『ファイヤースターターは手を握らない』作者:冬見 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
ある日突然、話したこともないクラスメイトから声をかけられた。顔に火傷を持つ男子高生・梶(かじ)と私の、よくわからないやりとりが、少しずつ日常になっていく。けれどもともと崩れていた日常は、梶と言葉を交わすにつれて、新たなほころびを生み出し始めていた。
全角24217文字
容量48434 bytes
原稿用紙約60.54枚
***

 梶からメールがきた。見知らぬアドレスに首を傾げていた私は、本文に記された名前に「えっ」と声を上げて驚いてしまった。
 私が上京して大学生になって、梶が地元でフリーターになって、交流らしい交流はすべて消えた。計二年の空白。その空白を、梶はやはり突然塗りつぶしてきた。相変わらずやることなすこと唐突だ。一番唐突なのは、あの顔面かもしれないが。
 近日そちらに行くから、時間があったら会わないか。そういう内容のメールだった。本文はこの一文よりもっと短い。梶の名前を含んでも、短い。
 私は少し考えて、適当に返信した。イエス、そういう内容のメール。その三文字よりもっと短い本文。
 送信完了の画面を眺めながら、私はとあることを決意した。決意したというより、ぼんやり決めた。もし梶が顔を手術していたら、会うのをやめようと思ったのだ。
 梶は三日後、12時43分着の電車で八王子に着くらしい。



 別に、梶が私にとって特別な存在と思っているわけではないが、人生の中で何かエピソードを語って下さいと言われると、私は結局梶のことを思い出す。実際に語ったことは少ないが、私の白紙に近い人生の中で、梶だけは確かに色づいた時間だった。
 梶がいなくても生きていけるが、梶がいなければ今生きていなかった。梶は私の救世主みたいなものだったけど、それにしてはかなり淡泊に、あっさりと、私の手を離してくれた。それこそが私にとって、最高の救いだったかもしれない。
 手を離した瞬間の梶は、この世がすべてきちんと回転した瞬間を、寂しく濡れた無表情で見つめていたけれど。



***

 同じ高校に入学して一年間(まあつまり、クラスメイトとして過ごして一年間)、私と梶は一言も言葉を交わさなかった。そういうものなんじゃないだろうか、高校って。
 私はクラスメイトの名前を半分覚える前に、進級した。クラス替えも行われ、篩にかけるようにして私の友達(たぶん)は違うクラスになっていった。その結果、二年の時も私と同じクラスだったのが、静野と目白だったのだから上出来。二年になっても梶と同じクラスだったが、特に気にはしなかった。二年最初の席が前後同士だったことで、初めて梶が同クラスであることに気づいたほどだ。そういうものなんじゃないだろうか、高校って。目白は梶と同じクラスというのに嫌そうにしていたけれど。

「こやまさん」
 移動教室の前、少々時間の足りなかった私は、慌ただしく廊下のロッカーを漁っていた。しゃがんだ状態で、様々な教科書に引っかかっていた資料集を、なんとか腕の中へ。焦っている真っ最中に声をかけられ、何か考える前に、無駄な苛立ちが発生する前に、反射的に振り向いた。しゃがむ私よりもずっと高い位置に、とてもきれいな眼球が二つあった。
 長い前髪の向こうにきれいな眼球を持つ彼は、なにを考えているのか分からない無表情で、私に右手を差し出していた。右手には何かがティッシュに包まれている。右手一つで掴むのに丁度いい、文庫本の半分未満のサイズのそれ。なんだろう。
「落としたよ」
 無表情で彼はいう。柔らかいゴムに切れ込みを入れたような薄い唇がかすれた声を吐き出して、不思議な違和感だった。
「あ、え」
 とっさにどうしたらいいのか分からない。脳とは反対に手のひらは従順に差し出された。梶が私の手のひらに包まれたそれを置く。見に覚えのある、軽い重み。梶の爪は短い。
「ナギー! 次、理科棟だよ! 早くいこ!!」
 突然私の横から、嵐のような勢いがぶつかってきた。友人の目白がいつも通り全開の笑顔で、私の腕に縋ってくる。けれど目白の顔に張り付けたような愛想があって、私は戸惑った。
 梶をその場にいないかのように無視して、目白は強引に私の体を押す。あの、ロッカー開きっぱなしなんですけど。
 ぐいぐい体を押される私は、それでも何とか首だけを後ろに向けた。
「ありがと」
 欠片のような言葉を、梶の背中に放る。梶はいっさい興味なさそうに、スリッパを引きずるような歩き方で教室に入っていった。目白が嫌そうな顔をした。



「大丈夫? ナギ。梶と話してたけど」
 小走りで理科棟への渡り廊下を移動しながら、目白が私に言ってきた。先を行く彼女のスカートは明らかに指定より短くて、黒いタイツに包まれた細い足が、揺れるスカートの下で交差する。形の良い膝の裏、完璧に計算されたスカート丈。女子である私から見ても、目白の小柄で薄いスタイルは魅力的だ。
 質問の意味が全く理解できない。自然、私の眉間に皺が寄る。
「なにが?」
「だってさ、梶、気持ち悪くない? 話してて。ていうか、見てて」
「あー……なに考えてるか分かんないあたり?」
「いや、それもだけどさ。どう考えてもそれより先にキモイっしょ!」
「なにが?」
 短い階段をばたばたと上がる。目白が突然振り向いた。バスケ部顔負けの切り替えし。
 小柄な彼女の顔はかわいらしい。そのかわいらしい顔に、凶悪な嫌悪感を浮かべて、目白は言った。
「顔!!」
 言うだけ言って、私が追いつくより早く、また目白は走り出す。ショートカット、晒された首筋。すっきりしていてキレイだ。
「はあ」
 眉間に皺が寄るのを感じながら、私はただただ戸惑った。ばたばたと、渡り廊下を駆け抜ける。
 走りながら、思い出してみた。梶の顔。長い前髪と、擦りガラスのようなキレイな眼球ばかりが思い浮かんだ。そういえば、なんだろうこれ。梶から受け取ったものは、ティッシュに保護されたまま右ポケットに入っている。



 何とか授業に間に合った。
 授業が始まり、形ばかりの号令。休み時間といっさい騒がしさの変わらない教室に、教師が叱責をとばす。今更慣れきった生徒たちは耳をいっさい傾けず、夕方のスーパーもびっくりの騒がしさを無期限で延長し続ける。教師が叱る。エンドレス。優等生は顔をしかめ貧乏揺すりをし、それよりもう少し頭のいい人間(たとえば静野とか)は、いっさい興味なさそうに教科書をめくっていた。
 いつもなら私は、教室の騒がしさを質の悪いBGMと捉えて、実験台でもある机の下で単行本を開く。四人掛けの実験机、正面に座る女子二人は、甲高い声で会話のドッジボールをやめない。グループ学習と言えど、目の前の二人とは会話をしたこともなければ目を合わせたこともない。
 なんとか腰を落ち着けた私は、いつもとは違い、まず右のポケットを探った。ポケットから出したものを、教科書の上へ。正面二人の視線はいっさいこちらに送られない。
 なんだろう、これ。落ち着いたらティッシュを除けようと思っていた。
 けれど親指でティッシュを避けようとして、その中身を見、あわててティッシュで包みなおした。少しだけ手を忙しく動かして、ポケットの中にそれをしまい直す。正面二人は私を気にもしない。
(……焦ったー)
 なんで梶がわざわざそれをティッシュで包んだのか。分かった気がした。白く薄いもので保護されていたそれは、私の携帯電話だった。

