『蒼い髪 34話 復讐前編』作者:土塔 美和 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 平民の母を持つルカは王子とは言え身分は低かった。七歳の時、政略の道具としてボイ星へ送られる。ボイに謀反を起こさせるように仕向けたネルガルは、圧倒的な軍事力でボイ王朝を倒し植民惑星とする。ルカは友人の助けを借り妻シナカを助け出すが、ネルガルでシナカは戦犯の娘として拘束される。ルカは軍部に協力することを条件にシナカの身の安全を図ったが、出兵中にピクロスによって殺害される。シナカを失ったルカは酒におぼれる日々を過ごすのだが、
全角59569文字
容量119138 bytes
原稿用紙約148.92枚

 登場人物

  ルカ    ネルガルの王子 別名エルシア
  シナカ   ボイの王女 ルカの妻 ピクロスの手にかかる
  ケリン   ルカの親衛隊 元情報部所属
  ジェラルド  ネルガルの王子 ルカの異母兄 白痴
  シモン    ジェラルドの妻 カロルの姉 怒ると怖い
  クラークス  ジェラルドの侍従武官
  ピクロス  ネルガルの王子 ルカの異母兄
  ディーゼ  ネルガルの王女 ルカの異母妹
  オルスターデ夫人 妃 ピクロスの母
  ロイスタール夫人 正室 ジェラルドの母
  クリンベルク将軍  ネルガルの名将 カロルの父
  カロル   ジェラルドの親衛隊隊長 野生児
  エドリス  ジェラルドの親衛隊 ボイ侵攻の時からのカロルの友人兼部下
  ニック   ジェラルドの親衛隊副隊長
  マーヒル  カロルの兄
  テニール  カロルの兄
  ハルメンス公爵  父 先代皇帝の弟 母 現皇帝の姉
  クロード     ハルメンスの秘書 地下組織のメンバー



 ここは奥宮、数ある王妃の館の中でもその優雅さと豪華さにかけては一、二位を争うオルスターデ夫人の館。そのエントラスホールをくぐり幾つもの豪勢な部屋を通り、絵画や骨とう品で満たされた幾つかの廊下を通り越した先にピクロスの私室がある。部屋と言うには広すぎるほどの一区画。そこにたむろしているのは何時ものメンバー。
「しかしルカ王子も、存外、脆かったですね。たかが女一人で、あそこまで身を崩すとは」
 今のルカは酒に浸かった浮浪者同様、以前の知的で聡明な姿はどこにもない。
「一人の女をあそこまで愛せるものだろうか、しかも異星人を。見れば人間より昆虫に近いような」
 彼らの最初のシナカに対するイメージはそれだった。
「七歳で宛がわれたからな、まだ女に対する免疫なかったのだろう」
「所詮女など、出世の道具にすぎないものを」
「女の方だって、男をそう見ているのだからな」
 彼らは知らない、自分たちがそう思っているからそういう仲間しか集まって来ないことを。類は友を呼ぶ。他人は自分を映し出す鏡。
 ピクロスは一人窓際に佇み彼らの会話を黙って聞いていた。これで一番目障りな瘤は消えた。次は、と内心思いながら。まだ玉座には遠い。





 そしてここは、オルスターデ夫人の館以上の優雅さを誇る皇帝の正室ロイスタール夫人の館。ここでは一大事件が持ち上がっていた。ハルメンス公爵の誕生会に招待されたジェラルドは出発予定時間を一時間も過ぎていると言うのに、当の本人はトイレの中。先程、出て来たかと思ったら、また戻って行った。
「よっ、何回トイレに行けば気が済むんだよ。何時になったら出発できるんだ」と、イラつくカロル。
「まあまあ隊長、何時ものことですから」と、カロルの機嫌をとるエドリス。
「もう、待ちきれねぇー。ジェラルドを置いて出発しよう」
「それじゃ、意味ないのでは」
「かまうもんか」
 などと騒いでいる時だった、剣の柄とつばがぶつかる音。
「何だ? カチカチとうるさいぞ、お前まで。今、俺は機嫌が悪いんだ」と、カロルは剣に向かって言う。
 すると、
(おしっこ)と言う子供の声。
「おっ、おしっこ?」
 カロルは暫し辺りを見回したが其れらしき子供は見当たらない。さてはこの剣がと思い部下たちから離れると、声を小さくし剣に話しかける。
「おしっこって、お前は剣だろう、剣が小便などするか、アホ」
(もれちゃう)
「はっ? いいか、人をからかうのもいい加減にしろよ、この忙しい時に」と、カロルは怒って剣の言い分を無視して部下たちの中に戻って行く。
 やっとジェラルドが戻って来た。のそのそと地上カーに乗り込もうとするのに手を貸し、内心ではその尻を足で蹴り上げているところを想像しつつ、強引に地上カーに押し込んだところで腰に生暖かいものを感じる。
(もれちゃった)
「はぁっ?」
「カロル、どうしたの、そのズボン」と、ジェラルドの妻、カロルの姉でもあるシモン。
 帯剣している辺りがびしゃびしゃ。
「みっ、水だ」と、カロルはとっさにズボンのシミを誤魔化す。
「にっ、匂いますよ、隊長」と、副官のニック。
「しょ、小便くせぇー」と、エドリスがはっきり表現したからその場の雰囲気が一転した。
「うっ、うるせぇー」と、カロルはエドリスを怒鳴りつける。
「何も我慢していることなかったでしょうに、ジェラルド様とご一緒に」と、呆れたように言うシモン。
「ちっ、違う。俺じゃねぇー。こっ、こいつが小便を漏らしたんだ」と、カロルは帯剣していた剣を高々と持ち上げる。
 瞬間、その場は静まり返った。まさにこれぞ水を打ったように。
「カロルさん、直射日光にでもやられましたか、今日は暑いですから」と心配するクラークス。
 それに対してカロルの姉シモンは、
「カロル、何馬鹿なこと言っているのよ、言うに事欠いて剣のせいにするなんて」
 シモンはジェラルドや皆の手前、恥ずかしいのと怒りで赤面している。
「たっ、隊長。その嘘、無理がありますよ」と、忠告したのはニック。
「嘘じゃねぇ。俺だって嘘を吐くならもっとましな嘘を吐く。本当のことだから、どうにもならねぇー」
 真実は嘘より奇なり。
「剣って言うやつは、どっから小便するんだ?」と、真に受けたように問うエドリス。
「そんなの、俺が知るか」
「それにしてもすげぇー臭いだ。こいつ、一体、何食ったんです?」
 カロルの話しを信じていないのに余りにも気の毒に感じたエドリスは、カロルに調子を合わせてやることにした。
 カロルの姉シモンはそのような同情心はない。おまけに出発の予定時間はかなり過ぎている。冗談など言っている暇はないのにと、ますます頭に来たらしい、
「早く、着替えてらっしゃい」
 とうとう怒りだしてしまった。
「もう着替えている時間ありませんよ、隊長」と、忠告したのはニック。
「仕方ないわね、カロル。あなた後続車に乗って、その臭いでは同乗するのは嫌だわ。乾けばどうにかなるでしょうから。後で香水貸してあげるわ」
 姉の冷たい一言。


 ハルメンスの館、出迎えたのはハルメンス本人だった。
「はっ、ハル公。どうしてお前がここに?」と言うカロルに。
「よく来てくれました、久しぶりですね、ジェラルド」と、ハルメンスはカロルを完全に無視して従兄弟のジェラルドに懐かしげに声をかけ手を差し出す。
 ジェラルドはそれを恐れるかのようにクラークスの背に隠れた。代わりにその手を取ったのは妻のシモン。
「お招きいただいて、有難うございます」
「これはクリンベルク家の貴女。一段とお美しくなられた」
 カロルは内心、貴女の字が違うのではないかと思いながら姉の背後に控える。一時は鬼娘として名を馳せた姉。だがその噂の根源はカロルにあった。
 一通りの挨拶が済むと、ハルメンスは鼻をひくひくさせ、
「一体、この臭いは何なのですか?」
「それが」と、シモンが言いよどむ。
「何処かの肥料小屋から出て来たような、それにしても今時珍しい。それとも新しい香水ですか。あまり趣味がいいとは言えませんね」
「悪かったな」
 カロルはむっと来た。以前からこいつは気に食わなかったが今、一層それを確信した。何か言い返してやろうと頭をひねるがこれと言った言葉が出て来ない。それを見かねたか、ニックが割って入って来た。言葉で負けると手が出るのがカロル隊長の悪い癖。こんな所で騒がれてはと思ったようだ。
「隊長が、剣に小便を引っ掛けられたそうで」
 こんなことを言ったら誰にも相手にされなくなると言うことは重々承知でも、あの剣の不思議さを知っている者としては、カロル隊長の言うことを完全な嘘とも言い切れず。
 暫しの沈黙。
「カロル、どうやらジェラルドの病気が感染したようですね」と、ハルメンスが呆れたように言う。
「あのな、気違いが空気感染するなど聞いたことが無い」
「銀河は広いですからね、どんなウイルスが居るとも限らない、シモンさんも気をつけられた方が、あまりカロルさんには近づかない方がよいかと」
「そっ、そうね」と、困った顔をして相槌を打つシモン。
「よっ、余計なお世話だ。それを言うなら感染源のジェラルドの方じゃねェーのか」と、カロル。
「まだジェラルドの方が、あなたの菌よりたちがいいかと思いましてね」と、ハルメンスは優雅に微笑む。
 カロルはますますこいつが嫌いになった。
「それより、よければ私の服を貸しましょう。クロード、何か適当なものを」と、話題を変えた。
「畏まりました。カロルさん、こちらへ」と、クロードがハルメンスの私室へ案内しようとした時、奥からイシュタル人の下僕、通称ナマケモノが現れた。
 彼はルカと出会ってからすっかり怠け癖は返上したのだが、名前の方は返上する気がないようだ。イシュタル人には名前が無い。その時の呼び名がそのまま名前になる。
 そのイシュタル人は暫しカロルを眺めていたが、
「酷い臭いですね、何か白竜様に嫌われるようなことをなされたのですか?」
「嫌われるようなこと?」
 心当たりがない。だいたい白竜など、俺は知らない。と、カロルが思っていると。
「白竜様の機嫌を損ねたのでしたら謝るといいですよ、そうすれば直ぐにその臭いは取ってくださいます」
「謝るって、俺は何もしてねぇー。だいいちこいつが小便してぇーて言うから」と、カロルは剣を掲げる。
「剣が小便するなど聞いたことがなかろー」
「それで無視したのですか」
「そうだ、取り込み中だったからな」と、カロルは当然のごとくに言う。
 イシュタル人のその男は納得したように頷くと、
「それで、お冠になられたのですね。白竜様は女性ですから、あなたが他の人に夢中だと焼きもちを焼かれるのです。それで自分の方に気を向かせたくてそのようなことを仰られたのです」
「じょ、女性?」
「そうですよ、知らなかったのですか。それも絶世の美女だそうです。私はまだお目にかかったことはありませんが、聞いた話では、そのお姿を見たものは他の女性など眼中になくなると。それほど美しいそうです」
 絶世の美女と聞いて、誰もが黙り込んでしまった。唾を飲む音だけが聞こえる。
 その中で真っ先に我に返ったのはニックだった。ニックが思い出したように、
「男と言うことはないのか、例えば美少年とか」
 件の幽霊。もしかしてあれが白竜ではないかと。美しさに関しては女に引けを取らない。否、俺が知っている女で奴にかなう者はいない。だが待てよ、一人だけいる。奴に劣らず美しい人物が。だがその方も男性だ。ルカ王子。最初、カロル隊長に紹介された時は、何かやんごとなき理由で王女が男装しているのかとばかり思っていた。正真正銘、男だと知った時は、ショックを受けたぐらいだ。
「いいえ」と、そのイシュタル人の男は首を左右に振る。
「髪は青く長く、肌は透けるように白い。そして瞳は宇宙を表すかのように黒く深いそうです。これが白竜様のお姿です。男性ではありません」
 そう言えば奴の肌は確かに透けるように白いが、髪は茶だった。瞳は黒だったような気がするが、男であることに間違いはない。なにしろ我々が川で救助活動の訓練をしていた時、その上流で立ちションをしていたのをこの目で見た。それで皆であせってかえって川の流れに巻かれ、その水を飲んでしまったと言う苦い経験付きで。
「早く謝るといいですよ、もう二度と無視はしないと。そうすればその臭いは取ってくださいます。さもないと服を脱いでも風呂に入っても取れませんよ。ほんの少し御へそを曲げておられるだけですから、あまり機嫌を損ねない内に」
 そう男に説得されると何故か不安になってきたカロル。確かにこの剣は只者ではない。それに今ではかなりの借りがある。まして相手が女性と聞いてはなおさら。あの少年とは違うのか。ではあいつは一体、何者?
「どうやって謝ればいいんだ?」
「そう心に思えばいいのです」
「心に?」
 だがそう言われてもこんな所で集中できるはずがない。それで口にすることにした。カロルは両手でしっかり剣を握ると、
「さっきはすまなかった。もう二度と無視はしない。だから勘弁してくれ」
 カロルがそう言うと、剣がほんの少し鞘から持ち上がり、竜の文様と目が合う。
「めっ、目が明いている」
 驚くカロルを無視して竜はじっとカロルを見ているようだったが、暫くすると目を閉じ元の鞘に収まった。すると腰の湿り気が消え嫌な臭いも消えた。替わりに別な香り。
「まあ、いい香りね」と、シモン。
「こっ、これは、あいつがよく使っていた香り」とカロル。
「竜木のお香ですね」と、イシュタル人の男。
「お前、この香りを知っているのか?」と、カロルが驚いたふうに訊くと、
「イシュタル人なら誰でも知っていますよ。どこにでもある故郷の香りですから」
 男は目を閉じるとその香りを暫し堪能し、
「懐かしい」と呟く。
「竜木か。ネルガル星では昔は何処にでもあったらしいな。イシュタルでもそうなのか」
「ネルガルから持って来て植樹しましたから、何処にでもというわけには参りません。それに先住民のビャクとの約束もありますし」
「ビャクって、あのオオカミに似た獰猛な」
「彼らは獰猛でもなんでもありませんよ。あなた方が追いつめるから、彼らも自分の身や家族を守るために戦うのです」
 オオカミのような獣に知性があるとは思えない。
「脳波はどの生物でも同じなのです。体を作っている材料が同じなのですから。言葉で話そうとするからいけないのです、心で話さないから。今カロルさんが剣に謝ったように話せば、大概誰にでも通じるものです」
「本当にそれで通じるものなのでしょうか」と疑問を投げかけて来たのはシモン。
「通じないのはネルガル人ぐらいなものです。あなた方はあまりにも言葉に頼り過ぎた」
 言葉に頼っているわりにはいざと言う時に言葉を使わない。話し合いより腕力を優先させる。ネルガル人とは不思議な生き物だ。
「ビャクは私たちの移住を認めてくれたのです。そして自分たちの土地の一部を私たちイシュタル人に分けてくれたのです」
 これだけでも如何にビャクが知的生物だかが解る。姿かたちはオオカミに似ているが。
 イシュタル星は決してイシュタル人たちが力ずくで先住民ビャクから分捕ったのではない。ビャクとの交渉の結果、分けてもらったのである。だが今はネルガル人が侵入し、その結界を破壊しつつある。そのためビャクが獰猛になって来ているのだ。誰だって自分の安住の地を後から来た者に奪われたくはない。
「ところで、何か私に用があってここへ来たのではありませんか」と、ハルメンスは下僕に問う。
「あっ、そうでした。そろそろ時間ですので、皆様お待ちかねです」
「やれやれ、ミイラ取りがミイラではね」
 男はハルメンスを呼びに来たのである。それをすっかり忘れて、男は照れたように頭を掻いた。
「それより、何で主役がこんな所にいるのだ」
「私は従兄弟を出迎えに来ただけですよ。出席してくださると言う返事を受け取りましたから」
 だがカロルにはそれだけではないような気がしていた。もっともこっちにも、好きでもないこんな気取り屋の誕生日を祝いに来たのには別な目的があった。こいつなら奴の情報を何か持っているのではないかと。
「実は人を待ってましてね。このお香と同じ香りを身にまとった」
「やっぱり、お前もか。奴の館にも招待状を送ったのか?」
「はい」
「それは無駄なことをしたな。奴はここの所、館には戻って来てないぜ」
 カロルはそれからも暇を作ってはルカの館へ行ってみたが、あれ以来ルカとは会えない。奴が俺を避けているのか、それとも本当に館には戻っていないのか。
「あなたでしたら何か情報を持っているかと思いましたが」と、ハルメンス。
「それは、こっちの台詞だ」と、カロルは忌々しげに舌を打ち言う。
「一体、どうなされてしまったのでしょう」と、ハルメンスは心配げに言うが、こいつは何を考えているかわからないとカロルは思っている。





