『鬼灯堂』作者:higeotoko / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
その古本屋の本を手に入れると願いが叶う、しかし、幸せにはなりにくい。そんな噂が学校で広まっていた。学生である八代美奈はやがてこの噂に巻き込まれてゆく。
全角19054.5文字
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第一話 裏側

 ねぇねぇ、知ってる?ほら、あの古本屋の本を手に入れると願いが叶うんだって。
 鬼灯堂の話よ
 ほら、何時も閉まってる、あの街角のさ。知らない?夕方になるとたまにあいているらしい。でもね、幸せにはなりにくいの

 そんな、話だった。
 高校生というのは常に刺激に貪欲だ。どんなに下らない事でも、噂はすぐに広るようにできている。何をやっても不完全燃焼、そんな年頃。だからこそ少しでも面白い匂いがするとソレを逃すまいと過敏に飛びつく。
 でも、その話題のあり方はかけ流しなのだ。熱しやすく、また冷めやすく、忙しなく新しい熱が流れては消えてゆく。きっと早送りされる青春を高校生は何倍速もで過ごしている。だから、そんな中でも根強く留まり続けるこの話題はとても異色だった。
「鬼灯堂」
 いつも閉まっている街角の古本屋、なんでもソコに行くと願いが叶う本が置いてあるらしい。ただし、幸せになりにくい。そんな話。
 怪談というには緩過ぎ、夢というには少し現実寄りに重すぎる。どのような偶然か、そんな適度な固さと重さを兼ね備えたこの話題に、どうやら本気になる生徒がちらほらと現れ始めた。望みと現実が程よく混ざったそれは、高校生の大好物だったのだ。しかもこの街の古本屋というところ、巧妙に噂が半分現実として食い込んでいるのだから性質が悪い。信じているわけではないが少しだけ心が弾む。そう、矢代美奈は思った。
 八代は高校生になってからカラオケやボーリングといったところに行った事がない。興味がないわけではない。純粋に、ただ行く機会がなかった。
 別に彼女の自己主張が弱いわけではない、むしろ魅力的で活発な人間であると、彼女を知る友人達は言うだろう。八代自身、その他大勢に薄れて仕舞わない程の濃さは持っていると自負していた。だが、彼女は少し人見知りであった。それもまた八代自身も自覚していることだった。
 友達を作るのが少し遅かったのだ。そう、ただ友達を作るのが遅いだけ。遅いといってもそれは他と比べてみても3日4日といった僅かな差でしかない。別に生きていく上ではまったく問題のない小さな課題だ。そこまで急ぐ必要もない。そう彼女は思っていた。
 だがそれは大きな誤算であった。
 高校生。この世界は異常にスムーズに流れていた。八代という少女は、何かに急かされるように集まり、急速に固まってゆく女子校生のパーティに入りそこねてしまったのだ。まるで瞬間接着剤である。思っている以上に彼女達は強固に、そして粘着的に繋がり、隙間を塞いでいた。
 皆、早送りされる世界を上手く立ち回るものだ、と八代は驚いた。高校生は、どこうにも当てはまらない変なトコだ。恐らく、人生の中で一番。
 そう批難したところで高校生活が変わるわけでもない。幸いな事に八代は人付き合いが苦手なわけではなかった。遅れながらも数人の友達は出来た。ただグループに入り損ねてしまったので、八代は昼休みの昼食の時に一人でいることが多かった。
 そして今は昼休み、珍しいことに今日は八代の隣に女子がいた。
「で、八代はどう思う?この噂」
 机を挟んで正面にいる少女は、そう、話を続ける。先ほどからその今話題の「鬼灯堂」の話をしていた少女。整った顔立ちに、眉の上と腰の中ほどでぴちりと切りそろえられた長髪。こんな髪型、造型が美しく出来ているから許されるのだ、と八代は思っていた。
 何故か異性より同性に対して、蟲惑な色香を纏っている。着物を着せたらさぞ似合うことだろう。名前は宮下藍(みやしたあい)と言う。矢代の数少ない親友だった。
「夢があっていいじゃない」
「あ、其の言い方はとても感じ悪い。夢とかじゃなくて絶対に本当なんだってば」
 そしてこの宮下藍という少女もまた、この噂を本当に信じている生徒の一人だった。もともと小学生の頃こっくりさんに取り付かれたのだと真面目に話す、柔軟な心の持ち主である。将来、変な宗教とかにはまってしまうのではないだろうか、と、彼女の将来が本気で心配になるほどに。
「分ったってば。でもさ、なんで望みが叶うのに幸せになりにくいの?」
 その矢代の質問に藍は少し左に頭を傾け少し考えるように手を顎の辺りに置く。その一連の動きは実になめらかであるとともに、迷いがない。形式化された仕草とでも言うのだろうか、その小さな所作の中に一種の育ちの良さのようなものを感じる。彼女の作る表情や仕草はやはり独特の色気があるのだ。表情だけでなく、喋り方や、声其の物さえも含めて恐ろしいほど完璧で魅惑的である。
 一つ間違えば演出的でさえあるそれは、絶妙なバランスを以て、その成熟した艶女とでも評するべき空気を作り出していた。
「あれじゃない?多分副作用みたいな。人を呪わば穴二つとか」
 なんとも、幸せの為に幸せを支払うとはなんとも矛盾した話ではないだろうか。口に出して八代は否定しなかった。だが、心から信じ込めるほどロマンチストにはなれないのである。子供の頃のような純真さを失い、順調に捻くれ、卑屈に、高校生になってゆく自分を八代は自覚した。
「八代だったらなにをお願いする?」
 その答えを、八代は少し考える。
「お金」
 私は夢見る乙女なんてものには一生縁がないのだろう、と八代は落ち込みとも開き直りともつかぬ妙な感覚を感じる。
「乙女ならここで白馬の王子様とか答えるのかしらね」
「夢見すぎだよ、それただの気持ち悪い子。現実見なきゃ」
 その通りだ、と八代は少し笑う。
「そういえば藍、乙女になるためには三つの条件があるとかいってなかったっけ」
「ドジ属性、周りの友達が不細工、処女」
 辛辣で毒舌だ、と八代は笑った。藍との会話は、外向けに演出しているのではないかと思うほど角ばっていて、内容が薄く激しい。メルヘンな志向を持ってはいるものの決して彼女の頭は悪くない。藍とのそんな会話が八代は大好きだった。
