『アンサリング 〜女子内暴力〜 【第2話】』作者:アイ / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角74560文字
容量149120 bytes
原稿用紙約186.4枚
 はい、来ましたー。
 下駄箱で靴を履きかえようとした彩音は、思わず口に出してそうつぶやいた。かつてどこかで、確かに見た光景。上靴の中に詰めこまれている、土。石ころも葉っぱもいっしょくただ。上靴を左右とも引っ張り出し、下駄箱の向かいにある水道で洗った。自分でも驚くほど冷静だったが、それでも色んな思考がぐるぐる巡って止まらない。
 月曜日から三日間にわたりつづいた地獄の中間テストが終わり、ようやく落ちつきを取り戻した六月初日。雨の日が目に見えて増え、鬱屈した空気に重みが加わる。今日はどうにか晴れているが、髪の毛先はあちこちで跳ねる。アレンジ用のヘアピンが増える増える増える。南半球に逃げたくなるこの季節は、いじめがはじまりやすい時期でもある。
 こういうことが嫌やから、わざわざ関西から逃げて、偏差値の高い学校来たんに。
 末摘花の受験の戦火を生き抜いてきた生徒は、いじめなんてしないと思っていた。必死で努力した人は、痛みも辛さも知っている。苦労を乗りこえると、人を蔑んだり傷つけたりできない。そう思っていた。なのに思春期は、この結果である。
 もうこうなってしまえばヤケだ。外靴を脱いで下駄箱に放りこみ、洗った上靴を持って足早に校舎に入った。教室にいる生徒はまばらで、彩音は早足に自分の席につくと、椅子の下に上靴を置いた。一時間も放置していれば、雨雲の居ぬ間に洗濯物を乾かさんと張り切る太陽の光がどうにかしてくれるはず。
「どったの、彩音」
 一歩遅れて登校してきた由乃に声をかけられ、机に伏していた頭をあげる。そして、椅子の下をちょんと指さした。由乃は湿った靴に触れ、「ああ」と抑揚のない声で言った。
「また紋切り型な」
「うちもそう思う」
「彩音って人気度と同じぐらい恨みも買うだろうって思ってたから、今あんまし驚いてない。思ったより取り乱してなさそうなのって、ちゃんと自分を客観視して事態を把握してると思っていいのかな」
「そんな細かいこといちいち考えながら生きてませんて」
 ため息が漏れた。人気者だとは自覚していたが、同時に、自分の毒舌っぷりやはっきりした物言いは自覚していた。オブラートに包むことを美徳とする日本に、どうも自分は合わないと思う。アメリカに移住したい。
 それがかつていじめにつながったが、今はもう遠い昔のように思える。末摘花に入ってから二ヶ月、一切嫌がらせを受けたことがなかったし、人気者の座を欲しいままにしていた。錯覚していたのだ。地元から逃げただけでは変わらない。分かっていたのに。
 気丈に振る舞いつづけることは、大人が言うより辛く、痛い。「毅然としていればおさまる」と昔を回顧する高慢な元いじめられっこの大人は、「忍苦」あるいは「反撃する勇気がなかった」を「毅然」と耳ざわり良く変換しているだけ。彩音はそう思っていた。
「うち自身に文句があるんか、それともまた風宮ファンが嫉妬しとんのか」
 うーむ、とわざとらしく顎に手を当てて考える彩音。
「どっちにしても面倒そうだね。これっきりの嫌がらせで終わるといいけど」
「いや、うち、実はさほどショックちゃうねんけど」しれっとこたえる彩音。「こんなボケーっとしとったら、どっかで見とる加害者さん主犯くんを怒らすかも知れんな」
「分かってるならちょっとでも落ち込む素振りしようよ。エスカレートするかもだし」
「げ、それは嫌や」
 さらに悪化していくのだろうか。靴に土程度では洗えば済むことだが、修復不可能なものを壊されては堪らない。いや、逆にそこまですると問題になることを分かっていれば、相手は地味で精神的に傷つく行為をくりかえすのかも知れない。やにわに怖くなり、彩音は一瞬息を止めた。さまざまなパターンを想定し、衝撃を軽減させようとした。
 彩音は落ちつきなくケータイをひらき、特に何を見るでもなくすぐに閉じた。大型掲示板を巡回する気には、なれない。教室に入ってきた大勢の友達に挨拶をされ、靴のことを聞かれたが、「ちょっと暑くなってきたやん。足臭くなったら嫌やから」と理由をつけた。やがて美香と礼紗のふたりも登校し、「おはよう」と声をかけてきた。彩音も普段どおり挨拶をしたが、みぃなが美香だと確信した今、接する心境は以前とずいぶん違う。悲劇のお姫様ごっこのブログが、目の前にいるショートカットの秀才お嬢様と、重なる。
「どうしたの、彩音。靴脱いで」
 礼紗が椅子の下の上靴を指さして言った。彩音は今までと同じこたえをかえす。
「ああ、もうすぐ梅雨だもんね。湿気多いと、メイク崩れるし髪崩れるし」美香が顔のサイドに止めた、キラキラ光るちいさなコンコルドを差しなおしながら言った。やっぱり美香、化粧しとんねんや。彩音はぼんやりと思った。
 そういえば、と声をあげたのは美香だった。
「中間の結果出てるけど、ふたりは見た?」
「え、見てへん。もう出とんの?」
「教務室の前。まだだったら、見てきたら? 私たちはもう確認したから」
「わーごめん、ちょっと行ってくるわ。中間、数学やばかったし」
 机の上に置きっぱなしだったケータイをひっつかみ、由乃と連れだって教室を出て行こうとした。そのとき、礼紗が背後からふたりを呼びとめた。
「彩音、ケータイ持っていかないほうがいいよ。先生もいたし。なおして行きなよ」
「あ、うん」
 誰もがこっそり持っているとはいえ、ケータイの持ち込みは校則で体面上禁止されている。彩音は踵をかえそうとして立ち止まり、そして「うん?」と首をかしげた。「どうしたの」礼紗が同じ方向に首をかしげる。
「……いや、大丈夫やったわ」
 机の横にかけた鞄にケータイを放りこむと、彩音は教室を出ていった。
 教務室前には高等部の席次表が貼りだされ、人が集まっていた。総合順位で、彩音は二位、由乃は八位だった。入試をトップで勝ちぬけた彩音の堂々たる成績に、由乃が「さすが」とつぶやく。彩音は素直に「いやー、最初から滑ったらアホやからめっちゃ勉強したもん、今回」と笑う。その彩音を出し抜いた総合一位には、風宮がいた。
「なんじゃ、イケメンで爽やかで風早くんで学年トップってどういう了見や」
「神々が三物も四物も与えたってことなんだよ、暇を持て余して。あと風早ちがう」
 最も驚いたのが、総合二十一位に夏樹がいることだった。彼女は中等部時代、まったく平凡の、中の下だったと本人が漏らしていた。人間、努力すると周囲の人間が一番驚かされんねんな、と彩音は感心する。
 彩音は席次表から友人の名前を探した。すると美香は三位、礼紗が五位だった。友達全員が学年上位というのは些か不思議だが、類友か、と納得する。中等部のときから上位常連だったらしい美香だが、その名前を見て、みぃなが彼女だという事実を思い出して改めてショックを受ける。
 普段のグループ内で話す彩音の心中は、今まで以上に乱れた。表では笑ってかえす。だが内心、美香と礼紗の一挙一動を邪推している。芸能人や、好きなアーティストの話の合間に、つい考えてしまう。
 ――なぜ、美香はブログを閉鎖しないのか?
 テスト期間中もそのことばかりが気になっていた。さすがに良心が痛むので、ツッコミを入れる程度にしか荒らさなくなった。大型掲示板のみぃなスレッドでは、なおも大勢の住人が彼女を茶化している。みぃなやりぃを擁護するファンに似せたコメントをわざと書き、反応を楽しむ遊びが流行っていた。
 炎上は一ヶ月近く続いているというのに、ネタの本体のブログはなおも更新されつづけるため、荒らしたちは飽きない。だが美香は今も教科書を胸の前で抱えて、笑顔でおしゃべりに興じている。渡り廊下でのんびりと「もうすぐ夏だね」と空を仰ぐ。その姿を呆然と見て、なんでやねん、とちいさくつぶやいた。これが俗に言う一人相撲か。そう言えば昨日も、ROM専だったという『歩美』という新規の信者らしき女の子を獲得して、美香は調子に乗って長々と返信をしていた。絶好調の美香が、今はひどく煩わしい。

 移動教室から帰り、机の中に教科書をしまおうとすると、中からふたつに折られたルーズリーフが二枚、滑り落ちてきた。
『二位ぐらいで調子に乗んな』『風宮とお前は釣り合ってない』
 思わず「おおっ」と声をあげそうになって、しかし死ぬ気でこらえた。定番だ。少女漫画の世界だ。高校生になってまで。逆に感動した。黒のマジックペンで、筆跡が分からないように殴り書きされている。しかし、彩音はそのルーズリーフを丸めてごみ箱に捨てた。そのときは気にせずにいられたのだ。
 だが彩音の予想に反し、このような手紙の投函がかなり長いあいだ、つづいた。
『風宮は友達としか思ってない』『学校来るな』『性格ブス』『キモイ』『早く死ね』『ビッチ』『生ゴミ』『風宮に近づくな』『お前が死ねば平和になる』『天才アピールうざい』『なんで生きてんの?』『おのぼりさん』『友達のふりしても無駄』『殺される前に自殺しろ』『友達なくす』『みんな嫌ってる』『精神病』『いつ死ぬの?』
 下駄箱、机、ロッカー、あらゆる場所に手紙がしのばせてあった。幼稚な内容でも、毎日続けられるとさすがに疲弊する。紙いっぱいに筆ペンで『死』と埋め尽くされているのを見たときは、ご苦労なこってす、と馬鹿にしたが心には重くのしかかった。時にはAV女優の写真と彩音の顔の合成写真や、なくしたと思ったボールペンが折れた状態で下駄箱に入れられていたこともあり、さしもの楽天家日本代表も傷ついた。
 そこまで風宮ファンに恨まれとんのかなあ、と落ち込むことが日に日に増えた。怒りよりもショックが大きい。溜めこんだ手紙を見ると、じわりと涙がにじんだ。
 二週間がたったころ、とうとう彩音は由乃を自宅に呼んで、執拗に続くその嫌がらせの手紙をすべて見せた。由乃は冷静に事態を整理しながらも、「差出人が分からないから対処の仕様がない」と、悔しそうに言った。紙の種類も筆跡もばらばらなので、単独犯なのか複数なのかも分からない。ぎりぎり判断できることは、テスト期間を避けたあたり不真面目な生徒ではなく、この二週間のあいだは無欠席の生徒だということ。
「心当たりなんて、彩音自身にはありすぎると思うけど。手紙にしつこく風宮風宮ってあるし、よっぽど嫉妬されてるんだね」
「醜悪すぎるわ。自覚ないところがまた」
 そしてそれは、いつか出会う未来の自分とよく似ているだろう。
 なおも繰りかえされる嫌がらせの手紙の数々。『自殺しろ』『学校来るな』『風宮と口きくな』とその派生形が延々とつづく。スタイルにさほど変化がなかっただけに、じわじわとかすり傷が積もってゆく。出血のない、だが細胞だけが確実に壊れていく傷。
 ――美香からの、荒らしの仕返し?
 一瞬はそう思ったが、ブログの荒らしが自分だとは気づかれていないことを思い出し、首を軽く振った。
 梅雨も本格的に猛威をふるいはじめた六月十五日、放課後。日はまだ沈んでいないはずだが空は既に暗い吸い殻色に染まり、夕立を予期させる。冷たい廊下に電気がつき、置き傘の有無が放課後の会話の定番になる。彩音は下駄箱の中からいつものように『みんな迷惑してるんだけど』と書かれた手紙を見つけた。反射的に手で丸めようとして、やめた。手紙はすべて証拠としてとっておくことにしている。二週間以上、毎日続けられると、さすがに精神がもたなくなってきた。頭痛がサイレンのように、やまない。もう風宮と友達やめたほうがええんかな、と考えてしまうほどだ。食事の量は減り、寝つきも悪い。他人からの悪意や嫉妬をはねつけられる図太さはあると思っていたが、長期戦での耐久性はなかったようだ。由乃にはもちろん、さらなる頭痛を呼ぶ美香と礼紗にも心配された。「大丈夫?」「顔色悪いよ」と言われるたびに、ちくしょうみぃなのくせに、とは思ったが、へらっと笑って「テスト前やからなー」と応えられるほどには病んでいなかった。その直後にも、ロッカーから落書きをされた自分の顔写真が転がり落ちてくる。吐きそうになる。
 ――あかんわ、引っ越しても同じやった。
 プリンの上に立っている気がする。疲弊してゆく日々の中で、なぜか中学時代を思い出す。歯に衣着せぬ言いかたが嫌われるのは関西圏でも変わらない。ローティーン独特の鋭い感受性は、容易に凶悪な敵意に転じる。ムカつく、と言われるたびに彩音の心に重い中華包丁が突き刺さった。言いかえせたのは最初だけだ。自分が思う以上に脆かった。摩耗してゆく神経をごまかすように彩音は勉強に没頭し、あえて首都圏の高校を受験した。
 言葉の武装。今でもたまに毒舌家と言われるが、高校生にもなると「彩音の指摘って説得力あるから好き」と言ってくれる人も大勢現れた。友達に囲まれて、昔の自分を葬り去ろうとした。それでも無駄だった。
 自分は、余所見を覚えただけの囚人だ。
 彩音は手にした『みんな迷惑してる』の手紙を、四つに畳んで鞄に入れようとした、ところで、やはりぐしゃりと音を立ててにぎり潰した。力が入りすぎて手が痙攣する。
「ぅらがぁあああ!!」
 でたらめな叫び声をあげて、丸めた紙を勢いよく下駄箱に投げつけた。その力に反し、かさりとちいさな音を立てて落ちるゴミ。喉が熱い。焼ける。焦げつく。唾液が沸騰する。彩音はゆっくりと息を吸い、素早く吐いた。いつまでもイージーゴーイング運転ではいられない。そろそろ本腰を入れて犯人をつきとめよう。でないと、先にやられる。
 風宮は友達やって何回も言っとるやろ。勉強はせえへんほうが悪い。ブスかどうかは自分の鏡を見てから対比で考えなさい。はい、やりなおーし。
 イライラムカムカが止まらない。頭がどうにかなりそうだ。足音高く階段をあがりながら、メールを打って由乃を呼びだした。教室に残って、彼女と対策会議をひらこうと思ったのだ。このままじゃどうにもならない。
 廊下に出ると、教室の前で姫野夏樹が立っていた。何やらケータイをいじっている。
「やっほ、久しぶり。どないしたん、もう夕方やのに」
 声をかけると、夏樹は彩音に気がついて、ふわりと笑った。
「村井さん。勉強会以来だね」
「その呼びかたはやめいって、こないだ勉強会で言うたやんか」
 夏樹は「あっ」と声をあげて、照れくさそうに「彩音ちゃん」と言いなおした。うう、かわいい。こんな子、家に一個置いときたいわ。彩音は夏樹の大きな目を見つめた。
 テストの前、三号館のトイレで美香のブログを潰すと決めた日の放課後。下校中の彩音と由乃は、風宮と夏樹に呼び止められた。高校最初のテストで転びたくないという夏樹のために、成績優秀な彩音と勉強会をしたいと持ちかけられた。その場で即決し、四人はファストフード店に入り浸って、彩音と夏樹を中心に全教科を総浚いした。公立中学の凡庸な生徒が一級高校へトップで入学したという経歴を裏切ることなく、彩音の教え方は的確かつ丁寧だった。結果、夏樹は総合二十一位という立派な成績をかっさらった。
 彩音の話を聞きながら、一生懸命ノートをとっていた夏樹。「なるほど、さすが村井さんだね」と言われて、彩音はあわてて「下の名前でええよ、知っとるやろ?」と言った。そのときの、心から嬉しそうに笑った夏樹を、三週間以上経った今も忘れていない。
「彩音ちゃんこそ、どうかしたの?」
「いや、ちょっと教室でやることあるねん」彩音はまだちらほらと生徒が残っている廊下を見わたした。誰もが雑談に夢中だ。教室はほぼ全て戸締りを終えている。わざわざ鍵を取りに行ってまでふたたび教室に入ろうとするのは、忘れ物をした生徒だけだろう。
「勉強会というか、なんていうか。今なら邪魔入らんやろうし」
「えっ、放課後も学校で勉強するんだ。凄いな。まあ、学年二位だもんね」
「二位やで? 一位、幼なじみくんやん、なっ……」
 なっちゃんの、と言いそうになって言葉に詰まった。勉強会のとき、結局最後まで彼女の名前をまともに呼べなかった。ただすれ違って少し話すだけの、毎日会うような深い関係ではないので、どうにも迷ってしまったのだ。それに、本格的な友達になりたいと思っていた夏樹と向かいあわせで座り、緊張していたせいもある。
 唐突に言葉を詰まらせた彩音の顔を、夏樹がおずおずと覗きこむ。
「どうしたの?」
「いや」彩音は手を振って取り繕う。「姫野さん、でええんかな? 今までどおり」
「なんだ、それならなっちゃんでいいよ。友達みんなそう呼ぶし」
「ええの!?」
 声をはりあげると、夏樹は笑顔で「もちろん。友達だから」とうなずいた。ああ、そうか、うちが下の名前で呼べって言ったあのときから、もう友達だったんだ。姫野さんでも夏樹ちゃんでもなく、なっちゃんと呼べる他のみんなが羨ましかった。それがこんなに唐突に叶って、彩音はここしばらく沈んでいた気分も、一週間分は吹きとんだ気がした。
「彩音ちゃん、本当にありがとう。おかげで中間、全体的に二十点はあがった」
「二十点! それはすごすぎる。八十点やったんが満点になるやん」
「さすがに満点はなかったけど、大の苦手だった国語で七十点台をとったのはすごく嬉しいよ。彩音ちゃんの教えかた、先生より丁寧だし、コピーさせてもらったノートも大活躍だったよ。期末が近づいたら、また教えてくれる?」
「もちろん!」世界最大級のふたつ返事だ。「なっちゃんに求められたら、例え火の中水の中あの子のスカートの中! ノートなんか何億回でもコピーするし!」
 夏樹は楽しそうに笑っていた。低めの背が小動物を思わせる。細い髪が夕日にきらりと輝いた。白い肌に赤みがさす。くそかわいい、ガチかわいい、と思って彩音は目を細めた。抱きしめて頭を撫でてやりたい。
「でも、なっちゃん。風宮が一位とってたし、お隣さんやねんから、あいつに教えてもらったらええやん。なんでまたうちを選んだん」
「いや、修一は今さらというか、気心知れてるぶん、勉強を教えてもらうなんて恥ずかしいし。とにかくただ単に、彩音ちゃんに教えてもらいたかっただけだよ」
 ご指名キタコレ! 彩音は心の中でガッツポーズをした。顔文字の「キター!」が脳内を乱舞する。今にもくるっとまわって小躍りしてしまいそうだった。人から求められるとただでさえ嬉しいのに、その相手がかわいい夏樹とくれば文句はなかった。
 アドレスを交換していると、背後から名前を呼ばれた。手に鞄とノートパソコンを抱えているのは、由乃だった。
「中入る?」
 淡々と必要最低限のことしか言わない由乃に、彩音は「うん」とこたえた。
「ほんならね、なっちゃん。また期末前にでも連絡するわ」
 夏樹は笑って、「待ってるね」と言った。最後までかわいらしい笑顔を振りまく。
 由乃は教務室から取ってきた鍵で教室のドアをあけた。自分の席でパソコンをひらき、彩音に画面を見せる。表示されていたのはみぃなのブログだった。派手な花柄の、キラキラしたヘッダーを見ることにすっかり慣れてしまった自分に、少しとまどう。
 いや、今は、誰かにとまどわされているような気がしてならない。

