『僕と彼女が付き合うきっかけはバックドロップ』作者:江保場狂壱 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
天龍高校二年生の帝頭竜は転校生の友永美鶴にバックドロップを決めてしまった。その後彼女は彼に惚れる。バックドロップで紡がれた青春群像劇。
全角29577文字
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原稿用紙約73.94枚
僕の名前は帝頭竜(ていず・りゅう)。天龍(てんりゅう)高校二年生だ。
 容姿は平凡で、成績は普通。運動神経は人より劣っていると思う。家は一戸建てで母親と二人暮らしだ。母親は講師をしており、家事は僕ひとりでやっている。おかげで炊事、洗濯、掃除は同年代と比べると上だと思う。
 僕は卒業したら就職しようと思ったが、母親は大学ぐらい出ないとろくな仕事はないよと言われた。それで母親の負担を減らすため、放課後はコンビニのバイトで小遣いを稼いでいる。もっとも僕は無趣味なので貯金が趣味といえた。
 今はもっぱら勉強とバイトの日々だ。友達とは遊んでいない。別にいじめられているわけではない。一人だけ幼馴染がいるが、こちらは一方的に絡んでくるだけだ。
 クラスメイトたちは話をして楽しんでいる。その横で僕は勉強をしており、正直うっとうしい。
 若いうちに結婚する人がいるが、僕はそういった人種を軽蔑している。だって人生の厳しさを体験しないうちに結婚し、子供を作ったとしよう。子供が子供を作る喜劇だ。自分の時間を子供につぶされたために子供に逆恨みし、児童虐待をする。
 もっともテレビで見た情報なので信憑性は低い。
 僕は恋人を作る暇があったら勉強したほうがましだ。少なくとも僕はそう思っている。
 ところがある日僕に恋人ができた。その出会いは奇怪なものであった。
 なぜならその子と出会った瞬間、僕は彼女にバックドロップをかけたからだ。

 *

 ある朝の校門の前だった。
 季節は春。四月の中旬で一年生たちは緊張から慣れてきた時期である。校門の横には立て看板が置いてあり、祝・東郷くんレスリングでオリンピック出場と書かれてあった。東郷というのはうちの卒業生だそうな。次の日曜日にその人の講演を体育館でやるという。
 うちは学ランとセーラー服だ。体操着はいまだブルマという前世紀の遺物と馬鹿にされている。
 それはともかく、大勢の生徒が見ている前で僕は女子生徒にバックドロップをかけていた。
 バックドロップとは背後から相手の腋下に頭を入れ、両腕で相手の胴に腕を回しクラッチして持ち上げ、自ら後方に反り返るように倒れ込んで、相手の肩から後頭部にダメージを与える技だ。
 僕のバックドロップはへそ投げ式で、投げる際に真後ろにブリッジを組むかのごとく反り返るためにへそ投げと呼ばれているのだ。
 どうして?
 僕の脳裏にそう浮かんだ。
 いきなりだった。いきなり僕の後ろに気配がしたので、思わずバックドロップをかけてしまった。
 気配がしただけでバックドロップなんかかけない。僕の背後に気配がしたのだ。それは野生の肉食獣が駆け寄ってくる、そんな気配だった。
 僕は天地が逆の状態で投げた女子生徒を眺めていた。
 女性特有の甘い香りに、抱えた腕からは柔らかい感触がした。黒髪で、地面には蓮の花のように広がっているから腰まで長いのだろう。相手は確実に頭を地面に叩き付けられている。早く助け起こさないといけない。僕はすぐに起き上がり、その人を介抱する。
 その子は和人形のように均整のとれた顔立ちで、前髪をぱっつんしている。バックドロップで頭を打ったために目を回していた。
 僕は彼女の頬を叩き、意識が正常かどうか確認した。するとうめき声とともに、彼女は目を開く。
 僕と彼女は目が合った。彼女は僕の目を離さなかった。そして頬が紅潮した。
 それを見た僕も頭の中が湧かしたヤカンのように熱くなりそうになった。それに手を取ったけどすごく柔らかいから人形ではなく、人間なのだなと不思議に感心した。だが腰のあたりを抱えると何か違和感があった。
「そこのお前、何をしとるか!!」
 背後から教師の声がした。おそらく他の生徒が知らせたのだろう。僕は職員室に連れて行かれ、彼女は保健室へ運ばれた。

 *

 僕は担任教師の樋口にこっぴどく叱られた。樋口は三〇歳で独身だ。ねっちっこい性格で、陰険な顔つきなうえ、強い者に媚を売り、僕らのような弱い者に威張り散らすので、男子生徒はおろか、女子生徒は生理的に嫌われている。
樋口はねちっこかった。お前は何をやっているのだと、転校生に暴行を働くとは何事だと。
 話によると僕がバックドロップをかけた女子生徒は転校生で、クラスは僕と同じだという。
 名前は友永美鶴(ともなが・みつる)で、アメリカ帰りの帰国子女だという。父親はアメリカのある会社の社長らしい。
 僕は退学を覚悟したが、友永さんは先生たちに僕は悪くない、悪いのは自分だから処罰をしないでくれと頼んだそうだ。だから処罰は自宅謹慎一日になった。樋口はすごく不満そうだった。
 僕は教室に入った。すると談笑していたクラスメイト達は僕が入ると一斉に僕を見て、その後目をそらした。
 これは当然だろう。とびっきりの美少女にバックドロップをかけた男が何のお咎めもなしなのだから。しかも相手は普段は存在感がない空気男の仕業だから、余計目立つ。
僕はそれを気にせず、自分の席に着く。僕の席は教室の一番後ろの窓際の席だ。隣は空の席があった。
「よぉ、帝頭くん。元気にしとったかね?」
 教室の空気を一切読まずに能天気な声がかかった。相手は茶髪でポニーテールの女子生徒だ。小柄だが健康的でボーイッシュなタイプ。その分胸が小さいがそのことは禁句だ。彼女は幼馴染で名前は浅川リサ(あさかわ)。実家は酒屋で僕の家はお得意さんだ。正確には僕ではなく、母親がお得意さんだが。ちなみに僕のバイト先でもある。
「聞いたわよ。あんた校門前で転校生の美少女にバックドロップをかましたんだってね」
 僕はただうなずくしかなかった。それは覆すことのできない事実だ。僕が黙っているとリサは何となく皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「珍しいわね〜、あんたが見ず知らずの人にバックドロップをかけるなんて。しかも、その転校生はほぼ無傷。これは何かあるわね」
「何もないよ。というかその言い方だと僕がいつも人にバックドロップをかけているように聞こえるじゃないか」
 するとリサはむすっとした顔になった。
「へえ、昔は一緒にかけていたじゃない。小学校の時に……」
「お前らぇ、席につけ」
 リサの言葉を樋口が遮る。その次に転校生の友永さんが入ってきた。リサはさっさと自分の席に戻る。
 改めて見ると彼女は美しかった。瀬戸物の人形がまるで命を宿し、そのまま歩き出したと思われるほどで、それでいて体つきは出るとこは出て、腰などは引っ込んでおり、ギリシャの彫刻のようにくっきりしていた。
 教室中で男子生徒が湧いた。女子生徒も彼女の美貌に見とれていた。
「友永美鶴です。先日アメリカから帰ってきました。よろしくお願いいたします」
 彼女はぺこりとおじぎすると、さらに教室は湧いた。だが僕には関係ない。
「で、友永さんの席は……」
 樋口が言おうとしたら、友永さんは勝手に教室の後ろに行った。そして僕の隣の席に迷うことなく座った。
「えっと、友永さん?」
 樋口は目を丸くした。転校生がまっすぐ僕の隣の席に座ったのだ。周りの生徒たちも転校生の美少女が因縁のある僕の隣に座ったことに疑問を抱いていただろう。
「私は、この席がいいです」
「この席って、隣は……」
「私はこの方の隣がいいです」
 友永さんはきっぱりと断言したので、樋口はそれ以上何も言えなくなった。あとはホームルームの準備を始めてしまった。
 僕は唖然となった。その横で友永さんは柔らかい笑みを浮かべていた。

