『あこがれ』作者:SOM太郎 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角11013文字
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原稿用紙約27.53枚
      一

 窓の外を見やると、薄黒い雲が厚く伸びていた。ところどころの隙間から夕陽がさしこんで、空から地上にぴんと張った糸のようだった。
「竹本、やっぱ神戸を目指すべきじゃないか」
 さっと目を前にやると、秋本先生が目元に手をあてて額にしわを寄せていた。先生は考え込むとき、いつもこうやって目つきが強張るのだった。
「確かに今のお前の成績だったら難しいかもしれないが、今からなら、もっと成績は伸びるよ。現役生はそこからが勝負なんやって」
 僕が「はあ」と所在なげに言うと、先生は溜め息をついて頬杖をついた。「お前は別に成績が悪いわけじゃなくて、むしろいい方なんだが、いまいち模試はぱっとしないなあ」先生はそう言うと、僕を試すように見てきた。頬にはたくさんのにきびが出来ていて、ぼこぼこしていた。
「そうでしょうか。僕にはどうもやりきれる気がしないんですよ。何だか雲の上のような話がしてて」
 そう言って焦点をを先生から模試の成績表に当てた。神戸大学の判定はE、残りはCやDをさ迷っていた。どうやっても変えられない数値にやきもきしていた。こんな薄っぺらいものに、僕が不出来という印を押されてしまった。
 先生が腕を机から下ろすと、少し前のめりになった。
「目標を定めないと、出来るもんも出来なくなんで。とりあえず、ここを目標に頑張ってみたらええんちゃうか」
 僕はよく分からないまま、頷いていた。先生の言ってることは何も間違ってないし、正論だと思う。受験勉強をやってないのは僕のせいなんだから。
「分かりました先生。そこを目指して頑張ってみます」
 先生は大きく頷いて「そうか、分かった」と言った。僕はありがとうございましたと言って、エンジ色の鞄を背負った。
「失礼します」
 何だか気恥ずかしくて、視線を下に向けながら言った。そして、そのまま扉を開けて廊下に出た。扉をそっと閉めて前を向くと、ゆっくりと雲が動くのが見えた。目を少しずらした先に、窓際に波多野が椅子に腰掛けていた。
「竹本終わったんだ。どうだった?」
「いや、全然。秋本に押し切られちゃってさ。結局、神戸にしたんだ」
 思わず息を大きく吐き出すと、波多野が顔を綻ばせた。
「竹本はいつもそう言うね。でも僕は竹本なら何だかんだで出来ると思うんだけど。少し、自信が足りないんだよ」
「だけどさ、実際の結果も良くないんだよ」
 僕は成績表を鞄から取り出して、波多野に見せた。彼は目を一瞬だけ少し大きく広げてそれを見つめた。十秒くらい眺めると、僕に返した。
「数学とか他の科目は悪いかもしんないけど、国語は大したもんだって。自信もてよ。国語が出来るんなら、他のやつもすぐに伸びるよ」
 彼は朗らかな笑顔を浮かべると、立って僕の肩を軽く叩いた。
「そうか、ありがと」
 彼は「おう」と返事を返すと、滑らかに光る床から鞄を持ち上げて教室に入っていった。
 僕は何となく彼の触った肩をさすってみた。彼が励ましてくれたときのような頼もしさは全然なくて、情けなさばかり感じてしまう。鎖骨なんていかにも折れてしまいそうだ。
 そもそも目標を定めるっていったって、僕には土台無理な話だと思った。やりたいことなんてないし、この大学じゃないといけないっていう固執もない。波多野は東大に行くと言っていたが、どうして目標が定まるんだろう。元々勉強してたから、目標が現実的だったのだろうか。彼には僕が無いものを持っているみたいで、とても羨ましかった。
 教室置きに座っている同級生に目を向けながら、廊下を進んでいった。光沢のある緑の床が、ところどころ埃っぽかった。

