『Eje(c)t -新世界- ■第1話/中編■』作者:無関心猫 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
近未来・日本。ヒキコモリだった少年・クロセが世界を巻き込む巨大な陰謀に立ち向かってから、数ヶ月―――。世界は復興に向けて動き出し、クロセもまた、コーディと共に現実での生活を取り戻そうとしていた。仮想世界『アウターワールド』は安全な運用を確立し、危機は去ったはずだった。――――しかし再び頻発する『アウターホリック』。死に瀕するプレイヤー達。そしてあらたなる病『メビウス』 平穏な生活を乱したくないクロセが彼らの救出を拒否した時、思わぬ危機が、彼に襲いかかる――――!
全角33270文字
容量66540 bytes
原稿用紙約83.18枚





 気まぐれに設置されたマラカイトグリーンの光だけが、のっぺりとした暗闇に覆われた地下壕を照らす、唯一の光源だった。

 四十年以上前、大戦の終結と共に遺棄されたその地下施設は、既に当時の面影を残していない。『なぜここに』、『何をするため』、『誰によって作られた』――――それも定かでない。当時の痕跡が崩れ落ちる程、すべては朽ち果ててしまっている。
 漏れ出た地下水によって、かつては気が狂わんばかりの潔癖の白に覆われていたであろうその空っぽの施設は、腐り果てた死体からこぼれ落ちた血のような赤錆に覆われている。壁面を走っている太いパイプは、かつてここに存在した巨大な施設のはらわたを露わにしているかのよう――所々断線した箇所から、褐色の液体が糸を引きながら滴っている。施設の壁は、あちこちが地下層の動きによって隆起した土に突き破られていた。無残にも破壊された壁の破片が、土くれと混ざり当て原型をとどめていないステンレス鋼の床に、ばらまかれている。割れた床の間から、土に混ざって、白く乾いた五本の細い『遺物』が、這い出そうとしているかのように、その爪先を折り曲げていた。何年も前に、その希望は潰えていたようだが。

 乾いた指の骨を音を立てて踏みつぶす、漆黒の軍靴。

 いくつもの連なった足音が、白い破片を細切れに踏み砕いていく。軍靴の群れは、その遺物を顧みる事もなく、黙々と歩を進めた。
 そうして、暗闇の中に浮かび上がる、死骸のように真っ白な人影の群れ。皆、一様に全身を覆う『電磁波防護服(アクセスレススーツ)』に身を包み、ミラーシェイドのバイザーで顔を覆った彼らは、ガスマスクの下で不気味な吐息を響かせながら、施設の奥へと歩みを進める。
 先頭の男が、片手を上げた。
 一斉に彼らの足が止まる。無機質なバイザーが、天を仰ぎみた。バイザーに反射する、マカライトグリーンの照明の光。その二筋の光が、まるで門番のように、荒れた床から、先の見えない天の暗闇へとそびえ立っている。光に縁取られていたのは、見上げる程に巨大な、赤錆びた鉄門扉だった。
 油圧式のバルブによって固く閉ざされたそれは、まるで巨人の棺桶のようだった。まだらになった錆の色が、ミサイルサイロのような巨大な円形の閉鎖扉を、くすんだ銀色を退廃した色で覆ってしまっている。扉口には、放射能汚染の警告票が、滴を一つ垂らしながら、ぶら下がっていた。
 防護服達の先頭に立っていた一人が、鉄門扉に向かっていった。扉脇にあった『HOPE』と書かれた透明パネルをたたき割ると、パネルの中にあった、青白い光を放つジェルに、分厚いグローブ越しに手を突っ込んだ。無形の何かを握りしめるように、男の腕が蠢く。
 突然、施設全体が激しい衝撃にさらわれた。暗闇に覆われて先の見えない天井から、ばらばらと破片が降り注ぎ、防護服達の頭に降り注ぐ。彼らは動揺して辺りを見渡し、おののきながら、なんとか低い姿勢をとって耐える。その彼らの前で、閉鎖扉の油圧バルブが、悲痛な叫びのごとき金切り音をあげながら、ゆっくりと押し開かれた。バルブ機構の各所から水蒸気が噴き出し、ギロチンを落としたような鋭い轟音が上がる。
 ロックが外れる。
 一メートルはあろうかという程分厚い扉が、締め上げられるような悲鳴を上げながら、緩慢にも動き始める。防護服達が後ずさる前で、長き眠りから目覚めた醜悪な化け物が瞼を開くように、扉は押し開かれた。
 ついに開け放たれた扉の先からは、しかし眩しい程の乳白色の光が溢れていて、中の様子をうかがう事は出来なかった。
 防護服の男達は互いの顔をバイザー越しに見合わせ、互いの不用意な動きを制した。だがふと、一人が顔をあげて、鉄門扉へとバイザーを向けた。音がしたのだ。ゆっくりと、一定の間隔で響く、音。

 光の中から、小柄な影の輪郭が、浮かび上がってきていた。次第に近づくそれは、無遠慮に開かれた扉の奥からの光に照らされる、一人の男の姿に変わり、ぴたりと動きを止めた。
「お待ちしておりました。主席研究員の阿久津と申します」
 小悪魔じみた小柄な体を折り曲げて、整髪剤でべったりと整えられた頭を、深々と下げた。じっと視線を注ぐ防護服姿の男達に、そのつり上がった目を向けると、口元に、微かに笑みを浮かべてみせる。
「ようこそいらっしゃいました、V-tecLife社の皆様」



 扉の外とは別世界のようだった。小悪魔のような男――阿久津が案内する扉の奥には、清潔な白に支配され、白色灯の光りに煌々と照らされる、研究施設が広がっていた。バイザー越しの目にも眩しい程の、"白"。
 近代的な造りの通路を進むと、いくつかの研究室と繋がっているらしい、エントランスホールにたどり着いた。透明のスライドドアによって隔離された部屋が、エントランスホールの左右に立ち並んでいる。ドアの向こうでは、白衣姿の男達が、部屋に敷き詰められた機械の群れに目を凝らし、何やらとささやき合いながら、コンソールをせわしなく叩いている。
「ここ、『ヒュプノス』では、進められている研究の特性上、外部からのアクセスを完全に遮断しております。そのために皆様方におきましては、大変なご負担をおかけし、誠に申し訳ございません」
 ホールをまっすぐに歩みを進める、防護服姿の一群の先頭に立ち、小悪魔のような男――阿久津はそう丁寧にお詫びを口にする。防護服達は誰一人それに返事をしない。気密扉の向こうにバイザー越しの鋭い視線を向けながら、さらに奥へと先を急ぐ。ホールを抜け、狭くなった通路の先に、再び閉鎖扉が現れた。スライド式で、電子制御のパネルが脇で光を放っている。
 阿久津は歩調をゆるめると、撫でつけられた髪を手で触れながら
「今日より任期終了まで外に出ない方は、どうぞ、その重い防護服をお脱ぎください。それ以外の方、こちらへ」
 防護服達の中から、数名が顔を見合わせて立ち止まった。手にしていた鉛のスーツケースをリノリウムの床に置く。重苦しい音が、ホールに響き渡った。彼らは胸元の気密バルブを開くと、そこから重いスーツを脱ぎ捨てた。床に広がった、鉛の練り込まれた防護服の代わりに現れたのは、無骨な装備に身を包んだ、完全武装した兵士達だった。
 
UCP迷彩(グレーパターン)のカーゴパンツに、くすんだ色のシャツや軍用セーターを着込み、その上から、弾倉(ボールマガジン)手榴弾(グレネード)戦術武器(タクティカルデバイス)に、拳銃(カバーウェポン)が詰まったパウチの縫い付けられたサスペンダーを羽織り、その下には、十六ポンドものプレートを敷き詰めたボディアーマーを着込んでいた。光避けのサングラスで目線を隠した彼らの姿は、鋭利に研いだ刃物のように、暴力的で、人間的な感情の一切が排除されて見えた。
 通路脇にあった部屋から、驚いた様子の研究員達が、スライドドア越しに、兵士達とその武装へ目を凝らしていた。その顔に一瞥くれながら、兵士達は鉛のケースを押し開き、そこに納められていた高性能サブマシンガンを取り出す。息を呑む研究員達の前で、大きな音を立てて、
弾倉(マガジン)薬室(チャンバー)にたたき込まれる。


