『蒼い髪 31話 オネスの復讐前編』作者:土塔 美和 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 平民の母を持つルカは王子とは言え身分の低い存在だった。七歳の時、政略の道具としてボイ星に送り込まれ、ボイ星はネルガルの植民惑星となる。ルカは友人の助けを借りボイの王女であり自分の妻であるシナカを救出することはできたが、シナカは戦犯としてネルガルで拘束される。シナカを牢から出すためにルカは軍部と取引をする。軍からの指示でキュリロス星の奪還に向かうルカ。奪還には成功したが、敵の頭首であるオネスは死んではいなかった。
全角57829.5文字
容量115659 bytes
原稿用紙約144.57枚

 登場人物

  ルカ    ネルガル帝国王子
  シナカ   ボイの王女 ルカの妻 詩集が得意
  ルイ    ボイ人 シナカの侍女 菓子作りが得意
  リンネル・カスパロフ  ルカの侍従武官
  ケリン   ルカの親衛隊 元情報部
  フェリス  ルカの親衛隊 元情報部
  トリス   ルカの親衛隊 ムードメーカー
  キネラオ  ルカの親衛隊 ボイ人
  ホルヘ   ルカの親衛隊 ボイ人 キネラオの弟
  
  ジェラルド ネルガル帝国王子 第一皇位継承者 ルカの異母兄
  クラークス ジェラルドの後見人
  
  ピクロス  ネルガル帝国王子 ルカの異母兄

  クリンベルク将軍  名将
  シモン   カロルの姉 ジェラルドの妻
  カロル   クリンベルクの三男

  オネス   宇宙海賊シャーの首領

  ヨウカ   異次元生物




 声は自ずと小さくなった。
「よっ、よっ、よっ、聞いたかよ。ダゴン軍事要塞が陥落したんだってよ」
「おい、声がでけぇーよ」と、仲間のうちの一人が辺りを見回す。
 男たちは警戒して顔を寄せ合う。
 ここはワームホールへの休憩地点にある惑星。ここで自分たちが向かう方面のワームホールが開くまで待機する。まあ馴染みの言葉で言うなれば宿場町のような惑星だ。そのため多くの旅人が集う星でもある。無論人種も雑多。宇宙空間を飛行できるだけの科学力のある星人たちで賑わっている。情報量も豊富だ。そんな中の一角、薄暗い酒場の片隅のテーブルで大きな体をしたマルドックの商人たちは、その体を小さく丸めて酒を酌み交わしながらひそひそと話し合っていた。儲け話のある所になら何処へでも行く、例えそれがどんなに危険な場所でも。隣の奴は死んでも俺だけは絶対死なないと確信を持っているのがマルドック人。どこからその確信が湧くのか、同じ船に乗っていていながら何故そう思えるのか、マルドック人とは不思議な生物である。
「それもたかだか五百の船でだって」
「五百と言うが、実質艦船らしき宇宙船は三百そこそこだったらしいぜ」
「たいしたものだな、オネスは」
「たいしたものというより、狂人だな。まともな奴じゃやらないぜ、こんな馬鹿げたこと」
 勝てるはずがない。だが勝ってしまった。どうやって?
「奴、元ネルガル正規軍の大将だったらしいぜ」
 噂は事実より大きくなる。
「しかもあの噂の第14宇宙艦隊を引き連れていたらしいぜ」
 噂は事実よりいい加減にもなる。
「あの荒くれどもをか」
 知ったかぶりの男は大きく頷く。
「どうりでやることが普通じゃないと思ったぜ。しかしネルガルの権威も地に落ちたものだな。一握りの宇宙海賊になんなくやられるとは」
「地に落ちたどころか、惑星にめり込んだと言うべきだろう」
 もっともだもっともだと頷き合うマルドック人たち。
「ところでその第14宇宙艦隊だが、近頃は猫のようにおとなしくなったって噂だぜ」
 すると一人の男が顔の前で大きく手を振り、
「とんでもねぇー、ちぃーと肩がぶつかったとかで、どっかの将校を殴りつけているところを俺、見たぜ、この間」
 彼らの言うこの間とは、何か月前か知れたものではない。銀河は広い、こうやって出くわすのだって偶然と言えば偶然。
「へぇー、相変わらずなのか」
「まあ、奴らに出くわしたらさり気なく逃げることだな。海賊よりたちが悪いからな、権力を笠に着ているだけ」
「合法宇宙海賊というところか」
「まあネルガル人はどいつもこいつも似たり寄ったりだぜ、奴らとの付き合いは深入りしないに限る」

 などと噂されている当の第14宇宙艦隊のメンバーは今、お勉強の真最中だった。第14宇宙艦隊の待機室、いつもはギャンブル用のカードやスナック菓子、おつまみや酒瓶、ついでに脱ぎ捨てた靴下等々で散らかっている円卓が、どこの部屋だと思われるほどきれいにかたづけられ将校たちがきちんと座っていた。前代未聞の光景である。
「よっ、聞いたか。ダゴン軍事要塞が落ちたんだとよ」と、隣で必死に勉強している仲間に声をかける奴。
「それがどうした。そんなの俺には関係ない」
「つれねぇーな」
 どうやらこの男、勉強に飽きたようだ。だが話しかけられた男はむっとした顔で話しかけてきた男を睨みつけると、
「この問題が解けないと、またトラックを走らされることになる。もういい加減、体力の限界だ。これ以上走ると口から心臓が出ちまいそうだ」
 すると別の男が、
「とにかく殿下のためだ」と、唸るような声を出す。
 これを合言葉に彼らは今までにしたこともない程の努力をもくもくと続けていた。そこへ当のルカが現れた。トリスから話は聞いてはいたがここまで本気で勉強しているとは思ってもいなかった。どうせ直ぐに飽きるだろう、彼らが卓上で学ぶことはない。彼らは動きながらこそ学べる。確かに彼らも自分たちの性格はよく知っているらしく運動は取り入っているようだが、罰則としてでは。これでは役には立たない、体力が付くだけだ。せっかく彼らには彼らのよさがあるのに、やれやれと言う思いでルカは声をかけた。
「皆さん、どうしたのですか。額に鉢巻などして、熱でもあるのですか」
 現に彼らの脳みそは飽和状態で今にも発火寸前だった。
「風邪でもひきましたか集団で」
 ルカの場違いな声。必死で集中しようとしていた彼らの努力は、その言葉によってダゴン軍事要塞が落ちるよりはるかに速い速度で陥落した。ペンを投げる音と同時に、
「でっ、殿下、そりゃーないだろー」
「もう、やめた、やめた」
「そうですよ、休憩にしましょう。慣れないことはあまり長く続けると体に毒ですよ」
 次々とペンを投げ出す将校たち。
「でっ、殿下。邪魔しないでください」
 焦ったのは幕僚のダニール。
「これも何も殿下のためなのですから」
「私のためですか」と、ルカは不思議そうな顔をする。
「ご存じないのですか、我々があまりにも愚かなもので殿下まで笑われていることを」
「さあ、知りませんでした」とルカはとぼけて見せた。
 実は陰でかなり酷いことを言われていることは知っていた。だがそれは今に始まったことではない。言いたい者には言わせておけばよい。今のルカはそのようなこといちいち気にしているほど暇ではなかった。
「知りませんでしたなんて、それではあまりにも悠長すぎます。馬と鹿の集団のリーダーのように言われているのですよ。私は悔しくてなりません」
 今にも悔し涙が零れ落ちそうな勢い。
「でも、事実ですから」
 まずは現状を認めることから入った方が後の分析を誤らずに済む。
 むっとしてルカを睨むダニール。殿下まで、それはないと思いつつ、
「ですから、その汚名を返上しようと、こうやって頑張っているのです。それを、邪魔をしないでください」
「でも私への中傷は今に始まったことではありませんから、それに私は痛くもかゆくもありませんし」
「そう言う問題では」と言いつつも、ダニールは思った。
 この方は生まれた時からこのような誹謗中傷の中で育ってきたのだと。平民の血を引く王子。ただそれだけなら誰もここまで問題にはしなかった。そこに並々ならぬ実力が伴ってきているから、それが問題なのだ。僻まずにはいられない、今王子の中で一番国民に人気があるのだから。
「殿下はそれでよいかもしれませんが私は」
 ダニールはダニールなりに第14宇宙艦隊を愛していた。この艦隊の将校には平民が多い。彼らは貴族と違い食べるために軍人になったものが多い。生活が精一杯で勉強などする余裕がなかった。だから軍隊で一からたたき上げて今の地位を獲得したのだ。そこらの将校とは根性が違う。そのため戦うことには詳しいが、事勉学に至っては読み書きがやっとという者も多かった。彼らにだって勉強する機会さえあれば。
 むきになるダニールをなだめるようにして、
「言わせたい人たちには言わせておけばよいではありませんか。何も機械で測れる左脳だけが能ではありません。感性をつかさどる右脳の方が時としては大事なこともあります。あなた方の右脳はすばらしいのですから、何もそのような机の上ですり減らすこともありません」
「殿下、何か俺たち、遠回しに馬鹿だと言われているように聞こえるのですが」と、一人の将校が言う。
 それに相槌を打つ将校たち。
「それこそ、僻みです。もっと自分に自信を持ってはいかがですか」
「自信を持てといわれてもなー」と、ペンを鼻の下にあてたり耳の後ろに挟んだり、指先で器用に回したりしている将校たち。
 ここには学業に関して自信をもてる者は一人もいない。
「知識は常識程度で十分です。そんなに向きになってやることありませんよ」
「その常識が、彼らにはないのです」とダニールは将校たちを指さしながら。
「ではぼちぼちと学べばよいのです。誰かにそんなことも知らないのかと笑われたなら、その人に訊くのです。それは何ですかと。結構答えられない人が多いものです。はっきり答えた人がいればそこで学べばよいのです。常識とはその程度のものです。それより感性を磨いてください。人は感情の生き物です。あなた方も経験があるでしょう。頭に来る前に既に殴っていたと言う」
 これぞ第14宇宙艦隊の常識。
「これこそ感性です。頭に来るとは左脳で理解したから頭に来たのであって、既にその前に右脳が殴るように指示していたと言うことになります。ですから右脳をきちんと鍛えれば、そういきなり人を殴ったりしなくなるのではありませんか」
「どうやって?」
 鍛えると言われても、左脳なら練習問題を解くという方法があるが。
「そうですね」と、ルカは本気で考える時の癖で爪をかみはじめた。
「花では、柄でないでしょうから」と、爪をかんだまま暫し視線を宙に漂わせると。
 花? と疑問を持つ将校たち。これから何を言い出されるのか心配になってきた。トラックを走ったり懸垂をしろと言うのなら問題はないのだが。
「そうだ」といきなり手を打つルカ。
「一石二鳥で野菜がいいですね、それも根ものの野菜が。掘ってみないと結果がわかりませんから、それだけ楽しみがあります」
「何ですか、その一石二鳥と言うのは?」
「根ものの野菜とは?」
 将校たちは不安が的中したのではないかと恐る恐る訊く。
「育てるのです」
「育てる?」
 将校たちはますます意味不明に陥った。
「一石二鳥です。野菜は大事に育てないとなかなかおいしいものはできません。かと言って過保護にすると腐ってしまいます。肥料のやり過ぎも水のやり過ぎも、程よい距離感が必要です。最終的においしい野菜が出来たら皆で収穫して食べましょうで、一石二鳥と言う訳です」
 どっ、何処が右脳を鍛えるのだ? とだれもが思う。
 ルカも今自分が口にしてやっと母の想いを知った。これって最終的に人付き合いにも応用できる。程よい距離感。母が農業を通して館の人たちに教えたかったのはこの感覚だったのかと。
「さっ、休憩しましょう」
 ルカは背後に合図した。部屋に入って来たのは大きな荷を台車で運んで来たマルドック人。その荷を開けると中から高級酒のラベルの付いた瓶がごろごろ。ちょっとやそっとでは一介の将校たちでは口にできない代物。
「酒、しかも」
 後の言葉はまさに右脳の反応、唾液が出過ぎて続けられなかった。言葉より早く手が出ていた。感性のたまもの。気づいた時には瓶の線をどう抜いたかは知らないが、尊い香りの液体が喉を通り過ぎていた。トラックを走らされていた彼らは喉も乾いていた。こうなってはただの休憩では済まない。
「でっ、殿下!」
 非難めいた叫びを発したのはダニール。
「よいではありませんか。あなたには、これ」と、ルカは特別に用意した酒を差し出す。
 王族や門閥貴族でしか口にできない酒、幻の酒とも言われている。ダニールも嫌いではなかった。
「ほっ、本当によろしいのですか、これ」
「皆さんには、内緒ですよ」とルカは微笑む。
 ダニールはそれを懐にしまうと、やっと自分の主張を退けた。





 その頃軍部では、外務部や内務部等を交えて密談がなされていた。
「たかだか五百の海賊船にやられるとは」と鼻で笑う文官たち。
「銀河最強の要塞が聞いてあきれる」
 まずは軍部への罵声から始まった。力を持たないが故に華々しい栄光を挙げることが出来ず常々武官に引け目を感じていた文官たちは、この時とばかりに謗る。軍部の方も完敗だったのは事実、何も言い返せない。
「今後、どうするつもりかね」
 ネルガルの勢力に汚点が付いたとなれば今までおとなしく従っていた同盟星が黙ってはいまい。反旗を翻さないとも限らない。
「直ちにオネス討伐に向かいます」
「当然だ。して、誰が?」
「私が参りましょう」と名乗りを上げたのはクリンベルクだった。
「しっ、将軍が。たかだか五百たらずの海賊相手にですか。それこそ銀河の笑いものになる」
「しかし彼らはダゴン軍事要塞を短時間で陥落させたのです」
 どのような手を使ったのか。何故あれだけある要塞砲が一度も発砲しなかったのか。あの戦いのデーターを検証すれば検証するほど疑問が湧く。彼らはどうやって要塞内部に入り込めたのか。内通者がいたのか。
「将軍、あなたは最後の切り札です。今出張っては」
「しかし」と言い張るクリンベルクに。
「それより私によい考えがある」と言い出したのは宮内部の人間だった。
「ルカ王子にご出陣願われたらいかがですか」
「ルカ王子に!」とその場にいた者たちは驚く。
 今度の敵は並ではないことは誰もが招致していた。どのような戦法を使ったのか皆目見当がつかない。もしかすると新しい移動手段でも開発されたのか。戦争は何も武器の開発だけではない。移動が俊敏になれば、もしくはその移動がレーダーで捕えることが出来なければ、新しい武器を作ったのも同じ。つまり敵の手の内が読めないのだ。
「そもそもオネスを取り逃がしたのはルカ王子なのですから。キュリロス星できちんとけりを付けていれば、このようなことにはならなかった」
「しかし」と言いよどむ軍部に対し、
「それもそうですな」と言い出したのは文官たち。
 彼らは戦争が何たるかを知らない。まして敵に新型の兵器がある時の恐怖を。所詮彼らは決して戦場に行くことがないからだ。正義のために戦うのだから恐怖などと言う感情が起こるはずがないと思っている。
「敵は、どのような手段を使ったのか解らないのですぞ」
「ですから、殿下には後方に控えて居てもらい、その情報を収集してもらおうと思っております」
 ルカ王子が後方に控えているような性格ではないことは今までの出陣でよくわかっているはずなのに。
「また艦隊には、どうでもよい艦隊を集めておけばよろしいのでは」
 さすがに屑のようなとは言わなかった。
 彼らを囮にしてデーターを収集しようと言う腹積もりのようだ。だが宮内部には別の目的があった。ルカ王子には生きていてもらっては困るのだ。後々の皇位継承の火種になる。ここら辺で戦死してもらえれば。名誉の戦死ではないか、その葬儀は盛大に星を挙げてやろうではないか、ネルガル星人の英雄として後々その名前は語り継がれる。悪くはない話だ。戦場に行かない者の思考。生きているからこそ勝手なことが言える。





