『推理げえむ 1話〜20話』作者: / ~Xe - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
春日と秋山のコンビが数々の事件に挑みます。ガスバス大爆発殺人事件、豆腐の角に頭ぶつけて……殺人事件、他 クイズ本です。(他サイトとの重複投稿作品)
全角197924文字
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   第一話 プロレスラー殺人事件

 控え室、それは戦いを前にした益荒男達が己を奮い立たせる場所。そして同時に、激しい戦いの後、疲れた心と体を癒す安息の場所でもある。
 男達の血と汗と涙が染み込んだ室内には、独特な緊張感とにおいが漂っていた……。そんな男達の聖域で、事件は起きた。
 ある夜、人気プロレス団体の看板レスラー、マックス川満が遺体となって発見されたのだ。
 死因は神経毒による窒息死であった。川満の右腕には注射針の跡があり、傍に転がっていた注射器からは毒が検出されたが、指紋は出てこなかった。
 刑事達はすぐに他殺と判断し、殺人事件として捜査を開始した。
 川満の死亡推定時刻、後輩レスラー達は全員、会場の後片付けをしていたため、控え室に戻っているのは川満一人きりであった。そこを狙っての犯行と思われる。
 川満の体は試合中や練習中にできた痣やすり傷だらけであったが、そのどれもが軽傷であった。
 また今日の試合で、相手選手の凶器攻撃によって川満の額にできた傷は、深く切れてはいたが、川満にとって流血試合は毎度のことであり、出血の後も相変わらずパワフルな試合を展開していたそうだ。
 その後、刑事達が関係者から情報を集めた結果、一人の人物が容疑者として浮かんできた。会計を担当している宮里だ。
 宮里には興行で得られた収益を数度に亘って着服した疑いがもたれており、正義感の強い川満は厳しく追及していたが、いずれも証拠がなく、警察に突き出すまでには至らなかったようだ。
「その横領の話が本当で、川満になにか証拠でも握られたんなら宮里の動機となり得るだろうが、宮里にこの犯行は無理だろうな」
 川満の遺体を見ながら中年刑事が言った。
 川満が百九十センチを超える大男なのに対し、宮里は百五十センチ足らずのガリガリの小男だった。もし宮里が注射器を手に川満に近付いたとしても、片手で首をへし折られるだろう。
 また、川満は背後に立たれるのを極度に嫌うゴルゴ属性の持ち主でもあった。後ろに回り、不意を突いて毒を打ち込むことも不可能である。
「会場には警備員がいるから部外者があちこち歩き回れるものでもねえし……もしかしたら、相手団体のレスラー数名が力任せに川満を抑え込み、毒を打ち込んだという可能性も……」
 中年刑事が顎に手を当てた。
「……ってわけです。状況は解りましたか春日先輩?」
 やや下がった目尻が人懐っこい印象を与える若い刑事が電話の相手に問い掛けた。
『秋山君、いきなり電話してきて、ってわけですって君ね』
 電話の向こうで春日と呼ばれた男が溜息を吐いた。
「おい秋山、何だよ? 妙に携帯持ってウロウロしてやがると思ったらまさかまた、例の犯罪コンサルタントか?」
 中年刑事が秋山をジロリと睨む。
「えへへ、実はそのまさかで」
 秋山がペロリと舌を出した。
 中年刑事が春日のことを犯罪コンサルタントと呼んだのは、秋山が事件の早期解決のためにコンサルタントに相談しているのだと言い張っているからであって、春日は自らをそうだと名乗ったことはただの一度も無く、全くもって、ただの民間人であった。この事実が明るみに出た暁には、秋山は減棒ぐらいでは済まされないだろう。
「先輩、いかにも怪しい宮里さんなんですけど、犯行は無理っぽいんですよ……。任意で所持品検査させて貰ったんですが、持っていたのは家の鍵やサイフの他には湿ったハンカチが2枚だけでしたし……犯人は他にいるんですかね?」
『…………いや、その宮里って人でも充分可能だと思うよ。ある方法を使えばね……』
「え、な、なんですかある方法って!?」
 
※春日の言うように、非力な宮里が川満を毒殺することははたして可能なのだろうか?
 
「先輩、本当にそんな方法あるんですか!?」
『うん、結論から言うと、殺害自体に注射器は使用されていないよ』
「へっ?」
『注射器は、川満氏の腕に注射針の跡を残すためだけに使用されたんだ。まず、宮里さんは川満氏と二人っきりになってから、川満氏の額を見て、こう言ったんだと思うよ。「川満さん、血が出てますよ、拭いてあげます」ってね。そしてハンカチを手に持って近付き、額の血を拭ってあげた。……毒が付いていたのはそのハンカチだったのさ』
「ハ、ハンカチに!?」
『ああ、傷口から入った毒が体に回り川満氏は死亡、宮里さんは傷口に付いている毒を別のハンカチで拭き取り、腕に注射針の跡を残した。注射器を傍に残したのも、毒が少し入っていたのも全て計算だよ。非力な自分にこの犯行は無理と警察に思わせるためのね。で、証拠だけど、宮里さんが所持していたというハンカチを調べてごらん。すでにトイレで洗ってあって、毒は消えているかもしれないけど、見た目はきれいになっていても出るはずだよ、ルミノール反応がね』

 春日の指示通り、秋山は宮里の身柄を確保し、所持していたハンカチを鑑識に回した。すると予想通り血液反応が出た。動かぬ証拠を突きつけられ、宮里は観念し犯行を認めた。
 動機はやはり横領の証拠を川満に掴まれたためであった。川満の試合が流血試合になることが多いことからこの犯行を思い付き、日頃から機会を窺っていたそうだ。


   第二話 おとなのオモチャ殺人事件

「もっ、もしもし! 妻が、家に帰ったら妻が!」
 とある日の警察に、帰宅したら妻が何者かに殺害されていた、と男から電話が入った。
 警察が急いで現場へ向かったところ、ベッドに横たわった女が胸をナイフで刺され死亡していた。争った形跡が無いことから、寝ているところを襲われ、抵抗する間も無く殺害されたものと思われる。検視の結果、死亡推定時刻は午前四時頃と断定された。
「居間の窓ガラスが一枚割られてまして、そこから何者かが侵入したと思われるんですが、犯人を特定できるような指紋や足跡は発見できませんでした。後、遺体が動かされた形跡は一切ありません。……ここまではいいですか?」
 秋山が電話の向こうに居る春日に訊ねた。
『ん』
 と短い返事。
「一見すると強盗の犯行に思えるんですが、実はその他の可能性もありましてね」
『ほう』
「殺害された奥さん、浪費癖があったようです。それはもうハンパなく。旦那さんはそれについて、前々から頭を悩ませていたみたいです。その旦那さんが、ついにブチ切れた……という可能性もあります」
『なるほど』
「しかし旦那さんにはれっきとしたアリバイがありまして……。奥さんの死亡推定時刻の午前四時、旦那さんは現場から遠く離れたホテルの一室で、モーニングコールを受けてるんです」
『ふうん?』
「ホテルのフロント係はこう証言してます―午前四時に起こすよう念を押されていたので、きっちりその時間に掛けたところ、しばらくコールすると旦那さんが出たんだそうです。既に起床していた様子で、ヒゲでも剃っていたのか、ずっとウィィィィンと機械音がしていたらしいです。そして旦那さんが日替わりランチのメニューやルームサービスについて訊いてきたので、質問に答えたそうです」
『ふむふむ。電話に出たのは旦那さんで間違いないのかな?』
「はい。フロント係が旦那さんの声を覚えていて、間違い無かったと言っています。旦那さんはそのホテルをよく利用するようですね」
『ふーん……ホテルよく使うんだ……その旦那さん、なにやってる人?』
「アダルトグッズ専門店を経営しているそうです」
『アダルトグッズ?』
「ええ、ホテルをよく使うのは、仕事で、というよりも夫婦間がアレなので、別居とかに意味合いが近いのかもしれません」
『ああ、そうか』
「えーと、旦那さんに、事件が起きる前の日の行動についてお聞きしたんですが、買い物をしていたそうです。レシートを拝見したんですが、雑貨店で糸とハサミとセロハンテープを購入していて、後、電気店街でプリペイド携帯とハンズフリー用のイヤホンマイクを購入してました。元々使用している携帯もあるそうなんですが、仕事用とプライベート用で使い分けようと思って買ったそうです」
『…………』
「どうです先輩、何か気になる点とかありますか?」
『ふむ……。まず、強盗の線は薄いと思うね』
「そ、そうですか。その根拠は?」
『じゃあ仮に、強盗の仕業だったとしよう。夜、家の窓のカーテンは全て掛っているはずだ。外から見て、どの部屋が居間でどれが寝室なのか強盗には解らない。中に人が居るかも知れないのに窓を割って侵入するのはかなりリスク高いよね』
「確かに……」
『しかも、奥さんには抵抗した形跡が無いんでしょ? 何者かの侵入に全く気が付かず、完全に無防備なところを一突きにされたわけだ。家の間取りを知るはずない強盗が、暗闇の中物音を立てず、住人に全く気付かれることなくそんなことができるだろうか? 難しいと思うね』
「な、なるほど」
『そんなことができるのは、玄関のカギを持っていて、家の間取りを完璧に把握している人物、その家の住人くらいじゃないかな……つまり、ガラスが割られていたのは強盗の仕業に見せ掛ける偽装工作……旦那さんが怪しいと思うよ』
「そ、そうですか……! あ、いや、しかしですね、フロント係の証言から旦那さんのアリバイは完璧ですよ?」
『ふむ……現時点では物的証拠とか一切無いんだけど、そのアリバイを崩すことはできそうだよ……』
「ほ、本当ですか!」
『うん、旦那さんは用意した幾つかの小道具と一緒に、アレを使ったんだと思う』

※夫が犯人だとすると、どのようにして自分のアリバイを作り上げたのだろうか?

「ア、アレってなんですか!? どうやったんですか!?」
 秋山の、携帯を握る手に力がこもる。
『ええと、どう説明したものか……じゃあさ、まず普通の電話機を想像してみて。受話機と本体がクルクルコードで繋がってるやつ、どこのホテルにでもありそーな普通のやつ』
「はい、想像しました」
『じゃあ次に、ハンズフリー用のイヤホンマイクが接続されたプリペイド携帯。このプリペイド携帯とホテルの電話機を合体させればその場にいなくても会話ができるようになるのさ』
「は、はい?」
『えっとね、電話の受話器はね、耳に当てる部分を受話部、口に当てる部分を送話部というんだけど、この受話部にイヤホンマイクのマイク部分を、送話部にイヤホン部分を当てるようにして、テープで固定しちゃうんだ。そしてそのプリペイド携帯と、元々持っていた携帯電話とを、ずっと通話中の状態にする。そうすれば、フロント係と会話ができるのさ』
「え、ちょ、ちょっと待って下さいね……ええと、フロント係の声をマイクが拾って、その音声が別の携帯電話に伝わって……携帯電話で喋った声は、イヤホンから出るわけだから……ああ! なるほど! 確かにこれなら会話できますね!」
『そうそう。後は受話器を本体に戻しておけばいい』
「ん? ま、待って下さい、モーニングコールを受けるためには、電話が鳴ったら受話器を取らないと。その場にいないなら、誰が受話器を取るんですか?」
『うん、確かにそれは大問題だ。しかしそれも、ある物の力を借りれば可能となる』
「あるもの? そ、それは一体何ですか?」
『太くて長くて電池で動いて、ウィィィィィンっていいながらクネクネする棒』
「……………………じょ、冗談ですよね?」
『ガチ』
「マジなんですかっ!? そ、そんなものでどうやって!?」
『いいかい、まず適当な長さの糸を用意する。次に糸の一方の端を受話機に結び付ける。そしてもう一方の端をクネクネする棒に結び付ける。それがすんだら、電話機を何か適当な台の上に乗せ、台の適当なところにクネクネする棒を置く。今度は、このクネクネする棒にタイマーを取り付ける。旦那さんは電気店街で実際にプリペイド携帯を購入したんだろうけど、電気店街に行った本当の狙いはタイマーを購入することだったと思うよ。携帯なんてわざわざ電気店街まで行かなくても安く手に入るところは幾らでもあるはずだ』
「そ、そうですね……」
『最後に、購入したプリペイド携帯と元々持ってる携帯を通話状態にしたら準備OKだ。こっそりホテルを抜け出し、自宅に向かう。そして午前四時、ホテルの部屋にモーニングコールが入る。少し遅れて、セットしていたタイマーが作動し、クネクネする棒がクネクネし始める』
「………………」
『クネクネする棒はクネクネしながら力強く台の上を移動してゆく……そして遂には台の端から床に落ちる。糸で繋がれた受話器はそれにつられる形で本体から外れるってわけ。後は適当にフロント係と会話をすればアリバイ成立って寸法だよ。フロント係が聞いたウィィィィンっていう機械音はこれのことだね』
「な、なるほど……! でも実際は自宅にいて、奥さんを殺害する直前か直後だったってことですか……そ、そう考えると怖いですね……」
『うん、そうだね……』
「あ、しかしですね、結果的に受話器が外れれば良いのなら、使用したのがクネクネする棒だったとは限らないんじゃないですか? タイマーをセットして、時間が来たら動くものであればなんでも良いんですよね?」
『いや、クネクネする棒で間違い無いよ。旦那さんの仕事はアダルトグッズ専門店の経営。職業柄、クネクネする棒を常に持ち歩いていたとしても決して怪しまれることはないからね』
「いや、充分怪しいと思うんですけど……」
『とにかく、クネクネする棒で間違い無いから』
「し、しかし……」
『クネクネする棒!』
「わ、わかりました……全捜査員にそう伝えます……」

 春日の助言を頼りに夫の身辺を徹底的に捜査した結果、事件当時の足取りが判明し、夫がホテルを抜け出していたことが分かった。それを追求したところ、夫は犯行を認めた。
 夫は動機をこう語った。妻は無断で、家や土地を担保に借金まで拵えていたのだそうだ。離婚したとしても全てが戻ってくることはまずあり得ない。もう殺す以外に無い、との考えに行き着いたのだという。
 男は商売道具を握りしめ、涙ながらに語った。



   第三話 一人フガフガ殺人事件

 ある日の春日書店に秋山が顔を出した。
「せんぱーい。こんちゃーす」
 専門書や参考書が並ぶ小ぢんまりとした店内を進むと、奥にはレジカウンターが有る。
「はあい、いらっしゃー」
 声は更にその奥からした。戸の代わりに掛けてある暖簾を潜れば中は倉庫になっていて、事務所も兼ねた室内の照明は明るく、春日はパソコンの前に座り伝票を整理しているところだった。
「お疲れ様です。ちょっと仕事で近くまで来たもんで」
「ああそう。事件? 事故?」
 春日がのびをしながら立ち上がった。ひょろりと背が高く、堀の深い顔に黒縁メガネが搭載されている。今はボサボサの頭にジャージエプロンという残念な感じになっているが、ちゃんとしたものを着せてやればそれなりに見栄えはする男である。
「うーん……急病死、ですね」
 秋山が答えた。
「ふうん?」
「今朝一一九番に通報がありましてね。息子が鼻から血を流して息をしてないって。それで救急隊が出動して、でも救急隊員が駆け付けたときにはもう亡くなってからかなり時間が経過してたんです。で、死因がちょっとはっきりしないってことと多少出血してるってんで、警察も出動となりまして」
「なるほど」
「名前は伏せますけど、亡くなったのは学生で、朝になっても食卓に現れない息子さんを変に思って、母親が部屋の戸をノックしても応答なし。心配した父親がドアを開けると暗い部屋の中で息子さんが亡くなっていたそうです」
「うん」
「ボクが部屋に入ったとき、息子さんはパソコンが置かれた机の前で、椅子に座ったまま亡くなっていました。机に前のめりに倒れていて、それで……寝巻のズボンとトランクスが膝まで下げられていて……そして手が……その……こ、股間に……」
「ほう」
「ティッシュの箱が傍に在って……で、鼻血が出てました」
 秋山がジェスチャーを加えながら説明した。
「そっかぁ……」
「検視によると、どうやら夜にパソコンでエロDVDを見ながら一人フガフガをしてる最中に亡くなったようだ、と」
「おう」
「鼻からの出血は気を失って前のめりに倒れたとき、机に鼻を打ち付けたためだそうです。詳しい死因の特定はもうちょっとかかりますが、状況から見て性行為時の発作、いわゆる腹上死に当たるんですけど、今回の場合、一人フガフガ時に亡くなっていますので、一人フガフガ死ってことになります」
「……きっついな」
「はい」
「で、発見したのは両親、か……」
「はい」
「きっついな」
「はい……」
「まあ、それなら事件性はなさそうだね」
「ええ、部屋に誰かが押し入ったり、争った形跡もみられませんでしたし。それに……こういったケースの場合、ことを大っぴらにするのは、ご両親としても……」
「それもそうか……」
「しかし残念ながら……イク前に逝ってしまったんですねぇ」
「こら、不謹慎だよ」
「あ、すみません。ああ、そうだ。息子さんが見てたエロDVD見てみます? 遺留品として預かってるんです。これが本当に急死に関係があるのか調べる必要があるので」
「うん、それはいいけど、なんでそれを、鑑識の人じゃなくて君が持ってるの?」
「…………まあいいじゃないですか」
「いいのか?」
 秋山はDVDをパソコンにセットして再生させた。
 冒頭から過激なシーンが映し出される。艶めかしい喘ぎ声が室内に響いた。
「モザイク邪魔ですよね」
「うん、モザイク邪魔」
 漢達は糸のように目を細めた。
「あ、それでですね。このエロDVDなんですけど、どうやら、亡くなった学生さんの元々の持ち物ではないようなんですよ」
「………………」
「というのもこのディスク、記録用のDVDに映像データが書き込まれたものなんですけど、亡くなった学生さんが使っていたパソコンのドライブにはDVDへの書き込み機能が無いんですよ」
「………………」
「したがってこのディスクは他の誰かから借りた物、または貰った物ということになります。…………って聞いてますか?」
「………………」
 そしていよいよクライマックスというとき、画面が赤いフラッシュを繰り返した。
「……なにこれ?」
「ああ、演出ですよ。市販のエロDVDを複製した後、パソコンで加工したようです。出演してる男女がオーガズムに達するのに合わせてピカピカピカッとフラッシュ効果が入るんです。派手ですよね! ……あ、そういえば複製って違法だ」
「……………………」
「先輩? どうかしましたか?」
「……秋山君……この一件、捜査を殺人事件に切り替える必要があるかもしれないよ……」
「へっ!? ど、どうしてですか!? 死因は発作ですよ?」
「うん、死因は発作で間違いないだろう。でもこのDVDによって、発作が人為的に引き起こされた可能性がある」
「え、こ、このDVDによって? え、だって、ボク等今観ててもなんともないじゃないですか!」

※春日が考える発作の原因とは一体何だろうか?

 春日がディスプレイを顎で示した。
「発作は発作でも、光過敏性発作かもしれない」
「ひかりかびんせいほっさ?」
「うん。目から入った強い光が脳を刺激して、吐き気を催したり、めまいがして意識を失うこともあり、ひどい時は呼吸不全が起きる。昔、子供向けテレビアニメで問題になったことがあるだろう?」
「ああはい、その事件は知ってます。でも待って下さいよ。ボクは亡くなった学生さんの部屋を実況見分したときもDVDを見ましたよ? 他にも数名一緒に。誰もこの映像で体調が悪くなった人間はいません。現に今だって全然平気です。むしろ元気です」
「うむ」
「なのにそれが発作を引き起こすですって?」
「じゃあ仮に、自分の部屋で一人フガフガをするとしよう。まずどうすると思う?」
「ボクは全裸になります」
「それは君の嗜好だよね。ごく一般的な回答を頼むよ」
「ええっ? ……ええと……部屋のカギを……」
「うん、掛けましょ」
「ティッシュを……」
「はい、小脇に抱えましょ」
「………………そして、電気を」
「それ! 学生さんは部屋の明かりを消したんだよ。部屋の明かりのスイッチはオフになっていて、カーテンも閉まってたんじゃないかい?」
「ああ、はいはい、確かにそうです」
「その方がなんか落ち着くからね。でも周りが暗いと画面の光の刺激が強過ぎるんだ。しかも赤い光が一番刺激が強い。『部屋を明るくして、画面から離れてみて下さいね』ってテロップ見たことあるだろう? 周りが明るければ光の刺激は弱まるんだ。君達が実況見分したときには投光器を使ったりして、室内は明るかっただろう?」
「あ、はいはい、確かに」
「そして僕達が今いるこの室内も明るい」
「なるほど、だから平気なのか!」
「室内が暗く、そしてパソコンの前に座っているために画面も近く、更に一人フガフガによる興奮した状態。そして学生さん自身の光に対する体質にもよるけれど、こんな状況で、画面が赤い点滅を繰り返したなら、光過敏性発作を起こす可能性は極めて高い」
「な、なんてことだ……。え、ちょ、ちょっと待って下さいよ。すると、どうなるんですか?」
「うん。確か、このDVDは学生さん自身が作成した物ではなくて、誰か別の人間が作ったかもしれないんだよね? ならばこの映像の加工に悪意が有るのか無いのかで事態は一変する」
 秋山が唾を飲んだ。
「さ、殺人事件……」
 春日はパソコンからディスクを取り出すとその光沢に眼を落した。眼鏡がキラリと反射する。
「見たら死ぬ……。これも一種の呪いのビデオか……」
「…………」
「いいかい秋山君、亡くなった学生の交友関係を調べ上げ、ディスクの作成者の割り出しに全力を尽くすんだ!」
「はっ、了解しました! 早速取り掛かります!」
 秋山は春日の手からディスクを取ると、勢いよく部屋から飛び出した。
「待ちたまえ秋山君! 話はまだ終わってないよ!」
 春日に怒鳴られ秋山は体をギクリとさせた。
「す、すみませんっ! 失礼しました! ……ま、まだなにか?」
「ダビングがまだ済んでいない」
「後にして下さい!」
 秋山も怒鳴った。

 数日後、問題のディスクを作成したという男が警察に出頭してきた。男は死亡した学生の友人であった。地元警察が殺人事件として捜査を進めているのを知り、怖くなったと出頭の理由を話した。
 そしてディスクはやはり、発作を引き起こすよう意図的に作られた物であった。作成の目的は、発作で引きつけを起こした友人を見て笑ってやろうという、実にくだらないものであった。男は、まさか本当に死んでしまうとは思わなかったのだと取り調べの刑事に対し、何度も何度も泣きながら繰り返した。
 
 
 
   第四話 リビングデッド殺人事件

 ある夜。閑静な住宅街に男の叫び声が響いた。
「照屋、バカな真似は止めろ! あぶない! 降りろって!」
 その声に付近の住民がなにごとかと窓から顔を出し、あるいは通りに出てくる。五分もすると野次馬の列ができた。
 頭上を仰ぎ、なおも叫び続ける男の視線の先にはマンションが有り、その五階のベランダに人影があった。
 どうやら男らしく、ベランダの手摺に身体を預け、俯いたまま押し黙っている。
 やがてパトカーのサイレンの音が遠くで聞こえ始めた頃、ベランダの男は更に外へ身を乗り出し、そこから真っ逆さまに転落した。

「あ、先輩。お疲れ様です」
「はいはい、お疲れ様」
 数時間後、秋山に呼び出された春日がマンションの前に到着した。
 既に男の遺体は運び出され、集まっていた野次馬も姿を消していた。辺りは夜の静けさを取り戻しているため、二人は額をくっ付けるようにして会話を始めた。
「じゃ、さっそくですけど状況を説明しますね。亡くなったのはこのマンションに一人で住んでいた、照屋さんという男性です。散歩中だった友人がベランダに身を乗り出す照屋さんを偶然発見、説得を試みますが失敗。付近の住人が見守る中、照屋さんは身を投げました」
「うん……?」
「なので、目撃者による証言が多数あります。まず、『ベランダが暗くて、表情は判らなかった』ですとか『友達みたいな人が一生懸命呼び掛けてるのにピクリとも動かずガン無視していた』ですとか『何の前触れも無くいきなり飛び降りた』とか、他には―」
「いや、ちょ……目撃者多数って……それ完全に自殺じゃん……なんで僕呼んだの?」
「いやあ、それがですね、ちょっと不可解な点も有りまして。婚約者の女性が泣いて言うんですよ、『子供ができたのをあんなに喜んでくれた彼がなんで自殺なんか』って」
「ふうん?」
 春日が眉をぴくりとさせた。
「あの女性です」
 秋山が指したその先に、口元を手で覆い大きく肩を震わせる女がいた。今はマンションのエントランスで警官の事情聴取を受けている。
「かなりショックを受けてらっしゃいまして、それ以上話を聞くことはできてないんですけど」
「その隣に立っている男性は?」
「あの方が、照屋さんにずっと呼び掛けを行っていた友人の湧川さんです」
 ともすればその場に崩れ落ちそうな女の肩を、男が手を添えて支えている。
「随分、婚約者の女性と親しそうだね」
「ええ、なんでも皆さん、昔からの友人らしいです」
「ふうん。……待てよ……秋山君、まさかパトカーはここへ向かっている途中、サイレンを鳴らしていたんじゃないだろうね?」
「え? えと、鳴らしてたと思いますけど、それがなにか?」
「やはりそうか……なんてことだ……秋山君、こんなことを言うのは非常に残念だけど、照屋さんを殺害したのは君達警察の人間だよ」
「な、なんですって!? それは一体どういうことですか!」
「照屋さんは子供ができたことを大いに喜んだ。しかし感動が大きければその反動も大きい。彼は結婚や将来について考え過ぎて、世に言う『マリッジブルー』に陥ってしまったんだ。そんな時、偶々ベランダに出て夜風に当たっていただけなのに、勘違いした友人が『早まったマネをするな』的なことを言い出し、更には野次馬まで集まってきて彼はうろたえた。そして、極度に不安定な精神状態の彼に追い打ちをかけるけたたましいサイレン。その音が脳の視床下部に働きかけ、『騒ぎを起こしてしまった、逮捕される、もうお終いだ』という強迫観念が彼に込み上げ、遂に耐え切れなくなって、えーい、って……。したがって照屋さんを追い込み、殺したのは君達警察だ」
 春日はそう言ってウンウン頷いた後、あやまれ、と言った。
「……………………そういう冗談言う先輩嫌いです」
 秋山は冷たく言い放った。
「……ご、ごめん」
「オホン……じゃあ、説明を続けますね。照屋さんが落下したのは地面に敷かれた芝生の上です。裂傷による派手な出血はありませんが、かなりの衝撃があった模様です。死因は頚椎の骨折、脳挫傷でした。湧川さんが駆け寄ったときにはもう意識は無かったそうです。こっちです、付いてきて下さい」
 秋山は照屋が落下した地点まで春日を誘導した。そして取り出したライトで地面を照らすと、芝生の上に落下の衝撃を物語る大きく窪んだ部分があった。
「照屋さんは上半身裸で、下はハーフパンツを履いていました。それで遺体を運び出すとき、やたらお腹に土や葉っぱがくっ付いていたので、触ってみたら何やらベタベタしてました」
「お腹がベタベタ? なんだいそれくらい。君なんてお腹どころか、全身がベタついてるときあるじゃないか」
「そうそう、ローションってきれいに落として貰ったつもりでも、意外と残ってるんですよね―ってほっといて下さい! そうじゃなくて、ガムテープや湿布を剥がした後、みたいな感じだったんですよ」
「ふうん……」
 春日は芝生の窪みを触ってみた。ベタつくところは無い。
「それと、証言により照屋さんがベランダから落下したのは午後十一時五分頃と分かっているんですが、妙なことに通常よりもかなり早く死後硬直が出てます」
「……照屋さんは上半身裸だったって言ったよね、飛び降りる直前まで運動してたとか?」
「え? どういうことですか?」
「体の筋肉の中には、運動エネルギーの源となるATPという物質が含まれているんだけど、このATPは死亡するとどんどん失われてゆく。そして、筋肉中には筋肉の収縮をつかさどるアクチンとミオシンというタンパク質も在って、この二つがどんどん結合してアクトミオシンという物質になり、これが筋肉を硬化させるんだ。これが死後硬直ってやつだね。そしてこのATPってやつは死んだときだけじゃなくて、運動することによっても失われる。だから、筋肉が極度に疲労しているときに急死すると通常よりもずっとはやく死後硬直がでることがあるんだ。わかる?」
「いいえ」
「うむ」
「あ、確かに照屋さんの部屋に、あのあれ、自転車のペダル漕ぐトレーニングマシンとか、ダンベルとかありましたよ。でも、照屋さん汗かいてませんでしたし、パンツも汗で湿ってたりはしてませんでしたよ?」
「そう……まあ、自殺する直前にメタボを気にして運動なんかするわけないか……」
 春日はライトを借りると辺りを見渡した。すると少し離れたところで、同じように芝生が窪んでいるところを見付けた。
「秋山君? なんでそこ、窪んでるわけ?」
「ああそれ、わかんないです。ボク等もそれには気付いてたんですけど、特に関係無いだろうということで」
「ふうん……。ん?」
 窪みの傍に何か落ちていた。ハンカチで拾い上げてみると、真新しい吸殻だった。春日は首を動かすと今度はマンションを見上げた。
「…………秋山君、次は照屋さんの部屋を見せてくれるかい?」
「あ、はい。こっちです」
 エントランスでの事情聴取はまだ続いていた。女はいまだ気が落ち着かない様子で、しゃくりあげては嗚咽を漏らしている。警官の方は一向に仕事がはかどらないとみえ、苦い表情をしていた。湧川は春日達が横を通り過ぎるとき、軽く会釈だけした。
 エレベーターに乗り込み扉が閉まると、秋山はつい犬のおまわりさんのワンフレーズを口ずさみそうになった。が、春日に不謹慎だと怒られそうな気がしたので止めた。エレベーターが上昇していると、春日が何か言おうとした。が、口を開けたままピタリと固まる。そして、結局何も言わず、階数表示に視線を戻した。
 
「この新築マンションにはまだ、照屋さんしか入居者がいなかったそうです」
「あ、そうなんだ」
「部屋の購入は済んでるけど、引越しはまだっていう方が結構いるみたいで、照屋さんも引越してきたばかりだったようです」
「ふうん……」
 春日は部屋に上がるとリビングをざっと見渡した。秋山の言った通りエアロバイクやダンベル等のトレーニング器具が幾つかある。手で触れてみたがどれも埃が積もっているようなことは無かった。次はベランダに出てみた。がらんとしていて物干竿には何も掛っておらず、あるのは床に置かれた缶の灰皿だけであった。缶の蓋を開けて中を見ると、下で拾ったのと同じ銘柄の吸殻がモリモリ入っている。
「うん? なんじゃこりゃ?」
 吸殻に混じって丸められた糸が捨ててあった。ピンと一本に伸ばしてみると、一方の端に焦げて焼き切れた跡があった。他に何か無いか灰皿の中をゴソゴソしていると、更にもう一本同じような糸が見付かった。
 次に照屋が身を乗り上げていた手摺を見てみる。手摺は幅が二十センチ程あり、マンションの外壁と同じ材質で、しっかりとした造りがされていた。
「これだけの幅があれば、この上で完全に寝そべることだってできちゃうな……。それで、こっから下に落ちちゃったわけかぁ……」
 春日は手摺から顔を出すと下を向いて地面を見た。
「はい。付近の住人が数人で、広げた毛布をクッションにして受けとめようと相談したそうなんですが、『あいつはこれ以上近付いたら飛び降りると言っている、もうこれ以上刺激しないでくれ』と湧川さんに止められたそうです」
「ふむ……」
 春日は手摺の上を端から端まで触ってみた。ベタつくところは無い。
「それとこれも、目撃者の一人から聞いた話しなんですが、湧川さんは、落下した照屋さんに駆け寄った後、『急いでこいつの婚約者と実家に電話する』と言って照屋さんを他の人に頼み、マンションへ入っていったそうです」
「マンションへ入った? この部屋へ入ったってこと?」
「はい。これは湧川さんにも直接お聞きしたんですけど、婚約者の方とは友人なので当然連絡先を知っていたが、実家の家族の番号はここへこないと分からなかったから、と」
「そりゃそうかもしれないけど、どうやって入ったの? ドアの鍵、開いてたの?」
「合い鍵を持っていて、それを使って入ったそうです」
「合い鍵を持っていた? …………ふつう友達の家の合い鍵って持ってる?」
「そこはボクもツッコミました。そしたら湧川さんが言うんですよ、『例えば、もし俺と照屋が実の兄弟だったら、合い鍵を持ってることは不自然ですか? 血は繋がってなくとも、俺はあいつのことを弟と思っていたし、それだけあいつとの付き合いは長く、親密だった』と、こうですよ」
「うーん……そう言われたらまあ、うーん……」
「先輩……もしかしてこれって殺人事件なんですか……?」
「……うん、多分……そう……だと思う……」
「湧川さんや近所の住民が下で見てる中、犯人が照屋さんを突き落としたっていうんですか?」
「あーいや、そうじゃなくて……」
「それともあの手摺からワイヤーの跡とか、何かトリックを使った痕跡でも出たんですか?」
「いや、それは全然無かった……」
「じゃあ一体誰が、どうやって?」
「……それはまだ……なんとも……」
 春日はベランダを後にすると、室内の物色を開始した。

 春日が台所から声を掛けたのはそれからしばらく経ってからのことだった。
「おーい、秋山君、ちょっとこれを見てよ」
「何か見付かりましたか」
 春日は冷蔵庫を開けて中を調べているところだった。
「これこれ」
 春日が冷蔵庫のドアポケットに納められた2リットル入りのペットボトルを指した。ボトルに細かく何かが付着している。
「何です? ホコリですか?」
「いやいや、これは灰、だよ。外の気温でボトルが汗をかいているときに張り付き、ボトルが乾いた後もそのままくっ付いているんだよ」
「灰? 何の灰ですか?」
「わからない? じゃあそれは後でゆっくり……。残るは、アレがどこかに隠してあるはずだけど……まあ、どこにあるのかは隠した本人に直接訊こう」
「と、ということは解ったんですか!?」
「ああ、謎は解けたよ……!」
 春日の言葉に秋山のテンションがエレクトする。
「よっしゃあ! では憲法に則り、関係者を一堂に集めて先輩による推理ショーといきますか!」
「ああいやいや、それは無しの方向で。結婚はまだとはいえ、奥さんの気持ちを考えるととてもパフォーマンスなんてできないよ。犯人が友人となればなおさらだ……」
「え……じゃ、じゃあ……!」
「うん、犯人は湧川さんだよ」

※湧川はどのようなトリックを実行したのだろうか?

 春日達によって呼び出された湧川が照屋の部屋を訪れた。
「ああどうもすみません湧川さん、私春日と申します。ちょっとお話しがありまして……」
「……なんですか……? もう言うことは全部言いましたし、疲れてますので、手短にお願いしますよ」
「ああ、申し訳ありません。……では、率直にお聞きします。……湧川さん、あなたは照屋さんと口論となり、ついカッとなって彼をベランダから突き落とした。そうじゃありませんか?」
「なっ……! ……は? いきなり、なんですか……?」
「そしてそれは偶然、誰にも目撃されずに済んだ。しかし、このまま逃走しても後で容疑者の一人に数えられるのは間違いない。この部屋である物を見付け、それを利用する方法を思い付いたあなたは、照屋さんの死体をまたこの部屋まで運んできた」
「ちがっ……! 知らない、何の話しだ……!」
「付近の住民が毛布をクッションにして照屋さんを受けとめようと持ち掛けたとき、それを止めたそうですね、なぜですか? それは照屋さんにそう言われたからではなく、ベランダが暗いとはいえ近付かれ過ぎると彼が既に死んでいるとばれる恐れが有り、毛布で受けとめられようものならそれこそ都合が悪い。そうでしょう?」
「…………」
「じ、じゃあ、死後硬直が通常よりも早く始まったわけではなかったんですね」
 秋山が横から訊ねた。
「そう、下に人が集まったときにはもう、照屋さんは亡くなっていたんだ。そして湧川さんはある方法を使って照屋さんの死体を動かし、落下させた。いや死体が動いた、と言った方が良いのかな?」
「え? 死体が動いた? な、なんですかそれ?」
「EMSマシン、電気的筋肉刺激装置って知ってるかい? 筋肉は電流を流されると収縮するという性質を持っていて、それを利用した医療機具や筋力トレーニング装置があるんだけど」
「え、あれですか? 低周波治療器とか、通販とかの」
「そうそうそれ。それの、電極パッドが粘着式になっているものだね。このマシンを使うと意志とは全く関係なく筋肉が動くんだ。死体だって動く」
「そ、そうなんですか? あ! それって、理科の実験で蛙の足に電極刺してピクピクってあれですか?」
「ああ、まさにそれ。さっきちょっと説明したけど、筋肉にはATPという物質が含まれていて、生き物が生命活動を停止するとこのATPはどんどん失われてゆく。筋肉を動かすことができるのはATPが残っている間だけ。だから例えば、家の冷蔵庫にあるスーパーから買ってきた肉に電流を流しても、もうピクピクしない」
「な、なるほど……」
「したがって、死体の死後硬直が進んでしまったらこのEMSマシンを使ったトリックは絶対に失敗する。湧川さんは大急ぎで準備に取り掛った……」
「…………」
「まず、照屋さんの死体をベランダまで運んだら上着を脱がせ、そして手摺の上、もう少し動いたら落ちてしまう、というところに横たわらせる。次に照屋さんが所持していたフィットネス用のEMSマシンを用意し、電極パッドを死体の腹部に貼り付ける。そしたら今度は、ベランダの物干竿に2リットル入りのペットボトルを糸で吊るす。そのペットボトルの真下に作動スイッチがくるようにEMSマシンを置く。最後に、物干竿から垂れ下がる糸の適当なところに火が付いた煙草を別の短い糸で結び付けたら準備OK。急いで下まで降り、大声を出して付近の住民が集まるよう演技する。火が付いた煙草はやがて糸を焼き切りボトルは落下。次にその下にあったEMSマシンのスイッチが入り死体に電流が流れる。死体は体を折るように動き、バランスを崩して手摺から落下する。その拍子に電極パッドは剥がれ手摺に残るってわけさ」
「そ、そんな仕掛けが……ボトルって、冷蔵庫に入っていたボトルですか? じゃあ付いていた灰って煙草の灰だったんですね」
「そう。このようにして、照屋さんは湧川さんによって手摺から二回落とされたんだ」
「二回……。下の芝生に窪みが二つ在ったのはそのためだったんですね」
「うん。僕は下の窪みの傍で真新しい吸殻を見付けた。そこで、照屋さんはベランダの手摺にもたれて煙草を吸っているときに一度突き落とされたのではないかと考えた。そしてベランダに置かれた灰皿の中に同じ銘柄の吸殻が入っているのを見て、その考えが強まった。下で拾った吸殻から照屋さんの唾液が検出されることは請け合いだ」
「…………」
「二度目の落下の後、湧川さんが照屋さんに駆け寄った本当の理由は電極パッドがお腹に貼り付いたまま残っていないか確認するためだろう」
「そうか、あのお腹のベタつきは電極パッドに使われている粘着剤が肌に残っていたのか……!」
「そう。そして湧川さんは照屋さんの家族に連絡を取ると称してこの部屋に入り、証拠の隠滅を図った。物干竿から垂れ下がる糸とペットボトルに結んである糸を外し、糸を焼き切るために使った煙草と一緒に灰皿へ捨てる。ペットボトルは台所へ持ってゆき、冷蔵庫の中へ戻した。そして、一番肝心なEMSマシンですが…………どこに隠しましたか?」
「…………!」
「あなたに遠くまで捨てに行く暇は無かったはずです。どうか正直に答えてはくれませんか? しらを切るなら探すまでです。きっと簡単に見付かると思いますよ」
 春日の言葉に湧川は折れた。
「…………三階の……消火栓の扉の裏に隠した……」
「……そうですか……ありがとうございます……」
 春日は頷いた。その横から秋山が湧川に訊ねた。
「湧川さん、どうしてこんなことを? 下にいる女性が関係しているんですか? あなたはあの女性を愛していて、そのことで照屋さんと口論になったんですか?」
「…………違うよ」
 答えたのは湧川ではなく、春日だった。
「多分違う」
「違うって、何がですか?」
「照屋さんはここへ越してきたばかりだというのに、湧川さんは既に合い鍵を持っていた。仲が良い兄弟にしたって仲が良過ぎる。おそらく彼等はより親しい関係―つまり湧川さんは本当に、照屋さんの『アニキ』だったんだよ……」
「え、ええっ!? そ、それって、わ、湧川さんと照屋さんが……アレで……ナニして……それで、湧川さんがアニキっ!?」
「この部屋に有るトレーニング器具には埃が積もっていない。これは、照屋さんが日頃からトレーニングに励んでいたということ。そして、EMSマシンも身体作りのために持っていたんだろう。そんな照屋さんをも手摺に抱え上げられる『パワフル』さ……湧川さんがアニキだよ……!」
「ででで、でも! 照屋さん、奥さん、子供……」
「あいつはバイセクシャルだった……」
 湧川が言った。
「……俺は生粋のBLだがな……」
「…………」
「…………」
「あいつは、自分がバイであることをあの女にばれるのを最も恐れていた……あいつは……子供ができたから、俺との関係は終わりにしたいと言った……俺はその言葉に頭に血が昇った……気が付いたら……俺は……」
「そうでしたか……」
「刑事さん、頼みがある……あの女には照屋がバイだったってこと、秘密にしておいてくれないか……」
「………………わかりました。黙っておきます」
 秋山は真摯に頷いた。
「………………」
 湧川は二人に深く頭を下げた後、戸口へと向かって歩き出した。秋山がそれに随伴する。そして春日はそんなアニキの広い背中を静かに見送った。
 
 
 
  第五話 不可解な自決

 とある日、秋山に呼び出された春日が、あるマンションの一室に現れた。
「……………………」
「あ、先輩、どうもです。電話でメチャクチャ反応悪かったから来てくれないんじゃないかと思いましたよ。いやー、ボクが迎えに行ければ良かったんですけど、ちょっとここを離れられなかったもので。…………先輩?」
「……………………」
 返事が無い、しかし意識はあるようだ。
「えっと、昨夜から一睡もしてないんでしたっけ……。説明始めても……大丈夫ですか?」
「……………………」
 春日は緩慢に頷いた。
「はい……じゃあ……。ええと、今日この部屋で独り暮らしをしていた寺田さんという女性が遺体で発見されました。遺体を発見したのは寺田さんが勤めていた会社の同僚とマンションの管理人さんです。今朝、始業時刻になっても職場に現れず、電話にも出ない寺田さんを心配した同僚が、上司の許可を得てここを訪れ、管理人さんに鍵を開けて貰い中へ入ったところ、バスルームで倒れている寺田さんを発見したそうです。死因は剃刀で手首を傷付けたためによる出血性ショック死です。遺体発見当時、寺田さんは水を張ったバスタブに寄り掛り、手首を水に浸けていました。その足下に落ちていた剃刀からは寺田さんの指紋が検出されています。この部屋の玄関の鍵は室内から見付かっており、窓にも全て鍵が掛っていました」
「……………………」
「ええ、そうです。一見どう見ても自殺なんですけど、同僚の方が自殺の動機に思い当たることが一つも無いと言ってましてですね。それに遺書も無いんです」
「……………………」
「ええ、確かにそんなの本人の勝手じゃん、と言われればそれまでなんですが、他にも気になる点がありまして。まず亡くなっていた寺田さんが、会社の制服をキチンと着ていたことです。検視の結果、寺田さんが死亡したのは今朝だと分かっています。したがって、寺田さんは昨日会社から帰宅して、ずっと制服を脱がずにいたか、今朝わざわざ制服に着替えてから自殺したということになります。これはちょっと変かなと。他には、遺体の首筋に新しい火傷の痕がありました。小さな火傷ですがこれも変です。後、玄関のたたきに、何をこぼしたのか水溜りができていました」
「……………………」
「ええ、ただの水だったんですけど、水溜りが、玄関に。これらが気になった点で、他に言っておくことは……ええと、管理人さんと同僚の方に今朝の行動をお聞きしたところ、お二人とも寺田さんの死亡推定時刻にはしっかりとしたアリバイがありました」
「……………………」
「いや、ちゃんと調べましたし、確認も取れましたよ! あの二人には確かなアリバイがあります」
「……………………」
 春日は鼻で大きく息をするとヨタヨタと移動を開始した。そして、太陽の眩しさに顔を不細工にしながら窓枠に眼をやったり、既に遺体が運び出されたバスルームの中を見たりした。そして玄関まで行くとたたきを覗き込んだ。
「そこです、そこに水溜りがあったんです」
 春日の背後で秋山が告げた。たたきはもう乾いていて、寺田の靴の他に、春日と秋山が脱いだ靴があるのみであった。今度はドアに視線を移してみる。スチール製のそのドアは右側にノブが付いており、ノブの上にはサムターン(つまみ)が付いていた。そのサムターンを左に倒すと施錠できるという、ごくごく普通のドアであった。
「……………………」
 春日はサムターンを捻り、施錠と解錠を何度か繰り返し試してみた。特に不自然な点は無い。今度はドアを開けてみる。ドアは外側へ開いた。サムターンのちょうど反対側には鍵を差し込むシリンダー(鍵穴)が付いていた。春日は外に出てドアを閉めると、ドアの隅々に眼をやった。すると、シリンダーから数センチ左斜め上の、ドアの塗装が少し剥がれていることに気が付いた。
「……………………」
 春日は隣室に眼をやった。四〇二号室。この階には寺田の部屋とその部屋しかなく、ここが最上階でもあった。春日はまたヨタヨタ移動すると、四〇二号室の前まできた。ドアを見ると寺田のそれに比べ、塗装が真新しい。つい最近塗り直したようである。
「あ、その部屋の人、話を聞こうと帰りをずっと待っているんですけど、まだ留守で」
 ドアから顔だけ出して秋山が言った。
「……秋山君、悪いけど管理人さん呼んできて」
 春日はだらしなく壁に凭れ掛った。

「先輩、お待たせしました」
 秋山が頭の禿げあがった老人を一人連れてきた。どうやらその男が管理人らしい。春日は首を起こした。
「……ああどうも。えー、ちょっとお訊ねしますが、この……四〇二号室に住んでる方に、最近何か届け物とか来てませんでしたか?」
 もっと別の質問を予想していたのか老人はしばしキョトンとした後に頷いた。
「……はい、きてましたな。ここ最近に何度か。何を配達しにきたのかまでは聞いてませんがね。業者が発泡スチロールの箱を運び込んでましたわ」
「発泡スチロールの箱ですか……どのくらいの大きさですか?」
 このくらい、と老人は手を広げた。一抱えはある。
「……わかりました。ありがとうございます。……秋山君。これ自殺じゃなくて、殺人事件だよ。で、犯人はこの部屋に住んでる人……」
 春日が四○二号室を指差した。秋山と老人がギョッとして春日を見た。春日がここへ着いてから十数分しか経っていない。
「その犯人は、アレとアレを使って寺田さんの部屋を密室にしたんだよ……。一つは業者に届けさせた物。もう一つのアレとは大抵の家にはあるもので、多分コードレス式だったんだと思う……」
 欠伸を噛み殺しながら春日は言った。

※犯人はどのような方法で部屋を密室にしたのか?

 秋山が複雑な笑みをこぼした。
「あ、あの……確かに自殺にしてはちょっと不自然な点もありましたけど、そうあっさり殺人事件だと言われると逆に否定的な気分に……」
「えー? ……じゃあいいよ、とにかく説明だけするから後は自分で判断して……眠いし」
 困惑する秋山と老管理人に構いもせず、春日はボソボソと解説を始めた。
「じゃあまずは犯人が部屋を密室にするために使用したアレについて……。一つ目のアレとは氷のこと。ただ、家庭用の冷凍庫で作る氷は中心に不純物が集まり白く濁る。このような氷は脆く、容易に割れてしまうので使えない。そのため、犯人は氷業者から純氷(じゅんぴょう)を取り寄せたんだ。純氷というのは氷の彫刻などに使われる不純物の混ざっていない硬くて丈夫な氷のこと。これを加工していく。まず厚さは適当に、氷をT字型にカットする。そしてこのTの、下の部分にサムターンの形をした窪みを彫る。サムターンの型は自室から容易に摂れる」
「………………」
「寺田さんが制服を着ていたのは朝、出社するため部屋を出たばかりのところを襲われたからだろう。首筋にできていたという火傷から考えて、犯人はスタンガンを使って彼女を気絶させたんだろうね……。そして犯人は、元々寺田さんの部屋にあった剃刀を使ったか、または自分で用意した剃刀で、寺田さんの手首を傷付けた後、彼女に剃刀を握らせるかした。だから当然剃刀には寺田さんの指紋が付いている」
「は、はい……」
「問題はその後、部屋を出る時だ……。犯人は部屋を密室にするために加工しておいたあの氷をここで使う。サムターンにT字型の氷を取り付けるんだ。サムターン型の窪みに合わせてピッタリとね……。そして氷が外れないように気を付けながら外に出て、静かにドアを閉める。そして最後にもう一つのアレを使う……。アレ、というのはアイロンだ」
「ア、アイロン!?」
「そう。ええと、……ちょっとこっちきて」
 春日は寺田の部屋の前まで移動し、ドアのシリンダーの上辺りを指差した。
「ここ、ちょっと塗装が剥がれているところがあるでしょ。この辺りにアイロンを当てたんだ。そうすると……」
 春日はドアを開くとドアの裏側を見せ、今度はサムターンを指差した。
「ドアの内側に取り付けられたT字の氷の、右上部分が溶ける。スチール製のドアは熱が伝わり易いからね。そして、溶けた氷はバランスを崩し左に倒れる。そしたら、一緒にサムターンも回転する……」
 春日がサムターンを捻った。ドアからデッドボルトが突き出す。
「おおっ……!」
「こうやって、部屋を密室にしたんだ……。ドアの塗装が剥げているのはアイロンの熱のせいだったんだよ。そして鍵を掛けた後、氷は溶け落ちてたたきに水溜りを作る……」
「な、なるほど……。あ、しかしですね、その方法なら、誰にでも犯行は可能なのでは? サムターンの形なんて調べれば……」
「まあ、話しだけ聞いたら簡単そうに思えるかもしれないけど、実際やろうと思ったらまず失敗すると思うよ……。犯人は自室のドアで何度も何度も実験して、氷の厚さを調節しながらやっと鍵が掛けられるようになったんだ……。そして、実験を繰り返す内にドアの塗料がボロボロに剥がれちゃったんだよ。だから、それを隠すためには塗装し直すしかなかった……」
「あっ……!」
 秋山は振り返って四〇二号室のドアを見た。管理人も眼を丸くしている。
 そして春日は、
「じゃあ僕帰る」
 と言い残し…………本当に帰った。

 
 四〇二号室の住人に依頼され、ドアの塗装業者を呼んでいたのは管理人の老人であった。そのため、塗装を請け負った業者にはすぐに連絡がとれ、塗装を施す前のドアの状態も確認がとれた。春日が予想した通り、塗装はボロボロだったそうだ。
 また、何度も氷を配達した氷業者も見付かった。
 四〇二号室の住人が犯人であるという疑いを強めた警察が部屋を捜査したところ、ドアの塗料が付着したアイロンを発見したのでその住人を追及すると、容疑を認めた。
 こうして、春日は犯人の顔も、名前も、動機も知らぬまま、事件の幕は閉じた。
 
 
 
   第六話 ガスバス大爆発殺人事件

 季節は秋。山の木々は恥じらう乙女のように紅く染まり、それを見た虫達がクスクスと笑い声をたてている。うららかな午後の陽射しの下、しっとりとした草の香が鼻孔をくすぐり、風が頬ずりしながら流れてゆく中、オレンジ色の炎を上げて、バスが大爆発した。
 その音は春日達のところにも届いた。現在、春日と秋山を含むバスツアー参加者達はさして高くもない山の中腹にいた。最初、音がどこからしたのか解らず、誰もが不安そうに辺りを見回した。すると、木々の切れ間から見上げた空に黒煙が立ち昇っていた。
 春日と秋山が同時に動いた。春日は警察と消防への通報を始め、秋山は、木に登り始めた。
 秋山は手足を器用に使いスルスルとてっぺん近くまで登ると、次は滑るように一気に降りてきた。
「結構離れてます、駐車場の辺りっぽいですね。この風向きなら、ここが煙や炎に巻かれることはないかと!」
「OK。島尻さん、皆さんを連れて、落ち付いて下山して下さい! 秋山君、行くよ!」
「はい!」
 二人が見事なスタートを切った。そして、立ち尽くすバスガイドの視界からあっと言う間に消えて行った。
 二人は観光客用に舗装された歩道を逸れ、木の葉を蹴散らし、木の根を踏み越え、最短距離で山を駆け下りる。
 麓に近付くにつれ、化学素材が燃えるにおいが強くなり、口の中にはいやな苦さが広がる。そして辿り着いた山の麓の大きな駐車場で、二人は驚くべき光景を見た。なんと先程まで春日達を乗せて走っていたバスが炎に包まれていたのだ。
「まさか……運転手さん中にいたんじゃ……」
 肩で大きく息をしながら秋山が言った。
 なんとか中を窺おうとするが、熱風が二人を押し返し、煙が更に引きさがらせた。
 数分後、駆け付けた消防隊の消火活動により、ほどなく炎は消し止められ……車内から運転手の池谷が焼死体で発見された。

「どうやら、爆発の原因はガスみたいです」
 春日と秋山は通報者として警察の事情聴取を受け、その後秋山が同業者としていろいろな情報を仕入れて来た。春日が眉を持ち上げる。
「ガスだって? ああいったバスはディーゼルエンジンで燃料は軽油でしょ? どっからガスが出てきたの?」
「それは……」
 秋山が口を開きかけると、春日の傍に立っていたバスガイドの島尻が代わりに答えた。
「この後予定していた、食事会のために用意していたものだと思います……」
 バスガイドの制服が良く似合う美人で、その形の良い唇から言葉が流れ出た。
 島尻が言うには、ツアー参加者一行で山の散策を行った後、近くの広場で紅葉を愛でつつ、地鶏と酒を味わえるという、一風変わった強制イベントが用意されていたらしい。地鶏を料理する際は、灰や火の粉が飛ぶため炭は使わず、扱いが簡単なガスボンベを使用する予定だったそうだ。
「なるほどねえ……先にガスボンベが爆発して、バスの燃料が誘爆を起こしたわけか……ボンベからガスが漏れて、それに引火したのかな……」
「それについては今調べてるところですけど、バスの側面にトランクが設けられていて、そこに収納されていた二本のボンベの内、どちらかに問題があったようです」
「ふむ、どんなガスボンベだったの?」
「ええと、一斗缶ぐらいの大きさで、寸胴鍋みたいな形した、てっぺんに取っ手と開閉バルブがついてるヤツです。ほら、ネズミ色したよく見掛けるヤツですよ。……と言ってもさっきチラっと見たら二本とも爆発でボコボコになってましたけど……。ああっ! 島尻さん、足怪我してるじゃないですか!」
 スカートから伸びた白い足の、両膝の上辺りに水膨れが出来、その周りが黒に近い紫に変色していた。
「火傷したんですか!? 治療しましょう! すぐしましょう! 救急車来てるんで!」
 現在駐車場にはパトカー、消防車、救急車が詰め掛けていた。炭と化したバスとは離れた場所に一般利用客の車もちらほら停めてあるが、どの車も破片を被る程度で済んでおり、今回の爆発で犠牲になったのは池谷だけであった。
「だ、大丈夫ですよ、こんなの。……ちょっと失礼しますね」
 島尻はスカートの裾を直すと向こうへ行ってしまった。
「……でもいつ火傷なんて。島尻さん、バスには近付いてないですよね。熱くなった破片にでも触れたのかな? ねえ先輩?」
「……うーん……あれって火傷かなあ……? 火傷なら大体、患部は水膨れが出来て、赤く腫れるはずなんだけど……?」
 春日が島尻の後姿を見詰めた。島尻は疲れたように駐車場の縁石に腰を下ろすツアー参加者達に声を掛けている。
 そんなとき、春日が何かを見付け歩き出した。視線の先では子供連れの若い夫婦が遠巻きに現場を眺めている。春日はその夫婦に話掛けるとしばし話込み、頭を下げた後、難しい顔をして戻って来た。
「あの家族が何か?」
「……うん。僕等を乗せたバスがこの駐車場へ着いたとき、あの家族もちょうど車を停めたところでさ。で、バスを降りた島尻さんがあの家族に何か話掛けてたから、何て言われたのか訊いてきた。島尻さんは運転席のご主人に、バスが出るときバンパーをかすめてしまうかもしれない。大変申し訳ないが、もう少し離れて駐車してくれないか、と頼んだらしい。ここみたいに大きな駐車場では、大型車と普通車の駐車スペースは十分間隔が空くように作られているし、そのご主人も少し変に思ったそうなんだけど、他に停める所はいくらでもあったし、やたら丁寧にお願いされたんでそれに従ったらしい」
「なるほど………それで?」
「これって、こういう取り方も出来ないかな『爆発に巻き込まれる恐れがあるから離れててくれ』って……」
「は? 何のことですか?」
「あの家族は島尻さんが遠ざけたから被害に遭わなかった。つまり、島尻さんは爆発があることを知っていた。それはつまり島尻さんが―」
「ちょっと先輩! 何考えてんですか! そういう、何でもかんでも事件に結び付けようとする先輩って、ちょっとヒキます」
「いや待ってよ、別に事故なら事故で良いんだよ―いや、良くないけど、ただはっきりさせたいだけ」
「…………」
 憮然とした秋山をよそに、春日は話を続ける。
「ここにバスが到着して、島尻さんが降りて、あの位置までバスを誘導したとき、僕が座った席から島尻さんがあの家族の車に走って行くのが見えたわけ。戻って来た島尻さんは、入山手続きをして来るから降りる準備だけして待ってて、と言ってまた一人でバスを降りたよね。そういえばあのとき、少しして君もバスを降りたよね。何しにいったの?」
「い、いや……あの……何か手伝うことはないかなーなんて……」
「ふーん……そーなんだ……それで?」
「それで? いや別に。島尻さんがトランク開けて何かしてたんで、声を掛けて……そういえば、やけにびっくりして振り向いてたな……」
「びっくり……? そのとき何か気付かなかった?」
「はい。美人は驚いた顔もかわいいな、と」
「…………」
「後は……カメラが冷たかったような……」
「冷たい? カメラって?」
「あ、島尻さんそのとき、記念撮影用のカメラ取り出してたみたいで、それでボクが、入山手続きする間預かってましょうか、って言ったんです。受け取ったカメラと三脚が入ったカバンがこう、ひんやりと……あ、でもバスの中が暖かかったから、温度差でそう感じただけかも」
「……冷たい、か……。ううむ……ちょい話を戻すけど、島尻さんがいつ、どこで、どのようにしてあの足の傷を負ったのかが知りたいな……」
「そんなの、本人に直接訊けばいいじゃないですか」
「素直に本当のことを話してくれるかな……」
「ちょっと、ホントもう大概にして下さい先輩」
「い、いやだって、さっきも何か言葉を濁して行っちゃったじゃない」
「……じゃあ、これ現像すれば何か分かると思いますよ」
 秋山がポケットから使い捨てカメラを取り出した。
「今日は島尻さんしか撮ってませんから」
「君にとってバスツアーって何?」
「紅葉も美人もどちらも目の保養じゃないですか。とにかく、今朝初めて島尻さんにお会いして、足ガン見したときあんな傷、絶対無かったですから」
「……そう……。じゃあ、僕がどこかで現像してくるから、君はその間情報仕入れといて。発火装置とか無かったかとか」
 秋山があからさまに嫌そうな顔をした。
「いやだから! はっきりさせたいだけだって! あ、僕が少しだけ外すことも現場の刑事さん達に上手く言っといて。頼んだよ!」
 言うと春日は駐車場を後にした。