 うちの学校の校則は無駄に厳しい(きっと、田舎だから)。授業中はおろか、放課後でも、校内で携帯を身につけているのがバレると、教師によって没収されてしまうのだ。一週間の期限付きで。校則にもきちんと、電源を切って鞄に入れておくように、との旨が記されている。
 けれど携帯に依存するこの時代、校則を行頭から句読点まできっちり守る優等生は少ない。多分全体の三パーセントくらい。現に正面に座る二人は、教科書で巧妙に隠しながら携帯をいじりつつ会話しているし(あらゆる意味で器用だ)、目白は携帯を没収されて彼女の持てるすべての罵利雑言を昼休み中言い連ねたことがあるし(あれはちょっと感動した)、要領のいい静野は常に携帯をポケットに入れているし、没収されない(バレてもいいような甘い教師を選んでいるわけだ)。
 学校の中で特に携帯をいじる必要はないけれど、周囲につられて私も携帯をポケットに入れていた。携帯を一週間没収されるというのは、現代に生きる学生にとって、時に財布を落とすより痛い。いつ落としたのか記憶はないけれど、軽く命がかかるほど致命的なミスを、梶はフォローしてくれたのだ。
 しかもわざわざ、ティッシュに包んで、周囲から見えないようにしてまで。
 その梶の心遣いは、優しいと一言で片づけるには重いほど、異常な気がした。少なくとも私は、梶が誰かと会話しているのを見たことがない。元々梶を見る習慣もないけれど。

 携帯をポケットにしまった私は、ふと、私の隣に空いている丸椅子を見た。
 これは梶の席だ。
 梶はこの授業にいなかったり、遅刻で参加したりする事が多かった。最初から最後まで出席しているときとの比率を比べると、だいたい半々位で遅刻orサボり。
 目を合わせたこともなければ、会話したこともない。
 一年一学期から続いていた伝統的なその鉄壁を、梶がこの中途半端な時期に踏み越えてきたことを、今更ながら不思議に思った。いや、有り難かったけれど。漢字に沿った意味で、有り、難い、現象だったのではないか。
 教師が苛ついた声をまき散らしながら、黒板にチョークを叩きつけ始める。顔を上げ、単行本にしおりを挟み、ノートを開いてとりあえずの板書を始める。正面二人は未だに携帯をいじっている。会話しながら。あらゆる意味で器用だ。



***

 梶は他人との車間距離を死ぬほど大切にするタイプで、その頑なさは、ぼんやり見ていて感動しそうになるほどだ。
 担任に怒鳴られても、クラス委員に諭されても、面倒くさそうな女子に絡まれても、無表情かつ無返事。誰に対しても平等すぎる態度である。
 一月に半分は遅刻する。しかもその遅刻のタイミングが上手い。生徒に甘い教師の授業が控えている休み時間にするりと入り込み、ごく当たり前のように椅子に座り(教師に遅刻の報告とか、してる訳がねぇ)、耳にイヤホンを引っかけたまま昼寝へ移行。授業だって教科書とノートは質の悪い枕状態だし、窓際の席というのを有効活用して、教室にいながらバードウォッチングを楽しんでいる気すらある。生徒がもっとも群れる放課後は、終業のチャイムとともに、鞄を机に放置したままふらりとどこかへ消える。教室から生徒が消えきってから、ふらりと帰ってきて、のんびりと帰り支度を始めるのだろう。
 携帯の一件以来何となく梶を見るようになった私は、梶のそういった生態を把握してしまった。
 そしてその態度の原因はあれしかないのだろう、と思う。
 窓際の席に一人座り、昼の暖かい日差しをぽかぽか受けながら、青いイヤホンを耳に突っ込んだ梶は、やはり無表情でなにを見つめているわけでもない。擦り硝子のような、見るものすべてを曖昧にするような瞳は、遠くからでも伺えた。
 昼休みの騒がしい教室で、無条件に自分一人の静寂を確保できる器用さは羨ましいかもしれない。隣でダイエットクッキーをかじりながら延々と授業の愚痴を続ける目白に適度にうなずきながら、私は横目で梶を見ていた。静野はいつも通り、目白の話にはいっさい耳を傾けず、黙って本を読んでいる。
「どう思うよ、ナギ!」 
「うん、とりあえずそのままの目白でいればいいと思う」
 同意を無理矢理求めてくる目白の声に、急に意識を目の前に戻された。荒々しくチャンネルを切り替える程度の落差。
 しんと静まっていた梶とは対照的に、目白は小柄の肩を怒らせて、未だに語り足りなそうにしている。三つの机を向かい合わせるようにして昼食を食べるのが、私たちの習慣だった。
 私の返事の適当さに、目白は歯噛みしながらばんばん机を叩く。とっさに水筒のコップを持ち上げ揺れから守った静野は、本当さすがとしか言いようがない。
「本っ当、あのジジイムカつく!! 私に個人的な恨みがあるとしか思えないんだけど!!」
「うんうん」
 肘を突いて箸を持っていた私は、揺れの衝撃に耐えきれず机の上に落とした卵焼きを、お弁当箱の蓋の方に避ける。好物だっただけに何となく寂しい。
「静野も嫌になんない!?」
「えーでもあのおじいちゃん先生、人の扱い方は平等だしー。課題してくるかぎり何もいわないし、課題してこなかった人間は誰も彼も平等に天罰下すしー」
 本に集中していたはずの静野だが、水を向けられればお手本のような微笑を浮かべて目白を見る。目を見て会話する方が手っとり早い、と知っているのだ。その微笑みは、一言で蹴りを付けてさっさと読書に戻りたい、という思いも忍ばせていた。もちろん目白は気づかないが。
 いつも通りオブラート仕様の正論を返され、目白は思わず押し黙る。でもさ、だってさ、口の中で何か言えないかと考えているようだ。
 ぼんやりと話の成り行きを伺っていた私は、そこでなぜか、口を滑らせてしまった。
「まあ、梶まで平等に扱うのはすごいよね」
 口にした途端、時間が止まったような錯覚が生まれる。瞬間的に後悔するが、遅い。
 静野は物珍しそうに私を見て、目白はそれはそれは嫌そうに私を睨んだ。ああ二者択一、ただしこの場合、お手本とも言えるのは目白の態度だ。
 目白は私を睨んだまま、苦いものを吐き出すように言う。
「あいつの話するのやめてくんない? なんなのナギ、最近めちゃくちゃ梶のこと気にしてんじゃん?」
「いや、そんなことはないんだけども」
 数日前、私と梶のやりとりの場に遭遇した目白は、あれ以来さらに梶に対する嫌悪感を表に出すようになった。いらいらとダイエットクッキーを纏め、机の横に下げていた鞄に突っ込む。動作の一つ一つから叩きつけるような音がした。苛立ちをここまで素直に態度に現せるのは、逆にすごいと思う。
「あたしココア買ってくる」
「いってらー」
「あ、いてら」
 眉間にものすごいしわを刻んだまま、目白は椅子を倒す勢いで立ち上がった。財布を片手に。
 そのままさっさと扉に向かう。にぎやかな昼休み、友人の多い彼女はいろいろなクラスメイトに声をかけられたが、そのほとんどにかなりぞんざいな態度で返したようだ。一部の男子はついでに背中を叩き、離れた位置から見守る私たちでも足音が想像できそうな態度で、教室から出ていく。
 背中を見送った私は、ため息をつきたいような頭を抱えたいような、いっそ昼休みが終わるまでふて寝したいような中途半端な気分になった。目白は機嫌がこじれると長いのだ。
 静野は私とは対照的に、すべてにいっさい関与しない態度で読書を再開した。方法こそ違えど、梶と同じように自分の空間を作り出す彼女を私は尊敬している。下手したら交友範囲が目白より広いからこそ逆にすごい。
 けれど私がもそもそと食事を再開した頃、ふと思い出したように、静野は私を見てきた。
「でも確かに、最近ナギが梶を気にしているような気はする」
「そう?」
「いや、気がするだけだけど。なんかあったの?」
 静野は賢いし、社交的だし、マイペースだし、勘も鋭い。彼女には一生かなわないというのは、確信に近い想像だ。
「まあ、あったと言えばあったような、なかったと言えばなかったような」
「ふーん」
 短く頷いて、静野は目線をまた本に戻す。ここで興味本位に突っ込んでこないのも、彼女らしい才能だと思う。
 聞いてみようか。何となく、そんな気分になった。ここ最近抱えていた、疑問とも言えない煙のようなそれを、静野なら上手にいなしてくれるような気がした。
「ねえ静野」
「んー?」
「梶のあれ、何でできたか知ってる?」
 本と見つめあう静野に声をかける。と、私の言葉に、静野は何度目か顔を上げた。想像通り、珍しそうな顔をしている。静野が読書を中断するのだってどちらかといえば珍しいのだが。
「本当に気にしてんだね、梶のこと」
「意味深な言い回しはやめてください」
「いいと思うよ、私止めないよ」
「そういう意味じゃないんだけど。ていうか、や、どういう意味」
「まあどんな意味でも無意味でもいいんだけどさ。知らない」
 人をいじっておいて、返ってきた言葉は簡潔かつ淡泊だった。静野らしいといえば、静野らしい。
 思い出すように変な方向に視線をやりながら、静野はつづける。
「他校と喧嘩したとか、三角関係の痴話喧嘩に巻き込まれたとか、実はヤクザの手下だとか、根性焼きだとか、みんな好き勝手に言ってるみたいだけど」
「案外みんな楽しんでんじゃん、梶を」
「仲いいわけじゃないからね。口にするだけ」
 梶本人と全く関係のつながらないところで、梶は人気者のようである。
「気になるなら本人に聞いてみれば?」
 静野は最後に、もっともなことを言った。やはり私は、静野を尊敬する。この教室で、梶に対してそこまで正論を吐ける人間はなかなかいない。
 静野が今度こそ読書を再開して、私も今度こそ食事を再開する。空になっていく弁当箱を見ながら、さりげなく視線を滑らせて、視界の端で梶をみた。教室のうるささを見事に切り取った静寂に一人、梶は机にうつ伏せになっていた。よく見る昼寝スタイル。その分、いつも自然に人目を吸い寄せる梶のあれは目に入らない。
 静野との会話で、梶のあれ、と言えば通じてしまう暗黙の了解じみたものが、何となく私には痒かった。雨の日に外窓を拭くような、キリがない空しさのようなものを感じた。

