『ビッグ・ベン【前篇】』作者:田中静馬 / z[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
文化祭を控えた居残り生徒たちに魔の手が。
全角29987文字
容量59974 bytes
原稿用紙約74.97枚
 
 Prologue 

 腕時計を覗く。
 銀色の長針がピクッと動き、夜の九時を示した。それを見て、彼は溜息をつく。職員室で残っていた仕事を片付けていたが、こんな時間まで学校に残る事になってしまった。部屋の中を見渡しても、自分以外の人影は無い。少し前に警備員がやってきて、帰る時には電気を消す様にと言われた所だった。
 彼は教師だった。英語を担当している。今は生徒たちに出題した小テストの採点を行っていた。試しに出してみた抜き打ちだが、どれも酷い点数ばかりだ。中にはまともな者も居る。しかしこれでは、次の定期テストでは難易度を大幅に下げなければならない。もっと高いレベルの問題を出すのが理事の方針らしいが、肝心の生徒がついてこなければ、どうしようもあるまい。
 何とか作業に区切りをつけて、椅子から立ち上がる。背骨が、みしっ、と鳴るのが分かった。ずっと座って手を動かしていたものだから、身体が凝り固まっている。三十代に入ってから、腹も出始め、すっかり身体が鈍っていた。大学時代はスキー部で筋肉の基礎を作っていたつもりだったが、今では脂肪に変わっているようだ。
 職員室を出る。自動販売機で飲み物でも買おうと思った。電気が点いていないので、廊下は真っ暗だった。窓から漏れる月光が、床を白く浮かび上がらせている。
 ――早く帰らないと。
 特別、急ぎの用事がある訳でも無い。しかし夜の学校に一人で残っているのは、あまり好ましく無い。背後に気配を感じすぐに振り返る。勿論、何も無い。奥に伸びていく先まで、闇の住処だ。
 ――まったく。あいつらが、くだらない話をするものだから。
 最近、生徒たちの間で噂が広まっていた。夜になると、時計塔の機械室に幽霊が出る、というものだ。話自体はよくある怪談物の類を出ないのだが、目撃情報などが連なり、妙な信憑性を帯びているのだ。
 実際――、時計塔の機械室、いかにも、という雰囲気を放っていた。現在ではもう使われておらず、生徒達の立ち入りは禁止されている。好奇心の旺盛な彼らからすれば、格好の噂の的であり、幾らでも話に尾ヒレもつける事が出来そうだ。
 淡い光を放つ販売機でコーヒーを購入し、一息つく。煙草は吸わない。むかし禁煙してからは、煙の臭いが嫌いになった。
 ――おや?
 窓から外の景色を見ていた彼は、向こうの棟で明かりが灯っているのを見つけた。
 棟にある時計塔の針は、もちろん動いてはいない。大きな盤は埃を被っている。明かりが見えるのは時計塔の機械室の窓だった。ここからだと人の姿は確認出来ないが、誰かが中に居るようだ。きっと、面白がって忍び込んだ生徒たちに違いない。大方、肝試しの真似事でもしているのだろう。
 ――あいつら。
 彼はコーヒーを飲み干し、空になった缶をそっとゴミ箱に入れる。一喝してやらねば。彼は憤懣を腹に抱えながら、渡り廊下を進んでその場所へと向かった。意識はしていなかったが、そこには仕事の鬱憤の発散も含まれていた。
 ――一網打尽にしてやるぞ。
 足音を立てないように階段を昇る自身に、少し苦笑いを浮かべる。自分まで子供に戻った様な気分だ。
 棟は四階建てだ。機械室はその最上階にある。息を顰め、ドアの前まで忍び寄った。扉越しに聴き耳を立てるが、話し声は聞こえない。
 ドアノブを握る。硬質的なその感触は、一瞬、肌が粟立つほど冷たかった。何故か脳裏に、これ以上進んではならないという忠告が浮かんだ。この奥に、この部屋に入っていけない……。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 教師である自分が、生徒と同じように噂話を本気にしてどうする。
 扉を開くと、そこには廊下と同じようにして暗闇が溜まっていた。
 ――誰も、居ない?
 彼を迎えたのは、無人の空間に過ぎなかった。埃だらけで、人が出入りした様子は無い。部屋を間違えたのかとも考えたが、あの時確かにこの部屋の窓に明かりが灯っていた筈だ。
 問題の窓辺に寄る。今夜は満月の様だ。完全な姿を晒したそれは、コインみたいに夜空に輝いていた。確かに、この場所で会っていた筈だが――。
 その時だった。突然、ドアが勢いよく閉まった。慌てて出ようとすると、ドアノブが回らない。
「おい、何をしている、やめなさい!」
 廊下に向かって叫んだが、返事は無い。
「うちの生徒だな? 悪ふざけはよせ!」
 両手で思い切り握っているのだが、ビクともしない。まるで接着剤か何かで固められているみたいだ。
 ふと、彼は気付いた。そもそも、この部屋は通電していない筈だ。使用されていない上に、生徒達の溜まり場になっても困るので、しばらく前からこの部屋に電源は入らない仕組みになっている。
 では、自分が見た物は何だったのか。
 ――まさか……。
 夜の時計塔、その機械室には……。
 部屋の奥で、何かの気配が生まれた。今まで眠っていた巨大な生き物が、目を覚ましたかのような。そして、その大きな双眸で、こちらを睨んでいるような。
 冷や汗がどっと出た。急に寒気を覚えた。コーヒーを飲んだばかりなのに、また喉が渇いた。全身の毛が総立ちになり、足が震えだした。
「やめろ……やめてくれ……」
 その気配は部屋中を覆い尽くし、やがて、彼に襲いかかった。
 彼は絶叫した。
 
 
 ――――六年前の、出来事である。


Chapter one


 ――センパイ。
 いつの間にか眠っていたらしい。
「センパイ」
 真田が目を覚ますと、目の前には瀬能の顔があった。彼女は真田の顔を覗き込んでいて、瞼を開けた途端、お互いの目が合った。真田はぼんやりと呟いた。
「――おはよう」
「冗談、言っている場合ですか?」
 窓は黒く塗り込まれていた。部屋の壁に掛けてある時計を見ると、もう七時を回っていた。すっかり夜のカーテンが引かれているようだ。
「……どれくらい寝ていたかな」
 まだ視界がはっきりしない。瀬能の栗色に染まったショートカットが、ぼやけて見える。何度かしっかりと瞬きをすると、やっと視界は澄んだ。
「知らないですよ、そんなこと」
 瀬能は息を吐き、真田に対面するようにして長机に座った。新聞部の部室は六畳も無く、この机を中央に置くと、途端に窮屈に感じてしまう。
 枕にしていた右腕がすっかり痺れていた。制服のブレザ―で口元を拭うと、パイプ椅子に座り直した。十月も下旬に入ってから、途端に寒くなっている。下手をすると風邪をこじらせる可能性があった。
「駒ヶ原祭の記事、もう出来上がりました?」
 彼女の問いに、真田は首を振る。傍にはノートパソコンがある。真田が作業していたものだ。三年生の彼が部長を務めるこの新聞部では、近々行われる駒ヶ原高校の学園祭の特集をすることになっていた。模擬店や展覧を事前に見て回り、評価を下す。料理店を格付けするミシュランの様なものである。
「やっぱりあれだな、これは使いづらい」
言って、パソコンをつつく。液晶ディスプレイには、新聞部のホームページが表示されていた。瀬能に勧められてインターネットでも配信を行っているのだが、上手くいかない。真田は自他共に認める機械音痴だ。授業以外では、パソコンは滅多に触らない。新聞部の機関紙を作る時も、最初は原稿も手書きだった。棚に並べられているのは、資料や記事のファイリングだ。図書館から借りたままの本もある。
「そんな時代遅れなコト言っているの、センパイくらいですよ」
 真田は短く唸る。機械が苦手、というのもあるが、ワープロそのものも好いてはいなかった。正確に打ちだされる文字は悪く無いが、幾らでも修正が効く所が駄目なのだ。文章を書いては気に入らないと削り、そうして、いくら経っても進まない。そして、そういった癖のような物を直すという気概は、彼には無かった。
「露木は?」
 もう一人の新聞部部員だった。二年生である。この露木と真田、瀬能を合わせた三人が、全部員だった。
「露木さん? さぁ、一緒じゃ無かったですけど」
 ふうん、と真田は天井を見る。
「ソフトテニス部は、何かやらないの?」
 瀬能は本来、ソフトテニス部だ。新聞部とは兼部、という形になる。今年の春頃、一年生の彼女が新聞部に入部を申し込んできた。当初彼女が持ち込んできた記事の企画は、生徒のゴシップ記事や、他愛の無い都市伝説など、学校の新聞に載せられる様な代物では無かった。真田は闖入者に頭を悩ませたが、同時に貴重な新入部員でもある。真田は今年で引退、二年の露木は居るものの、やはり一年生が居てくれるのはありがたかった。
「テニス部かぁ」
 呟いて、彼女は欠伸を噛み殺した。
「何もやらないですね。夏休み前も、話、全然出てなかったし。それよりも、それぞれのクラスの模擬店に力を入れている、という感じで」
「まぁ、文化部が主役だし」
瀬能にとっては今年が最初の学園祭になる訳だが、真田にとってはこれが最後である。これが終われば、真田は本格的に受験モードに入る。
「あれ、おかしいな」
 マウスを握っていた真田は、液晶画面を睨む。今まで新聞部のホームページだったのが、上手く表示されなくなった。ディスプレイには「ページを表示できません」と出ている。色々いじってみるが、何の反応も無い。
「……壊しちゃったかな」
 無言で瀬能がやってきて、マウスを奪われる。カチカチと何かしらの作業をする。随分と手慣れた手つきだ。
「どう?」
 彼女は眉根を寄せた。
「回線の調子が悪いのかなぁ」
「回線」
「ネットに繋がらないんですよ」
 おかしいなぁ、と瀬能はぼやいた。「モデム」やら「ルーター」やら、専門語が出ているが、真田には分からない。情報処理の授業があった筈だが、まともに先生の話を聞いていなかったせいだろう。
 