 そして春日が現像を終えて戻った頃、秋山の方も大方の情報収集を終えたところであった。
「ただいま。何か出た?」
 春日の問いに秋山がむっすりと答えた。
「いいえ……タイマーや発火装置の類は一切無かったようです……」
「ふーん……やっぱりそこまで単純な方法じゃないか……」
「…………」
 秋山は喉まで出かかった言葉を呑み込み、代わりに溜息を吐いた。
「……バスのトランクにはガス漏れ警報機が取り付けられていたようです」
「ガス漏れ警報機?」
「はい。今は熱でグズグズになったプラスチック片ですけど。島尻さんいわく、会社の意向でこのツアーを取り扱う期間中、万が一に備えて取り付けてあるものだと。その旅行代理店にも確認を取ったところ、それで間違いないとのことです……」
 秋山は春日が変なことを言い出さぬ内に、先手を打った。
「そのガス漏れ警報機に何か小細工することは無理ですよ。故障したり、フィルターが詰まるなどして正常に作動していない場合もガス漏れ時と同じく運転席に付くドライバーに音と光で知らせる機能になっています」
「なるほど……他には?」
「はい。爆発で亡くなった運転手の池谷さんですが、この会社で運転手を始めてまだ一年だそうです」
「一年か……まだこの仕事に慣れてなくて、何かしら機器の取り扱いを誤り、それが爆発に繋がったとも考えられるのかな……?」
「いえ、池谷さんはバスの運転手歴二十年のベテランです。なんでも二年程前、別の会社に勤めていた頃、バスの運転中に接触事故を起こし、バイクを転倒させてしまったそうです。そのバイクに乗っていた男性の命に別状は無く、事故は示談が成立して、バスの乗客にも怪我人は出なかったそうなんですが、池谷さんは事故の責任を取る形で退社したそうです」
「それって島尻さんから聞いたの?」
「そうです。正確には島尻さんの事情聴取を行った職員からの又聞きですが。それで島尻さんですけど、バスガイドの仕事を始めて半年足らずだそうです。本来なら、この後の食事会で料理の腕前も披露してくれる予定だったらしいです。調理に使用するガスボンベ等の機材や食器、食材の入ったクーラーボックス、記念撮影用のカメラなんかは今朝、池谷さん、島尻さんを含む社員数名でトランクに積み込んだそうで、トランク内はそれだけです。日帰りバスツアーですので、乗客に大きな荷物は無く、手荷物は全て車内に持ち込まれていますので、乗客がトランクに近付くことはありません」
「なるほど……うんうん、なんだかんだ言いながらも仕事しておく君の生真面目なところは、とっても素敵だと思います。君みたいなものでも、その努力はきっと報われるから、大変だろうけど、これからも頑張って下さい」
「…………ありがとうございます」
「それはさておき……」
 春日はどこからか用意した双眼鏡を覗いた。今日は秋山が担当する案件ではないので、近くまで行って物色したりすることはできない。
 黒い骨組みと化したバスはタイヤが融けて傾き、その下のアスファルトには水と消火液がわだかまりを作っていた。
 トランクのハッチパネルは爆発により、かろうじて車体にぶら下がっている状態で、ハッチパネルをロックするデッドボルト(かんぬき)も爆発の衝撃でグニャグニャに変形していた。
「現場の刑事さん達の見解は?」
「それはまだなんとも……ただ、休憩中に仮眠をとっていた池谷さんがガス漏れに気付かず、静電気がスパークを起こしてガスに着火したのでは……みたいな……」
「ふむ、なるほど。確かに帯電した電荷、静電気が原因とみられている火事や爆発は今までに幾つかあるね。でもやっぱりそれ以前に、なぜガス漏れが起きたのかって話になるじゃない。ガスボンベの開閉ハンドルやその安全弁に腐食とかは見られた?」
「いえ。二本とも爆発の衝撃が原因とみられる変形は見られましたが、腐食はありませんでした」
「ふむ、薬品を使ってわざと腐食させるって手もあったんだけど、それでもないか……」
「…………」
「ああ、ごめん。……でもね、僕はこの爆発が意図的なものに思えてならないんだ」
 春日は写真の束を秋山に渡した。
「撮影した順番に並べてある。てか君、本当に島尻さんしか撮ってないし……いいけど。それのサービスエリア前後あたりの写真を見比べてみて」
 一行を乗せたバスは山へ向かう途中、高速道路のサービスエリアに寄っていた。
 秋山は順序良く写真を観察していった。どの写真にも優しく微笑む島尻が写っている。
「サービスエリアに入ったとき、島尻さんが先に降りて、バスを誘導して、そのまま三十分程トイレ休憩があったよね」
「はい。トイレ休憩に三十分はちょっと長いかなーとか思いましたけど、ツアー参加者には女性も年配の方もいたんで、まあ、そんなもんかと……」
「そうだね。そのとき、日差しがきついから、って島尻さんが車内のカーテンを閉めてくれて、彼女はその後三十分バスを離れていた」
「その三十分間に……何かがあったと……?」
「うん……写真をどんどん見ていくと、バスの出入り口が開いている写真があるだろう? それが、サービスエリアにいるときに撮られたものだよ。その後からだよ、島尻さんが怪我してるのは……」
 秋山は悲しげな目で次々と写真を捲っていった。確かに島尻は、サービスエリアを境に足に傷を負っているようだった。そして次の一枚を見ると、上着の前を大胆にはだけ、透けるような白い肌とピンクの突起が露わになり、うるんだ瞳ではにかんだ笑顔を向ける、中年男が写っていた。
「何撮ってんですかあんた! 誰ですかこれ!」
「今回現像を引き受けてくれた、フ○カラー○○店の岩松店長だよ」
 双眼鏡から眼を離さず春日は言った。
「店先で何やってんだよ! 撮らせる店長も店長だよ! なんで無駄に色白!?」
「いやあ、フィルムが数枚残ってたから、もったいなかったもんで。後、こう見えても岩松店長、絵とか書かせたらめっちゃ上手いからね」
「知らねえよ! 写真っていう『真実を写す』品物を扱ってるんだから絵のスキルとか全然要らないでしょ!」
「いやでもホントに上手いんだって、○ーラー○ーンとかプ○○ュアとか」
「そっちかい! この人絶対元カメラ小僧とかだよ。趣味が高じてこの仕事やってるよ。とにかく! 不快です! 島尻さんの笑顔と太ももの後にこの写真は不快です!」
 春日は双眼鏡から眼を離し、ひた、と秋山の眼を見詰めた。
「秋山君。確かに島尻さんは魅力的だよ。君が好意を持つのも分かる。でもね、真実を追究するのにその感情は余計なもの。きっぱり切り離して考えないと……それになにより、君には交通課の静香ちゃんという心に決めた人がいるじゃないか」
「静香ちゃん……」
「そうだよ! 脈が無いなんてヘコんでたけど、君の情熱はいつか伝わるって。静香ちゃんのことを僕に話すときの君のあの顔。あの、キラキラした笑顔と白い歯がとってもウザいよ」
「それって褒めてないですよね……」
「ヘイユー! 告ッチャイナヨ!」
「何をいきなり! そんなの無理ですよ!」
「無理じゃない! 大丈夫だって! これマジ。マジだから」
「ええっ、ほ、本当ですか……? ……いけますかね……?」
「いける。夏までにはいける」
「本当に本当ですか? ……じゃあ……その……が、頑張ってみようかな……」
「その意気だよ秋山君! 自分を信じて!」
「は、はい! わかりました! 頑張ります! いきます!」
「そうだそうだ! いけいけ!」
 そして散ってこい。
「あ、あれ? 先輩? 何か眼鏡の奥が笑って無いんですけど……」
「気のせい。では話が上手くまとまったところで、捜査を続けよう。頼りにしてるよ秋山君!」
「わっかりました! 不肖私、真実の解明に尽力する所存であります!」
 秋山は背筋を伸ばして敬礼した。
「うむ! では事件を解く手掛かりは何処にある!?」
「見当もつきません!」
「うむ! では解散! ……じゃなくて、何か考えたこととか無いの?」
「そう言われましても……あ、そういえば、一人の救急隊員が島尻さんの太ももの傷を目ざとく見付け、治療を勧めています。しかし島尻さんはこれも固辞しています。何かその隊員も先輩と同じようなこと言ってましたよ。火傷に見えない、と。雪山で遭難した人が似たような潰瘍をこしらえることがあるらしいんですが」
「ふむう……」
「しかし、池谷さんは気の毒ですが、あれほどの爆発で他に被害者が出なかったのは奇跡ですね。通常なら、駐車場内はもっと混み合っているらしいんですが、偶然にも、今日になって予約していた三つの団体が軒並みキャンセルしたとかで」
「なるほど。道理で駐車場が空いてるわけだ。確かに、間違ったらかなりの負傷者が出ていたかもしれないな……。じゃ、本題に戻ろうか。島尻さんはサービスエリアで三十分間何をしていたのか。そして何故バスは爆発したのか……」
「先輩、くどいようですけど、本当に島尻さんは今回の件と関係してるんですか? 例えば、ボンベのハンドルの閉め方が緩かったためにガス漏れが起きてしまい、トランク内にガスが充満しているときに、池谷さんが咥え煙草でハッチパネルを開けてしまい爆発してしまったとか……。あ、違うか、池谷さんは車内で発見されてるんだっけ」
「そうそう。それにハッチパネルをロックするデッドボルトが衝撃で歪んでるわけだから、それはないよ」
「ああ、ハッチは閉まっている状態で爆発が起きたってことですね。それなら、ガスがトランクの外にどんどこどんどこ漏れ出し、車内にいた池谷さんがそれに気付かず煙草を吸おうとして引火したのでは? あ、いや、どちらにせよガスが漏れてたら警報機が知らせてくれるのか……」
「うん……」
「……じゃあですよ? もし、先輩の言う通り島尻さんが怪しいとして、島尻さんがトランクを開けて、カメラを取り出すフリをしてガスボンベのバルブハンドルを開いていたとしても、しばらくしたらガス漏れを警報機が知らせて、池谷さんがボンベのバルブを閉めて、それで終わりじゃないですか。タイマーも発火装置も無いのに、そう都合良くボンベを爆発させることなんてできますか? ヘタすりゃ島尻さん自身も吹っ飛びますよ?」
「うん……だから、運転手の池谷さんに何かさせたんじゃないかと思うんだ……池谷さんが何かしたから、爆発したんじゃないかと……」
「何か、って何ですか?」
「いや……それはまだ……」
 春日は秋山が持つ写真の束から一枚抜いた。今朝一番に撮られた写真には、島尻の隣に池谷も写っていて、営業スマイルの下にきちんとネクタイを締め、手には白い手袋を嵌めていた。
「……池谷さんに何かさせる……どうにかしてガスに点火させる……? ガスボンベのバルブに何か細工を?」
 秋山がぶつぶつと呟いた。
「あ、先輩、因みにバルブの開閉ハンドルには、インクでこう、書かれてましたよ……」
 秋山は手帳を取り出すと、中に『←開 閉→』と書き込んだ。
「開と……閉……か……」
 二人はしばらくその文字に眼を落した。
「…………あ、ああっ、そうか、わ、わ、わ、わかった! もしかして!」
 先に声を上げたのは秋山だった。
「も、もしかしたらやっぱり島尻さんは、カメラを取り出すフリをしてガスボンベのバルブを開いたんじゃないでしょうか?」
「……うん……それで?」
「そ、そしてトランクのハッチを閉め、バスツアー参加者達を連れてバスから遠く離れます。ガスがトランク内に充満するとガス漏れ警報機が警報を鳴らします。そしたら当然、池谷さんはボンベのバルブがちゃんと閉まっているか確認しに行きますよね。手でこう、ハンドルを捻って、閉まっているかどうか。でも実はその開閉ハンドルに細工がされていて、ハンドルに書かれた開の文字と閉の文字が逆になっていたんじゃないでしょうか……! 池谷さんは書いてある通りにハンドルを回します。しかし閉めたつもりが逆に開いていて、結局ガス漏れは止まらなかったんですよ!池谷さんが安心して車内に戻っても当然ガス漏れ警報機はまだ鳴っています。そこで、池谷さんはガス漏れ警報機が故障してしまったと考えます。そして、電化製品は叩けば直るという神話の通り池谷さんはガス漏れ警報機をバンバン叩きます。そのショックで機械がショートし、飛んだ火花がガスに引火して、大大大爆発に繋がったのです!」
 秋山がぐっと拳を握った。
「……秋山君、面白い推理だけど……それ違う」
「へ?」
「ガスボンベは二本あったんだろう? ハンドルが一方は時計回り、もう一方が反時計回りだったら不自然だし、たとえ両方ともハンドルに細工してあったとしても、あの手のガスは着臭してあるから……」
「ちゃくしゅう?」
「うん。一般的に使用されるガスってのは本来無臭なんだけど、事故防止のためにかなりの刺激臭をわざと付けてあるんだ。だから両方のバルブを全開にすれば、かなりの量のガスが流れ出る。相当に臭うから、流石に気付くよ」
「そ、そうか臭いか……それもそうですね……」
「……正解はきっと……閉めたから爆発した、だよ……」
「え? そ、それってどういうことですか!?」

※バスはどのようにして爆発したのだろうか?

「閉めたから爆発したって一体どういうことですか!?」
「うん、まず、君が島尻さんから受け取った記念撮影用のカメラは冷たかった。そして島尻さんは足に火傷ではなく凍傷を負っているふしがある……」
「と、凍傷ですか?」
「そう。短時間でも触れれば凍傷を負い、密閉された容器で保存してはならない化学薬品が在る……液化ガス……液体窒素って知っているかい?」
「え、ええまあ、名前くらいは……」
「液体窒素はおよそマイナス一九六度。専用の容器なら一カ月以上保存することも出来るけど、常温に置くとみるみる内に蒸発する。そして危険なことに、容器を密閉してガスの逃げ場を塞いでしまうと、内部に溜まったガスの圧力が容器の強度を超え、爆発してしまうんだ……島尻さんはこれを利用したんだよ」
「…………」
「下準備はサービスエリアでのトイレ休憩から。まず、わざと陽の光が入る場所にバスを誘導し、カーテンを閉めて僕らに目隠しをする。そうしておいて、サービスエリアのどこかに前もって停めておいた自分の車へ行き、用意しておいた中身が空のガスボンベを液体窒素で満たし、そのボンベをバスのトランクに積まれた二本のガスボンベの内の一本とすり替える。先に、トランクを開けて荷物を点検する、とでも池谷さんに伝えておいてからね。勿論ボンベのすり替えを誰かに見られては駄目。ツアー参加者がちらほらバスを出入りするし、他の利用客もいるから、車の陰に隠れながら慎重に移動しなければならない。しかし、満タンのボンベは女性にはかなり重い。移動の際にボンベが太ももに触れた状態になってしまい凍傷を負ったんだ。後、自分の車をサービスエリアに駐車してしまったら、帰りはタクシーでも呼んで帰らなきゃいけないけど、乗ってた車が故障したとかドライブ中に彼氏とケンカした等の理由でサービスエリアにタクシーが呼ばれるのはよくある話で、不審に思われることもない」
「な、なるほど……じゃあやっぱり、ちょっと長めのトイレ休憩はそのためだったんですか……」
「うん……そして、バスが出発して、山へ向かう間、液体窒素で満たされたボンベのバルブは少し開いておかなくてはならない。爆発しちゃうからね。そしたらトランク内には窒素が充満するわけだけど、LPガスの検知を目的として作られたガス漏れ警報機は反応しない。山へ到着し、バスを駐車させたら、バスの近くに駐車しようとしていたあの子連れ夫婦を爆発に巻き込まれないよう遠ざけ、記念撮影用のカメラを取り出すと称してトランクを開ける」
「そうか、あのカメラの冷たさは液体窒素が入ったボンベでトランク内の温度が冷やされたからだったんですね」
「うん。そして、液体窒素が入ったボンベのバルブは引き続き開いたままにしておき、LPガスが詰まったガスボンベのバルブを少しだけ開いてハッチを閉める。ツアー参加者の登山中、池谷さんはバスで休憩。やがてトランク内にガスが充満し、ガス漏れ警報機が異常を知らせる。当然池谷さんはガスボンベを調べに行くよね」
「行きますね」
「そうして、池谷さんは開閉ハンドルに書かれた文字に従ってハンドルを回したんだ。二本あるボンベのどちらからガスが漏れているかわからないから両方ともね。液体窒素の入った方のボンベはキンキンに冷えてるわけだけど、池谷さんは白い手袋をしていた。冷えた金属が皮膚に張り付くことは無く、ハンドルを回すようなごく短時間なら冷たさも感じなかっただろう。こうして遂に、液体窒素のボンベは密閉されてしまったんだ」
「そ、そうか、これで、ガス漏れも収まり、警報機が鳴り止むわけですね。そして池谷さんは安心して席に付く……」
「うん……しかしボンベの中では液体窒素の蒸発は続いていて……遂に内部の圧力に耐え切れずボンベは破裂、その衝撃でLPガスのボンベも爆発したわけだ……」
「なるほど……! 池谷さんにボンベのバルブを閉めさせた……閉めたから爆発した、ですか……。ですが証拠は……?」
「一般的なガスボンベには、安全弁というのが付いていて、ボンベ内の圧力が一定以上まで上昇すると、爆発事故を防ぐため自動的に弁が開き、ガスを外へ逃がす仕組みになっている。弁が開かないように何か細工したんだろうけど、もう爆発の衝撃で変形しちゃってるしなあ……」
「太ももの怪我を診断させて貰うか、後はサービスエリアに島尻さんの車が今も在るのか無いのか」
「うん。もし既に故障したと偽ってレッカー移動させてたらちょっとだけ厄介だね。でもまあ、証拠を隠滅される前にカタをつければいいさ。……というわけで、君は今の話を島尻さんにして、やんわりと自首を勧める方向で。……じゃ僕トイレ」
 踵を返した春日の腕を秋山ががしりと掴んだ。
「……先輩、ボクだけに全て押し付けようったってそうはいきませんよ」
「え? な、何のこと?」
「なあにが、君が好意を持つのも分かる、ですか全く。ああいう大人の美人に弱いのは先輩の方でしょ! 島尻さんのこと目で追っかけちゃったりして! 彼女のことを疑いながらも、本当は彼女が犯人でなければいいと思ってたんでしょ? でも、彼女が犯人ではない別の可能性を探そうとすればするほど、証拠を集めれば集めるほど、それは彼女の犯行を裏付けるものにしかならなかった……。上手くボクをノセたつもりなんでしょうが騙されませんよ」
「あ……あらあ……」
「ほら、行きますよ!」
 二人は歩き出した。その足取りは実に重たいものだった。


「お二人が刑事さんだと聞いたとき、なんとなくこうなる予感がしてました……」
 二人から自首を勧められた島尻は薄く笑いながら呟いた。
「いえ、僕は本屋です」
 春日はそう言いかけたが話がややこしくなりそうなので止めた。代わりに、
「島尻さん、あなた、池谷さんが二年前に起こした事故で怪我を負った男性の関係者ですね?」
 島尻と秋山が驚いた顔で春日を見た。
「事故があったのが二年前。池谷さんが今の会社に勤め始めたのは一年前。バスのドライバーが自分の事故歴をベラベラ喋ることはしないだろうし、半年前から勤め始めた島尻さんが事故を知ってるってことはそうなのかなって……」
 島尻が俯いて口を開いた。
「仰る通り…事故の時怪我をしたのは私の彼氏です……いえ、でした……」
「でした?」
「はい……亡くなりました……一年前……」
「な、亡くなったんですか!? その事故が原因で!?」
 秋山が眼を剥いて訊ねた。
「いえ。怪我は一カ月程で治りました。示談になって、治療費も慰謝料も支払われました。でも……しばらくして怪我が原因の後遺症が出て……彼は、以前のように指が動かなくなりました……」
「指が?」
「はい……彼は……CDデビューが決まったバンドのギタリストでした……事故の後遺症が出た場合は特別に慰謝料を再請求出来て、またいっぱいお金を貰ったんですけど……彼は人が変ったようにそのお金でお酒ばかり飲むようになってしまって…………一年前に……部屋のベランダから……飛び降りて……」
「じ、自殺……」
 島尻の瞳と唇から押し殺していたものが溢れ出た。
「ギターが弾けなくなった。たったそれだけのことで自殺するのが理解出来ませんか? ……私は……私は全く理解出来ません……! ……ただ、彼にとっては掛替えの無いものだったんでしょうね……何よりも……私よりも……そう思うと……悲しくて……悔しくて……彼を、恨みました……池谷さんに復讐とかじゃないんです……怒りをぶつけるところがなくて……それで……池谷さんを……そのために池谷さんの再就職先まで調べて……逆恨みですよね……私、最低ですよね……捕まるのが怖くて、コソコソいろんな仕掛けして……それでも……私は……」
 最後の方は聞きとれなくなっていた。
「聞くところによると、今日になって予約をキャンセルした三つの団体があったそうですが、ここの管理者が駐車場のキャパを超えて予約を受け付けることはないと見越して、架空の団体名と人数で駐車スペースを確保しておいたのも、あなたですね?」
「うお!? ほ、本当ですか!?」
「そうしておくことで、爆発に巻き込まれる人間が出ないようにしたんだ。実際そうなった。しかし島尻さん……あなたが遠ざけた子供連れの夫婦のように、飛び込みの客もいる。近所の子供達が遊びに来ることだってあるかもしれない。他に被害者が出なかったのは全くの偶然なんですよ。あなたはこのような殺害方法を採るべきじゃなかった。いや、そもそも池谷さんの殺害を考えるべきじゃなかったんだ……!」
「……はい……すみません……すみません……」
 影が泣いていた。
 全てが赤く染まった代わりに、夕陽を背負った島尻だけが真っ黒に染まり、さめざめと、泣いた。

 その後、島尻の自供に基づき、地元警察によってサービスエリア内の捜査が行われ、間もなく島尻所有の乗用車が発見された。中からは液体窒素を保存するための特別な容器とLPガスが詰まったガスボンベも発見され、春日の推理を裏付けるものとなった。なお、ボンベの安全弁に対する細工は、弁をハンマーで叩くことにより変形させ、弁を正常に作動させなくするという単純なものであった。
 
 
 
   第七話 コーヒーブレイク殺人事件

 ある寒い夜。老朽化の進んだアパートの一室で男四人が麻雀卓を囲んでいた。
 閉めきった室内に充満する、この淀んだ空気は男達が吐き出す煙の所為だけではない。畳の上は隙間無くゴミで埋め尽くされ、喰い散らかしたラーメンやら弁当やらは発酵し、台所の流しには数十日分もの洗い物が放置されていた。そのまばゆいばかりの異臭に誘われて、名前も分からぬ虫が元気に歩き回っている。
 男達は人間に秘められし環境適応能力を余すところ無く発揮しつつ、小さな石の動きに一喜一憂している。そんな、心温まる光景がそこにあった。
「をいをい、楽勝過ぎて眠くなっちゃうよ?」
 東家に座するのはこのメンバーのリーダー格で、大の麻雀好きでもある末吉だった。
「ほざけよ。偶々ヒキが良いだけだろうが」
 南家に座するのが久米。負けが込んでいるせいか次々と煙草を灰にしていく。
「そうそう。いつもならツモの悪さに不機嫌になってる頃っしょ」
 西家で点棒をチャラチャラと弄んでいるのが古島。この部屋の主でもある。
「…………」
 北家で自分の牌を食い入るように見詰め、やたら瞬きの多いのが辻である。
 この四人は同じ大学に在籍しており、週に二回はこうやって卓を囲んでいた。しかし今日に限って珍しいことがあった。いつも全員分のコーヒーを買いにコンビニまで行かされるのは辻なのだが、なんの気まぐれか、古島が、今日は自分が行くと言い出した。
 コンビニから三十分程で戻った古島は、大きなレジ袋を両手に下げていて、袋の中には缶コーヒーの他に菓子類、各々が愛煙する煙草まで入っていた。そして、今日飲み食いする分の代金は全て自分が持つとまで言い放ち、皆を驚かせた。
 古島は買ってきた缶コーヒーをそれぞれの前に置いてやった。卓に置かれた四本の缶コーヒーの内、三本は別々のメーカーのブラックコーヒーで、残りの一本はまた別のメーカーのミルク、砂糖入りのコーヒーだった。
「どれか好きなメーカーのがあったら、好き勝手に取り換えて飲んでくれ」
 古島はにこやかにそう言った。
 それぞれが思い思いの缶コーヒーを手に取り、開けて飲んだ。するとコーヒーを飲み下した末吉が急に苦しみ出し、もがいた後、白目を剥いて倒れた。

 久米達の通報によってすぐに救急車が駆け付けたが既に末吉は死亡していた。警察も到着し、捜査が行われたところ、死亡した末吉の口内と缶コーヒーの飲み口から青酸カリが検出された。また、遺体をくまなく調べたが、毒物反応が出たのは口内だけであった。
 そして、コーヒーの缶からは、末吉、古島、コンビニの店員の指紋が検出された。
 また、末吉と一緒に居た三人には身体検査が行われたが誰も毒物を所持していなかった。

「なるほど……状況は大体把握しました」
 プシュー……。当事者達から説明を受けた春日が頷いた。その後ろでは秋山がゴミとヤニの臭いに閉口していた。
「では、コーヒーを買って来たのは、古島さん、あなたで間違いありませんね?」
 プシュー……。
「ああ、レシートはあんたの後ろにいる刑事さんに渡したよ」
「はい、拝見しました。レシートには日付と時間も明記されてましたし、お部屋にあった品物と照合したところ、一致しました」
 プシュー……。
「当たり前だろ」
「そりゃそうですよね。ははは」
 プシュー……。
「あのさ……」
「なんでしょう?」
 プシュー……。
「会話の端々に除菌スプレー散布すんのやめてくんない? 俺達バイ菌じゃないんで」
「いえいえ、どうかお気になさらず」
 プシュー……。プシッ、プシッ、プシッ、プ……
「何一本丸々使い切ってんだよ!」
「いやー、しかし古島さん。もうちょっとお部屋は奇麗にした方がよろしいかと」
 春日は使い果たしたスプレー缶を、山盛りのゴミ箱にねじ込んだ。
「片付けてもどうせあいつらが汚すんだよ。てか、いいだろ別に。余計なお世話だ」
「いやいやー、彼女とか来たとき困るでしょう」
「それこそ余計なお世話だ。だから、いいんだよ! デートのときは車飛ばしてどっか行くし。こんな壁の薄い部屋じゃ何も出来ねえしよ」
「そんなもんですかねぇ」
 プシュー。
「何本持ってきてんだよ!」
「しかしこの部屋暑いですねぇ。ちょっと失礼してコートを……」
 春日は着ていたコートを脱ぐと、ゴミ箱に捨てた。
「もう着れねえってか!? 臭くて着れねえってか!?」
「そうですか。古島さん彼女いますか。可愛いですか?」
「ああ? …………まあな」
「ああそうですか! いやあ、羨ましい。さぞかしあなたにお似合いの、エラの張った女性でしょうねぇ」
「張ってねえよ! あやまれ、今すぐ俺とエリ子にあやまれ」
「それで? スタイルは良いですか?」
「ああっ? 何でそんなこと言わなきゃな―」
「教えて下さいよ! 良いんでしょ!? このこの!」
「……スタイルは、まあ、そこそこだよ」
「なるほど! そこそこエロい身体してますか! デートは主にどちらへ?」
「だから! 何でそんなことあんたに赤裸々告白せにゃならんのだ!」
「そうもったいつけずに、減るもんじゃなし!」
「神経がすり減るわ……! ちっ、行き付けのバーがあるんだよ。エリ子、カクテルが好きでよ」
「エラ張ってるのに?」
「張ってねえ! だいたいカクテルにエラ関係ねえだろが」
「じゃあそのエラ子さんが……」
「エリ子!」
 見かねて秋山が春日を咎めた。
「ちょっと先輩! ふざけるのも大概にして下さい! 申し訳ありません、大変失礼しましたエラ夫さん」
「だれがエラ夫じゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 古島の怒号が向こう十軒に響いた。

 逆上した古島を落ち付かせた後、春日と秋山はアパートの外で個別に聞き取りを行うことにした。
 まず、末吉の右手に座っていた辻を連れ出して話を訊いてみた。
「最初に末吉君がコーヒーを選んで、その後は皆が適当に取ってましたよ。それと、いつもは僕が買い出しに行かされるのに、古島君が自分から行くって言い出して。しかもオゴってくれるって。こんなの初めてのことだったんでビックリしました」
「そうですか……末吉さんですが、いつも飲むコーヒーのメーカーは決まってたんですか?」
「いえ、全然です。ナシナシコーヒーならなんでも」
「ナシナシコーヒー?」
「あ、ミルク、砂糖無し、ブラックって意味です。だからナシナシコーヒー。っていうか、全員メーカーのこだわりなんて無いと思います。僕の場合、アリアリコーヒーならなんでも。あ、アリアリってのはミルク、砂糖入りって意味です」
 春日は辻に礼を言うと、次に末吉の正面に座っていた古島に話を訊いた。
「古島さん、今日皆さんの分はオゴリだったそうですね。何かイイ事でもありましたか?」
「別に。偶々金が有ったから、たまには気前の良いところを見せようと思っただけだよ」
「そうですか。でも、買い出しまで自分で行っちゃうなんて、良いとこ見せ過ぎじゃないですか?」
「…………まあな。つか、何なのこれ? 取り調べ? 俺達容疑者なわけ?」
「いえいえ! 所持品検査のときも説明があったと思いますが、これらはあくまで形式上のものです。言わばお約束です。家でお母さんがご飯は? と聞いてきたとき、食べた。と答えると、何食べた? と必ず聞いてくるのと同じことです」
「…………」
「はい、ではありがとうございました。次は久米さんを呼んで頂けますか」
「…………」
 憮然とした表情で部屋へと戻った古島と入れ替わりで、久米が出てきた。
「はい、では久米さん、お話をお聞きしていきたいのですが―久米さん? どうかしましたか?」
「……あ、いや……」
「久米さん、何かありましたら、どんな些細なことでも構いませんので教えて頂けませんか」
「え、ええ……あの……実は……ち、ちょっとこれ、チクるみたいで嫌なんすけど……古島って……と、歳の割には、その……薄くて……、か……か……」
「か?」
「……被ってるんすよ……あの、黒くてフサフサしたもの……」
「え? ○デランス的な?」
「そ、そう……で、ガッコで末吉が悪ノリして、古島から毟り取っちゃって……しかもエリ子ちゃんの前で」
「え!? 本当ですか!?」
「ええ。エリ子ちゃんも同じガッコなんで。もうめちゃくちゃヒキましたよ。……いくらなんでもあれはやり過ぎでしたよ末吉は。それで……古島そのこと相当根に持ってて……当たり前すけど。末吉がいないときはいつも『あいつ、いつか絶対ぶっ殺してやる』って言ってました。……俺達以外の他の集まりでも言ってたらしくて、その内本当に殺るんじゃないかって校内でも噂になってたっす……」
「……そうですか。……ありがとうございます、大変参考になりました……久米さん、このままちょっとここで待っていて頂けますか」
「え? ああ、はい……」
「秋山君、我々は部屋へ戻るよ」
「あ、はい」
 秋山は水に潜るときのように大きく息を吸い込んだ。玄関を潜ると中で待っていた古島と辻が春日達を見た。
「申し訳ありません、辻さん。ちょっと外で待っていて頂けますか」
「え? は……はい……」
「な、何だよ?」
 そそくさと部屋を出て行く辻を見て、残された古島が声を揺らした。そんな古島に、春日は静かに告げた。
「……事件の真相が解りました……缶コーヒーの飲み口に毒を仕込み、末吉さんを殺害した犯人は……古島さん、あなたですね?」
「なっ!? ば、ばか言ってんじゃねえよ! コ、コーヒーは皆が好き勝手に選んで取ったんだぜ!? 俺に末吉を殺せるわけねえだろ!」

※春日が言うように、古島が末吉を殺害することは可能なのだろうか?

「ぷはっ、良い人を演じて末吉さんを油断させ、隙をみて毒を飲ませたってことですか?」
 秋山が訊いてきた。
「いや、逆だよ。大いに警戒させたのさ。校内で噂が広がってるって事は、回り回って末吉さんの耳にも入っている可能性は大、だね。そしてそれは古島さんがわざとそうなるように仕向けたから。……古島さんがコーヒーを買って来たとき、末吉さんはこう思っただろうね『自分から買いに行くって言った上に全員分オゴリだと? 気前良過ぎだろ。気持ちわりぃな……まてよ、そういえばこいつ、相当俺の事を恨んでいるみたいな事を聞いたな。まさかこのコーヒーに何か入れたんじゃないだろうな?』ってね。そうして末吉さんは、自分の一番近くにあるコーヒーではなく、一番遠く、そして最も安全そうな古島さんの近くにある缶コーヒーを取ったんだ。まんまと取らされた、と言った方が正しいかな。毒が塗られていたのはそのコーヒーだったのさ。そして、リーダー格の末吉さんが一番先に手を伸ばすであろうことも計算の内。もちろん、こう旨くいくとは限らない。末吉さんが警戒してコーヒーを飲まなければそれはそれで仕様が無い。辻さんは当然アリアリのコーヒーを取るだろうし、久米さんが毒付きを取ってしまったら、そのメーカーのコーヒーがどうしても飲みたいと言って換えてもらう。自分に毒付きが回ってきたら飲まなければ良いだけの話」
「バカヤロウ! そんなのただの想像だろ!」
「ええ、あなたが末吉さんを狙ったという事は立証できません。が、毒を使用して、その結果人が亡くなったという事実は立証できます。」
「だから! なんで俺なんだよ! コンビニの客を狙った愉快犯の無差別殺人かもしれねぇじゃねえか!」
「確かにその可能性はゼロではないです。しかし、青酸カリという毒は飲み口に塗って、誰かが手に取るのを待つ、という手口にはあまり適していません。長い時間空気中に放置すると潮解という現象で徐々に毒性を失っていきますから。その愉快犯がよっぽど勉強不足でない限り、混入という手口を選ぶでしょう」
「…………」
「青酸カリを保存するには大気に触れないよう密閉できる容器が必要です。あなたはコーヒーを買いに行って三十分程で戻って来た。遠くまで行って容器を処分する暇は無かったはず。探せばきっと見付かります。あなたの指紋付きの容器がね」
「……ああそうかい! 好きにしろよ! 探せばいい! どうせ見付かりっこ無い、そんな容器は初めから存在しないんだからな!」
「……さては、偶然通りかかったトラックの荷台にでも放り込みましたね?」
「!」
 古島は思わず顔色を変えてしまった。
「あら、当たりました? それなら、ここにいる秋山君の上司がこの辺りをテリトリーにする全ての運送会社に協力を要請し、ドライバーに荷台を調べろと連絡して貰えばすぐにカタはつきますよ?」
「…………!」
「古島……」
 いつの間にか戸口に久米と辻が立っていた。
「……古島さん……ここで粘れば粘るほど、後々不利になりますよ……?」
「……ちくしょう……あいつが悪いんだよ……! エリ子の前で恥をかかせるから……あれからエリ子とはギクシャクしっぱなしさ……分かるんだよ! チラチラ見てんだよ!」
 血を吐くような声が室内に響いた。全員が顔を背ける。そして、春日の眼にも熱いものが込み上げてきた。
「古島さん……大好きな人の前で恥をかかされた悔しさ……心中お察しします……。でもね、それって本当に相手を殺すことでしかそそげない恥だったでしょうか? なにも殺す必要は無かったんですよ! その恥が霞むくらい何かカッコイイことやってやろうとか。訴訟を起こし法廷で争うとか。熱意を持って謀略を張り巡らせ、相手をノイローゼになるまで追い詰めるとか! 他にやりようはあったはずなんですよ! あなた、恥をそそぐどころか、恥の上塗りしちゃってるじゃないですか!」
「…………」
 古島はゴミを踏み散らかしてよろめくと壁に手を付いた。
「古島……」
 久米と辻が憐れむような眼差しを向けた。そして古島も視線を返す。
「……二人とも……巻き込んですまなかった……。これ……」
 古島は頭の黒くてフサフサしたものを掴むと、それを脱いだ。
「やるよ……俺にはもう必要ない物だ……」
「い、いや、でも……」
「いいから。とっとけ」
「古島ぁ……」
 久米はそれを固く握りしめ、顔をクシャクシャにして泣いた。その後ろで辻も声を殺して泣いていた。
「……俺の心はいつの間にか、この部屋と同じように汚れきってしまっていたんだな」
 古島は自嘲気味に笑った。
「……さあ行こうか。刑事さん」
 秋山は古島の眼を正面に見据え、深く頷いた。
 そして春日は、部屋を出て行くいろいろな意味で裸になった古島の後ろ姿を、まぶしそうに見送った。
 
 
 
   第八話 白銀の丘殺人事件

 季節は冬。天気は雪。その日、春日と秋山は山で遭難していた。
 
 事の発端はバスに揺られつつスキー場へ向かおうとする道中だった。心地良くまどろんでいた春日は、若い団体客が降りてゆくのを見て、慌てて同じく舟を漕いでいた秋山を揺り起こし、バスを飛び降りた。
 わいわいと楽しそうに騒ぎながら進む若者達。その後に続く春日と秋山。そして若者達は、そのまま最寄りのレストランへと入ってゆくのであった。春日は一瞬キョトンとした後、ハッとなって慌てて引き返すも勿論バスのバの字も無い。道行く人に訊ねたところ、目的地の一つ手前のバス停だと判明した。
「巧妙な罠だ」
 春日が舌を打った。
「先輩……」
 秋山がジト目で春日を見る。
「で……でもまあ! どうせバス停一つ分の距離だし、歩いて行こうじゃないか」
「こういうところの一区間って超長いと思うんですけど……もう、仕様が無いなあ」
 途中、秋山の提案で近道しようと山道に入ったのが間違いだった。
 二人は声高に責任をなすり付け合いながら進む。積もった雪で道の場所が分からず、しかも足がズブスブと沈み歩き難いことこのうえない。木々が邪魔して視界も悪く、おまけに先程から雪が降りだし、冷たい風が二人の鼻と耳をもぎ取ろうと強く吹き付ける。晴れて両名、迷子から遭難者へと昇格を果たした次第である。
 携帯は圏外。スキーに必要な道具は全て向こうでレンタルするつもりだったので、どうすることもできない。今、彼等に在るものはかっちかちになったホカロンのみであった。
 ついに日が落ち始め、辺りは急速に暗くなってゆく。ここに、進退極まった。
 春日がガタガタ震えながら、裸で抱き合い暖め合うか、遺書を書くか本気で迷っていると、視界の端が光を捉えた。目を凝らすとやはり遠くに明かりが見える。人工の明かりであるのは間違いない。春日は声を上げた。
 
 這うようにして近付くと、森の拓けたところに雪をまとった洋館が建っていた。日が沈んだのが逆に幸いした。かすかな明かりを見逃さずに済んだのだ。
 洋館は高い柵に囲まれていたが、庭へと続く門の格子扉は開け放たれたままだった。雪が降り積もると開閉できなくなるからだろう。扉まで辿り着くとノックする。柱や壁はモルタル造りらしく、それ程古い建物ではないようだ。しばらく叩き続けると、重厚な扉が内側に開き、そこに初老の男が立っていた。二人の姿に驚きの表情を見せる。
「一体如何なさいました……!」
 整えた白髪に口髭、黒燕尾にピンと伸びた背筋。どこからどう見ても執事だ。といっても、二人は本物を見るのは初めてだった。
「と、突然申し訳ありません。失礼ですが、お家の方でらっしゃいますか?」
 春日は寒さのせいで口も頭も回らない。
「はい、私はこの邸の執事を仰せつかっている者でございます」
 春日はかいつまんで事情を説明した。
「しばらくお待ちください。お伺いを立てて参ります」
 執事が中へ引っ込み扉を閉めた。その場で足踏みして待つこと数分、ようやくお許しが出た。
「お待たせ致しました。どうぞ」
 その言葉と同時に二人は中へ転がり込み、そして眼を見張った。眼の前にあるのは、だだっ広い空間だった。吹き抜けの高い天井に高級感漂う絨毯。煌びやかな装飾に彩られた、それは豪華なエントランスホールだった。細部に関する説明は省く。とにかく美しいのだ。
「まずは体を温めませんと。どうぞこちらへ」
 春日と秋山は歯をカチカチさせながら礼を言い、執事の後に憑いて行った。暖房のきいた客間へ通され、そこでタオルと毛布を渡された。脱いだ服は乾燥機に掛けてくれるそうなので預け、素っ裸で毛布に包まり、体内に溜まった冷気を吐き出す。息を吸うと肺に暖かい空気が流れ込んでくる。しばらくすると、かじかんでいた手足がじわじわと感覚を取り戻してくるのが分かる。そんな風にして、蓑虫二匹が生還の喜びを噛み締めていると、今度は本物のメイドが料理を運んできた。
「あり合わせのものですので、お口に合いますかどうか」
 テーブルの横で執事が直立不動のまま言った。使用人達のまかないかなにかだろう、たっぷり野菜の入ったスープがほこほこと湯気をたてている。二人は目の色を変えて飛び付いた。
 料理をあっという間に平らげ、出された茶をすすっていると、部屋にガウンで身を包んだ男が現れた。春日が立ち上がって挨拶すると、男はイライラした様子で言った。
「お前らか、遭難者ってのは、いったいどこから入り込んだ」
 春日は今までの経緯をもう一度説明した。
「……この辺りの山は全て私有地だぞ。字が読めんのか、まったく! 泊めてやるのはかまわんが、家の中をウロウロするなよ」
 そう吐き捨てると男は出て行った。
「怖っ、なんか感じ悪いっすね」
「しっ……! 逆の立場で考えてごらんよ、もし自分の家にわけのわからない遭難者が転がり込んできたら泊める上に食事まで出してニコニコしてられるかい? あの危機的状況を脱することが出来たのに、これ以上何かを望むのは贅沢だよ」
「そ、そうですね。すみません」
「あ、執事さん、今の方がご主人様でいらっしゃいますか?」
「いえ、今居られたのは兄上の幸一郎様でございます」
「……そうでしたか、では後ほど改めてお礼を言わせて頂きたいのですが」
「はい、では―」
 会話の途中でまた一人男が部屋に入ってきた。先程の男と顔がよく似ているがこちらは幾分若く、穏やかな顔付をしていた。
「旦那様」
 執事が頭を下げた。
「おいおい、名前で呼んでって言ってるでしょ。兄さんが不機嫌になるから」
「は、申し訳ございません。幸次郎様」
「あなた達ですか、道に迷ったというのは。いや、元気そうでなにより。父さんが病気で逝ってしまったばかりで家の空気が沈んでいるのに、また死人が出ては堪らないからね」
「こ、幸次郎様」
「おっと……しかし、敷地に氷のオブジェが二体建つのも風情があって良かったかもしれないな」
 そう言うと男は悪戯っぽく笑った。
「それは確かにそうかもしれませんが、夏になったらにおいが出ますよ」
 春日が言うと男は楽しそうに笑った。
「ああ、それは困る」
 春日と秋山が口々に礼を述べると幸次郎はにこやかに手を振り、部屋を後にした。

「お湯加減はどうですか?」
 この邸の使用人の一人であるという、泉崎青年が脱衣所から訊ねてきた。春日と秋山は今、使用人達が使う浴室の、小さな浴槽に二人並んで首まで浸かっていた。
「最高ですぅ」「バッチリですぅ」
 良い感じに茹で上がった春日と秋山が答えた。
「あはは、それはよかった」
「はあ……地獄に仏とは正にこのことだねぇ」
「ほんとうにそうですよねぇ。いやしかし危なかったですね。もうボク、先輩と裸で温め合うか遺書を書くか、本気で迷ってましたもん」
「あ、ああそう……。ああ、ときに泉崎さん」
「はい?」
「さっき廊下に飾ってあった写真ですけど、あれすごい綺麗でしたね。飛行機から撮ったものですかね?」
 眼鏡を湯気で曇らせ、春日が聞いた。浴室へ向かう途中に見掛けたものだ。上空から山の雪化粧を撮った写真で、空の青さと雪の白さが際立つ、美しい写真だった。
「ああ、あれは幸一郎様がご趣味のパラグライダーをしながら、この邸の敷地で撮影されたものです」
「へえ、パラグライダーですか」
「自分ちでパラグライダーとか、スゴ……」
 途方も無い話に秋山が溜息を洩らした。
「でもこの辺りはですね、季節風って言うんですか? 毎年この時期になると同じ方向から強めの風が止むこと無くずっと吹き続けるようになるんですよ。だから、ライディングできるのは雪の降り始めだけだそうです」
「あら、それは残念ですね」
「それに、山の天気は変わりやすいですからね、注意してないと―」
『山舐めてすみません』
 春日と秋山が同時に額を湯に付けた。
「ははは、でも予報ではこの雪も朝には止むそうですから。あ、でもこれだけ降ったらすぐには道通れないかもしれないな……」
「いやもうホント、ご迷惑お掛けします。なにもかも先輩が悪いんです」
「君の方だっての。……あ、そうだ泉崎さん、立ち入ったことをお聞きしますけど、前のご当主様は最近お亡くなりになられたんですか?」
「ええ、つい先月癌でお亡くなりに……」
「それはご愁傷様です……。それで、その、ご長男ではなく、ご次男が後を継がれたんですか?」
「ちょっ、先輩、どんだけ立ち入ってんですか」
「ご、ごめん、気になって」
「気になってじゃないですよ全く、失礼じゃないですか。泉崎さん、どうもすみませんでした。でもまあ、せっかくなんで質問には答えてあげて貰えますか?」
「え? ええ? え……えと……それは、その、亡くなった旦那様の遺言で……。どうやら旦那様は優秀な方に家を継がせようとお考えだったらしく……」
「ほう、では幸一郎さんは優秀ではないと」
 秋山が眼を丸くした。
「あ! いやいや決して、わわ私がそう思ったわけではなく! その、あの、ど、どちらも優れているんですが、より優れた方がといいますかっ」
「ほうほう!」
「止めなさい、秋山君、困ってるじゃないか。……しかし、旧ご主人様も面倒なことをしてくれましたね。いろいろと大変でしょう、使用人の方々も」
「そぅ―ゴホッ! ゴホッ! い、いやそんな、全然ですよ?」
 どんな言葉を呑み込んだのかは分からないが、風呂場に泉崎の乾いた笑い声が響いた。

 風呂を上がり泉崎の後に付いて客室へ向かう途中、廊下で一人の老人を紹介された。
「こちら梅津先生です。この邸の優秀なお抱え医師なんですよ」
 酒で顔を真っ赤にさせた梅津と呼ばれた男は陽気に首を振った。
「いやいや、そんな大層なモンとちゃいます! ただのじぃちゃんですわ、むしろ介護が必要なのはワタシの方でしてな?」
 梅津は自分で言ってどわっと笑った。
「ほれ、坊っちゃん達が身体丈夫やからワタシもうヒマで。せやから夜はこうやってお酒いただいてます」
「いや先生、いつも朝から飲んでるじゃないですか」
 泉崎が言うと梅津はまたどかんと唾を飛ばして笑った。

「先輩、どうかしましたか?」
 与えられたベッドに潜り込みながら秋山が訊ねた。春日は隣のベッドでぼーっと天井を眺めている。
「あ、いや……ちょっとこのお邸のことをね……部外者が首を突っ込むような問題じゃないけど……何かこう……ひと騒動起きそうな予感がしてね……ほら、泉崎さんの反応を見ても、もういろいろともめてんだよきっと……何も起こらなければいいけど……。ねえ、秋山く―」
「ぐう」
「寝てるのかよ! 今君が話振ったんだよね? 別に子守唄じゃないからね今の? そんなに僕の話つまらなかった?」
 などと独りでボルテージを上げつつも、すぐに春日も眠りに落ちた。


 午前八時。春日はノックの音で眼を覚ました。一瞬たりともこの暖かなベッドから離れたくないという欲望を押し殺し、身を起してドアを開くと、そこに執事が立っていた。
「昨夜は良くお休みになられましたか? お食事がご用意できておりますのでどうぞ」
 食事などよりもまだ寝かせておいて欲しいというのが本音だが、無論断れるはずも無く、春日は秋山を揺すり起こしに掛った。
 食堂へ向かう途中、春日は執事が眼を真っ赤にして欠伸を噛み殺しているのに気が付いた。
「あ、お見苦しい所を。実は、朝方まで幸一郎様のチェスのお相手をしていたものですから……」
「え、じゃあ昨夜から一睡もしてないんですか?」
「はい。しかし今日はお休みを頂きましたので、後程ゆっくり休ませて頂きます……」
「ああそうですか。なら、幸一郎さんは今頃ぐっすりですね」
「いえ、今は少しお出掛けに……」
「え? 寝てないのに出掛けちゃったんですか? 雪はもう止んでるんですか?」
「え、ええ、雪の方はすっかり。ただ依然として風は強うございますが」
「……何か、あったんですか?」
「ええ……いや何かあったと言いますか……今朝給仕が幸次郎様を起こすためにいつも通りの時刻にお部屋へ伺ったところ、中に幸次郎様のお姿が無く……邸中お探ししてもお姿が見えないので幸一郎様にご相談したところ、幸一郎様が外を探してくると仰られまして」
「そう、ですか……」
 春日は妙な胸騒ぎを感じつつ、執事の後に続いた。その後に秋山がヨタヨタしながら続いた。

 午前十時。春日の不安が的中した。幸一郎が訃報を持ち帰ったのだ。
「丘で幸次郎の死体を見付けた。誰か一緒に来てくれ」
 幸一郎の言葉に泉崎は顔色を真っ青にさせ、執事は唇をぶるぶるとさせた。
「そ、そんな……なぜ、幸次郎様が……ま、まさか、あの脅迫状と何か関係が……?」
「脅迫状が、届いていたのですね?」
 話に割り込んだのは春日だった。
「では、その脅迫状のことは後でお聞きします。現場には我々がすぐに向かいますので、場所を教えて頂けますか」
 勿論、皆が怪訝な顔で春日を見た。
「秋山君」
「はい」
 秋山は歩み出ると名刺を前にかざした。
「○県で刑事をやってます、秋山です。プライベートですので手帳は持ち合わせておりませんが、これでも本物の刑事ですので、どうかご安心を」
「け、刑事さん……?」
 皆が驚きの眼を秋山に向けたのは言うまでもない。
 春日と秋山は邸の者達に部屋で待っているように告げると、邸のスノーモービルに跨り、幸次郎の遺体があるという丘を目指した。
 幸一郎の話によると、その丘は邸からスノーモービルをしばらく走らせたところにあるらしい。ハンドルを握る秋山はスピードを上げた。

 そして二人は、大きく拓け一面雪に覆われた丘の、その中腹に幸次郎の遺体を見付けた。空は昨日の吹雪が嘘だったかのように晴れ渡っている。その日差しが雪に反射して、まるで巨大な白いキャンバスの真ん中にポツンとシミが付いているように見えた。
 二人はスノーモービルを降りると足を雪に沈ませながら丘を昇り始めた。吹き下ろしの風が二人の髪を掻き乱す。
 春日は遺体の少し手前で足を止めた。仰向けに横たわる幸次郎の顔は真っ白だった。その胸からはナイフの柄が生えており、寝間着は血で真っ赤に染まっていた。春日は手を合わせた後、邸で用意させたカメラを取り出し撮影を開始した。通常、現場検証が行われる際、カメラが故障していた場合も考慮に入れ、二台のカメラが使用される。そこで、今回は持参していた使い捨てカメラで補助の撮影を行った。
 まずは遺体を中心に全体像を写す。遺体には所々雪が乗っており、足は裸足だった。次にレンズを遺体の周りに向けてみる。
「……秋山君、気が付いた? 遺体の周りに全く足跡が無いよ……って、何その眼?」
「あ、ち、血がちょっと、あれなんで……この場は薄眼で失礼します」
「そんな細い眼で何を見通せると言うの……」
「あ、大丈夫です。いままでもこれで何とかやってこれたんで」
「…………」
「足跡ですよね? 気付きましたとも。犯人の足跡に雪が降り積もり、消えてしまったんですね。ということは、犯人がここに遺体を放置したのは雪が止む前」
「うん……。でもさ、足跡が埋まる程降ったにしては、遺体に積もってる雪が少な過ぎない?」
「そうですかねぇ……この日差しで融けたのでは?」
「ふむ……。そんじゃま、道路が雪で塞がってて、警察が到着するのも遅れるみたいだし、このまま続けて調べてみようか」
「どうぞ、存分に」
「君もやるの!」
 春日は遺体の傍にいくとまた何度もシャッターを切った。次に遺体に触れてみたがその肌は凍り付いていた。シャツにも触れてみるが、濡れてはいなかった。その後も春日と秋山は何か手掛かりは無いものかと遺体をひっくり返したり、立てたり、寝かしたりした。また、鼻を擦り付けるようにして雪上を調べ上げたが、遺体の周りからは犯人のものと思われる足跡はやはり発見できなかった。
 そこで一旦邸へ戻ることに決め、スノーモービルの後ろに遺体を立てると、曲乗りのようにして輸送を敢行したのだった。

 邸に戻った春日達はまず梅津を呼び出した。
「こ、幸次郎坊ちゃん……」
 遺体に眼を落とし梅津は茫然と呟いた。
「先生、検死をお願いできますか」
「……!」
 梅津はンガッと鼻を鳴らして眼を剥いた。できないできないと何度も首を振ったが、春日達がどうしても必要なのだと頼むと、やっと頷いた。
 春日は梅津が遺体を調べている間に関係者達から話を聞いて回ることにし、最初に遺体の第一発見者である幸一郎の部屋を訪ねた。
「幸次郎さんは、殺害されていました」
「そうか……」
 ソファーに深く身体を沈めた幸一郎は眼を押さえた。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、今朝何があったのか詳しく教えて頂けますか?」
「……明け方は……使用人の一人とチェスをしていた」
「執事さんとですね?」
「そうだ。そしたら、朝になってメイドが幸次郎の姿が邸のどこにも無いと言い出した。だから俺はスノーモービルを出して邸の周りを探した。そして丘を通り掛ったとき、そこで幸次郎の死体を見付けたんだ……」
「なるほど……。お聞きしますが、あなたは遺体に近付かなかったんですね?」
「そうだ」
「駆け寄って、幸次郎さんの生死を確かめようとは思わなかったのですか?」
「……遠くから見ても、もう死んでると思った。現場を荒らすのはまずいと思ったしな。テレビとかでやってるだろ? それに、脅迫状のことを思い出してな」
「そうでしたか、失礼しました。ではその脅迫状ですが、見せて頂いてもよろしいですか?」
「無い。頭にきて俺が破り捨てた。でも内容は覚えている。『全ての財産を手放し、この土地から出て行け。さもなくばお前ら一族を皆殺しにする』と書いてあった。ついこの前、郵便受けから使用人が見付けてきた。幸次郎のやつは笑っていたがな、当然だ、こんなことを言われてハイ、そうですかと言うことを聞くバカはおらん」
「全くです……。しかし、その脅迫状を送った人間が幸次郎さんを殺害した犯人だとして、なぜ犯人は幸次郎さんの遺体をあの丘へ置いたのでしょうか……」
「そんなもの決まってるだろ、わざと俺に見付けさせて、次はお前だと言いたいんだろう! 俺を怖がらせたいんだ……! 犯人はこの邸にいる誰かに違いない……!」
「…………」
「さあ! もういいだろう! さっさと犯人を捜し出して捕まえてくれ!」
 春日は黙って頭を下げると幸一郎の部屋を後にした。次に執事の部屋を訪ねた。
「まだ信じられません……」
 眼の下に隈を湛えて執事は言った。春日が話を聞きたいと頼むと、真摯な態度で頷いた。やはりこのようなときは積み重ねた年齢が物を言うのか、すでに落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
「私が幸次郎様を最後にお見掛けしたのは……十二時頃でしょうか……ええ、午前零時。もうお休みになると仰られて……お部屋にお戻りになるところでございました。その後……幸一郎様に呼ばれ、午前一時からチェスのお相手をさせて頂きました。そして……女給が知らせを持ってきたのは、午前七時頃だったでしょうか」
「なるほど、午前一時から午前七時まで幸一郎さんとずっとご一緒だったわけですね。どちらかが席を離れるようなことは?」
「ええ、途中一度、幸一郎様がお手洗いに立たれました。そのときは……十分程でお戻りになりましたでしょうか」
「そうですか……。それで、七時にメイドさんがきて……。そのときにはもう雪は止んでいたので、幸一郎さんが幸次郎さんを探しに行くと言って邸を出られたんですね?」
「左様でございます。雪の方は、私の記憶が正しければ午前六時には止んでいたと思います。六時頃といえばまだ窓の外は真っ暗でしたが、七時頃には少しずつ明るくなり始めておりました」
 春日達は礼を言って執事の元を後にし、残りは手分けして他の使用人達の話を訊いて回った。そして一通り訊き終えた頃、梅津も検死を終えたところであった。
「死因はナイフで心臓を一突きにされたためですな……。死亡推定時刻は皮膚が凍ってて正確なことは分かりませんわ。せやけど、胃の内容物の消化具合から計算すると……坊ちゃんが亡くなりはったんは午前二時から午前五時の間やと思います」
 さすがに神経を使ったのか元気なく梅津が言った。春日は梅津をねぎらいゆっくり休むように言うと、他の者達にも部屋で待機するように言い、また秋山と二人で丘へと向かった。

「先輩……」
 春日は丘を見上げていた。ここへ着いてからもう随分そうしている。その表情には困惑の色が浮かんでいた。今、幸次郎の遺体があった場所には色の付いたビニールが目印として置いてある。
「先輩は……幸一郎さんが怪しいと考えていたんですね……?」
「…………うん」
「幸次郎さんが殺害されたのは午前二時から午前五時。幸次郎さんは寝間着姿でしたし、部屋に争った形跡など一切なかったため、寝ているところを襲われたとみて間違いないでしょう。そして遺体の周りの雪に足跡が無いことから、犯人の足跡は降る雪が消したと思われます。よって、犯人が遺体をここへ運んだのは雪が降っている間……。その雪は午前六時まで降っていた……」
「…………」
「幸一郎さんと執事さんがチェスをしていたのは午前一時から午前七時、途中、トイレに行くと席を離れたのも十分間だけ……。どんなにスノーモービルを飛ばしても木々を縫って邸からここまで五分で来て、五分で帰るのはどう考えても無理です。幸一郎さんは犯人じゃありませんよ」
「はあ……」
 春日はがくりと肩を落とした。
「それか、雪に足跡を付けない何か良い方法があればいいんですけど……。あ! もしかして、パラグライダーを上手く使ったんじゃないですか!?」
「うん……それは考えた。でもね、パラグライダーで風を受ける帆に当たる部分をキャノピーと言うのだけれど、このキャノピーをこの風の中コントロールすることは無理。広げた瞬間残念なことになる」
「そうかぁ……。あ、わかった! 何かで見たことがあるんですけど、雪を降らせる機械がありますよね! それを使って足跡の上に雪を降らせたんじゃないですか!?」
「ああ、それも考えた。雪を造る機械には人工造雪機と人工降雪機がある。どちらもスキー場で使われているもので、造雪機の方は巨大なカキ氷機で氷を砕き、それを散布して雪の代わりにする。これには大掛かりな設備が必要になるので、状況から考えてこれは無い。可能性があるとすれば人工降雪機だけど……」
「だけど、なんですか?」
「水は一定の圧力を掛けられた後、その圧力から解放されると一気に温度が下がり、凍り易くなるという性質を持っているんだ。その性質を利用して、圧縮した水を霧状に噴出し、冷たい外気と反応させて凍らせ、氷の粒を降らせるのが人工降雪機。この機械は持ち運びできないことはないんだけど、やっぱりこの風じゃ足跡に雪を積もらせる前に、明後日の方向へ雪が飛び散ってしまう。だからこれも……無理……」
「そうですか……。じゃまあ……完全に……幸一郎さんは犯人じゃないという方向で……」
 春日はぺたりと座り込んだ。
「い、いやまあ……気持ちは分かりますよ。幸次郎さんが亡くなって一番メリットがあるのは幸一郎さんですし、自分から探しに行くって言い出して、遺体を本当に発見してしまうってのも、いかにも怪しいです。でも、無理なものは無理じゃないですか。ここは犯人が別にいるとみて一から考え直しましょ!」
「……勝手にすれば」
「ちょ、いじけないで下さいよ! ほら、気を取り直して、雪が止む午前六時までに犯行が可能な人物を割り出しましょ! ああ、それが良い! ね! ちょっと先輩! そんなとこで雪だるま造ってないで!」
「…………」
「と言っても、アリバイが完璧なのは幸一郎さんと執事さんだけなんですよね……。他の使用人の皆さんは寝ていたと答える人ばかりだし。まあ朝にはまた仕事ですから起きてる方がおかしいですけど。その朝なら、忙しく動き回りながらも、皆さんそれぞれがお互いを確認し合っていてアリバイがあるんですけどねぇ……。そういえば、午前八時頃、邸の外で雪掻きの仕事をしていた使用人の何人かが、工事現場で聞くようなガガガガガッという音を聞いてますけど、これは何だったのかな?」
 春日が作業の手を止めた。
「それ初耳」
「あ、そうですか? 使用人さんの何人かが同じことを言っていたんですが、ガガガガッという機械音がしばらく続いていたと言うんです。反響して、どこから聞こえてくるのかは分からなかったそうですが。まあどこか遠くで道路工事でもしているのだろうと思ったそうです」
「…………道路工事? こんな、雪がしこたま積もった日に、そんな朝早くから?」
「あ……」
「…………」
 春日は立ち上がって振り返ると雪面のあちこちに眼を落しながら歩きだした。そうして歩いていると、スノーモービルの通った跡を見付けた。
「……これが、幸一郎さんの付けた跡か……それで、この丘を通り掛ったとき、幸次郎さんの遺体を見付けた、と……」
 春日はスノーモービルの通った跡に沿って歩き出した。しばし歩くと雪を踏む靴底の感触が変わった。そこはアイスバーンになっていて、踏んでも全く足跡が付かなかった。春日は膝を付くと氷を爪で引っ掻き、少し口に含んでみた。すぐにぺっと吐きだす。
「しょっぱい」
 足で踏んで確かめてみると、直径三メートルくらいはアイスバーンになっていた。振り向いて遺体があった目印を見上げるとここから十メートルくらい離れている。
「どうしました? 何かあったんですか? うわあ、ちょっと冷えてきましたね……」
 春日の後ろで秋山が肩をぶるりとさせ、その場で足踏みを始めた。
「うん……ちょっと待って……」
 春日はまたスノーモービルの跡に沿って歩き出した。どうやらその跡は大きく弧を描きながら丘を上がっているようだった。そしてまた、靴底に伝わる感触が変わった。先程と同じように雪面がアイスバーンになっている。大きさも同じくらい。そこから丘を見下ろすと、遺体のあった目印があり、その向こうでは秋山が先程と同じところでまだ足踏みしていた。
「…………秋山君! 足下にあるスノーモービルの跡に沿って、ここまで歩いて来て!」
 春日の声は風に乗ってよく届くようだ。秋山はすぐに手を上げて歩きだした。どうやら返事をしたらしかったが、その声は春日には聞えなかった。秋山がゆっくりと丘を上って来る。その軌道はやはり弧を描いており、陸上競技場のトラックを時計回りに回ってくるようだった。
「はい、ありがとう」
「どうかしたんですか?」
「うん……ちょっとね……」
 春日は雪面に視線を落とした、スノーモービルの跡はその先もずっと伸びており、それに沿えば当然、邸に辿り着くであろう。今度は視線を丘の麓の、更にその先に向けると、そこには果てし無く森が拡がっていた。
「……秋山君。邸に戻ろう。最後に確かめたいことがある」
 春日の眼に光が戻っていた。

 春日は邸に戻ると泉崎の部屋を訪ね、敷地内の見取り図を用意させた。それには邸を中心として、その周りに広大な敷地が描かれており、問題の丘は邸から西に約一キロ離れたところにあった。
「丘には、こう、北から南に向かって風が吹いている」
 春日は見取り図を指でなぞった。
「泉崎さん、丘の南に広がっている森と山ですけど、どこまでがお邸の敷地ですか?」
「ええと……南に後一キロくらいはここの敷地です」
「そんなに広いんですか……。ではお聞きしますが、この丘まで一般の人が立ち入ることはありますか?」
「はい? いや、それはないですよ、立入禁止の私有地ですから。まあ、夏に子供が勝手に入って来ることはあるでしょうが、この時期は無いですよ。迷ったら死にますから」
「そうですよね。ではこの邸の方々があの丘へ足を運ぶことは?」
「……? それも無いですよ。簡単に行ける距離じゃありませんし……スノーモービルを使えば行けるでしょうが、あれは幸一郎様しか持っていませんので」
「幸一郎さんだけ?」
「ええ、私達が麓に買い物に行くときは車を使います。ちゃんとした道路を使って」
「どうも、よくわかりました。……では今からちょっと、幸一郎さんのところへ行きたいと思います」
「はあ……どうぞ……」
 泉崎は頭上に?を浮かべながら春日と秋山のために部屋のドアを開けてやった。

※春日はこの事件の犯人を幸一郎だと考えているようである。もしそうだとすると幸一郎はどのようなトリックを実行したのだろうか?