 *

 休み時間、友永さんの周りには人が大勢集まって、質問合戦をしていた。僕はその横で窓の外をぼんやりと眺めていた。
 友永さんはみんなと楽しく話していた。ところが僕の話題になると血相をあげたのだ。
「ところで友永さん、なんで帝頭とはどういった関係なのさ」
「そうそう、転校初日にバックドロップをかけられるなんてさぁ」
「大体こんな影の薄いやつをかばうなんて……」
 次の瞬間、机をたたく音が響いた。叩いたのは友永さんだった。友永さんは立ち上がり、顔が真っ赤になった。
「帝頭さんの悪口は許しません!! 帝頭さんは私の理想の王子様なのですよ!!」
 彼女の王子様発言に教室は黄色い声と、絶叫が入り混じった阿鼻叫喚地獄と変わった。
「王子様……」
 僕はあまりの衝撃に声をやっと絞り出すと、友永さんは僕の腕に絡んだ。
「はい♪ 私はあんなすてきなバックドロップをかけていただけるなんて、夢にも思いませんでした」
 いや、普通はバックドロップをかける人などいないだろう。その前にかけたら警察行きが普通だ。
「そう! 竜のバックドロップはすてきなのよ。あなた話が分かるじゃない」
 そこにリサが割り込んできた。ああ、頭が痛い。吐き気がする。
「あなたは……」
「あたしは浅川リサ。こいつの幼馴染。まあ幼馴染と言っても家は隣じゃないし、付き合いは幼稚園からだけど、真っ裸でビニールプールで遊んだり、一緒にお風呂に入ったくらいだけどね」
 女子生徒が歓声を上げた。こいつ余計なことを言うな!
「まあ、そうでしたの。ですが浅川さん。私は負けませんよ」
 友永さんの言葉にリサを始め、クラスメイトたちの目は丸くなった。
「私の結婚相手は私にバックドロップをかけてくれる人です。まさか日本であんなすばらしいバックドロップを決めてくれる方がいるとは思いもよりませんでした」
 僕を見つめる友永さんの目は恋する少女の目だ。
「帝頭さん。交際を前提に結婚してください」
 いやいや、順序が逆だろう。僕は否定するが友永さんは全く人の話を聞いていない。
 リサも最初は目を丸くしたが、すぐに首をぶんぶんと横に振るう。
「ふぅん、こいつのバックドロップにねぇ。別にあたしはなんとも思ってないし、付き合うといいわ。ただこいつは奥手だから既成事実を作らないと煮え切らないわよ」
 そこ! 余計なことを言うな。リサと友永さんは友情の握手を交わした。もう好きにしてくれ。
 なんとなくだがリサは笑っていたが、目は笑っていないように見えたのは気のせいだと思う。
 次の時間から僕の地獄が始まった。男子生徒たちの嫉妬の視線が槍のように突き刺さる。
 彼女はどんな問いや計算もそつなく答えてしまう。しかも体育の時間では運動神経抜群でバスケットの試合は始終彼女が試合を支配していた。しかも家庭科の授業では店に出してもおかしくないクッキーを焼いたのだから、彼女の人気は教室という局地から、全校へ広がった。
 もっとも彼女の好きなものがバックドロップと聞くと、彼女と同じクラスの人はドン引きしたけど、それを割り切っても彼女は魅力的である。仲良しになったのはリサくらいだ。
 友永さんは一気に学校のアイドルになった。そのため平凡な僕を恋人だと宣言したため、全校の男子生徒たちは僕を目の敵にしたのである。
「おい帝頭。あまり調子に乗らないことだな」
 放課後、男子生徒五名が僕を取り囲んだ。掃除でゴミを捨てに行く途中だった。当番は友永さんと一緒だった。リサは実家の手伝いがあるからと言って帰宅している。
 三年生の不良で名前は確か山道力(やまみち・ちから)で、レスリング部所属だったと思う。なんでも卒業した先輩に勧められたそうだ。もっとも練習嫌いなので大会には勝利してない。というか出してもらえないという。
 身長一八〇センチ。体重一一六キロで、山のような体格だ。顎が割れており、胸板は尻のように割れるほど膨らんでいる。腕は丸太のようにはちきれんばかりだ。サングラスをかけており、その上髪型は一昔前の不良のようにリーゼントで決めている。取り巻き四人も似たようなものだ。
「僕に何か用ですか?」
 すると山道はいきなり平手打ちで僕の頬を叩いた。僕の身体は回転しながら吹っ飛ぶ。そして廊下に尻もちをついた。
 でも大した威力じゃない。確かに腕力はあるが、手首をひねりが甘い。ただ木製バットをそのまま振り回しただけだ。
 おそらくみじめに這いつくばっていると思い込んでいる山道は僕の様子を見て、ひどくご満悦であった。