      二

 塾の教室に入ると、にわかに活気付いた生徒達が騒がしく話をしている。他校の生徒が着ている紺色のブレザーがちらほら視界に入る。クリーム色の机が並ぶ中、黒い学ランを着た男が目に入った。和田だ。
「おい、竹本。席隣やぞ」
「あれそうだっけ。席順見てなかったよ」
 通路側にいた生徒に椅子を引いてもらって、和田の隣に座った。
「今日授業始まる前からねみーわ」
「そうなん? 夜遅くまで起きてたとか?」カバンの中から授業の用意を引っ張り出しながら、彼の顔を横目で見た。妙に白っぽく浅い皺がついた顔は、神経質な印象を感じてしまう。
「いやー。アニメを遅くまで見ちゃってさ。引きどころが分かんないのよ。参ったなあ」彼は口元を綻ばせて、嬉しそうに言った。ぶつぶつ文句を言っているようだったが、実際のところ自分のやったことに疑問は持っていないようだ。
「分かる分かる。きりのいい所って言っても、結局全部見ないと気が治まらんしね」
「お、分かってるじゃん」
 彼は軽く拳を握って、上下に振った。調子のいいときは良くこうする癖があった。僕は彼の朗らかな性格を気に入っていた。話しやすい裏表のない友人だった。
「そんで、こっから授業じゃん。起きてる自信が全然ないわ」
「さっきも同じようなこと言ってたよね」
「あれ? そうだっけ。まあ、いいじゃん」
 彼がきまりが悪そうに笑うと、僕もつられて笑ってしまう。
「でも頑張って起きなよ。せっかく来てるんだし」
「それでもなー。眠いときは寝んと駄目でしょ」
 それもそっか、と思いながら小テストの範囲にあった単語帳を開いて、ぱらぱらとページをめくった。
「単語ってさ、今覚えててもすぐ忘れるよな。時々やってて意味あんのかなーって思うよ」
 和田が僕につられて単語帳を引き出している時に、そう僕が言った。彼はページ番号を確認しながら、ゆっくり捲っていた。
「しゃあないやん。今やってることやらんと、前にも進まへんし」
「それはそうなんだけども。数ヶ月以内に全部覚えなきゃいけないのに、このペースっていうのはなあ」と言って、僕は溜め息をついた。すると、彼は大きく何度も頷いた。
「まったく同感。ほんとやってられんよな」と彼が言うと、少し間を挟んで、続けて言った。「でも考えすぎやって。そんな深く考えてると何もできなくなるで」
 少し、はっとした気持ちになった。思わず、彼の目をまじまじと見つめた。
「そうかも、しんない」
「やろ」と笑って、彼は再び単語帳の左を手で隠して、覚える作業に戻った。
 深く考えてはいけない、その言葉が何度も頭の中に反復して大きくなっていく。振り子の触れ幅が段々広くなるみたいに。それは言い様のない不安だった。当たり前の事を、当たり前じゃないと一度思ってしまうと、おかしくなってしまう。
――これ以上、いけない。
 僕はそう割り切ったつもりで、目の前の単語帳に集中した。何かに熱中すると、不安がどこか消え去ったように思えるからだ。