「ギリシャ神話における夢を司る神――ヒュプノスの異母兄弟が、あの悪名高き『死神』、タナトスであるとご存じでしたか?」
「"空っぽの小包(エンプティパッケージ)"を確認させろ」
 数名を残し、扉の奥へ進んだ防護服の一団は、先頭に立つ阿久津の案内で、最奥部にある円形状の中規模ドームに向かった。一帯は薄暗く、光源は部屋の中央にぽっかりと空いた水槽(プール)から漏れる薄青白い照明だけだった。プールを囲んだ暗闇の中で、手術着に身を包んだ医師達が、せわしなく蠢き、部屋の外壁に設置されたディスプレイに目を凝らし、コンパネを叩いている。。
 小柄な阿久津は、整髪剤の匂いをぷんぷんさせながら、ドームの中央、青白く光るプールへゆっくりと歩み寄った。防護服達に振り返り、小さな体で両手を広げる。
「運び屋は小包の中身には興味がありませんか。では、ご依頼の品をご紹介しましょう」
 一歩身を引いた彼は、不敵な笑みを浮かべながら、至高のの芸術品をお披露目するように、青白く発行するプールの底へと手のひらを向けた。
「ここにいる彼女こそが世紀の『幸せ者』――――そしてあなた方が空っぽの小包(エンプティパッケージ)と呼ぶ、限界のない(リミットレス)外側中毒者(アウターホリッカー)です」
 防護服の男達のバイザーが、プールの底で揺らめく青白い光に照らし出された。彼らがプールをのぞき込むと、そこにいたのは、半裸の女だった。歳は二十歳後半くらいだろうか。青白く、痩せて骨張った体つき。長く伸びきった黒髪が、水の中に舞っている。彼女の体にぴったりとはりついた白いラバースーツが、まるで息をするように、静かにエメラルドブルーの光を明滅させていた。
「彼女はもはや、死んでいるも同然です」
 興味深げに、表情のないバイザーを女に差し向ける防護服達を後ろから眺め、阿久津は笑みを崩さずそう言った。
「彼女は五年以上前から癌治療を続けていた患者です。当初、小さな乳癌だったはずのそれは、リンパ節を介して全身に転移。病院に運び込まれた段階でステージ?、手術をして内臓の四〇%切除しても、転移は押さえきれず、あっという間にステージ?の末期患者に……」
 阿久津は詐欺師のような太い指を、プールに沈む女の体に向ける。彼女の首筋から、醜い手術痕が、スーツの奥に伸びていた。いくつもある事から、スーツの下がどんな惨状なのかは、誰にでもすぐに想像できた。
「例えばその肩口の傷。パンコーストと呼ばれる肩の腫瘍は神経を圧迫して上半身は激痛にまみれ、夜も眠れません。粘膜の剥離を押さえきれない程進行した子宮経癌は、出血を繰り返し、血尿血便がとまらない状態、効果も疑わしい抗がん剤や放射線治療で体はボロボロ、頼みの綱のワクチンは衰弱した彼女には投与できずじまい。連日腹水が溜まって、三日に一回は腹に針を刺す生活、精神の面では疼痛による抑鬱、衰弱によるせん妄、自傷行為――――ここに来るまでの彼女は、地獄の苦しみにのたうち回っていたんですよ、ここに来るまでは」
 阿久津は小柄な体を折り曲げ、プールに浮かぶ彼女の顔に太い指をやった。防護服の男達が一瞬バイザー越しで視線を交わした。女の歳は二十代後半程に見え、血色は悪く、骨張ってはいたが、阿久津が言うような苦痛にもがき苦しんでいるようには見えない。
「幸せそうな寝顔でしょう? 肉体に及ぼされる苦痛などまるで感じさせない……彼女は今、全ての望みが満たされたプールの中を、夢見心地に漂っているのです。そこには苦痛もなく、死への恐怖もない。ただ、満たされた生活だけが、彼女を包み込んでいる――――」
 阿久津がさっと立ち上がり、その手をドームの天井に差し向けた。すると、音声を圧縮したようなへしゃげた電子音と共に、すり切れたフィルムのような、断片的な映像が、宙でめまぐるしく蠢いた。
 穏やかな乳白色に染まったリビングルーム――――暖かな陽光が、春風に揺れるカーテンの向こうから注ぐ、優しい光りに包まれた一室。そこに、はつらつとしたエプロン姿の女が、慈愛に満ちた笑顔を浮かべながら、クッキーを載せたプレートを手に、リビングテーブルではしゃぐ子供に運んできた。子供は後頭部しか映っていない。女はその顔を、のぞき込むようにして、また微笑んだ。その顔は、プールに沈む女の顔と重なる。だが、映像の中の彼女は、病など感じさせない程、ふっくらとした頬をに楽しげなえくぼを刻んでいる。
「……これは『夢』か?」
 防護服の男が一人、マスク越しのくぐもった声で尋ねると、阿久津はナイフで切り裂いたような笑みを口元に浮かべて
実演治療(ロールプレイ)と呼んでいただきたい。彼女は肉体の持たらず苦痛をこの……『プレイ』によって見事に忘却している。かつてモルヒネなどの効果の薄い緩和薬によってしか得られなかった痛みのない終末医療が、この彼女には完璧に施されているのです」
 くっく、と喉の奥で、阿久津が笑いを殺す。
「あなた方が生み出した副産物は素晴らしい――――例え本来の用途で、"あのような事故"をおこしたとしても」
 やめろ。防護服の男が、くぐもった声で阿久津を制した。腕を組んで、しばし映像を見上げてから、
「確かに完璧な被検体だ……我が社の研究目的に転用可能だろう。だが、この実験が外部に漏れるのは危険だ。世界はまだ、"全世界同時アウターホリック危機"のショックから立ち直れていない」
 そうくぐもった声を漏らすと、その横に立っていた男も一歩歩み出て
「民衆は愚かだ。犠牲にばかり目を凝らし、そこから生まれる革命的な利益には目もくれない。こんな危険な例外(イレギュラー)がいると知れたら、我々も政府もただでは済まない。電網監査委員会に察知されれば、施設だけでなく我々ごと『なかったこと』にされる」
「もちろん機密処理は万全です。その為に、あなた方には電磁波防護服(アクセスレススーツ)も着ていただいているのです。この施設との電波的な交信は一切不可能になっています」
 阿久津は宙に浮かぶ幸せそうな母と子――相変わらず子供の顔は見えない――の姿に眼を細め、「息子との幸せな時間を壊したくはありませんからね」と、口角をもちあげる。
「血縁者がいるのか? 問題があるぞ」
 防護服の男が咎めるように言うと、阿久津は肩をすくめ
「戸籍上では存在しません。苦痛がもたらした妄想ですよ……若くして子宮経癌をわずらったようですしね」
 さて、と彼は防護服の男達に向き直り
「見学はここまでにしましょう。上の階で具体的な協議と引き渡しについて説明を」
 彼は手をかざして辺りのスタッフ達に「全員一度外に出ろ」と声をかける。防護服の男達を引き連れて、「メンテナンス以外ではここは完全に封鎖されるのです、機密保持の一環で――――」と掠れた声で説明を続けながら、両開きの銀色の扉の奥へ消えていった。






 あとには、暗闇の中で薄暗く光る、幸せそうな母と子の戯れる姿が、掠れた映像と音声に乗せて、宙を漂っていた。
『…………て…………ぶ…………丈夫……ね…………』
 奇妙に圧縮された、不鮮明な音声が、誰もいないドームの中に微かなささやきとなって響き渡る。
『丈夫か……ね…………じ。大丈…………か……じ………わた……たち…………ない、から』
 映像が一際大きくぶれる。灰色の砂嵐がザリザリと音を立て、母と子の姿は細切れのフィルムのように唐突に位置や場所、表情が変わる。顔の見えない息子を抱きすくめた母親の姿で、映像は一瞬停止した。それからゆっくりと、映像は切れ切れに替わり、彼女の動きがコマ送りに、映し出される。持ち上がる頭。ほほえみが次第に消えていく表情。深く刻まれた皺やクマが陰影を濃く落とし、最後に見開かれた目が、ドームの暗闇いっぱいに広がった。
『わたしたち、だけ、じゃない、から』
 映像は唐突に途切れ、一瞬の残像を残して、辺りは暗闇と沈黙に覆い尽くされた。まるで、何事もなかったかのように。ただ、女が顔を出して浮かぶプールの照明が、音もなく静かな青白い光りを点した。浮いていた上半身は、死体のように弛緩していたが、その肉のそげた骨張った顔には、いつの間にか、壮絶な笑みが浮かんでいる。

『ひとりじゃ、ない』

 見開かれた、光のない瞳が、らんらんと暗い輝きを放ち

 水の底へと、沈んでいった――――
 
 

 

 









 
Eje(c)t -新世界(シンギュラリティ)-











 ■



  電気ショックでも加えられたような衝撃

 一瞬世界が白濁し、全身が痺れ上がった。横殴りにされたような衝撃は当たり前の日常的な思考を全部吹き飛ばしてしまったが、硬直しきっていた腕を折り曲げ、小刻みに震える手を眼前にかざして、その震えが収まる様子をじっと見つめていると、意識は再びはっきりし、視界も色を帯びてきた。周囲の輪郭が、はっきりとする。視界に広がっているのは、古い木目が目立つ、自宅の天井。節くれ立った梁が、うねりながら、塗られた頃の光沢を欠くことなく輝かせていた。清涼な朝の空気、肺一杯に吸い込むと、冬の始まりを告げる冷たい空気が胸に広がった。一瞬息を止めてそれを味わってから、ゆっくりと息を解放する。目をつむって息を吸い込むと、微かに甘い、熟れたばかりの果実のような香りが、鼻腔の奥に広がった。良い匂いだ。そう思う。


 外側世界と世界の命運、そして、彼女を巡って駆け抜けた、嵐のような日々。
 あれから、はや半年。
 平穏な日常には帰ってきたものの、あの苛烈な激情に駆られた日々は、まだ時折、こうして今の自分を追いかけてくる。忘れようとしても、忘れられないだろう。あの日々が残したものは、それまで十六年間生きてきた自分の人生全てを縫い合わせても足りないような、強烈で重苦しいものだったのだ。人生全てを注ぎ込んだのだから、消しようがない。

 あの事件が世界に残した傷跡も、いまだ深く残ったままだ。突然二十四億人が外側中毒(アウターホリック)を発症したあの日、混乱の最中で無数の事件や事故が引き起こされ、多くの人が傷つき、死んでいった。推定では被害総額は天文学的な数字に登り、死亡者は一万人を越えるのではないかと言われている。意識混濁の原因は、いまだに不明という事になっていて、誰もが行き場のない怒りを抱えながら、それでも苦痛に耐えて、復興に取り組もうとしている。

 もっとも、悪い事ばかりじゃない。不謹慎かも知れないが、自分にとっては、忘れたくない記憶も出来た。彼女を巡る記憶は、灰色だったそれまでの人生に華やかな色を注いでくれた。ちょっと自分の趣味には合わない、パステルな色使いだけれど――世界が一変したのは間違いない。
 衰弱しきった彼女の体と脳の回復には、多くの時間がかかるだろう。だが、生きている。意識があり、言葉を交わし、心を通わす事が出来る。それを護れただけでも、あの苛烈な日々を生き抜いた意味はあったと、自分は――――黒瀬完爾は、そう思っていた。



