『アポカリプス 2』作者:鋏屋 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
ふと目が覚めると、そこには知らない天井があった……
全角10177.5文字
容量20355 bytes
原稿用紙約25.44枚
プロローグ


 唐突に目が覚めた。
 ぼやけた視界に若干目が痛いと感じるのは、目の前にある白い光源のせいだろう。もやが掛かったような感覚の思考を巡らせながら、徐々に鮮明さを取り戻した視力が映す景色が、どこかの天井である事を俺に伝えてきた。
 白い天井には少々凝った作りの照明が吊されており、その中央に、先ほど俺の開いたばかりの目を痛めつけた光源が揺れている。
 俺はどうやらベッドに寝ているらしい。
 俺の寝ているベッドの質感はとても心地よく、少しでも気を許せば、また再び瞼が落ちてしまいそうな寝心地を主張していた。
 俺の寝ている左に、瞳だけを動かして視線を移す。天井より若干柔らかい感じの白を基調とした壁紙と、微妙にアンティークさを演出しているサイドボード。そしてその横に控えめな大きさの液晶テレビとスタンド照明が並んでいる。
 部屋の大きさは、ざっと十畳ほどだろうか。
 ゆっくりと瞳を足下の方に向けると、木製のドアがあり、その横には備え付けのクレーゼットとおぼしき折り戸が並び、その前にソファーセットと部屋の隅に小さな冷蔵庫が見えた。
 ホテル……
 そう、少し上等なホテルの一室を想像して貰えば、ほぼ違いは無いだろう。

 ――――ズキン!

 首を動かした瞬間、後頭部に鈍い痛みを感じて眉が依る。俺は痛んだ箇所を触ろうと右手を動かすと、そこで初めて右手に重みを感じ、やはり今度も瞳だけを動かして右手を確認する。
 すると俺の手を納めた布団の上に、両腕を枕にして女の子が顔埋めていた。
 栗色の髪を後ろ手に束ね、顔をこちらに向けたまま目を閉じ、白いうなじのラインから肩に掛けてが、ゆっくりと規則的に上下に動き、その動きに合わせて鼻孔から微かな息の音が漏れていた。
 長い睫毛、スッと通った鼻立ち、少し潤んだような桃色の唇。全体的にやや堀が深く、日本人顔の作りでは無いようだ。ヨーロッパ、あるいは北欧系の血が入っているのだろう。誰に聞いても美人…… いや、美少女と表すだろう。
 しかし、俺の記憶に無い顔だった。
 その時、ふと脳内に電気のような思考が走る。それは俺にある衝撃的な事実を運んできた。

 知らない天井、知らない部屋、知らない臭い、知らない少女……
 周囲全てを知らない物に囲まれる感覚に、俺は戦慄を覚えた。その恐怖に全身の血液がスッと吸い尽くされるような感覚を味わい瞳を閉じる。そうすれば少しは冷静になれるのかも知れないと考えた行動だったが、今さっき気づいてしまった事実は、そんな程度の行動では不安を払拭せしめることは叶わなかった。
 俺は再び目を開け、知らない天井を震える瞳で見つめた。
 そして気づいて仕舞ったその事実をもう一度確認する――――

 俺は……




 俺は、一体誰なんだ……っ!?





1.イミテーション

 自分の名前すら思い出せない事実に愕然としながら、俺は右手を布団から引っ張り出そうとすると、その動きで少女の頭が動いた。
「う、ううん……」
 その少女の愛くるしい唇から、吐息のような声が漏れる。そして孵化したばかりの蝶の羽根のように睫毛が震え、続いてゆっくりとその少女の瞼が開いた。
 碧い……
 青と言うよりももっと重く、そして深い。そう、碧と呼ぶのが最もふさわしい瞳が俺を捕らえた。僅かに焦点が合わないその瞳が、数回瞬きする。俺はその吸い込まれそうな碧い瞳を凝視した。
 するとその少女はゆっくりと顔を上げると、枕代わりにしていた両腕を頭の上に持ち上げ、小さなあくびを一つしたあと、俺の寝ているベッドの布団の上に頬杖をついて微笑んだ。
「もう平気?」
 見た目の容姿から想像していた声より若干幼い声が、何の違和感も無い流暢な日本語で俺にそう聞いた。俺は無言のまま、記憶に無いその美しい少女を見つめていた。
「凄くよく寝てたよ。もう二度と起きないんじゃ無いかってちょっと心配しちゃった」
 その少女はそう言って微笑みながら小さな肩をくっと竦めて見せた。電球の光源の下であっても色あせない栗色の前髪が、青い瞳の前に数本落ち、そのコントラストが絵になる仕草だったが、掛けられた言葉に何の返答もしないまま、無言で見つめる俺を不審に思ったのか、形の良い眉が僅かに寄る。
「本当に大丈夫? お兄ちゃん」