 言葉は魔力を持つ。現代社会に生きる若者は、かつて誰もが影響されたはずの言葉たちを、薄汚い大人の綺麗事、あるいは時代遅れだと切って捨てた。その代わりに台頭したインターネットで、政治家や成功した起業家以上に影響力を持った人たちの言葉が無数に氾濫する。誰もがブログやツイッターに代表されるソーシャルネットワークを利用して、我こそ指導者とばかりに全世界へ二番煎じ三番煎じの金言まがいを発信できるようになった。根拠が不確かで、不安定で、経験や強い意志に裏付けされた教義でもない言葉を、揺るがない愛と平和と自己の幸せの手引きだと信じた。手軽な善行を大量生産して無料配布し、人を呼び寄せ、または傷つけた。
 幾兆とも言える言葉の海が、年端もいかない少女のブログを閉鎖に追いこんでいる。その事実に、美香は改めて恐怖を覚えた。どのくらいこうしていれば荒らしが去るのかと思いながら、じっと耐えた。それでも荒らしは無数に湧き、コメント欄に次々と放火する。この中のどれかが彩音と由乃なのかと思うと、恐怖心が臓腑を犯す。
「録音しとけばよかった」
 礼紗のぼやきに美香がたずねかえすと、「トイレでの彩音と由乃の話」と言った。
「仕方ないよ、突然だったんだし。別に私は疑ってないから、大丈夫」
「警察に提出する証拠になったのに」
「大丈夫、警察沙汰にはしないよ」美香は階段に座り、鞄の上でルーズリーフにペンを走らせながら言った。「放っておけばいつか収まるだろうし」
 いつか、がいつになるかはっきりしていないことが、今最も大きな懸案事項だ。
 美香はルーズリーフに『自殺できないならあたしが殺す』と、ペンで適当に殴り書きすると、階段から立ちあがった。スカートをはたき、ルーズリーフを慣れた手つきで四つに折りたたむ。それを彩音の下駄箱に放りこむと、ため息をついた。
 もう二週間になる。何かしら効果があるといいんだけど、と思ったが、今のところブログの荒らしがトーンダウンする気配はない。全員は無理でも、せめて彩音と由乃のふたりだけでも自分の居心地の良い空間から追い出せないものか、と思った。
 美香はブログを閉鎖しないと決めたあの日から、ルーズリーフやメモ帳に思いつくまま罵詈雑言を並べ、毎日、あちこちに何度も忍ばせた。根気のいる作業だったが、日ごと、わずかずつ疲弊してゆく彩音を見ていると、地味に効果は出ていると分かった。このとき同時に由乃を狙わなかったのは、あくまで風宮ファンからの攻撃だと思わせるためだ。下駄箱や机の中をはじめ、ロッカー、鞄、ペンケースにまで手紙を入れる日々。空元気を振りまわす彩音を見ていると、罪悪感がつつかれなかったわけではない。が、自分が彼女からされたことを鑑みれば当然だとも思った。
 連日、何十何百と荒らしコメントに追われ、ネットで誹謗中傷される人間の痛みを、彩音にも味わって欲しい。動機はそれだけだ。手紙以外の手段にほとんど訴えかけなかった理由も同様である。物理的被害はないが実生活に執拗に割りこみ、精神をむしばまれていく感覚を知って欲しかった。自分のしている行為の卑劣さを自覚して欲しかった。
 彩音と由乃があの荒らしコメントのどれかを書いたという証拠は、礼紗が聞いた会話という二次情報しか持ちあわせていない。なのにここまで彩音を執拗に責めるのは、無遠慮で、うるさくて、デリカシーがなく、言いたいことははっきり言う彩音の笑顔が、そんなに面白くない、と普段思っているからだろうか。
 いつもいつもいつもいつも私が我慢させられてるんだから、これぐらいしてもプラマイゼロじゃない。やられっぱなしで泣き寝入りしてても私の心が壊れるだけ。多少の反撃ぐらいさせてよ。それで許してあげるから。
 何度目かの手紙をしかけたことでまたひとつ、砂の山を指先で崩すように、積もっていた不満が減った、気がする。ペンはネットより強し。美香は「よし」と声をあげた。
「今日はこれで終わり?」
「うん、さすがにもう放課後だしね」
 礼紗は安心したように笑って、「じゃあ帰ろうか」と言った。
 中傷の手紙を提案したのは礼紗だった。彼女もブログの荒らしについて、怒りをあらわにしている。その末の決断が、美香を奮い立たせたことは間違いない。
 最近、ブログによくコメントをくれる新規の常連『歩美』が、心配してブログの閉鎖か移転を何度か勧めてきた。『ただでさえ辛い過去を背負ってるのに、さらにブログを荒らされるなんて見ていられません。寂しいですが、閉鎖してしまったほうがみぃなさんも楽になれると思うんですが……これ以上苦しんで欲しくないんです』そんなコメントを何度か書いてくれた。彼女は『荒らしに負けないで』と言う常連とは違い、何度も『逃げて』と訴える。その優しさには感謝しているが、ブログを消すことだけはどうしてもできない。強い人間は最後まで戦う。逃げることは負けなのだ――美香はそう信じていた。
 美香はルーズリーフとペンを鞄に仕舞おうとして、ふと気がついた。
「あれ?」右手で鞄の中をひっかきまわす。
「どしたの。忘れもの?」
「ペットボトル、教室に置いてきたかも」
 いつもの、花柄のペットボトルホルダーが見当たらない。家でボトルごと凍らせてから持ってくる生徒は、美香を含めてかなり多く、その誰もが机の上や床に置いて自然解凍させながら飲む。そしてそのまま忘れて帰ってしまうことは珍しくない。
 雨が降りそうな空を窓から見あげてため息をつく。美香は礼紗と共に教務室へ向かった。が、鍵掛けに三組の教室の鍵がなかった。誰かが同じように忘れ物をしたのかと思い、そのまま教室へ向かった。
 廊下にはまだ何人か生徒がいる。ほとんどの教室はからっぽだ。三組のドアの窓から中を覗きこむと、女子生徒がふたり、同じ机に向かっていた。ひとりは真横を向き、ひとりは背を向けている。ふたりが見ているのはノートパソコンで、その画面には――よく見慣れたブログの、花柄のヘッダーが。
 全身の血がヒヤリと凍った。声をあげそうになる。礼紗も気づいたようで、慌ててこちらに目配せをする。まぎれもない、みぃなというハンドルネームで書いている、風宮との恋愛妄想ブログ。心臓がうるさく鳴る。脈が耳の中でも跳ねる。美香は目を細めて画面を凝視した。ふたりがブラウザのタブを変えるたび、見知ったサイトが写る。大型掲示板、りぃのブログ……美香はそのとき初めて、パソコンに向かっているふたりを見た。
 横顔は他の誰でもない、由乃だ。彼女がマウスの主導権を握っている。うしろ姿しか見えない女子生徒は、三つ編みをカチューシャのように編み込んでいる。手が込んだヘアスタイルは、間違いなく、彩音だ。
 あらゆる疑問のこたえが、はじめから決められていたように、一ヶ所に収束する。
 美香はドアを勢いよくひらいた。その音に驚いて肩を震わせた彩音と由乃が、弾かれたようにこちらを振り向いた。美香は教室内に大股で入り、ふたりが見ていたパソコンの前に立った。みぃなのブログ。他のタブにも、りぃのブログと、あの大型掲示板が。
 少し離れた自分の机の上で、ペットボトルが何も言わずに座っていた。
 美香はゆっくり、ゆっくりと確かめるように、鼻から息を吸った。
 一歩間違えたら、呼吸することを忘れてしまいそうだった。

   * * *

 いつの間にか、雨が降り始めていた。
 目に見えないほど細かい霧雨が、滴ることのないちいさな水滴を窓にいくつも作る。深く濁った吸い殻色の空が、梅雨の日本らしい、毎年見飽きた風景を演出する。それでも足らずとばかりに、室内にまで雨雲を作ってしまいそうな色。水滴が増える。増える。窓を叩く雨水の勢いは、一秒ごとに着実に増してゆく。じわりじわりと、叱責するように。
 彩音と美香は、互いに呆然と見つめあっていた。
 ポカンと口をあけたまま、椅子に座って上体を捻った体勢で美香を見あげる彩音。パソコンの画面から彩音に視線をスライドさせ、唇を震わせる美香。礼紗は美香の背後で言葉を失う。由乃はもう手遅れだと気づいたのか、パソコンを閉じることさえしなかった。
 突然目の前に現れた『みぃな』本人を前に、彩音はしらを切りとおそうとした。
「どないしたん。忘れもん?」
 彩音は美香と彼女の机とを交互に見た。美香は少し置いて「うん」とこたえた。
「あのペットボトルやんな。はよ持って帰らんと、ホルダーまで水びたしになんで」
「ねえ、ふたりは何を見てたの?」
 美香の震えた声に、由乃がこたえる。
「今ネットでちょっと話題のブログだよ。炎上してるみたいだから、眺めてただけ」
「へえ、書きこんだりしてたんだ」
 腹に針を刺すような声で、美香が言った。
 彩音が慌てた声でかえす。「ちょっとだけやで、でも、そこまでディープにハマっとるわけちゃうし。それよかさ、ペットボトルが」
「やっぱりふたりがコメントしてたんだ」
 礼紗が慌てて「美香!」と声を荒げた。美香は唇をきつく結んだ。震える吐息。次第に紅潮する頬。
「あのブログを荒らしてたのは、やっぱり彩音と由乃だったんだ」
 世界から一瞬、音が消えた。戻ってきたときには、雨音がはっきりと聞こえた。霧雨は本格的な雨へと変わり、雲は低く身を落としている。町に、重く暗い雲の影がかかる。
 彩音は数秒、微動だにしなかった。震える唇。止まる呼吸。
「気づいとったんや」
 同じように硬直していた由乃が、諦めたように目を伏せる。
「美香、私たちがあのブログにコメントしてること、知ってたんだ」
「少し前からだよ」美香のまつ毛が、細かく震える。「礼紗が偶然、話を聞いてて」
「やっぱ、学校で美香のブログのことは話題にせんほうがよかったんかも。気づかれてへんと思っとった」
 今度は美香が驚く番だ。内臓をぐちゃぐちゃに掻きまわされるような、嘔吐感。
「そっちこそ」
「何がやねん」彩音の声は、あからさまに苛立ちを含んでいた。
「ブログの管理人が私って気づいてたんだ」
「気づいてたってか、推測だけど」由乃が珍しく、ばつが悪そうに言う。「誰かがブログにリンクを貼った、みぃなが書いたっていう実話のケータイ小説。最終話、みぃなが高等部の入試にトップで入ったシーン、同率一位の生徒がいたって書いてあるのを見て」
「なんでそこから、私が書いたって勝手に決めつけるの。同率一位のことはあれだけ話題になったんだから、誰かがそれをアイディアにしたのかも知れないじゃん」
「うちも最初はそう思っててんで」彩音が割りこんだ。「けどな、あのケータイ小説の作者、ブログの管理人と同じ名前やろ。悲劇のお姫様ぶった自慢が多かったし、読んでたらそこがちょくちょくかぶる。しっくり来るねん。価値観や人の判断基準も、よお似てる。美香が話してくれた初等部の話とかぶるエピソードも、いくつかあったしな」
「そんなの、私だっていう証拠にならないじゃない」
「でも今、管理人は私って自分で言うたやん。今全部つながったわ。ブログもケータイ小説も、美香が書いたんやね」
 雨の水滴がいくつか集まって重みを持ち、教室の窓をするんと滑ってゆく。なおも降り注ぐ雨。美香は膝の力が抜けそうになって、しかし死ぬ気で耐えた。
 ため息をつき、彩音がたずねかえした。
「美香こそ、なんでうちらが荒らしやって」
「あたしが聞いたんだよ」低い声でこたえたのは礼紗だ。「あんたら、先月の半ばぐらいにさ、三号館のトイレで、でっかい声で美香のブログの悪口言ってたじゃんか」
 彩音と由乃が同時に「あの時かー!」と叫んで天井をあおいだ。
「ほとんど人おらん棟やし、大丈夫やと思っててん」
「大声で爆笑しといて、よく言うよ」
「あんなもん、ブログ知っとる人間でなかったら、なんの話か分からんって」
「事情はもういいよ。彩音たちは私のブログを荒らして、私はその被害者。それが分かったんだから」
 美香が話を終わらせようとしてそう言うと、彩音の眉がぴくりと動いた。
「何が被害者じゃ。りぃまで呼んで猛反撃しとったくせに」
 ちいさな声で呟く。美香がそれを聴き逃すはずはなかった。
 雨音が、不規則になってゆく。
「だって被害者じゃない。私、毎日ブログに暴言コメントされて、どれだけ傷ついたか」
「んなもん、ブログ消すかコメント消すか、コメント欄ごと消すか、どれかしたらええやん。荒らしに反発するからおもろがるねんで、あの掲示板の住人は」
「あの掲示板? やっぱり彩音も、あそこで書きこみするような人だったんだね」
「そんなん今関係ないやろ。なんでブログ消さへんかったん? 単純に、削除したら荒らしなんか深く追求してこおへんし。あいつら、アホの子つついておもろがってるだけやで。やのに挑発して馬鹿にして、警察呼ぶとか言うて、反感買って火の手広げたんに、被害者アピールされても説得力ゼロやわ」
「あんたみたいに、ネットで暴れるような人とは違うの!」美香はとうとう怒鳴った。「ファンはみんな大切な読者なんだから! いつもコメントしてくれる優しい人たちを切れるはずないじゃない。荒らしを追いだして、平穏なブログを取り戻したかったんだから!」
 ヒステリックに叫ぶ美香を、彩音は鼻で笑った。初めて彼女の前で見せる、あからさまな軽蔑の表情だった。
「風宮との妄想ラブラブ恋愛ブログ、やろ?」
 美香の顔がかっと赤くなる。彩音は口の端をあげて、美香の弱点見たりと笑う。
「いや、あのな。実はブログ見つけたきっかけもそれやねん。たまたま友達の名前で検索して遊んどったら、風早秀一って書いてたみぃなのブログが候補にあがってん。んで、うちが風宮と映画行った日のこと、あたかもみぃなが行ったみたいに書いとって、しかも映画のタイトルおんなしで。ああこれは廊下での風宮との立ち話を聞いたか、映画館で見かけた誰かやろなって検討つけとってん」
「つまり」
 微動だにせず仁王立ちする美香は、震える声で言った。「彩音は、ブログの管理人が私って分かってて荒らしたんだね」
「ちゃうわ、そこは微妙にずれとる!」
 彩音は椅子が倒れるほど勢いよく立ちあがった。由乃が「彩音」と強い声で言うが、激高した彩音の耳には届かない。
「うちのこと嫌ってる風宮ファンやろなって思っただけで、特定までしてへんかったわ! そら、最初はアホなやっちゃなっておもろがっとったけど、美香やって分かってからはさすがにそこまでせんくなったわ!」
「だからって、人のブログにあんな暴言を書いていいと思ってるの? 彩音が私を保健室に連れてってくれたときも、ブログを荒らされて傷ついたから気分悪くしたんだから。彩音のせいだよ! 理由がどうあれ結果は同じ!」
 実際は仮病だったのだが、美香は都合よく利用した。彩音は自己弁護にまわる。
「そんなん、あっさり繋がるわけないやん! ネットなんかクソ広いんやから、たまたま自分が荒らしてるブログがクラスメイトのやつやなんて誰がポッと連想すんねん! うちはエスパーちゃうわ、アホか」
 話が平行線をたどりはじめた。このまま延々と教室で怒声を交わしても、何も生みださない。両者がそう思いはじめた。
 そのとき、最初に状況を打破したのは、美香だった。
「――もういい。彩音が私をいじめたって、みんなに言いふらすから」
 そう告げたとたん、彩音が顔をこわばらせた。そして「はああ!?」と大声をあげる。隣にいた由乃が耳をふさぎ、礼紗が顔をゆがめて「うっさい黙れ!」と叫んだ。
「黙らんわ! なんでこんなんでいじめになるんよ、意味分からんし!」
 彩音は美香を指さしてなおも怒鳴る。美香も気が立ってきた。
「当たり前じゃない、ネットいじめってよく言われてるよ。誹謗中傷で傷ついて、自殺した人だっているんだから。毎日毎日毎日毎日毎日、ブログをひらくたびに目に入る罵倒のコメント、揚げ足取り、根も葉もない私の悪口。いじめ自殺する人の気持ちが痛いほど分かったよ。もし私が自殺してたら、彩音、あんた捕まってたんだよ? 分かってんの? それだけのことしたって自覚してよ!」
「捕まらんわ! 自殺してへんやん自分。そういう寝言は自殺する前に遺言書で言えや」
「あいかわらず、物騒で毒のある言葉ばっかり使うよね。彩音がネットの荒らしだっていうのも納得できるよ。荒らしには分からないよね、私の受けた傷なんて。人の気持ち考えられないの? 私がどれだけ深く深く傷ついたか!」
「あの程度の荒らしでいちいちいじめ扱いしとったら問題すぎるわ。ネット慣れてへんやろ、自分。スルーできんくて、いちいち煽りや釣りに過剰反応してキーキー喚くお子様に、ブログ運営なんか無理やねんて。トップブロガーのくせに、覚悟なさすぎやわ」
「だから問題なんだよ。今じゃ小学生だってネットを使う時代なんだから、先の利用者が気を使うべきじゃない。どうして被害に遭うほうが覚悟してあげなきゃいけないの。遊び半分の暴虐が許されるネット社会がいかに卑劣か思い知ったよ。ネットなんてろくな人がいない! 匿名で、すぐ逃げられるから、犯罪者予備軍が横行するのね」
「その予備軍隊員につつかれんの嫌やったら、はじめから挑発せんかったらええやん!」
「その挑発に簡単に乗った自分の浅はかさを人のせいにしないでくれる? 歯止めかけられなかった自分が悪いんじゃない」
「いやいやいやいや、ブログ消したら済む単純な話にガソリン注いだんは誰やねん。憲法違反とかわけ分からんこと言って煽って、その上りぃとかいう『親友』に汚れ仕事さして。深く傷ついてなんかないやん」
 彩音はちらりと礼紗を見た。彼女は彩音をにらみつけただけだった。
「同じクラスの子、とか書いとったやんな。今すぐりぃちゃんに助け求めたら? 口汚くて罵り上手の、荒らしと大して変わらん思考レベルの親友にさあ」
「彩音、いい加減にして!」
 美香はガラスを叩き割るような声で叫んだ。さすがの彩音も一瞬、ひるむ。
「嫌だとかつらいとか苦しいとか、そう感じたらいじめだって、よく言われるじゃん。ネットで一方的に叩かれて、普通に笑うことだってできなくなった私のことを、誰が責めるっていうの? ブログが私のだと知らなかったなんて、言いわけにならない。私が先に傷ついたことには変わらないんだから!」
「それこそ言いわけにならんわ!」
 遠くから雷の音が、聴こえる。
「美香もあのブログ、匿名で運営して実名使わんのに『友達のブログを荒らすなんて』って理由づけは卑怯やろ。美香が管理人かもって思ってからはほとんど荒らしてへんって言うたやん。気い使ったのに情状酌量の余地なしかい! 自分が自殺したいと思ったからいじめやとか、基準が無茶苦茶や」
「それでも荒らしたのは事実だし。ブログの管理人が友達かも知れないのに、その可能性を一切考えないまま荒らしたの? 人を意図的に傷つけるのは、それなりの覚悟と責任がいるんだからね。ネットで荒らしをするような子だったって分かって、彩音には幻滅したんだから。こんなくだらない遊びで私が先に苦しいって思ったんだから、いじめだよ!」
「何でもかんでも先先先先、小学生か」彩音はちいさく舌打ちした。「嫌なことされたらいじめやって? そんならうちがとっくの昔に言っとるわ!」
 いつの間にか、教室の外に人だかりができていた。しかし美香と彩音は引かなかった。由乃が「彩音、野次馬がいるから落ちついて」と言うも、彩音はつづけた。
「覚えとるかどうか知らんけど、美香にシャーペン貸したらなかなかかえって来おへんかったとき、はよかえせって言うたら自分、なんてこたえた? 『二本あるんだからいいじゃない』とかって」彩音は鼻で笑う。「そういう問題ちゃうやろ? あんとき、むっちゃムカついてんからな。それ以来、絶対こいつに物貸さんって決めとったんに、今度は人のメモ帳パクるようになって。そらみんなから避けられるわ。やのに美香、いじめられてるってぼやいてたやん。そんなもん、いじめちゃう。逆や。美香がみんなのメモ帳盗んでることのほうがよっぽどいじめやし。ただでさえ、美香の自慢っぽい口調にみんなイライラしとるんに。この場合、美香が『いじめられてる』って公言すること自体がいじめやって、分かる? 美香に虐げられた女子全員が被害者や! いじめの被害者に先も後もあるかボケ。そんな万人共通でもないペラッペラな定義で、ろくに考えんとすぐ安直なこたえをくっつけようとすんな、偽善者! ほんまウザイ!」
 ギャラリーの中から「そういえばあたしも盗られたことある」「あれって美香の仕業だったんだ」「だからみんな美香を避けてたんだね」という女子の声がちらほらと聞こえた。追いつめられたように見えたが、しかし美香はひるまなかった。
「そんなの、言ってくれればいいじゃない! 理由も言わないまま避けたりしたら、そりゃいじめられてるって思うよ。卑怯じゃない。自己中。傷ついた私が馬鹿みたい」
「何言うとんねん、みんな文句言うたわ。そしたら『こんなにたくさんあるのに』ってこたえたらしいやん。言われな分からん、言ったら逆ギレ。どんだけ人格崩壊じゃ」
「それで会話は終わりだったよ! だからみんな納得したのかと」
「するわけないやん! 呆れただけじゃ! こんなんしょっちゅうやらかされて、怒ってへんと思っとったん? 正直ブログが荒らされたんも、ざまあって思うわ。人の鼻につく言動ばっかしとるからああなんねんて。うちがやらんくても、美香とりぃの性格やったらいずれ荒らされとったで。みんなからどういうふうに思われとるか知っとる? 結構大勢が『傲慢』とか『自慢たらしい』って言っとんで! 荒らしの餌撒いた自覚持て!」
 にわかに戦況が危うくなってきた美香は、両の拳を強くにぎった。
「だからって」
 雨音を一瞬忘れさせる大声で、美香は怒鳴った。「だからっていじめていいわけないじゃない! それで許されようと思わないで!」
「だからそもそもいじめちゃうわ! 苦手な子からは距離おいて当然やろ! そんなん人間関係の基本や。なんでそれまでいじめとか言われなあかんの? 無理して付き合うん嫌やし、一緒にいて楽しい子と友達になりたいやん、誰でも」
「無視は立派ないじめだよ! これは世界の共通認識じゃない! 切り捨てが円滑な人間関係を保つための方法だなんて言う人、私こそ願い下げだよ!」
「何言うとんねん、その最終手段に踏みこむまで、みんな美香に気づかせようとしてくれとったんに。みんなが文句言うたってことは、美香に反省の余地をくれたってことやで? 見捨てられてへんってことやん。やのにそれをはねつけたんは、誰や?」
「じゃあ逆に訊くけどさあ!」
 美香はひときわかん高い声をはりあげた。「彩音、あんたこそ、私が読んでる途中の本とりあげたり、口に食べもの入ってるのに大口開けて笑ったり、人の神経逆撫でするようなことばっかり言ってさ。人が傷つくことなんでもかんでも口にして、節操がなくて。そういうの、みんな嫌がってたよ。私も含めて黙ってあげてるんだよ。分かる? 彩音はさっき、反省の余地をくれたって言ったけど、私たちは文句も言わなかった。諦めて期待してないってことだよ。恥ずかしくない? 私だってずっと我慢してきたんだから。正直なのはいいことだし、私も最初はそれが彩音の長所なんだって思ってたけど、もう耐えられない! アメリカにでも転校して欲しいよ」
「それこそ」彩音がすかさず反論する。「その場で言えばええやん! 確かにうち、口は軽いで。けど、どっかのお嬢様と違って、友達を嫌な気分にさせるって分かったら口閉じるわ。自分が言われて嫌なこと言わんし。文句も言わんまま、後になって『我慢してあげてた』とか、それはずるいやろ」
「いちいち人に言われないとそんなことも分からないの? 『自分が言われて嫌がることは相手に言わない』なんて子供みたい。相手が嫌がることを言わないのが大人よ」
「まだ十五歳や! れっきとした子供ですー何か文句ありますかー」
「ああ、うん、間違えた」
 美香はわざとらしく口元に手を当てる。「――子供じゃなくて、幼稚?」
 その一言が、彩音の逆鱗に触れた。湯気が出そうなほど顔を紅潮させ、食いしばった歯を剥いている。彼女を止めるようにあいだに割りこんだのは、由乃だった。
「美香、ストップ。さすがに凄い水掛け論になりつつある。一旦頭冷やして、このことに関しては週明け、また話そう。お互いに客観的判断なくしてるし、話が矛盾してるよ」
「何それ、冷静っぽいこと言ってうやむやにしようとしてんじゃねえの」
 反論したのは礼紗だ。美香の一歩前に立ち、背の低い由乃と対峙する。
「冷静っぽいんじゃない。感情的になったら、第三者が介入しないと止まらないよ」
「その論理的ぶった態度がムカつくってことに気づけって、美香も言ったじゃねえか。人の話聞けよ」礼紗は低い声で言う。「知的な自分アピールしてんのか知らねえけど、止めんなら彩音を先にしなよ。オタクのくせに、いっちょ前に反論しようとすんなし」
 礼紗の挑発に、由乃は乗らなかった。眼鏡の位置を直し、深呼吸をする。
「どっちが先とか関係ない。今必要なのは、この空気を止めることだよ。激昂した状態での議論は何も生まない。喧嘩両成敗。まずは落ちつくことが先じゃない」
「てか、お前こそ落ちつけよ」礼紗は苦笑した。「由乃だって、荒らしに加担してたんじゃねえか。それで居中調停とかって、明らかに彩音サイドだし。論破できなさそうだから、それっぽいこと言って逃げようとしてんの? 正面からぶつかって納得させようとする勇気もないんじゃん。負け犬?」
「別に礼紗に納得してもらう必要ない。頭の弱いネットユーザーも同じこと言うよ。『都合悪くなったから逃げるのか?』って、発展のない議論から去る人を挑発する人こそ負け犬だよ。相手にされずに空回りすることを怖がる、勝ち負けにこだわる人間の詭弁だね」
「まあ」礼紗が一瞬言葉に詰まった。「由乃のことはどうでもいんだよ、発端は彩音なんだから。こっちは彩音に被害者アピールされて迷惑かぶってんだから、ちゃんと謝ってもらわねえと、美香がかわいそうだし」
 それを聴いた彩音が、足で手近な机を蹴った。椅子ごと倒れ、激しい音を立てる。引き出しの中身が床にばらけた。一瞬、誰もがびくりと肩を震わせる。
「……さっすがあ、か弱いみぃなちゃんの親友は仲間思いやねえ!」
 語尾はほとんど絶叫だった。そのまま彩音は拳を振りあげ、身がまえた美香の悲鳴が教室内に響く。だが彩音の手は、さらに強い力で引き戻された。
「待って、待って待って待って、彩音ちゃんストップ!」
 彩音の右腕にしがみついているのは夏樹だった。今しがた別れたばかりで、もうとっくに帰ったものだと思っていた彩音は驚いた。
「殴るのは駄目だよ、これ以上つづけたら怪我人出ちゃう!」
「怪我せんようにするって。ちょっとほんまどいて、このままじゃ収まりがつかん」
「つかなくていいから! 暴力に訴えたら、今後どんな弁解も通用しなくなるよ!」
 そこで彩音は思いとどまった。夏樹にホールドされた手の力をゆっくりと抜く。両腕で顔を覆っていた美香もおそるおそる防御態勢を解いた。しばらく全員が無言だった。
「やっぱり」
 先に言葉を紡いだのは美香だ。残念そうに、ため息交じりで。
「ネット中毒者にろくな人間はいないね。本当によく分かった。オタクも関西人も、異常者ばかりなんだね。あんたと友達になったのは間違いだった。この毒舌家を前に黙っていられるはずがないのに。私も馬鹿だった。友達は選ばないと自分が痛手を負うんだね」
 そして美香は夏樹を睨みつけた。「夏樹。私はあんたをまだ許してないんだから。その低能な関西人に味方するなら、一生恨むぐらいじゃ済まない」
 それを聴いて、由乃と礼紗が顔をしかめた。夏樹はすでに泣き出しそうな顔をしている。だが彩音は、一度は驚いたように目を見ひらいたが、しかし落ちついていた。
「知らんでえ、そんなんホイホイ口にして」
 想像していた範疇の返答だったのか、美香は涼しい顔をしていた。
「そうやって十把一絡げに人間を評価しとったら、友達なくすで。うちも、美香がこんな偏見と自意識の塊やったなんて知らんかったわ。社会勉強やね。関西人は異常者? 好きなだけ言うとき、おもろいことになるから」
 彩音は勝ち誇ったように笑う。美香はその言葉に一瞬たじろぎ、彩音の腹を探るような目をした。そのとき、騒然としている野次馬をかきわけて、教室に誰かが乱入してきた。
「ふたりともやめろ、どっちも大概だ!」
 美香の肩をつかんだその生徒は、風宮だった。美香は驚いて、彼の手が置かれた肩と彼とを交互に見る。彩音と由乃もさすがに面食らったようで、目を見ひらいている。
「これまでの話をほとんど聴いてたけど、こんな理屈、延々とつづくぞ。どっちが先かなんて、論点ちげえよ。美香は彩音のメモ帳を盗んだことに、彩音は美香のブログを荒らしたことに、それぞれ謝ればいいじゃねえか。ちっせえプライドなんか捨てろよ」
 その言葉に異議を唱えたのは美香だった。
「待ってよ、風宮。私は彩音たちのメモ帳を盗っただけ。彩音はブログの荒らしだけじゃなくて、私たちにいつもいつも暴言吐いてる。回数が多いのは彩音だよ!」
「数なんか関係あるか」風宮は鋭い声で言い、美香の肩を揺さぶる。「自分がするよりもたくさん相手から嫌なことされたから、自分は悪くないって言うのか?」
「だって、百枚綴りとか、たくさんあるやつだよ? それに、一枚しか盗ってない」
「なら美香は、俺が美香の財布の中から、小銭を一枚盗っても怒らないのか?」
 美香は虚をつかれて口を閉ざした。礼紗が「風宮!」と叫ぶが、彼は無視した。
「彩音も彩音だ。前に俺、深く考えないで何でも口にするその性格、気をつけろよって言ったよな。その結果がこれだ。自分の意見を強く持つのはいいことだけど、それを表に出すのは場面を見極めてからだろ」
「別に意見を言うこと自体は悪くないやん! 人の顔色うかがってろくに進言できんやつとはちゃうんですー。本音言われてひるんだり怒ったりするのって甘えやろ。歯にコンクリート着せる日本人め」
「それが直そうともしない性格の免罪符か? 無遠慮と正直を履きちがえるな。孤独をあえて選びたいならそれでいいだろうけど、その結果に文句言うなら行動を改めろよ」
「そっちこそ、率直と不遜を間違えんな。都合の悪い批判はぜんぶ無遠慮呼ばわりするくせに。受けとめる側の意志が弱いから『もっと優しく言ってくれ』って言い草やろ」
「ストップストップストップ!」
 夏樹が叫んだ。その大声に誰もが黙る。
「修一まで油注がない! 今は落ちつくべきだって、由乃ちゃんも言ってたじゃん!」
 夏樹はそう言って、彩音の手首をつかんだ。そのまま教室を横ぎり、十戒のように道をあける野次馬のあいだを走りぬけていった。由乃もその後を追う。見物人のざわめきが大きくなった。対立する生徒の片方が退場したことで、空気が変わった。
 残された美香は呆然と立ち尽くす。彼女を一瞥した風宮が「外に出よう」と言った。
「言いたいことが山ほどあるんだ、美香」