 彼の顔を大きく支配するそれの由来を、この教室に存在する人間で、梶以外に知る人はいないのだろう。
 梶の顔面には火傷がある。



***

 梶の顔面には火傷がある。
 知識のない人間でも、とっさにケロイドなんて言葉を思い出してしまうほど、鮮明な火傷の痕だ。気にすまいとしても、まず皮膚の色が違うのだから、赤の他人だってすい寄せられるようにそこに視線を送ってしまう。雪原の中ぽつりと佇むポストを自然と見てしまうように。
 ちょうど左頬の上部から、おそらく額にかけて。前髪が長いせいで、梶の額の全貌など伺ったことがない。左頬とは対照的に、右頬はきれいでなめらかな常人のそれなのだ。顔面という狭い空間で生まれるギャップは完璧。左耳も少しだけ赤い。ジグソーパズルを何ピースか剥がすと、その向こうは赤い地だった、そんな感覚。
 蝋燭をでたらめに垂らしたような皮膚の凹凸の中に、突然きれいに塗れた目玉が現れる。何の心構えもしていない人間がそれを目にしてしまえば、悪寒が走るのも仕方ないだろう。
 遠目にちらちらと梶の顔を伺いながら、私はそんなことを考えていた。
 火傷のことを考慮しているのか、ただの無精なのか、梶は男にしては髪が長い。机に肘をついて少しうつむき気味にしていれば、いつだって目元は前髪で隠れた。窓際の机に柔らかい昼間の日差しが射すと、梶の前髪と睫と眉毛の一部が灰色っぽくうっすらと光って、それは何となく綺麗だと、思う。
 そしてクラスメイトの誰もが(きっと)、梶は自分の顔面に貼り付いたディスアドバンテージなんて気にしちゃいないだろうと、思っていた。終始無表情の梶は、火傷に対してたとえどんな反応を返されても無反応無感動無関心だったから。 
 だから後日、放課後目撃したとあるやりとりを思い返し、私は無駄に感心する。瞬間的には死ぬほど梶を憎らしく思ったけれど、よくよく考えれば非常にレアな状況だった。あああいつ意外と人間くさいやつだったんだなぁ、なんて。思ってたより気にしてたんだなぁ、あいつは、なんて。
 まあとりあえず、瞬間的には死ぬほど梶を憎らしく思った。当時の私には、憎らしさの方がでかく、大事だったようだ。



 なにが悪いって、いつも放課後勉強している図書室が今日に限って終日閉鎖されていたのが悪かったのだ。昼休みにその情報を得て、なら今日は教室で勉強するか、なんてぼんやり思った。あ、それを実行したのも悪かったかも。
 放課後、ざわざわと教室から掃けていく生徒に反して、自分は机の上に教科書を出す。目の前を横切っていつも通り教室を出ていく梶をちらりと横目で見送った。やっぱりやつは手ぶら。
 教科書を開き、問題集を眺めていくうちに、教室はどんどん静かになっていく。ふと顔を上げれば、すでに一時間経過していて、教室には私以外誰もいなかった。意外と快適な沈黙。
 少し疲れた。自然と手が鞄に伸びて、財布を掴む。目白が昼にココアを買っていたのが印象に残っていた。まだ残ってるかな、なんて考えながら、財布を片手に教室を出た。
 そこで私は、梶のことを完全に忘却していた。梶の席にはまだ、鞄が残されていた。気づかなかったけど。