 お兄ちゃん……

 少女は確かに俺をそう呼んだ。そう呼ばれても尚、俺の記憶に変化は無い。
 知らない…… 容姿も、声も、名前すら浮かんでは来なかった。だが、自然と言葉が口をつく。
「ああ、少しぼうっとするけど…… もう大丈夫だ」
 混乱する思考の中、俺は何故か『事を荒立ててはいけない』と考え、冷静にそう答えていた。
「やめてよもう、心配するじゃない」
 少女はそう言って少し拗ねたように俯いた。俺はそんな少女に目を細める。
 
 俺は何処の誰で、お前は誰だ?
 何故俺を『お兄ちゃん』と呼ぶ?
 ここは何処だ?
 俺は何故ベッドで寝ていたんだ?

 思考の全てに疑問符が付く。本来ならこの目の前の少女の肩を掴み、それら全ての疑問に答えるよう詰問したくなる衝動に駆られるが、不思議と口から出る言葉は冷静だった。
「ここは……? 俺…… なんでここで寝ているんだっけ?」
 俺が演技の欠伸をしながらそう言うと、少女はまた眉を寄せて俺の顔を覗き込んだ。
「ちょっと…… 本当に大丈夫なの?」
「あ…… ああ。どこか痛いとか気分が悪いって訳じゃ無いんだ。ただあんまりこのベッドが寝心地良いもんだから、ぐっすり寝ちゃってさ。寝る前の記憶がちょっと曖昧なんだよ」
 俺がそう答えると、少女はふうっとため息交じりに「まったく、お兄ちゃんは……」と呟いた。
「みんなで上のレストランでランチして、その後テラスに出てみようってなったら、急にお兄ちゃん頭が痛いって言い出したから、お父さんが部屋で休んだらどうだって言って、それで私が付き添って…… って本当にお兄ちゃん、覚えてないの? ちゃんとお医者さんに見て貰った方が良いんじゃない?」
 そう言ってその少女は、心配そうに碧い瞳で俺を見つめた。その瞳を見つめていると、まるで吸い込まれそうな錯覚を覚える。ミステリアスな瞳だった。
「ううん、大丈夫。そう言われたら、だんだんと思い出して来たよ」
 嘘だった。話を聞いても、まるで他人の話を聞いている感覚だ。未だにこの娘の名前も、自分の名前すら思い出せないでいる。
「まだ寝ボケてるのかも。時間が経てば良くなるさ。それに、変な夢を見ていたみたいだし…… 背中、汗びっしょりだ」
 俺はベッドから起き上がると、シャツが背中にペッタリと張り付く不快感に顔をしかめた。
「着替えた方が良いよ、中はエアコン効いてるから風邪ひいちゃうよ。ついでに顔も洗って来たら」
 その少女はそう言って部屋の隅にあるドアを指した。半分ドアが開いており、隙間から洗面台らしき陶器がチラリとみえた。
「ん、そうする」
 俺がそううなづいてベッドから立ち上がると、その少女はサッとベッドから離れた。そしてソファーに腰を降ろすと、鼻歌交じりにテレビのリモコンをいじりはじめた。
 俺はそんな彼女の姿を尻目に、洗面所に入った。
 洗面所で俺は鏡を凝視する。そこには歳の頃十六、七歳くらいの日本人の少年が映っていた。目が少し細いが、他にこれと言って特徴が無く、取り立てて二枚目というわけでは無いが、不細工というわけでも無い。強いて言うなら、平凡過ぎて記憶に残りずらい顔立ちだった。
そして、やはり記憶に無く、自分の顔であると言う実感が感じられなかった。
 そこでふと、ある疑問が沸いた。
 俺は蛇口を捻り、水の流れる音に紛れながらそっとドアの隙間から少女を見る。彼女はソファーでテレビのリモコンをいじり、チャンネルを忙しなく回しているようだった。
 お兄ちゃん……
 彼女は確かにそう言った。碧い、神秘的な瞳で俺を覗き込みなから。
 俺はもう一度鏡の中の平凡過ぎる少年を見る。
 やはりどう見ても日本人だ。だが、ソファーでリモコンを手にテレビを見ている彼女の顔の作りは明らかに日本人では無い。
 どう言う事だ……?
 俺はそんな矛盾に自問自答をくりかえしながら、汗で濡れたポロシャツを脱いだ。そして鏡に映った少年の身体に息を呑んだ。

