『My Memory』作者:ミミック / z[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
主人公の柳浦徹は中学校に入学すると奇妙な記憶がよみがえってくる。混乱する徹に近づく双子。三人の運命は?
全角26736文字
容量53472 bytes
原稿用紙約66.84枚
 俺は今日から鳳凰中学入学する一年生。剣道部志望で、一応経験はある。入学式が終わり改めて教室に入ると全員緊張したように身をこわばらせ、担任の話に聞き入っている。しいんとした教室に担任の静かな声が妙に落ち着かせ、小学校には無かった大人びた雰囲気が広がった。見たところ飛びぬけていかにも不良の道に走りそうなやつもいないし平和な一年が過ごせるだろう。今の唯一の心配は剣道部に入れるかどうかだけだった。
「これから一年、わずかな間ですがみんなで助け合って楽しいクラスにしていきましょう」
 お決まりの言葉と共に担任は教室から去って行った。これからの時間は帰るのもよし、教室に残っていてもよし、らしい。もちろん俺は剣道場だけ確認して家に帰るつもりなのだが……。
 後ろの奴が肩をバシバシと叩いてくる。限りなく痛い。嫌々振り返ると、
「ねえねえ、ドコ小出身なの? 俺は花泉小っ」
丸い瞳と黒い短髪が特徴のまだ声変わりしていない少年だった。
「畑中小だけど」 
 そっけなく答えるとどこに興味を持ったのか目を輝かせて鼻息を荒くしている。
「へぇぇぇっ、畑中かあぁー、俺、渡来裕也っていうんだ、よろしくなっ」
 屈託のない無邪気な笑顔で包み込まれたようだった。裕也はまっすぐおれの方へと手を差し出した。握手をしろというのだった。裕也はまだキラキラした目でじっと見つめてきた。俺が手を仕方なく差し出すと嬉しそうに何度も手をぶんぶんと上下に振った。
「やったああっ、俺の友達一号っ」
 満面の笑みでいまだに手を放してくれない裕也。無邪気すぎる……
「お前はさ」
「裕也」
「……は?」
「俺の名前、ゆ、う、や」
 ふくれっつらでこちらを睨んできた。正直怖くはなかった。
「………………」
 だがこの空気は気まずい。名前で言わなければいけないらしい。少し恥ずかしいが言わなければならないのだろう。
「裕也は、何部に入るんだ?」
「バスケ部っ」
 裕也と呼ばれて少し嬉しそうに照れ笑いを浮かべながらも即答された。
「俺、チビだろ? だからちっこくてすばしっこいバスケの選手になるんだ!」
 周りにいたクラスメイトがぎょっとしてこっちを見てきた。大声でそんなことを宣言してもいいのだろうか。もしもいじめられても俺は他人のふりをするからな。
「なーなー、……えっと……名前、聞いてなかったや」

 そういえば名乗っていなかった。正確には名乗るタイミングがなかった。ため息を一つついた。
「俺は柳浦徹。呼び方は何でもいい」
 つっけんどんに返すと裕也は少し困った顔をしたがすぐに笑顔に戻った。
「じゃあ徹だねっ。徹は何部に入るの?」
「剣道部」
 少しも迷いのない俺の答えに裕也は何故か笑った。
「ははは、徹って感じがするよ」
 話す内容がそこで途切れた。裕也は相変わらずニコニコしている。ここにいても時間の無駄だ。
「じゃあ俺、剣道場見に行ってくるから」
 そう言って俺はその場から去ることにした。鞄を背負い裕也に片手をあげ、手を振った。
「あ……んぅー……ま、いっか。いってらっしゃーいっ」
 何か言いたそうな顔をしていたが諦めたのか手を振ってくれた。

 剣道場はとても広かった。さすが県内で一番強い中学だ。剣道場だけでも体育館の半分はあった。その大きな同情の威圧感で身がすくんだ。
「あれぇ、さっき、同じクラスにいたよね?」
 後ろから突然声をかけられて思わず飛び上がりかけた。
 振り向くとそこにはやる気のなさそう表情、眠たげな双眸が飛び込んできた。栗毛色の柔らかそうな髪を一つにまとめた女子だった。
「私、剣道部入りたいんだけど君もなの?」
 ゆるりと首をかしげて俺の目をじぃっと見つめている。怪しげな瞳が俺をとらえて離さない。
「あぁ……そうだが、お前もか?」
 動揺を悟られないようにできるだけ冷静に対応した。すると女子の警戒がするすると引いていき、打って変った笑顔が溢れた。
「じゃあ仲間だね。よろしく、えぇっと」
「柳浦徹」
「徹……とーちゃんだねっ」
 ……なんということだ。車体面であだ名をつけられた上にとんでもないネーミングセンスだった。思わず顔をひきつらせた。
「ん? ダメだった?」
 どこかで見たことのあるような屈託のない笑顔が俺の顔を覗き込んだ。目尻やその表情がある人物をフラッシュバックさせた。
 渡来裕也のあの笑顔が。
「お前、名前は?」
 本当にそれがそうであるかを確かめるために恐る恐る聞く。
「んー? 渡来舞衣だけど」
 やっぱりか。しかしこれだけだと同姓だけなのかもしれない。もう少し確証を得ることにした。
「お前に兄はいるか?」
 なんだか尋問のようで自分自身が嫌になってきたが、こんな言い方しかできないのだから仕方なかった。改めて自分の不器用さに気付いた。
「お兄ちゃんならいるよ。まあ同じ年なんだけどね。ほら、さっきとーちゃんも話してたでしょ。裕也お兄ちゃん」
 体に電撃が走った。このご時世、兄に向って“お兄ちゃん”なんて呼ぶ妹が存在していたとは。相当仲が良いのだろう。
「似て……ないな」
 渡来舞衣と渡来裕也はまず髪の色から違う。それに笑顔こそ似ているが裕也の方はいつもニコニコしているが妹の方は警戒心が強く、始終ニコニコしてはいない。
「私たち二卵性なんだって。だからじゃないの?」
 へらりとそう言って渡来舞衣は剣道場を見上げた。
「それにしても大きいねぇ。なんでこんなデカいんだろ? 広くてもちゃんと練習しないと腐っちゃうのにね」
 意味ありげな言葉を残してくるりと振り返った。
「とーちゃんも入るよね?」
 いい加減その名前はやめてほしい。俺はお前の父親じゃないんだぞ。

 無断で入っていいのか戸惑ったがずんずんと渡来(一応女子なので名前呼びは気が引けた)が進むので仕方なく後を追うことにした。軋む床に不安を覚えながらもここならある程度の練習ができそうなことを確認した。
汗臭い防具がずらりと棚に並んでいて竹刀は銀色の籠の中に乱雑に突っ込まれていた。正面には“精神統一”とお決まりの四文字が茶色の額縁の中で誇らしげに掲げられていた。いかにもといったありきたりな道場のようだった。しかし学校内でこんなものが立っていると他の運動部はどうしているのだろう。剣道部だけでかなりの敷地を取られているはずだ。少々謎が残るが俺には当分関係のないことだからとりあえず置いておくことにした。
「思ってたよりも普通だなぁ。つまんないの」
 あくびをしながらつまらなそうにつぶやいた渡来は何を思ったのか銀の籠の中から適当に一本の竹刀を引き抜いて構えた。そして大きく振り上げる。
「めえええええええんっ」
 ダアアアアアアアン
 並の人間ではならないほどの大きな踏み込みだった。床が壊れないか心配するほどの音だ。相当剣道をしているのだろう。かなりの腕だと音で分かった。さっきまでとは全く違う表情、まったくと言っていいほど動かない頭、すっと伸びた背筋が印象的だった。
「うー、もういいや」
 竹刀を銀の籠に雑に突っ込むとこっちによってきた。
「どう? 私の振り方」
 自信満々に話しかけてくる渡来の目は今まで見たことのないほど輝いていた。俺に褒められるのを確定させていた。
「まずまずだな」
 なんとなく褒めるのが嫌だったからとりあえずの感想を述べておいた。
「……ふうん」
 膨れっ面でそっぽむいてしまった。いじけた顔にはまだ小学生の名残があった。やはり褒めてほしかったらしい。
「ま、いいや。そのうち絶対に褒めてもらうんだからねっ」
 びしっとこっちを指差してすたすたと道場を出て行った。
 ガツンッ
「いたたた……」
 同情の門の角に足か何かをぶつけてしまったようだ。それでも渡来は歩いて帰ってしまった。
 よくよく考えてみれば渡井は不思議すぎる女子だった。警戒してたりそれを突然ふっと解いたり、いきなり素振りをしたり、ビシッと捨て台詞を吐いたり、ドジをしたりとコロコロと表情が変化し、まるでカメレオンのような女子だった。あれでも剣道はなかなか強い。変わり者ほど強い、ということなのか……?
 日が暮れ始めていた。暗い雰囲気が早く道場から出ていけと攻め立てているようだった。
 道場を出るとすぐに自転車に乗って家へと帰った。