「そういえばさ、最近学校に来ない人、いるよね」
「誰?それ」
「上の階のB組の先輩だよ。名前なんていったかな……そうそう、岬先輩だ。私は思うの、彼はきっと鬼灯堂と関係がある」
 聞いたことがあるな、と八代は喋りながら誰だっただろう、と検索を掛ける。
「……ああ、岬先輩って坊主の?」
 そう、たしかそんな人だった。解像度の悪い顔を朧気に思い出す。眉間のシワが常に寄っている、今時珍しい程に分かりやすい、そういう人だった。先生に反抗的であり、そしてなにより周りに攻撃的。
「心配とかないのかなぁ……今どきグレて学校サボるなんてそんな昭和な人間いないよ?」
「心配も何も、私は関わりないし。でも、彼は十分に有りえそうじゃない?分かりやすいぐらいに、札付きのワルとか、そういう古さがしっくり来そうな人だと思うけど」
「それは気持ち悪いオタクか苛められっ子よ。見る目ないな、不良はナイーブな人がなるとか言われるけど、昔からメンタルは強靭なんだから」
 そっちの方がよっぽど酷い発言だ、と八代は思った。
「岬先輩はね、きっと鬼灯堂にたどり着いたのよ。願いを叶えると同時に帰らぬ人と……」
 窓の向こうの青い空を眺めながら彼女はそう続ける。
「あんたの脳内どんな?」
「夢見る乙女ファンタジー」そう、振り向きざま真顔で答えた。
 そのシュールさに耐えられなくなって八代は爆笑する。
「メルヘン大好きよね、あんたって。実は脳味噌の代りにお菓子でも詰まってるんじゃないの?ミルクチョコレートとか」
「何を言っているのよ。八代にファンタジーの良さは一生伝わらないわね」
「何処が面白いのよ?」
「もう、夢見る主人公が良いのよ。読んでいると笑いが込み上げてくる」
「子供はコウノトリが運んでくるんでしょ」
 その答えに藍は髪を掻き上げながらすまし顔で応える。
「精子一つにつき、37.5MB相当のDNA情報を持っているんだって」
 八代はまたもや耐えられず吹き出した。最低のセンスである。
 丁度その時、キンコンと予令が教室に響き渡った。
「それじゃ、また放課後」
 教室の明るさがワントーン落ち、気だるさが漂う。不真面目な生徒ではない程に、この授業という時間は苦痛になるものだ。教科は国語。皆が席に着くと、苦痛な授業の始まりの鐘の音がなる。
 教壇に経ったのは、三十手前ぐらいだろうか、細身で、身なりの綺麗な男性の教師だった。うっすらと顎ヒゲを生やし、メガネを掛けている。読書と夕立の風景が似合いそうな印象を抱く。その縁の薄いメガネの奥の両目は目尻がゆるりと下がっており、彼のゆったとした性格が滲んでいた。
 服装は茶色のコーデュロイの細身のパンツに白いシャツを合わせている。田中太郎先生、渾名が付くことがないほどに面白みのない先生だというのが、藍の評価であったが、八代は、ユーモアに富んだ喋り方をする先生で、本名がチャーミングだ、という感想を持っていた。
「授業を始めたいと思います」
 号令と共に一呼吸置くと、授業は開始された。
「今日から土佐日記か。内容に入る前に土佐日記というものについてちょっとした小話をしようかな。内容に興味を持ってもらうための小話だからね」
 そう言いながら、土佐日記と黒板に書く。彼の書く文字は実に国語の教師らしい角張った、とてもバランスの良い、教書体のような字だ。
「他の古文と比べて、土佐日記が少し違う点は、原著者である紀貫之の自筆本から直接書写した写本が現存していることだ。たとえばこの間の授業でやった枕草子にせよ、その作者とされる清少納言の自筆本はすぐ燃えて、現存している伝本はいずれも原作者の自筆本ではない写本を、人から人へと幾度となく書き写して成立したものだ」
 紀貫之と黒板に書く。彼の黒板にはいつもキーワードしか描かれない。自分の発する言葉を整理するために文字を書いているのだろう。彼の言葉に耳を傾け、咀嚼しなければきっと授業は頭に何も残さず綺麗に抜けてゆく。テスト前は、いつも授業の痕跡を残したノートを片手に、生徒の不満の会話が広がっていた。
「つまりその書写の過程において意識的に内容が歪められて、原作者の著した本文からは大きくかけ離れたものが現在伝わっているという事だね。どれほど変わってしまったか、それは諸説あるからあまり一概に言えた話ではないけれど、今で言えば昼ドラみたいな内容のものが、愛と勇気の冒険ファンタジーになってしまった、といえば少しは想像しやすいかも知れないね」
「これは、ほかの古い時代に成立した文学作品についても大抵が当てはまる。しかし土佐日記では原著者の自筆本が、十五世紀ごろというかなり後の時代にまで伝わり、それを直接閲覧して書き写した写本が現存している」
 古い時代、文学作品、十五世紀後半、写本が現存。キーワードだけが頭の中で強調され焼き付いていくようなイメージ。退屈ではないけれども、どうしても興味は持てない。しかし、こんなどうでも良いところからテストに出る予感が八代にはあった。ノートは綺麗に取れている。
「余計読みづらいとも言えるけどね。現代への解釈が一つも無いんだ。因みに内容は君たちにとって歴史の授業に近いよ」
 僕はね、小説を読まない子供に江戸川乱歩の人間椅子を薦めるように、古典を読まない君たちには源氏物語をお薦めしたいね。劇的なものはカンフル剤なんだ。と彼は言葉を続けた。
「まぁ、僕が言いたいのは、土佐日記という作品が、とても純粋性の保たれた作品であるということだ。僕は二次創作に対して決して否定的ではないけれど、作者側からしたら、自分の作品ではないものがさもオリジナルのように流れるのは、とても気分の良いものじゃないだろうからね。そういう意味で紀貫之はとても恵まれている」
「でも、まずこの教科書の最初の一文に注目してくれるかな」
 『男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり』彼はスラスラと黒板の真ん中にこの一文を書いた。
「この前も言ったけれど、当時の時代、日記を書いていたのは主に男で文字は漢字を使い、内容は備忘録などの公的なものを書いていたんだよね。使われている文字は平仮名で、内容は和歌や亡くなった自分の娘への思いを綴るなどと、私的なものが多く含まれている。これが『土佐日記』の内容の特徴だよ。因みにこの文章の意味は……そうだな、宮下藍くん、答えてみてくれないかな」