 その頃銀河では、ダモアゾー星にある捕虜収容所が宇宙海賊アヅマによって襲撃された。だがそこは捕虜収容所とは名ばかりで実際、中に収容されているのは各惑星から集められた珍しい生物、知性のある者は奴隷として売りさばき知性のないものは動物園や見世物小屋に売られる。中でもイシュタル人はネルガル人と姿かたちがそっくりなのでかなりの高値で売れるため、収容する数も次第に増えて来ていた。この収容所も半分近くがイシュタル人で占められていた。
「何が青い星の悪魔だ。ドラゴンなど、どこにも居やしないじゃないか。俺たちは伝説に踊らされていたのだ。眠れる獅子も蓋を開ければただの猫だったというわけさ」
 金になるとなれば見境が付かないのがネルガル人。ここぞとばかりにイシュタル人を狩り集めていた。
 そこをアヅマが襲撃してきたのである。あっという間の出来事だった。レーダーが反応する前にアヅマの艦隊は上空三万五千キロの高さにいきなり現れたのである。しかもその数三個艦隊、主星攻略には足りないが一収容所を襲撃するには十分すぎるほどの数である。
 司令室に警報が鳴り響く。
『敵艦隊出現。国籍不明。どうやら宇宙海賊のようです』
 その通信が入るや否や戦闘が始まった。しかも地上戦。何時の間に着陸していたのだ。バリアはどうなっていたのだ。その疑問が誰の頭にもよぎったようだ。
「レーダー班は何をしていたのだ! 敵がここまで接近していたのに気付かないとは。居眠りでもしていたのか!」と、怒鳴る所長。
 怒鳴っても後の祭りである。
「バリアが故障していたのか?」と、冷静に問うのは副所長。
「否、バリアは正常に作動しておりました」
「では、どうして敵がこんなにも簡単に」 侵入できたのか。
「それが、地上部隊がバリア内にいきなり出現したようなのです。宇宙船と同じように」
「幽霊でもあるまいし、そう消えたり現れたり出来るか」と所長が言った瞬間、皆は黙り込んでしまった。
 思い出したのである、青い星の伝説を。今まで従順でおとなしいイシュタル人を相手にしていたからすっかり忘れていたが、彼らの背後には青い髪の悪魔が憑いていることを。
「悪魔だ! ドラコンだ!」
 誰かが叫ぶ。
 瞬時に司令室の中はパニックを起こし始めた。子供の頃から聞かされている悪魔の話しは、ネルガル人たちのトラウマになっている。青い髪の悪魔が来ると言うだけで、どんなに駄々をこねている子供もおとなしくなるほどに。
「馬鹿野郎、こんな時に恐怖を煽り立ててどうする。落ち着け。幽霊も悪魔もドラゴンも、存在しない。この科学の時代に、何血迷ったことを言っているのだ」と所長は、司令室の中を落ち着かせる。
 あちらこちらで援軍の要請。司令室はそれでなくともパニック状態になっていた。
 テレポートを使うアヅマたちにとってバリアは在ってないがごとし。次から次へとバリア内に装甲車を送り込む。
「しょ、所長。おもな基地は包囲されたもようです」
「そっ、そんな馬鹿な」
 彼らが上空に出現してまだ一時間と経っていない。上空から攻められたという感覚もなければ、これと言った戦闘をした覚えもない。それなのにどの基地も、気づけば包囲され脱出できず、外からの援軍に頼るしかなくなっていた。
「いきなり空間から装甲車が現れて取り囲まれたそうです。なすすべもなかったと」
「馬鹿なことを言うのもいい加減にしろ。何が空間からだ。ワームホールがこんな所にあってたまるか」
「しかし現に壁から装甲車が現れて、ほぼ全域を、その映像がただ今」と、その映像を転送しようとしてオペレーターは凍りつく。
 見てしまったのだ、空間から手が現れ、その手の中にあるプラスターの銃口が所長の頭部に当てられているのを。こちらは映像ではない、現実。
「どうした?」
 震えるオペレーター。
 すると壁から数人の海賊たちが現れた。彼らが現れると同時に司令室の中の者たちは一斉に彼らにプラスターを向けた。だがアヅマたちは臆しない。
「撃つなら撃て。だがこいつの命もない」
 プラスターの銃口が所長の頭にピタリと付く。頭皮からその感触を感じた所長は慌てて部下たちに怒鳴る。
「馬鹿! プラスターを下ろせ!」
「所長の言うとおりにした方がいいな。我々は別にあなた方と戦うためにここに来たのでない。仲間さえ返してもらえれば速やかにここを引き揚げる」
「仲間?」
「我々の同胞だ」
『司令室、司令室。収容所のロックが、何者かによって全て解除されました』
 破壊されたとは言わなかった。解除? どういうことだ? 所長は考えようとしたが頭にピタリと照準があっているプラスターが気になり、考えがまとまらない。所長はそのままの体勢で宇宙海賊のリーダーとおぼしき人物に視線を移した。
 それを待っていたかのようにアヅマのリーダーは言う。
「全ての者に告げるがよい。そちらが攻撃して来なければこちらも何もしない。武器を捨て、こちらの指示に従うようにと」
「そんなこと、できるか!」
「ならば、死んでもらうだけだ」
 プラスターのエネルギーを殺傷モードに合わせる。その刹那、余りの恐怖に所長の命令を無視して発砲したものがいた。その者から発せられたエネルギー弾は一人のアヅマの肉体を貫通し、彼の背後に居た味方に当たってしまった。透けている、こいつら映像なのか? 所長は我が目を疑った。だが、付きつけられているプラスターの感触は本物だ。
「ばっ、馬鹿な」
 撃った男は焦り、もう一度発砲しようとしたが、その前に別のアヅマによってプラスターを弾かれた。男の手から血が滲む。
「見ての通り、お前たちに我々は撃てない。だが我々にはお前たちが撃てる。死にたいのなら逆らうがいい」
 誰もが固唾を呑む。その静寂に耐え切れなくなった者が、
「化け物だ、助けてくれー!」と怒鳴りだした。
「忘れたのか、我々のことを。お前たちは青い悪魔と呼んでいた」
「覚えているようなら、我々に手を出そうなどと考えもしなかっただろうな」
「ネルガル人は記憶力が弱いからな。忘れては同じことを繰り返し痛い目にあい思い出す。何万年とその繰り返しだ、ほとんど進歩が無い。少し技術が進歩したかと思えば直ぐにつけ上がる」
「何時になったら覚えるのだ、我々と戦っても勝てないということを。いい加減ししてもらいたいものだ」と、うんざりするような感じでアヅマたちは話す。
「さあ、さっさと武器を捨てさせろ。これが最後の忠告だ。以後、武器を持っている者は皆殺しにする」
「わっ、解った」
 所長は慌ててオペレーターの所へ駆け寄るとそのマイクを取り上げ、全基地に通信を入れた。
 どういう意味だ。と言う通信が返って来る。ろくな戦いもしていないので自分たちが負けた気がしていないようだ。だが実際に包囲されている基地では同じような恐怖を味わっていた。化け物を相手に戦っても勝てるはずがないと。
 特に司令室に現れたアヅマたちは、彼らの中でも能力に関しては選りすぐりの者たちである。ネルガル人は中枢を攻略すれば何もできない。奴らは自分たちで考えることはしないから。上からの命令に従うだけだ。そう訓練されている軍人たちは、中枢がやられれば総崩れだった。例え戦えるだけの能力があっても。司令官が優秀なほどそれは顕著に表れる。だが司令官が優秀でない場合は別な反応が起こる。この基地がいい例だ。
「我々は降伏した。速やかに彼らの指示に従ってくれ」
 直ちに戦闘をしていない基地からのブーイング。オペレーターたちはその対処に苦慮している。
「馬鹿な奴らだ。基地の一つも粉々にすればおとなしくなるのか。私たちはあなた方と違ってあまり暴力を振るいたくないのだが」
 あまりの指揮統制の取れなさに、アヅマたちはその様子を見て苦笑する。
「お前はあまり部下から慕われていないようだな。しかたないエリアEでも破壊するか」
「待ってくれ、そこは居住空間だ。兵士はいない。我々の家族が」と、悲壮そうな顔をする所長。
 先日、待ちに待った第一子が生まれたばかりである。
「では、他のエリアならいいと言うのか?」
 所長は答えに窮する。
「私たちの家族を破壊しておきながら、自分の家族を破壊されるのは嫌なのか? その考えはおかしかろう。お前が嫌がることは私たちも嫌なのだよ、自分が嫌がることは他人にもやらないのが道理ではないのか」
「今更ネルガル人に道理を説いても無意味ではありませんか、司令」
 同胞たちが頷く。
「待ってくれ、今、全武装を解除させる」
 だが、所長のその命令が出るより先に、何処からどう基地の通信網に入ったのか、メインスクリーンが輝きだし、一人の海賊の映像を結んだ。
『司令、同胞の収容を完了しました』
「ご苦労だった。直ちに引き揚げてくれ」
『了解』
 ここに現れた者たちは最初から攻撃をするつもりはなかったようだ。ただやられれば自衛のためにやり返すだけで。目的は捕虜の救出。そのための時間稼ぎ。ここで会話をしている間に別働隊がさっさと捕虜を収容していたのである。今では収容所にはイシュタル人はおろか他の異星人の姿も完全に消えていた。
「さて、私たちも引き揚げるか」





 そして別の空域では、
「船長。無国籍の船団をキャッチしました。数、十隻、護衛艦はおりません」
「このご時世に十隻、しかも護衛艦を付けずに航宙するとは命知らずもいいとこだ」
 商船も今では海賊から身を守るため三十隻とか五十隻と、大きくまとまって移動するようになっていた。現にこの船団は三十五隻の貨物船と十五隻の護衛艦からなっている。
「どこの星の船か、船籍を確認しろ。その上でよかったら同行しませんかと誘ってみろ」
 五十隻よりもは六十隻、数は多いほど安堵感が湧く。ところが、
「何の応答もありません」
「応答が無いって、まさか」
 船内の誰もが同じことを考えた。宇宙海賊シャーに襲撃された貨物船ではないかと。
 シャーは貨物船を拿捕すると、乗組員を全員抹殺し金目のものは全て運び出す。そしてその船はそのまま放置され宇宙の藻屑となる。
 距離が狭まりスクリーンに映し出されたそれらの貨物船の外壁は、どの貨物船もかなりの損傷を受けていた。戦闘があったのは間違いない。この空域でか? だがそれにしては他の艦の残骸がない。おそらくこの空域まで連れて来られたのだろう。
 貨物船の生々しい傷跡に船員たちは固唾を呑んだ。誰かがその恐怖に耐えられず、
「海賊だ! 宇宙海賊だ! シャーだ!」と怒鳴る。
 オペレーターたちまでもが通信機を使って叫んだからたまらない。一気にその恐怖は船団に蔓延した。
『落ち着け』と言うトーンの低いどっしりした声の通信は、護衛艦からのものだった。
「とりあえず、星間警察に連絡をしておけ」と、護衛艦の司令官。
 本来なら立ち寄って生存者がいれば救出してやりたいところなのだが、そんなことをしている余裕はないだろう。もし彼らがまだこの近くにいれば、足の遅い貨物船を連れているのだ、ひとたまりもない。さっさとこの空域を通過するに越したことはない。
 司令官は全船の速度をあげさせた。だが、既に遅い。
「左舷九十度、無国籍艦隊発見、距離」
 近すぎた。敵は出現すると同時に発砲して来た。
「ばっ、馬鹿な。こんなに接近されるまで気づかなかったのか?」
 あの貨物船の残骸に目を奪われているうちに、敵は接近していたのか。しかしあれだけの数の艦隊だ、接近していればレーダーに何らかの反応があっても。
「円陣を組め、貨物船を中央にしてバリアを張れ。救援信号を放て。近くに星間警察の機動隊でも居てくれれば」
 ここは貿易船の航路になっている。星間警察が定期的に巡回しているのだが。
「司令、このままでは」
 敵の数が次第に増えて来る。
「司令、星間警察からの連絡です。後一時間もすれば駆けつけられるそうです」
「一時間か、持ち堪えられるか」
 飛び交う閃光。今のところはバリアが持ち堪えてくれているが、何時まで耐えられるか。砲撃は次第に激しくなってきた。敵艦の数を少しででも減らせれば。
「短距離砲発射用意、撃て!」
 護衛艦の方も反撃に出た。十二分に敵を引き付けてからの反撃だったから、大半の砲撃が敵艦に命中しエネルギーの無駄はなかった。だが敵には恐怖と言う感情が無いのか、どんなに仲間の艦が隣で炸裂しても接近を止めようとはしない。しかも数は穴から蟻が湧き出してくるかのように増え続ける。
「どうなっているのだ、近くにワームホールでもあるのか?」
 だが、そのような情報は航宙図には記載されていない。
 敵との距離はどんどん縮まり、その間で膨大なエネルギーが消費された。肉眼では直視できないほどの明るさ。そしていよいよバリアが防御の限界を越したようだ、亀裂が走る。そこを狙って敵の砲撃が集中して来る。護衛艦のほうもそうはさせじと攻撃を集中させた。今まで以上の攻防の激しさ。次第に戦闘の激しい位置に敵、味方の艦が集中し始めた。
 そして背後ががら空きになった時、
「背後に敵艦隊出現」
 背後に現れたのが星間警察の機動部隊かと期待すれば。
「別働隊がいたのか!」
 致命傷だった。


 一時間後、星間警察の軌道艦隊が現場に到着した頃には全てが終わっていた。小惑星の爆発でもあったかと思わせるほど辺り一面敵味方の区別がつかない艦の残骸が散らばっている。無論、貨物船は全て拿捕され影も形もない。そして数日後、先程のような形で何処かの空域に放置されるのである。シャーと出くわして生き残った者はいない。ボイスレコーダーを回収して初めてその戦況が解るぐらいだ。

 現在の銀河は、表の銀河をネルガルが支配し、裏の銀河は宇宙海賊シャーとアヅマで二分するような図式になって来ている。ただ、シャーの手口はアヅマとはまるで違っていた。こちらの構成要員はネルガル人、しかも兵隊崩れだと言うのがもっぱらの噂。ただし戦闘方法はアヅマと同じ、いきなり何もない空間から出現する、まるでワームホールがそこにあったかのように。しかもこちらはアヅマより残虐ときているからその名を聞いただけで、特に貿易関連の者たちは震えあがった。なぜならアヅマが襲撃目標としているのがおもに収容所やネルガルの軍事基地なのに対し、シャーは根っからの海賊らしく貨物船や豪華客船が主である、しかもネルガル船籍の船。一回の襲撃で他の宇宙船より収穫がよく効率がいいからである。さすがにネルガルの貨物船は高価な物を搭載している。俗に言うローリスク・ハイリターンだ。トヨタマの艦員たちが武器の撤去に反対したのも宇宙海賊シャーを念頭に入れてのことだった。これだけの品、奴らが目を付けないはずがない。だが不思議となに事もなくボイ星に着いたのは奇跡に近い。
 近い将来この三つの勢力が三つ巴になるであろうとは、知識人たちの見解。その時、ネルガルに支配されていた惑星の住民はどう動くのだろうか。