 *
 
 駒ヶ原高校を大きく構成しているのは二つの棟である。新校舎と旧校舎で、それぞれ四階建て。三階と一階は渡り廊下で連絡されている。新聞部は新校舎の四階にあった。旧校舎というといかにも古ぼけたイメージがあるが、建物自体は新校舎とさほど変わりない。一昨年に軽い改装が新校舎であったために便宜上、そう呼ばれているだけである。
 科学室は新校舎の三階にあった。実験などは主にこの教室で行われる。真田と瀬能が足を運ぶと、科学室には明かりがついていた。
「あれ、真田さん。取材ですか?」
 迎えたのは一年生の山崎という男子だった。背が低く、目付きもどこか幼い。彼は教壇にある教師用の大きな実験台に立っていた。新聞部の部長ということで、真田の顔は広かった。
「いや、そういう訳じゃないんだけど、電気がついていたから。ここの出し物は――」
「喫茶店ですよ。タピオカジュースを売るんです」
 山崎はよく科学室にたむろしていた。昼休みにここで弁当を食べている所も見ている。独りという訳では無く、何人かで楽しくやっている様だ。その中に露木も混じっていた事を覚えている。
 真田は科学室を見渡した。部屋の隅にはカラフルな輪飾りが施されている。山崎の友達らしき男子が四人いて、実験用テーブルを囲むようにして集まっていた。ここからだと詳細には見えないが、四人とも携帯ゲーム機を使って遊んでいるらしい。準備が終わって、暇なのだろう。
「ジュースって、自分達で作ったの?」
 今まで部屋の中を眺めていた瀬能が、声を上げる。途端に、山崎の顔が赤くなるのが分かった。
「いや、ネット通販」
「へぇ」
「俺たちで作っても……上手くいかないだろうし……」
 彼は顔を逸らす。
「あー……」
「なに?」
「飲む? 仕入れ、間違っちゃって……余分に届いた分があるんだ」
 目を泳がせながら、たどたどしい口調で山崎は言う。
「えっ、いいの?」
「う、うん。俺たちだけじゃ、捌けないから――」
「何だよ、山崎。瀬能には随分と優しいな」
 茶化す様に真田が言うと、山崎の声が一段と上ずった。
「ち、違いますよ、ただ、ほんとに――、在庫が余っているだけで……」
 彼は一旦その場を離れると、実験用で使う冷蔵庫から二つカップを取り出して、二人に渡してくれた。
「こんな所に保存しておいて大丈夫かぁ?」
「平気ですよ。余っているのを、ここで預かっているだけだから」
 二人が受け取ったのは抹茶ラテだった。丁寧にストローもちゃんと差し込んである。口をつけてみると、抹茶特有のほのかな苦みは感じられるものの、あとは不器用な甘さが口の中で自己主張を続けるのみだ。といっても甘党の真田にはこれくらいが美味だった。
「うん、美味しい」
 瀬能にも高評価のようだ。
「当日は、来てくれれば……サービスするから」
「俺には?」
 真田が意地らしい声を上げる。
「も、勿論ですよ」
 にやつく真田に、山崎は慌てるように話題を変えた。
「そ、そういえば真田さん。知っていますか、御社の話」
「御社って、あの校庭にある」
 そうです、と山崎は頷いた。話題が逸れたことで、落ち着きを取り戻したようだ。
 何の意味があってあるのかは知らないが、校門付近に小さな御社が建てられている。古くからあるらしいが、真田は特に気にも留めていなかった。
「あの御社が、壊されたって話ですよ」
「へぇ?」
「あ、全然興味無い顔していますね」
 こほん、と山崎はわざとらしく咳払いをする。
「真田さんなら知らない筈が無いでしょう。ここの旧校舎の、時計塔の話は――」
 あれか、と真田は苦笑する。旧校舎の四階には、時計塔の機械室というものがある。その昔、その時計塔は学校のチャイムとして機能していたそうだ。しかし、今ではもう動いてはいない。時計盤は今も残っているが、止まったままだ。
いつしかそこには幽霊が出る、という噂が経ち始めた。そこまでならよくある話なのだが、実際にそこで一人の男性教師が死んだのだ。事件は六年前、早朝に仕事をしていた清掃員が発見したという。救急車が呼ばれたが、既に死亡しているとの事だった。警察によると、心臓麻痺だったらしいが、詳しい死因は分からずじまいだったらしい。ただ、その男性教師のデスマスクは、恐怖の形相だったということだ。当時は大騒ぎで新聞にも載ったらしい。しかし、六年を経た今、噂も鳴りを顰めている。あの事件に居合わせた生徒がもう現役では無い、というのが大きい。中には今でもその話を咲かせる連中も居るが、真田は関心が無かった。
「御社が壊れた、と簡単に言ってくれるが、誰かが故意にやったということか?」
「ええ。人為的なものだと思われます。ハンマーみたいなもので、殴った様な形跡がありましたから。おれ、見たんです。今朝には何とも無かったのに、放課後になってみると、見るも無残な姿に」
「で、時計塔の話と、御社が壊れた事に、意味なんかあるのか?」
「そいつの話、聞いてやってくださいよ」
 後ろから声がする。ゲームで遊んでいる連中だ。ゲーム機の画面からは目を離さないものの、こちらに話しかけている様だ。
「山崎ってば、その話ばっかりしては、祟りだってうるさいんだから」
「祟り?」
「ええ、そうなんですよ」
 山崎の声からは、高揚感が伺える。
「実は、六年前にもその御社が壊されているんです。その時は台風でしたけどね」
「ほう。そんな話は聞いたことが無かったな」
「新聞部とあろう方が、そんな事も知らなかったんですか」
 山崎は呆れた顔をした。
「あのなぁ、俺は学級新聞が専門なの。そういう、オカルト話にはとんと疎くてね」
「違うよ。センパイは、怖いだけでしょ」
「ははぁ、なるほど」
 瀬能の援護を受けて、山崎が調子に乗り出す。ふん、と真田は鼻息を荒くした。
「まぁ、話はそれだけじゃ無いんです。教師が死んだのって、丁度、駒ヶ原祭のすぐ前だったんです。丁度、今と同じ、十月の終わる頃……」
「なるほど」
 感嘆を上げたのは瀬能だった。
「六年前のちょうど同じ時期に教師が死んでいる。その時に御社が壊されていて、今年も条件が揃っている訳だ」
「そう、そう」
 山崎は子供っぽく首を縦に振る。
「これはきっと、その時に死んだ男性教師の祟りなんですよぉ……」
「学園祭が始まる前に、何かが起きる、てか?」
 彼は嬉々とした表情で頷く。
「ええ、どうです真田さん。これって、記事にならないですかねぇ」
「おまえ、ホラー映画の見過ぎじゃないのか?」
 言って、再び抹茶ラテに口をつける。丁度、糖分が欲しかった所だった。
 山崎は苦笑する。
「俺が見過ぎ、って言うなら、牛尾さんはどうなるんですかぁ」
「え、山崎くんって牛尾教?」
 瀬能の問いに、彼は慌てて否定する。牛尾教、というのはこの学校のスラングみたいなものだ。牛尾という二年生が居るのだが、これが学校内では知らない者が居ないほどの異端者なのだ。牛尾は心霊現象やオカルトをこよなく愛するホラーマニアである。マニアだけなら特別変わっている訳では無いが、自らを霊能力者と自称していた。そして、何かがあれば霊の仕業だのとのたまうのだ。牛尾自身が一人で盛り上がっているだけなので、生徒達は揶揄として牛尾教、と呼んでいるのである。
「まぁとにかく、これは信憑性高いですよ。記事にする価値があるんじゃないですか?」
「牛尾は何て言っているんだよ、この偶然の一致に関して」
「さぁ、それは。俺が考え付いた説ですから。あ、くれぐれも、提供者は山崎だって書いてくださいよ」
 やれやれ、と真田は抹茶ラテを飲み干す。まぁ、噂話を楽しむくらいならかわいいものか。牛尾のレベルまでになれば行き過ぎだが。
「だから言っているだろぉ、山崎。お前は既に、牛尾信者だって」
 後ろの四人が馬鹿にしたように笑う。そうして彼らは、帰り支度を始めた。時計をみると、もうすぐ八時になる所だ。生徒の最終下校時間は九時だが、用が無ければ普通は残る筈も無い。
 真田は、ふともう一人の新聞部部員を思い出した。
「そういえば、露木を見てないか?」
 山崎は片眉を上げる。
「露木さんですか? ああ、さっきまで居ましたよ。真田さん達が来る前、誰かに連れられて行っちゃいましたけど。確か、お化け屋敷の手伝いだとか」
「ちゃっかり、使われていますねぇ」
 暢気に言うのは、瀬能だ。
 彼には新聞部の仕事もして貰わなければならない。二人は山崎に別れを告げ、教えられた場所に向かった。