「私はオカマになりますですか?」
 彼女の答えに表情も変えず、田中太郎はそう、そういうことだね。と答えた。そういうところもチャーミングな先生であると八代は思う。
「私は男だけど女としてこの物語を描くよ、っていっているんだね。どうだろう、皮肉というか、古典の中には唯一と行っていいほど純粋性を保った作品なのに、最初からマガイモノだということだよ。どうにも複雑で、この物語は裏側を持ってるんだ」
 この話をし終わる頃には黒板はキーワードで埋め尽くされて、複雑なマインドマップのようになっていた。今日も生徒たちはこの迷路のような黒板に苛立ちを覚えている。
「少し話が長くなってしまったね。そうだ、それじゃぁさっきの冒頭の一文の意味を問題で出すよ。よく覚えておくように」
 ふと、鬼灯堂と絡み、妙なイメージが八代の脳内に溢れた。ついこの間グリム童話を思い出したのだ。ファンタジーは奇跡の物語だ。死んだと思われるヒロインが王子様のキスで目覚めるシーンは、そのジャンルとリンクして思い出される様式美である。
 でも、そこにあるのは王子様が小人に美少女の死体売って欲しいと懇願する姿であり、ヒロインは自分の結婚式場で継母を殺害する恨み深き女性の本性であった。物事には全て裏がある。願いが叶うということ。その裏に隠されるものが有るとしたら、確かにろくな結末はないのかもしれない。幸せにはなりにくい、その言葉が八代の頭の中でリフレインした。
 その後の授業は先生には珍しく、淡々と進んでいった。相変わらず生徒に興味を持って貰いたいこと以外に対しては蛋白である。授業ではない接する機会を設ければ、その知識に裏付けされた愉快な話を語ってくれることだろう。訪れる事がなさそうなその機会に八代は一瞬思いを馳せた。
 そして、終礼と共にチャイムが鳴る。窓を見ると外は真っ赤に日焼けをしはじめていた。日が落ちるのが本当に早い。太陽の日が私達を温めることをサボり始める季節だ。
 ふと後ろを向くと、クラスの委員長の白井小友が教科書を持って帰り、周りの人たちに怪訝な目を向けられていた。
 白井子友、委員長でありながら、馴染めない男子。彼に対する周囲の目は、少なくとも温かいものではなかった。
 優等生になることは、とても生きづらそうだ、と八代は思った。まるでアウターゾーンだ、不良と真面目の価値観が反転する世界に送り込まれた少年の話を八代は思い出した。得てして、現実ではそんなことが起きずとも同じような状況が、なんとも滑稽ではないか。どちらかに振れてしまっている人間は、何時だって孤立する。
 とん、とん、と肩を叩かれる。振り向くと、藍の人差し指が頬を刺した。その口角がぐいと上がった笑い顔に、邪推されていることを理解し八代は少し不機嫌になった。
「あなたみたいなのは不良に惹かれるからね。良くないモノに興味を持ちすぎる。好奇心猫をも殺す」
 彼の印象は一致しているようだった。確かに、あれは良くないものだ。
「別に、皆と一緒よ。白井くん、勉強熱心だなって思って見てただけ」
 いやいや、と大き首をふる藍。
「逆でしょ。クラスの皆が彼に注目しない様にしているのが、そう見えるんじゃない?あなたとは反対に振れているの」
 人差し指を右から左へひょいと動かしながら藍は言いながら、白井の方へと視線を向ける。丁度、白井小友は帰りの支度を終えていた。どれくらいの重さなのだろう。そんな普段ならば抱かないであろう疑問が浮ぶほど、大きくぱん、と膨らんだ鞄を肩に掛け、席を立ち上がれるところだった。
 周りの生徒達はその中横目で彼の存在を確認し、「気にしない」をしている。
「はぁ、溜息が出ちゃう。彼のあの強靭な精神はどのように育まれたんだろうね。」
 藍は、笑いながら八代に話しかける。
「よほど心の筋トレが上手なのか、それとも宗教みたいな外骨格武装してるんじゃない?どうでもいいけど、彼の疎外のされ方は後者に当てはまる避けられ方よね」
「そういうことなのかな?別に私はそういうのは批判とかしないように努力するほうだけれど。うん、確かにそうなら一定の距離を置いちゃうよね」
「実際は知らないけど。けれど少なくとも周りはそれに似た、なんというか、別の世界の住人だと思ってるんじゃない?」
 人種差別とも違う。差別することをしないよう努力した結果、このような状況にあるのだろう。
「たしかに頭の隅にそれが有るだけで、人の事をほっとけないヒーローでさえ彼に関わらないよね。恋する女の子以外は」
 藍は八代の耳へと顔を近づけ、相変わらずの整った上品な顔で下劣な提案をしてくる。
「人は耳で恋に落ちるって話だよ。話しかけてみれば?」
 その言葉に八代はいらり、とした。この手の誂いは好きではない。
「……そうね、分かった。取り敢えずあなたの予想を裏切ってみるわ」
 八代は席を立ち上がり、彼の元へと近づいてゆく。その姿を藍はぽかんと見ている。良い気味だと八代は思った。人の驚く顔は、好きなのだ。
「白井君、ちょっといい?」
 その掛け声に、彼は口を半開きに此方へと顔を向けた。八代は白井小友の顔を注視した。顔は整っている方でもなく、しかし、個性的とも言いがたい実に平均的な顔だった。しかし、その目は何処か怪しい光を持っている。これは彼の姿勢からくる先入観からのイメージなのかもしれないが、引き釣り切れない影が、体にしがみついているようだと八代は思った。相当な重みの有るであろう鞄を手に持っているにも関わらず、体は芯と一直線に直立している。イメージとは似合わず、体がバランスよく鍛えられているようだった。
 さて、勢いで話しかけてしまったものの、当然話題など用意していない。話しかけてから数秒で、藍のぽかんとした顔を見たいが為に行った愚行を後悔した。例えば、なんで、勉強ばっかりしているのか、と聞いたら彼はどんな顔をするだろうか。きっといい顔はしないだろう。
 そうして、瞬間で頭を回し、八代が口に出した言葉は、こんな質問だった。
「白井君て、鬼灯堂の話って信じる?」
 白井は、少し驚きの表情を見せた後、左手を口にあて、困ったように目を下に向ける。そうして数秒諮詢した後に、こんな言葉を返してきた。
「鬼灯堂の話ってなに?」