      三

 街のネオンが視界にちらつく。薄暗い電灯のついた建物から出てきた僕には、強い蛍光色が眩しかった。目の前をよぎる車の赤いライトが、黒塗りの道路を照らしている。不自然に明るいこの街は、どこか現実感を失っていた。
「バス乗ってる間って暇だよなー」
 和田が腕を組んで、体を揺らしながらそう言った。
「そうだねえ。乗ってる間まで勉強したくないもん」と僕が呟くと、和田は僕の方を向いて「ほんと、それ」と言った。
「それで、携帯で動画見てるんやけど、どうも飽きるんだよな」
 へえ、と相槌を打った。「というと?」
「見てるとき、集中できなくてさ。バスで成績がどうのとか言うやつの話を聞いてたらいらっとすんのよ」
「あるある。気にしないでいようと思っても、何か気にしちゃうんだよな」
 彼は前にいる女子高生の集団に目をやった。彼女達は人目を気にせず、わいわい騒いでいた。膝より高いスカートに目がいった。足が太い。
「馬鹿やってるときって、そういうの全然気にしなくて済むけど、一人でいると不安になっちゃうんだよな」
 話してる時の顔を覗き込むと、彼は唇を横に引き伸ばしながら難しい顔をしていた。「何かしようと、何かしようとって思うけど、やっぱ気が散ってさ。バスに乗ってる時間がめっちゃ長く感じるんだ。実際は二十分もないんだけど」
「分かる、分かる。無駄に煽られてる気分だよな」と僕は言った。不安になってるのは、僕だけじゃない。僕だけが特別なわけではないんだ。僕は顔が赤くなった気がした。
 だよなあ、と彼が言うと、しばらく会話が途絶えた。何分かすると、信号が青く点滅して赤になった。そしてビルの角からひっそりとバスが出てきた。
「来た来た」と彼が声を弾ませて言った。すぐに黄色いバスが音を立ててそこに止まる。
「じゃあな、ばいばい」と彼が手を振るのに、僕が応えると彼は表情を緩めて、嬉しそうに笑った。彼がバスに乗ってから少しすると、バスが発車していった。
 やっぱ誰でも夏前のこの時期だと焦ってしまうのだろうか。でも彼らはそれから逃げるために一生懸命勉強するけれど、僕はそこから目を逸らしてしまう。結局、同じ「逃げ」なんだけど、彼らの「逃げ方」は正しい逃げ方だった。和田は僕と似ている。けれども彼はいずれ道を違えるだろう。僕はやらない自由を得てしまったが、彼にはそれがない。
 ぼんやり物思いに耽っている途中に、僕の乗るバスが来た。そこに足を進めて乗る列に加わった。そして、遠くで車が霞むのを、なんとなしに見ていた。

      四

 入道雲が上へ向かって、もくもくと沸き立っていた。飛び抜けるような青空は、心広くそれを迎えていた。ゆるやかな熱風に煽られて、雲が動くにつれて影が移り行く。雲が僕の上に陰ると、周りが唐突に暗くなった。
 華やかなオレンジ色のコンクリートをこつこつ歩いていた。夏に入ってから講習続きだった僕は、やっと合間の休日がやってくると、親に自習室に行ってくると嘘をついて、少し遠くの川沿いに出かけた。
 透明な水の底にはでこぼこをつけた、焦げ茶色の石敷きが浮かび上がっている。ところどころの、せせらぎは白く泡立っていた。
 ちらちらとその景色を眺めやりながら、川辺を道なりに歩いていた。少しでも気分を晴らそうと散歩に出て、過ごそうと思っていたが、思ったよりも気が散って集中できなかった。明日の英語の講義は4時からだっけ、その後は世界史で、その次のタームは国語があるんだったか。迫り来る現実に、対処せざるをえなかった。だが、それらしい義務をただ並べられても、気なんて全く乗らなかった。
 どうやら、僕以外の友達はこの状況を当然だと思っているようだ。やらないと未来がない、ここに行かないといけないから勉強をする。でも、そういった人達を僕は理解できなかった。誰もかれも、自分の意思なんて無いことに気づいていないんだ。ただ相対的に流れるしかないのに。

 無性にもやもやとした気分を抱えて、大きい池に辿り着いた。ホテルの裏にあたる場所で、景色がよく見えるように設計されていた。暗く淀んだ池は、さっきまであった川とは違い、ゆっくりと波紋を立てるだけで流れはほとんどなかった。
 ここに来たのは二回目だった。一回目はさっきと同じようにふらふら歩いていたら偶然辿りつき、今までにない解放感を覚えたのだ。しかし、この二回目は違った。一度、知ってしまうと、あの解放感は湧かなかった。きっと遠くに行けば、もっと違う喜びが湧くのだろう。だが、それも多分同じだ。どこまで行ったって、最後に帰る場所は家か塾なのだ。僕に自由はない。腰に縄をかけられてるみたいに、引きずり戻される。
 どうせ、生きているだけ不幸なのだ。相手の期待には応えられない、無条件に期待をするだけしといて、最後は失望で終わるのんじゃないのだろうか。
 秋本先生だってそうだ。口では勝手にあんな風に僕をおだてておいて、いざ結果を出せなかったら「ああ、駄目だったか」と言うのだろう。結果を出して当然。出せなかったら失望。そんなのは、やってられない。
 でも、これが負け犬の論理だというのは、知っていた。そんなものを感じず、やることをやり、世間一般に合わせて、それをさも当然のように受け取ることが、普通なのだ。もしそこから離れれば、人から理解の得られない狂気の領地に入ってしまう。そう考えると、もしかして僕は狂っているのではないか、という疑問もやって来るのだった。
 何回頭の中で話題を回してみても、結局救いようのない結論しか出ず考えるのを止めた。もういい。どうせ、どうにもならないんだから……。
 ふと、一際大きい風が吹いた。耳をすうっと通り抜ける。流れとは逆に細かく波が立つ。波打ち際に茂る草も、風の吹く方に頭を垂れる。妙に熱気を帯びた熱い風が、僕を打ちつける。すると、なぜだろうか、不思議と帰らないといけない気持ちになった。落ち着かない、体が疼く気分。まるで手が燃えているようだった。しかし、何ももできないやるせない気持ちに悶えながら、力を抑えて池を覆う柵にこつんと拳をぶつけた。そうして、僕は今まで来た道を引き返していった。

