると聞いた時から、ずっと恐れていた質問。もう逃げられない。
 返す言葉が見つからないが、このまま黙り込んでしまうのは余計に不味い。
「そういう風に見えるか?」
「ああ見える」
 苦し紛れの返答が一蹴される。少しは加減してほしいものだ。ヤマちゃんの発する言葉の一つ一つが、長期間のブランクがあった精神に容赦なく突き刺さってくる。
「無関心を装おうとしてる割に、無駄に感傷的だからなぁ、お前は。自分に降りかかったことに対して、後ろ向きな考え方しかできないんだろ。どうせ、もうボールが投げられないって言われて、何もかもやる気が無くなっちまったんじゃないのか?」
 見えない何かが両肩にのしかかる。
「右がダメなら左で投げてみりゃいいじゃねぇか。そりゃ最初は辛いかもしれないが、……」
 重い。
「左で投げられるようになりゃ野手転向ってのもありじゃないか? やってみりゃ意外としっくり、……」
 重い。
「……なぁ、タク」
「やめろ」
 やや語気が強くなった。なんとも言えない悔しさと、行き場の無かった入院中のフラストレーションが爆発しそうになるのを必死に抑え込もうとする。ここでそれをやったらお終いだ。
 しかし、そんな思考とは裏腹に、感情的な言葉が次々に飛び出していく。
「そうだよ……もう嫌なんだよ、もうダメなんだよ。俺はもう何もやれないし、何もやりたくない。いくら努力したって、たった一回で、たった一瞬で全部消えちまうんだよ」
「……タク」
「そもそも何なんだよ、何で来たんだよ! 俺が沈んでるのが分かってて、笑いにでも来たのかよ!」
「タク!」
「いちいち俺に構うんじゃねぇよ! お前も、母さんも、あの子も! いい加減、鬱陶しいんだよ!」
 突然左肩をつかまれる。正面にあるのは、怒りで歪みかけている親友の顔。
 ヤマちゃんの拳が、今にも殴りかかってきそうなほど固く震えている。
「タク……俺のことはいい、いくらでも罵れ。けどな……自分の家族、ましてやあんな小さな子供にまで当たるのだけは止めろ。そんな卑怯な事だけは、 絶対にすんじゃねぇ!」
 初めて見た。ここまで追い詰められたヤマちゃんの表情(かお)を。
 初めて見た。他人(ひと)のためにここまで怒れる人を。
 肩をつかむ右手に無意識に力が入っていることに気付いたのか、ヤマちゃんはハッとして手を退けた。
「悪い…………また出直してくる」
 ヤマちゃんは俺の返事も聞かずに立ち上がり、使い古したボストンバックを担いで病室のドアの前で立ち止まった。
「……また、来るからな」
「……勝手にしろ」
 大きな背中にちっぽけなプライドを吐き捨てる。ヤマちゃんはそれ以上何も言わずに、ゆっくりとドアの取っ手を引いた。
「あ、」
 突如、ヤマちゃんの口から漏れる短い音。それと同時に聞こえた、誰かが走り去っていく足音。小さい足音だ。当のヤマちゃん幽霊でも見たかのような表情をしていた。嫌な予感がした。
「なんだよ?」
「……タク…………あの子が、いた」
「…………な、」
「……多分……聞かれてた」
 身に覚えのある感覚が身体を支配する。
 ああ、そうだ。あの時と、腕のことを知った時と同じ。
 