 両肩から胸板、脇腹から臍あたりまで、傷だらけだった。
 切り傷、切開の痕、火傷、良くわからない穴の痕……
 どれも昨日今日付いたものでは無いが、およそ見える範囲では、傷跡が無いのは顔ぐらいだろう。およそこの年頃の日本人の少年の体では無い。それによく見ると筋肉が良い具合に付いている。ボディービルダーのような見せる筋肉の付き方では無く、地味なトレーニングを積み重ねた実用性のある絞られた筋肉の付き方だ。薬物を織り交ぜたトレーニングではこうはいかない。
 この少年は…… いや、俺は一体どんな人生を歩んで来たのだろう?
 鏡の中の傷だらけの身体を見つめながら、目覚めてから持ち続ける疑問を脳内で繰り返す。

 ここは何処なのか
 何故此処にいるのか
 彼女は何者なのか
 何故俺には記憶が無いのか……

 それらの疑問に、何一つ答える情報を持たない自分に舌打ちする。日常生活に支障を来す様な記憶の消失では無いが、事自分と、自分に関わること全てに記憶が無いという状況は、例えようも無い恐怖を生む。まるで何も無い世界に、自分だけ取り残された様な錯覚すら覚える。いや、世界が結託して、自分を陥れようとしているかのような猜疑心さえ生まれてくる。
 そしてそれらの問題を騒ぐ事を選択せずに、奇妙なほど冷静な自分の思考にも反吐が出る思いで、素肌を露出した小刻みに震える両肩を抱いた。
 蛇口から勢いよく吐き出される水の音だけが鼓膜を支配する。その音だけが、この全てがフェイクの様な状況の中で、唯一のリアルのように思えてきて僅かに安心感が湧いた。

 まずは、自分の今の状況把握を最優先事項に設定する。

 頭のどこかで、熱の無い、機械的な自分の声がそう告げた。何処までも冷静なその声に従い、俺は両肩の戒めを解いて洗面台に両手をついた。
 俺は静かに息を吐き、水を吐き続ける蛇口に両手を差し込み、勢い良く顔を洗うと、濡れたままの顔を持ち上げたまま、鏡の中の少年に静かに問いかけた。

「お前は…… 誰なんだ?」

 俺がそう言って睨むと、鏡の中の少年は、少し細い目を一層細くして同じ言葉を吐いた。そして口元が僅かに緩む。それはまるで、この訳の分からない状況を楽しんでいるかの様に見えた。
 その少年の顔を見ながら、俺は汗で濡れた背中が、必要以上に冷えていることに気がついた。