 額に浮かんでいた汗の粒を、手のひらでぬぐう。清涼だが冷たい空気が顔を撫ぜ、思わず身震いした。昨夜は遅くに帰ってきてから、それから……どうしたんだっけ? 肺の中の冷たい空気を、ため息と一緒に吐き出した。
 最近、これまで失ってきた人生を取り戻そうと、躍起になりすぎている気がする。こうして気絶するように眠ってしまい、翌朝、前日の記憶を取り戻すのに苦労する日が続いている。無茶しすぎてるな、と思ったが、ふと、脳裏に彼女の不器用な笑顔が浮かんだ。自然と、口元に笑みがにじんだ。あの仏頂面が病院から帰ってくるまでに、居場所をつくっておいてやりたかった。なにせ、何十年も時が止まっていたのだから。その針を進める日が来たら、滞りなく、スムーズに人生の続きが刻めるよう――――そして、その横に自分が立って、手を取って歩いてあげられるよう、出来限りの準備をしておきたかった。
 さぁ、今日ももう一踏ん張り、頑張るか――――
「怖い夢でも見たんですか? クロセ」
 閉じた瞳の向こうから、凛とした、抑揚のない女の声がした。
 聞き慣れた、どこか安心する声音だった。
 まだ少しまどろんでいる意識の中で、何の気無しに答える。
「少し……子供の頃の夢、みたいな。なんか、懐かしいけど、怖い夢だった」
 そう。と、短いけれど、いたわるような同意の声が聞けた。ささくれ立っていた神経が、それで癒され、ゆっくりと落ち着いていくのがわかった。額に、ひんやりとした手のひらが置かれる感触がした。それがまた、心を穏やかにする。頭を支える柔らかい感触が、このまま寝入ってしまいそうな程、心地よい。もういっそ、このままもう一度寝てしまうか――――
「…………!?」
 そこで、ようやく気がついた。
「――――んっ? んん!?」
 はっとして目を開けるとそこにあったのは、自分を大きな瞳でじっと見下ろす色白で黒髪の少女の、ふっくらとしてどこか幼さの残る顔。微かに桜色に色づいた唇が、近づいてくる。彼女のエメラルドグリーンの瞳が、じっとこちらを見つめ、降り注ぐ……
「幸せそうな、寝顔でしたよ?」
 ぎょっとした。
 近づいてくるその顔に、思わず平手を押しつけた。「ふべっ」と変な声がしたが、構うものか、体を起こし、転がして、素っ転びそうになりながら立ち上がった。振り返り見ると、着物姿の少女――――コーディが、ほっぺたを押さえながら、こちらを恨みがましい目で見上げるところだった。正座が崩れ、着物の裾から、生っ白い細身の脚が、太ももまで露わになっている。
「お、お、お、」
 お前、という単語が出てこない。どこかで冷静な自分がつぶやいた。あぁ、なんてウブな奴なんだお前って奴は…………何もそこまで驚く事はない。彼女の膝枕ですやすや眠っていただけだ。無防備に、よだれでも垂らしていたかもな? まぁとにかく、そんな事は大したことじゃないさ、世の『恋人同士なら』当たり前のようにしている事さ。
「ひどい」
 よよよ……とまでは、彼女の無表情顔では表現できなかったが、平坦な声ながら、涙のにじむ声で、コーディは悔しそうにつぶやいた。
「お、お、おま、おま、」
 いい加減、落ち着けよ、な? 冷静な自分が、苦笑混じりに肩を叩く。その幻影を振り払いながら、クロセは一つ咳払いし
「お前、なんで――――なんで俺の家にいる!? 入院してたはずだろ!」
 クロセは辺りを見渡しながら叫んだ。畳張りの和室、日本庭園の広がる縁側に続く障子は開かれ、冬晴れの空が、針葉樹のむこうで穏やかな陽光に照らされている。長く使っていない埃を被ったテレフィルム(TF)が部屋の隅に置かれ、一卓の長机が部屋の中央に鎮座している――――間違いない。ここは祖父の屋敷、自分が住む家だ。
「だから、昨日メッセージ(IM)を送ったじゃないですか。見てないんですか?」
 責めるような口調でそう言うコーディに、クロセは「見てなどいない」とちょっとへんな口調で返した。コーディは形の良い眉を不思議そうに傾けてから、薄い唇を尖らせて
「だから、クロセが学校に通って一ヶ月だから、様子を見に行って"あげます"って、そう送ったんですよ」


 居間に飾ってあった、亡くなった祖母が嫁入り道具に持ってきたという飾り鏡をのぞき込むと、相変わらず覇気のない、目つきの悪い愛想のない野良猫みたいな顔がこちらをのぞき返してきていた。疲れが残って、うっすらクマができている。長くなった肩口までの髪が、ぼさぼさになってあちこち跳ねまわっていた。
 にゅ、と脊の向こうからコーディの薄目がのぞき込み
「髪、また切ってないんですか」
 これまたジトっとした声音。
 クロセは目をそらしながら、髪をばさばさと誤魔化すように散らし
「いや、だから……すぐ切るよ、すぐ」
「すぐって、いつです」
「……近いうちって事だよ」
「"コーディ"ネイト、してあげましょうか」
 指でちょきちょきと切る真似をする彼女に、クロセはぎょっとしてその場を離れた。顔を洗いに洗面所に向かい、その後にコーディがととと、とついて回る。彼女の着物の裾がふわふわ揺れる。
「おまえ、その着物どうしたんだよ。入院してた時、そんなのなかっただろ」
 彼女が何か小言を言う気配を察して、クロセは反撃とばかりに指をさしてやった。臙脂色の着物に、蝶のあしらいを散らした光沢のある絹の帯を締めた彼女は、お団子にした髪を彩る薄桃色の姫小菊のかんざしを見せるように、しゃなり、とシナをを作って見せた。無表情に。
「パパが用意してくれました」
「パパって…………天田監査官かよ」
 かつて、麻戸と呼んでいた老人。彼がコーディの本当の父親だと知ったのは、まだ初夏にも至らない頃だったと思う。
 複雑な事情で、肉体の年齢がとどこおったコーティは、見た目にはまだ十八歳の女の子だが、天田はすでに七十を目前に控えた老齢といってもいい歳である。未だに二人が親子であるという事実が、クロセには飲み込めていない。
「時々お見舞いに来てくれるんですが、話す事がないので黙っていたら、『必要なものはないか』っていうので――」
「……お前、なに甘やかされてんだよ。あの爺さん、なん十年も放りっぱなしだったから、お前に罪悪感抱えてんだよ。欲しい物なんて並べていったら、右から左まで片っ端から買っていっちまうぞ」
 小さく毒づくように言ってから、洗った顔をぬぐって鏡をのぞき込むと、コーディはちょっと唇をとがらせ、舌をぺろっと出している所だった。
「(こいつ、わかっててやってんな……)」
「どうですか?」
 彼女はこちらの視線に気づくと、そっと横目に尋ねた。
「どうって」
 クロセは批難気に目を細めてそう言った。
 よっぽど上機嫌だったのだろう。彼女はぴょんぴょんと跳ねるように回ると、着物をふわふわ揺らして見せた。それから小首をかしげ
「どうです?」
「…………言わない」
 なんとなしに、心躍ったのが悔しかった。タオルを洗濯乾燥機に投げ込んでその場を後にすると、ぶぅぶぅと平坦な声で文句をたれながら、コーディがその後に続く。