 お化け屋敷を企画していたのは、二年B組の教室だった。教室は二階階にある。階段を降りて廊下を進んでいくと、二つの教室にまたがって妖しげな装飾が施されているのが見えた。さらに近づいていくと、作業している露木の顔が見えた。彼は隣に居る仲間と話していたが、真田の顔を見るなり硬直した。
「あ、すみません。新聞部の方を、ほったらかしにしてしまって……」
 いや構わない、と真田は言って、教室の中に首を突っ込んだ。暗幕で作った迷路なのだろう、教室の全貌を知ることは出来ない。
「ああ、ちょっと」中を覗く彼に、露木の隣に居た男子が口を開く。「いま取り込んでいる所だからさ、中には入らないで貰えるかな?」
 先輩だぞ、と露木が咎めるが、彼に動じた所は無かった。
「君は、このクラスの?」
 真田が尋ねると、彼は頷く。渋々、といった口調で答える。吊り上がった目が特徴的だった。普段からこういう表情なのだろうが、不機嫌そうに見えた。
「――深作、だけど」
 深作は露木に、誰だこいつ、と小声で聞いている。露木から返答が来ると、ああ、と彼は声を上げた。
「へぇ、新聞部。そういえば、そんな部があったな」
 小馬鹿にしたような深作の言葉に、真田は特に腹は立たなかった。そういう態度には慣れていたからだ。
「深作さんは、何か部活入っているんですか?」
 瀬能の問いに、いいやと深作は首を振る。
「入って無いね。そもそも、僕はそういうのが嫌いなんだ。部活なんていう、集団で群がって中途半端に何かを成し遂げようって姿勢がね」
 瀬能がむっとした表情になり、口を開きかけた時だった。足音がして、人影が現れた。肩まで伸びた黒髪が、すっ、と揺れる。
「あなたたち、こんな物を作って、一体どういうつもり?」
 彼女――牛尾はお化け屋敷の装飾を見やると、厭う様に眉をひそめた。その陰湿な雰囲気は、暗い排水溝を思わせる。いかにも忌々しげに、睥睨するように真田たちを見渡した。
「御社が壊されたのは知っているでしょう?」
 御社。山崎が言ってはいたが、まさか本気にしている者が居たとは。
「何か悪いことが起きる。こんな悪戯みたいなことして、彼らを変に刺激しないで」
「拝聴しろ、布教が始まったぞ」
 深作が肩を竦める。
「彼ら――?」
 真田の呟きに、牛尾が振り返る。苛々とした調子で、宙を指した。
「感じないの? この禍々しい気配を。彼らが目を覚ましたのよ、それも御社が壊されたせい」
うわー、完全に電波入っちゃっていますね。隣で瀬能が小さく呟いた。牛尾には聞こえない、ぎりぎりの音量で。真田も同意せざるを得なかった。牛尾の言う禍々しい気配とは、彼女自身から発せられている様に思える。
「ここは方角的にも良く無いの。急がないと、早く学校を出ないと」
「いや、まだ作業が残っているから、帰る訳には」
 律義に返す露木に、人の好い所が伺える。牛尾は、きっ、と彼を睨んだ。
「彼らはすぐそこまでやって来ているのよ、時間が無いわ。直に大変な事が起きる」
「大変なこと?」
「――死よ」
 その言葉は、廊下を滑る様にして浮かんだように思えた。何の重みもないものだった。他の皆も同様だったようで、白けた顔で、お互いを見やった。
「六年前にも、教師がひとり殺された。いや、今回はそれだけでは済まない」
 深作は笑った。
「まだそんなおとぎ話をしているのか? あれは事故だ。心臓麻痺だよ」
 そもそも、と彼は溜息をつく。
「高校生にもなって、何を言っているんだが。はっきり言って、痛いだけだぜ。そういうのが許される年頃は、とうに過ぎているだろうに」
「私は皆に警告してあげているだけ」
「ああ、それとも、構ってほしいだけか?」
 彼は言って、意地の悪い笑みを浮かべた。牛尾の表情が強張った。
「自己顕示欲」
「黙りなさい」
「私には霊能力がある、だったか。そうやって、注目されたかったんだろ? おまえ、見るからに根が暗そうだもんな。そうでもしないと、人が寄って来ないから……」
 牛尾が拳を振り上げた。だが、余りにも遅すぎるそれは、深作に造作も無く避けられてしまった。
「おいおい、手を出すのかよ。てっきり呪文でも唱えられるかと思ったぜ」
「……後悔する」
「あん?」
 牛尾は肩を震わせて、深作を見返した。
「今に後悔する。私が正しかった事を、身をもって知る。……あなたたちも」
 彼女は真田たちの顔を見渡す。
「後で泣き付いても、知らないわ。みんな死ぬ、死ねばいいんだ」
 呪詛のように重々しく呟き、彼女は踵を返す。そうして、廊下を滑るようにして去っていった。
露木は、苦々しげに彼女の背中を見送っていた。
「大丈夫かな、凄い剣幕だったけど」
 対照的に、からからと深作は笑う。
「あいつ面白いから、いじってやると、笑えるんだ」
 処置なし、といったふうに瀬能が息を吐く。
露木は眉根を引き締めた。
「みんな死ぬって……捨て台詞だろうけど、なんだが後味が悪いな」
 牛尾の言葉自体は安っぽく感じたが、その言動はかなり禍々しいものだ。
「ほっとけ、戯言だ。誰にも相手にされないから、近頃エスカレートしてんだよ」
「本気になって相手にするのもどうかと思うけど、あの言い方も幼稚ですよね」
 瀬能が口を開く。真田はたしなめようとしたが、彼女にさりげなく制された。
「好きな女の子をいじめる小学生みたいで、可愛かったですよ?」
 思わぬ伏兵だったのだろう。勝利の笑みを浮かべていた深作は、不意をつかれて笑顔を引っ込めた。下級生の女子に言われた事に、動揺を隠せないらしい。
「は、はぁ? あんた挑発する相手、間違っていない? 僕は事実を言ってやったまでだぜ?」
「私も自分が思った事を、率直に述べただけですけど」
「僕はあの勘違い女を諭してやっただけさ。それに突っかかってくるなんて、どうかしてるんじゃないの?」
 居心地悪そうに、深作は目を泳がせた。思い出したように、背後のお化け屋敷を見やる。
「とにかく僕達はまだやる事が残っているからさ。露木はまだ返さないから」
「そーですか。お疲れ様です」
 淡白に言い返すと、彼女は真田の方を向いた。
「それじゃ、私たちも行きましょうか?」
「あ、ああ……」
 瀬能は先を歩く。慌てて、真田はその後についていった。
 
 *
 
 瀬能は廊下を黙々と歩いていた。追いついた真田は、早歩きで彼女に並んだ。
「どうしたんだよ、急に」
「ちょっと頭に来ちゃったんですよね」
 それだけ言うと、彼女は歩く速度を緩めた。真田も歩調を合わせる。
「頭に来たって……おまえだって、電波が入っているだの、言ってたじゃないか」
「それは、そうですけどぉ」
 バツが悪そうに、頬を膨らませる。
「あいつの言動って、腹が立ちません? それでいて、後輩の女の子に文句言われて、反駁できずにいる。立場ないなぁ、だらしない」
 お前が言うか、という言葉を真田は飲み込む。
「――それに、ちょっと分かるんですよね」
「何が?」
「牛尾さんですよ」
 恥ずかしそうに、瀬能は口を開く。
「え、お前、牛尾教?」
「違いますよ」
 ぴしゃりと言われた。でも、と瀬能は続ける。
「彼女の気持ちも少しは分かるなぁ、って」
「ほう?」
「既知の科学では解明できない心霊的な存在、それを察知する超人的な力、果たしてそれが実在するのかは置いておいて。説明しきれない神秘的な何かを、信じたいという気持ち、分かるなあ。そういう摩訶不思議な出来事を夢みるって、共感できるんですよ」
「ふむ……」
 真田は顎に手をやる。彼女は言葉を紡いだ。
「私たちがまだ知らない、感じていないだけで、ひょっとしたら、その裏側では何かが起きているのかもしれない。そう考える方が、ロマンチックでしょ?」
「画餅、だな」
「……素直じゃないですね。センパイは、一切信じないタイプですか」
「おう。俺は、目で見た物しか信じない」
 少なくとも、その筈だと真田は自分に言い聞かせている。
「幽霊なんかもっての他?」
「そうなるね。学校の七不思議だの、都市伝説だの、俺は信じていない。大体、あれにはルールがあるだろう。示された通りにやらないとお化けが出る、禁を破ると、この話を聞いてしまった人は、幽霊が出てきて殺される。逆を言えば、その禁忌さえ犯さなければ、幽霊たちは出て来られない訳だ。ルールさえ守ればな」
 山崎や牛尾の言っていた事もそれに該当する。御社が壊されたから、何かが起きる、と。別の観点から見れば、御社さえ壊されなければ、安全は保たれるという事だ。
「……まぁ、そうですね」
「それは語り手が、物語に起伏を持たせるために作ったルールだ。聞く人を怖がらせるための道具に過ぎない。本当に幽霊やらお化けの存在があったとして、なんでそんなまどろっこしい制約が必要なんだ。恨みがあるのなら、祟りなら、有無を言わせず殺せばいい。物理法則を無視してまで出てきて、なぜ今更そこに縛られる理由があるんだ?」
 瀬能は悔しそうに呻いた。
「う―ん。センパイはてっきり、単なる怖がりで、虚勢を張っているものだとばかり思っていましたが……」
 すると、今まで何でも無かった彼女の目の色が変わった。
「あ、あの、センパイ……」
 声が震えている。彼女の視線は、真田を透かしたように注がれていた。
「どうした?」
「せ、センパイの隣に……」
「え?」
 途端に、冷たい気配が頬をかすめた。じっとりと、こちらを見詰めているような、そんな気配。真田は、歩きながら、そちらの方を振り向けなくなった。
「な、何だよ、脅かす気かぁ?」
「ちぇっ、つまんないの」
 隣を振りかると、何も無い。先程の気配は錯覚だったようだ。
「お、お前なぁ……」
「びびってませんでした?」
「そんな事は無い。お化けなんて居ないさ。お化けなんて嘘だ。寝ぼけた人が、見間違えたのさ」
「……それ、フォローになっていない気がしますけど」
 真田は内心、ほっ、と安堵の溜息を漏らした。頭では分かっている。幽霊なんてものは存在する訳が無い。しかし、身体は反応してしまうのだ。どんなに理論武装しても、こればかりは治らない。ホラー映画や怪談ドラマは正視できないし、お化け屋敷なんて、もっての他だ。
 真田は、人一倍怖がりだった。