 それから数日の事だった、ルカに出動要請の報が届いたのは。
「やはり、来ましたか」
 ここはルカの自室。コンピューターシステムと本によって埋め尽くされている。
「宮内部は、あなたが相当邪魔なようですね」とケリン。
「そう、はっきり言わないでください」と言いつつも、ルカはケリンが集めたダゴン軍事要塞陥落のデーターから目を離さなかった。
「やはりテレポートでしようね。レスターが最後に使った技と同じです。数百万キロの距離を一秒とかからずに移動した」
「ただ違うのはレスターは一艦だけでした。しかしこれは一度に五百もの」とケリン。
「そうですね、めいめいがやったのか、それとも一人の者がやったのか」
「めいめいでやったとなると、それぞれの艦にテレポートの出来る者が一人は乗っていたということになりますね」
 ルカとケリンはデーターを基にした映像を見ながら話し合う。
「五百人のイシュタル人ですか」
「考えられなくもないですが」と、ケリンの言葉は濁る。
「不自然ですか」
「それよりも一人、あるいは数人の者がと考えた方が自然でしょう」
 でなければこうもまとまった行動はできないだろう。
「数人で五百の船を自由に移動させたと言うのですか」
「現に数十隻のまとまりで出現しております」
 瓦礫の中から回収された記憶装置の中には保存のよいものも幾つかあった。自らが破壊される寸前までそれらが映し出したダゴン上空の映像は、空間にいきなり一塊の宇宙船が現れる瞬間を映し出していた。そのような箇所が数十か所。それらが一斉に砲撃してきたのである。
 姿を現してから砲撃するまでの時間は一分とかかっていない。これでは防御のしようがない。ダゴン軍事要塞は何の防御もしない内に、否、出来ない内に砲撃されてしまったのだ。それこそ食事を楽しんでいる人々が逃げる暇もない早さで。
「彼らは敵が接近していることすら知らなかったようですね」
「防衛圏外から瞬時に移動して来たようですね」
 映像を消すとルカはケリンの方に振り向いた。
「あなたなら、このような敵にはどう対処しますか」
「まず、敵にしないように努力しますね」
 二人は顔を見合わせて苦笑する。もうその手は使えない。
「ワームホールでしたら、空間が歪んでから敵艦隊が出現するまでかなりのタイムラグがありますから、その間に守備態勢を整えることもできますが、テレポートに関してはそのタイムラグがほとんどない」
「空間が歪む前に敵が何処に現れるか計算しなければなりませんね」
「それは敵に訊くしかないだろう、何処を攻撃したいのですかと」
 ここで八方塞になってしまった。
 暫しの沈黙ののち、
「交渉する方法はないものでしょか」
「今、全力を挙げて敵の正体を探っているところなのですが、オネスの部下ですら知らないようです。ただオネスは悪魔と契約したというだけで」
 既にケリンの情報網はオネスの部下に接触していた。だが聞き出せたのはそれだけ。ただときおり自室にこもり暫く出てこない時があるとも聞き出してきた。その時がその悪魔と接触している時なのだろう。相手はテレポートで移動しているのだ、宇宙船もなにもいらない。だがそんなに遠くからテレポートして来ているとも思えない、おそらくオネスの艦隊の近くに悪魔の乗る宇宙船もあるのだろうが、一体どれだけの距離をおいて平行移動しているのだろうか。
「オネスの艦隊の周囲を探った方がいいようですね」
「私も今、それを考えていたところです。しかし周囲と言ったところで何千キロまで、彼らはテレポートできるものなのでしょう」
「イシュタル人に訊くしかないですね」





 時間は少し戻るが、ジェラルドと結婚したシモンがやっと日常の生活を取り戻したのは、式から十日も経ってからだった。その間、宮中の仕来りでがんじがらめになっていた。そしてやっとジェラルドの館で二人の生活が始まったが、やはり予想していた通り夜の生活は望めなかった。しかしジェラルドは優しい子供のように。唯一彼がシモンに愛情を見せるのは葉を粉末にしている時、単調な仕事は何時間でも続けられるようだ。正気の人間ではあれだけの継続は無理だろうと思われるほど。そして今日も、シモンがこの館に入ってからこれが日課だとでもいうように。こんなに作ってどうなさるのだろうと思いながらもシモンは尋ねた。
「何をなされておられるのですか、ジェラルド様は」
「薬を作られておられるのです、ルカ王子に教わった」
「ルカ王子に? この薬、ルカ王子がジェラルド様に伝授なされたのですか」
 クラークスは頷く。
「毒消しの粉なのです」
 それでシモンははっと気づいた。時折ジェラルドが料理の上に振りかける。
「材料は竜木の葉なのですが、これを乾燥させ粉末にして食物に振りかけると、万が一その食物に毒が混入されている時は赤く変色するのです」
 それを聞いてシモンは背中に悪寒を感じた。
「既に何度かこの粉で命拾いをしているのです」
 毒殺の噂は聞いていた。今度は自分がその立場に立たされているとは。父にはくれぐれも口にする物は気を付けるように忠告は受けてきたが。
「ジェラルド様は先妻やご兄弟を亡くされておりますから」
 強いて毒殺という言葉は避けた。公開的には病死である。
「奥方様の身をとても案じておられるのです。ですからこの粉だけはご自身の手で」
 シモンも一番最初にジェラルドからもらった、お守りだと言われて。
「これ、ジェラルド様が御自ら?」と、ポケットにしまってあった小さな匂い袋のようなものを取り出す。
 クラークスは頷いた。
 シモンはジェラルドのところへ行くと、
「ずいぶんできましたね」と声をかける。
 ジェラルドは嬉しそうに、うん。と頷く。
「でも、まだ足りない」
 これがジェラルドの愛情の証。
「他にも胃薬や解熱剤の効用もあるのです。消毒や止血にも」
「まるで万能薬ね」
「まだ医療が今ほど進んでいない時代には、この木の葉は重宝がられたでしょう。なにしろ竜木は何処にでも生息していた木ですから」
「そう言えばナオミ夫人もそのようなことを仰られておりました。でも今はどこにもありませんね、ルカ王子の館で初めて見ました」
「私もそのことを不思議に思いまして、この木の歴史をたどってみたのです。すると」
「どうなされたのですか」
「この木は人間のエゴによって切り倒されて行ったのです」
「人間のエゴ? 薬になったからですか、伐採されすぎてしまったと」
「いえ、その逆です」
 逆? と首を傾げるシモン。
「薬になったからこそ、生息されては困ったのです」
「製薬会社がですか?」と問うシモン。
「いいえ、製薬会社が出来るもっと以前のことです。まだイシュタル人がこの星に居た頃の話です」
「イシュタル人がこの星に居たって!」と驚くシモン。
 シモンはイシュタル人とネルガル人が同族だと言うことを知らない。見た感じ似ているとは思っていたが、宇宙の偶然の悪戯にしか思っていなかった。似たような経験を積めば姿かたちも似て来る、材料は同じたんぱく質なのだから。その程度にしか考えたことはない。
「ルカ王子からお聞きになったことはありませんか、イシュタル人とネルガル人は兄弟だったということを、今から数億年前のことになるそうですが」
「そっ。そう言えばそのようなことをカロルが言っていたような」
 カロルの話しである。あまり本気には聞いていない。
「ルカ王子は禁書をかなりお持ちのようで」
 禁書と言えば古代ネルガル語で記されているイシュタルの書物。ルカ王子が古代ネルガル語に精通していることは知っている。特にボイ星へ行って膨大なその手の書物を読みあさっていたことは話に聞いていた。ボイの指導者になるには帝王学が必要でその書物は古代ネルガル語で記載されていたとか。何故ボイ人がイシュタル人の書物をという疑問は残ったが。ただそれを知っているのはルカ王子に関わる一部の者で、父クリンベルクからはルカ王子のためにはならないから他言しないようにと硬く言いつかっていた。
「イシュタル人はこの竜木を薬として利用していたようです。葉だけではなく花や実、根などにも別の効能があったようですが、今となっては科学的に分析してみないことにはわかりません。ですが、分析したくとも花が咲かないのです。この館にも四、五本あるのですが、花を咲かせたことはありません」
「この館にもあるのですか」と、驚いたようにシモンが尋ねる。
 クラークスは頷く。
「この木は、花を咲かせるのがとても難しいようです。この館の竜木は一度も花を咲かせたことがないので、この木は花が咲かない木だと思っていたぐらいです」
「そんなに難しいのですか」とシモンは思った。
 ルカ王子の館で一度見たことがあるが、真っ白なかわいらしい花をたくさん咲かせる。でもナオミ夫人に言わせれば、木に力がないとのことだった。ナオミ夫人の故郷の竜木はもっと勢いがあるらしい。
「イシュタル人は竜木以外にも大自然の中から病気や怪我に効用のあるものを見出していったようです。今ではそれらは科学的に実証され確かに薬として使えるものもあれば、ただの迷信のものもあるとわかりましたが、あの頃は秘伝のように扱われ、母から娘へ、娘から孫娘へと伝えられていったようです」
「どうして女性の間で?」と問うシモン。
 その間もジェラルドは昔ながらのやり方で黙々と葉をすりつぶしている。
「これはルカ王子の説なのですが、薬を一番必要としたのは誰だと思います?」とクラークスに急に問われて、シモンは首を傾げた。
「ルカ王子に言わせれば乳幼児ではなかったかと。つまり我が子が病気になった時、母親に薬の知識があればその子供が助かる確率は高いと言うことです」
 なるほどとシモンは頷く。
「ナオミ夫人もかなり薬草の知識をお持ちだったようで、ルカ王子がボイ星へ行かれると決まってからは、それらの知識をルカ王子に伝授したようです。植物とは噛んだ時の味によって大体の効用がわかるようで、ボイ星の植物もネルガル星と似たり寄ったりだろうと。我が子が病気になったり怪我をした時の用心にでしょうけれど」
「こんなに薬がある時代にですか」
「ボイ星でネルガルの薬を手に入れることはできませんから。ある程度は用意して行かれますが、急に入用になっても」
 はっ。とシモンは思った。ナオミ夫人の親心、まだまだシモンなど太刀打ちできない。
「現にネルガルの薬がボイ人にはまったく効用がないか、下手をすれば毒になることさえあるようですから」
「そうなのですか」と驚くシモン。
 異星人、同じ屋根の下で生活しているからと言え、全てがネルガル人と同じと言う訳ではない。そこにはネルガル人では当たり前でも一歩間違えば死を招くようなこともある。お互いの体質を理解しあっていないと。とっさの時に良かれと飲ませた薬が。
「そうですよね」とシモンは心に刻みつけた。
 ただの親切心では駄目だ、相手をよく理解しないと。
「それで竜木なのですが」と話は元に戻った。
「その頃、ある病気が流行したそうです。ころりと死んでしまうことからその病名をコロリと言ったそうです。神の慈悲と言っていたネルガルの宗教では助けることが出来なかったようで、それで人々が頼ったのがその秘伝の薬を使う人々、つまりイシュタル人だったのです。中にはその薬で助かった者もいたようです。それが権威のあった者たちの地位を脅かすことになった。それで彼らが自分たちの権威を守るために取った行動が、竜木は悪魔の木でそれを使うイシュタル人は魔女や悪魔だということにされたのです。つまりその時からイシュタル人の迫害が始まるのです。そして竜木は伐り倒されていったのです」
「そっ、そんな!」とシモンはあまりの衝撃に耳を疑う。
「今でもお伽噺に出て来る魔女はぐつぐつと煮たぎる鍋と一緒に描かれることが多いですよね、あれはイシュタル人が薬草を煮出している姿です。そして悪魔は木の杖を持っている。あれは竜の木です」
 クラークスに言われてみれば確かにそうだ。私のイメージの中の魔女や悪魔は確かにそんな姿をしている。
「それで竜木がネルガル星から」
「まだ伐採を免れた木が何本かあったようですね」
「可哀そうな木、木には何の罪もないのに。それどころか、こんなに人のためになっているというのに」
 今自分を毒から守ってくれているのは竜木の葉の粉末。
「可哀そうなのは竜木だけではありません。イシュタル人も竜木と同じ運命をたどったのです」
「つまり、殺されたと言うのですか」
 クラークスは頷く。
「まさか、あの魔女狩りの話しは本当だったのですか」
 お伽噺として絵本で読んだ話し。
 クラークスはまた頷いた。
「このままでは死滅してしまうと思ったイシュタル人は、宇宙に活路を見出そうとしたのです。その時、彼らを率いたのが白竜、巨大な宇宙船で新たな惑星を探しにネルガルを後にしたのです」
 壮大な物語である。まだ宇宙開発もままならなかった頃の話のようである。
「そっ、それって、死を覚悟の」
「山狩りはされ、野焼きはされで、それしか活路がなかったのでしょう」
 沈黙が流れた。
 クラークスは静かに言う。
「これらは全てルカ王子がイシュタルの書物を読み漁って得た知識のようです。ただどの書物にもネルガル人に迫害されてという言葉はなかったそうです。あえて使わなかったのではないかとルカ王子は仰せでした。子供たちにあまりよい影響をあたえないから。悪い病気がはやってとか悪い人にいじめられてと言う表現にぼかしたようです。しかしそれらを繋ぎ合わせて熟考すると今私が話したようになるそうです」
 シモンは黙り込んでしまった。私たち祖先の過去。しかも数万年前の話。今になってはそれが真実かどうか実証するのも難しい。
「イシュタル人はこのことを今でも覚えているのでしょうか」
「さあ、どうでしょう。純粋に病気がはやったからと思っている人もいるようです、私たちの手前。しかし、やった方は忘れてもやられた方は覚えているものです」
「そっ、そうですよね」
 この館にイシュタル人の下働きはいない。それが何となくシモンをほっとさせた。
「彼らは復讐を?」
「さあ、それはどうでしょう。イシュタル人は争い事を嫌うのんびりした人々ですから、そっとしておけばそれで済んだのかもしれません」
 下手にネルガルがちょっかいを出さなければ。
「ところでその時使った巨大宇宙船ですが、今でも実在するそうですよ」
「えっ!」と驚くシモン。
「この話って、数万年前の話しでしょう」
 クラークスは頷く。
「数万年前に使った宇宙船がまだ健在だなんて」
「そこにはイシュタルの膨大な歴史が封印されているようです」
「何処にあるのですか? でも今まで存在するとは信じがたいですね」
「ですがイシュタル人の間では今でも語り継がれているようですよ、イシュタル人が危機に瀕した時、またその宇宙船で非難するのだと、新たな惑星を求めて」
「本当にあるのかしら?」
 今ではそれもお伽噺の一つになってしまったのでは。
 話が一通り済んだ頃、いきなりジェラルドが立ち上がった。
「あなた、どうなさいました?」
「はっぱ、ない」
 ジェラルドの手元を見ると全て粉末になっていた。
「沢山できましたね。これだけあれば暫くもちますね」
 だがジェラルドは首を横に振る。
「まだ、まだ」
 辺りを見回すと、
「カロル、カロル」と呼び始める。
 暫くすると従者がカロルに連絡を取ったのだろう、カロルがやって来た。
「何か、用か?」
 主に対しふてぶてしい態度。アホの相手は出来ないとでも言いたげに。
「カロル」とその態度を忠告しようとするシモンより先に、
「カロル、こっち、こっち」と、ジェラルドは先に歩き出し手招きする。
「何だよ、俺は忙しいんだ」
「何言っているのよ、昼寝していたくせに」とシモン。
 カロルはむっとした感じでジェラルドの後を付いて行く。こいつが姉貴の婿でなければ今頃ぶん殴ってやるのにと思いつつ。人のことを気安く呼びつけやがって。
 暫く歩くと池の淵に出た。この池の淵に竜木が数本ある。最初見た頃はひょろひょろとした木でこれがルカの館にある木と同じものだとはカロルには到底思えなかった。可哀そうに、肥料が足りないのかと思い、カロルはナオミ夫人に教わった野菜の肥料を根元に撒いてやることにした。待てよ、空腹にいきなり食うと腹壊すからな。経験者は語る。木も同じだろうと、少しずつ慎重に撒いてやった。それが功を奏したのか、少しずつだが元気を取り戻してきたように見える。幹も以前より太くなったし葉も青々しくなった。ついでに池もと言うことで池を大掃除することになってしまったが。カロルは竜木を眺める。やっぱり最初に見た時より大きくなったよな。
 そんな思いに耽っているカロルに、
「うま、馬」と言う声。
「はっ?」
 ジェラルドがカロルの手を引っ張り竜木の下で馬になれと言っているのだ。
「何で、俺が」
 ジェラルドの手を振り払うカロル。
「私がなりましょう」とクラークスが両膝を地面に付こうとすると、ジェラルドは大きく首を横に振り、
「カロル、カロル」と言う。
「てめぇー、いい加減にしろよ、さもないとぶちのめすぞ」
「カロル、ジェラルド様はあなたに馬になってもらいたいだけなのよ」
 カロルはむっとしてシモンを睨めると、
「どうして俺がこの馬鹿の。俺は護衛で馬ではない」
「カロル、いいから早くしなさい、さもないと」と、シモンは片手を振り上げた。
 姉貴のこの仕種でカロルは大地に四つん這いになる。手が振り下ろされないうちに。
 覚えてろ、この仇、姉貴が見ていない時に必ず。
 ジェラルドは嬉しそうにカロルの背に足をかけると、竜木の葉を摘み始めた。
 くそー、意外に重めぇー野郎だ。
 そう思いながらふと顔を上げると、竜木の幹の影に一人の少年。
 こちらを見て必死で笑いを堪えているようだ。否、笑っている。くっ、くそー。何処かで見たことがある。
 あっ! あいつ、この間の。
 そう思って立ち上がったのがいけなかった。いきなり立ち上がったものでジェラルドがバランスを崩してしまった。幸いクラークスとシモンが支えて大事には至らなかったが、
「カロル、どういうつもりなの」
 シモンが怒る。
「あっ、今そこに、少年が。ほら、この間話した」
 だが、誰も信じようとはしない。