 彩音は夏樹に手を引かれ、教室棟の階段を駆けおりていった。後ろから由乃も追いかけてくる。階段を一段おりるたびにふわりと舞う夏樹の栗毛の髪に、彩音は目を奪われていた。ああ、ほんまに綺麗やな、そら女子も羨ましがるわ。まだ頭も顔も火照っていて、怒りで動悸が止まらないのに、そんなことを考えていた。必死で、思考を今しがたの出来事からそらそうとしていた。そうしなければ、耐えられなかった。
 夕立はやみ、雲が立ちこめるばかりになっていた。夏樹はふたりを教室棟の裏へ連れていった。雑草が綺麗に刈られてはいるが、暗く湿っぽいそこには誰も近づかない。
 夏樹は彩音の手を離すなり、声をあげた。
「喧嘩しちゃ駄目だよ、彩音ちゃん! どうしたの、桜川さんや六条さんとはいつも一緒にいるから、仲がいいと思ってた」
「うちも」
 彩音は痛むわけでもないのに、夏樹につかまれていた手首をさする。「そう思っとった」
「じゃあ、どうしてこんなことに」
 泣きださないことが不思議なほど、夏樹の顔は苦痛でひしゃげていた。彩音はこの純粋で透きとおった瞳を前に、なんと言えばいいのか分からず、唇を噛んだ。
「なっちゃん、さっきの彩音と美香のやりとり、どこから聴いてた?」
 由乃が言うと、夏樹はしかめっつらのまま「ふたりの『あれかー!』っていう声で、慌てて教室の中をのぞいた」と言った。
「そこからはずっと、入りづらいから外で見てた。ごめん」
「いいよ、そんなの。じゃあ、一連の流れは分かってもらえたと思う。彩音がネット上で荒らしたブログがたまたま美香ので、お互いにそのことに気づいちゃったんだ。で、美香が文句言ってきて、あの事態」
「桜川さんは、彩音ちゃんのしたことはいじめだって、言ってたよね」
「そやねん、ほんまアホやろ? ネットでのことやで? 頭おかしいんちゃう」
 舌打ちする彩音に、夏樹がちいさく「本当は違うと思う」と言った。
「それはいじめじゃない。もっとひどいことをしてるのは、桜川さんだよ。こないだ、たまたま見たんだ。桜川さんが彩音ちゃんの下駄箱に、何か紙を入れてるところ」
 彩音は強く息を吸った。驚きのあまり声が出ない。かつて、一瞬は可能性として考え、しかしすぐに消去された選択肢。
 美香が、手紙を。
「それだけじゃない。体育館シューズを忘れて教室に戻ってきたとき、桜川さんだけが教室に残ってて、彩音ちゃんの鞄の中に紙か何かをたくさん入れてたんだ。ドアの窓から見えた。手紙の交換かなって思ってたんだけど、なんだかおかしいって思って」
 彩音は最後まで聞かず、ケータイの画像フォルダをひらいた。嫌がらせの手紙を並べた写真を、夏樹に見せる。当時の状況を説明すると、夏樹は悔しそうに顔をゆがめた。
「まさか、桜川さんが……」
「はっきり言うてええよ、なっちゃん。多分、美香やろな。あんまし考えたくないけど」
 由乃も同意した。一瞬でも美香だと思ってしまったのは、同じだったようだ。
 ブログ。荒らし。いじめ被害者。彩音の毒舌や不遜な態度。手紙を送りつづける動機はいくらでも思いつく。
「やっぱり、いじめじゃないよ」夏樹が言った。「彩音ちゃん、桜川さんがブログの管理人だって、知らなかったんだよね?」
「やからわざとちゃうねん。あの程度の荒らし、正直どこにでもあるしな。その覚悟ないくせに何が荒らす覚悟じゃ。その腹いせにこんな嫌がらせするとか、ほんま幼稚や」
「私の考えとしては」由乃がいちばん落ちついていた。「荒らし自体はある意味、ネットでのいじめだと思う。自殺者だっているし。だけど、彩音は管理人が友達だって分かって以来ROM専になってのに……」
「由乃」
 彩音がひきつれたような声でつぶやいた。「――美香はもう、友達ちゃうよ」
 数秒の静寂。彩音は眉をしかめた。由乃と夏樹は俯き、音を立てまいとするようにゆっくりと呼吸した。自分の発言を後悔はしないが、しかし重みを孕んだその言葉にたじろいだ。言葉は魔力を持つ。無数の嘲罵や忌み口が浮かぶが、「友達ちゃうよ」と口にすれば、それは当然、二度と削除できない。
 二週間つづいたあの手紙攻勢で、精神的にすっかりやられてしまった。風宮との友情と保身、そのふたつで板挟みになった。中学時代のことがフラッシュバックした。ベッドで丸太のように眠っても、数時間で目が覚める、そんな日々。ネットで同じことを言われてもまったく平気なのに、現実だと、重い。
 経緯がどうあれ、これを自分に対するいじめと言わずしてどう名をつけて呼ぶ?
「ごめんね、彩音ちゃん」
 突然しおらしく謝る夏樹に、彩音は驚いて「なんでまた」とたずねた。
「だって、変な行動をする桜川さんを見た時点で、彩音ちゃんに知らせてたら、こんなことにはならなかったのに。おかしいと思ったとき、すぐに彩音ちゃんか先生に言えばよかった。これじゃ、いじめを傍観してたも同然だよね。見てるだけなのは……」
「なっちゃん、そんなん言うたらあかん!」
 その大声に、夏樹は肩を震わせた。
「確かに、いじめを傍観してるだけのやつもいじめの加害者やって言うけど、あんなん世間が流布さした偽善や。通りすがりやのに、責任感じる必要なんかないで」
「でも先生は、いじめを見たらすぐに知らせろっていつも言うし」
「いじめに気づかん教師も加害者や。いちばん気づかなあかん人が『見たらチクれ』って他力本願やねんで。チクったら今度は自分がいじめられるんやから、怖いと思って当たり前やん。やのに教師は、うちらを第二のいじめから守ってくれへんのに『傍観者も加害者』とか言う。道徳の脅迫や。いじめ対策もせんくせに、次のターゲットになってでも勇気出してチクれとかふざけとる。そんな人らを信じたらあかん。なっちゃんは間違ってへんよ。さっき、美香を怖がらずにうちを止めに来てくれたやろ? むっちゃ嬉しかった。それだけでじゅうぶんやから」
 夏樹の両手をつかみ、まっすぐに彼女を見つめて言う彩音。裏表のない、彩音らしい口調。夏樹の長いまつ毛に囲われた瞼が細かく震え、そして閉じられた。やがて彼女は「彩音ちゃんと友達でよかった」とつぶやいた。
 そらこっちのセリフやで、と彩音は思った。こんなにいい子が最初から友達だったら、どんなによかったか。美香みたいな自慢たらしいお嬢様よりも。
「ほんまに、ありがとうな、なっちゃん」
 正直に言うと、夏樹は花のように笑った。「いいんだよ、友達がつらい思いをしてるのに、助けないなんてこと、できないよ」
「ううう、その言葉だけで泣けてくるわ、うち。ええ友達持ったわあ」
「本当は」夏樹が照れくさそうに言った。「彩音ちゃんとは、前から友達になりたかったんだ。美人で、元気いっぱいで、頭もいい彩音ちゃんに、ひそかに憧れてた」
「うちもうちも! 風宮といつも一緒におる子優しそうやなって思っとったし」
「よかった。話しかけたかったんだけど、桜川さんと一緒にいるから、なかなか……」
 そこまで言うと、夏樹ははっと息をのみ、口元を手で押さえた。彩音は小首をかしげ、「もしかして」とつぶやく。
「なっちゃん、美香のこと嫌いなん?」
 由乃のチョップが顔面に飛ぶ。彩音が悶絶しているあいだ、由乃が夏樹にたずねた。
「なっちゃん、末摘花の初等部からずっと、風宮と一緒なんだよね」
「あ、うん。家族ぐるみのつきあいだから、私も同じ小学校を受験したんだ」
「最近なんとなく気づいたことがあって、その確認だけさせてくれないかな。不躾だけど率直に。でも、嫌だったらこたえなくても全然大丈夫だから」
 由乃の真剣な声に、夏樹は一瞬ためらったが、やがてちいさく頷いた。
「――なっちゃんって、風宮に告白したことあるの?」
 彩音が勢いよく顔をあげた。そして「えー!」と大声をあげる。
 燃えあがるように、夏樹の顔が真っ赤に染まった。目には涙が浮かび、血走っていた。
「な、なんでそんなことをいきなり、わっ」
 彩音が右腕にしがみつくと、夏樹はかるくよろけた。
「そうなん!? 焦ったわ! え、てかなんで由乃、そんなこと知っとんの!」
「いや、知ったわけじゃなくて推測だから、間違ってたら否定して欲しいんだけど」
 由乃は彩音の大音量に戸惑っていたが、落ちついていた。「彩音、美香のケータイ小説の『青空に瞬く星』で、みぃなが六年生にあがったときにできた友達の名前、言ってみ」
 そう言われたもののすぐには思い出せなかったので、彩音はすぐさまケータイをひらいて調べた。目次からおおよその見当をつけ、該当ページに飛ぶ。
『新しいクラスで、たくさん友達ができた。ハル、ナツキ、セイラ、ユウタ、マミ。この五人はとてもいい人で、いつも……』
 およ、と彩音は思った。ナツキ。カタカナだったが、その名前は確かに確認できた。
「いや、ナツキなんてよくある名前だけど、もしかしてって。私たち外部生だから、真偽の確かめようがなくて。この『ナツキ』も一瞬しか出ないし。だから確認したかった」
「え、ちょちょちょちょっと待って、これが本当だとしたら」
 彩音はケータイをいじり、先のページへ飛ぶ。みぃなが女子にいじめられた原因は、秀一くんを好きになった友達を牽制したからだ。その友達の名前は……『マミとナツキ』。
 血の気が引き、そして怒りがふたたび彩音を支配した。
 これが本当だとしたら、夏樹が美香を嫌う理由はひとつだ。そして――その美香が夏樹の目の前で、風宮に恋しているなんて。
 そうだ、さっきも教室で、美香が夏樹に「まだ許していない」と言っていた。
 ――まさか、そんなことは。
「何それ。さすがにそんなん、ひくわ」
 付き合ってもいないのに彼女面して、同じ人を好きになった友達に「彼をとらないで」と怒鳴る美香。それで避けられたらいじめだと被害者ぶる。それだけでもじゅうぶん「逆にお前がいじめてる」と言えるのに。夏樹と同じ学校にいながら、それでもまだ風宮に恋する乙女ぶって、自分との恋愛妄想ブログを書いて……。
 彩音は夏樹に、みぃなのケータイ小説のことを説明した。荒らしていたブログの管理人が書いたケータイ小説のことを。美香が、この小説は自分が書いたのだと認めたことを。彩音の話を聞いた夏樹は青ざめた。小説を見たいと言われてケータイをさしだす。美香が小説の中に風宮を『風早秀一』として登場させたように、実在する人物は名前を変えて書かれているのだと思いたかった。『ナツキ』も別の人であって欲しい、と願った。しかし、震えながら小説を読み進めるようすを見て、希望がゆっくりとしぼんでいった。
『ナツキ』が出てくる短いくだりをすべて読んだらしい。夏樹は枯れた声で「ありがとう」と言い、ケータイを彩音にかえした。自分じゃない、という言葉を待っていたのに。
「……本当だよ。中等部で、確かに修一に告白して、それで『あんたなんか風宮に好きになってもらえない』って、美香に怒鳴られた」
 絶望と驚きと、認めたくない心と、それでは何も解決しないと叱咤する心とが、彩音の中で一斉に暴れだした。
 ぐちゃぐちゃだ。どこから手をつけたらいいのか分からない。天地がひっくりかえる。
「そうか、どうりで」由乃がつぶやいた。「なっちゃん、高等部では美香を避けてるみたいだし、さっきも美香に怨み言言われてたよね。今回も彩音に全面的に味方してるし……やっぱり『ナツキ』はなっちゃんだったんだ」
「甘いわ、美香。風早秀一でも思ったけど、ナツキだなんて、カタカナにしただけで本名と同じやん。知ってる人がケー小読んだらすぐ分かるで。ほんま、キモい。ウザい」
 ぼろぼろとこぼれてくる醜い真実。本人がこの場にいないぶん、醜悪さは、増す。
 たっぷり数十秒、三人は言葉を失った。夏樹も、自分が風宮に振られたことを、実話系ケータイ小説の材料にされるなど、考えもしなかっただろう。
 ――これが、桜川美香の本性?
 次に彩音が憑かれたのは、純粋な怒りだった。先刻の「美香はもう、友達ちゃうよ」という言葉を、もう後悔しなかった。言葉にしてよかった。そう、言葉は力を持つ。自分はもう、美香と友達になんてなれない。最低の女だ。性格ブスだ。言い方が鼻につく、自慢たらしくて自意識過剰な、人の気持ちを考えないお嬢様だ。
 なんでや? なんであんな女と友達やったん? あほすぎるやろ、うち。もっと早くに見切りつけたらよかってんな。選んだらよかった。我慢したんがあかんかってんな。
 百合の花のような笑顔の下で、こんな非道なことを考えていたなんて。己の様悪しさに気づかず、自称純愛の妄想ブログを書いて、かつての友達を理不尽に恨む。
 じわじわと喉元に這いあがる、憎悪。正義。怒り。想起される美香の笑顔に、泥のようなノイズがかぶさる。彩音はとっさに口を手で覆った。「彩音」由乃が肩に手をかけて心配してくれたが、ふるふると首を振って「平気」とこたえた。駄目だ、どうせ吐くなら美香の靴めがけてがいい。
 そうや、ここでへばったらあかん。うちより傷ついとんのは、なっちゃんやねんから。この大事な、優しい友達を守りたい。二度と傷つかないで、幸せに笑っていて欲しい。好きな人を、好きなままでいて欲しい。
 由乃は夏樹に「やなこと思い出させてごめん」と言った。彩音も同じように謝る。
「ううん、大丈夫だよ、ふたりとも」夏樹はせいいっぱい笑ってこたえた。「話したのが、ふたりでよかった。他のみんなだったら、なんて言われてたか」
 それはそうだ。風宮ファンは彩音から見るとヒステリー集団も同然だ。美香は、その狂った風宮ファンの中でも群を抜いている。妄想恋愛ブログ、悲劇ぶった実話系ケータイ小説、自分の世界で作りあげた片思い。
「なっちゃん、今でも風宮のこと好きなん?」
「えっ、えっと……」夏樹は顔を真っ赤にして俯いた。「一応」
「そっか。よかった」
 彩音が優しく笑うと、夏樹は戸惑って両手を宙に泳がせる。
「よかったって、でも、今さら……」
「大丈夫やって。うち、なっちゃんが大好きやもん。自分をごまかさんで風宮を好きなままでいて欲しいねん。やから、協力さして」
「彩音ちゃん……」
「おかげで、うちがどうしたらええんかっていう方向性は見えてきた」
 そうだ、蝋の翼で青空を目指すイカロスの、墜落する時期を早めるだけだ。
「なっちゃん」
 彩音は優しく、静かにたずねた。夏樹はただ、じっと彩音を見つめていた。
「……うち、絶対に、一生なっちゃんの味方やからね。安心してな」
 捨て去ったはずの過去に期待するように、宣言する。
「もっと早くに東京に来て、友達になっとったらよかった。そしたらうち、美香からなっちゃんを助けられたのに。あんな子に泣かされることなんて、なかったんに」
 語尾は声がかすれてしまった。夏樹はぎゅっと目を閉じ、ささやくようなちいさな声で「ありがとう」と言った。
 悔しい。自分にはもっと力があるはずなのに。漫画もアニメも、友達を守り戦うのが主人公なのに。だけど、少なくとも今は、どこまでも戦える気がした。夏樹が性悪女に傷つけられるようなこと、二度とあって欲しくない。もっとたくさんの笑顔が見たい。
 うちは、恋に傷ついたなっちゃんを救う、強い主人公でありたいんや――
「由乃、美香に痛い目あわそう思たら出費できる?」
 それを聴いて由乃は一瞬、目を見ひらいたが、やがて「お年玉がまだある」と言って苦笑した。オタクと馬鹿にされた手前、彼女も温和ではいられないはずだ。
「あとで作戦言うから、頼むわ。うちは協力者を探す」
「こんな話に乗ってくる酔狂な人?」
「信用できそうな人がおる。聞いてみるわ」
 言いながら、彩音はケータイをひらいた。従兄のデータが入っていることを確認する。
「あとな、なっちゃん。学校ではふたりでしゃべらんとこ。うちがなっちゃんの事情知ってることバレたらやばいから。まあクラスが別やからそんなべったりせんやろうけど」
「どうするの、彩音ちゃん」夏樹が焦ったように言った。「危ないことはしちゃ駄目だよ。また今回みたいなことになったら」
「なっちゃん、ここまで来たら必殺コマンド必要やで。うちが全部やりかえしたる」
「駄目だって、本当に。彩音ちゃん、どこにもいられなくなっちゃうよ!」
 その叫びを聴いて、彩音は呆れたようにため息をつく。不安げな表情の由乃と夏樹を見て、彩音は吹きだした。
「元々、うちはどこにもおらんような人間やから大丈夫」
 自分の名前を忘れそうになったら、このふたりに教えてもらおう、と思った。