「何か用ですか、だと? お前は自分の犯した罪を理解していないようだ。地味で無能のお前が美人の転校生といちゃつくことがどれだけの犯罪かわかっているのか? 彼女のような女神は俺のように強い人間と付き合うのが理想だと思わないかな? なあ、みんな?」
 山道は取り巻きに同意を求めると、そうだそうだと僕を非難した。そして薄ら笑いをあげている。周りには生徒がいるがみんな厄介ごとはごめんだと言わんばかりに無視してくれている。
 ありがたい。こういう輩は弱い者いじめが趣味なんだ。下手に逆らうと僕自身だけでは済まなくなる。どうせ暴力が趣味の人間は我慢することを覚えない。社会に出ても上役を殴り、首になり、刑務所に入れられるだろう。例え暴力団に入ったところで金を稼げなきゃ意味がない。今は暴力団も学歴の時代だ。
 彼らのような人種は薄っぺらいプライドを異常なまでに大事にしたがる。馬鹿にされるのが嫌いというより、我慢することがものすごく嫌いなのだ。
「あなたたちは何をしているのです!!」
 凛とした声が廊下に響いた。相手は友永さんだ。友永さんは烈火のごとく怒っている。それを山道たちはにやにや笑いながら見ていた。
「ほほう、これはお姫様。ご機嫌麗しゅう」
 へらへら笑いながら慇懃な挨拶をする山道を無視して、友永さんはまっすぐ僕のほうに駆け寄った。
「大丈夫ですか? ゴミ捨てにしては遅いので心配で来ました」
 そういって友永さんはハンカチを取り出し、僕の顔を拭いてくれた。大変ありがたいのだが、無視された山道は友永さんの華奢な肩に手をかけた。
「おい! 俺様を無視するなんて、ふざけているのか!!」
 その時、僕は見た。
 友永さんは瞬時で山道の背後に回った。そして、山道の胴を両腕で組み、へそで投げた。へそ投げ式バックドロップだ。
山道の巨体が宙に舞う。その際に友永さんがブルマを穿いているのが見えた。おそらくいつでもバックドロップをかけてもいいように配慮したのだろう。
 それにしても美しい姿勢だった。技をかける機会も素晴らしいが、技のかけ方も流れるように華麗だった。そして友永さんの表情は涼しいままで、見た目も麗しい。こんなきれいなバックドロップは見たことがない。
 山道は廊下に頭部を叩きつけられる。そのまま気絶した。目は渦潮のように回り、カニのように泡を吹いた。
「私を口説きたければ私にバックドロップをかけることですね」
 その言葉に腹を立てた取り巻きが、友永さんにバックドロップをかけようとした。
 しかし友永さんが投げられる寸前に、取り巻きに足をかけて自由を奪い、そのまま後ろにたたきつけた。バックドロップの基本的な切り返し技で河津落としとも呼ばれている。
 圧倒的な強さを見せつけられ、取り巻きたちは気絶した山道を二人掛かりで抱えて逃げた。一応人望はあるらしい。
「どうでしたか? 私のバックドロップは」
 呆然としていた僕に友永さんが声をかけたので正気に戻った。
「うん、すごいよ!! 今のバックドロップ最高だったよ。きれいなブリッヂだったし、あれって基本的なルー・テーズだよね? へそ投げ式の!!」
「はい! バックドロップには抱え式やひねり式があります。小柄の私にはひねり式がいいかもしれませんが、やっぱりへそ投げ式が好きですね」
「うんうん、バックドロップにもいろいろな種類があるけど、やっぱり基本は大切……」
 興奮していたけど、次の瞬間僕は怒りが湧いた。僕をいじめた山道たちではなく目の前に立っている友永さんに。
「友永さんッ!! どうしてあの人たちにバックドロップをかけたの!! 下は固い廊下なんだよ、怪我でもしたらどうするの!!」
 僕は怒った。頭に血が上って、友永さんに怒鳴りつけた。でも友永さんは柳に風のごとく、平然としていた。
「それならなぜ今朝私にバックドロップを決めたのですか?」
 正論である。確かに僕の行為も一歩間違えれば友永さんの人生を終わらせたかもしれない。僕は反論することができなかった。それを見た友永さんはくすっと笑う。
「私は、受け身は得意ですので大丈夫です。先ほどの方たちは受け身がろくに取れておりませんでした」
「一応あの人たちはレスリング部所属なんだけどね」
「そうでしたか。ですが幽霊部員なのでしょう。基本がまったくなっていません。生まれ持った体格だけを頼りにしてきたのでしょうね」
 友永さんはいったい何者だろうか。運動神経は抜群だけど、人を傷つける技を使う人には見えない。
 友永さんには近づかないほうがいい。特にバックドロップを好む女性とは付き合いたくない。