 幸一郎の部屋に行くと、中には幸一郎と執事がいた。春日と秋山の後ろには、訳も分からず、なんとなく付いて来てしまった泉崎もいた。
「失礼します。……幸一郎さん、お話があります」
「何だ急に、ゾロゾロと」
 幸一郎がジロリと睨んだ。春日はその視線を真っ向から受け止めた。
「幸次郎さんを殺し、その遺体をあの丘へ置いた犯人の話です……。その犯人は幸一郎さん、あなたですね?」
 春日の突然の発言に誰もが驚きの表情を見せた。
「ちょ、ちょっと先輩! 幸一郎さんにはアリバイがあるでしょう! さっき無理だって話になったじゃないですか!」
「な、なんだ貴様! 何で俺が犯人なんだ! そいつらの中の誰かが犯人に決まっている!」
 幸一郎が泉崎を指差した。
「そ、そんな……!」
 当の泉崎はあわあわとかぶりを振った。
「違います。使用人の人達ではありません。幸一郎さん、あなたにならこの犯行が可能なのです。これからそれをお話します……。幸次郎さんが殺害された時刻は梅津医師が検死した通り、二時から五時の間で間違い無いと思います。そして幸一郎さん、あなたは執事さんとチェスをしていたとき、途中一度トイレに立ったそうですね?」
「先輩、たった十分だけじゃ何も―」
「いや、その十分間に幸一郎さんが行ったことは、幸次郎さんの部屋に忍び込み、眠っている幸次郎さんを殺害したということと、その遺体を一旦人眼に付かないところへ移動させたこと、この二点だけだよ」
「へ……?」
「その後、急いでチェスをしていた部屋へ戻り、続きをプレイする。朝になるとメイドさんが幸次郎さんの不在に気付く。その頃には天気予報通り雪は止んでいた……。そして、幸一郎さんは幸次郎さんを探しに行くと称し邸を出るのです。隠しておいた幸次郎さんの遺体をスノーモービルの後ろに乗せ、一直線に丘を目指します。あの丘で問題となるのは、如何にして足跡を残さず、あの場所へ遺体を置くか、ということ。遺体の周りに足跡が無ければ、犯人の足跡は降る雪が消したと思わせることができ、遺体がそこに置かれたのは当然、雪が止む以前である、と考えられ、朝七時までチェスをしていた幸一郎さんは容疑者から外れることができる。そこで幸一郎さんはあの丘で足跡を付けない方法として、ロープウェイを使ったんだ」
「ロ、ロープウェイ……!?」
「そのロープの途中にぶら下がり、そこから遺体を雪面に降ろせば、遺体の周りに足跡を残さすに済むってわけさ」
「ち、ちょっと先輩、あの何も無い丘のどこにロープを渡せると言うんです! ロープを掛けられるような木も建物も付近には何も無かったじゃないですか!」
「無いのなら造れば良いんだよ。水と雪を使ってね」
『…………!?』
「幸一郎さんはあの丘に、大人二人分の体重を支えられる程の、太い氷の柱を二本建てたんだよ。その二本の柱の間に丈夫なロープかワイヤーを渡せば、ロープウェイの完成だ。あの丘は私有地で部外者が訪れる心配が無く、かつ邸の関係者でも立ち寄る機会の少ない場所。ロープウェイを目撃される恐れは無い。幸一郎さんは何日も前から下準備をし、天気予報に齧り付きつつ、機会を窺ってたんだと思う。……そして今日、決行した」
「…………」
「遺体を運び丘へ到着したら、まずは高い位置にある柱へ行き、遺体を抱え、滑車でも使ってロープを伝い、適当なところで遺体を雪の上へそっと降ろす。そして遺体の上にカムフラージュのための雪を少し掛けておきます。全く雪が積もっていないのは不自然ですからね。かといって雪を掛け過ぎても駄目です、雪が遺体を覆い隠してしまっては、偶然そこを通り掛かり発見した、という言い分が通らなくなってしまいますから。……その後は自分だけ低い位置にある柱までロープを伝って行けば良い。これで雪面に足跡は残りません」
「い、いやでも……足跡の問題はそれで良くてもロープウェイが丸々残ってるじゃないですか。それに、大人二人がぶら下がれる程丈夫なロープなら、当然太くて重いだろうし、ロープを片付けるときに雪の上に落ちて、何らかの跡を残しますよ」
「うん、ロープを雪面に落とさないよう工夫が必要となる。そこで、パラグライダーと風の力を利用することにする」
「パ、パラグライダー……!」
「そう、低い位置にある柱までロープを伝って移動したら、そのロープにパラグライダーを結び付ける。そして柱を破壊すれば、キャノピーが風を受けその力でパラグライダーは浮き上がるわけです。氷の柱を破壊する際はバッテリー式の電動ハンマーを使う。工事現場で使う削岩機を小型にした物だと考えて下さい。使用人さんの何人かが聞いたガガガッ、という音はこの音でしょう。その後は遺体に近付き過ぎないよう一定の距離を保ちつつ高い位置にある柱へ移動し、同じようにその柱も破壊する。すると固定されていたロープは風に吹かれて飛んで行き、ロープの跡を雪面に残さずに済むってわけです……。後、忘れてはいけないのが柱を破壊した際に大量に出る氷の残がい。これを更に細かく砕いたり、どこかに運んでいたのでは幾ら時間があっても足りない。そこでこれらには融雪剤、塩化カルシウムを掛け、まとめて始末する」
 秋山はウンウンと頷いた後、隣にいた泉崎にヒソヒソと訊ねた。
「融雪剤って何ですか?」
「簡単に言ったら塩ですね。この地方では路面の凍結を防ぐのに使います。私達も雪掻きなんかで使うんで、倉庫にいっぱいあります」
「ああ、だからさっき先輩、しょっぱいとか何とか……」
「あの丘でアイスパーンになっている場所を二か所見付けました。あそこで氷が溶け、再び凍り付いたと考えて間違い無いでしょう。そして、柱を破壊して氷を溶かす際、電動ハンマーや融雪剤等の荷物を取りに行ったりして、高い位置の柱と、低い位置の柱の間を何往復したかは知りませんが、とにかく付いた足跡は最後にスノーモービルで一気に踏み消して邸に戻ります。そうすればウロウロと歩き回る不自然な足跡も残りません。……それと以前に届いたという脅迫状の件ですが、これは自分達兄弟が何者かに狙われている、と注意を逸らすために幸一郎さんが打った芝居でしょう。全て自作自演だったと考えるのが一番しっくりきます。どう考えても幸次郎さんが亡くなって一番利益が有るのは幸一郎さんです。仮に別の犯人がいて、兄弟が両方殺されたとして、一体誰が得をするんです? 本当に怨んでいるのなら、脅迫状など出さず黙って殺しますよ」
 春日は息を付いて手を広げた。
「……これが、事件の一部始終です」
 誰もが言葉を失っていた。
「……僕と秋山君が吹雪の中遭難して、この邸に辿り着いたとき、幸一郎さんがイライラしているように見えたのは、僕達が氷の柱を見てやしないかと、もうヒヤヒヤしていたからですよ…………氷だけに」
 室内の温度がぐっと下がった。
「風で飛ばしたパラグライダーですが、発信器でも取り付けられていて、後で回収するつもりだったのではないでしょうか。どこまでも飛んで行って、海にでも落ちてくれればそれはそれで都合が良い」
「…………」
「とにかく、あの風向きのどこかに、パラグライダーはきっとあります……!」
 幸一郎は椅子の上でガクガクと震えていた。
「……お、おかしいんだ……何もかもがおかしかったんだ……なぜ俺が家を継げない……? ならばなぜ俺に幸一郎と名付けたんだ……! なぜ『次』の字が付くあいつが家を継ぐ……! 俺が兄なんだ……なぜいつもあいつばかり可愛がられる……? 俺を見ろよ親父……」
 幸一郎はぶつぶつと呟き続けた。

 その後、ようやく到着した警官達によって大規模な捜索が行われた。春日が予想した通り丘の南に広がる森からパラグライダーが発見され、幸一郎はその場で連行された。現場を荒らした春日と秋山も連行された。
 
 
 
   第九話 青天の霹靂殺人事件

 とある日の春日書店での出来事である。
 エプロン姿の春日が制服姿の女子高生に迫られていた。
「いっ、いけないよ……そんなの……」
 春日があわを喰って後じさりする。
「そう堅いこと言わないで? ねえ、お願い」
 娘がその分距離を詰める。
「いや、ちょ、まっ……うう……こ、困るよ……」
「……何がどう困るの?」
 背の高い春日を上目遣いで見る。春日の心臓がドキリと高鳴った。それほどの、とびきりの美人だった。小さな顔に大きな瞳。頬は健康的に朱を帯び、形の良い唇から流れ出る朗朗たる声は少女のそれであるが、大きく膨らんだ胸とくびれた腰が最早その娘が子供ではないことを示していた。そしてその身体を地元でも有名なお嬢様学校の、白百合をモチーフに創られた制服が包んでいる。
「だ、だ、だからっ、僕の口からそういうのは―」
 春日がまたさがり壁に背を着いた。もう後が無い。とそこへ、
「あれっ!? 夏目ちゃんじゃないの」
 ちょうど秋山が現れた。店の戸口から二人を見ている。
 夏目と呼ばれた娘がくるりと振り返ると、肩まで伸びた艶やかな黒髪が揺れた。娘は唇の端を吊り上げると、猫のように優々と秋山に近付いた。
「アッキー! 良いところへ来たわ! 前に雪山の邸で起きた事件のこと、詳しく教えて頂戴。スガッチが勿体つけちゃってさあ。もうアッキーでいいわ」
「い、いいわ、って……な、夏目ちゃん学校は?」
 秋山が苦笑を浮かべた。
 夏目は酔狂にも学校で新聞部として活動していた。正確に言うと、部員数が一人なので正式な部活とは認められておらず、自称だったりする。
 そんなことで、学校内ではかなりの変わり者として見られているが本人は全くの何処吹く風。今日も元気に好奇心旺盛過ぎ。
「今日は午前中だけだったのよね。さあアッキー、いちから、詳しく」
 相当年上の二人を自分がつけたアダ名で呼びつける夏目であった。
 しばらく前、参考書を求めて春日書店を訪れた夏目が、耳ざとく秋山が春日にしていた事件の話を聞き咎めたのがきっかけであった。以来、なついて月に数度は春日書店に現れるようになっていた。
「い、いや、でもね夏目ちゃん。事件のことを民間人に教えるのは……さ」
「知ってる。守秘義務ってやつでしょ。でもそれって未解決の事件に関しては、なわけじゃない。犯人が逮捕されて捜査が終了した事件についてはマスコミに情報を公開するのがスジってもんでしょ!」
「い、いやあ……そうだけれど……ほら、あの事件はこの街で起きた事件じゃないし……」
「いいのよ! 地域密着型ってのも悪くはないけど、あたしはもっと視野を広く、いつもグローバルでいたいのよ!」
「スケール、でか過ぎじゃね?」
「興味を持ったら脇目も振らず一目散。それがあたしのジャーナリズムよ!」
「足を止めて、周りを見るのも大事じゃね?」
「ジャイアニズムの間違いじゃね?」
 男達が口々に異議を唱えた。
「ほほう、そーゆーこと言うわけ。事件のこと、スガッチには話せてあたしには話せないと。あーそーですか」
「あ、あう……」
「はあー……」
 春日は眉間を強く摘んだ。
 そう、夏目は春日がごく普通の民間人でありながら刑事である秋山に捜査協力を行い、幾つもの事件を解決しているのを知っている。警察への協力は国民の義務とはいえ、春日と秋山の行為は明らかに一線を越えたものであり、二人は弱みを握られているといえる。また、夏目を無下に扱うことが出来ないもう一つの理由は、彼女が面白半分でやっているのではなく、いつでもすこぶる真剣であるからだ。
 最近では、この若く美しい女記者に愛着さえ憶え、余計なことに首を突っ込んで危ない目に遭いはしないかと気が気でないおっさん二人であった。
 夏目がこれまで記事として取り上げたものは都市伝説や未確認生命体のゴシップめいたものがほとんどであり、これからもそうなら一向に構わない……わけではないが、取材対象や行動が過激にエスカレートしてゆくと問題である。また、どこがグローバルなのか、良家の令嬢が集う学校の掲示板に夏目が書いた記事が張り出されていたとして、いったい誰が好んで読むのか、等の疑問は残る。
「ところでアッキー、今日は何しに来たの?」
「え? い……いや、ちょっとね。なんて言うか、今、看過すべからざる懸案事項を抱えていてね。それで、まあ、先輩にひとつ助言を貰おうかと……」
「ふーん……じゃあ今こっそりと後ろに隠した何か書いてあった紙が……」
 ろっくおん。
「事件に関わる何か重要な極秘文書なわけね?」
 あぶない逃げて。
「ちょっと見せて!」
 夏目がしなやかな動きで腕を伸ばした。
「ええっ! ちょ、だ、駄目! 駄目だよ!」
 秋山は体を捻って極秘文書を高々と掲げ、さらに爪先立ちになってそれを避けるが、夏目はものっすごいイイ笑顔で更に追撃する。
 そしてもみ合っている内に、やわらかいものが秋山の肘に当たった。秋山の全神経がそこへ集中した一瞬の隙に、夏目は秋山の肩に手を掛け、高くジャンプするとついに極秘文書をもぎ取った。
「えーと、なになに……」
「おわっ、駄目! 読まないで! やーめーろーよー!」
 夏目は奪い返そうと秋山が伸ばす腕を軽快なフットワークでかいくぐる。
「えー……『愛しき静香ちゃん江……もし君が太陽なら、ボクはそう……メラニンだ……もし君が竜巻なら、ボクは飛ばされる牛だ……もし君がニーソックスなら、ボクはソックタッチだ……もし君が……』ってバッカじゃないの!」
 ビシリッと床に叩きつける。
「ああっ! ボクの極秘文書がっ!」
「何がっ! ただの駄文だわっ!」
「夏目君っ! いい加減にしたまえ! これ以上人の純情を踏みにじる行為はこの僕が許さないよ!」
 春日は夏目に詰め寄り肩を掴むと強い口調で咎めた。
「あ……あの……ちょっとすみません……踏みにじってるのは先輩です。足。どけて貰えますか」
「おっと、失礼」
 春日は踏んづけていた極秘文書から足をどけた。
「わざとだ……絶対わざとだ……」
 秋山はぶつぶつ言いながら極秘文書を拾い上げるとベッタリ付いた足形を掃い、のしのし、とシワを伸ばし、きれいに折り畳んで上着のポケットに仕舞った。
「ふっ。しかし、何を言われようと、何をされようと挫けませんよボクは。いつかこの想いが飛んで行って、彼女の胸に届くまで、ボクの挑戦は続くのです!」
「おー。よく飛ぶ、よく飛ぶ」
「あー本当だー」
 秋山の極秘文書が紙ヒコーキへと姿を変え、華麗に宙を舞う。
「ああっ! ボクの極秘文書で紙ヒコーキ折らないでっ! そして飛ばさないでっ! てか、いつの間にスリ取ったんですかっ!」
 秋山がバタバタと追いかける。極秘文書はしばし優雅に飛行を続けた後、本棚の一つに当たって墜落した。
「ああっ! 撃沈! えっ? 想いを伝えてさえいないのに?」
 絶望感が胸を締め付けた。秋山はヨロヨロと紙ヒコーキをすくい上げると太ももの上に乗せ、またのしのしと折り目を伸ばし、上着の内ポケットに仕舞った。
「……ふっふっふ。そ、そうやってボクの気持を試してるんでしょうが、言ったでしょう? 挫けませんってば。この頑ななまでの、燃え上がるような……そう! このパッションは止められないのですよ!」
「おー。よく燃える、よく燃える」
「あー本当だー」
 ライターによって着火された極秘文書が勢いよく燃え上がる。
「ああっ! 燃やさないでっ! だからいつの間にスリ取ってんですか! 消して! 灰にっ! ボクのパッションが灰になるっ!」
「いやほら。ちゃんとお焚き上げしないと」
「夏目ちゃん! 人のパッション、心霊写真みたく言わないでっ!」
 ほどなく、秋山のパッションは黒コゲになった。秋山が茫然と床に膝を付き、春日と夏目がそれを指差してケタケタ笑っている。そんな微笑ましい光景がそこにあった。
 そうしていると、ふいに秋山の携帯が着信した。
「はい……秋山です……ああはい、お疲れ様です……はい……はい……いえ、泣いてませんよ? ……はい……でもボク、今日休みで……え? もう一度言って貰えますか? ……マジですか……はい……分りましたすぐ行きます」
 秋山は電話を切ると振り返った。
「先輩、隣町の空き地で黒コゲの変死体が見付かったそうです……」

 現場は住宅街にある建設予定地で、特に仕切りがあるわけでもなく、誰でも立ち入れる場所であった。しかし、積み上げられた建築資材で見通しは悪く、遺体は通りから死角になる位置に倒れていた。
「近々着工の予定だったらしいです。数名の作業員が工事プランを練りに訪れたところで遺体を発見し、通報しています。検案によるとですね、髪の縮れ具合や皮膚の状態からして、火災等による死亡ではなくて、まるでカミナリにでも打たれたようだと……」
「ねえ、検案って何?」
 夏目が春日書店号―ただの白い軽貨物―の後部座席から訊ねた。それに運転席の春日が答える。
「警察医と呼ばれるお医者さんによる検視(検死)だよ。死亡の原因やその時刻を推定したり、遺体を解剖して更に詳しく調べる必要が有るか無いかを判断してくれるんだ」
「ふうん」
「しかし、カミナリに打たれたって……ここ数日、曇ってさえいませんよね」
 秋山が助手席から仰ぎ見た蒼穹には雲一つ無い。
「遺体、かなり酷い状態でしたよ。男性だってのは判るんですけど……皮膚が焼け爛れて、髪なんて本当にチリチリパーマで……そ、それで身体が胎児のように丸まってて……思い出したらブルーになってきた……で、でもですね、遺体が横たわっていた地面やその周りには焼けた跡は全く無いんですよ。後、燃え残ったズボンのポケットからある金融会社のロゴが入ったキーホルダーが出てきたんで、調べたところ代表の方に連絡がとれまして、ご足労を願った次第です。今はその代表の方の到着待ちですね……」
「ふむ……なるほど……」
「……な、夏目ちゃん? なんか難しい顔してるけど、まさか人体発火とか、超常現象みたいなのを想像してないよね?」
 秋山が後で押し黙っていた夏目に声を掛けた。
「何言ってんの。遺体の周りに焼けた跡が無いなら、当然どこか別の場所で殺害された後、ここへ運ばれたってことでしょ」
「そ、そうだね……はは……こんな時でも結構冷静だよね、夏目ちゃん……」
「うーん……遺体を見たわけじゃないから、実感が湧いてないだけかも……それより、あたし別に何でもオカルトに結び付けるマニアってわけじゃないからね? 嫌いじゃないってだけで。あたしは不思議だと思えることに出会えたとき、その謎の答えを知りたいだけ。超常現象なんて言うと皆鼻で笑っちゃうけど、現象って言うからには必ず原因があって、結果があるわけじゃない。因果律ってやつね。……うーん……ほら、天動説ってあるでしょ。宇宙の中心は地球で、その周りを太陽や月や小さな星がグルグル回ってるっていうやつ。大昔に、千年以上もの間それが世界の常識で、当時の人々からすれば地球なんてでっかい物体が動くなんてことは有り得ないわけよ。そんなの超常現象なのね。地動説なんて唱えると笑われたり、迫害を受けた人だっていたらしいわよ。でも今は地動説が正しいって皆が知ってる。太陽系は太陽を中心に全ての惑星が公転して、自転してるって知ってる。常識が覆ったわけ。これって、現在の世界の常識が真実の全てでは無いっていう教訓だと思うのね。今の科学レベルでは認識出来ないだけで、未知の物質やエネルギーがこの世にはまだまだあって、そこに超常現象の謎の答えが隠されているかもしれないわけよね? 未確認生命体だってそう、今は未確認なだけで、探せば何処かにちゃんと存在しているかもしれないじゃない! もし本当に宇宙人やUMAがいるなら、あたしはそれを見てみたい。触ってみたい。だから―」
 夏目はどんどんとヒートアップしていく。しかし突然声がピタリと止んだ。妙な間が空く。
「……やめた。別にあなた達にしたって仕様が無いわよねこんな話。解って貰えるとも思ってないし。忘れて」
 夏目はムスッとしてシートに深く背を預けると、頬に掛った髪を指で払った。
「こ、こちらこそどうも……なんかすみません……」
 秋山はなんとなく謝っておいた。春日はその横で苦笑を浮かべていた。

「あっ、来たみたいですね」
 秋山がシートから身を乗り出した。現場の前に立つ警官に中年男が話掛けている。小太りで凡とした顔付だが、着ているものは高級そうな背広である。
 秋山が携帯を取り出し、短縮機能を使うと、春日の携帯が着信した。春日は音声をスピーカーモードにすると、フロントに取り付けた携帯ホルダーに挿した。秋山は通話状態のまま携帯を上着の胸ポケットに仕舞い、春日書店号を降りた。
 最初はゴソゴソと音がしていたが、しばらくするとスピーカーから秋山の声が流れ出た。
『こんにちは、わざわざどうもすみません……見たらすごく驚かれるとは思うんですが……確認して頂きたいことがありまして……こちらです……』
 またしばらくゴソゴソという音が続いた。
『この方が何方かお心当たりはありませんか?』
『あ、阿部君……! なぜこんな……ど、どうしてこんなことに……!』
『阿部さんと仰るんですかこの方は……では、お知り合いなんですね?』
 別の刑事の声が聞こえた。
『は、はい……阿部君は私の秘書です……』
『そうですか……もう少し詳しくお聞きしたいのですが、署の方でお話を伺っても宜しいですか?』
『え、ええ。構いませんよ』
『助かります……ではこちらに……秋山、遺体運びだして』
『わかりました。…………先輩、聞いてますか? 何か解ったらまた連絡します』
「了解。じゃ僕等帰るね。お仕事頑張って」
 と言って電話を切った。
「えっ? 帰っちゃうの?」
 シートとシートの間をまたぐように助手席へ移動していた夏目が意外そうに訊いた。
「死亡推定時刻を絞り込むにも時間が掛かるだろうしね。現時点で刑事でもない僕等に出来ることなんて一つも無いよ。さあ帰ろう、家まで送るよ」
 春日はイグニッションを回した。

「夏目ちゃん。わかってるね? お父さんとお母さんにはナイショだからね? おじさん達とここで何してたか、お父さんとお母さんには言っちゃ駄目だよ?」
「アッキー。その言い方あやしく聞こえるから。ほら、そんなことより、先、先」
 パイプ椅子に腰を下ろした制服姿の夏目が掌をパタパタさせて話を促した。
 遺体が発見されてから数日後の夕方、春日書店の事務所兼倉庫にくだんの三名が顔を揃えていた。
 秋山が息を洩らし、手帳を繰る。最初から全ての抵抗がムダだと悟っている春日はただ静かに机の角を見詰めていた。
「えー……ある金融会社で社長秘書を務めていた阿部さんが遺体で発見されたのが十八日の正午のことです。死因は感電死。ボク等は他殺と判断しました。死亡推定時刻は十八日の午前六時から午前八時の間ですね……阿部さんが一人で住むマンションは遺体発見現場からそう離れてない場所にありました。室内を調べましたが、人が押し入った形跡や争った跡はありません。ドアはきちんと施錠されており、会社で使用する書類の入った鞄はありましたが、財布や携帯電話等が無いことから、阿部さんは十七日の勤務を終えた後、一度帰宅してからまた外出し、その後どこかで殺害され、犯人によって建設予定地まで運ばれたものと考えられます。遺体は胎児のように体を丸めていますが、これは筋肉の収縮によるものではなく、遺体を袋や鞄に入れて運ぶため、手足を折り畳んだものと思われます。阿部さんは身長百六十センチ、体重は五十五キロと小柄ではありますが、遺体を運ぶにはかなりの腕力が必要と思われ、犯人は男性の可能性が高いと考えられます。遺体の服装ですが、シャツにズボンに靴下。この時期なら上に何か羽織っていた可能性がありますが、現場からは見付かっておらず、所持していたものはキーホルダーの付いた自宅の鍵だけで、靴や携帯、財布等は見付かっていません」
「……死因と遺体の状態からして追い剥ぎに遭ったなんてことはないわよね……。何処かの家に靴を脱いで上がり、携帯やサイフの入った上着もそこで脱いだってことかもしれないわ……そしてそこで殺害され、犯人は遺体を工事現場へ運んだ……」
 夏目が腕を組んだ。
「うん、その可能性が高いだろうね……」
「秋山君、阿部さんの身元を確認した社長さんだけど、あの人、何か言ってなかった?」
「えー、社長さん、名前は金田さんと言います。阿部さんは運転手も兼任していて、十七日の夜にいつも通り金田社長の自宅まで阿部さんが車を運転して、車をガレージに停め、そのまま阿部さんは自宅へ徒歩で帰宅したそうです。見たのはそれが最後だと」
「ふむ、徒歩で帰宅したってことは」
「はい。阿部さんのマンションは金田社長宅から歩いて数分の距離です」
「そう……」
「十八日の朝、阿部さんがいつもの時間に現れないので変に思っていた、との事です。それで、ですね……実は、金田社長には阿部さんを殺害する動機と言えそうなものがあるにはあります」
『え、あるの!?』
「はい。金田社長が経営する金融会社は社員十数名と小規模ながらかなりの利益を上げています。その一方で、金田社長は巨額の脱税を行っていた嫌疑が掛ってまして、現在調査が入っています。査察官の調べによると、金田さんがメチャクチャ貯め込んでいるのはどうやら事実みたいですね。問題はそのお金が脱税で得られたものなのかどうかなんですけど。また、そのお金を家のどこかにある金庫に隠してあるらしい、という極秘情報まであります」
「そんな情報どっからでたの?」
「国税局だよ。向こうもこれを機に一気にたたみかけたいみたい。だからボク達との共同戦線が張られて、情報を貰ったわけ。そして、裏帳簿を管理していたのは阿部さんだとみられていて、阿部さんは口封じに殺害された、との見方もできるんだ」
「うわ、金田社長メッチャ怪しいじゃん」
「金田社長は現在家族と別居中。通いの家政婦さんを数名雇っています。十八日の行動を確認したんですが、停電が起きたため、未明の内に家政婦さん達全員へ、今日は仕事にならないから来なくていいとメールで連絡したらしいです」
「停電?」
「はい、深夜から行われた電気工事の事故により、金田社長宅を含むごく一部の地域で、午前四時から午前十時までの間停電が起きています」
「ねえ、その事故って阿部さんの感電死と何か関係あるんじゃないの?」
 夏目の指先でボールペンがくるりと踊った。
「いや、それはないと見ているよ。停電の原因は金田社長達とは全く関係の無い、公共事業の工事中の事故だから。路面の状態が悪くて高所作業車が傾いたため、送電線を断裂させてしまったらしいよ。因みに、事故による怪我人は無く、付近に住む住民に大きな混乱も無かったもようです」
「それはなにより」
「そこで単純に、動機がある金田社長が犯人で、午前六時から午前八時の間に阿部さんを何処かに誘い出して殺害し、正午までに建設予定地まで遺体を運んだ、と仮定すると大きな問題が生じます」
「問題?」
「まず、午前九時。二人の測量士が問題の建設予定地を訪れ、測量を行っています。その時に遺体など絶対に無かったと二人は証言しています。そして、遺体が建設作業員に発見されたのが正午。遺体を遺棄出来るのは九時過ぎから正午の約三時間足らずですが、金田社長は午前八時から午後一時までの五時間、自宅で顧問弁護士と会談してます」
「顧問弁護士……」
「その弁護士さんからも証言が取れました。会話の内容は守秘義務が在るため明かせないが、午前八時から午後一時までずっと社長宅で一緒だったことは保証するそうです。えー、なんでも十八日の午前六時頃、金田社長宅から掛ってきた電話で起こされて、八時に家に来てくれ、と頼まれ、FAXで地図も送られて来たそうです。いつもは会社の社長室で会談を行っていたらしいんですが」
「…………」
「そして、弁護士さんが約束通り午前八時に社長宅を訪問。午前十時まではやはり停電で家電は一切使えなかったようです。そして午後一時に警察からの連絡を受けて、金田社長が遺体発見現場に訪れたのが午後二時……」
「なるほど。時間的に金田社長が遺体を遺棄するのは絶対不可能なわけだ……」
「はい。当然、現場付近での金田社長の目撃情報は皆無です。そんなこんなで、弁護士さんも目を光らせているものですから、金田社長の自宅を詳しく捜査も行えない状況でして……」
 しかも残念な事に、遺体発見現場である建設予定地は、その昔駐車場であった名残か、砂利がジャリジャリ敷いてあったため、犯人の足形を採取するには至らなかったそうだ。
「ふうむ、でも話を聞くために、金田社長宅に行くくらいはしたんでしょ?」
「それは、まあ、はい。家政婦さんが三人も働いてて、びっくりしました。それで、最近変わったことが無かったかその家政婦さん達に訊いてみたんですけど、変わったことというより、困っていたことはあったらしくて」
「困っていたこと?」
「はい。社長宅専用のゴミ集積所が邸宅の裏手にあるらしいんですけど、毎朝のようにあるホームがレスの方が、ゴミを漁りに来ていたようで。それを聞いた金田社長が大層ご立腹だったそうです。あっでも十八日以降は漁られた形跡が無いようですが……」
「ふーん……」
「ええと他には……庭に出るときに使う、つっかけが一足無くなっているとか」
「つっかけ……ねえ……他には?」
「後は特に……。家政婦さんに書斎まで案内されまして、弁護士さんを尻目に、社長に捜査の進捗状況だけ報告して、おいとましました」
「なによそれ、とんだチキン野郎だわ」
「こ、これでも頑張ったんだよぉ。帰りにちゃんと阿部さんが運転していたという車を見に、庭の奥に位置するガレージを覗きに行ったんだから。このガレージがまた広くて! 五台くらい停められるかな? 普通にここに住めるぞ、みたいな。でも停めてあるのは車一台だけで、しかも何かやたら端っこ、壁ギリギリのところにポツンとベンツが停められてんですよ、何ですかねアレ」
「へえ?」
「後ガレージには、色々な工具の他にガソリンタンクが幾つかありましたね。タンクにハイオクとかレギュラーとか書かれてました」
 それを聞いて春日が深く頷いた。
「……なるほどね、これで謎が解けたよ。ちょっと君達、僕の推理を聞いてくれるかい? 今回の事件……犯人は金田社長だよ」
 春日があまりにもさらりと吐いたため、夏目は口を開けてしばらくポカンとしていた。

※金田はどのような手口で安部を殺害したのだろうか? そしてその遺体をどのような方法で移動させたのだろうか?

「……は? な、なによ犯人は社長って……推理を聞けって……今の話を聞いてただけで何が解ったっていうのよ……。ほ……本当なの?」
 夏目は思わず秋山に訊ねた。
「多分ね。でも先輩、いつも大体こんな感じだよ」
「……………………」
 夏目は春日が推理を語るところを見るのはこれが初めてだった。
「……フ、フン。でも問題はその推理が当たっているかどうかよね。……それじゃあ聞かせて貰いましょうか」
 夏目の眼が好奇心でギラリと光った。
「うん……。僕は安部さんを殺害した犯人は……金田社長だと思う。動機はやはり脱税に関することだろう。査察官が動き出してる時点でもう金田社長はほぼクロと考えていいと思う。そして、脱税がばれれば金田社長の会社は信用を失い壊滅的なダメージを受ける。そこで、脱税の証拠に深く関わっている安部さんの口を封じようと考えたんだろう。まず、十八日の未明、そのとき偶然起きていたか、寝ていたけどトイレに起きたときにでも停電していることを知った社長は、電力会社に連絡を入れて状況を確認し、電気の復旧に時間が掛ると踏み、停電を口実に阿部さんを呼び出すと同時に殺害する方法を思い付いたんだ……。そして全ての準備を整えた金田社長は早朝に阿部さんを呼び出し、感電死させた」
「一体どうやって感電死なんか」
 秋山が訊いた。
「自家発電機を使ったんだよ」
「自家発電機!?」
 今度は夏目が声を上げた。
「うん。午前四時から午前十時まで停電だったにも関わらず、金田社長は午前六時に顧問弁護士へFAXを送っている。一般回線を使用する電話は電話線から僅かながら電力を得ているため、停電時でも通話は可能なんだけど、コンセントから電力を得ているFAX機能は話が別。停電時は使用出来ない。また、ガレージには車がベンツ一台しかないのに、ハイオクとレギュラーのガソリンタンクがあったのはなぜか? 例えば、車の燃料にハイオクを使用していた場合、レギュラーを混ぜることは無いし、日によって使い分けることもまず無い。なのにガソリンタンクが別々にあったということは、レギュラーガソリンを燃料に動くなんらかの機械があったという証拠だよ」
「な、なるほど」
「金田社長は自家発電機を使用して弁護士に連絡を行った後、停電なので自家発電機を動かしているんだがどうも調子が悪いから調べてくれ、とでも言って阿部さんを呼び出したんだろう。社長宅に訪れた阿部さんはそのときに靴と携帯や財布の入った上着を脱いだんだと思う。そして阿部さんはつっかけを履いてガレージまで行き自家発電機の具合を診ることにした。となると、一旦発電機のスイッチを切るにしたって、一度は必ず発電機に触れなければならないってことだ。それこそが罠だったんだよ。発電機内部の配線を剥き出しにしておき、阿部さんが発電機に触れているときを狙って上から大量の水を被せる。すると閉回路が形成され漏電が起き、安部さんは感電する。わずか数ミリアンペアのスタンガンでさえ皮膚には火傷の跡が残り、電圧との兼ね合いによるけど、一般的に家庭で使用される数十アンペア程度の電流でも人体にとっては超危険なんだ。通常なら発電機は直ちに安全装置が作動して電力をストップさせるんだけど、よほど強力な発電機だったんだろうね。電気にとっては一瞬でも十分だったんだ。阿部さんはあの通り感電死してしまった……。そのときのショックで発電機が故障してしまったため、それ以降午前十時までは家電が使用出来なかったんだよ」
「な、なるほどね。……でも、ここからが問題よね。どうやって遺体をあそこまで移動させたわけ?」
「そうですよ、共犯者がいるんですか? それとも弁護士とグルになってウソを?」
「いや、弁護士はアリバイ証人に利用されただけだよ。それとは別に、知らず知らずの内に運び屋に仕立て上げられた人物がいるのさ」
「運び屋? 誰ですか?」
「ホームがレスの人」
「ええ!? なんで!?」
「社長宅のゴミを漁る人ですか? いやいやいや、いくらなんでも遺体なんか持って行くわけないでしょ」
「じゃあ、遺体が大きな鞄に入れられていたとしよう。そして遺体を覆い隠す程の札束がぎっしり詰められていたとしたら?」
『へ?』
 夏目と秋山が間の抜けた声を出した。
「ホームがレスの人は鞄に遺体が入ってるってことに気が付かなかったんだよ。お金が無くて困ってる人なら、そのまま持って行っちゃいそうじゃない?」
 春日がニヤリと笑った。
「そ、そんな……ぎっしりって……い、いか程……?」
 秋山が恐る恐る訊いた。
「さあ? 三千万円だか四千万円だか、もっとか。相当入れないと遺体隠れないだろうしねぇ」
「よ、四千万……?」
 秋山が唇をぷるぷるさせた。
「金田社長は殺人がばれれば地獄行き。罪を逃れるためなら幾らでも出そうと思ったんじゃないかな。ウワサの金庫の中から」
「ああ……」
 夏目は息を洩らした。
「で、ホームがレスの人はその名の通り家が無いわけだから、ゆっくり鞄の中身を物色出来る、適当な場所を求めて移動することになる。実は遺体が入っているわけだから相当重い。旅行用の鞄でキャスターが付いた、ゴロゴロと引っ張ることができる鞄が使用されたんだと思う。そして移動した先が、偶々あの建設予定地だったわけだ。時刻は九時過ぎから正午の間」
「そうか、じゃあ現場付近で金田社長の目撃情報が無いのは当たり前なんですね」
「そうだね。目撃情報といえば、大きな鞄を引きずった人が住宅街を練り歩いてたらそれはそれで眼を引くけど、住宅街なんて、通勤、通学ラッシュを過ぎたら通行人は激減する。裏道を通れば、更に人目に付かない。そうやってホームがレスの人は移動したんだよ。しかしホームがレスの人は驚いたろうね。大金が手に入ったと思ったら死体まで出てきて。当然これは金田社長にとって危険な賭けでもある。首尾良くホームがレスの人が運び屋をやってくれたとしても、遺体のことを警察に通報することだってあり得る。けど、ホームがレスの人の立場になって考えてみるとどうだろう。人はあまりにも思いがけないことに出くわすと混乱する。一刻も早くこの場から逃げたい、関わりたくない、と思うだろう。でも金銭欲というのはもう、人間の骨の髄まで刻み込まれているものだから、パニくりながらも現金はちゃっかり鞄に詰めて逃げた、というわけさ」
「だ、だからあんな奇妙な状態で遺体だけが残っていたんですね……」
「うん。そして金田社長は弁護士を利用して午前八時から午後一時までのアリバイを作り、その後、警察の呼び出しに応じて何食わぬ顔で現場に現れたわけだ。でも、明らかに怪しい行動も取ってる。弁護士を自宅に呼び付けるなんて、阿部さんがもう来ることはないと知っていた、と言ってるようなもんだよ」
「言われてみればそうね……ねえ、スガッチ、もしかして、早い段階で社長が怪しいと踏んでたの?」
「まあね。阿部さんは相当変わり果てた姿で死んでいたはずなのに、いくら自分の会社のロゴの入ったキーホルダーを持っていたからといって、それが自分の秘書の死体とはにわかに信じられないはずだよ。しかし金田社長は遺体を見てすぐにそれが阿部さんだと断言した」
 夏目と秋山が膝を叩いた。
「それで先輩、社長の犯行を裏付けるものは何かあるんでしょうか?」
「うん。秋山君、君が社長宅を訪ねた時点で家政婦が三人、さらに弁護士も居たんだったよね。しかしガレージに停めてあった車は社長が所有するベンツ一台きり。本来なら、奥さんや子供達の車も並んでいたんだろうけどね。まあとにかくこれで、弁護士や使用人達は皆、自家用車以外の交通手段を使って社長宅に来ていることがわかる。そして、ベンツはやたら壁際に停められていたんだったね。弁護士や使用人達が車を停める分のスペースを作ってあげる必要は無く、車体に傷でも付いたら大変だからわざわざ壁際に寄せて停める必要だって無い。ど真ん中に停めたって良いさ。なのにそうしない理由はなんだと思う? ……ベンツの下、床に隠されているんだよ……阿部さんを感電させたときに出来た、真っ黒いコゲ跡がね……!」
『ああっ!』
 春日の眼鏡がキラリと光る。秋山と夏目の背後で雷鳴が轟き、外で雀がチュンと鳴いた。
「よっしゃあ! 先輩、ありがとうございます! じゃあ行ってきます!」
 勢いよく立ち上がった秋山が踊るようにして事務所を飛び出して行った。
「うん。行ってらっしゃい。頑張って」
 春日は座ったままで冷めた茶をすすった。
「え……? あ、あれ……?」
 腰を浮かしかけていた夏目は茫然と秋山の背中と春日とを見比べた。
 

『先輩! お見事、大正解です! ガレージにありましたよコゲ跡! それで、社長に自首するよう迫ったところ、応じてくれました。やはり脱税の証拠である裏帳簿を管理していた阿部さんの口を封じるのが目的だったようです。ヒューズが焼け落ちて黒コゲになった発電機も物置で見付けました! そこに阿部さんが履いたと思われるつっかけや、携帯と財布の入った上着と、靴もありました! 後、ホームがレスの人ですが、家政婦さん達が人相をご存じみたいなので、すぐに見付かると思います。ははは、弁護士さんは腰を抜かして驚いてましたよ』
 スピーカーモードにした携帯から秋山の快活とした声が流れ出た。
「うん……でも弁護士をずっと傍らに置いていたのが逆に仇となったね。金田社長は証拠を隠滅する時間が作れなかったんだ」
 春日が満足そうにうなずいた。呆気に取られていた夏目が我に返る。
「え……? ち、ちょっと待って……これで終わり……? 推理ショーは? その後に待ち受けるしっちゃかめっちゃかの大立ち回りは? こういうのって普通、追い詰められた犯人が、ちいいっ、かくなるうえはっ! とか言ってか弱いあたしが人質に取られたり、あたしをかばったスガッチがその拍子に怪我したり、はずみでアッキーが殉職したりするもんじゃないの!?」
「おいおい……」
『こらこら……』
 二人の抗議を無視し、夏目が頬を引きつらせた。
「な、なるほどね……幾つも事件を解決してるはずなのに、スガッチが全然有名じゃなかったり、アッキーが万年ヒラ刑事なのに合点がいったわ……そうやって毎回々々犯人に自首を勧めるから捕り物劇に発展しないわけね……どおりで記事にもならないわけだ……」
「あっはっはっはっは、まいったね」
『いやあ、それほどでも』
「ほめとらんわぁぁぁぁぁっ! 一体何がしたいのよ! アンタ達はっ!」
 夏目が顔を真っ赤にして叫んだ。ゼィゼィ、と肩で息をする。
『どうどう』
「馬か、あたしは!」
「正真正銘のじゃじゃ馬だと思われ」
「なんですって!」
 夏目の剣幕に春日は椅子を飛び退く。
「ま、まあまあ、夏目君! ほら、君が言ってたじゃないか。謎の答えが知りたいって、僕達も一緒だよ。真実が知りたいだけなんだ」
『そうそう、そうなの。出世しちゃうと忙しくなっちゃうし。お金は欲しいけどね。でもさ、ボクは犯罪に関する謎は全て解き明かされるべきだと思うけど、謎は謎のままで良いこともこの世にはあると思うよ、夏目ちゃん。例えばさ、地球外知的生命体は絶対に存在しません、なんてヘタに立証されようものなら、もう夢も浪漫も妄想を楽しむ余地も無くなっちゃうじゃない? 余りに何でもかんでも知りたがるのはどうだろう?』
 電話の向こうから問われ、夏目は唇を噛んだ。
「…………そう、ね……確かに、答えが解ってしまったらそれはもう不思議じゃない……知らなければ良かったと後悔することだってあるかもしれない……」
『そうでしょ? じゃあ極端な話、もし全ての不思議が解き明かされたらその後どうするの?』
「全ての不思議が解き明かされたら? ……それは困るわ……何も残っていないもの……」
『そうでしょ? 困るでしょ?』
「そうね……。だから、もし全ての不思議が解き明かされたそのときは……」
『そのときは?』
「また新しい不思議を探すわ!」
  そう言うと夏目は屈託無く笑った。
 
 
 
   第十話  拳銃自殺の謎

 ある日、あるマンションの一室で、その部屋に独りで住んでいた横嶺という男が遺体となって発見された。
「しっかし、拳銃なんて一体どこから手に入れたんだか」
 横嶺の右こめかみから流れ出た血を見ないようにしながら秋山が言った。
「ああ……コレにゃ見えねえしな……」
 中年刑事が手袋を嵌めた手で頬に線を引いた。
 遺体の第一発見者は一人の会社員だった。横嶺が住むマンションの向かいには道路を挟んでビルが建っており、そこで働く会社員が昼休み、いつものように屋上で煙草を吹かしていたところ、マンションの一室で床に倒れ、ぴくりとも動かない男を発見したというわけだ。時間は午後十二時三十分。
 その会社員が一一九番通報し、駆けつけた救急隊が大家と共に部屋に入るが横嶺は既に死亡していたため、救急隊は『緊急』を解除、警察の出番となった。
 横嶺は三十八口径のリボルバーを右手に握り、ベランダへと通じるガラス戸の付近に倒れていた。カーペットに染み込んだ血は完全に乾いており、遺体の傍には鍵が落ちていた。
 中年刑事が鍵を指差して、窓枠をハケでなぞって指紋採取を行っていた鑑識員に問い掛けた。
「これもう指紋採ってあんの? ああそう。鍵は室内から発見、と……」
 中年刑事は上着から折り畳んだハンカチ取り出すと、それに、落ちていた鍵を丁寧に挟んだ。
「ああ、舟木さん、ビニール、ビニールに入れた方がいいですよ。すみません、ビニールあります?」
 秋山は鑑識員から受け取ったビニール袋を舟木に渡した。
「ああ、悪いな」
 舟木はハンカチから鍵を抜き取るとビニール袋に入れようとして手を止めた。
「違うか。まずこの鍵がこの部屋の鍵で間違い無いか確認するのが先か」
「そうですね」
「秋山、頼む」
「了解です」
 舟木が鍵を手渡した。秋山は部屋の外に出ると鍵を鍵穴に差し込み、回した。カチャリという音と共に扉が施錠された。
「間違いなくこの部屋の鍵です」
 戻って来た秋山は鍵を舟木に返した。
「おう。……こりゃ自殺で間違いなさそうだな」

 その日の夕方、他の捜査員達が引き上げ、秋山だけが残った横嶺の部屋に春日が現れた。
「いやー、降られた降られた。靴もビショビショだー」
 春日は玄関先で傘を振り水滴を切った。
「お疲れ様です。こんな日にすみません」
 春日は傘を持ったまま部屋へ上がると、リビングをスタスタ横切り、ベランダへと通じるガラス戸の前に立った。カーテンは開け放たれ、カーテンレールの端に束ねられている。
「あー秋山君、悪いけど帰りは送ってね」
 外を見ながら傘のボタンを留める。
「ああはい、わかり―」
「そこだぁっ!」
 春日はフェンシングの構えから、傍にあったカーテンの束に鋭い突きを繰り出した。傘の先が深く食い込む。春日はすぐさまカーテンの裏を鋭い眼つきで確認するがそこには誰も隠れていなかった。くるりと振り返ると、次は反対側で同じように束ねられたカーテンの方へとスタスタ歩いて行く。しかし今度は何もせず通り過ぎた。
「と、見せかけてドーン!」
 振り向きざま、ボンナバン、アロンジェブラが決まった。これではひとたまりもない。しかし、またもやカーテンの裏には誰もいなかった。
「あの……先輩……説明お願いします」
「何っ!? 説明が必要かねっ!?」
「要ります。超要ります」
「先程電話で君から受けた説明より抜粋すると、横嶺さんの死亡推定時刻は午前十時。銃口を肌に密着させて発砲したため、マズルファイアによる火傷がこめかみにあり、銃のシリンダーに入っていたのは使用済み薬莢一発だけ。そして服の袖からは硝煙反応。外傷はこめかみのみで争った形跡も無し。鍵は室内で発見され横嶺さん本人の指紋が付着していた。遺体発見当時、窓とドアは施錠されており完全な密室状態。他殺と仮定すると部屋からの脱出は不可能。比較的犯行が可能なのはマスターキーを持つ大家であるが、大家には完璧なアリバイがあった。どう見ても自殺と考えるのが普通だが、君の勘がこれは絶対殺人事件だと告げている、と……」
「はい……」
「君の勘を信じるとすれば答えは唯一つ…………犯人はどうにかしてこの密室から脱出したのではなく、いまだこの部屋のどこかに潜んでいるってことさ!」
「そ、そうかっ!!!」
 春日と秋山は素早く背中合わせになると身構えた。秋山が懐に手を入れニューナンブを抜いた。ガチリ、と音をさせて撃鉄を起こす。
「着装週間なのが幸いでした……先輩! 援護は任せて下さい!」
「うん! シュッシュッ! シュッシュッ!」
 春日が上段突きと下段突きを素早く素振りした。
「秋山君! 油断しないで! 敵は正面に注意を向けさせておいて、背後から攻撃してくるよ! 常に死角をカバーし合うんだ! それが、CQB(クロース・クォーター・バトル)!」
 二人がばばっと動いてお互いの位置を交換し、また背中を預け合った。
「シュッシュッ! シュッシュッ!」
「先輩っ!」
 秋山が隣へ通じるドアを指差す。春日は頷き、二人は慎重に辺りに気を配りつつ、壁を伝うようにしてドアに近―
「ドアの奥に居ると見せかけて実は床下に潜む! それがCQB!」
 春日が勢いよくカーペットを捲り、秋山がそこへ銃を構えた。ただのフローリングだった。
「ふう……じゃあ、秋山君……用意はいいかい?」
 遂に二人はドアの前まで辿り着き、両側の壁に張り付くと、呼吸を整える。
「はい…………その前に先輩……ボクにもしものことがあったら……代わりに金魚にエサをあげて貰えますか……」
「秋山君。わざわざフラグを立てるような発言するんじゃない。ていうか君、金魚飼ってないし」
 二人は親指を立てて頷き合った。
 気を取り直し、秋山が掌を上着で拭った後、銃を握り直した。そして春日がドアノブに手を掛け、回し、勢いよく押し開ける。流れるように春日と秋山が体を入れ替え、秋山が部屋の奥へと銃を突き出し叫ぶ。
「警察だっ! 撃ち殺すぞっ!」
 しかし、寝室に人影は無かった。二人が顔を見合わせ視線だけで会話する。その後、二人は三時間掛けトイレやバスで同じようなことを繰り返した。
「ふーむ……隠れられそうなところは全て当たったが犯人の姿は無し、か…………自殺じゃね?」
「待って下さいよ! 根拠があるんです! これから自殺しようって人間がデリバリーなんか頼むと思いますか?」
「デリバリー? なるほど……確かにそれは妙だな……因みに何頼んでたの?」
「妹という設定で二十代前半の娘が来てました」
「ああ、そっちのデリバリーね……妹設定か……まさか君、買ってないよね?」
「買ってませんよ! 持ち合わせも有りませんでしたし」
「その言い方だと持ち合わせてたら買ってたのかって話になるよね」
「い、いやさすがに、仕事中はないですよ」
「なるほど、アフターか……」
「……ち、違うんですよ! 独身の寂しさを紛らわせるために多少デバったってしょうがないじゃないですか! いたしかたないじゃないですか!」
「全く君はそうやって、刑事のくせに周囲にアンテナも張らず、テントばかり張ってるんだから」
「ほっといて下さいよ」
「はいはい、やれやれ」
「突然ですが、そんな侘しさを唄います。独身男の川柳―『デリバリー 写真に騙され 涙墜つ』」
「ああ、実物とかけ離れた紹介写真ね。わかるわかる、詐欺かってくらいスーパー補正掛ってることあるよね」
「『雀の子 そこのけそこのけ 平成生まれが解禁だ』」
「捕まれ君は。最早川柳じゃないし」
「『テク百点 スタイル百点 顔三十二点』」
「頼むから訴えられろ。……とにかく! 消去法でいくと、次に怪しいのは玄関のマスターキーを持つという大家ということになるけど」
「はい。その大家さんなんですが午前十時頃はマンションの住人の依頼で屋上にある衛星放送用のパラボラアンテナの角度を調整してたそうです。その住人にも確認を取りました。住人が部屋で実際にテレビを点けて映像を確認し、大家さんとは携帯で会話をしつつ綺麗に映る位置を調節したんだそうです。映ったり映らなくなったりの繰り返しで、しかも屋上は風が強くて大家さんの声が聞き取り難く、かなり時間が掛ったもようです」
「そう……屋上で仕事してたのなら犯行は無理か……」
 ガラス戸のところまで来ると、そこからは正面にビルが見えるばかりだった。春日は横嶺と同じ体勢になるために、その場に寝っ転がってみた。そこから見上げると向かいのビルの屋上の手摺がよく見える。
「ふーむ……」
 春日は起き上がるとカーテンを片方ずつ閉じてみた。よく観察していくと、カーテンに小さな赤い染みが付いていた。
「飛沫血痕だ」
「え? マジですか!」
「うん。……と、いうことは横嶺さんが死亡したとき、カーテンは閉じていたわけだ。そして、カーテンが独りでに開くわけ無いから……」
「犯人が開けたんですね……やはり殺人事件なんだ……!」
「……横嶺さん殺害時、カーテンは閉じられていた……そして犯人は立ち去る際、カーテンを開け放った……」
「何のために?」
「わからない。普通カーテンを閉めたまま隠そうとしそうだけど……犯行時刻は午前十時……遺体発見が午後十二時半、救急隊の到着が十二時四十分頃だっけ?」
「はい。それでボクと舟木さんが到着したのも四十分をちょっと過ぎたくらいですね」
「随分早いね」
「はい。今日署の先輩の舟木さんにごはん誘われましてね。偶々この近くにある舟木さん行きつけの店で食べてたんですよ。それで、救急車がサイレン鳴らしてたんで、様子を見に」
「なるほど」
「関係者に事情を聞いた後、このマンションの錠前取り付け作業を請け負った鍵業者の作業員も呼んで話を訊いたんですが、ピッキングはまず無理だろうとのことでした。鍵山の代わりにポコポコと窪みがある鍵なんですけど、知ってますか?」
「ああ、多角ピンタンブラー方式のディンプル(窪み)キーだね」
「そうそう、それです。鍵のサンプルを幾つか見せて貰いました。その鍵業者が扱う鍵はデザインが全て統一されていまして、横嶺さんの部屋の鍵もサンプルの鍵も皆同じ物のように見えて、ボクには見分けがつかなかったんですが、そこはやはり鍵ですから、当然窪みの位置が一つ一つ違うそうです。偽造するのも難しい鍵らしいんですけど、念のため、科捜研に持って行って即行で調べて貰ったところ、人間の指の油しか検出出来ず、これが偽造された鍵の可能性も無いだろうとのことでした……。てなわけで、鍵が偽造できないなら、自殺で間違い無いだろうって舟木さんは言ってたんですけど……あ、そういえば、鍵業者の作業員が舟木さんに『先日はどうも』なんて挨拶してたな……知り合いだったのかな?」
「ふーん……。じゃあ銃の方は? 出所から何か判らない?」
「残念ながら、シリアルナンバーが削り取られていました。時間が掛りそうです」
「そう。単純に密輸拳銃なのか……出所が割れると簡単に脚が付く銃なのか……うーん……鍵の偽造が無理となるとやっぱりマスターキーを持ってる大家さんが怪しくなってくるけど……ちゃんとアリバイがあるからなぁ」
「はい。それなんですが、衛星放送の映りが悪いのはかなり以前からのことで、今日作業を行うことは前々から住人と相談して決めてあったそうです。大家さんなんか長期戦を覚悟で銀紙に包んだサンドイッチまで持参して、今日に臨んだそうですよ」
「パ、パラボラアンテナの調整のためにそこまで……。……サンドイッチを銀紙で、か……銀紙……アルミ箔……」
 春日が手を打った。
「あ! アルミか! そうか、わかったよ秋山君! アルミ! アルミだよ!」

※事件の犯人と犯行の手口とは?