 中学校生活二日目の朝、すっきりとした目覚めで朝日がまぶしいがそれがまた心地よかった。まだ新しい匂いのする慣れない制服の袖を通し肩をぐりぐりまわしながら朝食の焼きたてのパンにかじりついた。母親は俺の起きる前からもうすでに仕事へ向かう準備をしていて俺が完全にリビングに顔を出すとそこには焼きたてのパンだけが残っているのであった。仏壇で穏やかな笑みを浮かべている父親に手を合わせて家を出た。隣には伏せてある木の額縁があった。その中に映っているのは確か……、

「誰だっけ」

 自転車で登校するのは初めてだったが頬を撫でる風がとても気持ち良かった。自転車置き場まで自転車を押していき少しあいているスペースに無理やり自転車をおしこめ教室へと向かった。遅刻になってしまうような時刻ではない。このままゆっくりと歩いて行っても大丈夫だ。下駄箱まで歩いていくとそこには裕也が困った顔をしていた。
「あぁ徹、おはよー」
「おはよう、どうしたんだ?」
 情けない顔をしていたのでついつい同情してしまった。
「靴の場所、忘れちゃった……」
 今にも泣きそうな顔でこっちを見てきても困る。しかも靴の場所なんて俺の一つ後なんだからすぐにわかるはずだ。ということは完全に忘れてるということになる。呆れてものも言えない。
「………………」
 涙目でこっちを見つめてくる。何とかしようと思えばすぐに解決するがなんとなくしばらく観察したいような気にもなる。しかしこのままでは登校初日から遅刻してしまう。
「俺はここだからおま……裕也はここだな」
 お前、と言いかけて裕也は確か名前呼びではないと不機嫌になることを思い出した。
「よかったぁ、ありがと、徹」
 ほんわかな笑顔でこっちも癒されたような気分になった。
「じゃあもう教室行くか……そういえば妹の方はいないのか?」
 裕也は目を丸くした。そういえば裕也の口から妹のことは聞いていなかったから驚くのも当然だろう。
「あー、じゃあ舞衣に会ったんだね。舞衣と、どこで会ったの?」
「剣道場だ」
 すると裕也はにっこりと笑う。
「そっか、じゃあ紹介しなくてもいいね……今日の朝さあ、喧嘩しちゃってさあ……」
 詳細はこうだった。朝目を覚ましたら妹はもう制服を着ていて学校に出る一歩手前だったらしい。裕也は待ってくれるのかと思って気ままに朝ごはんを食べていたら、妹はさっさと出て行ってしまったらしい。あわてて裕也が呼び止めてどうして待ってくれないのかと尋ねたら
「え? 一人で行ってよ。子供じゃないんだから」
 とのことだ。
「うー、どうすればいいのー?」
 涙目の裕也の目には何も映っていなかった。そのショックで下駄箱の番号も忘れてしまったのだろうか。というか、内容が付き合いたてのカップルのようで体がむずかゆくなった。
「とりあえずお前が悪い」
「えぇーっ!」
 裕也はあり得ない、といった表情で目を見開いて見つめた。
「とにかく教室に入ろう。ここにいたら遅刻になるだけだ」

 教室に入ると登校初日の緊張からか同級生たちは一言もしゃべらない。というか全員着席している。肝心の妹はというと涼しい顔をして読書にふけっていた。何事もなかったように。
 その光景を見て裕也は血の涙を流さんばかりに下唇をかみしめていた。
「舞衣の奴ぅ……俺に向かってあんなに冷たかったくせに……本なんか読んで……!」
「いや、妹の方は全く悪くないから。悪いのは裕也の行動と頭の中だ」
「あうぅー……」
 返す言葉がないのかとうとう裕也は人語を忘れたようだった。
「だってさ、俺を子供扱いした上に置いてったんだよ? 確実にさぁ」
「わがまま言わないで。もう中一なんだし私と一緒に行かなきゃいけないことなんてないんだから」
 気付くと俺と裕也の机の間に渡来が立っていた。
「大体私のことも考えてよね。お兄ちゃんと一緒に学校なんか来たらブラコンって思われちゃうじゃん」
 渡来は眉をひそめながら、吐き捨てた。静かな教室に渡来の声だけが響いた。他の同級生たちは何でもないかのように本のページをめくっている。裕也はショックで動けない。
「だから、お兄ちゃんのためを思って別々に行ってあげてるのに怒ることはないんじゃないの?」
 確かに。
「じゃあそう言ってくれればよかったのに……」
 反撃するかのようにぼそぼそとつぶやく裕也。
「そう言ったところで先が見えてるでしょ」
 裕也なら張り付いてでも一緒に行こうとするだろう。こいつの方がシスコンなのではないだろうか。
「でも俺は舞衣と行きたいし……」
「私はお兄ちゃんと行きたくない」
 渡来はきっぱりと言い切った。絶望が裕也の近くを取り囲んだ。
「俺が怒られるのに……」
「なんていったの?」
「……別に」
 淀んだ瞳には何も映っていなかった。
「裕也……」
 どこかしら家を出て行った娘を思う父親のような風格が漂っていた。

 授業はまったく進まずに自己紹介を毎時間毎時間同じことを繰り返した。正直面倒くさかった。その間、裕也はというと生気のない顔つきで淀んだ目を彷徨わせて頭をふらふらさせていて、しょっちゅう先生に注意を受けていた。それを渡来は寂しそうな目で裕也を見ていたのをたまたま後ろを振り返った時に見てしまった。実は渡来も変わり果てた兄を見て同情しているのかもしれない。魂の抜けきった雰囲気が俺のところまで届いて正直迷惑だ。そのどんよりしたオーラが俺の気分もダウンさせている。
 授業も清掃も終わり、帰る支度を済ませ、担任が穏やかな笑顔でさようなら、と告げて教室を出て行ったのを見計らって後ろを振り向き裕也に声をかけた。
「大丈夫か? 魂、抜けてるぞ?」
 教室のざわめきが徐々に消えて行った。クラスメイト達がもう帰りだしている。そこに渡来の姿もまぎれていた。
 裕也の死に顔のような笑顔を見て改めて事の重大さを思い知らされた。
「あはは……もう終わりだ……」
 焦点のあっていない虚ろな目が壊れたように俺の方をとらえる。背中に冷たい汗がつう――と流れ落ちた。
「おい、たかが妹に冷たくされたくらいで」
「――たかが?」
 琴線に触れたのか裕也の濁った眼がしっかりと俺の目を睨みつけた。
「ひどいよ。徹はさ、どうせ俺のことなんてこれっぽっちも思ってないんだろ? 妹に嫌われるような体験、したことないんだろ。どうせさ」
「妹に会えなくなるのとどっちがマシだ」
「……!」
 壊れた裕也に俺は選択を押し付けた。俺の味わった苦しみと裕也の思い込みの重さは一目瞭然だった。嫌われてもいいから俺はただ妹に会いたかった。それが叶わぬ夢でも毎日祈ったりもした。時が過ぎて自分の用事が増えてまったく遊んでやれなかった時を後悔しても遅すぎた。俺は何度妹にまたあとで、と言ったのだろう。それにくらべて俺は何回妹と遊んだのだろう。お兄ちゃん、お兄ちゃんと懐いてくれた妹はもういない。
「舞衣に嫌われるのは嫌だけど舞衣が死ぬのはもっといやだ」
 俺の気持ちをくみ取ったのか裕也は小さくつぶやいた。
「ごめん。俺、知らなくてさ、ごめん、本当にごめん」
 何度も、何度も繰り返し言われた謝罪の言葉。俺にはもったいない。
「それは妹に言ってやれ」
「……ありがとう、徹」
 そこにいたのはいつもの裕也だった。
 それから一か月、あの兄弟の問題は何一つ発生しなかった。