 *

 僕は自宅に帰った。今日は、バイトは休みだ。一戸建てで一括払いしている。僕は誰もいない家の中でただいまと声を出した。
「おかえり〜」
 居間のほうから声がした。聞き覚えのある声だ。居間のソファーには一人の女性がテレビを見ながら寝転んでいた。年齢は二十代後半でショートカットの端正な顔立ちの美人だ。それでいて野生味あふれる魅力のある女性である。
「よう竜ちゃん、元気にしとるかね?」
「母さん。今日はずいぶん早いんだね」
 そう目の前に寝ている女性は僕の母親だ。二十代後半に見えるが実際は四〇歳だ。普段はある講師をしている、いつもは夜の七時まで帰ってこないのだが、今日は早めに帰ってきたようだ。しかしテーブルの上には缶ビールがごっそり置かれているのは無視しよう。ちなみに缶ビールはリサの店で注文したものだ。一日にロング缶を二四缶一気に飲むのは珍しくない。
「竜ちゃん!!」
 母さんが真剣な表情で声を上げた。
「母さんじゃなくて、三輝(みつき)ちゃんでしょうが」
「うん……」
 母さんこと、帝頭三輝は見た目だけでなく精神年齢も若い。若いというより小学生のガキ大将のような性格だ。十年前に亡くなった父さんが家事をしており、以後家事は僕の仕事になった。面倒くさがりではなく、家事が壊滅的にだめなのだ。料理を作らせれば、元の食材が原形をとどめず、悪魔の兵器ができあがるという寸法だ。
 父さんは僕が生まれる前に母さんの毒殺料理を食べて、一瞬死んだ両親が三途の川で帰れと言われたそうな。
 料理のレシピは父さんが僕のために残しており、それには母さん好みの味などがきめ細かく書かれている。
「ところで、かあさ、三輝ちゃんはどうして早く帰ってきたの?」
「ああ、今日はうちの支店にアメリカの実業家が来日してくるんだってさ。それで出迎えのために早仕舞いしたわけさ」
「アメリカの実業家?」
 アメリカと聞くと今日転校してきた友永さんもアメリカからの帰国子女だというのを思い出す。
「ああ、そいつは十年前にアメリカに渡って護身術の教室を開いて、それが全米に広まって成功を収めたのさ。ついでに護身グッズもバカ売れしたそうだよ。大したもんさ」
「あれ? 三輝ちゃんはその人のことを知っているの?」
「あたしの幼馴染だよ。奥さんは早くに亡くなってね。娘さんと二人で暮らしているのさ。その娘さんは日本に帰ってきて、あんたと同じ学校に通っているはずだよ」
「……それって友永美鶴さんのこと?」
「あれ、知っていたのか。それで今日からうちで預かるから」
 母さんは缶ビールの蓋を空け、ぐびっと飲み込む。僕は少し早い夕食の支度をしようとしたが、母さんの最後の言葉が一瞬理解できなかった。
「……、今うちで預かるって言ったよね?」
「ああ、言ったよ」
 母さんはテレビを見ながらビールを飲んでいる。
「おお、見てみなよ。テレビじゃレスリングのオリンピック候補が紹介されているよ。しかもあんたと同じ学校の卒業生だよ」
 母さんが指を刺すと確かに天龍高校の卒業生東郷という人がレスリングでオリンピック候補に選ばれたそうな。本人はサングラスをかけているので目はわからない。ただどこかで見たような気がした。
「いや、そんなことはどうでもいいんだ。僕が母さんに聞きたいのは……」
「だからお母様ではなく、三輝ちゃんと呼ばなくてはならないのですよ」
「いや、呼び方なんか関係ないんだ、今日うちに……」
 僕は気づいた。今言葉を修正したのは母さんではなかった。背後から声がしたからだ。僕は背後に冷たいものを感じた。それは素肌の背中に氷をつけられた感覚だ。
 そして全身に悪寒が走ると、僕は無意識のうちに相手の背後をとった。
 僕は母さんがいないソファーに相手をバックドロップで叩き付けた。
 僕ははっとなった。相手は友永さんだった。僕は又友永さんにバックドロップをかましてしまったのだ。
「だっ、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
 僕の差し出す手を、友永さんはうっとりとした目で見つめていた。完全に恋する乙女だ。恋する乙女の目を見たことなどないが。
「お〜お〜、相も変わらずキレのいい投げだね。練習だけは欠かしてないわけだ」
 母さんはビールを飲みながら皮肉っぽく笑った。母さんは知っているのだ。僕がバックドロップを忌み嫌う理由を。
「とっ、とりあえず夕食の準備をするから!!」
 僕は夕食の準備を口実に友永さんから離れようとした。
「いえ。これからは帝頭家の食事は私が作ります」
「はい?」
「私は居候の身です。お金は私が向こうで作った会社から持ってきましたが、金さえ払えばいいわけではありません。郷に従えば郷に従え。日本には遊びに帰ってきたわけではなく、戻ってきたのですから」
「なっ、何を言っているんだ。この家の家事は僕一人でやっているんだ。それに向こうの会社って……」
「私がアメリカで作ったネット関係の会社です。一人で日本に帰っても生活できるだけのお金を稼ぐために作りました。権利は現地の人に売り渡しました。ちなみに学費も生活費もすべて自分持ちです。お父様のお金は一銭も使っておりません」
 なんと自由の国アメリカ。女子高生が会社を作って金を稼ぐとは。しかも生活費はすべて自分持ち。友永さんがただのお嬢様でないことに感心した。
「いや、そんなことはどうでもいいんだよ。家事は僕の生きがいなんだ。それをいきなり奪われるなんて耐えられないんだよ!!」
「いいじゃないの。すべてをまかせても。毎日勉強にアルバイトじゃきつかろうて」
 母さんはテレビを見ながらビールを飲んでいる。子供の大事な話に酔っぱらう親がどこにいる。ここにいたが。
「それが嫌なら役割分担するんだね。朝食と弁当はあんた、夕食が美鶴ちゃんにね。掃除は全部あんたがやって、洗濯は女性物だけ美鶴ちゃんにまかせる。それでいいだろう」
 おそらく母さんは僕が反発することを知って、答えを用意したのだろう。それに母さんは強引な人だ。一度決めたら絶対に変えない。僕はあきらめるしかなかった。
「では今日の夕食は寄せ鍋にしましょう。私日本に帰ったらお鍋を食べるのが夢でしたの」
「だったら材料を買わないと……」
「いえ、材料は全部三輝さんが用意してくださいました」
 そういって友永さんは台所から豆腐や白菜、鳥団子に白滝などの材料を取り出した。すでに話は決まっていたようだ。