「お前、本当にやる気はあるんか。どうするんか、進路」
 こういう場面に遭遇する機会って、なかなかないだろう。そして私はこういう空気が嫌いだ。
 少しだけ勉強して、疲れたから一階にジュースを買いに行って、また二階の教室に戻ってきただけなのに。なんでこんな目に遭わなければいけないんだ梶バカヤロウ。
 教室前の廊下に、二人がいた。マネキンに服を着せたようなシルエットの梶と、マヨネーズの容器を原型にしたみたいな体型の教師の背中。
 教師はなんだか高級そうな一枚紙をぺらぺらと梶に差し出しながら、梶は両手をポケットにつっこみながら。会話の流れは一方通行なのだろうなと、話を聞かずとも二人の姿勢を見るだけで判断できる。なんで放課後の教室前で、微妙な訛りを織り交ぜながら、そんな殺伐とした話をしてるんだよ。
「志望する大学名とか、就職を希望するとことか、あるやろう。書いてこいって何度言ったら分かるんか」
 階段を上がって廊下につながる踊り場から、私は二人を見つめていた。多分二人は私に気づいていない。いや、角度的に梶は気づいてるかも。まさに踊り場と廊下がつながっているそこで、二人が会話しているのだ。立ち止まった私の気まずさを誰か理解してほしい。
 手の中でココアの缶を転がしながら、どうするべきか私は意外と真剣に考えた。扉の真ん前で話をしているのだ、空気を読みながら教室に入るにも限界がある。
 とりあえず100パーセント私に気づいていない教師は、梶に向かって熱心に語りかけている。
「お前もう、五月からずっとこんな調子やぞ。本当にやる気あるんか。自分の将来のことなんや、もっと熱心に考えろ」
 まるで青春小説のマニュアルを読み上げているような言葉だ。実際その教師は熱血なことで有名で、時々感情的になって少々あほくさいミスだって犯すが、基本的に生徒からの評判はいい。梶と一対一で会話する位なのだから、おそらく本物。
 熱風みたいな力強い言葉に、鞄を肩に掛けた梶は前髪の一筋も動かさず、ただぼんやりとしていた。そんな梶を見て、教師がまた肩をいからせて言葉を重ねようとする。
 そのとき、茂る柳の枝を一つだけ引くように、梶がぽつりと呟いた。
「先生」
 何も考えていない声の調子に、私は擦り硝子の目を思い出す。
「ぶっちゃけ俺みたいなの、どっかで働けるって本気で思ってますか」
 ざわり、沈黙が広がる。枝を引かれて波打つ柳のように。
 教師が何も言わなくなった。背中しか見えないが、口をぱくぱくさせて、何か言わなければならないという使命感に襲われている表情は想像できる。そこで言葉に詰まった教師を見て、あーあ、なんて、他人事に私はあきれていた。
 梶はするりと教師の前から抜け出し、そして私の方に近づいてきた。私が立っているのは階段の踊り場だから、まあ自然な流れ。
 どうするべきか、私は正直戸惑った。ここで立ち止まっているの、梶は気づいていただろう。でも梶に、どんな反応をすればいいのか?
 答えはとくに必要なかった。教師の前を通り抜け、私の存在にいっさい視線を送ることなく、梶は階段の方へと歩いていった。例のスリッパを引きずるような音をさせて、階段を下りていく。私は思わず梶を見送ってしまったというのに、梶は完璧に私を無視した。本当、人生上級者。
「小山、いたんか」
 今度は、何ともいえない気分で階段を見る私に声がかけられた。目があった教師は、気まずさを表情にしたらこんなもんだろう、という顔をしている。マヨネーズ体型、腹部は風船にネクタイを貼りつけたみたい。
「また勉強か?」
「はあ、まあ」
「そうか。まあ、頑張れ。あんまり無理せんようにな」
「はあ」
 さっき梶に対して言っていたのとは、あらゆる意味で真逆のベクトルを持つ言葉。
 それだけ言って、教師はとぼとぼ歩いていった。階段を下りていく背中を見つめながら、やはり何ともいえない気分で私は首を傾ける。首を傾けながらも、ようやく教室へと入る。



***

 ざわり、柳を引くように沈黙を生み出した梶を、なぜか私は忘れられなかった。
 ココアのプルタブをあけ、口に付けながら、机の上のノートや教科書を乱雑に畳んでいく。B5の紙束に刻まれている手書きの情報の存在を思うたび、ふと私は何となく情けなくなる。
 けれど今私の頭を支配しているのは、いつもの取り留めもない情けなさとかではなかった。
 筆箱を閉めながら、綺麗な灰色に光る梶の前髪を思い出す。その下に潜む、ジグソーパズルの地みたいな痕。
(なんか、なんだ。なにもないのに何かに引っかかってるよーな気持ち悪い感じ)
 机の上できれいに積まれた教科書と、その上に乗せられた筆箱。肘をつきながら、筆箱に引っかかっているキーホルダーを指先でいじる。
 梶と会話がしたいと、ぼんやり思った。なぜか分からないけれど。あの頭の中身がなにを考えているのか、もう少し知っても罰は当たらないんじゃないだろうか。そんな気がした。
  問題は会話のきっかけだ。おはよう元気? そんな挨拶だって、梶に対しては白々しく、不自然である。教室の誰だって梶と目を合わせないし、言葉を交わさない。梶だって教室の誰とも目を合わせないし、言葉を交わさない。
 教室の誰だって。
(でも梶、放課後居残ってるんか)
 ぼんやり思った。誰もいない放課後の廊下、そこで言葉を交わしていた教師と梶。
 思いながら、自然と梶の机に視線を送る。当然現在、そこに鞄はない。そして教室に、私以外の誰もいなかった。
 きっと明日この時間には、私と梶しかこの教室にいないんだろうな、と思った。その想像を達成するのはひどく簡単な予感がしていた。  



***

 誰か私を助けてください。
 生まれてから一度でも、きちんと口に出せていれば、何か変わっていたのだろうか。
 時折猛烈にそう思う。けれど私を助けてくれた人にすがるわけにもいかなかったし、自分の席を私に譲ってくれた姉にしがみつくわけにもいかなかった。冬場に放置した蜂蜜の底の方、ざらざらと固まっていく結晶のように、その思いは私の底の方でざらざらと、ひたすらひたすら溜まっていった。この思いと同程度の量の小石を用意すれば、人間一人圧死できるんじゃないだろうか。どうでもいいことをつらつら考えながら、私はひたすら溜めていった。
 口からそれを解放したとき、何がおこるのか、私には予期できなかったから。
 何が起こるのか。事故か、事件か、はたまた何も起こらないのか。
 何が怒るのか。父か、母か、はたまた姉か。姉が怒ったらきっとそれは私の人生のおしまいである。
 姉が怒ったら。そう、姉が起こったら。
 それだけが怖いのかもしれない。漠然とした恐怖の正体は、私にすべてを譲ってくれた姉だったのかもしれない。親の愛も、家庭での地位も、全部私に放るようにして渡して、そして微笑んだ姉が、私はただただ怖かったのかもしれない。
 けれどその恐怖とは全く関係ないところで、無条件に梶は私をいやしてくれた。あんな奴に癒されていたという救いようのない事実。けれど梶は、私を確かに、癒してくれた。ふさがらない傷の端と端をもって、慎重にこちらを伺いながら、傷口が塞がらないものかとそっと指先で押さえつけてくれた。
 じわりと痛みを感じながらも、私はそれが、涙が出るほど嬉しかったのだ。