「それで、どうなんですか」
 居間について、いよいよやる事もなくなって、追い詰められたクロセは、彼女の無表情だがきらきらと見開かれた目から悔しそうに目をそらし続けていた。卓を挟んで、じっと彼女は自分の言葉を待っている。大きな目。かつてはエメラルドグリーンに輝いてきた綺麗な瞳は、居今は透明感のある灰色に色味を変えている。それでも、そのきらきらした期待の輝きには、耐えられそうもない。沈黙に堪えきれなくなって、つぶやいた。
「……似合ってる、けどさ」
「学校の話です」
 えっと思わず視線をあげると、コーディはやっぱり表情を変えていなかったが、瞳の輝きがいたずらっぽい色に変わっていた。あぁ、こういう目だ。そう思った。彼女はこういう目をする時が、一番活き活きとしているのだ。数ヶ月前の壮大な――『戦い』を共にした時、疑わしくも、頼もしかった彼女の姿を思い出す。
 してやられた、と頭を掻きながら虚空をにらむ。
「……うまくいってるよ」
 ぼそぼそとそうつぶやくと、彼女からの返事はなかった。見ると、横目にこめかみから垂らした髪の間からのぞき込むように、彼女は細めた目で自分を見つめていた。
「な、なんだよ」
「――――別に」
 しばらくそうして見つめ合っていた。彼女の疑いの目がチクチクと突き刺さり、どうにも動きづらい。正直な所、疑われるべき由縁はなきにしもあらず、だった。だが、それを馬鹿正直に口にする程、自分はアホではない。
 なかなか体調が安定せず、検査入院を繰り返すコーディより一足先に、クロセは学校に通い始めていた。以前のように、量子ネットの通信教育を続けても良かったが、コーディは昼の世界(リアル)の学校に通いたがっていて、それならとクロセも転入届をだしたのだ。もっとも、『通学』、なんて中学校一年生以来の経験で、当時はイジメと大喧嘩、それに教師からの白い目という嫌な記憶しかない。学校なんて、大嫌いな"昼の世界"の代名詞みたいな場所だった。それでも一緒の学校に通う事を決めたのは、彼女を一人にする事が不安だったからだ。彼女もまた、かつては現実を拒否し、外側世界(アウターワールド)に閉じこもった過去がある。現実と向き合うという点では、彼女はクロセ以上に脆いかもしれないのだ。せめて近くにいて、彼女の心の変化に気づいてやりたかった。
 それに、一緒に学校に通うなんてことができたら、どんなにいいだろう、と、柄にもなく想像して、嬉しくなってしまった、とうのも……まぁ……本音の所を言うと…………ある。
 だが、彼女の復学には時間が必要だった。それまで待つと言ったのだが、コーディは頑として「先に通って」と言って譲らなかった。きっと、足かせにはなりたくなかったのだと思う。逆の立場ったら、自分だってそうしたはずだ。だから素直に、ほんの少しの間だろうからと、先に通い始めたのだ。彼女が安心して通えるよう、通学路を覚え、時間割を把握して、勉強の調子を掴み、友達を作る機会も用意してやりたいと思っていた。
「半年、かかるって言ってました」
 ぽつりと彼女はつぶやいた。
 物思いにふけっていたクロセは、その『長さ』に思わずポカンとしてしまった。「あぁ……そう」なるべく低い声音にならないように、気にもしてないように言ってみたが、ひっくり返ったコップの水に慌てて盆を差し出したような、妙な違和感が残った。
 復学に、半年。
「学年、私の方が一つ下になっちゃいますね」
 それを聞いて、クロセの肩も、僅かばかりに、落ちてしまった。同じクラスで、席を並べて学校に通う。ささいな期待をこめた空想だったが、それが果たされることはなくなった。本当は、彼女が現実世界(リアル)で頑張る横に立ち、一緒に歩んでいけたら、それで良いと思っていた。けれど、やはり期待していたのだ。彼女が側にいてくれるだけで感じられる、幸せな温もりが、いつも感じられたらな、と。
 しばらく、沈黙が続いた。
「…………? お、おい」
 それから彼女はすっくと立ち上がると、すたすたとすぐ横に来て、じっとこちらを見下ろしてきた。何か一大決心したような目の輝かせ方をすると、一瞬危険を感じ取ったクロセが逃げ出せないくらいの速さで
 とすん
 と、正座して、肩を預けてきた。
 肩口に触れる彼女の温もりに、正直、どきまぎする。そういえば、こうして彼女の『本当の体』に触れたのは、今日が初めて何じゃないだろうか。これまでは、どこかお互い遠慮しているような、むずがゆいくらいの距離感があった。あれだけ外側世界(アウターワールド)で触れあい、からかい合ったりもしたというのに、現実世界では、偽りなく触れあう事に、どこか気恥ずかしさを感じていた。だから、初めてだった。こんなに近くで、お互いを感じるのは。
 気づくと、彼女の弱々しい鼓動が、体温を通じて、自分の中に染みいってきていた。
「あわてなくて、いいから」
 緊張で思わず掠れる声が、喉の奥から漏れた。情けないが、感情は抑えきれない。
「ゆっくり、俺たちのペースで、行こう。こうして、一緒に生きてるってだけで、俺はすごく……なんていうか、ほんとうに…………良いと、思うから」
 最後は恐ろしく小さな声だった。何を言ってるんだ、お前は。冷静な自分が冷め切った目で自分を見下ろしている。本当だよ……頭を抱えたくなる……何を言ってんだ、俺は……
「……私の方が、お姉さんのはずなんですけど」
 小さいけれど、いつもよりずっと抑揚のある声で、彼女が何事がつぶやいた。え? と、思わず聞き返すと、彼女はおずおずと顔をあげた。ほんの少し赤みのさす、ふっくらとした頬。大きな瞳が、濡れたように光りをたたえている。微かに震えが見て取れた。けれど、瞳に添えられた"想い"は、少しも揺るがない。こちらがひるんでしまう程、豊かな感情をたたえている。
 自分は人の目を見るのが苦手で、にらみ付ける時くらいしか、相手の目を見つめる事なんてないのに、彼女ときたら、何か言いたい事があると、いつもこのまっすぐな目で、じっとこちらを見つめてくる。以前は機械じみていると思ったこの仕草も、こうして現実を共にして見ると、彼女の抱えている膨大な想いが、文字通り"目一杯"詰まって、息が詰まるくらい濃密な彼女の香りを感じる。彼女の瞳は、偽りのない剥き出しの感情だった。こうしてじっと、相手の目に語りかけ、相手の想いに触れ、自分の想いを、感じて欲しいと、焼けるような感情ををぶつけているのだ。
 不意に、彼女は瞳に、瞼をおろした。
 もうこれ以上、感情を伝える必要がないと思ったのかも知れない。実際、もう心臓が破裂しそうなくらい、彼女の『想い』はクロセの胸に注ぎ込まれて、痛いくらいだった。今度はそれを返せというのだろうか。彼女はその薄い桜色の唇を、つんと突き出して、そのまま静かに動きを止めた。あぁ、とかっと熱くなる体を感じて、額の汗を思った。ついに来てしまった。いつかしなくてはいけないと思っていた物が、ついに――――
 彼女が待っている。その唇に、意を決してかたむけた顔を寄せる。触れあってもいないのに、彼女の熱くなった頬の温もりが、伝わってくる。濃密な、彼女の香りがする。鼻腔に触れる、ほのかに色づいた桜の香り。そして、焼け焦げた肉の、突き刺すような臭い――――
「………………コーディ」
 彼女の相貌が、眠たげに、鈍く開かれた。なんで今呼ぶの? そう批難したげな彼女に、愕然としてつぶやく。
「臭い」
「え?」
 彼女の形の良い眉根が、ぎゅっと寄せられる。クロセはそれを見ず、鼻をひくつかせながら明後日の方を向き
「……焦げ臭い!」
 目をぱちぱちさせるコーディに、クロセは愕然として尋ねた。
「おまえ、まさか『料理』したんじゃないだろうな……!?」
 しばし、彼女はきょとんとしていた。
 それから彼女はすっくと立ち上がると、振り返りもせずにすたすたと台所へと消えていった。それから、壁の向こうから「ぁぁぁぁ…………」という奇妙な悲鳴が聞こえてきて、クロセは慌てて台所に駆け込み、その惨状に頭を抱え込むのだった。
 時計は午前八時半。授業開始まで、残り三十分。







「いつまで頭抱えてるんだ、黒瀬。もう授業終わったぞ」
 教師の声で、まどろんでいた意識がはっと引き戻された。慌てて体を起こすと、既にチャイムは鳴った後で、自分以外の生徒は既に起立して、自分を迷惑そうに見下ろしていた。
「授業、つまんなかったか?」
 気の弱そうな担任が、気遣うようにそう尋ねた。そう思われもするだろう、一時間目も半ばを過ぎた辺りにふらふらと教室に入ってきて、席に着いた途端、頭を抱えて眠り込んでしまう生徒がいれば。
 『朝から焼け焦げたオーブンを掃除していて遅れたんです! 鼻の奥に焦げ付いた臭いがこびりついて頭が痛かったんです』などという見苦しい言い訳をするチャンスもなかった。
「いや、あの」
「キミは高卒単位を取得しているからね、既に勉強した所をもう一度やるのは億劫だとは思う。けれど、キミのレベルに合わせるわけにはいかないんだ。いびきはもう少し、控えめに」
 それでは、と教師が教卓を降りると、後ろの電子ディスプレイに映し出されていたグラフやイラスト、計算式が一瞬で消えた。『次の授業は三十分後です』とのアナウンスが表示され、政府広報や地元商店のやすっぽいCMが流れ始め、生徒達が気だるげに開放感を口にする。
 やってしまった。
 ささいな勘違いだが、あの教師が自分の態度を嫌みっぽくとらえていないと良いと思う。確かに授業は退屈だが、それで別に自分が賢いなどと鼻にかけるつもりはなかったし、これ見よがしに居眠りするつもりもなかった。なのに……なにをやってるのか。もっとも、今となってはもう後の祭だ。立ち尽くしていたクロセは、気まずそうに辺りを見渡してから、ため息混じりに椅子をたぐり寄せた。
「死ねよ」
 途端、椅子の脚が蹴り飛ばされ、がくりと揺れた。
 振り返ると、人をしたから睨めつけるような、意地の悪そうな相貌の、面長で色黒な小男が、一瞬ニヤつきながら脇を通り過ぎる所だった。数名の取り巻きが、こちらを振り返りつつクスクス笑ってるのが見えた。逃げるように、足早に去っていく。
 いつもの事だった。いつもの事だったが、やはり腹の虫が暴れ出しそうになるのを感じた。クラスの王様のような顔をして、いつも取り巻きを連れて突っかかってくる、小西だった。小柄で色黒の体に面長の顔は、外国のなんとかという意地の悪い妖精を連想する。あの下卑た甲高い笑い声が心底鼻に付く。こちらが本気で怒らない、ぎりぎりの線を狙って、こういう小さな嫌がらせをして、あざ笑うのだ。反論できないのを知っていて、向こうは勝ち誇って去っていく。いつもならぐっと堪えるのだが、とにかく今日という今日は腹の虫の居所が悪かった。コーディと学年が離れてしまう事に、自分が思ってる以上にいら立っていたのかも知れない。いっそ鼻っぱし一つでも折ってやろうとのしのし歩き出す。
「カンジ!」
 途端、眼前に細身の体が滑り込んできた。
 着込んだ男子のブレザーが、華奢な体つきのせいで少しだぼついていて、進路をふさいだその頼りなげな腕が、クロセの両肩を押さえつける。
 二重の切れ長の眼、その下には泣きホクロが一つ。フードパーカの陰から黒髪がのぞき、ふっくらとした唇が笑みを浮かべている。形の良い鼻先をつんとこちらへ押しやって、無理矢理作ったような低い声音で、そいつは言った。
「今日は時間がそんなにないんだ。昨日の約束に付き合ってもらうよ」
「ユー」
 自分を見上げて、いさめるような笑顔を浮かべているその美少年の肩を、クロセは押しのけようと掴んだ。
「どけよ」
「いいから、さぁ行こうぜ」
 彼は華奢で色白の手で逆クロセ手を掴み返すと、その美少年――『ユー』は、強引にクロセを引っ張って、教室の外に消えていった。
「……なに、あいつら」
 そんな二人を、小西はじっと見つめていて、その傍らで取り巻きの女が、吐き捨てるようにつぶやいた。小西は唇に犬歯を立てると、ちっと大きな舌打ちをして、扉に背を向けた。