 その答えを聞いたとき、八代は悩んだ。鬼灯堂の話について無躾に聞いてきた私に対しての少し非難を含む返答なのか、それとも、鬼灯堂の、それ自体への疑問なのか、解らなかったからである。白井のその訝しげな表情から読み取ることはできなかった。
 取り敢えず、八代は簡潔に、鬼灯堂について話すことにした。
「急に無躾にごめんね。いまちょっと学校で、ある本屋に行くと願いが叶うらしい、て噂が流れているんだけど、それについてちょっと聞いてみたくなって」
「そうなんだ。いや、御免、あんまり興味なくて、その話知らないや」
 八代は驚いた。やはり、と思いつつも。
 彼はこれだけ鬼灯堂という話題が、高校に溢れかえっているにも関わらず、それに感知していかったと言う。
 確かに、違う世界からやってきた宇宙人のようだった。そのくせ平凡な声と、俗物的な顔がポン、と顔の上についているものだから、余計に不気味であった。これだけ広がっている話題を、無意識に排除することなんて、どうやったら出来るというのだろうか。
「結構いま流行りの話題なんだけどね」
「うーん、あんまりそういうの、興味なくて」
 そう、彼は苦笑いをする。
 ――いや、若しくは。クラスの皆が彼に注目しない様にしているのが、そう見える、と藍は言った。何も不思議なことはない。彼が周りに感心を持たなかったのではない、それこそ周りが、彼に感心を持たぬ振舞いをした結果というだけの話ではないか。
「それにしても、願いが叶うか。僕なら何を願うかな、お金とかいいかも」
「意外に、俗物っぽいのね」
「たぶんだけど、君は僕を勘違いしてるんだ」
 その言葉に、レッテルに向かい声を発したことを八代は後悔した。どうしても頭の中にある、偏屈な彼のイメージに摺りようような発言をしてしまう。
「いいよ、実際僕こんなんだし、君が遠慮ない人って事はわかったから」
「別にいけど、それ、嫌味よね。……私、人との距離感保つのが苦手なのよ」
 だから僕に話しかけてくれたのか、と白井は笑う。
「なんとなく、人見知りとか無縁な人かなと思ってたんだけど」
「得意じゃないの」
 みんなが上手すぎるのだ。
 しかし、と思う。よく考えずとも、白井と話すのは、初めてだった。そんな相手に人見知りの私が、信じられない短絡的な理由と度胸で話しかけたものである。
 距離感が掴みにくかった。人見知りの人間が持つ、独特の窮屈感。しかし、今回に限り、彼に限り、それは八代自身の性癖によるものだけではないような気がした。白井が体から出す見えない粘質の空気が、舌に絡みつき、言葉の選択を阻害している。そんなことを八代は思った。
「でも、そうだね鬼灯堂って本屋さんには行ったこと有るよ、願いが叶う、って話は聞いたことないけど」
「行ったことがあるって、白井君、店に入った事があるの?」
「うん、言葉通りの意味にとってもらって構わないよ。僕は鬼灯堂の中に入った事ある」
 一度目は小さく、二度に深く頷きながら白井は応える。またもや八代は驚いた。なんという事だろうか、何時だって店は締まっているという噂だったのに、彼は店の中に入ったという。それは紛れもない、この噂の先の話だった。
 それと共に、自分の心がさあ、と縮んでいくのを感じた。思っている以上に、この噂を神聖視をしていたのだろうか。そんな自分に多少驚きつつ、八代は落胆が顔に出る前に、話の続きを催促する。
「とても綺麗な古本屋さんだったよ。余り面白そうな本が無かったから買わなかったけれど、白い世界って言えばいいのかな、古い本に対して辺りが全て白いんだ。聖堂的というか、精神的というか。そんなに文学的な感性を持たない方だけれど、なんというか、そういう神聖な空気があった」
 両手で小さくジェスチャをしながら楽しそうに話す白井に八代は少しどきりとした。
 饒舌だ。もっと偏屈で、一言二言で会話を終えてしまう、そんな人だと八代は思っていた。今の彼は、外からみてもきっと、まとも、であった。
「でも、鬼灯堂って結構寂れた普通の古本屋だったと思うけど。ちょっと美化しすぎじゃない?」
 神聖という言葉は、汚れを一切許容しないある種の潔癖性を持っている。古本屋、という性質とはどう考えても真逆の価値観のように感じた。しかし、その八代の答えに白井はううん、と小さく唸り、右手で頭を掻く。
「これ以上言わないことにするよ。なんというか、君だけのための噂じゃなさそうだから」
 だったら、最初から私にも伏せておいてよ。と理不尽で我侭な怒りが八代の中に湧いたが、声には出さなかった。白井はどうして鋭い洞察力があるというのに、ワンテンポ遅れて気づく嫌らしさがある。わざとやっているにしろ、天然にしろ、相当たちが悪い人間だ、と八代は思った。
「実際に行ってみれば良いと思うよ」
「余計がっかりしそうで、なんか嫌」
 それと同時に疑問符が頭に浮かんだ。なぜ、そこまで、この話題に、鬼灯堂に執心しているのだろうか?先程からどうもおかしい。些細な、違和感ではあった。しかし、その傷口が徐々に披いてゆくような妙な気持ち悪さが体を付き纏った。
「それに、白井君が行ったときは分からないけど、基本的に締まっているらしいし、鬼灯堂って」
 その言葉に君は頑固だ、という白井の視線を感じる。八代自身も分かっていた。白井はそれを含めて観に行けばよいと言っているのだと。それは分かっているのだ。だが、なぜだか先程から脳を通らず、脊髄反射のように口から言葉が漏れている。
「いや、今度よってみるわ」
「なんとなく見たくない理由は分かるよ。それは宝くじの発表日に番号を見たくない感じだ」
 彼のしたり顔で発した、そのよく解らない喩えを聞いたとき、ようやく静謐でソリッドな白井のイメージが八代の中で崩れた。
 同時に、何故そんなに周りへ拒絶するような態度を取り続けているのか。どうしてそうなってしまったのか。という質問が心の中に浮かんだが、今質問する事がとても汚いことのように思い、押しとどめる。
 そう、八代は藍の居る自分の席に戻った。彼はばいばい、と言いながら荷物を肩にかけ直し、教室から出て行く。
 美しいと、感じた。
 八代は藍に一瞥を投げると、目論見が逆の効果を生んだことを理解し、苦虫を噛み殺す。邪悪な顔をしている藍を無視して、机の中に翌日分の教科書を乱暴に突っ込み、教室を飛び出したのだった。