 数日前のことだった。カロルが池の畔でルカからもらった剣で素振りの練習をしていたら、いきなり、下手くそが。と言う声。誰だ? と思い辺りを見回すが人影はない。その日は寒い日だった。時折風花が舞うような。ジェラルドの館もルカの館と同じく季節を楽しむため館の一部しかドームで覆ってはいない。他の王子や王女たちの館は一年中快適な温度にたもたれているのに、ルカの館などはどこもドームで覆うことはしていない。もっともボイ人が来てからは館の一部をドームで覆いボイの気候に合わせているが。
 空耳かと思い、また素振りの練習を始めると、笑い声。
(そんなことしても何の役にもたたない、疲れるだけだ。止めちまえ)
 カロルは辺りを見回した。だが誰もいない。
「何処に居るのだ、姿を見せずに声だけとは卑怯じゃないか」
 声は子供の声。カロルはからかい半分に言った。
 すると竜木の影から七歳前後と思しき子供が現れた。栗毛色のショートヘヤーに黒い瞳、肌は透けるように白い。男か女か? 線の細さといい、ルカの幼少の頃を彷彿させるような子だ。
「おい、さっき笑ったのはお前か」
(そうだ)
 大人を相手にふてぶてしい返事の仕方もどことなくあいつを思わせる。
 カロルは剣を鞘に納めると、その子の前に立ちはだかった。両手を腰に当て凄味を付け少し叱りつけてやろうと一歩踏み出したのがいけなかった。いきなり足元が崩れ、カロルは穴に落ちてしまった。挙句のはてに穴の底には栗の毬。悲鳴をあげるカロルに対し、
(ひっかかった、ひっかかった)と喜ぶ少年。
 この落とし穴、よくルカが作ったものだ。
「きっ、貴様。子供だと思って甘くみてりゃ、いい気になりやがって、もう許さん」
 逃げる少年、追いかけるカロル。
「こら、待て、待ちやがれ」
 また落とし穴。いかにもと言う感じに小枝で隠してある。
 そんな手に乗ってたまるか。と避けたところに草で作った罠。それに思いっきり足を取られてカロルの体は宙を舞った。そして顔からの不時着。
「痛てぇー!」
 鼻を押さえながら悲鳴をあげるカロル。
 これもルカのよく使う手だった。
「もっ、もう許さん」
 最初はとっ捕まえて少し懲らしめてやろうと思っていたゆとりが、今はもうない。
「この、逃げ足の速いガキが、待ちやがれ」
 自分のことを棚に上げてカロルは怒鳴る。
(そっちが、追いかけ足が遅いだけだろー)
 屁理屈もルカそっくり。
「いいからそこでじっとしていろ、今、お尻ペンペンしてやるから」
(お尻ペンペンって、どうやるんだ)
 そう問われてカロルは頭の中でイメージしたのが悪かった。そのイメージ通りに、いつの間にかカロルのズボンがずり落ち、手のひらのような板、否、水だ。で、お尻を叩かれた。
「いっ、痛てぇー」
 笑う少年。
 カロルはいつの間にか本気になっていた。
「てめぇー、大人をなめるのもいい加減にしろ」
 だがずり落ちたズボンが足にもつれ、カロルは大きな水しぶきを上げて池に落ちた。
 少年は笑う。少年が立っている位置も池の中のはずなのだが、何故か水が少年を避けているようで少しも濡れてはいない。水面の上を歩くように逃げ回る少年を、カロルは腰まで水に浸り水をかきながら追いかける。何かがおかしい。とは思いつつも、今はそれを意識する余裕さえなかった。
「こら、待て」
 次第に水に体温を取られ体力が尽き息が切れて来た。だが少年は一向に疲れを知らないようだ。
「俺も、体力にはかなり自信があったが、あいつは」
 とうとう池の中で立ち止まりハアハアと息を切らす。
 そこへ通りかかったのがジェラルドとシモンとクラークスだった。ジェラルドは健康のためと称し風がふいていても雨が降っても必ず一日に一回は庭を散策する。ただし時間やコースはクラークスのたっての願いにより、その日によって変えるが。今日は竜木の花が見たいと言うのでここまでやって来た。しかしここの竜木は一度も花を付けたことがない。竜木の花を見たのはルカの館で。それ以来、何時かここの木も花を付けるのではないかと時折見に来るようになった。もっとも今は冬である。花など付けるはずがないのだが言い出すときかない。そしてここまでやって来て見たものは。
「かっ、カロル、何をしているのですか?」
 驚く姉のシモン。
「寒中水泳ですか、風邪をひかないでください」とクラークスの落ち着いた声。
 そしてその後に、
「カロル、水泳、水泳。私も」と、池に入ろうとするジェラルドを必死で抑える、シモンとクラークス。
 その姿を見てカロルは今の自分の状況を察知した。状況を理解し始めると今まで感じなかった寒さが一気に肌を襲う。体は震えだすわ、鼻水は出て来るわ、歯はガチガチ音をたてはじめるわで、その場に立っていられなくなった。慌てて池から飛び出すと大きなくしゃみを数回。鼻水を濡れた服の袖で横殴りにしながら、
「そこら辺、気を付けた方がいいぞ、大きな落とし穴がある」
 落とし穴? と思いつつクラークスは辺りを見回すが、其れらしき物はどこにも見当たらない。
「どこにも大地を掘り返したような跡はありませんが」
「そんなはずはない、その木の下あたりだよ、俺、落ちたんだから」
 竜木の下は冬でもあり草らしき草もなく、落とし穴を作るには目立ちすぎるような気がする。どうせ作るならこんな所より草むらの方が、と思いつつも探ってみたがやはり何の変哲もない。
「何も、ありませんよ」
「おかしいな、俺、本当に落ちたんだぜ、穴の底に栗の毬があって、ひでぇーめにあった」と言いつつ、カロルはやって来た。
 だが確かに木の下は何もない風に吹かれて枯葉が舞っているだけ。だがさっきまでは鬱蒼と草が生い茂っていたような気がしたが、そしてその草に足を取られて。
「おっかしい」と首を傾げるカロル。
 そう言えば今は冬だしな。草が生い茂っているはずもない。
「夢でも見ていたのではありませんか、見張りの番をさぼって」
「俺は、今日は非番なんだ」
 それでここで剣術の練習をしていたら。
「それより早く部屋へ戻って着替えましょう、風邪ひくわよ」
 姉に言われ急いで着替えはしたものの、既に手遅れだった。見る見る熱が上がりベッドに倒れ込む。
 シモンも気になったのかカロルの部屋として与えられたジェラルドの館の一角にジェラルドと共にやって来た。
「カロル、入るわよ。夕食、食べに来なかったのですって」
 子供の頃からカロルは食事だけは忘れるようなことはなかった。何かあったのではと来てみれば、案の定寝込んでいた。シモンは心配そうに寝ているカロルの額に手を当てる。
「ひっ、酷い熱だわ」
 カロルがうつろな目を開けると、シモンの背後からジェラルドが、心配心からか好奇心からか解りかねるが覗き込んで来た。
「姉貴、そいつさっさと部屋から連れ出せ。うつると大変だろう」
 見るからにどう見ても頑丈そうには見えない。
「俺は、大丈夫だから」
「薬、飲んだの? お医者さん、呼びましょうか」
「いい」とカロルは即座に断った。
 ルカの一件以来、カロルは御殿医を信じないことにしている。
「少し寝れば治るから、何時だってそうだっただろー」
「でも、熱が」と心配するシモン。
「それより、ニックを呼んでくれ、奴に話しがある」
 暫くして副隊長のニックがやって来た。ニックはベッドに横たわっているカロルを見て警戒する。隊長が病気で横たわることはない。横たわるとすれば襲撃された時。直ぐさま警戒警報を発令しようとするニックに、
「風邪だ」とカロル。
「かっ、風邪?」
 カロルが寝込むほどの風邪をひくなど、敵に襲撃されたより驚くニック。
 馬鹿の夏風邪ですか。とはさすがに問えなかった。もっとも今は夏ではないし、貴族の館は季節感がないのが普通である。この館やルカ王子の館のように季節がある方が珍しい。よってニックは、
「鬼の霍乱ですか」と問う。
「なっ、何が鬼の霍乱だ。それは姉貴が風邪をひいたときの台詞だ」
「カロル、どさくさに紛れて何アホなこと言っているの」と、シモンはジェラルドの手前恥ずかしさもあって、顔を赤くして怒る。
 何時もならここで平手の一発も飛んでくるところなのだが、鬼にも慈悲があるようだ、平手の代わりに思いっきり鼻をつままれた。
「痛てぇーな。姉貴、さっさと出て行け、さもないとほんとにうつるぞ」と、カロルはジェラルドたちを遠ざけると、
「ニック、俺、少し休むから後を頼む」
 それだけ言うとカロルは、泥沼に沈むかのような眠りについた。
「やっ、やばいんじゃないですか、これ」
 シモンは自らの手で水枕を用意する。原始的な方法だが熱にはこれが一番。
「とにかく部屋を暖かくして頭を冷やして。それに水分。スポーツドリンクがいいわ」
 さすがに軍人の娘だけのことはある。怪我の治療と病気の看病は慣れている。父が兄が、あるいは館の私兵たちが、いつも無事に帰還するとは限らない。時には負傷して、あるいは感染病に侵されて戻って来る時もある。最悪の場合は死だ。生きている限りはその命を助けてやりたいと思うのは人の情。シモンは何時しか医学に通じるようになっていた。イシュタル人の母親が我が子のために薬草に通じたように。
「それに医者」とシモン。
「ですが隊長は、御殿医は」
 それどころか根っからの医者嫌いである。
「好き嫌いを言っている時ではないわ」
「あっ、そうだ。軍医なら」
「軍医?」
「オリガーさんですよ、彼、今、非番ですから。彼、ここのところルカ王子と行動を共にしていますから。ルカ王子が地上に居るのなら彼も」
「非番なら故郷に戻られているのでは」
「彼、身寄りがないようですから、おそらくスラムに居るのでは」
「スラム?」
「この間会った時、あそこは感染病の坩堝だと喜んでいましたから。何でも感染病の研究をするにはもってこいの場所だとか」
 戦場の兵士たち、負傷して死ぬより病気で死ぬ方が多いのでは。怪我で体力を奪われているところに感染力の強い病原菌。本来その程度の病原菌では死に至らないと思っていても、失血等による体力の低下はどうにもならない。まして負け戦などになってくると物資の補給もままならなくなる。そんな所はスラムも戦場と似ている。医療器具もなければ薬もない、衛生も悪ければおまけに食料も乏しい。現状にあるもので急患を診なければならない。まさに戦場。
「連絡取ってみます。直ぐに来てもらうように」
 だが返事はあっけないものだった。
『カロルが風邪ひいたって、馬鹿に付ける薬はない』
「そっ、そんな。本当に酷い熱でフウフウ言っているのですよ」
『熱は、何度ぐらいあるのだ』
「そっ、それは」と、答えに窮するニック。
『熱があるなら、まず計れ』
「はい、ただいま」
 ほとんど敬礼でもするような姿勢でオリガーの指示を受ける。
「四十一度です」 答えたのはシモンだった。
『測定器が付いているのか』
 軍人なら誰もが身に着けている体調測定器。
「はい」
『では、そのデーターを今から言うアドレスに流してくれ』
 暫くして、
『冷やしているのか』との問い。
「冷やしてはいますが、熱がさがらないのです」
『今、何処に?』
「ジェラルド王子の館です。私はカロルの姉のシモンです」
 何かを考えているような少しの間があって、
『シモンさんでしたか。先程までの無礼をお許しください。シモンさんは竜木の葉の粉末をお持ちですか』
 ジェラルドなら持っているはずだが。などと、彼も第一皇位継承者を呼び捨てにするところなど、さすがにルカの配下と自称するだけのことはある。一筋縄ではいかない軍医だ。
「それでしたら私も持っておりますが」
『それはよかった。それではその粉末を五百ccの水に大しゃじ三杯ぐらい入れて五分間煮出してください。五分以上に煮出すと別の薬になってしまいますから時間だけは注意してください』
 それを聞いて、えっ? と不思議がるシモン。だが今は細かいことを考えている暇はない。これ以上高熱が続けば、それでなくとも頭の弱いカロルは目もあてられなくなってしまう。
『それを冷まして哺乳瓶にでも入れてしゃぶらせておけば、熱は直に下がります。下手な薬よりよっぽど効きますから。ちなみにそれ以上煮出すと胃薬になります。熱が下がったら消化の良いものに混ぜて食べさせるといいですよ』
「本当に、そんなもので大丈夫なのでしようか」と、シモンは心配そうに訊き直す。
『これはルカ王子に教わったのです。もっとも殿下はナオミ夫人に教わったようですが。でもこれにはその先があるのです。ナオミ夫人はルカ王子の前世だったと言うレーゼとか言う老人に教わったそうです。この話どこまで信じるかはあなたの自由ですが、薬の方は実際に試してみましたがよく効きます。カロルさんでしたら体力もありますからおそらくそれで十分だと思います。もしそれでも駄目でしたら、また連絡ください』
「来てはもらえないのでしょうか」
『申し訳ありませんが、こちらも急患が入ってしまったのです。こちらは今夜あたりが峠でして、傍に付いていてやりたいのです』
 栄養失調の子だった。本来体力さえきちんとしていればこんな病気にかかるはずないのだが。
「そっ、そうでしたか。無理を言って申し訳ありません」
『いえ、こちらこそ。お大事に』
 通信は切れた。
「あっちもたいへんそうだな」
「そうね。とりあえず、言われたようにやってみましょう」
 ルカ王子がと言われた段階で、シモンは既にその薬を信じ切っていた。彼が言うのなら間違いはないだろうと。何処から湧いてくるのだろう、この信頼感はと思いつつ。
「じゃ、俺、哺乳瓶」と、哺乳瓶を用意しようと駈け出そうとしたニックに、
「スプーンか何かで飲ませますから」とシモン。
 だが哺乳瓶と聞いて喜んだのはジェラルドだった。
「私も、哺乳瓶、欲しい」
「ジェラルド様」と諌めるクラークス。
 シモンは自らの手でカロルのために薬を煎じて飲ましてやった。薬の効能は確かだった。みるみる熱が下がり呼吸も楽になってきたようだ。
「竜の木とは本当に万能薬なのですね」と感心するクラークス。
 過去にこの木はネルガルの何処にでも生息していた。それを悪魔の木として伐採してしまったのだ。
「イシュタル人はこの木の薬効を自由自在に使いこなしていた」
 薬になるものは毒にもなる。それが後に悪魔と恐れられる所以。

 カロルは夢を見ていた。否、これは現実。
 熱にうなされて目を覚ましたカロルの視界に、自分に付き添ってくれている姉の姿が入った。時計は真夜中を回っている。すっかり心配をかけてしまったようだ、姉は疲れてソファに座ったまま寝ている。起きて行って何かかけてやろうと思った瞬間、天井から毛布のようなものが現れ姉の体を柔らかく包む。不思議なこともあるものだと思っていると、
(目が覚めたのか?)と、何処からともなく聞こえる声。
 カロルが辺りを見回すと、枕元に件の少年。
 少年はそっとカロルの額に手を置く。冷たい手だ。
(まだ、熱があるな。あの程度で風邪をひくなど、お前もたいしたことないな)
 カロルは少年の手を振り払うと、
「わるかったな、たいしたことなくて。この寒中に池に入って風邪をひかない方がおかしい」と、ふてくされたように言う。
(俺は、ひかなかった)と、少年は自慢げに言う。
 カロルはむっとして、
「馬鹿は風邪ひかないからな」
 言ってしまった後に、こんな子供相手におとなげないと後悔したのもつかの間、
(夏風邪は馬鹿がひくそうだ)
「だっ、誰がそんなことを!」と大声を張り上げようとした口を、少年の白い手が押さえる。
(お姉さんが起きてしまう。お前の看病で疲れているのだから寝かせてやった方がいい)
「そんなことお前に言われなくとも」
(じゃ、でかい声は出すな)
 いちいちむかつく奴だ。
(喉、乾いていないか?)
 言われれば、汗をかいたせいだろう。
「ああ、少し」
(水、いるか?)
 へぇー、意外にこいつ、優しいところあるんだと思いつつカロルが頷くと、少年の手の中にグラスが現れ水が満たされていく。
 なっ、何だ?
(飲めよ)と少年はそのグラスを差し出す。
 カロルは不思議に思いつつも、むかつく奴だが悪い奴ではない。どことなく幼少のルカを彷彿させるような。
 カロルはベッドから起き上がると知らず知らずにグラスを受け取っていた。一口、口にする。
「うっ、うまい。ただの水じゃないのか」
 程よい塩分。喉の渇きが二口、三口といっきに飲ませた。
(うまいか)
「ああ、何が入っているんだ?」
 スポーツドリンクとは一味違う。
 カロルはグラスを掲げて見ると、先程無色に見えた液体が、今は少し赤みをおびて見える。
(命)
 ? 一瞬、カロルは答えに迷ったが、
「命か、面白いことを言うな。本当は何なんだ?」
(だから命と言っているだろー、お前、言葉がわからないのか)
「冗談だろ」と笑いながらその液体を飲み干した。
「うまい、もう一杯」
 だが少年は首を横に振ると、
(これ以上は強すぎるから駄目だ)
「なるほど、やはり薬か。こんな口当たりのいい薬なら、なんぼ飲んでもいいな。本当に何が入っていたんだ?」
 カロルはもう一度グラスを掲げ、
「色が赤いところを見ると、トマト」と言って少年の顔を伺う。
「違うか。じゃ、家畜の血」と冗談で言ったつもりが、返って来た答えが。
(俺の血)
 カロルは唖然とした。一瞬の沈黙の後。
「嘘だろう」と笑い飛ばそうと少年を見る。
 だが少年の顔は真剣だった。
(俺は、嘘はつかない)
 カロルの顔はみるみる青くなった。
(じょ、冗談だろう。大人をからかうのはよせ)
 だが少年は真剣そのものの眼差しでカロルを見詰める。
 カロルはベッドの上に跳ね起きると突っ伏し、吐こうともがき始めた。ゲェゲェ声はすれど喉からはなにも出てこない。そんなカロルを少年は片手で軽々と仰向けにすると、強引にベッドにねじ伏せた。
(俺は冗談も言わない。少し寝ろ。明日になれば元気になっている)
「じょ、冗談じゃない」と、飛び起きようとするカロルを少年は片手でもう一度ベッドへ押さえ込む。
 子供とは思えない力。なんなんだ、こいつ。
 暴れるカロルに向かって少年は、
(お姉さんが起きてしまうだろう。彼女はいい人だ。お前のことをとても心配していた。だがお前のあんな下手な剣では彼女を守ることはできない。俺が稽古をつけてやろうか)
「なっ、何?」
 カロルは少年を睨みつけた。こいつ、何者。ガキのくせに生意気な口のきき方といい、これで髪が朱くて瞳がグリーンなら、あの野郎そのものではないか。
(誰に似ているって?)
 あっ? 俺の胸の内、こいつに聞こえるはずないのにと、カロルはもう一度少年を睨みつけた。だが少年は臆することもなく、
(強くなりたいんだろー。その気があるなら池のところへ来い、待っている)