 風宮に半ば連行されるようにつれこまれたのは、図書館内にある保管庫だった。美香は恐怖と緊張とで、全身がこわばっていた。風宮はカウンターにいる先輩に「桜川さんと裏で作業してます」と、いつもどおりの明るい態度で声をかけた。実際、爽やかに話をしていながら、その深い黒の瞳に内なる怒りを孕んでいる。美香にはそれが直感で分かり、怯えた子どものように彼の後ろをついていった。風宮のこういった如才なさには、時折、うろたえる以上の衝撃を食らう。
 保管庫の中央に放置された古い長机に寄りかかり、風宮は両の腕を組んだ。しかめられた眉が彼の苛立ちをあらわしている。
「美香、礼紗。とりあえずな」
 風宮の声は、放つ雰囲気に反し落ちついていた。「全容を教えてくれないか。時系列に沿って、分かってることだけでいいから」
 美香は一度、礼紗をふりかえった。そして事の顛末を、自分がブログを荒らされた日をはじめに据えて語る。礼紗が美香の説明に補足を加えていった。ブログの話は、ばれていないことを願いながら「憧れの恋愛を日記風につづいったブログ小説」ということにした。それだけでもじゅうぶん恥ずかしかったが。
 すべて話し終えると、風宮はふうと細いため息をついた。ずいぶんと長い時間をおく。
「こじれるはずだ。お前ら、筋通った議論してるつもりで、実はどっちもくだらねえプライドのぶつけ合いしかしてないって、分かる? 主観的にしか見てない。相手が悪い自分悪くない、ってお互いが思ってるってことは、原因とかって問題じゃないんだよ」
「でも、荒らし自体は彩音のせいだよ! あのせいで、私、毎日辛い思いで過ごしてきたんだから! ここ最近、具合悪かったの、風宮だって気づいてたでしょ?」
「知ってる。そりゃ荒らし単体で見りゃそうなるだろうけどな。でも、それを彩音の主張を全部潰す唯一最強の盾だと思ってないか? 彩音が荒らしさえしなかったら何もかもがうまくいってた、っていうわけじゃねえだろ。互いに鬱憤溜まってたみたいだし、いつか爆発して衝突起こすの目に見えてる」
「だけど、友達はぶつかりあってこその関係だし。この喧嘩で何か得られるものがあるかも知れないじゃん」
「嘘つけ。普段は波風立てないようにって、びびってるくせに」
 図星をさされて言葉を失う。風宮は、人が思っている以上に人のことをよく見ている。
「お前と彩音の諍いは、価値観と自己主張の応酬だ。途中からしか見てないけど、俺はそう思った。人の争いにおける『あれが悪いこれが悪い』っていう原因探しはな、ずっとやってると、どんな話でも最終的に『生まれてきたのが悪い』に行きつくんだ、大抵。な? 不毛だろ。彩音にした嫌がらせだって横暴なんだから、そこはしっかり反省しなさい」
「でも」美香はおそるおそる反論した。「彩音は私みたいに保健室に行くほど、気分悪そうにしてなかったし。私はもっと苦しんだのに、理不尽じゃない」
「さっきからなんで、自分と相手の傷の度合いを罪の重さに換算したがるんだ?」
 風宮の、ストレートだが核心を突いた言葉に、彩音は息をのんだ。無意識にそういうことをくりかえし口にしているらしい。風宮には嘘がつけない。
 美香と礼紗は、それ以上何も反論できなかった。言葉に毒はあるが説得力もある。毒舌をふるって逆上させるのはむしろ彩音だ。風宮の、年齢にそぐわない老成した物言いにおののき、そして彼が男女問わず人気を博している理由のひとつを思い出す。
 ただ顔がいいだけなら、敵だって簡単に作ってしまうはずなのだから。
「まあ、きついことばっか言って、俺めっちゃウザいな。ごめんな」
 最後に謝ってしまうあたりが風宮らしい。「さっき、夏樹にもさらっと怖いこと言ってたけど、まあ仕方ないよな。お前が夏樹のこと嫌ってるのは知ってるし、中等部でお前もずっといじめられてたんだから、夏樹と無理に仲良くしろとは言わない。あいつだって、そのへん分かって距離感保ってるしな」
「うん、ごめんなさい」
「けどな、彩音は別だ。美香の言い分も自己満足の塊だと思うけど、そんなもん彩音だって同じだ。むしろあいつのほうが下手な屁理屈並べてるぶん、『理知的な自分かっけー』感が滲み出ててウザい。怒っていいと思う」
「分かる、そうだよね!」
 礼紗が真っ先に同意した。美香もうなずく。風宮は静かにため息をついた。
「もしかしなくてもさ、美香。こないだPCルームで言ってた嫌がらせの件って、今回のブログの荒らしだよな?」
 欠落品は人間をやめろとか、産業廃棄物とか、精神異常者とか。美香は首を縦にふる。
「彩音が荒らしに加わっていたって知って、凄くショックだった」
「俺も。あいつは裏表のないやつだと思ってたから、そういうずるい方法を選ぶなんて、ちょっと信じられないぐらい。でも、ネットをよくやってるのは知ってたし、あの掲示板みたいな環境にいたら荒んでいくのも、仕方ないのかもな。人間だもの」
「彩音のこと、信じて……」
 美香は語尾を濁らせた。信じてたのに、と言ってしまえば、まるで自分がはじめから彩音と友情をはぐくんでいたように聞こえてしまう。そうじゃない。彩音は確かにいい子だ。だけど、それはあの馬鹿素直さを利用したうえでの評価だ。クラス替えをすれば関係が切れるだろうと、そう思えるほどには浅漬けの関係だった。彩音には幾度も傷つけられた。それを笑って耐えられるほどには彼女から得られるものが多かったが、我慢するにもガソリンが足りなくなってきた。彩音が掲示板に書き込みをするところを目撃して、現行犯だと喜び、今なら言いわけさせず徹底的に論破できる、と思った。それは普段から鬱憤を溜めていて、爆発したからに他ならない。
 思えば、彩音に自分の本音をまともに投げつけたのは初めてだ。もしはじめから、彩音と風宮のように、本音を遠慮なく言える友達だったら? 彩音が正直なぶん、ぶつかりあいの絶えない日々になりそうだが、簡単なことでは壊れない関係になれたかも知れない。
 そういう相手にのみ、信じていたのに裏切られた、という言葉が意味をなすのだ。
「そんなに驚いてないんだよ、本当のところ」
 美香が静かに言った。「荒らしみたいなことしてる子っていうのも、冷静に考えたらわりと納得いったんだ。強いのか図太いのか、批判を躊躇せずリコイルも恐れないっていうのかな。もし自分のブログを荒らされても平然としていられるような子に見えた」
 それを羨望だと認めてしまうことは悔しいから、しなかった。
 素直でいて傷つかないことが少なかったぶん、美香は常に周囲から一歩引いていた。傷つけられるほど深い関係になることを恐れた。だから、傷つくことを厭わず、あるいは傷ついても耐えて笑える彩音を、本当はどこかに古傷があるんじゃないかと詮索した。しかし、オタク、毒舌、調子こきと罵っても彩音は不遜に笑っていた。だから、あそこまで爆発した。どうにかして腕の一本でも切り落としてやりたかった。戦い慣れていない自分は手探りだったが、実行した。毎日ルーズリーフに罵詈雑言を書き殴った。
「確かに、彩音が美香のブログを炎上させたのは、正直ひどいと思う。親友ながら。だから、美香が手紙で反撃したのも無理ないと思う。やったことのいい悪いはおいといて、そういうことをしないと耐えられないぐらい美香が追いつめられてたっていうのは事実だから。大事なブログを荒らされる気持ちを、彩音に分かって欲しかったんだろ。それは俺がちゃんと受けとめる」
「いい悪いはおいとくんだ」礼紗が言った。
「言おうと思えば、傍観者的でご清潔なこと言えるぜ。反撃したら同じ穴の狢だとか、やってること一緒だとか。でもさ、そんな言葉じゃ美香の行動を律せても、傷つけられた心は救えない。追いつめられた美香の気持ちの面を、俺は第一に考えたいんだよ」
 ああ、この人だ、と美香は思った。この人しかいない。初等部のときからずっと風宮を好きで、それは間違ってなかったんだ。こんな状況で、私に味方してくれるんだもん。
 殊勝だね、と礼紗がぼやくと、風宮は声をあげて笑った。
「理屈ではいくらでも正しいこと言えるんだよ。でもさ、人の心に理屈は通らないって分かってるから、もっと感情を中心に据えたいだけ。彩音だって親友だから、あいつ目線で考えたら完全には嫌いになれないし」
 親友という言葉に妙に安堵してしまい、彩音を嫌いになれないという言葉をもどかしく思ってしまう自分に、美香は気づいていた。どうせならあのまま絶交して欲しかった。
「俺、彩音とは親友だけどさ。図太いね。人気者だけど、あの美人顔であの毒舌かまされて傷ついた女子たち、影で彩音のことボロクソに言ってるんだよ。彩音はそういうやつと建前でつきあうようなやつじゃないから、バッサリ切ってる。でさ、さっきの喧嘩のとき、美香が人の物盗ったりすることに本当は怒ってたって言ってたけど、それでも一緒にいたいぐらい美香が大事だったのかと思った。今考えると違うかも知れない。無意識に、荒らしに走るぐらいストレス溜めてたのかも」
「本当は、彩音は私と我慢して付き合ってたってこと?」
「いや断言できねえよ。聞こえ悪いけど、ここまで美香と仲良くして急に離れたら世間体が悪いと思ってたのかも知れない。でも、そういうのって本物の友情じゃないだろ」
 友情じゃない。
 高校生の自分たちは、本音でぶつかれる友達が少ない。苦手な面も我慢して、空気を壊さないように笑って過ごす。漫画や小説では、涙ながらに本音を吐露しあって和解する、というシーンが無数にあるが、現実はそうもいかない。卒業して十年もすれば年賀状も途絶える関係ばかりだ。
 彩音は素直だから、あの嘘をつけない態度に耐えられない人間、つまり建前で友情を築くことに慣れた女子は離れていく。それでも彼女が友人に囲まれているのは、本心では作りものの笑顔を嫌っている女子中学生が多いという証左なのだろうか。
「俺はいつも彩音に、もっとオブラートに包んだ言い方を覚えろ、って言ってた」
 風宮が机に座って言う。「でも性格なんだろうな。一朝一夕にはできない。それでも友達は作れてるから、別にいいと思ってたんだ。でも本音を我慢してまで美香と一緒にいて、でも慣れなくて今回みたいに一気に爆発するぐらいなら、仮にも友達なんだから、他のみんなと同じように、ちょこちょこ文句言うほうがよかったんじゃないかって思う」
「そうだよ、言ってくれれば、私だって悪いところを直すのに」
 美香は俯いて、指の爪を擦りあわせた。礼紗が美香の肩をぽんぽんと優しく叩いて、「真面目だもんね」と言う。
 彩音とは、本当の友情を築けていなかったのかも知れない。そう自覚してしまえば、あとは理解が早かった。途中からブログの管理人が美香だと気づいて、それ以来荒らすのはやめたと言っていたが、どこまで信じればいいのか分からない。荒らしをする人間だと分かってからは、すっかり彩音の言葉を信用できなくなった。足で机を蹴るところまで見てしまった。やっぱり関西人は言葉も素行も暴力的だ。育ちで人間性は大きく変わる。
 ずっと、彩音の毒舌を我慢して一緒に過ごしてきた。もし彩音も同じ気持ちだったとして、それでいて堪忍袋の緒が切れたのだとしたら。自分だって切ってもいい頃なんじゃないか。本音でぶつかって、喧嘩して、それで元の関係に戻れるとは思えないけれど。
 いじめられた人間は強くなれる。人の痛みが分かる心優しい人間に育つのだと、大人の誰もが口をそろえて言う。完膚なきまでにやりかえして、後悔させればいいと言う。そんな友情は捨ててしまえと言う。本当に大切なものを守れと言う。
 風宮。礼紗。みぃなのファン。心の傷をつづったケータイ小説。どれも捨てられない。時間をかけて愛し、慈しんできた。それを壊そうとする人がいるなら、私は大切なものを守りたい。そのために戦わないといけない。
 私は苦しんできた被害者だ。きっとみんなが手を貸してくれる。大切な人たちの力を信じたい。本当に守るべきものは、傷ついてまで維持する虚構の友情じゃないんだ。
 美香は顔をあげて風宮を見た。彼は視線に気づくと、優しく笑った。
「大丈夫。美香、頭いいんだし」
 風宮は低く落ちつきのある声で言った。「もうじゅうぶん苦しんだから、それ以上頑張っても意味ねえだろ。俺も、彩音はやりすぎだと思ってる。美香が今以上に辛い思いをするのは、正直見てるこっちがしんどいし」
「ありがとう、風宮……」
 胸があたたかいもので満ちてゆく。ふわふわしたその感情が、指先まで浸透していく。
 礼紗も「あたしにできることだったら」と言った。きゃらきゃら笑いながらじゃれていると、風宮が微笑んでこちらを見ていた。美香はほっとすると同時に、優しい気持ちで世界が包まれていくような気がした。
 みんながみんな、風宮や礼紗のような子だったらいいのに。
 そして本音が漏れる。――彩音のような子を見てると、世界がどうして平和にならないのかがよく分かる気がする。
「正攻法としてはさ、美香」
 風宮が机から立ち上がった。白のワイシャツが、夕日を浴びて少し橙色を帯びる。
「先生に相談しなよ。担任でなくてもいい、とりあえず学校関係者の大人。あんまし全面的にまかせたくないけどさ、保護責任者だからこその視点ってのがあるかも知れない」
「そうだね。ちょっと、話しやすそうな先生を選んで、考えてみるよ」
 実際のところ、あまり教師は信用したくないのだが、そうも言っていられない。得られる知識はすべて集めたい、味方を増やしたい。
 礼紗がケータイをいじりながら、「あたしに考えがあるよ、ちょっと」と言った。
「ネットで調べもの。正直かなりの暴挙なんだけど、彩音に自分のやらかしたこと自覚させるにはちょうどいい。あたしがやっとくから、美香はそっちに専念しときなよ」
「ありがとう。あとで詳細教えてね」
「うん、メールする。口頭だと、彩音たちに聞かれるかも知れないし」
 トイレで彩音と由乃が話しているのを立ち聞きした経験からか、礼紗は慎重に動いている。美香も自分のスマホからブログにアクセスすると、記事作成画面をひらいた。
 ひと呼吸おいて、一気に書く。
『みなさん、本当に最近お騒がせしてます。ブログのコメント欄もすっかり荒廃してしまったので、心優しい優良読者のみなさんがコメントしづらいと思います。
 なので、一時的な措置ではありますが、このブログを閉鎖させて頂きます! ファンのみなさんには本当にご迷惑をおかけしますが、みぃなが必死で無視しているのに心の汚れた非常識な人が群がっている以上、仕方のない手段だと思っています。
 過去の記事に書いたと思いますが、みぃなはツイッターのアカウントを持っています。そのとき載せたIDにアクセスしてください。今後はそちらで更新を続けます。……』
 さくさくと文字を入力してゆく。本当は常連の人たちに、もっともっと風宮との恋を励まされたい。応援されたい。愛されたい。そして私も彼女らの恋を励ましたい、応援したい、愛したい。よく恋愛相談を受ける身としては、その立場を手放したくない。けど、もう荒れ地と化したブログにしがみつくことができない。りぃのブログは、堂々と反論する場として残しておくつもりだが。
 記事を投稿すると、メール通知の登録をしていたらしいファンや荒らしが大勢集まってきた。『やめちゃうんですか!? 寂しい(泣) 』『ブクマにツイ入れてます! そっちでまたよろしくお願いします!』『ええええ!? 荒らしなんかのためにブログを捨てちゃ駄目ですよ!』というファンからの涙の声。荒らしの『ざまあwwww』『最初からこうしとけばいいのに』『負け犬逃亡乙w』という大量のコメントがほとんどだが、ファンの書き込みに心が洗われる。掲示板のほうを見ると『ID書いてる記事探してくるわ』という書きこみがあったので、慌てて美香は管理者画面の記事一覧から探し出し、削除した。ファンの人は必ず知っているだろうから、大丈夫だと思った。
 画面を消そうとしたとき、新しく入ってきたコメントに目がいった。
『歩美:とうとう消してしまうんですね……寂しいですが、それでみぃなさんが苦しまずにすむのなら、私はそれでいいと思います。みぃなさんに生きる勇気をもらいました。本当に感謝しています。私はみぃなさんをずっと目標にして生き続けます』
 美香の体調を案じ、閉鎖したほうがいいと訴えていた歩美だ。そのコメントを読み、美香は涙が滲みそうになった。自分が幸せになることで、安心してくれる人がいる。それだけでもブログをやってよかったと思える。
「大丈夫」
 美香はスマホを両手で持ち、目を閉じる。
「私は大丈夫だよ。みんながいるから」
 礼紗が優しく頬笑み、美香の肩を叩いた。
 大きな手に頭を撫でられて、それが風宮だと分かったとき、美香の目に滲んだ涙がぱたりと床に落ちた。西日に照らされて舞う埃の中、風宮の笑顔は透きとおり、真っ白な海のように美香の心の中で広がっていった。