 二人は部室に戻ろうと四階に上がると、明かりの洩れた教室を発見した。美術室だった。真田は二年の時に選択で美術を受けていたから、この教室は馴染み深かった。当時同じクラスだった佐伯という男子はこの美術部だった。絵が描かれているキャンバスの他に、幾つかイーゼルが立っている。きっと、彼の物も含まれているのだろう。
 ところが、教室に彼の姿は居ない。
「あ、真田」
 代わりに居たのは真田のクラスメイトの女子、宮内だった。
「おまえがどうしてこんな所に?」
 彼女は陸上部の筈だった。なぜ、こんな夜遅くに美術部の教室に居るのだろう。
「うーん、ちょっとね……」
 宮内は言い淀み、窓の外を見やった。
「ほら、あたし陸上部でしょ? あっちは何も出し物やらないし。うちのクラスも、何かやる訳でも無かったしさ。これが最後の文化祭だから、何か、ちょっとねぇ」
 真田は意外だった。彼女はバリバリのスポーツマンだと思っていたのだ。だから、こういう学校のイベント事には無関心だと思っていた。だがやはり、三年生ともなると、名残惜しくなるらしい。
「何かの形で参加できればいいな、って思っていたんだけど。時間を持て余して、うろうろしていたって所かな」
 言って、宮内は肩を竦める。
「佐伯は?」
 宮内より先に、廊下からやってきた人物が口を開いた。
「――彼なら、隣の準備室だけど」
「あ、花房先生」
 立っていたのは女性教師、花房だった。肩まで切りそろえた黒髪が、端整な顔を覆っている。二十代の半ばと言ったところで、二年前にこの学校に赴任してきた。英語を担当していて、男子からは抜群の人気を得ていた。
「何か忙しそうだったから、邪魔しない方がいいかも」
「そうですか」
 彼女は黒目がちの濡れた瞳を、作品の方に向けた。
「他の部員は帰っちゃったみたいだけどね。この作品は、ほとんど佐伯くんのらしいわ」
「へぇ、凄いですねぇ」
 瀬能は感嘆して、油彩画を眺めている。真田は絵を描くのが苦手でも無かったが、得意でも無かった。美術の知識についても疎い。 花房は部屋の中に入ると、一つの石膏の前に立った。ロダンの『考える人』だった。勿論、本物では無い。部員の造ったレプリカだろう。本来のサイズは分からないが、これは小さいものだ。
「これ、何だか知っている?」
 真田は笑った。
「さすがに学の無い俺でも知っていますよ。ロダンですよね」
 花房は頷いた。
「じゃぁ、この考える人は、一体何を考えているか知っている?」
「さ、さぁ……それは。そういえば、知らないですね」
「これはね、思索にふける人を描写したブロンズ像なのだけれど……。実際は、地獄の門という作品の一部でもあるの」
「地獄の門?」
 何やら禍々しい言葉だ。
「そう……『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』という有名な銘文がある通り。イタリアの詩人、ダンテの叙事詩に登場する、地獄への入り口となる扉よ。それが地獄の門。ロダンの『考える人』は、その門の上で地上を見下ろしている」
「地獄……」
 彼女の口から、そんな言葉が出ようとは。彼女は美術にも明るいのだろうか。同じ事を思ったのだろう、宮内が口を挟んだ。
「詳しいんですね」
「そんなことない」
 微笑を浮かべ、花房は手を振る。
「牛尾が聞いたら、大喜びしそうな話だよな」
 真田は言って、背後の瀬能を見る。
「瀬能?」
 彼女は閉じた窓の外を見詰めていた。眺めているのでは無く、何かに向けて、真剣に視線を打っていた。
「どうした?」
 こちらに気付いた瀬能は、一度真田を見て、再び窓の外に目をやる。ここから見える景色と言えば、向こうの棟――旧校舎くらいだ。やがて、彼女は口を開いた。
「動いている……」
 彼女は外に向かって、指差した。そこには時計塔があった。旧校舎の最上階にあるそれは、校庭を見下ろしていた。まるで、地獄の門の上で地上を見下ろす『考える人』の銅像の様に。
 瀬能は目を見開いていた。
「止まった筈の時計が……時計塔の、針が動いている」
 その瞬間、目の前が真っ暗になった。


 Chapter two


 停電だと気付いたのは、暗闇が満ちて直ぐの事だった。
 彼は、周りの景色を見渡した。彼は、友達の三人と下校する途中だった。学校を出ようと思い科学室を後にした。そして、下駄箱に向かっている所だった。
 何も見えない、真の闇。自分の手足さえ確認することも出来なかった。当然、周りに居る筈の友人たちの姿も闇に包まれている。
「うわ……学校で停電かよ?」
 誰かが言った。友人の一人だ。真っ暗で声だけが聞える。
「それにしても、本当に暗いな」
 別の誰かが言った。
 彼は携帯電話を取り出し折り畳み式のそれを開いた。漆黒を一条の光が薙ぐ。四人は安堵の顔を見せ合った。
 その時だった。
「うわっ、後ろ!」
 振り返ると、誰かの手があった。それに飛ばされて、電話は床を滑っていく。すぐに暗闇がまた戻った。隣から呻き声がして、生温かい液体のようなものが首筋にかかった。
「な、なんだ……?」
 血生臭いと感じた。
「うああっ!」
 別の個所からも悲鳴が聞こえる。彼は混乱した。一体、何が起きているのだろうか。
 彼は気付いた。仲間だけでは無い、何かの気配を。その気配は彼らを取り囲んでいる様だった。 
「俺たちの他に、誰か居るぞ!」
 彼は叫んだが、声は返って来なかった。
「みんな……?」
 全く何も見えない。仲間の息遣いさえ感じることも出来ない。まだ目は暗闇に慣れない。月の光すら感じる事が出来なかった。何かに躓き転んだ。慌てて手をつくと、ぬるっ、とした感触があった。
 ――血だ!
 瞬間、身体の力が抜けた。悲鳴を上げようとしたが、喉が痙攣してまったく声が出なかった。顎が細かく震えた。闇の中に何かが居るのは分かった。しかしそれは彼の友達の気配では無い。もっと禍々しいものだ。心臓が肋骨から飛び出しそうな勢いで早鐘を打っている。彼は胸を抑えながら、廊下を這いずった。科学室で友達とゲームで遊んでいた頃が遠い過去の様に思えた。
 幾つもの青白い視線を感じる。
 手探りで見つけた壁に寄りかかり、何とか立ち上がる事が出来た。足は別の生き物のように震えている。奮い立たせるために、腿を叩こうとした時だった。振り下ろそうとしていた右腕が引っ張られ、脈打つように痛んだ。咄嗟に掴まれたものを振り払う。反射的に左手で包んだ時、右の手首の先からの感触が無かった。
 彼は床を蹴った。そのまま無我無夢中で走りだした。ようやく昇降口に辿り着き、下駄箱のロッカーに身を寄せる。月の光が届いていた。辺りは白く濡れた様にして光を受けている。
 彼は右手を見た。右手の手首からその先は無かった。
 彼は大声を出した。悲鳴というよりも怒号に近かった。不思議と痛みは無い。ただ赤黒い血が溢れだして、ブレザーを汚していた。