2.ノルン

 俺は洗面台に備え付けられたタオルで顔を拭いた。タオルには英語で『Jewelry of Verthandi』と書いてあった。恐らくホテルのロゴだろう。

 ヴェルサンディ……

 確か北欧神話に登場する『運命の三女神』の一人に、そんな名前の神様がいたな。
 自分の名前すら思い出せないのに、そんな知識だけはしっかりと残っている。そのことからも、俺のこの記憶の消失が、自分の過去だけに限定されていると推測できる。だがその原因が何に起因するのか、皆目わからない状況だ。
 病気なのか、事故なのか、それとも何か人為的な物なのか……
 考えられる可能性はこの三つぐらいだろう。順番に考えてみる。
 病気であった場合、それが先天的な物か、それとも突発的な物かという点。
 先の彼女との会話から判断するならば、前者の可能性は低い。いや、ゼロと切り捨てて良いだろう。後者である場合は否定できないが、いまのところ記憶の消失以外に体に変調は無い。起きた瞬間微かに頭痛がしたように思うが、今は何の痛みもない。断定は出来ないが、可能性は薄いだろう。
 次に事故という可能性。
 実質これが一番可能性が大きいと思えたが、彼女の話を聞くに、俺は食事の後、急に体の変調を訴え、彼女の付き添いの元自分の足でこの部屋に来たことになる。体の変調を訴える前の記憶は当然無いわけで、これも完全に否定は出来ないが、彼女の様子から判断して、少なくとも睡眠前の三十分から一時間以内で事故にあったという可能性は無いだろう。確かに体には無数の傷の跡があったが、その傷についてもそんな直近の傷は無かった。
 最後に人為的な可能性について。
 俺のこの記憶の消失について、何か人為的な事柄が介在しているのなら、何らかの理由があるはずだ。しかしその理由を推測するのは現時点では想像するのも不可能だ。
 仮にもし、今ソファーでテレビを見ているあの少女が、その行為に関係しているのだとするなら、俺が目覚めてからの彼女の行動と言動全てがフェイクということになる。
 だが、だとすれば同時に先に挙げた二つの可能性についての推論も瓦解する。なぜなら先の推測は全て、彼女の証言を真実と仮定して行っているからだ。もっとも、彼女の言葉がすべて嘘だったなら、先の二つの可能性は考えなくてもよくなる。
 それと、もし人為的な理由があるのなら、それを行った人物から、今後何かしらのリアクションがあるだろう。現時点ではそこから判断するしか無い。
 いずれにせよ、今後の行動で明らかになる事実に対応していくほか無しという状況だった。
 俺は顔を拭きながら、そんな事を考えてもう一度タオルのロゴを眺めた。
 女神の宝石……
 ホテルの名前にしては些か仰々しいな。
 俺はそんな場違いな事を考えながら、汗で湿ったポロシャツを片手に洗面室を出た。
 部屋ではあの少女がソファーに座りながらテレビを見ている。
 薄いブルーのチュニック風のワンピースに、薄手の白いサマーカーディガンを羽織っている。カーディガンの所々に控えめに配された金色の飾りが上品に光っていて、彼女によく似合っていた。
 俺はそんな彼女から視線を外し、くるりと部屋を見回す。
「え…… っと、着替えは何処だっけかな?」
 俺はさも『うっかり』と言った様子でそう呟き、彼女にさりげなく着替えのありかを促す。
「え〜? 確かお兄ちゃん、シワになるからって、着いて直ぐにクローゼットに掛けて……」
 そう言いながら彼女はテレビから視線を外して俺を見るとそのまま固まった。そして少女の顔がみるみる朱に染まっていった。
「ちょ、な、なな……っ!?」
 そんな奇妙なうめき声と共にクッションが飛んできた。
「な、なな、なんて格好してるのよお兄ちゃんっっ!?」
「そ、そんなに恥ずかしがることか? 兄妹なんだし……」
 俺は体に当たって落ちたクッションを拾い上げながらそう言った。このセリフは少々冒険だった。するともう一つクッションが飛んできて顔面に当たった。地味だが微妙に痛い。
「き、兄妹って言ったって、ホントじゃないんだから! さっさと服着てよ、もうっ!!」
 少女はそう言って俺に背を向けた。
 なるほど、やはり俺と彼女は血の繋がりは無いようだ。しかし法律上の『兄妹』であるかどうかは今のやりとりでは判断できない。ただ単に彼女が俺を『お兄ちゃん』という愛称で呼んでいるだけかも知れないが、先ほどの会話に『お父さん』と言う単語が出てきた事から考えて、お互いの親同士が再婚した、と考えるのが素直な考えだろう。
 俺はそんな事を考えながらクローゼットを開けた。中には数着の洋服が綺麗に等間隔で掛けてあった。どうやら俺は几帳面な性格…… 少なくとも、几帳面を装う人間らしかった。
 ふと…… また自分の思考に違和感を感じた。
 何故俺は今、『装う』と修正したんだ? そもそも何故俺が自分の記憶が無いことを伝えようとしないのか、自分でもよくわからない。
 俺は、何かを恐れているのか?
 だとしたら…… それは何だ?
 俺は頭の中でそう考えるが、そんな事を彼女には悟らせないように、自然な動きでクローゼットの中から紺色のジップアップの半袖シャツを手に取った。すると背中から声が掛かる。
「でも、お兄ちゃんの体、痛々しそう……」