「ア、アルミ? アルミがどうしたっていうんですか?」
「うん、あのね―」
 春日が説明を始める前に秋山が手を打った。
「あ、そうか! ひらめいた! わかりましたよ、アルミですよね!? 何かで見たことあります! アルミは電波を遮断するんですよね!? 携帯電話をアルミホイルで包んだらその携帯電話には電波が届かなくなるとかやってました! 大家さんはパラボラアンテナの、お皿の形した反射鏡の正面におっ立ってるアンテナ(放射器)にアルミホイルを被せて、片側だけテープで固定したんですよ!」
「うんうん、それでそれで?」
「そして! 部屋でテレビを点けて映像を確認している住人とは携帯で会話しながら移動し、マスターキーを使って横嶺さんの部屋に侵入し、中にいた横嶺さんを銃で殺害したんです! すなわち、パラボラアンテナは最初からベストポジションに調節されていて全く動いてなかった! そして、風でアルミホイルがパカパカと動いて電波を防いだり防がなかったりしたから映像が映ったり映らなかったりして、さもそこに大家さんがいるかのように見せ掛けることが出来たって訳ですよ! そうですね!?」
「ちがう」
「ちきしょーーーーーー!!!」
 秋山はガッデムした。
「大家さんの声は風で聞き取り難かったんだよね?その風はどこから用意するの? まあいいよ、用意出来たとしよう。住人と話しながら、下の階に移動している間に誰かに見られたり話声を聞かれてしまう恐れがあるよね? まあ、運よく聞かれなかったとしよう。なによりも、もし君が考えた通りのアリバイ工作だったなら、トリックのキモであるアルミホイルを持っていたことを人に言うわけないじゃないか。絶対に内緒にするはずだよ。大家さんは犯人じゃないよ」
「じゃあ犯人は誰なんですか!?」
「この犯行を実行出来る人物が一人だけいるんだ」
「だから誰なんです!?」
「君の上司、舟木さんだよ」
「なっ……!」
 秋山が凍りつく。春日は構わず話を続けた。
「鍵業者の作業員が舟木さんに挨拶したと言ったね。錠前取り付け業者の作業員と面識があるということは、舟木さんはごく最近錠前の取り付け作業を依頼し、くだんの鍵、デザインの統一されたディンプルキーを手に入れている可能性が高い。まず、舟木さんは今日の午前十時以前に横嶺さんの部屋を訪れた。そしてカーテンを閉め、横嶺さんを銃で脅し、ガラス戸の前に立たせた後、射殺した……。そのとき、横嶺さんが倒れた拍子にカーテンに血が跳ねたんだ。そして、舟木さんは自分で用意した鍵に横嶺さんの指紋を付け、遺体の傍に置いた。つまり、遺体の傍に落ちていた鍵は横嶺さんの部屋の鍵ではなく、舟木さんの家の鍵だったんだ。そして銃の弾を込め直し、横嶺さんに握らせ、パテか粘土が詰まった缶でも撃って弾丸を回収する。これで横嶺さんの袖からは硝煙反応が出る。その後は向かいのビルの屋上にまだ誰もいないことを確認してからカーテンを全開にする。部屋を出て横嶺さんの鍵を使って施錠し、鍵は所持したまま、舟木さんはその場を立ち去った」
「ま……待って下さい……」
「大事なのはここからだ。舟木さんはいち早く現場に到着し、その現場を担当する刑事となり、遺体の傍に落ちている鍵と隠し持っている鍵とをすり替える必要がある。まず、自分はこの近くにある行き付けのお店でスタンバイしておく。そして、向かいのビルの会社員に遺体をわざと発見させ、通報させる。十二時半といえばお昼休み時、舟木さんはその会社員が決まってあの時間、あの場所で煙草を吸うのを知っていたんだろう。だから、見付け易いようにカーテンを全開にしたんだ。狙い通り救急車が呼ばれ、舟木さんは偶然居合わせた体で現場を訪れた。そしてここでこっそり鍵をすり替える。すり替えのために使った小道具がハンカチだ。折り畳んだハンカチには最初から横嶺さんの部屋の鍵が隠されていて、遺体の傍にあった鍵をハンカチに仕舞うフリをしてすり替えたんだ」
「待ってって言ってるでしょう!」
 秋山が春日に掴みかかった。春日の背後にあった椅子が派手な音を立てて倒れた。
「待って……待って下さいよ……」
 声が震えている。
「秋山君……気持ちはわかるけど……」
「ちょっと先輩! なんなんですか、思わせ振りにアルミ、とか強調しちゃって! あんな風に言われたら何かトリックの方にアルミが使われたと思うに決まってるじゃないですか! ボクメチャクチャカッコ悪いじゃないですか!」
「え! そこで怒ってんの!?」
「何がですか!」
「あ、いや……君と同じ、刑事の舟木さんが事件の犯人なんだよ? もっとこう……ショックとか……」
「はぁ? ああ、まあ、はい。そうですね、そりゃショックですよ。すげえショックー。やべ、涙出てきた」
「うわぁ。冷めてるぅぅ」
「いや、別に。舟木さんとそんなに親しかったわけじゃないしー。今日何でメシ誘われたか不思議なくらいだったしー。奢るって言われたから付いて行った、みたいな?」
「そ、そうなんだ……」
「で? 先輩。証拠はあるんでしょうね?」
「あ……はい……君が科捜研に分析を依頼した鍵……です……」
「あれがどうかしましたか?」
「うん。分析の結果、人間の指の油だけが検出されたと言ったね」
「それが舟木さんの指紋なんですか?」
「いや、それは横嶺さんの指紋で間違い無いよ」
「じゃあ、別におかしくないじゃないですか」
「いやいや。指の油の他に、検出されなければおかしいものがあるんだよ」
「おかしいもの?」
「鑑識の人が指紋採取の際に使用する、アルミ粉と松ヤニを混合した粉末だよ。序盤に出てきた描写を思い出してほしい。舟木さんが『窓枠をハケでなぞって指紋採取を行っていた鑑識員に問い掛けた』とある。現在、指紋採取の方法は幾つかあるけど、このことから皆さんには、アルミ粉末を使用する指紋採取法だったと判断して頂きたかった」
「先輩、一体誰に言ってるんですか?」
「ああいや、気にしないで。というわけで、アルミの粉末成分が検出されなかったこと自体が、鍵のすり替えが行われたという証拠なんだよ。アルミの粉末を付け忘れたこと、また、事件の現場に現れる刑事はベテランと若手のコンビ、というお約束を遵守したのが舟木さんの敗因だね。一人で現場に来てたら成功の確率が上がったかもしれない。ひょんなことから君が自殺に疑問を持ってしまったわけだからね」
「なるほど。まあアルミがアレなのは分かりましたけど。でもなぁ……今回判断材料も少なかったしぃ、アンフェアだなぁ……」
 秋山は明後日を向くと、『卑怯者』と呟いた。
「ちょ! 今回はこういうシナリオなんだから仕方ないじゃないか! 僕が文句を言われる筋合いは無いよ!」
「ふう……まあいいですよ。ところで、ドアを破った形跡や横嶺さんが抵抗した様子が見られないのは、舟木さんを部屋に招き入れたのは横嶺さん本人、即ち、二人は顔見知りの間柄であった、ということになるんでしょうか?」
「うん。そうだね。まあ、銃を突きつけられて抵抗も何もないけど。二人が知り合いで、何らかのトラブルがあったのは確かだろう。……じゃあ詳しくは本人に聞いてみようか…………教えてくれますか? どこかで聞いてるんでしょう? 舟木さん」
「え……? 聞いてるですって?」
「盗聴器だよ。用意周到な舟木さんのことだ、どこかに盗聴器を仕掛けて君の様子を窺っていたはずさ……」
「そうですか……それならボクから一言言わせて貰いましょうかね。……舟木さん。どんな事情があったか知りませんけど、これシャレになんないッスよ……ボク等刑事が法律守らなかったら、一体誰が法律なんて守りますか!? シャレになんないですよ舟木さん……お願いですから……自首して下さい……」
 秋山の呼び掛けが静かに響いた。

 結局のところ、部屋に盗聴器は仕掛けられていなかった。
 その後、舟木は白○屋で一人祝杯を挙げているところを同僚の刑事達によって逮捕された。
 取り調べで、舟木は警察が押収した薬物を横領し、横嶺に捌かせていたことが分かった。最初は軽い気持ちで小金を稼いでいた舟木であったが次第に怖くなり、押収品に手を出すのを止める決意をするが横嶺はそれを許さず、そのことをネタに脅迫してきたため、これが殺害の動機に繋がった。
 アルミ粉末の付着した鍵は舟木の所持品から発見され、殺害に使用された銃は警察の押収品から持ち出された物だということもわかった。



   第十一話 切札

「これは、あたしの従姉の友達が体験した話なんだけど……」
 夏目は静かに、ゆっくりと話始めた。
「その女性、その日は残業で遅くなって、帰りの電車を降りた頃にはもう深夜だったんだって。それで、駅から家までは少し歩くんだけど、人通りの少ない路地を通らなきゃいけないのね。車で入り込んだら後悔しそうな狭ーい路地……。しかも真っ直ぐ伸びるその道が超薄暗いの、彼女はうわヤバイって思って、一気に通り抜けるつもりで早足で歩いたの。……カツカツカツって自分のヒールの音がやけに響く感じ……いつもは明るい内に通る、通り慣れたはずの道が全く別の道を歩いているような気がしたって……。そしてしばらく歩いていくと、ポツンと街灯が立ってるんだけど、そのぼうっとした明かりの下に……黒いマフラーが落ちてたんだって……。季節は冬、マフラー自体は珍しくも何ともない。酔っ払いの落し物か、はたまた風に飛ばされた洗濯物か。でも、どちらにしたって関係無いから彼女は素通りしたの。そして、しばらく歩くとまた街灯が立っていたんだけど……アスファルトの上に、またあるのよ、黒いマフラーが……。彼女は少し驚いて、今度は立ち止ったの。今、目の前にある、地面の上でへびのようにのたくっている、長くて真っ黒なマフラーは、さっき見た物と同じ物のように見える、でもそんなことあるはず無いわよね……? 後ろを振り返るとさっき通り過ぎた街灯の明かりが遠くに見えるけど、地面の上まではもう見えない。かといって、戻って確かめる気はさらさら無い。気にはなるけど、彼女はマフラーを避けるようにして、また歩き出したの……。しばらく歩くと、また次の街灯が立っていて……もしかしたら、っていう予感が彼女にはあったわ……そして、街灯の下……。でも、そこには何も無かったわ。見回したけど、何も無し。拍子抜けしちゃった彼女は、別に誰かに見られていた訳でも無いのに少し緊張していた自分が恥ずかしくなって、そそくさとその場を後にしたの。そうやって、漸く帰り着くことができた彼女は、玄関を上がり、明かりを点けて一息付いた。見れば、留守中に電話が有ったみたい。メッセージ有りのランプがチカチカチカ……彼女はボタンを押してメッセージを再生させた……するとそれは友人からの飲みの誘いだったわ。彼女は友人の声に耳を傾けながら洗面所に向かい、明りを点けた瞬間、悲鳴を上げた。なぜって、洗面台の鏡に映った自分の首に、黒いマフラーがぐるぐると巻き付いていたから……! 彼女はすぐにマフラーを引き剥がそうとしたわ。でもマフラーはブチブチとちょっとずつ千切れるばかりで一気に引き剥がすことがどうしてもできないの。そして彼女は掌に纏わり付いた糸を見て気付いたの、これは髪の毛だって。彼女はもうバニックになって、泣きながら手を動かしたわ。そして、彼女は肩の後ろに何かがあることに気が付き、身体を凍りつかせた……。彼女は小さく震えながらゆっくりと鏡に背を向け……そおっと、肩越しに鏡を見たの。そしたら、肩に女の首がぶら下がっていて、血走った眼でじっとこちらを見ていたのよ!」
「ぎゃあああああああああああああ!!!」
 と秋山が悲鳴を上げた。
「あ、アッキー後ろ……!」
「ぎゃあああああああああああああ!!!」
「あの、申し訳ございませんがお客様」
「ぎゃあああああああああああああ!!!」
「イヤ、ぎゃああ、じゃなくて。他のお客様のご迷惑になりますので」
 蝶ネクタイのウェイターが困った表情で告げた。
「あの……そういう話はもっとふさわしい時間と場所で、部屋を暗くして、ろうそくとか立ててやって頂くのがよろしいかと……」
 ウェイターが続けて言った。
 ある日の午後、とあるレストランでのことだった。外はすがすがしく晴れ渡っており、日当たりの良い店内は明るく、ちらほらいる客がこちらを見ていた。
「ていうかお客様、このシチュエーションでそれだけ怖がれるって、どんだけ想像力豊かなんですか」
「すすす、すみません! もう騒ぎませんので! すみません。すみません」
 秋山はウェイターに頭を下げると、周りのテーブルにもペコペコと頭を下げた。
「全く秋山君。ビビリなのも大概にしたまえよ君ィ」
 春日がコーヒーカップを手に言った。
「スガッチ……カップがカタカタいってるみたいだけど?」
「ちょ、ちょっと止めてよ夏目君。これはアレだよ……え、栄養失調」
「はぁ……オジサン二人がこの程度の怪談でビビリ倒すなんて……てゆうか、本物の遺体山ほど見てるでしょうがあなた達」
「い、いやあ。遺体とオバケは違うもの。ね、ねえ先輩」
「そうだね。違うね。全然違うね。でも僕の場合別に怖がってたとかそんなんじゃ無いからね? これはほらアレ……は、発情期」
「はいはい」
「そ、それより夏目ちゃん、その女性、その後どうなったの?」
「何かね、そのまま気を失ったみたい。目が覚めたら朝だったって。それからは特に変なのが出たりすることは無いみたい。…………あれ? 今日はあたしが取材するつもりだったのに、なんでこんな話してるんだっけ。何かあたしばっかり喋ってない?」
 首を傾げた夏目の手にはICレコーダーが握られていた。休日につき、夏目の本日の装いは制服ではなく、藍が鮮やかなデニムのワンピースにキャメルカラーのミドルブーツとなっている。
「確かに……何でだっけ……」
 春日と秋山も首を傾げた。
「さあ、わかんないです……でも、大体いつもこんな感じのような気が……」
「ホントいい加減にしなさいよ? いつまでこうしてるつもり? 話せば分かるって言うからこんな所まで来たんでしょ?」
「だ、だからそう怒らないで。これは誤解なんだよ。そ、そう何かの間違いなんだ」
 春日達がその声に目を向ければ、離れた席で若い女が向かいに座った男を睨み付けていた。
「何が誤解よ? アンタの部屋に私のじゃない髪が落ちてたってことは、だから、そういうことなんでしょう? さぞかしおモテになるようで! ねえ、良?」
 女の眼が更に吊り上がった。
「そ……そんな。ち、千佳。だからあの髪の毛は本当に何が何だか解らないんだよぉ」
 良と呼ばれた男が今にも泣かされそうだった。
「さっきから知らない解らないばっかり。いつまでシラを切るつもり?」
「シ、シラなんて……」
「じゃあさっさと説明してごらんなさいよ! オドオドオドオドして、アンタ子供の時からそうよ!」
「ご、ごめんよ千佳」
「ああもう! アンタ見てるとほんとイライラするわ! シャキッとしなさいシャキッと!」
 と千佳の後ろで夏目が咆えた。
「へへん、最近はちょっとぐらい草食入ってる方が意外とモテるんですぅぅ」
 と良の後ろで秋山が言い返した。
「何開き直ってんのよ! 男の意地とかプライドとか無いの!?」
 と夏目が腰に手を当てて仁王立ち。
「そっちこそ! 少しは女らしくおしとやかにできないもんかね!? 髪の毛ぐらいでぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあやかましいな!」
 と秋山が大仰に溜息を吐いた。
「アンタ、私にそんな口きいてタダで済むと思ってんの!?」
「ふん! もう上から目線の物言いにはウンザリさ! これからぼくは断固戦う!」
「戦うですって? ふっ、笑わせてくれるわ。アンタみたいなヘタレに何ができるって言うの?」
「ぼくが本気出したら凄いよ? 多分パワーとか三倍に跳ね上がるよ!?」
「ふっ、アンタごときがこの私に勝負を挑むというの? ……ふっふっふ……よかろう……貴様を手始めにこの大地を地獄の業火で焼き尽くし、いずれ世界全てを焦土と化してくれるわ!」
「そんなことはさせない! この命に代えても、世界の平和はぼくが守る!」
「ふはははははっ! 相手になってやろう。さあ、全力でかかってくるがいい!」
 まばゆい光に包まれた秋山のHPとMPが全回復した。
「ご親切にどうも! あとできたら、死んだ仲間も生き返らせてくれますかぁぁ!」
「うるさいわよ! 何なのよアンタ達さっきから! 何その世界観!?」
 千佳が声を張り上げた。
「本当に何なんですかあなた達は? 急に出てきて」
 良も二人に抗議の眼を向けた。そこに春日が割って入る。
「まあまあ、別に怪しい者じゃありません。どうでしょう、差し支え無ければ喧嘩の理由を聞かせて頂けませんか?」
「支えるわ。つっかえまくるわ。何でアンタにそんなこと言わなきゃなんないのよ」
「いやいや、先ずは状況を整理し、冷静に話合いを進めてこそ、解決への糸口が見付かるというものです。あくまで僕達はそのお手伝いをしたいと」
「……何かアンタ達、ヒマだから来ましたー、みたいな感じがビシビシ伝わってくんだけど……」
「気の所為です。さは、安心してお話下さい。これ以上若い二人が言い争い、お互いを傷付け合うのを見るのは辛いですから……」
「言い争ってたのは私達じゃないけどね……。フン……じゃあ、聞いて貰おうじゃないの」
 千佳が良を睨んだ。
「今日コイツの部屋に遊びに行く約束してたわけ。で、行ったわけ。そしたら私のより長い髪の毛がソファーの肘かけに付いてたのよ!」
 千佳は肩まで伸びた自分の髪に触った。
「なるほど。千佳さんより短い髪が落ちてたなら、成長途中で抜けた千佳さんの髪とも、良さん自身の髪とも考えられるが、逆は無い。長い髪が落ちていたならそれは間違いなく別人の髪ね……」
 夏目が眼を細めた。
「そ、そんな! 違います! 確かに長い髪の毛が付いてましたけど! ぼくは全く知らないんです!」
 良が慌てて首を振った。
「良さん。参考までに、昨日から今日にかけての行動をお聞かせ願えますか?」
 秋山が訪ねた。
「え? ええ? き、昨日ですか? し、仕事ですよ。それで……夕方帰ったら親戚から留守電に『近々遊びに行く』って伝言入ってたんで、折り返したら話が弾んで夜に。それから寝て……で、今日は休みで、千佳が遊びに来て……。ち、千佳、本当だよ? 昨夜は親戚と電話してただけなんだ」
「ふうん……」
 千佳は素っ気無く鼻を鳴らした。
「なるほど。では昨晩、ロングヘアーの女性とソファーでニャンニャン行為に及んだという事実は無いと仰るんですね?」
 秋山が刑事の顔で訊ねた。
「ええ! 断じてやってません!」
 そこで、それまで静かに耳を傾けていた春日が口を開いた。
「ふむ……ところで良さん、最近、セーターやフリースの類を身に付けたことはありませんか?」
「は……?」
 質問の意図を測りかねて良が訊き返した。
「セーターかフリース。良さん、着てませんでした?」
 今度は千佳に訊いた。
「……確かこの前着てたと思うけど、それが何?」
 春日は満足そうに頷くと、手をテーブルに付き、まるで教壇に立つ教師のような仕草で語り始めた。
「こんな話を知っていますか? 人間の髪の毛は一日に五十本から百本抜けると言われています。結構な数です。そして、髪の毛というものは思いのほか頭の油で汚れています。そのため、抜け落ちた後、至る所にペタペタ貼り付くわけですね。今あなた達が座っている椅子の背もたれ然り、乗り物の座席然り。そして、セーターやフリース……もうお気付きでしょうが、この起毛した表面は抜け落ちた毛髪をよく巻き込むのです! そうやって我々は日々他人の髪の毛を自宅にテイクアウトするわけです。例えば……」
 春日はテーブルに顔を近付けた。するとテーブルの隅にちょうど一本髪の毛が落ちていたので、指で摘み上げた。
「ほうらね、こんな風に。この場合はテーブルに肘を付いた時なんかにお持ち帰りとなりますね」
 春日は指先の髪の毛をふっ、と息で飛ばした。
「このようにして、良さんは先日どこからか髪の長い女性の毛髪を拾い帰ってしまったのでしょう。また、自分の部屋に全く覚えの無い、長い髪の毛が落ちていることに驚き、部屋に女の霊が出るなどと早トチリする怖がり屋さんもいますが、全て着ていた服が原因です。まあ所詮怪奇なんて全部説明の付く現象なんですよ。ははは」
 笑う春日の横で夏目がポツリと言った。
「なるほど。そうやって尤もらしい理屈をこじつけることによって、全ての怪奇から眼を逸らし続けてきたのね……。先程子犬のように震えてらっしゃった怖がり屋さん?」
「ちょ、ちょっと止めてくんない? 違うからね? アレはアレだから……み、右手に仕込まれた超振動破砕装置」
「そ、そうだよ千佳! この人の言う通りだよ! あれはどこかでくっ付いた知らない人の髪の毛なんだよ!」
 後方支援を得た良が説得に取り掛った。千佳は眉を顰めながらも話に耳を傾けている。
 春日達は一旦距離を置き、それを見守る。
「先輩。やりましたね! あの二人、上手く仲直りできるんじゃないですか? しかし、本当によく落ちてるもんなんですねぇ、髪の毛って」
「ああいや、実はあれ、言葉に信憑性を出すため、テーブルに手を付くフリしてこっそり置いた僕の髪の毛」
「うお!? マジすか!」
「……でもスガッチ。毛髪の巻き込みは着ている服の仕業ということで別にいいけど、実はやっぱり浮気してて、浮気相手の部屋からテイクアウトしてる場合だってあるわけで、完全に潔白を証明するには至らないんじゃない?」
 夏目が、千佳に聞かれたらまた話が拗れそうな言葉を吐いた。
「まあね、でもさ、良さんってここから見て、二股掛けられる程器用そうに見える?」
「あ、見えないわね」
 夏目は即座に首を振った。
「でしょ? だから僕も助け船を出してあげようかなーなんて思ったわけ」
 ぱちん、と音がした。春日達がそちらに視線を向けると、千佳がテーブルに手を付いていた。手を退けるとそこに一本の鍵があった。
「え? 何……千佳?」
「鍵……返すわ……」
「かえ……? え……? ええ!? ちょ、ちょっと待って! 髪の毛のことなら―」
「ううん、髪の毛のことはもういい……でも……ごめん……もうお終いにしよ……」
「そ、そんな、何で急に? いやだよ、訳がわからないよ!」
「……アンタはもう……ほら、伯母さんが遊びに来るんなら部屋の掃除くらいやっときなさいよ、全く……じゃあね……」
 千佳は呆れたように小さく笑うと立ち上がり、テーブルを離れた。
「ち、千佳……何で……何で? ぼ、ぼくは千佳じゃないと……」
 良は半端に手を伸ばしたままで茫然と立ち尽くしている。
「うわ。まずいですよ。なんでか一気にさよならムードになってますよ。どうします、先輩!?」
「…………」
 黙ったままの春日の代わりに、夏目が口を開いた。
「……この状況で彼女を引き戻せる可能性があるとすれば、あの方法しかないわね……!」
「え、何それ夏目ちゃん! そんな都合の良い方法があるの!?」

※夏目が考えるその方法とは?

「夏目ちゃん、本当にそんな方法があるの!? 教えてあげて! 良ちゃんに教えてあげて!」
「うん……でも……これは人に言われて言うものじゃないし……自分で決めてくれないと……」
「は? 何それ? あ、出てっちゃうよ! 千佳さん出てっちゃうよ!」
 レジで精算を済ませた千佳が扉に手を掛けた。しかし、店を出てゆくことはできなかった。突然猛スピードで追い掛けてきた良に手を掴まれたからだ。
「ま、待ってよ千佳……その……ぼ、ぼ、ぼくと結婚して下さい!」
 千佳が驚きで目を丸くした。そして二人は見詰め合い、みるみると顔を赤くする。今にも鼓動が聞こえてきそうだった。二人は我に返り、店の客達の視線が自分達に集まっていることに気付くと更に顔を真っ赤にし、すぐ近くにあったボックス席に逃げ込み、身をちじこませた。動揺のしすぎで店を他へ移すという発想は浮かばなかったようだ。
「夏目ちゃん、あれが正解?」
 秋山が訊くと、夏目が苦笑まじりに答えた。
「まあ、そうね。ほら、指輪でなく、合鍵を返すってことは、あの二人は結婚どころかまだ婚約もしてないってことよね? それで、千佳さんは良さんが好きだから怒っていたわけでしょう? で、良さんも千佳さんのことが本気で好きならここはプロポーズしかないでしょう」
「なるほどねえ。はてさて、千佳さんの返答やいかに……」
 顔から湯気を立てながら二人はまだ体を小さくしていた。お互い、相手の顔をまともに見ることもできないと見え、俯いたまま黙りこくっている。しかし先に口を開いたのは良の方だった。
「あ、あの……それで……ど、どうかな……?」
「え、あ、うん……ありがと……でも……」
 千佳は答えに窮しているのか言い淀んだ。
「……わ、私その前に、実は謝っておかなきゃならないことがあって……」
「え? 何のこと……?」
 千佳はしばらくその先を切り出せなかった。それでも良は大人しく話の続きを待った。
「じ、実は……ソファーの肘かけに髪の毛置いといたの……私なの……ごめん!」
『……ハ?』
 良と、そのすぐ後ろで聞き耳を立てていた夏目と秋山が固まった。そのまましばし店のオブジェと化していたが、なんとか息を吹き返した良が疑問を口にした。
「え、えーと……な、何でそんなことしたの……?」
「良さん、あなたの気持ちを確かめるためですよ」
 爽やかな笑顔で横合いから口を挟んだのは春日だった。
「いやあ、千佳さん、結構ズルイ女性なのかと誤解してました。申し訳ない。あなたは実に正直な方だ」
「ちょ、ちょっと先輩? 一体どういうことですか?」
 秋山が待ったをかけた。
「要するに、千佳さんはとても女性らしい女性だったということさ」
『いや、全然わからないです』
 秋山と夏目と良が手をぶんぶん振った。困惑した表情の千佳を横目に、春日は話を続けた。
「先の会話からお二人は幼馴染みということでよろしいですね? ですから千佳さんは、良さんが浮気をするような人ではないと分かっていたはずです。しかし謀らずにはいられなかった」
「何故です?」
 良が真剣な眼差しで訊いてきた。
「不安だったんですよ。浮気できるような人ではない。だからといって、自分のことを本気で愛してくれているとは限らない、ってね」
「そんな!」
 声を上げた良を春日は掌で制した。
「だから、あなたを試したんです。浮気の証拠を捏造することによって修羅場を創りだし、出方を窺った。もし真剣な交際を望んでいるのであれば、態度で示すはずだ、とね。しかし、良さんの煮え切らない態度にお芝居であることも忘れ本気でカッカしてきて、終いには呆れて……みたいな感じでしょうか?」
 春日が笑顔を向けると千佳はギョッとなってたじろいだ。
「いやでも、なんでスガッチがそんなことわかるのよ?」
「うん。思い出して欲しいんだけど、良さんは昨日留守電にメッセージを残した相手のことを『親戚』、としか言ってない。なのに千佳さんはその『親戚』が『伯母さん』だと知っていた、それはなぜか……? 答えは、良さんが仕事で留守の間に部屋に入り、偶然にも録音されてゆく音声をリアルタイムで聞いていたからだ、となる」
「あーなるほど!」
 夏目が手を打ち、千佳も驚いて口を開けた。
「……ん? あれ? ちょっと待って。それって別に昨日の内じゃなくてもよくない? 今日良さんの部屋に行ったんでしょ? なら今日隙を見てソファーの肘かけにこっそり髪の毛置いた方が確実じゃないの?」
 夏目のその疑問にも春日が答えた。
「それが、千佳さんが試したかったもう一つのことだよ」
「もう一つの……?」
 良が首を傾げる。
「ええ……。昨日仕掛けた髪の毛が今日も残っているということはですよ? ……良さん、あなた、千佳さんを、女性を部屋に招いておきながら、掃除を一切行いませんでしたね?」
「あっ……!」
 良が凍りついた。
「親しき仲にも礼儀あり。付き合いが長ければ長いほどその辺はなあなあになってしまうものですけど、相手を思いやり、僅かな手間を惜しまず部屋を綺麗にし、気持ち良く迎え入れる。千佳さんはそんな、普通のことがして欲しかったんですよ……」
「………………千佳……ごめんよ……! 千佳ごめん……!」
 良が顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。
「あ、いい、いいから!」
 千佳は慌てて手を振った。そして二人はまた俯いた。
「……で、さ……私、こんなカマとか掛けちゃうヤな女なんだけど―」
「結婚しよう!」
 良が喰い気味で再度求婚した。
「あ……はい……しましょう」
 その迫力に押し切られて千佳は頷いた。
「はいはい……ごちそうさま」
 夏目は気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「ねえ、良? ハネムーンはどこにする?」
「そうだなぁ。北海道で岩盤浴なんてどうだい?」
「ええ〜? 怖ーい。岩盤なんて浴びたらお肌がアザだらけになっちゃうよう」
「はっはっは千佳。読んで字の如くじゃないぞ? かわいいなぁ。よし決めた! 子供作ろう! 九人ぐらい!」
「ええ。私産むわ! ポンプのように!」
「千佳……」
「良……」
 と言って、春日と秋山が抱き合った。
『もういいわ!』
 良と千佳の息がピタリと合った。
 
 
 
   第十二話 毒薬注射自殺の謎

『オウ、バッスメル!』
 鼻の奥まで侵入してきた腐敗臭に春日と秋山が悲鳴を上げた。
 臭いの元となった腐乱死体は既に部屋から運び出されているというのに、胃袋がしぼみ、中身が込み上げてきそうになるその臭いは、こびりつき、いまだ室内を漂っていた。
 あるアパートの一室で遺体が発見されてから二日が経過していた。二人は今その部屋に立っている。
 部屋の中央に敷かれた布団には、遺体からにじみ出た腐敗液が濁った色の染みをつくっていた。そして布団の周りを見れば、脱ぎっぱなしの衣服や乱雑に積まれたマンガ雑誌やゲームソフト、またはAV機器のコード類で足の踏み場も無い。窓からは朝日が差し込んでいるというのに、このすがすがしく無さはどうだ。
「うわぁ。まだそこに遺体が有ったら、とてもじゃないけど部屋に上がれなかったでしょうね」
 鼻を摘んで秋山が言った。
「そうだね。よく腐乱死体の臭いは『地面に立てたバットにおでこを付けてグルグル回るアレ』七十周分の吐き気に相当すると言われているよね」
「よく言うかはわかりませんけど、凄そうだというのは伝わりました」
「あっ、もう無理」
 春日が早足で玄関に向かったので秋山もその後に続いた。二人はアパートの屋外廊下に出ると一息付いた。
「……もうこのままここで報告を聞きますか?」
「うん。そうする」
 秋山は上着から手帳を取り出すと中を読み上げ始めた。もう手帳自体を渡して書いてあることを読んで貰った方がてっとり早いのだが、秋山の書く文字は、ミミズがのたくった後スズメがついばんだような書体をしているため、本人にしか読めないのだ。
「えー、亡くなっていたのは、この202号室で独り暮らしをしていた山城オサムさん、無職で三十二歳です。山城さんは布団の上に横たわった状態で発見され、死因は毒による中毒死です。死亡して二週間は経過していた模様です。また、遺体の傍には注射器が転がっていました。遺体の左上腕部には革バンドが巻かれ、その肘の内側に一つ、注射痕が有ったそうです。通報者であるアパートの管理人さんの話をまとめますと、まず、玄関のドアをマスターキーで開けたところ、内側からチェーンロックが掛っていたため、室内を窺うことはできなかったが、中から漏れ出してきた異臭にただごとではないと思い警察に通報した、とのことです。駆けつけた警官がチェーンを切って踏み込んだところ、中で山城さんの遺体を発見。当時部屋に一つある窓も鍵が掛っており、この部屋の鍵も室内で見付かっています」
「ふむ。部屋は密室だったというわけだね」
「はい。そして、部屋に在ったパソコンは電源が入りっぱなしになっていて、『働くとかマジ面倒だし。働くぐらいなら死んだ方がマシ』という文章が残されていたそうです。文書の作成日時は山城さんの死亡推定日と一致しますので、状況から見て、山城さんがパソコンに遺書を残し、その後自らに毒をうち込んで自殺を図ったものと思われます」
「そう……何か変わったこととかは無かった?」
「えーと、そうですね……あえて上げるとすれば、遺体から検出された毒が致死量を大幅に上回っていた、ということでしょうか。それと、窓の施錠に使用されるクレセント錠ですが、そのレバーハンドルの回転部分と、窓の上にあるカーテンレールの一部に飴が付着していた、ってことでしょうか」
「飴だって?」
「ええ、成分を調べたところただの飴です。それがベターっと付着していたんです。何か今回の件に関わりが有るのかと詳しく調べたそうなんですけど、ただ鍵がベタベタしているだけで窓やその周りに不審物は無かったそうです。なのでこれは自殺とは関係無く、山城さんが自家製の飴作りに挑戦でもして、換気をしようとしたとき、手にベットリと飴を付けたまま窓やカーテンに触れてしまったために付いたものじゃないか、というのが見聞にあたった職員達の見解です」
「ふうむ……」
 春日は玄関に向かい、一旦上がろうとしたが止め、秋山の方を振り向いた。
「秋山君、台所行って、飴の材料になる水飴と砂糖があるか見てきて。水飴作りから始めてる可能性もあるから、片栗粉もあるか探してね」
「…………はい」
 秋山はハンカチを取り出した。

 数分後、覆面姿の秋山が出てきた。
「なんも無かったです。砂糖すらありません」
「そう……うーむ……でもまあ、飴なんかで窓をどうこうできるはずもないか。それに、毒の分量なんていうのも本人の自由っちゃ自由だしね……深く考える必要ないのかなぁ……。あ、そういえばこの部屋のカーテンちょっとおかしくない?」
「へ……? どれですか? ……あ、本当だ、言われてみればそうですね……」
 秋山は玄関から首だけを入れて中を覗いた。すると部屋の窓は、ごく普通の四角い引き違い窓であるのに対し、カーテンレールに掛るカーテンはガラス引き戸用に使われる丈の長いカーテンだった。しかも丈が長過ぎて完全に床に付いてしまっている。
「あ、でも……引っ越してきて、買い換えるのが面倒だから、そのまま使ってる、とか……」
「そっか……そうだね……。後さ、部屋の中、汚いよね」
「え? ああ、そうですね、散らかり放題ですね」
「だよね。でもさ、食べ終わった弁当の空箱だとか、食い散らかしたお菓子とか、ジュースの空き缶とかそういった類のゴミは全然無いんだよね」
「あ、本当だ、確かにそうですね。でもまあ、たとえ汚部屋に住んでいても、あの黒い悪魔とかチュウチュウ鳴く怪獣が嫌いな人だったんじゃないですか?」
「ふむ……そっか……。あ、管理人さんだけど、何しにこの部屋に来たの? 家賃の取り立て?」
「いえ、なんでも山城さんのお父さんに依頼されたそうです。最近息子と連絡が取れないから様子を見てくれ、と」
「へえ、そうだったの。それで、そのお父さんからは何か聞けたの?」
「まあ、そうですね、色々と。でも自殺の動機に心当たりは無いそうです。それと、無職である山城さんの生活費なんですが、今までずっとお父さんが工面していたそうです。家賃や光熱費は全て銀行引き落としで支払ってたんですって」
「ああそう。お父さんなにやってる人?」
「町のお医者さんみたいです」
「ほう、お医者さん…………それで息子さん、オサムさんは長かったのかな、無職の状態が」
「はい、一度は仕事をするために一人暮らしを始めたそうなんですが、仕事が長続きせず、それからはずっと職に就いてなかったようです」
「ふうむ……働くぐらいなら死んだ方がマシ、か……精神的に相当まいっていたのかなぁ……。うん、内側からチェーンロックまで掛ってたのなら、どうやら自殺で間違いなさそうだね。ありがとう秋山君、特殊清掃が入る前にこの部屋に入れて良かった。ごめんね無理言って、担当の案件でもないのにいろいろ調べてくれて」
「いえいえ、どういたしまして。でもまあ、モロ事件性有りだったらこの部屋に上がるのも簡単じゃなかったでしょうけどね」
「うん……。じゃ、冬木君にこのこと知らせてあげようかね」
 春日は携帯を取り出すと誰かにメールを打ち始めた。それが無駄に、異様に速い。親指に何かが憑依したかのような凄まじい速さで文字を打ち込んでゆく。
「……先輩の友人だから別に信用はしてますけど、冬木さんってどんな人なんですか?」
「うーん……そうだなぁ……まあ……ひきこもりだねぇ……」
 会話しているときも、その指の動きは変わらなかった。
「えっ、ひきこもってんですか」
「うん。ひきこもごもだね」
「意味分かりません」
「ふむ、彼を説明するのはちょっと難しいんだよね……ニートっちゃニートなんだけど、全くの無収入ってわけじゃないし」
 春日は送信ボタンを押した。
「へえ? そうなんですか?」
「最近はパソコンなんて便利なものが在るから、こもりながらにして稼ぐ方法が結構有るみたい。プログラミングの仕事を請け負ったり、独自に構築したツールをネットで販売したり、他にも色々。パソコンに関してはかなりの腕前のようだよ」
「それだけPCスキルがあるなら、もう普通に就職した方がいいような……」
「いやでも、そこはほら、彼ニートだから……因みに、彼の座右の銘は『働かなくて済むならどんな苦労も厭わない』だからね」
「ふ、複雑なんですね……」
「そうだろ? お、返信キタ」
 春日と秋山が画面を覗き込んだ。
『オサムが自殺したなんて未だに信じられないんだけど……春日さんがそう言うならそうなんでしょうね……春日さん、わざわざどうもです』
 春日が画面から顔を上げた。
「そうだ、秋山君。この機会に冬木君に自己紹介したまえよ。これ使って」
「はは、そうですね。わかりました」
 秋山は渡された携帯を使って次のようなメールを送信した。
『こんにちは! 春日先輩の後輩で秋山と申します! 刑事やってまっす。よろしくです(笑)』
 返事が届いた。
『いきなり職業の話とか。それは無職のぼくに対する当てつけですか? 自分は刑事という立派な職に就いてますが何か? みたいな?』
「ええっ!? 怒った!?」
 秋山が愕然とした。
「秋山君、話題は選ぼう。彼らの取り扱いには細心の注意を払わないと」
 春日はオウンゴールを決めたチームメイトを見るような眼で秋山を見た。
「ええっ!? これボクが悪いんですか!?」
「ほら、謝って」
「……わ、わかりましたよ……」
『すみません。そんなつもりじゃなかったんです(汗)決して悪気はありません』
『いや別に怒ってませんよ? ただどうなのかなって思っただけで』
『いや本当に。他意はありませんので。すみませんでした』
『怒ってないって言ってるでしょ! それともなんですか? まともに相手するのも面倒だから適当に謝っとけみたいな感じですか!? はいはいメンドくてスミマセンね! はいはい! ぼくなんか死ねばいいんでしょ!? 七輪持ってきて七輪! 今すぐ郵送して!』
「何この冬木って人! はじめましてなのにとことん絡みづらいんですけど!」
「マズイね。完全に頭に血が昇ってる。変なこと考えださなきゃいいけど……」
「うおお、マジっすか!」
 秋山が慌ててメールを打った。
『はやまらないで! 命を軽々しく考えてはいけません! 自殺は駄目です! 絶対に駄目です!』
 すぐに返事がきた。
『別にどうだっていいじゃないですか! あなたには関係の無いことですよ! それともなんですか、ぼくが死ぬことであなたに何か迷惑が掛るんですか? 掛らないでしょう! ぼくなんて生きてたってしょうがないし、生きてたって辛いことばかりで、どうせぼくには乗り越えられやしないんですよ』
『そうやって逃げてばかりじゃ駄目ですよ!』
『嫌なことから逃げだして、何が悪いんだよ!』
『いや、いいですよ! 本当に辛いなら逃げたっていいんです。ただ―リセットした後は、ちゃんとまた、一からやり直して下さい。そしたら今度は、前回よりちょっとでも先に進めるようになっていますから。世の中には、何事からも逃げださないで、どんどん先に進める凄い人達もいますけど、なにもそういう凄い人達と同じじゃなくたっていいんです。ただひたすらシンプルに、〈今の自分に出来ることをする〉それだけでも良いんです。そうやってちょっとずつ、強くなればいいんですよ』
『……はい……よくわかりました……』
『わかってくれましたか!』
 秋山はほっと胸を撫で下ろした。
『……じゃあ一度死んで、転生して、それから人生を一からやり直せばいい、ということですね?』
「ちがうわぁぁぁぁ!」
 秋山が絶叫した。そしてすぐさまメールを打つ。
『だから! 死ぬのは絶対駄目です! いいですか、世の中には、生きたくても生きられなかった人達がいるんです。自殺はこういった人達に対する、命に対する冒涜です!』
 秋山は真剣な顔付で次々とメールを送信した。
『それに自殺は誰かを悲しませるのです。ボクは結婚したことが無いので子供はいませんが、もしボクに子供がいて、その子供が自殺したらもう悲し過ぎます。もしボクが自殺したらボクのお父さんもお母さんも悲しむと思います。だから駄目なんです。じゃあ、悲しむ人がいなかったら自殺してもいいのか、って話になりますけど、やはり駄目で、なぜかと言うと、これから先、悲しんでくれる人といつか出会うはずだからです。だから、その人のためにも自殺してはいけないんです』
『…………ふーん。秋山さんって、春日さんと似たようなことを言うんだね。なんか秋山さんもいい人っぽい印象を受けた』
 秋山がキョトンとしていると、隣で春日がくっくと喉で笑った。
「全く……生意気だろう? 冬木君といい、夏目君といい、最近の若い子ときたら……大人をからかってばかりだ」
「はあ……えっ? あっ、あれ冗談ですか!? なんだよぉ……もう、先輩が変なこと言うから!」
「ごめんごめん、ほんの演出さ」
 春日のニヤニヤした顔を見て秋山は溜息を吐いた。
「あ、じゃあ、冬木君ってそのくらいの歳ってことですね?」
「うん。まあ十代後半だね。正確な歳は聞いてない。一度注文を受けた本を彼の部屋まで届けたことがある。ドアをノックするとね……ドアが少しだけ開いて、その隙間から手がニュー、っと伸びてきてね、本をひったくるとすぐにパタンと閉めちゃった」
 また春日はくっくと笑った。
「その時のほんの一瞬、初めて僕等はお互いの顔を確認したわけさ。なんか普通の、今風の子だったよ。モロその辺にいそうな学生って感じ。痩せてた。後、血色があまり良くなかった。隈なんか作っちゃってさ」
「なるほど、今風ですね。じゃあ知り合ったきっかけがそれですか?」
「いや、違う。それとは別に、全くの偶然だよ。あれはいつだったか……僕がパソコンでネットサーフィンに興じていると、トラフィックの海に漂う、一通の電子メールを見付けたんだ。ウイルスプログラムでもなさそうだし、開いてみるとこんな文章がある。『運命って信じますか? この広大なネットワークの中で、唯一あなたがこのメールを拾ってくれました。ぜひお友達になってくれませんか?』と日本語と英語で書かれていた」
「おおっ! すげぇ! あれですか? 書いた手紙を空ビンに入れて、大海原へ流すアレのデジタル版ですね!?」
「ああ! すごいだろう? それを見た僕はキショイと思ってすぐさまその文書をゴミ箱へドロップしたわけだが」
「ああっ! 返事書いてあげて! 嘘でもいいから書いてあげて!」
「数日後、ふと思い立った僕はゴミ箱からその文書を取り出し、返事を書くことにした」
「ああよかった! なるほど。それがきっかけなんですね」
「ああ。そして、文通が始まった。僕のオネエ演技に騙されているとも知らず、彼は僕のことをすっかり女性だと思い込み、初めて女友達ができたと喜ぶも、実は相手がオッサンだったという真実を知るのは六カ月も経ってからのことだった」
「ヒドイ! 先輩ヒドイ!」
「いやもう………………爆笑」
「最低だ! アンタ最低だ!」
「いやいや、冬木君はね……真剣に相談に乗ってくれる友達が欲しかっただけなんだ……誰でも良かった、性別は関係なかったんだよ。冬木君の話をすっかり聞き終えて、彼はもう大丈夫だ、と判断したからカミングアウトしたんだ。まあ、メッチャキレてたけどね」
「そりゃそうでしょう」
「それからはもう友達。ネット友達はもっと増えたみたい」
「へえ……ボクの知らない所でそんなことがあったんですねぇ……」
 何に感心したのか、秋山がしきりに頷いた。すると、手に握った携帯がメールの着信を知らせた。
『春日さん、やっぱりオサムって自殺するような人間じゃないと思うんだよね。でさ、さっき貰ったメールを読み返してたんだけど、思い出したことがある。オサムが残したらしい〈働くとかマジ面倒だし。働くぐらいなら死んだ方がマシ〉っていうセリフだけど、前にアイツがチャットで使ったことがあるセリフなんだよね。前にアイツが〈金が欲しい。あーあ、早く親死んでくんねーかな。そしたら遺産とか保険金とか手に入るのにw〉とか言い出して。その後に、〈働くとかマジ面倒……〉って続くんだ。じゃあ死ね、このダメ人間野郎って返事しといたけどね。働くぐらいなら死ぬって、モロあいつが使いそうなセリフではあるんだけど、ホントに死ぬときに使うもんかなぁ……』
 これを読んだ春日が思案投げ首。したかと思うと、ふらりと玄関を上がり、落とした小銭でも探しているかのように室内をウロウロしだした。秋山は口を挟まずそんな春日の様子を見守る。春日は布団や雑誌の山を跨ぐと窓に歩みより、窓枠の隅々に視線を巡らせた。今度はクレセント錠のレバーハンドルを動かして感触を確かめる。上下させると粘着質な手ごたえを感じた。窓を開け放つと外は今日も良い天気だった。眼下には草が伸び放題になった空地が拡がっている。
「そこはただの、長いこと買い手が付いていない売り地です。その空地から、部屋の中の様子を窺えるはずもなく、この二週間、室内の異変には誰も気付かなかったようです。お隣さんや大家さんですら」
「ふむ……家賃や光熱費は銀行引き落としだったね。集金係が訪れることも無いから更に気付かず……か」
「はい。大家さんの話では、郵便受けにDMやらチラシやらが何週間分も溜まるのはいつものことだったらしく、まさか住人がこんなことになってるとは夢にも思わなかったようです。この二週間でなにかしらの業者が訪ねてくることもあったでしょうが、でかでかとドアに貼られた『セールスお断り』のプレートを見れば、まわれ右するしかなかったでしょう」
「……オサムさんの様子を見るよう大家さんに依頼したのはお父さん、だったよね?」
「はい、そうです。お父さんは今まで、数カ月に一度様子を見に来たり、連絡を入れたりしてたそうなんですが、最近になって全然連絡が取れなくなってしまったんだそうです。そこで、大家さんに」
「そう。でもお父さんだけ? お母さんは?」
「はあ、それが……奥様は大分前に亡くなっているようです」
「そう……」
 春日は部屋の中央に敷かれた布団に目を落とした。
「先輩、これって、事件の可能性があるんですか?」
「うん……もしかしたら、だけど……でも、わからない……部屋はチェーンロックまで掛っている密室だから……いや、まてよ……?」
 部屋を見回した春日の脳裏に、ふと、ある考えが浮かんだ。
「秋山君、オサムさんの遺体だけど外傷と呼べるものは注射痕だけと思っていいよね?」
「え? ええ、そうですね。注射痕より目立つ傷があれば気が付くはずですから、それでいいと思います」
 春日は頷くと窓へと向き直った。窓を閉め、クレセントを回して受け金に掛ける。次に手を上に伸ばしてカーテンレールを触った。
「そうか、なるほど! 飴は接着剤の代わりか……!あとは〈アレ〉を使って……うん……だとすればこの犯行、できる……!」
「え、わ、解っちゃったんですか!?」
「うん、あのね……」
 春日の言葉を遮ってメールの着信音が響いた。
「おっといけない。冬木君をほったらかしにしてた……」
 春日はボタンに指を走らせ、冬木にこのまま待機しているよう指示するメールを打ち始めた。
「秋山君、君はオサムさんのお父さんに連絡を取ってくれるかい? そしてこう言うんだ『オサムさんは他殺の可能性が出てきた。〈奴〉を捕まえるか、〈あるもの〉を調べれば事件の真相が判るかもしれない。明日、もう一度部屋を調べてみる』とね。ベタな方法だけど、きっと引っ掛ってくれるでしょう……!」
 そう言うと、携帯をパクンと閉じた。

※部屋を密室にしたトリックとは?