 あれからどのぐらい時間が経ったのだろうか、カロルは姉シモンの手が額に当てられるのを感じて目を覚ました。
「起こしてしまったかしら。熱はどうかと思って」
「ずっと、居てくれたのか?」
 何時もそうだった。怪我の絶えないカロルの看病をしてくれたのは姉のシモンだった。
 カロルはまぶしいほどの朝日をみつめ、
「いいのか何時までもこんな所に居て、あの馬鹿が焼きもち焼くんじゃないのか」
「カロル、お兄様とお呼びしなさい。それが嫌ならジェラルド様と」
 どっちも、嫌だ。とカロルは心の中で叫びながら。
「俺はもう大丈夫だから、奴のところへ行け。何時までもこんな所に居て、変な噂でも立てられたら」
 姉貴がこの館に居づらくなる。カロルとしてはあんな馬鹿とさっさと離縁してくれた方がいいのだが、かと言って再婚と言っても。ジェラルドは馬鹿だが姉貴に暴力を振るったり威張り散らしたりはしない。その点は下手な門閥貴族の子息よりよっぽどいい。
「カロルでもそう言うこと心配するの、少しは大人になったのね」
 姉はくすくすと笑い、水枕を片付けながら言う。
 俺はむっとして姉から視線をそらした。
「もう、大丈夫みたいね。あなたが元気になったら戻るとジェラルド様には言ってあるの、彼も随分心配していたわ」
 カロルはむっとした顔を姉に向け、
「奴が心配しているのは哺乳瓶だろう」
「そんなことないわ、本当にあなたのことを」
 その時だった、ドアがノックされたのは、
「入っても、よろしいですか」とクラークスの声。
 シモンがドアを開けると、クラークスとジェラルドそれにニックが立っていた。
「カロル、元気?」とジェラルドの能天気な声。
「熱も下がりましたし、もう大丈夫です。心配をおかけいたしました」と、シモンは三人に丁寧に頭を下げた。
 ジェラルドが部屋に入ろうとするのを見たカロルは、
「入ってくるな! 風邪は治りかけが一番人にうつるんだ。姉貴もさっさと出て行け。ニック、お前は残れ。お前だろ、あの生意気なガキに夏風邪は馬鹿がひく、と教えたのは」
「生意気なガキ?」
 ニックには心当たりがない。ニックが不思議そうな顔をしていると。
「昨夜、ここに居たガキだよ」
 ニックはシモンを見た。彼女は一晩中カロルの看病をしていたのだから。
 シモンは首を横に振った。
「昨夜からこの部屋に居たのはカロルと私だけよ、他には誰も」
「そうですよね、私も念のため廊下で見張りをしていましたが、昨夜はこの部屋にはシモン様以外は誰も出入りしておりません」
「カロル、夢でもみていたのではありませんか」
「隊長、しっかりしてくださいよ。隊長までジェラルド様の二の舞になってしまったのでは、俺、どうしていいか」
「ばっ、馬鹿やろー。ジェラルドと俺を一緒にするな!」と怒鳴るカロル。
「それだけ元気が出れば、もう大丈夫ですね」とクラークスは笑う。
「カロル、元気。熱、下がった。哺乳瓶は?」
 やっぱりこいつ、俺のことより哺乳瓶が気になったんだ。
「カロル、今日はここでじっとしていなさい。食事もここへ運ばせますから。まだ起き出すのは早いわ」とシモン。
 だがカロルはじっとしていられなかった。体の奥から湧き上がる高揚感、矢で鉄砲でもミサイルでも持って来いという感じだ。何なのだこれは。
 皆が去った後、カロルは考えた。あれは夢だったのか、と。そして枕もとを見るとそこにグラス。カロルは飛び起きてそのグラスを掴んだ。
「やっぱり、夢じゃない」
 だが掴んだグラスはカロルの手の中でみるみる溶け出し水にと変わる。そして掛布団へと落ち染みを作ったがそれもつかの間、染みは乾き今では跡形もない。
 俺は、今夢を見ているのか。
 そう思ったカロルは、自分の両頬を両手で思いっきり叩いた。バッシという音が部屋中に響き渡る。
「いっ、痛てぇー」
 こんな痛い夢があるはずない。
 その音に驚いたのは食事を運んで来たシモンだった。慌ててカロルの部屋に飛び込む。
「どっ、どうしたの?」
 見ればカロルの両頬にはしっかり手の跡。
「何したの?」
 カロルは照れ臭そうに笑うと、
「いや、なに、ちょっとした実験」
「実験?」
「熱でたるんだ顔の神経を引き締めただけだ」
「何、馬鹿なことやっているの。食事、ここへ置くわよ」とシモンはテーブルの上に食事を置く。
「食べたらまた少し休むのよ、起き出したりしたら駄目よ。風邪は治りかけが肝心なのだから」
 子供の時からの姉の口癖。

 それからしばらくの間カロルは多忙をきたした。何しろ近衛の仕事は初めて、ジェラルドに何かあるたびにその近辺警護をしなければならない。さすがに第一皇位継承者だけのことはある、馬鹿で何も出来ないくせに用だけはあった。しかもそのジェラルドが、
「なっ、何? こんどは何だよ」
「トイレだそうです」と部下の一人。
 やっと着替えも済み、地上カーに乗ろうとしたところで待ったがかかった。
「トイレって、さっき行ってきたばかりじゃないか」と怒鳴るカロル。
 この調子では完全に式典に間に合わない。愚図な奴だからと車は一時間も前から待機させておくのに。
「カロル、そんなにいらいらしてもしかたないわ。ジェラルド様は緊張するとトイレが近くなることは知っていたでしょ」
「知っていた。だがこれで何度目だ? 何時になったら車を出せるんだよ」と怒鳴るカロルに、トイレからジェラルドの手を引いて戻って来たクラークスが謝る。
「カロル、シモン悪くない。どうしてシモン怒る? シモンいじめる奴は私が許さない」と、ジェラルドは拳を振り上げカロルを叩こうとした。
 カロルは瞬時に一歩飛びのき、
「ちょっ、ちっょと待て。誰のせいでこうなっていると思っているんだ、おめぇーは」
「カロルがシモンをいじめるから」とジェラルド。
「悪いのはおめぇーだ。おめぇーがぐずぐずしているから」
「カロル、何ぐずぐずしているの、早く車をだしなさい。遅刻してしまうわ」とシモン。
「ほら、やっぱり悪いのはカロルだ。カロルのせいで遅刻、遅刻」
「なっ、なに! おめぇーが」 トイレばっかり行ってやがるからと言いたかったのだが、
「たっ、隊長。速くしないと本当に遅刻してしまいますよ」と前方の車両から怒鳴る部下。
「なんだか、俺のせいで遅刻するみたいじゃないか」とぼやきながら、カロルは直ぐ前の車に飛び乗った。
「出発だ」
 こんなことが日常茶飯事。他の館の王子たちもこんなに時間にルーズなのか?
 それですっかり少年のことは忘れていた。



「すまなかった、怪我は?」と、カロルにしては珍しく素直に謝る。
 確かにあの木の陰に少年がいたような気がしたのだが。よく見れば枯葉が舞っているだけ。
「幽霊見たか、枯れ尾花。というところですか」とクラークス。
「幽霊、幽霊」と意味も解らず楽しそうにはしゃぐジェラルド。
 こいつが皇帝になったらネルガルは終わりだ。その前に俺はとんずらするか。だが待てよ、姉貴はどうする?
 カロルの想いをよそにジェラルドは、こりずに同じことを繰り返した。
「カロル、馬、馬」
「いいから、俺が取って来てやる」とカロルが木に登ろうと幹のほうに歩み寄った時である。いきなり上空から一抱えもあろうかと思われる葉の塊が、カロル目がけて落ちて来た。
「あっ!」と言う間にカロルはその葉に埋まってしまった。
「カロル大丈夫?」と声をかける姉。
 ベェベェと口の中に入った木の葉を吐き出しながら葉の中から這い出すカロル。
 笑い声。
(それだけあれば十分だろう)
 一体、どこからこれだけの葉が? こんな枯れそうな木から。とクラークスは上空を見上げる。枯れそうとは言え、カロルが来て手入れをするようになってから少しずつ葉の付がよくなってはきている。しかしそれにしてもこの数は多すぎる。
「あの野郎―」と駈け出すカロル。
「どうしたの?」と心配するシモン。
「何処だ、姿を見せろ。卑怯じゃないか」
 カロルは上空を見上げる。
「出て来い!」
 すると竜木の枝の上に少年がスーと現れた。
「そんな所に居たのか、待ってろよ、今とっ捕まえて、二度とこんな悪戯をしないように」と、カロルが木に駆け寄ろうとした時、何かが足元へ飛んで来た。
 しゅ、手裏剣。カロルは慌てて飛び退く。だがまたその足元へ。二回、三回と飛び退くカロル。
「どうしたの?」と心配そうに声をかけるシモン。
「こっちへ来るな」と、手裏剣を交わしながら叫ぶカロル。
 だがシモンやクラークスたちにはその手裏剣が見えない。ただカロルがジグザグに飛び退いて後退している姿しか。
「どうしたのよ、カロル」とシモンが近づこうとする。
「だから、こっちへ来るなと言っているだろう。見えないのかよこの手裏剣が、あいつが」とカロルは木の上の少年を見る。
 しかし少年は両手をぶらりと下に垂らし、手裏剣を投げているような感じはしない。だが手裏剣は確実ら少年の方からカロルめがけて投げられてきている。
 どっ、どういうことだ。と思った瞬間、手裏剣が頬を掠めた。髪の毛ほどの切り傷ができ、そこからうっすらと血がにじむ。
(何を考えている。余計なことを考えている余裕はないと思うが。今度は本気で行くぞ)
 その思念と同時に少年が目の前に現れた。振り下ろされる剣、カロルは慌ててルカからもらった剣を引き抜く。
 カキャン、剣と剣がぶつかる音。
(交わしたか、脳天かち割ったかと思ったのにな)
 少年は楽しそうに言う。
「きっ、貴様。もうガキだと思って手加減はしない」
(手加減とは強い奴が弱い者に対してすることだ。逆はありえない)
「なっ、何」
 カロルは踏み込んだ。だがその剣は大振りしただけ。次からは少年の猛攻が始まった。交わすのがやっとなカロル。
(どうした、攻撃して来ないのか。逃げてばかりでは勝てないぞ。お前、俺より体力ないのだから、その内動けなくなるぞ。攻撃は最大の防御だと言うだろう)
「そんなこと、貴様に言われなくともわかってら」
 だが少年の速さに付いて行くのがやっとだった。次第に肩で息をするようになって来た。このままではやられる。ど、どうする。そう思った瞬間、足がもつれて倒れ込んでしまった。その喉元へ少年の剣先。カロルは開き直るしかなかった。
「好きにしろ」
 少年はにんまりと笑う。
(では、好きにさせてもらおう。あの木の周りをはいはいして三回まわれ。そうすれば明日、花が咲く)
 はぁっ? と不思議がるカロルに。
(花が見たいと言っていただろう、早くやれ。さもないと)と少年は剣先をカロルの喉元に押し付けた。
 カロルは仕方なしに竜木の方に歩み寄る。
 その一部始終を見ていたシモンたちは、カロルが一人で何をしているのかと心配した。
「何か、悪いものでも食べたのかしら?」
 完全に頭がおかしくなってしまったと思ったシモン。
「ですが、剣の止まり方が不自然ですね。何かにぶつかった反動で剣が微かにおしもどされているような、寸止めならあのような剣の震えはありません」とクラークス。
「そう言われればそうる」とシモン。
 シモンの家系は全員軍人である。シモンもプラスターや剣は使える。あくまでも護身用だが。
「誰かと相対しているような、誰か居るのでしょうか?」
 クラークスにそう指摘されシモンはジェラルドの様子を伺った。白蛇が見えるジェラルドならもしかして何か見えているのではないかと。だが今回ばかりはジェラルドも何も見えないようだ。
 カロルはすたすたと歩いてくると三人の前を通り過ぎる。
「カロル、何処へ行くの?」と問うシモン。
「竜木のところだ。あの木の周りを三回まわれば花が咲くそうだ」
「誰が、そんなこと言ったの?」
「こいつだ」と、カロルは自分の背後を指さす。
 だがそこには誰も居ない。しかしカロルにははっきり見える。剣を肩にかついでカロルの後を付いてくる少年の姿が。
「誰も居ないわよ」とシモン。
「枯れ尾花だからな」
 シモンたちは不思議そうな顔をした。
 カロルは今はっきりわかった。こいつは人間ではない。この剣の精か竜木の精でもあろう。どちらにしても俺に危害を加えることは、
(あるぞ)
 なっ! とカロルは振り向いた。
(何で俺がお前に危害を加えないと思うかな。今回は助けてやったが次回は助けるとは限らない。殺されたくなかったら早く強くなることだ)
「きっ、貴様」
(ほら、早く這いつくばって三回まわれ)
 カロルはむっとして少年を睨みつける。
(どうした、好きにしていいと言ったのはそっちだろ。あれは嘘だったのか)
「やればいいんだろ、やれば」
 カロルは大地に両手を着くと、犬のように木の周りを回った。
(ついでにチンチンしてワンと言うといいんだがな)
「そこまでは約束していない」とふてくされたように言うカロル。
 少年はひとしきり笑い転げると、
(花は一輪だけにしようと思っていたが、お前に免じて満開にしてやろう。昼前に見に来るといい)と言って、姿を消した。
 やっぱりあいつ、人間じゃない。人間じゃない奴にどうやって勝つんだよ。
「カロル」と心配そうに駆け寄る姉。
 シモンはカロルの額に手をかざすと、
「熱があるわけじゃないわよね」
 カロルはその手を優しく払うと、
「姉貴たちにはみえなかったのか、あの少年が」
 シモンたちは頷く。
「明日の昼前にここへ来いとさ。この木に満開の花を咲かせるそうだ」
「どうやって?」とシモン。
 カロルは両手を広げて肩をすくめて見せる、そんなの俺に解るかとばかりに。
「竜木の精でもあるのでしょうか? あなたがとても大事にしているから」
「あんたもそう思うか、俺もそんな気がする。別に大事にしているわけじゃないが、ルカのところの木に比べると随分貧弱だからな、可哀そうになってよ」
「カロル、優しい」
「おめぇーに言われると、馬鹿にされているように聞こえる」
「ジェラルド様には悪気はありませんよ」
「だろうよ、悪気も馬鹿じゃ湧いて来ネェーだろうから」
「カロル!」とシモンが怒る。
「まったく今日は、ろくな日じゃねぇー」とカロルは、ズボンの膝に付いた土を掃う。
「この葉、どうしましょう」とシモンが竜木の葉の山を指し示しながらクラークスに相談するのを見て、
「せっかく竜木の精がくれたんだ、持ち帰ってすりつぶしたら。これだけあれば暫くこいつもおとなしくなっているだろうから」
「でも、こんなに」とシモンが言っている矢先に、
「葉っぱ、葉っぱ」と言いながら袋に詰めるジェラルド。
 袋は直ぐに一杯になった。
「もっとでかい袋、持って来るか」