 そんな彼女の言葉に俺は服を取る手を止めて「そうか?」と答えた。
「まあ、見てて気持ちの良い物では無いけどな」
 そう言って、そこからの彼女の言葉を待った。
「ううん、そんなんじゃ無いけど…… お父さんから聞いたよ。中学生の時、トラックにはねられたんだってね? 意識不明の重体だったって」
 少女は俺に背中を向けたままそう言った。どうやら俺が上着を着るまでそうやっているようだ。
 なるほど…… それで全身傷だらけって訳か。当然記憶に無い俺には実感が無い。しかし、知らない自分を他人から聞かされるというのは奇妙な物だな。
 ただ……
 トラックに跳ねられた……?
 それが妙に引っかかった。ザワリと何かが頭の中を撫でる。何故かしっくり来ない。それが何なのかわからないが、納得していない自分がいた。
 だが、それが今は考えるだけ無駄である事もわかっていた。分析できるだけの情報量が圧倒的に足らない。俺は思考を切り替え、務めて考えずに言葉を返す。 
「う〜ん、良く覚えてないな」
 素直にその言葉だけは本当だった。それから俺は「お前は?」と自然に聞いてみた。勿論情報を得るためだ。
「はぁ? 何言ってるのよお兄ちゃん? 中学って言ったら三年前だから、私と出会う前だもん。あっ、それと今『お前』って言ったでしょ! 私『お前』って呼ばれるのは嫌いだって言ったでしょ? イリスってちゃんと呼ばないと、今度から答えてあげないからね!」
 その少女…… イリスはそう言って背中を向けたまま両手を腰に当ててポーズを取った。どうやら彼女なりの怒っているというサインらしい。思惑通り、色々と情報が手に入ったことに俺は満足した。
 彼女の名前はイリス、そして今の話から俺は今十五、六歳と言う事になる。さらにわざわざ『中学生の時』と言ったことから判断して、俺は今高校に通っている学生ってとこだろう。
 そのことに気を良くした俺は、会話からもう少し探りを入れてみることにした。この後、恐らくその『お父さん』という人物に会うことになるだろう。そこから得られる情報をより吟味する材料として、その前になるべく多く自分と周囲の状況を知っておきたい。
「ああ、ゴメンなイリス。代わりにお兄ちゃんのことも名前で呼びつけにして良いぞ?」
 俺はシャツを着てジッパーを上げながら、イリスにそう言った。
「えっ!?」
 俺の言葉にイリスは少し驚いたようにそう聞き返した。
 マズイ、何か違和感があったのかも知れないと考えたが、今更言葉を引っ込める事など出来なかった。
「な、名前? お、お兄ちゃんの?」
 イリスは背中を向けたまま、しどろもどろな言葉でそう言った。俺が「もう上着着たから」と声を掛けると、ゆっくりと振り返りチラッと俺を見て、また俯いた。
 今のイリスの反応から、違和感があったのでは? という考えは杞憂だったと判断できた。どうやらイリスは典型的なブラザーコンプレックスのようだ。それはそれで俺も悪い気はしない。俺はもう一歩踏み込んでみることにする。
「そ、俺の名前。家来みたいに呼びつけにしてみなよ? 今は許す」
 俺は少し砕けた感じでそう言った。するとイリスは少し考え、またチラリと俺を見た後直ぐに視線を外した。
「あ…… アキト……」
 消え入りそうな声が、その愛くるしい唇から漏れた。
 アキト……
 どうやらそれが俺の名前らしい。どういう字面なのかは、後で自分の持ち物を調べるなどしても確認出来るだろう。しかしここで名前がわかったのは幸運だった。名前がわからないと呼ばれても返事も出来ないからな。
「う〜ん、やっぱりちょっと違和感あるな。それになんかちょっと恥ずかしいかな」
 俺がそう言うと、イリスはさらに顔を赤くして俯いた。
「もうっ! お兄ちゃんの馬鹿っ!!」
 イリスのそんな仕草に妙に安心感を感じ、今の俺には心地よかった。俺は「ごめんごめん」と詫びを入れ、サイドボードの上に置いてある携帯電話と財布を手に取った。
 財布はざっと中身を確認する。カードらしきものと紙幣が数枚。その中に二枚ほどドル紙幣が入っていた。ホテルといい、ドル紙幣といい、ひょっとしたら旅行中なのかもしれない。
 携帯電話はタッチパネル画面式のePhoneで、ロックは掛かっていなかった。画面には着信の知らせが表示されており、名前の欄に『明夫』とあった。
「あ、お父さんから着信入ってるでしょ? 私にもあって、お兄ちゃんにも掛けたって言ってたから。ママも心配してるって言ってた」
 イリスの言葉から、この明夫と言う人物が俺の父親のようだ。そしてイリスが母親だけを『ママ』と呼んだ事から、父親の結婚相手の連れ子だと判断できるだろう。
 さて、ホントはもう少し持ち物などを細かく調べたいが、イリスの手前、手荷物を広げて調べるわけにもいかない。それに時間をかけ過ぎると、心配して電話を掛けて来た父親に不振がられるかもしれない。
「さて、俺ももう大丈夫だし、二人のところに戻るか、イリス」
 俺がそう言うと、イリスはまだ少し紅い顔で俺を見つつ「うんっ」と微笑んだ。
 その顔を見ながら、それが演技でなければ良いと、素直にそう思った。
 俺はサイドボードに置いてあったカードキーを手に取り、そんなイリスを伴ってその部屋を後にした。