 その夜、闇に紛れた僕達は、自然と化して獲物を待つハンターのように息を殺していた。はやる鼓動は抑えつけようとすればするほど、意に反してビートを刻む。このヒリつくような緊張感は学生の頃参加した、フェンシングの大会以来だろうか……隣を見れば、秋山君が肥料を貰い過ぎたさるすべりみたいな顔で戸口を見詰めている。彼も緊張しているようだ、無理もない……だって彼も人の子だから。つぅー、っと汗が頬を伝う。やばい。オシッコいきたくなってきた。
「うるさいですよ! 何急に一人称形式!? なんですか、さるすべりみたいな顔って!」
 遂に耐えきれなくなって秋山が叫んだ。
「ああいや、中ダルみ気味だと思ったから、ちょっと奇をてらおうかと……」
「そんな奇のてらい方邪道です! 映画のDVDレンタルしてきて、いきなり副音声の解説付きで本編鑑賞するくらい邪道です!」
「しっ、静かに……!」
 そのとき、外の階段を上るカンカンカン、という足音が聞えてきた。二人は口を塞ぎ急いで身を縮める。意識して忍ばせているかのようなその足音は、ゆっくりと、しかし間違いなくこの部屋を目指しているようであった。
 チキチキ。鍵穴に鍵を差し込む音がする……。春日と秋山の鼓動がピークに達する……! カチン、と錠が解かれる音に続いて、ゆっくりとノブが回転した。息を顰めた何者かが部屋に入ってきた……影はすぐには動かなかった。玄関から室内の様子を窺っているようだ。そして小さな明りが点いた。どうやらペンライトのものらしいその細い光を頼りに、影は部屋の中へと踏み込んできた。
「そのまま! 動かないで!」
 春日と秋山は飛び上がるような勢いで立ち上がり、侵入者へライトの強烈な光を浴びせた。侵入者はその眩しさに思わず眼を庇って立ちすくむ。
「オサムさんの……お父さんですね……?」
 秋山が一歩前に出た。
「だだ、誰だ! な、な、な……」
 言動がおかしい。みなりは普通だが、まともな精神状態でないのは一目瞭然だった。眼の奥で狂乱の色が渦巻いている。
「誰だ!」
 わなわなと唇を震わせて同じ言葉を繰り返した。頬はこけ、脂ぎった髪がてらてらと光っている。
「オサムさんを殺害したのは……あなたですね……?」
 春日は静かに語り掛けた。
「あなたは、オサムさんが眠りについた夜、いや、オサムさんは昼夜逆転の生活を送っていたかもしれませんので、昼かもしれませんが……この部屋を訪れ、眠っているオサムさんをガスでも嗅がせて更に深く眠らせ、用意した毒薬でオサムさんを殺害した。その後、オサムさんが書いた文章を使って遺書を捏造したあなたは、部屋を密室にする準備に取り掛った。まず、部屋にある生ゴミを綺麗に片付け、処分する。そして玄関のドアを施錠する。このとき非常に重要なのはチェーンロックを掛けるということ。このチェーンロックが掛った上で、ドアと窓の施錠が完璧であれば、合鍵を使用した殺人事件の線は消え、合鍵を所持していたとしても疑惑が浮上することはまずない」
 秋山が首を傾げた。
「それはわかりますけど、生ゴミを処分するのは何故です? それに、そんな部屋のどこから外へ脱出するんですか?」
「うん、それはね、窓に仕掛けを施し、そこから出たんだよ。お父さんの採った行動はこうだ……まず、液状ゴムを使って、大きな、Oの形をしたゴムバンドを作っておく」
「え、液状ゴム、ですか?」
「うん。それは、常温では液状なんだけど、乾燥させると柔軟なゴムになるんだ。工事現場なんかで、防水処理を目的として、様々な場所の隙間を埋めるために利用されているね。輪ゴム等の軟質ゴム程ではないけど、伸縮性に優れた皮膜が作れるんだよ。そして、そのゴムバンドをカーテンレールにくっ付ける」
 春日は窓際に移動すると指差しで説明を始めた。
「接着剤として使用するのは飴だ。その飴を熱して融かし、カーテンレールにゴムバンドをくっ付けたら冷まして固める。次にクレセント錠のハンドルレバーを横に倒し、その回転部分にも飴を塗り付け、その位置でレバーを固定する。そして、カーテンレールに垂れ下がったゴムバンドを伸ばし、レバーに引っ掛ける。これで仕掛けは終了。窓から出て、冊子に足を掛けつつ窓を閉め、後は空地に飛び降りてこの場を立ち去る……。この時点ではまだ窓には鍵が掛っていない。仕掛けを作動させるには朝を待つ必要がある」
「朝を? なぜです?」
「ほら、この部屋の窓は東側を向いている、今朝も朝日が差し込んでいただろう? その直射日光を利用して飴を融かすのさ……! 飴が融けることによって固定を解かれたクレセント錠がゴムの収縮力によって回転し、受け金に掛り、窓の施錠が完了する。そして、カーテンレールの方の飴は室内の温度によって時間差で融け、ゴムバンドは自由落下を果たすわけだ」
 秋山はライトを顎の下にもっていき、顔を下から照らした。
「なるほど……! でも、その仕掛けなら、別に液状ゴムじゃなくて、ただのゴムバンドでもよくないですか? ……あ、いや、それ以前に、落下したゴムが、物的証拠が丸々その場に残ってるじゃないですか……!」
「秋山君、顔怖い。……そう、トリックがバレないようにするには、落下して窓枠に引っ掛ったか、床に落ちたかしたゴムバンドを消し去る必要がある。その重大な使命を帯びた〈奴〉というのが、どこにでも忍び込み、こういう部屋には何匹湧いて出ようがさして珍しい存在では無い者達。齧歯類ネズミ科、クマネズミ属の一端を担う通称ドブネズミ達だよ」
「ドブネズミ!」
「そう、部屋を脱出する前に、薬の分量を調節して眠らせたネズミを数匹放置していくのさ。やがて眼が覚め、空腹のネズミ達がそのゴムバンドを食べてしまうように……! 周知の通り彼等は雑食であり、某ネコ型ロボットの耳を齧り倒したエピソードは余りにも有名であろう……!」
「はわあ……」
 春日の言葉に、秋山の心の四次元ポケットが開いた。
「しかし、ネズミ達に確実にゴムバンドを齧らせるためには幾つかの工夫が必要になる。まず一つ、関係の無いものを食い荒らして満腹にならないようにする必要がある。だから餌になりそうな生ゴミは全て処分したんだ。二つ目、ちょっとグロい話、ネズミ達はほっとくと遺体にまで食らい付く。だから、致死量を大幅に超える量の毒を投与する必要があった。ネズミは鼻が利く。毒の回った獲物にはまず手を出さない。だから遺体には注射痕しか外傷が無かったんだ。三つめ、ゴムバンドが窓枠に引っ掛る可能性を考慮して、カーテンの丈を長くしておき、ネズミ達が昇り易いようにしておいた。最後に四つ目、ゴムバンドを作る際、液状ゴムを使用し、ネズミ達の大好物である種子や穀物、ヒマワリの種やピーナッツ、トウモロコシ等だね、これらを粉末にしてゴムに練り込み、喰い付きを良くする。電気コードですら齧る彼らだ、充分なおやつだったろう」
「そ、それが、ゴムバンドがただのゴムじゃなくて液状ゴムだった理由ですか……!」
「そう。まあ現時点では証拠も無いし、僕の想像でしかないんだけど……お父さん、あなたがここに姿を現したことで確信に変わりました……〈ネズミのフン〉を見付け出されて分析されたら、何を食したのかバレてしまう……それはマズいですよね? だから、あなたは全てを消し去ることにした……」
 春日は天井から下がる電灯のヒモを引いた。数回の点滅の後、青白い光が室内を照らしだした。
 汗で肌にシャツを張り付かせた男は手に灯油の缶を下げていた。そして、男の視線は秋山が手にした消火器に釘付けになっている。春日はライトの明かりを消すと、続きを話始めた。
「注射痕がね、一つだけだったんですよ……静脈注射というのは結構難しい。新米の看護婦さんなんかはよくミスってますよね……それを一発で成功させているということは、もしかしたら、注射をしたのは扱いに慣れた人物、あなただったんじゃないかと、ふと思ったんですよ。そして、息子さんの生活費を全て工面していたのはあなただ、大家さんや集金係をこの部屋から遠ざけることができる立場にいた……父親として合鍵を所持していてもなんら不思議では無く、医者という立場を利用すれば毒薬の入手もそれほど困難では無かったでしょう……オサムさんを殺害したあなたは、頃合いを見て大家さんにオサムさんの安否を確認するよう依頼し、計算通り遺体は密室の状態で発見され、証拠もネズミ達が消し去ってくれた。しかし接着剤代わりに使用した飴までも消し去ることはできず、トリックも完全とまではいかなかったようですね……どこか、間違っているところがありますか?」
「……………………」
 男は春日の声が聞こえていないかのように、口を開けてただ突っ立っている。
 ヴーン……カカカッ……
 ふいに、触ってもいない山城オサムのパソコンに電源が入った。狭い室内にシーク音とファンの回転する音が響く。
 春日の近しい人間で、こんな芸当ができるのは一人しかいない。
 画面に『冬木です』という素っ気無い文字が浮かび上がった。しかしその文字が画面に表示されたのは、電源が入りスタートアッププログラムが滞りなく全て起動し、チャットが出来る状態になった七分後のことだった。
「おせぇよ!!!」
「間が持たねぇよ!!!」
 春日と秋山が口々に非難を飛ばした。
「もうちょいスムーズに来い! ドラマティックに!」
 春日がどんなに強く訴えようと、その声は画面の向こうには届かない。
『冬木です。オサムはダメ人間だったけど、親父殿、あんたはそれに輪を掛けてダメ人間だな! 虐待で子供を死なせる最悪な親もいるけど、明確な殺意を持って子供を殺すあんたみたいな親は最低最悪だ! あんた、人間じゃねぇよ!』
 画面に浮かぶ文字を見詰める男の顔からは土台生気というものが感じられない。
 春日はパソコンの前に跪くと、キーボードに指を走らせた。
『冬木君。きっとお父さんは、君達が交わしたチャットでのやり取りを、どのような経緯でかは知らないが、読んでしまったんだと思う。オサムさんが使った〈あーあ、早く親死んでくんねーかな。そしたら遺産とか保険金とか手に入るのにw〉という文章をね』
『??? だってあれは』
『そう。wは符号、(笑)と同じ。ニュアンス的には冗談だ、という意味。しかし、その文字に馴染みの無い人間は、文面通りに受け取るしかない。生活を面倒みて貰っておきながらあの言い草……お父さんは酷く絶望し、深く傷ついたんだ。君達が普段何気なく使っている言葉が、人の心を鋭く抉ることだってあるんだよ』
 ゴトン、と灯油缶が床に落ちた。男は顔を歪め、崩れ落ちると声を上げて泣き始めた。秋山は消火器を床に置き、頭痛を堪えるかのように顔を顰め、春日は目を細めて画面に点滅するカーソルを見続けた。

 その後、父親は秋山に付き添われて警察へと向かった。春日は一人、部屋の中を意味も無くぐるりと見回した後、最早一言も発しなくなったパソコンの電源を切った。
 
 
 
   第十三話 罠

 ある日のこと、携帯を片手にバス停の標識にもたれ掛った秋山が誰かと話をしていた。上機嫌に鼻を鳴らしているところをみると、会話は弾んでいるらしい。
「あー違う違う、そんなときこそ落ち付きなって。トリガー引くときは、息止めててみ? そんで、絞るようにじわぁっと引く。したら照準がブレないから。デジカメ撮るとき、手ブレ抑えるコツと一緒よ。マジマジ。…………何だって? あーそれは! じゃあ例えばさ、自分は茂みの中に隠れてると想像してみ? そんで、視界の十メートル先を敵が右から左へ移動していたとしてだよ。敵はこちらに気付いていない、狙撃のチャンス! でもこのとき、敵の動きに合わせて銃口も動かしていたんではいつまでたってもトーシロー。そうじゃなくて、敵の進路を先読みして、敵の二歩先に狙いを付けて弾幕を張るわけよ。そしたらば、敵は自分から弾幕に飛び込んで来てくれるって寸法よ! これ当たります。もちろん、タイミング命な? 早過ぎても遅過ぎても駄目、外せば即反撃くらうんだぜ? え? ……おいおい、このくらいでいちいち感心するなよ。こんなのサバゲーの初歩だよ君ィ。はっはっは―」
「えっらそうに」
 背後から掛けられた声に秋山は携帯を跳ね上げた。
「せせせ、先輩、お疲れ様です! 遠い所をどうも!」
「全くだよ。何度乗り継いだことか」
 高く昇った太陽の下、辺りは見渡す限り田んぼと畑しかない。
「因みに、携帯のアンテナは基本一、二本です。山に入ると圏外の場所も在ります」
「ど田舎にも程があるな」
 などと言いつつも、時間の感覚が麻痺しそうなその半端無いのどかさに春日の眼元は緩んでいた。
「ええ。ここの風景って何十年も前からずっと一緒なんでしょうね。本当にのんびりしてますよね」
「まあ、農家の人はのんびりどころか毎日汗びっしょりで頑張っているんだろうけどもね。しかし秋山君、君も物好きだねぇ、こんな所まで来て二日掛りのサバイバルゲームとは。有休をなんだと思っているのかね君は」
「ほ、ほっといて下さい。ボクにとっては有意義な使い方なんです」
「なるほど、意義の有り無しって人によって大きく基準が異なるんだなぁ……」
 春日は明後日を向くと『勝手にしやがれ』とボソリと吐いた。
「あっ、ちょ、急な呼び出しにも応じる先輩だって充分物好きでしょう!」
「…………まあな」
 春日はニヤリと笑った。
「とまあ、冗談はこれくらいにして。秋山君、一体何があったんだい?」
「はい。じゃあ歩きながら、こっちです……えー、昨日ボクが所属するサバイバルゲームチームが別チームと山で交流戦をしていたときの話なんですけど、ボクと軍曹が茂みに潜み、特製激辛クレイモアの設置を敢行しているとですね、ふいに電車の警笛が―」
「え、ちょ、ごめん、待って、特製、何? ぐ、軍曹?」
「ああ、特別製の指向性対人地雷ですね。あとほら、やっぱり階級とか、必要になってくるじゃないですか。こういうのって」
「いや、知らないけど」
「まあ、普段はそれぞれ別々の仕事してるんですけどね。大佐殿はミリタリーショップを経営してて、大尉殿は現職の自衛官。ボクが少尉で曹長と軍曹は会社員。伍長はまだ大学生ですね」
「本職がおんのかい。刑事の君といい、一体何やってんの」
「だってボク、現場で発砲する機会なんて皆無ですし……そしたらもう休日は、同志達と共にのびのびと戦場を駆け巡るか、一日中家でガンシューティングゲームするしか選択肢が無いじゃないですか」
「時間が在るなら昇進試験の勉強したまえ」
「もう! 大人達は二言目には勉強しろ、勉強しろ! 高校のときは大学入ってから遊べって言って、大学では就職してから遊べって言って、ボク一体いつ遊べばいいんだよ!」
「うむ。まだ学生気分が抜けてないみたいだね。いつまで経ってもゲーム感覚か?」
「あ、ゲームと言えば、今使ってる液晶テレビ、もっと大きいサイズに代えようかと思ってるんですよ。夏にお金が入ったら」
「ボーナスをなんだと思っているのかね君は。もうしばく。そこになおれ」
 しかし春日は考えた。この秋山のような消費者が経済を動かしているのも事実である。一概に贅沢は敵、物をボロボロになるまで使い倒す精神こそが美徳と片付けてしまってよいものだろうか。春日がそんな理想と現実の狭間で身悶えていると、秋山がたいして空気も読まず説明を再開した。
「話が横に逸れましたね。ええと……どこまで、ああ、ボクと軍曹がトラップを仕掛けているとですね、電車の警笛が長く鳴って、そしてしばらくしたらパトカーと救急車のサイレンも聞こえてきたんですよ。気になったんで、ゲームを中断して、山を降りて様子を見に行ったんです」
「……迷彩服のまま?」
「はい。みんなで」
「みんなで?」
「はい。で、話を聞くと、人が一人電車に轢かれたっていうじゃないですか。遺体はもう酷い状態だったみたいです。ボクは血がアレなんで、現場には一歩も近付きませんでしたけど」
「……そう」
「車両の運転手が線路の上に立つ男性を発見して、慌てて警笛を鳴らし、ブレーキを掛けたんですが止まることができず、轢いてしまったみたいです」
「ふむ……。その男は線路の上で突っ立って、何をしてたんだろう。どうしてその場から退かなかったのかな」
「そこなんですよね。亡くなった男性は轢かれる直前、携帯で家族に助けを求めています。ですのでどうやら自殺ではないみたいなんですよ。男性は家族に『線路で足が動かなくなった』と言ったそうです。家族の人が『足を怪我したのか? 足が溝に挟まったのか?』と聞くと男性は『違う、解らない、足が動かない』と、とにかくパニックの状態でそう繰り返したそうです。……そしてそこで、電話は途切れたそうです……」
「ふうむ……」
「男性が口走った言葉の意味は不明なんですけど、線路上に特に異常は見られなかったため、この一件は男性が踏切を使わず線路を横切り、足を取られたための事故として処理される見通しです」
「そうなんだ」
「ただですね、やはり男性が電話でした会話の内容に疑問を持って、心にモヤモヤを残したままの地元の刑事も中にはいましてね。これはボクも同じ警察官としてほうっておけないな、と思いましてね!」
「なるほど……その地元の刑事ってのが美人なわけだ……」
「あ……あはははは……」
「あははじゃないよ」
「とにかく先輩、力を貸して下さい。後お金も貸して下さい」
「よし、歯を食いしばれ、そして歯医者に挿し歯の予約を入れろ」
「えー……だってここ、ATMも無いんですよ」
「知らんがな」
「オーノー……ならどうしたら……」
 秋山は頭を抱えた後、手を大きく広げ、天を仰いだ。
「大地よ海よ……そして生きているすべてのみんな……! オラに現金をわけてくれ!」
「集まらん集まらん。自分でなんとかしなさいよ。よく知らないけど、サバゲーやるときって山の使用料とか許可とか必要なんじゃないの? お金持ってきてるでしょ」
「え……あ、いや……その……」
「ちょっと! まさか、他人の私有林とかに勝手に入り込んでやってたんじゃないでしょうね!?」
「ち、違うんです! ボク達は勝負に熱中するあまり、そこが私有地だと『気付かなかった』んです! 過失です! しょうがないんです!」
「こらあ! そうやって言い訳まで用意して! いい? そういう行いがサバイバルゲーマー全体のイメージに繋がり、善良なサバゲーマー達が迷惑するの! 謝って! そして、よい子のみんなはぜったいにマネしないで!」
「は、はいぃ! すみませんっ! 以後気を付けます!」
「はあ……全くもう、裁判沙汰になっても知らないからね」
「は、はい……何か……心配掛けてすみません」
「べ、別に君の心配なんてしてないよっ! 勘違いしないでよね!」
 春日は顔を赤らめるとそっぽを向いた。しばらく続いた沈黙の後、秋山はその場に崩れ落ち、地面に拳を叩き付けた。
「だめだっ! …………オッサン二人でツンデレプレイしたところでおぞましいだけだっ……! 萌えるどころか焼身したくなりましたっ……!」
「全くだね……」
 春日もホロリと涙を流した。
「こんなとき夏目ちゃんさえいてくれたら……!」
「そうだね……今度リクエストしてみよう。すると彼女はきっと、火が付いたように怒りだし、断固として、首を縦に振らないだろう」
「そうですね。後、絶対ボク等にお説教しますよね」
「うん、するね……。そうやって怒れば怒る程、その怒った顔がツンなのだとも知らずにね……!」
 春日と秋山は顔を上げるとニヤッと笑った。
 その後、秋山がした交渉によって、金銭の貸与については返済時、利子としておこめ券を付与するものとし、事故の調査に関してはひとまず現場を見てから判断するものとして基本合意に達した。
 そうこうしている間に問題の場所である、森の中に引かれた単線の線路が見えてきた。森の中に引かれているといっても、木が倒れてきてレールを塞いだりすることがないよう、走る線路とその両脇に生い茂る木々とは充分に間隔がとられており、日差しが遮られることもないので明るく、とても凄惨な事故が起きたとは思えない、静かで美しい場所であった。
「向こうから電車が来て―そこで男性が轢かれたんです」
 秋山が身振りを加えて説明を始めた。電車の運行が再開されているため、二人は今線路から少し離れたところに立っている。
「ちょうどこの辺り、ちょっとカーブになってるんです」
「なるほど……電車の運転手からすると、木々が視界の邪魔をして、カーブの出口に立つ男性の発見が遅れてしまったわけか……」
「そういうことになります。えー……亡くなったのは小野さんという五十代の男性ですね」
「ふむ。それでその小野さんはどこか怪我して線路に横たわったまま動けなくなっていたわけじゃないんだよね? 本人が電話で怪我したわけじゃないとか言ってたようだけど」
「はい。電車の運転手は小野さんが線路の上に立っていたと話しています。あ、それでですね、小野さんは足を怪我していたかもしれないと言うより、前々から足が不自由な方だったようです」
「あ、そうなの?」
「はい、片足が不自由だったそうで。でも車椅子とか杖とかが必要な程ではなくって、一人で立つこともできるし、足を引きずりながらですが歩くこともできたみたいです。だから親族の方も最初、歩けなくなる程の怪我をしたんだと思ったそうです」
「ふうん……」
 春日は首を伸ばして左右を確認すると、早足で線路に近付き、しゃがみ込んで目を凝らした。均した地盤の上に砕石が撒かれており、その上に木製の枕木が等間隔で敷かれ、更にその上を錆びの浮いた二本のレールが走っている。古いが、何の変哲もない線路であった。春日は立ち上がると踵を返した。
「特に気になるところは無いね。まあ目に見えておかしなところがあれば、昨日の時点で地元の警察が見付けてるだろうけど」
「はい、見た限り別に不審な点は無いんです」
「ふむ……ところで、小野さんはなんでここを通ったのかな」
「それはだから、小野さんが足の不自由な方だったからですよ。小野さんは移動のとき踏切まで迂回したり歩道橋の階段を上がったりすることが容易ではないため、移動の途中に線路が有った場合は近道のためいつもそのまま線路を横切っていたみたいです」
「ああ、それはその通りなんだろうけど、そうじゃなくて。昨日は何の用事があってここを通ったのかなって」
「ああ、すみません、えと、小野さんは出掛ける際、家の人に知り合いの家に行くと話したそうです」
「知り合いの家に……行きに轢かれたのかな、それとも帰りに轢かれたのかな?」
「帰りのようですね。その知り合いというのが誰なのかも分かってます。その知人宅から小野さんが出てくるのを見掛けた方もいますので、帰り道で事故に遭ったのは間違い無いようです」
「ふむ……そんじゃま、その知人さんに事故の前小野さんにどこか変わった様子が無かったか聞きに行ってみるとしようか」
「おっ、それじゃ協力してくれるんですね!?」
「このまま帰ってもスッキリしないからね。でもその知人って今行ってもいるかな? 仕事中かもしれないよね?」
「あ、そうですかね。家がどこにあるかは知ってるんですけど」
「そう、じゃとりあえず行ってみようか」
 春日と秋山は足早に線路を跨いだ。そして森を抜け、田園に漂う肥料の香に風情を感じつつ、小野が昨日訪ねたという居を目差した。

 そうして二人は一軒の家屋へと辿り着いた。表札には『別所』とある。しかし戸を叩いても返事は無い。
「あらあ、やっぱり出掛けてるみたい。……ここまでだね。秋山君、残念だけど」
「ち、ちょっと待ってみましょうよ! 後一時間だけ!」
「長いわ」
「じゃあせめて一時間半! ……いや二時間!」
「この場合普通、時間は短くなっていくのが正しい。君は頭がおかしいのか?」
「じゃあえっと、じゃあえっと……!」
「どんだけ女刑事オトしたいんだよ」
 二人が戸口でギャアギャア騒いでいると後ろから声を掛けられた。
「ウチに何か用ですかな?」
『え?』
 振り返ると二人を怪訝な表情で見詰める中年男が立っていた。相当年季が入った作業服を着ていて、履いている安全靴もくたびれ、擦り切れた爪先から中の鉄板が見え隠れしていた。そして手には仏花を携えている。
「あ……あの、失礼ですけど、別所さんでいらっしゃいますか?」
「……そうですが、あなた方は?」
「すみません、ボク達昨日の、小野さんの事故について調べてまして」
「……ああ、そうですか……」
「今、お仕事からお帰りですか?」
「ええまあ、工場は今日午前中だけだったものでね。
……私もビックリしてますよ、事故には……」
「はい。それでですね、昨日小野さんがこちらに伺ったとお聞きしまして、そのときの状況をお聞きしたくてですね」
「……状況、とは?」
「例えば小野さん、酔っ払ってベロベロだったりはしませんでしたか?」
 春日が訊ねた。
「ああ、そういうことですか。いや、酔っ払ってはいなかったですね」
「そうですか……。では、小野さんにどこか変わったところは無かったですか?」
「ううん……いえ、判りませんね。無かったと思います」
「そうですか。ではですね、差し支え無ければお聞きしたいのですが、小野さんは昨日どういったお話でこちらに?」
「ああそれは、実は私、遠くに引っ越すつもりで、家を手放そうかと思っていましてね。それで、この家を安くで譲るから、見るだけでも見てみないかと小野さんに相談したんですよ」
「なるほど、それで昨日は小野さんがお宅を見にこちらへ」
「そうです。それがこんなことになって……」
 別所は春日の視線が自分の手に向けられていることに気が付いた。
「ああこの花はね……実は別所さんにではないんです。勿論、後で別所さんの分も用意するつもりでいますがね。今日は……妻の命日なんですよ」
「あ、失礼しました」
「いえいえ、それでね、この家は独りで住むには広過ぎるから……それでね……」
「そうでしたか……」
「私から教えて差し上げられることは特に無さそうですね……申し訳無いですが……」
「ああいえいえ、参考になりました。ありがとうございました」
「どういたしまして。でもね、私思ったんですが、小野さん昨日は白い服を着ていたんですよ。ここ数日ずっと日差しが強いでしょう? 服が太陽の光を白く反射して、電車の運転手には小野さんの姿が見え難くなってしまったんじゃないかなぁ。だからあんな事故に……」
「……はあ……なるほど……」
「……では、すみませんが私はこの辺で……」
「あ、お疲れのところすみませんでした」
 別所は春日達が礼を述べると会釈で応え、家の中に消えていった。

 その後、春日と秋山は小野の住居にも足を延ばした。位置的に見て事故現場である線路は小野が別所宅から帰宅する際、近道のために横切ろうとしたものと見て間違いなさそうだった。そして二人は再び現場へと戻ってきた。
「先輩、小野さんが電話で言った謎の言葉、少しは解りそうですか?」
「…………」
「一体ここで何があったんでしょうねぇ……」
「……あのさ、さっき別所さんが、小野さんが着けていた白い服が日光を反射したんじゃないか、とか言ってたよね?」
「ああはい。確かに太陽がカーッと照ってるときって、干してある白いシーツとか女性が差している白い日傘をまぶしく感じるとき有りますね。反射した光の所為で小野さんの身体の輪郭がぼやけてしまって、それで運転手がそれを人だと気付くのが遅れたんじゃないかってことですよね?」
「うん……。でもさ、よく別所さんは小野さんが白い服を着てたってだけであんな風に憶測が飛ばせたよね。緑ならまだ分かるんだよ、木々の緑と緑色の服が同化して、運転手には小野さんが見えなかったんじゃないか、ってね……」
「迷彩服みたいにですか?」
「そうそう。……これってさ……もしかしたら、別所さん自身がこの場所で小野さんを見て、実際にまぶしく感じたからあんな科白が出たんじゃないだろうか……? すなわち、小野さんにここで何かをしたのは別所さんなんじゃないかな……」
「い、いきなりですね。何かって何を?」
「いやそれはまだ解らないけど……。片足が不自由な小野さんが足を引きずりながらここへ来て……そしてここで何かが……」
「あ、その小野さんの悪い方の足なんですけど、神経が麻痺していたみたいですよ。昔車の事故に遭ったらしいんですが、そのとき足首に喰い込んだ大きめの鉄の板がそのまま埋没してしまって、いまだ足に残ったままだったみたいです」
「うわあ、痛い! さっさと手術して取り出せば良かったのに。あ、麻痺してるから痛くないのか」
 春日が顔を引きつらせていると、近くの茂みがガサガサ揺れ、そこから一人の老人が顔を出した。
「おうい、おめえさん達こんなとこで何してる? あぶねえぞ。昨日もこの辺りで事故があったらしいわ」
「ああはい。実はボク達、その事故について調べてまして」
「へえ、そうなの」
「おじいさんはここで何を?」
「俺? 俺はあれだ、山菜集めててな、農協に持って行くの」
「そうですか。あ、そうだおじいさん、昨日もここに来ました? 昨日この辺りで別所さんを見ませんでしたか?」
 春日が訊ねた。
「あ? 別所って鉄工所で働いてる別所か? いやあ昨日は俺来てねえもん。知らね」
「そうですか……」
「でもそういや、何日か前にこの辺りで見掛けたな。仕事中だったのかもしれねえ。わからねえけど何かしてたな。それでな? 線路のところで急にすっ転んでな。靴が脱げてたわ」
「靴が?」
「ああ。その後はどっか行ってしもうたが」
「…………あ! も、もしかして……そうか、解った!」
 春日は声を上げた。
「おじいさん! ありがとうございます、おかげで謎が解けましたよ!」
「あ?」
「え、解ったって、別所さんが何をしたのか解ったんですか!?」
 秋山が驚いて訊くと春日は力強く頷いた。

※この事件で使われたトリックとは?

「せ、先輩。別所さんが一体何をしたっていうんですか!?」
 事情がわからずキョトンとする老人を完全に取り残し、二人の会話が続いた。
「別所さんは罠を仕掛けたんだよ。小野さんしか引っ掛ることのない罠をね……」
「罠ですって?」
「そう。小野さんは、磁力によって足を絡め取られ、線路上から動けなくなってしまったんだ」
「じ、磁力!?」
「うん。線路をみてごらん。錆びが浮いていることから判るように、レールは鋼鉄製だ。そして鉄と言えば磁性体、つまり磁界の中にあるとき磁力を持つようになる物質だ。僕の考えが正しければ、この辺りの地面の下のどこかに、磁力発生装置が埋まっているはずだよ」
「そ、それって、電気の力で磁気を作り出す機械のことですよね?」
「そう。工場等ではリフティングマグネットという機械が使われている。クレーンの先に磁石が取り付けられている装置なんだけど、その強力な磁力で重い鉄の塊も持ち上げることができるんだ。鉄工所で働く別所さんはこの類の機械に精通していて、それを利用したんだと思う」
「でも……どうやって小野さんをこの場所へ?」
「うん。別所さんは足が悪い小野さんが近道のために線路を横切るであろうことを考慮して、計画を立てたんだろう。まず別所さんは適当な口実を作り、小野さんを呼び出した」
「口実ってのは家を安く売るってやつですか?」
「そう。そして頃合いを見計らって小野さんを家から送り出す。頃合いとは、電車がここを通過する前に小野さんが線路に差し掛かるようにすることだ。また、小野さんは歩くのが大分ゆっくりだったはずだから追い越して現場へ先回りすることは充分可能だ。そして小野さんを待ち伏せていた別所さんは、用意していた罠を作動させた……」
「あ、そうか! 小野さんの足首には……!」
「そう、事故によって鉄の板が埋没している。別所さんはそのことも知っていたんだろう。そして、小野さんの足は磁力によって引き寄せられ、レールとくっ付いてしまったのさ」
「眼に見えない力が働いていたわけか! だから小野さんは電話であんなこと……!」
「そして、小野さんが動けなくなっているところに、電車が来て……」
「…………」
「磁力はレールを伝わるから、小野さんが磁力発生装置の真上を通らなくても足を捕ることはできる。大体この辺りを通ってくれればいいってわけさ」
「な、なるほど……。じゃあやっぱり先輩が言った通り、別所さんはここで小野さんの服の白さを実際にまぶしく感じたから、あんな科白が口を付いてしまったわけですね?」
「そうだろうね」
「しかし先輩、どうして今回の犯行に磁力が関係していると気付いたんですか?」
「それはね……」
 春日は唖然として佇む老人を振り返った。
「おじいさん、数日前ここで見掛けた別所さんが、そのとき仕事中だったのかもしれないと思ったのは、作業服を着ていたからではありませんか?」
「あ、ああ……そうだ」
「やっぱり。おじいさんは別所さんが何かの作業中だと思ったわけですね。しかし実はそのとき、別所さんはそこで装置の作動テストを行っていたんですよ。別所さんは作業服のとき、足には安全靴を履いていた。安全靴には物が落下してきたときのために爪先をガードする鉄板が入っているからね。それをうっかり磁石にくっ付けてしまい、転んでしまったんだよ……」
「なるほど!」
「え、えらいこっちゃあ……」
 老人が唇を震わせて呟いた。
「先輩、この後どうしますか?」
「…………」
 春日は鈍く光る鋼の軌条に目を向けていた。


「―というわけで、僕達はあなたが証拠を隠滅するために現場に現れるのをこっそり待ち伏せることもできましたし、地元の警察と協力してあの一帯を掘り返すことだってやろうと思えばできました。しかしそれをしなかったのは……」
「あなた自身の口から、真実を話してほしかったからです……」
「…………」
 春日と秋山の前には今、別所が立っていた。別所は何をしても無駄だと悟ったのか、それとも放心しているだけなのか二人が話している間身動き一つしなかった。
「……あなた方が仰った通りです……私が殺しました……」
 そして小さくそう呟いた。
「……別所さん……何故あんなことを……?」
「あの男を恨んでいました……私は妻を喪った……。あの日、妻は手の痺れと眩暈を訴えました。勿論すぐに医者に連れて行きましたよ。……しかし、小野が先に診療所に来ていて……あの男は足の感覚が無いはずなのに……それなのにその日に限って足が疼くと言って……。この辺りにはその診療所一つしかなくて、医者も一人しかいなかった。……あの男は妻に順番を譲ってくれなかった……! 処置が早ければ助かったかもしれないのに……! 妻はその日脳梗塞で倒れ……三日後に死にました……」
「…………」
「それから私は小野の事をいろいろと調べ上げたんです……復讐するためにね……」
 その後別所は、現場で小野を手にかけたときの様子を淡々と語った。

 そうして、別所は警察へと出頭し、その供述通り現場近くの地面を掘ってみたところ、そこから電力によって磁気を作り出すことのできる装置が発見され、事件の幕は閉じた。

「ひっく……ひっく……」
 帰りのバスの中、秋山が何度もしゃくりあげていた。
「もう泣くの止めなよ……」
「……だって……だってあんなの……悲し過ぎるじゃないですか……」
「……うん……そうだね……」
「うう……あまりにも……あまりにも……」
「秋山君……うん、まあ……お目当ての女刑事が人妻だったのがショックなのはわかるけどさぁ……」
「ふぐぅ……無念です……」
「君は刑事のくせに観察力が足りないよ。左手の指輪に気が付かなかっただなんて……。顔ばかりに目がいってるからそんなことになるんだよ」
「違いますぅぅ! どっちかっていうとおっぱい見てましたぁ!」
「いばるなぁぁ! どっちにしろ刑事失格じゃあぁ!」
 春日のツッコミが走るバスを揺らした。
 
 
 
   第十四話  誤認

「いつになったら出発できることやら……」
 春日はハンドルに頬杖を突きつつ呟いた。助手席に座る秋山はルームミラーを自分の方へ向け、後方を窺っていた。張り込みではない。
 制服姿の夏目が春日書店号を飛び出してから既に五分以上が経過していた。
 鏡に映る夏目の後ろ姿の向こうには下校途中の小学生が五人。手ぶらの少年が四人、五人分のランドセルを抱え、汗だくの少年が一人という編成である。少し開けた窓の隙間から夏目の声が滑り込んでくる。
「あのねえ、もう一度聞くけどアンタ達さ、なにが楽しくてイジメなんてやってるわけ?」
 肩をいからせる夏目を相手取り、一番体格の良い少年その一が唇をとんがらせて応戦している。
「いじめてないって言ってるだろ! いじめてないよあ、ケンジ!?」
「う……うん…………」
 ランドセルを全身に纏った少年は目を合わさずに頷いた。
「そんな聞き方されて、いいえ、バリバリイジメられてます。なんて答えられる訳ないでしょ! 後の仕返しが怖くて! でもその子を見れば一目瞭然よ! 汗びっしょりじゃない! 随分長いことアンタ達の鞄を持たされ続けてたっていう証拠でしょ! それに! アンタ、この子のこと、小突いてたでしょう!」
 無関係を装っているつもりか、一番離れたところで息を潜めていた少年その二を、夏目はビシリと指差した。
「いい!? よく聞きなさい。相手に力が無く、やり返してこないことをいいことに振るう拳、それは暴力なの! テレビでよく若手芸人が小突かれたりイジメられたりしてるけど、あれはギャラが発生してるの! 仕事なの! あくまでエンターテインメントなのよ! 社会生活としっかり区別しなさい! あたしはね! なにも『清く正しく生きろ』だとか『弱きを助けよ』とか小難しいこと言ってるんじゃないのよ! 『自分がやられたら嫌なことを相手にするな』って言ってるの、たったそれだけ、わかる!?」
 夏目が更にヒートアップしてゆく。車内の二人が溜息を吐いた。かといってここで止めに入るのも何かが違うだろう。ただ二人が心配なのは、カッとなった夏目はあの幼稚な正義マンごっこを街のちんぴら相手にでもやりかねない、ということだ。春日と秋山は何を見たとしても絶対に手を出すなと夏目にクギを刺している。下手に相手を逆上させて狼藉を働かれでもしたらもう取り返しがつかない。春日達が夏目に許した唯一の行動は警察への連絡、それのみであった。それでも心配な春日は先日、痴漢撃退用の催涙スプレーを夏目に与えた。それを常に持ち歩くよう強制された夏目は、『なによコレ、ポッケがパンパンになっちゃうじゃない』などとぶつくさ文句を言っていたが、春日があまりにもしつこいので目下のところ約束を守っているようである。春日は更に、暴徒鎮圧用のスタンガンを携帯させようと目論んでいる。
 ルームミラーを見ていた秋山の眼元が緩んだ。春日が振り返ると、夏目が少年からランドセルを剥ぎ取り、ボトボトとアスファルトの上に落としているところだった。そして少年達に自分のものは自分で持つよう命じている。
 ぱかっ、と音がした。夏目が少年その一にゲンコツをかました音だ。どうやらその少年が、ランドセルを拾う拍子に何かを言ったらしい。夏目が『もう一度言ってごらん!』と大声を上げている。もの凄く痛いのだろう、少年は殴られたところを両手で押さえ、唇をぷるぷるさせている。そして次の瞬間には踵を返して逃げ出していた。他の少年達もバタバタとその後に続く。そうして最後にはあの、ランドセル押し付けられ過ぎ、の少年だけが取り残された。少年は背負ったランドセルのベルトを強く握り、青い顔をしている。車の二人の位置からでは確認できないが夏目が凄い顔をしているのは間違いない。夏目がグリン、っとバネ仕掛けのように首を捻って少年の方を向いた。少年はびくりとした後、まただらだらと汗を流し、何度も何度も直角に体を折り曲げておじぎをし、やはり逃げるように走り去った。
 仏頂面で後部座席のドアを開いた夏目を春日と秋山が渋い顔で迎えた。
「大人げなくね?」
「最後のゲンコツはどう見ても暴力じゃね?」
 口々に言う男達をギロンと睨むと夏目は言葉を返した。
「違うわ。正義の、鉄槌よ。まったく、最近の子供は目上の人間を敬うってことを知らないみたいだわ」
「そう言うなら夏目ちゃんも年上であるボクに対して、少しは敬意を払って貰いたいもんだね!」
 秋山はここぞとばかりに言い放った。……脳内で。
「だいぶ時間をロスしちゃったわ。スガッチ、車出して頂戴」
「……了解です」
 春日がイグニッションを回した。ルームミラーの位置を直しながら夏目に訊ねる。
「でもね、夏目君。今から出発したら、夜になっちゃうよ? 大丈夫なの?」
「大丈夫。ミナミちゃんトコ行くって言ってあるから」「ええと、確か従姉だっけ」
「そ。口裏も合わせてあるし、明日ガッコ休みだし、となれば一刻も早く現地に向かわないともう、申し訳が立たないじゃない」
「誰に? ……てか、何で僕達も行くの?」
「つべこべ言わないの! こういうのはみんなで行った方が楽しいじゃない! 何よ、あたし一人で行けって言うの?」
 そう言われたら、もう何も言い返せない。春日は溜息を吐くとアクセルを踏み込んだ。
 今回の目的地は海である。それはある科学実験のためであった。海で食べる焼きそばやバーベキューがなぜあんなにも美味しいのか―夏目はそれを潮風に含まれる塩分が食べ物に付着し、それが絶妙な調味料となり旨みが増すのだ、と仮定した。ならば、天然塩の名産地の潮風を受けた食べ物は、それは美味しくなるに違いない、と発想を飛躍させ、ならば検証するしかない、という考えに至った次第である。
「別に夜になってもいいのよ、海で食べると気分で美味しく感じるのかもしれないじゃない? 今回は視覚には頼らず、味だけで判断したいから。それと、しばらく潮風に晒したおむすびAと、普通のおむすびBを、どれくらい味に違いがでるかも食べ比べてみましょ!」
 夏目は脇に置いた鞄をポンポン叩いた。
「カップ焼きそばも同様にね! 本当はバーベキューでやりかったけど、手間が掛り過ぎるから断念したわ」
 全てを断念してくれ、静かに前を見据える二人の顔にはそう書かれていた。しかしたとえ口に出せたとしても、ルームミラーに映る確変時のパチンコ台並みに煌びやかな笑顔を見せているこの娘を止めることは到底無理だったであろうが。

 塩が生産される程きれいな海、となるとやはり都会から遠く離れたところ―となり、車を走らせるにつれ、次第に民家やすれ違う車は減っていった。そして更に車を走らせ、とっぷりと日が暮れた頃―
 
 一行は道に迷い、車も壊れた。
 
「えっと……さっきここから入ったと思うから……うーんと……今この辺り……?」
 修理を呼ぼうにも何と言う地名のどこに呼べばいいのかも分からず、秋山が車内灯を頼りに地図と格闘している。
「お腹空いた……ノド乾いた……」
 春日がハンドルにつっぷしてぼやいた。
「もう、なんなのよここ」
 夏目が車の外に眼をやった。近く大規模な開発計画でもあるのか辺りは大きく切り拓かれており、右を見ても左を見ても剥き出しの地面ばかりが拡がっていた。
「な、夏目君。海に近付いているのは間違いないんだし、もう殆ど海みたいなものだから、ここで始めてもいいんじゃない? ……実験」
 春日は勇気を出して言ってみた。
「イヤよ! 何でこんなところで!」
「ち、ちょっと閑散としてるけど、落ち付ける良い所じゃないか」
「閑散どころか更地じゃない! 別に賑やかな所が良いって言ってる訳じゃなくて、砂浜とか、最低限のロケーションは欲しいのよ! ちゃんと実験した場所、どこどこって書くんだから!」
 鬼の新聞部部長が眼を吊り上げた。
「そ、そうだよね! ムード大事だよね! ほら秋山君! 現在地の割り出し急いで!」
「や、やってますよぉ」
 春日と秋山は車の外に首を出した。するとちょうど、遠くで車のヘッドライトが光った。
「やった、助かった、車だ!」
 二人は急いで車の外に出た。
 合図をして車に止まって貰うと、運転席にはラフな服装をした中年男が座っていた。
「車が壊れた? へえ、奇遇だねえ。俺今からダチの家に飲みに行くところだったんだけど、そいつ腕の良い修理屋なんだわ。診て貰ったらいいよ」
「本当ですか!? 連絡取れますか?」
「なんなら連れてってあげるよ、ついでだから。ちょっと待ってな」
 神田と名乗った男は、牽引用のロープを取り出した。春日達はそれで引っ張って行って貰えることになった。
「助かりましたね。こういうのを怪我の功名っていうんですかね」
「違うよ。不幸中の幸いだよ」
「違うわよ。この都合の良過ぎる話の展開は渡りに舟って言うのよ」
 夏目が冷静な口調で訂正した。

 取り壊しの進む家々や空地が目立つ中で、ぽつんと一軒だけ建物が残っていた。豊見モータース、看板にはそう書かれている。もう営業は終了しているのか、明かりは消え、シャッターは降りていた。
「おう、豊見。この人達、車が壊れたんだってよ」
「ああそう」
 ツナギ姿で表に現れた豊見と呼ばれた男が腕時計に眼を落した。
「すみません。やっぱり無理ですかね、この時間じゃ」
 秋山は頭を掻いた。
「ああいや、大丈夫ですよ。まずは診てみないとすぐ直るかどうかはわからないけど、まあ代車もあるから」
「本当ですか、助かります。道に迷って、車も壊れて本当に困ってたんです」
「へえ、どこ行こうとしてたの?」
「一応、これから海へ向かおうかと思ってるんですが」
「え、これから? こんな時間に?」
 豊見が不思議そうに訊ねた。それに対して秋山は曖昧に返事をした。ここで言葉を濁すのも変に思われるかもしれないが、実験のためだと言えばもっと変に思われるだろう。
「なのでできれば、道とかも教えて頂けると……」
「いいよ、教えてあげよう。豊見、紙とペンあるか?」
 豊見はツナギのあちこちをパンパンと叩いた後、無い、と答えた。
「上か? じゃあ取ってくるか。ちょっと待ってな」
「何から何まですみません。お手数をお掛けします」
 神田は手を上げて答え、建物の裏に消えた。
「すみません、お世話になります」
 今度は春日が車を降りて来た。
「ところで、この辺りに自販機ってありませんか?」
「え、いやあ、無いね」
 豊見は苦笑して答えた。
「あ、ちょっと待ってて、そういえばいろいろ買ってきてあるはずだ」
 豊見は神田の車のトランクを開くと、中からペットボトルを二本持って戻って来た。
「あったあった、これでよければどうぞ」
 と言って、春日と秋山に一本ずつ渡した。夏目が車に居ることには気が付かなかったようだ。
「いいんですか? すみません。あ、じゃあお金を」
「いい、いい」
 豊見はパタパタと手を振った。春日は礼を言いうとボトルのキャップを捻り、旨そうに中身を呷った。
「……ん? おい豊見、あれって俺が持ってきたやつか?」
 メモ帳とペンを手に戻って来た神田が春日と秋山が持つペットボトルを眼で指した。
「おう。別に構わないだろ? ジュースの一本や二本でケチケチするなよ」
「いや、ケチってるわけじゃねえよ。でもあれ……」
「こんばんは。こんな時間からでも修理ってお願いできるんですか?」
 最後に夏目が車を降りてきた。豊見はいきなり現れた女子校生に小さく驚き、しばし見入った。因みに神田も先程同じ反応をした。薄暗くても夏目の整った顔立ちというのは充分に男の目を引くものらしい。
「あ、ああ修理ね。じゃあちょっと診てみようか」
「どうする? 中入れるか? 車押すか?」
 神田がシャッターを指した。
「いや……大丈夫だ」
 言うと豊見は通れる分だけ持ち上げたシャッターを潜り、ほどなくしてスタンドの付いた照明器具と工具入れを持って出てきた。そして慣れた手付きで照明を入れると春日書店号のボンネットを開けた。そして、中を少しチョンチョンチョンと触ると、それだけでもう顔を上げる。
「ああ大丈夫。これはただのオーバーヒートだよ。しばらくしたら走れるようになる」
「え、本当ですか、よかったぁ。ありがとうございます」
 夏目は頭を下げた。
「いやいや」
「じゃあスガッチ―」
 夏目が振り向くと春日はいつの間にか春日書店号の後部座席に居て、夏目の鞄からタッパーを取り出し、中のおむすびをおいしく頂いているところだった。
「えっ!? なっ、ちょっ、スガッチ!? 何やってんの!?」
 夏目がもの凄い勢いで春日に掴み掛った。春日は何故自分が怒鳴られているのか解らないといった風にキョトンとしている。
「あーっ! 二個も食べてる! これ実験のために用意したのよ! 一体なに―」
「んん!?」
 夏目の背後でくぐもった唸り声が上がった。夏目が振り返ると秋山がペットボトルを手に固まっていた。秋山は口に何かを含んでいたが、少し迷ってからそれを飲み下し、呟いた。
「スクリュードライバーだ……」
「は……?」
 豊見が驚いて神田を見た。
「ああ、あれか? そう、カクテルだ」
「酒だったのか!? 変なマネするなよ!」
「お前が勝手に勘違いして渡したんだろうが。人ン家にゴチャゴチャ材料持ち込んでシェーカーシャカシャカするのもアレだったから家で作って持って来たんだよ!」
「お前カクテルなんか飲まなかっただろ!」
「今マイブームなんだよ!」
 夏目は向き直って春日の顔をまじまじと見た。
「え? 何? じゃあ、もしかして、コレ酔っ払ってんの?」
 とても酔っているようには見えなかった。いつもより眼がキリリとしているくらいだ。そして春日は、おもむろに鞄から魔法瓶を取り出し、今度はインスタント焼きそばの作成に取り掛るのであった。勿論、夏目は慌てて取り上げた。
「夏目ちゃん、もしかして先輩?」
 秋山が後ろから声を掛けてきた。
「うん、そうみたい……」
 春日の足下には半分くらい空になったペットボトルが転がっていた。
「あー酔ってるわ。眼が違うもの」
 春日の顔を覗き込んだ秋山が眉を顰めた。
「へえ。スガッチって酔うとこうなるん? で、何で一言も喋らないわけ?」
「さあ? 言語中枢がクラッシュしてんじゃないの? 大概次の朝には直ってる、何も覚えてないみたいだけど」
「そう……でもどうしよう……これじゃあ運転は無理よね……」
「うん……ボクが運転してもいいけど、ボクも飲んじゃったからしばらくは無理。吐き出そうか迷ったんだけど、頂いた手前失礼かなと思って。いや、やっぱり飲むべきじゃなかったな……」
 秋山はバリバリと頭を掻いた。
「うーん、しょうがないわね。とにかくスガッチ、今は酔いを醒ますのが先決よ! 分か―」
「ごっごっごっ」
 春日はグイグイ飲んでいた。
「飲むなー!」
 夏目は春日の頭をはたくとペットボトルを奪い取った。
「大丈夫かいその人? 酔っ払ってんの?」
 神田が車内を覗き込みながら言った。
「申し訳ない。まさか酒だとは思わなくてね」
 頭を下げる豊見に秋山は手を振った。
「いえいえ、全然です。こっちが勝手に飲んじゃったんで。しばらくすれば元に戻ると思いますから」
「どうだろう、私の家がこの上にあるから、そこで休ませては? 水を飲ませて横にさせたらいい」
 豊見が背後の建物を指で差した。
「え、よろしいんですか? でも、突然押し掛けたらご家族にもご迷惑じゃ……」
 今度は豊見が手を振った。
「それは気にしなくていい。今は一人で住んでるから。今日はこいつと一杯やろうってところだったんだ」
 豊見は神田を指差した。
「そうそう。遠慮なんてしなくていい」
 神田が言った。
「そうですか? えっと、じゃあすみません、お言葉に甘えさせて頂きます。 ……先輩! こちらで休ませて頂くことになりました。上行きます。分かりますか? 上です!」
 秋山が指で上、上、とジェスチャーすると春日も上、上、とやってコクコク頷いた。
「そうです。上です。上行きましょう」
「コクコク」
「はい、そうです。上です。だから車を降りて下さい」
「コクコク」
「はい。先輩、分かりますよね? 車を降りて下さい。降りないと上へ上がれませんよ?」
「フハハハハハハ!」
「いや、ここ笑うとこじゃないです。さっさと降りて下さい」
「プイッ」
「さっさと降りろやああああ!!!」
 秋山は春日の頭をばしーんと叩いた。
「アッキー落ち付いて! 気持ちは分かるけど!」
 こうして、春日は男達の手によって水揚げされるマグロの如く車から引きずり出され、そのまま豊見の部屋へと搬送された。
 やっとのことで玄関を潜ることができた秋山達は、段ボールばかりが積まれ、家具はテーブルとソファーしかないようなリビングに通された。
「悪いね見苦しくて、今引っ越しの準備をしているところなんだ」
 豊見が苦笑しながら言った。
「あ、引っ越しされるんですか?」
 秋山はソファーの上に春日を放り投げた。
「うんそう……」
 豊見が奥の台所へ向かった。神田はテーブルを挟んで向かいにある別のソファーに腰を下ろした。
「この辺り、空地ばかりだっただろう? 今ここは開発計画が持ち上がっていて、立ち退きとか取り壊しが進められているんだよ。あとここもね。だから豊見もここから移ることになったんだ。地域の発展のためには必要な開発だと謳ってる奴もいるけどどうだかな……なあ、豊見?」
「……ああ……どうだかな……」
 豊見がボトルとグラスを持って戻ってきた。
「はいこれお水」
「ああどうも」
 秋山はグラスを受け取ると春日の顔をグイッと上に向け、グラスを傾けて春日の口に水を注ぎ込んだ。
「お嬢さん達にも何か用意しようか」
「いえ、あたし達は結構です。どうかお構いなく」
 夏目は小さく頭を振った。
「ふう……ここまで順調だったのに、大分時間喰っちゃいそうね……でも仕方ないか……」
 夏目は春日の頭を胸に抱いた。そして秋山から水の入ったボトルを受け取ると、ボトルを春日の口に向けてひっくり返し、ゴッポゴッポと勢い良く水を流し込んだ。
 空になったボトルを床に転がし、春日も転がしておくと、豊見が今度は茶菓子を運んできた。
「大丈夫かい彼? 何かぐったりしてるけど……」
「どうぞお構いなく、ほっといたら目を覚ますと思うんで」
 秋山がにこやかに答えた。
「ところで、ここから海って近いですか?」
 夏目が神田に訊ねた。
「ん? ああ、そういえばまだ地図書いてなかったっけ。近いっちゃ近いよ。でも砂浜とかは無いよ? ここら辺の海岸はテトラポットばっかりだから。波止ならあるけど」
「波止?」
「うんと、あれだ、防波堤だよ。海岸から沖に向かってこう、道、というかコンクリートが突き出してるやつ。知ってる?」
「ああ、分かります。それって近いですか?」
「……いや、止めた方が良いよ」
 豊見が話に割り込んだ。
「もう暗いし、あそこは十メートル以上も深さがある。足を滑らせでもしたら大変だ。止めておいた方が良いよ……」
「そうですか……。まあ……連れもこんなですしね……」
 夏目は床で動かない春日を見下ろした。ビニール袋をガサガサしていた神田が陽気な声を出した。
「それじゃあ、その兄ちゃんが眼を覚ますまでゆっくりしてったら良い。ここで飲むのも最後だからと思って、しこたま買い込んであるから、お嬢ちゃん達も喰いなよ。豊見も、慣れ親しんだ家と仕事場を一遍に離れるのは寂しいだろうが、今日はパァーっとやろうぜ」
「……ああ、そうだな……」
 豊見は腕時計に眼を落した。
「おっとその前に、片付けなきゃいけない仕事があるんだ。しばらく外すぞ。お前はお嬢さん達のお相手しててくれ」
「おう?」
 豊見は近くにあった段ボールを横にどかした。するとそこにはテレビが隠れていた。豊見はテレビの電源を入れるとリモコンを秋山に渡した。
「ちょっと失礼しますよ、どうぞごゆっくり」
「すみません、ありがとうございます」
 豊見は開けてあった窓を閉めると部屋を出て行った。

 そして、豊見が帰ってきたのは一時間程してからのことだった。
「おう、おかえり! 仕事は片付いたか?」
 息を酒臭くした神田が上機嫌に手を上げた。そして、春日の傍に転がっている空のボトルは二本に増えていた。
「……ああ……」
 濡れた前髪を額に貼り付けて豊見は頷いた。
「それより聞けよ豊見! お前が居ない間、俺だけ飲んでるのも悪いから、お嬢ちゃんに何度も喰い物勧めてたんだけどよ、お嬢ちゃんそのたんびに要らないっていうのよ。何でだって聞いたら、面白いんだぜ!」
 神田は夏目達がどのような目的があって海に向かっていたのかを豊見に言って聞かせた。
「それで海に……」
 豊見は眼を丸くした。
「そんなわけであたし達、できればどうしても海に行きたいんです」
「『達』じゃないけどね……」
 秋山が小さく呟いた。
「な、面白ぇだろ! だからよ、お前が帰ってきたら俺達も一緒に連れてってくれって話してたんだよ!」
「あ、あの波止にか?」
「おう」
「……でも……危ないぞ」
「んん? ああまあ、確かにな。お嬢ちゃん、足下には気を付けろよ。落ちたら大変だからな」
「いや、気を付けなきゃいけないのはお前の方だ」
「おっと」
 神田は唾を飛ばして豪快に笑った。
「だからよ、この兄ちゃんはそのまま寝かせといてよ、俺達も行こうぜ」
「……そうだな……そうするか」
 豊見は床に横たわる春日に眼を落した。
「彼をこのままここに寝かせておくのも可哀そうだから、ちゃんと寝室で寝かせてあげようか。奥にベッドがあるから、そこへ運ぼう」
「いいんですか? お気使いありがとうございます。あ、大丈夫ですボク達で運びますので。夏目ちゃんそっち持って」
「うん」
 春日は万歳をする恰好でズルズル引きずられ、寝室へと運ばれた。
「重い。もういいわここで」
 夏目は寝室に入ったとたん手を放した。
「も、もういいわここで、って……」
「どこで寝てようと『寝室』で寝ていることには変わりないじゃない」
「そ、そうだけど……でもこれじゃ結局、先輩、床から床へ移動しただけってことに……」
「いいのいいの」
 夏目はさっさと寝室を出て行ってしまった。リビングでは豊見と神田がテーブルにあった皿を手に立ち上がっていた。
「よっしゃ、じゃあこれ、タッパーに詰めようぜ」
 豊見と神田は台所へと向かった。
「あ、豊見さん。お水、ありがとうございました」
 リビングへと戻ってきた秋山も春日に水を飲ませるために使ったグラスとボトルを持って豊見達の後に続いた。
「ああ、そのままでいいのに。じゃあ、流しに突っ込んでおいてくれるかな」
「わかりました。……あ、そうだ夏目ちゃん、……か……ほ……かな?」
「は? 何、聞えない。今何て言ったの?」
 夏目はテレビの音量を下げた。
「いや、先輩に書き置きとかしておいた方がいいのかな、って。眼覚ますかもしれないでしょ」
「ふむ、そうね……。いいわ、あたしが書いといてあげる」
「うん、お願い」
 夏目は鞄からメモ帳を取り出すとシャーペンをノクした。
「どう、書けた?」
 秋山がグラスを片付けて戻ってきた。
「ん」
 夏目は秋山にメモを見せた。切り取られたメモ用紙の真ん中には春日に向けたメッセージが書かれていた。『留守を頼む』。
「いや夏目ちゃん、確かにそうなんだけど、状況を把握するには情報が少な過ぎるよね? 眼が覚めたら知らないところにいて、その上こんなメモまで残されていた日にゃ、もしボクが先輩の立場ならパニックに陥ること請け合いなんですけど……」
「スガッチなら大丈夫よ。そこはお得意の推理でも働かせるがいいわ」
 夏目は寝室まで行くと春日の傍にしゃがみ込み、顔と眼鏡の間にメモを挟んだ。

 気持ち良さそうにフラフラと歩く神田を先頭に、夏目達は一路防波堤を目指した。この夜遅くに制服のまま外をうろつくのはマズいということで夏目にはパーカーを羽織らせたが、元々民家が少なくなってきている地域な上に、時間も時間なので人や車とすれ違うことは全く無かった。
「あのマンション越えたらすぐ海だよ」
 神田が前方を指差す。大きく拓けた土地に背の高いマンションが建っていた。
「へえ、豊見さんとこみたいに、まだ残っている建物が在ったんですね。あれもその内取り壊されちゃうんですか?」
 秋山の疑問には豊見が答えた。
「ああいや、あのマンションは新しい街のモデルとなるべく先駆けて造られていた新築マンションだよ。これからどんどんとあんなのが増えていくんだろう」
「へえ、そうなんですか」
「あ、風に海の匂いが混じってるかも」
 夏目が明るい声を出した。頓挫しかけた計画が再開されたとあって、その足取りは軽い。
「え、本当? どれどれ……」
 秋山はくんくんと鼻を鳴らした。
「うん? これ何の音?」
 しかし秋山が感じ取ったのは潮の香ではなく、水の音だった。水が跳ねる音だ。音の出所を探ると前方に見えていたマンションからだった。屋外照明の弱い明かりではいまいちはっきりとしないのだが、後数メートルのところまで近付いて大体音の正体が解った。マンションの外壁に散水栓が設けられているようなのだが、壊れているのかブシュブシュと音をたてながら勢い良く水が噴き出しており、辺り一面を水浸しにしていたのだ。
「何だろ、水出しっぱなしで。誰かのイタズラかなぁ……」
「このままにしておけないわね。止めましょう。どこかに傘とかないかしら」
「うーん……無いねえ」
「あ、良い方法考えたわ」
 夏目は秋山の背後に回ると上着の背中を掴み、秋山を盾にしてグイグイ進んだ。
「え、あ、ちょ、夏目ちゃん!? あばばばばばばっ! や、やめ……うん……!? うわぁぁぁ!」
 秋山が悲鳴を上げて腰を抜かした。近くに行くまでは全く気が付かなかったが、すぐ足下に一眼で死んでいると判る男が転がっていた。男の身体は首も肘も膝も、そのどれもが不自然な方向にねじ曲がり、アスファルトの上で糸を切られた操り人形のように横たわっていたのだった。