 ルカは完全に意識をなくしていた。
 薬が混入されていたのか、俺としたことが迂闊だった。ルカは頭を大きく振り髪をかきあげながら見知らぬベッドから体を起こす。
 ここは一体、何処だ?
 清潔そうな純白のシーツ。
「やっとお目覚めのようですね。既に太陽は中天にたっしておりますよ」
 聞き覚えのある声。ルカは二日酔いで、否、薬で朦朧としている頭で考える。
 昨夜は?
 シースルーのドレスを身にまとった女性が赤い液体の入ったグラスをトレーに乗せ近づいて来た。
 ルカは目のやり場に困り天井を見上げる。
 女はくすくすと笑いながらルカの隣に隙間が無いように座り、トレーをサイドボードの上に置く。
「もうそんな態度をとる年頃でもないでしょ、昨夜はさんざん楽しんだくせに」
 ルカは視線を彼女と会わせると、
「私が、あなたと?」
「あら、覚えていらっしゃらないの?」
 ルカは霧のかかったような頭で暫し考える。だが思い出せない。皆で楽しく飲んでいた所までは覚えているのだが、そう言えば彼女もその輪の中にいた。確か名前は、
「ミズナさん」
「あら、思い出してくださったの?」と、女は嬉しそうに体をすり寄らせてくる。
 だがルカの記憶はそこまでが限界だった。シナカを亡くしてから何人かの娼婦を相手にはした。だが駄目だった。抱けば抱くほど思い出されるのはシナカのこと。悲しみが込み上がって来るだけで。アルコールもこの空虚な寂しさを癒してはくれない。
「私、何か失礼なことを言いませんでしたか」
 酔った勢いで本音を吐いてしまうのが怖かった、だから酔った振りはしても量は控えていた。
「そうね、お楽しみ中に別の女性の名を呼ぶのは止めてもらいたいわ」
「それだけですか」
「他に、何か?」
「いや、別に」
 ルカは俯く。だがそれだけだったのかと安心もした。どうやら心中は口にしていなかったようだ。
 ルカがかなり落ち込んでいるのを見てミズナは、
「嘘よ。昨夜は何もなかったわ。あなた、酔わないからアルコールの中に睡眠薬を入れたのよ。そしたら効きすぎて今まで寝ていたというわけ。ここまで運ぶのに苦労したわ」
 ルカは驚いたようにミズナを見る。アルコールの量はいつも注意していたのだから、意識をなくすまで飲むはずはない。よって薬を盛られたことは解っていたのだが、何時、どうやって盛られたのかはわからなかった。いつもなら微量な混入物でも臭いでわかるのに、毒でなかったから警戒しなかったのか。
「どうしてこんなことを?」
「決まっているでしょ。女が男を自分の部屋に連れ込むのは、自分だけのものにしたいからよ」
「それではここは、あなたの部屋?」
 ミズナはいきなりルカに全体重をかけ、ルカをベッドの中に押し倒した。もうこれ以上面倒な会話はいらないという感じに。のしかかってくる彼女にルカは慌てて抵抗する。
「まっ、待ってくれ」
「そんなに亡くなられた奥さんのことが好きなの。私が忘れさせてあげるわ」
「無理だ!」
 ルカはミズナを跳ね返すと起き上がった。そして初めて自分が全裸であることに気付く。
「服を、返してくれませんか」
 このままでは帰れない。
「どうしようかしら」と、女はもったいぶる。
「ふざけないでください」
「午後の予定でもおありなの?」
 ルカは黙り込む。以前のルカなら秒刻みのスケジュールだった。だが今は何もない。暫くの間は軍部から通信が入っていたが無視しているうちに彼らも諦めたようだ。たが、王族としての籍も軍籍も抜かれずにそのまま保留と言うことになっているらしい。
 女は先程のグラスをルカに差し出した。
「ただの果汁よ、今度は何も入っていないわ。疑うならどちらでも好きな方を取って」と、女はもう片方のグラスを差し出す。
 ルカが片方を取ると、女は残った方を一気にあおった。毒など盛っていないと言うがごとくに。
「少し酸味をきかせてあるから、飲むとさっぱりするわよ」
 結局、行くあてもなく、することもないルカは彼女の部屋で午後のひと時を過ごすことにした。ベッドに倒れ込む。その横に彼女が寄り添う。
「そんなに簡単に、忘れることなど出来るはずがないわよね」と、同情的に女が言う。
「あなたに私の気持ちがわかってたまるか」と、ルカは頭ごなしに彼女の言葉を否定する。
 彼女は暫し黙り込んでから、
「私、二年前に結婚する予定だったの。やっと両親を説き伏せて、それなのに彼は戦死したの、背後から味方に撃たれて」
 戦場ではよくあることだ。不運としか言いようがない。たまたま敵に照準を合わせている所に飛び出されたら。だが彼女の言い方は微妙にそれとは違っていた。
 ルカはこの日以降、彼女と付き合うようになった。
「ねぇ、本当はあなた、こんな所に来るような身分の方ではないのでしょ」
 ここは三流の娼館、どちらかと言えば一般人が足しげく通う所。無論、娼婦もそれ相応である。ルカはそれが気に入っていた。ここなら知り合いに会うこともない。
「それを言うのでしたら、あなたもではありませんか」
 ミズナからは貴族の匂いがする。これだけ身を持ち崩しても気品を失わない彼女は、かなり上流の貴族の出。何故、こんな所に?
「名前、伺ってもいいかしら?」
「そちらが名乗るのでしたら」
「私の名は、ミズナよ」
「それはここでの名前でしょ」
 だがミズナは薄々ルカの正体に気づいていた。と言うよりも、娼婦たちの間で、ルカ王子によく似ている人が遊びに来ていると噂がたった。ただ、髪の色が。彼の髪の色は赤茶だった。これは一般的なネルガル人の髪の色である。まあ、染色していると言う可能性もあるが。
「ねっ、本当はルカ王子ではないの?」
「何を証拠に? だいいち、彼がこんな所に来るはずないだろう」
「そうよね、でも、その脚。スクリーンの中の王子はいつも杖をついていたわ」
「彼のびっこは名誉の負傷です。でも私のこれは生まれつきです。その証拠に、どこにも傷がありません」
 戦場で負傷したのならそれなりの傷跡が残っていてもおかしくない。だがルカの脚の外傷は信じられない回復力を見せ完全に消えていた、骨ですら折れた形跡がない。それなのにぴっこだけが残った。医者は心理的なものだろうと結論付けているが、その驚異の復元力には驚いていた。
 ルカはミズナに脚を見せた。シミ一つない絹のような滑らかな白い肌。その肌は戦場はおろか、紫外線すら知らないようだ。まさに館の奥深く外気に当てないように育てられたような。
 肌を見ると彼が戦場を走り回っていたなどと想像もつかない。
「羨ましいわ。女の人でもこれほどの肌は持てないわ」
「よくそう言われます。この肌だけが私の美点です」
 だがシナカたちボイ人は最初の頃ルカのこの肌を嫌っていた。まるで死人のようだと。ボイ人は死ぬと色が抜け白くなる。動かなくなってしまったシナカはまるでルカのように白かった。
 ミズナはルカの脚から胸に視線を移す。
「では、その胸の痣は?」
 噂には聞いていた。ルカ王子の胸の中央辺りには生々しい痣があると。
「神の証だそうね」
「どうしてそれを知っているのですか?」
「あら、もっぱらの噂だったわ。もっともひそひそした」
「それはおかしい。このことを知っているのは極一部の者、一般の人は知らないはずです」
 神の生まれ変わり、そんな噂が広まれば宮内部が黙っているはずがない。なぜなら今まで築いてきた自分たちの特権が揺す振られかねないから。現に彼らはその噂を否定することに躍起になった。あんな苦労をするぐらいなら初めから私など産ませなければよかったものを、私がこの世に誕生したのは皇帝のただの好奇心。
 これで彼女の出身階級の見当がおおよそ付いた。では何故、彼女がこのような所に? 生活に不自由している訳でもないだろうに。ただの好奇心から? だがそのようにも見受けられない。
「ねぇ、その痣に触ってもいいかしら?」
 彼女はルカの許可をまたなかった。
「痛くないの?」
「何ともないのです」
「そうなの。でも随分生々しそうに見えるわ」
 女は痣の上に頬を摺り寄せた。それほどルカの胸の痣は黒く痛々しそう、まるで数日前に出来たばかりのように。
「ねぇっ、本当にあなた、神なの?」
 女は上目づかいにルカを見ながら言う。本当にこの人が神なら私の願いを聞いて欲しいと切ない想い抱きながら。
「痣はただの痣です。何の意味もなかった。私はシナカを守ってやれなかった。神なら自分の愛する妻を他人の手にかけさせたりはしない」
 ルカはそう思うたびに心の奥底から怒りが込み上がって来るのを感じた。誰に対して? 神としての自分、否、何もしてくれなかったエルシアに、それとも。兄を憎むことはいけないと思いつつも、この怒りだけは制御しきれない。
「そうね、神などいるはずがないわ」
 女も現実的だった。そこら辺はルカと似ている。自分の願いは自分の手でかなえる、どんな手段を使っても、悪魔に身を売っても。

 娼婦の館、今やルカの隣はミズナの指定席のようになっていた。綺麗どころがずらりと集う。さすがに元、常勝将軍で名を馳せただけのことはある、しかも王族で美青年とくれば娼婦たちもほっては置かない。いくらルカが、私はルカ王子ではない。と否定しても、
「それならルカ王子を演じてくれればいいわ。どうせこんな所に本物の王子様がくるはずないもの」
「そうそう、ここは夜夢館、今宵ひと時の夢を楽しむところなのよ。それでは私は王女にでも化けましょうか」
「あなたも馬鹿ね。それではルカ王子と恋に落ちることはできないわよ」
「禁断の恋を演じるのもいいかも」
 妄想はどんどんエスカレートしていく。もう何回この美青年を自分のものにしたことか。
 年上の娼婦が呆れた顔をする。
「それで訊くけど、クリンベルク将軍とどちらが強いのかしら」
 ルカは彼女たちが自分を本物と思っているのか偽物と思っているのか判断に迷い、返答に困った。
 だが彼女たちの話題はもっぱらそのことだった。クリンベルク将軍はがっしりした体躯でいかにも軍人らしいが、ルカに至っては待ち受け画面を飾るモデルか俳優のようだ。どう見てもあの人が宇宙海賊を相手に大立ち回りをするようには見えない。だから誰かにはっきりしてもらいたいようだ、このもやもやを。
「彼の方が強いのではないでしょうか。私はただ、負けないように戦っただけですから」
 ルカはアルコールのせいで警戒心が鈍っているのか判断力が落ちているのか、ついつい本音が出て、演技とは思えないような答えをしてしまった。
「負けないように?」
 こうなればもう本物だとばれてもいいと開き直るルカ。
「ええ、負けると言うことは戦死者も多くなります。それだけ悲しむ人が多くなるということですから」
 ルカは常に敵味方の犠牲を最小限にすることに心掛けていた。それが味方を勝利に導いて行ったのである。
「そうなの」と、娼婦は考え込む。
「本物のルカ王子もそうお考えなのかしら。私らのような虫けらの命など、どうとも思っていないのではないかしら」
 彼女の夫も戦場で亡くなっている。
「馬鹿よね、軍人の方が給料がいいからって。私に楽な生活をさせたいからって。二人で生活できるのなら生活の苦なんてこれっぽっちも感じていなかったのに。彼、腕のいい職人だったのよ、死んでしまっては」
 女は昔を思い出したのか涙ぐむ。
 そんな中、一人の中年紳士が入って来た。服装からすればそれなりの身分があるように見受けられる。彼こそこんな所にはふさわしくないような立派な身なりをしていた。だが、その様子は人生に疲れ切った感じがする。店に入るや奥のテーブルに独りで付き、ボトルを頼む。足は千鳥足、既にかなりのアルコールが入っているようだ。何軒か高級酒場をはしごしている間に間違って入って来てしまったのだろう。でも、
「近頃よく見かけるわね、彼。私たちを呼ぶわけでもなく、しかも店の片隅で独りでもくもくと飲んでいるのよね」
「私もあなた方を呼んだ覚えはないのですが」と、ルカ。
 ルカも初めの頃はあんな感じだった。訊けば妻を亡くしたとか。憔悴しきっても美しい姿は女たちの母性本能をくすぐった。彼女たちはいつしか勝手にルカのテーブルに付くようになっていた。
「だって、来ればそれなりのご祝儀がいただけるのですもの」
「それにルカ将軍と知り合いだなんて、鼻が高いのよ」と、娼婦たちは頷き合う。
「私は違います」
「いいのよ偽物でも、似ていれば」
 どうせお近付きになるのなら、医者と弁護士と強い将軍。などと心に思っている彼女たちである。売れっ子の俳優や芸術家でもよいのだが、いざと言う時に役に立たない。
「でも、彼、危険ね。なんか、こう、思い詰めているような」と、先程入って来た老紳士を見て言う。
「あら知らないの、お姉様。彼がリーベルト子爵よ、一人娘を亡くされた。自殺だと言うけど、殺されたも同然よね」
「そう言えばそのお嬢様の婚約者とか言う人も、先日、変死体で発見されたとか」
「おそらく許嫁の仇を取ろうとして、返り討ちに会ったのかもしれないわね」
「しかたないわよね、相手が王子では」
「普通では仇を討とうなどと考えもつかないわよね」と、女たちは次第に声を潜めて話し合う。
「そうよね、泣き寝入りがいいとこだわ。相当愛していたのね」
「かわいそうなリーベルト子爵。一気に愛娘と娘の婚約者を亡くすなんて」
「随分、泣かされているみたいよね、あの王子には」
「王子だからって何でも好きなことが出来ると思っているなら大間違いだわ。その内きっと天罰が当たるわ」
「いい死に方はしないわね」
 などと言っている二人に、小さな声で忠告する者がいた。ここにも王子が居ると。
 娼婦たちは慌てて黙り込む。バツ悪そうな顔をしてルカを見た。
「やだ、この人は偽物よ」と、ミズナが笑う。
「えっ! だって、本物かもしれないって言ったのはミズナお姉様ではなかったかしら」
「あら私、そんなこと言ったことがありますか?」
「やだ、忘れたの。本物かどうか確かめるから私の部屋に運ぶのを手伝ってて。結局、偽物だったの?」
「ですからさっきから言っているではありませんか、私はルカ王子ではないと」
「そっ、そうよね」
 少しがっかりしたように言う娼婦たち。
「でも似ている。今度、そっくりさんショウーに出たら」
「何ですか、そのそっくりさんショウーと言うのは?」
「あら、知らないの? 昔からある娯楽番組よ」
「あなた本当にルカ王子に似ているのだから、貴族らしい服を着て髪を朱に染めれば。人気のある人に似ているといいお金になるそうよ。その脚でも十分稼げるわ。否、その脚だからこそ、稼げるのかも」
 娼婦たちのたわいもない話でルカのテーブルは賑わう。
 その一方で、部屋の片隅で独りグラスを口に運ぶリーベルト子爵。その眼は何を見ているのか。



 ルカは久々に自分の館へ帰って来た。館は静まり返っていた。調度品も装飾品も全てを運び出してしまった館の中に今あるものは、自分が生活するのに必要な最低限の物。これでは軍艦の方がまだましと言いたくなるほど、何も無くなっていた。軍艦でも将官クラスになればかなりの調度品が揃えられている。しかし何もない割には掃除だけは不思議と行き届いていだ。庭の植木はシナカが居た時のようにきれいに先手がされ、果樹園は見事な果実を付けている。昔の使用人たちが定期的に来ては掃除や植木の手入れをしてくれているようだ。その必要はないし、給金も払えないといくら言っても、またここに皆が集う時のためにと。そんな日は二度と来ないのに。
 シナカと時を過ごした部屋は、侍女たちが定期的に来ては掃除をしてくれているようだ。だがルカは、シナカの亡骸をボイ星に送ってからは一度も足を踏み入れたことはない。そんなことをしたら、辛うじて保っている正気を無くしてしまいそうだから。ルカがこの館へ戻って来る目的はただ一つ、エントランスホールから階段をあがり二階にある自室、コンピュータールームに用がある時だけだ。
 自室のドアを開けると、誰も居ないはずの部屋の中から、キーボードをたたく音が響いた。大概はタッチパネルだが早く打ち込む時はキーボードの方がいいとみえ、ケリンはキーボードを愛用していた。この方が打ち込んだ感覚がはっきりするもので。
「お帰りなさい。またかなりアルコールが入っているようですね。少し自重しないとお体が」
 ケリンはルカの方を振り向かずに言う。
「あなたでしたか。誰かと思いました」
 たまにケリンが来てコンピューターを使っていることは知っていた。
「これで、全て出揃いましたよ」
 誰も調べてくれと頼んだ覚えがないのに、ケリンはあるリストを作り上げていた。ルカもルカなりにデーターを集めてはいたが、やはりケリンにはかなわない。ケリンのリストには彼らの性格は元より、日常の行動パターンまでもが繊細に調べあげられていた。
 ルカはケリンの背後に立ちそのリストを見詰める。
「主犯格は全部で十八人ですか」
 そうそうたるメンバーだった。
「有難う。もう手を引いてください」
「これからどうなさるおつもりですか」
 ケリンはモニターを睨んだまま訊く。
 ルカは爪を噛み黙り込む。
 ケリンは先程のリストを封印した。ルカと自分以外は開けられないように。
「私が必要な時は何時でもお呼びください。否、トリスたちも私と同じ気持ちです。あなたのお役にたてるなら」
「もう充分です、有難う。それよりリンネルを助けてやってください。彼こそあなたの力を必要としています。もうここへは」
 来ないで欲しい。