――――――米国 バージニア州 ラングレー某所

「連絡が途絶えた?」
 時正・マクレーン・本郷は、部屋に入るなり、複数の端末のモニターを見ていた、目の覚めるようなブロンドの女性、ベレッタ・ミクニソンにそう声を掛けた。
「ええ、五時間前の定時連絡が最後。それ以降は何の応答も無いわ。こちらからのアクセスも拒否してるわね」
 女性らしいパニッシュピンクフレームの下縁眼鏡のズレを直しながら伝えるベレッタのその報告に、時政は軽く舌打ちした。そして憮然とした顔で瓶の白髪を掻きながら聞く。
「ロストはしてないんだろうな?」
 するとベレッタは「もちろん」と弾むように答え、くるりと椅子を回転させてモニターを時政の方に向けた。
「『バンダースナッチ』は機能してるわ。ヴェルサンディ内を毎分60mのスピードで移動中…… 心拍数、血圧共に正常ね。歩いてるんだし、とりあえず生存は確認」
 ベレッタは細い指をしなやかに動かしコンソールを叩きながらそう告げる。
「ふん、なら何故連絡してこない。日本人ってのは馬鹿みたいに律儀で正確なんじゃ無いのか? 俺の親父は毎日十八時きっかりにお袋に帰宅の連絡を入れていたって聞いてるぞ?」
 時政はしかめた顔でそう皮肉を口にし、最後に「ジャップが……」と小声で吐き捨てた。
「あら室長、彼は元々日本人じゃないでしょ。それに……」
 ベレッタはそんな時政に微笑みながら答え、再びモニターに目を移した。
「それにもしあれを使ったなら、少なくとも七十二時間は連絡出来ないでしょうよ。こちらから無理にアクセスしても変に疑われて仕舞ってややこしい事になる」
 彼女の前に並べられた数台のモニターには、1画面に複数のウインドウが開き、様々なデーターがリアルタイムでスクロールしている。その中の一つ、3D表示されたマップに映る光点がゆっくりと動いていた。
「『ナイトメア』か…… 難儀なものだ」
 時政はため息と共にそんな言葉を吐いた。
「それは室長もわかってた筈でしょう? 今はこうしてトレースして、いつでもサポート出来るよう用意しながら、あちらからのアクセスを待つしか無いわ。『果報は寝て待て』って、たしか日本のコトワザよね?」
 そんなベレッタの言葉に、時政は「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「日本人ってのはのんきな民族だな。寝て待つなど…… だいいち胃が痛くて眠れんよ? それが世界の命運が掛かってるかも知れないならなおさらだ」
「それでも…… ね。私たちは待つしか無いわ。それが彼に託した、私たち大人の選択と責任、そして罰なのよ、トキマサ」
 ベレッタはそう言って眼鏡の奥の目を細めていた。時政はそんなベレッタの言葉にため息で答え、モニターに映し出されている光点を見つめていた。