 そして次の日、カロルは朝早く起き出すとさっそく件の木の所へと駈け出した。あの少年がどうやって花を咲かせるのか見るために。だが花は既に満開に咲き誇っていた。一本だけ、しかもそこだけ春のように暖かく花の甘酸っぱい香りが漂っている。カロルは目を閉じ小鼻をヒクヒクと動かした。この香りは竜木の実の熟した時の香り。そう思っただけでルカの館で食べた竜玉を思い出す。うまかったなー、もう一回食いてぇー。
 だがまずは目の前の現実をどう解釈するかだ。
「うっ、嘘だろう」
 まるで夢を見ているような。
 現実なのだろうか、それともあの少年のように俺にしか見えないのだろうか。
 カロルが花に見とれて暫く立ちすくんでいると、そこへ姉たちもやって来た。やはり姉もカロルと同じ、この寒空に花など咲くはずがないとは思いつつも、昨日のカロルの行為が気になったようで朝から池の方に散策に出てきたようだ。
「お花が、一杯」と言うジェラルドののんきな声に、シモンとクラークスは木を見上げた。
 まるでそこだけが春。
「一本だけ、ドームに覆われているようですね」とクラークス。
 上流貴族たちが自分の館をドームで覆い、一年中温暖な気候にしているように。
「冗談だと思っていた。いくらドームで覆ったからって、一晩で花を咲かせることは出来ない。よほど時間を早回りさせない限り、蕾すら付いていなかったんだからな」と、カロルも驚いている。
「やっぱりあいつ、人間じゃない。この木の精なのだろうか。しかし妖精にしちゃ小生意気な奴だ」
 木は可憐な白い花を咲かせていた。この花を見る限りあんな生意気な気性は想像できない。だがそれはこっちの勝手な思い込みなのだろうか。木は何も言わずに可憐な花を咲かせて佇んでいるだけ。それを見てこちらが勝手に乙女のような妖精を想像しているだけで、もしこの木に口が利けたならあいつの様な口のきき方をするのだろうか。否、それだけは現実でもあって欲しくない、やはり見た目と同じようであって欲しいなどと勝手なことを思いながらカロルは、ふと池の方を見た。すると池の中ほどに何か白いものが漂っている。
「あっ、あいつだ」
 そう思った瞬間、カロルは走り出していた。池の中に飛び込み、水しぶきをあげながら少年のもとに走り寄る。死んでしまったのではないか、この花を咲かせるために力を使い果たして。だからあんなところに漂っているのではないか。そう思うと居てもたってもいられなくなった。足に絡みつく水がやけに邪魔に感じる。
「おい、大丈夫か」
 声をかけても何の反応もない。
 やっと少年の服を掴むと、力任せに自分の方へ引き寄せた。
「おい、しっかりしろ」
 少年は驚いたように目を開けると、
(何すんだよ、人がいい気持ちで寝ていれば)
「寝ているって、こんなところでか」
(こんなところって、何処で寝ようと俺のかってだろうが)
「そりゃ、そうだが。水の上に浮いているから、死んでるかと思った」
(はっぁ?)
 少年は呆れたような顔をしてカロルを見る。
(俺が、死ぬわけねぇーだろ。それより服引っ張るから、肌蹴けちまったじゃねぇーか)と言いながら、少年は服の裾を下へ引っ張る。
 見れば少年の服は前合わせにしてただ紐で縛ってあるだけ。よくよく見れば上はそれ一枚しか着ていない、この寒空に絹のような服一枚で寒くないのだろうか。
 少年は服を引っ張っただけで着くずれはなおってはいない。
「紐解いて、縛りなおさなければ駄目だろう」
(俺が紐を結わけると思っているのか、お前は。それが出来ればとっくにそうしている)
 威張って言われると出来ないことが当たり前のように感じるから不思議だ。
「おっ、お前、紐も結べないのかよ」
(結べなくてどこが悪い)
 そう言われてしまっては、本来ならここで不器用めと笑ってやるところが、笑えなくなってしまった。くそー、と思いながらも、
「ほら、貸してみろ、結わいなおしてやるから」
 結局、少年を立たせ服を着せなおしてやろうと思ったカロルは、そこで少年の胸の痣を見ることになった。
「よっ、この痣、どうしたんだ?」
(痣?)
「胸の痣だよ」と言いながら、カロルは少年の襟をきれいに合わせ紐で結わえてやった。
(俺の胸に、何か付いているのか?)
「付いているのかって、見えないのか?」
(俺、目、見えないからな)
「目、見えないって、お前、目くらなのか?」
(ああ、そうだよ。知らなかったのか?)
「知るはずねぇーだろう、そんなこと。会って日も浅い」
(そうか、俺は随分前からお前のことを知っているが)
 はっ? と思いつつカロルは少年のことを見詰めた。
 本当にこいつ、目が見えないのか。それにしちゃあの剣技は、それに俺に犬の真似をさせて笑ってもいた。そして何よりも疑問なのは、何時から俺を知っているのか。
(一度に幾つも質問されてもな、でも一つだけ答えてやろうか。お前に犬の真似をさせて笑ったのは、そうすればお前が面白い反応を示すと思ったからさ、案の定、期待を裏切らない奴だ)
「なっ、なにー!」
 カロルは思わず大声を張り上げた。
(そうでかい声を出すな、寝起きに騒がれては頭が痛くなる)
「おっ、お前」と一段と声を張り上げようとするカロルに、
(どうだ、それより実を食べたいとは思わないか)
「そりゃ」と、カロルはルカの館で食べた竜玉の味を思い出す。あの味は忘れられない。
(三弁回ってチンチンしてワンと言えば、実を付けさせてやってもいいぞ)
「花が咲けば実がなるのは当然だろう」と言うカロルに対し、
(当然、花と実は別ものだ、成るとは限らない。どうだ、やるか)
「断る」とカロルは声に力を入れて即答した。
 誰がそんなことを、猿回しの猿じゃあるまいし。
(猿だと思うが)
「煩い!」 こいつ、人の心が読めるのか?
(そうか、それは残念。だがお前のことだからそう言うと思っていた、それも体に力を入れて。本当に期待を裏切らない奴だ)と、愉快そうに笑う。
 カロルはむっとするしかなかった。
(まあ、じゃ、今回は実は無しということで。気が変わったら何時でも言ってくれ、俺、ここに居るから)
「誰が」 気が変わるものか。
(ところで、ここの水深は何メートルだと思う?)
 いきなりの話題が変えられ質問された。カロルは考えながら、ここは池の真ん中だから確か池の真ん中あたりの水深は、十メートル。
(ご名答)
 そう思った瞬間、カロルの体は沈み始めた。今まで膝上ぐらいしかなかった水がみるみる嵩を増し、頭まで沈んだところでカロルは慌てて立ち泳ぎを始める。ブハァーという感じに水面に顔を出して呼吸をする。
「おっ、お前」
 少年は水面の上に寝っころがっていた。何でこいつ、沈まないのだ。
(馬鹿だな、意識するから沈むんだよ)
 カロルは立ち泳ぎをしながら、
「じゃ、意識しなければ沈まないのか?」
(俺は、意識しないから沈まない。早く上がった方がいいんじゃないか、また風邪ひくよ)
 少年に言われるまでもなく、カロルは大きく体をブルブルと震わせた。真冬の水に体温が奪われていく。このままではまたやばいかも。
「お前に言われなくとも、そうする」
 少年はにっこりするとそのまま池の底へと沈んで行った。
「おい」とカロルは声をかけ、沈みゆく少年を助けようと慌てて手を伸ばしたものの届かない。人のことはかまっていられない。とにかく体温が奪われる前に岸まで泳ぎ着かなければ。どうせあいつは人間ではないのだから死ぬことはないだろう。とっさの時の勝手な解釈である。

 岸にたどり着くとさっそくシモンの小言。
「この寒空に池の中で、何をしていたの?」
 カロルは大きなくしゃみを続けざまにする。
「ほらみなさい。また風邪ひくわよ」と、シモンは自分の羽織っていたショールをカロルに掛けてやろうとした時、上空に毛布が現れカロルにふんわりと掛かった。
 不思議そうな顔をするシモン。
 これは俺の部屋にあった毛布だ。あいつが掛けてくれたことは解る。こんな優しいところがあるくせに、何なんだあの小生意気な態度は。親切にされ余計にむっとくるカロルだった。
 カロルはその毛布で体を包みながら花の咲いている木の下へ行く。そこだけは春のように暖かい。
「着替え、取って来るわ」とシモンが走り出そうとした時、
「姉貴、やっぱり姉貴たちにはあの少年は見えないのか?」
「やはり、少年がいたのですか?」とクラークス。
「水の上に浮いていたから、俺、てっきりこの花を咲かせるのに力を使い果たしたのかと思って、助けに行ったつもりだったのだが」
「からかわれたと言う訳ですか」
「あの野郎、昼寝してたんだとよ。もっとも昼にはまだ早いが」
 クラークスは悪いとは思いつつも思わず笑ってしまった。カロルはある意味とても純朴である。本人は認めたがらないが。からかう方にはからかいがいがあるのだろう。
「そこで俺、不思議なものを見た」
「不思議なものって?」とシモンが尋ねる。
「あいつの胸に、ルカと同じような痣があるんだ。しかも同じところに、同じ大きさの。しかも肌の色が透けるように白いからその痣が痛々しそうでな」
 そんなところもルカと同じだ。
「奴に聞いたら、痣があることは知らなかったようだ。なんせ、目が見えないらしい」
「目が見えない妖精ですか」とクラークス。
「本人が目が見えなくとも、母親か誰かが何か言うのではありませんか、そんな痣があるのでは」とシモン。
「そうだよな、妖精っていうのは独りで暮らしているのかな。でもあいつ、木の妖精でも剣の妖精でもないと言っていた。それは訊いたんだから確かだ」
「では何の妖精なのでしょう」とクラークスは真面目な顔で問う。
 皆で勝手に妖精だと決め込んでいるのがおかしい、この宇宙開発の進んだ文明時代に。
「この池に昔から住んでいるのかな、池の底に沈んで行ったぜ」
 三人は池を見詰めた。
「おいジェラルド、お前、妖精を見たことあるか?」
 頭がおかしい奴は何か変わったものを見たりする。
「幽霊?」と問うジェラルドに。
「幽霊じゃなくて、妖精」と強く言い返すカロル。
「どちらでも同じでは」とクラークス。
「幽霊、カロル」
 シモンは思わず小さく噴き出した。
「そっ、そうね、今のカロルは幽霊みたい、髪の毛はびゃびゃだし」
「わっ、悪かったな」と毛布で髪をふく。
 そこへニックがやって来て驚く。
「どうしたのですか、この花?」
「どうしたのって、花が咲いているだけじゃないか」
「だから、どうやって咲かせたのかと思って、この真冬に」
 そうだ、こいつに木の周りを回ってもらいチンチンしてワンと言わせれば、もしかして実がなるかもしれない。などとカロルは思いながら、
「何の用だ、何か事件でも起きたのか?」
「それが」と言いつつ、ニックは着替えの詰まったカバンを差し出す。
「何だ、そのカバンは?」
「着替えです」
「着替え?」
「また、隊長が寒中水泳をしていると聞いたもので」
「誰から?」
「それが、男の子です。何処から来たのか知りませんが」
「男の子?」
「実は、いきなり私の前に現れて、馬鹿が寒中水泳をしているから早く着替えを持って行ってやった方がいいと。さもないとまた熱を出して寝込まれるぞ。あの馬鹿に寝込まれるとお前も困るだろう。と言うものでてっきり隊長のことだと思いまして。それにおもらしもしているからパンツは多目にとのことでした」
「なっ」とカロルは思ったが、着替えを持って来てくれたのは有難い。
 カロルはさっそくそれを受け取ると、さっさと着替え始めた。
 やっと落ち着くとニックを審問し始める。まずは、馬鹿で何で俺なんだ。という質問は後にして。
「そいつ、髪の色は栗色で、このぐらいのショートカットじゃなかったか」とカロルは自分の耳下あたりに手を置く。
「ええ、色白で人形のような綺麗な子です。一見、男の子か女の子が見分けがつきかねますが、話し方がな」
 それでニックは少年と判断したようだ。乱暴な言葉を使っていても品が無いわけではない。不思議な少年である。
 カロルはシモンたちを見た。奴が見えるのは俺だけではない、ニックも同じ少年を見ている。
「それでその子、何処へ行きました」とクラークス。
「あっ!」とニック。
「行先も聞かずに不審者を放置したのか」とカロル。
「ただちに館を封鎖してしらみつぶしに探します」
「もう、遅い!」とカロルは怒鳴る。
 まったくこれで副隊長がよく勤まるものだ。
「探してもむだでしょう」とクラークス。
「やはり、今となっては遅いと」
「いいえ」とクラークスは優雅に首を横に振ると、
「その少年は人間ではないようです。この池に住んでいるようで、カロルさんのことが気に入ってたびたび池の中に呼び寄せるようです」
「そっ、それって、幽霊と言うことですか」
 ニックはこの手の話しが苦手である。みるみる怖気づいて来た。
「つまり隊長は幽霊に憑りつかれていて、その内池の中に引きずり込まれると言うことですか」
「ばっ、馬鹿な」とカロルは焦った。
 そんな話をされてはそれでなくとも冷え切った体がますます寒くなって行く。
「それにしちゃ、陽気過ぎるよな。あんな陽気な幽霊がいるか、馬鹿なこと言うな」
「でも、隊長に憑りつくぐらいの幽霊ですからね、陽気でもおかしくありませんよ」
 ニックがそう言った瞬間、剣が投かってきた。危ないとニックは地に伏せたがその必要はなかった。剣はニックの目の前でブーメランのように弧を描きカロルの所へ戻って行った。
「なっ、なんでニックを小突きもしないで戻ってくるんだよ」とカロルが剣に文句を言うと、剣はカロルを小突いた。
「痛って、この野郎」とカロルは剣を押さえ込む。
 傍から見れば不思議な現象である。しかし今ここに居る人々は度々この現象を見ているせいか、今では不思議に感じなくなって来ていた。否、感じないわけではない、受け入れたというのが正しい言い方だろう。未だ科学で解明できない現象は、ただ受け入れるしかない。この剣は別に誰に危害を与えるわけでもないし、それどころか戦場にあってはカロルたちを救うことしばし。
「不思議ですよね、その剣。ルカ王子って一体何者なのでしょう。本当に神の子なのでは。あっ、そう言えばあの男の子、どことなくルカ王子に似ていませんか。あれで髪が朱ければ」
「やっぱりお前もそう思うか」
「じゃやっぱり隊長も?」
「あいつ、ルカと何か関係あるのかな、胸の痣といい。今度会ったら訊いてみるか」





 ルカ王子にオネス討伐の要請が発令されたとニュースが流れただけで、町は活気づいた。
「これでオネスも年貢の納め時だな」
「ダゴンには俺の娘夫婦が居たんだ、可愛い孫も。仇を取ってくれ」と祈るような老人。
「ルカ王子に勝てる者はいないさ」とその老人を慰める仲間たち。
 酒場はそんなこんなで勝利の前祝のような有様だ。否、酒場だけではないネルガル星全域で既に勝利の杯がかわされていた。出陣すれば全勝、負け知らず。ルカ王子、万歳。という歓喜の声が至る所であがる。だがここに、それを面白がらぬ一団が居た。
「何が全勝将軍だ。たまたま運が良かっただけだろう」と吐き捨てるように言う
 ここはオルスターデ夫人の別邸。今ではオルスターデ夫人の二男ピクロス王子が我が館のように使用している。今日も機嫌取りの取り巻きを引き連れ、下町で買ってきた美少年や美少女を相手に好きなことをやっている。酒池肉林の世界である。時には騙して連れて来た貴族の娘なども居たが、彼女たちは相手が相手だけにただ泣き寝入りするしかなかった。
「ほんとですよ、殿下でしたらもっとうまく勝利したものを」
「肝心なオネスを取り逃がすなど、おい、酒がない。もっと持って来い」
 ピクロスのグラスが空になっているのに気付いた男は下女を怒鳴りつける。
「そうですよ、今回の出陣は言わば、尻拭いのようなものではないですか」などと、散々ルカの悪口を言い連ねる。
 だがピクロスも彼らのおだてに何時までも乗っているほど愚かではない。彼の腹の中は悶々としていた。公の場にあまり出たがらないルカ、だが奴がいったん公衆の面前に姿を現すとその反響は最たるもの、婦女子の黄色い声は元より男性までもがその姿を一目見ようと騒ぎ出す有様。子供等に至っては、杖を突いてびっこをひきながら歩くのが今ネルガルで一番格好のよい歩き方となっている。今のネルガル星で一番国民に人気があるのは奴だろう、認めたくはないが。皇位継承、ジェラルドはあの有様だから奴に男子さえ誕生しなければ問題はない。子供の件は御殿医にそれなりの謝礼を払えばどうにでもなる。すると一番有力なのは母親の格から言って実の兄のネルロスだろう。異母兄のアトリスの方が年上だと言っても所詮母親が二流貴族では話にならない。そうなると俺は二番手か、兄が居る限り一番にはなれない。まあ、ここら辺はおちおち考えるとして、まず目障りなのは平民の血を引きながら王子面している奴だ。今のところはまだその気はないようだが、このまま行くと国民におだてあげられ、何時、皇帝になるなどと言い出すか知れたものではない。なにしろ奴は育ちが育ちゆえに常識と言うものを知らない。そろそろこのあたりで本気で手を打たなければ。
 ピクロスがグラスを見詰めたままじっと動かないのを見て、取り巻きたちは焦る。何かまずいことを口にしてしまったのではないかと。
「殿下、酒がお口にあいませんでしたか」
「それより酒の方はこの程度にして、そろそろ奥の間へ」と、奥へと続く扉の方に視線を流す。
「今宵は取って置きの上玉をご用意いたしました」
「ほー、して何処の娘だ」
「リーベルト子爵のご令嬢です」
「リーベルト子爵の令嬢と言えば、あの気位の高い」と別の男がにやけた顔で言う。
 その令嬢を連れて来た男は頷く。
「よく連れて来られたものだ」
「最後は力ずくでした。下僕に少し金を握らせたら喜んで誘い出してくれたもので、後は力ずくで車に押し込んで、下僕の方はその場で始末しました。後々何かと付け込まれては面倒ですから」
 男は時計を見ると、
「そろそろ薬も効き、おとなしくなっていると思いますので」
 そう言ってピクロス王子を奥の間へと案内する。
 扉を開けると六畳ほどの天蓋付きのベッドの上、ベール越しに両手両足を縛られ猿轡をかまされた娘が横たわっているのが見える。まだ娘は意識がはっきりしているようで、気配に気づききりっとした視線をこっちへ向けて来た。あの視線、何時まで保てるものか楽しみがいのありそうな娘だ。薬は遊んでいるうちに徐々に効いてくるように設定されている。
「それではどうぞごゆっくり」
 下卑た笑みを浮かべながら取り巻きたちは扉を閉めた。殿下が終われば次は自分たちの番である。その待ち時間の間、順番を決めるために彼らはゲームを始めた。