      五

 六時間目が終わって、チャイムが鳴り響いた。うつらうつらした頭で、やっと授業が終わったと思った。教室を見回すと嬉しそうに急いで帰る支度をする人もいれば、隣同士で肘をついてお喋りをする人もいた。
 僕もカバンを机の上に置いて、帰る支度を始めた。窓の向こうにはイチョウが鈍い金色の葉を咲き乱れさせている。はらはらと葉が何枚か落ちていた。そういえば、行きはひどい匂いだったなあ。
「おーい、竹本」
 後ろから声がかかったので、振り向いてみると、波多野がはにかんでいた。「どしたの?」と返事をした。
「いや、今日、シェンロン行かない? 暫く行ってないし、たまにはどうかなって」
「うん、行こう行こう。僕も最近行ってなかったし、そう言われると食べたくなる」と僕が答えると、彼は大げさに何度も頷きながら、「わかった」と言い、そのまま席に戻っていった。
 そして、秋本先生が教室に入ってきて、ホームルームを始めたので、僕は急いで荷物を片付けた。

 下駄箱を出ると落ち葉が風に吹かれ、方々に散っていた。がやがやと騒ぎ立てながら生徒達が帰宅している。かたまってお喋りをしている生徒も入れば、憂鬱げに表情を曇らせて一人で帰っている生徒もいた。乾いた葉を踏みしめる音が、あちこちで聞こえる。
 吹く風が、身に堪える。ずいぶん冷たくなった。背中がしんと冷えてしまうようだ。そう考えながら、壁にもたりかかって、彼を待っていた。
 そして、人だかりが少なくなってきた頃に波多野がやってきた。「ごめん、掃除が長引いて」と片手を前に出して謝ってきた。「まあ、行こうよ」と僕は返事をして、一緒に校門の方に向かった。
 お互い、暫く黙りこくったまま店に向かっていた。時折、波多野が視線を上に向けたり、ちらちらと僕の顔のあたりに視線をさまよわせているのに気付いていたが、僕はそっけない顔をして、それを無視していた。
 きまずい雰囲気だったが、僕は何となく、この状況を楽しんでいた。心の奥底に沈殿している何かが、ちくちくと痛むのだが、同時に期待とは反対にそうなってしまった現実にある種の爽快な気持ちを宿していたのだった。
 そうこうする内に、シェンロンに着いた。手持ち無沙汰だった僕たちは、やっと目的地について安心したように顔をみやった。思わないところで、目が合って思わず笑ってしまった。
「何だかなあ」と波多野がはにかみながら呟くと、暖簾を払って中に入っていった。僕もそれに続いて入った。
入るといきなり、「いらっしゃいませえ!」と声高々に店員が叫んで出迎えてくれた。狭い店内で、油ぎった中年の隣しか二人分は空いていなかったので、そこに座った。無愛想な若い店主に、醤油ラーメンの大盛りをそれぞれ頼むと、その後すぐに小太りの店員が水を持ってきてくれた。
 僕が水を飲むと、波多野が口を開いた。
「竹本さ。最近、塾休んでばっかだけどどうしたの?」
 その質問を聞いて、急に僕の頭がさっと冷えあがった。不安げな表情をしながら、じっと僕の顔を見つめていた。彼は肘をカウンターに乗せながら、慎重に僕の顔色を伺っている。