 ――お兄ちゃん。お外で遊ぼうよ。
「ごめん、今、宿題やってるから」
 ――お兄ちゃん、みてみてっ、私、二重飛びできるよっ。
「すごいね、でも今俺忙しいから」
 ――お兄ちゃん、ボールがとんでいっちゃったよー。とってよ、お兄ちゃん。
「自分でとれるだろう? 俺に頼るなよ」
 ――わかった。
 女の子は少しがっかりしたようだったが道路に元気よく飛び出した。
 次に俺が見たのは血まみれの女の子だった。

「うわあああああああああああっ」
 ベッドから身を起こした。久しぶりに悪夢を見た。涼しい夜なのにべったりと汗が額に張り付いていた。荒い息が部屋にこだました。いつも見慣れた部屋が全く違う部屋に見えた。朝日を見るのには十分な時間があった。少し外に出てもいいだろう。

 それにしても嫌な夢を見た。あの女の子は俺が殺したようなものだ。だからあんな夢を見ても仕方がない。あの女の子は俺のことをお兄ちゃんと呼んでいた。俺には妹がいた覚えがなかった。ひょっとしたら俺が忘れているだけなのかもしれない。
 体に電撃が走ったように脈打った。そうだ、そうだそうだそうだった。父親の隣にあった写真立ての中にはあの女の子がいた。どうしてこんなことを忘れていたのか不思議だった。そうだ。俺は妹を見放して……。
俺がボールを拾っていれば妹は死ななかった。俺がもっと妹と遊んであげれば妹は一人で遊ばなかった。後悔がぐるぐると頭の中をかき混ぜる。
冷たい夜風が汗で濡れた頬を撫でた。俺の興奮した体温をゆっくりと下げてくれた。だが後悔はいまだに消えなかった。
月明りが辺りを照らし、街頭さえも必要がないくらいに明るかった。しばらく歩くと公園に行きついた。街頭の明かりが何度もチカチカシテいて公園の名前が分からなかった。
砂場まで歩いて近くにあったベンチに腰を下ろそうとした。青色のベンチが軋み、不安にさせる音を上げた。見上げると星がキラキラと輝きビーズをまき散らしたようだった。
キィキィと揺れるタイヤが自然に目に映った。見慣れたそれは不自然に揺れていた。誰も乗っていないのにまるで人が乗っているかのようにぶらぶらと揺れていた。
 まさか、と思う。ここは確か、あの、妹が死んだ……。
「お兄ちゃん」
 耳元で涼やかな声が聞こえた。幼さが微かに残る、無邪気な、この声はまるで……。
 心臓が耳元で跳ね上がる。冷や汗が噴き出した。まさか、そんなはずはない。だって妹はもう死んでいるのだから。
「ボールがとんでいっちゃったよー。とってよ、お兄ちゃん」
 弾むような妹の声。それは俺が取ってくれることを期待している声だった。それを、俺は、突き放して、妹が、飛び出して、それで、それから、妹は。
「自分でとれるだろう? 俺に頼るなよ」
 無意識に口が動く。全身がこわばって振り向けない。だが久しぶりに聞く妹の声に心を弾ませている俺がいた。もう一度、あの笑顔が見たかった。たとえもうすぐ死んでしまうのだとしてももう一度だけ、一目見たかった。
「わかった」
 悲しそうな声が聞こえた。もう引き返せない。妹はこのまま道路に飛び出してとおってきたトラックに妹の小さな体は宙に浮かぶのだろう。振り返って助けたかった。無力な自分が憎かった。全身が動かない自分が嫌でしょうがない。小さな足音が道路の方へと向かっていく。声が出ない。遠くの方から微かにエンジン音が聞こえてくる。あのエンジン音に妹が殺される。二回、俺の前で妹が死ぬ。どうすればいいんだ。そう考えているうちにも幼い足音は遠ざかっていく。全身がこわばって動くことすらままならない。心臓の音が規則正しい、速いテンポが耳元で響き渡る。
「ねえ、また見捨てるの?」
 突然耳元で囁かれた。
「どうしてお兄ちゃんだけのうのうと生きてるの? わたし、もっと生きたかった。もっといろんなもの見て、学校にも行きたかった。ひどいよ、お兄ちゃんばっかり。ずるいよ」
 無邪気な、悪意のない声が俺の耳元で囁いている。
「お兄ちゃんが代わりに死んじゃえばよかったんだよ」
 頭を殴られたようだった。この声が妹の幽霊ならばずっと俺を恨んでいるんだ。ずっと妹は死んでから俺を恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで成仏できなかったのだ。
「最低なお兄ちゃん」
 すさまじい風が吹き付けた。髪が逆立ち、目を開けていられなかった。ただ立つことだけで精いっぱいだった。
 風が止んだころにはもうあの無邪気な声は聞こえなかった。もちろん、小さな足音も。
 あんなに明るかった公園が急に暗くなったような気がする。どうやら月が雲で隠れてしまったようだ。ブランコがさびた音を立てて揺れている。ぐるぐると吊り下げられたタイヤも回っている。こころなしか落ち着いてきた。月が雲から顔を出して辺りを再び照らし出した。
 息が止まりそうになった。暗がりでは見えなかった地面は光がさしてから辺り一面真っ赤に染まっていた。まだ乾ききっていないその赤は少し粘り気があって俺の足元に少しだけ染みついていた。その赤色はペンキのようだがそうではなかった。古い鉄錆の匂いが鼻腔を満たした。そうだ、妹が死んだ日にも嗅いだことがある。これは、血の……。
 突然その赤い水溜りが広がった。ずぶり、足が水溜りに浸かってしまうくらいに量が増えていた。
 その赤い水溜りの中央の砂場には誰かが倒れていた。小さな、幼い、見覚えのある白いワンピースが真っ赤に染まっている。あの姿を見るのは二度目になる。
 あれは妹だ。苦しそうに眼を見開いている妹の腹から飛び出ている内臓が月の光を受けてぬらぬらと輝いていた。そこからとめどなく赤い液体が溢れ出ているらしい。地面に染み込んだどす黒い何かがじんわりと広がっているのを見てしまった。
 次の瞬間、苦悶の表情を浮かべていた妹がぐるり、とこちらに顔を向けた。にたり、口の端が歪にゆがんでいる。
「お兄ちゃん」
 唇がうねうね動き、言葉を綴った。狂気を含んだ笑いが耳に入り込んだ。死体が、喋っている。非現実の連鎖で俺の頭はどうかしているようだった。こんな光景を見ても無関心である俺がショックだった。変わり果てた妹が笑っている。血まみれの妹が笑っている。
にたにた、けたけた、にやにや、くすくすと口の端から零れる嘲り、嘲笑、笑い笑い笑い。
「お兄ちゃん、最低、馬鹿バカばか。ジコチュウだよ」
 無表情でこっちを睨みつけてくる。その視線には強い恨みが込められていた。
「お兄ちゃんが代わりに死んじゃえばよかったんだよ」
 さっきも聞いた言葉がもう一度妹の口から綴られた。妹が、俺を睨みながら、呪詛を吐く。
 そしてまた狂気じみた笑顔が覗いた。
「――あはっ」
 はじけるような笑い声が公園にこだました。
「あはははははははははははははっ、あはっ、あはははははははっ、ははっ、あははははははははははっ、あっははははははははははははは!」
 公園そのものが隔離されてしまったかのように静かな砂場で妹の狂った笑い声だけが響き渡った。鳴り止まない笑い声が耳に何度もぶつかる。ぐらぐらと脳が揺れ、後悔や怒り、悲しみ、懐かしさの混ざったぐちゃぐちゃな気持ちが胸にこみ上げた。どうしようもない感情を吐き出して叫んだ。
「お前がボールなんかで遊ばなければ死ななかったんじゃないのか!」
 笑い声がぴたり、と止まった。妹の目はうつろだ。まるで裕也のようだった。
「……なにをいまさら」
「お前が、外で遊ぼうなんて言わなかったら、お前は、死ななかったんだろう」
 なだめるように、言い聞かせるように俺は言う。あの時確かに外で遊ぼうと誘ったのは妹だった。俺はその時小学校の宿題を持ち出して渋々公園まで付き添ってあげた。そして妹が縄跳びやボールやらで遊んでいるとき、俺は算数の計算ドリルに頭を悩ませていた。
 そして、あの悪夢が起きたのだった。
 妹の化け物は無表情で一言も、笑い声すら出さなかった。ただ俺の目をじっと眺めていた。光を反射しない瞳は何を考えているのか検討もつかない。だが明確な殺意は感じ取れた。こんな非現実な光景にわずか数分で何も感じなくなってしまってる自分に嫌気がさした。妹の口から微かなつぶやきが漏れた。
「……なんで」
 声が全く聞こえない。もう一度耳を傾けた。
「なんで、いまさら、人のせいに、いつも、お兄ちゃんは、お兄ちゃんはお兄ちゃんはお兄ちゃんはお兄ちゃんはお兄ちゃんはお兄ちゃんはお兄ちゃんは、私に押し付けて、おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいよおおおおおおおおおおおっ」
 狂ったラジオのように同じ言葉が繰り返し吐き出されている。憎悪にゆがんだ顔はみるみる腐敗していく。可愛らしい妹の面影が今はない。その顔は原形をとどめていなかった。つるつるした真っ白の肌が醜い茶色へと変色していく。小さくふっくらとした手足がやつれ、汚いどろりとした粘液に包まれ真っ白な骨が所々から覗いていた。どこから蛆が妹の体を包みそこからまた急速に腐敗が進む。二つの眼球がもともとあった場所から糸を引いて飛び出し、肌らしきものは全て地面に吸い込まれていった。真っ白な歯がむき出しで笑っているようだった。髪の毛はあっさりと抜け落ちてどろどろした膿のようなものができたり消えたりして蛆がそこに群がっていく。歯の隙間からひゅう、という音と共に言葉が流れた。
「無責任だ無責任だ。やっぱり最低最低最低最低最低」
 いままで臭わなかった腐敗したむかむかする臭いが突然はいに飛び込んできた。思わず咳き込み、耐えられない臭いにその場にうずくまり、頭を抱えた。すると俺の周りで声が渦巻いた。
「あれれ? さっきまでの威勢がどこにいったのかな? お兄ちゃん、私さ、ずぅっとここにいたんだよ? 死んでからも。ずぅっと、ずぅっと。待ってたんだよ。お兄ちゃん、来ないのかなぁってさぁ、なのにさぁ、この公園に来るどころか避けてるじゃん。やっぱり最低だ。ひどいお兄ちゃん」
 声がどこかはずんでいる。だが後半から少しずつ暗くなっていった。そして……
「ああああああああ、嫌嫌嫌嫌。こんなお兄ちゃんなんか嫌。私のことなんか気にも留めないで中学で新しい友達作っちゃってさ! のうのうと生き続けてどうせかわいい奥さんとか子供とかできてさ、私のことなんか忘れちゃうんでしょう! どうせあの二人を見て私をちょこっと思い出しただけなんでしょう!」
 悲しい咆哮が頭に響く。寂しい訴えがむなしく響いた。
「ほんっとにありえない! 自分のことしか考えないお兄ちゃんなんか大っ嫌いよ!」
 駄々っ子のような金切声で叫んでいる妹が哀れになった。しばらくして声が聞こえなくなった。おそるおそる顔を上げるとそこには何も無く、さっきまであった醜い肉塊も無くなっていたが、吐き気と頭痛は収まらなかった。ブランコが静かにキィ、キィと揺れている。がらん、としてどこか寂しいこんな公園にいるだけで不安になる。もうこの場所から離れよう。そう立ち上がったその時だった。
 ――ザリッ
 地面のこすれる音が聞こえた気がした。気のせいだと信じたかった。だがザリザリと枝を引きずっている音が後ろで確かに聞こえていた。
ザリザリザリザリ
嫌な予感がして恐る恐る振り向くとそこには枝が地面をひっかいていた。誰も支えていないはずなのに枝はふらふらと頼りなくひとりでに動いていた。冷や汗が何度も額を流れ落ちた。ひっかいている枝の所まで震える足を引きずっていくとそこには乱雑な文字が並んでいた。
『また あおうね おにいちゃん』
 息が詰まった。落ち着いてきた心臓がまた速いテンポで動き出した。アイツはまだ俺に会う気だ。また、アイツが、クル、ノか………………