   * * *

『かーなーり大事なオハナシがあるからスカイプにログインしなさいってばよ』
 美香と大きな喧嘩になった翌日、土曜日。そのメールを送って十分後、リヴィングにある家族共用のパソコンから、スカイプをひらく。従兄の良太のアカウントがログイン状態になっていた。彩音はすかさず『カメラつけて』とメッセージを送る。時間は深夜一時。両親も眠ってしまっているので、彩音はマイクつきヘッドホンをつけた。
 久しぶりに見る良太は髪が伸びていた。十五歳年上の良太は母の姉の子で、現役の児童文学作家だ。昔からよく遊んでもらっていたので、彩音の性格も悩みもよく知っている、大人のお兄ちゃんのような存在である。
『おっす、さっちゃん。久しぶり』
「ほんま久しぶりやね、良くん。原稿大丈夫?」
『いや、そうでもないねん。やから、三十分ぐらいだけな』
「ええよ、そんだけあれば全部話せると思うし。相談やねんけどな」
 彩音は事の顛末をすべて良太に話した。彼は画面をじっと見つめて、相槌を打ちながら、真剣に聴いていた。彩音は疑うことなく、良太が味方してくれると思っていた。
 最後まで聞くと、良太は開口一番、
『そんなもん、お前にも非があるやろ』
 スカイプをログアウトさせようとする彩音に、『待て待て』と良太が叫ぶ。
『ちゃんと聞け。お前に「も」や。分かるやろ。一方的に相手のせいにすんな』
「いや、そら知らんでブログ荒らしたこととかは悪いと思っとるけどっ」
『それだけちゃうわ。ツッコミが追いつかん。まずな、相手の美香ちゃんが自慢たらしくてうざいって言うけど、そんなもん中二病やからほっとけ。お前の年頃は、誰だって自分が特別な存在で、他の人間とは違くて、将来でかいことやらかすって何の根拠もなく思いこむもんやねんから。大人になったら恥ずかしくてもんどり打つ』
 画面でべーっと舌を出す良太。経験者なのだろう、するするした口調によどみがない。
「言うとるやん、その中二病でDQNっぷりがキモいんやって。自分は知的で純粋で、みんなからかわいがられる姫なのよーキャッキャ的な態度が! 近くにおってみいや、うっとい! そんなんばっかのブログやら小説やら読んだら、むずがゆいのなんのって」
『なあ、その美香ちゃんのブログと小説、現物見せてや。アド教えて』
 おう当然、と思ってケータイのブックマークからアクセスしようとした。だが、画面に表示された『指定のユーザーが見つかりません』という文字に、絶句する。
「え、嘘やん何これ」
『どしたよ』
「あかん、美香、ブログ閉鎖しとるわ」
 彩音が苛立たしげに言うと、良太は低い声でうーんとぼやいた。
「な? こういうふうに、都合悪くなったら逃げ隠れするような人間やねん。ブログは証拠になんのに。ケー小だけでええ? それだけでもじゅうぶん、うざさ伝わるから」
『さっちゃん』良太は少し声のトーンを落とした。『ブログの閉鎖はええことちゃうの』
 はあ? と彩音は大声をあげた。良太の表情は、少し悲しげだった。
『だって、そうやん。ひどい荒らしにあって閉鎖するんは間違ってへんやろ。逃げるも何も、それが身を守る方法やねんて』
「けど、削除したらそんなん、自分がお姫様アピールしとったん認めるってことになるやん。現実でもうちのこと、さりげなく見下すような上から目線な言い方でムカつくねんて」
『ちゃんと直接言うたか? あんたの言うこと腹立つわって』
「自慢っぽいとか、えらそうとかは言うた。でも、何かと理由つけて逆ギレされた」
『まあそうやろな。いきなりそんなキツく言われて反省できる高校生おったらビビるわ』
「けどな、みんなずっと思ってきたし、今までも言うた子が何人かおんねん。それやのに美香は変わらん。んで友達減ったらイジメイジメってアピール。そんなんと一緒におった自分に一番焦るわ。攻撃されたからってブログ削除して、何食わぬ顔で平然と今後過ごすんかって考えたら、腹立ってしゃあない」
 言い連ねるうちに苛立ちが膨らんでいく。ネットの世界で自分をさらけ出すなら、叩かれる射程内に入ることも覚悟しろという、その暗黙の了解を無視した世間知らずが美香だ、と思った。実話のケータイ小説を大勢に向けて発信し、読んだ全員が感動し、自分のことを応援してくれるとでも思っていたのだろうか。ファンたちの関心も長くは持つまい。
 ネットの厳しさを知らん子どもや。軽い気持ちで重い物を失ってしまう。
「後悔さしたいねん。人を侮辱したこと」
 そして、風宮から手を引いて欲しい。大切な友達のためにも。
 が、気合いを入れて言ったその言葉に対し、良太の反応は冷ややかだった。
『もっぺん言うで。お前にも非がある。しかも五分五分』
 淡々と告げられ、彩音はスピーカーが音割れするほどの大声をあげる。
「なんでやねん! ひどすぎるやろ、ネットで荒らされた腹いせに、悪口書いたメモを毎日毎日しこむとか! あれほんまにキツかってんからな、精神的に!」
『それと似たようなことをお前はやらかしたんや。同じ目に遭わしたい、って思うんも人間やったら自然なことやろ。自分が苦しんだからって、ハードル高い聖人君子っぷりを相手に求めるんは間違っとんで』
「やからって……」
『それにな』良太は俯いて椅子に座りなおす。『お前は今、笑っとる。そこがおかしい』
 笑ってへんわ! とこたえる前に、その言葉の意図を理解してしまい戦慄した。
 なぜそう思った?
『楽しいんやろ、おちょくるんが。こんだけのことしたから叩かれても自業自得、相手が悪い、って正当化する理由を集めて、欠点つついて論破して。屈服させたいんやろ。自分の言った言葉で相手が反論に困るのん見てたら、気分ええもんな』
「良くん、さすがにそれは……」
『言いすぎちゃう。足りんぐらいや。お前はちっちゃい頃からずっと、ろくに友達も作らんと漫画読んでばっかやった。愚痴っとったやん、クラスのみんなに馬鹿にされるって。オタクで、気持ち悪い女やって。で、友達なんかいらん、みたいなこと口では言うとったけど、それが別の脅威潰すために言っとるんやってことぐらい俺にも分かるわ』
「うちがネットで荒らしたこととか、美香にムカつくこととかと、どういう関連性が」
『言わな分からん?』
 分かる。だけど、言いたくない。
 本物のお嬢様として生まれてきた美香。彼女の家は高く大きく、旧家の威厳を残していた。仕草や手つきが上品で、暴言なんて絶対に吐かない。自分とはタイプが違う、大人っぽい美女。友達も多く、信頼も厚い。何度も告白されたことがある。持ち物は清潔でかわいらしい。教師からも高く評価されている。
 いじめから逃げるため、必死で勉強し、イメチェンまでした彩音。
 関西を飛び出し、優秀な人間が集まる学校の一生徒として過ごす。これまでの村井彩音を葬り去る。毒舌でもいじめられることのない、明るくて友達の多い、男女問わず人気の爽やかな女子として、これからの人生を力強く歩いてゆくのだと決めた。
 同じように友達のいない根暗なオタクだった由乃とは、すぐに友達になれた。順調だった。事態がおかしくなったのは、あの美香と友達になったときからだ。
 いるだけで自分の古いフォトアルバムをめくりにかかってくる、あの子と。
『美香ちゃんとは、もう友達に戻るつもりないんやろ? そんなら、ブログが閉鎖になっても関係ないやん。ほっとけばええ。それやのに逃げんなと責める。追いかける。彼女を叩ける場所がなくなるのを恐れとる。そこまでして自分の立ち位置守りたい?』
「物騒な言い方すんなや、良くん」彩音は苛立ちを隠せず、髪をガリガリと掻きむしる。「話したやろ。うちの友達に、風宮に片思いしとる子がおるって」
『ああ、言うた。なっちゃんやっけ』
「そのなっちゃんな、中学のとき、風宮を好きになったことで美香にキレられて、思いっきり牽制されてん。それで美香がいじめられるようになってんけどな、自業自得やろ」
『まあ、言葉の暴力ってのはいかんわな』
「やろ? まして美香は、あたしいじめられたのーかわいそー的なことばっか、小説に書いとんねん。そんなひどいことしときながら、今もまだ風宮が好きとか言いよる!」
『おお、懲りひんなあ』
「な、良くん、うちが美香を面白がって荒らしとるって言うとったけど、なっちゃんのこと知ってからは、なっちゃんの恋を成就させるために戦うって決めてん。なっちゃんの復讐をする。間違いなく自業自得やん」
 感情に任せて言葉を紡ぐ彩音。それを見て良太は画面から顔をそむけ、ため息をついた。論破されて返答に困っているというよりは、うんざりしたような体だ。その姿に「さすがに呆れられたかな」と思いはじめていた彩音は、しかし次の良太の言葉に硬直する。
『さっちゃん。「あの子が悪いんやから苦しんで当然」っていうのと、彩音がその子を苦しめるのが正しいかどうかってのは、全然別の話やからな。友達のためやとしても』
 喉元につきつけられる、凍りついた包丁。
『さっちゃんは確かにオタクとかキモいとか、不当な理由でいじめられてた。けどな、それだけちゃうって分かっとるはずや。その毒舌とか、歯に衣着せぬ物言いとか、お前の意志や価値観とは無関係に人を傷つける。それに腹立てた連中の「オタクキモい」って悪口が、お前はいじめの原因やと思いこんでた。気づいとんのやろ』
「なんなんそれ」彩音は唇を震わせた。「うちの古傷えぐって愉快?」
『最後まで聞けや。あのな、いじめられる側に「責任」はない。けど、いじめられる側に「原因」や「きっかけ」があるいじめは、なんぼでもあるんやで。もちろん、それがいじめの免罪符にはならん。いじめのきっかけが被害者にあっても、そこで歯止めきかんかった加害者が悪い。けどな、いじめる側の気分で始まったいじめは卒業すれば終わるけど、卒業や転校で人間関係がリセットされてもいじめられるようなら、それはお前に責任がなくても、いじめの火種を自分で作ってるってことやで。考えろ』
 それだけを言い残して良太はスカイプをログアウトした。彩音はしばらく画面を見つめ、やがてそっとヘッドホンをはずした。耳に流れこむ空気の音。外を走る車の音。パソコンの画面を消すと、夜の砂漠に放り出されたような気がして、彩音は両腕を掻き抱いた。
 机の上に置いていたケータイを取り、夏樹にメールを打つ。
『明日、昼過ぎからでも一緒に遊ばん?』
 りぃのブログを読みかえして時間を潰していると、返事が来た。
『ごめん、日曜は修一と一緒に出かけるんだ。また月曜に学校でね』
 ケータイを持つ手に、ぱたたっ、と涙が落ちた。慌てて目元を拭くが、信じられない量の涙が次々にあふれてくる。唇が震え、膝から崩れ落ちる。
「もうあかん、ほんまにあかん、ごめん、うちがアホやねん」
 世界は気絶するほど美しいはずなのに、目指す太陽がまぶしければそのぶん、自分の後ろに伸びる影が濃くなってしまう。


 誰もいない早朝の教室棟の廊下を、美香はゆっくりと歩いていった。靴の中をじわじわと侵食していく湿気。ワンピースの襟をきっちりしめると暑くて仕方ない。
 下駄箱の中には、すでに彩音への中傷の手紙を入れている。あの大きな口論のあとに途中でやめてしまったら、犯人が自分だと分かってしまうと思い、継続することにした。
 本館一階の奥、薄暗い端の教室には何もプレートがさがっていない。しかし、今日は音楽担当の桧山先生がいるはずだ。美香は担任を避け、彼女に話を聞いてもらうよう予約していた。
 ドアをあけて入ると、髪をひとつにまとめた桧山先生が紅茶を片手に本を読んでいた。
「ああ、桜川さん。おはよう」
「おはようございます。すみません、早朝からお願いしちゃって」
「大丈夫。他の生徒の目に入るのが嫌だっていう子はいるだろうから」
 座って、と桧山は斜め右前のソファを美香にすすめた。さらさらの黒髪が印象的な、まだ二十代の音楽教師だ。生徒にも人気があり、近い目線と価値観で話すので信頼がおけると思った。美香は彼女からミルクと砂糖の入ったアイスティーを手渡された。
「こう言っちゃなんだけど、学年トップクラスの桜川女史が先生に相談なんて、意外」
「自分でも驚きました。自力で解決できると思っていたので」
 美香は事の顛末を細かく話した。恋愛妄想ブログも、「好きな男子」と名前を伏せて全て話す。もちろん彩音や由乃のことも匿名で。桧山はほどよく相槌を打ちながら聞いていたが、少しずつその表情が曇っていく。話し終えると、彼女は細いため息をついた。
「自分とクラスメイトの女子とのないことないこと書かれた妄想日記が全世界に発信される男子の気持ちも考えてあげなよ、ってのは今関係ないからおいといて」
 受け持ちのクラスがないので発言が自由だ。美香は少しひるむ。
「両成敗だと思うけどなあ。確かに桜川さんも相手の子にひと泡吹かされてるけど、やっぱさ、その仕返しってことで悪口の手紙はやりすぎじゃないかな。結局同じレベルに落ちちゃうよ。その前に一度、話すべきだったかもね。どんな子でも、ちゃんと席を設ければ聞いてくれるし。どっちが加害者で被害者だとか、この場合は白黒つけらんないよ」
 味方になってくれると思ったが、結局はやはり「両成敗」と言われてしまい落胆した。
「時系列的には、私が最初の被害者じゃないですか」
「後出しジャンケンの話じゃないの。相手に言われたんでしょ、えらそうな口調にイラついてたって。で、桜川さんも相手の毒舌が嫌い。それに気づいたのはいい兆候。相手の全部が好きだなんて、深い関係では到底言えないのよ。何かしらこいつのここがうぜえええって思いながら、時にはそれを指摘し合いながらうまくやってんの。ね?」
「ね、って」美香は戸惑い、ソファから腰を浮かせた。「したじゃないですか」
「喧嘩で爆発し合ったこと? 導火線短く切ってた爆竹に火つけただけじゃない」
「ネットでの誹謗中傷はいじめにならないんですか。しかもそれが友達だと分かった以上、匿名の人間相手の問題じゃないと思います」
「ぶっちゃけ微妙」先生はどこまでも口調が軽い。「管理人が桜川さんだって知らなかったんでしょ、相手の子。ネットってそういうもんよ。身元を明かしたままじゃリスキーで言えないことも、訳知り顔で語れる場所なんだよ。昔はなかった。ネット社会への批判って、例えば最初にロックミュージックやファミコンが出たときの世間の反応と似たようなもの。今じゃ誰も言わない。いずれ誰もが批評家気どりで、匿名で好き勝手言うのが当然になる。ただでさえ教師が手こずってる学校裏サイトとかも、全廃は物理的に不可能」
「諦めるのはいいことなんですか」
「いいも悪いもわざわざ判断しないでしょ、最近の子は」
 彩音と同じように、世間を斜めに見てるのかも知れない。それでも十歳年上の彼女は、学校のいじめにネットが関わる、ということをおそらく直には経験していないはずだ。
「けど、彼女も最初は面白がって次々にブログを荒らしていったんです。それで私が苦しんだのは事実だし、相手の子は反省すべきだと思うんですよ」
「それを訴えかける手段として悪口の手紙は違うと思う。明確にターゲットを絞って痛めつけることについては、桜川さんのほうが先行してる。それに、嫌なことされたからって、相手をいじめていいわけないでしょ」
 出た、大人の常套句だ。美香はこの言葉に対する反論を山ほど用意している。
「だからって、相手が私に嫌がらせをしたことを放っておいていいわけないでしょう?」
「それはそうだけど、今は桜川さん、あなたの話をしてるんだから。相手があなたを苦しめたことを盾に、あなたまで相手を苦しめたら同罪よ」
「そうしたくなる私の気持ちもくんでください!」それは、風宮がしてくれたことだ。「誰だって、家族や友達を殺した奴を殺したい、と言う人を止められないでしょう? そもそも私は彼女と友達になったときからずっと、彼女の毒舌に傷ついてきたんです。それを指摘したのにきかないから、また彼女の言葉に傷つく被害者が増えるだけですよ」
 桧山は「それは」と言い、一呼吸おいてからゆっくり話すようになった。
「無意識に相手を傷つけることよりも、意図的に攻撃するほうがよっぽど罪でしょ。あなたのしたことは、ただの攻撃。相手の子は、傷つけるつもりがなかったんだから。同じ嫌がらせでも、そこにこめられた意志はあなたのほうが悪意に満ちてる。そうなってしまえば、最初に相手の子に照準定めていじめをしたあなたが百パーセント悪くなるのよ」
 いじめる側が百パーセント悪い。
 なぜ、そんな無責任なことが簡単に言えるのだろう。
「だからっていじめていいわけがない、っていうのは」
 自分の呼吸が早くなるのが分かった。「善悪をつけるのが面倒な人の、とりあえず先にいじめたほうが悪いって結論づけて、話を円滑に終わらせるための逃げ口上ですよね」
 桧山が何か言わんとしたが、それを遮るように美香はつづけた。
「違いますか? 大人はそうやって先人が連呼してきた正義の常套句で手軽にこたえを出して話を畳みたがる。先生は、今まで私を傷つけてきた相手の行動を一切咎めないんですか? いじめの加害者呼ばわりされるなら、私たちは我慢するしかないじゃないですか。表面だけで決めつけないで、私が嫌がらせをしたくなるほど恨む原因になった彼女の性格も、きちんと見て改善させるのが教育者じゃないんですか!」
「それが正当化じゃないの」桧山は美香につられて、少し声が大きくなる。「あなたは、自分が正しいことをしてると思ってるの?」
「まさか。ていうか、先生は『正しい』ことしかしないんですか? うっかり外食先でお酒を飲んで、そのまま車を運転して帰った人は、自分が『正しいことをしている』と思ってるわけないでしょう?」
「正しくないにしても、桜川さんが相手に嫌がらせしていい理由にならないでしょ?」
「『いい理由』ってなんですか? 私は『相手に嫌がらせをしてもよくなる理由』を探してなんかないです。正当化する材料を必死で探して後ろ盾にして、その上で暴言の手紙を書いたとでも? ただ私がこうしたくなるほど彼女に挑発された、それだけです」
「人のせいにしない! ちょっと桜川さん、さすがに偉そうに言いすぎです」
「先生が偉ぶるからじゃないですか。仮に私が彼女をいじめたことになってるとしても、それはいじめられる彼女が引き金を引きました。誰も彼女を正そうとしない。教師はいじめる側を一方的に悪人にするだけで、いじめられる側がした暴挙を放置する。それですべてが解決するわけないですよ。行為を咎められなかった彼女はまたどこかで誰かを傷つけ、またいじめられるだけです。いずれ調子に乗りますよ、しっぺ返しを食らっても『いじめられた』って主張すれば自分の行為は無条件に許されることを覚えたんですから」
 そうだ、彩音はそういう人間だ。他人を平気で貶められるのは、自分がその立場になる覚悟がない、そしてその可能性を一切考えないという証拠だ。嬉々として私のブログを荒らしていた彩音が、誹謗中傷に追われる生活を送るなんて、皮肉だ。滑稽だ。
 桧山はかえす言葉を失ったらしく、呆然と美香を見ている。やっぱり、先生に相談したのは間違いだった。そしてふと思いなおす。大人が頼りないんだ。大学を出たばかりの新米教師でも、高校生だったのは四年前。子どもの気持ちに寄りそってくれるわけがない。四年もあれば価値観も変わり、心は汚い世界に浸かり、ああすればいいだろうと安易なこたえを持ちだしてくる。ましてや相手は教師だ。子どもを助けたがるのは給料のため。
 大人は私たちを救ってくれない。救おうとしているだけだ。
「すみません、私が間違っていました」
 何も言わない桧山に、美香は重ねて冷たく言い放つ。「大人に話すとろくなことにならないと学びました。次からは相手をきちんと選ぶようにします。あと、相談内容は他言無用でお願いします。私たちで穏便に解決しますので。広めたら、一生信頼しません」
 初等部のころから分かっていたのに。
 いじめに立ち向かえと、暴力に怯えている子に言う。ひとりで夢中になれる趣味を持てと、友達と仲良くしたい子に言う。学校以外に居場所を作れと、引っ込み思案で門限を守る子に言う。臆病なことが、友達に囲まれたいと思うことが、内気で真面目な性格が悪いのか。アドバイスどおりにしなければ自己責任なのか。美辞麗句ばかり並べて救った気になっている、そんな大人はもう信じない。ましてや、卒業までの辛抱だ、なんて――助けて欲しいのは今なのに。保証がない未来のために、十五歳、今この瞬間にしか得られないしあわせを諦めたくないのに。みんなで再会を約束し合う卒業式を迎えたいのに。
 美香は鞄を持って立ちあがり、最敬礼をする。そのまま教室を出ようとする美香の背後に、桧山のため息がぶつかる。
「あなたと私、他の先生に比べたら年齢差ないけどさ。ときどきギャップに首締められるよ。自分を特別な存在として見たがるの、私もあなたぐらいの頃はあったけどさ」
「私は違う」美香はふりかえって叫んだ。「あの子とは違うんです」
「さっきあなたが話してくれた批判内容、ぜんぶ自分の自己紹介だって自覚してる?」
 桧山の目が突然ぎらりと光った。美香は全身の血流が急に止まったような気がした。
 桧山はすっと息を吸って、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「――あなたが熱く語ってくれたその話、同じことを彼女に言われたら反論できる?」
 外で強い風が吹いた。窓のそばに立つ葉桜が、ざわざわと音を立てて鳴く。
 美香は何もこたえず、荒々しくドアを閉めて出ていった。
 とっくに登校時間のピークになっていて、廊下は人であふれていた。美香はためらうことなく教室に入り、ほとんど周囲を見ないで自分の席についた。何人かの友達に「おはよう」と話しかけられたが、それ以上は何も言われない。金曜日の彩音との公開口論は音速で伝わったらしく、クラスの誰もが自分を遠巻きに見ているのが分かった。ひそひそ話が重なる。重なる。聞こえないふりをして、美香は本を読み始めた。
「あ、彩音、おはよ」
 女子の誰かが言った。美香は顔をあげない。いつもどおりのテンションで騒々しく教室に飛び込み「うぇーっす」と声をはりあげるうるさい関西人。本に目を落としたまま、彩音と彼女の友人たちの会話を盗み聞きする。
「彩音、金曜、大丈夫だった? なんか、美香と大喧嘩してたみたいだけど」
「そうそう、あたしはえっこから聞いた」
「うちは人ごみの向こうで聞いてたよ」
「いやあ、ほんまごめんなあ、どうもお騒がせしまして」
 そこは取り繕ってもおかしくない場面なのに、彩音は正直に言った。「美香はもう友達ちゃうと思っとるから、話さんくなっても気にせんとってな」
 ちぎれた四肢を、雑談をしながらかき集める。金曜日、机を蹴って自分を殴ろうとしたあの姿はどこにもない。美香は一度も顔をあげないことで、彩音の言葉を肯定した。美香が、彩音が、美香と、彩音と。話し声が嫌でも耳に入る。クラス全員の視線が自分に向けられている気がする。もう一緒にして欲しくない。彩音なんかと一緒にいたくない。あいつは私が見たくない色んなものを全部持ってるから、離れたい。
『相手が私に嫌がらせをしたことを放っておいていいわけない』『彼女の言葉に傷つく被害者が増えるだけ』『いじめられる彼女にきっかけがあります』『彼女はまたどこかで誰かを傷つけるだけです』『「いじめられた」って言えば許される』――こたえは、どこ?
 美香は軽く頭を振った。毛先が頬に当たって、すこし痛い。
 やがて礼紗が登校してきて、桧山先生と話した結果を求められた。美香はため息をついて、無駄な時間の内容をすべて話した。
「やっぱり教師は教師のままだね」礼紗は盛大にため息をつく。「『いじめる理由にならない』って、改めて聞くとひでえ。どんな『理由になる』理由があったら納得すんだよって感じ。教師ってさ、いじめに理由なんてないって思ってんだよ。そのほうがいじめを徹底的に害悪扱いできるじゃん。いじめる側の立場も考えるのがめんどいだけだろっていう」
「ああ、でも」美香が口元に手を当てて言った。「いじめる側の視点から事態を見たりなんかしたら、いじめられる側の親がうるさいんだろうな。とにかく始終いじめられる子の味方。いじめを乗りこえて強く生きる子たちのあしながおじさんになりたいんだよ」
「そう、それだよ。美香、悪口の手紙で反撃したくなる気持ちは分かるって風宮が言ってくれたじゃん。教師より風宮のほうがずっと人の気持ち分かってっし。なっさけねえ」
 にしても美香、今日ははっきり物言うね。礼紗にそう言われ、美香は取り繕うとしたが、彼女は責めるでもなくただ笑っていた。
「いいと思うよ。言ったじゃん、ニコニコしてばかりじゃなくて、たまにはビシッと言いたいこと言っていいんだって。あたしは別に、そんなことぐらいで軽蔑しないしさ」
 その優しい言葉に、美香は自然と笑顔が戻った。紗はいつも自分の味方をしてくれる。その支えがあるからこそ全力が出せる。ふたりがいれば大丈夫だ、と思った。
 風宮はどうだろう、と美香はふと思いだす。彼のことだから、彩音を批判してもやはり友達づきあいをつづけるのだろう。おそらくあのふたりは、無意味な喧嘩なんてしたことがない。喧嘩すらしない私と風宮は、この片思いは、足踏みばかりの長丁場になってしまう。美香は強く目を瞑った。
 そうだ、だから、ちっとも痛くないんだ。