「あのバカ小西が突っかかるのも、無理ないよ」
 本格的な冬がはじまろうとしているこの時期、屋上に来る生徒は少ない。ユーはスティックパックをもぞもぞと咀嚼しながら、灰色の空をバックに、フェンスに脊を投げやった。羽織っただけの紺のブレザーが寒風にふかれて、たなびく。細身の上半身を覆うシャツが、ばたばたと彼の胸元を揺らした。
 そんな彼を前にして、クロセは顔を見ようともせず、自分の制服に鼻をふんふんとひくつかせていた。それをあきれ顔でながめながら、
「ただでさえ睨まれてるんだからさ、ちょっとは控えたらどうなの? 僕たちのクラスは学業選抜クラスなんだからさ、勉強できるってプライド持ってる奴ばっかなんだよ? そこであんな態度とったら、目の敵にされるに決まってる。カンジ、君ねぇ、上手くやっていく気持ち、あるの?」
「やめろよ説教なんて」
 憮然として、クロセはそう言った。わかりきった事で口うるさく言われるのは、昔から苦手なのだ。あの仏頂面だった頃の彼女を思い出して、辟易してしまう。
 「それよりさ」と、クロセは制服の裾をユーに向け
「変な臭いしないか?」
 変な臭い? ユーはいぶかしげに鼻の頭に皺を寄せると、フードの陰から形の良いそれを突き出し、おそるおそるクロセの差し出した裾口に寄せた。ふんふんと嗅ぐと、ふっくらとしていた唇がへの字に歪んで
「なに? この……焼け焦げた生ゴミみたいな臭い。くさいっ」
 最後の台詞は鼻をつまんでいたのでちょっとお間抜けな響きだった。やっぱりか、とクロセは小さく毒づく。鼻の奥にやたらと臭いがこびりついていると思ったが、制服にも臭いがついていたらしい。どうりで臭いが消えないわけだ。
「さては朝から機嫌が悪いのはそのせいだな? あんまり辛気くさいから、ゴミ収集車に放り込まれたんだろ」
 ユーをじろりと睨むと、クロセはふんと鼻を鳴らして「そうだった気もするよ」と語気荒く嘯いた。この臭いの正体が、一人の女の子が作り出した食べ物であると言っても彼は信じまい。ユーはそれにおかしそうにくっくと喉の奥で笑った。低い声が出ないので、彼はいつもこういう笑い方だった。
「憎まれ口をたたけば叩く程――カンジ、君はクラスで浮いていくよ? 僕は君の不遜な態度が嫌いじゃないけど、クラスの皆は違う。わかってる?」
 …………わかってるよ。クロセは口の中でもごもごとつぶやいた。自分の態度が偉そうなのも、他人を見下しているように見える言動もわかってる。そうでもしなければ、これまでヒキコモリだった自分は、プライドを守る事が出来なかったのだ。なさけないが、なかなかやめられない、その名残だった。
「さて、本当かな? 早い内にケンカっ早い癖とその態度を改めないと、居場所はどんどんなくなっちゃうよ。僕は心配だなぁ」
 歌うようにそう言うユーに、クロセは頭をかいて、ばつが悪そうに視線をそらした。
 
 結局の所……コーディの予想通り、学校生活はまるでうまくいっていないのだった。
 今日あった事が、全ての縮図だ。高卒認定単位は取得済みなのだから、授業は退屈だし、興味も湧かない。それを鼻にかけていると思われているのか、クラスでもやっかみの対象になっていて、入学早々クラスのボス猿である小西と衝突したので、まともに友達も出来ない。教室にいてもほとんど声を発する機会がないくらいだ。
 付合いがあるのは、同じくクラスで浮いている、『ユー』だけだ。
 ユーは確かに少し変わった所はあるが、人の気持ちや場の空気を感じ取る力は人一倍あるし、いつも前向きで、人なつっこい。さすが長年学校に通ってるだけ合って、人間関係に敏感なのだ――――嫌われる理由もなさそうな奴だった。一見した所では。



「昨日の約束、覚えてる?」
 スティックパックを食べ終えたユーが、口の端についたカスをこすりながら、笑みを浮かべて見せた。クロセは明後日の方向へ目をやってから、片目を半分閉じて、如何ともしがたい表情で頷いた。昨日の時点では、『約束』ではなかった気がするが……
「最近ハマったって言ってた、ゲームの事か?」
 お互い接点などまるでないと思っていたクロセだったが、ユーから見たクロセには、たった一点、大きな接点があったようで、それは『ゲーム』だった。彼が言う所の『ゲーマーの勘』という奴が、クロセに何かを感じ取ったらしい。迷惑な勘もあったものだが……しつこく勝負を挑まれたので、しかたなく一度だけやってみた所、卑屈だった頃に培った負けん気が災いして、圧勝してしまったのだ。ユーは素直に負けを認めたが、その代わりに一方的な友情を感じてしまったらしく、ことある事にゲームに誘ってくるようになってしまった。
「偉いじゃないか! ちゃんと僕の話を覚えてるなんて」
 そう言って彼が顔を上げた。胸元から取り出した、ボックス型のミラーシェイドのサングラスをさっとはめると、その下で唇が、にっと笑みを大きくした。クロセは鼻で嘆息し、への字口を揺らしてつぶやく。
お遊び(ゲーム)はあんまり、好きじゃないんだけどな」
「ウソはよくないな!」
 彼の眼前で、ユーが腰に手を当てて、まっすぐに背を伸ばした、その途端――――彼の背後に広がっていた、遠くに都会をのぞむ郊外の風景が、ざりざりと音を立てて歪んだ。次の瞬間、爆音のファンファーレが辺りに響き渡り、直後、凄まじい振動と、地殻の揺れる乾いた轟音が一斉に辺りを駆け巡った。
 日を遮るものが何もなかったビルに、巨大な影が背を伸ばす。
 影に取り込まれたクロセは、ポケットに手を入れて突っ立ったまま、太陽を覆い隠さんとするその巨大な建造物を見上げた。
 それは、ビルだった。異常な数値をたたき出したグラフみたいに都会に乱立する、背の高いビル。無機質なコンクリート壁と、こちらを監視するかのように並ぶ無数の窓が、青空をを映し出している。それが、あちこちから轟く振動と共に、『雨後の筍』とばかりににょきにょき生えてくる。数秒後には、学校周りの風景は完全に様変わりしていた。都会の無秩序な建設合戦を超高速で眺めているかのように、天を突けとばかりに次々とビル群が乱立し、広大な平原のようだった空の形を、角張った形に変えていく。

「君は外側世界(アウターワールド)が大好きな凄腕(フリークス)さ、僕と同じね!」

 超高層ビルと、その空に輝く快晴の蒼を脊にして、ユーは深く被っていたフードを取り払った。途端、こぼれるように、真っ青な長い髪が、彼の後頭部からあふれかえり、胸元まで毛先が踊った。前髪をかいて、陶磁のような額を出すと、精悍で活発な少女のような顔が露わになり、二重の切れ長の目をニヒルににっと細めて見せた。薄い胸板を覆っていただけのシャツは、いつのまにか隆起した胸に押されて、ぴんと突っ張っていた。細くしなやかな指をかきいれ、彼――――いや、『彼女』ぱたぱたと風を送り込む。
「女のモデリングを使うのはやめろよ」
 顎をあげ、鼻を鳴らしたクロセがそう言うと、彼――――『彼女』は、スカートを揺らしながらくるりと周って見せる。
「カンジみたいな"男"には悪いけどね、僕には『自由』があるんだ」
 指を振って、流し目をしてみせた彼女は、その指で唇を撫ぜた。艶めかしく光るピンクのルージュが、彼女の唇を彩る。
「"どっちを選んでも良い"っていう、自由がね。肉体的に選べない君には、嫌みっぽく映るかも知れないけど」
 くっくと、ユーは喉の奥で笑った。クロセはふんと鼻を鳴らす。
 今時珍しくもない話だが、ユーは『奇形者(フリークス)』だ。

『生まれてくる子供の塩基配列(DNA)を操作し、子供をあなた色に手直し(デザイン)してあげよう』――――この手のサービスが、ユビキタス広告で、おおっぴらに街中で宣伝される時代だ。彼女の親もそんなサービスを疑いもせずに利用した客の一人だったらしい。ユーのように「設計(デザイン)」された子供は、目立たないだけでこの世界には大勢いる。もちろん、そんな無茶をすれば、少なくない確率でその中から様々な『奇形者(フリークス)』が産み落とされるのも当然なのだが、『多くは無害である』という理由で、政府もマスコミも問題にするのをずいぶん前にやめていた。おそらくは、"子供を自由にデザインできる"便利さと、奇形の生まれる確立を天秤にかけると、多くの人にとっては、前者のメリットの方が大きかったのだろう。生まれ落ちる奇形者(フリークス)なんて大して問題じゃないよね? と、みんな互いの顔色をうかがいあっていたわけである。たしかに、害はない。
 例えばユーのように、『男性と女性――両方の性器がついていても』、だ。
「さぁ、ゲームを始めよう、凄腕(フリークス)?」
 黒いビキニにジャケットを羽織り、ひだ付きのキュロットスカートを揺らす彼女は、長い髪と風にたなびかせ、隆起した胸を張って、その手を差し出すようにこちらに向けた。
「フリークスはやめろ」
 クロセは微かに腰を落とすと、手首を軽く振り、手首にはめていたレーザーウォッチを揺らした。途端、手首に巻き付いていた薄手のプレートが赤黒い輝きを放った。光りは収束し、細く強力なレーザーとなって辺りに照射、索敵するように一瞬クロセを中心に全方位を駆け巡った後、彼の体を右から左へ一閃、なぎ払うように駆け抜ける。
 そして光りが収束した時、そこに立っていたのは――――
 真っ黒な汚水の、滴りのような不吉な人影――――
「君こそ、排出者(イジェクター)のコスプレなんてやめたら? 今時はやらないよ」
 真っ黒なレインコートがバサリと足下に落ちた。硬く締め付けられた軍用ブーツに、コートの裾がたなびいている。深く被ったフードが風にあおられ、無機質なレンズと、無骨なレスピレーターが顔をのぞかせる。黒革のグローブをはめた手が持ち上がり、彼は自分の存在を確かめるように、ゆっくりと拳を握りしめた。ビルの間を駆け抜けた強い風は、彼のコートの裾をばたばたと揺らし続けた。彼の帰還を、たたえるように。
コスプレ(フェイク)じゃねぇんだよ――――」
 顔を上げると、無機質なレンズが、不敵な笑みを浮かべるユーの姿を映し出す。
「お前を排出(イジェクト)する」