「……おい、君、大丈夫か?」
 気が付いたら朝日が昇っていた。ぼんやりと公園を包む朝霧に不安を覚えた。見上げるとそこには汗だくの中年男性が立っていた。どうやら朝のジョギングの途中に俺を見つけたらしい。息を切らして心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。今にと汗が流れ落ちてきそうで別の不安に駆られた。あわてて起き上がり大きく息を吸い込んだ。中年男性の汗のにおいが肺を満たす。
 思いっきり咳き込んだ。
「君っ」
 中年男性が伊勢って俺の背中をさすってくれた。
「今、何時ですか?」
 俺は背中の砂を払いながら立ち上がり、なんとなく尋ねた。
「えっ? あぁ、朝の五時半だ」
 いきなりの質問に戸惑いながらもちゃんと答えてくれた。
「ありがとうございます」
 汗だくの中年男性に一礼し家へと走り出した。
 家に到着するまでそう時間はかからなかった。母さんは心配しているのだろうか。第一家に帰っているのかすらわからなかった。大粒の汗が何度も額を流れ落ちた。そういえば久しぶりに走ったような気がする。日ごろの運動不足が祟ったのか息切れが激しかった。入部したらしっかり走ろう。そう決意した。玄関を開け、恐る恐る顔を部屋の中に押し出した。つぶった眼を開けるとそこにはいつもの暖かなリビングがあった。こんがりと焼けたトースト、ほかほかと湯気を放つハムと目玉焼き。
 絵にかいたような温かな家庭だった。俺の家のはずなのに違う、と本能的に感じ取った。時間がゆっくりと流れていく。金縛りにかかったように身動きが取れなかったがのんびりと俺は考えた。
 知らない場所だがひどく懐かしい。幼少のころ毎日見ていたようだった。幼いころの錆びれた記憶がすこしずつ露わになっていくようだった。
 そうだ、ここは元、自分の家だ。父さんが亡くなる前の、全員いたころの我が家だ。あのころは笑顔が溢れていてごく普通の一般家庭だったのだ。妹が交通事故で、父さんが癌で倒れてから小さな家に引っ越してきたのだった。母さんは残念がっていて、どこか寂しげだった。荷物をまとめている途中、母さんは何十回もため息をついていた。父さんがいなくなってから母さんは前よりも老けてしまったように見えた。白髪も増えて肌に艶も無くなってしまった。やっぱり父さんを失った悲しみは月日がたっても無くならなかったようだった。二つの命が消えてしまったショックは俺にもある。だがここで俺も母さんのようにいつまでも悲しんでいたら家に淀んだ空気が充満してしまう。母さんはほとんど家にいないけれど知らない間に帰ってきて飯を作ってすぐに家を出て行ってしまう。たまたま見かけると母さんは疲れ切っていて俺にすら気が付かなかった。昔の、明るくて楽しい母さんに戻ってほしかった。それが叶わぬ願いだとわかっていたが毎日のように祈ったりもした。だが人類を全く見ていなかった神様はそんな小さな願いには目もくれなかった。母子家庭だと馬鹿にされ、せめて力をつけようと剣道に励んだ。思ったよりも才能があったらしく県内一位まで上り詰めた。それからは周りの人間は俺を白い目で見なかったがどこか距離を置かれてしまったようだった。友達として話しかけてくる奴がいなくなってしまった。だが俺は寂しいとは思わなかった。もともと人とあまり接したくなかったから話しかけてこないのはむしろ心地よかった。一人でいるととても落ち着いた気分になれた。だから中学に入ってもこんな毎日が続くんだろうと思っていた。しかし裕也と出会い、こんな俺にも友達ができるんだと少しだけ嬉しかった。渡来とも仲良くやっていくのかとひそかに胸を躍らせたりもした。だが妹、というのを耳にし、何年も忘れようとしていたことが弾けた。次々と浮かんでくる血まみれの思い出。過去に戻りたいと願い続けた幼い俺、泣き続ける母さん、俯く父さん、苦しそうに倒れる父さん、ただ見ることしかできなかった俺、無機質な機械音、粉が舞う白い骨、泣きはらした目で焦点の合っていない瞳、ため息の多い母さん、ぼうっと過ごした休日。めぐるめぐる暗い思い出が頭の中でぐるぐる回った。後悔と悲しみ、吐き気がこみ上げてくる。どうしようもない感情で頭がどうにかなりそうだった。思わず膝をつき、眩暈に耐えた。いまだに暖かな部屋は今では吐き気しか呼ばない。
「わぁっ、私の大好きなハムだぁっ」
 元気な幼い女の子の声が聞こえた。階段をとてとてと駆け下りて一番に食卓の席にどかっと腰を下ろした。そのあとからマイペースに降りてくる足音が聞こえた。
「お兄ちゃん、はやく、はやくぅ」
 階段から降りてきたのは紛れもない俺だった。悠長に文庫本を片手にゆるゆると歩いてきた。
「んぅー」
 生返事をしながらゆっくりと席に着いた。本から目を離さないままだがしっかりとフォークを握っていた。
「お兄ちゃん、今日一緒に公園行こうよ」
「………………」
「私、二重飛びできるんだよー」
「………………」
「ねー、お兄ちゃん聞いてる?」
「聞こえない」
「うっそだぁ」
 妹は笑ったが俺は無愛想だった。読書の邪魔をされていらついているようだった。
 この光景ははっきりと覚えていた。この後、朝食を食べた後二人で公園まで歩き妹が撥ねられるんだった。
「ねー、いこうよぉ」
「……えー?」
 そうだ、行くな。むしろ家から一歩も出るんじゃない。
「徹、お兄ちゃんだろう。行ってやりなさい」
 父さんが優しく微笑みながら俺の頭に手を乗せながら優しくいった。
「でも……」
「でもじゃないぞ。妹の頼みも聞けないのか?」
 父さんは少し間眉を吊り上げながら幼い俺をたしなめた。やめろ。やめてくれ。
「んーぅ」
 渋々、といったような顔で頷いてしまった。体温がみるみる冷たくなっていくのが自分で感じた。
 突然部屋が歪みだした。暖かな茶色の木の壁は朽ち果てた材木の切れ端のような色に変色し、真っ白なテーブルクロスは黄ばみ、端の方がほつれている。全体的に灰色がかかったようだった。食卓の中央には一人の男性が座っていた。頭を抱え、苦痛に耐えていたようだった。それは父さんのようで父さんではなかった。寂しげな背中も俺は直視することができなかった。やがてまた部屋が歪み、悲しげな父親はぐらりと真っ黒に変色した床に倒れ、モノクロの写真が二つ机の上に飾られていた。母さんが荷造りをしている。俺が無表情で後ろをついて行った。画像が乱れたように部屋にノイズがかかった。
 ジジッ――ザザァ――
 部屋が急速に腐っていく。傾き、崩れ、本当の意味で家庭は崩壊した。
「うわあああああああああああ」
 あまりにもリアルな光景に喉から断末魔が絞り出された。叫んでも叫んでも出てくる哀れな鳴き声。この声は誰のものなのだろうか。
「ああああああああああぁぁぁぁ」
 見殺しにしてしまった俺なのか、大切な人を二人無くした母さんなのか、多くのストレスと悲しみで倒れた父さんなのか。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――」
 それとも、無念の思いを抱く妹なのか。
「――あぁ」
 そんなの決まっているじゃないか。
「――ははっ」
 一番被害者面している俺じゃないか。