 カロルはあれ以来、あの池の畔に行ってはたびたび件の少年に剣の稽古を付けてもらっていた。
「たっ、隊長。どうしたんですか、その痣?」
 全身痣だらけのカロルを見てニックは驚く。
「何でもない、転んだだけだ」
「また、あの幽霊とやりあったのですか。いい加減にしないと取り殺されますよ」などと言っている所に、シモンの侍女がやってきた。
「お茶でも、ご一緒しませんかとのことです」
 昼下がり、小春日和の今日は外気が心地よい。シモンたちは中庭にテーブルを出し少し早い春を楽しんでいた。
「ジェラルドも一緒なんだろ」
「はい。ジェラルド様がお呼びするようにとのことでした」
 また、何を言いつけられることやら。とカロルは辟易しながら侍女に付いて行く。
「ニックさんも御一緒に」
「俺もか?」とニックは自分のことを指さしながら、急用を思い出したかのように立ち去ろうとした。
 それをすかさずカロルが、
「お前だけ逃げるな」とニックの襟ぐりを掴む。
「そんな、隊長はいいですよ、殿下お一人を相手にすればいいのですから、私は殿下と隊長を相手にしなければならないのですよ、変人二人を相手にしなければならない私の身にもなってくださいよ」
「変人二人とは、どういう意味だ!」とカロルは怒鳴る。
 しっ、仕舞った。思わず愚痴を声に出してしまったことに気付いたが既に遅い。
「一緒に、来い」と片耳を思いっきり引っ張られた。
「痛たったったったた、勘弁してくださいよ」と、ニックはたたらを踏みながらカロルに従う。
 この館の主の誘いだ、断るわけにはいかない。
 そしてカロルはジェラルドの顔を見るなり、
「今度は、何の用だ?」
 礼儀も敬意もあったものではない。
 シモンはカロルのその態度を何時ものように注意しようとしたのだが、
「どうしたのですか、その痣」と、カロルの顔を見るなり体のあちらこちらに出来ている痣を心配する。
 子供の頃から喧嘩の絶えない弟だった。しかも自分より大きい相手にかかるから始末が悪い。
「結婚してまであなたの心配をしなければならないとは、思いませんでした。やはりそろそろ本気であなたのことを心配してくださる方を見つけなければなりませんね」
 話が変な方向に向いてしまうのではと心配するカロル。だがそこに救いの手が差し伸べられた。
「相手は池の少年ですか」とクラークス。
「ああ、強ぇーのなんのって、本気で殴ってきやがんだ」
 相手は幽霊である。どうやってカロルに痣を作ることができるのか疑問だ。だが人間は自分で思い込んだだけで火傷もするのだから、本気で殴られたと思えば痣もできるのだろう。
「相当な腕の持ち主のようですね」
 池の畔で素振りをしているカロルの動きに、無駄がなくなってきていることにクラークスは気づいていた。
「一度、立ち会ってみたいですね」
 クラークスもかなり腕が立つと聞いている、立ち会ったことはないが。
 そこにジェラルドが話しに割って入って来た。
「はな」
「はな?」
「消えた」
 それでカロルは思い当たった。
 数日前のことである。竜木の花を眺めながら、ふと、どうしてこの花は散らないのだろう、などと余計なことを考えてしまった。何時までも咲いた時と同じ状態で存在している。まるでそこだけ時間が止まったかのように。
(皆が、あんなに喜ぶとは思わなかったからさ)
 だが実際少年は、皆が喜んでいるのを感じてはいない。カロルが皆が喜ぶ姿を見て喜んでいるのを感じただけだ。カロルが喜ぶなら。これが真実である。
 だから何時までも咲かせているらしい。
「でもよ、咲いた花が散らないのは不自然だろう」
(咲くこと自体が不自然なのだから、散らなくとも何ら不自然ではない)
 そう少年に言い切られると無条件で納得してしまうカロルだった。
 カロルは慌てて頭を振ると、ちょっ、ちょっと待て。何でここで納得しなけりゃーならねぇーんだ。と自分を鼓舞し、
「咲いたんだから、散るのが当然だ」と言い返した。
(じゃ、わかったよ)
 少年は意外にもすんなり認め消えた。
 そして次の日、花は全て散っていた。
「それで散ってしまったのですか」とがっかりするシモン。
「すまない」と素直に謝るカロル。
 あの時は、まさかこういう展開になるとは思いもよらなかった。
 傍で聞いていると、どことなく不思議な会話だが話している当人たちは誰も不思議には思わない。それほどその少年の存在は、今は彼らの間では当たり前のようになっていた。
「ところでその少年に、白竜について何か尋ねてみましたか」とクラークス。
「ああ、聞いたよ。お前、白竜じゃねぇーのかって。そしたら奴、俺はドラゴンではない。と答えた」
「ドラゴンではないと」とクラークスは首を傾げる。
 もし彼がカロルのイメージを基に会話をしているなら。
「彼、目が見えないのですよね」
「ああ」とカロルは頷く。
「では彼は白竜をどうイメージしたのでしょう」
 人は自分が見ている物は相手も同じ形で見ていると思っているが、実際は違うのではないだろうか。その証拠に、人によって美人の判断が違う。まあ好き好きがあると言ってしまえばそれまでだが、微妙な形の歪みを脳は調整し一括りにしているのではないだろうか。よって誰が見ても同じように見える。だが、あの少年のように他人のイメージで物を見ると、その歪みが調整されず同じものを見ていても見る人によってまるで違う物のように見えるのではないだろうか。竜も我々がイメージする竜は体が丸く首と尾が長く翼がある恐竜のような生物だが、ボイ人やイシュタル人は蛇に手足があるような生物をイメージしている。ある少女に至っては白竜は人間だと言っていた、四次元の感覚に秀でた。よって我々のイメージでお前は白竜かと問いただしたところで、私でも違うと答えるだろう。自分の姿を恐竜や蛇のようにはイメージしていないから。
「まあ別に、どうでもいいのではありませんか。少なくともその少年は、隊長の守り神であることは確かなのですから、おそらくその剣の妖精ですよ」とニック。
 ニックにすれば、そのおこぼれに預かって自分たちも戦場で守ってもらえたのだからこれほど有難いことはない。変に勘ぐってその少年が居なくなってしまう方が問題だ。
「違うと言っていたぞ」
「隊長をからかうためですよ、きっと」
 ニックは難なく問題を解決し、卓上のパイへと手を伸ばした。