 ルカはミズナと知り合ってから、ミズナの口利きで某貴族の山荘を譲り受けた。辺りは鬱蒼とした森と言うより清々しい森林に囲まれ、今では珍しくなった天然の小鳥のさえずりが聞ける。南側に大きく開けた斜面には天気がよければ東方に王宮の街並みが望め、そして少し散策すれば湧水のせせらぎ、そこは四季折々の姿を見せるであろう広葉樹林でおおわれている。まだこんな所がネルガルにもあったのかと思われるほど気持ちの洗われる場所である。ここに居れば俗世間が忘れられそうな。だがルカの心はそんな自然ですら癒すことが出来なかったようだ。ルカはそこへミズナを囲い、ある目的のために夜な夜なパーティーを開くようになった。いつしかミズナはルカの妻気取りである。しかもかなり年上の。しかしミズナは俗世間が思うような接近はしてこなかった。そこには何かパートナーとしての一線があるような、ミズナにも私を必要とする何かがあるようだ。それならかえってその方がよい。とルカは割り切っていた。
 ルカは三階の書斎から遠方を眺め、そう言えばシナカもかなり年上だった。最初は話が合わなくて困ったものだ。いくらルカが頭がいいとは言え七歳と十七歳の感性はかなり違っていた。感性のすれ違いも多く自分が情けなくなるような苦い経験をしたこともある。だがそれですら今は淡い思い出。ルカは当時の感性のすれ違いを思い出して思わず微笑む。そう言えばミズナとシナカ、どちらの方が年上なのだろう。
 下の階の大広間ではミズナがしきりとサロンの女主人を務めていた。ミズナのサロンの仕切り方はそつが無い。誰とでも会話を持てる知識の広さと品性、彼女がかなりの上流階級の出であることを窺わせる。そして不思議なのは彼女が連れて来た娼婦たちである。彼女たちはあの三流の娼館には居なかった。何処から連れて来たのか知らないが、彼女たちもまた、ミズナに負けず劣らずの才覚の持ち主たちばかりだった。
 まあ、この館はミズナに任せたのだから私はゆっくりと。読みかけの本を置いてソファに横になったところでドアを叩く音。
「殿下、お休みですか?」
 ここではルカの正体はばれていた。否、それどころかここは美青年の常勝将軍ルカ王子の別邸と言うことで皆が集まって来ていた。彼を一目見たいと言うご婦人から、願わくば我が娘の婿にという貴族まで。だがルカがサロンに顔を出すことはほとんどなかった。
「いや、起きてますよ」
「お客様がお見えです、軍人の」
「軍部からの使者でしたら帰ってもらってください。私はもう軍籍は返上しましたから」
 だが軍部ではまだルカの軍籍を抜いてはいなかった。よって幾度となく軍部から使者は来る、また指揮を執ってもらいたいがために。だがルカは会うことなく追い返していた。
「あの、そのお使者と言うのがカロル、」
 カロルは案内人に最後まで言わせなかった。
「入るぞ」
 カロルはルカの許可も待たずに侍女の制止を振り切り、思いっきり扉を開け入って来た。
 ルカは慌てて起き上がろうとしたが既に遅い。カロルはルカの前に仁王立ちになるといきなりルカの胸倉を掴みあげ、殴りかかった。
 女が悲鳴をあげ、広間に助けを求めに走る。
 カロルは今のルカの生活が許せなかったようである。何時ものことながら言葉より手が先に出てしまったようだ。その後から、
「どういうつもりなんだ!」と、言葉を怒鳴りつける。
 ルカは殴られた拍子に口の中を切ったのか、唇に滲む血を指で拭きながら、
「もう、私のことはほっといてくれと言ったはずです」
「何が、言ったはずだ。今ネルガルがどんな立場に追い込まれようとしているのか、お前は知っているのか? 知っていればこんな所でのんきに女遊びなどしてはいられないはずだ」
 カロルは豪い剣幕でまくしたてた。カロルが騒ぐのも無理はない。今銀河は二つの宇宙海賊によって牛耳られようとしている。彼らが手を組めばさすがのネルガルとは言え無傷では済まなくなる。そうなる前にどちらかを叩きたいのだが、彼らの使う戦術がどうにも合点がいかない。このままではじわりじわりとネルガルの制宙権を侵され、気が付いた時には今まで同盟国としていた星々までもが奴らに寝返りしかねない。そうなる前にと軍部はやっきになっているのだが、彼らの堅い頭では今以上の戦術を編み出すことができないでいる。それで軍神でもあるかのような奇才のルカを頼りにしているのだが、肝心なそのルカ王子が。
「自業自得だ」と、ルカは吐き捨てるように言う。
「そもそも自分で撒いた種だ」
「じゃお前は、このままネルガルがどうなってもいいと言うのか」
「ああ、どうなったってかまわない。シナカのいないネルガルなど、銀河の藻屑になったって。私は痛くもかゆくもない」
「お前もネルガル人だろうが、それとも」
 カロルはテーブルの上に放り投げられている本を見た。
 古代ネルガル語。本の題名は『白竜伝説』 カロルもそのぐらいの古代ネルガル語は読めるようになっていた。
 相変わらずこの本だけは手放さずに持っているのかと、カロルは思った。ネルガルとイシュタルでは同じ物語がまるで正反対の性格をおびて描かれている。
「お前、イシュタル星へ行くつもりなのか?」
「それもいいですね。いっそ宇宙海賊アヅマにでも拉致されて連れて行ってもらいますか。ネルガルのルカ王子だとでも名乗れば、喜んで捕虜にしてくれるかもしれませんね、それともエルシアと名乗った方が」
 イシュタル人とエルシアは繋がりがある。
 イシュタル星には以前から興味があった。王子でなければマルドックの商人にでも頼んで連れて行ってもらおうとすら思ったぐらいだ。いちいち宮内部にお伺いをたてる必要もないから。
 ルカは宙に視線を漂わせると、
「イシュタルか、一度行ってみたい星だった」
 何故かルカは過去形で表現した。
「なぁ、ルカ。軍部の石頭じゃ、奴らに歯が立たないんだよ。お前、行って知恵をかしてやれよ」
「私だって、彼らに歯は立ちませんでしたよ」
「でもお前、生きて帰って来た。他の奴らは全滅なんだ。奴らに出くわさないようにと祈って航宙している有様だ。天下のネルガル宇宙艦隊がだぜ」
 笑いぐさにもなりゃしねぇー。
「それは誰でも命は欲しいですからね。私が助かったのは」と、ルカは黙り込む。
「あれは私ではない。あの時指揮を執っていたのはエルシアです。彼には四次元が見えるようで、彼らの動きが手に取るようにわかっていた。あれは不思議な感覚でした。まるで三次元が透明になってその背後に隠れていた世界が透けて見えるような。そう言えばケリンも同じような体験をしていたようです。もっとも彼の場合、見えているのだが時間と距離の感覚が計れなかったと。丁度、今まで目が見えなかった者がいきなり見えるようになり、目の前にある球とさいころの見分けがつかず、結局触って確認しなければならないような、出現するとわかっていてその艦隊を目で追ってはいるにもかかわらず、実際にその艦隊が三次元に現れてみないとその位置が特定できなかったようです。さんざんあのヨウカとか言う蛇の化け物に笑われたとか。せっかく四次元の視力を与えてやったのにと」
 ケリンは時間と距離、敵艦隊の位置する奥行が解らないと言っていたが、奥行き(距離)で捉えようとするのがそもそも間違っているのでは。
 ケリンにその能力を与えたのはヨウカだった。ヨウカはケリンの体内に入り自分の視力を与えた。だがいきなりその感覚を与えられたケリンは戸惑うばかり。常日頃その感覚に慣れていなければ使えない。
「お前には、出現する場所がわかったのか?」と、カロルはルカの前のソファに座り込む。
 この際、じっくり話を聞こうと。
 ルカも座りなおすと、あの時の感覚を思い出そうと拳を額に当てる。
「私には解らなかったと思う、ケリンと同じように。ただエルシアの感覚を傍観していたような。エルシアは敵が出現する位置を正確に見極めていた。そして的確に味方に指示を出していた、まるで私が指示してでもいるかのように。おかげで反撃ができるようにはなったが」
 ルカはあの時のことをはっきり思い出したようだ。
「あれは不思議な感覚だった。世界が二重に見えると言うか、否、三重にも四重にもみえたと言うのが本当だろう。そう言えばレスターも暗黒惑星を表現する時に、オーロラか靄のようなもので向こう側が透けて見えるとか言っていましたね、透けて見えると言うよりもは私には敵の艦隊が自分の艦隊の上に重なって見えましたが」
 こちらは三次元を走行し相手は四次元を走行しているから同じところを通過していてもぶつからない。だが敵の艦隊は同じ四次元にいながら交差してもぶつからないのだ。まるで四次元はいくつかの空間が重なってできているかのようだ。不思議な感覚だった。幾度となくぶつかると目を覆いたくなりそうになったが、その度にエルシアに見ているように促された。
「だが戦闘は所詮、そこまでだった。反撃は出来ても勝つことはできない。おそらくあのまま行けば相撃ちだっただろう」
 ルカは何時もの癖で爪を噛む。
 相撃ちならシャーの勝ちだ。おそらく彼はあの場にはいない。別の空域から指示を出していた。そんな気がしてならない。彼はネルガル人を殺すのにネルガル人以外の血を使わない。彼の戦い方を見ていると、彼は勝利に何のおもむきもおいていないような気がする。ただ殺し合うのが目的。だからシャーとの戦いは悲惨を極める。彼の目的はネルガル人の抹殺。ネルガル人の臆病で戦いを好む(荒っぽい)気質を利用した。弱い犬ほどよく吠え噛み付くか、よく利用されたものだ。
「それが勝てたのは」
 恐怖、それも例えようのない、まるでこの世の終焉を見たかのような。
「エネルギーです。巨大なエネルギーが四次元を通って」
 ルカの前に出現したのだ。そして敵艦隊を全て飲み込んだ、跡形もなく。否、正確に言えば敵味方を。だが不思議と味方の艦隊は残った。まるであのエネルギーに免疫でもあったかのように。
「エルシアはあのエネルギーを恐れていた。それも私が今まで経験したことがないほど。ボイで最後を迎えようとしていた時ですら、あれほどの恐怖心は湧かなかった。これで終わりかとは思っただけで」
 ルカは考え込む。
「エルシアが死を恐れるはずはないと思わないか。なぜなら彼は転生を繰り返しているのだから。そしてそれを自分でも意識している」
「確かにそうだな。死なない者が死を恐れるはずはない。否、死んでも生き返ることを知っている奴がと言うべきか」と、カロルも同意する。
「ではあの恐怖心は何だったのだろう、この世に自分の死以上に怖いものがあるのだろうか。あの恐怖心は確かにエルシアのものだ」と、ルカ。
 死、自我の永遠の消滅。その恐怖から逃れるために人は神の国、魂、天国を想像した。
 エネルギーが来た方向はルカには見当がついていた。あれはイシュタル星の方向から。
 エルシアが呼んだのか。否、あのエルシアの動揺ぶりからそれは違う。では、誰が? 考えられることは一つ、エルシアを守ろうとしてイシュタル人が放ったのでは。しかも一万光年も彼方のイシュタル星から、今のネルガルの科学からは考えられないことだが。あれだけのエネルギー、量と距離の桁が違う。エルシアの身に危険を察知してから放ったとすれば、一万光年の彼方からどうやってここまで? ほとんどかかった時間はゼロに近い。どうすればそんなに早くこの空間を移動できるのだ、しかも空間を曲げずに。否、既に空間の歪みは計算に入れていたのか。我々の感覚でもの考えること自体が間違っているのか。一体イシュタル星にはどのような兵器が隠されているのだ。
 ルカはおもむろにカロルを見ると、
「クリンベルク将軍に伝えてください。今できる唯一の方法は、イシュタル星から手を引くことです。それも出来るだけ早く。そうすれば少なくともアヅマはおとなしくなるでしょう。彼らの目的はネルガル人に拉致されたイシュタル人の解放ですから。ただシャーがどう出るか。でもシャーも上の方はイシュタル人が仕切っているようですから、ネルガル人がイシュタル星に手を出さないとわかれば、彼らもその内、手を引くでしょう。そうすれば後はネルガル人同士の戦い、それならネルガル正規軍の方が有利でしょう。これが私からのアドバイスです。クリンベルク将軍によろしくお伝えください」
「ルカ、お前は戻って来る気はないのか。軍籍はそのままになっているんだぞ。それどころか昇格させてやってもいいと。望むなら元帥杖を与えても。そうすればお前の好きなように宇宙艦隊が編成できる。今までのような借り物の艦隊ではなく自分の艦隊が」
 どうやらカロルは軍部から頼まれてルカの説得に来たようだ。今まで幾度となく軍部が差し向けた使者に、ルカが一度として会おうとしなかったから。カロルなら軍人である前に友人である。
 ルカは軍部のやり方に苦笑した。
「そんなことしていいのですか。私にそんな特権を与えたら、それこそ軍部は体内に宇宙海賊シャーとアヅマ以上の海賊を飼うことになってしまいますよ」
 そのぐらい軍部が知らないはずがない。背に腹はかえられないとは言え、そこまで切羽詰っているようにも思えない。
「まあ、体内に強い細菌を飼うということは、外敵からは強くなりますがその内、体内の細菌によって衰弱することになります。死ぬのはどのみち同じです。それなら外敵と友好を結んだ方が得策だと、私は思いますが」
「お前、本気で言っているのか」
「敵を作るから喧嘩になるのです。敵を作らないようにすれば自衛だの防衛だのと気をもむことはないのです。無駄な経費もかからない」
「いくらこちらが友好的になっても相手が攻めてきたら」と、問うカロル。
「ボイ星のようになると」
 カロルは答えられなかった。無抵抗なボイ星を侵略したのは自分たちネルガル人だ。
「そう考えるのはネルガル人だけなのですよ。他の星の人々はもっと温厚です。おそらくネルガル人はまだ精神的発達過渡期なのでしょうね」
「でも現にボイ星のように侵略されてしまっては」
 いくら高度な科学力を持っていたとはいえ、兵器がなかったがために。もっとも侵略したのはネルガル人だが。とカロルは思いつつルカに反撃した。所詮、こいつに言葉ではかなわないが。
「心配いりません。神が見ておられます」
「神?」
 カロルは一瞬我が耳を疑い、あっけにとられたような顔をしてルカを見る。
「お前にしては随分、非現実的なことを言うようになったな。いよいよ脳みそまでアルコールがまわったか。トリスじゃあるまいし、お前の髄液の成分もアルコールになったのか」
 ルカは苦笑すると、
「私は迷信のたぐいは嫌いですから」
「じゃ、何なんだよその神ってぇーのは」
「私が言う神とは、私たちネルガル人より精神的にも科学的にも進んでいる人々のことですよ。彼らが侵略された星々のかわりに天罰を下すでしょう」
「つまり、それがイシュタル人だと」
「イシュタル人とは限らないのではありませんか。この銀河に生物の住める星は無数にあるのですから。その中には私たちより高度な科学と精神を持っている生物も無数におります。悪いことはそう長続きはしませんよ」と言い、ルカは爪を噛む。
 そして神もまた、正しいとは限らない。人である以上。
 カロルは爪を噛みながら独り考えに耽るルカを見詰める。
「なっ、お前。軍部はともかく、兵士たちがお前に戻って来てもらいたいんだよ。皆、待っているんだ、お前が立ち直るのを。そしてまた自分たちの前を歩いてくれることを。頼む、戻って来てくれないか。軍部のためでもネルガルのためでもなく、お前を慕う兵士たちのために。このとおりだ」と、カロルはソファから立ち上がると床に頭を付けた。
「カロル、よしてくれ。そんな手を使っても、私は戻る気はない」
 ルカは窓の方に視線を移すと、
「もう、そっとしておいてくれないか」
 カロルは床の上に座ると、
「ジェラルドはどうすんだよ。ネルガルが滅びるということは次期皇帝のジェラルドも」
「それは、あなたの仕事でしょう。ジェラルドお兄様付きの親衛隊なのですから。しかもシモン様はあなたの実のお姉様なのですから、男のくせに家族を守れないようでは」と言って、ルカは口を閉じる。
「人のことは言えませんね。私はシナカを守れなかった」
 結局、ルカが行き着くところはここである。
「もう、ここには来ないでください。来ても会いませんから」
「ル、ルカ」
 カロルが何か言おうとした時である。扉がノックされ夫人が入って来た。
「ルカ、お怪我は? 何か乱闘が始まったと侍女が慌てて来たもので」
 あれから随分時間が経っている。おそらくミズナは廊下で立ち聞きしていたのだろう。頃合いを見計らってノックをしたようだ。
「お帰りになられるそうだ」
「そうですか、では玄関までお見送りいたしましょう」と、ミズナはカロルを促す。
 カロルはまだ話がありたげだったが、しぶしぶミズナの後に従った。

 ミズナはカロルを見送るとルカの所へ戻って来た。
「よろしいのですか、あのような別れ方をして」
「これでもう彼がここへ来ることもないでしょう」
 ルカは立ち出すと据え付けのミニバーからグラスを二つ取り出し高級酒をそそぐ。そして片方をミズナに差し出す。
「お互いの目的のために」
 ルカはグラスを掲げた。
「私の目的を訊こうとはなさらないのね」
「あなたも私の目的を問うたことはない」
 ミズナは微笑む。
 お互いに相手を必要としながらその目的を口にしたことはない。
 ぶれない信念、怒らせると怖い人なのね。そう思いながらミズナはグラスをかたむけた。





 カロルは軍部へ報告するというより親父(クリンベルク将軍)に報告した。ルカからの伝言はもとりよ、
「駄目だよ親父。あいつ、完全にノックダウンだ」
「お元気なのですか?」と問うのは長男のマーヒル。
「元気なことは元気だよ、これだけの理屈をこねるんだからな、頭の方は狂っちゃいない」
 妻を亡くして女狂いしたと世間の噂になるほどルカは、上流底流を問わず娼館や酒場に通った。まして山荘など買って女を囲い込んでは、カロルも一時はその噂を信じたぐらいだ。それで居てもたってもいられなくなり会いに行けば意外に奴は正気だった。女を囲っているなどと聞いていたからカロルなりの想像を巡らせてはいたものの、奴が居たところは相変わらず本に囲まれている書斎だった。ただ気になるのは禁書(イシュタルの本)の数、あれからまた一段と増えたようだ。もっとも今は禁書とは言え、ネットで幾らでも手に入るようになったが。あいつ、本気でイシュタルへ行くつもりなのか? だがそれにしてはあの山荘は何のため? 世捨て人にでもなるつもりならサロンなど開かなければよいのに。そもそも奴はああいうことが苦手なはずだった。第一あいつは文学や芸術に興味がない。本を読むのだって知識が必要なだけであって文学そのものを楽しんでいる訳ではない。その奴の苦手な社交をカバーしているのはミズナと名乗る娼婦。あいつとあの女とはどういう関係なんだ? などと、カロルは独り考え込む。
「確かにルカ王子の言うことにも一理ある」と、クリンベルク。
 クリンベルク家の居間の話題は無い知恵で独り悩んでいるカロルを置き去りにして、ルカの忠告を吟味していた。
「しかしここまで戦線を広げ、今更イシュタルから手を引けと進言するのも」と、二男のテニール。
 イシュタルを支配するのも時間の問題だと宮内部も軍部も見ている。既にイシュタルの王朝はこちらの手の内。後は彼らを使って国民を教育すればよい。そうすれば彼らの生活も文明的な向上を見ることになるだろう。自然の中で貧相な生活をするよりよっぽどいいと、テニールは思っていた。
 軍人は政治家と違い純粋な者が多い。テニールもネルガルの文明がイシュタルの未来を明るくすると本気で思っている。そうでもなければ人は殺せない。自分が正しいと思えるからこそ、自分と考えの違う相手に対して人は非道(残虐)になれるのだ。死刑などもその延長線上だろう。相手が何人も人を殺した殺人犯(悪人)だから死刑を求刑してもいいと。もっとも殺された側からすれば当然な理由だ。我が子を殺しておきながら、お前だけのうのうと生きているなと。
 マーヒルはルカと幾度となく接触しているうちに、自分の信念が揺らぎ始めていた。そしてカロルに至っては、ルカこそ我が頭脳と思っているぐらいだからはなから話にならない。
 だが、ネルガルを牛耳る上層部の考えは純粋さなどからは数億光年の彼方にあった。彼らを動かす動機は自分の名声と欲望。イシュタルの王朝を使ってイシュタル人を教育するところまでは同じなのだが、その教育内容が違うのだ。イシュタル人の生活の向上などはなから考えていない。ネルガル人とイシュタル人の生活の格差はあって当然。それをはっきり見せつけることによって、常備イシュタル人はネルガル人より下であることを意識させる。教育によって知識階級の子供たちに文明の格差をはっきり植え付ければ後はやりやすい。イシュタル人はネルガル人より劣っているのだからネルガル人に従うのは当然だと。そうすればイシュタルはネルガルの思うつぼ。そうやって今までも多くの惑星を植民化してきた。ネルガルの高度な文明を恵んでやると言えば、やつらはネルガル人を神のように崇拝した。ネルガル星で高度な教育を受けさせてやるとでも言えば、幾らでも上流(イシュタル人にそう言う感覚があればの話しだが)の若い男女が集まって来るだろう。ネルガルは上質な労働力に事欠かなくなる。為政者たちはその思いを隠して軍人を利用する。
 テニールは顎をさすりながら、
「いっそ、女性を紹介してやったらどうですか。先妻を忘れさせられるぐらい知的で美しい令嬢を」
「兄貴、そりゃ、無理だ。シナカ様以上の女性に、俺は未だかつて会ったことが無い」
 カロルがシナカに対してのみ敬語を使うのは有名である。
 テニールはカロルのそんな態度を苦笑しながら、
「こう言ってはルカ王子に失礼だが、シナカ夫人、どう見ても私には哺乳類と言うより昆虫に近いような気がした」
「あいつは外見で人を見るようなことはしないからな」
「そのようですね。しかしシナカ様以上の女性を探すとなると」と、マーヒルが考え込む。
 カロルの話しから外見はどうあれかなりの人格と推定できる。カロルの人を見る目は確かだとマーヒルは思っている。だから上官との衝突が多い。
 そこに割って入ったのはクリンベルク夫人、つまりカロルたちの母親である。既にマーヒルもテニールも所帯を持っている。残るはカロルだけなのだが、このクリンベルク家の問題児は相変わらず両親の頭痛の種である。
「カロル、他人のことよりそろそろ自分のお嫁さんを」と、母親が言いかけた時、カロルは顔の前で大きく手を振ると、
「無理だ、そんな暇ねぇー。俺はあのでかい赤ん坊(ジェラルド)のトイレの世話で手一杯だ。おむつこそしていないが、いっそおむつをあてがった方が、よっぽど楽じゃねぇーのかと思うぜ」
 カロルの言い方に母親は呆れた顔をする。これでよくジェラルド殿下の御館から追い出されないものだと心配になる。それと同時に、
「シモンはうまくやっているのかしら」と、誰に言うでもなく呟いた。
 カロルは大きな伸びをすると、
「ルカの奴からは、兄をよろしくお願いいたします。と体よく押し付けられるし」
 クリンベルク将軍は腕を組んで考え込む。
「今、アヅマやシャーと互角に戦えるのはルカ王子しかいないのではないか。イシュタル人のことに詳しい」
「私もそう思います」と、マーヒル。
「とにかく早く軍へ戻られて、指揮を執っていただかねば。このままではあの宇宙海賊をのさばらせるだけです」
「のさばるだけなら良いが、彼らを核に反ネルガル勢力が形成されてからでは、潰すのに一苦労することになる」