「あはははっ」
 どうして俺に限ってそんな馬鹿な妹がふざけんな俺はただついて行っただけじゃないかどうしてこんな目に俺はただ、
「あははははははは」
 幸せな毎日が続けばいいと、ただ、それだけで、
「はははははは」
 ガキながら願っていたのであって。
「ははは――」
 妹が死んでしまうなんて考えたこともなく、もちろん父さんが倒れるなんてことも考えず、平穏な毎日が続くのだと思っていた。
「………………」
 白い粉末のような骨を見て初めて人間の死を見た。不思議と悲しい気持ちにはならなかった。幼い俺には目では理解しても脳までは理解できなかったのか、それとも妹や父親に対して何の感情も抱いていなかったのだろうか。
 妹はいつも元気で明るくて俺とは正反対だった。人懐っこく俺にしょっちゅう一緒に遊ぼうとせがまれた。そんな妹がうっとおしいと心のどこかで思っていたのかもしれない。
 父さんは毎日仕事、仕事で家庭を顧みず、偶然とれた休みでは寝室で一日中寝ているし父親らしいことなんて一つもしてはくれなかった。あの時もそうだった。久しぶりの休み、当然俺はどこかに遊びに行くなんてことを期待していなかったが妹と公園なんてまっぴらごめんだった。父さんが言わなければもしかしたら妹は死ななかったのかもしれない。都合がよすぎるかもしれないが俺はそんな父さんに憎しみを感じていた。
「――あーあ」
 結局、全て俺のせいじゃないか。俺が何が何でも公園に行かなかったら妹は、父さんは助かったのかもしれない。どす黒い感情が渦巻いた。もう取り返しがつかないのになぜこんなに悩まなければいけない? これが呪いなのか。全てを押し付けて何事も無かったかのように装った俺への仕返しなのか。いい加減にしてほしい。平穏を願って何が悪い。のうのうと生きていて何が悪い。妹が死んだのは事実だし父さんが癌になったのも事実だ。
 俺が直接殺したわけではない。ただ見ていただけだ。今まで後悔していたのがアホらしい。はらわたが煮えくり返った。妹は俺の後悔も知らずにずっと自分だけが悲劇のヒロインのように見せつけてきただけだった。
「もう勝手にしろっ。俺はもう知らないっ」
 叩きつけるように叫ぶともう原形をとどめていない部屋はついに闇に包まれた。
 そしてそこには見慣れた今の家のリビングが広がった。
 カチッコチッカチッ
 時計の針の音が妙に大きく聞こえた。現在午前五時四十五分。中年男性に時間を聞いた時間からたった十五分しかたっていなかった。一体どうしてだろう。霊的な体験をした人は時間が止まっている、と何かの本で読んだことがあるがそうなのだろうか。あるいはそんな体験などしていなかったのか。全てが夢ならいい。だがもう後悔はしない。死んだ妹のわがままには付き合ってられない。俺は俺の人生を歩く。
がタッ
 どこかで物音がした。
 不安になった。確かこの時間帯では母さんが寝室にいるはずだった。その物音は寝室の方から聞こえてきた。もし妹の呪いなら父さんが倒れたのは道連れにされたんだ。そしたら母さんも引きずり込まれる。日に日に更けていく母さんの姿を見るのは痛々しかったがその母さんがいなくなってしまったら本当の独りぼっちになってしまう。思わず母さんが首を吊っているところを想像してしまった。
 あわてて二段飛ばしで階段を駆け上がり寝室のドアを蹴破った。
「かあさ――」
 明るい間接照明がまず視界に写った。ベットの中はカラだ。開け放たれた窓から入り込んだ風でカーテンがパタパタと揺れた。まさか――
「いたたたた……」
 ベッドの隅……俺にとって死角になる場所からうめき声が聞こえた。ほっと胸をなでおろす。心配させないでほしかった。
「なにしてんの」
 ぶっきらぼうに俺が訪ねてみた。母さんはよっこらせっと掛け声を出しながら立ち上がった。
「見ての通り、落ちちゃった」
 てへっ、舌をペロリと出して自分の頭を軽くたたいた母さん。その動作は古いんじゃないかな。そんなことよりも母さんが無事でよかった。
 それにしてもいつもため息ばかりついていた母さんがなぜあんな弾けるような笑顔を浮かべているんだ。笑った顔が妹にとてもよく似ていた。
「そうだ徹、朝ごはんまだだよね。お母さんが作ってやろうじゃない」
 おどけながら俺の頭をポンポン叩き意気揚々と階段を下りていこうとした。
「母さん」
 背中越しに声をかけた。母さんの行動に違和感を感じた。
「ん?なんだい息子よ」
 ふざけながら振り返った。表情はもちろん笑顔だ。
「雰囲気、変わったね」
 気になった言葉をなげかけた。今までの母さんはため息は呼吸のようにしていたし、もちろん笑っていた、ということもなかった。あんなにへらへら笑うのはあの二人が生きていた時だけだ。
「夢でね」
 ぽつり、言葉が零れた。母さんはいつの間にかまたいつもの暗い顔に戻っていた。
「あの子が出てきたの。私の膝にチョコンって乗ってるの。それでぐっすり寝てるんだけどね、いきなり目を覚まして私に言うの。『私が死んで悲しかった?』って……」
 母さんも見たのか。あの子、妹のことだ。母さんはあの日以来妹を名前で呼んでいない。……ような気がする。そういえば俺は妹が生きている間に名前を呼んだことがあっただろうか。――ないな。
「私はさ、『すごく悲しいよ』って言ったらあの子はすごく怒った顔で『嘘だ!』ってさ……」
 本当だよ。
『嘘! だって私が死んだとき泣いてなかったもん!』
 ショックで涙も止まっちゃったんだよ。
『へえ……ほんとに悲しいの?』
 ほんとに悲しいよ。だからずっとため息をついてるの。
『え……ため息?』
 そうだよ。
『駄目だよ。お母さんは笑ってないと。ため息はお兄ちゃんの方が似合ってる』
 そうかな。徹がため息ついてるところなんて見たことない。
『ううん、お兄ちゃんが不幸になるべき。お母さんは笑っててよ。私のお願いっ』
 え……。でも、私……。
『つべこべ言わないで笑って!』
 あ……。う、うん。
『やったあっ、約束だよっ、ぜぇったいにため息つかないでねっ』
「……てなわけで笑っているのです」
 敬礼しながらいきさつを話した母さんはうっすらと口元が歪んでいた。無理やり笑っているのかとても笑顔がひきつっている。無理にでも笑って妹を喜ばせようとしているのか。
「無理しない方がいいと思う」
「大丈夫、へーきへーき」
 へらへらと笑い階段を軽やかに駆け下りて行った。
 とうとう母さんの所にも来た。というか、俺のもとに来た後に母さんの所に行ったのだろうか。どうして母さんまで巻き込んでしまったんだ。俺だけでは物足りないのか。もしも母さんがため息をついてしまったらどうなってしまうのだろう。そんなの想像もしたくない。そんな考えを追い出して階段を駆け下りて行った。
 母さんが鼻歌を歌いながらトーストを焼いている。元気そうに見えるが目元の隈が無理やり笑うことの辛さを物語っていた。無理矢理の笑顔が哀れに思えた。
「はい、徹の大好きな蜂蜜バターパンっ」
 疲れ切った声を塗りつぶして明るい声を出してる声が痛々しい。そんな声を出すくらいならいっそ喉をつぶしてしまえばいい。
「………………」
 大好きなはずの蜂蜜バターはねちゃねちゃとした舌触りで味が全く感じなかった。