 *

「停電だ」
 傍らにいた宮内が言った。薄墨を垂らしたような暗闇の中で、人型の黒い輪郭だけが見える。かろうじて、花房や瀬能の姿も確認する事が出来た。
「皆はここに居て。職員室に行ってくるから、それまで待っていなさい」
 すかさず、花房が動き出す。慣れた様子で障害物をよけると、教室を出ていった。
「珍しいこともあるんだなあ」
 宮内は暢気な声を上げる。暗い。まるで洞穴に投げ込まれたかのようだ。暗所恐怖症という訳では無いが、大きな不安を掻き立てられた。自分には見えていないだけで、まるで誰かがすぐ傍に忍び寄っているような、そんな錯覚さえ生まれてくる。牛尾の捨て台詞の影響だろうか、と真田は考えた。
「時計塔の針が……」
 瀬野は反芻するように呟いた。よく見えないが、放心したような様子だ。真田はどこかにぶつからないように注意しながら、ゆっくりと瀬能の所まで歩み寄る。月の姿はあるが、その光はごく淡い。瀬能の顔は伺えるものの、外の景色は全く見えない。瀬能は、小さく口を開いたまま、こちらに顔を向けた。
「針が動いたんです」
「見間違いだろう」
 言って、真田は窓の外を凝らす。暗闇のせいで、時計塔の本体すら確認するのが難しかった。針なんて小さい物が動いたのかさえ、これでは確認できない。
「山崎や牛尾の言葉に影響されているんだ、きっと」
「そうじゃないんです。暗示とかじゃない、確かに動いていた」
 瀬能は踵を返した。そのまま、教室を出ていこうとする。
「私、見てきます」
「お、おい」
 すぐに彼女の姿は闇に消え、廊下を走るその音も遠ざかっていった。
「勝手だなぁ、もう……」
 携帯電話を取り出して明かりを作る。その上で外を見てみたが、やはり無理だった。時刻はもうすぐ九時になる所だった。どちらにせよ、最終下校時間が迫っている。宮内は、
「ねぇ、どうするの。先生には待っていろ、って言われたけれど」
「俺はちょっと言ってくる」
 真田は電話の明かりを頼りに、廊下に出た。
 ここは新校舎の四階。ここから旧校舎に行くならば、まずは渡り廊下を使わなければならない。渡るには三階まで降りる必要がある。真田は瀬能の足跡を追うようにして、階段を降りた。渡り廊下に向かう途中で、科学室にほのかに明かりが見えた。覗いてみると、火の点いたアルコールランプが幾つか並べられていて、そこに山崎の顔がぼんやりと浮かんでいる。首から先は闇で途切れていたので、真田はもう少しで声を出す所だった。
「真田さん」
 こちらの姿を認めた山崎が、ランプを一つ持って立ち上がる。
「……何してんだ、おまえ」
 早まる心音が少しずつ収まった所で、口を開く。
「やぁ、どうも。暗いですね」
 山崎の声は明るい。
「明かりを作っていたんですよ、見ての通り」
 ランプの火は携帯電話の光とはまるで違う。電話の光は白くどこか無機質だが、ランプは燈色でどこか温かみがあり、照らす範囲も少しばかり広く感じる。オレンジ色にたゆたう火の光が山崎の顔に陰影を刻んでいる。少しばかり幼げな瞳からは、どこか高揚している風でもあった。
「帰らなかったのか」
「薄情にも、あいつら先に帰っちゃって」
 あいつら、とはさっきゲームをしていた四人だろう。テーブルを見ると、電卓とメモ帳のようなものがあった。
「帳簿をつけていたんですよ。俺、会計役任されちゃったから」
 まぁいいんですけどね、と山崎は肩を竦める。
「ちょっと一人で残っていたかったですし」
「誰かこの辺を通らなかったか?」
 いいえ、と彼は首を振る。
「誰です?」
「瀬能だよ。旧校舎に行っちまった」
 真田は息を吐き、事情を説明した。聞き終えると山崎は、ふむ、と顎に手をやった。
「時計塔の針が動いたんですか」
「俺は確認できなかったがな」
 何かの冗談だったのだろうか。いや、彼女がそんな嘘をつく必要はあるだろうか。ただの勘違いに過ぎないとは思うが……。
「興味深いですね。お供しましょう」
「瀬能目当てだろう」
「ばっ、違いますよ! これは、どう考えても妖しいじゃないですかっ」
 くつくつと喉を鳴らしながら、真田は科学室の中を歩き回る。教壇にマグライトが一つあった。
「何だ。ライトあるぞ」
 山崎は苦笑する。
「分かってないですねぇ、それじゃ雰囲気が台無しじゃないですか。こんな事、滅多に無いんだから」
「やっぱお前楽しんでるな……」
 電話をポケットに入れ、ライトを握る。電池は切れていない様だ。スイッチを入れると、途端に一条の光が闇を薙いだ。光の筋の中に無数の埃が浮き上がる。そうして山崎に光を向けた。
「探せばライト、もう一つくらい有りそうだけど?」
「いえ、俺はこれで行きます」
 彼はランプを掴んだ。

 科学室を出た所で、露木と鉢合わせした。彼は真田と山崎を見比べて、渋い顔を作った。
「部長、丁度良かった」
 来てください、と露木に促される。二人は顔を見合わせて、彼の背中に着いていく。案内されたのは二階の東側階段だった。そこには深作が立っていた。真田は目を開いた。深作の奥――そこは階段の下り口だったが、横縞の入った灰色のシャッターが降りていて、進路を塞いでいたのだ。
「防火シャッターが閉まっている?」
 それは二階と一階を繋ぐ場所だ。見事に遮断されていて、これでは一階に降りる事が出来ない。
「どういう事だ? 何で閉まっている?」
「こっちが聞きたいくらいだよ」
 苛々と深作が吐き捨てる。シャッターは本来、火災等の非常事態以外には降りない仕組みになっている筈だ。山崎が言う。
「……停電で閉まった?」
 これに応えたのも深作だった。
「動力が落ちてんのに、ひとりでに閉まるか? フツー」
「俺ら、あのままお化け屋敷の組み立てしてたら、停電して。それで廊下に出たら、もうシャッターが閉まっていたんです」
 露木が険しい顔で説明する。
「でもおかしいですよね。普通、シャッターが閉まったなら、それなりの音が出ると思うんですけど」
「シャッターが降りる瞬間は見てないのか?」
「見てないですよ。そもそも、停電して出てきたらいつの間にか降りていたんですから」
「ふぅむ……?」
 それは確かに妙な話だ。マグライトを露木に持たせ、シャッターの根元を照らさせる。試しにシャッターを上げようとしてみたが、びくともしない。
「こりゃ無理だ。仕方ないな。反対側の階段を使うしか」
「それも、駄目なんですよ」
「なに?」
 四人で西側の階段まで向かう。各階には東側と西側の両端にそれぞれ階段が備わっている。それが、やはり西側も閉まっていた。同じように動かそうとしても全く動かない。こちらの階段にはすぐ傍に非常口があったが、これも駄目だった。深作が毒づく。
「肝心な時に使えないんじゃ、意味が無いだろうが」
まるで誰かが悪意でもって妨害しているかのようだ。真田は気味の悪さを覚えた。
 ふいに、床を鳴らす上履きの音が聞えた。三人はびくっ、と振り返る。闇の中から姿を現したのは、困惑した表情を浮かべる宮内だった。
「向こうから降りようとしたらシャッターが閉まってて……一体どうなってるの?」
「わからない」
 宮内は痛みに耐える様に眉根を寄せる。
「佐伯君が美術準備室に居る筈なんだけど、返事が無くて。内側から鍵が掛ってるみたいで、ドアが開けられないの」
「寝てるんじゃないのか」
 苛つきをぶつける様に、深作がぶっきらぼうに呟く。その言葉を無視して、彼女は続ける。
「停電で暗いせいもあるし、ひょっとしたら転んだりなんかして……。誰か一緒に来てくれない?」
 真田は瀬能と合流しようか考えている事を説明しようとしたが、山崎が口を開いた。
「瀬能さんなら、俺が連れ戻してきますよ」
 いかにも意を得たという声色だ。何も連れ戻す必要は無い気もするが、ここは彼の言葉に甘えるべきか。露木も深作もとにかく手持無沙汰でやることも無いようで、山崎と一緒に旧校舎に行くらしい。
「じゃぁ任せたぞ」