 *

 寄せ鍋は普通においしかった。今までは母さんと二人で鍋をつついていたが、今日は友永さんが加わり、三人で食べている。
 友永さんは鍋奉行で野菜をあまり食べない母さんに白菜などを入れていた。
「ふふふ、こうして家族一緒に鍋を囲む。私の夢でした」
 友永さんは嬉しそうであった。そういえば母さんは先ほど友永さんのお父さんは幼馴染で、奥さんはすでにないという。アメリカではお父さんは仕事で忙しいだろうし、一人で食事をとっていたのかもしれない。
「ぷひゃー、うまいねぇ。女の子が作る料理はこれまた格別だわ!」
 母さんはビールを飲みながら鍋をつついていた。というか床の上は空き缶でぎっしりだ。どれだけ飲めば気が済むんだろう。この蟒蛇め!!
「鍋なら僕も作っていたよね」
 僕は鍋に関してはうるさいよ。鍋料理はしゃぶしゃぶやすき焼き、おでんや鶏の水炊きなどいろいろある。もっとも母さんと二人だからあんまり食べないのだけれど。
「バカだねぇ。若いぴちぴちした女の子に作ってもらうのがいいのさ。しかもこんな美少女が手に触れた食材には美少女のスパイスが効いてうまくなるものさ」
「それ完全にセクハラだよね。しかも同性に言うセリフじゃないよね?」
 僕の言葉を無視して母さんはビールを呷る。いったいいくら飲むつもりなんだ。その様子を友永さんは楽しそうに眺めていた。
「ふふふ。お二人とも楽しそう」
「楽しそう?ちっとも楽しくないよ。友永さんもこんな酔っ払いの相手をする必要はないよ」
「あら、私はとても楽しいですよ。だってアメリカでは広くて大きなテーブルの上にサンドイッチとチーズ、魔法瓶に入れたコーヒーの食事を一人で取っていたので」
 ああ、やっぱりか。彼女は一人で冷たい食事をとっていたのか。レトルトのようにレンジで温めるだけの食事が暖かいのではなく、家族というコンロで温めた食事は彼女にとって夢なのだ。
 食事が終わると友永さんは後片付けをはじめ、母さんは風呂に入った。僕はこの時間だと後片付けをしていたので手持ちぶたさになった。ソファーに座っているがテレビは見ない。興味がないからだ。勉強でもしようか。予習と復習するだけだし。
 僕はじっと両手を見た。この手は今日同じ人を二度バックドロップをかけたのだ。
(あれ、動いてない。動いてないよ?)
 遠くから木霊のような声が聞こえる。僕の手はいつの間にか小さく縮んでいた。その手は真っ赤な血で染まっている。
(ひぃ、ひぃぃぃぃ!!)
 子供の悲鳴が聞こえた。悲鳴の後には子供が一人転がっている。僕より一回り体格が大きい。その子は動かない。頭からだくだくとトマトジュースのように血が流れている。周りの空気には鉄さびのような臭いが漂い、鼻を刺激する。
(人殺しぃ!!)
 違うよ。僕は殺してなんかいない。
(どうしてこんなことを!!)
 僕は悪くない。だって君たちが悪いんじゃないか。僕はやられたからやりかえしただけだ。どうして僕だけ批判するの。どうして僕だけが悪者なの? 答えてよ!
(起きてぇ、起きてよぉぉぉ)
 悲痛な声と、罵声が絶えない。僕が、僕のせいで、僕、僕がぁぁぁぁ!!
(いいえ、大丈夫です)
 僕の後ろから声がかかり、左肩に手を置いた。その手は暖かく、安心する香りがした。
 僕は泣きじゃくるのを抑え、後ろを振り向く。
 そこには友永さんがいた。彼女の笑顔は母親が我が子に向ける笑みのようであった。
(私があなたを支えます)

 *

「おい、どうしたのさ?」
 ふと僕の肩に誰かが手をかけた。驚いて振り向くと後ろにはバスタオルを巻いた母さんが立っていた。
「はぁ……母さんか」
 すると母さんはこめかみに拳を当ててぐりぐりとやった。
「母さんじゃなくて三輝ちゃんでしょうが。風呂は上がったからあんた入りなさい」
 僕を解放すると母さんは自室へ戻った。そうか。考え事をして時間が過ぎたのだ。
 僕は風呂に入る準備をした。昔の嫌な話を思い出した。風呂に入って忘れてしまおう。
 どうして最後に友永さんが出たのだろうか。出会って一日も経っていないのに。そりゃあ彼女のバックドロップは素晴らしかったけど……。
 いかん、いかん。ひとつ屋根の下に若い男女が暮らすことになったから煩悩にまみれているのだ。それにあのすばらしいバックドロップ……。冷たいシャワーを浴びて煩悩を振り払おう。
 僕は浴室に入った。
「あら?」
 浴室には友永さんが入っていた。制服越しではわからなかったけど、均整のとれた体型だった。肌も陶磁器のように真っ白ですべすべだった。思わず見惚れてしまう。
「一緒に入りたいのですか。それではどうぞ」
 友永さんは恥ずかしがらずに浴槽に入るよう勧める。
 いやいや!! なんで友永さんが入っているのだ? 母さんが上がったはずなのに。
「三輝さまがあなたと一緒に入れとおっしゃったので。まさか一緒に入っていただけるとは夢にも思いませんでした。さあ、一緒に入りましょう。背中を流して差し上げます」
「いいえ、遠慮します! さよなら!!」
 そう言って僕は浴室を猛ダッシュで逃げ出した。そして自分の部屋に戻り、布団の中に潜り込む。
「見ていない、見ていない。僕は見ていない……」
 僕は念仏のように唱えた。しかし僕の網膜には友永さんの裸体がはっきりと焼付いている。とても今夜は眠れそうにない。
 ああ、母さんが憎い。