「あ、おはよー、とーちゃん」
 何故か裕也まで俺をあだ名で呼んでくる。困りはしないけれど少し恥ずかしかった。
「おはよ」
 どことなく適当に返事して席に着いた。
「ん?元気ないねえ、とーちゃん。悩みでもあるの?」
 裕也が前の席になんの断りなくどかっと座り後ろを向きながら話しかけてきた。確かそこは関西弁を駆使する女子の席だ。断りなく座ってもいいのだろうか。そんなことを考えているとそっけないのが気に食わなかったのか頬を膨らませている。
「いや、別に」
 あまりクラスメイトを巻き込むようなことはしたくない。それにこれは俺自身の問題だ。
 裕也には関係ない。
「うっそだぁ。顔に書いてあるよ」
 にやにやと笑いながら俺の頬をつんつんつついた。こめかみが熱くなったがぐっとこらえた。
「本当に」
「ほんとおにい?」
 頬をつついていた手を掴み軽く睨んでみる。あまり効果がなかったのかにやにや顔は治らずに今度は足でふくらはぎ辺りを攻撃してきた。地味に痛い。
「本当」
 足の位置を変えてみたら単純攻撃だったのかそのままスカッと空振りした。
「うっ」
 その足は机の脚に当たり短い悲鳴が口から零れていた。単純なのか鋭いのかよくわからない。
「なんにもないから。大丈夫」
 もう一度、一語一句しっかりと聞こえるように、小さい子供に言い聞かせるように言った。裕也は小さくうめきながらも男子にしてはわりと大きめの目をこちらに向けていた。
「……なら、いいんだけど」
 ふてくされながら席を前後にガタガタゆすり始めた。つまらない、無言で訴えてくる。
「最近どうなの、妹とはさ」
 なんとなく話題探しをし、視界の端に渡来が写ったからその話題にした。理由はない。
 あるとしたら、なんとなく。
「んーとね、最近一緒にポニョ見た」
 ポニョ、DVDだろうか。イマドキの中学生はそんな映画を見るのか。今は申す恋新しいジブリ作品が出ているようなことをテレビで報道していたような気がする。
「仲、いいじゃん」
「そおかなあー。普通だと思うけど」
 言葉は冷静だが顔は照れていた。単純だ。
「それにさあ、俺、途中で寝ちゃったんだけどね、気付いたら舞衣も寝てたんだよー」
 兄妹というのを忘れていると単なるのろけ話に聞こえる。無意識に下唇をかみしめた。
「へえ、ふうん」
 生返事しか出なかった。
「……あ、そうだ。あのねとーちゃん。明後日から連休じゃん?」
 そういえばそうだった。妹のことで休日など頭になかった。
「そうだな」
「だからさ、季節外れの肝試しー、なんてやってみない?」
 裕也の提案は突拍子すぎて一瞬固まい、自分でも間抜けな顔を作ってしまった。
「あははっなにその顔。冷める」
 棒読みでよほどつまらなかったのか冷めた声が上から降ってきた。見上げるとそこには渡来が腕を組みながら偉そうに堂々と立っていた。
「ま、舞衣……」
「お兄ちゃん」
 冷たい声だった。裕也は縮みあがった。恐怖している。
「私、いつお兄ちゃんとポニョみたっけ?」
「………………」
 どうやら嘘だったらしい。
「一緒に、寝たっけ?」
「………………」
 これも嘘らしい。小さなことで見栄を張りたい裕也は額にだらだらと脂汗を流している。
「お兄ちゃん? なんで嘘つくの?」
 冷めた渡来。赤くなったり青くなったりしていて色々面白い裕也。顔立ちの似ている二人が全く違う表情で対峙しているのはどこかファンタジーであった。
 と、いうかなぜそんなことで嘘をつくのだろうか……。
「ごめん」
「ごめんじゃないでしょお?」
 ねっとりとした声が上から降ってくる。相当怒っているが、その怒りが俺にも向いている気がする。これはとばっちりか。裕也は顔面蒼白でもはや使い物にならない。俺が何とかするしかないのか。よく他人ごとに巻き込まれてしまう。これも体質なのか。
「お兄ちゃん、聞いてるう?」
 挑発的に刺々しい言葉を放つ。表情こそ冷たいが裕也の顔芸に少し声が震えている。
「……うん」
 俯いて震えている裕也。もうどちらが女なのかわからない。
「罰として――」
 一度言葉を切った。裕也の肩が分かりやすくビクリ、跳ね上がった。
「私をその肝試しとやらに参加させることっ」
 堂々と宣言した。
 この空間に一番似合う効果音は『ぽかん……』だろう。裕也の口はあいたままだ。俺は何を言っているのか理解するまで数秒かかった。
「ん? どしたの?」
 黙ったままの俺たちを見て不思議そうな渡来。少しは自分の言葉の突拍子さに気付いてほしかった。
「あ……うん、いいよ」
 やっと口を閉じた裕也が笑顔で答えた。まだ冷や汗が残っていたが無視していいだろう。
「とーちゃんもいいよねっ」
 拒否する理由がないので頷いた。一つ疑問が浮かんだ。
「どこに行くんだ?」
 裕也は誇らしげに言った。
「廃病院だよっ」
 本日二度目の硬直だった。渡来までも頬をひきつらせていた。
「あれ? この辺に病院なんてあるの?」
 頬をひきつらせながらも裕也に問いかけた渡来の額は冷や汗が張り付いていた。どうやら参加したいといったものの怖いものは苦手らしい。
「あるよっ。隣町だけど二、三十分位でつくから」
 このすがすがしい裕也の顔に悪意を感じた。案の定渡来は逃げ場を失ったネズミのような顔で青ざめていた。本格的に苦手なようだった。なんとなく仲間外れにされたのが不服だったのだろうか。どこか子供っぽかった。
「へ、へえ……」
 青ざめながらも覚悟を決めたようだ。その顔にはどこか開き直ったすがすがしさがあった。そんなこんなで明後日、廃病院に行くことになった。