「ねえ梶、これあげるよ」
 気まぐれと計算の百乗の結果、放課後の教室で、私は生まれて初めて梶に声をかけた。
 私は教室に居残って勉強していた。もちろん、梶の席に鞄が残っているのは知っていた。教室から一瞬姿を消していた梶は、クラスメイトが私以外掃けたところで教室に戻ってきた。
 梶が教室に入ってきて、私はさりげなさを装って教科書を畳み、勉強道具を鞄にしまい、そうして梶に声をかけた。
 鞄を肩に掛け今まさに帰ろうとしていた梶は、声をかけられたことに最初気づかず、教室の中に私と梶しかいないことに気づいて、不思議そうに私を見てきた。盛大な独り言だな、そういいたそうな顔をしている。
「これあげる」
 少し大きい、はっきりした声は、何度も繰り返して言いたくないからだ。梶はいつだって耳に青いイヤホンをつっこんでいて、それは耳の外にだって雑音を垂れ流した。結構な音量であることは、何となく察することができる。それでなくとも、梶は何となく耳が悪そうな雰囲気だった。あと勘も悪く、鈍そうだ。
 梶は首を傾げたまま、イヤホンを片耳外した。私の言葉が聞こえたのかどうかは定かではないが、私が何か言ったのは把握しているらしい。そして私が梶に向かって右手を差し出していることにより、発言の大体の内容を予想できているようだった。
 梶と私の間には、机三個分の距離がある。放課後の教室には、窓枠でいくつもの黒筋に分断された夕日が射していて、窓際で鞄を片手に立っている梶は強烈なオレンジの逆光を浴びていた。斜めに差す逆光の色味とイヤホンの青色が合わなすぎる。強烈な逆光は、余分な線を省いて、梶の表情をいつもよりシンプルなものにしていた。いつもよりシンプルな、いつも通りの無表情。
 西日を顔に受けて、私は目を細めながら梶を見る。近づくのも何となくしゃくだったので、そのままの立ち位置から、手に持っていたのを投げつけた。拳を引いて、押し出すついでに手を開く。ガキみたいな勢いだけで手のひらの中のものが飛んでいく。放物線なんて描かない、弾道学なんてバカみたい。
 むちゃくちゃな軌道のそれを、梶は器用に片手で受け止めた。男女の間には、絶対に理不尽な身体能力の差があると思う。反射神経とか。
 梶はしばらく手の中のものをじっと見つめて、顔を上げ、まっすぐ私を見てきた。誰かこいつの顔を写真にとって、無表情のお手本として教科書に載せればいいと思う。
「なんで?」
 無表情で、すとんとまっすぐ訪ねてくる梶。これに威圧感を感じる人間は、少なからずいるらしい。
 私はなぜか、直感に近い感覚で、梶のこの話し方は何も考えていないだけなのだと知っていた。別に相手を脅したいわけでもない、考えを共有したいわけでもない。チェック項目を埋めていくような、○×に答えていくような、そんな例えでは勿体ないほど、もっとシンプルなことしかこの男は考えていないのだ、きっと。そしてそのありえないほどの無思考を理解できず、多くの人は無理解から梶を恐れる。恐れた結果、距離を置く。その距離は結果として、梶にとって都合がいい。
 そして今は、そんな話どうでもいい。
「あたしのお姉ちゃん、お菓子買うの趣味なの」
「それ、趣味って言うの」
「買うのが、趣味なの。買って人にあげるのが好きなの。自分ではあんまり食べないっぽい」
「ふーん」
「で、あたしがそれをもらった。でもあたし、そのお菓子あんまり好きじゃない」
「あ、うん」
「捨てるの勿体ないじゃん」
「俺、ゴミ箱替わり?」
「うん」
「ふーん」
 梶は手の中でセロファンに包まれたチョコレートをがさがさ言わせながら、私の話に適当に頷く。相づちを打つ壁ってあったら、本当にこんな感じだと思う。生まれて初めての梶との会話。
 セロファンをほどいて、梶はチョコレートを口に放り込む。歯で挟む、口を閉じる、租借する。ごりごりと奥歯で噛み潰しているらしい。首は傾げっぱなしで。
 梶とオレンジ色の教室を共有する。変な感じ。会話しようとあまりに身構えるのも不自然だろうと、鞄を肩に掛け、携帯をいじって電源をいれたところで、梶が声をかけてきた。誰かこいつの声を録音して、無感動な声のお手本として永久にデータ保存すればいい。
「こやまさんのお姉さんって美人?」
 かけられた言葉が想定外すぎて、私は梶を見てしまっていた。自分がどんな表情をしているのかは分からないけれど、無表情な梶と向かい合っているのだ。きっとどんな顔をしていても、どこまでも馬鹿っぽい。
 梶がなんで聞いてきたのかは分からない。けれど私の本能的な部分が、この沈黙を保つことこそ一番危険だと訴えてきた。
 とっさに口を開けば、あとは台詞が勝手に滑り出てくれる。
「知らない。考えたことない」
 もちろん嘘だ。私の姉は贔屓目なしにみても美人で、誰だって私と姉を並べればびっくりする。やる気のない私と、常に生気に満ちあふれた光を目に宿している姉だから、仕方ない。私はいつだって、姉と並べられるためにそこにいる。細かいところを比較して、姉を誉めたたえるために、私はいる。いつだって。
「ふーん」
 梶は興味なさそうに(多分。無表情だから分からん)呟いた。いつの間にか口が動かなくなっているから、さっさとチョコレートを飲み込んでしまったのだろう。
 動けなくなった私を無視して、梶はさっさと歩き出す。私たちの間は机三個分。
 その距離が机一個分になると、梶は逆光から抜け出していた。肩のあたりで、叩きつけてくる西日が切れている。首から上は落ち着いた薄暗闇の中にあって、その方が梶に似合っていた。逆光よりこちらの方が、梶の擦り硝子みたいな目が綺麗に見える。
 梶は何度か瞬きした。一度蝋を溶かして、再び固めなおしたように、左目の瞼はぼたりと変形している。ぞっとするような嫌悪感は誰だって感じるはずだ。その背筋の冷たさが、私は気持ちよかった。
 瞬きに見とれていて気づかなかった。梶が何度か瞬きする間、じっと私を見ていたことに。
 梶の唇がゆっくり動く。そこだけ正常な造形の口元は、梶の顔に存在する限り、違和感でしかないだろう。
「じゃあ、こやまさんはお姉さん似なんだね」
 梶が何か言った。何事か把握する前に、梶はふらふら歩き出す。机一個分の間隔を保ったまま、すれ違う。
 こっちを見もせずに、梶はまた声をかけてくる。誰かこいつの声を録音して、以下省略。
「こやまさん、バス? 駅?」
「……駅」
「歩き?」
「うん」
「ふーん」
 梶の背中を目で追う。なぜか。梶は教室のゴミ箱に、ぽいとセロファンを投げた。きれいに入った。弾道学の理屈。
「一緒に帰ろうよ」
「……駅まで?」
「うん」
「なんで?」展開早すぎだろ。
「なんか。うん」
「それ答えじゃねー」
「俺もちょっと思った」
 じゃあね、ばいばい。背中で手を振って、梶は教室から出ていく。空間から梶を取り除いたことで、嘘みたいに残った静寂に、私はようやく気づいた。ざくざく壁を切り刻む斜めの西日だけが喧しかった。



***

 そして、梶と放課後を共有する時間が増えた。
 一時教室から姿を消す梶が、また鞄を取りに教室に帰ってくるまでの間は、わりとというかかなりまちまちだった。私以外の最後のクラスメイトが出ていくのと入れ替わりにやってくることもあれば、電気のついていない教室が暗くなってきたのに私が気づいても、帰ってこないこともある。
 姿を消している間梶がなにをしているのかは知らない。そこにはあまり興味もなかった。梶が教室に帰ってきて、鞄を持って出ていくのを完全に無視することもあるし、逆に梶が教室に帰ってこなくても私の方が勉強に飽きて帰ってしまうこともある。
 基本的に私と梶の間に、言葉はない。
 ただし十パーセントか二十パーセントの確率で、私が梶に声をかける。ねえお菓子いらない、ふーん、それで終わり。
 その半分の確率で、梶が私に声をかける。虫の瞬きを目撃する確率と同じくらい、奇跡に近い。こやまさん勉強好き? いや別に、ふーん、はいおしまい。
 無音をベースにした放課後は、楽だった。私はいつの間にか図書室に通わなくなって、そのかわり、いつも口実替わりの個包装されたお菓子を持って教室に居残るようになった。そのうち口実もだるくなって、私はただ教室に居残るようになった。お菓子がなくなっても、私は梶に話しかけたし、半分の確率で梶は私に話しかけた。
 いつの間にか、話しかけない日はなくなっていた。ずいぶん昔、母に隠れて子猫に餌を持っていった時みたいに、些細な秘密を抱えている感覚があった。何となく楽しかった。