 *

「おはようございます」
 朝のリビングに友永さんがすでに制服を着て下がってきた。母さんはまだ寝ている。僕は朝早くから朝食の準備を進めていた。
 うちの朝食は和食だ。味噌汁はきちんとだしを取ってからにしている。今日はアジの開きに冷奴。お新香つきだ。パンはめったに食べない。嫌いなのではなくあくまで好みだ。
「おはよう」
「あら、目の下にクマができていますね。大丈夫ですか?」
 友永さんが心配そうに声をかけた。彼女が心配するように僕の目の下にはクマができている。答えは言わなくてもわかるだろう。
 友永さんは自分の席に着き、朝食をとる。朝の食事は重要だ。朝食を抜くことは生きることを放棄しているのと同じだ。
「おいしいですわ」
 友永さんは喜んでいる。アメリカ暮らしが長いから洋食が好きかと思ったが、日本に帰ってきたのだから和食のほうがいいと判断した。喜んでくれて何よりだ。
「そういえば竜さまは今朝四時ごろに家を出たようですが、何をしていたのですか?」
「え? さっ、散歩だよ」
「そうですか? 散歩にしては帰ってきたのは六時くらいでしたね。ずいぶん汗をかいたようで、シャワーを使っていましたようですが?」
 友永さんが切りこんでくる。静かに家を出たはずなのに、気づかれていたのか。正直友永さんには知られたくなかった。
「あとそれから昨日のお風呂ですが……」
「何?」
 さすがに聞きにくいのか友永さんは頬を紅潮している。
「竜さまは着やせする性質ですのね。昨日の裸を見て驚きました。かなり鍛えこんでいるようですね」
 僕の顔は真っ赤になった。僕はあまり人に裸を見られたくないのだ。見られると言いたくないことを言わされるから。友永さんはこれ以上訊くのはぶしつけだと思ったのか、そのまま無言で朝食をとった。
 僕はテレビの電源を入れる。テレビではワイドショーの時間だ。内容はレスリングのオリンピック候補の東郷という人を特集していた。
 レスリングか。僕には関係のない話だ。
 さて僕は二人分の弁当を作って、登校した。人に噂される恐れがあるので別々に家を出ることにした。友永さんは親公認の恋人になったのだから腕を組んで登校したいとのことだったが、僕は全力で却下した。僕は目立ちなくないのだ。できることなら学校卒業までひっそりと暮らしたかった。
 その儚い希望はあっさりと吹き飛んだ。この日の僕は注目の的であった。正確には友永さんである。
 友永さんが自分より背が高い山道にバックドロップを決めたことが、すでに全校生徒に知られていたのだ。もっともそれは負の方向ではなく、正の方向にだ。
 容姿端麗、才色兼備、運動神経抜群で、学校の不良をバックドロップで沈めるスーパーヒロイン。すでに彼女のファンクラブができあがったそうな。
 そうなると僕に対する風当たりがひどくなる。何しろ僕は昨日までは地味で無能な生徒だったのに、友永さんの恋人になったのだから。いや、僕は認めていないよ。確かに彼女のバックドロップは惚れ惚れするほどだったけど。
「つうか、あんたはバックドロップで人を判断するの?」
 後ろから声がかかった。相手はリサだ。リサはジト目で僕を見る。ああ、リサの視線が痛い。
「リサか。驚かせるなよ」
「驚いたのはあんたの勝手でしょ。おはよう美鶴」
「おはようございます。リサさん」
 おいおい、もう名前で呼び合っているのかよ。しかも友永さんを呼び捨てだよ。
「こいつってさぁ、実力はあるのに、本気を出さないからもどかしいのよね。でも美鶴にバックドロップをかけるなんてよほどのことだと思うな。いったい何をしたの?」
「はい。少しだけ殺気を出してみました」
 殺気って。女子高生の言うセリフではないが、リサは真面目に話を聞いている。
「私は登校途中に殺気を放っていました。ですが、みなさんはあまり反応してくれません。反応して後ろを振り向いても私を見てへらへら笑うだけです。竜様だけです、殺気に鋭く反応してあんなすばらしいバックドロップをかけてくださったのは」
 リサは感心しているが、普通の人はバックドロップなんかかけないって。とはいえ、彼女に何を言っても無駄だ。彼女の人生の価値はすべてバックドロップなのだろう。だが、なぜそこまでバックドロップに固執するのか、気になるな。
「そういえば美鶴はなんでバックドロップにこだわるの?」
 僕の気持ちをリサが代弁してくれた。
「はい。バックドロップは私の亡くなった母の思い出なのです」
 え? 亡くなったって……。いきなり重い話になったのですけど?
「私の母は柔道の選手でした。若いころはオリンピックに行くのではと期待されていましたが、結局はライバルに負けて引退してしまいました。もっとも母はその人を恨んでおらず、全力で叩き潰してくれたのでかえってすっきりして引退できたそうです」
 なんと友永さんのお母さんは柔道をやっていたのか。
「母はその後今の父と結婚しました。母は私に柔道を教えてくれました。とりわけ母を破ったライバルの方の技を教えてくれました。それが岩石落とし、バックドロップ投げだったのです」
 友永さんは淡々としながらも、母との思い出を語っているが、僕の胃はすごく重くなった。
「母は私が六歳の頃に亡くなりました。その時の母の最期の言葉に、将来の婿はあなたにバックドロップをかける人を選びなさい。私のライバルは全力でバックドロップ投げで私を叩きのめした。バックドロップをかける人こそ生涯にかけて嘘偽りなく、全身全霊を込めて愛してくれるって。だけど易々とバックドロップをかけられる女にはなるなと、教えてくれました。ですから私は体を鍛え、バックドロップに磨きをかけました。そして苦節十年、生まれ故郷の日本で私にバックドロップを決めてくれた方が竜様、あなたなのです!!」
 友永さんは感極まった声で僕に指を刺す。リサも友永さんのお母さんの話に感動して涙を流し、ハンカチで拭いていた。でも僕は開いた口がふさがらなかった。どこから突っ込めばいいか理解できないからだ。
「そっか……。昨日から友永さんの裸体がちらつくのはそのためだったのか」
 昨日の風呂場での事件を思い出す。確かに友永さんは華奢な体つきだが、筋肉がついていた。お腹のほうも目立たなかったけど腹筋が割れていた。校門前でバックドロップをかけたあと友永さんを抱き起したけど、女性特有の甘い香りに真っ白な肌に気を取られたけど、肉のつき方が母さんに似ていることを思い出した。
「あれ? 美鶴の裸体ってどういうこと? あんたまさか……」
 あ、いけない。口が滑った。僕の家に友永さんが居候していることは隠さないと。友永さんにも迷惑がかかる。
「はい。昨日お風呂で見られました。三輝様も快く承諾してくれました」
 あっさり暴露かよ!! というか昨日のあれは母さんも一役買っていたのかよ!!
 友永さんの爆弾発言に周りの生徒たちは一斉に首だけ曲げて僕らを見る。うわぁ、殺気の大渦だぁ。心臓が弱い人だとショック死してもおかしくないかも。
「へっ、へぇぇぇぇ〜〜〜? 美鶴の裸をのぞき見したのかぁ〜。そしてあんたは素っ裸になって美鶴に抱きつき、胸を揉んでお尻を撫でたわけだ。ふ〜〜ん」
 リサがジト目で見る。こいつ、わざと大声でクラス中に聞こえるように吹いたのではないか? なんだかリサに悪意を感じるぞ。
「いえ、胸やお尻は触っていただけませんでした。せっかく体をきれいにしたのに、どうして触れてくれないのでしょう?」
 友永さんも余計なことを言わないでくれ。
 ああ、僕を囲む男子生徒から怨嗟の声と血の涙が流れているよ。僕はいたたまれずその場を逃げ出した。