 家に帰ると当然のように母さんの書いた手紙が机の上に置いてあった。
『今日は多分家に帰りません。仕事です。夕飯は買ってきてね☆』
 最後の星マークにイラッとしながらも財布とエコバックを片手にまとめて持ち、近くにあるスーパーへと歩いて行った。
 あの公園をさりげなく回り道するように避けて通った。あんな場所にはいきたくない。
 しばらくするとスーパー『のんびりまったり店』という気が抜けすぎている立て看板が見えてきた。マスコットキャラクターのシマウマののんびりくんとライオンのまったりちゃんが微笑んでいる。食う、食われるという関係の二匹が微笑んでいると妙に不安になった。入店するとこれもまた気の抜けたBGMが流れていた。温かい空調においしそうなコロッケの匂いが漂っている。いつもは店内にある本屋で立ち読みをするところなのだが今日は違った。いつもの本屋には見知った顔があった。確かあれは同じクラスの、というより前の席に座っている関西弁女、斉藤渚だった。赤色の縁メガネをかけ、こげ茶の髪の毛を無造作に束ねていた。気の強そうな鋭い目はコミックに彷徨わせていた。同級生がいるのだから挨拶するのが礼儀だろうか、素通りしてもいい気がしたが一応前の席の人だし挨拶はしておこう。
「よう」
「うひゃあっ」
 後ろから声をかけたのがいけなかったのか斉藤はコミック片手に飛び上がった。
「な、なんや」
 ぎこちなく振り向く斉藤。その手の中には少年向けコミックが収まっていた。コミックの表紙には金髪の青年が両手を重ね、何かを叫んでいる。えぇと……か・め・は――
「こんな本どうでもええねんっ」
 すごいあわてっぷりだった。コミックを本棚に戻し、どこに置いたかわからなくなってしまったがとりあえず『有名な本』だった。
 そんなことはさておき、いまだに少しあわてている斉藤と少し世間話をすることにした。
 どうせ家に帰ってもすることはない。少しの暇が潰せるような気がした。
「というか、おつかいなん? えらいねえ」
 おばちゃんのようなことをにやにやしながら言ってきた。大阪で育ったのだろうか、豹柄のTシャツが似合いそうだった。
「いや、俺の仕事だから」
 なんとなく答えをぼかしながらもそう答えた。
「ほおーん。すごいねえ」
「斉藤はなにしてんだ?」
「うち? うちはな、本屋の立ち読み。暇だからなぁ」
 のんびりと言った。気ままな奴はいいな、こういう奴を見ると羨ましくなる。
「いいな」
 なんとなく口から零れた。
「え? なんて?」
 斉藤が不思議そうに眉をひそめた。聞き取れなかったらしい。だが、それが好都合だった。聞き取れていたら少し恥ずかしい。
「別に」
「あ、そうかい。ならええ」
 おおらかなのか大雑把なのかどうでもよさそうにつぶやき、頭をぼりぼりと掻いた。
「あ、そうや。うちも暇やし、世間話でもしようや」
 にっこりと笑いかけてきた。どうやら俺の都合は無視らしい。
「ああ」
 生返事だがとても嬉しそうだった。
「そやなあ、じゃああそこのカフェでも入ろうや」
 斉藤の指差した先には暗い雰囲気の喫茶店があった。斉藤の趣味が気になってしょうがない。
 からんからんころん――
 下駄を鳴らすような音で入店し、店員に二人、と告げようとしたその時、
「四人ですぅ」
 突如、俺の肩をむんずとつかんでいる謎の人影が口を開いた。斉藤の方にも同じような人物がいた。
「えぇ……ではこちらへどうぞ」
 店員は少し戸惑いながらも四人掛けの席まで案内してくれた。
 どうしてだろう。
 どうして渡来兄妹がいるのだろう。
「えーどしたの? 斉藤サンとふたりでデートな訳?」
「まじか、とーちゃん」
「へ? 柳浦君、とーちゃんなん?」
 カオスだ。もうなんかどうでもいい。説明が面倒くさい。というよりなぜ当然のようにあの双子がいるのだろうか。
「とりあえずお前たちがいることを説明しろ」
「たまたま見かけたから」
 仲のいい双子は息ぴったりに即答した。ため息すらつくのを忘れた。人生で初めてあきれ返ったような感覚だった。
「まあ、仲良くてええんとちゃう?」
 頼んでいたメロンソーダをすすりながら寛大な笑顔で受け入れる斉藤。どうして女子という生物はこんなに良くできているのだろうか。精神年齢が男子よりも二年ほど早いと言われているが確かにそうかもしれない。逆に俺が幼すぎるのかもしれなかった。
「ねえねえ、なんで二人でここはいったの? 気になるわー」
 渡来がモンブランをフォークにさしながらこっちを上目づかいに見上げてくる。そういえばコイツは精神年齢が低そうだった。
「あぁ、それはな、たまたまあっちの本屋でな、柳浦君が話しかけてくれてな、それで立ち話もアレやしな、別にやましい事なんかあらへんで?」
 俺のことをちらちら見ながらもメロンソーダをずずっとすすっている。さっきから静かな裕也は窓の外でひらひらと舞っている蝶を目で追っていた。すさまじくどうでもよさそうだった。
「ふふぁんふぁいふぉー」
「渡来、とうとう人語を忘れたか」
 モンブランを詰め込みすぎたのか日本語が成り立っていない。
「つまんないのー」
 ごくり、モンブランを飲み込んでもう一度同じ言葉を出した。渡来はニコニコしながらアイスモカを飲んでいた。
「ね、とーちゃんて何なん?」
 斉藤が聞いてきた。そういえば裕也が言っていたので気になっていたのだろうか。
「名前が徹だから、とーちゃんなんだよ」
 裕也が視線はそのまま窓に釘付けでポツリとつぶやく。聞いていないようでい聞いていたらしい。
「そうなん? へぇー、とーちゃんなぁー」
 どこかうっすらと微笑みをたたえ、チーズケーキをかじった。
「なあ、うちもとーちゃんて呼んでもええ?」
「ん? ああ、別にいい」
「やったっ、よろしくな、とーちゃん」
 一人ずつ俺を馬鹿にしていく人物が増えているようで不愉快だったが、これでまた友達が増えるのか、と思うとうれしさもあった。
「はーああっ、このままさぁ――」
 渡来がため息交じりに小さくつぶやく。裕也は窓の外を見て体をこわばらせた。
「おい、どうした裕也」
 不審に思い裕也に声をかけた瞬間――
「――ごほッ」
「ちょっ、渡来さんっ?」
 突然、平和な日々が打ち砕かれた。健康的な肌はみるみる赤黒く変色し、今にも倒れてしまいそうなほど体を縮み上げ、何度も激しくむせた。周りの客は何事か、といった風に席を離れて行ってしまった。誰も救急車は読んではくれなかった。こんなに人間は冷たかったのか。
食べ物を詰まらせたくらいではこんなにはむせない。なにか、モンブランに入っていたのだろうか。
「………………」
 窓の外を眺めていた裕也は何故か無表情で冷めきった眼をしていた。それを見て頭に血が上った。
「おい裕也っ、妹が大変なことになってんだぞっ」
 声を裏返しながら叫ぶと裕也は穏やかに笑った。冷静な瞳にゾッとした。
「大丈夫、よくあることだよ」
 背中に嫌な汗が伝い落ちた。裕也がこんな顔をするとは思ってもみなかった。もっと妹を心配するのかと思ったがまったくそうではなかった。むしろ正反対だ。頭が真っ白になった。渡来はまだむせている。
「うげっ、げぇっ、がはっ」
「渡来さんっ、しっかりしてやっ」
 斉藤が心配そうな顔で渡来の背中をさすっていてくれている。心なしか渡来の表情が穏やかになった気がしたがそれも一瞬のことですぐに背中を丸めてしまった。
「あーあ、もしかして何か願った?」
 背後で涼やかな声が聞こえた。それは裕也でもなく、斉藤でもなかった。ぼろぼろの白衣を着て、髪はぼさぼさ、透明度の低い鼻眼鏡をひっかけただらしない男だった。
「舞衣さぁ……やっぱ外に出したくなかったんだよー、絶対こうなっちゃうからさー」
 頭をぼりぼり掻きながらぼやいた。
「神崎さん」
 裕也は冷めきった顔をわずかにこわばらせながら口の中でつぶやいた。
「あぁ? 裕也か……」
 神崎と呼ばれた男は裕也を一瞥するとまた渡来に向き直った。
「おめーの管理が行き届いてないからこんなことになるんだろうがっちょっと心配だったから後をつけたらこのざまだっ」
 いらだちながらポケットをまさぐり、小さなビンを取り出した。瓶のふたを開け、さかさまに傾けて緑色の粉末を掌に出した。小さく舌打ちをしながらそれを渡来の口に押し込んだ。