 外側世界(アウターワールド)の電源が、世界にふたたび灯される――――
 





×      ×        ×








「ゲームルールは?」
 マスクをつけて発した声には、懐かしい息苦しさがまとわりついていた。不快なのに、物事があるべき所にぴったり収まったような、爽快さが全身にみなぎるのを感じた。手足を動かして全身の装備を確認すると、クロセはグローブ越しの拳を打ち合わせる。
「ボクシング? 空手? 総合格闘?」
「うら若き乙女の僕が、そんな野蛮なコトするわけないだろ」
 一瞬だけ、ユーの切れ長の目が踊るようなウィンクをした。スカートをひらりと持ち上げて、すらりと伸びる脚を内に曲げ、おどけてみせる。クロセは鼻の頭に皺を寄せ、鼻白んだ。若き乙女がそんな恥知らず(ビッチ)なポーズとるものか。
「じゃあなんだ? パズル? この街を先にぶっ壊した方が勝ちか?」
「もっと単純だよ。小さな頃によくやっただろ」
 彼女はくるりとターンを決めると、屋上を跳ねるように移動し、落下防止の欄干にもたれかかった。手を広げてみせ
「"追いかけっこさ"」
 彼女の背後にそびえ立つ、群れなして天を突く摩天楼。見下ろすその巨人を、ガスマスクの生気のないレンズが仰ぎ見る。ぴっと、ユーが長い人差し指を伸ばした。一直線、狙った所にまっすぐに差し出されたその指の先から、濃いブルーの光のラインが弾き出された。光はビルとビルの間をなめるように駆け抜け、建設途中で空っぽのフロアをくぐり抜け、空へ昇るように一気に急上昇した途端、再び唐突に直角に曲がって落下――――その下にあった、五十メートル程のビルの狭い屋上に突き刺さった。瞬間、光はぱっと霧散し、代わりに大きなドーナツ型の光の環が現れ、甲高い電子音と共に、『GOAL』の文字が屋上でくるくると回り始めた。
「僕と君が追いかけっこをして、先にあのビルの屋上へゴールした方が勝ち。負けた方は勝った方の言う事を何でも聞くって、どう?」
 ビル街の向こうで回転するゴールの環をのぞむユー。その横にクロセがつき、フードを揺らしてブルーの『GOAL』を見つめる。
「俺は追いかけっこなんて、ほとんどしたことない」
 ユーはちらりとクロセの顔を見て、それから、左足に視線を落とした。普段、不自由である事を見せないようにしているので、ユーはクロセの腕と脚の麻痺の事をちゃんと忘れてくれていたようだった。思わずつぶやいてしまった一言で、そのカモフラージュも解けてしまったが――――それでも彼女は気まずそうな顔もせず、笑いながら
「いいねー。君の初めてを共にするのは、僕なワケだ」
 にっと口角を持ち上げるユーに、クロセは細めた批難の目をじろっと差し向けた。何がおかしいのか、彼女はケラケラ笑って、天を仰いだ。黒のビキニとジャケットに挟まれた、曲線のくびれが白く眩しい。こちらに手を差し出して、からかうように
「手ほどきがいるかい?」
「……見た目が女に変わろうと、関係ないな。お前は単に俺をからうのが好きな変人(フリークス)だ」
 これはこれは、とサングラスをきらりと輝かせ、ユーは肩をすくめて見せた。
「君はまるで見た目が男のウブな乙女だね。それがまた、おもしろいんだけど」
 その時、甲高い警告音が鳴り響き、意地悪な笑みを浮かべる彼女の背後に『準備せよ(Get ready!)』の赤い文字が滑り込んできた。
 ぽっと浮かんだ赤の光線が、黒瀬達の足下に素早く絡みつくと、円を描いてぴかぴかと点滅する。思わず足をどかそうとすると、警告するようにビッと大きな音が鳴り、黄色く点滅した。
「慌てずに、開始線から出ないように」
 ぴっと指を立てて、ユーが審判ぶってそう言った。若干戸惑ったが、どうやらスタートまでこの線から外には出て行けないらしい。足下で回る円を踏み越えないよう、スタートダッシュの構えをとった。屋上から校舎内へと続く階段へと足を向ける。まずは、この学校を駆け下りて、地上に降りなくてはいけない。屋上から見たビル(GOAL)の位置は既に視覚保持(スクリーンショット)してあるので、方角がわからなくなる事もないだろう。あとはひたすら、脚力の勝負だ。
「やっぱり、優しい手ほどきが必要かな?」
 ユーが、なぜか呆れたような表情でそう言った。また冗談めかしたセクハラまがいの発言かと「やめろ」と一刀両断してやると、彼女は肩をすくめて
「じゃ、最低限の事だけ教えておくけど、ゲームオーバーは相手より先にゴールにたどり着けなかった時だけ。ゴール以外では、ゲームオーバーはないってことだからね」
「わかってるよ、そんな事」
「それと、君はスタートの向きが逆だよ」
 は?
 と振り返ると、彼女はちょうど欄干に足をかけている所だった。
 あまりの事に、一瞬何をしているのかわからなかった。声をかける間もなく、彼女は両足で欄干につま先立ちし、ジャケットのポケットに手を突っ込んで、手放しで背を伸ばした。ビル風が金切り声を上げて、彼女の全身を飲み込み、長い黒髪を踊らせ、キュロットスカートをはためく。
「ばっ――――」
 愕然と両目を剥いて、思わず手を伸ばしたクロセの前で,彼女は不敵な笑みを浮かべた。
位置について(On your mark―――)
 彼女の体がかしいだ。必死に手を伸ばし、なんとか指先が――――触れただけだった。彼女の体は欄干を離れ、びゅうびゅうと吹き荒ぶ、固い地面へ一直線の宙へと放り出され――――




!!START!!




 自由落下する彼女の体が、空気を引き裂く悲鳴のような音が、一瞬で彼方の地面へ向けて遠ざかっていくのを、クロセは欄干から身を乗り出して目にするしかなかった。人間の体が、驚く程瞬時にミニチュアのようになっていく。固いコンクリートの地面が、彼女の体をみるみる内に吸い込んでいく。その体をバラバラに砕き、はじけ飛んだ内蔵と血を、固い地面が啜ろうとする妄想が、脳裏を駆け抜ける――――
 彼女は笑った。
 それはまた、一瞬の出来事だった。体を瞬時に丸めた彼女はぐるぐると回転したかと思うと、弾けるように、その体はぴんと伸び上がったのだ。彼女を取り巻く風の抵抗が変わる。滑空する鳥のように、そのしなやかな肢体は空を駆け、校舎の半分程の高さのビルの屋上に滑り込んだ。そのスピードたるや尋常ではない。小型飛行機が着陸するのと同程度のスピードだったはずだ。だがその勢いを、彼女は両足に膝も突いて殺しにかかる。屋上のタイルをはがして、土煙を上げながら、ショートブーツが屋上にめり込み――――そして、止まった。
 地面を見つめていた、彼女の後頭部。ばっと持ち上がり、唖然として見下ろす間抜け面のクロセに、にぃっと口が裂けそうな程の笑い口をしてみせた。
 ぴっとこちらを指さして、再び欄干の向こうに向けて駆けはじめる――――そこでようやく、クロセは手すりに拳を叩きつけて叫んだ。
「あぁ――――あんの野郎!」
 "ゴール以外では、ゲームオーバーはないって事だからね"
 ユーの言葉が脳裏に過ぎり、思わず奥歯を噛みしめた。彼女の言葉の意味がようやくわかった。ここは、そう――――現実の世界ではないのだ。ここは"追いかけっこ"が全てのゲーム世界。相手より先にゴールさえすれば、どんな高さから飛び降りようが、どんな無茶をしようが、バラバラになって死んだりする事はない。
 即座に欄干をひっつかんだ。
 一蹴りで屋上の床を蹴り飛ばすと、手すりの向こうへ飛び降りる。屋上の縁はわずか十センチ程の幅しかなく、足下には大口を開けたミニチュアの街が広がっている。これまでに見た事もない遠近感に、くらくらする。下のを望んだ一瞬、全身が緊張して息が詰まる。
「――――クソ――――!?」
 これは作り物だと理性は叫ぶが本能はそんな理屈はお構いなしに叫ぶ。やめろ! 正気か!? ここから飛び降りたら死ぬ、そんな当たり前の事もわからないのか!?
 吹き荒れるビル風が全身を絡め取ろうと暴れ回っている。耳元でびゅうびゅうと叫ぶそれは地獄の獄卒の誘いに聞こえた。足を一歩踏み出せば、そこにある死――――濃密に匂い立ち、鼻先に触れそうなそれに、全身の毛が総毛立つ。
「…………!!」
 震え出しそうになる拳を、握りしめる。
 震えだした奥歯がカチカチと音を鳴らす、その歯を噛みしめる。引きつった頬が、不敵な笑みに転じて、見開いた目に精気の光りがらんらんと輝く。
 怖かった。だが、恐怖はもう、飽きる程味わったのだ――――世界中を敵に回し、戦った――――運命が、嵐に弄ばれる木っ端のように転がった、あの激動の日々に。
 膝を折り曲げた姿は、無様だったかも知れない。だが、ミニチュアの街に身を投げるには、十分すぎる『タメ』だった。いくぞ。誰に聞かせるわけもなく、吹き上がってくる強風に向かって叫んだ。がくがくと震える本能。全身の感覚が言う事を聞かない。それを奮い立たせ、そして祈るように。もういちど、叫ぶ。
「――――行くぞッ!!」
 
 蹴り出した力は、一瞬。

 次の瞬間には、全身が痺れ上がる程の浮遊感に、飲み込まれる。
 耳元でざわついていた風は「ついに」とばかりに凄まじい叫び声をあげて鼓膜をビリビリと震わせる。体に叩きつけられる暴風に、手足がおもちゃのように引っ張り回され、息が出来ない。瞬きの間に、脳が沸騰し、冷たい焦燥感で煮えたぎった。眼下にあったはずの街は、今やうつぶせの体と真っ正面から向き合っている。遠くにミニチュアのようにたたずんでいたはずの景色が、自分のちっぽけな感覚では抱えきれない程の巨大で濃密な存在として立ちふさがっている。地上に立って眺める世界は、地平という果てがある世界に過ぎなかったが、今、対峙している世界は、果てなどどこにもない、空と地の境界のない、無限に地が広がり続ける世界。飲み込まれる。本能が怯えて、無抵抗にそう、つぶやいた――――

 飛びうつれ! 
 手を伸ばすんだ、早く!!