 *

 暗闇にも大分目が慣れてきた。前を歩く宮内の姿も大体は確認が出来きる。準備室は美術室の隣にあり、部屋自体の大きさはかなり小さい。一度だけ入った事があったが、六畳も無かった筈だ。
「佐伯君、返事して」
 宮内がドアを叩く。やはり、というか中から返事は無い。しかしドアノブを握ってみると固い感触しか返って来ず、扉を開ける事は出来ない。まるで密室殺人ミステリーの様だ。いっそのことドアを蹴破ろうか。そんな考えも浮かんだが、真田は苦笑する。ドアの弁償なんて幾らするか分かった物では無い。いざ突入してみれば、佐伯本人は寝ていた、という真相では目も当てられない。
「佐伯君! 返事して!」
 しかし、これだけ外から呼び掛けてドアも叩いているのに、起きないものだろうか?
 そんな事を考えている間に、カチリ、とドアの内側で音がした。開錠された音に違いない。
 ドアが開くのと、そこから陶器を思わせる程の白い手が突き出されたのは同時だった。その手が吸い込まれる様にして宮内の細い喉を掴んだ。うぐっ、と彼女は呻き、驚きよりもまず苦しみの表情を浮かべた。一体何が起きているのか、真田には理解出来なかった。
 華奢な手が、宮内の身体を持ち上げたのだ。
 彼女を苦しみ喘ぎながら、両手で首を抑えた。彼女の両足はこれ以上ないほど激しく暴れた。
「どうなって……る?」
 やがて白い手の持ち主の全貌が顕わになった。
「佐伯……?」
 佐伯は彼女を平然と吊るし上げながら、こちらに振り向いた。感情という感情を根こそぎ奪った様な、仮面を思わせる無機質な顔付き。制服のブレザーを着込んだその姿には何も異常は見当たらない。それなのに、人間一人を片手で軽々と持ち上げているのだ。
 真田は後退した。もう本当の彼では無い、という気がした。
「さ、さえ……き……く」
 苦悶に満ちた表情で、宮内が声を絞り出した。それに気付いた佐伯は、より一層、腕に力を入れた。その瞬間、首を掴む彼の指先から、赤い糸のようなものがするすると這い出てきた。一本かに思えた赤い筋は何本も現れ、時に絡み合ったりした――――触手だ。
 細い何本もの触手は彼女の眼球に侵入する。宮内は抵抗しようとしたが、触手はいとも簡単に入り込み、彼女を黙らせた。
 彼女はそれきり動かなくなった。ぷらん、と首吊り死体のように浮かぶだけだった。
「宮内――」
 佐伯は用済みとばかりに、宮内を放り投げる。彼女の身体は床を転がった。完全にこと切れている様だ。
「冗談だろ」
 佐伯がこちらに振り向いた。
 真田は床を蹴った。
しゅる、という音が聞えたかと思うと、右足がいきなりいうことをきかなくなった。そのまま視界はぐらりと傾いて転倒する。咄嗟にかばった両手がじんと痛んだ。
だが問題はそこでは無かった。赤い触手が、右足の踝あたりに巻き付いていた。
そのまま赤い線を辿っていくと、佐伯の指先へと繋がっている。
「うわあああっ」
 途端に極寒に放りこまれたみたいに、身体が大きく震えた。巻き付いた触手を外したいが、手で触りたく無くて必死に右足を振った。そのうち上履きが脱げて、触手も一緒に離れた。
 佐伯は一歩一歩静かに歩みを進めてくる。立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
 ――動け! 動けよ!
 四つん這いのまま逃げる。
曲がり廊下を進み、佐伯の視界から外れると、開いていた教室に雪崩れ込んだ。
 ――どこか、隠れる場所は。
 左右に目を走らせる。教壇の影か、掃除ロッカーか。
 迷っている暇は無かった。真田は教壇の空洞に体を丸め込んだ。それとほんと同じ瞬間に教室の入り口から足音が聞こえてくる。真田は必死に震えを止めようと自分の身体を強く抱きしめた。心臓が張り裂けそうな勢いで鼓動を刻んでいて、その音を聞かれやしないかと不安になるほどだった。
 ひたひた、という足音がすぐそこまでやってきたが、しばらくすると遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
 ――居なく、なったか?
 なんとかやり過ごしただろうか。だが確証は無い。どこかに待ち伏せている可能性もある。外の様子を覗きたがったが、身体は体育座りをしたまま、顔はひたすらうずめていて、視界は真っ暗だ。恐怖で、目を開ける事すら出来なかった。
 宮内は死んだのだろうか。なぜ、殺されたのか。そもそも、佐伯は何に豹変してしまったのか……。
 巻き付いた触手の感触がまだ残っていた。右足をさすり、たしかにここにある事を確かめて、安堵の息を漏らす。
 ぎぃ、という音がして声が出そうになる。握りこぶしを口の中に入れて声を押し殺す。ぴんと耳を済ませたが、それ以上音は無かった。何かがやってくる気配も無かった。
 ――真っ暗だ。
 周りの闇がじくじくと己の身体を蝕んでいくようだった。そうして、やがては自分も闇に同化しまいそうな程。誰の目にも留まらない、誰の耳にも入らない、ひとりひっそりと溶ける様に消えていく様な錯覚。
 真田は孤独だった。
 ――誰か、誰も居ないのか……。
――独りは嫌だ……寂しい。
――誰か、助けて……。
 昔の光景が脳裏に浮かぶ。
 
 雨の日に行われた幼稚園の遠足。沢山の色の傘が行列を作っている。その最後尾を、真田は一人で歩いている。雨には角度があり、傘があっても身体を濡らした。長靴の中にある靴下はびしょ濡れで気持ち悪く、彼は早く帰りたかった。前を歩いている子は仲良く談笑しているのに、自分だけは下を見ながら独りで歩いていた。
 小学校の時の昼休み。皆は外のグラウンドで遊んだり、教室で駆けまわっている子も居た。真田は窓辺に座り、カーテンで席ごと隠し、ひたすら寝たふりをしていた。騒ぐクラスメイトの声を聞きながら、奥歯を噛み締めていた。
 彼はいつも独りで、活力が無かった。自分自身、十代の若者であることに失敗していると考えていた。何よりも自分は周りとはかけ離れていて、異端なのだと思った。
 彼は他人に対して前提的に劣等感を抱いていた。それは一種の強迫観念に近い。自分は落ちこぼれで、異分子だと思った。周りはそれを憐れんで接してくれるのだと思った。
 自分が異端である、と考えると、不思議と肩の力が抜けるのが分かった。どこかほっとした。その妄想は自分を楽にしてくれる。何か上手くいかない事や、つらい事があっても、自分は異端なのだから仕方が無い。いま居る世界は本来自分の居るべき場所では無く、本当は自分に合った世界がある筈で、何かの手違いでここに居るのだ、と。
 高校生になると、ますますその考えは強くなった。真田は周りの視線が気になる。馬鹿にされてるのでは無いか、笑われているのでは無いか。いつも背中に青白い視線がついて離れない。やがて教室が息苦しくなり、授業が無い時間、彼は科学室へと向かう様にした。科学室は普段、誰も立ち寄らない。実験用のテーブルにうつ伏せて、ひらすら時間が経つのを待つのが習慣になった。彼を囲む周りの連中は、どれも若い活力や溌溂とした何かを持っていて、それが余計に自分を色褪せた様に感じさせる。だから科学室を選んだ。科学室の周りは実験の道具や元素記号の周期表、模型や薬品の様な無機質な物ばかりだ。彼らの青々としたエネルギーとは一線を引いている。それが気に入ったのだ。その空間に居ると癒される気がした。
 二年に進級した時だった。いつもの様に科学室に向かうと先客が居た。一年生の頃の露木だった。彼も周りからはみ出し居場所の無い一人だった。気も合い、二人は仲良くなった。それから更に一年が経ち、今度は山崎がやってきた。山崎は何人か友達を連れて来ていて、科学室は賑やかになり始めた。その中で過ごしている内に、真田は他人に対して少し鷹揚になった気がした。同時に、今まで抱えていた劣等感や猜疑心も、少しずつ薄れてきていた。三年生になった真田は何か活動したくなり、半ば廃部しかけていた新聞部の再建に取り掛かった。露木にも仕事を手伝って貰い、機関紙を作り始める。こうして作業していると、自分のやるべき事や居場所が見つかった気がして楽しかった。真田は科学室を卒業し、山崎らに明け渡した。普段、普通にクラスメイトと話す事は苦手だったが、取材という大義名分があると、不思議と口も饒舌になった。
そして、部が少しずつ軌道に乗りはじめた時だった。露木と二人で原稿用紙相手に枡目を埋めていると、ドアが開いて――。
 ――――センパイ。
 真田は目を開けた。
「センパイ」
 マグライトの光が闇を薙ぎ、真田を照らしていた。積み重なった追憶の層は雲散霧消し、本質を伴った確かな現実に帰ってきた。同化しかけていた闇はするすると抜けていった。
 目の前にかがんだ瀬能の姿があり、その後ろに山崎や露木が不安そうにこちらを眺めている。合流したらしい。
「……おはよう」
 しばし放心して、真田は呟く。
「冗談、言ってる場合ですか」
 瀬能は溜息を漏らし、後ろを振り返る。大丈夫みたいです、と皆に伝えている。どこか既視観があるのは気のせいか。
「何でそんな所で丸まってるんだ?」
 馬鹿にした口調で、深作も顔を覗かせる。
 真田は固まった身体をほぐす様に教壇から這い出た。校内は相変わらず停電のままだ。瀬能のマグライトと、山崎のアルコールランプだけが、頼もしく光っていた。
 さっきの出来事は。
 ――夢?
 いや違う、現実だ。
 両手の手のひらを眺める。じっとりと汗で濡れていた。
「顔色悪いですよ?」
 言って、瀬能は覗きこむ。形の良い眉がよく見えた。
「宮内が殺された」
 ぽつりと呟いたが、それは頼りない空気の揺れで、彼女には届いていない風だった。
 見てください、と瀬能は手品でもするように携帯電話を取り出す。
「電話が繋がないんですよ、みんな。それに出口を探しても、行き止まりばっかで」
 そうそう、と露木も続いた。彼らの顔は困ってはいるものの、危険を察知している表情は無い。
「花房先生も見つからないし、相変わらずシャッターは開かないし。ほんと、どうなっているんでしょうね?」
「皆、危険だ。ここから出た方がいい」
 真田は立ち上がった。
「説明している暇は無いんだ。とにかく、学校を出ないと……上手く言えないけど、やばいんだ」
「ほんとだ、汗が凄いですよ」
 山崎が暢気な声を上げる。真田は苛立った。
「いいから聞けよ! 宮内が殺されたんだ!」
 言った後で、真田は周りの空気が冷めている事に気付いた。誰を見回しても、ぽかんとした表情だ。まるで数時間前の牛尾を見るような目で。
 山崎が不穏な声を上げる。
「……誰に殺されたっていうんです?」
「佐伯――、いや、俺の知り合いの、美術部の奴で……お前は面識無いけど……」
 説明しながら、真田は自分の声が徐々に小さくなっていくのが分かった。語れば語るほど、誰もが困惑した表情を浮かべている。
 ――何故だ? 何で誰も俺を信じてくれないんだ?
 何とか事情を説明しようとした矢先、瀬能が口を開いた。
「センパイ、それ本気で言ってるんですか」
 まるで重病の患者を見るような、憐れんだ目だった。
「おかしいですよ…………だって、宮内さんならそこに居るじゃないですか」
 