「ブログが荒らされたぐらいでギャーギャー騒いで、中学生にもなってさあ」
「彩音にいじめられたーとかって、マジうけるんですけど」
「自殺しようとまで思ったんだから、とか頭悪くない? それが本気だったら、盾にしたりいちいち報告したりしないでとっくに死んでるってゆう」
「あのブス、調子乗ってんじゃね? 最悪」
 机の周りに集まって好き勝手に言い散らす女友達に、いやいや、と彩音は手を振る。
「美香はブスちゃうやん。むっちゃ美人やし。そこ悪口になってへんよ」
「何言ってんの、彩音。かばってんの? てか、彩音のほうが美人だし」
「美人に向かってブスとか言うても、単なる中身のないひがみやで。本気で相手にダメージ喰らわそう思たら、ほんまのこと言わな」
「じゃあ」友達のひとりがちいさな声で言った。「性格ブス」
 たったひとつの真実見抜いたー! 大声で笑う彼女たちに、クラスじゅうから視線が集まる。彩音も一緒になって笑った。「あんなにかわいいのに、机蹴ってたし」「いんじゃね、俺は素が見れて萌えた」「人間臭くて逆にいい」という男子の声が聞こえた。横目で美香の席を見ると、彼女は礼紗と何かを話していた。
 金曜のことを忘れたのか、気にしないそぶりをしているのか、ふたりは落ちついて微笑を浮かべている。急にしおらしくされても心が痛むので、それぐらいでちょうどいい。なのに、胃のむかつきがやまない。もっとベコベコになっとってや、と願うし、そう願う自分が面倒臭い。だから、何も考えない。美香のことを、考えない。
 男子の騒ぎ声と共に、風宮と彼の友人たちが束になって教室に入った。朝の挨拶が飛び交う。彩音の「はよっす」にも、風宮がいつもどおり応じていた。ドアの前で、夏樹が「じゃあね、真一」と言って手を振り、自分の教室へ向かっていった。今日もふたり一緒に登校してきたようだ。
「お前らもう結婚しちまえよ」「やめんか気色悪い。お隣さんで幼なじみってキーワードだけでいらんこと考えんな」「何を言う、窓伝いに部屋に入って毎朝起こしてくれる幼なじみ女子は全男子の憧れだろ」「それがまゆゆなら俺が嬉しい」「なっちゃんはしねえの?」「だから違うっつってんだろ!」
 ゲラゲラ笑ってじゃれる仲良し男子。「発情期やねー少年」「お前ちょっと黙れ!」彩音と風宮が漫才をかまし、男子たちが爆笑する。ふと美香のほうを見やると、こちらを見て苦い顔をしている。そりゃそうだ、風宮と夏樹が一緒にいることが、彼女にとっておもしろいはずがない。だけど、幼なじみのふたりを今さら引き裂けるわけがない。ざまあみさらせ、と彩音は顔をそらし、舌をぺろりと出す。せいぜい独占欲に溺れて死ね。
 出した舌を誰かに斬り落とされるような気がして、すぐにひっこめた。
 授業中も、いつもは美香と手紙のやりとりをするのだが、今日は一切なかった。その代わりに他の友達から「あたしも美香と口きかないから」「頑張れ彩音」「お弁当一緒に食べよう」などの手紙がわんさと回ってきた。ふたつほど、美香派の女子から「調子乗んな」「死ね」という手紙がきたが、放っておいた。今朝も律儀に下駄箱に入っていたおなじみの手紙に比べれば、かわいいもんだ。それに今は敵の正体が分かったぶん、衝撃緩和のための装備もできる。慣れるもんやね、と自分に失望した。
 三、四時間目の合同体育で、女子は着替えのために隣の教室に移動した。由乃は髪を結ぶ彩音の隣に立ち、ちいさな声で言う。
「やっぱり完全に消えるつもりじゃなかったみたい。ツイッターに移動してた」
「嘘やん、まだネット上でグダグダやる気なんか、美香。やばすぎやろ」
「やっとブログ閉鎖できたんだから、まあゆっくりできたってとこじゃないの」
「そういや、美香んとこの常連の歩美って子が、何回も『閉鎖したほうがいい』って説得しとったもんなあ。最後には決断できたってことなんかな」
 彩音はキャミソールの前を仰いで風を送りながら、美香を見て舌打ちする。彼女はかなり離れたところで、美香派の女子に囲まれて雑談をしながらワンピースを脱いでいた。
 由乃はみぃなのブログのログを全てパソコンに保存している。彩音はブログが閉鎖になったとき、どこかへ移転する予告の記事がなかったかどうか由乃にメールしてたずねたのだった。由乃がログから見つけてきたツイッターのIDが書かれたメモを受けとる。
「でも、まだ続けるの? みぃないびり」
「いびりっていうか」彩音は小首をかしげた。「逃げられっぱなしはムカつくやん。好き勝手やっといて、人の怒りさんざん買って、安全な場所に移動しようとかさあ。あ、ツイッターではリプせえへんよ。あれって簡単にブロックできるから、ROM専でな」
 由乃は不安げな表情のまま、彩音をじっと見つめる。
「ブログが閉鎖されたら、彩音的にはそれでオッケーなんだと思ってたけど」
「今は事情がちゃうやん。なっちゃんの復讐も兼ねとるしな」
 何か言いたげだったが、しかし由乃は最後まで黙っていた。その代わりにケータイを取り出し、背景が黒いどこかの掲示板を彩音に見せる。
「美香が中等部にいたときの、学校の裏掲示板のキャッシュ。やっと見つけた」
「え、嘘、そんなんよお残っとったな」彩音は驚いてケータイの画面をつかむ。
「ちょうどケータイ小説でみぃながナツキを牽制した、一学期あたりを見たんだけどね。事実は小説と異なりだったよ。このへん」
 由乃はページをスクロールし、書きこみを彩音に見せた。当時はかなり大ごとになったらしく、美香のクラスメイトによる嘆きと怒りの書きこみが長くつづいていた。
『MKがNTを叩いたのはガチ』『NT突き飛ばしてたって聞いたよ。ひいたわ』『MKやべえだろ、自分KZの彼女だと思ってんのかよw』『あたしこないだKZと話してたら凄い目で睨まれたんだけど、あいつ別に彼女とかじゃなくない?』『私の邪魔すんなとかブスのくせにとか言ってるの、聞いたことある』『NTとMKめっちゃ泣いてたよ。かわいそ〜』『うち明日からMKハブるわ』
 小説とは全く違う現実に、彩音は呼吸を忘れた。ごくりと唾を飲む。
 MKが美香、NTが夏樹、KZが風宮のことだろう。名門中学の生徒とは思えない乱暴な言葉に唖然とした。彩音はケータイを由乃にかえし、「こりゃ小説は相当美化されてるみたいやな」とつぶやいた。
「文句言ったみたいな描写になっとるけど、実際は叩いたんか。凄いわ」
「噂がほとんどとはいえ、ひどい」
「ちょっとやりすぎちゃうか。自分の記憶って簡単に書きかえられるもんなんやね」
 ちらりと美香を見やると、体育館シューズを持って教室を出ていくところだった。彩音には見向きもしない。他の友達と仲良くおしゃべりしている。
 絶対に許さへん――彩音の中でその気持ちがどんどん膨らんでゆく。なっちゃんを叩いた? 突き飛ばした? 高級なお嬢様はそういうことを人にしろって、高貴な先祖から教えられとんのか。これでいじめられたとか、好きな人とられたとか、笑かすねんけど。黄色い救急車に乗らなあかんのは自分ちゃうんか?
 彩音と由乃は教室から人がひくのを待つあいだ、ケータイから美香のツイッターにアクセスした。ツイートはブログの延長で、「新しいぬいぐるみを買いましたぁ*」「中間でまた百点!」「今お風呂あがったよ☆」などという、いつものお姫様節が炸裂していた。「ri-ry」というアカウントからよくリプライをもらっているようなのでアクセスすると、それはやはりりぃのアカウントだった。試しにみぃな宛てのリプライを全て検索してみると、荒らしたちが何人か彼女を茶化していた。しかしみぃなはそれらを全てスルーし、代わりに「また私を攻撃する人から変なリプが(泣)」とつぶやいている。「みぃなにブロックされたw」と文句をつぶやくユーザーも見かけるので、どうやら美香は荒らしリプライを送ったアカウントを全員ブロックしているらしい。ブログと同じく、プロフィールページからケータイ小説へのリンクは一切ない。三日前に「みんなが私をいじめる(泣)」「友達なんて信じたくない」などと連投しているが、これは以前の公開口論のことだろう。
 教室にいた女子が全員出ていったのを確認し、彩音は後列窓側の机を教室の後ろにある掃除用具入れの前まで引きずっていった。由乃は上靴を脱いでその上に立つ。彼女が作業を終えるまでの間、彩音は机を両手で支えながら、ぼんやりと考えた。
 あれだけのことをされていながら、元気な笑顔で話しかけてくれる夏樹。勉強を教えてあげると、素直に驚いたり喜んだりする。大人しそうに見えて実は喜怒哀楽がくるくる変わる。ずっと友達になりたかったと言ってくれた。頼ってくれた。本気で怒り、助けてくれた。そんな友達ができたことは、すでに最上の幸福だった。
 そのぬくもりに浸りたい。
 強くない。懺悔をする勇気もない。人を救うことしか知らない。そうしてごまかそうとしてまで救われたいのは――誰だ? けれど、今はその疑問を直視したくなかった。
 なっちゃんを助けたい。その気持ちは変わらない。
 教室の戸締りをして、体育館へ向かう。別館への渡り廊下の途中で、由乃がぽつりと「ブログは閉鎖になったんだから」とつぶやいた。
「ツイッターで特に大きな問題がないようだったら、これ以上はやめとこう」
「どしたん、由乃。最近、また元通りの落ちつき払った系の子に戻ってもうたやん」
「というか、元々の目的がブログを閉鎖させて、美香を日常に戻すってことだったし。それ単体では達成されたんだから、ネットで追いかける必要はないかなって」
「それ先月の話やん。今はネットからみぃな追いだして終了、ってわけにもいかんし」
「そうなんだけどさ」
 煮え切らない態度の由乃を訝しみつつ、しかし彩音は「なっちゃんの仇討ちまでは手伝ってくれへんかな」と頼みこんだ。由乃はかすかに頷いた。
 体育館に入ると、すでに球技大会の練習がはじめられていた。彩音は教室の鍵を先生にあずけ、バレーボールのチームに混ざっていった。美香と礼紗は共にサッカーなので、練習は別々だ。コートを分けるために天井の中央から吊るされた大きな緑のネットの向こうで、短い髪をゴムでとめている美香を見る。ブログを閉鎖し、ツイッターに逃げた今も、いつもどおり声をあげて笑いながらボールを追いかけている。弾ける笑顔。ハイタッチ。明るい声。ネットの濃い緑色が、彼女の笑顔にかかる。たわんだレコードを再生したように、聴覚を狂わせ、ねじる。押し流す。
「彩音サーブ」とボールを手渡され、彩音ははっと意識をバレーコートに戻した。壁にもたれかかった由乃が、口だけで「おちつけ」と言っていた。彩音は半ばヤケでボールを天に放り投げ、めいっぱいサーブを打った。相手チームが逃げ腰になってしまうほど強く床に叩きつけられたボールは、バウンドして緑のネットにばさりと当たった。その音に気づいてふりかえった、サッカーコートにいる美香と、目が合う。まっすぐな、以前と変わらない色の瞳。同じタイミングで瞬きをする。ほんの一瞬だったはずなのに、数秒間は見つめ合っていたような感覚がした。ボールを投げられ、先に目をそらしてしまったのは彩音だった。茶色のボールを手のひらで床に叩きつける。顔をあげると、もう美香はサッカーボールを追いかけに行っていた。彩音はあの色の名前を思い出そうとして、やめる。

 まだ傷口がじくじくと痛む。保険医の先生もかなり時間をかけて丁寧に処置をしていたので、相当ひどく切ってしまったようだ。大判の絆創膏の上からそっと手のひらで傷口を押さえながら、誰もいない教室を横ぎった。
 彩音の引き出しや鞄の中に手紙を入れることは、もう慣れてしまった。今はちいさな痛みも気にならない。いつもどおり、ペンで『死ね』『美香に手出すな』『暴力女』などと書き殴ったルーズリーフを四つにたたみ、机の横にかけられた彩音の鞄に放りこむ。机の中にも入れた。なんの感慨もなく、子どものころからずっとそうして生きてきたように。その瞬間、針で刺すような痛みが腕に走った。
 サッカーの練習をしている最中、わざとよろけてサッカーゴールに上半身をぶつけた。打撲をして、保健室に行くふりをして教室に侵入し、彩音の鞄にルーズリーフを入れようと思ったのだった。しかし、ゴールのどこか尖った金属部に当たったのか、腕は予想以上に傷ついて出血し、結果、美香は保健室でかなりの時間をとられた。
 ゴールにぶつかったとき、想定外の激痛に悲鳴をあげ、その場にしゃがみこんだ。サッカーコートにいた女子たちが集まって騒動になり、バレーの選手たちもこちらを見ていた。ネットの向こうのコートで、彩音がこちらを見ていた。ざまあみろとも、かわいそうとも、その瞳からは読みとれなかった。緑色の網目に覆われた彩音の表情は、新品の電化製品のようで、そのくせひどく人間臭かった。
 美香はふと、彩音の鞄をもう一度ひらいてみた。漫画、化粧ポーチに香水瓶、お菓子など勉強に関係ないものが無造作に詰めこまれてある。ある時は秀才美少女、またある時は漫画オタク。むしろ勉強ができない生徒のようなその持ち物。
 だが以前、彩音のノートを見たことがある。綺麗に色分けされていて、付箋で大量に書き込みがしてあり、予習・復習をした日付やページ数でのノルマ達成度などもすべて控えてある。簡単な話だ。彩音は美香のように、子どものころからハイレベルな教育を受けていたわけではない。饒舌に見えて実際は平凡な労働者階級の家に生まれた娘で、必死に勉強してきた叩きあげの秀才なのだ。そのことが、美香の指先に力を加える。
 ミミズの壺の中に放りこまれたように総毛立ち、彩音に対する嫌悪が増幅していった。何より、吐き気がした。
 まだ腕が痛んだ。無言で叱責するようなその鈍痛に、中途半端につづく生理痛を思い出させる。まだ歩けると思った。両手を使わないといけない赤ん坊ではない。ここに立っている。それをみんながずっと見てきた。全くおかしくないことだと思っていたのに。
「ぅゃあああぁああぁぅぁあぁあああ!」
 滅茶苦茶な叫び声をあげて、手近な机を蹴った。教科書やノートが散らばり、椅子が倒れる。「倒れんじゃねえよ、死ね!」美香は叫びながら椅子を両手でつかみ、机めがけて振り下ろした。足の一本も折れなかった。
 そこで美香はふと我にかえり、教室の外を見た。誰もいない。手早く机と椅子を元に戻し、教科書を引き出しの中にしまった。小窓から廊下に出て、早足に階段を駆け降りる。上階から別の教室の生徒が「何?」「誰もいないよ」と話す声が聞こえてきた。
 ごまかすためにはじめたことなのに、今は違和感を覚えなくなってしまった。悪いことをしようとする友達を「そんなことしちゃだめだよ、先生に言うよ」と注意したら、いつの間にか友達がいなくなっていた。「美香は先生の手下だから」と言われるたび、喉がすり減った。痛みと熱を伴い、やがてふさがった。呼吸の方法を変えた。先生に相談したら、「桜川さんをいじめてはいけません」と味方になってくれたが、ますます友達がいなくなった。大人に助けを求めて解決しようとしたら、二度と「ごめんね、また一緒に遊ぼう」と言われなくなることを覚えた。「チクり魔」と呼ばれた。親に相談すると「桜川家の女はへこたれません。強く誇り高い女でいなさい」と言われた。そう振る舞おうとしたら、今度は「自慢たらしい」「えらそう」と、ますます遠ざけられた。でも大丈夫、私は桜川家の娘、強く誇り高い女なのだ。そう思って勉強に没頭し、テストで百点を連発し、親にも先生にも褒められた。だけど、友達は誰も「美香って凄い」とは言ってくれなかった。それでも自分に呼びかけつづけた。私は桜川家の娘、強く誇り高い女なのだ。信じつづけていれば必ず理想の人間になれると母が教えてくれた。
 あいつはすぐ先生にチクる、自分はすごいと思ってる、大人に媚売ってる――自分への攻撃はやまなかった。強く誇り高い女たらんとしても、心がついていかなかった。中学生になり、今までの自分を封じるつもりで「お上品な子」として振る舞うと、ようやく友達ができた。なのに、夏樹が風宮の幼なじみだと知って、激高した。私から風宮を盗らないで。盗らないで。だって私は強く誇り高い女。こんなことで負けないんだから。風宮が、誰より大好きなんだから。
 結果、またクラス全員から無視され、いじめられ、教室でひとりぼっちになってしまった。変われなかった。いじめられてる、と声高らかに訴えても、誰もが「自業自得」「被害者ぶってる」と自分を蔑んだ。被害者ぶってる? 私は正真正銘の被害者じゃない! みんな助けてよ! 私はこんなに努力してるのに、見捨てるなんてひどすぎる!
 悪いことをした友達を注意したら無視される。気高くあろうとすれば角が立つ。大人しくなりたくても我慢がきかない――まるで漱石だ。中央を目指しているのに、ただ周辺をぐるぐる回っているような気がした。
 絆創膏の下で、痛みが増す。じゅくじゅくと、溶けるような痛みが襲う。
 高等部では「お上品な子」を継続し、出しゃばらずにいたつもりだった。それでも彩音から「自慢たらしい」と指摘される。えらそう、上から目線、自慢ばかりの美香。半分近くが外部生の高等部でも同じ。
 間違ったことはしていない。友達を注意しないほうが悪い。チクられるほうが悪い。人の好きな男子を盗るから悪い。みんなが悪い――じゃあ、この痛みはどこから来るの?
 絆創膏を貼った腕を、皺が寄るほど強くつかんだ。階段の踊り場を急いで走り抜けようとして、転んだ。床にしたたかに打ちつけた肩。激痛。床と引きつれあった肌がひりっと痛む。誰もいない。遠くから授業を進める先生の声が聞こえる。叫ぼうとして、やめた。立ちあがって階段をゆっくりと降り、講堂の渡り廊下へと歩いていった。
 いつから隠れ場所を探すようになったんだろう。