 五感が麻痺して、途絶えていた理性が、唐突に目を覚ました。はっとして、顔を上げる。ユーが飛び降りたビルの屋上が、視線の先にあった。怯える本能を、冷静さを素早く取り戻した理性が制する。全身で感じていた、風の抵抗。両手と両足をめいっぱい伸ばし、そいつをコントロールする。地面へ向けて急加速する体を、風の抵抗を浴びてブレーキにかける。急速に拡大されていく世界の姿が、ほんの僅かに緩慢さを取り戻す。
 一瞬で迫る、ビルの屋上。
 その縁に向けて、手を伸ばす。

「――――――ぐほあッ!?」

 だが、衝撃。
 強烈な一撃が、胸部に叩きつけられ、痛みが背中にまで突き抜けた。刹那、世界は一気にひっくり返り、視界は呑気に快晴な空に打ち上げられた。胸骨が何本も一斉にへし折れた音に、内臓が押しつぶされた湿った音。体の中から響くその異音に、気が狂いそうな不快感がせり上がった。自分が今手をかけようとしていたビルの縁が、あっという間に遠ざかっていくのが見えた。虚しく伸ばされた手が、快晴の空に影を作る。無限に引き延ばされた時間の中で、冷静に誰かがつぶやいた。失敗だ。ビルの縁に上半身を叩きつけただけだった。
 このままでは、落ちる。
「――――――――うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
 理性は諦めていた。だが叫び声をあげたのは、さっきまで怯えるばかりだった本能の方だった。体を丸め、押し上げてくる風に抵抗の少ない形態(フォルム)をとる。身体は一瞬で凄まじい勢いで回転を始め、そして、再び両手を伸ばしてブレーキの姿勢をとる。もはや地面は目前だった。ミニチュアのようだった街は容赦なく現実味を帯び、鼻先にまで迫った死として迫り来る。天井知らずに拡大されていく世界。人形のようだった人は表情がはっきりとわかる程になり、オモチャの背景のようだった植林の並木道が巨大な墓標か針山のようにその突端をこちらに向けている、そして、固く揺るぎないコンクリートの地面が、猛速で走る車と共に大口を開けていた。体を叩き潰し、骨を砕いて内蔵を穴という穴から吹き出させ、全身をバラバラにする、大口を開けて。
 手を伸ばす
 本能の上げる叫び声で、鼓膜は痺れ上がって感覚がなかった。ただ突き出した腕の感覚だけは明確で、地上から突き出た灰色の柱の群れと、それらに垂れる黒いケーブルに向けて、ただ必死に手を伸ばした。
 握りしめた、確かな感覚。
 柱と柱をつなぐケーブルの中腹を、固く握りしめた拳はしっかりとつかみ上げていた。だが、すぐに肩口に衝撃が伝わる。腕が引き絞られるように伸ばされ、鋭い痛みが間接に走る。そして次の瞬間、ケーブルはぶちんと野太い音を立てて、ちぎれた。
 世界がぐるりと、踊り出す。
 地上へ向けて一直線だった体の動き。それが急に丸く半円を描いた。柱を支点に、ちぎれたケーブルは振り子のようにクロセの体を振り回し、落下の勢いをぐるりと曲げてみせた。凄まじい 遠心力が体を引っ張ったが、力を振り絞って、ケーブルを握る手は離さなかった。
 猛速で迫る、地上を走るトラックの姿。
 はっと息をのんだ。車内で目を剥くドライバーの顔まではっきりと見えた。ぶつかる。そう思った瞬間、ケーブルはぐるりと弧を描いてクロセの体を引っ張り上げた。折り曲げた体のすぐ下を、トラックの荷台が猛速で通り過ぎていく。だが安堵する間もなく、クロセの手から力が抜け、その体があっという間に宙に投げ出された。
 街中の交差路のど真ん中を、高く放り出されたクロセの体が舞う。道を行く人々が驚愕の悲鳴を上げ、目を見開いてこちらを指さす。両手を挙げ、着地点をさがして折り曲げられた足。全身の黒が、彼をまるで忍者のように縁取る。
 再び迫る地に向けて、脳が次の行動を素早くはじきだした。全身を使って空気の抵抗を操り、クロセは再び灰色の柱と、ケーブルに向けて手を伸ばす。
 道路を縫うように立ち並ぶそれは、美術や歴史の資料で見た『電柱』に違いなかった。かつてそれは地上のあちこちを縫い上げて、青い空に灰色の線を走らせていたと言う。もしこのゲームが現実に忠実なら…………このケーブルはこの街の全ての道に通じているはず。
「――――ッ!!」
 黒く太いケーブルを、思いっきりひっつかんだ。
 落下の勢いにクロセの体重――――鞭のような音を立てて、ぴんと張り詰めたケーブルは引き千切られ、その体を再び振り子のように振り回した。人々の驚きの声とクラクションを足下に置き去りにして、クロセは空中を、自由に舞った。


「――――やるなぁ。さっすが凄腕(フリークス)!」
 ビルの屋上を華麗に飛びうつっていたユーは、ミラーシェイド越しの目を楽しげに見ひらかせ、唇をニッとニヒルに歪めてみせた。とにかく高いビルと高いビルをジャンプでわたり、落下の勢いで速度をつけ、さらに高度を維持したままゴールへ向かうのが、このゲームのオーソドックスなやり方だった。ただし、ジャンプに失敗して高度を落としてしまうと、次に飛びうつるビルの選択肢を失ってしまう。百メートルのビルから八十メートルのビルに飛びうつるのは可能だが、その逆は不可能だからだ。結果的にゴールに至るまでに渡るビルの数が減り、遠回りをする事になる。地上すれすれにまで降りてしまったりした、最悪だ。落下の速度を利用してスピードを維持するこのゲームでは、高さを失ってしまった時点で勝ちはなくなる。地上をいくら走っても、重力を利用して素早く宙を舞うプレイヤーには到底かなわないからだ。
 だがクロセ()は新たな可能性を見いだした。
 ケーブルを伝って飛び回る彼のスピードは、落下の速度を利用しているとはいえ所詮屋上を走っているだけのユーとは比べものにならないくらい速い。弧を描くロープを伝って移動すれば、落下の勢いはほとんど失わずに、滑るように移動できる。彼は最初の遅れを見る間に取り戻し、今にもユーに迫らんとしていた。
 ビギナーはビギナーだからこそベテランには敵わないが、新たな視点を取り入れるという点では、逆にビギナーに敵うベテランはいない。プレイの仕方がわからないからこそ、可能性を切り開こうとする――――『可能性の獣』、とはかつて次々と『裏技』を繰り出すプレイヤーに与えられる称号だったが、よく言ったものだ。
「ほんとのホントに、排出者(イジェクター)だったりして――――」
 そして、『可能性の獣』の筆頭に立つのは、かつて外側世界(アウターワールド)を席巻した英雄の姿――――。地上すれすれを、野獣のようにケーブルを伝って飛び回るその姿に、排出者()の姿を重ねようとして、ユーはふっと笑みを浮かべた。そんなはず、ないか。伝え聞いた英雄の姿は、地上を這いつくばるように勝利へ邁進する、あんな泥臭いクロセの姿とはどうやっても重ならない。
 自分の下らない妄執にケリをつけるように、ユーは再び屋上の縁を蹴った。宙を駆ける彼女の目には、すぐ近くまで迫った、ゴールを冠するビルの姿が、映っている――――


「あぁぁ――――ちっくしょう、方向感覚が狂ってる! ここはどこなんだ!?」
 もう何度目になるかわからない、振り子運動に身を任せながら、クロセはふらつく頭に手のひらを押しつけた。ケーブルを掴んだ片腕はしびれきっていて、今にも手を離してしまいそう。僅かに冷静さを取り戻した理性が、視覚保持(スクリーンショット)をユビキタス機能で呼び出し、眼前に映し出した。ゴールの位置が映ったそれに、GPSを連動させて、地図(チャート)と重ね合わせ、さらに現実拡張(AR)にして、視界に表示させる。手が使えないので、全て脳内で処理したが、エラーが多くて恐ろしく手間がかかった。
「くそ、コーディがいたらな――――」
 こういう時こそ、自分の無能さ、無力さを思いする。かつての活躍は、優秀なオペレーターとその手助けがあったからこそ出来た芸当で、自分一人では、まともにプレイする事すら難しいのだ――――相変わらず情けない、ちっぽけな自分の姿。頭をふって、その考えを振り払う。今はプレイに集中しろ、余計な事を考えている暇はない。
「――――あったぞ、あそこか!!」
 その時、現実拡張(AR)が、エメラルドブルーの巨大な矢印(グランドマーカー)を空に輝かせた。
 クルクルと回転し、点滅するそれは、ビルを一つはさんだ向う側の、快晴の空にそびえていた。矢印と自分の間に立ちふさがるビルは、巨大な影でクロセの体を覆っていて、とてもじゃないが飛び越せるような高さではない。横幅も広く、回り込むのにも時間がかかるだろう。どうする。
 ビルの間の空に、人影が舞った。
 はっとしたクロセの眼前で、鮮やかなブルーその空を背景に、黒のジャケットをたなびかせたユーが、華麗に黒のシルエットを描いた。一流の陸上選手が空を渡り歩くようなステップを踏むのと同じように、彼女のしなやかな体は、泳ぐように見事に四肢が伸ばされていた。そのミラーシェイドのサングラスが一瞬だけこちらに流し目を寄越し、口元に敗者をあざ笑う笑みを、浮かべて見せた。
「あのヤロ――――ッ!?」
 毒づく間もなく、再びビルの屋上へ消えたその姿。ゴールは彼女が飛びうつったビルのすぐ隣だ。このままでは彼女が先にたどり着いてしまう。眼前に浮かんだマップを駆使して、ゴールの前に立ちふさがるビルの迂回路をさがすが、どのルートを選んでも時間がかかりすぎる。
「――――――ちっくしょう」
 まともな方法は浮かばない。顔をうつむかせる。だが一瞬、歯噛みしたクロセは、ばっと顔を上げ、
 握りしめたケーブルに力をこめた。
 振り子の動きが、変化する。
「ぅおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――――――!!」
 諦めてしまえば良かったのに。
 負けを認めて、このまま地上に降りてしまっても良かった。実に大人の対応で、ゴールにたどり着いたユーに笑みでも浮かべながら拍手の一つでもくれてやれば、良かったのだ。それで全てが丸く収まるし、こんな下らないゲームに熱をあげる事自体、実に馬鹿げてるじゃないか。しょせん、こんなものは現実に何の影響も及ばさない、ただのお遊び(ゲーム)なのだ
 それでも、クロセには手を抜く事が出来なかった。
 自分にとってどんなに下らない事でも、ユー(あいつ)にとって、それは世界の全てだった。どんなにおちゃらけて、軽口を叩いていても、クロセにはわかった。ユーにとって、これはお遊び(ゲーム)ではなく、他人と関わりあう唯一の方法なのだ。本気で誰かとぶつかるには、彼女にはこのゲームが必要なのだ。これしか、本当の自分をさらけ出す方法は無いのだ。だから何度も自分をゲームに誘うし、ゲームの始まりと共に活き活きと目を輝かせてはしゃぐのだ。彼女のゲームの腕は良い。それだけに、本気で彼女と渡り合おうとする人間はいなかったはずなのだ。だからこそ、クロセは本気になっていた。本気になって、彼女のお遊び(ゲーム)に向き合った。