 真田は後退した。
 壁に寄りかかる様にして、宮内が立っていた。そこには、さっき受けた傷も見当たらず、平然としていた。ところが妙に落ち着いていて、瞳の色が変わったかのようだった。
「宮内……無事だったのか?」
「どうかしてますよ、センパイ」
 瀬能が溜息を漏らす。
「いや、まて、宮内は佐伯に襲われたんだ、そうだよな?」
 宮内は首を傾げた。
「何言っているの、真田くん?」
 眩暈がした。
「真田が見つかったのか?」
 後ろから声がして、振り返る。視界が、ぐにゃり、と歪んだ気がした。足元がふらついて、壁に掛けてある消火器を外しそうになった。佐伯が立っていた。まるで仮面でも被っているかのような、無機質な表情を浮かべている。
「いきなり走りだしたから、気でも狂ったのかと思ったよ」
 アナウンサーの様な、歯切れの良い声だった。
「夢でも見ていたんじゃないの」
 宮内が言う。
「夢……」
 そう言われれば納得できた。どこからが夢なのかは釈然としないが、考えてみれば当たり前だ。殺された宮内と殺した佐伯がのうのうと目の前に現れる訳が無い。きっと、疲れがたまっていたに違いない。文化祭前で、徹夜で原稿を書くことも多かった。それがたたったのだろう。或いは、牛尾にでも毒されたのだろう。
真田は何気なく足元を見た。
 上履きが片方無い。あれは現実だったのだ。
 佐伯が口を開く。
「とにかく、出口を探そうじゃないか。このままじゃ、学校で朝日を拝む事になる」
「そうか……」真田は呟いた。「これは、現実なんだな」
「やっと気付いたか、ようやく元の調子に……」
 傍にあった消火器を取り外す。それを思い切り、佐伯の顔面めがけて叩き込んだ。両手いっぱいの衝撃の共に、彼の身体は床に転がる。
「真田さん、あんた正気か!」
 露木が咎めたが、真田は消火器を離さず構えたまま、這いつくばる佐伯まで近寄った。
「……おまえ、誰だ?」
佐伯はむくりと起き上がる。その顔を見て山崎が悲鳴を上げた。深作は呻き、数歩下がった。佐伯の顔の表面、その内側を何かが這いまわっていた。その何かが動く軌道で皮膚が盛り上がっている。
「一体おまえは、何者だ?」
 真田は言った。佐伯は笑う。
「大人しくしてれば、楽にしてやったのに」
 隣で鈴を鳴らしたように笑うのは宮内だ。
「もう下の連中も仲間にしたのよ。あとは、あなた達くらいしか残っていない」
 何を言っているのか分からなかった。尋常でない何かに遭遇している――それだけは分かる。
 露木と深作は悲鳴をあげながらあとずさり、すでに人外になった二人とは反対方向へと逃げていった。瀬能だけが取り残された様にその場で動かずに居る。
「瀬能、こっちに来るんだ! あいつらに近寄るな!」
 真田は叫んだが、彼女は困惑していた。顔を歪ませた佐伯と、ケタケタ笑う宮内を見比べている。
 宮内が片手をかざす。
びゅっ、と赤い触手が光線のように空間を裂いた。その軌道が茫然と佇む瀬能に重なる。その瞬間、ふいに彼女の身体が傾き、その場に転んだ。山崎が彼女に体当たりをし、触手の軌道から逃れさせたのだ。
 獲物を捕らえそこなった触手は、それまで定規で引いた様な直線から、おおきく波をつくってその場にそよぐ。
「無駄な抵抗はやめなさい」
 宮内がぴしゃりと言った。
「学校はすでに閉じたのよ、逃げることなんて出来ないわ」
 まるで牛尾の台詞を聞いているかのようだった。どこか芝居めいた喋り口、浮世離れした言葉選び――。宮内の姿形はそのまま、普通の女子学生にしかすぎない。ただ指先から突き出た触手が、見事に現実味を破壊していた。
 真田達は、先に逃げた露木たちを追う様にして、猛然と駈け出した。


Chapter three


 真田、山崎、瀬能、深作、露木の五人は、科学室の中に逃げ込んでいた。ドアをロックし、薬品棚でバリケードを作ってから、五人は一つの長テーブルを囲んでいた。中央のランプが、全の顔をぼんやりと照らしている。
 真田は呟く。
「あいつらは……佐伯は、佐伯じゃなかった。宮内も……」
 どう考えても別人だった。そして、あの指先から出ていた触手――。もはや、人間という言葉を使うのも危うい。
 瀬能は小さく震え、口を噤んでいた。目は赤みがかっている。露木は眉を顰め、ひたすら困った様な顔をしている。深作は、どこか憤慨しているような表情を浮かべていた。
「きっと、何か別の何かに変わってしまったんですよ」
 山崎だった。
「元の人間の姿形が保たれているということは、何かが寄生している可能性も……。あの触手を見たでしょう、きっとあれが本体で……」
「馬鹿馬鹿しい! くだらない事を言うな!」
 深作が一喝した。そのどうま声が科学室に響く。真田は一瞬、その声が奴らに聞こえたのではないかと心配した。
「テレビの見過ぎなんだよ、ここぞとばかりにしゃしゃり出やがって。誰もお前の話なんて聞いてねえ」
「それじゃぁ、あれは何だったんです?」
「知るか、俺には関係ないことだ」
 彼はそう言って、山崎をねめつける。
「お前がくだらない想像をするのは、勝手なことだ。だがな、そんな妄想を、こっちに押し付けてくるんじゃない」
「僕だって、自分の言っている事が全部正しいだなんて思っちゃいない。だけどね、これは只事じゃないんだ。尋常でない何かが起きている。あれは確かに化け物だったんですよ。俺たちはもうすぐで、あいつらの仲間にされるところだったんだ」
「仲間、だと?」
「――言っていたでしょう。下の連中は仲間にした、って」
 いくらか気勢が挫けたのか、深作は押し黙る。追い打ちを駆ける様にして、山崎は続ける。
「奴らはこうも言っていた。学校は閉ざされた――。僕達は、閉じ込められたんです。電話が通じないのも、防火シャッターが閉まっているのも、奴らの仕業だ。僕たちを逃がさないためなんだ」
 仲間にする。真田の脳裏に、宮内が殺された光景が過ぎった。彼女は確かに事切れていた筈だ。それが甦ったどころか、完全に別の人格を宿していた。奇妙な触手まで佐伯から伝染していた。
「遊星からの物体X、っていう映画知っていますか」
 山崎の問いに、誰もが顔を顰める。真田も聞いたことが無かった。
「なんだ、今度は映画の話か」
 深作がまぜっかえしたが、山崎は無視した。
「SFホラーです。南極観測をしていた隊員達が、地球外生命体に襲われるのが物語の筋です。地球外生命体――それ、は、最初は犬の形をしている。だけれど、それは容姿にしか過ぎない。それ、は取り込んだ生命体と同じ姿に化けることができるんです。それ、がついに観測隊員にも襲いかかり、人間の姿を手に入れてしまう。それ、の意思は自分を分身させることであり、統一です。外界から孤立した観測所の隊員は、一人、また一人と巧妙な手口によって『それ』になってしまうのです」
 山崎の声には今まで以上に熱がこもっていた。
「いまこの場に、ぴったりと符合しませんか? 僕達は、閉ざされた学校の中に居る。外との連絡は遮断され、孤立している。そして襲われて同化する『それ』……」
「……要するにお前は、これは宇宙人の侵略だと、そう言いたい訳か?」
 早速茶化すのは、やはり深作だ。
「なら聞こう。なぜ駒ヶ原高校なんだ? エイリアンが何故こんなくたびれた学校を侵略しようとする? もし俺がエイリアンならば、もっと頭を使うがね。国会議事堂だとか、政府や要人を真っ先に狙うと思うが?」
「僕は別に、これは地球外生命体の仕業だとは思っていない。そもそも、地球外生命体イコール、エイリアンというのは発想が間違っている。エイリアンという言葉は、そもそも外国人という意味であり、あの映画が間違った定着を……」
「そんな事はどうでもいいっ」
「……とにかく、僕はあくまでこの映画を例えに使っただけです。ただ、襲われれば同化するという部分を、説明したかっただけです」
 二人のやりとりを見やっていた露木がたずねる。
「同化するって……どういうことだい?」
「意思の統一ですよ。オセロを思い浮かべればいい。黒の石で挟めば、白の石は黒に変わる。そうやって、全ての石を黒にしていくんだ」
「何のために……?」
 悲痛な声の主に全員が振り返る。
 瀬能だった。彼女は細かく震えながら、アーモンド型の瞳に陰を刻んでいた。
「どうして、そんなひどいことするの……?」
 一瞬、部屋が静まり返った。
「それは、僕にも……」
 山崎は俯く。
「なんでも、いいじゃねぇかよ」
 深作が噛みつく。
「問題は、ここから逃げ出す事だろうが。あいつらの都合なんて、知ったことじゃねぇよ」
 それには、真田も一理あった。彼らは一体何者なのか。そんな事を考えている余裕は無かった。何よりも、この学校から無事に脱出することが第一なのだ。
 深作は四人の傍から離れると、隣の準備室に入っていった。準備室は教室内と繋がっているので、廊下に出る必要が無い。真田がついていくと、丁度彼が薬品棚のガラスを破る所だった。盛大な音がして、破片がリノリウムの床に散らばる。おい、という真田の呼び声も無視して、棚の中身を検分し始めた。
「何のつもりだ」
「武器になるもん、探してるんだよ」
 深作の目は充血していた。
「あるだろう、硫酸とか、そういう劇薬が」
「武器って、おまえ」
「丸腰でいられるかよ。あんただって間近で見たろ、あの気味の悪い……口に出したくもねぇ」
 おそらく、彼らから出た触手の事を言っているのだろう。
 棚の中から薬品瓶を取り出しながら、深作は言う。
「俺は絶対に生き残ってやるぜ。こんな辛気臭い場所で、骨を埋める気なんて更々ねぇ」
「落ち着け。そんな使い慣れてない薬品なんて、危ないだけだ。自分が怪我するかもしれないぞ」
 真田の言葉には、もはや聞く耳を持たないようだった。いや、他の者が言っても無駄であろう。
 ――いや、待て。
 真田は深作の並べた薬品の中から硫酸を取った。
「おい、それは俺の――」
 深作を無視して、彼は科学室に戻る。机を囲んだ三人が帰ってきた彼を怪訝に見やる。それも気にせず、窓辺に寄った。窓に手をかけるが、まるでビクともしない。やはり、何かの力で押さえつけられているのだろうか。
「無理ですよ、窓は開けられない……」
 露木が諦観めいた声を絞り出す。見かねて、近寄って来る彼を、真田は制した。
「ちょっと離れててくれないか」
「何をするつもりなんです?」
 山崎が声を上げる。深作も戻って来て、真田に目を留めた。真田は傍にあった雑巾を掴んで瓶の蓋を開けると、その中身を窓に振りかけた。
 じゅぅ、と溶ける音がして、窓一面に煙が立つ。その異臭に、全員が鼻を隠す。出口が見つからないのなら、自分達で作ればいいのだ。強化プラスチックの窓は、奇妙な音を立てて溶けていく――その時だった。
 真田は目を見開いた。
 窓が再生を始めたのだ。溶けていた筈のプラスチックがじくじくと音を立てて、再び修復を始めていた。そうして、息を呑んでいる間に、再び窓は塞がっていた。
「どういう……?」
「もうこんな所たくさんだ!」
 深作は短く叫ぶと、ドアに積んであったバリケードを退かし始めた。
「どこに行くつもりだ」
「家に帰るんだよ、当たり前だろが」
 彼は言って、傍にあった箒を掴む。無防備になったドアを開くと、闇の中に消えていった。咄嗟に追って止められなかったのは、真田も同じような気分だったからだ。何もかもが異常だ。逃げ出したくなるのも無理は無かった。
「確かに、このままここで待っているのも、得策とは言えませんね」
 山崎が苦々しげに呟く。
「いつあいつらがやって来るかもわからない」
「やめてよ!」
 瀬能が悲鳴を上げたが、山崎は表情を変えなかった。
「一度、下へ様子見に行くのはどうです?」
「下には行けないだろう。防火シャッターが降りていたんだから」
 露木が嘆息する。それに対し、彼はかぶりをふる。
「それはこの新校舎だけの話じゃないですか。渡り廊下を渡って、旧校舎に行けば、どこか出口が見つかるかもしれない」
「ふむ……」
「観測気球のようなものです。編成を組んで、一度、旧校舎まで様子を見てくる。というのはどうでしょうか?」
 山崎の提案は悪く無かった。少なくとも、ここでずっと籠城している訳にも行かない。奴ら――佐伯たちが言っていた「学校は閉じられた」という言葉を考えると、もしまだ出口が残っているなら、そのチャンスは限られている筈だ。
「分かった。俺が行こう」
 真田が言うと、山崎は頷く。
「さすが真田さん。僕も行きますよ」
「ねぇ、ちょっと待ってよ。何で話を勝手に勧めるわけ?」
 瀬能が止めに入ったが、真田の意志は揺らがなかった。それは山崎も同じだったらしい。
「分かった。じゃぁ、真田さんと山崎にお願いしよう。俺と、瀬能はここを確保しておく」
 露木も納得し、彼女は眉を顰めた。だが、すぐに諦めたのか、溜息をつく。
「――分かりました。すぐに戻って来てくださいよ」