***

 梶がふらふらしていた。
 それはまあ、いつも通りのことなんだけど。遠目に見てもどうしたって、まっすぐ歩いていなかった。まっすぐ立ち上がることもできず、腰掛けるときはどさりとゴミ袋を落とすように。あいつの動きに音が付随するのは珍しい。顔はいつもの火傷を貼り付けた無表情。
 教室で梶に話しかけるなんて不自然きわまりないことはしない。それでも梶を遠くから伺う癖はすっかり習慣化してしまっていて、だから私は落ち着かなかった。梶の動きは明らかにいつもと違っていた。
 教室移動中の廊下で、梶の背中を見つける。やっぱりふらふら、右足と左足がきちんと同じ距離を歩いていない。体が変に傾いでいる。
 そんな梶の背中を追いかけて、追い越しざまに、ばしりと叩いた男子がいた。友情とかそういうのを匂わせるものじゃなくて、どこまでも暴力的な、純粋な攻撃的な。
 叩かれた梶は、よろけた。壁に手をついた梶の背中に、男子は今度は肘を落とす。ごっ、重苦しい衝撃音が体内に響くのが伝わる気がした。梶の体が一瞬揺れた。
「梶お前、放課後来いよ」
 ぎゃははは、その男子は笑いながら、友人たちの元に合流する。何人かたむろしている男子も、同じように笑っていた。ずいぶん汚い笑い声だった。
 梶は壁に手を突いたまましばらく立ち止まって、もうちょっとしてまた歩きだした。
 私は気づいたら、立ち尽くしてその背中を見送っていた。
「ねえナギ、なに見てんの」
 不機嫌そうな声がかかる。横を見る。目白が嫌そうな顔をしていた。



***

 その日の放課後、梶は終業のチャイムとともに教室を出ていった。いつも通り。
 ただしその手に、鞄を持って。いつも通りじゃない。
 思わずまじまじと梶を見送ってしまった。とりあえず今日は、これ以上教室に居残っていても、梶と遭遇する可能性はまずなくなった。それに気づいて、気づいてしまった空しさに気づいてしまった。何ぞそれ。
 とにもかくにも、結局居残って勉強したわけだけども。


 最近目白が嫌そうな顔をすることが増えた。原因はもちろん、私と梶がなんとなく仲良くなり始めたからだ、と目白談。別に(誰かの前で)特別言葉を交わした覚えはないのだが。本人たちの自覚はさておき。
「気に入らない。どうしちゃったのナギ、あいつはめて金でも巻き上げるつもりなの」
「目白、その発想はそういう系の小説読みすぎだよ」
「新作まだ読んでないもん!!」
「なんでそこでキレんの?」
 歯がゆそうに目白が言う。彼女は意外と読書家で、だからこそ時々静野と話が合うらしい。目白がカバーしているジャンルなんて、静野の十分の一にも満たないが。
 教室で少しだけ居残って勉強をし、学内の生徒があらかた帰ったであろう適当なタイミングを見計らって昇降口まで降りると、険しい顔で掲示板を睨んでいる目白がいた。声をかけると、慌てて離れてこちらに寄ってくる。なにを見ていたのか探って欲しくないらしく、一緒に帰ろうと一方的に話の流れを作られた。別に逆らう理由もないので、乗ってやったわけだが。
 で、ローファーを履きながら言葉を交わしていたはずなのに。なぜかうっかり、梶の話が出た。目白の機嫌は急転直下、きっと友達を大切にしないような人間だったら、私を置いてさっさと帰ってしまうだろう。
 昇降口を出て、正門へとだらだら歩く。
「梶のどこがいいの? 顔とか言われたらもう絶交するよ?」
「絶交って……小学生か。つーか、良い悪いって、そういう雰囲気ではいっさい無いんだけど」
「梶と話してるだけで十分怪しいっつーのー!!」
 わざとらしく頭をかきむしる目白。外見がいいので無駄に絵になる。だから別に、あんたの前で話はしてないだろうにっつーの。
 目白と並んで歩くと、時々姉と一緒にいるときのようなデジャヴが襲ってきて、私はそれが嫌いじゃない。むしろ、それにぶら下がっている。
 私も目白も人混みが嫌いで、下校するタイミングを見計らうタイプだ。私たち二人が大声でやりとりを交わしても、基本的に周囲の雰囲気は静かである。
 だから、なのか。その奇妙な音は妙に響き、空気を揺らして伝わってきた。
 短い音に、目白が唐突に言葉を切る。いぶかしく思った私は、目白がもたらした沈黙により、二度目のその音に気づく。
 破裂音に近かった。風船が割れるようなあれ。でもそれより重く、雑で、とっさに身体を守りたくなるような音。
 音源は遠いのか、曖昧にぼやけた音だ。校舎にぶつかりまくって反響した音だけが、私と目白の元に届く。
 私は目白を見た。目白はさっきよりも嫌そうな顔をしていた。それで私は、何の音なのか何となく確信が持てた。持ててしまった。
「目白、これ何の音?」
「いーじゃんナギ、帰ろうよ。良いことないって」
「良い悪いって、そういう話じゃないってば」
 さっきもこんな事を言った気がする。目白はやっぱり嫌そうな顔だ。
「どこから?」
 首を巡らせ、たとえば音の揺れが目に見えたりしないものか、と思う。田舎の空はどこまで晴れたって、なぜか灰色がかっている。
 今度聞こえてきたのは、破裂音ではなく人の声だった。複数の男子の笑い声。背中に冷たい鳥肌が立つ。こういう空気を、私は知っている。
 そういえば今日、梶は放課後どこいったんだろう。
「ねぇナギ、帰ろうよ」
 目白の声はねだるようだった。目白は私より賢い。関わるとろくな事がないことを、きっと知っている。
 そして私は、目白より馬鹿だ。いいことなんてないのを知っている。何にだって首を突っ込めば、基本的に痛いものが帰ってくるのを知っている。それでも、突っ込んでしまうのだ。首とか、口とか、指とか。
 私は、何かに胸の内側を押されるような感覚を殺せなかった。早く走れよ、と促されている気がした。
「ごめん目白、忘れ物した。先帰ってて」
「ナギってば!!」
 声を上げる目白を無視して、私は走り出す。今まで歩いてきた方向でも、これから向かっていた方向でもない、別の角度。無駄に重い鞄が、走るのにどう考えても邪魔だ。それでも私は走った。なぜか。目白と、もう一つ何か、私を安定した世界に留めようとするものを振り切るように、走った。
 梶、お前はどこだ。
 向かうのは体育館の方。ここからは死角になっている体育館裏が、さっきの妙な音たちの源だと、何となく確信を持っていた。
 私は、目白より馬鹿だ。きっと梶よりも馬鹿だ。いいことなんてないのを知っている。何にだって首を突っ込めば、基本的に痛いものが帰ってくるのを知っている。それでも、突っ込んでしまうのだ。首とか、口とか、指とか。
 でも、突っ込まなくたって、いいことなんて無いんだ。それも知っている。動いたって動かなくたって、結局私は、死ぬときには痛い目を見るのだ。
 だったら、もう少々の痛いものなんてどうでもいい。今はただ、考えないことが、少し気持ちよかった。生まれて初めての清々しさだった。
 衝動に任せて走るなんて、馬鹿みたいだ。アキレス腱あたりに擦れるローファーがただただ痛い。