 そうやって自分に向き合ってくれるのは、学校(ここ)では彼女、一人だけだったのだ。

 ケーブルを掴んでいた手を離す。
 自由遊泳する体。眼前に迫るのは、避けようもなく迫る、ビルの壁面。街の空を映し出す、艶やかな窓が立ち並ぶそこに、両腕を交差させて飛びかかる、自分の姿が映し出された。真っ黒なレインコートをはためかせ、ガスマスクをうつむかせる、排出者(イジェクター)の姿が――――


 ガラスの粉砕音が鋭く響き渡ったのを耳にして、はっとユーは振り返った。
 唇を一瞬への字にする。あんな無茶なやり方(プレイ)をしていては、重大なヘマをしでかす可能性はたしかにあった。ケーブルの操作を間違えたのか、腕の力を失ったのか――――おそらくは、クロセはビルの壁面に叩きつけられたのだ。このゲームでは、いくら地面に打ち付けられたとしても、現実と同じような痛みが走ったりはしない。ただし、いくらか加工されているとはいえ、脳や体を揺らす激しい衝撃が再現されるのは間違いない。並の人間では、到底耐えられない程の苦痛だ。
 一瞬彼をおもんばかり、たたらを踏んだユーだったが、ふっと一息吐くと、屋上の乾いた地面を蹴った。おそらくは脳しんとう並の衝撃を受けて、クロセの意識はもうろうとしているだろう。立つ事もままならないはず。――――だが、死ぬ事はない。ならば、これはチャンスだった。これまで一度として勝てなかったクロセに勝てる、チャンス。彼はミスをしたのだ。致命的なミスを。そこにつけ込むのは何も悪い事ではなく、むしろ極めてフェアなプレイだった。もどって手をさしのべるなんてことをしたら、彼のプライドは激しく傷つくし、ユー自身もまた、傷つく。クロセは億劫がりつつも、いつも全力で相手をしてくれる。そんな友人は、ユーの周りでは彼しかいなかった。奇怪な性別(フリークス)であるユーを過度に気遣ったり、気味悪がって、周囲の人はユーをまさに化け物(フリークス)扱いする。だが、クロセは違う。彼はそうされることの苦しみをよく知っているようだった。過去に何があったのかは知らない。だが、彼は自分に臆することなく意見を言い、全力でお遊び(ゲーム)に付き合ってくれる。
 ならば、自分はそれに応えなくてはいけない。
 ユーは屋上の縁を、ゴールへ向けて蹴った。
 勢いよく飛び出した体。全ては緩慢(スローモー)に見えた。快晴の空が視界から消えていくのも、現実拡張(AR)のホログラムが『GOAL』の文字で環をつくり回転させるのも、その環を冠したヘリポートのラインが引かれた屋上が迫るのも、自分の体が心地よい浮遊感と共に重力に引き寄せられるのも、全部、全部、天に召される瞬間のように、緩慢(スローモー)に、見えたのだ――――
 

 足下のビルの窓を突き破り、排出者(イジェクター)が飛び出してくるまでは


 ユーの目がこれ以上ない程見開かれる。つい今しがた蹴ったビルの中腹から、粉砕されたガラスがキラキラと飛び散って、輝いている。そしてその光の中から、漆黒のコートが飛び出してくる。両手を交差させ、舞い散るガラスを払いのけるように。まさか、と思った。まさか、そんなはず、ない。できはるはずがない。ビルに叩きつけられたのだ。並の人間では耐えられない程の衝撃に襲われたのだ。なのに、なのに――――
「(ビルの中を、駆けて――――)」
 一瞬のためらいもなかったはずだ。衝撃にひるんでいたら、このタイミングでゴールへ飛びだす事などできるはずもない。ケーブルから手を離した彼はガラス窓を粉砕し、叩きつけられた衝撃に構うことなく、オフィスの中を駆け抜け、再びガラスをたたき割って、向かいのビルへ飛び出す――――
「――――――――ッ、させるかあああああああああああああああ!!!!」
 喉が千切れん程に、ユーは叫んだ。自分でも自分の性別がわからなかったが、今この瞬間だけは、自分ははっきりと『男』だと、思った。争い、奪い、狂騒に打ち勝つ事に執念を燃やす、獣と同じ雄の血が、自分に雄叫びを上げさせたのだと、そう思った。
 自分のスニーカーとクロセの軍靴が、屋上へと迫る。
 踵が地面に触れた瞬間、高らかなファンファーレと共に、巨大なホログラム(AR)が視界を通して、脳裏いっぱいに広がった。

 


!!GOAL!!






 ゲームの電源は落とされ、世界が暗転する。

2012-12-02 23:10:41公開 / 作者:無関心猫
■この作品の著作権は無関心猫さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
※本作は前作「Eject-排出者-」の続編にあたります。前作を読んでいないと、キャラクターや内容に理解しがたい箇所があります。お気をつけください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。もしよろしければ、簡単でも良いので感想をいただけると参考になります。また、感想に読んでもらいたい作品を書いていただけると、そちらに感想をお返事代わりとして書かせていただきます。

以下はあとがきです。重要な事は書かれていません。

 今回から毎週土曜日か日曜日の、週一更新を目指します。書きためはないので、スケジュールはきつきつになってしまいますが……。
 今のところ本作は破綻なく進んではいますが、若干各シーンにスペースを割きすぎています。全体の長さがどれほどになるのか予想がつかず我ながら心配です。
 今回の更新分ではゲームワールドのアクション要素に力を注いでいます。クロセをかっこよく描きすぎた気もしますが……今後の展開では彼もかなり悲惨な目に合う事になりますので、このぐらいでバランスが取れるかな、とも思います。鼻につくようでしたら、是非その旨お聞きしたいです。
 それでは今回もおつきあいくださり、ありがとうございました。


※前作は新人賞に送るため削除してしまったのですが、この場合再投稿をしてもいいのでしょうか? もしご存知の方がいましたら、教えていただきたいです。
この作品に対する感想 - 昇順
どうも、お久しぶりです。鋏屋でございます。お名前を見て『待ってましたw』とばかりに飛びついてしまいましたw
相変わらず描写が巧みでグイグイ引っ張られます。文章も破綻なく安定していて読みやすい。まあこれは前作からすでにそうでしたけどねw なので私は安心して読めました。
オープニングの演出がかっこいいです。まるでハリウッド映画をみている様な印象でした。前作のエンディング同様、こういった演出は私は大好物ですよwww
にしても、クロセのコーディとのリア充爆発しろ!な件についてwww
まあ、学校生活がうまくいってないみたいなので許しますw まだ日常のクロセに何某の陰謀めいた物はなさそうですが、オープニングを見る限り、中々に厄介な事に巻き込まれそうですね。
私の好きな展開になりそうでワクワクします。たぎるわ〜w
それでは次回更新も期待してお待ちしております。またこの世界に浸れる事に感謝してポイントを贈ります。
鋏屋でした。
2012-11-24 07:01:35【★★★★☆】鋏屋
お久しぶりです、鋏屋さん。前作も登竜門には投稿されていないのに誰が読むものぞと思っていたのですが、鋏屋さんに読んでいただけてほっとしています。感想まで書いていただき、ありがとうございます。
クロセとコーディは出足からすごくリア充で感じが悪いですよねw ですが、この後の展開は二人にとってとても辛いものになります。それだけに、この最初の段階では、二人はめいっぱい幸せにしてあげようと思ったのです。悲劇と復讐は冷める程……とはいいますが、最初に熱い料理を出して舌を冷たさに敏感にさせるのも大事、なはず?
気合いを入れていたオープニングの演出も効果的だったようで幸いです。雰囲気を出そうとしすぎて、演出過剰だったかな? と心配だったので……。もっと危険な雰囲気が出せると、その後に続くクロセとコーディの甘ったるいシーンも映えてくると思うので、改良の余地ありですね。
鋏屋さんには「安定している文章」とおっしゃっていただけて少し安心しましたが、正直な所、今回の文章はいまちだなと思っています。書いている時は、「なんじゃこの表現は……」とウンウン頭を悩ませていました。執筆に三ヶ月くらいのブランクがあったので、明らかに表現力が落ちて、陳腐な言い回しが目立つ気がするのです。なかなか勘を取り戻すのに苦労していますが、もっともっと良い表現を目指し、頑張りたいと思います。

繰り返しになりますが、最後に、本作もおつきあいいただき、ありがとうございました。今後とも、不肖の拙作をよろしくお願いします。
2012-12-03 21:05:14【☆☆☆☆☆】無関心猫
どうも、鋏屋でございます。続きを読ませていただきました。
ゲームスタートの演出は私的に良かったですw あれ、良いですね。まあ読む人によっては好き嫌いがハッキリするでしょうが、私はああいうビジュアル的なのも結構好きだったりしますw
今回はユーに翻弄されました。読んでいると彼がホントは男なのか女なのかわからなくなってきます。彼の存在がこれからどのように絡んでくるのかが興味津々です。
あと今回はそのスピード感が良かった。街のビルの間を疾走する感じ(いや、スパイダーマンみたいだから疾走じゃ無いか?)がとても良く出ていたと思います。だ、また良いとこで切るから……
「どっちが勝ったんだよ猫よぉぉぉぉぉぉ!!」
と叫んでおきますwww
ではまた続きが年内である事を願いつつお待ちしております(プレッシャーw)
鋏屋でした。
2012-12-20 09:58:17【★★★★☆】鋏屋
計:8点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。