2013-07-17 15:15:47公開 / 作者:鋏屋
■この作品の著作権は鋏屋さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして。
お馴染みの人はお久しぶりです。
どうも、鋏屋でございます。
半年ほどロストしてました。いやもう色々ありまして、会社も移ろうと考えて、ようやく決心が付いた次第です。その他にもぐちゃぐちゃあって、精神的に参ってて全然書けない読めないが続いてましたが、ふと浮かんだネタを書き始めたら意外と筆が進み、あれよあれよと150枚ほど書けて仕舞いました。今まであれだけ書けなかったのに不思議です。
書き殴った物をとりあえず読める程度にはしたのですが、私の事なので穴はあると思うです(オイ!)
ああまた「このハサミムシてめぇ、書き散らかしやがって!」と神夜兄ぃに怒られそうですが……ちょっとサスペンスアクションみたいな物を書きたくなったんですw で、私の趣味的な部分を出してみようかな……と。
冒頭から謎だらけです。主人公の名前すら謎ですw 物語が進むにつれて分かってきますが、もしかしたらそれすらフェイクかも知れません。
誰か一人でも面白そうだなと思ってくれたら嬉しいです。
鋏屋でした。 

2013/07/17 蜻蛉殿よりご指摘頂いた箇所修正
この作品に対する感想 - 昇順
初めまして。
サスペンス好きとしては、ジャンルに惹かれ、のぞかせて頂きました。
150枚以上とのことで、本当に序盤の様ですが、興味をそそられる出だしに、今後の展開が楽しみです。傷だらけの身体と記憶が無いのにそれを愉しむ主人公……想像力を刺激されました。
ところで、
【俺は居たんだ箇所を触ろうと右手を動かすと】→痛んだ箇所
ミス入力がありましたのでご報告致します。
後、数字を1234……の表記にされていますが、こちらのサイトの利用規約の正規表現に漢字表記を推奨していました。必ずしも間違いではないのでしょうけれど、10畳よりも、十畳の方が読み易く、こちらの文章には馴染むと思いました。
では、続きを楽しみにしています。
2013-07-17 01:13:08【☆☆☆☆☆】蜻蛉
>>蜻蛉殿
初めまして(で、良いんでしたっけ?)感想どうもですw
ご指摘どうもです。修正を入れさせていただきました。数字の表記は、私はいつも悩むのです。漢数字の字面がどうも好きじゃ無くて(汗 しかし貴重な意見をいただいたので、素直に修正させて頂きました。
サスペンスが好きとの事ですが、あ、あの、あくまで私、低スペックなのでお尻に『ぽい』とか『風』とかって付けてくださいね、ねっ!(オイ!)
まあ今後も、楽しんでくれて、次も付き合ってくださると嬉しいです。
鋏屋でした。
2013-07-17 15:01:51【☆☆☆☆☆】鋏屋
こんにちは。(初めましてで合っています)
早速更新されていたので続きを拝見致しました。私的にはこの位の分量づつ読むのが疲れなくて好きですが、如何せん、少ない分量の為、話が先に進まないもどかしさがありますね。ただ、恐らく完成は150から200枚位になるのだろうと勝手な予想をたてて申しますと、あと20枚位は序盤の解説的話に味付けがされる感じで進むのだろうと推察します。そして続きが気になる展開を期待して次なる更新お待ちしております。欲を言えば、もう少しスパイスが利いていても良いのではと。例えば前回は続きが気になる終わり方ですが、今回は普通に終わってるので連載するなら前者の様にするのが良いなと思います(個人的な意見ですが)
ところで、サスペンスっぽい、でも、サスペンス風でも全く問題ありません。最初にそう言っておいて、最後に唸らせて貰えれば、こちらはハッピーになるだけすし。ただ、しいて言うなら、本格ミステリや本格サスペンスを狙うなら、一人称は難しいと思っています。一人称でやるならミスリードを主人公サイドで読者に解らない様に感情移入させながら行っていかなければなりませんし。……もう既にひっかかていたりして。それはそれで愉しい。
続き、お待ちしております。
2013-07-17 16:34:23【☆☆☆☆☆】蜻蛉
鋏屋さんが復帰。ということは私もそろそろ動きださねばなるまいて。そしてあわよくば門の住民巻き込んでのイベントを……w
というわけでお久しぶりの浅田です。
作品読ませて頂きました。感想としては、全体的に何とも言えない違和感を感じた、といったところです。なんというか、主人公の心理描写が現実から乖離していると言うか、気にしている部分がおかしいと言うか。
ただそれが物語の性質によるものなのか、あるいは書き方によるものなのかが現状判別しがたい感じになっているのでとりあえず結論は保留で次の更新に期待、といった感じです。
2013-07-17 21:24:31【☆☆☆☆☆】浅田明守
>>蜻蛉殿
またまたの感想どうもですw
蜻蛉殿の感じた通り、実は今回の後半の引きは後付です。この時政とベレッタのやり取りはもっと後に出てくる筈だったんですが、物語が動き出すのがもうちょとかかるので、読み手が飽きてしまうかな?とか考えて、此処に持って来たのですが、ちょっと失敗したかもです(汗っ)
まあ、確かに150枚くらいは書いてますが、小説にはなってないし、書き殴りなので、ほとんどがバッサリ、ポイと消える悪寒が……
でもまた、読んで下さると嬉しいですw

