『シルエット 【完結】』作者:ゆうら 佑 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角83350文字
容量166700 bytes
原稿用紙約208.38枚
 シルエット


 ◆ 序章

「気づいたら目の前に先生が座っていて、あたしを怖い顔で見てるんです。それで、どうして友達をたたいたりしたのって、言うんです」
 彼女はそう言った。
「先生は、きみが友達をたたいたと思っていたんだね。きみは本当にたたいたの?」
 お医者さんはゆっくりとした口調で、その子に優しいまなざしを向けながら聞いた。
「たたいてないんです。でも、たたいてないって言ったら、先生もっと怖い顔をして、何でそんな嘘をつくのって、言うんです。あたしがまた、たたいてませんって言うと、先生はもっと怒って、……あたしのこと、だめな子だって、言いました」
 彼女の目はうるんでいた。
「先生は信じてくれなかったんだね」お医者さんはうなずいた。
 ふたりはしばらく沈黙した。「それで」と、お医者さんはやさしく先をうながした。
「それから」と彼女がか細い声で言う。「帰りなさいと言われたので、帰りました」
「そうか。わかった。話してくれてありがとう」
 お医者さんはまたうなずいて、その子の頭をなでた。「つらかっただろうね。じゃあきみには、友達をたたいた記憶がないんだね」
「あたし、たたいてません。あたしが真菜ちゃんたちをたたくはず、ありません。友達なのに……」
「うん、わかっているよ。きみはたたいていないよ」
「お医者さんは、信じてくれますか」
 それは、すがるような口調だった。
「信じるよ。だって、きみがそう言うんだから」
「あの」彼女はおずおずと言った。「また来てもいいですか」
「もちろん」お医者さんはにっこり笑う。「いつでも、話をしにおいで」

 次に彼女が学校に行ったときには、一日分の記憶が飛んでいた。黒板の端に書かれた日付は、翌々日だった。彼女が不思議がっていると、あの真菜ちゃんたちが近づいてきた。
「あ。あんた何で昨日休んだの? もしかして逃げたの? 臆病者」
 リーダー格の真菜ちゃんは、いやらしい顔でそう言った。
「え、休んでないよ。たぶん……」
「何言ってんの」真菜ちゃんがすかさず言う。「休んだでしょ? ね?」
 まわりの取り巻きたちが、一斉にうんうんとうなずく。その中には、わざとらしく額にガーゼを貼った子もいた。
「今日こそ香代子の仕返し、してやるんだから。謝ったって、許さないんだから」
 真菜ちゃんはそう言うと、彼女の胸をどんと突いた。彼女はよろめいて倒れ、机に後頭部をぶつけた。そのあとのことを、彼女は覚えていない。
 記憶は翌朝に飛んで、彼女は頭に包帯を巻き、通学路を歩いていた。これは正真正銘の怪我だった。その日、真菜ちゃんたちは近づいてこなかった。
 彼女はまたお医者さんのところに行こうとした。けれどその日は、休診日だった。
 次の日もお医者さんはお休みだった。次の日も。その次の日も。
 彼女は心配になって、お医者さんの近くに住むクラスの男の子に聞いてみた。
「お医者さん? どこの?」男の子はばかにしたような目で彼女を見た。
「だから、信号を渡ったところの……」
「藤井の家の近くだろ?」
「そう」
 男の子はにやにやと笑った。「あのへんに、お医者さんなんかないよ。見たことも聞いたこともない。藤井、大丈夫? 頭おかしくなったんじゃない」
 彼女はうつむき、黙りこんだ。
「病院に行きたいんだったら、駅の近くの、おっきな病院に行ってみたら」
「うん、でも、そこじゃないから……」
「でもその怪我、もうほとんど治ってるんじゃない」
「うん、この怪我はもういいの」
 彼女は頭をさすって、弱々しい微笑をうかべた。
 それでも、彼女はお医者さんにまた会えることを期待して、毎日を過ごしていた。話したいことがたくさんあった。けれどもお医者さんの、「休診日」のプレートが外れる日はなかった。
 そんなある日、彼女は母親に連れられて、大学病院を訪れた。病院の中にある大きな庭では、白い服を着た医者や、多くの患者さんや、その家族の人たちが行き交っている。車いすの人もいるし、杖をついている人もいる。ベンチに座って、外の景色を眺めている人もいる……。
 彼女はうれしくなって、ベンチに走り寄った。
「お医者さん」
 彼女に気づいて、お医者さんはほほえんだ。いつもの白衣ではなく、灰色のパジャマを着ていた。「来てくれたんだね」
「お医者さん」彼女はふしぎそうに、顔を傾けた。「どうしてここにいるんですか?」
 お医者さんは、じっとその子を見つめた。
 そして、そっと目を伏せた。
「ぼくは、病気なんだ」
「病気……」
「そう。でも心配はいらない。すこし、疲れてしまっただけなんだ」
 お医者さんは淡々と言った。外見上、とくに変わったところはなかった。けれども幼い彼女が感じられるくらい、生気がなかった。
「じゃあ、お医者さんはやめちゃうんですか」
「そうかもしれない」
 お医者さんはそう言ったあとで、何かを思い出したように彼女を見る。「ごめんね。きみの話を聞いてあげられなくて。約束、したのにね」
 その子は唇をぎゅっと閉じたまま、首を横にふった。
「具合はどうなの」お医者さんは、そっとたずねた。
「前より、ずっと忘れやすくなりました。気づくと何日も経ってるんです。何も覚えていないんです」
「そんなに忘れやすくなったんだ。……こわい?」
「はい」
「そうだろうね。でも、こわがる必要はないんだよ」
 お医者さんは、かつて診察室でそうしたように、彼女の頭をなでた。
「忘れてもいいんだ」
「いいんですか」
 彼女は驚いたように、お医者さんを見あげた。
「うん。ほかの人と違うことを、おそれる必要はないんだよ。もし、だれかにひどいことを言われても、気にしなくていいんだよ」
 彼女はしばらく黙っていた。やがて、小さく「ありがとうございます」と言った。
「こちらこそ、ありがとう」
「また来ます」
「アカネ……」
「あたし、明美です」彼女は驚いたように言った。
「そうだね、ごめん」お医者さんの声が、わずかに震えた。「明美ちゃん、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな……」
 彼女がお医者さんと別れて帰ろうとしたとき、そばにいた看護婦さんに声をかけられた。
「あら、お父さんのお見舞い? えらいわね」
「お父さん?」
「ほら、あそこに座ってた藤井先生……」
「え……」彼女はその意味が理解できず、うつむいてしまった。
「あら、藤井先生のお子さんじゃなかったかしら。この前も、来てたわよね」看護婦さんも当惑しているようだった。やっとのことで、その子は口をひらいた。
「いえ、違います。全然違います……ごめんなさい」
「そうなの? こちらこそごめんなさい。何か勘違いしちゃったみたい」
 看護婦さんは首をかしげながら、歩きだそうとする。それを、彼女は
「あの」と呼びとめた。
「その子って……どんな子なんですか」
 看護婦さんはすこし驚いたような顔で立ち止まり、それから微笑を浮かべた。「やんちゃそうだけど、いい子よ。お父さんのこと大好きみたい。いいお友達になれるんじゃないかな。その子ね、アカネちゃんっていうの」
 彼女はその後も何度か、お医者さんのもとに通った。けれど、アカネちゃんに会うことは一度もなかった。
 お医者さんは、いつも一人でベンチに腰かけていた。
 そのあいだにも、彼女の記憶はどんどん穴だらけになっていった。記憶が飛ぶ期間が、二日、三日、五日……と、どんどん長くなっていった。
 お医者さんのところを久しぶりに訪ねたその日は、知らないうちに二週間が経ったあとだった。
 庭のベンチに、お医者さんはいなかった。
「アカネ」病室のベッドから起き上がりながら、お医者さんは嬉しそうに言った。
「あたし、明美です」
 彼女がそう言うと、お医者さんはますます嬉しそうに、にっこりと笑った。
「きみか」
 当惑しながらも、彼女は心配そうに聞いた。
「お医者さん、具合はどうですか……?」彼女には、お医者さんがますますやつれて見えたのだ。
「うん、しばらくは寝ていないといけないんだ」
「お庭には行けないんですか」
「しばらくはね」お医者さんはゆっくりとうなずいた。「ほら、もっとこっちへ来なさい。遠慮しなくていい。久しぶりだね」
「はい……」
 彼女の目から、涙がこぼれ落ちた。
「どうしたの」
「あたし……」彼女はしゃくりあげた。「最近のこと、全然覚えてないんです。知らないうちに、何週間も経って……」
 言葉が続かなかった。
「覚えてなくて、悲しいの?」お医者さんがやさしく問いかけたが、彼女の耳には入らなかった。
「あたし、どうなっちゃうんですか……病気なんですか」
「そうじゃないよ」お医者さんは言った。「ちゃんと理由がある」
「理由?」
 彼女は泣きはらした目を上げて、お医者さんを見つめた。
「明美ちゃん」お医者さんは、彼女の肩に手を置いた。そして告げた。一言一言区切るように、ゆっくりと。
「きみの体の中には、ほかの人とは違ってね、心がふたつあるんだよ」
「ふたつ……」彼女はつぶやいた。
「そうだよ。今は、きみの心が体を動かしている。でも、もうひとつの心が体を動かしているときもある。そのときは、きみの心は体の中で眠っているんだ。だから、そのあいだのことは覚えていないんだよ。だから記憶が抜けているんだよ」
 彼女はまばたきもせず、お医者さんの顔を見つめていた。
「あたしの、中に」かなり長い時間が過ぎたあと、彼女は言った。「もう一人いるの?」
「そうだよ。もう一人いるんだ」
「あたしとその子、交互に出てくるの?」
「そうだよ」
「もう一人の子は、何ていう子?」
「アカネ」
「その子……」
「私の娘だよ」
 そう言ったお医者さんの目は、涙にぬれて真っ赤になっていた。
「あたし」彼女はお医者さんから離れようとした。「あたし……」
 お医者さんは、その子の肩をつかんだまま離さなかった。
「あたし、邪魔だった……?」
「そんなことはない」お医者さんは彼女の顔をじっと見つめ、きっぱりと言った。
「きみがいたから、アカネは学校に行くことができた。私は……きみに感謝しているよ。私の頼みを、聞いてくれたんだろう?」
 彼女は一瞬何のことかわからないというように、動きを止めた。
「あの……」思い出したのか、彼女は困惑したように言った。「真菜ちゃんたちと仲直りするっていう……」
「そうだよ。私は、そう頼んだよね」お医者さんは、しぼりだすような声で言った。「きみはそれをしてくれた。きみのおかげで、アカネは学校でつらい思いをしなくて済むようになった。だから、もう、きみの心が出てくることはほとんどなくなった。アカネの代わりに、きみが学校に行く必要はもうないから……」
「じゃあ、あたし」彼女はつぶやいた。「これからどうなるんですか」
 彼女の目は、夜のように暗かった。
「消えちゃうんですか」
「消えない」お医者さんは声を震わせた。「消えない。眠るだけだ。……私はきみのことを忘れない。自分はまちがった存在なんだとか、いなくていい存在なんだとか、絶対に思わないでほしい。なぜなら」
 お医者さんは、彼女の肩をより強くつかんだ。絶対に離したくないと言うかのように。
「きみも――私の大切な娘だから」
 彼女の目に、わずかに光が戻った。
「じゃあ……」
 彼女はお医者さんをじっと見上げ、泣いているような、笑っているような顔で言った。
「お医者さんのこと、お父さんって、呼んでいいですか」
 お医者さんは、彼女を引き寄せて抱きしめた。その二人の後ろで、彼女の母親も泣いている。
「もちろん」父親は、その子の耳もとでささやいた。「きみがいてくれて、よかった」




 ■ 第1章

 甘い香りを含んだ春風が吹き、桜の花びらがひらひらと舞い落ちる。そんな典型的なシチュエーションの中行われた高校の入学式で、その女の子は藤井アカネに声をかけた。
「藤井さん、ですよね?」
 彼女は明るく澄んだ、でもどこか間延びした声でこう聞いた。
 アカネはきょとんとして、突然目の前に現れた女の子を見つめる。とっさに言葉が出なかった。
 驚くのも無理はなかった。
 ひじまで伸びた長髪は白に近いブロンド。同じように白い肌は透きとおるようにみずみずしい。真新しい制服を完璧に着こなし、化粧っ気もないのに飛びぬけて美しい顔をした彼女は、まるで、天から舞い降りてきた天使のようだった。もちろんアカネもおしゃれをしているし、化粧もしているし、そこそこ可愛いほうだと――自分でも思っている。しかし、そんなことはまったく問題にならないくらいの差が、彼女との間にあるように感じられた。彼女にぱっちりした灰色の目で見つめられたとき、アカネは完全に圧倒されていた。
 さらに、話しかけられたそのタイミングだ。
 入学式の直前、体育館の前で新入生が整列している、まさにその時、列を乱してまで声をかけられたのだ。ここでこのような会話が発生することは、アカネの想定を超えていた。せいぜい、前後左右の人、もしくは中学時代の同級生と他愛のないおしゃべりをするのが妥当なところだと考えていたのだ。そんなとき、列の前のほうからおもむろに歩いてきた、見ず知らずの女の子から声をかけられた。
 予想外の展開である。
「……だれ?」
 やっとの思いで、アカネは言葉を返した。舐められたりしないよう、できるだけ明るさを装って。けれど内心びくびくしながら。周りの目が気になり、教員に見とがめられはしないかと心配だったが、相手はそのようなことはお構いなしだった。といっても、話をしている新入生は彼女たちだけではなかったから、この時点ではまだ、それほど目立ってはいなかった。
「あ、あたし、石野薫っていいまぁす。よろしく、です!」
 彼女はちょっと舌足らずな口調で言い、警官の敬礼のようなポーズを決めた。
 おののきながら、アカネは「おっす……」と返事をする。
 相手が怪訝な顔をしたので、慌てて言い直した。
「ううん、よ、よろしくー!」
 石野薫と名乗ったその少女は、胸のあたりで両手を組み、にっこり笑った。
「やっぱり藤井さん、ですよね? 会えて、うれしいです」
 彼女の顔は、好奇心と喜びに輝いていた。
「はあ」
 アカネにはまったく状況が理解できなかった。どうして入学式から、外国人らしき女の子に声をかけられなければならないのか。
 それに自分のほうは見覚えがないのに、相手はあたしのことを知ってるなんて。
 入学式は、こんな場ではないはずだ。とびきりのおしゃれをして、練りに練って用意した自己紹介をたずさえ、イケてる同級生の仲間になって地位を獲得する。それが入学式だ――とアカネは思っていた。高校デビューをめざすアカネにとって、その少女は正直なところ、邪魔な存在だった。明らかに、「浮いてる」子であることは間違いない。仲間にしたくないやつナンバーワンである。
 関わってもろくなことにならないと思い、アカネは前を向いて黙った。彼女を無視しようとしたのだ。
「藤井さん、どうしたんですか?」
 石野薫はまだすり寄ってくる。アカネは返事をせず、あらぬ方向を眺めていた。
「藤井さん……もしかして、藤井さんじゃなかったですか? でも、そんなことないですよね」
 薫があまりにしつこく声をかけてくるので、ついにアカネも折れた。しぶしぶ薫の顔を見て、聞いた。
「……あの、何であたしのこと知ってんの?」
 石野薫は、アカネにとっては信じられない言葉を吐いた。
「あたし、藤井トシフミさんのファンなんです」
 アカネはぽかんと口を開ける。
 薫もきょとんとする。
「あれ? 藤井さんのお父さんは藤井トシフミさん、ですよね?」
 確かに、アカネの父親は藤井トシフミだった。しかしアカネは、首をひねるしかなかった。父親はアイドルでも芸術家でもない。ファンなどいるはずがない。何をバカなことを言っているんだろう、と思う。
「人違い……じゃない?」
 その時、担当教員の合図で、入場が間近であることが告げられた。まわりの新入生がしんとなる。アカネも口をつぐみ、また前を向いた。ちょっとかわいそうだけど、これで会話は終わるだろう、と思う。
 にもかかわらず、石野薫は話し続けた。
「あ、ごめんなさい」慌てたようににこっと笑って、白い歯を見せる。「ファンというより、尊敬してるんです。藤井先生のこと。あたしは工学系志望なので、藤井先生のことよく知ってるんです。この前学会にお邪魔した時に、先生とお話しさせてもらいました。そうしたら、娘さんのことを聞かせてもらいました」
 滔々としゃべり続ける薫に唖然としながらも、これで入学式当日に声をかけられた理由は何となくわかった。アカネの父親は地元の大学に勤める学者だ。
「藤井アカネさんがあたしと同じ高校に入ると聞いて、うれしかったです」
「はあ。お父さん、そんなこと話したんだ」
 アカネは憮然とする。「お父さんが人と話してるとこなんて、見たことないけど。友達もいないし」
「うそでしょう」と、薫は笑う。
「ほんとほんと。昼は仕事だし、夜は研究室にこもってるし。家にもほとんど帰ってこないし」
「それはやっぱり、すごい人だから、忙しいんです。ああ、憧れます」
 頭おかしいんじゃない? と喉まで出かかったが、アカネはなんとか我慢する。
「憧れるって、あたしのお父さんに?」
 アカネは苦々しい気持ちになる。あのくたびれたおやじに憧れる人がいるとは思わなかった。しかもこんなかわいい子が。世の中そんなに甘くないだろうと思う。
「すごい人、かあ?」疑わしげにアカネはつぶやく。
「そうですよ。あ、今日いらっしゃってますか?」
「ううん。仕事だから」
 入学式には、アカネの母親だけが出席している。小学校の入学式を最後に、父が学校行事に参加してくれたことはなかった。この高校に受かったときだって、お祝いの言葉はおろか、関心すら示してもらえなかったのだ。
「残念ですぅ」石野薫はがくっと肩を落とす。
 どこまで本気なのかといぶかりつつ、アカネは彼女のことをいわゆる「天然」ではないかと思いはじめていた。そんなアカネの心中などまるで察しないかのように、薫はしゃべり続けた。
「あれいつでしたか? 学会で人工知能の新しいを発表していたの……すごいですよね、アトムやアラレちゃんみたいなロボットが現実のものになるんでしょうか。でもアトムが生まれたのは二〇〇三年なんですよね。過ぎてます。早く実現したらいいですね」
 アカネは話に全くついていけない。
「ふーん。ロボット好きなんだ」
「はい。それで……」
 薫は語り続けている。面白くない。入学式早々、他人にペースを握られるのは嬉しくなかった。そこで話を自分のペースに引き込もうと、入学式定番と思われる質問をしてみることにした。
「ていうか、石野さんってどこの中学?」
 すると薫はふいをつかれたように、首をかしげる。
「あ、やっぱ外国生まれなの?」
 アカネはそう聞いてみた。ブロンドや目の色だけを見ても、日本人ではなさそうだ。
「はい、今までオランダで暮らしていました」
「えーそうなんだ」
「はい」
「オランダって、何語しゃべるの?」
「オランダ語です、ふつう」
 薫の答え方はおざなりで、その適当な口調が、アカネには気に食わなかった。さっきは意気揚々と父親のことを聞いてきたのに。高校の入学式で中年オヤジの話のほうが大切というのは、理解しかねた。オランダ生まれだから仕方ないのだろうか。そう思いつつ、自分から振った話題なので、しばらくは調子を合わせることにした。
「あーそっかオランダ語かあー。そういえばそうだよね」
にこにこ顔の裏で脳をフル回転させて、アカネは石野薫の正体を見極めようとしていた。この子はいったいどういう人間で、果たして付き合っていい人なのかどうか、と。
「こっちでは、どこに住んでるの?」
「ナミマチ駅の、近くです」
「あ、市外なんだあ」
 本当は、そんな駅の名前など聞いたことがなかった。でも聞いたことがないのなら市外だろうと判断した。知らないと答えると、何だか不利な立場になるような気がしたのだ。
「じゃあ電車通学? 憧れるー」
 アカネはさもうらやましそうに言って、薫の様子を窺った。
「さっきから気になってるんですけど」
 石野がいきなり声を落としたので、アカネは何事かと思って顔を近づける。
「……なに?」
「あの男の子、かっこよくないですか?」

 アカネは完全にふいをつかれて、しばらく、機嫌が悪くなったロボットのように固まった。
「え? どこ」仕方なく、薫の言う「かっこいい男の子」を探してみる。
「あそこ、二列むこうの、後ろの方の、ほら、ボタン一個はずしてる子」薫の説明で、誰のことを言っているのかは分かった。しかし、アカネは心の中でうなる。
 正直、それほどかっこいいとは思わなかった。
「あーわかるわかる。何か……昭和のイケメンって感じ」
「アカネさん、昭和のイケメン知ってるんですか?」
「知らないけど」
 笑いながら言う。メールでいうところの(笑)をつけて。もちろん平成生まれに昭和のイケメンがわかるはずがない。ただ何となくそういう気がしたのだ。どことなくあか抜けず、陰のある感じ。
「あ、今アカネって下の名前で呼んでくれたね」
「あっ」はっとしたように、薫は口もとを手で押さえる。「すみません」
「別に。アカネでいいし。じゃああたしも、えっと、薫って呼んでいい?」
「はい。嬉しいです」薫は体を躍らせる。
「あー、タメでいいから」
「ため?」
「ため口。えっと、丁寧語使わないってこと」
「ああー」薫は感心したようにアカネを見る。「じゃあ、これからよろしく……ね。クラス一緒だよね、またお父さんの話聞かせてほしいなあ」
 最後の一言にアカネはがくりとうなだれたが、すぐに顔を上げた。
「う、うん、よろしく」
 何だかんだ言いつつ、石野薫と友達になる方向のようだ。アカネは嬉しさ半分、不安半分で、しばらく薫と話していた。そんな二人を、周りの生徒たちはじろじろと眺めている。アカネは視線に気づき、すこし身をかがめた。まずい。薫に早く離れていってほしいと思う。
「あ、もうすぐ入学式始まりそう」アカネはささやいた。
 だが薫はまだ、例のイケメン男子を気にかけているようだった。そっとアカネの耳もとに顔を近づけ、こう言った。
「ああいうイケメンには注意だよぉ。男はオオカミなんだからねえ」
「意味わかんないんですけど」
 くだらない話を続けながら、アカネもつられて、その男子をじっと見てしまう。ただこれは束の間のことで、直後に新入生入場が告げられ、アカネは薫と話すことも、イケメンを見ることもできなくなってしまった。
「まあ背は高くてしゅっとしてて顔も端正といえば端正だけど。普通か、普通のちょっと上ぐらいじゃない?」
 これは後日、中学時代からの友人にアカネが語った言葉である。しかし石野薫には、そういう本音は一切言わなかった。

 入学式から二か月近くが経っても、アカネと薫の関係は続いていて、よく一緒に行動していた。トイレに行ったり、教室を移動したりするときに。というよりも、アカネのいる所に薫がいつもついて来たのだ。出会った日だけで終わってしまう友人関係もよくある。 けれど、二人はそのまま友人になった。
 しかしアカネとしては、薫と親しくなっておくことにメリットがあるとは思えなかった。もちろんとびきり可愛いのだから、彼女と友達になっておけば、教室の中で一目置かれるだろう。けれどそれは同時に浮くということで、下手をすれば、いじめられることにもなりかねない。
 さらにアカネにとっては不幸なことに、石野薫は、ほかの生徒に対してまったく社交的ではなかった。美人で明るく、誰とでも仲良くなれそうなのにも関わらず、薫が誰かと親しそうに話しているところを、アカネはただの一度も見たことがない。外国生まれだから、同じ中学の子もいない。それなのに、新しい友達を作ろうともしない。
 いや、クラスメイトとの会話や関係はそつなくこなすのだ。しかし何となくおざなりというか、その場しのぎの印象を皆に与えた。本人はにこにこ笑っているが、どことなくうわの空。例えるなら、地面から二十センチくらい上をふわふわ漂っているような、そんな存在だった。どのグループにも所属せず、昼休みになるとふらりと姿を消すことも多かった。アカネが他の友達と昼食をとっていたからだ。
「ねえ薫」
 ある日の朝の教室で、アカネは薫にささやいた。もうすぐ朝のホームルームが始まるという時間帯だが、まだ教室に生徒はまばらだ。奥の方では女子が何人か集まって、楽しげに笑い合っている。
「あんた、友達とかいないの?」
 薫はきょとんとした。「どうして? アカネが友達でしょ」
「まあそうだけど、ほかには?」
「ほか?」薫は人さし指を口元に当てて、考え込む。「うーん、とくに」
「それって大丈夫なの?」
「どういう意味?」
 薫は大きな目をぱちぱちさせた。
「どういう意味って……」アカネは目をそらし、教室の奥の女子のグループを眺める。
「ほら、そろそろグループも固定し始めてるしさ、どれかに入らないと、何かと不便だと思うよ」
 その通りで、薫はどのグループからも外された、不思議ちゃんポジションとして定着しつつあった。そしてクラスの女の子たちの薫に対する態度が、何となくよそよそしくなってきていた。教室には西条カナコを中心に、ちょっとした上下関係が構成されつつあった。
「あたし、そういうの興味ないし」薫は笑いながら、さらりと言ってのけた。「じゃあカナコちゃんにおべっか使うの? ムリですぅ」
 教室の奥で笑い声が起こる。薫はそちらに冷めた目をむけ、わずかに口元を上げて笑った。アカネは口をとがらせる。
「でも……。あたしは経験から言ってるんだけど。あたしもさあ、中学までは大変だったし」
「じゃあ、高校では大丈夫なの?」薫はアカネを見つめ、けれど軽い口調で言った。「最近、一人でいること多くない?」
「あたし? そーお?」アカネはわざとらしく首をひねる。
 しかし事実、アカネも弁当を食べる時以外は、一人でいるか、薫と行動しているか、なのだった。
「同じ中学の子とかと、もっと、仲良くしたら?」薫が言う。
「それもなんかねえ」アカネは髪留めをいじりながら、ぺろっと舌を出した。「気が乗らないっていうか。あの子たち、中学でそんなに仲良かったわけじゃないし。ほんとはめんどくさい。あ、言っちゃった」
 アカネは口に手を当てて笑う。
「あ。じゃあ、あたしと一緒だ」薫も笑う。「でももったいないじゃない。アカネ、美人で気も強いから、ちょっとがんばれば、人気者になれるのに」
「何言ってんの。あ、中学といえば」アカネは話をそらし、再び教室の奥に固まる女子グループのほうを見た。その中心で、ひと際目立つ女の子が笑っている。
「カナコちゃんって、高校デビューの典型だよ」
 アカネがこそっと言った。
「あたし中学までスイミング一緒だったから、よく知ってるんだけど、もっと目立たない子だった」
「へえー」
「それが今やクラスの中心だもんねえ」
 そこでチャイムが鳴った。西条カナコが「うざ、もう授業始まるしー」と言って、周りの子たちががやがや笑った。