 *

 昼休みのチャイムが鳴った。僕にとって午前中は針のむしろに座った気分だ。居候のことは全校生徒に知られてしまった。友永さんは女子生徒たちに囲まれて質問攻めに遭っているがこちらは時折黄色い声が上がるので深刻な問題はない。
 問題は僕のほうだ。男子生徒が休み時間にやってきて殺意の視線を僕に浴びせるのだ。同じクラスの連中は友永さんの変人ぶりをたった一日で思い知ったからそれほどでもないが、何も知らない、間接的にしか接していない男子生徒たちは嫉妬の炎に燃えていた。もし購買部に目出し帽が売っていたら額に『嫉妬』の文字を書いて襲ってくるに違いない。
「よぉ帝頭君。元気にしとったかね?」
 リサが弁当箱を持ってきた。この女はニコニコ笑っている。現状を見て楽しくれしょうがないのだろう。こっちはいい迷惑だ。
「竜様は大変でございますね」
 友永さんは心配そうに声をかける。その表情は曇っていた。さすがに僕に迷惑をかけてすまないと思っているのかも。
「休み時間にもいろいろな殿方が告白に参りましたが、すべて断りました。どの方も私が殺気を出しても全く気付かないし、後ろに回っても警戒心がまるでなし。やっぱり竜様が一番ですわ」
 前言撤回。彼女はどこかズレている。というか彼女の犠牲になった男子生徒たちに冥福を祈らずにはいられない。
 もっともそれで彼女の人気が地に落ちたわけではなく、むしろ急上昇だ。下級生の女子はスーパーウーマンの誕生に目を輝かせているし、男子も彼女の美貌と強さにますますメロメロになったようだ。
 事情を知らない人にしてみれば、僕は偶然友永さんにバックドロップをかけ、そのまま恋人になった棚から牡丹餅のような幸運の持ち主だと思うだろう。しかも僕の家に居候というおまけつきだ。
「あたしも美鶴を見ていたけど、言い寄る男子はみんなバックドロップで沈めたよね。でも、正直竜のと比べると見劣りしちゃうけどさ」
 リサは卵焼きをほおばりながら言った。それを聴いた友永さんは目を輝かせる。
「そうなんです! 私の今までの理想のバックドロップはお父様がかけてくれたものでした。ですが竜様のかけたものはお父様を完璧に超えたものでした。やっぱりお父様のおっしゃったとおり日本に来てよかったです」
「そうでしょ、そうでしょ。なんたって竜のお母さんはあの……」
 僕は思いっきり机の上を叩いた。大きな音が教室中に鳴り響く。何事かとクラスメイト達が僕のほうを振り向いた。リサが余計なことをしゃべろうとしたので遮らせてもらった。リサは不服そうに頬を膨らませる。
「あんたねぇ、いつまで過去に縛られているのよ。あの事件はあんたじゃなく、向うに非があるのよ。それを大の男がいつまでもうじうじと、みっともないたらありゃしない」
「あの、何の話でしょうか」
 僕とリサの話に友永さんは興味を持ったようだが、僕は教えるつもりは毛頭ない。リサにも固く口止めさせて、僕は立ち上がる。この場所にはいたくない。友永さんのバックドロップには心惹かれるが、僕はバックドロップを好きになっちゃいけないんだ。
 僕は屋上に来た。雲一つない晴天で風も程よく吹き、いい気持ちだ。周りには弁当を広げている生徒たちがちらほら見える。そんな彼らは僕を見ると腫物のようにそそくさと逃げ出した。僕はこの学校では一番厄介な存在になったのだ。
 すべては友永さんが来たおかげだが、僕は彼女を恨むつもりはない。僕は人に好かれてはならないのだ。変わらないのはリサくらいだが、僕は彼女をあえて遠ざけたかった。
 僕は弁当箱を広げると一気に平らげた。そして隠れるように給水塔の影に座る。僕は友永さんの裸体を思い出した。
 彼女の身体は本当に美しかった。見た目だけではなく、機能美もだ。彼女は人知れず練習を積み重ねたのだろう。僕にはわかる。僕も今朝早起きして十キロほど走ったからだ。もっとも今日だけではなく、小学一年生から続けている。最初は一キロから始めて、一年ごとに一キロ増やしている。
 あとはヒンズー・スクワットを二百回。プッシュアップを百回続けている。毎日欠かさず続けている。雨が降ろうが、台風だろうが、雪が降ろうが関係ない。テスト勉強やバイトで疲れても続けていた。病気にならないように健康にも気を使っているし、食事も細心の注意を払い、なるべくは家で食べているし、弁当などは買わず、外食もしない。金に困っているわけではなく、身体のためを思っているのだ。
 友永さんには知られたくない。知られたら彼女は何のために練習をするのか聞くと思う。リサはこのことを知っている。そして彼女はこういうのだ。何のために練習をするのかと。
 正直言えばわからない。六年前の事故で僕はバックドロップが嫌いになった。でも練習だけはやめなかった。父さんとの数少ない思い出だからだ。
 父さんが亡くなる寸前に僕は父さんと約束をした。偉くならなくてもいいから健康だけは気を付けてくれと。身体をきちんと鍛えてくれと約束した。
 ランニングやヒンズー・スクワット、プッシュアップは父さんから教わったメニューだ。
 最初は一キロ走るのもつらかった。雨の日はずる休みしたくなった。ヒンズー・スクワットも最初は二十回続けたが、みるみるうちに筋肉痛になった。プッシュアップも十回はできなかった。
 もっともだんだん慣れてきたし、父さんとの約束を破りたくなかった。最初のうちは、母さんもランニングに付き合ってくれたし、母さんと一緒にいろいろやったりしていた
 僕は学生服の上から腕を握る。腕はかなり固くなった。胸もふっくら膨らんでいるし、足も太くなった。僕は着やせするタイプだから痩せているように見えるのだ。
 六年前、僕はある傷害事件を起こした。あのときの感触がいまだ残っており、悪夢を見る。だけど昨日はその悪夢に友永さんが出てきた。これは僕にとって彼女は大切な人なのだろうか。
 僕は首を横に振る。そんなことはありえない。彼女と出会ってまだ二日しか経っていない。何を考えているんだ僕は!!
「おい! 帝頭はいるか!!」
 僕を呼ぶ大声がした。相手はレスリング部だ。昨日の山道以外の生徒が集まっており、全員で十人いた。
 僕を呼ぶのはレスリング部部長風螺敦兵(ぷら・とんぺい)だ。禿頭で赤銅色の肌だ。身長は百七十六センチで山道より若干背は低いが、練習量が半端ではないという。自分より体格が大きいものには負けられないと努力を積み重ねた人だ。あまり物覚えがいい人間ではないらしく、バックドロップ以外の技は覚えていないという。しかし多くの技を覚えていればいいものではない。天才が百の技を覚えたとて、それはどれも中途半端になる。
凡人が懸命に覚えた上段蹴りは天才が覚えたものより、身が詰まっている。風螺のバックドロップは風螺だけにしか使えない技だ。