 何となく察しはついていたが、とうとう自分からは切り出せなかった話題だった。ずっと避けていたいことではあったが、あくまで僕を心配してくれている波多野に聞かれると、答えないといけない気持ちになってくる。
 かつんとグラスをそこに置いて、わずかに間を置いて話し始めた。
「どうも疲れちゃって。自分でもわけがわからないんだけどさ、何かこれ以上は出来ないみたいになるんよ。もう無理、堪えられない、そんな感じ。何もやってないのにアホだよな」
 波多野は目を細くして、僕に言った。
「何もやってないのにって? 勉強のこと?」
「そうなるなあ」と抑揚をおさえた声が出た。改めて自分で言うと、情けないと感じてしまう。
 それを聞いた波多野は何も喋らずに、前を向いてしまった。もう少し気の利いた返事をすれば良かったと、後悔しながらさっきの事を考えていた。どうして自分は塾をサボったんだろう、どうして自分は堪えられなかったんだろう。馬鹿じゃないのか。
 考えれば考えるほど、整理がつかなくなってしまう。僕がぼうっとなり始めたときに、波多野が僕の方を振り向き直した。
「俺は竹本が真面目なのを知ってるよ。別にそれは勉強をするとかそういうんじゃなくて、もっと違う意味なんだけどさ」
「じゃあ、どういうこと?」と僕が口を歪ませて言うと、波多野は「そうやって、自分を考えてるところだよ。俺はそこが大事なんだと思う。好き勝手やる奴は多いけど、自分を考えてる奴なんて滅多にいないよ。俺だってそうだ。勉強はしなきゃいけないからしてるけど、実際何のためにやってるかは分かんないんだ。もし僕がもっと賢かったら、そこで多分立ち止まってしまうと思う。だからさ、竹本。考え過ぎなんだよ」と口にした。
 波多野は一度区切りをつけると、僕の目をしっかりと見つめて言った。
「こんなこと言ったって、慰みなんかならないかもしれない。君は俺には理解できないところにいる。こんなのは無責任だ。でも決して、君は間違っちゃいないと思う。問題は、ほんとに単純なところにあるんだよ」と堰を切ったように、話しきった。それから目を俯けて、腕が行き場を失ったみたいにカウンターからはみ出ていた。
 僕が何か言おうと思うと、隣に座っている男がひっそりと僕らを見ているのに気付いた。途端に羞恥心がにじみ出て、恥ずかしくなった。どこかむず痒い気持ちになって、言葉が全く出てこなかった。
 不躾な視線に心を煽られながら、僕は波多野に「ありがとう」と言った。そして、こんな言葉しか出ない自分の幼稚さにますます恥ずかしくなる。そして、波多野は「うん」と歯切れ悪く返事をした。彼はカウンターに向き直して、頭を大げさに掻いた。
「きっとどうにかなるよ」とぼそっと言ったのに、僕は無言で同意した。何分か経った後、店員がカウンター越しにラーメンを渡してきた。油のぎたついた濃いスープに、弾力のある麺だった。一心にそれを食べて、さっきの会話を忘れようとした。
 食べ終わって勘定を済まし、外に出た。波多野はどこか空しさを堪えた表情を見せながら「ばいばい」と言ってわかれた。外は日が大分落ちており、ワインを撒いたような濃淡の色合いだった。その景色につられて、気持ちがますます揺さぶられた。今日は帰ろう。そう決めると、ゆっくり歩き出した。