 六月の第四週、月曜から木曜までを期末テスト本番とし、金曜日のテスト休みを挟んで土曜日に球技大会が行われる。無理な予定に全校生徒からブーイングが飛ぶが、遊び半分で大会にのぞむ彩音は欠伸をくりかえす。
 期末テストそのものは、嫌がらせの手紙がないぶん、落ちついて挑めた。テスト勉強は美香のことから意識をそらす目的もあったので、暇があれば教科書やノートをひらいていた。それは美香も同じだったらしい。昼休みも、互いを無視して黙々と勉強していた。結果が貼りだされるのは球技大会後の月曜だ。五位以内ならじゅうぶんだと思っている。
 テスト休みは一日じゅう、美香のツイッターと裏掲示板のログと大型掲示板のスレを見ていた。「みぃなのほうがいじめてる」という意見は、掲示板でよく聞かれる。成績優秀でいじめられたという話も一見理不尽に見えて、美香は無自覚だろうが地の文の端々に「優秀な私は勉強できない人たちから妬まれた」という雰囲気がにじみ出ていて、確かに嫌味だ。マミとナツキを叩いたシーンでは特に顕著で、「誰も味方してくれない」と悲劇のヒロインじみたことを考え、いじめられると「みんな私を妬んでる」と原因をすりかえている。いじめっ子気質というより、被害者体質なのかも知れない。被害者は強いから誰もがその立場に甘んじるが、長く被害者でいる人間は次第に加害者へと変わる。
 当時のクラスの裏掲示板には、やはり「何言っても私が悪いことにされる」「自分が一番かわいそうだと思いこんでる」「したことは忘れてされたことはいつまでも覚えてる」という文句が連なっていた。相当嫌われていたようだ。後悔、諦念、怒り、逃避。その言葉の痛みも、何度でも味わいたくなる甘さも、彩音は両方知っている。
 美香がツイッターで荒らしをブロックしたぶん、掲示板では「俺もブロックされたw」「ここ絶対見てるだろ、内容がここの返信じみてる」「ブロックしときながら『堂々と言え』っておかしくない?w」と文句を言われていた。美香は掲示板の存在を知っているはず。彼女としてもここの内容に言及せざるをえないのだろう。「まだみぃなのことをこそこそ探ってる人がいるみたいだわ。正面きって言えばいいのに、なんてかわいらしい不良たち!」などというつぶやきがたまにある。彩音がこうして美香のツイッターをチェックしているとは、ブログを閉鎖した今、美香と礼紗は考えていないはずだ。
 手紙を書いたのは美香だと分かってからというものの、ますます彼女との距離は離れ、話さなくなった。以前は朝から放課後まで一緒にいたのに、たった一日を境に女子は関係を切れるのだ。それが普通なのだ。いくらおかしいと思ったって、女たちはそんな中を生きているし、テストははじまるし、終わる。今は由乃と一緒に別のグループに移籍し、お弁当も移動教室も彼女たちと一緒にしている。美香との関係改善が今後見込めないぶん、きっとこの状態がつづけられるのだろう。結局はそれで過ごしやすい。
 球技大会当日、バレーは体育館で、サッカーはグラウンドで試合をする。彩音はバレー漫画のキャラのセリフを叫んでふざける。彩音の友達は笑い転げる。美香派の女子はしらける。試合開始直後、彩音の弾丸サーブでいきなり一点を奪った。オタクは運動ができない、という固定観念を排斥したくてずっと体力づくりをしていた彩音は、次々と決定打を打ちチームを勝利に導いてゆく。
 他の試合が終わるまでの休憩中、美香派の女子が他クラスの女子に何事か話しているのを見かけた。そのときは気にしていなかったが、次の準決勝でその話し相手だった女子のチームと対戦することになり、嫌でも内容を把握する。サーブでもアタックでも、すべてのボールが彩音めがけて飛んでくる。レシーブをくりかえし、手首が内出血を起こして腫れる。ひりひりして痛い。しばらくは耐えられたが、やがて肘に力が入らなくなり、レシーブしたボールが顎に跳ねかえった。尻もちをつく彩音を見て、はじけるような爆笑が飛ぶ。控えにいる美香の友達だ。心配して大勢の友人が駆け寄ってきてくれたが、強く瞑った彩音の瞼の内側は赤く染まっていた。ルールを犯さずモラルを犯すか、とつぶやく。
 体育館の隅に座りこんでいる美香派の女子たちに向かって、彩音は叫んだ。
「器ちっさいなあ、自分ら!」
 一度もふりかえらずに、保健室に行くため体育館を出る。「何あいつ」「うぜえ」「きっしょ」などという声が背後から聞こえて、わざと大きな足音を立てる。
 舌を噛まなかったのは不幸中の幸いだった。顎は大事には至らずむしろ手首のほうが重症で、保健室の先生に「どんだけボールが友達なの」と呆れられた。氷で冷やしながら、彩音はただ苦笑していた。冷湿布を貼ってもらった両手を、感覚が途切れてしまったようにぶらりと身体の横に垂らす。右手には保健室利用の証明書。試合はもうできないだろう。見学の暇を潰すため、教室にケータイを取りに戻ることにした。
 いつも鍵が開けっぱなしの廊下側の小窓をするりと抜け、自分の鞄からケータイを出した。ツイッターなど、いつものサイトを巡回しながら廊下を歩く。ケータイをひらくとまっ先にネットにつないでしまう。ここ数ヶ月、ずっとそうだ。そうであれと脳神経に組み込まれているように、何も考えないままごく自然に、親指が動いてしまう。
 過去を共有する誰かが、金属音じみた声で叫んでいた。その人が何を言っているのか分かるようになってきたから、彩音はケータイのボタンの音で懸命に耳をふさぐ。
 講堂への連絡通路の途中、反対側のドアがひらく音を聞いた。出てきた美香はこちらに気づき、唇をきゅっと引き結ぶ。ふたりは数秒、見つめあっていた。知っているよりもはるかに濁った感情をぶつけるために。音が消える。感情が鳴く。今度は美香が先に目をそらした。早足に、無言で彩音の隣を通りすぎようとする。古いコンクリートの連絡通路が、靴底とこすれあってかすかに鳴く。
「試合はどないなったん」
 彩音が抑揚のない声で言った。美香はあと数段というところで足を止め、しかしふりかえらない。
「予選で負けた」
「で、今はどこに向かっとんの」
「どこだっていいじゃない。時間余らせてるんだから」
「ルーズリーフの無駄やね。本来の責務を果たさしたろうや、こんな使い方ちゃうくて」
 美香がこちらを見る気配が伝わった。彩音はふりかえり、彼女と対峙する。美香より身長の低い彩音は、普段以上に彼女が大きく見えた。それは錯覚だったのか、普段と背丈は変わらないはずなのにずいぶん、差がついているように感じられた。美香は苛立ちを隠せないように、ジャージのポケットに両手を入れた。彩音はひるまず、手に持ったケータイを操作した。つかつかと歩み寄り、彼女の目の前に画面を突きだす。
 それは動画だった。カラーだが無音で、教室の後ろ、斜め上から定点撮影されたもの。誰もいない教室に、教科書類を腕に抱えたワンピース姿の女子が入ってきた。髪型ですぐ分かる。美香だ。それをみとめた瞬間、美香は驚きに目を剥いた。
「何、それ」
 疑問とも独り言ともつかないその言葉に彩音は何もこたえなかった。美香の呼吸が早く、浅くなってゆく。動画の中の美香はまっすぐに彩音の席に向かい、手にしていた何枚かのルーズリーフを、無造作に彩音の鞄に詰めこんだ。引き出しの中にも入れる。そして何食わぬ顔で教室を出ていった。
 動画が終了すると、彩音はふたたびケータイを操作し、今度は画像を美香に見せた。『死ね』『人間として腐ってる』『風宮の前から消えろ』と書かれたルーズリーフ。その下に置かれたメモには「2012年6月20日」と日付が書かれてある。
「うちな、今月入ったあたりから誰かにこういう嫌がらせの手紙、何通も送りつけられとんねん。鞄とかロッカーとか、色んなところに入っとってな」
 彩音が新たにひらいた画像は、これまでに回収した手紙をすべて床に並べて撮影した写真だった。美香は無表情を貫いた。瞼を固定し、口を引き結び、微動だにしない。
「最初は風宮ファンの誰かやろなって思っとってん。んで、犯人が美香やってちょっとしたきっかけで分かったからな。そんで決定的な証拠掴むために」
「教室にカメラを取りつけた」
「イエス。ちなみに撮影した動画は全部、オンラインストレージに同期されとるから。毎日ぶん。さすがに下駄箱とかは予算の都合で無理やったけど、手紙は全部あるし」
「それって」美香の声は震えていた。「犯罪じゃないの。肖像権とか」
「被疑者の犯行現場のとこだけ残してトリミングして、あとは削除しとるから平気」
 んじゃそうゆうわけなんで。適当なことを言い残して階段を降りようとする彩音を、美香は呼びとめた。予想と期待に反し、美香の目はしっかりと焦点を結んでいた。ポケットに両手を入れたまま、堂々たる風情で。
「頭使って知的に問題を解決したつもり? あいかわらずだね、関西人って」
 彩音はケータイで首の後ろをトントンと叩いた。なんやねんお前、とつぶやく。
「どっから関西人が出て来たんよ。口癖やね、それ。全部の問題点の元凶がそこにあるから、集中的に叩けばええって思っとんの」
「あそこだけ別の国にして全日本人の恥にならないようにして欲しいね」
「美香もええ加減自分の襟を正して、全女子高生の恥にならんようにしたら?」
「それ全部かえす」美香は笑っていた。「あんたみたいに人の迷惑を考えない子が事件起こしたりするから、真面目な女子高生の私たちまで『最近の若者は』って悪く言われるじゃない。本当、巻きこまないで欲しいんだけど。ビデオ撮影とか、迷惑」
 心臓の鼓動が早くなる。関西人、と言われる以上に腹が立つ。ぷつぷつと途切れるレコードのような音が、耳の近くで響く。彩音は唇を舐め、得意の毒舌を振るう。
「撮影されて困るようなことせんかったらええんちゃうの。ビデオの内容については触れへんみたいやけど、ええ感じの証拠やねんで、これ。証拠がなかったら警察も動かんし、これぐらいせんとうちは泣き寝入りやん。多少はしんどかってんからな、あの手紙」
「因果応報じゃない。これで分かった? 彩音が私にしたことの醜悪さ。人の痛みが分からない子なんだね。遊び半分でやったことがどれだけ人を傷つけるか、身を持って思い知ったでしょ。私と同じ気分を味わって、後悔したんでしょ? でも後悔したことを認めるのは屈辱だから、そうやって分かりやすい証拠に残すようにして、周囲の人間を味方につけられるようにしたんでしょ?」
 珍しく饒舌な美香を前に、彩音は一歩たじろいだ。「何アホなこと言うとんねん。いじめを本気で撲滅しよう思たら、学校にカメラつけるぐらいのことせなあかんやん。それを被害者が最初にやって何がおかしいねん。立派ないじめやっといてよお言うわ」
「彩音、あんたは自分が違うってことぐらい、嫌ってほど分かってるでしょ。まったく要因もきっかけもないところからふいにいじめが起こって、理不尽な理由すらなく無作為に選ばれた人が目的なくいじめられる、そんないじめは滅多にないの。地味だとかオタクだとか、そういうのは『原因』ではないとしても『きっかけ』にはなる。分かるよね?」
 彩音の手がビクリと震えた。それを止めるためにケータイごとぎゅっと握りこむ。
 なぜだろう。ただ挑発しているだけのはずなのに、美香の言葉の端々が鋭利だ。
「何が言いたいねん。もちょっとはっきり言えや、ストライクゾーンめがけて」
「あなたじゃないんだから、そんな下品な物言いはしません」
 既に品ないやろ、と彩音の片頬が跳ねた。
「かわいそうにね。間違ってることを指摘する人が誰もいなかったから、進学で周囲の人間が入れかわって戸惑ってるのかな。自分を省みるいい機会だと思いなさいよ」
「カッコつけんで、はよ言えやボケカス」
「やだやだ。こんな口の悪い人とずっと友達だったなんて、信じられない。見る目がなかった私の責任でもあるよね。今後はオタクとのつきあいをよく考えないと」
「なーにを十把一絡げに。アイドルオタクがよお言うわ、きっしょ」
 美香の眉が少し動いたが、それだけだった。焦っているせいで、彩音は筋道立てた反論がしづらくなっている。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、とビスマルクは言った」
 美香が話をつづけた。「過去にも確かに、いじめの現場を隠し撮りしたビデオを証拠にして教師に訴えた子どもがいた。彩音はその歴史を模範としたんだろうけど、歴史からしか学ばない自称賢者は実戦スキルがなく、現実の人間相手のイレギュラーな事態に融通がきかない。過去の事例を模倣しても、現代では事情が変わってることがあるのにね」
「どっちが自称賢者じゃ」彩音がわざとらしく舌打ちをする。「経験ばっかりに頼っとったら、思いこみで失敗する可能性も高いやろ。偉人の名言や威光にすがんなや」
「私、別に全部経験から学べ的なこと言ってなくない? 経験も歴史も両方必要だし」
 言葉に詰まった。普段の美香が露骨に表に出すことのない、強気で、人を小馬鹿にするようなツンとした態度。ネット上での彩音なら、人の発言の挙げ足をひたすらに拾いあげて足場を崩すところだが、今日の美香は特に気丈だ。彼女の守る体面を崩しかねない物言いを、むしろ今日はくりかえす。その自由さに、しなやかさに、圧倒される。
「まあ、自称賢者さんは、愚者らしく経験にすがりなさいよ」美香がため息交じりに言う。「人の痛みをせっかくその身で味わったんだから、反省したあとは律すればいいだけ。ああ、でもその態度は、過去の経験から何も学んでない証拠か。更生の余地なし?」
「何を」
 訳知り顔で、と言おうとすると、美香は彩音がずっと身を呈して守ってきた地雷を強く踏んだ。盛大に、まるで祝賀の花火の打ち上げスイッチでも押すように。
「――彩音ってさ、中学のときはデブで地味なオタクで、ずっといじめられてたって?」

 女子高生向けファッション誌のスナップ特集に載ったと、記事の切り抜きを見せてくれた。確実に自分がかわいくなれるメイクを知っている。大きな目。つやつやの唇。ニキビのない肌。憧れブランドの服にバッグに靴にと、彼女のクローゼットは女の子のお城。毎日違う複雑なヘアスタイル。イヤリングにネックレス、ヘアアクセサリー、ブレスレットは放課後にみんなで寄り道する雑貨屋のもの。ワンピースの制服が馴染む細い足。プールの授業では、誰もが恥ずかしがる胸の膨らみやタンポンを気にせず、完璧に無駄毛処理をした身体をかがやかせる。おしゃれやスキンケアの相談も、いつも受けている。
 その美少女が見せる苦悶の表情は、おぞましかったがいっそ清々しい。目をいっぱいに見ひらき、唇は震えている。一歩さがり、二歩さがる。彩音の足元でコンクリートがざりっと鳴る。グラウンドで試合をしている生徒の掛け声が聞こえてくる。震えの勢いあまって、彩音の口の中で歯ががちんと鳴り、慌てて口元を手で覆っていた。滑稽だ。
 彩音はようやく、というよりかろうじて、「アホちゃうか」と言った。
「自分で言うのも変やけど、痩せてるやん。知ってのとおり、前から友達多いしな、うち。オタクなんは変わらんけど」
 早口に言う彩音を無視し、美香はジャージのポケットからスマホを出した。手早く操作し、画面を彼女の目前に突きだした。
 瞬間、ひっ、と細い悲鳴をあげた彩音。
 上半身だけを撮った写真。小太りの少女が、無表情で写っていた。長い髪は手入れをしていないのか、ボサボサで膨らんでいる。大きなメガネの奥で、眠たそうに半分閉じられた目。手つかずの眉。地味な紺色のセーラー服が、野暮ったさに拍車をかけている。
 彩音は「どこで見つけたんや!」とがなりたてた。唾が飛ぶ。
「それ、うちが中学のときの集合写真やで。なんでそんなん持ってんねや!」
「ネットばっかりやってるくせに、どうしてそんなに焦ってるの」
 彩音の眉がしかめられ、泣きだしそうな表情になる。美香はそれを見て、残酷だとは思いつつも、自分が勝てるカードだと思っているのでやめなかった。
 写真を見つけてきたのは礼紗だ。ネットの扱いに詳しい友達と一緒に、彩音の出身中学校の情報を検索した。すると、彩音がクラスで孤立していた三年生当時の学校裏掲示板のキャッシュが、美香のものと同様に今も残っていた。そこにはやはり彩音に対する元同級生たちの悪口が書き連ねられ、その多くが「言い方キツい」「毒舌」だった。相当嫌われていたらしく、悪口スレはほぼ彩音が話題の中心だ。卒業間際になると状況が変わり、「デブスのキモオタ女」と笑われていた彩音が突然「めっちゃかわいい」と驚かれていた。その流れの中で、誰かが集合写真からトリミングした彩音の古い写真と、モデルのような美少女に変身した新しい写真を並べてアップロードしていた。ネットの怖さを知らない小学生の、無責任で無邪気な遊びだった。
 そこから保存した写真だが、現在の彩音にとってはブラックボックスだったようだ。美香は、例えばこの写真の女子が今の彩音の口ぶりでクラスにいたら、と考えてみた。友達になんてならなかった。今の容姿だと毒舌もそれなりに様になる。人気者ポジションを得るために、相当努力したのだろう。しかし口の悪さまでは修正できなかった、そう考えて美香はなんだか切なくなった。人間性までは変われなかったのだと。古い写真を見ても鼻で笑うことができない、つまりまだ過去の痛手を手放せていないあたり、理想の自分像への工事は途中のようだ。未完成でも美しいサグラダ・ファミリアとは違う。光を追うのではなく闇から逃げる人間は、脚力はあっても結局光など真面目に見ていない。逃亡先がたまたま影のない場所だというだけだ。
「人気者だが毒舌家」なのか、あるいは「毒舌家だが人気者」なのか。
 彩音は数秒、黙って視線を泳がせたり、俯いたり、ぎゅっと目をつむったまま動かなかったり、百面相をしていた。親とはぐれ、どうすればいいか分からずにいる子供のようだった。痛々しくもあったが、やめなかった。
「それで、どないするつもりやねん」
 彩音がようやく、それだけを言った。美香はため息をつく。
「別に脅そうとか、そういうつもりはないよ。彩音だって、私のブログやケータイ小説を読んだわけだし。つまり、これでイーヴンなんだよ。弱みをにぎりあったっていうこと」
「けど」彩音は大きな声で叫び、すぐにトーンをさげた。「うちは美香がリアルでいじめをやった証拠の動画があるんやで。全然フェアちゃう。うちが優勢や。掲示板のみぃなスレで、撮った動画を流してもええんやで。いつもいつも、アタシいじめられてかわいそぉーって悲劇のヒロインぶってるブログの管理人がこんなことやっとったってネットで知られたら、美香、うちがいざいじめ被害で警察に訴えたときに国民全員がうちの味方になるんやで。今日も腕やられて、そろそろ耐えれんわ。ここまで来たら、これからどう社会のシステムを利用して自分の手駒を増やすか、それが勝敗分けるんや。お茶の間の一般人やネット住民を自分に同情させる。凄惨な悲劇に耐え抜く十代の少女の美談、とかに世間は弱い。カメラを用意していじめに本気で立ち向かう勇気ある女子高生、って感じで報道されたらうちが被害者確定。テレビと新聞しか情報源ない、想像力足りてへん一般人は、事件の本質まで見いひんよ。マスコミは民衆が食いつきそうな話題やったら、真贋関係なしに面白おかしく報道するからな。民衆に抹殺されろや、クソボケが」
 彩音が、勝った、とばかりに笑った。繰りかえされる報復攻撃。私が先に辛い誹謗中傷に遭ったというのに、それをやり返したらどうして私が悪いことにされるの?
 どうせそれを指摘したって、彩音はまた被害者アピールするに決まってる。それが分かっているから、美香は諦めた。そして、ポケットに入れていた手をゆっくりと抜く。
 彩音の目は美香の手を見ようとして細められ、そして大きく見開かれた。ポケットから取り出したのは美香のスマホだった。画面に大きなマイクが写っている。
「一般民衆は想像力が足りない、っていうのは納得だね」
 美香は無表情を崩さない。「民衆の愚を見つけるのは誇るべきではないが、自分自身もまた民衆であることを自覚するのはとにかく誇るべきことだ……芥川龍之介の言葉だよ」
 呆然としている彩音の目の前に画面を突きつけ、録音したてのファイルを再生する。
『うちな、今月入ったあたりから誰かにこういう嫌がらせの手紙、何通も送りつけられとんねん。鞄とかロッカーとか、色んなところに入っとってな』
 彩音は三歩目の後ずさりをした。マイクの画面は、音声録音アプリのものだ。美香のスマホから流れてくる自分の声に、うろたえ、首を軽く振り、「そこから今まで、ずっと?」と震える声でつぶやいた。
「全部録音した。私があなたを理不尽な理由でいじめたと決めつける証拠の動画は、警察に持っていくなりネットに流すなり、好きにすればいい。でも、それなら私もこの音声ファイルを証拠にする。教室にビデオカメラを設置してまで民衆の愚を利用し、自分がいじめられているという自己憐憫の材料を集めた、そんな村井彩音という自意識過剰な女子に私は理不尽な理由でいじめられていたんです、ってね」
 音声ファイルは再生されたままだ。『これからどう社会のシステムを利用して自分の手駒を増やすか、それが勝敗分けんねんで。警察やお茶の間の一般人やネット住民を自分に同情させる』――そこまで再生されたところで、彩音が美香の手元をひっぱたいた。手からはじきだされたスマホはコンクリートの床をバウンドし、連絡通路のドアにぶつかって止まった。画面にヒビが入っている。じわじわと痛む手首。目を真っ赤に充血させて、鼻水をすする彩音。おぞましい。狂気。引き下がれない。互いに。今さら、どこにも。
 美香は中学時代の彩音の写真を思い出しながら、「後悔した?」とささやいた。
「言っとくけど、あの音声ファイルもオンラインで自動保存されてるから、スマホを壊しても無駄だよ。二度と私に関わらない、生涯他人を貫きとおす、ツイッターにもケータイ小説にもちょっかい出さない、転校する、って誓うなら、データを消してもいいけど」
 誓って欲しいとも、誓って欲しくないとも、思っていた。
 ……そもそも、約束は誰のためにあるの?
 怒りと屈辱と諦念とでゆがんだ彩音の唇が動き、かすかに、死に際の虫のような声で「しばくで」と聞こえた。美香の心臓を痛みもなく貫くような、細く、鋭い、その声。
「残念ながら、タオルが手元にないんだよね」
 急に、凛としたよく通る声がその場を横ぎった。連絡通路の入り口に転がっている美香のスマホを手にし、軽く砂を払う、夏樹。ジャージを着ている。美香も彩音も、ドアを腕で押しのけて出てきた闖入者を呆然として見つめる。夏樹はスマホを美香の手に握らせ、一度も彼女を見ないまま言った。
「彩音ちゃんを泣かせたら、桜川さんに付きまとって残りの人生ぜんぶ潰して、死んでもあの世で何度でも焼き殺すから」
 それを聴いた瞬間、美香の腹から喉にかけて、ぞくりと悪寒が満ちた。ちいさく、静かで、凶悪な声。涼しい顔をしている夏樹の俯き顔。美香はどう息を吸えばいいのか分からず、頭痛がするまで呼吸を止めていた。
 夏樹は涙の乾かぬ彩音の肩をそっと抱き、「大丈夫だよ、一緒に行こう」とささやいた。崩れてしまいそうな繊細なオブジェを扱うように、彩音の肩を撫でるその手つきは優しくて、優しい。彩音は震える足で立ちあがり、夏樹にすがりつくように身体をあずけてゆっくりと歩いていった。連絡通路のドアが完全に閉まる直前、夏樹がこちらを見た。完全なる無表情だった。喜怒哀楽のどれとも違う、読めないけれど読まずには耐えられない、プラスチックでできたような表情。さまざまな色が混じった眼。たった一瞬見せたその眼に射抜かれ、美香はふたりの足音が聞こえなくなるまで立ちつくしていた。
 我に帰り、連絡通路を抜けながら、彩音が見せた恐怖と憤怒の表情と、夏樹が見せた作りものめいた無表情とを、脳内で見比べていた。美香は、明るく元気な彩音が葬ったパンドラの箱をあけた代償の大きさに、少しずつ気づいていた。
 どうして夏樹が、彩音をかばうの? 美香はバランスを失った駒のようによろめく思考を、必死で立て直そうとした。夏樹のせいでいじめられたのに。私を裏切った夏樹が悪いのに。私を貶めるために手を組んだっていうの? たったひとりで頑張っている私を追いつめるために。美香は吐き気を堪えきれず、中庭で植え込みの中に嘔吐した。何度も激しく噎せながら、土を手で掻く。爪のあいだに、胃液で粘ついた土が入りこむ。