 そんな軍部の悩みも知らない、否、知っていても知らない振りをしているルカの山荘では、今日も夜を徹してのサロンが開かれていた。今日の主賓は社交界のプリンス、ハルメンス公爵である。
「暫く姿を見せないと思いましたら、こんな所におられたのですか」と、ハルメンスはミズナに挨拶した。
「お久しぶりです、公爵」
 ミズナは優雅に一礼をする。
「パトロンを変えたのですか」
「公爵もよろしいのですが、次期皇帝の卵も捨てがたいもので」
「彼がそのようなことを」
 言うはずがないことを知りつつ、ハルメンスは問う。
「さぁ」と、ミズナは首を傾げとぼけてみせる。
「ですが、私の力で玉座をあの方に」
 悪女的な微笑みも似合うミズナである。
 ルカはわりと革新的に見えて、意外に保守的である。否、急激な改革を好まないと言うべきなのだろうか。そのような者が例え玉座が転がって来ても手にするはずがない。
 相変わらずハルメンス公爵の周りには貴婦人が集まる、文学、音楽、芸術、スポーツ、はたまた冒険譚と話には事欠かない。未だに彼の話術にはルカは脱帽した。生演奏を背景にそれらの話しに花を咲かせている間に何時しか空が白み、演奏もディスクになり一人二人と引き揚げる者もあらわれた。
「私たちも、そろそろ眠くなって来ましたわ」
「私もです」と、ハルメンス。
「もっとお話を伺いたいのですが、続きは今夜。今夜もお見えになられるのでしょ」
「気が向きましたら」と、ハルメンスは曖昧に答える。
「気が向かれるように祈っておりますわ」と、夫人たちも一人二人と帰り始める。
「それでは気分転換に少し庭でも散策しましょうか」と、ハルメンスは立ち出す。
「それでは私たちも」と、まだ残っている夫人たちが付き従おうとするのを押さえて、ハルメンスはルカを誘った。
「ここは、この山荘の主に庭の案内を頼みましょう」と。
 二人が庭に向かうのを見てクロードは二人の後を慌てて追う。
「あら、お邪魔しない方がよくてよ」と声を掛ける夫人。
「男同士ですよ」と言うクロードに。
「意外に公爵の御趣味だったりして」と、笑みを浮かべる夫人たち。
「ほんに、お邪魔しない方がよろしいですよ、ルカ王子は相変わらずお美しくてあらせられますから」
「特に朝露の光は、女性を美しく見せるものです」
「ですからルカ王子は男性ですし、私は公爵の秘書でもありますから」
「あら、焼いておられるの?」
 夫人たちはひそひそと噂する。

 一方、夫人たちにそんなことを噂されている二人は、白々と明けて行くネルガル帝都の街並みを眺めながら、
「いかかですか、そろそろお考えが変わられたのではないかと思いまして」
 ハルメンスはルカを誘いに来たのである。
 ルカは眼下の街並みを眺めながら、
「今、こうやって見える範囲だけでも何万人に、否、何十万人の人々がそれなりの生活を送っているのでしょうか。
 ルカは帝都で出会った人々、スラムで出会った人々を思い出していた。貧しいなりにも笑顔を絶やさない子供たち。そこには本当に小さな、小さな、小さな幸せだけど、確かな幸せがある。
「確かに今のネルガルの体制が良いとは言いがたい。だからと言ってそれを暴力で破壊しようとは思わない」
 貧しくも慎ましく生活をしている人々、彼らの生活を破壊することが許されるのだろうか、例え正義のためでも。
「革命です。暴力ではありません」
「でも、結果は同じです。新しい体制が出来上がるまでは弱者にしわ寄せがいきます」
「少しの犠牲はやむを得ない」
「少しでしょうか?」
 どうにかこうにか生計を立てている人たち。彼らは本気で革命を望んでいるのだろうか。それよりもは日々の糧を。安定した日々の糧を得るには世の中が安定していなければならない。例えそれが一部の者に偏っているとしても。
「所詮革命は、支配者同士の争いにすぎません。彼らはそのようなことに巻き込まれたいとは思っていないのではありませんか」
「では、あなたはこのままでよいと?」
 それにはルカも答えられない。良いはずがない。だが方法が無い。と、こまねいているのは目の前で苦しんでいる病人に何もしてやらないのと同じこと。
「ジェラルドお兄様でしたら、素晴らしい王国をつくります」
 ハルメンスは呆れたような顔をした。
「まだ、そのようなことを」
「どんな政治体制を執ったところで、要は上に立つ者の品格だと思います」
 独裁制でも議会制でも腐ってしまえば同じ。ではどちらが腐りづらいかと言えば、やはりこれも同じだと思う。かえって国民大多数の意見だと主張する議会制の方がたちが悪いかもしれない。
「社会全体のモラルをあげれば、どのような体制を執っても国民は幸せになるのではないでしょうか」
「つまり、我々の仲間になる気はないということですか」と、クロードははっきり訊いて来た。
 もう幾度となく繰り返されてきた堂々巡りの議論、クロードはいい加減辟易して来ていた。ルカ王子がだめなら他の馬印を、何も王子でなくともいい、公爵でも。
 ルカはクロードに視線を移す。
「そうやって同じ過ちを、ネルガルは繰り返してきた」
 現在のギルバ王朝だって元を正せば前王権に対抗した一介の豪商に過ぎなかった。その商人の支配が何千年も続けば何時しか王が誕生し貴族階級が出来る。そしてまた革命が起こり新たな支配者が立ち、何千年もの月日をかけて王朝が出来上がる。そろそろ何処かでこの思考パターンを変えなければ、しかし人間は集団生活を営む動物の一種である。集団生活を営む動物にはリーダーが必要だ。動物のリーダーが自己犠牲までして自分の集団を守るのに対し、どうして人間のリーダーは自分のことしか考えないのだろう。
「殿下、何をお考えなのです」
 いつしか独り考え込んでいるルカに、ハルメンスは声を掛けた。
 すっかり太陽があがり帝都の街並みがはっきりと見えて来た。
「いい眺めですね、神になったような気分です」
 ルカは苦笑した。そんなつもりでここを購入したわけではない。たまたまこの景色は付属品だった。
「神なら、ここで街並みを眺めながら一人一人の生活も見えるのでしょうね、彼らの喜怒哀楽が」
 そんなことが出来る人物を、ルカは知っているような気がした。そう、彼女は神ではない。我々と同じ普通の人間だ。ただ感覚が我々以上に鋭いだけで。
「お考えは変わりませんか?」
「ジェラルドお兄様のことをよろしくお願いいたします。あなたが力になってくだされば」
 ハルメンスは大きな溜息を吐く。
 話は平行線だった。





 ここはハルメンスの館。ルカとの話は平行線のまま引き下がって来た。テラスでゆったりと寛ぎながら前日のルカとの会話を思い出している。
「どう思う、近頃の彼?」
 傍らにはいつものようにクロードが居る。
「何か、全てを捨ててしまったような感じです。今の彼には政治の話をしても何の興味も湧かないのでしょう。目は明いていても何も見えていない。人はある程度の幸せを得ていなければ他人の不幸は見えないものです。どんなに飢えに苦しんでいる人が目の前にいても、自分もそうでは、他人を憐れんでいる余裕はありませんから。狂ってもおかしくない状況です。それでも正気で居られるのは、何かがあるからです」
「何か?」と、ハルメンスはクロードに問う。
「目的です」
「目的?」
 どんな目的が今の彼にあると言うのだ、政治に興味がないのに。ずっと政治の体制でルカとハルメンスは対峙して来た。
「復讐ですか」
「まさか、彼に限って」
 誰よりも命と言うものを大事にする彼が。
「彼は神ではありませんよ」
 人間だ。人間なら自分の命より大事なものを壊された時、自分の命に掛けて復讐を誓ってもおかしくない。やはり彼は人間だったのだと、クロードは確信した。





 ルカの山荘の夜会は貴族の間で有名になって来た。近頃では件のリストのメンバーもちらほら姿を見せるようになった。そんな時は決まってルカは酔いつぶれたふりをし、笛を自慢げに客人たちに披露した。
 そのメンバーの一人がピクロス王子に報告する。
「ルカ王子がな、戦うことしか能がないのかと思っていたが。俺も行ってみるかな」と、取り巻きの一人が言う。
「けっこう、上玉揃いですよ。ボンウェル伯爵のご令嬢の姿も見かけましたよ」
「ルカ王子狙いか。あわよくば、何しろ一時はクリンベルク将軍に次ぐ名将と噂されたぐらいだからな」
 それを聞いてピクロスはいい顔をしなかった。
 ピクロスの顔色が変わったのを目敏くさっした取り巻きたちは、慌てて話題を変える。
「殿下、殿下もどうです、一度遊びに行かれては」
「俺が、あんな平民の所へ」と、ピクロスはまるで汚いものでも口にしたかのように吐き捨てる。
「ですから行って教え差し上げればいかかですか。どうせ猿まねなのですから、もっと上手にまねるように」
「そう言われれば調度品はたいしたことなかったな。それにあの楽団は、どこの三流奏者を集めて来たのか。音があればいいというものでもないだろうに」と、
 取り巻きたちはピクロスの機嫌を取るのにやっきになった。だがその反面、彼らはルカの山荘が気になっていた。自分たちではなかなか相手にされないような名門の令嬢までが足しげく通うようになっているからだ。偵察を口実に遊びに行くには限界がある。出来ればピクロス王子のお供として行けば、ピクロス王子に気兼ねなくゆっくり遊べる。そしてその令嬢の一人とでもお近付きになれれば。上流貴族とは言え三男、四男ともなってくれば能力でも無い限り、その存在は親からも忘れられている。
 ルカの山荘は今や貴族たちの話題の中心である。特にハルメンス公爵を始め名門貴族の間で。異星人とは言え妻が居る間は、ルカはその異星人に夢中で正室を迎えようとはしなかった。だがその妻を亡くした今なら、ルカ王子は独り身、今は先妻を亡くした悲しみに打ち沈まれておられるがその内きっと、否、私の愛でと思う令嬢たち。そしてその令嬢の親たちは、ルカ王子はこのままでは終わらないと信じ、願わくば我が娘を正妻にとこぞってやって来るようになった。それほどルカの実力は軍人は元より貴族の間でも認められるようになっていた。人柄も誠実そのものだし申し分ないと。
 ミズナに言わせれば、
「腐っても鯛は鯛ね。いつか正気に戻るのを期待して我が娘を。と言うところなのね。権勢欲の浅ましさ。あなたを利用してネルガルの中枢を牛耳ろうとしているのよ、それとも本当に娘さんの幸せを考えてのことなのかしら、どちらなのでしょうね」
 ルカはミズナの辛辣な言葉に苦笑する。
「どちらも、もう今の私に臨むことはできません」
 ルカはそう言う人々には会わないようにしていた。どうしてもと言う場合は、自室でシナカの写真を握りしめながら酔いつぶれている所に、ミズナに案内してもらうようにしていた。彼女ならうまく演じてくれるから、私がシナカ以外の女性に興味が無いことを。こんな所でシナカの写真をつかいたくはなかったのだが、こうでもしなければ前途ある娘さんたちの将来を壊してしまう。シナカもきっとわかってくれるだろう。




 ピクロスはじっくり考えていた。あいつが本当に狂っているのか、それとも正気なのか確認もしたかった。
「一度、遊びに行ってみるか」





 宮内部でもルカの山荘は気になっていたようだ。
「ボンウェル伯爵の令嬢が、頻繁に足を運んでいると言うのか」
「あくまでも噂ですが」と、報告に来た男。
「私も何度か夜会に顔を出しましたが、まだお会いしたことは」
「そっ、そうか。身分が身分だけに噂になりやすい方だからな。しかしやっと政治の中枢から身を引かせたのだ、また返り咲かれても」
 宮内部の反ボンウェル派の者たちは考える。
「いっそシュレディンガー侯爵の令嬢との話を進めては」
「しかし、本人の承諾がなくては」
「承諾などいるまい。今度はネルガルの娘だ。ボイ人を愛するより抵抗はなかろう」
 宮内部の者たちは自分たちの権益を守るために、ルカ王子とシュレディンガー侯爵の令嬢との縁談を強行しようとしていた。
「シュレディンガー侯爵なら間違っても政治に口を出してくるようなことはあるまい」