 それから数日後、ジェラルドの館に来客があった。その客人とはルカである。数日前からの申し込みだった、出陣する前にどうしてもと言われ。カロルは今日が来るのをボイ人の首のように首を長くして待っていた。ルカを迎えるにあたって、全館の弓矢の撤去から始めるカロル。従僕たちは驚く。弓矢の取り外しの利かない彫刻は彫刻そのものを撤去してしまうか、その形がわからないほどに布を巻き付けたりした。それは念のいったことである。
「どうしてこのようなことを」と侍女の一人。
「これではせっかくの装飾品が」
 長い廊下、ところどころアクセントのように置かれた彫刻は全て布を被ることになった。
「あいつは、弓矢が怖いんだ」
「弓矢が怖いなんて、軍人なのにですか」と疑問を抱く従者たち。
 しかも今はクリンベルク将軍に次ぐネルガルの英雄である。
 シモンもルカのその性格はよく知っていた。まだジェラルドの館はいい、武具が少ないから。父(クリンベルク)は武具を集めるのが趣味だったため、ルカ王子が見えられるときはそれらを片付けるのが一大イベントのような有様だった。
「今でも、そうなのかしら。あの頃はまだお小さくあらせられたから」とシモンは首を傾げる。
「今でもそのようですよ」と答えたのはクラークス。
「あれは、病気なんだよ。こいつがアホと同じぐらいに」と、カロルはジェラルドを肩越しに親指で差しながら言う。
「カロル!」と注意する姉シモン。
 へへっと舌を出しながらカロルは、シモンの間合いの外にさり気なく非難する。
「ナオミ夫人が言っていたんだ、前世でも奴は弓矢を怖がったようだ。もっとも奴の前世がそのナオミ夫人の言う老人なのかどうかは俺には確証がないが」
 神の子は代々弓矢を恐れる。これがナオミ夫人の村の言い伝えだった。
 そして当日、ルカは侍従武官のリンネルと二人のボイ人を従えて現れた。暫く見ない内にルカは少年から青年へ変わろうとしていた。もう私の知っているあどけないルカ王子ではない。身長も伸び声も落ち着いてきている。身長に至っては見上げるようになっていた。
 ルカは挨拶もそこそこに、
「カロル、席を外してくれませんか」と言い出す。
「なっ、何でよ」
「お兄様とじっくり話がしたいのです」
「すりゃいいじゃん。別に俺は、邪魔はしない」
 ルカはじっとカロルを睨みつけた。
「何だよ、その眼。俺の任務はこいつの護衛なんだ」と、この時とばかりにジェラルドの近衛であることを強調した。
「私がお兄様に何かするとでも?」
 ルカにそう言われれば、間違ってもそんなことはあり得ないと確信が持てる以上、カロルは何も言えない。もっともその確信が何処から湧いてくるのか疑問だが。
「カロル、下がりなさい。私も席をはずしますので」とシモン。
 何か身内に関する重要な話なのだろうと、シモンは察した。よって王族でない私たちの出る幕はないと。
「シモン様は居て下さらないと困るのです」と、ルカは退室しようとするシモンを慌てて引き留める。
「あなた様はお兄様の妃なのですから、私の姉でもあります」
「つまり、抜け者は俺だけか」とカロルはふてくされたような態度で言う。
「そうです」
 ルカにはっきりそう言われ、カロルは大股でわざと大きな足音を立てて戸口まで歩くと、思いっきりドアを閉めて出て行った。
「ごっ、ご免なさい、子供で」とシモンが謝る。
「いいえ、悪いのは私の方ですから、カロルさんが怒るのも無理はありません。弓矢、全部片付けてくれたのですね」
「カロルさんが陣頭指揮をとりまして」とクラークス。
「カロルは優しい人ですから、私の話しを聞いて、自分の仕事をおろそかにしてしまうのではないかと思いまして。カロルさんにはお兄様を守っていただかなければなりませんから、余計な心配はかけたくないのです」
 それでカロルをこの部屋から追い出したようだ。そのことからして、話の内容がかなり重大なことだと察したクラークスは、場を奥の部屋へと移した。
「それで、話とは何でしょうか?」とクラークスが切り出す。
 ルカは何から話そうかと一瞬戸惑いながらも、腹をくくってはっきり切り出した。
「今回の戦い、どう計算しても勝てる見込みがないのです」と。
「やはりそうですか。オネスとは一体どのような人物なのですか」とクラークス。
 クラークスもルカと同様、自分の情報網を持っている。でなければこの王宮でジェラルドを守っては行けない。クラークスの情報網もオネスの不思議な戦法を報告して来た。
「断ればいかがですか、先日、御帰還なされたばかりではありませんか。一般の軍人ですら半年は休養が取れます」
「ええ、その方法があるのはわかっております。ですが、誰かが行かなければなりませんから。私が行かなければ別の将軍が、もしその艦隊が全滅すればまた別の将軍が」
「あなたも、勝てる見込みはないのでしょう」
 ルカは暫し沈黙した後、
「一つだけ、確率はかなり低いのですが」
「一つだけ、方法があるのですか」と、体を乗り出さんばかりに問いただしてきたのはシモンだった。
 彼女は軍人の娘、幼少の頃、負けると知りつつも出陣して行った叔父の姿を覚えている。あの時、頭を撫でられた大きな手の感触まで。今までの話しを聞きながら、止めて! と叫びたい気持ちが喉元まで出かかっていた。それを堪えていたのは今現在の自分の立場、今ここで私が見苦しい振る舞いをすれば困るのはルカ王子、ジェラルド様にも迷惑がかかる。ジェラルドの妃でなければとっくに叫んでいるものを。
 ルカはそんなシモンの姿をほほえましく思った。
 何でこんな時に笑えるの、とシモンは疑問に思う。否、怒りすら感じる。
「それでその方法とは」とクラークス。
 あくまでもクラークスは実践的に相談に乗ろうとしている。
「オネスを背後で操っている人物と接触できればの話しです」
「その人物の見当はついているのですか」
 ルカは暫し考え込み、
「おそらくイシュタル人ではないかと思います」
「イシュタル人、あの温厚な」とシモン。
 温厚なとは聞こえのよい表現の仕方で、一般的にイシュタル人はのろまで何を言われてもへらへら笑っているだけで、奴らに脳みそはないのではないかと言うのがネルガル人の評価である。言ってみれば馬鹿の代名詞のようなもので、イシュタル人のようだと言うことは、のろまで役に立たないことを意味する。
「そろそろ我慢も限度に達したのでしょう」とルカ。
「どうやって接触するおつもりですか」
「それが問題なのですが、私は不思議とイシュタル人に好意を持たれているのか、彼らの方から接触して来るのです。今回もそうあってくれればと願っているのですが」
「そっ、そんな、それでは作戦にはなりません」とシモン。
 ルカ王子のことだ、何かよい方法があるのではと期待していたのだが。
「意外に戦場とは、こちらが立てた作戦通りにはいかないものです。どちらかと言えば偶然の連鎖の方が多いようです」
 それでたまたま勝ち残って来た。とルカは言いたいのだが。
「かえって不安にさせてしまったようで申し訳ありません」
 そんな、謝られても。とシモンは戸惑う。
 これ以上シモンさんに心配かけてもと思ったルカは本題に入った。ルカがこの館を訪ねた真の目的は。
「それでお願いがあって伺いました。私は出陣する時、常にボイ人を秘書として連れて行っております。今回も数名連れて行くことになっておりますが、そのボイ人たちを戦闘が終了するまでこの館で預かってはいただけないでしょうか」
「また、それはどうして?」
「本当でしたボイ人全員を自分の館に残していきたいのですが、それではシナカが不審に思います。それでシナカの手前、何時ものように出陣した形を取りたいのです」
 シナカに無用な心配をかけさせないために。
 ルカの腹の内は解った。戻って来られないかもしれない戦い。それにボイ人たちを巻き込む気はないようだ。
「もし私の身に何かあった時は、シナカたちの身をあなたの館で引き受けてはいただけないでしようか。願わくば彼女たちをボイ星に帰しボイ星自体をあなたの支配下に置いてくだされば、あなたでしたら悪いようにはなさらないでしょうから」
 ルカはボイ星全てをジェラルドに託して後の憂いを断とうとしている。
 シモンもクラークスも黙り込んでしまった。ジェラルドもこの場の雰囲気の異常さに気付いたのか、じっとしている。
「頼めないでしょうか。ボイ人たちにはよく言い聞かせておきますので」
 それに返答したのはクラークスでもなければシモンでもなかった。それに答えたのはホルヘだった。
「殿下、少しお待ちください。そこには私も含まれているのでしょうか」
「当然です。あなたもボイ人ですから」
「ではあえて異議を唱えさせていただきます。私だけは連れて行ってもらえませんか」
 ルカは首を横に振った。
「今回は、駄目です」
 だがホルヘも譲らない。
「今回の戦いは」
「ですら、私だけ」と強く言い張るホルヘ。
「ホルヘが行くなら私も」と言い出したのはキネラオ。
「兄さんは駄目です。これは私の仕事です。亡き国王からあなたのことを守るようにと言いつかったのはこの私です。それにこの星にはシナカ様がおられます。殿下や私が亡き後、シナカ様を託せるのは兄さんしかおりません」
「ホルヘ」と苦痛な顔で言うキネラオ。
「駄目です。今回はボイ人は誰も連れて行きません」と言い張るルカ。
「国王の遺言です」とホルヘ。
「どうして義父はそこまでして私を」
「あなたしか、ボイ星を救える方がいないからです」
「私はネルガル人だ。しかもボイ星を滅ぼしてしまったネルガル人の一人なのです」
「国王は息を引き取る寸前まで、あなたを守るようにと仰せでした。最後の言葉に背くわけにはまいりません」
「あなたが居ても居なくとも、私の運命は決まっていると思います」
「そうかもしれません。しかし一つだけ違うものがあります。それは艦隊の士気です。何時もボイ人を連れているあなたの傍にボイ人が一人もいないのでは配下の者たちが不審がります。それでなくとも今回の敵は尋常ではないと既に兵士たちの間では噂になっております。兵士たちを不安がらせては勝てる戦も勝てなくなります」
 ホルヘの言うことは一理ある。ルカは黙り込んでしまった。
「それに私は不忠の者にはなりたくないのです」
 ホルヘもルカと同様、言い出したらきかないほうである。
「私もホルヘも居なくなったら、シナカが悲しみます。シナカはあなたのことが好きだったのですよ、ご存じないのですか」
「それはあなたが現れる前のことです」
 今はシナカの気持ちが自分にないことをホルヘは知っている。
 ルカは大きな溜息を吐くと、ホルヘを説得するのをやめそのバトンをキネラオに投げた。
「キネラオさん、あなたの口からホルヘさんを説得してはもらえませんか」
「無理だと思います。弟はこういう気性ですから」
 ルカよりホルヘとの付き合いが長いキネラオは、ルカ以上にホルヘの性格を知っていた。
「ボイには、シナカがおります」
 ホルヘの断固とした言葉。
 とうとうルカは説得を諦めた。
「わかりました。あなただけ連れて行きましょう」
「下手な小細工はなしですよ」とホルヘ。
 ルカが最後の最後まで諦めないということは知っている。最後に艦船からカプセルかなにかではじき出されては意味がない。
 ルカは苦笑する。
「小細工はしません。一緒に行きましょう。そして負けても何らかのデーターは残しましよう。今後の戦闘の参考資料になるように」
 ルカはジェラルドの方に向き直ると、
「お兄様、そのデーターを基に彼らに対する防御をお考えください。出来ることなら彼らとは戦うことなく和解された方が、四次元を自由に操ることのできる彼らと戦ったところで戦いにはならないでしょう。おそらく一方的な殺戮。白竜伝説の再来です。あの伝説は我々ネルガル人にとっては悪魔の到来ですが、イシュタル人にとっては神の降臨です。同じ物語なのに真逆の意味を持つ、面白い伝説です。伝説や神話とは過去に何かがあって、それを忘れないために物語にして後世に語り継いだと言われております、教訓のために。我々ネルガル人はその教訓を忘れかけているのではないでしょうか。白竜伝説をただの作り話だと思っている人が多いようです」
 現にクラークスたちもルカに言われるまではよくできた作り話だと思っていた。
「今現在、玩具として売買されているイシュタル人を全員イシュタル星に帰し、二度とあの星には近づかないことです。それがネルガル星のためだと私は思います」
「ルカ、今度は何処へ行くのだ?」と尋ねて来たのはジェラルド。
「ジェラルド様、ルカ王子はまた戦場に赴くそうです。その間、シナカ様がお一人では寂しいのでこの館に遊びにみえられるそうです」と、クラークスはジェラルドにも解りやすいように説明する。
 ジェラルドは大きく頷いた。まるで後のことは任せておけとばかりに。
「迎えに来るのだろう。では、ルカが迎えに来るまでシナカと遊んでいる」
 この人はわかっているのだろうか、とシモンは思った。もしルカ王子が迎えに来なかったら彼女を永遠に預かると言うことを。それを理解して今の言葉を発したのだろうか。
「有難うございます」とルカは深々と頭を下げる。
「ホルヘ」とキネラオが例えようのない顔をして呼びかける。
 ほっておけば、やはり私が殿下の護衛に、と今にも言い出しそうだ。
「兄さん、私は見たいのです。私たちの神が真実を語っていると言う証を。そうでなければ神を信じて死んでいった国王や父が哀れです」
「神が語ったとは?」
 ルカもこれは初めて聞いた。
「神のお告げがあったのです。神の存在を信じない殿下には内緒にしておりましたが」と語り始めたのはキネラオ。
「ボイ星を守ってくれる者がネルガルから来ると言う。その方を守りなさいと」
「それで私を、命がけで」
 ルカは驚いたと言うより、呆れたという顔をした。
「馬鹿な、それこそ迷信です」
 やはりルカはこの手の話を一切信じない。
「あなたは死にません」と断言したのはホルヘだった。
「あなたには白竜様が付いておられます。例えあなたが引き連れて行った宇宙艦隊が殲滅しても、あなただけは生き残ります。私はそれが見たいのです。そして天国の父に報告するのです。確かにあなた方の死は無駄ではなかったと。あなたは生き残り、必ずボイ星を昔のボイ星のようにしてくださる」
「私は、ただの人間ですよ」
「それを確認したいのです、この目で」
 ルカはやれやれという顔をしながらも、
「白竜はネルガル人にとっては悪魔です」
「ですが、ボイ人にとっては神です。そしてオネスの背後にイシュタル人が居るのなら、そのイシュタル人にとっても神ですね。白竜様はどう出られると思いますか」
 ホルヘにそう問いかけられルカは考え込む。
「それを見るだけでも面白いと思いませんか。白竜様は殿下とボイ人とオネスの背後に居ると言うイシュタル人と、誰を一番大事だと思うのでしょうか」
「ホルヘ、それはあまりにも不謹慎と言うものではないですか」とキネラオ。
「そうかもしれませんね。でも私は見たいのです、白竜様が何をお考えなのか」
 今度はキネラオが呆れた顔をした。
「そろそろカロルを呼び入れましょう。廊下を徘徊しているようですから」と言い出したのはルカ。
 ここら辺で話を切り上げたいから、このまま続けたのでは訳がわからなくなる。
「廊下にいるのですか」とシモン。
「先ほどから聞き耳を立てているようですよ」
 何故かルカにはカロルの様子がわかった。
「ですが、声が外に漏れるようなことはありませんが」とクラークス。
「ですから、そろそろ限界に達したらしく徘徊を始めたのです」
「まぁー」とシモン。
 弟のことながら、こちらの顔が赤くなるのを感じた。
 奥の部屋から出てきたルカたちは、廊下に通じる扉を睨んだ。
「私が開けましょう」とホルヘ。
「気を付けてください。狂犬化している恐れがありますから、噛み付かれないように」
 シモンの顔は恥ずかしさのあまりますます赤くなった。
 案の定、扉が開くや否や、カロルが飛び込んで来た。だがカロルは、噛み付く相手を間違えなかった。室内に居る誰にも目をくれずルカの前に攻めよると、
「俺だけ抜け者にして何の話だったんだよ」
 ここぞとばかりに怒りをぶつける。
「決まっているではありませんか、あなたがよくやっているかどうか、お兄様に尋ねに来たのです」
「こっ、こいつに」とカロルはジェラルドを肩越しに親指で指し示し、渋い顔をした。
 こいつに訊いたのではろくな返事はしなかろう。なぜならば何時もカロルはジェラルドをじゃけに扱っていたから。
「良くしてくださっているようですね、馬になったりしているとか」
「ちょっ、ちっと待て。それ、こいつが言ったのか」
 ルカは笑って誤魔化した。それらの話しはこの部屋に来る途中、侍女たちに聞いたのである。
「それより、剣の腕をあげたそうですね」
 これは先程クラークスから聞いた。
「どうですか一本、お相手いたしましょうか」
 カロルはルカのその言いように少しむっとしながらも、ルカに腕をあげたと言われては照れも入り、カロルらしくないことを言う。
「とうせお前、俺が昔のままだと思っているんだろー。ただ棒切れを振り回すだけの剣術だと」
「思っていますよ」とルカはカロルの気持ちを察知してか即答した。
「てっ、てめぇー。てめぇーには少しは遠慮というものがねぇーのか」
「遠慮?」とルカは首を傾げる。
「俺は謙遜して言ったんだ。せめて、そんなことはないでしょうとかなんとか言えねぇーのか」
「けっ、謙遜ですか」
 ルカは世にも不思議な言葉を不思議な生き物から聞いたという顔をした。
「まさかカロルさんの口から、そのような言葉が出るとは思いもよりませんでした。宇宙は広いと言いますがこれほど不思議な現象を見ることもないでしょう。否、もっと長生きすればもっと面白い言葉が聞けるかもしれませんね。例えば尊敬とかジェラルド様とかルカ様とか」
「てってめぇー、人をおちょくるのもいい加減にしろよ。いいか、よーく耳の穴かっぽじって聞いておけ。最後の言葉だけは死んでも俺は口にしねぇー」
 シモンたちはついに笑いが堪えきれず噴き出してしまった。
「おもてに出ろ、その生意気な面を叩きのめしてやるから」
 そこには尊敬も敬意もなかった。だがカロルがルカを思う思いとルカがカロルを思う思いは部屋中に満ちていた。
「カロル、ルカ王子様は足が不自由なのですよ」と忠告するシモン。
「手加減は無用です」とルカ。
「こいつがこう言うんだ、手加減などしたらそれこそ天罰が下る」
 今度こそこいつをぶちのめして、その生意気な態度を謝らせてみせる。
 中庭で対峙した二人は、
「いいか、負けたら二度とあのような生意気な口は利きませんと、俺に土下座しろ」
「それは、あなたが勝った場合でしょ。私が勝ったらどうします」
 カロルは暫し黙り込み、
「よし、わかった。お前が勝ったら宇宙一不思議だと言う言葉を吐いてやろうじゃないか」
「勘違いしないでください。言葉が不思議なのではありませんよ、あなたの口から出るから不思議なのですよ。まるで吸い込む一方だと思い込んでいたブラックホールから宇宙船が飛び出して来たような」
「煩せぇー、黙れ」
 心拍数は絶好調。まるでこの言い合いが二人の準備体操だとでも言うように。
 ルカには口では勝てないカロルは、ルカからもらった剣を抜刀した。
「御託はもういい、勝負だ」
「いいでしょう」
 ルカもボイに婿入りする時皇帝から拝領した剣を鞘から引き抜いた。あの時は剣が大きすぎて帯剣できなかったが、今ではしっくりとルカの腰に納まっている。もっとも使いやすいようにボイ人の手で打ち直してはあるが。しかしこの剣で人を殺めたことはまだない。総司令官が剣を抜いて戦うようではその戦は負けである。
「真剣ですか」と驚くクラークスを尻目に、
「いくぞ」
 カロルは思いっきり踏み込んだ。右へ左へと数回、だがルカはことごとく交わしていく。
「なっ!」
 以前より数段腕を上げたつもり、だたっのだが。
 確かに見ている方は驚きだった。
「早い」とリンネル。
 その動き、既にリンネルの知っているカロル坊ちゃんではなかった。
「一体あの剣技は?」
 クラークスにすれば初めて目にする技の連続だった。
「レスターが殿下に伝授した技です、護身用にと」
 レスターはルカ以外の者と手合せすることはほとんどなかった。
「しかしカロル坊ちゃんは何方から習われたのでしょうか」
 レスター以外にもあのような技を使う者が居たのだろうか。
 リンネル・カスパロフ大佐のその問いに、クラークスはどう答えてよいか戸惑った。未だに自分でも信じがたいのだが、これは事実である。この技をカロルは池の幽霊から伝授されたことは。
「それが」と言いよどむクラークス。
 だがリンネルもクラークスも目は、ルカとカロルの動きにくぎ付けである。少しでも目を離せば、二人の動きは追えない。それほどまでに見ている方も緊張を強いさせる試合である。真剣だ、一歩間違えば。
「無駄のない動きだ」
 ここまで洗練出来るのかと思えるほどに。既にあの二人、目や耳で相手を捉えているのではないだろう。研ぎ澄まされた感覚で相手が打ち込んでくる前にその動きを捉えている。相手の呼吸で次の動きがわかるような、さもなければあれだけの動きはできない。
「やはり、ルカ王子の方に分がありそうですね」と言い出したのはクラークス。
 次第にカロルには疲れが見え始めて来たようだ、カロルの動きが鈍り始めた。
 その時、二人の動きが止まった。カロルの首筋にルカの剣。
「勝負があったようですね」とクラークス。
「まだだ」と言ったのはカロル。
 ルカの剣を払いのけるや踏み込んできた。それをルカは難なく交わす。
「俺がお前から一本取るまでは、終わりにしない」
 カロルは肩で息をしながら言う。
「それ、本気で言っているのですか」
「もー、手加減しない」
 ルカにしてみれば手加減されているような気はしなかったが。
 だが疲れは次第にカロルの剣裁きを雑にしていった。大振りをするたびにルカに一本取られる。
「カロル、もう止めなさい。あなたの負けです」とシモン。
 カロルはぐっと唇を噛みしめた。わかっていた、どうやってもこいつの方がまだ数段上であることは。強くなれば強くなるほどこいつの強さがわかる。リンネルがルカに従うようになっていた意味も。リンネル大佐は命令されたからルカに従っているのではない。自分より強い相手に出会え喜びを感じたから従っているのだ。そして俺も、こいつにだけは勝てない。否、何時かは必ず。
 カロルは地面に両膝を付き土下座をしようとした。その時、ルカが走り寄る。
「カロル、そんなことする必要はない」
「約束だからな」 今は負けを認めよう。
 ルカは大きく首を横に振ると、
「強くなりました」
「だがお前にはかなわない」
 ルカはまた首を横に振ると、
「まだ鍛練の途中だからです。カロルはもっと強くなる、私よりも」
 私は鍛練したくとももう直できなくなるかもしれない。
 ルカはカロルの両肩を両手でしっかり掴むと、
「カロル、ジェラルドお兄様のことを頼みます。あなたのその腕でしっかり守ってやってください」
「お前に言われなくとも、これは俺の仕事だからな」
 ジェラルドの護衛、これがカロルの任務である。
 ルカは大きく頷くと立ち上がり、
「では、そろそろ」
「もう帰るのか?」
「出陣の準備をしなければなりませんから」
「俺がこの技、誰から教わったか知りたいとは思わないか?」
「レスターさんからではないのですか?」
 時折レスターがカロルをからかっているのを見かけたことがあった。人間嫌いのあのレスターが不思議とカロルにはちょっかいを出した。それほどカロルは人から好かれる性格なのだ。
「違う。俺にこの技を教えたのは幽霊だ」
「レスターの?」
 ルカは今でもレスターが死んだことを受け入れられないでいる。頭では理解しても心が。幽霊でもいい傍に居て欲しいと。
「違う。来いよ、居るかもしれない」
 こいつなら、もしかするとあの幽霊が見えるかもしれない。カロルはそんな気がしてルカを件の池の畔へと連れて行く。池の淵に立つとカロルは大声で怒鳴った。
「おーい、居るんだろー。出て来いよ」
 だが池は何の反応も示さない。
「おかしいな、何時もあそこら辺で寝ているのに」と、カロルは池の中ほどを指し示す。
「あそこら辺て、池の中ではありませんか」
「あいつ、何時もあそこら辺でぷかぷか浮いているんだよ、土左衛門のようにな。あいつきっと川かなんかで溺れて死んだんだぞな」と、かってに決めつけるカロル。
 ルカは呆れた顔をすると、カロルの目の前で手を振って見せた。
「大丈夫ですかカロル。さっきの試合で頭でも打ちましたか。私は叩いたつもりはなかったのですが。これ、何本に見えます?」と、ルカは指を一本カロルの目の前に立てて見せる。
 カロルはそのルカの手首を握ると、
「俺は正気だ」
「では、ジェラルドお兄様の真似などなさらないでください。心配になるではありませんか」
「だから俺は正気だと言っているだろー。ニックだって見ているんだ」と、カロルはニックを指さす。
「ニックさんが?」と、ルカはいつもカロルに付き従ってカロルの行き過ぎた行動を忠告している、言わばお目付け役のニックに目を止めた。
 ニックはカロルにいきなり振られどう答えてよいか迷ったが頷く。確かに自分も一度だけ、その幽霊だか精霊だかわからないものを見ているのは事実だ。ニックトしては触らぬ神に祟りなし、できるだけあの少年とはかかわりを持ちたくないのだが、事実は事実だった。クワバラ、クワバラと心の中で魔除けの呪文を唱える。
「わかりました。そんなに言うのでしたら調べてみましょう」
「調べるって?」
「どうですか、あそこの水草の茂っている所まで競争しませんか」
「競争って、この寒中にか」と、カロルは想像しただけで寒さで身震いした。
「もう春ですよ、そんなに寒くはありません。それにいい汗をかいたからシャワー代わりに丁度よいではありませんか」
「おめぇーはただ泳ぎたいだけなんだろー。寒かろうと暑かろうと池を見ると直ぐに飛び込みたくなるところなんか、昔とちっとも変らないな」
「そう言うあなたは、負けるのが怖くて競争したくないのでしょう。もう私は昔のチビルカではありませんからね」
 ルカは水泳だけはカロルにかなわなかった。七歳の年の差は体格にはっきりあらわれた。水をかく時の力が違う。だが今は身長も伸びカロルを抜く勢いである。
「いいだろう、そこまで言われて勝負を投げては男の面子にかかわる」
「もし幽霊がいるなら、途中で足でも引っ張るでしょうから」とルカ。
「おい、変なこと言うなよ」
 ルカはさっさと服を抜き始めた。カロルも後に続く。ルカがパンツまで抜こうとした時、
「おいルカ、そこまで裸になるな、姉貴が居るんだ」
 ルカは慌ててパンツをあげる。
「おい、真っ裸で泳ぐ気だったのか。もうガキじゃねぇーんだぞ。何考えてんだよ。お前、昔とちっとも変わんねぇーな」
 今回まともだったのはカロルの方だった。
 ルカは恥ずかしかったのかさっさと池に飛び込む。
「おい、先に飛び込むとは卑怯だぞ」
「ハンディです。私の方が小さいのですから」
 以前はそうだった。何時もルカを先にやってから後からカロルが抜くパターンだ。
「どこが、もう身長はかわんねぇーだろーが」と、カロルも後を追うように飛び込む。
 水は意外に暖かかった。
「ニックさん、バスタオルを持って来てくれませんか。それとお風呂の用意を」
「畏まりました」
 ニックが去るのを見届けて、
「ルカ王子は自分を囮にしてオネスの戦法を調べようとしているのでしようか」とクラークス。
「そのデーターをあなたに活用していただきたいのです。今後のネルガルのために。出来ることならイシュタル人と和解を」とリンネル。
 イシュタル人と戦っても今のネルガルの科学力では勝てないというのがルカの結論だった。
 その内二人が戻って来た。やはり水泳はまだカロルの方が少し上のようである。
「へぇへぇー、まだまだ行けるぜ」
 カロルはルカに勝ったことがよほど嬉しかったのか、飛び跳ねて喜ぶが足はふら付いているようだ。
「やっぱりカロルにはかないませんね」と言いながら池からあがってくるルカの呼吸は、乱れてはいなかった。
「こっ、こいつ。まだ余裕がある」
 ホルヘがそっとニックの用意してくれたバスタオルをルカの肩に掛けた。
 抜けるような白い肌は、ボイであれだけの負傷をしたにもかかわらず傷跡一つ残っていない。これにはクラークスも驚いた。小惑星への激突、その衝撃は相当なもので艦内は見る影もなかったようだ。いくら大佐やハルガンがルカ王子を体で庇ったとはいえ、救出されたルカ王子は血で真っ赤に染まった肉の塊、生きているとは到底思えなかった。それが、今のこのお姿からは想像もつかない。まるであの戦争は夢ででもあったかのようにルカ王子の体には何一つ痕跡がない。唯一あるとすれば少し引きずるようにして歩く足。だがそれすら医学的には完治していると言われている。否、それどころか骨が飛び出していたほどの複雑骨折をしながら、骨折した跡すら残っていないらしい。オリガー軍医に言わせれば、いくら復元力があるとはいえ、ここまで完治する生き物はかつて見たことがない。どんな動物でも折れた骨が完治すればその部分は他の所より太くなるはずだ。ところがルカ王子の場合は、そんなことがなかったかのようにきれいに復元されているのだ。まるで新しい骨に入れ替えたかのように。では、足を引きずるのはどうしてでしょう。と問うた私にオリガーが答えたのは、精神的なものだろう。おそらく罪悪感。我が子のように可愛がってくれた義父母を目の前で処刑されたのだ。そしてその刑を命じたのは実父。いくら気丈に振る舞っていても十歳という年齢はあまりにも幼すぎた。辛うじて正気を保てたのはシナカ王女の献身的な愛があってのこと。彼女からすれば実父母、その実父母を処刑されながらもルカ王子を見捨てなかった。私は彼女には頭があがらない。と言ったのはオリガーだった。あの時シナカ王女が居なければ今のルカ王子は存在しない。事実私も、あの時のシナカ王女の献身的な看病の姿は目に焼き付いて離れない。ルカ王子が他の令嬢に目もくれないのもわかる。
 不思議に感じたのはカロルも同じようだ。ルカが服を着ている間、カロルはじっとルカを見詰めていた。
「何、じろじろ見ているのですか」
 ルカにそう言われ、カロルは慌てて目を逸らす。
「お前さ、あれだけの傷を負いながら、どうしてそんなにきれいに治っちまったんだ。俺なんか、大した傷じゃねぇーのに」と、カロルは負傷した傷跡を見せる。
 そこにはプラスターで焼かれた跡、他にも数か所あった。
「戦場に行くたびに一つずつ増えていくよ。薄くはなっても消えないからな。だがお前は」
 カロルは黙り込む。
「やっぱりこいつ、人間じゃないんじゃないのか」と呟く。
「何か、言いましたか?」
「特異体質だなんて言うけどよ」
「復元力が人一倍強いのですよ」
 いくらカロルが能天気だとはいえ、それだけでは説明がつかないことぐらいわかる。ルカの肉体はまるで戦場を知らない。それどころかシミ一つない肌、生まれた時に保育器に入れられ無菌状態で今まで育てられたような、外気に一切触れたことがないような。でなければ十五年間も生まれたままの肌を保ち続けることはできない。
「しかしそれにしちゃ、その痣は消えないんだな」
 胸にくっきりと残る黒々とした痣。ナオミ夫人の村ではこれが神の証だと言うが。肌が白い分、痛々しくて見ていられない。
「そう言えば、その幽霊も同じ痣があるんだ。しかも同じところに」
 それに反応したのはリンネルだった。以前白蛇の化身ヨウカに言われたことがある。ルカは影で実体が居ると。その実体に痣があるからルカにもあるのだと。
「カロル坊ちゃん、それは本当なのですか」
「リンネル、いい加減坊ちゃんはよしてくれ」
 クリンベルク家に仕えていたリンネルはカロルのことをそう呼んでいた。そしてその癖は今でも。
「ああ、確かに同じところに同じような痣があった。本人は知らなかったようだが」
「知らない?」とリンネルが不思議そうな顔をする。
「ああ、目が見えないらしい」
「目が見えないのですか」
「幽霊だからな。そういうこともあるのだろう。だが不自由はしていないようだ。第一壁にぶつかるということをあいつは知らない。なんせ壁を通り抜けちまうんだからな。人がドアを開けてやろうと思えば、もう中に居やがる」
 リンネルは黙り込んでしまった。主様は肉体は三次元にありながらも四次元におられる。よって肉体で三次元を感知することはできない。そのために影が必要なのだと。これがヨウカの説明だった。主様が本体で殿下はヨウカが主様と呼ぶ人物の影。だが私にとってはその影こそが本体。
 着替えが済んだルカは急に立ち出すと池の畔に佇む。
「おい、どうしたんだ」とカロルが慌てて後を追う。
 ルカはおもむろに笛を取り出すと吹き始めた。
 竜の子守歌。
 この行為は私の意思なのだろうか、それともエルシアの。何故、急に笛が吹きたくなったのだろうか。
 美しい旋律が水面を優しく撫でる。ちょうど母親が生まれたばかりの赤子を優しく撫で寝かしつけるように。
 一曲終わったところでシモンが、
「もう少し聞いていたいのですが、お風邪をお召しになるといけませんので」と声をかけた。
 出陣前、体調だけでも万全を期さなければ。これがせめて傍に居る者のできること。
「お風呂を用意いたしましたので」
 ルカが風呂好きなのは誰もが知っていた。
「お風呂ですか」
 もうそろそろ帰って艦船の点検をと思っていたところに。
「体もすっかり冷えてしまったし」と迷うルカ。
「おふろ、おふろ。みんなで入ろう」とジェラルド。
「ルカも、ホルヘも、キネも」と、子供のようにはしゃぐ。
 しかもキネラオまでは言えないようだ。
「カロルに背中、流させる」
「あっ? ちょっと待て、俺はおめぇーの下僕じゃねぇー」
「カロル、せなか、せなか」
「それはいい考えですね、お兄様」
「ルカ、てめぇーまで」
 そうしょう、そうしょう。とジェラルドは先頭を切って歩き出す。こうなっては誰にも止められない。どうやらカロルは重宝に使われているようだ。
「おい。ルカ。覚えておけよ」
 ホルヘは独り首を傾げていた。ジェラルド王子のこの振る舞い。殿下は芝居だと仰るが、私にはそうは見えない。
 結局、皆で風呂に入り、ルカはのぼせて出て来た。否、出られなくなりキネラオとホルヘに抱え込まれ脱水上まで運ばれるはめになった。
 心配そうに覗き込むジェラルド。だがカロルはあっさりしたものだ。
「こいつ、昔とちっとも変らねぇー。ボイでもこうだったのか」
 濡れたタオルで火照った頬を冷やしてやりながら、ボイ人たちは頷く。
「まったく、ネルガル人の恥さらしめ」
 カロルにだけは言われたくない台詞である。
 早く帰るつもりが、最終的に夕飯まで御馳走になることになった。
「いけない、シナカが心配しているかも」
 今頃気づいたルカ。
「シナカ様には連絡しておきました。シナカ様からのご伝言です。久しぶりにお会いなさるのですから、充分に甘えて来てください。とのことです」
「シッ、シナカが」とルカは顔を赤くする。
 ルカか唯一気を許して話す相手がジェラルドであることをシナカは知っていた。
「何でもご存じなのですね、シナカ様は」と少し羨ましそうに言うシモン。
「随分、ゆっくりしてしまいました」
「ゆっくりついでにこれを、シナカ様へ」とシモンは自分の好物の菓子をルカに手渡す。
 わざわざジェラルドが某惑星から取り寄せてくれた菓子である。毒が混入されている恐れがあるため、食べ物のやり取りはあまり好まれないのだが。
「喜んでいただきます」
「一応調べたのですが、くれぐれも注意してください」
 食べる前にはもう一度検査してほしいとシモンは付け加えた。