第二話 胎動









 その日の夜、八代美奈は変わった夢を見た。
 いつも、彼女はその夢を知覚することは出来なかった。
 内容は、理解できない何か。もう少し意味を見つけようとするならば、その理解できない何かを八代は見ているから、その正体について。
 この夢を見始めたのはいつのころからだろうか。それはこの一時に考えなければ、恐らく霧散して世界に溶けてしまう疑問だった。実はこの夢が、連続したテーマのもとに幾度と見ていることさえ、私は忘れていた。この夢は、夢を見続けることでしか知覚できない、とても脆弱な世界だった。
 ズズ、と私の体が二つにずれ込むような感覚。使い古されたゲームコントローラ操作ように、体を動かすのが億劫になる。やがて私は体を動かすことを止め、頭だけになった。放棄した体はゆらゆらと揺れ、やがて視界から消え去っていった。
 そんな中、今回私は微弱な電波を感知した。
 それは、恐らく奇跡に近いものであったのかも知れない。過去へと記憶、■への回線を繋いでみる。だが、映像にノイズが走り、上手く思い出すことが出来なかった。
 電波が悪いわけではなく、おそらくこれは内容を受信していないのだろう。
 同時に疑問も浮ぶ。ならば、この空間は誰のために用意されたスペースなのだろうか。
 少なくともパブリックではなかった。何しろ回線が細すぎて画像データの一つも置くことはできないだろう。古いのか、それとも遠いのか、その回線は私の存在を電子の古代へと負いやってゆく。このスペースは誰にシェアされる訳でもなく、だからと言って閉じられたスタンドアローンな空間というわけでもない。そういう脆弱な世界だった。
 現実と夢、双方から届く微弱な電波でコツコツと作られた何方の干渉も受けない、そういう不確かなコンテンツだった。どれくらいの大きさの空間であるのか、全体は暗闇に包まれており、視覚的な情報から把握することは出来ない。体を動かし把握しようにも、歩くという事は恐らく出来ないだろう。何故ならば、そこには体という概念はなく、五感全てが失われていた。
 唐突に、『粒子』という単語が頭の中に浮んだ。その声は重く、断定的だった。
 粒子、世界を構成する基本構造。それ以上分割することの出来ない粒。


 それが正解であることは頭に浮かんだ瞬間に分かった。しかし、それは余りにも恐ろしい答えだった。幾度と無く観たであろう夢のなかで初めて辿り着いた答え。思考する粒であった。
 解答と同時に漠然とした恐怖が私の体全体を支配した。これはなんだというのだろう。本当にこれは夢なのか。
 いや……違う。夢ではない。私は先程理解したのだ。これが、この粒こそが。
 私が魂であり、「二十一グラムの体から抜け落ちたそれ」なのだと。
 ならばこれは死後の世界なのか?何れ誰しも一度は想像したことはあろう天国、地獄の姿ではない。少なくとも私が想像した死後の世界ではない。こんなにも孤独な世界で私はいつまで暮らさねばならないのか。
 九十九の虫が精神を埋め尽くしてゆく。
 私は死んだのか?いつ、何処で、何故?死に対し記憶が全くない。
 死後の恐怖。私はいつから死んでいたというのだろう。
 蒙昧としたイメージが頭の中に飛び込んでくる。物、或いは絵だったのかも知れない。ただしかし、それは紛れもなく視覚的に入ってくるイメージであった。
 私はこれが現実であることを認識していた。映像としては若干チープな、ファミコンのようなモザイクがかったレトロなものであった。当時のそれらしいビビットな発光色で作られていた。それを作った人物は私の隣に居た。誰だかは分からない。それはしかし、精神を壊すブラクラの類であった。そのイメージが渦をまいたかのようにドットがグニャリと歪むと、それは視野全体へとズームされてゆき、目全体に表示される。それは記者会見の時のように白が点滅する。白、白、白。それと同時に体全体に拷問のような痛み(正確には皮膚が焼かれた痛み、黒板を引っ掻いたような音、全身への殴打の痛み)が襲ってきた。そして下顎に付いている歯。全てがぐらりぐらりと揺れ始める。どうしたことかと舌で触ってみる。それは生え変わる寸前の歯のように大げさに揺れ始め、葡萄の身を転がすように口からぽろりとこぼれた。ぽろりぽろり。一本の歯が抜ける。キーストーンを抜いたアーチのように全ての歯がころころとこぼれ始める。あああ。あ。無くしてしまったら歯医者に行っても直してもらえない。私は慌てて溢れる歯を口の中に収める。しかし飲み込んでしまう。絶望だった。歯が無くなってしまった。胃の中に仕舞われてしまった。どうしたら良いのか。目の中に居座るイメージは点滅を続ける。頭の白ずむ。何も考えられない。立ちくらみが永遠につづくいたような混乱状態。夢だと分かっている。からこそ、これが終わりない物であることへの理解と恐怖が。それはループする。気づけばそのイメージの前に自分がいて、近づく。精神的に壊されてゆく。そして――