 一方ルカの山荘では、午前中に訪問客があった。夜会は五時からというのがここでは習わし。夕方四時ごろからぽつりぽつりと人が集まってくるのだが、昼前に訪れる人はいない。
「何方かと思いましたら、ボンウェル伯爵のご令嬢エミリアン様」
 そう言う言われ方をあまり好まないエミリアンは少し俯きかげんに、
「殿下は、御在宅でしょうか」と問う。
「おられることはおられますが、お休みになられておりますよ。まだ昼前ですから」
 もう太陽は中天、清々しいほどの青空なのだが、一晩アルコールに浸かっていた者たちにとっては刺すような痛さの陽光である。
「さようですか」
 エミリアンは暫しの躊躇の後、
「お目覚めになるまで、暫く待たせていただいてもよろしいでしょうか」
 どことなく思い詰めた雰囲気にミズナもむげには断りきれず、
「どうぞ」と、館内に案内する。
 従者が一人、大きな果物かごを持って付き従う。
 館内は昨夜の余韻が残っているのか、掃除は行き届いてはいるもののどことなくアルコールや香水、化粧の臭いが漂っている。そのホールを通り抜け二階の清楚な客間に通された。
「ここで暫くお待ちください。今、起こしてまいりますので」
「いえ、無理に起こされなくとも。起きるまでお待ちしますので」
「では、お茶でも」と、ミズナが退室しようとした時、
「これを」と、エミリアンは従者に持たせていた果物かごを差し出させる。
「実は、お見舞いに参りました。一目お元気なお顔を拝顔できれば帰ろうと思いまして」
 ルカとあまり年差はないのだろう、上流社会に身を置きながら身分の低い私たちを蔑視するようなことがない所など、ルカにどことなく似ている。今時の門閥貴族の中に身を置いてもこのように育つものなのか。などとミズナは思いながら彼女を観察する。類は友を呼ぶと言うが、ディーゼ王女といい(こちらはかなり活発なご令嬢だが)、ルカ王子のところには稀有な人種が集まってくるものだ。
 ミズナは果物かごを受け取ると、
「お茶をお持ちします」と、その部屋を去る。
 数分後、お茶のセットを持って来たミズナは、ソファに背筋を伸ばしてきちんと座り思い詰めているエミリアンの姿を見た。
「お嬢様、そのように緊張なされていてはお疲れになりますよ。殿下はもう暫くお休みでしょうから」と言いながら、エミリアンの前にカップを置きお茶をたてはじめた。
「ボンウェル伯爵に言われて来たのですか?」
 どんな手を使ってでもよいからルカ王子をものにして来いとか。
「父が?」と、エミリアンはミズナの主旨がわからず訊きかえす。
「ボンウェル伯爵はやり手ですから」
「父はもう政界には出ないそうです。今の穏やかな生活に満足しているようで。実は父にはここへ来ることに反対されたのです。ルカ王子には近づいてはいけないと。不幸になるから」
「不幸に?」と、今度はミズナが訊きかえす番だった。
 今までのボンウェル伯爵からは考えられない忠告だ。
「父の選んだ人と結婚した姉たちが、あまり幸せな結婚生活を送っていないもので、私には私の好きな人と結婚するようにと。ただしルカ王子は駄目だと。彼と結婚しても幸せにはなれないと」
 ボンウェル伯爵も随分と老けたものね、さんざん政略結婚で派閥を広げて行った人が。それとも政界を離れてやっと自分の愚かさに気付いたのかしら。年を取ってからの子はかわいいとも言うから。などとミズナは思いながらエミリアンの話を聞く。
「でも既に父の忠告は遅かったの。私はその頃には殿下を好きになっていたのですもの」
 初恋。
「殿下とは何処で?」と、ミズナはカップにお茶をそそぎながら。
「王宮主催のパーティーで二、三回お会いしお話をしただけなのですが」
「罪作りな人ね」
「そっ、そんな、殿下は何も悪くありません。ただ私がかってに思っているだけで。あの頃は殿下にも奥方様がおりましたし」
 異星人を正式な奥方と認めること自体、ネルガル人としてすら稀有な存在だ。私がエミリアンの年の頃は、ネルガル人以外は全て下等だと教わりそれを信じていた。そして周りの者たちは自分の言葉に一喜一憂し、まるでこの銀河は自分を中心に回っているような錯覚をおこしていた。私も他の令嬢たちと同様世間知らずだった、彼に会うまでは。彼に会って私の人生は変わった。だがその彼は。
「私は側室でもいいと思っていたのです。あの方のお傍にいられるのでしたら」
 ミズナは上品な皿にのせたクッキーを差し出す。
「これはボイの菓子なのです。シナカ様の侍女に菓子作りの名人がおりましてよく焼いてくれたそうです。殿下の好物でもあります。今はその方から教わった人が焼いているのですが、殿下はあまり口にしたがらなくなりまして、きっと奥方様のことを思い出すからなのでしょうね」
 エミリアンは暫しその菓子を眺めてからミズナに視線を移す。
「ミズナさんはシナカ様のことはお詳しいのですか?」
「詳しいわけではありません、お会いしたことはありませんし。ただお話は、殿下はあまり話したがらないようですが、元親衛隊や従者だった人たちから。時折ここにも見えるのですよ、殿下の様子を伺いに。殿下は会おうとはなさらないのですが、それにもこりず」
 いかにルカのことを心配しているかがうかがえる。
「どうしてお会いにならないのでしょう?」
「さぁ?」と、ミズナは肩をすくめて見せる。
「お掛けになりません?」と、エミリアンは自分の前のソファをすすめる。
「シナカ様のことが知りたいのです。あなたの知る範囲でけっこうですので、教えてはいただけませんか」
 殿下に好かれたい。それには殿下が愛されたシナカ様に近づければ。彼女と張り合うつもりはないのだが、何か殿下のお気持ちを引く糸口が欲しかった。
「そうね」と、ミズナはエミリアンの前に座ると足を組み、片手を顎へと持って行き話の内容をまとめ始めた。
「外形は、異星人ですからね、その美しいとか美しくないとかと言う形容からははずれたそうです。もっとも殿下もボイ人にとっては美の存在からはほど遠かったようです」
「あの殿下がですか」と、エミリアンは驚いたような声を出した。
 美の女神が間違って我が子を人間界に産み落としてしまったのではないかと思えるほどの容姿をしているのに。ボイ人の美的感覚はわからないと、エミリアンは思った。美という感覚もまた、子孫繁栄と言う欲情から出ていることを彼女はまだ知らない。男性が成熟した安産型の女性を美しいと思うのに対し、女性もまた、成熟した健康な男性を凛々しいと思うのである。
「ただかなりの人物のようですね。まずネルガルにはシナカ様のような人物はいないと誰もが申します。なにしろ殿下と一緒に戦場を駆け回られたのですから、それも負け戦を。親衛隊の方が申しておりました。戦争は勝っている時は楽だが同じ戦いでも負けて来ると苦しいと。負傷兵の手当てをシナカ様は一手に引き受けておられたようです、ご自身の着ている服まで裂いて包帯にしたとか」
「そうだったのですか。私は戦場と言うものを知りませんから」
「私もよ。仲間の遺体を踏み越えて行くなんてよく聞くけど、想像するだけですもの」
 実際に助けを求める仲間の手で足を取られるなどと言う経験はない。
「でもそれよりなによりお辛かったのは、敗戦の将、ネルガルに逆らった者は処刑されるということです。ボイ星の将はシナカ様のご両親であり、殿下にとっては義理の両親です。とても大事にされたようでボイ国王夫妻の処刑の時には殿下は狂ったかのように叫ばれたとか。あの時シナカ様がお傍におられなかったら今の殿下はなかっただろうと、誰もが申します。シナカ様はご自身の悲しみを殺して、殿下に仕えてくださったそうで」
 その思いはいかばかりのものだっただろうと、エミリアンとミズナはそれを察して黙り込む。殿下はシナカから見れば自分の両親を殺した仇の子。
「そっ、そんなお辛い過去があったなんて、パーティーでは一言も」
 エミリアンは辛うじて呟いた。
「殿下のおみ足は完治されているそうです。ただあの時のショックで今もびっこをひかれておられるとか」
 そこまで話を聞くと、エミリアンはすーと立ち上がる。
「失礼いたしました」と、丁寧に頭を下げると、
「殿下に、ご自愛ください。とお伝えください。あまりお酒は」
 そしてまた丁寧に一礼すると、
「帰ります」と、従者に告げる。
「お会いにはなられないのですか」
 エミリアンは微かにほほ笑んだが、その笑みには悲しさがにじみ出ていた。初恋の終わりである。



「帰られましたか」と言うルカに、
「罪作りね」とミズナは答える。
 ルカは三階の書斎から彼女を乗せた地上カーが走り出すのを見送り、
「今の私には眩しすぎて、会うこともできない人です。きっと私よりもっと良い人に出会えます。彼女を幸せにしてくれる人に」
「ボンウェル伯爵に、あのようなお嬢様がいらっしゃったとは知らなかったわ」
「随分、お詳しいのですね、ボンウェル伯爵を」
「あら、焼いているの?」
「まさか」と、ルカはおどけて見せる。
「そうよね」と、ミズナはサイドボードからグラスと酒瓶を取り出すとルカの前に置く。
「こんな仕事をしていると、いろいろな人と一夜を過ごすのよ」
 ミズナはグラスに注いだアルコールを一気にあおると、
「あなたぐらいよ、こんなに長く一緒にいるのに一度も手を出してこないのは」
「パートナーと言う約束ですから」
 この人は狂ってなどいない。否、狂っているのかもしれない、もう救いようがないほど。
 ドアがノックされた。
「お見えになりました」と、侍女の声。
 誰が? とは誰も訊かなかった。
「やっとお出ましね」
 ルカは時計を見る。
「まだ、早いですね」
「寝てる?」
「そうしますか」
「私と?」
 ルカは暫し考え込んだが、
「そうしましょう」と、答える。
 ミズナはくすくすと笑い、侍女に中途半端に起こされたから五時まで寝室で休むと伝えた。
「ピクロス王子にはどのようにお伝えすれば」と、侍女は困ったような顔をして問う。
「早く来るのが悪いのよ。まだ準備中だからと言ってそこら辺で待たしておけばいいわ」
「ですが」
 相手は王子、どのように対応して良いか侍女にはわからない。
「アヅミに言いなさい。彼女ならうまくあしらうわ」



 エントランスでは、
「この館では、客が見えていると言うのに、誰も迎えに出ないのか」
 取り巻きの一人が偉そうに怒鳴る。
 アヅミがいかにも、慌てたふりをして駆けつけて来た。
「こっ、これはピクロス王子様、お早いお着きで」
「ああ、少しルカに話があったものでな、ルカは何処にいる?」
 ピクロスは取り巻きの連中を後ろに下げ、自ら語った。
「旦那様でしたら、寝室でお休みになられております」
「では、さっさと呼んで来い」と、取り巻き。
 アヅミは困った顔をして、
「それが昨夜飲み過ぎたようでして。ただ今、起こして参りますので居間の方で暫くお待ちください」と、アヅミが客間に案内しようとすると、
「よい。こちらから出向く。寝室は何処だ、案内しろ」と、アヅミの肩を鷲掴みにするとアヅミを前に立てホールの中へと強引に入る。
 エントランスホールでは既に今夜のパーティーの準備が着々と進められていた。そのホールを横切り二階の大ホールへ、そしてそこも横切り三階へ。


 ルカはわざとらしく服を脱ぎ散らかし、ベッドの中に潜り込む。その隣にミズナ、せっかく結い上げた髪を振りほどいて。
 ミズナは何か考えに耽っているようなルカの横顔を見て、
「駄目よ、そんな顔しては。知性が丸見え」と言うなり、ルカにのしかかって来た。
「なっ、なんですか。いきなり」
 ルカは慌てる。
「あんまりベッドがきれいではおかしいでしょう」
 ミズナの甘い吐息。
「ちょっ、ちょっと待ってください」
 じゃれ合っているような雰囲気になってしまった二人。ルカとしてはそうするつもりはなかったのだが、タイミングがよいと言うか、悪いと言うか、
「お待ちください」と言うアヅミの声と同時に、ドアが大きく開いた。
 ピクロスが大股で入って来る。その背後に取り巻き。
 ルカは慌てて上半身を起こした。その肌は噂にたがわず男ですらぞっとするほど白い。魔性としか言いようがない。傷どころかシミ一つない。これが戦場を掻い潜って来た者の肌か? そのルカに甘えるようにもたれかかる娼婦のミズナの方が傷があるように見えるほどだ。だから一層それが目立つ。神の証とされる胸の痣。ピクロスはそれを初めて見た。
 ルカが何と言えば一番自然かと言葉を選んでいると、
「無粋な方たちね、何様だと思っているの」と、ミズナ。
 せっかくの楽しみの時間を邪魔されたと言いたげに。
「貴様は出て行け。俺はこいつに話がある」と、ピクロスはルカを指さす。
 ミズナは思案げにルカを見上げる。
「兄さん」と言いかけてルカは、「ピクロス王子」と言い直した。
「今着替えますので、暫く客間でお待ちいただけませんか。アヅミさん」と言って、アヅミに案内するように目で促す。
「どうぞ、こちらへ」と、アヅミはピクロスたちを促す。

 数分後、ルカはだらしない恰好でピクロスたちの前に現れた。髪も手でとかしただけなのだろう。王宮で会うルカとは別人のようだ。元来ルカはあまり身だしなみを気にする方ではない。特に自分の館に居る時は侍女たちが身だしなみを整えてやらなければ、寝起きのまま一日を過ごすようなこともあった。ボイに行ってかなり良い習慣を身に付けて来たようだが、シナカを亡くしまた元に戻ってしまった。否、以前より酷く。
「私に話しとは、何でしょうか」
 ルカはブラウスの裾をズボンの中に入れながら。
 ピクロスにすれば、こんなだらしない弟、否、弟とは認めてはいないが。の姿を見るのは初めてだった。
「もう少し、きちんと着たらどうだ」
 ピクロスは見かねて言う。
 ルカは苦笑すると、
「侍女たちが会場の準備で忙しいようですし、どうせまた着替えなければなりませんから」
 見かねたアヅミが、
「殿下」と言いかけ、
「旦那様、こちらへ」と、部屋の隅に押しやると、どこから取り出したのか櫛でルカの髪をとかし、衣服を整えてやった。
 どうにか見られる姿になる。
「旦那様は身なりにはかまわない方で、私たちがほっておくと一日パジャマのままでおられるのです。もっとも今はどの服がパジャマなのかわからなくなってしまいましたけど」
 それほど今のルカは酔いつぶれ着たまま寝てしまうことが多い。
「これではシナカ様もさぞご苦労なされたことでしょうね」と、アヅミは聞こえよがしに言う。
 ルカの衣装を整え終えるとアヅミは、
「どうぞ、ごゆっくり」と、部屋を退室しようとして立ち止まる。
「旦那様、お話が終わりましたらドレッサー室の方へお越しください。着替えますので」
「この服ではまずいのか」と、ルカは面倒くさそうに言う。
「その服は昨夜着た服です。食べ物のシミも付いておりますから。新しい服を用意してありますので」
 ルカは飲み過ぎて頭が痛いのか、額に拳を当てやれやれという顔をする。
「どうせ何を着ていた所で、誰も見てはいません」
「そう思われているのは旦那様ぐらいです。パーティーにご出席なされた方々は、誰の服がどうだったの、誰の装飾品は素晴らしいのと後々噂するものです。特に旦那様は何をお召しになられても見栄えがよいのですから噂の中心なのですよ、少しは噂にも関心を寄せていただかれなくては」
 ルカには伺いしれない世界である。
「わかりましたか」と、念を押すアヅミにルカは頭痛のせいで黙っていると、
「ご返事がないようですが?」と、アヅミはドアノブに手をかけたまま振り返って確認する。
「わかりました。少しは噂も」と、ルカは仕方なしに返事する。
「そのことではありません。ドレッサー室へ来ることです。本当にわかっておられるのですか、忘れずに来てくださいよ、さもないと私がミズナお姉様にしかられますから」
 返事をしないとくどく繰り返されそうな脅迫概念にかられたルカは、
「わかりました、参ります」と、しっかり答えた。
 ルカから言質を取り、アヅミは納得したように部屋を出て行く。
 ルカはやれやれと言う顔をすると、今度はピクロスたちの方に向き直り、
「お話とは何でしょうか」と、問うが、
「その前に掛けてもよろしいですか」
 ルカはピクロスの許可も待たずにソファに倒れ込むように座る。二日酔いでめまいと頭痛で立っていられないとばかりに。
 ピクロスも頭を抱えて項垂れているルカの前に座ると、
「陛下との晩餐会。ここの所一度も顔をだしていないようだが、どういうつもりなのだ」
 弟ルカのことを心配しての言葉でないことは直ぐにわかる。
 ルカは微かに顔をもたげると、
「ご存じではなかったのですか、私はもう王子ではないのですよ」
 とっくに王族の籍を返上している。
 ピクロスもその噂は聞いていた。ルカが王族の除籍を願い出たと言うことは。
「しかし、席は用意してあるぞ」
「では、宮内部のミスでしょう」
 ルカはさらりと言ってのけた。もう自分は王子ではないと。王子ではない以上、もう自分には陛下との晩餐会に出席する権利も義務もない。
「なるほど」
 こいつが王子の身分を捨てるなら、これほど好都合なことはない、競争相手が一人減ったのだから。ピクロスは部屋を見回しある物に目が留まった。その果物かごにはボンウェル家のエミリアンの名が。
「エミリアンがここへ来たのか?」
「エミリアン?」と、ルカはわざととぼけてみせる。
「ボンアェル伯爵の娘だよ」
 ルカはピクロスが彼女に気があることをケリンから聞いていた。ミズナもその情報を何処から得たのか、その果物かごにはわざとらしいほど大きな字で、ボンウェル家エミリアン様からルカ殿下へ、お見舞いの品と書いてある。
「ああ、お見えになったみたいですね」
「会わなかったのか?」
「寝てましたから」
 ピクロスは幾度となく彼女にパーティーの招待状を送った。だがいつも体調が悪いと断られていた。王宮で会っても言葉を交わす機会がない。一度だけ、心に秘めている方がいると聞いたことがあるが、まさかその相手がこいつなのか。何故、こいつは俺の邪魔ばかりする。苛立つ心を押さえてピクロスは、
「馬鹿か、お前は。女の方から言い寄って来ていると言うのに」と、苛立ちまかせに怒鳴った後に、否、こいつが馬鹿でよかったと思い直した。
 その声の音量にルカは顔を歪め、
「もう少し、穏やかに話しませんか」と、頭を抱え込む。
 完全な二日酔い、を演じていた。
「また、来るのか、彼女は」
「さあ?」と、ルカは肩をつぼめる。
「招待状を出せば来るのか?」
「見えられると思いますよ、何度かお見えになりましたから。もっともここは招待状など出したことはありませんが」
 好き勝手に皆が遊びに来る。それがここの山荘だった。もっとも主催がルカ王子なのだから遊びに来る者たちの身分も限られて来るが。
「では招待状を出せ、俺の都合のいい日に、彼女のところに。それと」と、ピクロスは命令調に数人の令嬢の名を挙げた。
 それらは取り巻きたちが目を付けている娘たちである。願わくばその家の娘婿になり家督を継ごうと。それが実力のない三男四男の生きる道。
「いいですけど、何時ですか?」
 ルカは気乗りなさげに問う。
「それは折り入って連絡する」
 そう言うとピクロスは立ち出した。
「帰るぞ」
 もうこんな屋敷に用はないとばかりに。
「殿下、お待ちください。遊んでいかれないのですか」
 口説きようによっては上流婦人との一夜も楽しめるかもしれないのに。この山荘は名だたる貴婦人たちが集まって来ていた。
 取り巻きたちのその気持ちを察したピクロスは、
「楽しみは後に取っておくものだ」
 さっさとエントランスに向かうピクロスに、
「もう、お帰りですか」と、ミズナが声を掛けた。
「ああ、また来る。今度は花束でも用意してな」
「さようですか」と、送り出すミズナ。
 ルカとどのような話があったのか。


 ドアがノックされアヅミが服を抱えて侍女と一緒に入って来た。ルカはピクロスが去った後、暫く爪を噛み漠然と宙を眺めていた。否、傍からはそう見えた。
「もう、待っていれば何時になってもお見えにならないのですから。来てくださると約束したではありませんか。着替えているお時間がありませんよ」
 いきなり部屋に入るや否や、アヅミは小言と同時にルカの服を脱がせ始めた。ルカの都合などお構いなしにまるで大きな着せ替え人形でも扱うように。よってルカの思考は途中で中断されることになった。否、いきなり中断されたもので何を考えていたのかすら思い出せない。
「あの、着替える時は着替えると、一言言っていただけませんか」
「あら、目の前にどさっと着替えを置けば、言わなくとも解りそうなものですけど」
 確かにルカの目の前には服の山があった。
「さぁっ、早くしませんと」
 ここではルカの全てが無視された。アヅミはルカをパーティーに間に合わせることだけを考えている。
「さぁ、できましたよ。まったく世話のかかる赤ちゃんなんだから」
「あのー」と言うルカの問いに、アヅミは言われる前に判断して行動に出た。
「ベルト、締めすぎた?」と、力任せに着せ付けたもので少し締めすぎたかと思い、直そうとするアヅミ。
「そうではなくて、近々この館を改装したいと思います」
「改装?」
 いきなりの提案にさすがのアヅミもどう対処してよいかわからなかった。
「イメージチェンジです。そろそろ飽きましたから。それで皆さんたちの荷物も一旦自分の家に持ち帰るか、ロッカールームでも借りて保管してもらうかしてもらえませんか。万が一大事な物が無くなっても弁償できませんので。他の方々にも伝えてもらえませんか」
「いきなりそんなこと言われても」と、侍女と顔を見合わせて戸惑うアヅミ。
「一時保管でいいのです。皆さんの部屋も改装しますので、そしたらまた運び込めば」
「えっ、私たちの部屋もきれいにしてくれるの」
「もちろんです」
「全面改装ってわけね、わかったわ、じゃ、皆に伝えておくわ」と、アヅミはひょうきんである。自分たちの部屋もきれいになるとわかると喜んで皆に伝えに走った。
 ルカはその後ろ姿を見送り窓辺に寄り添う。いつもの癖で爪を噛みながら庭を見下ろす。ぽつりぽつりと人が集まって来ている。軍人たちが貴族たちの権益を守るために自分の命を削り血みどろになって戦っていると言うのに、ここへ来て優雅に踊っている者たちはそのことすら知らない者たちが多い。彼らのためにと戦っている兵士たちの死は報われることはない。本当に平和を望むなら、今までネルガルが他の惑星にしてきたことを素直に謝ればよいのだ。そして強引に取り上げた彼らの権益を返せばよいのだ。ジェラルドお兄様、あなたが玉座に付けば、そういうネルガルを目差してくれますよね。
 ルカはもたれかかっていた桟からすーと体をおこす。自分の目的のために今夜も、くだらない会話に相槌を打たなければならない。