 何か大切なものを失った時の感覚だ。


 ―――――――――――――――


 五月も終わり、段々と梅雨の季節が近付いてきた。小雨が降ることも多くなり、中庭の紫陽花のつぼみがふくらんできているのが、二階の窓からでもよくわかる。
 あの日以来、さっちゃんの姿を見なくなった。
 中庭でボール投げをしていないのは勿論、院内でもあの元気な姿を見ることがぱったりと無くなったのだ。もしかしたら、さっちゃんはこの病院で亡くなった女の子の幽霊で、成仏できずにさまよっていたんじゃないか……などという馬鹿な考えは流石に浮かばないが、やはり気になるものは気になる。
 だいたい、さっちゃんの病室はちゃんと存在している。以前はRCなんとかとかいう特別な部屋で一日中治療を受けていたそうだが、今は3階にある個室で過ごしているらしい。呼吸器系に問題があるらしいが、詳しいことはよく分からない。とすれば、病状が悪化して外出禁止となったか、あるいは知らない間に退院したのか。できれば後者であってほしいものだ。それにしても一日中監視されるのか。俺だったらあまりの息苦しさに発狂してしまうだろうな。
「もしもし。そこのぼく」
 心外である。まさかこの齢で『ぼく』などと呼び掛けられるとは思わなかった。しかし、目の前の老婦人は間違いなく高校生の俺にそう声をかけている。そしてその呼び方には、これっぽっちの悪意も含まれていないのだろう。恐らく。
「違ってたらごめんなさい。いつも幸ちゃんとボール遊びしてる子よね?」
 弱々しいが、耳の底で優しく囁かれてるような声。銀縁の丸メガネの下に佇む穏やかな眼差しと、特徴的な目じりのしわには見覚えがあった。よく中庭のベンチで、同年齢くらいの老人と一緒に花壇を眺めていた人だ。幸ちゃんとはさっちゃんのことか。知り合いだったとは驚きだ。
「はい、そうです」
「ああ、よかった!」
 初めは探り探りという感じだったが、俺が目的の人物だと確認が取れるや否や、彼女は人懐っこい笑顔を向けてきた。どことなく小学生の時に死んだばあちゃんに似てるような気がした。
「いつも遠くから見てたからあんまり自信なかったのよー。ほら、年をとると目も記憶力も悪くなっちゃうでしょ? 仲のいい兄妹だなって思ってたけど、顔までちゃんと見えてなくてね」
 悪くなっちゃうでしょ?と聞かれても、何と答えればよいものか。生気溢れる若人には、到底理解できそうにない問題だ。何の用件で声をかけてきたのかを聞きたいところだが、それより先に誤解を解いといたほうがよさそうだ。
「兄妹じゃないです」
「あらそうだったの? あんなに仲がよさそうだったから、私はてっきり」
 彼女は心底驚いたように口に手を当てて、意味もなく笑みをこぼした。
「ごめんなさいね。でも本当に楽しそうだったから。……それでね。最近あなたたちのこと全然見なくなったから、何かあったんじゃないかって、夫と心配してたの。あ、ごめんなさい。私、鹿島文恵といいます」
 なるほど。一緒に花壇を眺めていたご老人はこの人、鹿島さんの旦那さんという訳か。夫婦そろって同じ病院で入院生活を送るというのは、果たして不幸なのか、幸せなのか。その辺は本人たちの気持ち次第だろう。
「吉井拓也です。俺は別に……あの子のことも、よくは」
「そう……」
 期待に応えられなかったのは申し訳ないが、仕方がない。俺だってできることなら知りたい。病室を直接訪ねればすぐに分かること。その辺の看護婦さんに聞いてみてもいい。ただちょっと、気が引けているだけだ。
 俺の様子から何かを察したのか、鹿島さんは先程と同じような笑顔を取り繕った。
「ああ、ごめんなさいね、変な事聞いちゃって。ただちょっと心配だっただけなの。それで、前にあの子がお兄ちゃんがいるって話をしていたことを思い出して、あなたのことなのかなって」
 耳から入ってきた情報を理解するのに数秒を要した。この人は今何と言った?さっちゃんにお兄ちゃんがいる?そんなことは初耳だ。
「お兄さんが、いたんですか?」
「あら、知らなかったの?中学…三年生だったかしら。それくらいのお兄ちゃんがいたって」
 ちょっと待て。確かに子供っぽいと言われることはあったが、流石に中坊と間違えられたことはないぞ。即時撤回を要求する。
「……俺、高校生です」
「あらあら、ごめんなさい!」
 本当に悪いと思っているのか信じがたいものだ。これだからお年寄りは苦手だ。
 その後、さっちゃんの兄について詳しく聞くために粘ってみたが大した情報は得られず、その代わりに鹿島さんの旦那さんについて(主になれ初め)や、去年まで通っていたヨガ教室で習ったシワがとれて健康に長生きする体操法など、要するに世間話を長々と聞かされる羽目になった。

2014-03-11 11:26:50公開 / 作者:リハーサル
■この作品の著作権はリハーサルさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
時が経つのは早いもので。最後の更新から二年が過ぎてしまいました、、、

というわけで、初めましての方が多いでしょうから初めまして。もし、もしまだ覚えて頂いけている方がいらっしゃるのならお久しぶりでございます。リハーサルです。

見事に失踪しました(笑)
もともと暇つぶしで書いていたものだったのでいつかそうなるとは思ってましたが……早すぎですね。面目ない。
言い訳をさせていただくと、そのー、大学生活が楽しすぎまして。そんな私も今は3年生。つまり就活です。最近のESはweb上での提出が多いようで、私もパソコンの前に座ってキーボードを打ち続ける日々が続いており、落ちたり受かったりと、一喜一憂しながら過ごしております。

そんな忙しい中での執筆再開となりましたが、どうぞごゆるりとご覧になっていってください。
以前に書いた部分から話は進んでいませんが、大幅に改編しており、新しい場面も追加されております。
読んだことがある方も無い方も、一度目を通していただけたらと思います。