 石野薫は、藤井アカネと一緒にいるとき以外、ずっと一人だった。唯一の友達であるアカネも、薫につかず離れずという感じで過ごしていた。見かねた馬鹿な男子が何人か、明らかな下心を持って薫に声をかけたが、彼女は軽くあしらうだけだった。
 男子といえば例の、入学式の日の「イケメン」。以降二人の間で話題になることもなく、アカネの記憶からはほとんど消えかかっていた。クラスが違うので、会うとしても廊下でたまに見かけるくらい。たいていは、男友達数人と歩きながらしゃべっていた。彼と話したことは一度もなかったし、名前すらも知らなかった。
 その彼から声をかけられたのは、夏の近づいたある日のことだった。
「本読むんだ」
 放課後の学校図書館で、いきなり話しかけられた。読んでいた小説から目を離して、アカネは椅子に座ったまま、イケメン君をちらっと見あげた。彼は続けてこう言った。
「藤井のお父さんってさ……」
「え?」
 思いがけず出てきた言葉に、アカネは気を取られた。「何?」
「藤井トシフミ、でしょ」
 アカネは驚いたし、困惑もした。
 第一、どうして自分のことを知っているのか。それに、どうしてまた、父親のことなんか気にするのか。一瞬のうちに、アカネの頭の中でさまざまな思いや考えが渦を巻いた。
 彼女の顔色を読んだのか、イケメン君はこう言った。
「きみさぁ、入学式のとき目立ってただろ。大声で話して」
「あ……」
 薫とくだらない話をしていたことを思いだし、アカネは顔が熱くなる。思えば、あれがアカネの高校デビュー失敗の原因なのだ。
「本読むキャラじゃないと思ってた。見た目的に」
「それは悪うございました」アカネは嫌味たっぷりに言い返した。
 イケメン君は意に介さず、長机に手をついて、アカネの目を見つめた。
「藤井トシフミってさ、この学校の改築に関わった人だよね」
「はあ」
 アカネがあいまいな反応をしたので、イケメンはどこか馬鹿にするような口調になった。
「あれ、知らないの?」
 優しそうな顔に似合わず性格は悪そうだ、とアカネは判断した。といって友達がいないわけじゃない。廊下ですれ違う時も、何人かのグループの中心で歩いていることが多いのだ。でも笑っている顔を見たことがないし、目の奥はいつも暗い。
 そんなことを思い出して、アカネは自分がそれほど、イケメン君のことを注意深く観察していたことに気づく。
「知らないよ、お父さんの仕事なんか」そっけなく言った。実際、父親がこの学校に関わったなどという話は、聞いたこともなかった。
「そっか」
 イケメン君はにこりともせずに、しばらく黙ったあと、唐突に回れ右して去っていった。
 アカネは怒りすら覚えながら、その後ろ姿を見送った。気を取り直して小説の続きを読もうとするが、何となく集中できない。かといって、もちろん勉強などする気もない。いつも世間話をしてくれる司書さんは、今日は新刊の整理に忙しそうだ。仕方なく、いつもより早く帰宅することにした。本を棚に戻し、カバンを肩にかけた。
 教室での人間関係に疲れ始めていたアカネにとって、図書館は唯一心を休めることのできる特別な場所だった。花や緑のきれいな中庭のまん中に建っていて、日当たりもいい。館内は明るくて、クリーム色の床や木の本棚に心が落ち着く。その憩いの場所をあのイケメンに侵害された気がして、腹が立っていた。
 帰り際に、図書館カウンターの奥の「委員当番表」が、何となく目にとまった。黄色い画用紙に書かれた図書委員の当番表で、月曜日から金曜日まで、一人ずつ割り振られている。ちなみに火曜日は薫。
 今日は木曜日だった。木曜の担当は、
  牧田雄
 変な確信を得て、アカネは学校図書館を出た。外に出た途端、湿った生暖かい空気がアカネを包む。空を見上げると、重苦しい曇り空が広がっている。しばらくの間そこに突っ立って、空を見ていた。図書館が建つ中庭は、ほかの校舎にぐるりと囲まれた場所だ。けれども窮屈な感じは全然しない。どうしてだろう、とアカネは考える。
 どこからか人声がした。休憩中のバスケ部だろうか。アカネははっと我に返り、帰ろうとして歩きはじめる。

 暗くて地味な玄関ホールには、額縁に入った写真が何枚も飾られている。その中の一枚に、アカネの父親が写っていた。大勢の人が整列した記念写真だ。藤井トシフミは、一番前の列にしゃがんで笑っている。今より若く見えるし、車椅子も使っていない。「県立大井高等学校建校九〇周年記念事業校舎改築竣工式 平成○○年三月四日」とある。
 七年前の写真だ。アカネがまだ、八歳になったばかりのとき。
 すぐそばに、学校を空から撮影したらしい写真も飾られている。
「変なの……」アカネはつぶやいた。
 この高校は、不思議な形をしていた。敷地が円形なのだ。円の中に校舎が並んでいて、円の周りに住宅や空き地が並んでいる。その円のまん中が中庭になっている。七年前の改築の時に、このような構造にしたのだろうか。何の意味があるのか、さっぱりわからない。
 設計した人の顔を見てみたいものだ。
 父親が設計したわけではないだろうけれど。
 アカネはこの時初めて、高校の大規模な改築工事に父親が関わっていたことを知った。何も知らずにこの高校を志望して、受験して、合格して、入学したのだ。全く何も知らずに。というのも当の父親が、一言もその話をしなかったから。
 薫といい、イケメン君といい、藤井トシフミに強い関心を持っている人がいる。それは、学校を建てた有名人だからなのか。アカネは何となく腑に落ちない。校舎の工事に関わった人など、普通は知らないはずだ。知っているほうが特別といってもいい。
 アカネは舌打ちする。
「何が、『あれ、知らないのぉ』よ」
 馬鹿にされる理由など何もないのだ。
 それでも、小さな劣等感と、父に対するかすかな反感は覚えた。
 アカネは考えるのをやめる。帰ったら、父親に直接聞いてみよう。そう思って校門に向かった。
 門までは少し距離がある。なぜかは分からないが、正面玄関が西向きになっているのに、校門は南にある。この妙なずれは、学校の七不思議の一つになっているらしい。しかし、アカネはあとの六つを全く知らない。

「え、えーっ」
 家に帰るなり、アカネは素っ頓狂な声をあげた。
 石野薫が、父親の部屋から出てきたのだ。
「あ、アカネー」
 薫はいつもと全く変わらない様子で、にこにこしながらアカネに近づいた。
「おっす……あ、いや……えっと」とっさのことで、言葉が出てこない。
「どーしたの?」薫が不思議そうに、アカネの顔をのぞきこむ。
 アカネからすれば、どーしたもこーしたもない。
「どーしたのって、それはこっちのセリフ! 何でうちにいるわけ?」
「藤井トシフミさんに、会いに来たの」
「いやいや」アカネはすかさず突っこんだ。女子高生が中年オヤジに会いに来るなど、到底信用できなかったのだ。いやそれ以前に、薫がアカネに一言も知らせず、こうして家に上がりこんでいること自体、不可解極まりなかった。普通は、先に娘に声をかけるものだろう。何といっても、アカネと薫は……友達なのだから。
「あたしに言ってくれたらよかったのに。案内するし」
 アカネは少しむくれていう。中年親父にかわいい女の子を取られたような、ちょっとした喪失感を味わっていたのだ。なんかムカつく。そんな顔をしていた。
「そんな怒らなくても」薫は無邪気に笑って、アカネをなぐさめる。
「何話してたの」
 目をそらして、アカネは聞く。
「ええと、いろいろぉ」
「いろいろ……」アカネは愕然とする。
「別に変なことじゃないよ。将来のこととか。どういう大学行って、どういう資格取るのはいいのか、とか……」
「あ、研究者めざしてるんだっけ?」
 薫の将来の夢について、アカネは何度か聞いたことがある。そういえばあの入学式の日にも、ロボットがどうとか話していた。
「そう。とりあえずは大学で頑張って、ちょっと認められるような論文書いて、安達研究所とか新田大附属とか、有名な研究機関に入れたらいいなって。でも将来は独立できたらいいなあ」
 すらすらと夢を語る薫の言葉は、アカネに少なからず衝撃を与えた。何の目標もなく高校を選んでのうのうと過ごしているのだから当然だった。アカネの目標といえば、まずその日の夕食を食べること、次いで寝ることだ。
「へえー、すごいね」とりあえず、相槌をうつ。「あ、あたしのお父さんって、やっぱりその筋では結構有名だったりするの?」
「もっちろん!」アカネにとっては不可解だが、薫は自分のことのように胸を張る。
「もともと技術者だから、あくちゅえーたぁが専門かな。でも何でも。あ、この前近くの踏切が新しくなったでしょ。センサがついたから、事故の心配が少なくなってエネルギー効率もよくなったんだ。あれも、藤井トシフミさんの研究室で、開発された技術だよ」
 アカネは首をかしげる。自分の父親のことなのに、まったく知らない人の話を聞いているようだった。父は研究室にこもって、そんなことをしていたのか。驚きだった。
 けれどもアカネには、一度も話してくれたことがない。
 自分は父親に嫌われてるんじゃないか。アカネはよくそう思う。だから、アカネも父親が好きではない。

 薫が帰ったあと、アカネは勢いよくドアを開け、父親の部屋に入った。
「ノックしろ」
 藤井トシフミは机に向かったまま、つまり娘に背をむけたまま、低い声で言った。いつものように、何かの機械をいじっているようだった。肩が凝っているのか、しきりに首を回している。机のスタンドランプが白い光を放っているだけで、部屋には電気もついていない。
「今日は早いな。ちゃんと勉強してるのか」
「してますう」
 アカネは口をとがらせる。
 本当は、いつ図書館でだらだらしているだけだ。今日はイケメンに邪魔されたから、早く帰ってきただけのことだった。
 部屋にはピアノの音色が流れている。隅に置かれた大きなピアノが、鍵盤をひとりでにかたかた動かして、アカネにはよくわからない曲を奏でている。父親によると、これは姿なきピアニストが演奏しているのだそうだ。中学一年生くらいまで、アカネはそれを信じていた。
「お父さんこそ、帰り早かったんだね。薫……石野さんが来るから?」
「違う」父親はぶっきらぼうに答える。「今日からお母さん、いないんだ。だから誰か家にいないと、いかんだろ……」
「うそ、実家帰っちゃったの?」
「ばか言うな」
 彼は車椅子の向きをわずかに変え、振り返って、丸眼鏡の奥から娘をじろっとにらんだ。「近所のご婦人方と一緒に旅行だ。今日出発して、土曜日に帰ってくる」
「あ、そういえば」
「なんだ、知ってたのか」
「当たり前ー」突っかかるように言ってから、アカネは父親の部屋を見まわした。
 久しぶりに見る父の部屋。ほこりをかぶった用途不明の箱型の機械や、無数のコード、古そうなパソコン、工具類。今まではどうして置かれているのか全く見当がつかなかったが、有名な研究者だと思えば、何となく納得がいく。おそらく研究で使うのだろう、くらいにアカネは思った。ただ、楽器や鉄道の模型など、理解に苦しむものもあちこちに転がされている。
「あんまりバタバタするなよ。機器に何かあったら困る」
 そう言う彼はもう娘を見るのをやめて、再び机に向かっていた。
「してないよ。それよりさあ」アカネは父親の背中に近づいた。昔はあんなに大きく見えた父親だが、今はそれほどとも思わない。車椅子に乗り始めてからは、ますますこぢんまりとして見えるようになった。それは、アカネが小学生の時だ。
 以来、アカネの背はぐんぐん伸びて、車椅子に座った父をあっという間に追い越した。そして、二人の会話はだんだんと減っていった。
「何で薫がここにいたの?」アカネは尋ねた。「変なことしてない?」
「するか」
「あのさ、お父さんって、何者なの?」
 実の父親に聞くには、すこし不可解な質問だった。藤井トシフミもそう思ったのか、ため息をついただけで、「今忙しいんだ。夕食の後にしてくれ」と言った。
「薫とは仲良くおしゃべりしてたのに?」
「あれは、何だ、仕事の一環だ。そう、後進を育成するという……」
 最後のほうは聞き取れなかった。アカネはいらいらして身を乗り出す。
「え、何て?」
 父親が答えず、顔も向けようとしないので、アカネは仕方なく話題を変えた。
「晩ごはんの準備は? ……ううん、いいよ。あたしが作る。どうせ自分でやる気もないんでしょ」
 ぶつぶつ言いながら、アカネが部屋を出ようとしたとき、床に無造作に落ちていた写真に目が留まった。拾い上げて見てみると、若いころの父親が、誰か知らないおじさんと一緒に写っているものだった。何かの建物の前で撮影したのだと思われた。記念写真のようでもあるし、ただのスナップのようでもある。
「写真落ちてるよ」
「わざとだ」
「何それ」
 アカネはあれ、と思う。父と一緒に写真に写っている男には、どこか見覚えがあるのだ。
「この人……」
「知ってるのか」父親が尋ねた。
「うん、誰かに似てるような……誰だっけ」アカネは思い出そうとする。しかし、わからない。
「同級生じゃないか」と父親が言った。
「そうかも」
 言われてみれば、そんな気がする。だが父に言い当てられたのが癪なので、アカネはちゃんと肯定する気になれない。
「男か」
「たぶん」
「じゃあそいつには近づくな」
 そう言って、父親はアカネから写真をひったくった。
「なによー」アカネは不満そうにほおをふくらませる。「一緒に写ってるの、誰?」
 答えは無い。
「意味わかんない」
 もう知らない、と半ば投げやりになりながら、アカネは部屋を出た。
 明日、あの金髪美人を問い質してやろう、と思う。藤井トシフミは何者なのかとか。お前は何をしていたのかとか。
 次の日は大雨が降った。アカネは悪態をつきながらも懸命に登校したが、遅刻を免れることはできなかった。そして、石野薫は学校を休んでいた。

「あ、にゃんころー」
 学校図書館の前の陽だまりに、トラ猫が寝そべっている。最近校内でよく見かける猫だ。中庭の図書館は芝生や花壇に囲まれているし、校舎と校舎の間にあるにも関わらず、日当たりがいい。寝転がって日向ぼっこをするには最適な場所だ、とアカネは密かに思っている。最近は雨が多いのでそれほどでもないけれど。
 よく手入れされた芝生の中に、島のように点在する花壇には赤や紫、黄色のパンジーが植わっていて華やかだが、今は夏も近づき、花はほとんど終わってしまっている。しおれたパンジーたちは、名残惜しそうに、ゆらゆらと風に吹かれている。藤棚があったり、木のベンチもいくつか置かれていたりするから、休み時間には多くの生徒がやってきて、弁当や学食のホットドッグを食べたりする。
 猫は図書館前のスロープの脇にいた。人目を気にせずごろごろできる猫をうらやましく思いながら、アカネはそっと近づいていく。ほかの生徒が近づくと逃げるが、不思議なことにアカネにだけはなついていて、なでなでしてやるといつも嬉しそうにのどをならす。
「またここで寝てるー。きみ、ひまだねぇ」
 独りごとをいいながら、今日も猫とひとしきり遊ぶ。毛がびっしり生えた猫の体は、触ると妙に気持ちがいい。キツネ色の体に立派な黒い縞模様。まさに小さいトラだ。明るい黄色い目を周囲に走らせながら、たまにアカネを見あげてにゃあと鳴く。
 時間が経つのを忘れてしまいそうだったが、グランドから野球部のかけ声が聞こえ始めたところで遊ぶのをやめた。おーいおーいという野太い声が、校舎の壁をはねかえってこだまする。猫と名残惜しげに別れて、アカネは図書館に入った。
 アカネは部活に所属していない。そうでなくても、勉強について行くだけで必死なのだ。五月の中間考査で失敗し、赤点をいくつか取ってしまったアカネは、期末考査でなんとか挽回しようと焦っていた。
 図書館の中は、心なしかいつもより暗い。ちょうど日が陰っているのだろう。だがアカネの目にまず映ったのは、新刊を紹介するポップでもなく、カウンター周辺にたむろする女子たちでもなく、整然と並んだ長机の間を歩く、あのイケメン君の姿だった。図書館の奥へと、ためらいもなさそうに歩いて行く。先日声を掛けられた一件を思い出して、どうにも、気になってしまう。
 今日はこっちから声をかけてみようか。
 そう思っているうちに、イケメン君は壁際の本棚の脇に消えた。近づくと、そこは職員専用の通路だった。普通、生徒が入ることはない。
 そうか図書委員だからか、と一人合点して、それでも気になり、通路の奥をのぞきこむ。電灯が点いていないから、薄暗くて気味が悪かった。床には段ボール箱や棚の一部が散らかっている。イケメン君はさらに奥の階段を降りていくようだ。遠ざかる足音がわずかに聞こえた。
 どこに行くんだろう、何があるんだろう、という興味も手伝って、アカネはイケメン君を尾行することにした。そのとき、ふと思い出した――いつか父親の部屋で見た写真。
 そこに写っていた人物は、あのイケメン君に似ていたかもしれない。
 足音を立てないように、猫のようにつま先を立てて、慎重に階段を降りる。さびかけた鉄製の階段で、たまに揺れるので危なっかしい。手すりを触ると茶色いさびが手につくのが、アカネにとってはかなり不快だった。小さい頃は泥んこになっても平気だったのに、少しは女の子らしく成長したのかも。
 階段の下に広がっていたのは、これまた薄暗い倉庫だった。かなり広い。小学校の教室のような木製の床に、たくさんの本棚が据えられている。どれもアカネの背丈を軽く超えるもので、手をのばしても一番上、いや二番目の棚までも届かないだろう。そんな本棚が、ざっと見ただけで二十か三十くらいびっしりと並んでいて、そのほとんどに分厚い本やファイルが詰め込まれていた。
 本は好きなアカネだが、さすがに圧迫感を感じた。それでも本棚の間をくぐり抜けるようにして、少し進んでみた。イケメン君の姿は、どこにも見えない。電気は点いている。が、蛍光灯の無機質な明かりが逆に怖い。何の物音もしない。聞こえるのは自分の足音だけだ。
「何してんの?」
 背後から、いきなり声をかけられた。
 振り返ると、十歩ほど離れたところに、イケメン君がひっそりと立っていた。
「もう、びっくりした……」
 心臓の鼓動を押さえきれないまま、うわずった声でアカネはつぶやいた。「え、あんたこそ何してんの」
 アカネは図書館カウンターに貼られていた当番表を思い出して、「えっと、牧田雄君、でしょ」と付け加えた。
 イケメン君は鼻で笑った。「雄真だよ」
「え?」
「あ、あの図書委員の当番表見たの? 牧田が二人いるから、ぼくのことは牧田雄まで書いてんの。他の人はみんな苗字だけでしょ」
「あっそう」
 内心かなりむっとさせられながら、アカネは言った。牧田の話しぶりにはどこか人を食ったようなところがあって、やたらと気に障るのだ。それでも尾行していたことを気づかれないかと心配だったので、とりあえずこの場を取り繕いたかった。
 しかし牧田はそんなことには無関心なようで、アカネが話し出すより先に、ふらふらと歩きだした。
「ちょっと」
「せっかくここ来たんだし、おもしろいの見る?」と、全くおもしろくなさそうな口調で牧田は言った。
「何?」
「いやおもしろいんだよ、この倉庫」
 なおも牧田はぶつぶつとつぶやきながら、壁際にある何やら操作盤のようなものを触った。すると黒板をひっかいたような気味の悪い音を出しながら、あたりの本棚が揺れ始めた。
「あ、地震」アカネは本棚から飛びのいた。あんなに分厚い本が落ちてきたら、ひとたまりもない。
 けれども本棚は倒れることなく、ゆっくり滑るように動き出した。揺れや音がおさまった時、倉庫に並んでいた全ての本棚が奥に退き、アカネと牧田の周りに、教室の広さくらいの空間が生まれていた。
「レールを使った、簡単な装置だよね。でもかなり画期的。シンプルだけど奥が深い」牧田は広くなった床を点検しながら言う。よく見ると、床には何本もの細いレールが埋め込まれていた。
「あれだけ重いものを動かそうとすれば……二百キロはあるんじゃないかな……当然大きな駆動力、つまり、それを生み出す電力が必要になるはずだけど、鉄道の技術を応用して摩擦を最小限にして、エネルギー消費を少なくしている……」
 そこまで言って牧田は、アカネを振り返った。
「どう?」
と、相変わらずの無表情で言う。
「どうって」
「おもしろいでしょ」
 アカネはおびえた様子で立っていた。目の前で奇妙なことが起こり、少年が意味不明のことを語り始めたのだから、当然といえば当然だろう。
「まあね」
「あっそう」
 そこで会話が途切れた。どこから飛んできたのか、小さな蛾が、蛍光灯のあたりを飛び回っている。天井のところどころに配管が見え隠れしていて、アカネにとっては何となく気味が悪い。父親の部屋や職場の研究室を想像させるのだ。
「あ、あのさ」アカネが口をひらいた。「前に、あたしのお父さんについて聞いてきたことあったよね? よく知ってるの?」
「ん」牧田はかすかに首を振った。「名前を聞いたことがあるくらい、だけど」
「そうなんだ。えっと……」と言いかけて、アカネはためらう。間違っていたら恥ずかしい。けれど、どう考えても、あの写真に写っていたのは――。
「えっと、もしかして牧田君のお父さんって、うちのお父さんと知り合いだったりする?」
「あーアカネー! ここにいたんだあ」
 突然、どこからともなく薫が現れて、アカネの腕を取る。
「ちょっとちょっとお。こんなとこに二人っきりなんて、なんか怪しいぞぉ」
 ふふふと笑いながら、薫は牧田のほうを向いた。
 アカネにとっては、この二人が話すのを見るのは初めてだった。しかし薫は、牧田をよく知っているようだった。
「あたしとアカネ、今から試験勉強なんだ。邪魔しないでね。牧田くんも、こんなとこで女口説いてないで、勉強したらー?」
 呆然とする牧田を残して、アカネたちはさびた階段を上って地下室を出た。
「救出成功アル!」図書館を出たところで、薫が嬉しそうに言う。
「救出って」
「アカネぇ、男はオオカミなんだからねえ。油断しちゃいけないんだよー。あ、何、それとも抜け駆け? 許さないよぉ。……まあとりあえず、図書館にはあんまり近づかない方がいいんじゃない。また襲われるよ」
「襲われてないって」
 お父さんみたいなこと言うなあ、とアカネは思う。
 男には近づくな――この前話した時、父にそう言われたような気がする。
「てか図書館入らないと、勉強できないし」
「家でしたら?」
「家出?」
 薫は吹きだす。「違うって。家、で、したら」
「ああ。家……でもお父さん、うるさいし」
「何それー。あんな頭のいいお父さんがいるは、すごくうらやましいのにぃ」
 アカネは薫を不審そうに見つめた。
「え、何?」薫は目をぱちぱちさせる。
「薫って、……前聞こうと思ったんだけど、うちの父親とどういう関係なわけ? アヤシイんですけど」
「なになに、もしかして不倫とか疑ってるの? そんなわけないから。でも、それより深い関係かも。なんちゃって!」
 なんちゃって、のところで、薫はお決まりのポーズを決めた。
「まじめに答えてよ」
「アカネに言われたくない」
「どういう意味?」
「別に。あ、塾の時間、だからもう行くね」
「え、薫って塾行ってたっけ」ふいをつかれて、アカネは慌てる。薫とは、帰宅部・塾行かない仲間だと思っていたのに。
「もっちろーん」薫は黒い通学かばんを肩にかけ、長いブロンドの髪を揺らしながら走って行った。中庭を抜け、渡り廊下の下の通路を駆けぬけた彼女は、すぐ校舎に入って見えなくなった。
 アカネは呆れて、夕暮れの中庭に立ち尽くす。まだ日は落ちていないが、しかし六月だ。かなり遅い時間になっていそうだった。校舎の影に覆われて、芝生も黒く染まっている。雨が降り出しそうな、重い空気だった。アカネはとぼとぼと歩きだし、校門に向かった。その姿を、あのトラ猫は地面に寝そべりながら、じっと見送っている。

 それからもアカネは、薫の目を盗んで頻繁に学校図書館に通った。勝手に塾に行き出した薫にむかついたというのもある。女の恨みは怖いのだ。といっても、父親への反抗心も当然あった。するなと言われれば、したくなってしまう。近づくなと言われれば、近づいてしまう。そういうものだ。
 牧田は、毎日のように地下倉庫にいた。そして、何かを探しているようにアカネの目には映った。
「何してるの?」と、アカネはある時、聞いてみた。「探し物でもあるの?」
 牧田はあっさりと答えた。「リチャードソンの設計図の写し」
「何それ?」
 その頃にはもう、彼の口から知らない言葉が出てくることに、アカネは慣れっこになっていた。
「イギリスの、有名な建築家にリチャードソンっていう人がいて、その人の設計図のコピーを、藤井トシフミさん、きみのお父さんがここに寄贈したやつ」
「はあ」淡々と説明されても、アカネには皆目わからない。
「もっと簡単に見つかると思ったんだけどな。紛失したのかも。よかったら藤井さんに聞いてみてもらえないかな」
 牧田はそれらのことを、何でもないことのように言った。
 その時あのトラ猫が――静かに床の上を走り、どこともなしに姿を消した。アカネは気づいて目を丸くしたが、牧田は気づかなかった。