 数日後、ピクロスからの連絡が入った。
「それで日時は?」と、問うルカにミズナは答える。
「丁度、一か月後ですね」
 ルカはディスプレーに映し出された日程表を見る。一ヶ月あれば準備は万端。否、既に準備はこの山荘を購入した時点から着々と整えて来た。後は点検をするのみ。
「それでピクロス王子の方は何人出席すると?」
「二十四人ですよ」と、ミズナはピクロスから送られてきたリストを差し出す。
「二十四人ですか」
 ルカはそのリストに目を通し、自分の頭の中のリストと照らし合わせる。
 リストから視線をあげたルカは、
「私の方はリストが揃いましたが、あなたの方は?」と、ミズナに訊く。
「いつからお気づきだったのかしら?」
「あなたが私に近づいて来た時からです、ウルリナ・ボンウェル嬢」
 ミズナははっとした顔をした。私の本名まで知っていたとは。
「エミリアン嬢のお姉さんなのですね」
「似てないでしょ?」
「整形前はそっくりです。美しい方だ。否、美しい方だったと言うべきなのでしょうか」
 おそらく今この目の前に居るミズナもエミリアンの年の頃は、彼女同様、身も心も清らかだったのだろう、まぶしいほどに。
 ミズナは苦笑した。
「そこまでご存じだったのですか」
「私にはプロの情報屋がおりますから。そういう者を持っていないと戦争には勝てません」
 ケリンはミズナの整形前の写真とある戦域での奇妙な事件の記事を持って来た。
「このリストで十分ですか?」と、ルカはもう一度問う。
 毒を食らわば皿まで。この際一人増えようと二人増えようと私が地獄に落ちるのは同じ、不思議と心も痛まない。ならミズナの想いも兼ねてやろうと。
 ミズナは暫し黙り込んだのち、
「ファンデアン将軍を」
 ミズナの握りしめた手が震えていた。
 ケリンが持って来た記事は誤発砲の記事だった。戦場ではよくあることだ。特に密集した陣形をとった時は、前方の敵艦に撃たれる前に後方の味方の艦に撃たれることがある。だがその記事は故意に撃ったとしか思えないような書き方をしている。そしてその宇宙戦艦の艦長がファンデアン将軍なのだ。軍事裁判では発砲ミス、敵の宇宙戦艦を撃とうとした時に味方の艦が射程内に入って来たことになっている。しかしその後にもしばしば同じようなミスが起こり、その度に彼は階級を上げて行った、何の功績もないのに。兵士たちの間では囁かれている、ファンデアン将軍に背後を取られるなと。ルカもその噂は聞いたことがあった。ケリンにも彼には注意するようにと警告されたことがあったが、まさか戦闘中に味方の艦を撃つようなものがいるとは思ってもいなかった。彼の背後にピクロスが控えているなら私は何時殺されていてもおかしくなかった。それがこうやって生きて居られたのは仲間たちのおかげ。今更ながらに自分の親衛隊たちの腕の良さを知る。私が知らない所で私を守っていてくれたのだ。それなのに私は彼らに何も返してやれない。ルカは気持ちを切り替えミズナを見る。
「わかりました、彼も招待しましょう」
「相変わらず、理由は訊かないのね。それとも知っているの?」
 ルカは軽く首を横に振ると、
「あなたも私がこのような人里離れた山荘を欲しがった目的を訊いたことがないでしょう」
「そうね。ただ、同じ臭いがしたから、訊く必要がなかっただけ。毒でも盛るおつもり?」
「さぁ」と、ルカは恍けて見せる。
 復讐の方法は任せてほしいとばかりに。
「有難う。アヅミも喜ぶわ」
「アヅミさんからはそんな印象は受けませんでしたけど、いつも明るくて」
「明るくでも振る舞っていなければやりきれなかったのよ」と、ミズナは言うと黙り込む。
 暫しの沈黙の後、ルカは口を開いた。
「招待状を発送してください、ピクロス王子が指定した方々のみに」
「ご令嬢たちを巻き添えにするおつもりなの?」
「いいえ、そのようなことはいたしません。あなたの妹さんもおられるのですから。全ては私に任せていただけませんか」
 戦場で指揮を執っているようにルカは言う。
「そうね、あなたは名将ですもの。計画を立てて実行することにおいては誰にも引けを取らない」
 ミズナはにっこりすると、仰々しく
「かしこまりました、司令官」と、敬礼した。
「後でその招待状のリストを私の所へ持って来てくれませんか。自筆で詫び状をしたためますので」
 準備は整い始めた。





 そして夜会の二日前。各令嬢の所にはルカ自筆で夜会の日取りの変更を告げる手紙と詫びの品が届いた。
 ここはボンウェル家エミリアンの自室。
「お嬢様、ルカ殿下から」と、言って年甲斐もなく小走りに入って来たのはエミリアンが赤子の時から仕えている侍女、乳母と言ってもいい。
 エミリアンがルカ王子に淡い想いを寄せていることを知っているからこそ、殿下からの贈り物とあっては真っ先にと年甲斐もなく無理をしてしまった。おかげで息が切れて言葉が続かない。なんて広い家なのでしょ、まったくいまいましい。などと心で思いながら。
「どうしたのですか婆や、そんなに慌てて」と、エミリアンの老侍女を気遣う声。
「こっ、これを」と、息が切れて言葉の出ない侍女は、矢車草の花束の乗った小包を差し出すしかなかった。
 矢車草、それは今ではルカ王子を表す代名詞のようなものになっている。
 その花束を見て、エミリアンの小さな胸は締め付けられる。どうして今頃になって夜会の招待状だの花束だの。もう諦めようと思っていたのに。
 その花束の下にはきれいな箱と一通の手紙。宛名は私、そして裏を返せばそこにルカのサイン。
 エミリアンはその手紙を恐る恐る手に取ると文机に向かう。その机の引き出しからペーパーナイフを静かに取り出し、丁寧に開封した。
 もう諦めた恋なのに、どうして手紙など。そう思いながらもルカ王子からの手紙は、やはり嬉しい。しかも代筆ではなく自筆。
 エミリアンはゆっくりと目を通した。老いた侍女は心配そうにその様子を窺う。
 暫しの静寂。
 老侍女はあまりの沈黙に耐え切れず問う。
「何が、書かれてあったのですか?」
「夜会の日時が間違っていたそうよ、正式には三日後だそうです」
「あら、明後日ではなかったのですか」と、残念そうに問い直す侍女。
 夜会に招くなど、お会いになれなかったとは言えこの間の見舞いの品が功を奏したのだと老いた侍女は思っていた。今度こそ、殿下の御気持ちをしっかり掴むのですよ。と心ながらに応援している。衣装も香水も装飾品も全てルカ王子が好みそうなものを完璧なまでに用意した。あまり派手ではなくそれでいてしっかりした品質のものを。
「しかたないわ、印刷ミスですもの。楽しみが少し後になっただけよ」
 延期になったと言うのにエミリアンの顔はどことなく嬉しそう。手紙はそれだけではないようだ。
「他にも何か?」
「クッキーが入っているそうよ、その箱」
「クッキーですか?」
 それがどうしてそんなに嬉しいのか侍女にはわからない。クッキーなら飽きるほどこの館にもあるのに。
 ルカの手紙にはこう書いてあった。
 先日は、わざわざ足を運んでいただいたのに顔も見せず申し訳ありませんでした。クッキーをとても喜んで召し上がられたとミズナから聞きましたもので、また焼いてみました。ミズナが何と申したかは知りませんが、実はあのクッキー、私が作ったものなのです、シナカの侍女ルイに教わって。いろいろ教わったのですが全部失敗で、結局これだけしかできませんでした。材料を全部そろえてボールの中で混ぜればよいだけですから、材料の分量さえ間違えなければ誰にでも焼けます。妹のディーゼに言わせれば馬鹿でも焼けるそうです。
 まぁ、ディーゼ王女様ったら、酷い。と心で思いながらエミリアンは先を読む。
 ルイに言わせればまだまだだそうですが、シナカは誉めてくれたのです。それが嬉しくて時々気が向くと作るのですが、今は誉めてくれる人がいないので寂しく思います。
「やっ、やだ。あのクッキー、殿下の御手製だったの?」と呟く。
 エミリアンは慌てて箱を受け取ると文机の上で開ける。中には小箱が二つ、一つにはクッキーがぎっしり詰まっていた。
「まぁ、随分とがさつなクッキーだこと」と、侍女。
 おいしく見せようとする工夫が一つもない。
 それはエミリアンが最初にボイのクッキーだと出された時の印象と同じ。あの時は殿下の御手製だとは知らなかったから。まずいことを口にしていなかっただろうか。
「婆や、そんなこと言うと不敬罪で処罰されるわよ」
 これは自分に言ったようなものだった。
「不敬罪?」
「これ、殿下の御手製なのよ、少し見た目は悪いけど味はいいのよ」
 それは材料がよいのだから不味く作る方が難しい。とディーゼなら言っていただろう。
「ル、ルカ王子が!」と、驚く侍女。
 そしてもう一つの小箱には玉手箱のようなオルゴール。ホルヘたち三兄弟の傑作品である。ルカがとても大事にしていた品の一つである。無論曲は、竜の子守歌。
「素敵なオルゴールですこと」と、感心する侍女。
「何と言う曲かしら」と、首を傾げるエミリアン。
「夜会に行った時、お聞きになれば?」
 殿下との話題のきっかけにもなる。
「そうね、とても美しい曲ね」





「これで準備は整いました」
 ホールは明日の準備でてんてこ舞いである。だが三階のルカの寝室、そこだけはゆったりした時間が流れていた。庭の手入れをしている植木職人を眺めながらルカは言う。
「明日、ご令嬢たちは誰もお見えにならない。時間が空いてしまいますので、うまくやってもらえますか」
「それは任しておいて、意識がない程にぐてんぐてんにしてみせるわ」
「そうしていただければ有難い。あの世に旅立つのに辛い思いをするより楽しい思いのまま旅立ってくれた方が、こちらも罪の意識が少なくて済みますから」
「なに、いまさら馬鹿なことを言っているの。あんな奴ら、八つ裂きにしたってものたりないわ」
「女性は、恐ろしいですね」
「あら、私はあなたの方が恐ろしいわ。静かな顔をして事を着実に進めて行くのですもの」
 ミズナはベッドに腰を下ろすと、
「どう、今夜は私に付き合わない? 前祝いとして」
「そういうことをすると、失敗しますよ。私は作戦を開始するにあたって、前祝いをしたことがないのです」
「そうね、では作戦が成功するまでとっておきましょう」
 ミズナはベッドから立ち出すと、サイドボードに歩み寄る。スリットからすらりとした脚が覗く。
「あら、この上にあった螺鈿のオルゴールは?」
 箱も美しいが曲も美しい。一度ねだったことがあるが断られた。このオルゴールは私の人生そのものだからと。ボイに婿入りしまだ右も左もわからない頃、少しでも寂しさをまぎらわせられればと、ホルヘたちが作ってくれたものだ。このオルゴールを聞きながらシナカに寄り添っているといつの間にか寝てしまったものだ。
「差し上げました」
「誰に?」
「エミリアン嬢に。彼女でしたら大切にしてくださるでしょうから」
「そっ、そうね」
 少しがっかりだが、確かに彼女の方がふさわしいと納得して諦めた。





 そして夜会当日。ピクロスたちは少し早めにやって来た。
「お早いお着きですね、ピクロス王子」
 出迎えたルカはいつもの酔いどれルカとは違っていた。以前の宇宙艦隊を指揮して出陣する前のルカのように凛とした雰囲気を漂わせている。
「今日は、アルコールが入っていないようだな」
「ええ、殿下をお迎えするのに先日のような醜態を二度もさらすわけにはまいりませんから。ここ二、三日、アルコールは断っておりました」
「殊勝な心がけだな」
「初めて褒めていただきました」
 ルカのその言葉にピクロスは一瞬むっとしたが、今宵はエミリアンに会えるのだ。そう思うとこの気にくわない平民の態度も許せるだけの寛容さが持てた。
 ルカは先だって会場へと案内する。
 会場の準備は既に整っていた。今宵は楽団も超一流のメンバーを揃え、シェフも超一流である。そして揃えた娼婦たちも。まさに最後の晩餐。
「まだ時間が早いのですが、ご令嬢たちがお見えになるまで軽く始めていますか」
「そっそ、そうだな」と、側近たち。
 既に料理を運ぶ娼婦の胸元や腰に視線は釘付け。主菜をたいらげる前に前菜といくか。
 高級酒が運ばれ、ムード曲が流れ出した。すると曲に合わせ娼婦たちが優雅に腰を振りながら男たちの脇に座り、お酌をし始める。
「お前、何処かで会ったことが無いか」と、ピクロスは隣に座ったミズナを眺めながら問う。
「あら、誰かに似てまして?」と、ミズナは恍けてみせる。
「今宵はピクロス王子がお越しになるからと、シェフも楽団も一流を揃えたそうよ。ついでにこのドレスもルカに頼んで新調してもらったのです。ご令嬢たちに負けないように」
 まるでルカの妻ででもあるかのように言うミズナ。ピクロスは鼻で笑うと、
「馬鹿を言え。彼女たちとお前らでは格が違い過ぎる。相手にならない」
 競うこと自体、問題外だと。
「あら、格は確かに落ちますけど、あちらの方は私たちの方が上よ」と、ミズナはスリットから美しい長い脚をちらつかせた。
 欲情を駆り立てるその仕種に、思わず傍にいた側近が唾を飲みこむ。
 もう、我慢できねェー。と、心の中で叫ぶ。既に彼らは女たちの禁領に手を忍ばせ始めていた。