 黄色い歓声のあがる男子サッカーのコート。戦っているのは他クラスだ。美香は応援席をふらふらと歩き、風宮の姿を探した。風宮、風宮、風宮、風宮。背の高い男子をかたっぱしから確認する。ようやく見つけたときには、彼は女子に囲まれていた。甘くかん高い声を浴びている。風宮はそれに笑顔で答えながらタオルで顔を拭いていたが、やがてこちらに気がついた。風宮の唇が「みか」と動いた気がしたが、歓声で聞こえなかった。
 何だよあいつ、という女子たちの嫌味の視線を受けながら、美香は風宮を見つめ続けていた。どれほどひどい顔をしていたのだろう。風宮は不安げに眉をひそめて美香の手をつかみ、「どこかで話そう」と言った。女子たちのブーイングにこたえないまま、風宮は美香と一緒にグラウンドを出ていった。
 ひと気のないプール、入り口前の水道の淵に座り、風宮は状況説明をうながした。たずねなくとも、彩音関連だということは分かるらしい。美香は自分が彩音に嫌がらせの手紙を送っていたことも含め、多少抵抗はあったが、少しずつ話した。
「だって、私は元々被害者だもの。どうして私が責められるの?」
 被害者なんだから、みんなが助けてくれるはずなのに。加害者を責めても仕方ないと言われるはずなのに。どうしてみんな、私が傷つけられたことを無視して「やりかえしていいわけがない」なんて簡単に言うの。
 後半は愚痴ばかりになってしまい、出てきた。ぼろぼろとこぼれる雫を手の甲で必死に拭いながら、ひたすらに訴える美香。多少の自己弁護は混じっていると分かっている。それで風宮を味方につけようとしている自分の意図も、分かる。だけどこの涙は、流そうと思って流せる涙じゃない。爪の間に詰まった土が、頬を黒く染める。
 風宮は美香の話をすべて聞くと、ゆっくりと立ちあがった。そして涙を拭く美香の手をつかみ、頬を流れる無数の雫を親指でそっと拭った。美香は風宮を見つめ、彼の名前を呼ぼうとした。その前に、頭を胸元にひきよせられて、抱きしめられる。強く、優しく。恋人のように。ああ、そういえば、長らく両親からこんなふうに触れられてないな、と思った。風宮の胸に押し当てられた頬。汗の匂いと彼の鼓動。ぬくもりが、伝わる。
「やめちまえよ、美香」
 耳元で、風宮が掠れた声で言う。「ひくんだ、彩音から」
 美香は身体を離し、どうして、と言った。声にならずに、息だけが漏れた。
「俺は最初、美香が納得するまで彩音とぶつかって決着がつけばいいと思ってた。感情をぶつけあえば分かりあえると信じてた。だけど、逆だった。ふたりは真逆で、だけど似た者同士だ。互いのプライドばっかりがぶつかりあって、結果も何も出てこない」
「けど」
「ぼろぼろになるお前を見てる俺だって辛いんだ。分かれよ、美香」
 切なげに眉をひそめる風宮に、軽く肩を揺さぶられた。じわじわと、内側からにじみ出る気持ち。誰かに守られている幸せ。好きな人にこんな顔をさせてしまう自分。それは特別な相手の証。それが幸せだということに気づいて、一瞬、彩音への憎しみを忘れた。この戦いも、最後にはこの人の胸に抱かれるためなのだと思えば、神に与えられた試練のようにも見えてくる。
 子どものころからずっと好きだった人。いつか付き合いたいと願って、もっともっと彼が笑っているところを見たくて。だけど実際、彼を苦しめてしまう私は、ひどい女だ。私の判断の如何によって、彼を笑顔にも泣き顔にもしてしまう。
 この人がやめろと言うなら。
「彩音からひく……」
 美香のつぶやきに、風宮がうなずいた。
「意地はって戦いつづけようとするな。やりすぎだ、お前も。そんなことをするほど誰かを憎む美香なんて、らしくねえよ」
 風宮の鋭い声に、美香は肩をすくめた。
「彩音の悪口を言って、そのつもりがなくても結果的に美香を炊きつけた俺も悪かった」
「そんな」
「だけど、頼む。片棒かついで、言う筋合いないって分かってんだけど、美香がここまで傷ついてんのに、つづけろなんて言えるわけないだろ。別に彩音を好きになれって意味じゃない。もしお前らふたりが本当に本音でぶつかれる親友同士になれるなら、離れてもまた戻ってこれるはずなんだ。彩音にだって、いいところはたくさんあるだろ?」
「いいところ……」
「お前は彩音の欠点を山ほど知ってる。だけど、だからこそあえて長所を探そうとするのが尊いんじゃないか。言われたからやるってのも不実だけどさ、探してみろよ」
 美香はそう言われ、彩音とすごした三ヶ月を肯定的に回顧しようとした。同率一位を素直に喜び、満面の笑みを浮かべていた入学式の出会い。同じクラスになれて嬉しいと言った。自分が仮病を使ったとき、心底不安そうな表情で保健室まで連れて行ってくれた。一度目の口論から今まではほとんど話さず、話しても嫌味のようなことしか言えなかったので、あまりいい思い出がない。
 それでも、と美香は思った。彩音は毒舌だけど、人を傷つける嘘をつく子じゃない。いい意味で誰に対しても誠実で、態度を変えず、不当だと思えば教師相手でも議論を吹っかける。テストの結果をもてはやされても「そんなことない」なんて言わない。頑張って勉強したからいい結果が出て嬉しいと、ひけらかすでもなく自然に言えてしまう。だから彼女は優秀で、だけど鼻につかない。自信にあふれた横顔が、まぶしかった。
 そのまぶしさを、自分は持っていない。
 本当は、理不尽にいじめられていたわけじゃないと分かってる――中等部のいじめは、美香自身のヴァルネラビリティによるものだということも。自慢ばっかりの美香ちゃん、という悪口はまぎれもない事実だ。風宮を盗られたくない一心で大切な友達を殴ったことも、本当は覚えている。だけど実話と騙ったケータイ小説を書くことで、次第に記憶を上書きしていけた。思い出す必要性を、捨てた。
 波風を立てない方法を覚えてからは、息苦しくはあっても、生きやすくなった。自分が我慢すれば誰からも攻撃されずにすむ、穏やかに学校へ来て帰られる。風宮とも話せる。以前の自分を払拭できる。ときどきは失敗するが、マシだ。
 演技をつづけてきた自分には、反感を買うことなど考えずになんでも言える彩音が、無理を己に強いていないように見えた。彼女のように好き勝手に振る舞ってクラスで孤立していた美香にとって、彩音は素直で自由で、自分という人間に対し正直に生きているように見えて、なぜそうできるのかと悩んで。
 庶民からの叩きあげで、傍から見れば馬鹿としか思えないあのやかましい女が、成績で自分と張っていることが悔しかった。それも、自分が守りつづけたかったもの、手に入れたが取り扱い方が分からず火傷してしまったものを、子どものころから持っている。それを手にすることでついてくるリスクを、痛みを、気にしない。痛みに耐えながら前に進んできた美香は、彩音はいつ痛みを知るのかと不安になった。出血を避けられなかった自分と無傷の彼女との違いを探した。
 悔しい、と思いたくなかった。だから痛みを教えたかった。自分が傷つかないために避けてきたことをやる彩音に、同等かそれ以上に苦痛を与えたかった。あの生き方が正解だとは思わなかった。痛みを知らずには無邪気な笑顔などありえない、と信じていたから。
「……彩音は」
 美香はずいぶんと時間をあけて、ぼそりと言った。「素直で、強い子なんだよね」
 風宮は何も言わなかった。
「だから、羨ましかったんだ」
 風宮は、今度は首を縦に振った。
「私は自分のやりたいようにやって嫌われたのに、似たようなことして傷つく素振りも見せない彩音が、ぜんぜん分からなかった」
「分からないってことは、怖いもんな。美香がクラスでハブられてたのは、俺もよく知ってるし。それでだんだんちいさくなって、今じゃ大人しくなったもんだけど、美香も元々は彩音みたいに口悪かったもんな。なんで彩音だけ、ってなるよな。悔しいよな」
「悔しいより、情けない。私だって、考えかたをうまく変えられたら、あのときのまま傷つかずにいられたかも知れない。彩音みたいに平気になれたかも知れない」
「だな。お前、正義感が強すぎて友達なくした系だったもんな。チクリ魔とか言われてさ。でも、別に悪人じゃなかったんだ」
 痛みに耐えきれず自分を縮小した自分と、傷つけあっても己を曲げなかった彩音。自分らしく、自由に、生きたいように生きることは、どこまで厚顔になれるかという問題と常に紙一重だと思い知った。
 それでも、彩音だって昔の写真を見てあれほど動転するのだから、自分と似たようなものだ。過去を思い出す必要がなくなる場所に逃げて、前ばかりを見つめている見栄っ張りの少女。必死で前を見ようとしても、後ろがなくなるわけじゃないのに。
 彩音は今、どこを目指して歩いているの?
 本当は後ろを振り向く勇気のないただの十五歳。いつかは過去を俯瞰できるようになる日が来るかも知れない、なんて考えもしない高校生。一途に未来を見ろという手軽なポップスの歌詞を付け焼き刃なエンジンにして歩く。彩音は自分よりも少し前でひたむきに生きているように見えたから、その背中を見たくなかった。実際は彩音だって過去から逃げている途中なのかも知れないが、やはり今の美香が欲しいものを両腕に抱えている。
 そうだとしたら。自分が持ち合わせていない彩音の武器を模範し、同じ脚力をもってして彩音の隣に自力で並べばいいのではないか。そのときに横を向いて、舌でも出してやればいい。彩音はそんなことでは怒らない。むしろ不敵に笑って競争したがるだろう。
「好きになれるかな」
 誰にたずねるでもなく、ちいさくつぶやく。「彩音のこと」
 宗教画に描かれた天使の梯子のように、美香の足元を細く照らした光。導かれ、あるべき場所に降ろされた。彩音を許せなかったのは、それ以上に嫌いなものがあったからだ。
「風宮、ありがとう」
 ちいさくつぶやくと、風宮が優しく頭を撫でてくれた。よしよし、と言いながら、その大きな手で。美香はそのあたたかさと愛しさに、涙が溢れそうになった。
 傷ついて、間違えて、誰かを傷つけて、迷って。それの繰り返しで得たものをいくつもいくつも積みあげて、大人になっていくんだ。痛みを知っている人間が、誰かの痛みを癒すために奔走できるのだ。
 彼女と、また友達に戻りたい。
「すぐには無理かも知れないけど」
 風宮が、ふわふわとしあわせな気持ちでいる美香に現実を見せる。「今の美香は、彩音とすげえ喧嘩した直後だし、あいつを見てまた嫌な気持ちになるかも知れない。とりあえずあと二週間弱、耐えよう。来月の十九日は終業式だ。夏休み、思いっきり好きなことをやって気分転換してみな。彩音と一度もメールしなくていい。礼紗とか俺とか、美香のことよく分かってる友達とめいっぱい遊んで、ゆっくり自分を見つめてみろ。つらいだけの掲示板巡りなんてするな。夏休みが明けたら、色んなところが変わるはずだ」
 美香は強くうなずいた。その拍子に涙がこぼれそうになったけれど、必死で耐えた。
 きっとうまくいく。彩音とあんなに仲良しだったんだ、こんなに簡単に関係が切れるはずがない。現実に落とし込む力を持たない、無駄に質量だけある夢や希望に縋る時代は終わったのかも知れない。だけど、夢や希望がまったくなかった時代など、創世記から今まで一度もなかったのだ。人を人たらしめる、不確実だけど何世紀も受け継がれたもの。
 風宮は、ただ笑っていた。こうしているだけでしあわせだった。そのことだけは、ありのままに誰かに話せる気がする。

 夏樹に支えられ、自分の席にゆっくりと腰を下ろす。顔を水道で洗ったので、身体は楽になっていた。水で少し濡れた体操着が気持ちいい。夏樹はジャージを彩音の肩に羽織らせた。ぐったりと力の抜けた彩音は、膝に置いた自分の手が細かく震えていることに気づいた。止まらない。血が通っていないように、冷たい。こんなことは初めてだ。
「具合はどう? 顔色、だいぶよくなったみたいだけど」
 椅子の横にしゃがみこみ、夏樹が頬に手を当てた。あたたかい。不安げに揺れる夏樹のまつ毛を止めたくて、彩音は笑って「もう平気」と言った。グラウンドから野球チームのバットの音が聞こえる。
「ごめんな、またなっちゃんに助けられた」
「ううん、たまたま通りかかっただけだし、試合はもう負けたから」
 にへ、と笑う夏樹の無邪気な笑顔に癒される。ああ、ほんまにええ子やなあ、こんな子が美香にボコられたとか、ほんま許されへんわ。彩音はぎゅっと拳をにぎった。思い出すと急に腹がムカムカしてきて、また顔をしかめてしまう。夏樹がそれを見て悲しそうな表情になり、「ごめん」とつぶやく。
「さっきの桜川さんとの会話、実はちょっと立ち聞きしてたんだ」
「ドアの向こうで?」彩音はぎょっとして、椅子から腰を浮かせる。
「本当にごめん。でも、聞き捨てならない話だったから、黙って立ち去って、彩音ちゃんの前で平気な顔していられる気がしなかったし。彩音ちゃん、盗撮って本当?」
 彩音は数秒、どう説明しようか逡巡していた。だが、やがて観念し、掃除用具入れの上を指さした。夏樹が背伸びしてその上を見た。取り付けたカメラを見つけたのか、夏樹はまずいものを食べたように表情をゆがめた。
「美香を後悔さしたりたかってん」
 何を言っても言いわけにしかならないと分かっているから、何でも言えた。
「成功した前例をネットで見たからな。動画を見せつけて、これで美香を屈服させられる、今までのことぜんぶ謝らせたんねん、って。でも、あかんかった。出し抜かれた。あの子がネットの力に勝てるはずがないって思っとった。ちゃうねんな、美香の場合」
 彼女には礼紗も、ネットでの交流もある。案外、ブロガー時代の常連に協力を仰いだのかも知れない。誰かに彩音の情報を開示し、昔の写真を見つけてもらったのかも。彼女の友人に彩音の過去を知る人がいたのかも。自分の甘さを思い知る。強くあろうとすることは、他人を貶めることとは違うのに。
「なっちゃん。あんな。うち」
 膝をかかえ、顔をうずめて言う。「小学校のころ、めっちゃデブスやってん」
「大丈夫、言わなくていいから」
「ううん、言わして。聞いとったやろ。整形前後かってぐらい今と全然ちゃうねん、昔のうち。そんなデブスがさらにオタクやろ。んで、今と大して変わらん口の悪さ標準装備でな。自分で言うけど、いじめられとってん」
「そんな」夏樹が彩音の手をつかんだ。「オタクだなんて、理不尽ないじめだよ」
「そやで、オタクとかデブやとか、そんな理由でいじめるやつなんか、アホやと思う。けどな、うちは違う。毒舌で、なんでもズケズケ言うって、めっちゃ嫌われとってん」
 夏樹は何も言わなかった。話を聞く体勢でいるのだと思い、彩音はつづける。
「いじめられる原因は、自分がオタクでデブスやからって思っとった。そういう悪口もあったしな。けど、ほんまは気づいとった。毒舌が本当の原因やって。そんで、それがすぐ修正できる性格ちゃうって知っとったから、体型が原因でいじめられたってことにした」
 そのほうが周囲の同情を買えると思った。実際、理不尽な理由でいじめられていると主張すれば教師は味方になってくれた。彼らに守られて、目をそらしていた。
 いじめの原因。被害者が呼んだ火種。
 良太が言ったことを思い出す。『いじめる側の気分で始まったいじめは卒業すれば終わるけど、卒業や転校で人間関係がリセットされてもいじめられるようなら、それはお前に責任がなくても、いじめの火種を自分で作ってるってことやで』
 分かっていても、別の安直な理由を引っ張ってきてそれをいじめの原因にしないと、耐えられなかった。必死でカメラを回して、美香を絶対的に加害者に出来る証拠を集めた。いじめられた自分にきっかけがあることを認めてしまえば、壊れてしまうと思った。
 彩音が自分の性格を一切かえりみず、自分が被害者になりやすい理由を探して教師を味方につけたことは、かつてのいじめを悪化させる原因になった。トイレで頭から酢をかけられたり、体操着に潰れた虫の死骸を入れられたり、それこそ嫌がらせの手紙を毎日下駄箱に入れられたりした。そのたびに彩音は「オタクでデブス」だからいじめられているのだと思った。そうすれば簡単に相手を加害者にできる。大勢を敵にまわしても、倫理的には自分が正義になれる。彩音は自身の攻撃誘発性から目をそらしつづけ、他人に惑わされない自分の生き方は素晴らしいと信じた。
 ビリビリに破れた算数の教科書を掲げ「こんなんされたんですけど」と先生に言った。放課後、女子のグループに囲まれ何度も蹴られた。「オタク」「デブス」に混じっている「椛音は言い方がひどいねん」という言葉を無意識に流した。「ブスでオタクだからっていじめられてます」とホームルームで言うと、「人の体型や趣味を笑うのは最低です」と先生が味方についてくれた。「でも先生、村井さんにこんなことされたんです」とグループのリーダー格が椛音の前科を話そうとして、飛びかかって止めた。
 それでも、そうして自分をごまかし平気なそぶりをすることに慣れても、嫌だった。逃げたかった。迷った末の結論がイメチェンだった。絶対に勝てる武器が欲しかった。ブランド服で武装し、コンタクトに変え、ヘアスタイルを研究した。ダイエットした結果、雑誌のスナップ特集に載った。誰よりもかわいくなった彩音は、クラス全員を圧倒させた。男子を全員振り向かせ、女子の妬みの視線を心ゆくまで浴びた。決して尊敬されたわけじゃない。卒業するまで孤独なままだった。しかし、そんな自分を誇っていた。それが自信になり、背筋を伸ばして、名門校への切符を片手にふんぞりかえって卒業した。
 だからこれ以上、盾を削られたくない。
 家柄も品もよく、人望の厚い、初等部からずっと成績優秀な美香は、まさに自分と正反対の人物だった。痩せていて美人で、毒舌なんてもちろん吐かない。漫画の主人公のようなお嬢様。美香のように育てられていれば、いじめられなかっただろうと思った。一緒に過ごすに連れ、やがて陰湿な荒探しをするようになった。浮き彫りになる自分の欠点、美香の本性を間近で見てしまう。そんな日々はじわじわと彩音の心を溶かし、壊す。努力しなくてもはじめから秀才美人だったくせにと、嫉妬の矛先が鋭くなった。底辺から努力して這いあがった自分のほうが尊いのだと、社会の厳しさを知ったような素振りで叩いた。生き抜くために紗音が必死で壊した壁を、誰かから与えられた梯子で悠々と乗りこえてきたように見えた美香。地面に引きずり落として、使い古された大人の言葉で彼女に壁の高さを教えてやりたかった。彼女に自慢混じりに何かを言われるたび、忘れたはずの昔の自分を眼前に突きつけられる気がした。
 彼女の生き方を、ただ否定したかった。同じ痛みを知って欲しかった。
「うちはな、頑張って見た目磨いても今こんな状況やろ」
 彩音は自嘲気味に笑った。「変わらんかってん。綺麗になっても、転校しても、めっちゃ友達作っても、性格が変わらんからまた繰りかえす。毒舌な自分を個性って認めるんも中途半端で、かといって性格改善のための真っ向勝負も怖かってん。自分の嫌なとこ、誰だって直視したくなんかないしな。いつみんなから嫌われるんかビクビクしてばっかやのに、イメチェン成功して名門校入ったっていう脆い自信でどうにか耐えた。堂々としてるって言われることあんねんけど、そんなん人工物やで。そうせんと、やっと見つけた今のしあわせが壊れるかもって、怖いだけやねん」
 苦笑まじりにため息を漏らす。どす黒い吐息も、夏樹は受けとめてくれる気がした。
 他人を傷つけて自分も傷つく人間。孤独が嫌いなくせに人を思いやれない。
「ごまかして乗りこえたつもりでおるうちの目の前で、今まさに同じ崩れ方をしそうな美香がぼけっとしとるやろ」彩音の声が次第にちいさくなる。「うちはこんだけ必死で立ってんのに、こいつは荒らしにも噛みつく強さがあるし、家柄も頭もええからこのまま生き抜けるんかと思ったら、ムカついてん。ありのままの自分でいるって、世間からの批判とか人を傷つける罪悪感に鈍感やないとできひんことやのに、あいつは気丈でいる。うちは臆病。分かっとんねん。一発叩き崩したりたいっていうんも、ほんまは……」
 彩音はそこで言葉を詰まらせた。口にすることを恐れた。
 美香にすべてが露呈したことが、今はひたすらに怖い。積みあげてきたものが、どんな手で崩されてゆくのか。悲惨な末路ばかり想像できてしまう。それが怖くて、動けない。
「彩音ちゃん」
 夏樹は彩音の手を強く握った。夏樹の目は充血し、口元をきゅっと結んでいる。彼女は決心したようにゆっくりと息を吸い、優しく語りかけるように話した。
「彩音ちゃんは、本当に、桜川さんが大好きなんだね」
 はじかれたように顔をあげた彩音。夏樹はしゃがんだまま彼女を見あげ、微笑んだ。
「だって、憧れてるんだと思う。桜川さんみたいに上品できれいな女の子が羨ましくて、だけどそれが怖くもあって、だから彼女の荒探しをしてたんでしょう?」
 羨ましくて、怖くて。自分が今まで何をしてきたか分からなくなりそうで。
「いや、確かに」彩音は慌てて言う。「美香みたいな子ええなーって思うで、たまに。けど、その嫉妬だけでここまでせんよ。そもそも嫌いやねんて」
「うん、分かってる。でも、彼女が大好きで、だからこそ許せなかったんじゃない? 」
 夏樹の言葉が、柔らかいはずなのに、深く深く身体に突き刺さる。
「でも、なっちゃんのこともあって……」
「それも分かってるよ。だから、彩音ちゃんが桜川さんに向ける怒りは、とにかく色んな原材料が混ざってるんだと思う。どんどん複雑になって、だから彩音ちゃん自身でも収拾がつかなくなって、混乱してるんだよ」
「ごめんな、なっちゃん」彩音の声が涙声になる。「迷惑かけとるのは、うちやん」
「ううん、そんなこと気にしてない。それよりごめん、ちょっとだけ口出しさせて」
 夏樹が悲しげに笑う。自分が喧嘩の原因の一端をにぎっていることで苦しんでいるのだと、彩音にも分かった。夏樹は優しい。人の気持ちに敏感で、決して責めない。ああ、だからなっちゃんはみんなの憧れやねんな、と彩音は思った。なっちゃんのようになりたいな、とも。
 悲しげな笑顔のまま、夏樹は静かに言った。
「桜川さんと、しばらく距離を置いてみたらどうかな」
 キン、という金属バットの音がその場の空気を切り裂いた。歓声。土埃。空の青さ。忘れてしまいそうになるのに、明瞭な色彩。
 彩音は一ミリも動かなかった。ようやく動いた唇からは、ため息が出た。
「やっぱそうなるんやね。うちもちょっと考えとった。夏休みもあるし」
「そう、夏休みだからだよ。長期休暇のあいだは、登校日以外学校に来なくてもいいようになる。ひとりになってさ、ぼんやりのんびり過ごしたら気持ちも整理されるよ」
「恋人同士やと、距離おいたら別れ前提ってよお言うけどな」
「お互いがぴんと引っ張った状態の糸は、いざ切れたときお互いに反動で転ぶでしょ? ゆるんでるほうが倒れにくい。今は張り詰めすぎてるから、落ちつくべきだと思う」
 冷静に導きだされた夏樹の提案を、彩音はじっと黙って考えた。美香は確かに、少し前まで友達だった。今は違うと思っている。美香も自分を嫌っているだろうから、そんな人にわざわざ好かれようと思わない。だけど、現状で生産性があるようにも思えない。
 生まれながらにして上品な美香と、あんなにも距離が近かった。彼女のようになりたかったと思うにつれ、ああはなるまいと反面教師にする材料を探すようになった。濁りをごまかすために彼女を「自慢たらしい」と批判し、彼女によく似たみぃなを叩くことに必死になった。そうして彼女を遠ざけて痛みを感じないようにしていても、これまでの繰り返しで、きっと自分は二度と何者にもなれない。
 これまでの自分を捨てることが「成長」だと思っていたから、拳を解けなかった。
 漫画好きで成績優秀、元気いっぱいなお調子者の村井彩音。根暗で毒舌で攻撃的な態度の、小汚いオタクだった村井彩音。光の眩しさも影の魅力も知っている。だけど光を目指すために日陰から這い出てきたから、どこかで、いつかまた加害者の烙印を押される日が来るのかも知れないと恐れていた。だから美香の隣は痛かった。ささやかな誇りだった自分の努力が、自分を変えようとした日々が、もう二度と肯定されないような気がして。
 これまでの醜態も、これからの不安も、ぜんぶが村井彩音だと言われたかった。
 それならば。彩音はゆっくりと深呼吸した。妬みも羨みも怒りも、全部を自分に向けてしまえたらいい。今までの感情をすべて逆噴射させて前へ進めば、ただ怖がるよりもいいんじゃないか。未来への橋が不安定なら、自分の手で修理すればいい。別の何者かになろうとしても結局は失敗する。最後まで胸をはって村井彩音として生きていくために、今しなければいけないことがある。美香への嫉妬も憧れもすべて自覚した今なら、時間はかかってもきっとできる。彼女に影響されたい。逃げたままで「自信がついた」などとどんな顔で言えるのか。
 いつかは美香のことだって許せるだろう。彼女が苦しまずにいたなんて思えない。程度の差こそあれ、自分だって彼女を傷つけた。知っているはずだ、あの子の長所を。
「一時休戦、ってとこなんかな」
 椅子の上で伸びをしながら彩音は言った。夏樹は嬉しそうに笑い、「そうだよ」とこたえた。その笑顔に、彩音はまた癒される。
 誰かを貶めるためではなく、しあわせになるために下した結論は、こうも人の心を優しくさせるのか。最初からできていればよかったのに、うまくいかない。ブログや掲示板を巡回して、美香を貶めるだけの日々。その中で、自分は一度だってこんなにしあわせな気分になったことはなかった。得られたものは優越感と、選民意識だけだった。
 もうやめよう。――その尊い一言をはっきりと言葉にするために膨大な勇気が必要だなんて、美香の友達にならなければ一生知らないままだっただろう。
 彩音は夏樹の手を握り、「ありがとう」と言って笑った。夏樹は嬉しそうに笑いかえした。きっとまた、美香ともこんなふうに笑いあえる日がくるはずだ。いや、その日を自分で作らなければいけない。そのために費やされる膨大な時間を、惜しむことはなかった。
2013-10-19 22:35:56公開 / 作者:アイ
■この作品の著作権はアイさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
3話ぐらいで完結させようと思っています。

念のため記載させて下さい。
何かとツッコミどころが多いですが、この作品は完全なフィクションです。執筆時期は2010〜2011年です。
私の実体験などではなく、実際の事件や誰かの経験談とは無関係の、100%空想上の物語です。
特定の個人や団体や既存の作品を皮肉ったり批判するものではありません。
また、主人公たちの思想や価値観は私自身の考えを投影したものではなく、あくまで彼女たちのキャラクター、性格、個性として一から創作したものです。
彼女たちの意見が必ずしも私の意見と一致しているわけではありません。
作品にある彼女たちの犯罪行為やいじめなどに対しては、糾弾する姿勢でいます。

エンターテイメントとしてお楽しみください。
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