 翌朝、アカネは珍しく余裕を持って家を出て、通学路を歩いていた。いつもは始業チャイムと同時に校門に駆けこむのだが、今日は三分も余裕がある。
 アカネは高校のすぐ近くに住んでいたから、よほど急いでいるとき以外は自転車を使わなかった。道路には水たまりがあちこちに残っているけれど、空は久しぶりに晴れてすがすがしい。高校が目前に迫った時、そばの家から、だれかが飛び出してきてアカネとぶつかった。見ると、牧田雄真だった。
「何? ありえないんだけどー」
 アカネは思いっきりしかめつらをする。牧田に踏まれた靴は、泥だらけだ。
「うわー。どうしてくれんの」
「そっちこそ、ぼーっとしてるのが悪いんだろ」牧田は悪びれもせずに言った。
「ごめんぐらい言ったら?」アカネが食って掛かる。
 そばを通り過ぎていく生徒たちが、二人をもの珍しそうに眺めている。
 その時予鈴が鳴った。
「あ、遅刻する」牧田がつぶやいた。
「あと五分もあるから」アカネとしては、これは早すぎる登校時間だ。
「てか、何でそこから出てきたの?」
「いや、ここに住んでるから」
「えーここが家なの」アカネは目を丸くする。毎日前を通るのに、全然気づかなかった。何の変哲もない一戸建てで、今までよく見ようとしたこともなかった。いや、存在にすら気づいていなかったかもしれない。
「でも……」アカネは表札に目をとめる。「松本って書いてあるけど。名前違うよね」
「祖父の家だから」牧田は短く答えた。
「ふうん……てか、汚くない?」
「え?」
 アカネは牧田の足もとをじろじろ見た。靴もそうだが、制服のスラックスにも泥がついている。学ランだから、乾いて白っぽくなった泥はとても目立つ。
「何してたの?」
「別に」
 アカネは勝手に、家の門から敷地の中をのぞきこんだ。うす暗い庭は案外広く、小さな畑につながっているように見えた。
「見るなよ」牧田はアカネを押し戻した。
「家庭菜園でもやってんの?」
「ちがう」牧田はそっぽを向いて否定する。
「あれさあ、場所が悪いよ。全然陽があたんないでしょ? あと盛り土の仕方もなんか甘いし……」
 牧田の家は、ちょうど高校の校舎の陰になっていた。これでは一日の内数時間しか日光が差さないだろう。花や野菜を育てられるはずがなかった。
「関係ないだろ」
 牧田はそう言い捨てて、校門をくぐっていった。教室を目指す生徒の群れに、彼はすぐかき消されてしまった。
 その日も、図書館の地下室に牧田はいた。けれども朝の出来事については、一言も触れようとしなかった。
「設計図のこと、藤井さんに聞いてくれた?」
「自分で聞いたら?」アカネは靴の汚れをはらう仕草をしながら、冷たく言い放った。

 牧田が怪我をして入院した、とアカネが聞いたのは、そのすぐあとのことだった。どういう状況で彼がけがをしたのか、学校ではいろいろな憶測が飛び交ったけれども、図書館の本棚に腕を挟まれたらしいという一見突拍子もない説が、アカネにとっては最も本当らしく聞こえた。もちろん、思い当たるところがあったからだ。
 彼が入院しても、千羽鶴を折ろうとか、色紙を書こうとか、そういうことを言い出す人は誰もいなかった。牧田に友達がいなかったわけではない。クラスの中で影が薄かったわけでもない。単に、同級生はみんな試験勉強で忙しかっただけなのかもしれない。七月に入り、ついに期末試験期間となっていたのだ。
 冗談半分で「お見舞いくらい行こうかな?」とアカネが言うと、薫は猛然と反対した。
「それって同情? 危ないよ危ないよー」
 その日――牧田が入院した翌々日のことだ。アカネが家に帰ると、客が二人訪ねてきていた。どちらも見覚えがない。若い男と若い女だったが、二人とも警察の人間だった。アカネが居間に顔を出すと、彼らは愛想よく挨拶をしたが、向かいあって座っていた父親の顔は、いつになく険しかった。顔を伏せぎみにしていたので、眼鏡の奥の目を見ることはできなかった。
 アカネはすぐに台所で勉強を始めたが、父親と警察がどんな話をしていたのかは、しっかりと盗み聞きしていた。いや言葉が切れ切れに聞こえていただけだが、それで十分だった。図書館、怪我人、棚の駆動装置、云々。
 アカネは気づいた。
 あの地下倉庫の装置を開発したのは、父親だったのだ。だから怪我人が出たことで、父親が責任を追及されているのだろう。
 心配で仕方がなく、警察が帰るまで、勉強は全く手につかなかった。だが、これは試験前にもかかわらず勉強しなかったことの言い訳でもある。
 夕食の席で、父親がいつものようにむっつり黙りこみ、先ほどのことを話題にしないものだから、アカネのほうから切り出すことにした。
「大丈夫?」
「何がだ」父親はテレビから目を離さない。公共放送のニュースが流れていた。この大画面のテレビは市販品ではなく、彼の趣味で作ったものだ。チャンネルが一つしかないために、家族からは甚だ不評である。
「責任取らされたり、するの」
「微妙なところだ」
「微妙って?」
 父親は大儀そうに、アカネに目をやった。眼鏡がきらりと光った。「あの図書館は学校のものだ。装置も学校の依頼だ。だが、おれが作ったものは、依頼された機能を超えていたらしい……まあ、相手方に賠償金を出せと言われたら、出す必要があるかもな」
「そうなりそう?」アカネは不安そうに聞いた。
「さあ」
「さあって……」
「少なくとも牧田雄真は、それはいらんと言ってるらしい」
「よかったあ。さすが牧田くん」
 そこでアカネは、もう一つの心配ごとに思い当たった。「でも、親は? 牧田くんの親は怒ってない?」
「あいつに親はいない」
 父親の答えは、アカネにとってかなりの衝撃だった。そして、父親のぴしゃりとした言い方がどことなく不愉快で、気に障った。
「牧田くんのこと、よく知ってるの?」
 父は黙った。
「ねえ知ってるの?」
「お前こそ、そんなに牧田雄真のことが気になるのか」
「そりゃ、いやそういうわけじゃ……」
 すると父は車椅子を動かし、どこかへ行ってしまった。と思うと、すぐに戻ってきた。
「友達は慎重に選べ。あいつには近づくなと、前にも忠告したな」
 彼は、アカネに一枚の写真を手渡した。
 いつか父の部屋で見た、父と知らない男が一緒に写っている写真である。
「そいつはおれの古い友人で、牧田雄真の祖父だ」
「ああ……」アカネはうなずく。ある程度予想していたことだから、それほど驚きはしなかった。
「やっぱり。すごい似てるよね」
 アカネは父を上目づかいで見る。「えっと、この人は……」
「何年か前に亡くなった」
「ふうん」
「おれの責任でもある」父親はぶっきらぼうに言った。
「えっ」
 彼はぬるくなったビールを一口飲み、ぽつぽつと話した。
「その人はな。娘夫婦を早くに亡くした。だから、奥さんと孫思いの人だった。あの高校の改築の時、家族の思い出の場所が消えてしまうとかで、計画の変更を申し出たが、おれや他のやつらは賛成しなかった」
 そこで、彼は自嘲気味に笑った。
「改築工事が終わって、まあ、精神的なものだろうが奥さんがそのすぐあとに亡くなって、彼も、後を追うように死んだ。ああ、その人、設計士として改築に関わっていたんだ。だからおれはよく知ってる」
 アカネは写真をじっと見つめた。牧田雄真の祖父は、細身で短髪、顔の彫りが深くて、なかなかハンサムだ。
「お父さんと一緒に、仕事してたの」
「もうだいぶ前だ」
「お父さん、その改築のこと、あたしに全然話してくれなかったよね」
「そうか? お前が忘れてるだけじゃないのか」
 アカネはぶすっとして黙る。そしてつぶやいた。
「……その思い出の場所、残して置いたらよかったのに」
「ばかいうな」
「ばかって何?」アカネは思わず大声を出す。
「もうとやかく言うな。終わったことだ」父親は断固とした口調で言った。
 彼はそこで言葉を切り、お茶をすすった。
 また沈黙が訪れる。アカネの母親は近所のカルチャーセンターに出かけており、この曜日はいつも帰りが遅い。
「じゃあさあ」アカネが憮然とした顔で父親を見る。「牧田君、お父さんに恨みを持ってるんじゃない?」
「そうかもな」
 彼は当然のように言った。
「そうかもなって……」
「あいつはおれの破滅を願ってるだろうよ」
「そこまで言わなくても」
 父親は含み笑いをした。「お前に近づいたのも、それが理由かもな」
「え……」
 アカネは、初めて牧田に声を掛けられたとき、その話題が藤井トシフミのことだったのを思い出した。
「てか何で知ってんの? 気持ち悪っ」
「とにかくあいつとは関わるな。前にも言った通りだ」
 父親はそれだけ言って首を回し、いつもの様子――アカネの言葉を借りれば「むっつりモード」に入ってしまった。

 父親にそう言われたにもかかわらず、そして石野薫に反対されていたにもかかわらず、アカネは牧田のお見舞いに行くことにした。大した意味はなかった。ただ何となく同情していたし、元をたどれば自分の父親のせいで怪我をしてしまったのだ、という負い目もあった。
 牧田が藤井トシフミのことをどう思っているのかは、この際考えないことにした。というか、恨んでいて当然なのだから、今さら気にするだけ無駄だ。アカネはそう割り切ることにした。
 放課後、アカネは自転車に乗り、駅に近い大学病院をめざした。梅雨はまだ明けない。重そうな灰色の空が今にも落ちてきそうな、不吉な予感がした。雲が怒り狂ったように、ものすごい速さで流れていく。
「変に同情見せると、つけこまれるからねー」
 後ろで薫が叫んでいる。それを無視して、アカネはさらにペダルを踏み込む。声が遠ざかる。結局、牧田のお見舞いに薫がついてくることになったのだ。曰く「病室での逢引きは、危ないんだよ」――アカネは「いつの時代のドラマだよ」と軽くあしらった。自転車のかごで、菓子折りがカタカタ鳴った。
 病院の受付で尋ねてみたが、牧田雄真は入院していなかった。
「じゃあ、松本雄真さんは?」
 アカネが言った。薫が横で、不審そうに見ている。
 思った通りだった。「松本雄真」という高校生が、腕を骨折して三日前から入院しているとのことだった。
 牧田が表札に「松本」とある家に住んでいたことを、アカネは覚えていた。
「変に同情見せると、つけこまれるからねー」
 後ろでささやく薫の言葉を無視して、アカネは病室に入った。
 牧田の様子が想像していたよりもひどかったので、アカネは冷や汗をかいた。巻き寿司のように腕を包帯で巻き、その腕をベッド脇の支柱から吊って、本人はベッドで微動だにしない。どう見ても重傷だった。
「やばい?」とアカネが聞いたら、牧田は一言「そうでもない」と言った。
 形式的に、菓子折りを差し出して謝る。
「その、まあ、ごめん。早く良くなるといいね」
「何できみが謝るの」
 顔だけでなく、声まで無表情だ。
「だって、あたしのお父さんが作ったんでしょ、あれ……」
「関係ないよ」牧田はそっけなく言った。「ぼくが悪いんだから。ちょっと失敗しちゃって」
「でも……」
「もういいって」
 病室に沈黙が訪れた。生暖かい不快な風が、カーテンを揺らしている。
「何あの態度」
 病院から出て、アカネは毒づいた。「せっかく来てやったのに」
「でも、やっぱり本棚に挟まれたんだぁ。どじな子だねえ」アカネと並んで歩きながら、薫がのんきに言っている。
「いや、そーいう問題じゃなくて」
「そこまで怒らなくても、いいんじゃない」
「うーん……」アカネは考えこむ。
 病室の牧田雄真は、アカネが来ても、話題が彼女の父親のことになっても、終始無表情で落ち着いていた。この上なく冷静だった。実は恨みなんか持っていないんじゃないか、とアカネが思うほどだった。よく考えれば、七年も前の改築工事の経緯など、牧田雄真が詳しく知っているはずはなかった。彼がまだ小学生の時だ。藤井トシフミと彼の祖父の間に何かあったにせよ、そのことを牧田まで根に持つとは考えられない。
 薫が言った。
「でも危なっかしいから、当分あいつには近づかない方がいいんじゃない。アカネも怪我しちゃうよ」
「またお父さんみたいなこと言ってる」
「あれ、似てた?」薫が笑う。
 アカネは歩きながら、敷地内の大きな庭を眺める。
 いつの間にか雲が晴れて、夕日が差している。
 西の空がオレンジ色に染まっていて、白や灰色、赤や黒、黄色やピンクといった色とりどりの雲が浮かんでいた。明日も晴れそうだ。そろそろ梅雨が明けるだろう。
 庭には、人の姿がまばらに見えた。アカネたちのような見舞い客だろうか。ベンチに座って、景色を眺めている人もいる。
「あたしのお父さんね」アカネは唐突に言った。「昔、ここに入院してた」
「藤井トシフミさんが?」薫が振り返る。
「そう。あたしが小学生の時。難病か何かで、死にそうになったんだって。今でも車椅子使ってるでしょ。うまく歩けないのは、その時の後遺症」
「その時のこと、アカネ、覚えてる?」
 アカネは首を横にふった。「あんまり。病気の話は、あとで聞いて知ったことがほとんどかな。何回かここに来たことは覚えてるんだけど」
 庭の端に、古びたベンチが一つ、ぽつんと置かれている。
 あのベンチに、お父さんが座っていたような気がする。病室で、お父さんに抱きしめられたような気がする。
「てか薫、何でそんなこと聞くの?」とアカネは尋ねた。
「ううん、特に意味はないよ」薫はおっとりと答える。「でも、元気になってよかったね」
「奇跡的だったらしいよ」アカネはうんと伸びをして、病院を振り返る。こういうところは、何だか肩がこる。ぐるぐると首を回す。「今の医学じゃ説明できない回復っぷり……ううん、そこまでじゃないか。でもかなりまれなケースだったんだって。これお母さんから聞いた話」
「へえー、すごぉい。よかったね」
 薫は胸の前で手を組んで、にっこり笑った。
「まあね」アカネはあいまいに笑う。「……薫は、あたしのお父さんのこと尊敬してるの?」
「もちろん!」
「じゃあ、牧田くんもそうかな」
「それは違うよ」薫はすかさず言った。
「何で?」
「勘。……あ、ネコがいるー」
 薫の指差した先、病院の駐車場の入口のあたりに、例のトラ猫が座っていた。背をむけた状態から、少し首をねじってアカネたちを見つめている。
「おー」
 アカネは嬉しくなる。ここ数日、学校であのトラ猫を見ていなかった。だから何となく気になっていたのだ。
「ちょっと心配だったんだよねー。最近いなかったし」
「そうだっけ」
「うん。でも何で、ここにいるんだろ」
 アカネが首をひねっているうちに、トラ猫は音もなく走り去ってしまった。彼がいなくなった駐車場は、どことなく空虚だった。

「ちょっと何やってんのおおおお!」
 アカネの悲鳴に近い声に驚いて、二人は同時に飛び上がった。大学の研究室に入ってみると、父が石野薫の制服に手をかけて、今まさに服を脱がそうと……
「おい!」
 父親の怒鳴り声を背に、アカネは泣きながら走り去っていった。
 梅雨が明けたばかりの七月の下旬。夏休み前の試験がはじまる当日のことだった。ニュースで連日報道されているように、気の早い台風が列島に迫っていて、朝から雲行きが怪しかった。警報が出ることをアカネは切望したが、それは叶わなかった。
 教室にはいつもと違う緊張感が流れているが、アカネは今朝の出来事のせいで、まったく集中できなかった。それに、時間が経つごとに空は暗くなり、風も強くなってきていた。
「まじ帰りたいんだけどー」
 試験が始まる直前、西条カナコとその取り巻きが教室の後ろで騒いでいた。アカネはそれを何とか無視し、問題集に没頭しようとした。人が一生懸命やっているのに、いい迷惑だ。ああいうやつらは中学校にも小学校にもいた。
 試験監督の水川先生が教室に入ってきた。西条たちは席に着こうともせず、あーとかえーとか言いながら先生をからかっている。水川先生は新任の若い男の先生で、チャラい系女子にはけっこう人気なのだ。
 一時間目は数学Aの試験だった。教室には、シャーペンを走らせる音だけが響く。アカネは手を休めて、斜め後ろに座っている薫を盗み見した。いつものように完璧なメイクを施した顔で、平然と解答用紙に向かっているのが憎らしい。何と恥知らずな、とアカネは思う。父親に届けるはずだった弁当箱がまだカバンの中に入っている。昼休みにヤケ食いすることをアカネは決意した。
 けれどその日、昼休みが来ることはなかった。
 試験も半ばに差し掛かった頃、サイレンが鳴った。大雨洪水警報が発表されたのだ。途端に、教室の一部が騒ぎだす。アカネも騒いで、この試験をやり直しにできないかと一瞬、思った。
 薫がすっと手をあげた。水川先生が近づき、何やらささやき合っている。直後に薫は席を立ち、静かに教室を出ていった。教室内はまたしんとなった。
 気分でも悪くなったのかな、とアカネは思う。それまで元気そうに見えただけに、不思議だった。
「やだ、つわり? ……ないない」
 思春期の女子は、あらぬ妄想をするものだ。
 薫はそれきり戻らなかった。
 教室に閃光が走り、直後に雷鳴がとどろいた。女子が悲鳴をあげる。いつの間にか、窓の外は夜のように真っ暗だ。風雨が強くなり、窓ガラスにはひっきりなしに何かがぶつかる。
 二度目の落雷で、電気が消えた。ここまでは、アカネもまだ理解できた。災害時の停電はよくあることだ。しかし次に起こったことは、説明のしようがなかった。黒板をひっかくような不気味な音、そして扉の閉まるような轟音とともに、教室が完全な暗闇となったのだ。
 これには、さすがに高校生でもパニックに陥った。すかさず甲高い悲鳴が起こる。男子が叫びだす。窓という窓がすべて、何か板のようなもので塞がれたようだ。けれど、誰も窓に触ってはいない。どこからかけたたましい警報音が鳴りだすと、もうパニックは収拾がつかなくなった。水川先生が何かを呼び掛けているが、まったく聞き取れない。
 アカネは我慢できずに立ち上がり、手探りで教室を出た。廊下の窓も塞がれている。それでも、這うようにして暗闇を進んだ。薫はどうしただろう? どこにいるのだろう? 不吉な予感がして、いてもたってもいられなかった。
 正面玄関は防火扉で塞がれていた。アカネは中庭に出る通路に回り込んだ。しかしそこにも、シャッターが下りていた。風がさらに強くなり、シャッターをきしませている。アカネはほかの出入り口を探そうときびすを返しかけたが、廊下がびしょ濡れになっており、滑りそうになった。
「もう、何これ……」
 よく見ると、そのシャッターと床の間に、数センチほどの隙間があった。そこから雨水が入ってきていたのだ。
 アカネはシャッターに取りついて、渾身の力をこめて開けようとした。外に出れば、状況が把握できるかもしれない。だが、ぶ厚いシャッターはびくともしなかった。仕方なく床に伏せ、シャッターの隙間から外の様子を窺った。雨水が目に当たり、まともに見ることができない。しかし次の瞬間、アカネはあっと声をあげた。
 すぐ外に、誰かが倒れている。見慣れたセーラー服、見覚えのある白い髪……。
「薫!」
 アカネは叫んだ。だが、薫はぴくりとも動かない。雨と風のせいで、視界はますます不明瞭になる。
 アカネはまたシャッターを開けようと試みた。しかし、無駄なことはわかっていた。
 そのとき、背後で声がした。
「アカネ、傘を持ってこい」
 驚いて振り返るが、誰もいない。
「ここだ!」声は下の方から聞こえる。
 アカネは息をのんだ。果たしてそこにいたのは、あのトラ猫だった。彼は口を動かし、しぶい声で言葉を発した。
「傘を持ってこい。こいつに防水機能はないんだ」
 あまりのことに、声も出なかった。アカネが唖然としたまま突っ立っているので、トラ猫は声を荒らげた。「早くしろ! 薫を助けたくないのか!」
 その言葉に、アカネははじかれたように走りだし、玄関ホールの傘立てから誰のものとも分からないぼろ傘を取ってきた。
「まあそれでいい。差してくれ」
 トラ猫はそう言うと、シャッターの隙間に身体をねじこんだ。驚いたことにみしみしと音がして、ゆっくりとシャッターが持ち上がった。
「早く差せ! 濡れてしまう」
 アカネは呆気にとられていたが、傘を開いて猫に差してあげた。その頃には、隙間は人がしゃがんで通れるくらいに広がっていた。暴風雨が、まるで滝のように吹き付けてくる。
「ちゃんと差せよ」トラ猫はそう言いながら、中庭に出て行った。アカネもそばにぴったりと寄り添い、シャッターをくぐった。
 薫は雨の中で冷たくなっていた。
「うそ……」アカネはつぶやいた。
「死んじゃいない」トラ猫はぼそりと言う。「この子は雨に弱い病気なんだ。とにかく運ぶぞ、屋根のあるところへ……」
 猫は薫の体をくわえて、図書館のほうへと引きずって行った。アカネもそれに従う。薫の顔は青白くて、とても生きているようには見えなかった。
 図書館の裏口から中に入る。誰もいなかった。
 猫がつぶやく。「来い、アカネ」
「え、薫は?」
「心配ない。放っておけ」
「そんなのできないよ!」アカネが大声を出した。
 トラ猫はじろっと彼女をにらむ。
「てか、あんた何なの? 猫のくせに態度でかいんだけど」
「父親に向かってその口のきき方は何だ」
 トラ猫がすごんだ。
 アカネはぽかんと口を開ける。
「来いと言っているんだ。来ないなら、勝手にしろ」
 猫はそう言って走りだし、本棚の陰に消えた。牧田がいつも利用している、地下倉庫に続く通路だ。アカネはしばらく迷っていたが、薫をその場に残し、猫のあとを追った。 

 階段を降りた時、図書館が振動しはじめた。アカネはまた棚が動き出すのかと身構えたが、そうではなかった。図書館全体が揺れているのだ。
「手遅れか」トラ猫がつぶやく。
「何が?」
「牧田雄真だよ」
 アカネは呆気にとられた。「牧田……くん?」
「骨折の一件も、今回のことも、どうせあいつが仕組んだことだ。前にも言っただろう、あいつはおれを破滅させたいんだ」
 トラ猫は不快そうに首を回した。
 その時、倉庫の奥から牧田雄真が歩いてくるのが、アカネの目に入った。
「あ、藤井」その顔も声も口調も、普段と全く同じ。アカネは逆にぞっとした。
「それからこんにちは、いつもの猫さん」
 猫は黙っている。
 アカネは牧田と猫の顔を交互に眺めた。だが、猫は何も言わない。アカネは何となく裏切られた気分になる。
「あんた何してんの?」とがった声で、アカネが牧田に尋ねた。
「来なよ」牧田は一言だけ言って、また倉庫の奥へと歩いて行く。左腕には包帯が巻かれたままだ。
「病院、抜け出してきたの?」ついていきながら、アカネが聞いた。
「まさか。退院したよ。もともと重傷じゃなかったから」
 小刻みな建物の揺れは、まだ続いている。天井からぱらぱらとほこりが降ってきた。
「ねえ、何してんの?」アカネはもう一度聞く。
「何だかぼくにもよくわからないんだけど」
 牧田は前をむいたまま、早口で言った。「もう何年も動かされてなくてさびついてたんだ。でもさっきの雷で電源が入った……これでやっといける。こんなに早く実現するって思ってなかった……」
「何の話?」
 牧田は振り返って、アカネを鑑定するような目つきで眺めた。
「松本金治って知ってるか?」彼は慎重に語り始めた。
「知らない」
「ちょっと有名な建築家なんだけど。ちなみに、ぼくのおじいさん」
「あ……」アカネは思い当たった。前に、父に聞いた。高校の改築に関わり、一緒に仕事をしたという人だ。
 牧田は揺れる天井を眺め、ぽつりと言った。
「そしてこれが、その人の最後の仕事」
「それって」アカネははっとする。「改築の時、あたしのお父さんと意見が合わなかったっていう……? 何かよく知らないけど、でも、それって実現しなかったんでしょ?」
「何か勘違いしてる?」牧田は馬鹿にしたように言った。「意見は合ったし、実現もしたよ。ぼくの祖父と藤井トシフミは、タッグを組んでこの高校の改築にあたったんだから。でもね、きみのお父さんの技術力は、ぼくの祖父の設計に追いつかなかった……」
 牧田は壁の小さな扉をひらいた。その中には計器類やコードが詰め込まれていて、アカネには何が何やらわからなかった。
「ちょっと、説明ぐらいしてよ」アカネは牧田の顔をのぞきこむ。「追いつかなかったって……?」
「消費エネルギーの計算ミス。要は、作ったはいいけど動かせなかった。電力が足りなくて。ほんと、馬鹿みたいな話だよね」
 牧田はまた天井を見上げた。揺れが大きくなっている。
「でも、やっと動かせた。これ、何が起こってるのか想像できる?」
 アカネは黙って首を振る。牧田は肩をすくめた。
「動いてるんだよ、学校が。前にここの本棚が動くのを見せたこと、あったよね。それと同じ原理。円形のレールに沿って、ぐるっと回転してる。この図書館を中心にして、敷地の中のものが全部」
「……回転?」
 アカネは、足もとに感じる振動に注意を向けてみた。がたがた、がたがた……同じような揺れが断続的に起こる。確かに、動いているのはこの図書館じゃない。まわりの建物だ。
 アカネは思い出した。玄関ホールで見た、学校の写真。なぜか円形をした敷地。
「だからあんな形なんだ、この学校……」
「その通り」
 牧田はにこりともせずに言った。
「今、回ってるの?」
「回ってるよ。見えないからわかんないけど」
「それも、お父さんが作ったの?」アカネは信じられずにつぶやいた。
 学校の校舎を動かす。そんなことが現実に可能なのか。牧田のほうが何か勘違いをしていて、あらぬことを口走っているだけではないのか。本当は動いてなどいないのではないか。そんな気さえした。
「発案したのはぼくの祖父」
「でも……このまま動き続けたら、学校はどうなるの? 中のみんなは?」
「さあ」
「ちょっと……」アカネは牧田の肩をつかんだ。「やめなよ。あんたおかしいよ……」
 牧田は計器類を見つめたまま、微動だにしない。
「あんたのおじいさんだって、こんなことのために作ったんじゃないよ」
「じゃあ何だよ」牧田がつぶやいた。
「それは」
 アカネは言葉を切った。
 自分だったらどうするだろう。どんな理由で、校舎を動かすだろう。
「まだわかんないの? 対災害用だよ」牧田が言った。「ほら、さっき窓の雨戸とか、シャッターが自動で閉まったでしょ。あれも祖父の設計なんだ。あれと同じで、ほら、校舎の向きを変えて、例えば雨や風の被害を軽くしたりとか、そういうことをしたかったんだと思う。まさか隕石をよけるためとか、そういうのじゃないだろうし……」
 ――家族の思い出の場所が消えてしまうとかで、計画の変更を申し出たが、おれや他のやつらは賛成しなかった。
 アカネの父はそう言っていた。これは計画の変更、なんて簡単なものじゃない。始めから校舎を動かすつもりで設計したはずだ。
「それ、違うと思う」
 アカネはゆっくりと言った。
「え?」牧田はきょとんとして、彼女を見た。
「あ……何となくだけどね」
 アカネはうつむき、ぺろりと舌を出す。ひらめいたのだ。
「何だよ」
 アカネは顔を上げた。その時頭に浮かんでいたのは、泥に汚れた牧田の靴。そして、花壇の中で咲く色とりどりのパンジーだった。
「あんたのおじいさんって、花とか好きだったんじゃない?」
「え」牧田は口ごもる。「まあ……」
「やっぱり」アカネは少し、得意げになる。「ほら、この上にある中庭、知ってる? 周りが校舎に囲まれてるんだけど、でもちゃんと、どの花も太陽の光に当たれるようになってんの」
「だから?」牧田はつぶやく。
「だから、学校も同じだって。太陽の光だって。たぶん改築で、日が差さなくなるところがあったんだよ」
「何で?」
「この学校、もともと三階建てだったから。それが四階になって、誰かが困った」
 アカネは一息に言った。「どう?」
「何で、そんなこと知ってんの」牧田はアカネを見つめ、当惑したように言う。
「あ、学校の改築の時の資料、あたしここで見つけたから。あんたがここで探してたのも、もしかしてそれ?」
 牧田は黙りこむ。
「ねえ、心当たりあるんじゃないの」アカネは言った。「おじいさんが陰にしたくなかった場所」
 揺れが収まった。地下室に、静けさが戻った。
「止まった」牧田がぽつりと言った。
 彼はそのまま、動こうとしなかった。
 トラ猫はそれまで我関せずといった表情で、しきりに前足で顔をなでていたが、いきなり牧田に走り寄り、体当たりした。
「きゃ!」
 アカネが身を伏せる。
 次の瞬間、何の前触れもなく本棚が一斉に動きだし、またたく間に牧田に迫った。彼は逃げようとしたが、無駄だった。アカネが呆然と見つめる前で、牧田は本棚に取り囲まれて見えなくなった。
 搬送用エレベーターの扉がきしみながら開いて、車椅子に乗った男が出てきた。その足元にトラ猫が駆け寄る。
「お父さん」
 アカネは目を丸くする。「うそ……猫になったと思ってた……」
「こいつはただのロボットだ」彼はそっけなく言った。
 彼はひざに猫を抱いて、またエレベーターに戻ろうとする。牧田は本棚のむこうでうめいている。
「しばらくこらしめておけ」藤井トシフミはぶっきらぼうに言った。
「それ、ちょっとひどくない?」アカネは憤然とする。
「やめておけ。同情すると付け込まれるぞ」
 どこかで聞いた台詞だ。
「いや、何でもない」
 藤井トシフミを乗せたエレベーターは、ゆっくりと上昇していった。
 警報が解除されたのは、夕方になってからだった。試験は延期になり、生徒は帰宅した。災害用の雨戸が閉まっていた間に、校舎が九十度向きを変えていたことは、当然大いに話題になった。高校の七不思議の一つだった「向きのおかしい校舎」は、「向きを変える校舎」に変更された。