 八代は鉄線が上半分に菱形で張り巡らされた窓を観た。



 その窓は暗く、向かいの家の少し汚れた壁を縁っている。
 その代わりとばかりに「此処は安らぎの場ですよ」と蛍光灯が部屋を懸命にちかちかと照らしていた。
 ここはとても静かだ。しゅう、しゅう、という加湿器の中で水が回る音が、家一番のボリュームで再生されている。
 マンションの一階103号室。此処は私の家だった。
 今が現実なのか、それとも先程の続きなのか、余りにもシームレスに意識が続いていたため分からなくなっている。
 意志が宿っているのが自身の体であり、ベッドの上である実感は、数分立ち、体が汗でぐっしょりとぬれている不快感と共に溢れてきた。
 ここが現実であることを理解すると、唐突に吐き気が体を襲ってくる。どうやら体に戻ることによって事態に急激に体が反応しているようだ。
 私は喉までせり上がってきたものを無理やり嚥下し、冷蔵庫へと向かってゆく。そして野菜庫で冷やされた九百ミリのペットボトルの水を取り出し、三分の一ほど一気に流し込んだ。
 夢の死臭を引きつれてしまったかのように部屋の空気が淀んでいる。取り敢えず八代は窓を空け、空気を入れ替えた。なんとも、気分の悪い夢をみたものだ。私は残りの水を少しずつ飲みながら壁にかかっている時計へと眼をやる。
 時刻は午前十一時を過ぎたところだった。どれほど寝ていたというのだろうか、夕べのことは良く覚えては居ないが、少なくとも夜の十時前には床についていた筈だというのに。
 意識を覚醒させるためコーヒーが欲しくなり、飲みかけのペットボトルの水をヤカンの中に注ぎ、火に掛けた。洗面台に置かれたマグカップを水で濯ぎ、冷凍庫の中にある挽いた豆をドリッパーの上に取り出す。
 一連の準備が終わると、息を一つ付き、台所に寄りかかりながらお湯が沸くのを待った。
 少し、思案する。あれは夢だったのだろうか。そんな疑問が浮ぶ。どんなに荒唐無稽だと言われようと、それが現実の八代の体を支配している。あの生々しい恐怖を夢と言い切るには、少なくとも、あの夢は、現実は、どうして、ただし……
 ヤカンがぴい、と音を立てた。その音にびくりと八代は体を震わせる。不自然な動きをしながら火を止め、一度深呼吸をしてから、コーヒーを三度度に分けてゆっくりと落としてゆく。
 程良く蒸らし、のの字を描くようにお湯を入れ、最後に濃さを調整する。一杯分のコーヒーを落とすころには八代は幾分か落ち着いてきた。ドリッパーを軽く台所で水気を切り、無造作にゴミ箱に投げ入れた。
 八代はコップを軽く噛み、歯が有ることを確認して、安堵する。
 明晰夢、というのだろうか。多少混乱はあるものの、八代は自分自身でも信じられなかった。無駄な使命感と未来の指定。夢というのはさも狂った認識を正解のように取り扱ってしまうものだった。蒙昧な常識で「こうなるであろう」と頭の中で呟けば最後、世界はそのように変貌してゆく。極めて小さい箱庭。粘土。
 少なくとも私はあの時、あの場所を、所謂そのような場所であると認識していた。
 あの世界は夢ではない。現実と夢の双方からの細い電波。その二つから礫のような情報をかき集め形成された人工的の聖域なのだと。悪夢の明晰夢なんて、と八代は嘆いた。
 お化けが怖くて寝れないならば、逃げようがあろうが、世の中で一番恐ろしいことは、化物でも、殺人鬼でもなく、意識に焼きつく悪夢だと八代は思った。今後しばらくは寝付きが悪くなることだろう。
 思考を一旦止め、コーヒーを啜る。思った以上に良い味だった。悪夢を忘れさせるほどではないが、程よい苦味が舌から順に頭をすっきりさせてくれる。現実に戻るための儀式。
 しかし、どうしたものだろうか。この時間から学校に向かうというのは、些か具合が悪い。
 八代は学校へ行くという選択肢を早々に破棄し、箪笥から私服を引っ張り出す。息苦しいこの部屋を出てから考えることにする。
 がちゃりと玄関のトビラを開けると、お隣りの鈴木おばさんと丁度鉢合わせる。
 しまった、と
 あら、美奈ちゃん、どうしたのこんな時間に。学校はどうしたの。あら顔色悪いわね。風邪なの。最近寒いから、薬は大丈夫、だから女の子の一人暮らしは……
 言葉のAK48を構えたおばさんはフリーズの一言もなく八代に乱射してくる。毎度のことであるが、一方的な虐殺である。ずばばば。
 悪い人ではないし、寧ろ八代を気にしてくれるとても優しく、気さくで良い人ではあるのだが、良い人が必ずしも好ましいとは限らない。八代は鈴木さんが苦手であった。同時に、日常生活のランドマーク的な人でもあった。深い関わりは無いものの八代の一人暮らしは、良くも悪くもおばさんの存在に支えられている。
 八代は具合が悪そうな顔をしながら「そうですね」「はい」とおばさんの言葉に頷いてゆく。下手にこちらから話題を振ろうものなら、ここから1時間の延長タイムに入ってしまう。それだけは避けたかった。

 それより公園大変よ、死体が見つかったって、学生さん。確か、行方不明に成ってた男の子よ。いやよね、きっと喧嘩よ、不良だったそうよ。名前なんて言ったかしらね。ニュースで観たんだけど。ええと、ちょっとまってね。今思い出すわ……ええと、
 
 岬明文

「……え?」
 今日まで苗字しか知らなかった彼の名前がおばさんの口から飛び出してきたのは、それから数分後のことだった。先日の藍との会話が高速でリールする。岬先輩、坊主で反抗的、眉間にいつも皺の良っている今時珍しい、そういう人。
 私はおばさんの話をやや強引に打ち切り、駆け足で家へと戻りテレビを点けた。
 実家から持ってきた年代物のブラウン管のテレビは音声を流しながら中々映像を流さない。音声を頼りにチャンネルを回す。
 『きょう午前3時40分頃、☓☓市の河川公園にて、市内に住む学生……

 柔らかな黒がゆっくりと人の像を結び始める。
 岬明文、そこには、頭の中にあった厳しいイメージよりも、よっぽど人の良さそうな顔をした、岬先輩の顔写真が写っていた。

 左手首が切り取られている。
 
「岬先輩はね、きっと鬼灯堂にたどり着いたのよ。願いを叶えると同時に帰らぬ人と……」
 
 手首は見つかっていない。

 彼女の語った夢見る乙女ファンタジー。八代はその言葉を思い出した。ああ、取り返しの付かないことが始まってしまったのではないか、と。
 それは狂った妄想だった。今朝の夢が理性的な論理を吹き飛ばしている。しかし、成ればこそ開かれる門もあるのかも知れぬと、頭の虫が騒ぎ経った。夢と現実へ、狂気の連続が現実と虚構を曖昧にする。