>>浅田氏
やっはろ〜w お久しぶりですね。お元気そうで何よりです。海上の止り木もなくなったから、カキコも出来なくて、ご無沙汰しちゃいました。
そうですか、浅田氏もそろそろ最活動ですか! 祭りも、盛り上がると面白いですもんね。また少女祭りみたいなの起きないかな?
さて、まだ物語が始まったばかりなのでよくわからないでしょうが、主人公の物の考え方はちょっと偏ってます。その辺りもヒントなのですが、果たしてそれが正解のヒントなのか……誰が味方で誰が敵なのか、疑心暗鬼がテーマの一つです。その辺りをたのしんでもらえればなぁと思ってますw

御二方とも、ありがとうございました。よかったらまたお付き合いください。
鋏屋でした。
2013-07-18 06:58:46【☆☆☆☆☆】鋏屋
このハサミムシてめぇ、書き散らかしやがって!!シバキ倒すぞテメぇコラ。――満足かこの野郎。
しかし久々に名前を見たと思ったらマジで書き散らかしやがって。ハサミムシ症候群が絶賛稼働中かおい。そしてまたシンクロの方面に手を出しやがってお前。だがどちらかと言えばこっちの方がハサミムシには合ってると思うんだけどなぁ。好き嫌いで言えばこういう雰囲気のハサミムシの方が好きだ。
さて問題はどうやって風呂敷を広げて閉じるのか、という点である。頑張れるのだろうか、ハサミムシよ。
2013-07-22 19:30:42【☆☆☆☆☆】神夜
読みましたー。
サスペンスですか。このジャンルは好きですね、少なくとも読むのは。さて、いかにもサスペンスらしい冒頭から、それっぽい話になってますね。
どうなんでしょうね。記憶喪失ってすごく便利なことで、よく物語内では見かけるんですが、もし本当にこうなったときってもっと焦らないのか?と。別にこの作品に限らず、記憶が消えてることに当人がすごく達観してる。おもわずそこになんでやねんと言いたくなる。
これはまさにそれで主人公、どうしてこんなに冷静で、そんでまたそれを誤魔化そうとしてるんでしょう。いや、理由は作品にちらっと書いてますけど、はっきり言って、そこに論理性が薄い。それでいて状況適応が的確すぎて、不自然なんです。なんでしょう、この慣れた感は。この主人公から、人間味を感じなかった。不気味でした。
いや、物語が全然始まってない感じだから、感想といえる感想をかけないくせにこんな文句を初っ端から言うのはどうかと思ったんですが、どうしてもそこが拭いきれなかった。たぶん、ジャンルのせい。これがサスペンスじゃなかったらこんなこと言ってない。だけど、サスペンスである以上、ミステリほどとは言いませんけど、ある程度の論理性を求めます、個人的に。
けどね、これを理由付けできたら、これは素晴らしい。なんか主人公には裏がありそうで、それを匂わせるラストもありましたし、これからが楽しみではあります。ええ、理由付けさえできたら、自分は手放しで絶賛するんです。させてください。
今回はまだ、イリスが可愛いとしか言えないのですよ。というか、イリスって名前が個人的にツボなんですよ、はい。
なんか最初から辛口気味の感想になってしまってますが、とにかく更新楽しみにしております。
2013-07-25 01:24:28【☆☆☆☆☆】コーヒーCUP
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。