 牧田雄真は駆け足で家の門をくぐり、庭に向かった。
 彼はそこで立ちすくんだ。
 花や野菜の苗が植えられていた畑は、台風によってめちゃくちゃに荒らされていた。土はほとんど流されて水浸しになっていたし、苗も大部分が消えてなくなっていた。しかもあちこちに、どこから飛んできたのかわからないごみが散乱している。
 けれど――牧田は自分の目を疑った。雲の切れ目から、淡い光が差し込んでいたのだ。
 牧田は、陽が差してくる方角を見やった。向きを変えた校舎の隙間から、控えめに、だがしっかりと、赤みを帯びた夕日が顔を出していた。
「よかったね」
 振り向くと、藤井アカネが立っていた。彼女は泣いているような笑っているような顔で、「これで野菜作れるね」と言った。
「ここ、そんなに大事な場所なんだ?」
 牧田はしばらく無言で、首を横に振り続けていた。
 ようやく出てきた言葉は、「馬鹿みたい」だった。
「どうして?」アカネが聞いた。
「こんな大がかりなことして、やることじゃないだろ」
「あたしは素敵だと思う」アカネは言った。そのほおを、夕日が赤く照らしている。「すっごいロマンチック。いいおじいちゃんだね。あたしも……お父さんのこと、ちょっと見直しちゃったかも」
 すぐそばで咳ばらいが聞こえた。見ると、足もとにあの猫が座っている。
 アカネは慌てて言った。「あ、今の、あんまり本気にされても困るから」
「わかってる」
 アカネの背後で、声がした。
 車椅子に乗った藤井トシフミが、彼女の後ろにいた。牧田は畑に向かって呆然とするばかりで、彼が現れたことには気づかない。
「ちょっと、驚かさ――」アカネが言いかけると、父は牧田に聞こえないよう、小声でささやいた。
「ひとつ聞きたい」
「何?」アカネは身をかがめ、彼の顔に耳を近づける。
「改築時の設計図を見つけたっていうの……あれは本当か」
「うそだよ」アカネは吹きだした。「見つけるわけないし」
「そんなことだと思った」
 彼はくるりと向きを変えた。
「ちょっと待って」アカネが呼び止めた。「あたしからも一つ聞いていい?」
「何だ」
 父は動きを止める。白髪交じりの頭が、とても小さく見える。
「お父さんが松本さんに協力したのって……どうして? やっぱり、松本さんの家族のため?」
 父はすぐには答えなかった。しばらくして、ようやく口をひらいた。「おれにも、陰にしたくない場所があった」
「え、どこ?」
「わからないか」
 逆に聞かれて、アカネは戸惑った。松本さんの「思い出の場所」について聞きだそうとしただけだったのに。こんな答えを返されるとは思わなかった。
「わかんないよ」
「小学校」
 アカネは首をかしげた。「何で?」
「やっぱり、お前は覚えてないんだな」
 そう言った藤井トシフミの表情は、眼鏡が夕日を反射して、よくわからなかった。彼は車椅子を動かし、ゆっくりと去って行った。

 この出来事から、アカネが学んだことがある。
 目に見えるものだけが真実ではない、ということだ。誰もかれもが、うわべだけではわからない正体をそれぞれ持っている。牧田雄真も、藤井トシフミも。アカネが「にゃんころ」と呼んでかわいがっていたトラ猫も、父親が作ったロボットだった。そして毎日通っていた学校さえも、父親が作ったロボットだった。
 それに、もう一人。
 朝、アカネが教室に入ると、今日も石野薫が「おっはよーん」と言って近づいてくる。アカネも「おっはよーん」と返しつつ、無意識のうちに、びくびくしながら、耳をすませている。
 怖いのだ。
 今にも薫の中から、モーターの駆動音が聞こえてきやしないかと。
「なになに、どうしたの?」薫は無邪気そうに、ぱっちりした灰色の目をアカネに向ける。
「ねえ、薫……」アカネは改まった口調で言う。
「今朝はちゃんと油さした?」
 薫の動きが、一瞬止まる。けれどすぐに、「何言ってんのお」と笑う。
 かわいいトラ猫も、この学校も、ロボットだった。だったら薫がロボットでも不思議じゃない。あれほど藤井トシフミと親しそうにしたり、怪しい行動をとったりしていたのだから。どことなくカタコトだし、ちょっと抜けてるし、妙に美人だし、雨の中で倒れたりしていたし。挙げはじめるときりがない。
「乙女に油は大敵だよぉ」薫はかわいく口をとがらせる。
「ですよねー」
 アカネは、ロボットみたいにかちこちの笑顔を返す。
 もしかしたら、自分のほうがロボットなのかもしれない、とアカネはふと思う。父親に作られた、人間そっくりの超高性能ロボット。無意識のうちに、手は自分の背中をまさぐっていた。
 そんなはずはない、と思いつつ、彼女はそれを証明する手立てを知らない。




 ■ 第2章

 駅前商店街の喫茶店は、藤井アカネのお気に入りの場所だった。
 太陽光と隔離された、涼しくて静かな空間。冷たい紅茶と甘いスイーツ。学校の図書館とはまた違った、オトナの雰囲気が漂う。
 最近、駅周辺は大学病院の耐震工事のために、昼も夜も騒がしい。けれどこの喫茶店に入れば、騒音も夏の暑さもしばらく忘れることができる。まるで天国だ。
 落ち着いたレトロな内装の店内には、アカネのほかに数人が座っている。気難しい顔をして問題集に向かっている男性が一人。紅茶をすすりながら読書している年配の女性が一人。談笑しているカップルが一組。それなりに繁盛している。アカネはさっき入ってきたばかりだったので、注文をするためにウェイターを呼ぼうとした。片手を挙げかけた時、カラカラとベルが鳴って、新たな客が入ってきた。アカネの注意はそちらに逸れた。
 アカネと同じ高校の制服を着た、地味な外見の女の子だった。彼女はちらと店内を見回し、アカネと目が合うとちょこんとおじぎした。
 アカネは頭の中で首をひねる。見覚えがあるような、ないような。
 その子は挙動不審ぎみにアカネのテーブルまで近づいてきて、小声で何か言った。
「何?」アカネは聞き返す。
「あ、ごめん。……ここ、いいかな?」
 一緒に座りたいということらしい。そう言われると、断りづらい。アカネは仕方なくうなずいて、隣の席の椅子を引いた。
 ウェイターが近づいてきて、制服の少女の前に、水の入ったグラスを置いた。それは既にかなり汗をかいていて、置かれた振動で水滴がつ、と流れた。
「あ、アイスティーとミルフィーユ」アカネが注文をして、隣の彼女の顔を見る。
「じゃあ、自分もそれで」彼女は恐縮したように言った。
 しかし聞こえなかったのか、店員に聞き返された。
 彼が去って行ってから、アカネは女の子に尋ねた。
「ごめん……何さんだっけ」
「え? あ、ごめん」少女は慌てる。「琴川しのです……同じクラスの」
 そう言われて初めて、アカネも思い当たる。そういえばこんな子、いたかも、と。二年生に進級してクラス替えがあったが、アカネは夏になっても、全員の顔と名前を覚えていなかったのだ。
「ごめんごめん」アカネは平謝りする。「でも琴川さん、よくあたしのことわかったね。制服も着てないのに」
「わかるよ……クラスメイトだから」琴川は困ったように言った。
「だよね」
 アカネは少し申し訳ない気持ちになる。ただ自分が覚えていないということは、目立つほうの女の子ではないのだろう。かくいうアカネもクラスに馴染めていないから、偉そうなことは言えないけれど。
 琴川しのは長めの髪をポニーテールにした、小柄で色白の、まじめそうな女の子だった。ほおに少しにきびが残っているし、化粧もしていなさそうだから、あまりおしゃれに気を遣ってはいないのだろう。
「何で制服着てるの」
 アカネは琴川のセーラー服を指さし、聞いてみた。今は夏休みだった。
「あ、補習なの」琴川ははにかみながら答えた。
「補習? そんな成績悪かったの」
 言ってしまってから、今のは配慮の無い発言だったなと思う。
「ううん、あの、希望者が受けるやつ。ほら、進学をめざす人向けの。夏休みレベルアップ講座」
 そんなのあったっけ? と思いながら、アカネは「ふーん」と相槌をうった。
「夏休みなのに、頑張るねー」アカネは冗談めかして、おじさんみたいな口調で言う。
「やっぱり……将来のためだし」
 琴川の話し方が、ちょっぴりしっかりする。「今からしっかり勉強しておかないと、行きたいとこに行けないみたいだから」
「ふーん」と、アカネはまた言った。
 アカネは進路のことなど、ほとんど何も考えていない。一応進学を視野に入れて、二年次に「進学・文系コース」を選んだが、この先どうするかまでは考えていない。去年の夏から塾にも行き始めたが、それだって、ただ学校の授業についていくために行っているだけだ。いい成績をとって、それからどうするかなど、全く考えていない。
「お待たせしました」
 二人分の紅茶とミルフィーユが運ばれてきた。
 ウェイターは伝票を無造作に置き、すぐに去って行った。アカネはシロップをもう一つ頼もうとしていたのだが、あきらめてミルクティー製造に取りかかる。
「で、その補習の帰りなんだ」グラスにフレッシュを注ぎながら、アカネは尋ねた。
「うん」
 琴川も同じことをしている。白いフレッシュが、暗褐色の液体の中に溶け込んでいく。
「よく来るの、ここ」
「ううん……」
「じゃあ今日は、たまたま?」
 琴川はシロップを注ぐ手を休め、アカネのほうをちらっと見た。
「えっと……藤井さんが入るのが見えたから……」
「え?」アカネは怪訝な顔をする。
「ちょっと相談したいことがあるというか……」琴川はそこで黙り、ストローをくわえて一口飲んだ。「おいしい」
「相談って?」
「ま、まあ、食べながら話そうよ」
 琴川に促されたので、アカネはしぶしぶフォークを手に取る。本当は読書をしに来たんだけど、まあ仕方ない。

「相談っていうのは、あの、えっと、……くんのことで……」
「誰って?」
「牧田雄真くん……」
 懐かしい名前だ。
「あのガーデン男子?」アカネはつぶやいた。
「え?」
「いやこっちの話。それで?」
「えっと……」琴川はなぜかもじもじして、なかなか話そうとしない。
「好きなんだ?」
「えっと、まあ、……うん」
 琴川は赤くなってうつむいた。
 アカネはアイスティーを一気に半分ぐらい飲みほしてから、改まって
「何で? どこが?」と尋ねた。「やっぱイケメンだから?」
「え、いけめん?」
 琴川はぽかんとする。
「ごめん、それもこっちの話」
 アカネは顔が熱くなるのを感じた。またつまらないことを言ってしまった。牧田をイケメンと呼んだのは、誰だっただろう。今なら断言できるけれど、あいつは断じてイケメンなどではない。ただ顔がちょっと端正で、ちょっと小ぎれいなだけだ。それだけだ。
 詳しく聞いてみると、琴川と牧田は小学校が同じで、彼女はその時から片思いし続けているのだそうだ。そんな物好きがいたのか、とアカネは思うが、もちろん当人には言わない。そのくらいの配慮はある。
「それ、何年片思いしてるの」
「……十年目かな」
 琴川は事もなげに言った。
「でも何であたしに?」
 アカネは面倒くさそうに聞いた。
 正直、牧田雄真のことはあまり好きではない。知り合いと呼べるかどうかも怪しい。もう一年以上、話もしていないのだ。
「だって、藤井さんも同じ小学校だったし――」
「うそ」琴川の言葉に、アカネは目を丸くする。「え、ちょっと待って。大井小学校?」
「うん」
「ほんとに?」
「あれ、覚えてない?」
「うん……」アカネは琴川の顔を見つめながら、考え込む。記憶の引き出しをどう引っぱりだしてみても、小学校でこの女の子と一緒に過ごした記憶はない。現在クラスが同じことすら知らなかったのだから、当然といえば当然だが。
「じゃあ、牧田くんも、ってこと?」
「その頃は松本っていう名前だったけど。二年生の時、転校してきて」
「ごめん、全然覚えてない」
 アカネは憮然としてアイスティーを飲む。自分はこれほど忘れっぽい人間だったのか、と今さらながら落ち込んだ。学校の成績が振るわないのも当たり前だと思う。
「でも一年の時、牧田くんと仲良くしてたよね?」琴川が言った。
「あたし? ああ去年の話? 仲良くっていうか……」アカネは口ごもる。
「いやなんか成り行きで関わってただけで……別に仲がいいってわけでも全然なかったし」
「でも、お見舞いに行ったりだとか」
「何で知ってんの?」
 アカネは咳きこむ。「やめて。それはあたしの黒歴史だから。二度と言わないで。ほんと」
「ごめん」琴川はしゅんとして黙りこんだが、まだ何か言いたいことがあるようで、すぐに「あの……」と切り出した。
「一年の時、石野さんっていたよね。外国出身の」
「ああ、うん」アカネはうなずく。「一学期終わってすぐ転校しちゃったけどね」
「きれいな人だったよね」
「うん」
 どうして石野薫の話をするのか、アカネには理解できなかった。
「その石野さんと、藤井さんのどっちかが、牧田くんと付き合ってるって、もっぱらの噂だったんだけど……」
「うそ? やめてよ」あからさまに迷惑そうな顔をしてしまう。「まあ薫は付き合ってたかも……ごめんうそうそ」
 琴川の顔を見て、アカネはすぐに自分の冗談を否定する。
「あいつが女と一緒にいるとこなんか、見たことないよ。……あたしと薫以外の女とは」
「うん」琴川はうなずく。「だから藤井さんなら、牧田くんのことよく知ってるかな……って」
「ちょっと協力できそうにないかなー」アカネはあっさりと言ってしまった。
 自分でも冷たいとは、思う。けれど、やすやすと手伝う気にもなれない。成功するとは限らないからだ。いや、失敗する確率のほうが高いような気がする。
「そっか。ううん、いいよ。もしできたら、って思っただけだし」
 口ではそう言う琴川だが、見るからにしょんぼりとしていた。
 アカネはすぐに話題を変える。「そんなふうに食べるんだ?」
「え?」
 琴川は顔を上げ、アカネの顔と自分の皿を見比べる。彼女はちょうど、ミルフィーユの三枚目の層をはがそうとしているところだった。
「何か、おかしい?」
「だって。ふつう、はがして食べないって」
「えー? これが楽しいのに」
「でも一枚じゃ、味なくない?」
「あるよ」琴川は言って、第三層をぱくりと食べる。
 アカネはしきりに首をひねる。
「その一枚一枚が重なった食感とかで、ミルフィーユっておいしいと思うんだけど」
「そう?」
「何か、特別な食感っていうか」
「それは考えたことなかった……」琴川はしばらくためらったあと、残りの何層かにフォークを刺し、ひとかけらを口に運んでみた。
「そのほうがおいしくない?」
 琴川は答えない。
 アカネはじっと琴川を見つめる。すると、彼女はつぶやいた。
「まあ、重ねたほうがおいしいかも……」
「やりー」アカネは勝ち誇ったように笑う。「何事も積み重ねが肝心ってわけ。あ、協力してあげてもいいよ、牧田くんのこと」
「え、ほんと?」突然の申し出に困惑しながらも、琴川の顔がぱっと明るくなる。
「うん。何か、そういう気分になったから」
 アカネは軽い口調で言ったが、実際は、琴川の様子にいたたまれなくなったのだった。正直彼女と牧田がどうなろうと知ったことではないのだが、目の前でこう話をされると、どうしても応援したくなってしまう。
「役に立てるかどうかわかんないけど。その代わり、あたしからも一コお願い」
 アカネはフォークを持った手で、人さし指をぴんと立てる。
「総合の課題、手伝ってくれる?」
「うん、いいよ」琴川は、にこにこ笑い続けている。
「どしたの?」
 彼女があまりに長いこと笑っているので、アカネは不審そうに見つめた。
「ううん」琴川は首を振って、ミルフィーユの最後のひとかけらをぱくっと口に入れた。
「笑ってくれてよかった。一人じゃ笑えないから……」
「え?」アカネが聞き返した。

 駅前から離れて、二人は高校の近くに戻ってきた。
 真昼はとっくに過ぎているのに、陽射しがゆるまる気配はない。体がシチューか何かのように溶けてしまいそうな、そんな暑さだ。運動しているわけでもないのに、額にうっすら汗がにじんだ。
「牧田くんの家は知ってる?」アカネは髪留めをいじりながら言った。高校のすぐ近くを走る国道にも車はまばらで、街路樹から蝉の声ばかりが聞こえてくる。
「うん」琴川は小さくうなずく。
「行ったことあるの?」
「え、ないよ……」
「今から行く?」
「え……たぶん、今行ってもいないよ。塾だから」
「へー。いつ戻ってくるの?」
「たぶん、七時くらい……」
 アカネはにやっと笑ってしまう。
「そこまで調査済みなんだ」
「そういうわけじゃ……」琴川は慌てて口をもごもごさせた。
「ごめんごめん」アカネは謝る。琴川は、何となくからかってしまいたくなる類の女の子だと思う。「留守なら都合いいよね。ちょっと行ってみよっか」
 アカネはすたすたと歩きだす。琴川がついてこないので、おーいと手を振った。「ほら早く」
 琴川は周りを不安げに見回しながら、小走りでアカネに従った。
 金属製の格子門は閉じられていたが、牧田の家の敷地内は簡単に見渡すことができた。アカネは毎日この家の前を通る。けれど、こうやってよく見たのはいつ以来だろう。
 門から身を乗り出して中を覗こうとしていたアカネは、琴川に服のすそを引っぱられた。
「ちょっと、そんなことしたら目立っちゃうよ……」
「大丈夫だよ。今誰もいないし」
 事実、校門に通じる通りに人影は見えない。
 人の気配といえば、学校の正面玄関のあたりで、生徒会の奴らがわいわい騒いでいるくらい。そこからは死角になるから心配ない。あとは、グラウンドから野球部の声が聞こえてくるくらいだ。
「ほら、あんたも見てみて。あたしが見張っとくから」
 そう言われて琴川も、遠慮がちに中を覗きこんだ。そして、あっと声をあげた。
「すごい……」
 庭は一面のひまわり畑だった。目がちかちかするような色をした大きな花が、同じ方向を向いて、何本も何本も立っている。どれもかなり背が高い。密集して立っているものだから、茎の間はまるで森のようだ。校舎の間から差してくる日差しを浴びて、気持ちよさげにゆらゆら揺れていた。
「見えた?」
「うん、すごい」
 琴川は門から離れ、興奮気味に言った。「あれ、牧田くんが育ててるの?」
「じゃない?」アカネはさも興味なさそうに言った。「大切な場所らしいよ、あの庭」
「そうなんだ」
「まあ、話のネタくらいにはなるでしょ。あ、琴川さんは、花とか好き?」
「うん」
「あたしも大好き」声に少し力が入る。アカネにとって、花を育てることは昔からの趣味だ。小学校の授業で育てたアサガオやマリーゴールドやホウセンカの種が、今でも引き出しの奥に仕舞われていたりする。仕舞った記憶は全然ないのだけれど。
「最近はやんないけど、けっこうガーデニングとかも好きで……琴川さんも、自分で育てたりする?」
「えっ、ううん。そういうのは」
「えー、やらないの」アカネががっかりしたように言った。
「だめかな」琴川は慌てる。
「だめじゃないけど。ほら、同じ趣味持ってたほうが何かと都合いいかなと思って。あたし、ほかにあいつの趣味知らないし」
 ふと見ると、琴川がアカネをじっと見つめている。
「え、何?」
「藤井さん、ほんとに牧田くんと何にもないの?」
「どういう意味?」
「別に……でも、共通の趣味も持ってるみたいだし」
 アカネは吹きだしそうになる。
「偶然だって。勘違いしないでよ。ちょっと、あんたのために教えてあげたんだから、感謝してよね」
「うん……ありがと」琴川は、ほとんど聞き取れないくらいの声で言った。
「ほんとに、ありがとう。自分、正直、小学校から一緒なのに、牧田くんのことあんまり知らなくて」
「あいつ、何考えてるか全然わかんないよねー」アカネは顔をしかめる。それは高校の入学式以来、ずっと思ってきたことだ。
「笑ったとことか、一回も見たことない」
「うん」琴川は寂しそうに言った。「牧田くん、いつも一人だよね」
「え、そう? 友達と一緒にいること多いよ」
「それは、そうなんだけど……」
 琴川はうつむいて黙った。蝉の声が、ぱたりとやんだ。
 校門から、自転車に乗った半袖短パンの子が何人か出てきた。楽しそうにきゃーきゃー笑い合っている。エナメルバッグを肩から提げているところを見ると、どこかの体育会系クラブだろう。夏休みなのにご苦労なことだ。
「牧田くんって、科学研究部だっけ」アカネはぽつりと言ってみた。
「うん」琴川がうなずく。
「あいつ、機械強いよね。琴川さんは?」
「自分は、そういうの全然……パソコンも苦手だし……」
 琴川はまた黙りこんでしまった。
 アカネは頭をかきながら、彼女に近づいた。
「どう、あいつと仲良くなれそう?」
 琴川は自信なさげに、首をかしげた。「何か……話してもらって、自分じゃ牧田くんと全然合わないような気が、だんだんしてきて」
「今からそんなこと言ってどうする」
 世話が焼けるなあ、とアカネは内心で思う。
「絶対大丈夫だって」
 何を根拠にこう言っているのか、自分でもわからない。
「ま、あたしができるのは、とりあえずこのくらいだから。じゃあ次は、あたしに付き合ってくれる?」

 高校のすぐ裏手、歩いて三分ほどの所に、アカネたちの通った小学校がある。市立の小さな小学校で、校舎はかなり古かったように記憶している。けれど久しぶりに来てみると、いつの間に改修がされたのか、外観はきれいになっていた。
「でも、自分がいて、何か役に立つかな?」
 校舎が見えるくらいの場所まで来てから、琴川がアカネに聞いた。
「インタビューするだけなら、藤井さんだけでもよくない?」
 アカネが手伝ってほしいと言った総合の課題とは、夏休みのうちの職場訪問だった。キャリア教育の一環として、将来なりたい、あるいは現在憧れている職業に就いている人を訪ね、話を聴く。それが夏休みの宿題になっていた。新学期には、インタビューをもとに簡単な発表もしなければならない。
「ううん、一人より二人のほうが心強いし。それだけ。別に何かしてほしいとかじゃなくて」アカネはそう言った。
「それは、わかる気がするけど……」
「いやなんか、小学校にはヤな思い出あるんだよねー。あたし先生に目つけられててさ」
「不良だったの?」
「違うって。全然身に覚えのないことで怒られんの。それってむかつくよね?」
「じゃあ中学校にすればよかったのに」琴川は苦笑いする。
「中学はもっと嫌」アカネは首を横に振った。「全然、いい思い出ないし」
「そう」
 二人はそこで黙りこんだ。
「ごめんね……付き合わせちゃって」
 アカネはぽつりと言った。「あたし、友達いないから」
 琴川は、それについては何も言わなかった。普段の教室でのアカネを見ているのだから、おそらくよくわかっているのだろう。
「ううん、でも意外」琴川が、努めて明るい声で話そうとしているのがわかる。
「藤井さんが先生目指してるなんて」
 アカネはぼそぼそと答えた。
「うん、まあ目指してるというか……まあ目指してるかな。何か、いい職業だと思うし」
 大ウソだった。目指しているものなど、何もない。