 鬼灯堂に行こう。私服の私は今日の行動を選択する。

                 ■

 ついこの間まで噂されていた話題。場所はうろ覚えであったが、体の調子に反比例するように頭の調子が良い。アンテナ数は三本、それにあやかり雑音の混じらないクリアな過去が再生される。
?大きな木が見えるまで真っ直ぐ進み、見えたら左。そして、また直進してゆくとそこに池があるからそこを右に行くの――?
 その会話通り家から学校への通り道を脇に入り進むと大きな木があった。しかしながらあまり印象の強いものではない、それこそ、公園で見かけるような多少大きな木である。木の名前の書かれるプレートが幹に打ち込まれていたが、かすれて名前を読むことは出来なかった。
 そこを左に曲がる。と、途端に道幅が狭くなった。そこはさらに道が入り組んでいて古い住宅が横に立ち並んでいる。車が一台通るのがやっただろう。数歩違う場所を歩くだけで、なにか、新しい街を歩いているみたいだ。八代はそう感じた。
 噂ではこの右に――池のすぐ隣、そこには一軒の店があった。
 鬼灯堂
「……あった」
 鬼灯堂とかかれた看板が立てかけられている。店の右壁に貼られた広告、何時から更新されていないのだろうか、高価買取中の文字と共にいくつもの昭和の漫画の題名が書かれている。ドアは開きっぱなしだが、正面に壁があり中を見ることは出来なかった。
 レトロと言うよりも寂れてると評したほうが正しいだろう。それが八代の此処に対する感想であった。
 そう、街角の古本屋「鬼灯堂」はたしかに見つける事は出来たようだ。だが、その外観からは噂話に聞いた願いが叶うなどという幻想的な印象とかみ合わないのだ。

 やはり噂はウソだったのだろうか。そう八代は落胆と共に、店の扉をくぐり―――

 ―――息を、呑んだ。
 空気がシンと張り詰めていて、それでいて薄い。恐らく生きるのに最低限の酸素しかない。白い世界。だった。
 本棚、壁、時計、机、考えられる全てのものがシロで統一されている。ありえなくはない。幻想的であることはわかったが、ありえなくはない。ありえなくはないが、美しい。
 生活感というよりも現実感がない。現実が極限まで薄められている。
 切り離されている。おそらくここの中だけこの街から切り離されている。そう、感じる。白という色と本を顕す以外の機能を最低限の日常生活にとどめている。
 それは大自然に出会う感動の方に似ていると、八代は思った。ランダムで人の意思の介在しないもの。それはとても美しい。そういうものを見ると思考が情緒的になる。ロマンチストとなった脳味噌は気持ち悪い気障な言葉で感動を表してゆく。それはとても美しい、心が震えるようだ、涙がこぼれてしまう、と。
「変身物語」
「千一夜物語」
「イソップ寓話集」
 本棚に並ぶ本に均一性はない。茶色い側表紙のものもあれば紫色の側表紙のものもある。本棚の数は十七。どういう理窟か、外見はまったく大きく見えなかったのに中に入るととてつもなく広く感じた。
 手に取ってみると、どの本もとても厚く、そして重たかった。全て新書であり、文庫本などといった本は置いてなさそうだ。全ての本は小さな錠のようなもので留められており、立ち読みすることは出来なかった。
「いらっしゃいませ」
 若干不意打ち気味に後ろから機械的な声がかかった。私はただぼんやりとしていた。声のする方向へ顔を向けるとそこには黒いタキシードを着た男性が立っている。なんで白いタキシードじゃないのだろうか、余りにもこの男の無遠慮さに謎の怒りが込みあげた。
「ここ、鬼灯堂ですよね?」
「はい」
「願いを叶える、店、なんですか?」
 私は聴かずには居れなかった。願いぐらい叶っても、ここならおかしくないのだろう。事実、私はそれを今信じた。何故私は藍の言うことを否定なんかしたのだろうと悔やむほどに。だが、
「願いを、叶えるわけではありません」
 その期待に対して帰ってきたのはこんな機械的な、否定の言葉だった。
「願いを叶えるわけでは、ないのです。そのような店ではありません」
 律儀にも微笑しながら繰り返し丁寧に三度答える人間味のない機械的動作。願いを叶えるわけではない。彼はそう言った。
「……っ」
 なんだというのだろう。
 落胆よりも優先して、先に体中に怖気が走った。体中に鳥肌が立ち、吐き気、目眩が実際の症状として私の体を襲った。唐突である。願いが叶うお店であることを否定されたと同時に、初対面では感じなかった、タキシードの圧倒的な気味の悪さが毛細血管を通り、体中に浸透してゆく。
 不気味の谷
 そう、不気味の谷だ。体に今も尚染み渡ってゆく気味の悪さを表現する言葉が頭の中に浮かんだ。
 決まり事のように会話をリプライする。人間に寄りすぎてしまった機械。いや、それとも機械に寄りすぎてしまった人間なのかも知れない。指定の方向へと誘導するための幾何ベクトル。そんな印象だった。
 同時に理解もする。岬先輩の話をこのタキシードに話をしたところで、返ってくる言葉は何も繋がらない、何処か外から飛んで来たどうでも良い言葉しか返ってこないのだろうと。
 この僅か会話とも言えない数度の対話で何を言っているのかと思うかも知れないが、そのようなものであると、理解せざる得ない。
 恐らくタキシードとの共通の言葉は、本の話だけなのだろう。それ以外の会話は丁寧に弾かれてしまうのだ。今の私に、彼と会話出来る言葉を持ちあわせては居なかった。恐らく。まだ、早かったのだ。もう幾つかの手順を踏まなければ、此処へは本来来られなかった。
「……私、暇つぶしになる本探してるんですが、なにか良い本あります?」
「それは私の価値観で決めてはいけないでしょう」
 どこかの漫画のように淡々と気障な理窟を捏ねるタキシード。が、もっともな意見ではある。何をやっているんだろう私は、とも思う。確かに私は噂を信じたただの頭の弱い娘になってしまっていたのも悔しいが認めよう、が……理解する。
「そうですね。私が間違ってたわ」
 恐らく、それ以上にこのタキシードが―――
 そう私は思った。話してみて分るこのすれ違い。会話している言葉そのものが、暫くズレ、時間がかかる。
「何かお決まりの本がありましたらお呼びください」
 そう言い、タキシードはカウンターの裏へと向かっていった。
 なんて、理不尽な怒りかたをしてるのだろう。と私自身思っている。しかし一言一言が癪にさわる。イライラするのだ。笑い飛ばすことが出来ない。
 それは、もはや相性というよりも好き嫌いなのだろう。と私は思った。
 タキシードがどう思っていようが私はあいつと分かり合いたくない。こうなると最初の数秒でさえ普通に話し合えていたのが奇跡に思えてくる。タキシードがカウンターの奥に行き、姿が見えなくなると私の理不尽な苛立ちも少しは納まった。一方的に高ぶった感情を沈めよう、大きな深呼吸をする。
 なんてことだろうか。不快な気持ちが、かつて無いほどリアルだった。こんな気持ちになるのは初めてだ。
 もう、何度か深呼吸をする。体にいつものリズムが戻ってくる。感動が収まり、感情的で文学的な考えから理学的な思考に落ち着いた。八代美奈が帰ってきた。
 気持ちが落ち着いたところで、あらためて鬼灯堂を見渡してみる。先ほどより心に余裕が出来ていたのはきっとタキシードがいなくなって空間に現実へのスペースができたためだ、と八代は思った。
 しかし、余裕が出来たからと言ってこれ以上ここに居たくは無かった。先ほどから早くここから抜け出す方法ばかりを考えている。人を嫌うということはこういうことなのか、と初めて八代は実感した。
 幸い、タキシードは奥に行ったきり戻ってくる様子もない。何も言わずに店を出て行こう……と思ったが、客が一人なのにそれは些か常識に欠けるのではないだろうか。
 私はそう少し迷った後、躊躇いがちにカウンターへと向かった。
「すいません。今日はもう帰ります」
 そう、敬語でカウンター越しに声を掛けただけで胸の奥がムカムカする。敬語など使うな、と心の中で怒声を上げた。
「そうですか……」
 その言葉に、タキシードはそう、三日月のようにいやらしく口を歪める。
 それはあまりにも不気味で、醜悪、気色のわるい表情だった。顔面をぶん殴ってやりたい衝動に駆られる。
 もう、ここに居る理由はない。私はカウンターを背に、逃げるよう、鬼灯堂を後にする。負の感情が精製され雑身を無くす。
 相性は最悪。独り言のように私は小さく悪意を呟いた。