 *

 科学室を飛び出した深作は、そのまま廊下を走って階段を降りていた。だが、踊り場まで来たところで、急に足が留まった。階段の下に蠢く闇をみて、立ち竦んでしまったのだ。
 ――何だってんだよ、もう。
 行きたくない。これ以上、進みたくない。だけれど、今更科学室に戻るのも面子が立たなかった。くだらないプライドが、戻る事を拒否している。
 箒を握る手は汗ばんでいた。
「どうすりゃいいんだ……」
 家に帰りたかった。こんな所に居るのは御免だった。そして何よりも後悔が強かった。どうしてこんな日にお化け屋敷の当番だったのだろう。夜遅くまで作業していなければ、こんな目には合わなかった筈だ。それが何より悔しく、もどかしい。なぜ自分がこんな事態に巻き込まれなければならないのか、全くもって不条理だった。
 ――畜生。
 一段ずつ、そっと降りていく。足は細かく震えているのが分かった。降りていくにつれ、視界がじくじくと闇に染まっていくようだった。暗闇に目は慣れてきたが、廊下は闇によって輪郭を失い、目の前を曖昧なものにしていた。階段をそのまま進んでも、やはり蛇腹の防火フェンスが道を塞いでいる。深作は舌打ちして戻ると、別のルートを探した。
 
遠くの方で光が見えた時、反射的に深作は身を隠しそうになった。何かの光が渡り廊下の向こうの方を照らしたのだ。その時、ライトを持った人物の像が朧気に浮かび上がった。
 ――花房先生?
 肩まで伸びた艶やかな髪が一瞬だけ、見えた気がした。顔まで見えなかった。
「先生!」
 嬉しくなって、深作は短く叫んだ。しかし、彼女らしき影は曲がり角に消えて、すぐに闇が戻った。
「ちょっと待ってくれよ!」
 床を蹴って、廊下を渡る。だがそこに、人の気配は無かった。
 見間違いだったのだろうか。いや、そんな筈は無い――。
「――だれ?」
 ふいに光を当てられ、彼は目を細めた。目の前にはライトを握った花房が立っていた。
「まだ下校してなかったの?」
「よ、良かった……」
 身体の力が抜けるのが分かった。
「先生、おれ、訳の分からない化け物に襲われて……」
 彼女はそっと微笑む。
「落ち着いて、ね?」
 深作は息を整える。
「何があったの?」
「そ、それが……」言い淀んで、彼は続けた。「信じて貰えないかもしれないけれど、おれ、襲われて……そいつ、見た目はうちの生徒そっくりなんだけど、中身は全然そんなんじゃ無くて」
 急に花房の顔が迫った。一瞬遅れて深作が呆けた顔で迎える。
 冷たい何かが腹に押し込まれたかと思うと、一気にそこが熱くなった。
「せんせ……?」
 言葉を続けようとしたが、喉に何か詰まったかのように喋れない。ひどく熱い。
 彼女は笑う。そして踵を返すと、細い足で遠ざかっていく。
「先生……助けてよ?」
 やがてその後ろ姿は闇に埋没して消えた。
 ぐらあっ、と身体が崩れ落ちた。まるで力が入らなかった。少しずつあたりが白く霞んでいった。
 

                             
                            
(―後編へ続く―)
2014-01-08 22:07:36公開 / 作者:田中静馬
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■作者からのメッセージ
読んでいただきありがとうございました。
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この作品に対する感想 - 昇順
 はじめまして。
 プロローグの教師の描写は巧みで現実味があり、それが恐怖を引き立たせていたと思うのですが、本編が始まってからの登場人物の個性が薄かったかな、と。人数が多いことも一因でしょうし、主役級の真田もあまり目立っていない……彼の過去も急に出てきたので、取ってつけたような感じがしました。
 作中でも出てきた多くの謎、なぜ学校で? 敵の正体は、目的は? などなどが後編で明かされるのでしょうか。ホラーというジャンルはまともに読んだことがないので勝手がわからないのですが、とにかく続きに期待しています。謎を散りばめてどんどん読ませていくやりかたは上手いですね。
2014-01-15 01:30:15【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
ゆうら 佑様

はじめまして。
拙作を読んでいただき、ありがとうございます。
冒頭は気合いが入るものの、書き始めるにつれ、雑な文章になってしまうのが癖のようです。登場人物の描写に関しても、もっと掘り下げる余地があったのだと痛感しました。

ご感想ありがとうございました。
2014-01-15 18:48:08【☆☆☆☆☆】田中静馬
[簡易感想]おもしろかったです。
2014-05-29 21:13:36【☆☆☆☆☆】Gidget
[簡易感想]短すぎです。短すぎっ!
2014-05-30 14:10:56【☆☆☆☆☆】Laaila
Gidget様
読んでいただきありがとうございます!
2014-06-15 22:18:49【☆☆☆☆☆】田中静馬
Laaila様

読んでいただきありがとうございます。
次回はもっと長いものを書きたいと思いますのでご容赦ください。
2014-06-15 22:20:15【☆☆☆☆☆】田中静馬
計:0点
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