***

 ばんっ。
 破裂音みたいに聞こえたそれは、近くで聞くともっともっといびつなものだった。遠くに届いた響きだけが研ぎすまされて、破裂音みたいに聞こえたのだ。
 それはもっと、絶望的な音。たとえば学ランを着た人間の体に、思い切り振りかぶった鞄をぶつけるような音。
「ぎゃはははは」
 汚いと表現するのがちょうどいいような笑い声。どこかで聞いたことがある。教室移動中の廊下とかで。
 走った私は、現場を見つけた。けれどそれからどうしたらいいのか分からなくて。
 結果今、少し大きな木とその下の茂みに隠れて、体育館裏の集団をそっと見守っている。
 五人の集団は、真ん中でうずくまる一人以外、異常にテンションが高いらしかった。全員男。学ラン。
 うずくまっていた一人が、よろよろと立ち上がった。操り主が酔っぱらってる操り人形みたいに、ふらふらと頼りない足取りで、自分の頭を撫でる。
 そいつの斜め後ろに立っていた別の男子が、意味の分からない掛け声とともに、助走をつけてジャンプした。それと同時に足を突き出せば、ふらふらのそいつの背中にストライク。そいつはまた倒れ込む。また爆笑の嵐。箸が転がっても面白いんだろう、きっと。
 のどの奥が、風邪を引いた時みたいにカラカラになって痛かった。よろよろふらふらしてるそいつは梶だった。
 どうしたらいいんだろう。飛び出して止めるとか、そういうのは無理だ。そんなのは道徳の教科書に出てくるどうしようもないおとぎ話だ。
 梶は地面に転がったまま、今度は動かなくなった。猫の死体みたいになってる梶を、他の四人が次々と蹴る。手近な石を拾っては、投げつける。全員笑ってる。梶は衝撃に任せて身体を揺らすだけだ。
 どうしたらいいんだろう。
 その問いかけに気づいた私は、同時に私が、どうにかしたいと思っていることに気づいた。
 なんで?
 一人困惑する。現実を受け入れるのが嫌になったのか、思考の第二層あたりが活発化している。読書しながら考えごとをしているときのような、テレビを見ながら会話しているときのような、目の前のものを受け流して考えごとをしている。
 梶がこんな風に扱われていることを、私は知ってたじゃないか。それこそ一年の時から、人目に付かないところでスリッパを隠されたり、教科書を捨てられたりしている梶を知っていた。
 それが何で、今更気にすんの。
 分からない。分からないけど。
 目の前ではまだ非現実な現実が続いている。四人が一人を囲っているのは、馬鹿笑いさえなければ何かの儀式のようだ。
 分からないけど。
 さっきから梶は動かない。
 そして梶は、抵抗の意志をいっさい見せない。
 まるで自分がサンドバッグとして生まれたかのように、ただ黙々と、自分を襲う衝撃を甘受している。そんな風に見えた。そこに感情など伴っていない。そんな風に見えた。

 首を傾げながらごりごりチョコを食べていた梶が忘れらんない。

 何か動かなきゃ。とっさにずっと思っている。
 何か動かなきゃ。梶が死んじゃう。馬鹿な、田舎の高校のリンチくらいで誰か死ぬわけないだろ。
 でも何か、動かなきゃ。梶が死んでしまうよりも、今すでに梶の中で何かが死んでいるような、そっちの予感が嫌だった。

 一緒に帰ろうよって、いってた梶が忘れらんない。

 頭はさっきからぐるぐるぐるぐる。取っ手掴んでがらがら回せば玉を吐き出すあのくじみたいに。出るものなんてなくなって、それでも空回りを続けている。
 超高速回転する頭は、逆にいろんなものを流していって。だから私は、ちょっと気づくのに遅れた。
 気づいたら五人の近くに、やたら縦に長い影が立っていた。学ランを着ている。異常に足と腕が長い。
 頭は金色をモノクロにしたような、変な銀髪(多分)。眉間に縦皺が寄っていたり、苛立ちを限界まで圧縮した液状化のものを塗りたくって固めたような表情だったりしたけれど、それよりなによりその目に吸い寄せられた。梶の擦り硝子の目を思わず見てしまう感覚に似てる。
 その人の目は、怒っている。遠くの茂みからのぞき込んでいるだけなのに、なぜかそれが分かった。
「うわっ」
 誰だよ、四人のうちの誰か一人が声を上げる。
「ゼゼだ」
 また誰かがささやくように言った。
 背の高いその男子は、黙ってそこに立っているだけだった。いつから立っていたのか、きっと誰も気づかなかっただろう。梶は気づいていたかもしれない。
 なぜか分からないが、その男子の登場効果はてきめんだった。梶を除いた四人がうろたえたようにごそごそして、そこらへんに散らばっていた荷物を慌てて抱えると、その場から逃げ出すように走り出した。梶を置いて。
 私はというと情けないことに、その四人が完全に見えなくなるまでじっと隠れていた。
 四人が体育館裏から飛び出し、うだうだとそれでも体育館沿いを走り、角を曲がって見えなくなる。それを見送ってから、私はまた梶と男子の方に目を向けた。
 背の高い男子は、さっきの場所から一ミリたりとも動いていなかった。彫刻のように固そうな皺を眉間に刻んだまま、地面に転がる梶を眺めている。
 地面に転がっていた梶は、しばらくして身じろぎを始めた。何とかといった風に体を起こし、いつかのように自分の頭を撫でる。梶の顔は私からは見えない。
 それを見ていた背の高い男子(ゼゼっていう人?)は、少しだけ目を細めると、梶の二の腕を掴んだ。あ、と思う間に、腕を引くだけの単純動作で、梶を立たせてしまった。本当に引くだけで。梶はよろよろしていたから、腕力だけで男子校生一人を立たせられるほど、その人の筋力が強いってことになる。
 梶は何とか立ったけれど、結局その場でよろけた。後頭部を押さえ、身体に平衡感覚が戻ってくるのを待っているようだ。頭とか殴られたのだろうか。たぶんそうだろう。
 そのまま五秒位して、梶はようやく顔を上げた。背の高い人は、梶が動き出すまでじっと梶を見守って(?)いた。
「ありがとうございます」
「…………」
 マネキンが声を吐き出したみたいな梶の声に、その人はじっと、目を細めたままでいる。
 梶は緩く首を振り、砂だらけの学ランを気にすることもなく、周囲をふらふらと見回した。そんな梶の足下に、背の高い男子がなにかをどさりと放る。足にぶつかってきた自分の鞄に気づき、梶はもう一度「ありがとうございます」と言う。のろのろと持ち上げる。
 背の高い男子は、ため息をつくでもなく、身を案じる言葉をかけるでもなく、じっと梶を見つめた後、歩きだした。体育館裏から離れるように、私のいる方向に向かって歩き始める。私はとりあえず、茂みの後ろに隠れてみる。
 私の隠れている茂みの前で、その人は少しだけ立ち止まった。
 足下しか見えなかったから、その人が立ち止まっていたということしか認識できない。スリッパの色は先輩カラー、少しだけ煙草の臭いがする。その人は数秒くらい立ち止まって、そして歩きだした。さっきの男子の集団が歩いていった方向に姿を消す。
「こやまさん、なにしてんの」
 背の高い先輩が去っていくのを見送っていた私は、突然かけられた声に飛び上がりそうになった。誰だって、なにもいないと思っていた空間から話しかけられれば驚くだろう。
 もちろん茂みの前で、不思議そうに私を見ていたのは梶だ。
「急に話しかけんな。びっくりするじゃん」
「え、ごめん。え、俺が悪いの?」
 梶は不思議そうに首を傾げる。見覚えのある首の角度に、なぜか安心する。
 私は仕方なく立ち上がり、茂みを挟んで梶を見やった。学ランは見るも無惨な砂だらけ泥だらけ、自分ではつけられないであろう位置に足形とかがある。
 爛れた顔だけが、いつもの無表情だ。
 私は呆れて、なにも言いたくない。最大限顔をゆがませて、とりあえず感想だけ言っておいた。
「汚ぇ」
「あ、俺も思う」
「じゃあ何とかしなよ。払うとかさ」
「背中とか、届かないじゃん」
「脱げよ」
「面倒くさい」
「そこ天秤にかけるとこじゃないし」
「言い方うまいね」
「ふざけんな」
「え、ごめん」
 ぺらぺらぺらぺらと、糊付けした折り紙を重ねていくような応酬。どちらもたった数分前の出来事を忘れたわけではないだろうに(いや、梶は怪しいけど少なくとも私は忘れてない)。
 もうなにも言いたくなくなって、私は歩きだした。なぜか梶が、ついてくる。いや、帰ろうと思う限り、少なくとも門までは同じ方向なんだけど。
 体育館沿いのがたがたしたアスファルトを、歩く。私が少し前、梶が斜め後ろくらい。
 ここを通っていった複数人を思い出し、そして背の高い男の人を思い出して。思い出して何となく、梶に聞いてみる。顔は向けない。
「あの人、先輩? 知り合い?」
 言葉が返ってくるまでに少し間があった。梶が首を傾げて、ああ、と何かに気づいたように顔の傾きを戻すのが見えるような気がした。
「知り合い。先輩」
「なんて人?」
「膳所って人」
「ぜぜ?」
「ぜんじょ、って書くんだって」
「なんで仲良くなったの」
「別に仲良くはないけど」
「なんで?」
「先輩よく、あそこで煙草吸ってるから。俺よく、あそこに呼ばれるから」
「あ、そ」
「偶然あって、それ以来あんな感じ」
 どちらも動機は不純な気がした。
「膳所先輩」
「うん」
「不良なの?」
「……わかんない。でもみんな、先輩来たらどっかいくから。喧嘩売らないようにしてるようではある」
「強いのかな」
「家がなんかの道場なんだって」
「どーいう漫画だよ、それは」
 これくらいの会話をして、ちょうど体育館の横を通り抜けきった。
 ここから先は門まで歩くしかない。そのまま歩こうとして、何となく私は立ち止まった。
 立ち止まって、梶を見る。
 梶も無表情で私を見ていた。
「こやまさんって、駅」
「うん」
「歩き」
「うん」
「もう帰るの?」
「うん」
「ちょっと待ってて」
 短く言うと、梶は昇降口に向かった。ちょっと駆け足で。梶の足元はスリッパだった。
 昇降口に入っていく足跡だらけの梶の背中は、何となく慌てているように見えた。少なくとも物言わぬサンドバッグみたいには見えなくて、それが何となく愉快だった。
 そんなどうでもいいことを考えていたから、私はその場から離れて帰るのを忘れていた。別に梶に構う必要もメリットも、この世にはないんだけども。
 昇降口から出てきた梶は、スニーカーの踵を踏みつぶしていた。小走りがどこか頼りないのは、そんな適当な履き方をしているせいだろう。
「一緒に帰ろうよ」
 ここまで来て、そんなことを言う。
 私は面倒くさくなって、歩き出した。
 梶はなにも言わずに、歩き出した。
 別に梶に構う必要もメリットも、この世にはないんだけども。不都合もデメリットも、この世にはない。少なくとも私の中には、ない。