「こんにちは」
 ひさしぶりの小学校。どこに行けばいいのか判断がつかなかったので、とりあえず職員室に顔を出してみることにした。夏休みなので、子どもの姿はどこにもない。
 手前のデスクに座っていた初老の男性が、顔を上げてアカネたちを見た。
「はい?」
「あ、職場訪問のことで、昨日電話した藤井アカネです……大井高校の……」
「はいはい」彼は立ちあがり、アカネに歩み寄った。「教頭の吉見です。えっと、平成○○年度卒の藤井アカネさん?」
「はい」
「そちらは?」吉見先生は琴川に目を向けた。
「こっちも、同級生です。今も同じ高校で」
「そうですかそうですか」彼はしきりにうなずいた。
「今日は付き添いで来てもらって……」
「はいはい。安曇先生も喜ぶと思いますよ。あ、覚えてますか? 安曇先生……たぶん二年か三年の時の担任じゃないかな?」
「三年です」琴川が嬉しそうに答えた。「まだいたんだ、あずちゃん先生」
「一度転任されて、去年、また戻ってこられたんです。えっと……あれ、さっきまでいたんだけど――」
 教頭は職員室を見回したが、それらしい人物はいない。彼は少し焦った様子で「ごめん、ちょっと待っててもらえますか? 探してきます」と言った。
「え、いいですよ」アカネは慌てる。「ここで待ってます」
「そう? ああ、小運動場かな」そう言って、彼は他の教員に尋ねた。「安曇先生、小運動場かな?」
「あ、じゃあ行ってみます。ありがとうございます」アカネはにっこり笑って、職員室を出た。
 しかし扉を閉めた直後、彼女は深いため息をついた。
「どうしたの?」その様子を見て、琴川が心配そうに聞く。
 アカネはぽつりと言った。
「帰ろうかな……」
「何で?」
 アカネはしばらく廊下をうろうろしていた。壁に貼られたポスターも、床のビニールテープも、全てが懐かしい。けれど、懐かしくない思い出まで蘇ってくる。アカネはつぶやいた。
「安曇先生だよ、あたしに目つけてたの」
「えっ」
「会いたくないなー」
「でも、昔のことだし」琴川はアカネの腕を取った。「藤井さんが何か勘違いしてるのかもしれないし」
「あんたまでそんなこと言うんだ」
 アカネは思わずいらだった声をあげた。
「ごめん」琴川がさっと離れる。おびえているようだった。
「ううん、ごめん……」
 アカネはしゅんとして言った。「あたし、小学校の頃のこと、あんまり覚えてなくて……だから……ううん、まあいいや」
 彼女は背筋を伸ばし、首をぐるりと回した。
「ごめんね、くだらないこと言っちゃって。もう気にしないで」ぺろりと舌を出す。
「あたしどうかしてる。高校生にもなって……」

 太陽が容赦なく照りつける小運動場の奥に、一人で立っている人がいた。背の低い中年の女性で、その目は小さな池をじっと見つめている。
 アカネたちが近づいてくるのに気づくと、その人は一瞬不審そうな顔をして、それからすぐに笑顔になった。
「あら……電話くれた藤井さん? ごめんなさいね、わざわざ来てもらって」
「いえ」アカネがそう言うより先に、琴川が前に進み出た。
「あずちゃん先生、自分のこと覚えてますか?」
 安曇先生は目をぱちぱちさせたが、すぐに言った。「あ、しのちゃん……琴川しのちゃん?」
「はい!」
 琴川は嬉しそうに、安曇先生の手をとった。こじんまりした小さな手だった。
 アカネは素直に驚いていた。七年も八年も前の教え子を覚えているなんて。小学生と高校生では、背丈も、声も、顔も変わっているだろうに。
「ごめんなさい、迎えに来させちゃって。中、入りましょうか。暑いでしょ」
 安曇先生は顔に手をかざした。小運動場は高校の校舎に隣接しているが、それらは影を作ってはくれず、太陽がまともに当たっていた。
「日当たりいいでしょ? ここ」
 先生の言葉に、「はい」とアカネはうなずく。既に緊張はほぐれていた。
「アカネちゃん、ここ覚えてる?」先生が唐突に言った。
「え?」
「このビオトープ」
 安曇先生は小さな池を指さした。水たまりかと思えるくらいちっぽけな池には水草が茂り、周りを覆う草花には小さな虫が飛び交っている。
 アカネは不安そうな目で先生を見た。
「覚えてない?」先生は苦笑する。「一年生か二年生の頃、毎日ここに来てたのに……たぶん、授業で発表というか、お話もしてたと思うけど」
「これですか? ビオトープっていうんですか」アカネは困惑していた。そう言われても、全く覚えがないのだ。「ビオトープって、この池ですか」
「そうそう、まあ、言ってみれば小さな生き物の遊び場ね」
 それからすぐ、安曇先生は苦笑した。「あらごめんなさい、小学生に話すようなこと言っちゃって。ビオトープっていうのは生物が棲みやすい空間のことで、こうやって池を作ったり植物を植えたりして、子どもの環境教育に役立てようとしているの」
 アカネはうなずき、琴川を振り返る。琴川はいつの間にか後ろに引っ込んでいて、アカネを見てにこにこ笑うだけで、何も言わなかった。
「あの高校の改築で、一度はあきらめちゃったんだけど」
「そうなんですか」高校の改築、という言葉にアカネは反応した。一年前の事件のそもそもの原因が、父が関わったその改築事業だったからだ。
「そう、日が差さなくなっちゃったから。でも去年あたりからどういうわけか、また日が当たるようになって。……そういえば、アカネちゃんたちの同級生だと思うんだけど、このビオトープが大好きな子がもう一人いて……覚えてる?」
「いえ」アカネはうわの空で聞いていた。
「あの子もアカネちゃんに負けないぐらいよく来てたわ。えっと、雄真くん、だったかしら」
 あっと声をあげたのは、琴川だ。
「牧田くん」
「牧田……そんな名前だったかしら」安曇先生は首をかしげる。「心当たりあるの?」
「え、いえ、ないです……」琴川は恥ずかしそうにうつむき、また引っ込んだ。
「それが、ちょっと変わった子でね……いつか、ミズアオイの株を持って帰ったことがあって。おばあさんと一緒に庭で育てるんだって。おじいさんだったかな」
 アカネは琴川と顔を見合せた。これは、思わぬ情報を手に入れたかもしれない。
「ミズアオイ、ですか?」
「そうそう、水の葵って書くの。こういう水辺に咲く花で……ほら、これ」
 安曇先生は、池に覆いかぶさって茂る草を指し示した。しかし、どれのことかアカネにはよくわからない。
「このハート形の葉っぱの。花はまだだけど」
 説明されて見てみると、なるほど、つやつやした明るい緑色の葉が何枚も、池の一部を覆っていた。
「かわいい」アカネがつぶやく。初めて見る植物だが、何となく心をくすぐられる。「花はいつ咲くんですか?」
「九月ごろかなあ」
「これもらってもいいですか?」ふいに、琴川が言った。
 アカネは驚いて彼女を見つめた。けれど、すぐに合点して言う。
「あたしも欲しいです。かわいいし、自分で育ててみたいなって」
「そう」安曇先生は少し驚いたようにまばたきした。「いいけど。でも、難しいわよ?」
 それでも先生は手際よくミズアオイを二株摘み取り、帰りがけにビニール袋に入れて二人に渡した。
「ありがとうございました」アカネは礼を言う。「お話聞かせてもらって……。いい発表ができそうです」
「いえいえ、近くに住んでるんだし、いつでも会いに来てね。大学行くとめったに帰って来られないかもしれないから。今、二年生よね。進路は決めてるの?」
 安曇先生は外まで見送りに来た。いつの間にかかなり日が傾いていて、心なしか過ごしやすくなっていた。玄関前のアスファルトには、打ち水をしたあとがある。その上を吹いてくる風は、火照った肌に気持ちよかった。
「あの、先生」
 アカネが、突然切り出した。ずっと聞きたかったことを、まだ聞いていなかったのだ。
「先生、あたしのこと、よく覚えてますか?」
「ええ」質問の真意がつかめず、安曇先生はきょとんとする。
 アカネは続けて聞いた。
「あたし、いい子でしたか?」
 琴川が、不思議そうにアカネを見た。
「もちろん」先生はすぐに言った。「お花の好きな優しい子だったわよ。ビオトープのお世話もしてくれたし……」
「他には」アカネは先生の言葉をさえぎった。「他に覚えてること、ないですか?」
「え? ほか? そうね……」先生は考え込む。「ごめんなさい、ちょっと昔のことだから……でもどうして? 先生、アカネちゃんにひどいことした?」
「いえ、別に、大したことじゃないので」
 アカネはそれだけ言って、安曇先生に別れを告げた。

 帰り道、白いビニール袋をぶらぶらさせながら、アカネは言った。
「思わぬ戦利品ゲットだね」
「うん」琴川はうなずく。
「これ持っていったら、けっこうポイント高いよ。あいつ、絶対喜ぶから」
「でも急に持っていったら、変だよね……」
「そんなことないよ。そんなの、いくらでも理由つけられるし」
 話しながら歩いていると、あっという間に高校の正門まで戻ってきていた。アカネは急に口をつぐみ、立ち止まった。
 牧田雄真が自宅の前に立ち、門を開こうとしているところだった。彼はずっと前から、近づいてくる二人に気づいていたようだ。
「おーっす」
 アカネは努めて冷静さを装いながら、牧田に声をかけた。
「おう」牧田も短く返事をする。日焼けしているし、背も伸びているし、何となく、去年よりちょっと大人びた雰囲気だ、とアカネは感じた。
「今帰ってきたの?」アカネが尋ねる。琴川は、アカネの背後でこそこそするばかりだ。
「早いね」
「別に、いつ帰ってきてもいいだろ」
「そんなつもりで言ってないし」アカネは声をとがらせる。「あ、琴川さんがあんたに話があるんだって」
 アカネは無理やり、琴川を前に押し出した。当然、彼女はおろおろするばかりだった。
「自分は、別に……」
「何言ってんのよ」琴川の意気地の無さに、アカネはむっとする。だが気を取り直して牧田に言った。
「あ、小学校同じだった琴川さん。覚えてる?」
「覚えてるよ」
「お、さすが」アカネは少し意外だった。
「普通覚えてるだろ」
「そういうのって、覚えてるもんなんだ」
「お前、覚えてないの」牧田が言った。責めるような口調に聞こえた。アカネはほんの少し、傷ついた。
「悪うございました。あ、さっき小学校行ってきてね、これもらってきた」
 ビニール袋を牧田に突きだす。
「何?」
「何だっけ?」アカネは琴川のほうを見る。
「ミズアオイ」
「そうそう、あんたが好きらしいって聞いて。これ、琴川さんの、発案だよ」
 アカネはわざとらしく「琴川さんの」を強調した。第一、アカネが牧田のために何かをもらってくることなど、ありえない。
「これ、今から植えようよ。あんたの庭に」
 牧田と琴川が、同時にえっと声をあげた。
「無理」とすぐに言ったのは牧田だった。「うちに池なんかないし」
「でも昔は持って帰ったって」アカネは不満そうに牧田を見る。
「それは関係ない」
「何それ。でも池がないんなら、作ればいいんじゃない?」
「無茶な」牧田は顔をしかめる。
「琴川さんの厚意を踏みにじるわけ」
「そんなんじゃなくて」
 アカネは牧田に詰め寄る。「何かやましい事でもあるの? ないんでしょ?」
「もうわかった」
 牧田はさっと退いて、乱暴に格子門を開いた。無人の道路に、ぎい、と音が響く。
「勝手に植えてけよ」彼は投げやりに言った。
「あんたも手伝うの!」アカネは牧田の背中を押しながら、庭に入っていった。はじめて触る男の子の背中は思ったよりずっと広くて、アカネは密かにどぎまぎしていた。
 琴川が、慌てて彼らを追って中に入った。

 牧田の庭は、想像以上の広さだった。やはり、小さな畑と言ったほうがいい。隣家や道路との境界は、低い粗末な竹垣でさえぎられている。その中にあるのは、大輪の花を咲かせたひまわりたちだ。
「すごいね、これ」アカネが庭を見回しながら言った。ひまわりの花は、どれも校舎のほうを向いて立っている。背丈はアカネよりも高い。花の大きさは、アカネの手や顔なんか比べ物にならないくらいだ。秋になったらいっぱい種がとれそうだ、とアカネは妙なことを思った。
「これ全部育てたの?」牧田に聞いてみる。
「そう」
「すごい」と言ったのは琴川だった。牧田は彼女にちらっと目を向けたが、何も言わなかった。日がどんどん沈んできて、あたりが薄ぼんやりしてくる。
「もう暗くなるよ」牧田が言った。
「じゃあ早くしようよ」とアカネが急かした。
 ひまわり畑の間に、なぜかぽっかり空いた空間があった。雑草だらけだが、大小さまざまな岩が敷きつめられているように見える。
「これって」アカネはよく見ようとして身をかがめる。「池じゃないの? 水ないけど」
「昔は、そう」牧田がぼそりと言った。
 安曇先生の言った通りだった。牧田も小学生の頃、ミズアオイをビオトープから持ち帰った。そしてここに作った池で、育てようとしたのだろう。だが今その池は荒れ果てて、ススキやセイタカアワダチソウなどが生い茂っているだけだった。
「これ、水入れたらまだ使えるよね」アカネが牧田に聞いた。「ここに植えない?」
「そうしたら?」
 牧田はやはり無表情のまま賛成した。喜んでいるのか、怒っているのか、全く見当がつかない。
「あ、でもごめん、あたし塾だから帰るね」
 アカネは唐突に言い、風のように出て行ってしまった。
 突然の出来事に、牧田と琴川は呆然として彼女を見送り、しばらく無言のまま突っ立っていた。
「何、あいつ」牧田が舌打ちする。
「あの……」琴川が、ビニール袋を両手でぎゅっと握ったまま、意を決したように言った。「これ、植える?」
 牧田はビニール袋と荒れた池を交互に見た。
「それ根っこから抜いてるよな」
「え?」
「早く植え替えたほうがいい、たぶん」
 牧田は一旦家に入り、軍手をいくつか持って戻ってきた。それから琴川にそれを渡そうとして、ふと思い出したように「あ、別に嫌なら帰ってもいいけど。ぼく一人でやれるし」と言った。
「大丈夫」琴川はそれだけ言った。
 彼らはまず、雑草を抜く作業に取り掛かった。牧田はどんどん片付けていくが、琴川はいっこうに進まない。それに気づいた牧田が、彼女を見る。琴川は涙目になりながら、手元の草を慎重に引っぱっていた。
「苦手なの?」牧田はそう言って、琴川を見つめる。彼女は顔を背けた。
「まあ、そういう女子多いよね」
 牧田は関心のなさそうな口調で言いながら、雑草をむしりとった。根元にはミミズやダンゴ虫が何匹もうごめいていた。
「ごめん……」琴川が、消え入りそうな声でつぶやく。
「あの、泣かれても困るんだけど」
「うん……」
 それきり、琴川は黙ってしまった。
 二十分と経たないうちに、牧田は雑草を片付け、水を引いて、ミズアオイを植えた。琴川は縁側に座り、その様子を眺めているだけだった。
 作業を終えた牧田は、庭に立ったまま、ふうと息をついた。髪も、シャツも、汗びっしょりになっていた。
「終わったの?」琴川がおずおずと声をかける。
「え?」
「終わった?」もう一度言い直す。
「うん。とりあえず」
「……ごめんね」琴川は申し訳なさそうに言った。「迷惑、だったよね」
「いや、別に……それなりに楽しかったし」
 牧田はそっぽを向いたまま言う。あたりはもうすっかり暗くなっていて、牧田の表情は、琴川にはわからなかった。
「ほんと?」彼女はまた、おずおずと聞いた。
「うん」
「でも、全然……」
「え?」牧田が数歩、琴川に近づいた。「何て?」
「あの……牧田くんって……。ううん、何でもない」
 琴川はうつむき、黙りこんでしまった。
「そろそろ帰れば?」
 牧田が言った。「もう遅いし」
「うん」
 琴川はしょんぼりしたまま、縁側から立ちあがる。そしてもう一度、庭を見渡した。
「ここ、牧田くんの大切な場所なんだよね?」
「え?」
「……って、藤井さんが言ってて」
「ふーん」牧田はおもしろくなさそうに鼻を鳴らした。「まあ、大切といえば大切かな」
 彼はそれしか言わなかった。琴川はその日、意気消沈して牧田の家を出た。
 庭に植えたミズアオイは、数日で枯れてしまった。

「お父さん」アカネは問いかけた。
「昔、ここに入院してたよね」
 父は車椅子に座ったまま、黙りこくっている。
 目の前の大学病院は防音シートで覆われ、クレーン車を使った大規模な工事が行われていた。道理で駅前まで音が聞こえてくるはずだ、とアカネは思う。
 彼女は父の前に回り込み、また尋ねた。「その時って、すごい病気だったんでしょ」
 父はむっつりしたまま答えず、工事の様子をじっと見つめ続けている。
 騒音のせいで聞こえていないのかもしれない。それとも、最近琴川しのとばかり話しているせいで、アカネも彼女のように声が小さくなってしまったのだろうか。
「おとうさーん」アカネは父の耳もとで叫んだ。彼は嫌そうな仕草をしただけだった。これで、無視されていることがはっきりした。アカネはため息をつく。
 ここで父親と会ったのは偶然だった。琴川と一緒にオープンキャンパスに来ていたのだが、ひょんなことから、アカネは病院の工事を視察している父を見つけたのだった。
 午前中は琴川と説明会に参加していた。琴川は熱心に聞いていたが、アカネには面白くなかった。父親の勤める大学であり、幼い頃から何度も出入りしているのだから、今さらオープンキャンパスに来る必要などないのだ。
 アカネは説明会を抜け出して構内をぶらぶらしていたが、ふと思い立ち、工事中の大学病院まで歩いてきた。大学から見て道路を挟んだ向かい側にあるから、歩いてすぐだったのだ。
「お前、この大学に入るのか」ふいに父が言った。
「え、何で?」アカネは思わず聞き返す。
「だって、見学に来たんだろう」
「まあ、友達の付き合いっていうか」アカネは口ごもる。父に進路のことを聞かれたのは、おそらくこれが初めてだった。
「友達? 男か」
「違うよ。女子女子。その子はここで働きたいんだってさ」
 アカネはそう言って、工事中の大学病院を見上げた。これが本当に病院かと思うほど、巨大だ。手をかざし、うんと背を反らして眺めてみても、一番上が見えないくらいだ。地域一大きな病院で、世界的にも最先端の設備が整えられ、結集されているのだと、アカネは琴川から聞いた。
「この工事も、お父さんが関わってるの」
「そうだ」
「また変な機能とか付けてないよね? これがぐるぐる回ったら、大迷惑だよ」
 アカネは軽く言ったつもりだったが、父はまた黙ってしまった。怒らせたのかもしれない。一年前高校で起こった出来事は、彼にとっていまだに話題にしたくないものらしかった。実際、あの事件のあと藤井トシフミは責任を追及されることになり、かなり良くない思い出になったことは確かだった。
 危ない、危ないと声がした。アカネはいきなり父に突き飛ばされ、ほぼ同時に、大きな塊が彼に直撃するのを見た。耳をつんざくような音とともに、小さな破片や火花があたりに飛び散った。アカネが提げていたエナメルバッグが、宙を飛んでいく。土ぼこりが一瞬にして舞い上がり、視界が閉ざされる。
 アカネが起きあがった時、父は地面にうつぶせに倒れていた。すぐそばに転がっている車椅子は、原形がわからなくなるほどつぶれてしまっている。
 数人が藤井トシフミに駆け寄って、助け起こそうとした。
 しかし藤井は、彼らの手を振り払った。
「大丈夫だ。何ともない」その声は怒気を含んでいた。
「でも、先生」助けに駆けつけた一人が、かなり動揺している様子で言った。白衣を着た男性だが、藤井の知り合いらしかった。ある程度有名人である藤井トシフミは、病院でも名が通っていたのだ。
「大怪我ですよ……早く処置を」
「ちょっとかすっただけだ。新しい車椅子を持って来てくれ。それで動ける」
 アカネには、目の前で起こっていることが信じられなかった。鉄鋼か何かが、確かに父の頭を直撃したはずなのだ。それなのに彼は、何でもなかったかのようにしゃべっている。血は出ているのだろうか? アカネの立つ位置からは、よく見えない。
「でも……すぐ診てもらえますから」
「いいから」藤井は声を荒らげた。いつもの丸メガネは衝撃で吹き飛ばされたのか、なくなっていた。
 無理やり助け起こされながら、父はアカネに気づき、言った。「アカネ、研究室から車椅子を持って来い。場所はわかるな?」
「先生、でも――」傍らの一人が、悲痛な声で叫んだ。
「いいと言ってるだろ」
 その時何か小さなものが走り寄り、藤井を抱えた男たちに飛びかかった。悲鳴があがる。
「三号だ」「電源を切れ」
 彼らは口々に叫びながら、突然組みついてきたトラ猫を追い払おうとしていた。あのにゃんころ型ロボットは、この大学内では既に有名らしかった。
「あたし――持ってきます」アカネはようやく言葉を発した。
 トラ猫に襲われていた数人が、アカネに注意を向けた。
「お父さんも、たぶん大丈夫なんだと思います……大丈夫って言ってるんで」
 アカネは回れ右して走りだした。工事現場には、いつの間にか野次馬たちで人だかりができていた。
 しかしアカネが車椅子を担いで戻ってきた時、人はほとんどいなくなり、父の姿も消えていた。あたりには、「立入禁止」の柵が張り巡らされているだけだった。先ほど落ちてきたはずの工材も、跡形もなく片付けられている。
 夢を見ていたのかもしれないと、アカネはほんの一瞬だけ、そう感じた。
「アカネさん」
 そばにいた男に声をかけられた。名前は知らないが、父の研究室の学生だった。ぼろぼろになったアカネのエナメルバッグを持っている。
「藤井先生、B病棟に運ばれたから……行ってあげて。ああこれ、きみのカバンだよね?」
「藤井さん」
 見ると、琴川がアカネの隣に立っていた。驚きと困惑で、目が潤んでいた。
「何かあったの……?」
 琴川は、アカネの様子を見てそう言ったのだった。髪や制服を砂ぼこりで真っ白にして、その上足はすり傷だらけで、血が流れていた。顔もひどい状態だったに違いない。琴川が彼女を見る目は、尋常なものではなかった。まるで怪物を相手にしているような、そんな目だった。
「えっと」アカネは、自分がどんな姿になっているかも気づかずに、冷静に答えようとしていた。琴川に心配をかけまいとして。
「あたしのお父さん、ちょっと怪我しちゃって。今この病院にいるらしいから、ちょっと見てくるね」
 話す声は、自分のものとは思えないくらい、かすれて聞き取りづらい声だった。さっきの土ぼこりで、のどを痛めてしまったのだ。
「自分も行っていい?」
 琴川の言葉に驚きながらも、アカネはうなずき、すぐに歩きだした。
 琴川は何も言わずについてきた。
 それが救いだった。アカネは咳きこみながらつぶやいた。
「あ……ありがとね」
 何に対してお礼を言ったのか、自分でもよくわかっていなかった。
 ただ、一人では、不安に押しつぶされそうだったのだ。

 耐震工事中とはいえ、病院の一部の施設はまだ開いていた。
 アカネの予期した通り父は重傷で、緊急手術を受けることになったそうだ。アカネと琴川はロビーのソファに座り、待ち続けた。時刻は刻々と移り、太陽が傾き、その間に救急車が何台も到着し、医者たちがせわしなく駆け回り、診察を待つ患者がどんどん入れ替わっていくのに、父の手術について何かを知らされることはなかった。
「琴川さん」
 何時間待ったかわからない頃、アカネは言った。
 琴川は、伏せていた顔を上げた。その顔はパンダのようになっていた。
「ごめんね、せっかくオープンキャンパスに来たのに。あたしのせいで、こんな」
「何言ってんの」小さな声で、厳しく言われてしまった。「そんなの、どうでもいいでしょ。お父さんの心配しなよ」
「うん……でも、お医者さん言ってたよね? 命の危険はないって。ちょっと手術するだけだって」
 アカネはなぐさめるように言った。琴川をなぐさめているのではない。自分自身に向けて言っていた。
「琴川さん……もうしのちゃんでいい? カ行とタ行が続いて言いにくいし」アカネはそう言って、かすかに笑みを見せた。ひどい笑顔だと思う。「しのちゃん、看護系の大学、志望してるんだっけ」
「うん」琴川はうなずく。「でも、こんないいところには来れないと思うけど」
「何言ってんの。もっと自信持ったら」
 そう言いながら、アカネは、自分にそう言う権利がないことを知っている。
「でも、どうして?」アカネはつぶやくように尋ねた。
「え?」
「何で看護系なの?」
「それは、お父さんがお医者さんだから……」
 そう言ったあとで、琴川ははっと口をつぐんだ。「ごめん」
「いいって。気にし過ぎ」アカネは顔の前で手を振った。けれど、その動きには力がなかった。
 ロビーにはほとんど人がいない。外の庭園が、どす黒い闇に沈んでいく。中は冷房が効いていて心地よかった。寒気がするくらいだ。
「いいお父さん?」アカネが聞いた。
「うん……わかんないけど」
「あたしのお父さんはね……」
 その言葉が、自然と口から出てきた。そこでアカネは気づいた。
 自分は、これをずっと話したかったのだと。話して、誰かに聞いてもらいたかったのだと。まるで壊れた蛇口のように、言葉が口からこぼれ落ちる。
「お父さんね、昔は優しかった。すっごく。もうね、あたしにとっては神様みたいな人だった。それは言い過ぎかもしんないけど。あ、あたしこう見えて小さい頃はおとなしい子でね、おままごととか、お医者さんごっことかしたりして。あのね、すっごい本格的なの。『診療中』とか『休診日』とかのプレートまで作って、玄関のドアに吊ってたんだよ。笑えるよね。でもあたし、それずっと信じてて、お父さんのことお医者さんだと思ってた。ずっと。これだけじゃないんだけど、お父さん、よくあたしを騙してからかうんだよ。ひどくない? ね、ひどいよねえ」
 琴川は静かにうなずきながら、アカネの話をじっと聞いていた。
「それはたぶん、あたしが小学校の低学年か、中学年くらいの時だったかなあ。そのくらいまでお父さんと遊んでた気がする。お父さんが病気になったのが、ちょうどその頃で。あ、お父さんの病気の話、しのちゃんにしたかな? してない? あのね……」
 アカネはしゃべり続けた。しゃべり続けることしかできなかった。
「あたし、小六の時事故に遭ったんだけど、その頃からかな、お父さんとあんまり話さなくなったの。中学行って忙しくもなったし。スイミング行き始めたりもしたし。リハビリのために。あのねあたし、ずっと車椅子で、中学過ごしてたんだ。ずっと。普通に生活できるようになったのが、もう三年生の半分過ぎたくらいの時で」
「それは、しんどいね」
「もうね。すっごいいじめられたし」
「そうなんだ」
「この性格だから」アカネは舌を出す。「弱いくせにね。だから今までも友達ほとんどいなくて、実は。これ言ったっけ? 高一の時付き合ってた同じ中学の連中……知ってる? そうそう。あれね、あたしがいじめられてるのを横でずっと見てたやつだし。友達ってもそんなやつばっかり。だからさ、だからっていうか、あたし、あんたに偉そうなこと言ってきたけど……ほんとは男性経験とかもゼロだから。ごめんね、まじ」
 琴川は立ち上がって、何も言わずに、アカネに寄り添うように座った。それだけで、アカネは泣いてしまいそうだった。