「おい、なにしてんだ」
 そう言った俺の声はわずかに震えていた。突然登場した神崎に混乱しているのか、それともすべてのことに理解していないのかはわからなかった。
「あー、いた。あのなぁ――」
 言いかけながら、手近に置いてあった誰が飲んだのかわからない水を渡来に飲ませた。
「きたな――」
 斉藤がやっと声を出した。
 渡来の喉が鳴った時、わずかに渡来の体が震えた。
 そして瞼をゆっくりと上げた。
「あれ――」
 不思議そうな顔をしていたが神崎を見るとその顔を恐怖にゆがめた。
「ひぃっ」
 体が震え、さっきとは別の痙攣が渡来を襲った。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 震える唇は確かにそれだけを紡いでいた。それを見て神埼はにっと笑って見せた。今度は裕也も顔をこわばらせた。
「はぁ――この失敗作共め」
 小さく悪態をつき、ソファーにどかっと腰を下ろした。失敗作? 何のことだろうか。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 渡来は何度も繰り返し、裕也はずっと何もしゃべらなかった。
「えっと……、斉藤さん、だっけ?」
「なんや」
 名前を呼ばれた彼女は姿勢をただし、殺さんばかりの鋭い視線で神崎を睨んだ。
「誰かは知らんけどやな、渡来さんになにしたんや」
 神崎は不敵に笑った。
「そんな怖い顔しないでくれよ。俺は、ただの、科学者だ」
 両手を広げ、自信満々に言い放った。
「俺は人体研究者。コイツ等を作ったんだよ」
 言っている意味が分からなかった。渡来と裕也はうつむいていた。
「なんのことやねん……」
 混乱しているのかため息交じりにそうつぶやく。俺も混乱していた。だがそれが当然のように俺は受け入れてしまった。不思議と神崎を見ていると落ち着いてしまった。
「俺はとある人物から依頼を受けて作ったんだ。三体だ」
 淡々と説明をし、長い指を三本突き出し、目を細めながら笑う。瞳には狂気が覗いていた。
「三体て……あんたは一体何者なんや」
 斉藤は意味が分からない、といった風に眉を跳ね上げた。
「残念ながら君には多く語りすぎた、速やかに退室してもらいたいな」
 当然のように言い放ち、斉藤を睨んだ。
「なんでやねんっ、なんでうちが――」
「いいから、行けよ、糞人間」
 濃密な殺意が立ち込めた。斉藤は短く悲鳴を漏らすと席を勢いよく立ち、そそくさと立ち去ってしまった。
 俺はどうなるのだろうか? それよりも俺も行かなくては。斉藤が心配だった。
「いや、君はいい」
 俺も立ち上がろうとすると神崎はにやにやしながら片手を突き出し牽制された。思いっきり睨むと神崎は怯むどころか満面の笑みになった。
「はっはっはっ、素晴らしい実験結果だ! とても良い!」
 天井に向かって咆哮するとテーブルをダンッ、と叩く。
「いいね、いいね、いいね! 最高だ!」
 神崎はいまだに笑い転げていた。裕也と渡来はピクリとも動かない。魂が抜けてしまったかのように瞳には何も映ってはいなかった。
「はぁっ、はぁっ――さて」
 歪んだ顔を取ってしまったかのように真剣な顔が現れた。鋭い眼差しが俺を貫いた。
「君を残したのは他でもない――真実を知ってもらうためだ」
 いつの間にか双子は目を閉じてかすかな呼吸すらもしていなかった。
「君――否、柳浦徹」
 自然と背筋が伸びた。ふと、疑問が生まれた。
「どうして俺の名前を……」
 口から零れた疑問は神崎によって溶ける。神崎が来た時からうすうす感ずいていたことをはっきりと告げられた。
「決まってるさ、俺が、お前を作ったんだ」
 あらためて殴られたような感覚に襲われた。混乱した。体が現実を受け止めることを激しく拒否している。体が震えた。
「俺はなぁ、お前の母親……否、お前の住んでいる家の女に頼まれたんだ」
 思い出話のように懐かしむように言葉を紡ぎ始めた。
「あの家の女は息子と娘を亡くしたんだ。先に死んだ娘は事故、後に死んだ息子は病気で、だ」
 静寂が耳に痛い。不意に泣き叫ぶ母さん――あの女性を思い出した。
「俺はそのときたまたま近くに研究所を建てていてな――あぁ、もう潰れたよ――そこにあの女が息子の死体を持って駆け込んできて『何でもするから生き返らせて』って懇願してきたんだよ。以前俺は人型ロボットの開発を成功させてな、何を勘違いしたのか人を生き返らせるなんてうわさが流れたらしい。それであの女が来た」
 テーブルに置いてあるコーヒーをかき混ぜながら思い出話を紡いでいる。その瞳には悲しさも宿っていた。
「俺は、金に困っていたからそれを受け入れた。それで、お前ができたんだ」
 ストローでこっちを指してきた。
 俺が生まれた。確かにあの男は生まれたと言った。俺は、俺の人格は死んだ人間から生まれた電子的な存在。俺の人生は俺が目覚める前から終わっていたんだ。
「俺はお前を作っているうちに考えた。こいつを完成させたら死体はまた生きた人間として人生を繰り返させることができる。つまり、俺は生命を操作できる神になれるのさ」
 喉の奥でくつくつと笑い目を細める。俺はというと全く動けないでいた。
「そうして俺は海外で野垂れ死んだ乞食の死体を回収してきた。そしてコイツ等を作った。もちろん双子なんかじゃない。ただの、外国人の、他人だ」
あの双子は静かに固まっている。
「そうして俺は三体の、いわば、ゾンビを作った。やっぱり人間じゃないからかな、多少力が強かった。まあそれはちょっとしたミスだ。そしてお前の記憶をリセットさせ、生前の記憶を作り、インストールさせておいた。そっちの双子は記憶を消さずに俺のもとに置いておいた。そして、お前に接触させた。予想通り断面的な記憶がよみがえり、それに抵抗しようとして捻じ曲がったメモリーが起動した。そして、被害妄想を生み、素晴らしい実験結果が得られた」
 神崎の口元には歪な笑みがたたえられていた。
「舞衣はもともとわがままな体質だったからなにか強く願ったら強制的にシャットダウンさせるようにした。裕也は甘えが多いからそんなときには意識を曖昧にさせた。だから裕也は絶望したかのように暗くなったし、舞衣は発作のようなものを起こした」
 手を組み、饒舌に語る。
「そうそう、あの女はやっぱり人間がよかったのかなぁ、妙な夢を見てゾンビを作ってしまったというストレスに耐えきれなくて今朝入院したよ」
 付け足すように重ねた。
「これが真相、全ての真実。これみてめでたしめでたし」
 歌うように囁かれた。俺の意識がだんだん暗くなってきた。
「ちなみに、あの仏壇に映ってるのは父親とあなたの写真。でもさ、」
「どうせ、忘れちまうことなんだから」
 裕也と渡来が同時に口を開いた。ような気がした。
 そして俺の視界は闇に包まれた。

 俺は柳浦徹。剣道部に所属し、愉快な友達が何人もいてとても毎日が楽しい。不安があるとすれば母さんが倒れてしまった、ということだ。早く元気になってほしい。
「ねーねーとーちゃん、また肝試し行こうよー」
「ああ、また今度な」
「なあなあ、次、うちも行きたいー」
「ああ、いいよ」
「楽しくなりそうだなぁっ、ね、舞衣っ」
「なんかとーちゃんて、ロボットみたいやなぁ」
「え?」
「いや、独り言や」
 日常はいつもと変わりなく、永遠に続く。
2013-06-27 22:37:37公開 / 作者:ミミック
■この作品の著作権はミミックさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
長い時間をかけてやっと書き上げました。少ない時間の合間を縫って書いたので話のつじつまが合っていないかもしれません。そんなことがありましたらぜひ、コメントして指摘してくれるとうれしいです。
この作品に対する感想 - 昇順
[簡易感想]少しだらだらとしすぎた部分がありました。
2013-08-28 13:52:55【☆☆☆☆☆】Miranda
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。