 その後、秋山の報せを受けて駆け付けた警察によって現場の見聞が行われた。
「それにしてもびっくりしたわね」
 夏目はハンカチを絞った。
「…………そうだね」
 秋山は上着を絞った。
 二人は既に警察の聴取を受け終え、休みを取っているところだった。遺体も既に運び出されている。
「あたしが遺体に触れてみたら、顎や節々に硬直が現れていたわ。そうよね?」
「ボクは触らないでって言ったんだけど、そうだね」
「てことは、あの遺体は死後一時間から二時間ってことになるわよね」
「なるね」
「あの男の人、このマンションの住人だったの?」
「うん。九階に一人で住んでたみたい。土本さん、だったかな」
「……水道が噴水みたいになってたアレは何?」
「パイプの繋ぎ目が何らかの道具を使ってへし折ってあったみたいだよ」
「そう。……じゃあ問題は、その土本さんって人を突き落とした犯人が、なぜ水道を壊し遺体をずぶ濡れにする必要があったのか、ね。……取っ組み合いになったとき、土本さんの身体に犯人を特定できる何かが付着してしまって、それを水で洗い流そうとしたのかしら……」
「いや、それがね。まだはっきりしないんだけど、どうも土本さんは誰かに突き落とされたとかじゃなく、自分から飛び降りた可能性が有るんだよ」
「え、どういうことよ?」
「屋上の手摺の前に、土本さんのと思われる靴が揃えて置かれていたんだよ」
「……じゃあ……自殺だって言うの……?」
 夏目は十階建てマンションの屋上を見上げた。
「あそこから飛び降りて……?」
「だろうね。死因は傷の状態からしてアスファルトと身体が激しくぶつかったことによる死亡とみて間違いないそうだもの」
「でも! 靴なんて、土本さんを突き落とした後、犯人がわざと置いたものかもしれないじゃない! 偽装工作よそれ!」
「うん……。だけど、このマンションはエレベーターホールに入るにも鍵が必要なところだし、一階にある非常階段への扉も基本的に内側からしか開かない。おいそれと部外者が入り込める建物ではないんだよ。今もまだ調べは続いてるけど、土本さんの部屋が荒らされていたり、争い合った形跡とかも無いらしいんだ」
「じゃあ、水道が壊されていたのは何だったって言うの!?」
「何かの偶然、と言うか、全くの別件、と言うか……」
「どんな別件よ」
「土本さんが飛び降りる前に水ドロボーか、このマンションにイヤがらせをしようとした人間が現れて、壊して逃げた、とか」
「ちょ、本気!? おかしいってそれ! それに、土本さんの服装憶えてる? ウインドブレーカー着てたでしょ? 自分が住んでるマンションの屋上から飛び降りようって人がわざわざウインドブレーカーなんか着る? これってちょっと変じゃない?」
「いやそれは……何着ようと勝手じゃないかな」
「それに、そうよ、九階に住んでる人がわざわざ屋上まで昇る? 自分とこのベランダから飛べばいいじゃない!」
「ボ、ボクに怒られても……」
「とにかく、情報が足りないわ! アッキー、もう少ししたらまた情報収集してきて!」
「な、夏目ちゃん、この件はもう地元の職員達に任せてさ、ほら、実験もしなきゃだし」
「実験? ああ、そうだったわね。アッキー、そんなに実験が気になるなら一人で行ってきていいわよ」
「えー……」
「不審人物を目撃した人がいないか聞いて周りたいところね……でもこんな時間にドアを叩いて周るわけにもいかないし、困ったわね……。あ、アッキー、実験行く前にちゃんと、捜査の進捗状況を確認しに行ってよね」
「なるほど……夏目ちゃんの中ではもう終わったことなんだね……」
 秋山は女の切り替えの早さを改めて思い知らされた。
 こうして夏目は、昼間刑事の仕事で馬車馬のように働いた秋山を、頑張れ、の一言で更に馬車馬のように働かせるのであった。

「女王のために働くハチになった気分だ」
 秋山が、一体何を間違えてこんなことになったのか、今日一日を振り返っていると、夏目の大きな声が掛った。
「アッキー! 何独りでぶつぶつ言ってるのよ、早くこっち来て!」
「あ、はい……」
「で、どうだった?」
 もう深夜になろうというのに、この眼の輝きはどうだ。
「ええとまず、寝ていたマンションの住人達もこの騒ぎで起きだしてきたんだけど、話を聞いても今のところ不審者の目撃情報はゼロみたい」
「そう……」
「それでね、豊見さんと神田さんだけど、亡くなった土本さんのこと、知り合いというわけじゃないけど、知らない人ではなかったみたい」
「どういうこと?」
「ほら、この辺り今開発計画が持ち上がってるって話があったでしょ? 土本さんはその都市開発の立案者で責任者でもあったらしいんだ。元この辺りに住んでいた人達は土本さんの顔と名前くらいは知ってるって訳」
「そうだったの」
 夏目は豊見と神田に眼をやった。二人は夏目達とは少し離れたところで道路の縁石に座り込んでいた。
「じゃあその土本さんの部屋の様子についてだけど、補足はある?」
「ええと、まず一番最初、警官が玄関のノブに手を掛けたとき、鍵は開いていたそうだよ。そして部屋の明かりは点いてたって。さっきも言った通り室内に争いがあった形跡は無し。屋上にも特に異常は見られない。マンションの住人で争う音や土本さんの叫び声を聞いた人も居ないしさ、やっぱり、状況から見て自殺と考えるのが妥当じゃないかなぁ。自殺しようとする人がいちいち明かりを消したり鍵を掛けなかったとしてもおかしくないからね。土本さんは自ら屋上へ上がり靴を脱いでそこから飛び降りた。だから屋上には黒の革靴が揃えて置かれていたんだよ」
「え、ちょっと待って、黒の革靴?」 
「そう。玄関の靴箱の中には屋上に揃えてあった靴の紙箱もあったし、靴のサイズは土本さんの足のサイズと一致してる。土本さんの靴で間違い無いみたいよ」
「ちがくて、上にウインドブレー着てるのになんで黒い革靴履くのよ。なぜにフォーマル? 一足ぐらいカジュアルな靴無かったわけ?」
「さ、さあ……どうだろう……」
「聞いてきて」
「はい」
 秋山はかけ足を実行した。

「な、無かったみたい」
 戻ってきた秋山が肩で息をしながら告げた。
「むー……」
「い、いやだから、何履こうと勝手だって」
「……マンションの中に部外者が入り込めないなら、その内側、住人による犯行、っていう可能性は?」
「それがね、女性や年配の方ばっかりなんだよね。大の男を突き落とすなんて無理だと思うね。返り討ちに遭う可能性大だよ。そんなことするより、夜道で後ろからナイフで刺した方が簡単で安全だよ。この辺りあちこち暗いし、夜は人通りも極端に少ないそうだし、財布を抜き取ったりして通り魔的な物取りの犯行に見せ掛ければ容疑者の絞り込みも難しくなって捜査を撹乱できるしね」
「うわ、アッキーよくそんな悪いこと思い付くわね。そんな人だったんだ……」
「え、ちょ、こ、これはあくまで、刑事としてのアレであって、ボク自身はごく健全な好青年なわけで―」
「でも結局、遺体が水を被っていたことの説明には全くなっていないわね。これが一番の問題だと思うのに……」
「あ、話変わってる……」
「ねえ、遺書は在ったわけ?」
「いや、見付かってない。パソコンや携帯に遺書を残す人も居るからそちらも調べようとしたらしいけど、部屋に携帯が無かったみたい。それとパソコンの方もロックが掛ってて中を見ることができなかったらしいよ。メーカーさんに協力を要請してロックを解除して貰うこともできるけど、人に読ませるための遺書にロック掛けるはずは無いだろうから、土本さんは遺書を残さなかった、ってことだと思うよ」
「そう……。じゃあ自殺の動機については?」
「ああそれがね、動機は不明瞭だったよ。土本さんは大きなプロジェクトを任されたことを喜んでいたそうだし、大好きな夜釣りにも精を出していて、とても悩みや不安を抱えてるようには見えなかったらしい」
「ふーん……夜釣りねぇ」
「うん。ライフジャケットを着て釣竿を背負った土本さんが早朝に帰宅するのを住人が何度も見てる。つい先日も、人から教わった爆釣ポイントを今度試すと言ってご機嫌だったらしいんだ」
「…………やっぱりそんな人が急に自殺するなんておかしいじゃない……」
 夏目はポツリと言うと豊見らが居る方へと足を向けた。
「神田さん豊見さん、ちょっと訊きたいんですけど、亡くなった土本さんってこの辺り一帯の開発を推し進めていたって聞いたんですけど、住民の抗議とか反対運動とかは無かったですか?」
「え……? いやあ、そりゃ個人々々で思うことが違うことはあったかもしれないが、特にそういう運動は無かったと思うな。なぁ?」
「……ああ……」
 すっかり酔いが醒めてしまった様子の神田の問いに豊見が頷いた。
「でもお嬢ちゃん、何故そんなことを聞くんだ?」
「いえ、もしかしたら今回の一件、土本さんと付近の住民のトラブルが何か関係しているんじゃないかと思って……」
 夏目の意味深な発言に豊見と神田がギョッとなった。その隣では秋山が抑えるよう眼で訴えていた。
「すみません、変なこと訊いて。ちょっと気になったもので……」
「……い、いや別に……。そういえばこうしていて随分経つよな、今何時だ、豊見?」
「あ、ああ今……」
 豊見は腕時計に眼を落した。
「…………今……十二時……半……くらいだな……」
「おう、もうそんなになるか」
「…………アッキー、海、行くわよ」
「え、何しに?」
「実験に決まってるでしょう」
「ええっ!」
「ここへは後で戻ってくればいいわ。そういうわけなんで豊見さん神田さん、あたし達ちょっと行ってきますんで」
「あ……ああ……」
 夏目は頭をひとつ下げるとスタスタと海へ向かって歩き出した。秋山は頭を抱えそうになりながらその後に続いた。
 
 海へと続く道路は真っ直ぐに伸びていた。防波堤はその道路の先に造られていて、月明かりで見るそれは、まるで海の上まで道路が走っているかのようだった。そして、防波堤の入り口には車が入り込まないよう注意を促す看板が置かれていた。
「夏目ちゃん、足下気を付けてよ」
「眼が慣れてきたから全然平気。防波堤って思ってたより広いのね、車でも普通に通れるんじゃない?」
 夏目はコンクリートの上を普段と変わらない様子で歩いてゆく。
「いや、造られる場所によるんじゃないかな。ここが偶々こんな造りになっているだけで、どこでも一緒、という訳ではないと思うよ」
「ふうん…………。ねえ、さっき神田さんが豊見さんに時間訊いてたわよね」
「うん」
「十二時半くらいって言ってたわね」
「うん」
「くらいって何?」
「あ、それはボクも少し気になった」
「時計を見たのに正確な時間が分からないなんて、その時計が大幅に狂ってるか、動きが止まってるかよね」
「うん……」
「……そして豊見さんは時計がおかしくなっていることを他の人に知られたくなかった。だから分からない、とも、壊れているとも言わずあんな風に言った……」
「…………」
「ひょっとしたらだけど……今回の出来事、豊見さんが絡んでいるんじゃないかしら……」
「そ、それはどうだろう」
「だって、土本さんの死亡推定時刻に豊見さんは部屋に居なかったのよ?」
「でも、あのマンションのエレベーターホールに入る方法は二つしかない。鍵を使って自動ドアを開けるか、インターホンで中の住人に呼び掛け、ロックを解除して貰うか、だよ。豊見さんはどうやって中に入るの? 合い鍵を作ったの? それともまさか土本さんに頼んで開けて貰ったって言うの? そして、土本さんを屋上に連れ出し、そこから突き落としたって?」
「………………わかんない……」
 弱く小さな声だった。沈黙が訪れ、しばらく波の音だけが辺りを支配した。
 夏目が振り返ると秋山は少し離れたところに居た。背中を向け、こそこそと何かをしている。夏目は秋山の背後まで歩いてゆくと、その肩を叩いた。
「何してんのよ?」
「ごほっ!」
 びくりと肩を震わせた秋山が地面に何かを落した。
「何なのよ?」
「い、いやその」
 夏目が体を折って地面を見るとペットボトルが落ちていた。中身がこぼれ出て、どんどんと地面に黒い染みが拡がってゆく。
「何? もしかしてコレ、豊見さんから貰ったやつ?  まだ持ってたわけ? さてはずっと、隠れてちびちびやってたわね」
「え、ええと」
「はぁ、しみったれたマネしないでよもう」
「あ、あはは……ごめん」
 秋山はペットボトルを拾い上げた。そのとき、地面にできたシミに眼を落していた夏目の頭にある考えが過った。
「……!? え、あ……も、もしかして、だから水道が壊されていたの……?」
「夏目ちゃん?」
「待って」
 夏目はぶつぶつと呟きながら歩き出した。
「だとしたらどこで? あまり遠くまで行くと時間が掛り過ぎてしまうわ……でも、車を飛ばせば……」
 夏目は辿り着いた防波堤の先から海面を見下ろした。
「あーっ!」
 夏目の頭の中で、バラバラだったピースが凄まじい速さで組み合わさってゆく。
「そっか! ここだったんだ!」
「どどど、どうしたの!?」
「アッキー! 解ったわ、犯人はやっぱりきっと、豊見さんよ!」

※夏目の言う通り豊見が犯人だとすると、豊見はどのようなトリックを実行したのだろうか?

「どういう事!? 夏目ちゃん、解るように説明してよ!」
「今するわよ! 落ち付いて!」
 かくいう夏目の方が興奮しているように見える。
「まず、土本さんはあのマンションの屋上から突き落とされたんじゃないわ」
「え、どういう―」
「じゃあ仮に、人が高いところから落ちて身体を地面に叩き付けたとして、そのとき地面の上はどんな状態になってると思う?」
「え、それって血が付いてるとかそういう話?」
「そう、地面の上には血溜まりができるはずよ。犯人は水道を壊すことによって辺りを水浸しにし、遺体から流れ出た血は水によって洗い流されたと思わせることが目的だったのよ」
「洗い流されたと……?」
「だから、あのマンションは本当の殺害現場じゃないんだってば!」
「あ、そ、そうか……! 単に別の場所で殺害して遺体をあのマンションの下に放置しても血の状態からあそこが殺害現場じゃないってことがすぐにバレちゃうってことだね! そうか、別の場所か! じ、じゃあ本当の殺害現場はどこだろう? あのマンションと同じかそれ以上高い建物となると、この付近には無いらしいから、結構離れた場所かもしれないよね? そ、その場所を探さなきゃ……!」
「そうじゃないわ……ここよ」
 夏目は口角を上げ、両手を広げた。
「へ、ここって……ここが何?」
「ここが殺害現場なの! それと、土本さんは突き落とされたんじゃないわ……車に撥ねられたのよ……!」
「ええっ!? な、何それ……」
「黒い色をした車の前面にアスファルトで造った壁を取り付けたのよ!」
「……っ……!?」
「ライトは点けず、真っ直ぐな道路を走って車がある程度まで加速したらギアをニュートラルに入れてエンジンを切る。車のことなんて、ドライバーの隣で見たり聞いたりした程度のことしか知らないけど、そうすれば車って慣性で、音も無くそのスピードのまま進むんじゃない?」
「う、うん……」
「その車で防波堤に突っ込み、ここで釣りをしていた土本さんを撥ねて殺害するの。そしたら土本さんの死因は『アスファルトと身体が激しくぶつかったことによる死亡』となるわ」
「あ……!」
「そう、実は車が凶器だったのよ。使用する車に取り付けるアスファルトの壁はそんなに大きなものじゃなくてもいいわ。釣りをする人って自前の椅子か、足を放り出して縁に座ったりするでしょ。ある程度の高さがあれば充分なはずよ。海面を見ていた土本さんは後ろから静かに近付いて来る車に気が付かなかったのよ」
「う、うん、黒い車だったり、ライトやエンジンを切ったりするのはなるほどと思った。だけど、土本さんが防波堤の先っちょに座って、向こうを向いているとは限らないんじゃない? そもそも、土本さんってよくここに来るの?」
「だから、夜の何時にここで釣りをするとよく釣れるって、釣り好きの土本さんに言っておけばいいのよ」
「ああ、そうか……!」
「だから実は、釣られたのは土本さんの方だったってわけね。そして犯人は土本さんが釣り糸を垂らしていることを確認してから車を走らせた。防波堤の入り口に立っている看板は前もって退かしておく必要があるわね。この場所で、車で殺害する利点は二つ在るわ。一つは土本さんを撥ね飛ばしてそのまま車も海へダイブさせることによって、殺害と同時に凶器を海に沈めて隠すことができること。そして、もし道路で撥ね飛ばしたとしたら、遺体の衣服は地面を転がったときにあちこち破けてしまうはずなんだけど、海に落ちたならそうやって派手に破けてしまうことは無い。車に撥ねられた遺体だとはまず思われない、というのがもう一つね」
「な、なるほど……」
「土本さんはライフジャケットを着ていたはずだから、しばらくすると浮き上がってくる。沈んでゆく車から脱出した犯人は陸へ上がり、遺体を引き揚げた……」
「それが……豊見さんなの……?」
「……ええ……時間を見計らって行動しないといけないから時計は手放せなかった……だけど時計を付けたまま海に入ってしまったことが原因で、壊れてしまったのね……」
「…………」
「豊見さんは遺体からマンションの鍵を回収。釣りの道具、ライフジャケット等は処分。自分が着ている濡れた服は着替えて……。遺体をマンションへと運ぶためには、前もってもう一台車を用意しておく必要があるわね……」
「あ、も、もしかしてテレビの音量が大きかったのはエンジン音を聞かせないため……?」
「きっとそうね。……そして、豊見さんは回収した鍵を使って土本さんの部屋に入った……自殺を偽装するためにね。手っ取り早いのは遺書を残すことだけど、手書きの文字だと筆者識別に掛けられる恐れがあるからダメ。他には、パソコンや携帯に書き残す手が有るけど、携帯の方は土本さんを撥ねたときに壊れて使えなくなったんじゃないかしら。残るはパソコンだけど、これは単純にログインパスワードが分からなくて起動できなかったのよ。そこで、豊見さんは屋上に靴を揃えて置いておくことで自殺に見せ掛けるプランに変更した。部屋のベランダに靴が揃えてあっても不自然だから、屋上まで持っていったんだわ。釣りのときに履いていた靴は海水でずぶ濡れになっているからもう使えない。それで、代わりの靴を探したのよ」
「そうか、釣りのときにはもしかしたらカジュアルな靴を履いていたかもしれないけど、残っていたのはフォーマルな革靴しか無くって、仕方なくそれを使ったのか!」
「うん。後は遺体をあの場所へ寝かし、マンションの散水栓を道具を使って壊してその場から立ち去る。辺りは水浸し、屋上から飛び降りた土本さんの血は水で洗い流されたように見えるってわけ。遺体に付いた海水も洗い流されてまさに一石二鳥よ!」
「す、凄いよ夏目ちゃん!」
「そんな…………もっと大声で言って」
「ははは、いやでも本当にスゴ―」
 ふいに厚く大きな雲が月を隠し、暗さのあまり何も見えなくなった。
「お、おっと……夏目ちゃん、大丈夫? どこ?」
「ここよ」
 秋山が声のする方へと腕を伸ばすと夏目の手に触れた。互いにしっかりと手を繋ぎ合う。
「夏目ちゃん、じゃあ証拠は―」
「うん。探せば今もこの海の底に沈んでいるはずよ!そうね、潜水艦が必要かしら……? アッキー、海軍に連絡して頂戴」
「その必要は無いよ」
 いきなり横合いから掛った声に夏目と秋山は飛び上がった。
 姿は見えない。が、その声は豊見のものだった。
「……ど……どういう意味ですか……豊見さん……」
 秋山は夏目の手を引くと自分の後ろへ下がらせた。
「だから、そのまんまさ、必要ないんだ。なぜなら―」
 豊見の姿はまだ見えない。秋山の身体に緊張が走る。
「なぜなら、私がこれから警察のところへ行って、洗い浚い白状してしまうのだからね……」
『……………………は?』
「だから、罪を認めると言ってるんだ。君達が考えた通りだよ、奴を殺したのは私だ」
「そ……そうですか……ええと……でもあの、なぜそんなあっさり……」
 豊見の息を吐く音が聞こえた。笑ったのかもしれない。
「そこに沈んでる車……あんな大きなもの、もう隠しようがない。疑いを持たれた時点でアウトなのさ……。それなら事件が明るみに出る前に自首して、少しでも刑を軽くする方が利口ってもんだろう? あんな奴のために死刑になるのは御免だ……」
「何が……あったんですか……?」
「……大分前になるが、奴の代理と名乗る者が立ち退き交渉に来たとき、私はきっぱりと断った……。その頃からかな……仕事がぱったりと無くなったのは。私は廃業に追い込まれ、あの土地を手放さなくてはならなくなった……。奴が裏で手を回していたと知ったのは最近だがね……。あれは親父が残してくれた大切な土地だったのに……! 何が地域の活性化だ、そんなもので利益を得るのは一部の人間だけだ……!」
 豊見はまた息を吐いた。
「もしかしたら、奴が別の場所で殺されたと、誰かが気付くかもしれないとは思っていた。しかし例え疑いを持たれたとしても、土本はどこか別の建物から突き落とされ、あの場所へ運ばれた、と思い込み、その在りもしない『土本が突き落とされた本当の建物』をいつまでも探し回ってくれることを期待していたんだが、まさか車で撥ねたこともバレてしまうとはね……こんなにも早く……しかもこんなに可愛らしいお嬢さんに……。沈めてある車は、時間を掛けて少しずつ水中で解体してしまおうと思っていたのに……」
「……何と言って、土本さんをこの場所へ誘い出したんですか……?」
「大潮の夜に防波堤の先っちょで何匹も釣り上げた、と言っただけよ。ふふ……本当は私は釣りどころか竿を握ったことすら無い……」
「豊見さん…………」
 ……………………返事が無いことで、二人はもうそこに豊見が居ないことを知った。


「なるほど、やるね……」
 春日がこめかみを強く抑えながら言った。眉間にはまだ夏目が挟んだメモが挟まっている。
 夏目と秋山に尻を引っぱたかれた春日はようやく意識を取り戻し、事の顛末を聞かされたのであった。東の空はもう白みを帯び始めている。
「豊見さんは、僕達がいつまでも道の前でたむろしていると都合が悪いから、いっそ家に招いてしまおうと考えたわけだ」
「そうですね……」
「僕達の車を調べるとき、作業場へ車を移動させずにそのまま外で作業を始めたのは、きっとそのとき、シャッターの奥に問題の車が有ったからなんだろうねぇ……」
「はい……。今職員が中を捜査しています。夏目ちゃんのお手柄ですよ」
「まあ……」
 夏目が指で鼻先を掻いた。
「そういうこと。スガッチが役立たずしてる間に、事件はあたしがスッキリ、バッチリ解決しちゃったわけよ」
「パチパチパチ。……でも―」
 春日はまじまじと夏目の顔を見た。
「その割には浮かない顔してるね」
「…………」
 夏目は決まりが悪そうにそっぽを向いた。
「……フクザツなのよ……いろいろと。そりゃ、豊見さんがとても悪いことをしたんだってわかってはいるけど……。豊見さんて根は真面目で正直な人だったんだろうな、とかね……。もし、大切な物を奪い去られたとして……あたしならそのときどうするんだろう…………」
 夏目は眉根を寄せると俯いてしまった。
「……な、夏目君、そんなの今考えても仕方ないっていうか……そのときになってみないとわからないっていうか、い、いや、そうならないように大切な物は確り掴んで離さないようにすればいいっていうか……その……ね?」
「わかるよ……そんなのわかってる……けど、さ……」
 そう言って夏目はまた眼を伏せる。春日はオロオロしながら、それでもなんとか気持ちを言葉にしようとする。
「な、夏目君……だからさ、ええと、つまり……」
「大丈夫だよ、夏目ちゃん」
「……は? 何が?」
「いつだって、たとえ夏目ちゃんが苦しくて、負けそうになったときだって大丈夫―」

「ボク達が守るよ」

 にこりと微笑んで言った秋山に夏目が眼を見開いた。
「バッ、バッ、バカじゃないの! な、な、何カッコつけてんのよ!」
 夏目は真っ赤にした顔から湯気を立てた。
「ア、アッキー? 何、どうしたの、大丈夫? 今回ちょっと男前だよ?」
「酔っているのか!? 酔っているからか!?」
 春日も驚いて秋山を見ている。
「もうっ! 二人して! ボクはこれが普通です!」
 秋山は両手をグーにして怒った。
「ふふ……あーキモイキモイ」
 夏目は嬉しそうに肩を震わせた。そして、
「ふうっ…………まあとりあえず、一つだけ確かなのは―」
 小さく肩を竦める。
「今回の実験は完全に失敗ね。だって、これだけお腹空いてたら何食べたって美味しいもの」
 そう言うと夏目は少し疲れの見える顔で笑った。

 警察の調べにより、作業場からは遺体を運ぶために使われた車が発見された。車内には遺体を包んだと思われるビニールシートや土本の持ち物と思われる物品も多数見付かった。
 数日後、海から引き上げられた車には、車体の前面にアスファルトで造った平台が取り付けられており、更にサイレンサーを取り付ける等して消音が図られ、駆動系は加速に特化した改造が施されていた。
 
 
 
   第十五話 相撃

 とある日の夕方、春日書店に秋山が現れた。
「おいおい、穏やかじゃないね。一体何事だい?」
 秋山の姿を見て春日が眉を顰めた。秋山はこの暖かさだというのに背広の前をきちんと留めており、その左脇腹は僅かに膨らみを見せていた。
「あ、いやいや、これは……結局抜かず終いでした」
 秋山はちらと脇腹に眼をやると残念そうに息を吐いた。
「でした? 犯人はもう逮捕できたってこと?」
「ええと、被疑者死亡につき、捜査打ち切りって感じですか。いやまだ、仕事が一個残ってるんですけど」
「ふうん? どんな仕事? ていうか、どんな事件だったの?」
 二人は店の奥にある事務所兼倉庫へと向かった。店が小さいのでごく僅かな移動で済む。
「先日、U町の宝石店にですね、マスクにサングラスをした二人組が拳銃を手に押し入りまして」
 秋山がパイプ椅子をギシギシ広げながら話を始めた。
「店の防犯カメラにそのときの映像が残っていたんですけど、二人が店に現れたのが午後一時ジャスト。一人が拳銃とストップウォッチを手に店員と偶々居合わせた一般客に睨みを効かせつつ、もう一人が銃底でショーケースを叩き割って、宝石をバッグに詰め込み始めたんです」
「ほうほう、それで?」
「まさにあっ、という間のできごとですよ。きっかり2分で盗れるだけ盗って店から引きあげてます。店内にはまだまだ高価な宝石が残ってるっていうのに、その誘惑を振り切って、ですよ」
「ふむう、プロか……」
「店を出た二人が表に停めてあった乗用車に乗り込んで逃走してます。パトカーが現着したのはそれから二分経った後で、その頃にはもう、影も形も」
「あらあ……」
「逃走に使用された車が現場から少し離れた所にある路上に乗り捨てられてまして、調べたところ、盗難車でした。そこから別の車に乗り換えたと思われます」
「手強いねえ、それでどうなったの?」
「はい、そいで、犯人が武装してるってことで、ボク等にも着装指令が下されましてね、今回は銃撃戦があるかもってテンション上がってたんですけど」
「こらこら」
「それが昨日、民間から何やら大きな音を聞いたという通報があったんですよ。向かった職員が、音がしたという家屋を調べたところ、そこで宝石強盗とみられる二人組がそれぞれ銃を手に遺体で発見されまして」
「わお、急展開」
「はい。死因は両名とも貫通銃創からの出血性ショックです。どうやら仲間割れを起こしたようですね。リビングで撃ち合ってました」
「へえ、リビングで……」
「はい。そこで向かい合った形の二人が前のめりに倒れていました。二人とも靴は履いたままです。所持品から身元も割れました。ええと、関根という男と、もう一人が室伏という男ですね。現在防犯カメラの映像と照合中なんですけど、頭髪や体型等外見的特徴から、強盗に入ったのはこの二人で間違いないようです」
「ふむ……そしてその二人が、同士討ちを……?」
「ええ、検死解剖も旋状痕の鑑定もまだではあるんですけど、鑑識班の報告によると、壁に付着した血飛沫の角度から視ても、それぞれ相手の銃から発射された銃弾を受けたことによる死亡とみて間違い無いそうです。……ふぅ、宝石を盗るまでは上手くいってたっていうのに、最後の最後で宝石の取り合いを始めたんですかね……慎重で利口な奴等かと思いきや、結局、野蛮人だったんですねぇ」
「そうだねぇ……」
「人の欲望ってやつぁ、怖いもんです……」
「ああ、全くだね。後何が怖いって、後ろから『だーれだ』って眼を塞がれて、幾ら考えてもその人物が誰なのか本気で心当たりが無い時はめっちゃ怖いね」
「……ああ怖っ! ちょっと想像してみたら確かに怖っ! いや、じゃなくて何の話ですか。今その話要らなかったですよね」
「ふっ……秋山君、この世に要らないものなんて何一つ無いんだよ」
「あ、その台詞が一番要らなかったです」
「オウ、氷のようだぜ。まあいいや、話を戻そう―ええと、そもそもその民家、誰の家なの?」
「誰かの所有というわけではなくて。普通の売り物件でした。関根の方が胸の内ポケットに蛍光ペンで駅から家屋までの道順を几帳面にマーキングしてある地図を入れてました。一時的に隠れ家として使ったのかもしれません。浴室のガラスが壊されていたので、そこから侵入した模様です」
「そう。……しかし、狡猾な犯人達が真っ正直に正面から撃ち合っているのは少し妙だな……現場で何か気になった点とかは無かった?」
「気になった点ですか、そうですね……玄関と勝手口の鍵が両方とも開いてたってことですかね。窓を割って侵入してるってことは、鍵を持って無かったってことですよね。ってことは、玄関と勝手口の鍵は家に侵入した後、内側から開けたってことになります。二人はわざわざ扉まで行って、鍵を開けて、またリビングまで戻ったんですかね……?」
「ふむ……」
「他には……室伏が履いていたズボンの尻ポケットなんですけど、内側の生地がべろんと外にはみだしていたんですよ。ポケットに入れていた何かを取り出したときにめくれてしまったのは間違いないと思うんですけど、銃を入れておくには小さ過ぎるし、また宝石を無造作に尻のポケットに入れておくとも考えられないし……一体何を取り出したのやら……」
「うん……」
「後は……そうですね、二人が倒れていたリビングの床に、塩噴いてるところがありましたね」
「何て? 塩?」
「はい。塩の結晶です。カーペットに、こう、地図が描かれてました」
 秋山は座ったまま身体を折って床に指を当て、くるりと図を描いた。
「なぜそれが塩だと? もう分析結果が出たの?」
「いえ、舐めてみたらしょっぱかったんで」
「何かれ構わず口に含むんじゃない! 乳児か君は! 毒物だったらどうするの!」
「! ……! ……っ……!」
「予想だにしなかったんかい! なに驚愕の表情!? こっちがビックリだわ!」
 秋山の顔が鮮やかに青ざめる。
「せせせ、先輩? ボ、ボクちょっと気分が……びょ、病院に行った方がいいですかね……?」
「ああ診て貰え! 頭重点的に診て貰え!」
「よ、良く効く薬を処方して貰わないと……」
「君に付ける薬は無いと思うけどね」
「…………ま、まあでも、これだけ時間経ってるのに大丈夫ってことは、大丈夫ってことですよね?」
「…………」
 春日はちょっとずつ秋山から離れた。
「ちょ、ちょっと先輩?」
 秋山が伸ばした手を春日は身を引いてかわした。
「なんっ……なんで逃げるんですか先輩! 大丈夫ですよ? 何もうつりませんよ?」
 プシューッ。
 マスクで顔を覆った春日が、秋山に向けて何かのスプレーを散布した。
「ぷぁ、ちょ、なんですか人を変な病気みたいに!」
「……とまあ、冗談はさておき、話を元に戻そうか。なんだっけ、人の欲望は怖いって話だっけ?」
「ボクは先輩が怖いな。いやちがくて。床に塩」
「ああそうか。床に塩……なんだろう……」
「何か料理でもこぼしたんですかね」
「不法侵入した販売物件の中で料理を? ……いやその前に、ガスとか水道が通じてないでしょ」
「あ、そうでした。電気もガスも水道も通じてなかったです」
「ふうむ、……他に気付いたことは?」
「あ! 大事なこと忘れてました! 盗まれた宝石が何処にも無いんですよ!」
「最初に言えよ」
「そういえば、今日はその件で来たんでした! 無いんですよ! 遺体の周りにも家の中にも! 近くにそれらしい車も無かったし、関根と室伏の自宅にも行ってひっくり返したんですけど」
「ちゃんと探したの?」
「探しましたよ! 一所懸命」
「誰よりも先に宝石を見付けることができれば、こっそり一個くらい貰ったとしてもバレないだろうって?」
「なんっ、なにをバカなっ! そんなわけないでしょう! ったく……でも、一番最初に見付けることができれば、宝石店のオーナーに気に入られて、ご褒美に宝石の二個三個もくれるって展開に」
「ならんならん」
「だって、今月ピンチなんですよぉ……はぁ……このぶんじゃ、月末はまたエアごはんかぁ」
「エアごはんて! それはつまりただの呼吸だよね!? やめて、悲しくなるから! 食べるマネごとしたってお腹は満たされないから! 心も満たされないから!」
「ええ、こうやって口動かしてエアごはんしてるとですね―もぐもぐもぐもぐもぐもぐ……涙が止まらないんです」
「はぁ……ゲームとか、エロいことするお店にばっかりお金使うからだよ」
「だって、せっかく刑事になったのに、発砲できる機会なんて訓練の時くらいしかないし、だったらもう、別のイミで発砲するしかないじゃないですか」
「さ、さいてぇ」
「お風呂が発泡しているお店だけにね」
「うるさいよ!」
「とにかく、宝石が無いんですよぉ、隠し場所を探り当てる良いアイデアはありませんか?」
「ムチャ言わないでよ、エスパーじゃないんだから。何処かに埋めたかもしれないし、もしかしたら他の人間に預……」
 春日が表情を変化させた。
「先輩? どうかしましたか?」
「……秋山君、問題の家屋だけどね、どんな家だった? 立地は?」
「どんな? どんなって、普通の家ですよ。住宅街にある普通の一軒家。門が有って、玄関が有って。家の裏側には勝手口が有って庭が有って。庭には路地裏に通じる裏門が有ったかなぁ」
 秋山が夕日を浴びた壁を見上げながら記憶を辿った。
「そう……じゃあ、地図は二枚有ったはずだよ……」
「はい?」
「秋山君、君が舐めてみたっていうあの塩の結晶。あれの科学分析をお勧めするよ」
「え? 分析したら宝石の在りかが分かるんですか!?」
「いや、直接結び付くかは分からないんだけど、捜査の手掛かりにはなるかもしれないよ」
 春日の提案に秋山はぽかんと口を開けた。

※春日はどのような事柄を示唆しているのだろうか?

「あの、意味がよく分からないんですけど、科学分析すればいいんですよね?」
 秋山がいぶかしげな表情で訊ねた。
「そう、あの塩の結晶をDNA鑑定にかけるんだよ」
「DNA鑑定?」
「うん。あの、関根と室伏の二人が倒れていたリビングに、もしかしたらもう一人、他の人物がいたかもしれないんだ」
「へっ?」
「そうだな、仮にその謎の人物を『X』としようか。ガラスを割って、一番最初に家屋に浸入したのもそのXだよ。そして、関根と室伏が玄関と勝手口からそれぞれ家の中に入って来て、この二人がリビングでばったり出くわしたとき、そこでXが、胸を真っ赤に染めて死んでいたとしたらどうなる?」
「はいい?」
「そしてもしこのXが強盗犯の一味だったら?」
「え……?」
「Xは前もって関根にこう言ったんだ『室伏が裏切るかもしれない、信用するな』って。そして、室伏には『関根が裏切るかもしれない、信用するな』と逆のことを言っておく。そしてXは玄関と勝手口の鍵を開けておき、問題のリビングで『死んだフリ』をしておく。リビングと言えば家の中心、家のどこへでも通じている要所。玄関から入ろうが勝手口から入ろうが奥へ進めばリビングへと辿り着く。そこへ現れた関根と室伏がXを見て、死んだフリをしていると気が付かなかったら……?」
「…………」
「Xが言った通り裏切りやがった、と二人は思うよね。それと同時に二人には大義名分ができるわけだ。先に裏切ったのは奴だから、制裁を加える権利は自分にある、とね。相手が死ねば盗んだ宝石は自分が独り占めできる、という打算も働いただろう。そして二人は反射的に銃に手が伸びる。こうなってしまったらもう後には引けない、ここから先の二人の思考と行動は見事な一致を見せたはずだよ。『銃を抜いたからには、相手より先に狙いをつけなければならない。銃口を向けられたからには、相手より先に引き金を引かなければならない。殺られる前に殺れ!』とね。で、バンバン……と」
 呆気に取られていた秋山がようやく声を絞り出した。
「…………い、いやでも。そう上手くいきますかね?」
「そんなの分からないよ。だから、Xは汗をかいたんだ」
「……っ……!?」
「不安に決まってるさ。バレたら確実に二人に殺される。もしかしたら、なぜこんな方法を選んでしまったのか、死んだフリしながらぶるぶる後悔していたのかも」
「そ、そうか、あの塩の結晶は、汗が乾いたものだったのか……!」
「そう。あるいは、汗っかきのおデブ」
「あ、ああ……この気温で……」
「そう」
「いや、でも待って下さい、同時に二人をリビングに来させるなんて無理ですよ」
「そうかな? かなり時間に正確な二人だし、どこどこに、何時ちょうどに来いって念を押せば難しいことは無いんじゃない? それよりも、関根と室伏が家屋に向かう道の途中で偶然出くわして、全てがパァになる可能性の方が怖い。だから蛍光ペンで道順をマーキングしてある地図をそれぞれに渡しておいたんだと思う。二人が全く別々の道を使って家へ向かうように仕向け、そして、一人は玄関から中へ、一人は勝手口から中へ入らせて、二人をリビングでハチ合わせさせる……!」
「……そ、そんな……」
「まず、ネットや不動産屋を回って、都合の良い物件を探し、見付けたのが偶々あの家屋だったんだろう。そして適当に理由を作り、二人をあの家屋へ呼び出す。警察にどこで職質と所持品検査をされるか分かったもんじゃないから、関根と室伏は普段外を出歩く時、拳銃など絶対持ち歩かなかっただろうが、Xの姦計によって裏切りに対して警戒していた二人は、用心のために拳銃を所持していた……」
「……! そ、そして二人は、約束の時間に家へ上がり込んだ……?」
「そう……。電気は通ってないから家の中は薄暗く、Xは死んだフリをしているとすぐに気付かれる恐れは無い。しかし、上手く撃ち合いになっても、どちらかが生き残る恐れはある。そのときは、死んだ方の銃を拾い上げ、生き残った方を後ろから撃てば良いわけだ。そして、二人に渡してあった地図は手掛かりになるものだから両方とも回収しておく必要がある。室伏はその地図を尻のポケットに入れていたんだろう。Xはそれを抜き取ったんだよ。しかし、関根の方は簡単に見付けることができなかったんだ。だから、全てのポケットに手を突っ込んで地図を探すよりも、むやみに死体を動かさない方を選んだんだと思う」
「な、なるほど……」
「そしてXは二人の宝石を奪って逃げた、と」
「二人組の強盗じゃなくて、三人組みだったのか……!」
「うん……。逃走車の運転役か、闇商人とのブローカー役か、まあそんなところだろう。首尾良く事が運んだと思って、Xは今頃どこかでほくそ笑んでるだろうね」
「野郎! 絶対探し出してやる! でもどうやって……あ、なるほど! 遺伝子といえば精子! あの汗の結晶を分析して貰って、遺伝子情報を読み取ったら、今度は精子バンクをあたって、保存されている遺伝子と照合して、人物を特定しろってことですね!?」
「ちがう。犯罪とかする人は精子バンクしないから。それに、汗くらいからじゃ、ごく大雑把な遺伝子情報しか得られないよ。塩の結晶を分析したら、関根と室伏の遺伝子情報と一致するかどうかだけを見れば良い。もし一致しなければ、その場所に別の誰かが居た、という証明になるだろう?」
「あ、そうか」
「そしたらその後は問題の物件を管理している不動産屋に、それらしい人物が訪ねて来なかったか問い合わせるんだ。その他には……そうだな、これはXが車輌の運転手役だった場合の話だけど、警察は検問で二人組の男が乗った車を重点的に探したはずだ。三人になることで、上手く検問をすり抜けたのかもしれない。そんな車が通らなかったか記録を調べてみるのも手かも」
「なるほど! そうやって、そのXを探し出すことができれば、イモずるで宝石の在りかも! よっしゃあ! ありがとうございます先輩! あわや諦めムードの事件をまさかここまで! 流石先輩、ボクと先輩のコンビの前に怖いモノ無しですね!」
「ああ! モチロンさ! さあ、行っておいで。ああ秋山君、もしかしたらXも銃を持っているかもしれない。用心のためにこれを着ていくんだ」
「先輩、そこまで! ボク感激です! ありがたく―」
 春日が差し出したのは、白装束と三角形の額紙だった。
「あ、怖いモノあったわ……」
 秋山は春日にヒイた。
 
 
 
   第十六話 三重苦 

『そしたら、もうアッタマきたからさ、こう言ってやったわけよ―「父さん! 男には通さなきゃいけない意地ってものがあるんだ! ぼくは自分の生き方に誇りを持っている! だからぼくはここから一歩も動かない! この部屋から一歩も出ない!」……ってね』
「…………」
『「地位も名誉も要りはしない!」とも言った。「でも結婚はしたいな」って言ったら殴りやがった。ムッカツク』
「うん、ぶたれて当然だよね。むしろ窓から放り出されなかったことを神に感謝しようか」
 その日、店の仕事が終わった春日は、事務所兼倉庫に置いてあるパソコンを使い、インターネット回線で冬木と通話をしていた。
『なんでよ? ぼく自分の金は自分で稼いでるわけだからね? 文句言われるスジ合い無いっしょ?』
「はぁ……そのパソコンの才能が唯一の救いとしても……全く、君はパソコンの無い時代に生まれていたらどうなっていたことか。いや、違うな。この時代に生まれたからこうなったのか……」
『ふふん、それに、洒落で作った部屋人(へやんちゅ)Tシャツが売れちゃって売れちゃって』
「くっ……部屋人しか着ないであろう部屋人Tシャツがそれだけ売れるってことは、この世の中にそれだけ部屋人が溢れているということか……」
『ぼくは独りじゃない』
「ちっ……そんなことばかり上手になりくさって……もし僕が君の兄貴だったらもっと早い段階で真っ当な生き方を歩ませることができたものを」
『冗談! 兄貴なんかいらないね! 妹は欲しい』
「ええい、黙れ」
『いやー、これでもメッチャ子供の頃は、大きくなったら正義の味方になって、自分が持っている力を全て弱い者のために使おうと思ってたんだけどねぇ。今では自分が持っている百円募金するのすら惜しいってんだから不思議だよねぇ』
「…………」
『それに子供の頃って毎週テレビにかじり付いている割には、戦隊ヒーローとか、巨大ロボとかって、本当には存在しないって結構早い段階で気が付いてるでしょ? でも、自分が大人になったら巨大ロボとか、普通に自分の手で開発できるとか思い込んでたフシがあるよね。図工で造るダンボールロボはその予行演習みたいな。将来はいっぱい勉強して、人々の役に立つロボを造ろうって燃えてたんだけどねぇ、中学に入ったら合体ロボより別の合体に興味が湧いちゃったわけだこれが』
「………………」
『それにちょうどその頃、古典とか歴史なんか勉強するよりも、プログラム打ってる方がよっぽど有益だって悟っちゃったんだよね。何代の徳川某が何をしたのかなんて、必要なその時になって検索すりゃいいんだから、どうせ捨てちゃうノートにくる日もくる日も板書写すより、検索エンジンの使い方覚える方がずっと有意義な時間の使い方だって』
「……だけどね冬木君、君が大好きなそのインターネットに流れている情報が、全て事実であるとはかぎらないわけだろう? その情報が本物かどうかはどうやって見極める? 自分で歩いて、見て聞いて感じて、考える。そうやって初めて、真実が見えてくるものなんだ。少なくとも僕は今までの経験からそう信じている。指先の操作だけで得られるものなんて、たかが知れているんだよ」
『…………』
「そう……いくら『事件の真相』を検索したって、決してヒットなどしないのだから……」
『キタァァァァァァァ!』
 冬木が奇声を上げた。
『め、名探偵気取っちゃったよこの人! ぶっはははははっ! ……け、決してヒットなどしないのだから。プッ、誰か、誰かー! お薬の時間です!』
 スチャチャチャチャチャ、と何かのボタンを連打する音が春日の耳に届いた。
「ふ、冬木君……たいがいにしないと、マジでキレるよ……」
 春日は顔を赤くしながらこめかみをぴくぴくさせた。
『だ、だって、もうあまりにもカッコいいもんだから、板に書き込んで国民に晒そう……いや、国民で称えようかと思って』
「よし、次は法廷で会おう」
『ジョーク、ジョーク! ……まあ確かに、ネットには嘘やテキトーな話ばっか転がってるよね。ちょっと前までのぼくが偏った認識でものごとを見ていたことは認めるよ。情報の真偽を確かめるためには実際に体験したり、色んな角度からものごとを見る必要があるってことも解った。それを教えてくれた春日さんと秋山さんにはまあ、一応感謝してるよ。あ、秋山さんといえばなんか前、何とかって女子高生がぼくのこと取材したがってるとか何とか言って連絡あったんだけど……』
「ああそうそう。僕達の友人で夏目君と言うんだけど、学校では新聞部として活動していてね。それで是非、こもりんを取材してみたい、と」
『こもりん?』
「夏目君命名の、君のアダ名だよ。ひきこもりだからこもりん」
『……あの……こちらとしては関わり合いになりたくないんですけど……』
「どうして? とても利発でかわいい子だよ? 僕と秋山君は彼女を妹のように思っているくらいさ」
『いーや妹ってのは、すこし頭がさわやかで、ドジで、兄に頼りっきりな方がかわいい!』
「いや、君は頼りになるどころか、部屋から一歩も出てこないじゃないか……」
『てか逆に、ぼくに何を期待して取材したいのか聞きたいね! 部屋は一年中真っ暗で、足の踏み場も無いくらい散らかってて、賞状やトロフィーは一個も無いのにフィギュアとかはいっぱい飾ってあって、ゴミ箱はティッシュでパンパンで、語尾がござるなら満足なの? それならご期待に添えないから! ぼくの部屋割と整然としてるから!』
「そこをなんとか。君への取材が駄目となると、シワ寄せが僕等へ来ちゃうから」
『知らないし。どーせ取材ったってアレでしょ? 秋山さん同伴でしょ? ぼくが何か変な素振りを見せようもんなら、即タイホの勢いでしょ!? 目の前にぼくが居るのに、秋山さん間に立たせて「最近ハマっているものは何? って聞いて」ってやるんでしょ!?』
「いや、いくらなんでもそこまでは……」
『取材させたらさせたで、社交辞令でも今日は参考になりました、くらい言ってもバチは当たらないのに、期待外れとなると「つまんない」とかハッキリものを言うタイプの女と見た!』
「正解」
『あああっ! 考えただけで恐ろしい! 予想通りのヲタクっぷりなら、それはそれで「キモーイ」とか言って引くんだろ!? どないせーちゅーんじゃあ!』
「いやでも、ここは一つニーズにお応えして、某ミニスカ魔法少女について熱く語りなよ! 小一時間語りなよ!」
『そんな特殊技能ねえよ!』
「ならせめて、今から頑張ってゴミ箱をパンパンに」
『するかぁ!』
「そんな、僕がこんなにも頭を下げているのに!」
『見えん見えん。てか絶対下げてないし』
「交友関係を広げるつもりでさ。女子高生の生制服が拝めるんだよ? ほらあれだ、萌えー、じゃないか」
『そんな言葉に騙されるか! 拝まれるのぼくの方じゃん! ぼくを観察しに来るんじゃん! 萌えーじゃねえよ! 萎えーだよ!』
「もう、さっきからワガママばかり、いい加減にしてくんないかな」
『えっ! 何でぼくが悪い感じになってんの?』
「あのさぁ、困るんだよね、このくらいの要請、快諾してくんないとさぁ。こっちにも都合ってもんがあるんだからさぁ」
『えっ! ぼくの都合は!? アレッ!? いつの間にか交渉じゃなくなってきてるよ? 命令に近いものがあるよね? 不可避ルートなの? これ不可避ルートなの?』
「よく考えたまえよ。ご両親に迷惑が掛るのは、君も本意では無いだろう?」
『マフィア!? 命令通り越して、もはや脅迫だよね!? ぼくそんなに悪いことした!?』
「勘違いしないでくれたまえ。こちらはあくまで君の意志を尊重し、判断は君に委ねるよ。……さあ、どうするね?」
『……ふっ……ふふふ……はははははっ! わかったよ! 好きにしろよ! もうどうでもいいさ! いっそ殺せ、殺せよォ! そうさ、どうせぼくなんて社会のクズだ! 家に居れば白い眼で見られ、外に出たら出たで挙動が怪しいと職務質問を掛けられる! それにあれでしょ、何か事件があったとき、警察が現場付近で聞き込みとかしてるけど、あれって本当は不審者の目撃情報とか集めてるんじゃなくて、「警察だ」って名乗ったときの反応見て、必要以上に警戒したり動揺したりする奴を容疑者の候補に挙げてるんでしょ! きっとそうでしょ!? そりゃこちとら視線恐怖症なんだから別にやましいことがなくてもオドオドするっちゅーねん! ひきこもりナメんな! これだからおちおちコンビニにも行けやしねえ!』
「…………ふ、冬木君……君も、苦労、ぐす……してるんだねぇ……ぐす」
『同情するなぁあああ! 余計に悲しくなるわぁあああ!』
「ごめんね、勝手なこと言って。夏目君の方にはちゃんと僕の方から断っておくから。本当にごめんね」
『気ィ使うなぁあああ! ……はぁ……でもぼく等って警察とかにはホント苦労させられるんだよ。犯罪者予備軍とか言ってすぐ疑いの眼向けられるし。秋山さんは随分マシな方だけど。ちょっと前にも変死体が出たとかでダチの所に、刑事が話訊きに来たらしくてさ』
「変死体だって? 事件でもあったのかい?」
『ちがうちがう。酔っ払ってプールに入った馬鹿が溺れたってだけの話。その男が住んでるマンションの部屋には室内プールがあって、んで、同じマンションの別の階に住んでるダチのところに刑事が来たわけ。でもそのダチに言わせればその男は同情の余地も無い、死んで当然のコソドロ野郎なんだってさ』
「コソドロ野郎だって? 何があったの?」
『その、ぼくのダチ、漫画書いててさ。全然プロとかじゃないんだけど、でもいつかは、って感じでシコシコ頑張ってたわけ。で、新人賞に応募するってんで作品の構想びっちりノートに書き込んでたらしいんだけど、半年かそこら前に、引越しのどさくさでそのノート落したって言うのよ。でもまあ、ネタ自体は頭の中に在るから、別に? って感じだったらしいんだけど、何カ月かしてびっくりすることが起きたって。自分が書こうとしてたはずの話を別の人間が書いてて、連載とか始まって、しかも発売当初から神漫画扱いの状態で! 当然ダチはその漫画家と出版社にモノ申したんだけど、その漫画家、既にそこそこ売れてた奴だったらしくてさ、誰もダチの話を信じてくれなかったんだって……。で、その漫画家ってのが、プールで溺れてた男ってわけ』
「ううむ……」
 ―ある一つの物語があったとする。そして、その物語は自分が書いたものであると二人の人間が主張していたとして、そのどちらが本当の作者なのかをはっきりさせなければならないとき、一昔前なら続きを書かせてみれば良い、といわれた。ニセモノには続きを書く事が出来ないからだ。しかし、もうありとあらゆるネタが出し尽くされた感のある昨今では、物語がどのように展開したとしても、どこか他のところで、似たような物語が既に在ったりする。そのため、真の作者は自身の独自性を証明するのは極めて困難であるといえよう。どうやったってかぶってしまうのだ。そう、だから話の設定が古かったり、展開に目新しさが無かったとしても、これはもうしょーが無いことなのだ。
『あの……なんか……読者への挑戦どころか読者への言い訳始まっちゃったんですけど……』
 いや、これは読者へ言い訳をしているのでは決してなく、斬新なアイデアが思い浮かばなかったとしても、別に自分が悪いわけではないんだ、と自分を励ましているのだ。
『完全に負け犬の考え方じゃねえか!』
「ふむ。このように、あえて醜態を晒すことによって目先の笑いを取ろうとするのも、割とよくある手法だね」
『いや、春日さん、冷静に解説しないで……』
「そうだね。じゃあアホな地の文に付き合うのはこのくらいにして……。君の友達はそれが自分の考えた物語であると証明できなかったってわけだね?」
『そう。どうしたってプロの漫画家の方にアドバンテージがあるからね。駄目だったって。あいつそれ以来、日を追う毎に悔しさが募って、相当荒れたし、相当荒らしたって』
「いや、荒れてても、荒らし行為はやめよう」
『でもそいつ以上に逆上してたのがそいつの兄貴でさ、出版社に電話掛けて、猛烈に抗議したらしいよ。それだけでは気が収まらず、その出版社が出した本を、何十冊も取り寄せて、ビリビリに破り捨てたり、燃やしたりしたって!』
「そうは言っても、そのために何十冊も購入してるわけだから、逆に売り上げに貢献してるんじゃ……?」
『とにかく! そうこうしている内に、漫画家は勝手に死んじまったわけよ! 弟に言わせると、どうせなら自分の手で沈めたかったらしいけどね』
「ふうん……もしその盗作の話が本当なら、君の友達の兄弟には、動機があるってことになるね……」
『………………』
「……あ、いやいや! 別に、深い意味は」
『まぁ……そうやって、春日さんと同じように疑った刑事達が、いろいろ調べてたみたいよ。でもムリなんだって。弟の方は足が悪くて、独りで立つこともできないから車椅子使ってんの。大の大人溺れさすとかムリ。漫画家はマンションの近くにある居酒屋で飲んでるとこ目撃されててさ、胃の中身の消化具合からかなり正確な死亡推定時刻が割り出されてんの。死因は溺死。で、漫画家が死んだ時間、弟がなにしてたかっつーと、自分の部屋でぼくとチャットしてたのさ! 「そろそろ本気で、中学のときの同級生から掛ってきた同窓会の誘いを、無難に断る方法について考えようぜ」という議題でね! だから、弟のアリバイは完璧なのさ!』
「あ、ああそう……じゃ、じゃあお兄さんの方は?」
『ああー兄貴にも犯行はムリだね。漫画家は室内プールに素っ裸で浮かんでたんだけど、兄貴ってば水恐怖症だから』
「水恐怖症?」
『うん。まあ、ぼくも今回聞くまで知らなかったんだけどね。しかも高所恐怖症で閉所恐怖症なんだって』
「はい?」
 春日が素っ頓狂な声を上げた。
『だからさ……ええと、あ、図で説明した方が早いかも。春日さん、今からアプリ送るから、インストールして』
 画面を見ていると、なにかしらソフトが送られてきたので、春日は言われた通りにした。
『した? じゃ、アイコン出てるはずだからアプリ起動して。後は何もしなくていいよ。こっちでやるから』
 画面になにやら図形が映し出された。縦に長い四角形が3Dで表示されている。
『これマンションの簡略図ね。そんで―』
 図形に階数を分けるための横線か引かれ、十層に分けられた。
『十階まであって、兄弟が住んでるとこが十階。で、漫画家が独りで住んでたのか一階』
 それぞれの場所がチカチカと点滅した。
『で、このマンション、外側は総ガラス張りなのよ。だから、ドアを開けて部屋の外に出たら目の前は一面ガラス。もうメッチャ見晴らしが良いらしい』
 今度は図形の外周が点滅した。
『だからさ、高所恐怖症の兄貴は部屋から出ることさえできないわけ。それに、水恐怖症だからプールで人溺れさすとか絶対ムリ。後、例えばエレベーターで一階に降りようとしたとしても、エレベーターホールやエレベーター自体に窓は無いけど、閉所恐怖症だからエレベーターに乗れないってわけ。あ、付け加えると階段もムリね。そこも外側がガラス張りだから、兄貴には使えない』
「ち、ちょっと待って。エレベーターも階段も使えないなら、お兄さんはそもそもどうやって今住んでる十階の部屋に入ったの?」
『引っ越し屋が家具と一緒に運び入れて、以来それっきりらしい』
「そ、そう……。でもそんな人がなんでわざわざそんなところへ引っ越したんだろうね」
『だよね。しかもひきこもりのくせに閉所恐怖症だし。超ウケる。変態だね』
「君が言うな」
『いや、弟の方が高い所大好きでさ。ほら、車椅子に座ってると普通、手摺が邪魔で外が見えないじゃん? 弟の方がそのマンションの造りをえらい気に入ったらしくてさ』
「なるほど」
『でもさ、そのマンションの造りって、女の人にとってはスカートの中、下から丸見えじゃん? もう全く買い手がつかないらしい』
「あ、オフィスビルみたいに外からは中が見えない特殊ガラスじゃないんだ……」
『いや、そうするはずだったみたいだけど、予算をケチったからか、微妙に透けてるらしいんだよね。オーナーは悔恨の余りハゲ散らかってるらしいよ?』
「そ、そう……」
『でさ、兄貴の方からそこへ住もうと言ったらしいよ。自分にとってはヂゴクみたいな部屋なのにさ。優しくない? よくは知らないけど、大昔、弟が車椅子になった原因をつくったのは兄貴らしくてさ、弟の方はそのことで兄貴を責める気はさらさらないみたいなんだけど、兄貴の方は負い目を感じているからか、すごく弟を気遣ってるみたい。両親を早くに亡くしててさ、それでも結構な財産を残してくれたみたいで、兄弟仲良く充実したひきこもりライフを満喫してたみたい』
「ふ、ふうん……あのさ、もう少し突っ込んで訊きたいんだけど、お兄さんの恐怖症のこと、間違い無いのかな?」
『ああ、兄貴は高所恐怖症かつ、閉所恐怖症かつ、水恐怖症であり、それが演技ではありえない、って複数の医者が診断してるよ。今住んでる部屋から一歩外に出れば、もう腰が砕けてそこから動けなくなるし、水の張った洗面器にでさえ顔を付けることもできない。狭い密室では恐怖の余り、少しの時間でさえ耐えることができないってさ』
「ふむ……じゃあそうやって、お兄さんがいろいろな恐怖症持ちだと分かったから、犯行が不可能だと判断されたんだろうけど、そもそも最初に、他殺の可能性も有るから兄弟のところに刑事が話を訊きに来たんだろう? 死んだ漫画家の部屋はどんな状態だったの?」
『状態は……そのまんまなんだけど。室内プールで漫画家が溺れてたっていう。ただ、玄関の鍵が開いてたらしくてさ、後その漫画家相当な酒好きで、毎晩々々酔っ払っちゃあ夜中に帰宅してたらしい。タクシーの運ちゃんにエントランスホールまで運ばれて、そのままホールで爆睡したり、玄関の前で力尽きてそのまま廊下で寝てたりする男だったみたい』
「ああ……たまにいるね、そんな人」
『うん。だから、やろうと思えば誰でも、泥酔した漫画家をプールに落とすことは出来るってわけ。だから最初警察は事件の可能性も考慮に入れて動いてたみたい』
「ふむ……それで、遺体は誰が発見したの?」
『原稿を催促しにきた出版社の担当にだね』
「その担当者のアリバイは?」
『完璧みたい』
「そう……因みに、そのマンションには室内プールが付いているのが普通なの?」
『いや、ちがう。漫画家がマンションのオーナーに金積んで改装させたらしい。ブログで自慢してた』
「ふむ……。じゃあ、マンションの階段やエレベーターだけど、ちゃんと調べは行われたのかな」
『ああ、刑事達があーでもないこーでもないやってたみたいよ。高所恐怖症の兄は、外を巨大な幕で覆い、外の景色を見えなくしてから階段を移動したんじゃないか、とかさ。だからそれ以前に、兄貴は階段に近付いたり屋上に昇ったり出来ないっつーの。それに普通に考えて、十階から一階まで覆える程大きな幕なんて用意出来るわけ無いっしょ』
「確かに」
『同じようにエレベーターも調べられてたよ。天井の一角が蓋になってて、簡単に上へ持ち上がったから、捜査員がカゴの上へ昇って、一階から順に「R」って表示されてる階まで念入りに調べてたみたいだけど、何か仕掛けが施された跡は一切無かったって』
「…………」
『他に何か質問は?』
「いやあの……君さっきから僕の質問にバシバシ答えまくってるけど、なんでそこまで詳しく知ってるの? まさか向こうまで行ってきたの?」
『まさか! ぼくが調べたんじゃなくて、弟の方から聞いたんだよ! 無線の音拾うなんて道具が有れば一発っしょ』
「あ、弟さん……そういう道具をお持ちなんだ……」
『……あの兄弟ってさ、金は持ってるから生活への危機感とか全然無くて、人生舐めてて、基本ダラけて生きてんだけど……あの弟が唯一、本気で、真面目に取り組んでるのが漫画なわけ。自分の作品をパクった漫画家の死に対する関心はかなり強いわけよ』
「なるほど……それでいろいろと、警察に聞き耳立ててたわけだ……決して、褒められたやり方じゃないけどね」
『そうかもね。でもまあいいじゃないの。で、質問は? もう無いの?』
「ああええと、そうだな……弟さんだけど、移動するときはいつも車椅子を使っているのかな?」
『基本的にはそう。でも、夜は電池充電するから乗らないみたい』
「ほう、充電……。その充電ってのは普通にコンセントからするもんなの?」
『うん。でもあいつ、パソコンとかエアコンとかオーディオとか、一つの部屋で電気使い過ぎてるから、更に電源取るとすぐブレーカー落ちるらしい。だからいつも使ってない部屋のコンセントで充電してる、とか確か言ってた』
「そう……冬木君、君と弟さんはその夜、チャットしてたって言ってたけど、どのくらいの時間?」
『えーと、四、五時間ぐらい?』
「あんなテーマで何時間議論すんだ君達は!」
『え? ザラだけど?』
「ザラなんかい」
『うん。まあとにかくこれで解ったでしょ? あの兄弟は漫画家の死と全然関係無いって』
「…………いや、ちょっと待って……もしかしたら……お兄さんには漫画家を殺害することが可能かもしれない……」

※春日の言う通り、三つの恐怖症を抱える兄にでも犯行は可能なのだろうか?