2013-10-13 01:50:05公開 / 作者:higeotoko
■この作品の著作権はhigeotokoさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
相当時間が経ってしまいまして、申し訳ございません。完結まで頑張りたいと思います。
一話後半を大幅改訂。二話目 胎動 を投稿させて頂きました。よろしくお願い致します。

どうでも良いですが、産経で村上春樹がノーベル文学賞取ったと誤報が来たときは本当にびっくりしました。
この作品に対する感想 - 昇順
はじめまして、1年ぶりに登竜門に戻ってきたayahiと申します。感想をシンプルに言うと、とっても面白かったです。ところどころにある体言止めが私は好きですね。そして全体的に情景描写が丁寧で物語に入りやすかったです。私がどうしても手に入れられない素晴らしい文章力が詰まった作品でした。
2013-03-07 21:04:59【★★★★☆】ayahi
→ayahiさん
ご感想ありがとうございます。実は私も3,4年前に、別のPNで登竜門にお世話になっておりました。
情景描写を褒めていただいて恐縮です。
しかし、投稿してから読むと、推敲の甘さが見えてしまい、恥ずかしい部分が文章の端々から食み出しております。
次回の更新の際には一話の改訂も含め、駆け足にならぬようしっかり書いてゆきたいと思います。
2013-03-08 00:39:26【☆☆☆☆☆】higeotoko
はじめまして、コーヒーCUPと申します。作品読ませていただきました。
ミステリってジャンルがすきなんで、こういう「入り」は好きです。物語でいうところの「掴み」といいますか、作品の入り口といいますか。とにかく、最初の投稿としてはこれ以上ないですね。変な噂が広まっているというのは、ミステリにおいてはありきたりですが普通なら「願いごとがかなう」で終わってしまうでしょう、そこを「だが、幸せのなれない」とつけたすのが、higeotokoさんの特徴というか、オリジナリティですね。
良い具合の矛盾で、読者にほどよい「?」という感想を抱かせていて、良いです。問題はこれを綺麗に解決できるかというところですが。そこは楽しみにしておきます。
主人公の八代もクールな感じでいいんですが、この話しだけを読む限り藍がいいキャラですよね。ふざけているようで、どこか容赦ない。女子高生特有の残酷さを持ち合わせているようで、個人的にとても気に入りました。
次回更新楽しみにしております。
2013-03-19 02:43:36【☆☆☆☆☆】コーヒーCUP
→コーヒーCUPさん
初めまして。楽しみと言っていただけるととてもモチベーションに繋がります。
ミステリは私も大好物です。雑読でして、本格、新本格も好きですが、舞城王太郎や清涼院流水といったライトノベルミステリも好物です。森博嗣のファンで、長音を省くカタカナ表記を倣っていたりします。

三人称単視点の都合上、よくしゃべり動くため、主人公よりも目立つ藍ちゃんです。主人公には2話では良く動いて頂く予定です。
2013-03-23 03:51:54【☆☆☆☆☆】higeotoko
 読みました。
 ちょっと更新分が短かったので、ちゃんとしか感想が書けないのですが、少しだけ。
 白井くんがなんか思っていたキャラと違っていたのが印象的でした、なんというか自分の好みのものだけは饒舌になるタイプですかね。どこかまだよめないところが多い彼ですが、彼の証言が、そして彼自身が今後どうなっていくのが気になるところですね。
 「ウォルター・デ・マリア」についてぐぐりました。なんかでっかい球体みたいなものがでてきたんですが、これであってるんですかね? うーんと、これこそ白井くんに語らせるべきだったと思います。このウォルター・デ・マリアがどういったものかっていうのを、白井君に語らせた方が読者としては想像しやすい。もちろんこれはウェブ小説ですのですぐにぐぐることができるのでが、そういった手間はあまりとりたくないというのが正直なところです。
 小言をはさんでしまいましたが、次回更新楽しみにしています。
2013-04-04 00:52:50【☆☆☆☆☆】コーヒーCUP
計:4点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。