      六

 駅を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。点々と続く電灯を頼りに、家路を辿った。滑らかな秋の風が身に染みる。静かな夜道を粛々と歩いていた。コオロギの鳴く音が、あちこちで聞こえるけれど、耳障りでは全然なくむしろ心地よかった。
 黙々と道を歩んでいた。何もしていない自分に罪悪感を感じながら、どことなく癒されているような気がするのだ。この道は破滅だと知りながらも、ついつい思ってしまう。この道がずっと続けばいいのに、そんな淡い期待すら持ってしまうのだった。
 そして家に着き、足を止めた。黄色いこの家がいつもより、大きくなっているような錯覚を覚えた。背中がぞくぞくしてしまう。心臓がばくばく鳴りながら、鍵を回して戸を開けた。鍵の回る音が、思ったよりも大きかった。家に入って居間に行くと、全身が固まった。父と母が机の傍に座りこんで、父が僕の方を睨みつけていたからだ。気難しそうに皺が刻まれている顔立ちをした父に、いざ対面すると頭が真っ白になった。
「何か言ってみい」
 そう父が淡々と言うと、僕の返事を待った。
「ごめん……」と僕は蚊の鳴くような声で言った。
「何がごめんだ。あ? それだけか?」
 父は淡々と声は荒げずに、しかし確かに怒りが篭った口調で僕に言った。僕は何も言えずに、黙っていた。どうしようもない恐れが僕の中に宿ってきつつあった。
「塾から電話がかかってくるなんて、最低だ。何を考えてるんだ?」
 それは、と言いかけて、言葉が淀んだ。何も言えなかった。それを見た父は、せせら笑った。僕を見上げながら、侮蔑を含んだ声で続けた。
「こんなの、受験生以前の問題だ。恥ずかしくないのか?」と言って釣り上がったまなじりで僕を見ながら「どうやって勉強してるんだ? 目標はなんだ?」と言った。
「目標は、ない。今の段階で合わせられるやつにしようと思ってる」
 僕は視線を下にやりながらそう答えた。父は「あっ、そう」と高い一本調子の声で呟くと、はあと溜め息をついた。
「そりゃ無理だわ。目標も定めずに、頑張れるわけないだろ。お前は何もやりたくないのか?」
 僕は顔に血が溜まって熱くなるのを感じた。自分の持っている世界の脆弱さに怯えた。
「僕は、何もやりたくない。意思なんてない」
 ありったけの勢いをつめて、言ったはずなのに、実際は細々としか出なかった。すると、父はますます嘲った。
「ああ、これはあかんわ。どうしようもない。価値観が、違うね。昭和と平成だと、そりゃそうだわ。時代が違うんだな」
 父はこれで話は終わりだと言う風に立ち上がった。
「俺らの頃は、みんな必死だった。お前みたいな奴はいなかった。まあ、仕方ないわ。時代が時代だしな」
 今まで黙っていた母が、父を宥めた。
「そんなに言うことないじゃない。言えば分かるって……」
 父が大げさに手を振りながら、赤ら顔で口を大きく動かした。
「無理、無理。価値観がちゃうわ。これは言っても通じない。こんなやつは何処の大学も通らん」
 そう父が母に言うと、母は不満そうな顔を見せた。父が最後にこっちを振り返った。
「後で塾に電話しとけよ。ほんと、かけさせるなんて論外だわ」
 そう言い捨てると、父は扉の向こうに去っていった。そして母が眉をしかめて父を見送ってから、僕に言った。
「父さんは、あれでもあんたを心配してんのよ」
 その言葉を聴くと、どんと胸を杭で突いたような思いがした。心臓から逆流するかのように熱い思いが目から流れ出た。一瞬血が出たのかと思うほど、流れる液体には熱があったが、拭ってみると涙であった。次々と無数に零れる激情が顔に滴った。
 喉の芯から出たような嗚咽が漏れた。情けない程、無様で哀れだった。今立たたせている足すら憎い。
 母は僕の様子を見ると、何も言わなくなった。そして、台所から水が一杯まで入ったコップを持ってくると、「水でも飲み」と言って僕に渡してきた。嗚咽の間、間に水を飲むと、腹の奥が冷えるような感覚がした。しばらく時間が経って、嗚咽もおさまり、涙も止んだ。母に「ありがとう」と言うと横に置いていた荷物を持って、自分の部屋へ運んでいった。
 ベッドの横にカバンを置くと、ベッドに大の字になった。。何も考えられないまま、自分というのが位置づけられたような気がしたまま、眠りについた。