それでは今回はこの辺で。次回の更新は3月中にできる、、、といいな

※この度新規投稿という形でリセットさせていただきました。
 以前にコメントを頂いた、きみまりょ様、Haaya。様、rathi様、鋏屋様、甘木様
 コメントを削除してしまい申し訳ございません!皆様から頂いた貴重なご意見を踏まえて、必ずや今度こそ完結させて見せますので、ご容赦ください、、、

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2/26 誤字修正を行いました。
2/27 内容を追加しました。
   誤字修正を行いました。
3/7 空白の調整を行いました。
3/11 文章中の表現を一部変更しました。
この作品に対する感想 - 昇順
お久しぶりです。鋏屋でございます。
お久しぶりと言いつつも、綺麗さっぱり覚えが無いのは黙っておきますw
てか正直この作品を読んだのか、記憶が非常に曖昧です。言われれば読んだような気もしてきますが……
なので完全新作って気持ちで読みました。以前との違いは全くわからないので、的確なアドバイス等は無理ですのでご容赦を。
読んでて良くある鬱っていきそうな内容だなぁ……と思いますが、今後の展開は気になるところです。主人公の再起に共感できるなら面白くなりそうですね。
ちょっと感じたのは、少々無駄と思える改行が多いかなと思いました。書いてると私も改行のタイミングを計りかねる場合があり、地の文のボリュームに頭を悩ませる事が多々あります。私の場合、Webのビジュアル性で、『このぐらいが読みやすいかなぁ……』つーてきとー感覚でやってますので上手いこと言えませんけどねw
くだらないことを書き綴ってしまい済みません。どことなく涙腺をくすぐる様な内容ですが、ハンカチ装備で更新待ってます。
鋏屋でした。
2014-02-26 10:19:27【☆☆☆☆☆】鋏屋
鋏屋さま、お久しぶりでございます。
いえいえ忘れてて当然ですよw
印象に残る無いようじゃないうえ、二年越しの再スタートですからね。ぶっちゃけ私自身もこのサイト開くまで内容忘れ…ゲフンゲフン

今回も貴重なご意見ありがとうございます。
改行のタイミングですか。言われてみれば多い気もしますが…うーん、どうなんでしょうね?(笑)
あまり自覚したことがなかったもので。
でも、読者様が多いと感じておられるのならそうなんでしょう。うん、多いな!w

主人公のなかなかの自己中ぶりと情緒不安定さが際立っていますが、改心できるんですかねこの子?筆者自身も期待しております(笑)

二月中にわずかですがもう一度だけ更新を考えておりますので、その際はまたご一読いただけたらと思います。

それでは今回はこの辺で…


うん。改行多いなw
2014-02-26 11:02:04【☆☆☆☆☆】リハーサル
 はじめまして。
 感想をつらつらと書いてみますが、そうですね……まず、文章が上手なので読むのが苦になりません。時折出てくる比喩も巧みだと思います。ただ場面がころころ変わるので物語世界に没入しにくいというか、そういう意味でちょっと読みにくさを感じました。内容については、ヤマチャンの登場で展開に彩りが出てきていいなと思ったのですが、主人公とヤマチャンの「入院以前」の関係が(場面として)描かれていない分、彼の存在が薄くなってしまっているのが難点かなと思いました。二人の会話が冒頭の山場のように感じられるので特に……。
 どうでもいいですが坊主頭=野球部じゃないんですねー。誤解してました(笑) それから細かいことになりますけど、「藪蛇」の使い方が違うのではないかと。また、「!」「?」の記号の後にスペースが入っていない箇所がいくつかありました。
2014-03-07 06:17:17【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
ゆうら 佑さま、はじめまして。リハーサルと申します。
文章力を褒めていただいたのは初めてのことで……物書き端くれとも言えない私ですが、やはり嬉しいものです。とても励みになります。
さて、場面の変化が急すぎるとのこと。短編小説を意識していたせいか、少し展開が急ぎ足になってしまったやもしれません。ヤマちゃんについての言及が少ないのもそのせいかと。決して考えるのが面倒になったなどの理由ではありません。ええ、そりゃもう断じて。
「!」や「?」記号の後の空白に関してですが、全くもって仰る通りです。完全にこのルール忘れてました。
「藪蛇」の使い方に関してですが、全くもって仰る通りです。筆者が馬鹿でした。

細かいところまでご指摘いただき誠に痛み入ります。
文章の訂正に関しては時間が空いた際、なるべく早く行いたいと思います。
現在、就職活動と研究室に板挟みにされ、筆者の生活は多忙を極めておりますが、根気よく執筆は続けていきたいと考えていますので、更新の際はまた、お手に取って頂けたら幸いです。

それでは今回はこの辺で…


2014-03-07 19:58:18【☆☆☆☆☆】リハーサル
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。