 ヘッドセットの向こうで、冬木が静かに息を飲んだ。
『へ、へえ……マジで……? あの兄貴が漫画家を殺せるって……? ははっ……どうやって?』
「エレベーターで一階まで降り、泥酔して寝入っている漫画家を水を使って窒息死させたんだ」
『なんっ……! 春日さん、アンタなに―』
 冬木は一旦言葉を飲み込むと、ゆっくりと言い直した。
『そりゃムリでしょ、春日さん。あの兄貴は部屋を出て、通路を渡ることが―』
「うん、自力ではムリだろうね。一歩部屋の外へ出るとそこで腰が砕けちゃうんだから。でも、あるものを使えば自分の足で歩かなくても移動が可能となる」
『あるもの?』
「電動車椅子だよ。弟さんの車椅子は電動式なんだろう? お兄さんは、君と弟さんがチャットを興じている間に車椅子を持ち出したんだ。弟さんが充電を開始した時点でバッテリーのパワーがどのくらい残っていたのかは知らないけど、多分一時間くらいは充電してから行動を開始したんじゃないかな」
『…………』
「部屋の外に出たら、レバーを操作して、後は車椅子に座ってブルブル震えてりゃいい。そうやって、エレベーターホールまで移動したんだ」
『……で、でも! 閉所恐怖症の兄貴がエレベーターに乗れるはずが無いよ!』
「いくら閉所恐怖症でも、エレベーターぐらい、頑張れば乗れるでしょう? 何も十階から一階まで一気に降りる必要は無いんだから。一階ずつインターバルを挟みながら降りれば良い。でも、たとえ一時でも、恐ろしさの余りエレベーターの扉を閉めることが出来ないというなら、恐怖を軽減させる方法はあるよね。まず、一階へのボタンを押した後、ドアが閉まらないように紐を結んだつっかえ棒しておいて、次に天井の蓋を持ち上げ、そのままカゴの上に昇っちゃうんだよ。そのマンション、住居スペースは十階までみたいだけど、Rの表示があるってことはエレベーターは屋上(Rooftop)まで上がるってことだ。エレベーターシャフト内はロープやガイドレールが有り、ややゴチャゴチャしているとはいえ、頭上にはカゴが屋上まで上昇できるスペースがあり、またエレベーターシャフト自体の天井は更に高いところにあるから、それらを合わせると、カゴの中よりは断然広くなる」
「そ、そんなことで閉所恐怖症が収まるっていうの……?」
「収めるんじゃない、軽減させるんだ。重度の閉所恐怖症の人はトイレに入る場合、自宅なら、ドアを少し開たままで用を足すらしい。またはユニットバス等、ある程度の広さや開放感があれば何とか大丈夫らしいよ。そうやって恐怖を軽減させているんだ。今僕はお兄さんはカゴの上に乗った、と言ったが、もしお兄さんが超ヘビー級の高所恐怖症の場合、カゴの上に乗ってしまうと、今度は恐怖のため、天井から床へ降りることができなくなってしまう。脚立を使って上半身をカゴの外に出すのみに留めておいた可能性もあるな」
『あ、頭を外に出したからって、結局密室は密室じゃないか!』
「うん、そうだね。これでもまだ怖いと言うなら、最終兵器がある。オペラグラスのつるを少し改造して、前後を逆にして掛けるんだ。こうすると物が遠くに見えるようになる。天井や壁も遠ざかって見えるから、広く感じるようになるのさ!」
『オ、オペラグラス逆さ掛け……だと……。バカな……そ、そんな子供騙しで……』
「一階までのごく短時間の間だし、しかもエレベーターシャフト内はうす暗いだろう? オッケオッケ」
『軽っ……』
「後このとき、間違っても下を見ちゃ駄目さ。床が遠く見えちゃうからね。そして、つっかえ棒の紐を引いてドアの固定を解けば、エレベーターは下降を始める」
『…………』
「そうやって一階まで移動したら、エレベーターから出て、一階のどこかで漫画家が酔い潰れてないか探す。居なかったら待つ。君と弟さんはいつも長話になるから時間的には余裕が有る」
『…………』
「そして床に転がっている漫画家を見付けたら、鍵を探して出して、漫画家を部屋まで運ぶ。車椅子を使えば楽に運べるよ。時間は夜で、そこは人気の無い残念マンション。人に見られる心配も無い。部屋に入ったらバスルームまで運び、手足をタオルで縛るか、布団で簀巻きにする等して身体の自由を奪う、こうすれば身体に拘束の跡は残らない。そして、水を張った洗面器に漫画家の顔を押し付け、窒息死させたんだ……」
『…………!』
「その後は、遺体を室内プールへ運ぶ」
『そ、そうだ! 水恐怖症の兄貴には遺体をプールに浮かべるのは無理だ! 水を張った洗面器とはワケが違うよ! 近付くことすらできない!』
「何言ってんの。これが一番簡単なことじゃないか。プールの水を一旦全部捨ててしまえばいい」
『……あ……あれ……?』
「自家用プールは、お風呂の湯船みたいに底の方にゴムの栓が有るわけじゃないよ。排水や給水はバルブを捻って行うか、コントロールパネルのボタンで操作するんだよ。水をきれいに抜いた後、服を全部脱がせて遺体をプールの底に置き、再び水を溜めたんだ。こうすれば、漫画家は自らプールに入ったが酔っていたため溺れた、って見えるわけさ」
『……そ、そんな……』
「そう、これは、できるはずがない、を逆手に取った犯行だったんだよ。様々な障害を抱えているお兄さんだからこそ、このような方法を採り、容疑者から外れようとしたんだろうね……。多分、お兄さんは君達がチャットをする度に一階へ下り、充分下調べを行った上で犯行に及んだんじゃないかと思う」
『マ、マジかよ……あの兄貴が……あ、あのさ……弟の方は……この犯行に関わっているの……?』
「いや、お兄さん単独による犯行だと思うね。もし二人で共謀してやったのなら、例えば、パソコンをもう一台用意して、弟さんが一人二役を演じ、お兄さんもチャットに参加しているかのように見せ掛ける等して、アリバイを作ろうとするはずだ。それに何より、事件の手掛かりとなる情報を君に教えることは絶対にしないはずだ。弟さんは関与してないと思っていいだろう」
『……ひ、独りで……弟のためにそこまですんのかよ……弟の無念を晴らすために? ……馬鹿じゃん……』
「…………」
『で、でもさ、それは、やったかもしれないっていう可能性だけで、やったっていう証拠なんか何も無いでしょ?』
「いや、お兄さんは今回、いくつかの小道具を使用したはずだけど、基本的にひきこもりだから、外で物を購入したりできず、家の有り物を使うしかない。たとえ宅配便を使っていたとしても、大きな荷物は弟さんの注意を引いちゃうから、小物に限られただろうね。そして、外に出られないという同じ理由で、使用した道具を遠くに捨てに行くことができないから、まだ部屋に隠し持っている可能性が高い。他には、漫画家の部屋の水の使用量を毎月のものと比較してみるのも手かもしれない。水を捨てて溜め直した分だけ差が出ているはずだ。そして、水を捨てて溜め直すという作業は二十分や三十分では済まない。現場に長く居れば居る程、そこに痕跡が残り易いからね……バキュームマシンで集めた埃を細かくチェックするくらい徹底的にやれば、お兄さんの体毛の一本くらい、出てくるかもしれない……」
『そ、そんな……か、春日さん……ぼく、どうしたらいい……?』
「知らないよ。警察に通報するなり、見ぬフリをするなり、それをネタに脅迫するなり、好きにすればいい」
『……………………』
 長い沈黙が続き、春日はただ静かに冬木の答えを待った。
『…………じ、じゃああの……じ、自首を、勧めるよ……。真実を問い質して、自首するよう、せ、説得する』
 春日は向こうには聞こえないように小さく笑った。
「そう? じゃあ、どうしようか。どうやって説得する?」
『ぼ、ぼくは部屋から一歩も出れないから…………メールかFAXで?』
「そんなザンない勧め方があるかいっ! 『自首しなよ』とか書く気!? アホか!」
『じ……じゃあ、電話で……』
「ダメダメ! 彼の家に行って、直に会って、肉声で伝えなよ!」
『いやいやいやいやいや、ムリムリムリムリムリ! あ、そうだ! あの兄弟、ぼくの顔知らないから、春日さんがぼくのフリして代わりに行ってきてよ!』
「よし、恥を知れ」
『でもほら、ここまでの話の流れだと、もう春日さんはぼくの兄貴みたいな感じ、みたいな、そんなニュアンスだからここは一つ、弟のために一肌も二肌も脱いで、超すっぽんぽんのまる出しの方向で!』
「なにをこんな時だけ調子のいい! 君さっきはっきりと兄貴なんていらないって言ったじゃないか! え、冬木君! ちょっと聞いて……あ! 切りやがった!」
 その後しばらく、冬木の携帯やパソコンに連絡がとれなくなったのは言うまでもない。

 かくして春日は、兄を説得するよう、冬木を説得するのに、十日を要したことをここに記しておく。
 冬木のたどたどしい説得を受け、兄は春日が予想した通りの行動を採ったことを素直に認めた。そして自首の勧めにも応じ、春日や秋山の付き添いのもと、警察へと出頭した。その傍らには、いつまでも弟の姿が在った。
 
 
 
   第十七話 傀儡

 ある日、夕方の混雑までにはまだ時間がある一般道を、春日書店号がのろのろと走行していた。
 アクセルを踏んでも、くたびれたどノーマルのエンジンはわんわんと唸り声だけは勇ましく、スピードは一向に伸びない。しかし先を急いでいる様子も無く、ハンドルを握る春日の表情は実にのんびりしたものだった。助手席では秋山が更にユルい表情で風に前髪を遊ばせており、信号待ちではルームミラーにぶら下がった御守りがアイドリングを受けてピコピコと踊っていた。
 やがて車は、低い生垣に囲まれた、ブランコと滑り台しかないような小さな公園の前を通り掛かった。二人がなんとなしに公園の中へと視線を移すと、制服姿の夏目が、ものっ凄く荒々しくブランコを漕いでいた。
 二人はさっ、と眼を逸らすと、何も見なかったことにして、スルーを敢行した。
 二人が嵐の気配を察知し、巣へ逃げ帰る小動物のような心境でいると、秋山の携帯が鳴りだした。発信者を確認した秋山は、春日を見た。春日は前だけしか見ていない。秋山は窓を閉めると通話ボタンを押した。
『今、横通ったでしょ。なんでシカトすんの……?』
 受話部から流れ出た声は、よく知った声だった。
「え、な、何が? どこかですれ違った? ごめん、気が付かなかったなあ、ははは」
『いいから。誤魔化すとかいいから。ちょっと来て』
 それだけ言うと、電話は切れた。春日は直ちにUターンの準備に入った。
 路肩に停めた車から、胸に『春日書店』と入ったエプロンを掛けた春日と、背広姿の秋山が飛び出し、園内へ駆け込むと、夏目の前に整列した。
「や、やあ。夏目君、な、何かあったの? ご機嫌斜めみたいだね……はは」
 春日がギクシャクと片手を上げた。
「い、今学校の帰り……? はは」
「…………」
 春日と秋山が額に汗していると、夏目が重々しく口を開いた。
「……ねえ知ってる? 今アメリカがね、大不況なの……」
「…………」
「…………」
「エリア51って聞いたことある? ネバダ州にあって、そこには空軍基地がるんだけど、昔からそこにはUFOが何機も収容されてるって噂があったの。そしてアメリカはそのUFOを日夜研究してて、今まで蓄えられた知識はもの凄い量になってて、もしアメリカが隠し持っている技術を一気に公開したら、世界中がパニックになるとまで、まことしやかに囁かれていたのよ。エリア51の元職員があそこにはUFOなんて隠されていないと証言したって話も有るけど、UFOはもう別の場所に移されてて、『今は、もう隠されていない』っていう意味だとあたしは解釈していたわ」
「…………」
「…………」
「それでね……今アメリカの経済がどん底でしょ? もう何週も連続で全米が泣いているの。街は失業者で溢れ返り、このまま放っておくともっとマズイことになる……どこかで立て直しを図らないといけないの! そう! もしひた隠しにしているテクノロジーが本当に在るのなら、今使わずして何時使うの!? 貧困に喘いでただじっと耐えるなんて殊勝な人種じゃないでしょアメリカ人って! ここまで切羽詰まっても何も出さないのはなぜ!?」
「…………」
「…………」
「……答えは一つ……何も無いのよ……。出し惜しみしてるとかそんなんじゃなくて……出す物自体が無いの……隠されたスーパーテクノロジーなんて……どこにも無いのよ……」
 夏目が唇を噛んだ。鎖を掴んでいた手に力が入る。今にもまた猛々しくブランコを漕ぎ出しそうな雰囲気であった。
「ま、まあまあまあ夏目ちゃん! 抑えて抑えて!」
「……はぁ……。なんかあたし、オーパーツとかUMAとか超常現象とかが、科学の名の元に一つずつ解明されていくたびに、何か大切なモノをどんどん失っていく気がするわ……なかでもエリア51は期待度高かったのに……あたしなんて日頃、もうキャトられて性別変えられてもいいくらいの気構えでいたのよ!」
「アグレッシブか君は」
「だって、それくらいのサプライズがないとキャトられ損じゃない!」
「そ、そうかな? でもまあ、エリア51? それだって、もしかしたらこれから先に何か動きがあるかもしれないし、まだ他にも、世界には不思議がいっぱい残ってるじゃないか」
 切れて血が滲んだ人差し指を舐めながら、春日は夏目を励ました。
「まあねぇ……中でも、この世で最大の不思議、『宇宙』がまるまる残ってはいるんだけど、こればっかりは確かめようもないしねぇ……」
「それは違うよ夏目ちゃん! この世で最大の不思議は宇宙なんかじゃない! この世で最大の不思議、それは―」
「それは恋。とか言うつもりじゃないでしょうね?」
 夏目が氷のような目で言うと、身体を硬直させた秋山が口をパクパクさせた。
「はぁ……恋、ね……。そうね、もうこうなったら、カレシでもつくろっかな」
『マジっすか!!!』
 春日と秋山が跳び上がった。
「ええ、そして、その男の子と吊り橋を渡って、橋がユラユラ揺れて、恐怖心からくるドキドキを脳がトキメキと勘違いして、本当に相手のことを好きになってしまうかどうか、検証するの!」
 ずざざ、っと男二人は地面に突っ伏した。
「じ、じゃあ最初はそのカレシのこと、好きでもなんでもないんじゃないか!」
 顔を砂まみれにして春日がツッコミを入れた。
「それ最終的にときめかなかったらそのカレシどうなんの!? 用済み!? やめてあげて、トラウマになるから! そんなことにいたいけな少年を巻き込まないであげて!」
 秋山も目に涙を浮かべて懇願した。
「フン。じゃあ少年じゃなければいいわけ? ならアッキーかスガッチ。どっちかあたしと付き合う?」
『ええええええええっ!?』
 春日と秋山が吹っ飛んだ。
「ああでも、うーん、そうね。二人ともいい人だし、大好きよ。だけど、これであともうちょっと、超能力者とか、タイムマシン発明する超天才とか、宇宙人の類ならなぁ」
「それもう完全に別モノじゃないっスか!」
「それ基本ボク等に興味ゼロじゃないっスか!」
「はう……どっかその辺に転がってないかな……出会いとか、不思議とか……」
「な、夏目ちゃんが望むようなモノがその辺に転がってたら街中パニックになるって話もあるよね」
 秋山が引きつった笑みを浮かべながら膝に付いた泥を手で払った。
「でもあたし、ただ待ってるだけの女じゃないわよ! 自分からアッチの世界に少しでも触れようと努力したんだから! 例えば、ネットで魔術の本、取り寄せて読んだり」
「ま、魔術ッスか」
「そう。でもあたしが読んだ本は、狙った相手を呪い殺す方法だの不幸にする方法だの、陰湿なモノばっか、もう全然あたし好みじゃないし! がっかりよ! スガッチとアッキーに掛けた、悲鳴を上げて飛び起きる程恐ろしい夢を見せるっていう、ナイトメアの魔法も効果無かったし」
 ずがが、っとまたも二人が盛大に地面に突き刺さり、砂ぼこりを上げた。
「結局掛けてんじゃん! バリバリ掛けてんじゃん!」
「かかか勝手に人の体で実験しないでよ!」
 春日が絶叫し、秋山が震え上がった。
「そう固いこと言わないでよ。せーぜー寝不足になるくらいじゃない。もし掛ったら、お詫びに何か美味しいものでも御馳走しようと思ってたんだから。結局掛らなかったし、事前に断ったとしても、絶対OKしないでしょ?」
「あああ当たり前だよ! ま、まさか夏目ちゃん、ボク等の知らないところで他にも何かしてるんじゃないでしょうね!?」
「してないしてない。なんか魔術って間違うと、起きる物事をなんでもかんでも自分の都合の良いようにしか解釈しなくなったり、たっぷり自己暗示掛けて更に深みにハマっちゃいそうだから。そう、やっぱり暗い部屋でジメジメするより、お日様浴びながら地道なフィールドワークが一番確実だと思うわけよ、うんうん。と、いうわけで、二人ともこれから、何か事件があった現場に行くんでしょ? あたしも連れて行ってよ」
『…………は?』
 春日と秋山がぽかんと口を開けた。
「だってさっき、二人とも車から降りて来たとき、背筋や手足を伸ばすような、疲れた素振りは全く見せなかったでしょ? これは長時間同じ姿勢で車に乗っていたわけじゃないってこと。それとスガッチの指の傷、それ、本の梱包を解いてるとき、紙で切ったんじゃない? 本や雑誌を扱う人がよくやる怪我よね。傷がまだ真新しいってことは、スガッチはさっきまでお店で仕事してたってこと。後、アッキーのズボンに付いた泥。それ、この公園で付いたものじゃないでしょ?」
 夏目が靴の爪先で地面の砂を蹴った。
「いくらアッキーでも、平日に泥んこ遊びするほど暇じゃないでしょ。となれば、何処か泥で汚れるような場所で何かがあって、困ったアッキーがスガッチに応援を頼んで、店はどうせ暇だから閉めて、これからその場所へ向かうところだったんじゃないか、って思っただけよ」
『…………』
 秋山はまだ固まっており、春日は苦笑を浮かべている。
「でも勘違いしないでよね、事件が起きて喜んでるわけじゃないわ。不謹慎じゃない」
 夏目はひょいっ、と肩を竦めた。が、春日と秋山は夏目の瞳の奥にチリチリと灯る火花を見逃さなかった。
 
 
 かくして、夏目を加えた一行は、再び車を走らせ、ある一件の家屋を訪ねる運びとなった。その家はとある、周りに民家も少なく、とても静かな場所に建っていた。
「へえ、古いけど、イイカンジの家ね」
 車を降りた夏目が、洋式の木造三階建てを見上げて感想を述べた。
「じゃあ、二人とも、車の中で打ち合わせした通りにお願いしますよ」
 同じく車を降りた秋山がネクタイを締め直しながら告げた。
 三人で玄関まで歩くと、先頭の秋山がドアを叩いた。二度目のノックで応答があり、中から顔色のあまり良くない、三十半ばの男が出てきた。
「先程はどうも、度々申し訳ありません」
 秋山は丁寧に頭を下げた。
「ああ、刑事さん。まだ何か? ……後ろの方達は?」
 男が春日と夏目に怪訝な眼を向けると、質素な花束を両手で持った夏目が一歩進み出た。
「突然押し掛けて本当に申し訳ありません。私、秋山さんの友人で、夏目と申します。……私、亡くなった先生の本の大ファンでした……それで、一言お悔やみを言いたくて、秋山さんに無理を言って……」
 言うと夏目はしおらしく眼を伏せた。
「先生の……? ……そうですか。では、そちらは?」
 男に眼を向けられ、今度は春日が進み出た。
「はい。私、偉大な先生の死に、いてもたってもいられず、まことに勝手ながら、書籍を扱う人間の代表として、参った次第であります」
 春日は胸を突き出してエプロンに書かれた店名を強調してから、深々と頭を垂らした。
「……そうでしたか。それはわざわざどうも。……どうぞ中へ」
 男が中へ促すと、三人は恭しく頭を下げつつドアを潜り、奥へと進んだ。
「先生の死を悔やんで頂けるのは、弟子として有難いことですが……あまり他言は無用に願いますよ。先生がどのようにして亡くなっていたか、既にお聞きですよね?」
 先を歩いていた男が肩越しに振り返って訊くと、夏目が深く頷いた。
「はい……。勿論、外では決して話に出しません……それで……この花を、その場所に……」
 男は夏目が大事そうに胸に抱えた花を眺めた。
「……そうですか。じゃあ、こっちです……」
 男は体の向きを変えると更に奥へと進み、裏口のノブに手を掛けた。ドアの外は、庇の無いポーチになっており、夕日を浴びてオレンジ色に染めあげられた土の地面が拡がっていた。庭というよりは広場といえるくらいに拓けていて、その中程にぽつんと一本の木が立っていた。
「あの木がそうです……。じゃあ、私はお茶の準備でも……」
「ああ、お構いなく」
 踵を返す男に秋山は頭を下げた。
「……さて、と」
 男の姿が見えなると夏目の眼つきが元に戻った。
「アッキー、あの木のところで、作家先生が亡くなっていたのね?」
「そう。先日、堂本さんという男性が、あの木の枝にロープを掛けて首を吊っているのが発見されたんだ。堂本さんは、怪奇小説作家として活躍していたらしいんだけど―夏目ちゃん、全然知らないの?」
「うーん、どこかで本を見掛けたような、ないような。あたし、創作モノは読まないのよね。『実録』とか『本当にあった』とか付いてる本はつい読んじゃうんだけど」
「……それだってほとんどはきっと創作だよ……。じゃあ、先輩は?」
「うちの店に怪奇モノは一切無い」
 腰に手を当てて春日が言った。
「アンタ等そんなんで、さっきはよくもあんなでまかせを……」
「その類の本を一番読まないのは君じゃないか。いいからほら、続きを話したまえ」
「……はい。ええと、遺体の第一発見者は、さっきボク等を迎えてくれたお弟子さんで、土橋さんと仰います。土橋さんの通報を受けて、救急隊が、その後にボク等が駆け付けたんですが、到着した時点で堂本さんの遺体は死後二時間程経過していました。遺体はあっちを向いていて―」
 秋山は木の向こうを手で示した。
「傍には踏み台にしたとみられる脚立が倒れていました。首を吊るのに使われたロープは枝に結ばれていたわけではなく、フックを使って枝に引っ掛けてありました」
「フック?」
「ええ、クエスチョンマーク(?)の形をしたフックです。ちょうど、下の点のところが、輪っかになっていて、そこにロープが結んでありました。そのフックが枝に掛っていたんです。それと、堂本さんが亡くなった夜は、雨が降っています。ねかるんだ土の地面には、ボク等が今立っているこのコンクリ製の足場から踏み出して、あの木まで向かう堂本さんの足跡がはっきりと残っていました。あそこまでの距離は十メートル弱。ここは見ての通り開けた場所で、木の向こうも敷地が拡がっているのみです。後、堂本さんの部屋で遺書が見付かっています。『我が想像力は既に朽ちて、精も根も尽きた。よって、死を選ぶ……』みたいなネガティブな内容が小学生みたいな字で連綿と綴られていました」
「読めるならまだいいさ。君の字なんて、ミミズがのたくった後、ドジョウに進化したような字じゃないか」
「せめて個性的な字、と言って下さい。まあ、ボクの話はさておき、出版社の方から近年の原稿を数点提供して頂きまして、筆者識別に掛けたところ、遺書は堂本さんの直筆であると鑑定されました」
「へえ? じゃあ、堂本氏は原稿書くとき、パソコンとか使わないんだ?」
「ええ、全て手書きです。自他共に認める機械オンチだったそうです」
「ふーん……。まあ、ここまで聞いた限りじゃ、自殺にしか聞えないわね。何か不可解な点でもあるわけ?」
「うん。まず、堂本さんは酔っていたわけでもないのに、地面に残った足跡がやたら千鳥足だったということ。まあ、これから自殺しようって人が足取り軽やかなはずもないんだけど。次に、首筋に付いた爪の痕と、うなじのスリ傷が随分多いこと。ロープなんかが首に食い込むと、苦しくて、こう、爪で引き剥がそうと、もがき傷が付くんだけど、これじゃまるで―」
「絞殺死体みたい?」
 唇に親指を当てた夏目が上目遣いに訊いた。
「うん。変でしょ? 後、普通……って言い方も変だけど、人が首を吊る場合、まず枝やかもいに縄を結えたら輪っかを作って、そこに頭を通してから、その後踏み台を蹴るものなんだけど、堂本さんの場合は少し変わってるんだ。首に掛っていたロープなんだけど、首の周りの長さと、輪っかの大きさが同じくらいなんだ。これじゃ、輪っかに頭が通らない。だからつまり、輪っかに頭を通したんじゃなくて、先にロープをネクタイみたいに首に巻き、うなじのところで固く結んでから、ロープを枝に掛け首を吊った、ということになる。これはちょっと変だよね……。遺書も見付かっているし、事件性は無いというのが大方の意見なんだけど、こんな風に幾つか疑問点もあるんだよ。で、何か見落としがないか、今日はボクがここを訪ねて、土橋さんに了承を貰っていろいろ調べてたってわけ。そして、木に登って枝をよく調べていたら、なんと枝には何かが擦れたような跡が無数に残ってたんだ! ちょうどフックが掛っていた辺りだね。これは何かあるに違いないと思い、ボクは直ちに先輩へ応援を要請したんだ」
「ちょっとは自分で考えなさいよ」
「ふっ、甘いよ夏目ちゃん。どうせボクが考えたって解るはず無いんだから、考える必要なんて無い。だからここはボクの素早い判断を褒めるところさ!」
「褒めるかぁ! 要するに、ダメ人間ってことじゃない!」
「違うよ! 要するに、潔いんだよ」
「潔いどころか、最初から諦めてるでしょうが! ダメ人間よ!」
「こらこら、こんな所で掛け合い漫才やってる場合じゃないでしょ」
 春日が呆れて口を挟んだ。
「アッキーがおかしなこと言ってるからよ」
「夏目ちゃんが些細なことにこだわるからだよ。いやでも確かに、夏目ちゃんのツッコミはタイミングが絶妙でとっても気持ちが良いんですよねぇ……。それに若い女の子にガミガミ言われるのってちょっとコーフンするし……うーん……刑事と女子高生の異色ユニットってのも意外とアリかもしれないですよね? 夏目ちゃん、いっちょ二人でデビューしてみる!?」
「しないわ。だからアッキーは独りで、芸名、綾小路キモまろでデビューしたら良いと思うわ」
「しくしくしく…………」
「さ、こんなキモまろはさておき」
 夏目はひざを折って地面に眼を落した。
「さすがに数日も経過してると、その足跡ってのがよく判らないわね。今は救急車の人とお巡りさんの足跡も混ざってるでしょ?」
「うん……ぐすっ、でもちゃんと調べたよ。あの夜、ここには堂本さんの足跡しかなかったって断言できる」
「そう……。じゃあ、その足跡がどのくらい、地面に沈んでいたかも判る?」
「沈んでいたか?」
 秋山は小首を傾げたが、春日は察した。
「なるほど、堂本氏がおんぶされて運ばれたんじゃないかって言いたいんだね?」
「そう。まず同じサイズで同じ種類の靴を二足用意するの。そして、堂本さんを絞殺したら、遺体を背負って木のもとへ移動。二人分の体重だから、より深く足跡が付くの。足跡が千鳥足なのは遺体が重たくてよろけたためじゃないかしら。そして元の場所へ帰るときは、最初に付けた足跡をなぞって後ろ歩きするの。そして、堂本さんにも同じ靴を履かせておけば、堂本さんが自らの足であの木まで歩き、自殺したように偽装できるってわけ。で? どうなの、アッキー?」
 問われて秋山は、あたふたと同僚に確認の連絡を入れた。
「夏目ちゃん、残っていた足跡、大人一人分の沈み具合で間違いないって」
「ちいっ、外したか……ならばこうよっ! 雨が降る前に、木のもとへ移動したの。そして、遺体を木に吊るしたら、雨が降るのを待って、地面がぬかるんでから後ろ歩きで足跡を付けるの。そしたら、一人分の深さの足跡しか残らないわ」
「おおっ、それだっ!」
「まだ続きがあるわ。部屋から見付かったという遺書。堂本氏の直筆で間違いないようだけど、あれは、堂本さんが作中で使おうとしていた文章だったのよ。それを犯人が遺書として利用したの!」
「ななな夏目ちゃん! 恐ろしい子! さ、早速、犯人を連れて崖へ移動しないと! 夏目ちゃん、犯人は誰―」
 秋山は発進しかけた体に急ブレーキを掛けた。
「……ごめん夏目ちゃん、遺書にはお弟子さんや出版社の担当さんに宛てたメッセージも一緒に書かれていたんだった。作中に使うような文章じゃ、ないや」
「先に言いなさいよ!」
「うんうん、やはり漫才に落ち付いたか……」
 春日が横で、しみじみと頷いた。
「アッキーが大事な事、早く言わないからよ!」
「いやいや夏目君、君の頭のキレには毎回舌を巻くけどね、事を急いだ君にも非はあるよ。そんなんじゃ、いずれ秋山君と同じく、お笑い要員として定着してしまうぐっ! …………」
 夏目は春日の脇腹へ地獄突きを決め、沈黙させた。
「案ずることないよ、夏目ちゃん。先輩だって立派なお笑い要員だよ」
 秋山のフォローになっていないフォローに答える代わりに、夏目はしょんぼり俯いた。
「あのう、お茶、入りましたけど……何やってるんですか一体……?」
「えっ、あっ、いや!」
 秋山が振り向くと土橋が立っていた。
「その花、木の所に添えて頂けるはずじゃ……?」
 夏目の手元に視線が集中した。その手にはまだ花束が握られている。眉を顰める土橋の前へ、神妙な面持ちをした春日が進み出た。
「えー……協議の結果、この花はやっぱり、先生の書斎へ手向けさせて頂こう、ということになりました」
「…………全く意味が解りませんが、そうされたいと仰るなら別に構いません……」
 土橋は表情にやや不信感を残しつつ承諾すると、三人を二階にある堂本の書室へ案内した。
「わあ、これがプロの仕事部屋なのね」
「なんか感慨深いものがあるよね」
「ボク緊張しちゃいます」
 興味深そうに室内を物色し始めた三人に、土橋が素朴な疑問を投げかけた。
「あのう……なぜ皆さん白い手袋をはめるんですか?」
「尊敬する堂島先生の私物を汚い手で触るのは失礼ですから」
「あのう……思いきり名前間違えてるんですけど」
「秋山君、カメラ出して。記念撮影を開始して」
「了解です」
「あ、アッキー、こっちも撮って」
「あのう……何か絨毯のシミとか、壁の傷ばっかり撮影してますけど、それで本当に記念になるんですか?」
「なります。とても重要です。それより土橋さん、あなたは堂本先生と二人でここにお住まいだったと聞いておりますが。先生が二階で、あなたが三階?」
「え? ええ、そうです」
「なるほど、土橋さんはお弟子さんになって長いんですか?」
「ええと、そうですね。五年くらいになるでしょうか」
「なるほどなるほど、参考になります」
「何のですか?」
「土橋さん、この狸の置物も、先生の趣味ですか?」
 夏目が部屋の隅から訊いてきた。そこには狸の焼き物が飾られており、大きさは夏目の胸の高さまであった。愛嬌のある顔で首を傾げ、突き出た腹の下に巨大なキャン玉袋をぶら下げている。
「ああそれは、私が先生にプレゼントした物です。縁起物ですからね」
「そうですか。でも、こんなに大きくて重そうな物、どうやってここへ運んだんですか?」
「ウィンチを購入しましてね、それを使って窓から引き上げたんです。電気で動くんですよ」
「そのためだけにそんな機械まで買ったんですか?」
「口にこそ出しませんでしたが、先生が作品のことでお悩みだったことは薄々感じてましたし……。この置物には『他を抜く』という意味もありますし、少しでも先生の運気が上向けばと、どうしてもそれをプレゼントしたかったんです」
「そうだったんですか。優しいんですね」
「…………」
 夏目が微笑み掛けると、土橋は一瞬だけ表情を曇らせた。
「……ああ、ここからあの木が見えるんですね」
 春日が重厚な造りの机を周り込み、窓に近付いた。ここからも堂本が首を吊っていたという、幹から横に突き出した太い枝を見ることが出来た。春日は土橋の了承を得ると窓を開け、下を窺った。窓は裏口の真上に位置していた。
「あ、すみません。ちょっと失礼します」
 出版社の人間から電話が入ったと言って、土橋が席を外した。
「うん? なんだろ、これ……?」
 春日が窓の下枠の部分に、観音開きの窓を開け閉めしたときにできる曲線を描いた疵の上に、ごく最近付いたものらしい何かが擦れたような跡を見付けた。
「……秋山君、枝に引っ掛けられていたというフックだけれどね、爪の先はどっちを向いていたのかな?」
「爪の先ですか? ええと、遺体はあっちを向いていて……カギ爪はこっち向きですね」
「そう。遺体の傍には脚立が倒れていたんだよね。どんなの?」
「梯子を折り畳んである、使う時にハの字に広げる、よく見かけるヤツですよ。あ、写真あります」
 秋山が出した数枚の写真に、角度を変えて撮影された脚立が写っていた。地面に接したところだけは、さすがに泥で汚れているが、光沢からして、脚立は新品であることが判る。
「秋山君、堂本氏の遺体、雨で濡れていた?」
「えっと……いえ、濡れてませんでした」
「そう……」
「あの、ボクちょっと考えたんですけど、夏目ちゃん、人を催眠術で操ったりできる?」
「は?」
 真面目な顔で訊ねられ、夏目が眉を跳ね上げた。
「いやほら、堂本さんは犯人に催眠術を掛けられて、トローンとして、フラフラーとあの木まで歩いたんじゃないかな。そして、枝にロープを掛け、脚立を蹴ろうとしたそのときに、堂本さんはハッと我に返ったんだよ。首に付いた傷は、バランスを取ろうと必死にもがいている間に爪で引っ掻いたもので、頑張ったけど、ついに脚立から足が離れてしまい……ぶらーん、って。これならほら、あの少し変な状況の説明がつくでしょ。遺書もさ、書かされたんじゃないかな」
「はぁ…………あのねアッキー、眠る一歩手前のふわぁ〜ってしてるとき、そのときって理性のフィルターが掛ってないから、心に直接声が届き易いのね。相手がリラックスして、その、暗示に掛り易い状態になるまでひたすら待って、いざその状態になったら実際に暗示を掛ける、これが催眠術。ここまではいいわね?」
「う、うん……」
「そして例えば、女性にアプローチしたいけど女性が怖い、だとか、海外旅行に行きたいけど飛行機が怖くて乗れない、といった『コンプレックスやトラウマによって抑圧された願望』を持っていて、かつ『暗示に掛ることによって苦手を克服できるなら暗示に掛りたい』という本人の意思があってはじめて、暗示に掛るわけ。または、自分には暗示が掛っているから大丈夫、という強い思い込みから恐怖が和らいでいるだけ、と言えなくもないわね」
「そ、そんな、じゃ催眠術って一体……」
「その術式によって救われた人がいるなら、それが催眠術よ。とにかく、当人が望んでもいない暗示には掛らないし、死にたいと思っているわけでもない人を、自殺するように操ったりはできないのよ」
「そ、そうかぁ……」
「うん……そうね……肉体を操ってその人に害を成す方法は無いけど、精神に干渉してダメージを与えることは可能ね」
「と、というと?」
「呪いを掛ければいいのよ」
「へっ?」
 今度は秋山が先程の夏目と同じ表情をした。
「今日あたしが、アッキーに悪夢を見せる魔法を掛けたって話をしたわよね。それで、怖がりのアッキーは、家に帰って一人になると、あたしの話を思い出すの。そしてこう思うのね、『効果が遅れているだけで、もしかしたら今夜あたり怖い夢を見るかもしれない』ってね。で、どんどん悪い考えが浮かんできて、勝手に負のスパイラルに陥ってくれるの。結果、眠れなくなったり、本当に悪夢を見ちゃうわけね。これが、『呪い』のシステム。丑の刻参り、ってあるでしょ、ワラ人形の。あれ、頭にロウソク立てて、怨みのあるターゲットの名前を叫びながら、カーンカーンって、クギを木に打ち付ける音を周り中に響かせながらやるの。それって、誰かに気付かれない方が不思議よね? そう、その行為はいつか誰かに目撃されるの。そして、誰かが○○という人物に呪いを掛けているっていう噂がたち、噂は人から人へ伝わり、やがてターゲットの耳にも入る。ターゲットは何となく落ち付かなくて、怖いけど、その話が本当かどうか確かめたくなって、明るい内にでもその現場に足を運ぶの。そして見るのよ……そこら中の木に打ち付けられた無数のワラ人形を。その光景が瞼に焼き付いて、必要以上に恐れてしまうの。そういえば、最近胸が苦しいような気がする、呪いが効いているのかもしれない、死ぬ! ってね。勝手な思い込みで体調を崩すわけ。まさに病は気から、ってやつよ。でも、呪いを掛けてる人間は真剣に、本気で相手を呪い殺そうと必死でやってるの。それが、そういう結果に繋がったりするわけね」
「そ、そんな話をイキイキされても……」
「ターゲットを貶めるために、ターゲットの周囲に悪質なデマを流すといった情報操作も、呪いの一種と言えるんじゃないかしら。その所為でターゲットは人間関係の軋轢からストレスを重ね、結果精神に異常をきたして最悪、自殺を図ったり……ね」
「なるほど……つまり、手の込んだイヤガラセによって、メンタルアタックを行うことはできるけど、身体をちょくに操ることはどうやったって無理ってことだね」
「……いや、ちょっと待ってよ二人とも。もしかしたら……堂本氏は身体を操られたのかもしれない」
 とそこで、二人の会話に春日が口を挟んだ。
「えっ、どういうことですか先輩?」
「まず、確かめたいことがある、夏目君、力を貸してくれるかな。いいかい……」

 担当者と話していたという土橋が戻り、入れ違いで秋山は電話をかけると言い、春日はトイレに行くと言ってその場を離れた。そして、夏目には一つ指令が出されていた。指令と言っても何でもいいから眼をキラキラさせながら土橋に話を振り、話を聞く、それだけであり、目的は単純に、土橋の足留めであった。
「さて、と……」
 そしてその間、春日と秋山は三階にある土橋の部屋に潜入していた。
「ドアに鍵が掛っていなかったのはラッキー」
「せ、先輩。これ、不法侵入ですよ?」
「もし見付かったら、つい部屋を間違えて、つい色々見ちゃった、ということにしよう」
「…………」
「間取りは二階の部屋と一緒だね。窓も同じ位置だ。ほら、あの木が見える。窓を開ければ?」
 窓枠の下の部分に、二階と同じように何かが擦れた新しい跡が残っていた。
「よし。じゃあ秋山君、土橋さんのノートか日記的な物を探して」
「は、はい」
 しばし、二人のコソドロまがいの行為が続いた。
「ないなぁ……普段はパソコン使ってるみたいだねぇ……」
「あ、これなんかどうですか? 土橋さんの学生時代のじゃないですかね。文芸サークルの会報みたいですよ、どうぞ」
「おお、やったね。でも、それは君が読んで。土橋さんの作品を探して」
「え、ボクが? は、はい。ええと、あった、これだな…………あれ? あれえ? この字って、確か……ど、どういうこと?」
「うん。その反応が見たかった。さあ、部屋を出よう」
「え、あ、もういいんですか?」
「うん、見るべきものは見れた。……さてと次は、秋山君、出版社の担当さんに連絡取れるかな? 幾つか質問して欲しい」
 秋山は頷くと堂本の担当者に連絡を入れ、春日に言われた通り幾つかの質問をした。
「―では、はい、ありがとうございました、それでは失礼します、はい―。……先輩、今日の土橋さんと担当さんの会話ですが、今後についての打ち合わせをしたそうです。堂本先生は連載の仕事を受けていて、次回からは土橋さんを後任として貰えるよう、遺書に書かれていたんですって。後、堂本先生は決して書斎に人を入れなかったようです。担当さんでも、執筆中の堂本先生の姿を見たことは無いそうです。それで、堂本先生が書く字についての話になりましてね、昔はそれほど酷い字じゃなかったそうなんですよ。数年前からだそうです。本人は手首の関節痛で上手く字が書けない、と漏らしていたそうなんですが」
「そう…………なら、やはり堂本氏の死亡は自殺によるものじゃないよ」
「せ、先輩! 解っちゃいましたか!? 了解です、じゃあすぐに車を回します!」
「いや、崖には移動しないから」

※堂本はどのような手段で殺害されたのか?

 ぱちん、と夏目が自分の手の甲を叩いた。
「ああもう! ここなんか虫がいるわよ! 痒っ!」
「なんだって! くそう、虫め! よくも夏目ちゃんのDNAを! 吸うなら春日先輩のを吸え!」
「勝手なこと言わないでくれたまえ」
「あ、あのう、これから何が始まるんですか?」
 土橋が落ち付かない様子で訊ねた。
「いやなに、チョットした実験を行ってみようじゃないか、という趣向です」
「ここで良いわけ? 木の近くの方が良いんじゃないの?」
 夏目が訊くと春日が肩を竦めた。四人は現在、車を停めてある前庭の方に集まっていた。
「どこでも大丈夫だよ。それに、これ以上現場の地面を踏み荒らしちゃマズイからね。じゃ、始めようか」
 春日は地面に実験に使う小道具―荷造り用のビニール紐、ハサミ、空のジュース瓶、ハリガネ―を並べた。
 ビニール紐とハサミは春日書店号に積んであった。空瓶はその辺に落ちていた物を使い、ハリガネは土橋に貰った。
 次に春日は、夏目と秋山を向かい合わせで立たせ、二人の間を5メートル開けさせた。
「秋山君、君、木の役ね。左腕を肩の高さで、真横に真っ直ぐ伸ばして。その腕が枝ね」
 秋山が言われた通り腕を上げた。春日はビニール紐の端を夏目に握らせると紐を伸ばし、秋山に向かって歩き出した。
「夏目君、君が紐を掴んでいる手の位置が、家の二階の窓の位置だと仮定しよう」
 春日は秋山が伸ばした腕にビニール紐を引っ掛け、また夏目のところまで戻ってくると、適当なところで紐を切った。
「次に、ハリガネに手を加えて、クエスチョンマークの形のフックにする。そして、『?』の下の点の部分は紐が通せるように輪っかにする」
 春日は紐の端から数十センチのところにフックを結び付けた。そして、余った紐の端を空瓶の飲み口のところに結び付け、その瓶を夏目の足下に立てた。
「この瓶が、首にロープを掛けられた堂本氏。薬で眠らされ、裏口のポーチの上に置かれた椅子にでも座らされていたんだろう」
「ちょっと、まさかあたしにこの紐を引かせて、アッキーの足下まで瓶を歩かせようってわけ!?」
「紐を引いてごらん」
 夏目が言われた通りにすると、紐に引かれた瓶はその場でこてん、と倒れた。
「当然、そうなるよね。このままロープを引いたって、体は前のめりに倒れるだけ、しかも、首に掛けられたロープの結び目は首の後ろに有るわけだから、引っ張られた体はくるりと回転してしまう。これでは仮に歩かせることができたとしても、木に向かう後ろ歩きの足跡が地面に残っている、という奇妙な状況ができあがってしまう。この問題を解決するために―」
 春日は倒れている瓶の首に掛った輪っかの隙間に、別のもう一本の紐を通し、結え付けた。そして瓶はその場に残し、紐を伸ばして夏目の後ろに立った。夏目より頭一つ背が高い春日は、紐を持った手を更に掲げた。
「僕の手の位置が、三階の窓としよう。そして―」
『!』
 春日が紐を上へ引くと、倒れていた瓶がヒョイ、と立ち上がった。
「このように、二本の紐を使い支えることによって、立たせることが可能なんだ。夏目君、紐を引いて」
 夏目が紐を引くたびに瓶はグラグラと体勢を崩すが、その都度春日は瓶が倒れないように紐を操った。そして、瓶はフラフラと蛇行しながらも、秋山の足下へと辿り着いた。
「じゃあ今度は、瓶を引っ張り上げて、枝に見立てた秋山君の腕にフックを引っ掛けるんだ。フックは一度、枝の上を完全に通過させて。そうすると、フックは自重でぶらりと垂れ下がる、そうなったら、ゆっくりと紐を戻して、フックを枝に掛けるんだ」
 夏目が紐を操作するが、フックの先は秋山の袖を引っ掻くのみに終わった。
「難しいわね……」
「成功するまで何度でもトライして」
 その後、夏目は更に失敗を繰り返した。
「な、夏目ちゃん……そろそろ成功してくれないと、ボクのスーツがえらいことに……」
 その後、夏目は更に失敗を繰り返した。
「しくしくしくしく……」
 そして漸く、フックは袖に掛った。
「うん、ここまでは理解したわ。こうやって堂本先生を無理やり歩かせた後、木に吊るして殺害したわけね。ということは、犯人は二人いるってこと?」
「いや、単独でも可能さ。二階でロープを引っ張る役をウィンチに任せればいい」
「ウィンチ!? そ、そっか、人体を吊り上げるには人の力じゃ結構キツイ、でもそれなら……」
「うん。ウィンチのコントローラーはケーブルを延ばして三階で操作すればいい。ロープを捌きながらだからかなり大変だっただろうけどね」
「なるほどね、でも問題はこの後よね、余ったロープを、足跡も付けずにどうやって回収するの?」
「それはね、ウィンチから、フックの輪っかまで伸びているロープを、巨大な円状にすればいいんだよ。輪ゴムの何処か一か所を切ると一本のゴム紐が出来るだろう? それをイメージしてみて」
「ああ、そっか! 円状のロープのどこか適当なところを切って手繰り寄せればロープはフックの輪っかから外れるのね!」
「そう。円状のロープは大分ウィンチに巻き取られてしまっているけど、どこでハサミを入れようが、結局ロープは回収出来るって寸法さ。同じように、三階から堂本氏の首まで伸びるロープも円状にする。首に掛ったロープの隙間に別のロープを通し、それを円状にすれば、同じように回収出来る。堂本氏のうなじにスリ傷が多かったのはロープを切り、それを手繰り寄せている間に付いたものだろうね」
「それじゃあ、紐を円状にした状態で、本当に成功するかどうか、実験を最初からやり直してみないといけないわね」
「ああ、早速やってみよう」
「最初からその状態でやって下さいよ!」
 泣きごとを言う秋山の袖をボロボロにしておいて、今度も見事にフックは袖に掛った。その後に、じゃあ上着脱いどけば良かったじゃん、と夏目が言った。
「うん、なんとかその状況を作りだせたみたいね」
 夏目と春日がそれぞれ紐を切り、手繰り寄せると、秋山の袖にはフックからぶら下がった瓶だけが残った。
「こうやって、堂本さんは身体を操られたってわけね。でも、トリックの仕込みの時に付く足跡はいつ消すわけ? 実際、スガッチ結構歩き回ったでしょ?」
「うん。まずね、犯人は、その夜は雨が降った、という事実だけが欲しかったんだ。そして雨が降ったから、行動を起こしたのさ。まず、雨が止んでから仕込みを始める。堂本氏の飲物に薬でも混ぜて眠らせ、ロープを張り、脚立を倒し、自分が付けた足跡を土を均して一旦全部消す。準備が出来たら三階の窓から声を掛けて堂本氏を起こし、先程のトリックを実行して堂本氏を歩かせる。すると、堂本氏の足跡以外は誰の足跡も無い、という状況を作りあげることができる。堂本氏が歩くのを拒んだらこのトリックは成立しないけど、気が付いたら訳の分からないまま首を締め上げられていて、苦しい中、歩け、さもないと殺す、などと脅されたとしたら……」
「歩くわね」
「歩きますね」
「僕がおかしいと思ったのは秋山君に脚立の写真を見せて貰ったとき。ぬかるんだ地面を歩いたというのに、倒れた脚立には堂本氏の靴の泥が付いていなかった。それで、堂本氏は脚立に昇らなかったんじゃないか、って思ったんだ。もし雨で洗い流されたというなら、遺体も濡れていたはずだしね」
「待って、遺書は、遺書はどうなるのよ。鑑定結果は本物と出たんでしょ?」
「本物だけど、本人が書いたものではなかったんだよ」
「は? 何それ意味わかんない。アッキーが、堂本さんが書いた原稿と照合したら本物だったって」
「だから、原稿自体、堂本氏が書いたものではなかったんだよ。警察の皆さんも第三者である出版社から提供されたリソースだったから、すっかり油断してしまったようだね」
「…………?」
「ふっ、どうやら何もかもお見通しのようですね」
 土橋が諦めたように息を吐いた。
「ど、土橋さん! いつからそこに!?」
「最初からいました」
「い、一体どういうことなのよ、スガッチ」
「近年、堂本氏の作品として書かれた原稿は、全て土橋さんの執筆によるものだよ」
「え、そうなの!?」
「そう、土橋さんは堂本氏のゴーストだったのさ。…………怪奇小説だけに」
「うわぁ、言っちゃったわね……」
「先輩、そういうこと言わなきゃかっこいいのに……」
 二人の溜息もなんのその。春日は顔色一つ変えず言葉を続けた。
「このロープを使用したトリックを実行できるのは、堂本氏と同じ家に暮らし、コンディションが整うのを淡々と待ち構えられる土橋さんしかいない。ならば、遺書の方に何か秘密があるに違いないと僕は考えた。そして、土橋さんの字を秋山君に読ませることで、その疑問は払拭できた」
「は、はい。ボクが堂本先生のものだと思っていた字は、土橋さんの字だったみたいです。そうか、人が変われば字も変わる。それを誤魔化すために、堂本先生は手首が痛いなどという嘘を担当さんに」
「いや、多分堂本氏は、土橋さんの原稿をせっせと書き写している間に、本当に手首を痛めたんじゃないかな。それを契機に、土橋さん直筆の原稿をそのまま担当さんに渡すようになったんだと思う。土橋さんは普段パソコンを使用していたかもしれないが、堂本氏はパソコンを扱うことができない。そのため、土橋さんの原稿データをフラッシュメモリや宅内LANで取り交わすこともできないから、手書きの原稿でやり取りをしていたんだろう。そして土橋さんはそれを利用し、偽の遺書を用意するトリックを思い付いた。またトリックにはウィンチを使用するが、購入したことはすぐに割れるし、ウィンチだけ購入したのではいかにも怪しい。ウィンチを手に入れるための適当な理由付けとして、狸の置物を堂本氏に贈呈した、というわけだよ。準備を万端整えたら、先程のトリックを使って堂本氏を殺害する。その後は、大急ぎで後片付けをし、自ら第一発見者となって警察を呼ぶ。ぼやぼやしているとまた雨が降り出して、せっかくの足跡が消えてしまう恐れがあるからね。そうやって堂本氏の死亡を自殺に見せ掛けようとした」
「…………ええ、そうですよ……」
「土橋さん……」
「その通り、本を書いていたのは私です。……先生から、君の面倒をみる代わりに、君の書いた作品を、私の名前で出させてくれ、と言われました。金が無く、生活もままならなかった私は、その話に乗った。そのとき私は、逆に先生の名前を利用している気でいた。丹精込めて書いた作品を世に出すことができ、更に金も手に入る。ただそれだけで満足でした。自分の名前が世に出ることは無かったけど、誇らしかった…………最初はね。私は先生に独立を申し出ました。しかし先生はそれを頑として認めなかった……。このまま続けても才能の枯れた先生と共倒れになるのは明らかだった……。そんなのは……御免だ……!」
 土橋は肩を震わせた後、息を吐いた。
「ふっ……お嬢さん、あなたが大ファンだと言ってくれた本は、実は私が書いたものだったんですよ? よろしければ、サインを書きましょうか。私の……最初で最後のサインです……」
「あ、ゴメンなさい。あたし実は全然モガっ!」
 春日は慌てて夏目の口を塞いだ。そして代わりに頷いた。
「慎んで、頂戴致します」
 土橋の手により、夏目の手帳への調印が厳かに行われた。それが済むと、今度は秋山が恭しく一礼して前に進み出た。
「土橋さん、恐れ入ります。最後ついでに、こちらの供述書にもサイン頂けまぐはっ!」
 今度は春日のハイキックが秋山を黙らせた。


「どうしたの、随分静かだね。疲れちゃった?」
 土橋の付き添いを秋山に任せ、春日と夏目は帰路に付いていた。夏目はドアに頬杖を突き、窓の外を流れる夜景をぼんやりと眺めている。
「ううん。ただ、ちょっとね……、ねぇ、こんな話知ってる? 自殺の名所として知られているビルが在ったのね。そのビルでは年に何度も人が飛び降りてて、対策のために階段の入り口に鍵が取り付けられるんだけど、毎回壊されちゃってたんだって。ほとほと困り果てたビルのオーナーが屋上へ通じるドアにこんな張り紙をしたの。『こんな高い所まで登ってこれる元気が有るなら、生きてみよう!』って。そしたら、飛び降りがぱったりと無くなったんだって」
「…………」
「こんな風に、ふとしたことで価値観がガラリと変わったりするのね……不思議よね……ほんの些細なことで、人は人を憎んだり、愛したり……何かのきっかけで、人生そのものが絶望に染まったり、バラ色に変わったり……」
「…………」
「ホントにちょっとしたことでもいいのよ……」
「…………」
「だからね…………」
「…………」
「晩ゴハンおごって」
「全く君って娘は!!!」
 流石の春日も顔を真っ赤にして怒鳴った。
 
 
 
  第十八話 必然

 耳をつんざく排気音を轟かせ、何台ものオフロードバイクが急な斜面を駆け登ってゆく。
 あるライダーは土埃をあげつつ巧みなアクセルワークでコーナーを抜け、あるライダーはバイクに跨ったまま宙を舞い、空中で、事故にしか見えないような角度に車体をわざと傾けた後、姿勢を制御し見事な着地をきめた。他のライダー達も車体が宙を舞う度に、眼を覆いたくなるような危険な技を次々と披露していく。
 コースが直線になると一斉にムチが入り、スピードは最高潮に達する。
 そんな中、突如として一人のライダーの首がヘルメットごと吹っ飛んだ。一瞬の後、肝心な部分を失った胴体からは血が噴水のように噴き上がり、バイクはしばらく走った後、バランスを崩して横転した。
 カラカラと回るタイヤの音だけがしばし続いた後、あたりから次々と悲鳴があがった。

 その日、秋山に呼び出された春日は、某所にあるモトクロスパークへと姿を現した。
「せんぱーい! こっちでーす!」
 秋山が手を振って合図すると、Tシャツ姿の春日がそれに手を挙げて答えた。
 そのTシャツの胸には、大きく『車派』と書かれている。
 春日はこのような場所に来るのは初めてなのか、停めてある泥だらけのバイクやカラフルなツナギで身を包んだライダー達をしげしげと眺めながら歩いて来た。
「やあ、秋山君。並んでいるオートバイだけどさ、サイドミラーは取り外しが利くとしても、ライトも方向指示機もナンバーも無いオートバイがあるね?」
「ああはい。それはええと、コンペティションっていうモデルですね。レース場やこういった練習場専用のバイクで、二輪免許が無くても乗れるんですけど、公道では一切走れません」
「おっ、物知りだねえ」
「えへへ。ボクもさっき聞いたんです。それより先輩! モトクロスのトライアルって見たことあります? 先輩を待ってる間、参考までに見せて貰ったんですけど、もうすごいんですよ! ジャンプ台からバイクがポーンって飛ぶんですよ! ポーンって! 聞けば、飛んでる間にバイクの上で逆立ちしたり、一度完全にバイクと体が離れたりする技もあるらしいんですよ!」
「マジでか! そこまでいったらもう乗りこなしてるとかそういうレベルじゃないじゃん! 乗ってないじゃん!」
「そうなんですよ! びっくりですよね! 後で絶対見に行きましょうね! ……で、亡くなったのはこの練習場を利用していた瑞穂さんという男性です。死因は頸部切断によるもので即死でした。こちらへ来て下さい」
 秋山は少し歩くと、コースの傍に立つ一本のポールへ近付いた。
「このポールと、コースを挟んで反対側に立っているポールの間に、鉄製の細いワイヤーが張ってありました。瑞穂さんはこのワイヤーに気付かずに、かなりのスピードで突っ込んだ模様です」
 春日は眼を細め、さっきまでそこに在ったであろう、血の滴る鋼鉄の糸を想像した。
「首の位置にワイヤーがあったわけだ……でも、他のライダーさん達は平気だったわけでしょ? なんで瑞穂さんだけ? 瑞穂さんだけメッチャ座高が高かったの?」
「いえ。見ての通りこのコースのこの区間は長い直線になっています。普通、加速するときは空気抵抗を減らすために皆さん姿勢を前傾にするらしいんですけど、そのときなぜか瑞穂さんだけはずっと立ち乗りしてたみたいで。立ち乗りってのは、道の凹凸が激しいとき、膝のクッションを効かせてショックを和らげるためにするそうです」
 春日は地面に眼を落した。
「激しいデコボコなんて無いねぇ……。それが彼のスタイルだとか、立ち乗りするクセでもあったとか?」
「いえ、そんなことはないそうです」
「そう……。じゃあ偶然にも、瑞穂さんが立ち乗りしてしまったが故に、運悪く犠牲になったってこと?」
「ええ。瑞穂さんが、先に来て練習を始めていた他のライダーさん達と合流して、走り出した、その後すぐのことだったらしいです」
「ふうん……」
「鑑識も聞き取りももう終わっています。別の場所に同様の罠が仕掛けられていることはありませんでしたが、このコースはしばらく使用禁止です。こんな事態になってここのオーナーはかなり狼狽してましたよ」
「まあ、そうだろうね。あ、どうでもいいけど、こういうところのトイレって、公園の公衆便所みたいにもっとこう……ワイルドな感じかと思ったけど、意外と綺麗だし、シャワートイレ完備なんだね。さっき入ってきたんだけど」
「ああはい。なんでも、ボコボコの道を行くバイクに跨ってると、肛門への負担が尋常ではないらしく、ライダーにとって、シャワートイレは必須アイテムらしいですよ。ここのライダーさん達それぞれの自宅にも、100パー設置されているそうです。それと、ライディング後のひとシャワーはハンパ無く快感らしいですよ」
「ほほう、快感とな?」
「ええ。まあそれはさておき、とにかくこれはもう、許し難い極めて悪質なイタズラです。先輩、犯人を挙げる、何か良い方法はありませんかね?」
「イタズラ、ね……なら犯人はワイヤーを張るべき高さを測り違えたのかな? コースがストレートの間、ライダー達は皆、前傾姿勢をとるんだろう? 本来なら誰もこの仕掛けには引っ掛らないからね。もっと低い位置に張りそうだけど……ワイヤーはいつ頃張られたのかな?」
「はい。使用されたワイヤーは錆び一つ無く、真新しい物でした。ごく最近仕掛けられたものに間違いありません。……亡くなった瑞穂さんはもう、ほんととんだ災難ですよ」
「うん……」
「瑞穂さんには交際していた女性がいましてね。かわいそうに、瑞穂さんが亡くなったショックで倒れて、病院に運ばれました。なんでも、少し前から眩暈、吐き気、体重が減る等、体調を崩していたそうで、恋人の死が、止めを刺したようなかたちです」
「へえ、それは気の毒に……」
「ええ、全くですよ……」
「ふむ……今回の事件、この練習場に何か恨みのある人間の犯行だろうか……。付近の住民と何かトラブルが起きていたとか、そういった話はライダー達から聞けなかった?」
「いえ、特にそういった話は……」
「どんな些細なことでもいいんだけど」
「ええと、あ、じゃあ、瑞穂さんと、あるライダーさんの間の話なんですが」
「うん?」
「瑞穂さんと交際していたという、倒れてしまわれた女性ですが、以前は同じくこの練習場に通うあるライダーさん―相澤さんと仰るんですが、その方と深い仲だったようです。そしてその女性は現在、相澤さんと別れ、瑞穂さんと交際していたわけですが、恋人に手を出されたと言って、相澤さんが瑞穂さんに対する恨みを洩らしていたとの話が有りまして」
「ええっ、おいおい、それをトラブルと言うんだよ!モロ動機が在る人物が居るんじゃないかっ」
「えっ! い、いやでも……状況から見てたくさんいるライダーさん達の中から、瑞穂さんだけを殺害するというのは不可能でしょ? 愉快犯の無差別的犯行じゃないんですか?」
「……瑞穂さんのバイクに何か細工がされた痕跡とかは無かった?」
「いえ、そのようなものは一切ありませんでした」
「じゃあ家族の方に、瑞穂さんの今朝の様子とか訊けないかな?」
「残念ながら、瑞穂さんは独り暮らしです」
「そう……。やっぱりバイク乗りは住む所もワイルドなの?」
「いえ、普通です。多少古い1LDKだとか」
「ふむ。普段は何やってる人?」
「そこも普通に会社員です。ただ三度の飯よりバイクが好きで、休日は必ずここでライディングを行っていたようです。夜は夜で別のライディングを行っていた可能性が有ります」
「こらこら、お下品だよ。…………秋山君、瑞穂さんの遺体は今どこに?」
「署の安置室です」
「くわしい検視は?」
「いえ、行われてませんが?」
「そう……。もしかしたら、瑞穂さんが死亡したのは偶々じゃないかもしれないよ……」
「え!? 何か解ったんですか先輩!?」
「ああいや。まだはっきりとした証拠があるわけじゃないんだけど、ちょっと調べれば、犯人も、証拠もすぐ見付かると思うよ」

※春日の言う通りだとして、瑞穂を計画的に殺害する方法はあるのだろうか?