      七

 塾の帰り道の最中、ふと橋の上で足を止めた。遥か下には、コンクリートに挟み込まれた幅の狭い川が、細々と流れていた。奥まで延々と並んでいる電灯が、行灯のようにぼんやり光っている。
 暗い川の水は、底が見えず、余りに不気味な感覚がした。しかし同時に、強烈に人を引き寄せる何かがあった。手すりから下を覗くと、足が半分浮いたようになった。
――いっそ、死んでしまえば。
 頭の中の糸が、極限まで引き伸ばされていた。手すりの冷たさに腕が固まる。もう考えることなんて、ない。間違った考えの中進んでいけば、きっと最後はろくなことがない。どこも受からず、虫けらを見るような視線を浴び、凝り固まった思考で延々と過ごすのだろう。もう僕に出来る事は何もない。
 腕に力が入った。軋むような音が頭に響く。焦点は川の奥底に、深淵のより先の何も見えないところに移る。今から落ちるのは、未来への墓標なのだ。
 そして、いよいよ身を起こして、頭を傾ける。麻痺しきった身体は、まるで一つの塊のようだった。期待が胸をうずかせる。そして、ふわっとした感覚が僕を包んだ。後は手を放すだけだった。
――しかし、放せなかった。僕はまさに死ぬつもりだった、けれど、手は僕の意思に反してずっと掴んでいたままだった。何でと思うと、全身を支配していた麻痺の感覚はたちまち無くなってしまい、妙にしらけた気分になった。すると、視界の奥にある川にぞっとして、顔を足のついている方に戻した。

 さっきまであった自殺への意識は、霧のようにさめていた。大層なことを考えたって、結局はそんなことも出来ない。駄目だ、やっぱ僕は生きないといけないんだ。よく分からないけれど、自殺は、とても出来ない。自分で自分を殺す覚悟なんてなかった、ただ流されるままに生きる男には、そんなことはできやしないのだろう。
 生生しい実感を持ちながら、そこに立っていたが、そこから見える景色は何の感慨もなく、すぐつまらなくなってしまった。夢からはっと覚めて、何も覚えていなくなるような気持ちだった。どうせ時間が経てば、なんてことはなくなる。だってその内、あんなこともしたなあ、と思うようになるのだから。
 死ねないから、生きる。僕にとって、落ち着くところはそこだった。今まで考えたことは無駄だった。今までこんな怠け者の論理に、ずっと振り回されてきた。
 何もかもを、失ったような清清しさを覚えながら、ふらふらと足取りも覚束ないまま歩いていった。生きている、そんな言葉が僕の内側で鐘のように響いていた。
2013-09-27 23:30:06公開 / 作者:SOM太郎
■この作品の著作権はSOM太郎さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
久しぶりの投稿になります。
小難しい言葉の使用についてあれから大分考えて、直してみたつもりなのですがどうでしょうか。
宜しければ、感想の方をお書き頂ければ嬉しいです。
この作品に対する感想 - 昇順
 こんにちは。
 難しい言葉はとくになかったと思います。
 内容については、そうですね……よくあるというか、現実の断面をそのまま切り取ったような印象を受けました。それは悪いことではないのですが、もうちょっと深めてほしかったかなと。ありふれた不安や不信なんかをそのまま提供されるよりは、味付けするなり、先の方向性を示すなりしてもらいたかったかなと、読者としては思うのです。まあこれはぼくの個人的な感想ですので、人によったら高い評価をいただける可能性もある作品なんじゃないか、と思います。
2013-10-01 21:31:00【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
>>ゆうら 祐様
お読み頂き有難うございます。
確かにありがちで退屈な小説でした。
余り大した事のないことを、つらつら書いてたことに反省しています。
アドバイスの方、有り難うございました。
2013-10-02 01:46:00【☆☆☆☆☆】SOM太郎
ゆうら 佑様 でした、お名前を間違えてしまい、申し訳ありませんでした。
2013-10-02 01:48:06【☆☆☆☆☆】SOM太郎
 いえ、そこまでけなしたつもりはなかったのですが……。大筋には上記のとおり不満を持ってしまったわけですが、細かい描写には非凡なものがあると思いますし、決して「つらつら」などではなかったと思います。失礼しました。これからも期待しています。
 あと名前は、どちらでも構いません。よく間違えられます(笑)
2013-10-02 03:18:04【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
計:0点
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