 父の手術は無事終わり、二人は帰ることにした。その日のうちの面会はできなかったからだ。夜八時を回っていたので、近所のファミレスで夕食を済ませることにした。
「ごめんね、こんな時間まで」席に座り、アカネは言った。
「ううん、よかったね」向かいに座った琴川は、まだ目をこすっている。
 この時間帯でも、ファミレスには結構客が多い。周りがにぎやかなので、琴川の声はアカネにはほとんど聞こえなかった。
「ちょっと、笑ってよ」アカネは苦笑する。「全然泣くところじゃないって。誰も死んでないんだから」
「うん」
 そこで、アカネは思い出すことがあった。
「あ、しのちゃん、前言ってたの何だっけ? 笑うとか、笑わないとか」
 メニューを琴川に渡しながら、聞いてみる。以前喫茶店で話した時、そんな話をしたような気がするのだ。
「あれは」琴川は恥ずかしそうに顔をかたむける。「たいしたことじゃなくて」
「え、なになに?」アカネは身を乗り出し、興味津々で尋ねる。さっきまでのことがあった分、テンションが異常に高い。
「えーと……一人では笑えないけど、二人では笑う、っていうやつ」
「へ?」アカネの動きが止まる。「何それなぞなぞ?」
「じゃなくて」琴川も、ようやくちょっぴり笑ってくれた。「有名な心理学者の説らしいんだけど、人は一人では笑えないの。でも二人以上なら絶対笑うの」
「はあ」
 アカネはぽかんとして、琴川を見つめる。それからわずかに腰を上げ、店内を見渡してみた。
 クラブ帰りの中学生たちが、ポテトを食べ散らかしてげらげら笑っている。家族連れが何組か談笑している。みんな笑っている。でも一人でステーキをぱくついている中年オヤジは、笑っていない。ジュースサーバに立つおねえさんも、笑っていない。こちらに歩いてくる店員さんも――。
「ほんとだ」と、思わず店員さんの顔を見て言ってしまう。
 慌てて注文を終え、アカネはまたきょろきょろする。さっきジュースサーバにいたおねえさんは席について、恋人らしいおにいさんと笑い合っている。
「二人だと、人って笑うんだね」アカネはつぶやいた。「逆に、笑ってると二人……?」
 アカネは琴川を見る。
「あ、わかったかも」自然と笑みがこぼれる。
「え、何?」琴川は不思議そうにまばたきした。
「牧田くんが、ずっと一人だっていう理由。前そんなこと言ってたよね?」
「あ……」
「そうだ」そう言ってアカネは、テーブルの下からエナメルバッグを引っぱり出した。あちこち擦り切れ、泥だらけになってしまっている。そしてその中から、大きな紙袋を取りだした。
「よかった無事。しのちゃん、これ、あたしからのプレゼント! 誕生日おめでとー」
 琴川はきょとんとする。「自分の誕生日……十月だけど……」
「気にしない気にしない」
 紙袋を無理やり押しつけられた琴川は、不安そうにそれを開けてみた。
 目に飛びこんできたのは、鮮やかな青い花。中に入っていたのは、小さな花をたくさん咲かせたミズアオイだった。
「え、うそ」琴川は思わずつぶやく。「すごい。どうやったの」
 アカネは親指を立ててグーサインをする。
「あたし、そういうの超得意だから」

 アカネが病室を訪れると、父はもう起きていて、窓の外を見つめていた。糸のような雲が、空高く漂っている。秋が近いようだ。
 花瓶の置き場所を探したが、都合のよさそうな棚は無かった。アカネは無言のまま、ベッド脇の丸椅子に腰かけた。
 父は振り返った。「お前か」
 その声は冷たかった。
「もう大丈夫なの」アカネがぞんざいに聞いた。
「ああ」
 その通り、ベッドの上の父は、どこも悪そうには見えなかった。怪我をしているわけでもない。顔色が悪いわけでもない。
「人間の体とは思えないって」アカネが言う。「お医者さん、言ってたよ」
 父は、それには答えなかった。険しい表情のまま、宙の一点をじっと見つめている。
「一年前と同じだ」彼はつぶやいた。「牧田雄真だ」
「何が?」突然出てきた名前に、アカネは驚く。
「あいつがおれを殺そうとした」
「ちょっと……もうやめてよ」アカネは叫ぶように言った。「何でそんなこと言うの? 馬鹿じゃないの? 去年のことだって……牧田くんは純粋に、おじいさんが好きだっただけで、おじいさんのやったことを引き継ごうとしただけでしょ。お父さんを恨んでたわけじゃなくて。だから、もうやめてよ、ねえ、そんな被害妄想」
 藤井トシフミは動じる様子もなく、大儀そうに首を回した。
 アカネはうつむいた。かつて父に、ここで抱きしめられた記憶がある。あたたかな記憶だ。けれど目の前にいる父は、昔のあの人とは似ても似つかない。
「お父さん……どうなっちゃったの?」
 そう言いながら、アカネは目頭のあたりがつんとするのを感じた。
 病室に秋の風が吹き抜けた。
 アカネはうつむいたまま、ずっと黙っていた。
「おれは変わってない」父はおもむろに言った。
「うそ」
「変わったのは、お前のほうだ」
「そんなことない」アカネは立ち上がった。涙声になっていた。
「何で? あたしは、今も昔もあたしのままだよ? 変わってないよ。変になったのは、お父さんのほうでしょ?」
 アカネは病室を出た。一輪のミズアオイを挿した花瓶は、まだアカネの手にあった。

 チャイムを鳴らすと、牧田雄真はすぐに顔を出した。
「ん、何?」
 琴川は、震える手で紙袋を差し出した。牧田がのぞきこむ。彼の表情が変わった。
「あ……咲いてる」
 彼の驚く顔を、琴川は初めて見た。
「アカネちゃんが調べて教えてくれて」琴川はどきどきしながら言った。「ちゃんと根付かせて、ダニを退治したら、いいんだって。ちゃんと育つんだって」
 街路樹から聞こえてくる蝉の鳴き声は弱々しく、今にも死んでしまいそうに思えた。秋が近いことが、何となく実感できる季節になっていた。
 かわいい花を咲かせたミズアオイを、丁寧に池に植えながら、琴川は聞いてみた。
「え?」聞こえなかったのか、牧田が聞き返す。
 琴川は声を大きくする。
「……小学生の時も、これ、植えたの?」
「うん」琴川のすぐそばで池をいじりながら、牧田は答えた。彼らの距離はほとんどゼロに近くて、肩が触れそうなくらいだった。
「小学校からもらってきてさ」牧田は植え替え作業に夢中で、それには気づいていないようだ。「でも、いつの間にか枯れちゃってた」
「牧田くんも、ビオトープ大好きだったよね」
「うん」
「昼休みに、どこ行ったのかなって思ったら、いつもあの小運動場にいて」
「何で知ってんの?」
「えっと、たまたま……」
「あ、ごめん」牧田はようやく気づき、二、三歩、琴川から離れた。そして目線を上げ、高校の校舎を見た。「でもすぐあの改築が始まったから……」
 彼はその先を言わなかった。言いたくなかったのだろう。
「ぼく、引っ越してくる前もここには頻繁に来てて。夏休みとか、とくに。この庭しか遊び場所なかったんだよね。毎日庭いじり、してた気がする。おばあちゃんと一緒に。おばあちゃん、結構体弱くて、外出るっていうとこの庭くらいしか出られなくて、だから」
 牧田はびしょ濡れになった軍手をしぼった。小さな池にはミズアオイが力強く立ち、太陽の光を体いっぱいに浴びていた。
「昔これを持って帰ってきたのも、おばあちゃんを喜ばせたくて。他にもいろいろ植えたよ。ひまわり植えたり、パンジー植えたり、芋植えたり、おじいちゃんと焼き芋したり……そういう、しょうもない思い出の場所、ここは」
「しょうもなくないよ」琴川がつぶやく。牧田の祖父母がもうこの世にいないことを、彼女は知っている。
「ちっちゃな思い出ばっかりだよ」
「でもそういうのが積み重なって」琴川は言った。牧田が聞き取りづらそうな素振りを見せたので、また声を大きくする。「……大切な思い出になるんだと思う。小さな思い出が積み重なって……特別な思い出になるの」
 琴川はまじめな顔をして言う。「ほら、ミルフィーユみたいに」
 牧田が、くすっと笑った。「何それ」
 琴川は嬉しくて、にっこり笑う。ひまわりにも負けないくらいの笑顔で。やった、と彼女は思う。小学校から数えて、十年目で初めて。
 やっと、二人になれた。




 ■ 第3章

「じゃあ最初の質問、いきますね」
「はいっ」
 藤井アカネは姿勢を正して返事をした。
「三年間の高校生活で、一番思い出に残ったことは何ですか?」
「えっと、それは、えっと」
「先輩、そんなに固くならなくていいですよお」
 新橋楓は笑いながら言った。
「え、そう?」アカネも苦笑いして、肩の力を抜く。知らず知らずのうちに、力が入ってしまっている。「やーでも何か緊張しちゃって。いつもと雰囲気違うから」
 慣れきった生徒会室で、よく知った後輩と向きあっているだけなのに、やはり落ち着かない。インタビューだと言われると、どうしても身構えてしまうのだ。
「いつも通りでいいですよ。カエデも緊張しちゃうじゃないですかあ」
 楓はにこにこして、またメモに目を落とす。左右に分けた前髪が、赤い頬にはらりとかかる。
「じゃあ、いいですか? 『三年間の高校生活で一番思い出に残ったことは何ですか』」
「それは、やっぱり文化祭だと思います」
 アカネは思いついたままを口にする。
「文化祭」楓は急いでメモを取る。「どうしてですか?」
「うん、えっと、やっぱりみんなと一緒に準備したりとか、すごく楽しかったし、すごくいい思い出になりました。何かこう、あたし青春してるわあ、みたいな」
「ふむふむ。あたし青春してるわあ、みたいな……えっとじゃあ次。アカネ先輩、じゃなかった藤井さんは、去年の秋に生徒副会長に立候補して、生徒会執行部に入ったわけですけど、きっかけは何だったんですか?」
「それはやっぱり……うーん、まあ自分を変えてみたいなっていうのもあったし、新しいことしたいなっていうのもあったし、うん」
「そうなんですか」楓は感心したようにうなずきながら、幼稚な手つきでメモを続けている。
「まあホントは、生徒会長の影響で」アカネは付け足した。「あの子に引っぱられるような形で、副会長に立候補してました。いつの間にか。……ごめん、こんなので載せれる?」
 自分の話には、ことごとく内容が無いような気がした。
「いい話じゃないですかあ」楓はパイプ椅子の上で、小柄な体をひょこひょこ上下させる。「女の友情ですねえ」
「いや、何か違うし……てか、記事には女の友情とか書かないでよ」
「えー」楓はさも残念そうな顔をする。
「あたしが言ったんじゃないし」
 三十分程度でインタビューは終わった。アカネは立ち上がり、首や肩をぐるぐる回す。
「あー肩こっちゃったあ」
「ありがとうございました」楓はぺこりと頭を下げる。「お忙しい中……」
「いいって」アカネは笑いながら、制服の上にブレザーをはおった。「あたしは暇なんだから。ほんと、楓ちゃんたちこそ忙しいんじゃない?」
「いやいや頑張りますよお」楓は片手をぎゅっと握り、がんばるぞポーズを作った。
「おー頼もしい」アカネは笑う。「でも、あたしも暇だしさ、手伝ってほしいなら言ってね。アイデアとかも出すし」
「ほんとですかあ」楓は目を輝かせた。「えっと、実はちょっと行き詰まってるんですよお。アカネ先輩がいてくれたら、ホント助かります」
「え、何なに」
 アカネは再びブレザーを脱ぎ、椅子の背にかける。生徒会室は暖房が効いているが、冬休みが明けたばかりの今日、外は雪がちらつくほどの寒さだった。
「降ってるねー」
 アカネは曇った窓ガラスを手でこする。細かい雪の舞い落ちる中庭は真っ暗で、人の姿もない。
「白い雪ですねえ」後ろで楓が言った。
「え? 雪はいつも白いよ」アカネは突っこむ。
「白くないこともあるんですよお。今日は赤いのが降るはずなんですぅ」
「へえー」
 楓はたまに変なことを言う。最近はカード天気占いに凝っているらしいから、その影響だろう。いつかはこっくりさんまがいのものに没頭していたし、神秘的な雰囲気に惹かれたのか「空海検定」に向けて勉強していたこともある。だがそういう変な趣味を除けば、いたって普通の子だ。
 ふと見ると、部屋の時計の針は七時近くを指していた。
「うわ」アカネはつぶやく。「もうこんな時間」
 道理で学校が静かなわけだ。
「あ、久しぶりにごはん行く?」と、楓を誘ってみる。
「行きまーす」部屋の片づけと戸締りをしながら、楓は嬉しそうに答えた。
 職員室には、数人の先生しか残っていなかった。
「お疲れさま」
 楓から生徒会室の鍵を受け取りながら、水川先生はにこやかに言った。
「がんばるね、新橋さん。それから藤井さんも、遅くまでありがとう」
「いえ、どうせ暇なんで」アカネは照れたように笑う。
 この時期、本当であれば三年生が学校に来ることはない。授業はもう終了しているからだ。大半の三年生は受験勉強のため自宅学習を行っており、登校するのは週一回程度でよかった。
 けれどもアカネは秋に推薦入試を受け、一足先に合格内定をもらっていた。県外の私立大学だから、春からは一人暮らしをすることになる。
「いやそんなこと言わずに。こっちとしても本当に助かります」
 水川先生は言った。彼は生徒会執行部の顧問なのだ。つまり、一応は楓たちを監督する立場にある。
「記念冊子作り、順調?」
「うーん」聞かれて、楓はちょっと首をひねる。「でもアカネ先輩がいるんで」
「ちょ、あたしに頼られても」アカネが慌てる。
 水川先生はずっとにこにこしている。「まあ、無理のないようにね。それじゃ気をつけて。あ、今からごはんでも行くの?」
「はい」楓が即座に答える。「先生もどうですか?」
「いや、ぼくは」水川先生は苦笑した。「遠慮しときます……明日はセンターだしね」
「あ」
「先生たちは三年生の応援に行くから」
 水川先生はそこで一瞬黙り、アカネを意味ありげに見た。

 暗い廊下を歩きながら、楓はずっとしゃべっていた。それは恐怖を紛らわせるためらしい。確かに夜の学校は暗く、静かで、不気味だ。
「でも先輩、すごいですね」
「何が?」
「推薦受かるって」
「ああ。まあ、でも」アカネはしばらく黙る。
「何ですか?」
「なんか抜け駆けしてるみたいで、ちょっと罪悪感あるかも」
 本心だった。就職を決めた生徒や、アカネのように既に進学先を決めた生徒を除く大部分の三年生は、明日からのセンター試験に向けて必死に勉強しているに違いない。それなのに自分は、こうして遊んでばかりいる。
「何言ってるんですかあ。努力の勝利ですよ」
 楓は明るく言って、アカネの顔をのぞきこんだ。
「先輩のこと、ほんとすごいって思いますよ。ほんと、すごく頭いいんですよね。カエデに勉強教えてくださいよお」
「そんな良くないって」
 アカネは否定する。しかし、成績がいいのは事実だった。一年生の頃赤点を取っていたのが嘘のように、今では学年でも上位に入るほどになっていた。
 その理由はすごく単純なものだ。
 大きな目標の無いアカネには、目の前の目標をめざすことしかできなかった。将来を不安に思うより、次の試験に向けて勉強しているほうが楽だった。
「カナコ先輩も受かったらいいなあ」
 楓の言葉に、アカネははっとする。「そうだ、メール送ろ」
 携帯を取りだし、応援メッセージを打ち込む。
「じゃあカエデも」と、楓も同じことを始めた。
 暗い廊下に二人きりで立ちながら、メールを打った。液晶画面の白い明かりだけが、暗闇にぼうっと浮かび上がる。
「送信」アカネはつぶやく。
 思えば不思議な縁だ。
 今、西条カナコと友達になっていることを、昔のあたしは予想できただろうか。

 ちょっと遠いけれど、駅近くのファミレスまで足を延ばすことにした。値段やメニューのバラエティを考えれば、やはりファミレスが一番なのだ。
 席に着くと、楓は早速カバンからプリント類を取り出し、テーブルの上に並べ始めた。どれも生徒会執行部関連の資料のようだ。
 新橋楓は一年生だが、生徒会活動に熱心に取り組む、そういう意味での優等生だ。一年生はほかに二人いるけれど、楓ほどは頑張っていない。下手をすると彼女は、二年生よりも働いているかもしれない。
「とりあえず最初のほうには、挨拶とか、インタビューを載せるんですよお」
 楓は資料を指し示しながら、アカネに説明した。
 彼女たちの通う県立大井高等学校は、今年度で創立百周年を迎えた。それを記念して、生徒会執行部としても何かしらの活動をしようという話が出た。水川先生も交えた幾度かの話し合いを経て決まったのが、記念生徒会誌の発行だった。
 先生や地域の大人が作るのではなく、生徒が作る、生徒のための会誌なのだ。秋の文化祭後から本格化した作業に、楓は夢中になって取り組んでいた。企画の発案者の一人が彼女だったのだ。執行部全員が協力して作業にあたっているが、一、二年生だけでは人手が足りていないようだった。アカネも秋に引退したとはいえ、会誌作りの進行具合がとても気がかりだった。
「その初めのほうに、あたしのインタビューも載るの?」アカネは尋ねた。
「はい」
「てか、前会長のインタビューだけでよくない?」
「今さらそんなこと言わないでくださいよ」楓は本気で困った顔をする。
「そうだけど」アカネは気まずそうに口をすぼめる。「でも引退した奴がしゃしゃり出るのもなあ」
「何言ってるんですかあ。カナコ先輩と二人で執行部を引っぱってくれたじゃないですか。文化祭も大成功だったし。大高にとっても、先輩の貢献度やばいと思いますよ。あ、それに、ちゃんと今の会長と副会長の記事もありますし」
 今年度の執行部には、三年生が二人しかいなかった。前生徒会長の西条カナコと、前副会長のアカネ。他の同級生は、勉強が忙しくなるという理由で春に辞めてしまった。アカネはずっとカナコを頼ってばかりだった。新入りのアカネにとって、生徒会活動はわからないことだらけだったのだ。
「次が各クラス、クラブの記事とかなんですけど」楓は説明を続ける。「ほかにもいろいろ入れたいんですよね――先輩どう思いますか? あ、これ、今出てる記事の案なんですけど」
 そう言って、楓は一枚のわら半紙をアカネに渡した。丸っこい手書きの文字で、数項目が箇条書きにされている。先生インタビュー、成績ランキング、学校の名物、行事の報告(レポート)、学校の歴史、……
「学校の名物とか歴史って、けっこうおもしろいんじゃない」アカネは言ってみた。「ほら、今年は百周年だし、歴史はけっこういいかも」
「あ、なるほどー」楓は真剣にうなずいている。そして、ぱっと顔を明るくする。
「そうだ、九十周年とか、八十周年に何があったかとか! 調べてみたらおもしろいんじゃないですか? 今年は何か、文化大会みたいなのをやってましたけど」
「うん、いいかも」アカネは賛成するが、九十周年という言葉に、何か引っかかるものがあった。

 週明けには多くの三年生が登校した。センター試験の自己採点を行うためだ。公表された試験解答を自分の解答と比較し、点数を割り出す。その結果を予備校などに送れば、志望する大学への合格可能性が分析されるのだ。関係のないアカネは一日中家でだらだらと過ごした。母はカルチャーセンターに行っていて留守、父親は相変わらず仕事で外出していた。
 夕方になってから、アカネは歩いて学校に向かった。
「おー」
 生徒会室に入った瞬間、嬉しそうな声に出迎えられた。見ると、西条カナコが机のむこうからこちらを見ていた。染めていない黒髪はショートでさっぱりしていて、目立つアクセサリーも付けていない。化粧も薄い。二年前の彼女を知る人なら、きっと別人だと思うだろう。アカネは断然、今のカナコのほうが好きだ。カナコは無理に着飾らなくたって、大きな目ときれいな歯並びだけで、十分にかわいい。
「アカネ、いいとこに来た! ちょっとちょっと」
 カナコに手招きされ、アカネも机に近づく。一人用の机が六つ寄せ集められ、ひとつの大きな台のようになっていた。そこに、大きな白い模造紙が広げられている。
「なになに作戦会議?」
 アカネは不思議に思いながらも、わくわくして近づいた。刑事ドラマでよく見るやつだ、と思う。
「そうです!」カナコの隣に立っていた楓が答える。
 机の周りには、他にも数人の部員が集まっていた。
「会誌の記事の話なんだけど」
 なぜか、現役部員でなく西条カナコが説明を始める。
「ほら、アカネの案で、学校の歴史をやることになって」
「あ、そうなんだ」
 アカネは内心驚きながら模造紙を見下ろす。まさか実現するとは思っていなかった。タイトルらしき『大井高校のキセキ』という字がマーカーででかでかと書かれてあって、周りによくわからない数字が書き散らかされている。
「でね、年ごとの大きな出来事をピックアップしないかっていう話になってんの。全部やるの大変だから、だいたい十年ごととかで。先生に聞いたら、だいたい五年か十年くらいで記念事業やってるみたいだし。こんな感じで」
 カナコは模造紙の数字を指さす。
 100、95、90、85、80、70、50。
 この年に記念事業が行われたということらしい。
「まあ百周年は別にいいよね。あとの六つを、一人ずつ割り振って調べてみるの。だよね?」
 カナコが楓を振り返る。楓はうなずいた。「そうなんです。でも、ちょっと大変そうで」
「あたしらも協力しない?」カナコがアカネに言う。
「えっ?」
「人手が足りないらしいしさぁ。せっかくだし、手伝ってあげようよ」
「でも……」アカネはきょとんとする。「あたしはいいけど……カナコは」
「だから、あたしとアカネで一つ。協力して」
 カナコは笑う。「それならあんま負担ないし。ごめん、アカネにけっこう任せちゃうかも」
 それは嘘だろう、とアカネは思う。何も言わなければ、彼女は一人でも仕事を終わらせてしまいそうだ。
「あたしは、大丈夫だけど」
「助かりますー」楓は申し訳なさそうに言った。
「でもさあ、どれにする?」
 カナコがアカネに聞く。彼女はこういう性格だ。細かいことを抜きにして、どんどん先に行ってしまう。自分はもう引退してるんだとか、受験勉強の真っ最中なんだとか、そういうことは話題にすらしない。
「楽そうなのは九十五周年とか九十周年とか、最近のやつだよね。資料が探しやすそうだし」カナコが言った。
「あたしたちの担当? そうだなあ」
「早く決めなよ」カナコがめんどくさそうに言いながら、アカネをひじで小突く。
「カナコは?」
「あたしが何でも決めたら、ちょっと悪いし」
 アカネは思わず笑ってしまう。「何それ」
 今まで何でも一人で決めてきたくせに。
「ほら早く」
「えっと、じゃあ、九十五……」
「はい決まり」
 カナコは手に持った赤色のマーカーで「95」に丸をして、すぐそばに「カナコアカネ」と書き込んだ。アカネは黙ってそれを見ていた。
 九十五周年を選んだことに、特に理由が無かったわけではない。
 創立九十周年事業としてあの改築工事が行われたことを、アカネは覚えていた。どうしても、あの工事のことを調べる気にはなれなかったのだ。当時の写真は、今も玄関ホールに飾られている。アカネが一年生の時に見た状態のままで。
 父の藤井トシフミは、今では絶対に見せなくなったにこやかな笑顔で、その写真に写っている。その時はまだ、工事が成功したと思って疑わなかったのだろう。彼から少し離れた場所には、松本金治という友人の姿もある。父より二回りほど年上の男性だ。アカネの同級生、牧田雄真の祖父であり、父と同じく改築事業の中心人物だった。
 彼らの間に何があったのか、アカネは正確には知らない。いや、むしろ知りたくはないと思っている。今さら蒸し返すこともない。今となってはそう思うのだ。
「カナコ、センターどうだった?」
 廊下を並んで歩きながら、アカネは遠慮がちに尋ねた。進路を左右する重要な試験だ。もし失敗していたら、と不安がよぎる。
 だが、カナコの答えは意外にさばさばしていた。
「んー、まあまあかな。予想通り、って感じ」
「そうなんだ」彼女の態度に、アカネは拍子抜けする。昨晩から万一のことを考え、なぐさめの言葉を用意したりもしていたのだが、どうやら杞憂に終わったようだ。
「じゃあ、第一志望、大丈夫そうなんだ」アカネはほっとして言った。
「ううん、無理っぽい」
「え?」思わず間の抜けた声を出してしまう。「でも、予想通りって……」
「予想通り、無理そうってこと」カナコはあっさりと言った。
「たぶんC判定も出ないなー。まあ諦めるよ。しょうがないってことで」
 アカネは何も言えない。
 頑張ったけど失敗した。そういうシチュエーションなら、なぐさめの言葉もあった。
 でも、予想通りだめだった、なんて言われると。どう返したらいいのかわからなくなる。
 以前にもこういう経験がある。中学の時だったか、見学先の人にインタビューをする時に、質問に対してイエスかノーの場合しか想定していなかった。相手がイエスなら自分はこう返す、ノーならこう言う。だから「まだわからない」みたいな答え方をされて、途端に詰まってしまった。あれに似ている。
 二人は中庭に出た。目指すのは図書館。九十五周年当時の資料を探しに行くのだ。その年、学校は市と連携して大規模なボランティア活動を行ったらしい。
 冬の中庭は色をなくすけれど、図書館はいつでも温かい色をしている。窓から明かりがもれている様子は、どこかおとぎ話の中のお城のようでもある。一年生の頃、アカネはここによく通っていた。だが塾に行き始めてからは、随分とごぶさたになった気がする。
 結果は空振りだった。
 引継ぎがうまくいかなかったのか、当時の資料は特に残っていないのだという。司書さんに話を聞いたあと、アカネは何となく、館内を歩いてみた。本棚に並ぶたくさんの小説を見ても、それほど心は躍らない。昔はあんなに好きだったのに。
 アカネはふと足を止めた。壁際の本棚に挟まれるような形で扉があり、そこに貼り紙がしてある。
 『立入禁止』
 地下倉庫につながる通路だが、二年前の事故以来、生徒が入ることはできなくなってしまった。
「何ここ?」カナコが近づいてきた。「立ち入り禁止? ……あ、そういやここで怪我した奴、いたんだっけ」
 アカネは黙ってうなずく。
 牧田雄真はここで骨折した。そして、あの事件を起こした。今となってはもう、遠い昔の、別世界の出来事のような気がする。
 学校図書館で思うような成果を得られなかった二人は、市の図書館を訪れることにした。九十五周年当時――つまり五年前の新聞を調べるためだ。新聞の地方面で記念ボランティア事業が紹介されていたと、司書さんが教えてくれた。ただ、正確な日付はわかっていない。
 市立図書館は電車で二駅のところにあった。少し遠出になるので、翌日に行くことにする。
「明日って雨じゃないかなあ」カナコはつぶやく。「家に傘あったかな」
「でも、カナコ忙しくない?」
 アカネが気を遣って尋ねた。センター試験が終わったばかりなのだ。私立大の入試や国公立大の前期選抜試験を、来月に控えているはずだった。
「別に」カナコは屈託なく笑った。「それに、たまには気分変えないと、やってられないって」
 正面玄関のところで新橋楓と会ったので、明日の天気を占ってもらった。よくわからないカードの束から何枚かめくった彼女は、目をまん丸くして「明日は黒い雪が降りますよぉ」と言った。
「それどういう根拠よ。ドクロマークでも出たの」カナコは笑った。