 一方トリスたちは、
「ちょっと行ってくるが、何時になったら戻って来るんだ」と、ブウブウ文句をいいながらルカぬきで艦船の最終点検に入っていた。
 そこへ、来てください。とケリンを呼びに来た者がいる。付いて行ってみるとそこは機関室、中でフェリスが待っていた。
「見てください、これを」
「何だ、これは?」
「旧式の自爆装置ですよ。おそらく動力が動くと同時にスイッチが入り、千キロか二千キロ行ったところで自爆するようにセットされているのでしょう」
 同じ元情報部とはいえ、ケリンが情報操作に長けていたのに対しフェリスは実践的な工作の方に長けていた。
「もう一度自己診断のプログラムを走らせたほうがよさそうだな。それとクモによる外部診断もだ」
 クモとはもともと敵要塞の偵察や破壊工作に使われる昆虫型の小型ロボットである。逆に考えれば自己内部の探索にも使える。
「フェリス、この装置を取り外してくれ。トリス、犯人の割り出しだ」
「殿下には?」と問うトリスに対し、
「わざわざ知らせることもないだろう。知らないで済むならその方がいい」
 そして数日後、一人の男が機関室に呼び出された。
「この装置に身に覚えは」と問うケリンに、男は、
「知らない」と白を切る。
「誰に命令されたのだ?」
「だから私は」と言い張る男。
「知らないと言う訳か。王族殺しはその場で死罪だ、例え未遂であっても。この船が誰の船かは知っているだろう」
 男は黙り込む。
「知っているから仕掛けたんだろーが」とトリスが茶々を入れる。
「私には身に覚えがない」
「そうか、わかった」とフェリスはいきなりプラスターを抜くと、男の眉間を撃ちぬいてしまった。
「フェリス!」と、咎めるトリス。
「一人のはずはない、仲間が居るはずだ。仲間を吐かせなくってよかったのか」
「どうせ聞いたところで言うまい、時間の無駄だ。それよりもオネス攻略の方に時間を割いたようが得策だ」
 出陣を控えているのだ、それもどんな戦法を使うのか解らない相手の。こんなことで時間を無駄にはしたくない。
「それに言われたところで、俺たちの手の出るような相手ではない」
 ケリンもフェリスも既に依頼人の目星は付けていた。
「そうだな」とトリスも納得する。
 どうやらトリスも気付いているようだ。
「だが、仲間はまだ居るぜ」
「こいつの遺体を見ればここを去るだろう。もし、また何か仕掛けるようならその時は」
 容赦はしないということらしい。疑わしき者は罰する。これがここのルールだ。
「そうだな、しかしフェリス、お前意外と気が短けぇーんだな」
「今までレスターとか言う人がやっていたのだろー、今度は俺が代わってやる、例え殿下に嫌われても。あなた等が手を汚すことはない。あなた等は殿下の傍に付いていてやれ。ああ見えて意外に弱いところがおありのようだから」
 ケリンたちよりもルカとの付き合いは短い。だが浅いが故に弱点もよく見える。殿下は大胆に振る舞う割には完璧主義だ。故にそれが崩れた時は。
「しかし、もう少し早く計算できねぇーものかな。要は相手が出現する前に四次元ポケットが開く位置がわかればいいんだろう」とトリス。
 今ケリンが一生懸命コンピューターを改造しているのはそのところである。宇宙に進出してコンピューターも電子の時代から光子の時代へと移行した。だがそれでもテレポートの速度にはかなわない。






 そしていよいよ出陣の日。多くの観衆に見守られルカは宇宙港へと向かうシャトルに乗り込む。今回ルカに与えられた艦隊は、第10宇宙艦隊と第14宇宙艦隊、それに第15宇宙艦隊だった。五百の敵に対しその三倍以上、数としては十分だ。だが、どれもこれも少し前までは屑と呼ばわれていた艦隊である。今はその実力は認めるものの、今度は司令官の言うことを聞かないと嫌われるようになった。まあ、もともと言うことを聞くような連中ではなかったのだが、今は実力があるだけに始末が悪くなった。結局、上層部としては彼らが居ない方が軍隊はまとまるという結論に達したようだ。全滅しても欲しくない艦隊、それが今回ルカに与えられた艦隊だった。


 シナカはその出陣の様子を館のバルコニーから眺めていた。数千というシャトルがその機体を銀色に輝かせ、まるで滝が逆流しているかのように大気圏外へと流れる。
「いつも思うのです。どれだけの方が無事に戻って来てくださるのかと」
 無論その中にはルカも含まれている。
「妃様」とルイはシナカに寄り添うように立ち、同じ光景を眺める。
 どうか、御無事で。妃様のためにも。祈らずにはいられない。
 胸に手を合わせ、ふと隣に立つシナカを見ると、空を見上げているシナカの目に涙が一筋。
「どうなさいました、妃様」
 何時もにないシナカの寂しげな横顔に、ルイは巷の噂を思い出す。この度の戦い、それはこの館まで聞こえていた。その噂を敢えて否定する勇気もなかった。否、そんなことをすれば余計に心配をかけさせることになる。よってルイは何時もの通りにはげます。
「大丈夫ですよ、何時ものように元気なお姿で戻られます。くだらないお土産を買って」
 ルカの買って来るものは決してくだらない物ではない。それどころかかなり高価な物である。しかしルカが生きて帰って来てくれることに比べれば、シナカとルイにとっては全てが無用な品である。

 出陣前は恒例の館をあげての無礼講だった。さすがに一兵卒まで呼ぶわけにはいかないが、それでも下士官までは挫かなにかで選ばれて来る。中には王族の館はおろか、貴族の館すら入ったことのない者もおり、かなり緊張している者もいるがその緊張もトリスの裸踊りを見た暁には、もうどうでもよくなっていた。飲め、飲めの大合唱。アルコールがまわればルカの館もすっかり我が家。地対空ミサイルでも要塞砲でも持って来い。気分はこの銀河よりも大きく膨れ上がっていた。無論、ここに来られなかった者たちにもそれなりに宇宙港の近くの酒場で振る舞われている、この館ほどの美酒にはありつけないが。
 そんな中、ルカは早めに一人切り上げシナカと静かな夜を迎える。昨夜は何時になく優しかったような気がする。
「やっとキスをするのに、台に乗らず背伸びをするだけで済むようになりました」と、照れ臭そうに言うルカ。
 以前はトリスがかってにキス補助係という役職を作り、踏み台を持ち歩いていた。
「トリスの役を閑職にしなければ。今度戻って来たときは、背伸びもしなくて済むぐらいに成長していますから期待していて下さい」などと、不安がる私の気持ちをさっしたのか、笑わせてくれた。
 シナカはゆっくりルイの方に振り向くと、
「ねぇ、ルイ。殿下はもしかすると私のせいで、私が居るせいで、こんなに何回も出陣しなければならないのではないでしょうか。私がこの館に居るばかりに、私がここに居なければ」
「奥方様、そんなことはありません」と強く否定したのは、同じボイ星での戦役を潜り抜けて来たルカの親衛隊。
 その時の怪我がもとで左半身に麻痺が残り、後を預かることになった。
「あの時、奥方様がいらっしゃらなければ、殿下は生きてはおりませんでした。今こうして生きておられるのも奥方様がお傍にいらっしゃるからです。そのようなことは二度とお口にされては、否、お考えになられることも。それよりご無事でお戻りになられるように祈りましょう」
 人は思いの限界に達した時、ただ祈ることしかできない。例え神など信じていなくとも。

 どうか、御無事で御帰還ください。
2013-04-07 00:32:43公開 / 作者:土塔 美和
■この作品の著作権は土塔 美和さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 今日は。続き書いてみました。お付き合い下されば幸いです。感想、お待ちしております。
この作品に対する感想 - 昇順
感想記事の投稿は現在ありません。
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。