 次第にピクロスの仲間たち以外の者たちもやって来た。彼ら、もしくは彼女たちに招待状を出してはいない。彼らは夜会の噂を聞いてやって来ただけだ。会場に入りピクロスの存在に気づいた彼らは、真っ先に彼の所に挨拶にやって来た。
「こっ、これは殿下。殿下がお越しだと知っていれば、もう少しましな恰好をして参りましたものを」
 誰もがピクロスには一目置いているようだ。もっとも次の皇帝、ジェラルド王子が一応皇太子と言うことになってはいるが、あのようなご様子では、ネルロス王子だろうと言うのがもっぱらの噂。そうするとピクロス王子は皇帝の実の弟と言うことになる。誰もが彼の機嫌を取るのは仕方がない。
「たいした権勢ね、皆があなたの姿を見て慌てて挨拶に来るわ」
「ネルロス王子の弟としてな」と、つまらなげに言いながらグラスをあおる。
 ネルロスの弟としてではなく、俺自身に、今度は跪かせてやる。
 ミズナは思った。彼も可哀そうと言えば可哀そうよね、兄が居る限り皇帝にはなれないのだから。ある意味、兄の死を待っている。
 ミズナは髪をかきあげた。馬鹿な、なに同情しているの、私こそこいつの死を待ち望んでいるのに。
 次第にいつもの客人の顔ぶれも揃い、曲もダンス曲へと変わった。
「どうかしら、一曲」と、ミズナが誘う。
 今まで手を握るどころか姿を見ただけで吐き気を催していた相手、だが今宵が最後と思うと不思議と平穏で居られる。出来ることなら、彼のサーベルでこの男の胸を一突きしてやりたかった。彼のサーベルは今でも肌身離さず持っている。今、この会場にも。
「いや、よしておこう。酒の回りが早くなるからな」
 令嬢が見えるまでは正気でいようとしているようだ。
「しかし、遅いな」
「お召しに時間がかかっておられるのでしょう。なにしろ相手はルカですもの、どんなに化粧をしたところで彼の美しさにはかなわないわ。女の私たちが見たってうっとりするほどですもの。どうすればあのような美しい肌を保てるのでしょう」と、ミズナはルカの方に視線を移した。
 ルカは出入り口の所で数人の学者と立ち話をしている。
「彼、ああいう学者肌の人たちと気が合うのよね。宇宙のダストがどうのこうのと、一流の料理を口に運びながらゴミの話しに夢中になるなんて、気がしれないわ」
 一頻りリズミカルなダンス曲を奏でていた楽団は、またムード曲へと曲を変更した。
 すると一組、二組とカップルが暗闇の中に消えて行く。
「私たちも、楽しみません?」
「いや、今宵はよしておこう」
 ピクロスにはどこか気になるものがあった。ルカの考えが読めない。あの時はエミリアンに会いたいが一心にこんなことを頼んだのだが。
 ルカは相変わらず学者たちと話を、否、議論をかわしている。
「奴は、何を考えているのだ?」
「奴とは、誰のこと?」と、とぼけて問うミズナ。
「ルカだ」と、忌々しげに言うピクロス。
「こんな山荘で、毎夜毎夜夜会を開いて」
「知らないわ。実を言うと私、彼のことあまりよく知らないのよ。出会ったのは某娼館。皆がルカ王子に似ている人が遊びに来ていると言うから、ちょっと顔を出したのよ。ほんとよく似ていると思ったわ、足を引きずっているところまでそっくり。まさか本物だったとは思いもよらなかったけど。だってあんな三流娼館に本物が来るはずないでしょ。貴族だって来ないもの。それに私たちの身分では本物になど会えるはずもないし。だから思ったのよ、そっくりさんを恋人に持つのもいいかなって。それにあの頃の彼、荒んでいて危なっかしくてほっとけなかったから、それになんて言ったって美形でしょ」
 母性本能をくすぐられた上での欲情とでも言いたげにミズナは言う。
「でもよかったわ、立ち直ってくれて。きっとああやって学者さんたちと話をしているのがよかったのね、私たちと遊ぶより刺激になるみたい」
 ルカの理論好きは有名だった。
 この山荘は学者の間で特に話題になり、ありとあらゆる頭脳が集まって来るようになった。自由な雰囲気の中での議論、地下組織にかかわるような者たちまでがやって来て、今の政治の在り方までも議論している。他では決して口にできないことだ。ただここはルカ王子のサロンと言うこともあり、治外法権的な装いもあった。
 今回、こんなに娼婦が多いのは来る客人のレベル合わせてのことだ。完全に出来上がったピクロスの側近たちは、思い思いの娼婦を連れてしけ込んでいる。ピクロスだけがどうしてもルカを警戒して酔えないでいた。
「でも、本物の王子だって知った時は驚いたわ。開いた口が塞がらないってこのことよね、顎が外れるかと思った」などと、ミズナはピクロスの前では言ったものの、初めから彼がルカ王子であることは知っていた。彼がピクロス王子を憎んでいることも。だからこそ、近づいたのだ。彼が望むなら私の肉体でも命でも差し出すつもりだった。ただ一つ、私の願いをかなえてくれるなら。
 ミズナはさり気なく胸元を開けて手のひらをひらひらさせると、
「少し酔ったみたい。庭にでませんこと? ベッドの上での情事もいいけど、月明かりの下も格別よ。ここぞとばかりに月の女神に見せつけてやるの」
 ピクロスも加減して飲んでいたつもりだが、さすがに高級酒、じわりじわりと酔いが回って来ていた。
「少し夜の冷気で酔いを醒ますか」
 庭の茂みの中からは官能的な喘ぎが漏れ聞こえてくる。既に側近たちの頭の中には令嬢の姿はない。涎を垂らした獣に成り下がっている。
「あなたのお仲間たちはお楽しみ中ね、あなたもいかが」と、ミズナは大胆に誘う。
 館内ではピクロスが庭に出たのを合図に楽団たちが引き揚げ始めた。代わりに壁に取り付けられているスピカーからBGMが流れ出す。シェフたちも後片付けを始める。その様子を見てピクロスの仲間以外の客人たちもぽつりぽつり帰り始めた。彼らは知っている、ピクロスたちが酔うとどんなふうになるか。出来ることなら関わりたくないと言うのが彼らの本音。それを察したルカも、絡まれない内に後は私の方でどうにかいたしますので。と彼らに帰ることを促した。
「申し訳ないが今宵は早めに、この議論の続きは後日」などと学者たちは挨拶して、一人、二人と去って行く。
 ピクロスたちの日ごろの行いがルカにとっては功を奏したとでも言うべきなのだろう、追い出さなくとも客人の方から自然に帰宅してくれたのは有難かった。残るは使用人たち、彼らにも後片付けは明日の昼過ぎからと言うことにして、帰らせ始めた。

 そして今宵は隣の小ホールでも夜会が開かれていた。ここに集められた者たちは、ピクロスが将来皇帝になった時、それなりの地位や名声、財産を保障されている者たち。そのためにピクロスが玉座に付けるように協力している者たちである。そこにはファンデアン将軍の姿もあった。ジェラルドやピクロスの兄ネルロスに仕え、隙があれば毒を盛っている侍女たちも。そして御殿医。無論これらの情報は、ケリンが調べに調べあげたものである。
 これでジェラルドお兄様の館に巣くっていたネズミが一掃できる。

 ピクロスの仲間たちは酒に入れた薬の効果もあり、完全に出来上がっていた。自分の担当の客人が酔いつぶれた段階で、娼婦たちにはそれなりの報酬を与え引き揚げさせていた。残るはピクロス王子のみ。だが、彼は正気だった。
 館内に戻って来たピクロスを迎えたのはルカ。
「飲まなかったのですか?」と、ルカはピクロスが座っていたテーブルからボトルを一本持ち上げる。
「この銘柄、あなたがお好きだと伺っておりましたが、お口にあいませんでしたか?」
 周囲の雰囲気がおかしいのに気付いたピクロスは、
「何を入れだ?」と、問う。
「しびれ薬と睡眠薬ですよ、何処ででも手に入る。あなた方はボイ人ではありませんから、命に別状はありません」と、ルカはボトルを弄びながら言う。
「まだ、根に持っていたのか」
「あれ、知りませんでしたか。私は根に持つタイプなのですよ。エルシアなど数千年前の記憶を根に持ってぐだぐだしておりますからね」
「エルシア?」
「私の別人格です」
 ルカが二重人格だと言うことは、以前聞いたことがある。まさかとは思っていたが。
 ルカは酒を空いているグラスに注ぎ込むと、ピクロスに差し出す。
「いかがですか?」
 ピクロスは受け取ろうとはしない。
「心配いりませんよ、あなたのにだけは、何も入れておりませんから」
 ルカはその酒をピクロスの前で一気にあおって見せた。
「ほらね」
 そう言って酒を注ぎ直してピクロスに差し出す。
 ピクロスはそのグラスをルカの手から払い落とした。
「もったいないな」と、絨毯に吸い込まれる真紅の液体を見てルカは言う。
 そして視線をピクロスの方へ戻すと、
「あっ、ご令嬢をお呼びしていたのをすっかり忘れておりました」
 令嬢? 呼んでいたのか? とピクロスは疑問に思う。
 ルカが腕のアクセサリーのリモコンを操作すると、大ホールと小ホールを区切っていた壁が左右に開いた。以後このアクセサリーが全てを支配する。中から数人の男女が現れる。
「これはピクロス閣下」と、ファンデアン将軍はいち早くピクロスの姿を見つけると、酔ってふらつく足取りで近付き最敬礼をする。
「お前ら、どうしてここに?」
「殿下のお召を受けまして」
「殿下?」と言って、ピクロスはルカを見た。
「私はもう、王子ではありませんから」
 と言うことはと、ぎこちなくファンデアンの方を振り向くと、
「あなた様にお呼びいただきました。ピクロス陛下」と、ファンデアンは仰々しく一礼する。
 すっかりご馳走になり、分別が出来ないほど酔っていた。場所もわきまえずピクロスのことを陛下と呼ぶ。
 ピクロスは苦々しげな顔をしながら、
「俺は、呼んだ覚えはない」
「ですが、いつもの回線で」
 ピクロスと彼らだけの特別な回線。だがそんなものは、ケリンにかかっては子供だましに過ぎなかった。ケリンはその回線に潜り込み、いかにもピクロスからの指示のように連絡を流した。
『ルカの山荘に来るようにと』
 ピクロスはルカを睨む。
「どういうつもりだ」
「和解しようかと思いまして、あの世で」
 一気に周辺の空気が冷え切り緊張が走った。だがしびれ薬を十分に効かせた料理をとったファンデアン将軍は思うように体が動かない。無論、一緒に食事をともにしていた者たちも動けなくなって来ていた。
「どうやら薬が効いてきたようですね」
 それでもファンデアンは根性で腰に帯剣していたサーベルを抜きはらう。
「気を付けて、彼の剣には毒が塗ってあるわ」と、ミズナが忠告するより早く、ルカは打ち込んでいた。
 ファンデアンのサーベルが宙に舞う。
 ルカはファンデアンの体を押さえ込むと、
「ウルリナ嬢、アヅミ。仇を」
 ミズナとアヅミはおもいおもいに恋人の名と姉夫婦の名を叫んだ。ミズナのサーベルが、アツミの短刀がファンデアン将軍の胸を貫く。ファンデアン将軍の体がただの肉の塊と化してドサッと床に倒れたれ、高級絨毯を真紅に染めて行く。血の滴れ落ちる剣を握りしめながら、二人の令嬢は肩で息をした。
「ウルリナ?」
 ピクロスはゆっくりとルカがウルリナと呼んだ女の顔を見た。一度は結婚を申し込もうとしたほどの女性である。否、しようとして断られたのだ。私には既に心に想う人がいると言って。その顔を忘れるはずがない。エミリアンに想いを抱いたのも彼女がどことなくウルリナに似ていたから。
「ウルリナなのか?」
「ええ、そうよ。あなたに恋人を殺された」
「その顔は?」 似ても似つかない姿だ。
「整形したのよ、あなたに近づくために」
 身も心も売った、この日のために。
「さぁ、剣を抜いてもらおうか、今度こそは。あの時、殺しておけばよかったと随分後悔しました」
 ルカはホールの中央にピクロスを誘い出すように後ずさりした。
「王族殺しがどんな罪なのか、お前は知っているのか」
「あなたが私に勝てば、ここから自由に出て行って結構です。ミズナたちにもそう約束しておりますから」
 ルカの誘い文句だった。人間、微かな望みでもあればそれに縋りたくなる。
「よかろう、お前をこのサーベルの錆にしてやる。そして俺は、正面玄関から堂々と出てやる」
「それで結構です」と、ルカは微笑む。
 こんなこともあろうかと、もしものことを考えピクロスも、剣に毒を塗って来ていたのだ、急所を突かなくともかすり傷さえ与えれば致命傷なほどの猛毒を。例えあいつの腕が俺より勝っていても、かすれないと言うことはあるまい。俺だって剣の腕はかなりのものだと自負していた。なぜなら以前ルカと渡り合って負けてから、稽古し今では侍従武官と互角に渡り合えるようになったのだから。だがそれらの稽古試合も侍従武官が手加減していることも知らず、また機嫌取りたちの軽はずみな褒め言葉だと言うことすらピクロスは理解していなかった。
 ピクロスは剣を構えた。
 ルカはミズナたちにドアの方に下がるように指示する。
「以前の俺だと思うな」
 ピクロスはあの時の恥を根に持っていた。いつかこの仕返しは、今がよい機会なのだが、いつでも弱いものを集団でいたぶっていた彼にとっては一対一での勝負は気が退ける。周りを見回しても動けそうな仲間は誰もいなかった。まったく肝心な時に役に立たない連中だ。と心の中で毒づく。
「あれは、私の運がよかっただけですよ」
 ルカはあの時勝ったことをひけらかそうとはしなかった。それより、あの時殺しておかなかったことが私の敗因。おかけで私は取り返しのつかない代償を払うことになってしまった。今度こそは後悔しないように。
 ルカはぐっと剣を握り直しピクロスとの間合いを測る。それが合図ででもあったかのようにピクロスが打ち込んできた。勝負は一瞬で決まった。ピクロスの剣は宙を切りルカの服にすら触れることはできなかった。ルカの背後でドサッと倒れる音。
 ミズナはルカのあまりの速さに息を呑んだ。
 この人、本当に強いのだ。常日頃の物静かな振る舞いからは想像もできなかった。あの第14宇宙艦隊が崇拝している司令官だと噂では聞いていたが、乙女のようなその美しさからマスコット程度に扱われていたのだとばかり思っていた。名実ともにこの人はあの愚連隊を指揮していたのだ。
 ルカはサーベルを床に落とすと、ミズナたちの方に振り向き、
「もう直、厨房から火が出ます。消火する必要はあません。まだこの館に残っている使用人が居るようでしたら一緒に避難してください。最初にスプリンクラーから出るのは水ですが、五分もすれば一旦水は止まり、次に出て来るものは可燃性の液体です。水が止まる前に皆を連れ出し出来るだけ遠くに避難してください」
「あなたは、どうなさるのですか?」
「先程のピクロスとの話を聞いておりませんでしたか、あの世で和解をすると私は彼に言いましたが」
 ミズナは唖然とした顔をする。
「肉体が無ければ不必要に物事に囚われることもなくなるでしょう。食欲も必要なければ性欲も必要ありませんから。真の話し合いが出来ると言うものです。それに」と、ルカは暫し考え込むように間を置くと、
「間違って天国へなど行かれたら困りますから、私がきちんと地獄まで道案内してさしあげようかと思いまして。天国にはシナカと彼女のご両親がおりますから」
「それではあなたはシナカさんに会えないではありませんか」
 ルカは大きく首を左右に振ると、
「もう私は天国に行く資格はとっくに失っております。天国に行くにはあまりにも多くの人を殺しすぎました」
 これが智将ルカの本音であった。指揮シートに座った時からルカは天国への道を閉ざしたのである。敵とは言え、人の命に変わりはない。人を殺せば地獄に落ちる。これはルカが母ナオミから教わったことだ。
 ホールの外が騒がしくなった。火事だ! と叫ぶ侍女や使用人の声。まだ数人残っていたようだ。こちらに近づいて来る。
「ここにも火を放ちます。早く、外へ」
 ルカは何かの液体を撒いた。そして火のついたキャンドルを倒す。火はルカとミズナたちの間を走り、一瞬にしてホールの中を満たした。薬で動けなくなっている者たちの助けを呼ぶ叫び声とうめき声。だがミズナにはそんな声は聞こえなかった。炎に包まれていくルカの姿を見て狂ったように叫ぶ。そしてルカを助けようと自らも炎の中に飛び込もうとする。それを必死で押し留めようとするアヅミ。
 ルカは炎の中から優雅に手を振る。
「ミズナさん、一つだけお願いがあります。エミリアン嬢に伝えてください。クリンベルク家にカロルと言う野生児がおります。もしよろしければ私に代わって彼にマナーを教育してやってくださいと。お願いします。それだけが心残りで、エミリアン嬢が引き受けてくだされば安心して旅立てます」
 その声は耳から聞こえたと言うよりも、頭上から降り注いできたという感じだった。
 火柱がホールの天井まで立ち昇る。
「アヅミさん、ミズナさんを」
 それがルカの最後の言葉だった。
「ルカー!」
 ミズナの叫び。
 背後の扉が開き、
「早く、外へ!」と、力強い誰かの腕に引っ張られた。
「お嬢様、早くこちらへ」と、アヅミはミズナをホールの外へと押し出す。
 アヅミは数年ぶりにミズナをお嬢様と呼んだ。
 使用人によってホールの扉がこじ開けられた時には、既にホールの中は火の海だった。辛うじて扉の近くに立っていたミズナたちを助けるのが精一杯だった。
「旦那様は?」と、問う使用人。
 ミズナは力なげに火の中を指さす。
「助けに」と、炎の中に飛び込もうとする使用人を別の使用人が取り押える。
「もう、手遅れだ」
 ミズナはアヅミに手を引かれ炎と水の中を走った。心はあのホールの中に置き去りにしたまま。
 スプリンクラーの水が止まった。次に出て来るのは可燃性の液体。
 間に合わない。とアヅミはミズナの手を引きながら焦る。
 もう少し待って、もう少しと、可燃性の液体が出て来ないことを祈る。
「皆、早く外に出て。ガスの臭いがするわ。爆発するかもしれない」と、アヅミは叫ぶ。
 臭いなどしない。だがこう言えば皆がもっと急ぐと思った。もう逃げ遅れた者を助けている余裕はない。自分たちがこの館から逃げ出さないと。
「早く、外へ出て出来るだけ遠くへ」
 アヅミは叫んだ。
 ミズナは心なしか足を止めようとする。
「お嬢様、早く」

 ルカはホールの窓越しにミズナたちの去って行く姿を確認し、腕のアクセサリーの最後のボタンを押した。スプリンクラーから可燃性の液体が噴出する。山荘はディーゼの館が燃えた時のように一気に炎に覆われた。そしてその炎はあらかじめ用意しておいた導火線へと燃え移る。


 一方アヅミは、皆を従え山道の道具小屋まで避難した。
 以前からルカは口癖のように言っていた。もしこの山荘が火事になったら、この山小屋に逃げ込みなさいと。ここには食料や毛布が備蓄されているから、数日はここで生活できるはずですと。
 ルカは最初からこれが目的であの山荘を購入したのだ。アヅミは今悟った。この道具小屋の真の目的を。ここは私たちのための避難所だったのだ。
 丁度、小屋に着いた頃だった。大きな爆発音が数回聞こえた。見れば山荘のあった辺りに大きな火柱が立ち昇り周辺を昼間のように赤々と照らし出している。
 山荘は木端微塵だった。まるでメガトン級の爆弾が落とされたかのように。その爆風はこの小屋まで届いた。そしてその光景は王都からも見えたようだ。





「なっ、何だ、ありゃー」と、カロル。
 夜明けに寝ぼけ眼でトイレに行って目にしたもの。
「たっ、隊長」と、駆け込んで来る夜勤の当番。
「ルカ王子の山荘の辺りではありませんか?」
「まさか」

2013-12-05 00:39:34公開 / 作者:土塔 美和
■この作品の著作権は土塔 美和さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 皆さん、お久しぶりです、お元気でしたか。私は九月、十月は夏バテと消費税の駆け込み需要のダブルパンチを食らい、死んでました。夜中に帰ってきて飯も食わずに寝るだけの生活。十一月に入って夏バテは解消しましたが、消費税の駆け込み需要は相変わらず。三月いっぱいまでは続くのでしようね。その後は閑古鳥、そしてぺんぺん草。また知り合った仲間が次々と会社を辞めていく寂しさを味わわなければならないのでしょうか、5%の時のように。と先のことを思っても仕方ありません。世の中なるようにしかならない。で、続きをやっと書きました。コメントお待ちしております。
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