 翌日、電車に乗って市の図書館に出向いた。周辺には飲食店やレジャー施設、ショッピングタウンなどが立ち並んでいるので、アカネはこのあたりに来るたび、いつも近所の高校生をうらやましく思う。
 楓の予報通り、雨は降っていなかった。空は重苦しい曇り空だ。
 受付で手続きをして、新聞専用の書庫に入れてもらった。開架閲覧室と比べるとそこは肌寒く、鼻につんとくるにおいがした。
「新聞ってこんなに種類あるんだ」
 カナコが棚を見回しながら言った。大手の新聞はもちろん、地方紙や専門紙なども数多く保管されていた。アカネが名前を知らない新聞もたくさんある。
 アカネの案で、地方新聞から調べることにした。地域に関する記事が充実しているから、記念事業のことも大きく扱ってくれていると思ったのだ。ボランティア事業は年間通じて行われたが、記事になったのは年度末頃だったという。つまり、三月に発行された新聞を調べればいいということだ。
「やっぱアカネって頭いいなあ」冗談のつもりなのか、カナコが感心したように言った。
 カナコが三月前半を、アカネが後半を、手分けして探すことになった。始めのうちこそ、まじめに黙々と新聞をめくっていたのだが、おもしろい記事を見つけて報告し合っているうちに、雑談のほうが多くなってきた。
「やばい、集中集中」アカネが言うと、カナコも苦笑いして作業に戻った。新聞をめくっていると、だんだん指が黒くなってくる。目もちかちかしてくる。けれど、カナコと協力して一つのことに打ち込んでいるのは心地良かった。文化祭の準備に奔走した日々を思い出す。
 しかし、なかなかお目当ての記事は見つからなかった。
 あるのは遊園地のイルミネーション完成の記事、センバツに向けて練習する地元野球部の紹介、桜祭りの予告、ひき逃げ事件、時価や人口の話――
 アカネは妙な違和感に手を止めた。
 自分の名前を見たような気がしたのだ。気のせいだろうかと思いながら、慎重に紙面を見返す。
 ――藤井アカネさん(12)の死亡が大井市内の病院で確認され――
 アカネは驚いて顔を上げた。寒気がした。カナコを見ると、彼女は机の向かい側で、記事を探すことに熱中している。アカネはゆっくりと息を吐き、気持ちを落ち着けようとした。心臓が激しく鼓動し、顔が火照っていた。
 同姓同名の子だろう。だが、やはり気味が悪い。
 アカネは気を取り直して、その記事を読んでみた。
『24日午後8時頃、大井市の国道○号線で、自動車2台とトラック1台が絡む衝突事故があった。乗用車に乗っていた松本金治さん(63)と藤井アカネさん(12)の死亡が大井市内の病院で確認された。運転していたアカネさんの父親(47)は重体。県警によると、走行していた軽乗用車に乗用車が衝突し、更に後続の大型トラックが追突したとみられる。軽乗用車とトラックの運転手にいずれもけがはなく……』
 アカネは体が震えだすのがわかった。寒いはずなのに、新聞に汗がしたたり落ちた。松本金治。父の友人の名前と同じだ。これほどの偶然があるだろうか。
 偶然ではないとしたら――アカネは強い息苦しさを覚え、胸をおさえた。偶然ではないとしたら、彼女は五年前に死んでいることになる。
「あったー! あったよアカネ」カナコが嬉しそうに声をあげたが、アカネの耳には入らない。

 カナコの鋭いスマッシュが決まり、ピンポン玉は矢のようにアカネのひじをかすめていった。
「やりー」
 カナコはガッツポーズをして、大きな声で笑う。「アカネ、どーした?」
「まだまだ」アカネは汗で湿ったラケットを握り直し、腰を落として身構えた。
 ネットすれすれのサーブを危ないところで返球する。またカナコのチャンスボール。強烈なスマッシュを何とか当てて返す。ふわりと上がった玉はアウトかと思われたが、ぎりぎり台の深いところに落ち、カナコは空振りした。
「っし!」今度はアカネがガッツポーズをする。
「ひー、ちょっと休憩」
 カナコが息を切らせて言った。顔が上気し、汗もかなりかいている。真冬だというのにTシャツをぱたぱたさせながら、カナコは卓球台のそばに置かれた椅子に座った。
 アカネも隣に腰かけ、ペットボトルのスポーツ飲料をがぶ飲みする。冷たい液体がのどを通って流れていくのが、最高に心地良い。彼女も制服を脱ぎ、シャツ姿になった。
「あっつー」はく息とともに声が出る。
「はーすっきりした」カナコが壁にもたれかかり、ふうと息をついた。「でも久しぶりだからなまってるなあ」
 二人は図書館から程近いスポーツセンターに来ていた。卓球やミニバスケ、テニス、バドミントンなどが気軽に楽しめるスポーツ施設だ。年配の人が利用しないこともないが、たいていは近所の高校生や大学生でにぎわっている。アカネたちの高校からは遠いこともあり、最近はほとんど来ていなかったが、カナコが「せっかくここまで来たんだし」と言うので、帰りに寄ったのだった。
 平日の昼間ということもあり、利用者は少ない。普段は見かけないようなおばさんがテニスをしているくらいだ。順番待ち必至の卓球台も、今日は使い放題だった。
「アカネとやると燃えるわー」カナコがつぶやく。
「あたし下手くそだよ」
「そんなことないって」
「カナコは卓球部だっけ? 中学の時」
「そう」
 二人は通っていた中学校が異なる。ただどちらも市のスイミング教室に通っていたから、顔見知りではあった。アカネは怪我のリハビリのために入会したのだが、カナコは小学校の時から続けている古参だった。――事故のことを思いだし、アカネはまた胸が騒いだ。
 アカネは一年も経つと辞めてしまったから、その後のカナコのことは何も知らない。同じ高校に進学したのも、全くの偶然だった。
「何で、卓球部入んなかったの」
 アカネはふと、聞いてみた。中学で卓球をしていたのなら、高校でも続けるのが自然だと思ったのだ。
「だって」
 カナコはペットボトルに口を付けながら、目だけで笑った。「ダサいから。その頃は、ダサいと思ってた」
「ふうん」アカネは相槌をうつ。
 彼女の言いたいことは、何となくわかる。バスケ部やテニス部に比べると、卓球部は地味だ。
「今は?」とアカネは聞いた。
「今は……入ればよかったと思ってる」
 カナコはそう言って、ペットボトルの残りを飲みほした。
「あー汗かいちゃったあ」唐突に、カナコは悲壮な声をあげる。
 アカネも自分の体を見下ろす。汗でびしょ濡れになったシャツが、べたべたと肌にまとわりついていた。
「うっわー」
 アカネも声を出し、笑った。
 さっき図書館で見た記事のことは、なるべく考えないようにしていた。あれは、ただの偶然だ。だって、自分はこうして生きているのだから。何も悩む必要なんかない。
「お風呂いこ」カナコが言った。
「賛成っ」アカネはにやっとする。
 そのスポーツセンターには、スーパー銭湯が併設されていた。遊んで汗をかいた後は、ひとっ風呂浴びて帰るのが恒例だったのだ。
 先を争うようにして施設を移動し、入湯料の支払いを済ませた。ロッカーの鍵を受け取って、駆け足で脱衣所に入る。足の裏がぺたぺたして気持ち悪い。
「おー」アカネは思わず声をあげた。脱衣所には誰もいない。貸切状態だ。
「テンション高すぎ」カナコに笑われた。
 べとべとになったシャツを脱ぎながら、アカネは思い出す。
 もう三年近くも前になるが、同級生の石野薫をロボットではないかと疑ったことがあった。雨の中で倒れているのを、浸水で故障したからだと考えたのだ。そして、アカネ自身もロボットなのではないかと、ふと思った。薫がロボットだったかどうかはわからない。けれど、アカネは雨に濡れても平気だし、汗もかくし、こうしてお風呂にも入る。
 自分がロボットのはずはない。そう思う。
 記事に書かれていた藤井アカネは別人。もしくは、あの記事自体が何かの間違い。そうとしか考えられなかった。
 馬鹿げている。一度死んで、父親にロボットとして作り直されたなんて。
「さむーっ」
 カナコが甲高い声をあげる。冬の露天風呂は、本当に凍えるほど寒い。
 二人で競争するように湯につかり、ほっと一息つく。
「気持ちいいー」カナコが湯の中で手足を伸ばす。その顔がとても幸せそうだったので、アカネは笑ってしまった。彼女も首までつかって、体の力を抜く。こり固まっていた筋肉や、さっきの運動で痛めつけた筋肉が、一気にほぐされていく心地がする。白い湯気が温泉の上をもやもや動いて、視界をさえぎる。周りには誰もいない。二人でどこか別世界に来たみたいだ。
「カナコ」
 アカネが言って、自分の背中を向けた。「背中に何かついてない?」
「うん?」
 そしてカナコは「あっ」とつぶやいた。
「何?」アカネはどきりとして振り返る。
「それ痛くないの? その傷みたいな……」
「ああ」アカネはほっとすると同時に、またさっきの胸騒ぎを感じた。
 アカネの背中には、事故の傷あとがまだ残っていた。右肩から肩の中心にかけて広がる白い傷あとは、一生消えないと言われている。何年も車椅子で過ごさなければならないような大怪我をしたのだ。命が助かったほうが奇跡だと思っている。だから傷のことは、あまり気にしていない。普段は見えないところにあるのだから。ファッションが少し限られてしまうけれど、悲嘆にくれるような事でもないとアカネは思う。
「これはいいの。ほかは?」もう一度聞いてみる。
「ほか? ううん、別に。何で?」
「何でもない」
 アカネは照れたように笑い、体の向きを変えた。「てかほんと気持ちいい」
 湯船を囲む岩盤にもたれて、枕代わりにした腕に頭を預けていると、何ともいえず幸せな気分になってくる。
「もうすぐ卒業だねー」
 後ろでカナコが言った。
 それを聞いて、「何、急に」とアカネは笑う。
「でも、あと二か月もないんだよ」
「うん。あっという間って感じ」アカネはしみじみと言った。
「どうだった? 三年間」
「えー」アカネは頭がぼーっとしていくのを感じながら、長いようで短かった高校生活を振り返る。
 自分はだいぶ疲れているようだ、と思う。
「まあ、――」
「え、何て?」カナコが聞き返す。
「何回も言わせないでよ」アカネは恥ずかしそうに言った。「あ、あたしらが仲良くなったのって、いつ頃だったっけ」
「修学旅行」カナコはすぐに答えた。「二年の秋の。あれで一緒の班になって」
「そうだそうだ」アカネは思い出したように言う。けれど、本当はしっかりと覚えている。
「あれ、何であたしら一緒の班になったんだっけ」
「あの頃は」カナコの声が小さくなる。「もう、けっこうアレだったからね」
「うん」アカネはそっと言った。
 西条カナコは二年生になったあたりから、仲間の支持を失い始めた。高校生の人間関係など、一日どころか一瞬で変わってしまう。修学旅行の班決めをするとき、アカネは、一人になっていたカナコと組んだ。それが、二人が友人になるきっかけだった。
 カナコとアカネは生徒会の役職に立候補し、当選した。一年生の頃から生徒会執行部で活動していたカナコはやはり信頼が厚かったし、アカネには琴川しのが応援につき、推薦演説までしてくれた。アカネが当選できたのは、間違いなく琴川のおかげだ。彼女がいなかったら、今のアカネは、ここまでカナコと親しくなっていなかったかもしれない。
「無理してたなあ、あたし」
 カナコがつぶやいた。
「え?」
「一年の頃」
「ああ」アカネはちょっぴり笑ってしまう。「目立ってたよねー」
「もともとあんなキャラじゃないのにさ。でも、何ていうのかな、みんなに認められたいとか、そういうこと思ってたのかな……」
「後悔してる?」アカネは聞いた。答えはしばらくして返ってきた。
「ううん。それもある意味、あたしなんだし」
 ちゃぷんと湯の跳ねる音がした。
 アカネは腕を枕にしたまま、考えに耽っていた。
 自分は今まで、どんなふうに生きてきただろう。そしてこれから、どんなふうに生きてゆくんだろう。それを全て、自分は肯定できるんだろうか。カナコみたいに、「それもあたしなんだし」と言えるだろうか。
 けれど間違いなく、今この瞬間の自分は肯定できる、と思った。
 西条カナコと二人で過ごし、会話を交わしているこの瞬間は。
「ほんと、」アカネはつぶやいた。「あんたと友達になれてよかった」
 返事はない。
 アカネは不審に思って振り返った。そして叫んだ。
「カナコ!」
 西条カナコは湯船にうつぶせになり、だらりと力なく浮かんでいた。

 すぐに救急車が呼ばれ、カナコは一命をとりとめた。
 病院の待合室にいたアカネのもとに、看護師らしき女性が近づいてきた。
「西条さんの、付き添いの方?」優しい声だった。
「はい」
「本当にありがとうね」彼女はアカネにほほえみかけた。「あなたの応急手当のおかげで、西条さんは助かったのよ。後遺症も残らないわ。本当にお手柄でした」
 だがアカネは、力なく首を振った。泣きはらした目はぼんやりとして、まぶたが重かった。
「もともと、あたしのせいなんです……もっと早くに気づいてたら、こんなことには、ならなかったのに……」
 看護師はしゃがみこみ、アカネの手に自分の手を重ねた。温かかった。
「それは、あなたの過失じゃないわ。責任なんか感じないで。西条さんね、ストレスでかなり疲労が溜まっていたみたい。この時期の受験生にはよくあることだけど。それでお湯に当たって、ちょっとぐったりしちゃったのね。悪い偶然が重なっただけ。ね、責任なんか、誰にも無いの」
 その口調は優しく、同時に力強かった。
 彼女はしばらくアカネの顔を見つめていたが、ふいに「あの……」と言った。「失礼だけど、お名前を伺ってもいい?」
「藤井……アカネです」アカネはぼそりと答えた。
「やっぱり」彼女は顔をほころばせた。「藤井先生の娘さんね? 大きくなったわねえ……」
 アカネは事情が飲み込めず、少しうろたえた。
 聞けばその看護師は医学部在学中、藤井トシフミの講義を受講したことがあったのだという。そして十年近く前、藤井が病気で入院していた際、この病院でアカネを何度か見かけていたそうだ。言われてみればアカネも、こんな看護婦さんに声をかけられたような気がする。看護婦さんはみんな同じように見えるから、確かなことは言えないのだけれど。
「藤井先生は、お元気?」
「はい」アカネは反射的に、それだけ答えた。
「よかった」彼女は心底ほっとしたような顔で言った。人柄が顔に表れている。
「ほら、去年あんな事故があって……。何だか申し訳ない気持ちになっちゃって。だって、この病院の工事にご協力いただいていたのに、恩をあだで返すようなことになったじゃない。ひどいことってあるものね」
 この大学病院の耐震工事の際、藤井トシフミが大怪我を負ったことを言っているのだった。その時の光景は、今でもアカネの脳裏に焼き付いている。今でもたまに夢に見る。そんな時は、恐ろしさで汗びっしょりになりながら目が覚める。
「でも」アカネの口から、言葉が滑り落ちる。「お父さん、全然たいしたことなくて。あんなことになったのに……」
「そうね、私もびっくりしちゃった」看護師は言った。「あの怪我で、搬送されてきた時もまだ意識があるんだもの……不気味なくらいだったわ」
「お父さんの手術をした先生って、わかりますか」
 アカネは尋ねてみた。去年、父の手術を終えた医師は、アカネにこう言ったのだ。「人間の体とは思えない」と。その言葉が、アカネはずっと気になっていた。
 しかし、看護師はゆっくりと首を振った。
「あのあとすぐ、お亡くなりになって。もうかなりのお年だったから……」
 アカネは息をのんだ。
 事故の直後、父は治療を受けることを必死に拒んでいた。猫のロボットまで使って、父を助けようとする人たちを妨害していた。そして、彼の手術をした医師が亡くなった。
 偶然なのだろうか。
「先生」
 看護師の声に、アカネははっとして顔を上げた。
 待合室の出入り口に、車椅子に乗った男がいた。看護師がすぐさま近づき、声をかけた。
「どうされたんですか」
「すみません、娘がお世話になったようで」
 藤井トシフミは、しごくまともな様子で言った。「もう遅いですし、私が連れて帰りますね」
「いえいえそんな。先生こそ、わざわざここまで」
「いえ、ほんの散歩程度ですから」そう言って、彼はアカネを見た。「行こうか、明美」

 アカネは言葉が出なかった。その名前は、確かに自分の名前であるように感じられた。
 サイレンの音で、アカネは我に返った。看護師と父が困惑したように、音の聞こえてくる方向を見つめている。それは消防車のサイレンだった。
「火事かしら」看護師が不安そうにつぶやいた。「近くありませんか?」
 藤井トシフミは待合室を出て行った。看護師とアカネもあとに続く。
 外に出ると、こげ臭いにおいが鼻をついた。アカネはあたりを見回し、あっと声をあげた。
 北の空が、赤く染まっている。大学のある方角だ。
 父がいない。見ると、彼は既に車椅子を走らせ、人ごみの中に消えるところだった。アカネはあとを追った。
 燃えさかる建物の前には、山のような人間がいて見物をしていた。アカネはその場に立ちつくした。炎が上がっているのは、アカネも見慣れた、父の研究室がある工学研究科棟だった。洋風建築の趣を残した白い建物は、今では窓という窓が赤く染まり、黒々とした煙を空にまき上げていた。ときどき小さな爆発音がした。放水がされているが、炎が収まる気配はない。
「下がってください」消防隊員が必死に呼びかけている。「爆発の危険があります。下がってください!」
 研究科棟には、様々な研究室や実験室が入っている。危険な薬品や物質もたくさん置いてあるに違いない。
 アカネは肌に冷たいものを感じ、首を動かした。周りの何人かも、空を見上げている。アカネはそっと手を広げ、暗い空から落ちてくるそれを受け止めた。
 ひんやりした感触。大粒の雪だった。だが、それは煤で黒く染まっていた。
 悪寒が走るのを感じながら、アカネは炎をまき上げる研究科棟を見つめた。父の研究室はどのあたりだろう。そして、父はどこに行ったのだろう。あたりに彼の姿は見えなかった。アカネは嫌な予感がした。その時、こんな会話が耳に飛び込んできた。
「あの人大丈夫かな」「車椅子の? あれは死ぬって……」
「それって、あの」アカネはすぐさま、話をしていた大学生に詰め寄った。相手に飛びつかんばかりだった。「どういうことですか」
 彼らは不思議そうにアカネを見つめる。その中の一人が言った。
「あ、さっきね、車椅子の人が建物の中に入っていって、それで消防士の人がそのあとを追いかけて……」
 アカネは呆然として、炎に包まれた研究科棟を振り返った。
 父が研究機材を大切にしていたことは知っている。ロボットを何よりも愛していたことも知っている。けれど、
「それはないって……」
 アカネは走りだしていた。それを見た野次馬がどよめく。制止しようとする消防士を振り切り、アカネは建物に入っていった。火元は階上のようで、一階にはまだ火の手がまわってない。それでも、熱気と息苦しさは感じた。
 不思議と怖さは感じなかった。あるのは怒りだった。父の研究室を目指してアカネは走った。勝手に死のうとする父が許せなかった。彼の不可解な言動に、アカネがどれほど苦しめられてきたことか。そして、今日図書館で見つけたあの記事。教えてほしかった。彼の口から、納得できる説明をしてほしかった。
 非常階段を駆け上がって三階に出ると、熱風がアカネを襲った。立っていることも、目をあけることもできなかった。その時初めて、自分が捨て鉢になっていたことに気づいた。人はこういうふうに死ぬのか、と、妙に冷静なことを考えた。
 朦朧とする意識の中で、誰かに抱き起されるのを感じた。何か布のようなものにくるまれる。これは何だろう。自分は死んだのだろうか。