***

 それ以来なぜか、梶からのアプローチが増えた。
 放課後さっさと教室から出ていく、私が一人になる、帰ってくる、そこまではいつも通り。それからそこに、一緒に帰ろうというふざけた一言が毎日付け足されるようになった。いつぞやの発言と同じ内容だが、問題はそれが毎日になったということ。気まぐれではないんだろう、きっと。いやもしかしたら気まぐれが習慣化したのか。
 あまりにもふざけすぎた内容に私は断るのも面倒くさくなって、歩き出す。梶がついてくる。駅までただただ歩く。そんな感じ。
 あくまでも梶が私についてくる形だから、隣に並んですらいない。別に会話をするわけでもない。だからといって無言が気持ち悪いわけでもない。駅までの道のりは少なくとも三十分はあるのに、梶と共有する三十分の沈黙は、私には何となく気持ちよかった。一人で黙々と歩くより生産的な気がした。もちろん、それが気の迷いだという自覚はある。
 でも梶は、なんで私なんかと一緒に帰りたがるんだろうな?
「ナギ!!」
 ぼんやり考えごとをしていたのが悪かった。
 気づいたときには目白の悲鳴が上がっていて、あ、しまった、と思う。家庭科室を満たした目白の悲鳴は磁石のように、周囲の視線という砂鉄を吸い寄せる。
 私の頭が事態を急速に吸収していく。現実に色が付いていく。思考の焦点が目の前に帰ってくる。
 帰ってきてやっと、自分の手が奇妙に塗れている感覚に気づいた。
「あ」
 握っていた包丁をごとりとまな板に転がした。とりあえず両手を、まな板の上の千切りキャベツから遠ざける。そうしたら私の手を濡らしている液体は、今度は床に滴った。ええっと、どうすればいいんだ。
「ナギ、大丈夫? 大丈夫?」
 なんとか考えている間に、悲鳴の発生源である目白が飛び寄ってくる。手を出そうとして、どうしたらいいのか分からなくて、中途半端にうろうろと、空中で目白の手がさまよっている。
 そんなことをすれば、ざわめきが伝播するのは早い。調理台と向き合っていた全クラスメイトが、こちらに視線を送ってくるのを感じた。こっち見んな、頼むから。
「どうしたの?」
 家庭科の教師が飛んできた。調理実習中の混乱の対応には慣れているのかもしれない。
 けれど飛んできた教師も、私の手元を見て息を呑んだ。一瞬だけひるんで、目尻を厳しくつり上げる。反対の手で件の指の根本を強く圧迫するように指示され、従う。そのうちハンドタオルが渡されて、それを指にかぶせ、その上から何とか指を掴む。ベージュ色の生地は、みるみる強烈な色をした液体を吸い込んでいき、元の色を失っていく。
 そのまま、エプロン(こっちもまぁ見事に汚れてしまった)も外さず、教師の連行で家庭科室を出る。保健室強制移送ルート。
 そこまで至って、私は致命的なミスに一つ気づいた。
 慌てて口を開く。これを言っておかないと不自然すぎるじゃないか。
「痛い」






(次回に続きます)
2012-07-20 16:51:18公開 / 作者:冬見
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■作者からのメッセージ
ずいぶん昔、こちらにお世話になっていたものです。HNを改め、また皆様にお世話になれればと舞い戻ってまいりました(以前三上と名乗っていたものです。お久しぶりです)。
作中に出ていく火傷や傷の表現などは、私の想像で補完した部分が多くあります。正しくない、描写が正確でない、などと思われるかもしれませんが、私が表現したい世界観とのかみ合わせや、正しいばかりが文章の面白さではない気がする、との何とも自己弁護的な思いのもと、こういう風に描写しております。すみません。
書くスピードは遅いですが、少しずつ進めていければと思っております。どうぞごひいきによろしくお願いいたします。
この作品に対する感想 - 昇順
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