「秋山君、すぐに検視医さんに連絡して、瑞穂さんのア○ルを重点的に調べるよう言うんだ!」
「ア、ア○ルですって!? ア○ルをよく調べろって言うんですか!?」
「そうだ。穴が空くほどよく見てくれと頼むんだ。きっと酷くかぶれているはずさ」
「かぶれ?」
「そう。瑞穂さんは犯人の策略に嵌り、ア○ルがかぶれてしまったんだ。つまり、瑞穂さんはシートに座りたくても痛くて座れなかったんだよ」
「え、し、しかし……そんな所を狙ってかぶれさせるなんて可能なんですか?」
「可能さ。瑞穂さんの家に忍び込み、そこにあるシャワートイレのタンクの中に、かぶれの原因となるものを混入させればいい」
「シャ、シャワートイレ!?」
「そう。最近の新築物件なら、便座にタンクが内蔵されていて、シャワートイレも最初から付属しているタンクレストイレってのが多いんだけど、瑞穂さんの場合、部屋が多少古いということで、シャワートイレは後から取り付けるタイプのものと見た。後付けの場合、トイレの水を流すタンクとシャワー用のタンクは別々だから、比較的簡単にかぶれの素となるものを仕込むことができるってわけ。かぶれの素と言って一番に思い浮かぶ成分は漆に含まれるウルシオールやサクラソウのプリミン辺りだね。瑞穂さんは会社員だから平日の行動パターンを読むのは容易いが、瑞穂さんの不在を狙って家に忍び込もうとしたら合鍵を作っておく必要がある。ライダー同士での集まりの席で瑞穂さんに酒を飲ませ、酔い潰れている隙か、瑞穂さんがここでライディングを行っている間にバッグを漁るなどして、こっそり合鍵を作っていたということが考えられるね。おそらく昨日、タンクへの仕込みを終えた犯人は深夜にここを訪れ、計算した高さにワイヤーを張ったんだろう。瑞穂さんはそうとも知らず用を足した後いつものようにア○ル洗浄をして、犯人の思惑通りかぶれア○ルになってしまったんだよ」
「そ、それじゃあ、それが原因で瑞穂さんはシートに座れず、立ち乗りしたままワイヤーに突っ込んでしまったということですね!?」
「そう。漆など、手に付いただけでも痒いのに、ア○ルなんてモロ粘膜だ、相当痒かったに違いない」
「さっさと病院行けって話ですよね」
「まあね。でも、それ程までにバイクに乗りたかったってことじゃないかな」
「ああなるほど、本当に好きな事をするためなら、多少の事は我慢できる、ってわけですね? それ解ります。ボクにもそういったところありますね。ボクくらいのカレー好きになると、たとえカレー2、ライス8だとしても充分美味しく頂けますもん」
「んん? なんか違くね? まあいいや。というわけで、一番怪しいのは彼女を盗られたっていう相澤さんという男性だね」
「なるほど……ではその犯行を裏付けるものはありますか?」
「まず何度も言うけど、瑞穂さんのア○ルを念入りに調べることだね。そしてシャワートイレのタンク内を調べること。何かしらの痕跡があるはずさ」
「了解です。しかし、どうでもいいですけど、先輩の方がよっぽど下品な気がするんですが」
「気のせい」
「そ、そうですか……で、では証拠は?」
「残念ながら、合鍵も余ったワイヤーもかぶれる汁も全て処分されているだろう」
「そ、そんな……ではどうすれば?」
「相澤さんがどこかで合鍵を作ったことがないか鍵屋さんをしらみつぶしに当たるんだ。そしてもう一つ、相澤さんは元カノさんの命も狙っている可能性がある」
「な、何ですって!?」
「元カノさんは体調を崩していたらしいじゃないか。相澤さんは、自分から瑞穂さんへと乗り換えた元カノさんのことも恨んでいて、以前から、瑞穂さんにしたのと同じ手口で、元カノさんに毒を盛っていたと思われるね」
「と、ということは、元恋人の部屋に侵入して……!?」
「うん。恋人同士の時に、部屋の合鍵を受け取っていたとしても不思議じゃない。別れ話の時には合い鍵を返したかもしれないけど、合い鍵のスペアを作っていたのかもしれない。その鍵を使って元カノさんの部屋に侵入したんだよ。もしかしたら今、元カノさんの体にはかなりの毒が蓄積しているのかもしれないよ……」
「な……なんてことだ、すぐにお医者さんに連絡して、検査して貰わないと」
「うん。そして相澤さんは元カノさんを殺害するまでは毒を仕掛け続けようと考えているはずだから、そちらの方の証拠はまだ隠し持っているに違いない」
「なるほど! わかりました、じゃあ先に、元カノさんが運ばれた病院に連絡だけは入れておいて、たぶんまだこの練習場内のどこかに相澤さん居ると思うんで、証拠集めにあちこち走り回るのもメンドいし、もうこのまま自首するよう説得しに行きませんか?」
「わお。そんな台詞吐く刑事は日本で君だけだろうね」

 春日と秋山は見付けだした相澤を両サイドから挟み込み、『今自首しないと一生後悔しますよ』と何度も何度も耳元で呪いのように繰り返し、相澤を、今自首しないと一生後悔するかもしれない、という気にさせることに成功した。
 相澤は春日が言った方法で瑞穂を殺害したことを認め、部屋へ忍び込むための合鍵は練習場近くで鍵屋に造らせたことも白状した。
 病院に運ばれた女には、やはり中毒の症状が出ていたが、医師の的確な処置により、大事に至ることは無かった。
 
 
 
  第十九話 豆腐の角に頭ぶつけて……殺人事件

「ちんすこうーーーーー!!!」
 沖縄へと思いを馳せた秋山の雄叫びが、超高層ビルの巨大な内部空間に響き渡った。
「更に、丁寧語にするために頭に『お』を付けるとちょっと複雑な感じになります」
「付けんでいい」
 春日がうんざりした様子で言った。
「おちんすこうーーーーー!!!」
「うるさいよ!」
「先輩、ふと思ったんですが、飛行機の沖縄線のキャビンアテンダントは機内でお菓子を配るとき、『おちんすこうはいかがですか?』って言うんですかね?」
「しらねえよ」
「更に更に! マンゴーの頭に『お』を付けることによって―」
「もういいだまれ!」
 二人は完成を目前に控えた高層建築物の中にいた。四方をテナント用スペースに囲まれた中央フロアは一階から最上階の三十階まで吹き抜けになっており、秋山はフロアに降り立つなり天を仰ぎ、静寂を切り裂く雄叫びを上げたのだった。
「ふうっ……」
 秋山は満足気に額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
「何やりきった男の顔!? バカじゃないの!」
「いやあ、あんまり静かだったのでつい」
「いいから、さっさとここで何があったのか説明したまえ」
「あ、そうでした、すみません」
 秋山は手帳を開き頁を捲った。
「ええと、今朝の話なんですが……この建設現場で警備員をしていた小松さんという男性が遺体で発見されたんです。死因は鈍器のような物で後頭部を殴られ、延髄を損傷したことによる呼吸不全です。死亡推定時刻は午後十一時。朝、現場入りした作業員がここ、一階中央フロアで倒れている小松さんを発見しています」
「うん……」
 春日は話を聞きながらライトの光を床に当てた。床には一面、20センチ四方のタイルが敷かれており、それによって碁盤のようにマス目が形成されていた。
「小松さんは壁に近い位置でうつ伏せに倒れており、傍にはライトがオンになった状態で転がっていました」
「ふむ……」
 春日は秋山が指差した方向にライトを向けた。既に鑑識も終了し、遺体は運び出されている。次に壁にライトを当て、その光を上の方へ滑らせると手摺が見えた。
「……一階から上はどうなってるの?」
「全ての階で真ん中が吹き抜けになってます。そしてその外側がぐるりと通路になっていまして、更にその外側がテナントスペースになっています。ですからどの階の手摺からでも中央フロアを見下ろすことができます」
「へえ……」
 春日はライトの光をどんどんと上の方へ向けていった。
「このくらい大規模な工事となると、平日は夜間でも内装工事なんかが行われていて絶えず人の出入りがあるそうなんですが、日曜である昨日は工事が休みのため、ビル内は完全に無人となっていたそうです。小松さんは通常外にあるプレハブ造りの守衛室に詰めていて、夜間は数時間おきに、ビル内に異常が無いか巡回していたそうです。そこを襲われたものと思われます。そして、遺体の周りの床には沢山の引っ掻き傷が残っていました。どうやら、犯人はスパイクを履いていたようです。そのため、残念ながら足形を採ったりはできませんでした。そして今回、使用されたとみられる凶器が―木綿豆腐です」
「………………」
 春日はボサボサの頭をボリボリと掻いた。
「遺体の後頭部には砕けた豆腐が付着していて、周りの床にも豆腐の欠片が四散していました。これがその、豆腐の欠片の一つです」
 秋山はシャーレを取り出すと開いて中を見せた。春日はそれを覗き込むと指先で摘んで感触を確かめた。やや乾いてはいるが、豆腐特有の弾むような弾力があった。
「それで、ですよ。実はボク、今回の事件がどんなものなのか、少し考えがあるんです。で、それが当たっているかどうか、先輩の意見を聞きたいんです。今日来て貰ったのはそのためでして」
「ほほう」
「では問題です。人の頭を豆腐で殴るとどうなるでしょう?」
「おこられる」
「そうです。豆腐まみれになります。そりゃおこられます。豆腐で殴られて死亡するなんてまずあり得ません。しかし、豆腐で人を撲殺する方法があるんですよ」
「ふうん?」
「それは……豆腐を凍らせてしまえばいいんですよ! 犯人はカチコチの豆腐を手に持ち、闇に紛れて小松さんの背後から忍び寄り……」
 秋山は離れたところに透明な小松を立たせると、腕を振りかざしたまま足音を殺して近付き、そして、力強くその腕を振り下ろした。
「こうして、砕けた豆腐は周りに飛び散り、小松さんは前のめりに倒れた、と」
「ううむ……」
「駄目ですか?」
「いやまあ、そんなもので殴られれば、そりゃ死んじゃうよ。でも、なんで豆腐なの?」
「はい。ただの氷でも良いじゃないか、ってことですね? へへ、その理由もちゃんと考えてあります。犯人の家に適当な容器が無かったんですよ」
「容器?」
「はい。例えば、水を四角いレンガの形に凍らせるためには、まず容器に水を満たして、それから冷凍庫に入れて凍らせる必要があります。しかし生憎、犯人の家には適当な大きさの容器が無く、何らかの理由で容器を用意することもできなかったんですよ。それで犯人は仕方なく、豆腐を凍らせることを思い付いたんです。豆腐ならばそのままの形で冷凍庫に入れることができますからね」
「お、スジは通るねえ」
「へへへ、そうでしょ!」
「でも、適当な容器すら用意できない理由って何よ?」
「えっ? ……あ……いや……それは……」
「いやそもそも、氷である必要も無いよね? 氷を凶器に使用するメリットは溶けて無くなることだけれども、今回のような場合、まず、凍らせた物を使う必要が無い。何でもいいから鈍器で殴って、凶器は持ち去ればいい」
「あ、まあ、そ、そう言われれば……そんな気も……」
「それに、返り討ちに遭う危険を冒してまで警備員に襲い掛る? それ程の価値がこの建設中のビルに?」
「そ、それはだから、犯人にも、のっぴきならない事情があって……」
「だから! 警備員襲って、その上凶器が豆腐で、その凶器を現場に残していくメリットは何だって聞いているんだよ!」
「あ、そ、それは……えっと……あの……」
「え、何だって!? 聞えなーい。もっと大きな声で言ってくれますかー」
「う……ううっ……ぐすっ……うぇっ……」
「はっ! 泣けばそれで済むと思っているのかい!? 見上げた心掛けだねえ! ええ? 刑事さんよぉ!」
「えーん、ごめんなしゃーい! ごめんなしゃーい!」
 春日が酷く意地悪に見えるが、これは彼等のプレイなのであった。
「それにだね、君の推測には大きな瑕疵がある。君は犯人が凍らせた豆腐で小松さんをどついたと言ったが、豆腐は凍らせると変色し、解凍された後は傷んだスポンジのようになって、その弾力も失われてしまうんだ」
「え? そ、そうなんですか?」
「そう。一度冷え切ってしまうと、二度と元には戻らないんだよ」
「恋と一緒なんですね」
「そうだね。だから、回収された豆腐の状態からして、凍らせた物ではなかったということになる。小松さんは何らかの鈍器で殴られ、その後豆腐をかけられた、と考える方がまだ分かる」
「しかしですね、殴った後、豆腐をかけるってどういうことですか? 意味ナイですよね?」
「うん……何かの見立てか、儀式的な意味か……それとも遺体を辱めるためか……」
「むー……どれもピンときませんけど……」
「他に何か手掛かりになりそうなものはないの?」
「そうですね、えっと……遺体の傍の床に何か薬品がこぼれていたんで、成分を調べたところ、接着剤のはがし液だと分かりました。事件と関係があるのか、単にこの建設現場の作業で使われたものなのかはまだ判りません。それと、小松さんが建設会社かビルのオーナー会社が抱える何らかのトラブルに巻き込まれたのか、または小松さん自身が人から恨みを買うようなことが無かったか聞き込みを始めたところ、なんと後者の方で、そんな話があったんですよ。しかもモロ豆腐絡みでした」
「それを先に言え」
「数か月前の話だそうですが、この建設現場は作業員の食事を、あるお弁当工場から取り寄せていたそうです。で、そのお弁当工場は自家製豆腐が一番の自慢だったんですって。そしたらある日、小松さんが豆腐に当たってお腹を壊したと言い出したんだそうです。それを聞いた工事の責任者の方が作業員に食中毒者が出ては堪らないと別のお弁当工場に発注することに決めたとか。でも、同じものを食べたはずの他の作業員達は皆平気だったんですよ。これには豆腐嫌いの小松さんが、ほぼ毎日何かしら豆腐を使ってあるメニューに腹を立てウソを吐いたのでは、というウワサがあります」
「ふむう。なら、それに恨みを持ったそのお弁当工場の工場長辺りが……」
「それが、亡くなっています」
「へっ?」
「大口のお客を失った原因が豆腐だったのが余程ショックだったのか、倒れてしまわれてそのまま……元々、体の強い方ではなかったようです」
「そう……それは気の毒に……」
「はい、しかも話はそれだけではないんです。実は、亡くなった工場長さんの息子さんが、この建設現場で工事作業員として働いています」
「だから、それを先に言え」
「ええと、出川さんといいます。勿論、すぐに話を訊きに行きました。そしたらですよ、小松さんが殺害された夜、出川さんはA県で営まれていた葬儀に参列していました。確認も取れています」
「お通夜かい? しかももう確認取れてるんだ? 随分手回しがいいね」
「はい、それが、出川さんの方からどうぞ調べて下さいと進んで話をしてくれまして。すぐA県警に協力を要請して調べて貰ったんですよ。出川さんの話によると友人の訃報を知り、慌てて家を飛び出したそうなんですが、それが全くの勘違いで、アカの他人の葬儀だったとか。出した香典を引っ込める訳にもいかず、記帳だけして帰って来たそうです。当然、その葬儀で知り合いと出会うワケも無く、出川さんが葬儀に参列していたことを証言してくれる人物はいないんですが、受付に置かれていた芳名帳には出川さんの名前と住所がしっかり記入してありました。A県で夜、葬儀に参列していたとすると、いかなる交通手段を使ったとしてもここで小松さんを殺害することは不可能だと分かりました」
「そう……」
「後、殺害された小松さんの同僚にも話を聴けました。小松さんは死亡推定時刻の数時間前、昼勤の警備員と引き継ぎを行っています。その時、小松さんが機嫌良さそうにしていたので、同僚が何故かと訊ねたところ、小松さんはビル内の巡回が楽しみだと答えたそうです。更に何故かと訊ねたところ、それを言ったら俺の取り分が減る、と言って笑い、それ以上は教えてくれなかったそうです」
「取り分……。他には? 他には何かない?」
「ええと、あ、出川さんは血を見ると気絶するタチらしいです」
「出川さんが?」
「はい。今日出川さんから話をお聞きしていたときの事なんですが、ボクは不意に鼻孔の奥に違和感を覚え、指先で違和感の正体を探っていたところ、粘膜を傷つけてしまい、出血してしまったんです」
「要するに鼻ほじったら血が出たわけね。てか、参考人の前で鼻ほじんなよ」
「そしたら、かるく掌が紅に染まるくらい出血しまして、それを見た出川さんは気を失ってしまったらしくて」
「らしくて?」
「ええ、どうやら気を失うのはボクの方が一瞬早かったようですね」
「刑事が自分の鼻血見て気絶してんぢゃない! 全く……」
 春日は溜息を一つ吐くと腕を組み、頭の中で話を整理し始めた。春日が考えている間、秋山はすることも無いので辺りをぶらぶらと歩き回った。コツン、コツンと足音だけが響き渡る。
「あ…………」
 春日は小さく声を上げると振り向いた。その眼は秋山の足下に向けられている。
「どうかしました?」
「ああ……!」
 と今度は弾かれたように頭上を仰ぐ。
「ど、どうしたんですか?」
「……秋山君……ちょっと行ってきてくれるかな?」
「え? どこへですか?」
 春日は指を一本立てて上空を指した。

『……こちら……三十階の……秋山です……』
 電話の向こうのその息遣いは、荒い。
「ご苦労さま。随分掛ったね? どうだい?」
『ガクがヒザヒザします……』
「うんうん、わかるけど、そうじゃなくて。そこに何か無いかい? ていうか、今どの辺にいるの? 合図して」
 春日が見上げた遥か上空でライトがチカチカと光った。
「OK確認した、僕は分かる?」
 フロアに立つ春日は空に向けてライトを振った。
『あ、見えます。うわ遠、豆粒ですよ』
「うん。じゃあちょうどその辺りに何か無い?」
『何かと言われましても……別に何も無いですよ?』
「そっかぁ……じゃあ悪いけど、今度は二十九階に下りて―」
『あ、ちょっと待って下さい。使用済みの布テープが落ちてました。あ、よく見たら手摺にもくっ付いてます。…………何かが手摺に貼り付けてあったのかな? ベタベタします』
「そう…………。秋山君、もういいよ、ありがとう」
『え、何か解りましたか?』
「うん、解った。実に単純だ、しかし、しっかり工夫もしてある」
『えっ、何、どういうことですか?』
「それは、後で説明する。出川さんをここへ呼んで貰えるかな?」

※春日は今回の事件の犯人を出川だと考えているようである。出川はどのようにして小松を殺害したのだろうか?

「出川さん、急にお呼び立てして、申し訳ありません」
「はぁ、どうも……」
 秋山が頭を下げると、呼び出しに応じて現れた、中肉中背の男が会釈を返した。まだ三十代らしいが、仕事の疲れでも出ているのか随分と老け込んで見えた。
「一体、何なんでしょうか?」
 平静を装ってはいるが、その眼には警戒の色が浮かんでいる。
「それはこちらから……」
「こんばんは、私捜査に協力をしております、春日と申します。えー、邪推かもしれませんが、小耳に挟んだところ、亡くなった小松さんとは因縁浅からぬ関係だとか。なら、出川さんもこの事件に興味があるんじゃないかと思いましてね」
「……興味無いですね」
「あ、そういうもんですか? でもまあ、話だけでも聞いて下さい」
「…………」
「今回の事件ですね、凶器はズバリ『豆腐』です」
「あれっ!? 豆腐でいいんですか!? 凍ってはいなかったんですよね? 犯人が何らかの鈍器を手に小松さんを背後から襲ったんじゃないんですか?」
 秋山が横合いから口を挟んだ。
「犯人はスパイクを履いていた。いくら気を付けてもカチャカチャと足音が立つ。背後を獲るのはムリだよ」
「な、なら一体どうやったら豆腐なんかで……」
「犯人はこのビルの構造を利用したんだよ。地上三十階から豆腐を落下させ、小松さんの頭に命中させたんだ。豆腐一丁の重さは300グラムから400グラム。重力加速度を付けた豆腐の威力は相当なものになる」
 春日の言葉に秋山はしばし絶句した。
「……い、いや、そんなサラッと。い、言うのは簡単ですけど、無理ですよそんなの」
「そうかな? 無風、無回転の場合、物体は重力によって垂直に落下する。上手く狙えば可能だよ」
「狙うったって……」
「まず、床のタイルを見てごらん。碁盤のように格子状になっているだろう? そして次に三十階の手摺。何があった?」
「何って……布テープが……」
「そう、そのテープで、手摺には照準器が取り付けられていたんだよ」
「しょ、照準器、ですか?」
「そう。まず、棒で四角い枠を作り、そこに糸を縦横に張って、幾つかのマス目を作る。そして、一つのマスの大きさはタイルの大きさと等しくする。これが、手製の照準器になる。床のタイルと照準器の位置を望遠鏡とレーザーポインターを使って正確に合わせ、それを布テープを使って手摺に固定すれば完成だ」
「えっと……でもそれをどう使うんですか?」
「うん、まず床のタイルの、どれか一つを起点と決めておいて、その起点から縦に何マス、横に何マスの位置に小松さんの頭がきているかを確かめ、照準器のどのマス目から豆腐を落とすか決定したら、後はそっと手を放すだけってわけ」
「し、しかし……相手は動く人間ですよ? そう上手くいくでしょうか……それに、小松さんは後頭部を―」
「何かが床に落ちていたとしたら? しかもそれがガッチリ接着されていたとしたら?」
「へ?」
「思い出して。床には接着剤のはがし液が付着していた。ということはそこに何かが接着剤で貼り付けられていて、それをはがすために使われたんじゃないか、と考えられない? 秋山君、君が床に落ちてる物を拾おうとしたとしよう。そしてそれがなかなか取れないとき、君の体勢はどうなっていく?」
「どうって……床に膝を付いたり、その落ちている物に顔を近付けたり……あ、ああ……!」
「そう。そうやって、動きを封じられると同時に、後頭部を無防備に晒すことになる」
「そ、そうか……!」
「とはいえ、落下してくるのはあの柔らかい豆腐だ、体の別の場所に当たっていれば痛い、で済んだかもしれないよ……後頭部への衝撃がいかに危険かを物語っているね……」
「……い、いやもう、何て言ってよいやら……」
「さて、じゃあ床に何が貼り付いていたのかだけど―」
 春日はくるりと振り返った。
「出川さん、おサイフ、貸して頂けますか?」
「! …………い、いいですよ」
 一瞬の沈黙の後、引きつった笑みを浮かべた出川が財布を差し出した。
「すみません、もう結構です。今の僅かな躊躇のおかげで、何が床に接着されていたのか解りましたよ」
 春日は唇だけで笑った。
「小銭ですね? しかし、それはあなたの手元にはもう無い。もう処分してあるのだから、例え財布の中身を調べられても全然構わない、と今思いましたね?」
「な、何を……」
「もうここまできたら、回りくどい言い方は必要ないでしょうか……僕は、あなたが犯人ではないかと考えています」
「ち、違う……!」
「先輩、ちょっといいですか? 小銭が接着されてたってのは分かりました。そりゃ、お金が落ちてたら拾おうとしますよね。それに、豆腐を落としたってのも分かりましたけど、何故凍らせなかったんですか? 凍っていた方が威力が増して、さらに確実になるでしょう?」
「じゃあさ、凍っていたとして、そんなのが頭に当たったらどうなる?」
「どうって……そりゃ、頭が、パーンって……」
 秋山は顔の横で両掌を広げた。
「だね。じゃあさ、出川さんはさ、そんな遺体の傍まで、小銭を回収にいける?」
「え、小銭を……? あ! そうか出川さんは!」
「そう、血が駄目だ。威力が有り過ぎても駄目なんだよ。遺体が派手に出血していたら、出川さんはそれを見たとたん卒倒してしまう。だから、威力をセーブする必要があったわけさ」
「な、なるほど……」
「出川さんのここ数週間の行動はこうだろう。まず、週末の作業が終わると帰ったフリをしてビル内に留まり、どこかに隠れておく。そしてわざと小銭をフロアに落としておき、それを数回に渡って小松さんに拾わせる。そして、小松さんがビル内を巡回するパターンを把握しておき、隙を狙って豆腐を落とすリハーサルを行う。その時は、大きな音が出たり、豆腐が飛び散らないように布かなにかで包む必要があっただろうね。そして事件の夜、出川さんは小銭を床に接着させ、息を潜めて待った。餌付けされていた小松さんは小銭を探し、まんまと罠に掛ってしまったわけだ。出川さんは、小松さんが持つライトの明かりを頼りに頭に狙いを定め、豆腐を落下させた」
「…………」
「小松さんを殺害することに成功した出川さんは、スパイクを履いて遺体へと近付き、接着剤用のはがし液を使って床の小銭を回収した。スパイクを履いていたのは飛び散った豆腐を踏ん付けて足跡を残し、体格が割れるのを恐れてのことだろう」
「し、知らない! 俺はそんな事していない! 俺にはアリバイがあるだろう!」
 出川は唇をわななかせつつ声を張り上げた。
「葬儀で、芳名帳へ記帳されていたあなたの氏名ですね? それはただ、金で人を雇っただけでしょう?」
「…………!」
「アリバイ工作会社というのがあります。これは、浮気や不倫がバレないようにアリバイ工作を手助け等してくれる会社です。アリバイ工作のための代理出席なんかも仕事の一つですよ。知人に代理を頼むと説明が面倒だし怪しまれる恐れがある、このような業者を利用したとみて、ほぼ間違い無いでしょう。彼等には当然、守秘義務がある。しかし、あなたが犯罪を行った疑いがある場合は話が別です。犯罪の片棒を担いでまであなたの秘密を守ることは彼等はしませんよ?」
「…………」
 出川がガクリと肩を落とした。垂れ下がった手からは財布がこぼれ落ちた。
「……俺が……やりました……」
「……出川さん……なぜこんなことを? 失敗したときのこととか考えなかったんですか? そもそも、なぜ豆腐なんかで?」
 秋山が疑問を投げ掛けた。
「あいつが憎かった……俺はあいつが、オヤジの弁当をろくに食いもせず捨てているのを何度も見た。あいつは自分が豆腐嫌いだからってあんなウソを……そのせいでオヤジは……オヤジは豆腐が大好きだった……豆腐はオヤジの全てだった……きっとオヤジは、自分の手で復讐したかったはずだ……! だから俺は、オヤジの分身ともいえる豆腐であいつを―」
「出川さん、あなた一体、リハーサルで何丁の豆腐を駄目にしました!? まして、復讐の道具としてお父さんの愛した豆腐を使うなんて、そんなことでお父さんが喜ぶと、本気で思っていたんですか!」
「!」
 春日の言葉に出川は身を強張らせた。
「……この犯行にはタイムリミットがあった。ビルが完成してしまえば当然、設置された防犯システムによってビル内に隠れたり忍び込んだりすることは不可能になってしまう。下準備に加え、日々の作業に手を抜いて仕事をクビになるわけにもいかない。出川さんあなた、ここ数週間、体力的にも精神的にも相当キツかったでしょう……仕事もよく頑張ったんでしょう……。でもね、その頑張った理由が復讐じゃ、誰も褒めてはくれないんですよ!」
「………………」
 疲れ果てた男はぺたりと床に腰を落とし、そのまま壊れたように動かなくなった。
「…………」
 秋山は出川の両肩に手を添えると、支えるようにして立ち上がらせ、静かにその背中を押した。春日はされるがままに歩く出川の背中を、いろいろな感情がないまぜになった表情で見送った。
 そして、その後ろ姿が見えなくなると、堪えていたものが一気に溢れだした。
「ちんすこうーーーーーーーー!!!」
 行き場の無い想いは雄叫びとなって、夜の魔天楼に響き渡った。
 
 
 
   第二十話 レム

 その日、彼等の眼前には、全焼を果たし、後は崩れ去るのを待つばかりの家屋があった。炎によって黒く染め抜かれた壁や柱は、本来どのような色合いをしていたのかさえ最早判らない。屋根は崩れ落ち、窓ガラスはそのことごとくが割れていた。空から降り注ぐ強い日差しが、焼け跡の空虚さを更に際立たせている。
 家と家との間隔が数十メートル離れているのが当たり前のような片田舎での火事であったため、隣家に火が燃え移ることは無かった。
「消防の鑑識によりますと―」
 制服姿の秋山が手帳に眼を落しながら告げた。
「放火で間違いないそうです。出火時刻は昨夜十一時、出火場所は玄関、とのことです。すぐ近くに燃料用アルコールのビンとライターが落ちていました。焼け跡からは、この家で独り暮らしをしていた桑野さんという男性が遺体で発見されています。死因は一酸化炭素中毒と火傷によるもので、出火当時、桑野さんは就寝中だったため、逃げ遅れたものと思われます。しかし、たとえ火事に気が付いたとしても、玄関を炎で塞がれていたため、脱出は困難だったかもしれません……」
「…………酷い話だ」
 春日は鼻にシワを寄せた。
「まさかボクがこの村の駐在警官として着任早々、こんな凶悪犯罪が行われようとは……」
 秋山は拳を震わせた。
「不審者の目撃情報は?」
「それが……この辺りの住民は夜に外を出歩くことがない上に、就寝も早いため、有力な情報を得ることはできませんでした」
「そう……。通報者からは何か話が聞けた?」
「いえ、特に。家を出たところ、偶然火の手が上がっているのを見付けたみたいで、それで通報を。消防への入電は午後十一時十分です。友人を訪ねるつもりだったそうです」
「そう……。しかしその通報者さん、そんな時刻に友人のところへ?」
「はい。ええと、その方の話によりますと、在宅中、携帯の方へ友人から電話が掛ってきたそうです。それが午後十時三十分。しばらく会話していると、その友人に、渡したい物があるから取りに来い、と言われたので携帯を片手に会話を続けながら家を出た直後、遠くで火の手が上がっているのを見付け、友人との会話を切り上げ、消防へ通報した、とのことです」
「ああ、そういうことか」
「はい。後、念のため、会話の相手を確認させて頂いたんですけど、そしたらですね、あそこ、あの家の住人と電話していたと仰るんです」
 秋山が腕を伸ばし、火事の現場から百メートル程離れたところに建つ一件の民家を指差した。
「へえ?」
 春日が眉を動かした。
「勿論、直ぐに行って、あの家の住人に話を伺いました。田尾さんという方です。確かに、田尾さんの方から電話を掛けたそうです。カーテンを降ろしていたし、電話に夢中で、不審者はおろか、火事にも全く気が付かなかったそうです」
「……ふうむ……」
「何か気になるところがありますか?」
「……あるね。……一つ大きく気になることがある……」
「な、なんですか!?」
「君は一体どんな失敗をやらかして、こんな田舎まで飛ばされたの?」
「うぐっ……!」
 秋山が胸を押さえて大きくよろめいた。
「……せ、先輩。先に断っておきますが、ボク個人としては、落ち度は無かったと思っています」
「ほう、ではなぜ?」
「……それは、今を遡ること数週間前、本庁からお偉いさんが視察に来る、ということでボクが接待役を仰せつかったんです。それで、その方が体を動かすのがお好きだと伺ったので」
「ああそう、まあ接待ゴルフとかは基本だよね。それで?」
「いえ、ご用意したのは接待アメフトです」
「お偉いさんにどんだけハードなスポーツやらせてんだよ」
「ちょっと趣向を変えてみたんですよ! ゴルフもアメフトも同じ球技じゃないですか! たいして違わないですよ!」
「片や最も危険な球技じゃねーか」
「ちょっと○ャンプに掲載されていたマンガに触発されただけなんです! 先方にケガを負わせたのは相手選手なんです! ボクは悪くないんです!」
「いや君が悪い。君が全部悪い。飛ばされて当然。自明の理ってやつだ」
「そ、そんなぁ……。先輩までそんなこと言うんですかぁ? もう……じゃあ百歩譲って、ボクにも非があるってことでもいいですから、とにかく助けて下さい。ガンガンポイント稼いで、転属願いを受理して貰うんですから!」
「もういいじゃないか。一生田舎勤務でも」
「嫌ですよ! こんな娯楽のないとこ!」
「それならほら、ポイント稼ぎだけが転属のチャンスではないだろう? 出世したらある程度我は通るよ。昇進試験の勉強したまえ」
「何言ってんですか先輩。そんなの嫌に決まってるじゃないですか」
「………………」
「あーあ。一カ月毎に、市街地と田舎とを交互に勤務ならベストなんだけどなぁ」
「こ、この男は…………。はぁー……わかったわかった、やるよ。事件の捜査、手伝ってあげる」
「本当ですか! ありがとうございます! 先輩は本当にいいひとだなあ!」
「よせよ、照れるじゃないか。……おっと、しまった、もうこんな時間か。ちょっと失礼するよ」
「どうしたんですか?」
「いやね、今ブログで恋愛相談室をやっているのだけれど、今日は電話相談の予約が幾つか入っているんだ。悪いけど、少しの間静かにしててね」
「了解です! 流石先輩、誰からも頼りにされているんだなあ!」
 ややあって、春日の携帯が着信音を鳴らした。
『……もしもし、あのう……』
 受話部から若い女の声が流れ出た。
「もしもし、恋でお悩みですね? 今日はどんなご相談ですか?」
 春日が爽やかに応対した。
『あのう、ワタシ、今付き合っている人がいて……もう3年くらい付き合っているんですけど……それで彼、すごく明るくて、一緒にいるとすごく楽しい人なんですけど……時々、本当にワタシの事好きなのかなって不安になる事があって……。彼、一緒にテレビを観ている時とか、街を歩いている時とか、綺麗な人を見掛けると、「今の人、可愛いかったね?」って普通に聞いてきたりするんです。ワタシもその時はそうだねって言うんですけど……自分で言っててすごく寂しくて……。ワタシは可愛いなんて言われた事無いので……。それで……たまに心配になるんです……3年も付き合っているのにプロポーズもしてくれなくて……。あのう……ワタシ、どうしたらいいと思いますか?』
「別れなさい」
『…………………………』
 それじゃ、お電話アリガトウ、と言って春日は電話を切った。しばらくすると、また電話が鳴った。
『……もしもし、よろしくお願いします』
 先程とは別の女の声が流れ出た。
「はい、こちらこそ。今日はどんなご相談ですか?」
『はい……。今付き合っている彼氏の話なんですけど。少し前、彼が会社の同期の人の送別会をやるって言ってたんです。それで、男の人だけの集まりだって聞いていたんですけど、彼のデジカメを見たら、女の人もいっぱい来てたみたいで……肩寄せて写ってる写真とかもいっぱいあって……』
「あらあ……」
『私、頭にきて、彼に訊いたら、自分も女が来るとは聞いていなかった、とか言ってトボけてて。私、もうホント頭にきて、別れるって言ったんです。そしたら、ゴメンって謝ってくれて。もう誘われても絶対に行かないって約束してくれたんです』
「なるほどねぇ」
『ちょっと考えたんですけど、今度だけは許してあげて、一からやり直そうかと思うんですけど、どう思いますか?』
「別れなさい」
『……………………』
 それじゃ、ご相談があるときはまた。と言って春日は電話を切った。
「………………。ほ、本当に、せ、先輩は頼りになるなあ……ははは……」
「よしてくれよ。……よし、一仕事終えたところで、ぼちぼち捜査を開始していこうか」
「は、はい……」
「えっと、あの家に住んでる人、田尾さんだっけ? どんな人なの?」
「はい。山林を所有していて、そこで林業を営んでらっしゃるとか。それで、ですね、これは村の住人に聞いた話なんですけど、実は、田尾さんと桑野さんの間で問題が起きていたらしくて」
「へえ?」
「桑野さんはかなりご高齢なんですが、身寄りが無く、犬を一匹飼っていて、その犬を子供のように可愛がっていたそうです。高齢といっても、多少耳が遠いくらいで、矍鑠とした方だったみたいですね。そして、田尾さんなんですが、仕事柄、木が病気にならないように農薬を扱うこともあるらしいんですけど、桑野さんの飼い犬が農薬付きの木の実を食べて死んでしまったんですよ。田尾さんの山で犬の死体が見付かったそうです」
「あらあ……」
「獣医さんの話では、農薬を口にして数分で死んでしまっただろう、とのことです。桑野さんは、それは悲しみ、田尾さんに対して訴えを起こして、慰謝料を請求したんです。ですが、田尾さんは『犬は可哀相だが、自分に責任は無い』と言って裁判所の出頭命令を無視し続けたんです。気持ちも解りますがそれがいけなかった。判決当日、法廷に現れなかった田尾さんの敗訴が決まったんです」
「欠席即敗訴、ってやつか」
 春日はポリポリと頭を掻いた。
「田尾さんに裁判所から慰謝料の支払い命令が出たんですが、田尾さんにそんな蓄えは無く、もし支払えなかった場合は、所有する山林を売却して、それを支払いに回さなければならなかったんです」
「うわあ、それだけ拗れたらもう、立派な動機になるなぁ……。山を奪われそうになっている田尾さんが桑野さんに殺意を……」
「はい。ですが……」
「うん、わかってる。出火時刻は午後十一時。十一時十分まで自宅で友人と電話していた田尾さんに放火は無理、ってことだね」
「はい……」
「時限式や遠隔操作式の発火装置は?」
「いえ、一切使用された痕跡がありません」
「ふむ……。田尾さんの家からここまで、ちょうど百メートルってところか……会話をしているフリをして、友人に独りで喋らせておき、その隙にダッシュで火を付けに行って、ダッシュで戻って来たのでは?」
「いえ、どちらかと言うと、会話の主導権は田尾さんが握っていたようです」
「なら、田尾さんがベラベラと独りで喋っていたとか?」
「録音したテープを再生していた可能性ですね? それも無いようです。ちゃんと議論を交わし合い、変に長い間が空いたり、話が噛み合わなくなったりすることは無かったようです」
「そう。なら思い浮かぶのはコードレス電話、または家から掛けていると見せ掛けて実は携帯電話で会話していた、ってところだけど」
「はい。調べたところ、田尾さん宅の固定電話の番号から掛けられているのは間違いありませんでした。後、コードレス電話ですが、電話機の製造メーカーに問い合わせたところ、どの会社の製品でも、送信機からの有効半径は八十メートルくらいが限界だそうです。子機でも同じです。会話出来たとしても、ノイズが酷くなり、何かの拍子で信号が途切れようものなら、それっきり通話も切れてしまうそうです」
「そう……そんなにシビアじゃあ、とてもアリバイ作りには利用できないな……。ねえ、田尾さんの電話機、調べさせて貰った?」
「ええ。本体と受話機がクルクルコードで繋がっている、プッシュボタン式の電話機で、どこにでもある全く普通の物でしたよ」
「そう……。ええと、確か田尾さんと会話していた友人は、田尾さんに呼び出されて自宅を出たって話だったよね。どんな話の流れでそうなったのかな」
「はい、友人さんの話によると、そのとき、プロ野球の話をしていたそうなんですが、田尾さんが、O選手のサインボールを譲っても良いって言い出したらしいです。ボクにはよく分からなかったんですけど、何かの記念ボールらしくて、その友人さんはそれがノドから手が出るほど欲しくて、何度も譲ってくれるよう頼み込んでいたんだそうです。それが急に譲って貰えることになって、喜んで家を出たところ火事と遭遇、ってことらしいです。今までどんなに頼んでも首を縦に振らなかったのに、どうして急に、ってところには不思議そうにしてましたね」
「そう……。ふむ、そんじゃぼちぼち、田尾さんの家の方にも行ってみようか」
 二人はアスファルトで舗装された道を並んで歩いた。ほどなく田尾の家の前に辿り着く。
 ごく平凡な平屋であった。家の横には荷台にテールリフトが付いたトラックが停めてある。トラックの荷台を見ると、ちょっと揺すれば崩れてしまいそうな程、薪が積み上げられていた。
「あれは?」
「シーズンの間だけ、近くのキャンプ場に薪を卸しているそうです。今朝僕がお話を伺いにここへ来たときも田尾さんは薪を割ってらっしゃいました」
「ふーん……。ん? これは?」
 春日が地面に眼を落した。踏み均された地面に、おそらく田尾のであろう足跡が付いていた。足跡自体は何の変哲も無いのだが、少し妙なのはその足跡の両側に溝が走っていることであった。足跡は玄関から道路に向って続いている。
「手押し台車でも押したような痕だな……なんだろ?」
 春日が首を捻っていると、ふいに引き戸が音を立てて開いた。中から年季の入った作業服を着て、頭を白髪で染めた男が出てきた。
「なんだね? 警察が、まだ用があるのかね?」
 男がジロリと睨む。虚を突かれた二人はまごついた。
「あ、どうも。え、えっと。先輩、あちらが田尾さんです」
「そ、そう。えと、こんにちは。あ……ああそう、あれ、あの薪、すごい量ですね! 荷台に積むだけでも大変じゃないですか?」
「はあ? …………後ろにリフトが付いとるだろう。積むこと自体はそれ程苦労せんよ」
「そうですよね! えと、ところで、積んである薪ですけど、キャンプ場に卸してらっしゃると伺ったんですが、毎日あれだけの量をキャンプ場まで運ぶんですか?」
「違う。三日に一回だ。薪を割るのもこの歳になると結構重労働でな。数日に分けて仕事をしている」
「三日間に分けて? 一番最近、薪を配達したのはいつですか?」
「一昨日だが?」
「そうですか。いつも、薪を割るのは午前、キャンプ場に配達するのは午後のことですか?」
「そうだ」
「今日の分の薪は、もう割り終わって、積んであるわけですよね?」
「そうだが?」
「そうですか。どうもありがとうございました」
「話はそれだけかね?」
「ええ……まあ……はい。今からどこかへお出かけになるんですか?」
「いや……。外の空気を吸いに出ただけだ。失礼する……あんたらもあまり家の前をうろつかんでくれ」
 田尾はもう一度睥睨すると戸をぴしゃりと閉めた。二人は踵を返し道路へと戻った。
「ちょっと先輩、もうちょっとマシな質問とかなかったんですか?」
「え? ああ、ごめん、急だったから慌てちゃった。でもさ、変じゃなかった?」
「何がですか?」
「いやほら、だって―あ、君それ、制服のボタン取れかかってるじゃないか。ほら貸して、僕が付け直してあげよう。こう見えても僕は、裁縫が得意なんだ」
「なんですかその、今出来たような設定は……」
「ほら、早く脱ぎたまえ」
 春日のポケットから小さな箱が出てきた。どうやらそれが裁縫セットらしい。
「え、ええ? い、いいですよ別に。ボタンなんてこんなにいっぱい付いてるんですから、一個くらい無くても」
 春日が伸ばす手を秋山が軽く払った拍子に、春日の手から小箱がこぼれ落ち、地面に当たって音を立てた。
「げ、ごめんなさい!」
 針が散乱し、ボビンが糸を垂らしながら道を転がる。
「……あっ!」
 春日は声を上げると振り返った。そして田尾の家の前まで早足で戻ると、お辞儀をするような仕草をした。どうやら地面を見ているらしい。そしてまた道路まで戻ってきた。
「秋山君、この道路だけど、夜間、車の通りはあるの?」
「いいえ? ボク達がここでこうして話している間に一台も通らなかったように、この辺りは夜もめったに通りませんよ」
「そう。…………わかった、後は田尾さんに訊こう」

※春日はこの事件の犯人を田尾だと考えたようである。田尾はどのような手段をもって、桑野を殺害したのだろうか?

「な、なんだと! ワシが桑野のじいさんを殺しただとっ!?」
 春日にそう言われ、田尾が眼を剥いて訊き返した。
「そうです。桑野さんの家に火を付けたのはあなたです。そして、放火を行った時刻は午後十一時で間違いないでしょう」
「ち、ちょっと待って下さい。その時間、田尾さんは家に居て、友人と電話で会話している最中でしょ?」
 横から秋山が疑問を差し挟んだ。
「そう、友人と会話していた。しかし、家に居たのではない。桑野さんの家の前に居て、その手によって玄関に火を放ったんだ」
「そんな、携帯もコードレス電話も使えないこの状況でどうやって? まさか、何かハイテク装置でも使ったというんですか?」
「いやいや、ローテクもローテク。ただ単純に、電話機のモジュラーケーブルを延長コードを使って延ばしただけだよ」
「え……そ、それだけ?」
「そ、百メートルちょっとの延長コード。でも、それだけ長いと相当な重量になるから片付けるのが大変だ。さっさと撤収しないと警察や消防車に姿を見られてしまう。そこで、田尾さんはケーブルドラムを使ったんだ」
「ケーブルドラム?」
「これをそのまま大きくしたような形だよ」
 春日は指先に摘んだボビンを見せた。
「そのケーブルドラムに延長コードを巻き付け、移動し易いようにハンドルも取り付ける。形をイメージするなら、学校のグラウンドの土を均すために使用される整地ローラーに近い形になる」
「ああ、眼が大火事になる某野球少年がオープニングで引いているアレですか?」
「そう。因みに、歌詞の『想いこんだら♪』を『重いコンダラ♪』だと視聴者が勘違いしてしまい、アレの名称がコンダラで定着してしまったのだけど、正式には整地ローラーまたは圧転ローラーというのだよ」
「勉強になります」
「田尾さんはこのようにして、電話機本体の移動を可能にしたんだ。田尾さん宅の地面に残っていた奇妙な溝はその時に付いたものだったのさ。そして、移動のために使った道路は車がほとんど通らないから見咎められる心配は無い。まず田尾さんは、桑野さん宅から少し離れたところまで移動し、そこから友人に電話を掛けたんだろう。それは勿論アリバイの証人にするため。そして桑野さんは家の中に居て、就寝中。しかも高齢ということで聴力も弱まっている。普通の話声くらいじゃ起こしてしまう心配は無かっただろう。そして、頃合いを見計らって、受話器を片手に更に桑野さんの家へと近付き、玄関の前で火を放った」
「……………………」
「そして、すぐさま道を引き返しつつ、友人が喰い付きそうな餌を用意して外へ誘い出し、火事を発見させる。後でその友人が証言してくれれば、午後十一時十分までのアリバイが確定するというわけさ」
「知らん、そんなのは知らん! た、ただ地べたに溝が付いていたくらいで……」
「田尾さん、確かトラックの積み荷の薪は、三日で満載になるんでしたよね? そしてあなたは、キャンプ場に薪を卸したのは一昨日のことだと言った。まだ二日しか経っていないのになぜ荷台に積まれた薪はいっぱいになっているのでしょう?」 
「…………!」
「あそこに隠してあるのではないですか? ケーブルドラムを……」
「…………」
「最初に、ここで僕等と鉢合わせしたとき、アレを処分するために出掛けるところだったんじゃないんですか? それでも自分は犯人じゃないと言うのであれば、薪を退かして見せて貰って良いですか?」
「……………………」
 田尾は強張っていた肩を落とすと、小さくかぶりを振った。そして、腹に溜まっていた重い塊を吐き出すかのように話始めた。
「…………あの男は墓を建てるから金をよこせと言ってきた。…………死んだ犬のために墓を建てると。……しばらく前、どこからか知らんが、訳の分らん文字ばかりが書かれた紙が届いた。それは破いて棄てた。そしたら何日かして強制執行だとか言ってきおった。数日中に金が払えないようなら山を取り上げる、とな……この山はワシの唯一の財産だ、それを取られたら生きていかれん…………。あの男に……ワシから全てを奪う権利があるのか…………?」
「ならあなたには、桑野さんの命を奪う権利があったと仰るんですか?」
「……………………」
 田尾は眉間に深い皺を刻むとそれを両掌で覆った。秋山が静かに声を掛ける。
「田尾さん。桑野さんは、なにもあなたを苦しめるためにお金を請求したわけではありませんよ。桑野さんにとって家族と呼べるのはあの犬しか居なかったんです。せめて、ねんごろに弔おうとしたんですよ。あの犬、死ぬときとても苦しそうだったから……」
 田尾の肩は小さく震えていた。
「…………」
 春日は開いたままの引き戸から家の中へ入ると、傘立てから傘を一本抜いて戻ってきた。
「……田尾さん。ちょっとお借りしますよ」
「どうしたんです先輩? 雨なんか降って―」
 春日は傘の先で秋山のノドを突いた。それは、空気が弾けるような鋭い一撃だった。しかし、秋山は首を貫かれも、血を吐き出しもしなかった。なんと、更に人間離れした速さで身をかわしたのだった。春日は切っ先を戻すとすぐさま次の攻撃に移った。しかし、秋山は次々と繰り出される春日の刺突を踊るようにかわしてゆく。
「……な、なにをやっとるんだあんたら……」
 田尾は眼の前でおこっている事態にさっぱりついていけない。
 秋山は空中で身を翻すと、トラックの屋根へと降り立った。
「田尾さんの言う通りですよ先輩。あぶないなぁ、何なんですか急に?」
「……秋山君。今君、あの犬、死ぬときとても苦しそうだった、と言ったよね。確か、その犬は農薬を口にして、数分で死んだという話だったはずだ。なのに、その犬の死に際を知っているということは、君はその場に居た、つまり犬に農薬を喰わせたのは君ということだ!」
「な、なんだとっ!」
 田尾の顔が驚愕の色に染まる。
「これは、田尾さんと桑野さんの間でトラブルが起こるように仕組まれていた罠だったんですよ! そうだろ秋山君!? いや……君は一体何者だ!」
「………………。くく、くくくくく!」
 秋山が顔を掌で握り潰した。すると、そこに別の男の顔が現れた。
「くはははは! 流石だ、よくぞ見破った! 私こそは、悪の秘密結社、『FUDATSUKI』のメンバーの一人、裏切りのジャックだ! お楽しみ頂けたかな?」
「本物の秋山君はどこだ!」
「無事さ、とりあえずはな。どうだね。心配かね?」
「僕に事件を解かせて、一体何が目的だ!」
「なに、あなたに興味が有るのさ。その鋭い洞察力で、幾つもの事件を解決してきたのだろう? 今回の事件はやや簡単過ぎたかな?」
「メンバーの一人、と言うからには君のような構成員が他にも居るのかっ!?」
「そうさ。正確な規模まではまだ教えられないがね。くくく……怖いかね? 恐ろしいだろ―」
「一体どれくらい前から秋山君と入れ替わっていた!?」
「ええいっ! 一つくらいはこちらの質問にも答えろっ!」
「だから、目的は一体何だ!」
「だから! あなたに興味が有ると言っているだろうもう! あなたの力を試させて貰ったのだよ!」
 裏切りのジャックが高らかに言い放った。
「…………」
 春日の手が小さく震えている。
「……そんなくだらないことのために犬を殺したのか? それに、人まで死んだんだぞ……?」
「おいおい、桑野を殺したのはあくまでもそこに居る田尾だ。それに、犬一匹の命が一体何だと言うのかね?」
「…………許さない!」
 春日の眼が怒りで燃えあがった。春日が身を低くして突進すると、突然上空に黒塗りのヘリコプターが出現した。
「くはははははっ! 今日はこれまで! さらばだ春日君! また会おう!」
 ヘリから降ろされた縄ばしごに裏切りのジャックが掴まる。春日は舞い上がった砂埃に眼をやられ、たたらを踏んだ。
「くそっ! 待てっ裏切りのジャック! 下りて勝負しろ! そして秋山君を返せ! そして僕達に謝罪しろ! それにアジトの場所も教えろ! 後、潔く自首しろ!」
「欲張りかっ! ふっ、まあいい。秋山を助けたければ来るがいい。場所は追ってメールする!」
 はしごにぶら下がったまま、裏切りのジャックは彼方に飛び去った。
「くそう、悪の秘密結社『FUDATSUKI』め! 待っていてくれ秋山君! 僕が必ず助け出す!」
 春日は熱く決意表明をした。青空には秋山の笑顔が浮かび上がり、エンドクレジットやエンディングテーマが流れるなか―

 春日は目が覚めた。
2012-11-21 17:21:26公開 / 作者:M
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■作者からのメッセージ
もしも、こんな長い文章を最後まで読んで頂けたのなら、ありがとうございました。本当にありがとうございました。感謝の土下座を捧げます。感想、ミスのご指摘がありましたら、どうかよろしくお願い致します。
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