 目を開けて、アカネはしばらく考えた。しばらくして、そこが父の研究室だということに気づいた。彼女が寝ているのは、仮眠用に備え付けられたベッドだった。
 今までのことは夢だったのだろうか。
 違う。天井や壁は煤でまっ黒になり、床には白い粉が散らばっている。焦げ臭いにおいもする。遠くからは、まだサイレンの音も聞こえていた。
 藤井トシフミはアカネが起きてきたのを見ると、粗末な丸椅子を勧めた。そして、自分は壁際の机に向かった。彼の傍らに、何か長いものが転がっている。
 アカネは息をのんだ。それは人間だった。ぶ厚い服にくるまった人間だ。
「これか。心配するな」アカネの様子に気づいたのか、父は言った。「おれを助けようとした消防士だ。おれは大丈夫だったが、この人は煙にやられたらしい。いや、息はしている」
 父が口をつぐむと、どこからかサイレンの音がかすかに聞こえた。まだ火事は収まっていないのだろう、とアカネは思った。
 かなり長い間、彼らは無言だった。
 沈黙を破ったのは父のほうだった。その声は落ち着いていた。
「何か、聞きたいことがあるんじゃないのか」
 アカネは黙っていた。
「時間がないぞ」父は言った。どこか傲慢な言い方に聞こえた。「しばらくすれば、また火がまわってくる」
 アカネはそれでも黙っていた。
「妙な新聞記事でも見つけたか」
 その言葉に、アカネははっとして父を見る。「何で……」
「やっぱりな」彼はつぶやいた。
「高校生がおれを訪ねて来たから、嫌な予感はしてたんだ。ほら、学校の記念行事を調べるとか何とか。お前も関わっているんだろう」
 アカネはうつむく。「だから?」
「聞いてるのはおれだ」
 父は相変わらず落ち着いていた。「何か、あったのか」
「……新聞」アカネはささやくように言った。
「見たの……事故の……」
 汗が背筋を伝った。
 部屋は迫る炎で暑いはずなのに、体が震えた。
「あたし……と同じ名前の人が、し、死んでた……」
「同じ名前の人。つまり別人か。どうしてそう思う」
 父の口調は、冷たいくらい冷静だった。
「だって」アカネは、今にも叫び出しそうになる衝動を必死で抑えながら、かすれた声で言った。「あたしは生きてるから……」
「それは、証明できるか?」
 再び、部屋を沈黙が支配した。
 聞こえてくるのは、断続的に続く爆発音だけだった。
 父はおもむろに、手元にあったラジカセのスイッチを入れた。するとノイズとともに、人の話し声が流れてきた。アカネは耳をすます。
『――それで、あなたはどう思ってるんですか』
 父の声だ。聞き取りづらいが、間違いない。
『私としては、きみの才能は高く評価しているつもりだよ』
 別の男が応答した。アカネの知らない男だ。これは何なのだろう? 何のために録音した会話なのだろう? アカネにはわからなかったが、父に聞いてみたいとも思わなかった。ラジカセから流れてくる父の声は、お世辞にもご機嫌とは言いがたかった。
『そんなことを聞くためにお誘いしたんじゃないんですよ』父の、いらだった声。『今日は本音で話しませんか。こうして二人でいることですし。他の誰にも聞かれる心配はないんですから』
『本音って、どういう――おい、ちゃんと運転してくれ』
 男は慌てたように言った。同時に、かすかに車のクラクションが聞こえた。
 そこでアカネも気づいた。父と男は、自動車に同乗している。ノイズには、時折大型車のエンジン音も交じっていた。
『酔ってるのか?』
『酔ってませんよ。やめてください』父は挑戦的な口調で言った。『ちゃんと質問に答えてくださいよ。私のことどう思ってるんですか? あの件のことで』
『ああ、あれか……まだそんなことを気にしているのか。もともと無理な計画だったんだ。私だってね、本気で期待していたわけじゃないんだ。私の設計にも不備があったのかもしれない。だって前代未聞だ、学校をまるごと動かすなんて。失敗して当然だったさ』
 アカネははっとした。この声の主は、松本金治だ。父と彼が、二人きりで車に乗っている。これは――?
『もう三年になりますか』父の声。『あのお庭を失って、さぞかし気に病まれていたんでしょう。本当に、申し訳ない限りです』
『馬鹿を言うな』松本が厳しい口調で言った。『あれは病気で……間違っても、きみのせいなんかじゃない』
『本当にそう思ってますか』
『何を言ってる。当たり前だ』
『いい加減にしてくださいよ』父が激しい口調で言った。『腹の奥では私を責めているくせに……わかってるんですよ。あんな奴に仕事を任せなければ、とか、思ってるんでしょう。まあ当然ですよね。私のせいで奥さんが亡くなったんだから。ねえ、そうなんでしょう』
『違う、私はただ――』
『何ですか?』
『ただ……少しがっかりした、それだけだ。きみの技術では、人を幸せにはできないんだと――やめろ!!』
 アカネは思わず、両手で耳をふさいだ。爆発のような音とともに、音声はぷつりと途切れた。
 アカネは、激しい運動をした後のように、息を切らせていた。鎮めようと意識すればするほど動悸は激しくなり、息を満足に吸うことができなかった。
 藤井トシフミは額に指をあてて、微動だにしなかった。まるで、何か見えない敵の攻撃に堪えているようでもあった。
「もう……」アカネは嗚咽にも似た声を出し、首を振った。
 頭がどうしようもなく混乱していた。あの記事に書かれてあったとおりだ。松本金治は、父の運転する車で死んだ。だが、そこにアカネはいなかった。今の音声を聞く限り、父と松本の他に、車に乗っていた者はいなかったはずだ。
「今のは、録音じゃない」ゆっくりと息を吐き出し、父は言った。「お前の記憶だ」
 アカネには、その意味が理解できない。
「記憶……?」
「許してくれ」
 唐突な言葉だった。
 父の口からそんな言葉を聞かされるとは、アカネは想像したこともなかった。
「おれは知らなかった……知らなかったんだよ。あの時お前は、後部座席に乗っていた」
 アカネは、顔からすっと血の気が失せるのを感じた。
「本当に知らなかった。あとから、母さんに聞いた……お前は母さんと出かけたあと、ぐっすり眠りこんでいたものだから、そのまま車に置いていたんだそうだ。おれはそれを知らずに、そのまま車を出して、松本金治を乗せた。そして……お前たちを殺した」
「うそ」アカネは顔をゆがめて叫んだ。「あたしは生きてるよ!」
 父は顔を伏せたまま、ゆっくりと首を振る。そして、うめくように言葉を発した。
「残念だが……死んでいる」
「うそ! じゃあ何なの? 今ここに立ってるあたしは、いったい何なの?」
「お前の頭の中に何が入ってるか、知ってるか」
 アカネから目を背けたまま、父は言った。
「機械だ。脳細胞を電流で刺激する機械だ。それがお前のニューロンに信号を送り、心臓を鼓動させ、内臓を活動させ、息をさせ……お前を動かしている。おれが入れた。お前を救うために」
 アカネは呆然としながらも、無意識に頭に手を当てていた。
「だからお前は、今もここに立っている」
「意味わかんない」アカネはつぶやいた。
「信じてくれ」
 突然、アカネは床に崩れ落ちた。
「アカネ」父が驚いて声をあげる。だがアカネは座りこんだまま、こくりとうなずいた。
「大丈夫」
 アカネはささやくように言った。
「そんな気は……何かしてた」
 もちろん信じたくはなかった。それが嘘であることを願ってもいた。だが、そんな願いは無駄だということもわかっていた。
 今ここで突き付けられているのが、逃れようのない現実であると、どこかで理解していた。
「そういうこと考えたのは、一年の時かな……」
 二年前、アカネは父の技術力と、人間の危うさを目の当たりにした。
 自分の存在は、自分で証明することができない。それは今まで何度も思ってきたことだ。特にこの高校三年間は、いつでも自分の存在に不安を抱きながら過ごしてきた。
 不安定な人間関係。不安定な思い出。不安定な自分。
 本当はわかっているのだ。父の言うことを信じなければならないと。
「だからそうやって、あたしの記憶をとったんだ」
 アカネは机の上のラジカセを見ながら、言った。
「どういう意味だ」父がつぶやく。
「だってあたし、記憶ないから」
 彼女は中学入学の直前に事故に遭った。親からはそう聞かされていたが、アカネにはその事故の記憶や、それ以前の記憶がほとんどなかった。それをアカネ自身は、事故のショックで記憶喪失になったのだろうと思っていた。しかし、五年経った今も記憶は戻らない。
「とったんでしょ、あたしの記憶」
 アカネは当然のことを確認するように言った。
 父の造った機械に脳を操作されているのだとしたら。事故の記憶は、父が抜き取ったのだ――
「自分が人殺しだっていう証拠を隠すために。そうでしょ? あたしを救うとか、何、きれいごと言ってんの。あたしをロボットにして、それで救ったつもりなんだ。ばっかじゃないの……」
「違う」父は静かに言った。「おれは……もう一度きみに会いたかっただけだ」
「きみって?」アカネは顔を上げ、父の視線をたどって自分の背後を振り返った。しかし、もちろん誰もいない。
「きみだよ、明美」
 アカネの心臓が、どくんと脈打った。
 父は向き直り、アカネを真正面から見つめた。
「きみは、いやきみの頭の中にあるのは、アカネの、アカネではないもう一人の人格の記憶だ。きみは心優しくて、とても素直な、いい子だった」
 どこかで大きな音がして、建物全体が揺れた。窓の外の夜空が、黒煙で覆い隠される。
「でもきみが存在したのは、本当にわずかな間だった。きみはアカネのために生まれて、アカネを助けて、それで、すぐに消えてしまった。本当にいい子だったのに。だからもう一度会いたかった。きみが完全に現れなくなってからも、ずっと会いたいと……きみではなくアカネが消えればよかったのに、とさえ思った。ひどい親だろう。だが本当にそうだった……だから、アカネが死んだ時――」
 彼は前かがみになり、アカネに語りかけるような格好になった。だが眼鏡の奥の目は、アカネを見てはいなかった。彼女に向けられた目は、どこか遠くを見つめている目だった。
「アカネが死んだ時、彼女の脳の奥深くで眠っていたきみの記憶を、彼女のものと入れ替えた」
 ――入れ替えた。
 アカネは目眩がした。床に手をつき、こみあげてくる吐き気を堪える。
 思い出そうとしたわけではないのに、様々な光景が目の前を通り過ぎていく。身に覚えのないことで自分を叱る安曇先生。小学校が同じことを忘れていて、自分を責めるような言い方をする牧田。がっかりしている琴川。なぜか引き出しの中に入れられていた花の種。これを覚えていないのと、ビオトープを指さす安曇先生――
「でもな」父はつぶやいた。その声は震えていた。
「明美の記憶を植え付けても、きみは戻ってこなかった。きみはアカネのままだった。きみはアカネの性格のまま、アカネとして育った……」
 アカネはのろのろと顔を上げ、父の顔を見た。彼は泣いていた。眼鏡の奥の目は充血し、しわだらけの顔に涙の筋が光っていた。
「おれは、きみにどう接していいのかわからなかった……アカネを葬った罪悪感と、きみを失った絶望と……その繰り返し……何年も……何年も……」
 アカネはふらつきながら立ちあがり、車椅子の父に近づいた。彼は机に突っ伏して、肩を震わせていた。
「なあ」彼は絞り出すような声で言った。「きみは、誰なんだ?」
「聞きたいのは、こっちだよ」
 アカネの目から、静かに涙が伝った。
 父は、とっくの昔に壊れてしまっていたのだ。そう思った。事故で傷ついた身体は直せても、いくら丈夫に改造しても、心までは修復できなかったのだ。松本金治とアカネを死に追いやり、失意の底にあった彼がすがりついたのが、もう一人の娘、明美という存在だった。
 だが、明美も永久に消えてしまった。彼が拠り所にするものは何も残っていなかった。だから自分の殻に閉じこもり、罪の意識から、牧田雄真に対する恐怖感を強めていったのだろう。
 父のすすり泣く声が、いつまでもアカネの耳を離れなかった。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。いつしか爆発音はやみ、サイレンの音も聞こえず、あたりは静寂に包まれていた。
「お父さん」アカネは小さな声で、眠ったように動かない父に話しかけた。
「あたしはアカネだから……死んでなんかないから……だから、お父さんの罪は、一つ減るよ。ねえ知ってる? アカネちゃんっていう子は、やんちゃそうだけどいい子で、お父さんのことが大好きなんだって……昔、看護婦さんが教えてくれて。ほらそれって、まんまあたしのことだよね。だから記憶はなくても、あたしはあたしだから。藤井アカネだから……だからそんなに、苦しまないでよ……」
 父は寝たふりをしているようだった。
 アカネは机から離れ、煤でまっ黒になった窓を開ける。サッシがきしむ音とともに、冷たい夜風が顔をなでた。
 瞬く星を眺めながら、思いを馳せた。
 自分の過去や、未来や、父に振り回された数奇な運命や、いま自分の中にある、明美という女の子の記憶に。そして、消えてしまったアカネとしての記憶に。やんちゃでわがままなところもあったけれど、父親にも愛されなかったけれど、確かに存在した、そして今でもここに存在する、アカネという女の子の記憶に。思いを馳せた。花が好きで、植物が好きで、小さな生き物を誰よりも愛していた女の子の記憶に――。
 その時、アカネはあっと声をあげた。
 いつの間にこんなことをしていたんだろう。父を振り返ったが、彼は相変わらず微動だにしない。さっき話していた時も、全く怪しい素振りは見せなかった。
 アカネはもう一度窓から顔を出す。氷のような風が肌を打ち、思わず目をつぶった。やっとのことで目を開けて、地上を見下ろす。やはり、見間違いではない。眼下に広がるのは、一面の青白い雲。
 飛んでいるのだ。
 父の研究室だけが、建物から離れて飛翔していた。失速することなく、ひたすらに上昇していく。どこに向かっているのか、アカネには見当もつかない。
 流れ込む冷気が我慢できないほどになったので、アカネは震える手で窓を閉めた。心配になった。このまま飛んでいて大丈夫なのだろうか。やがて成層圏を突き抜けて、宇宙に飛び出てしまうんじゃないだろうか。
 でもそうなれば、父はもう牧田雄真を恐れずに済むだろう。アカネはそんなことを思った。いくら藤井トシフミが祖父の仇だといったって、空を飛んでまで追ってくることは無いはずだ。
 彼女はほっとため息をつく。
 これでいいのかもしれない、と思った。父は休んだほうがいい。きっと一人になる時間が必要だ。それに、アカネ自身も。心残りといえば、カナコに直接謝ることができなかったこと。それから、まだ完成していない百周年の生徒会誌。
 うめき声がした。見ると、父のそばに倒れていた消防士が起きあがろうとしていた。
「お仕事、お疲れさまです」
 アカネは彼の前にしゃがんで声をかけた。
 怪訝な顔をする消防士を放っておき、アカネは仮眠用のベッドに向かった。そこでふと思いつき、こつこつと自分の頭をたたいてみる。その音を聞いただけでは、何が入っているのかはわからない。機械なのか、脳みそなのか。あるいは、空っぽだったりして。



 ―おわり―
2013-04-04 23:52:01公開 / 作者:ゆうら 佑
■この作品の著作権はゆうら 佑さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
3月5日 序章を投稿。
3月22日 第1章更新。
3月28日 第2章更新。ご指摘いただいた箇所をちょっと修正。
4月4日 第3章更新。完結。

こんな終わり方でいいんだろうか、中途半端じゃなかろうかと自分でも思……いえ、言い訳はやめます。完結いたしました。
ご意見ご感想等、いただけると嬉しく思います。
この作品に対する感想 - 昇順
作品読ませていただきました。
 なんでしょう。前の作品を踏まえた、作品というか、自分から見たゆうらさんという作者に対する感想を言わせてまらいますね。コミュニティを書くのがうまいですね。素直に、すごいと思うんです。今回もこの序章、序章だけでちょっとした短編みたいになってますけど、そこにもちゃんと人間のつながりの輪、コミュニティがあるんですよ。それをこの枚数で感じられたので、素直に「すげえ」と思ってしまいました。
 さて、作品に対する感想。まだ序章っていうから、こっかどうなるかも予想つかないから書けないんですよ。なにか、なんとも言えない始まり方です。ハッピーエンドみたいなストーリーですが、これって見方を変えれば結構残酷な終わり方ですよね? 役割を終えて、意識しないまま、自分ではない自分のために消えるってのは。
 さて、ジャンルはSFなんですよね。たしかにSFっぽくなりそうではありますが、どうなるのか。楽しみにしておきますね。では。
2013-03-08 03:41:18【☆☆☆☆☆】コーヒーCUP
 こんばんは、ゆうら 佑様。上野文です。
 御作を読みました。
 序章だけなのでなんとも書きづらいのですが、ちょっと会話文が多いような印象を受けました。ただ、それがスタートの雰囲気を作っているようで、真価はこれkらというところでしょうか? 続きを楽しみにしています。
2013-03-09 21:31:25【☆☆☆☆☆】上野文
 お返事が遅くなってしまい、すみません。

>コーヒーCUPさん
 ありがとうございます。コミュニティ……。そうかもしれません。うまいかどうかは別として、コミュニティを書こうという意識はあるのかもしれません。前回の作品を書いたあたりから自分のテーマというものを考え始めたんですが、どうやらぼくは理想的な人間関係を書きたいもようです。いえ、それほどちゃんと意識しているわけではないのですが。
 作品については、おっしゃる通り最初は短編として構想したものでしたが、短すぎるのでもう少し風呂敷を広げてみようかな、と思ったものです。今は第一章をこねくりまわしておりますので、もうしばらくお待ちください。
 SFというジャンルをよく知らないまま書いているので、エセSFになる可能性大です。いえ、文学にジャンルはそれほど重要じゃないと思うんですよ……。いやいや、SFっぽくなるように頑張りたいと思います。それでは。

>上野文さん
 ありがとうございます。はい、短い序章だけ放り投げてすみません。まず会話文だけ書いて、そのあとで地の文をねじこんだので、地の文が少しお粗末かもしれません。ちょっと推敲してみようかと思います。でもあまり書き込み過ぎて、ネタバレになるのが怖かったりもします。
 では、この先もよければお付き合いください。
2013-03-22 01:07:27【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
拝読しました。水芭蕉猫ですにゃん。
最初のうちは学園モノの何かどろどろした感じの愛憎入り混じった物語なのかなと思ってたら、思いもよらぬロボットモノでござった。
愛憎入り混じりの少女マンガ系学園モノは苦手なんですけれどこういうロボSFなら大いに大好きでございます!! ということで、今後も続けて読ませていただきますね。
ちょっと気になったというか、些細なことなんですけれど、猫が喋ったところでもう少し主人公が驚いても良いんじゃないかなーと思いました。それくらいです。
2013-03-23 23:48:21【☆☆☆☆☆】水芭蕉猫
>水芭蕉猫さん
 こんにちは。感想ありがとうございます!
 そうですね、一応ロボットSFを書いてみたつもりです。でも難しいものですね……。期待していただいてあれなのですが、おそらく、第2章ではロボSF臭が急速に薄まるかと……。いえ、がんばります。
 学園モノも書いてみたいなーと思いつつ全然書いていなかったので、ちょっとそういう要素を入れてみました。完全にミスリードですみません。でも、ぼくにどろどろモノは書けません。普段ゆるいのばっかり書いているので(笑)
 猫のシーン。言われてみると、確かにあまり驚いていない! 本当はもうちょっと驚いているはずなんですが、ごちゃごちゃ書き直しているうちに抜け落ちてしまったかもしれません。ご指摘ありがとうございました。
2013-03-25 19:03:30【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 こんばんは、ゆうら 佑様。上野文です。
 御作を読みました。
 良い意味での不安定感というか、マトリックスのように全部が夢かも? と主人公と一緒に疑心暗鬼になりそうな世界観に惹かれました。
 とても魅力的な出だしだと思います。面白かったです! 続きが楽しみです。
2013-03-25 21:57:56【☆☆☆☆☆】上野文
 読みましたー。
 ずいぶんと序章とは雰囲気が違っていて「あれ? 同じ作品?」とちょっと驚いてしまいましたが、しかし序章が「掴み」だとしたら、一章は「入り」なわけですけど、いいですね。単純に面白いです、良い具合の不思議さが興味を引き立ててくれますね。
 薫がね、お前絶対に純血の日本人だろ、おべっかなんて言葉最近使わないよってつっこみを入れたくなった。けど彼女、物語のかなり重要な部分を占めていそうな雰囲気を出していて、この明るいくせしてどこか暗黒面をもちあわせていそうな、なんとも掴みきれないキャラクターが憎めなくて愛らしい。良いキャラですね。
 牧田は今回の件をへて、なにを思うのか……。彼の目的自体も、正直はっきりとわからないんですよねえ。このままおとなしく引き下がるのかな?
 主人公のアカネが、まあ今回同様色々と巻き込まれながら物語は進んでいくんでしょうが、やはり序章の「アカネ」との関係は無視できないっていうか、まさに彼女自身なんだろうとは思ってますが、じゃあもう一人はやっぱり消えたのかなあ。どうなんだろう?
 一章で、これからまだまだ続くかと思いますが、今回だけでも十分楽しかったです。つづき、心より楽しみにしてます。では。
2013-03-25 22:53:17【★★★★☆】コーヒーCUP
>上野文さん
 お読みいただきありがとうございます!
 マトリックスですか、なるほど。でも、夢ではない……はずです(笑)
 まさにその不安定感をめざして書いておりますので、最後までこのままの雰囲気で押し通すことになるかと思います。飽きずにお読みいただければ幸いです。

>コーヒーCUPさん
 感想とポイント、ありがとうございます!
 雰囲気はかなり変えてみました。序章を書いた時点では物語の全体像が見えていなかったので、第1章をかなりこねくり回したという事情もあるのですが……。
 魅力的なキャラクターを書いてみたい、というのが長年の願いですので、薫に注目してもらえるのはすごく嬉しいです。でもかなりクロに近いグレーになってしまったので、今回限りで退場させます……(泣) 牧田はもうしばらくグレーのままで置いておきますね。
 読んでいただくだけでも嬉しいですが、そんなふうに疑問に思いながら読んでいただけると、こちらとしてもやる気が出てきます。
2013-03-27 23:39:39【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 よみました。
 本当に薫が退場してて個人的にはショック。うーん、良いキャラだったですけどね。次回でラストとなると、復活の見込もあんまりない感じなのか? そのへんも楽しみにしてます。
 さて内容のお話。一章ほどのインパクトがなかったというのが正直な感想。けど仕方ないですね。前回は校舎がまわったりしてましたから派手さで勝るというのは無理か。しかし、しのを初めとした、アカネと他のキャラたちの交流はよかったです。
 なにがよかったかって、ようやく「アカネ」という人間が少しわかったところですね。彼女がしのに弱音を吐くシーンは、なかなかくるものがありました。前回、彼女は基本薫とか牧田に振り回されているばっかりで彼女自身のことはあまりわからなかったんですが、今回はそれが見れたので。もちろん、その分謎も出てきたのですが。
 親父さん何者なんですかね。親父さんそのものがロボットなのか?
 終わり方がなんとも言えないですね。アカネの視点から見ると、おいおいどうなるんだよって感じなんですが、もう片方のしのたちの方はハッピーエンドぽいし。なにがミルフィーユか、良い台詞だし良い雰囲気だしうらやましい。
 さて、これでまたよめなくなったなあ。どうなるんでしょうか。最終更新、楽しみにしております。
2013-03-30 23:00:00【☆☆☆☆☆】コーヒーCUP
>コーヒーCUPさん
 ありがとうございます。
 薫さん、いいんですけど、彼女がいると話が進めにくいんですよねえ。でも、どうでしょうねえ……。
 インパクトがなかったとのことで、「やっぱりか…」と思っています。出オチですみません。第1章はネタ重視でしたので。作品全体の構想としては、第1章でばらまかれた謎や伏線を次章以降でちょっとずつ回収していく、というものでした。それで展開自体はどうにも地味になってしまったんですね。もうひと山欲しかったかなあ。
 それでもアカネという人間を掘り下げられたので、この章で最低限やりたかったことは達成できたかなと思います。おっしゃる通り、ラストのあたりは完全にアカネを無視して、いつものほのぼの小説にしてしまいましたorz
 とりあえずは次で完結させますので、いい意味で予想を裏切る展開にできたらなあ、と思います。
2013-04-01 20:48:39【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
はじめまして、香月薫です。薫です(笑
自分の名前であれですが、薫は私も結構好きなキャラでした。二章で退場してあれっと思ったんですが、まだ伏線が残っているような……。再登場に期待です!(笑
牧田もなんか普通の少年になっていいですねー。ほのぼの。
二章でアカネがだいぶ情報を出してくれたので、ちょいちょい序章の納得部分があってよかったです。やっぱり一気読みはこういうのをちゃんと覚えておけるのでいいです。
この一二章からの三章で序章とどうつながるのか楽しみでたまりません。
それでは失礼します。
2013-04-03 01:13:18【☆☆☆☆☆】香月薫
>香月薫さん
 初めまして。お読みいただきありがとうございます!
 薫さんですね。いい名前ですよね。ぼくも気に入っているので、作品中の人物によく薫って名づけちゃいます。再登場ですか……いやーどうなんでしょう(笑)
 2章は最後の場面が書きたくて書いたようなものなんですけど、牧田にもついに隙が出ちゃいましたね。
 そうなんです、この章でぼちぼち伏線が回収されて、次につながっていきます。でも序章を書いた時点ではあまり構想が進んでいなかったので、矛盾する点が出ないかひやひやしながら書いています……(いつもは作品全体の構成をしっかり決めて、ある程度書きあがってから投稿するのですが)。
 楽しみと言っていただけて幸いです。ありがとうございました。
2013-04-04 00:11:05【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 読みましたー。まずは、完結おめでとうございます! そしてお疲れ様でした!
 全体的に不思議な雰囲気を漂わせて、それを維持したまま着地したのは良かったと思います。SFというジャンルですから。不思議はあってしかるべきだし、そこで魅力を出すというのは成功していたかと思います。章を進めるごとにアカネという人間がちょっとずつ好きになってました。不思議なものですね、最初はそこまでだったんですよ。ただ、一章ごとに学年をあげて、ちょっとずつ変わっていく彼女に、少女ならでは魅力を感じていました。
 でてきたキャラも、総じて良かったと思います。最初は藍、次はしの、カナコ。章ごとに違うアカネのパートナーがでてきて、一人ずつ魅力的でした。カナコ、一章にちょこっとだけ出てきたのがここに出てくるとは。
 ただね、こればっかり言わないといけない。不完全燃焼です。物語としては着地していました。不思議を全て解決せず、謎を少しだけ残して、その物語の雰囲気を維持したまま終わったのはこの作品に一つの魅力を生み出した思います。だから、それは別にいいですし、むしろ「良い」です。
 ただ、謎を残しすぎです。確かにアカネや、父親の秘密は明かされました。けどその周りがまるで見えない。これは「不思議」ではなく単純に「不明」です。そこを明かさないまま終わられたので「え、ええっ」ってなりました。キャラがたってよかったのが災いしたのもありました。藍は絶対もう一回出てくると思ってましたし、牧田もあのまま再登場がないとは思わなかった。存在感がありすぎました。
 やっぱり物語の終点ですから、ある程度収束させるべきだったと思います。余韻を残しながら終わりもいいのですが、読み終わったあと「うん……うん?」となるはよろしくない。
 自分の方が読み足りないというだけの話しかもしれませんが、面白かっただけに、ちょっと残念でした。読解力がなかっただけかも。ごめんなさい。
 けどやっぱり全体的には楽しめましたから、良かったです。終始、「三千百の鐘と一緒の人の作品か?」と思いながら読んでいました。作風の幅が広いには単純にうらやましい。ゆうらさんの強みだと思います。
 それでは、長く偉そうなことを言って失礼しました。次回作があるのならば、楽しみにさせていただきます。
2013-04-07 00:31:39【★★★★☆】コーヒーCUP
>コーヒーCUPさん
 ありがとうございます! 評価していただけてとても嬉しいです。そうですね、章ごとに学年が上がったり相棒が変わったりするのは、自分でも書いていて楽しかったです。一年経てば何でもありですしね(笑) アカネの成長もどうにか描けていたようで、ほっとしてます。
 ……で、そうですね。不完全燃焼な件について。
 けっこう見切り発車で書いてしまったことも災いしてると思います。とりあえずラストというか、大きな謎の真相が自分の中で決まってからは、もうそこしか目になくてですね、薫とか牧田とかへの配慮が……。切り捨てるならそんなにキャラ立たせるなっていう話ですよね。すみません。
 読み込みが足りないとか、そういうことではないです。ぼくの中でも、薫の正体とか、牧田の狙いとかっていうのはちゃんと設定されていないんです。作中にちょっとにおわせましたが、本当にあれくらいのことしか考えてません。このへんは、もう少し頑張るべきでした。

 前作は一旦書き上げてから丸二年経っていますから、そのあいだの作風の変化もあったのかもしれません。この二年は忙しいのもあって文章を書くことがなかなかできず、たまに短編を書いては投稿したりしなかったり、なんかいろいろと悩んでいた時期だったような気がします。それで最近、はずみをつけたいと『三百千〜』を投稿してみたんですが、その後すぐにこの分量のものが書けたことに自分でも驚いています。この勢いで……と言いたいところですが、コーヒーCUPさんと同じで、時間がとれるかどうかちょっとわかりません。書きたいものは、まああるのですが。昔さわりだけ書いて放置しているシリーズもありますし。次回ですか。砂漠の古代都市を舞台にしたファンタジーでも書こうかな…(笑)
2013-04-09 02:25:11【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
完結おめでとうございます!
アカネとお父さんの会話の感じからすると最後に切なく終わるのかと思ったら、穏やかに終わって、この作品らしいなあと思いました。
サブキャラの個性が強かったから、もう少しいろいろ彼らのその後を知りたかったなーというのはありました。ただ、あくまでもメインはアカネだからこれでいいのだろうか。。
最後まで読んだ前提でもう一度読むと新たな発見がありそうですねー。
何にせよ、最後までまとめるのは大変だったと思います……。お疲れ様でした!
2013-04-10 20:37:29【☆☆☆☆☆】香月薫
 こんばんは、ゆうら 佑様。上野文です。
 完結おめでとうございます。
 私も色んなキャラを置き去りに真相へと走った、最終幕が若干まき過ぎのような気がしましたが、序章を読み直してしっくりきました。
 なんとなく真のエピローグは序章のような気がします。
 アカネちゃんのなにげない日常と裏腹の違和感が上質な悪夢(ホラー)のようで、面白かったです!
2013-04-10 20:55:27【☆☆☆☆☆】上野文
>香月薫さん
 お読みいただきありがとうございます!
 穏やかに終わったのは、何なんでしょうね。意外となごやかなラストでした。父娘の会話ではないんですけど、最後にトシフミと牧田が対峙して、殺伐とした感じで終わる……という筋書きも考えていたんです。でも、それも書かずじまいで。そしてサブキャラを無視してしまったことについては、本当に申し訳ない限りです。
 はい、読みかえしてみるといろいろと伏線はあると思います。お時間のある時にでも確認してみていただければ。
 ともかく、ご感想本当にありがとうございました。それではまた。

>上野文さん
 お読みいただきありがとうございます。なるほど、真のエピローグですか……その発想は正直なかったんですけど、でも、序章が要になっていることは確かです。だから何と言いますか、主人公はあの父娘ですから、とりあえず収束はしている、という……言い訳ですね、はい。他のキャラを妙に立たせてしまったことが仇になってしまいました。ぼくとしては、いろんな人物を書けて楽しかったのですが。それに、もう少し書きたいという気持ちもあります。
 上質なホラー……そう言っていただけると嬉しいです!(ほめられているのかな?) 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
2013-04-13 20:04:09【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
計:8点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。