 バックドロップといってもかける本人には独自のリズムがある。十人十色で様々なバックドロップがあるといっても過言ではない。風螺は愚直なまでにバックドロップにこだわり、バックドロップ以外の技を使うことを嫌っている。
 僕は風螺と面識はないけど、バックドロップに対する情熱は共感できた。
 僕は彼らの前に出た。すると山道たちは顔が脹れている。おそらく昨日のことで殴られたのかもしれない。山道たちは僕をにらみつけた。逆恨みだ。
「僕に何か用ですか?」
「ああ、お前に用がある。おい!!」
 他のレスリング部員が山道たちを前に突き出した。
「昨日はこいつらが迷惑をかけたようだ。謝る」
 風螺は深々と頭を下げた。そして山道たちも嫌々ながら頭を下げる。一応謝罪に来たのだろう。でも僕にはどうでもいいことだ。
「で、今日はお前に決闘を申し込みたい」
 話がいきなりあさっての方向へ飛び出した。何を言っているんだろうこの人。
「昨日、お前が転校生にバックドロップをかけたところを見た。相手が女とはいえ、あれはいいバックドロップだ。だから俺はお前に興味が湧いた」
「いえ、あれは事故でして。それに相手はか弱い女性ですし」
「か弱い女性だって? あの女はただの帰国子女ではないぞ」
「なんですって?」
「俺も部員に聞いたのだが彼女、友永美鶴の父親はプロレスラーの友永源一郎でバックドロップを得意とした選手だ。引退後はアメリカに飛んで実業家になったという。さらに彼女の母親がすごい。オリンピックには出られなかったものの、全日本柔道選手権大会では準優勝をとり続けた八戸教子(はちのへ・きょうこ)だそうな」
 風螺は部員からもらったカンペを読みながら言った。八戸教子。友永さんの亡くなったお母さんか。しかもお父さんがプロレスラーの友永源一郎。僕が一番好きな選手だ。あの人のバックドロップは技じゃない、芸術だ。目に焼き付いたら二度と剥がれない、観客はルーブル美術館のモナ・リザとミロのビーナス見に行くのと同じように彼のバックドロップを見るためにチケットを買う。十年前に引退して涙を流したのは初めてだ。娘がバックドロップを好きになるのも無理はないな。
 そういえば友永源一郎の引退の理由は奥さんの看病のためとか言っていたけど、その人が亡くなったからアメリカへ渡ったことを思い出す。
「しかも娘はアメリカのレスリングの大会では優勝をかっさらったという。そんな彼女に偶然などあり得ない。お前には実力がある。だから勝負しろ」
 風螺は僕を指差した。でも僕の答えは決まっている。
「ごめんなさい」
 僕は風螺たちの前で土下座をした。僕は勝負なんかしたくない。馬鹿にされたっていいし、いじめられてもいい。誰かを傷つけるくらいなら傷つけられるほうがいい。
「ふん。あの噂は本当だったのか。小学生の頃中学生にバックドロップをかけて、こん睡状態に追い込んだということは」
 風螺の吐き捨てた言葉に僕の全身の細胞に電撃が走る。それこそ僕の触れられたくない過去だ。
 僕が十歳の頃、小学四年生のときだけど、僕は三歳年上の中学生に絡まれた。原因は一人の女の子だった。僕が下校していると公園で見かけたのだ。
お人形のように可愛らしい子で、近所の一学年上の小学生の男子たちに囲まれている。どうも女の子は迷子のようで泣きべそをかいていた。
 男子たちはそんな彼女をからかって楽しんでいた。相撲でもやっているのか体型が大きい人ばかりだった。
僕は弱い者いじめが大嫌いなので、一計を案じた。僕は男子の一人に空き缶を投げた。そしてすぐ別方向に茂みに石を投げる。空き缶をぶつけられた男子は音がした茂みのほうへ怒りながら向かった。僕はその隙をついて女の子を抱きかかえ逃げた。
 同年代の女の子なら僕は楽々抱きかかえられる。男子たちは呆気にとられたようで動けずにいた。僕は全速力で路地に逃げ込み、彼らを巻いた。
 僕は息を切らさずに別の公園に逃げた。女の子はうさぎのようにおびえている。僕はもう大丈夫だよと優しく声をかけてあげた。
 すると女の子は安心したのか、にっこり笑った。天使がいるのなら彼女がそれだろう。
「君は見かけない子だね。どこの子?」
「ここは初めてなの。お父さんの友達に会いに来たのだけど、退屈だから遊びに出たら……」
 それでそのまま迷子になったようだ。僕は交番の場所を知らないし、今日は母さんの仕事は休みのはずなので家に帰って母さんにこの子を任せようと思った。
 女の子は僕の顔を見つめている。妙に熱っぽい視線を向けていた。
「どうしたの?」
「ううん。あなたって白馬に乗ってきた王子様みたい。だって私をお姫様抱っこしてくれたのですもの」
 彼女の例えに僕の頬は赤くなる。実際には白馬に乗っておらず、自前で担いでいたし。僕は話題をそらそうとした。
「お母さんはいないの?」
 僕が質問すると女の子の表情が曇った。いかん、これは禁句だったようだ。
「あ、僕にはお母さんはいるけど、お父さんはいないんだ。オアイコだね」
「ふふふ」
 苦しい言い訳だが、女の子は笑った。女の子の泣き顔は見たくないからね。そういえばお互い自己紹介をしていないことに気付いた。ところが。
「おい!」
 突如後ろからどすの利いた声がした。振り返るとそこには先ほどの小学生たちだ。その先頭には彼らより体が一回り大きい男子がいた。学生服を着ているから中学生だろう。悪ぶっているので不良だろうな。髪を逆立てており、まるで狒々のような面構えだ。
「お前が俺の弟分たちをこけにしたんだってな。落とし前はつけさせてもらうぞ」
 中学生は禍々しい笑みを浮かべた。自分より年下に威張っている姿はカッコ悪い。
「へっへー! 西さんはなぁ、そこら辺のガキとはわけが違うんだ。高校生にだって負けないんだぞ!!」
 僕に出し抜かれた上級生たちが喚いた。ならなぜ小学生の僕にすごむのかわけがわからない。たぶん中学校では誰にも相手にされないので、自分より格下を相手にガキ大将を気取っているのだろう。いや猿山のボスか。
 西は指をパキパキと鳴らしながら僕に近づいてくる。僕をいじめて楽しむつもりなのだろう。ふふん、相手は素人だ。単に恵まれた体格だけに頼って練習など一切したことはないだろう。僕にはそれがわかる。
 相手にとって不足はない。
 僕は女の子を後ろへ下がらせると、西の間合いを測る。
 西は僕の表情を見ていない。自分より小さい相手をいかに蹴り飛ばして泣かせるかしか頭にない。へらへら笑いながら頭の中で僕が泥まみれに這いつくばる姿を想像しているのだろう。取らぬ狸の皮算用だ。
 幸い上級生たちは遠巻きで見ており、手を出すつもりはないらしい。だけどこれから僕が行うことを見れば、僕をリンチにかけるだろう。その前に女の子を抱きかかえて逃げないといけない。
 僕はランドセルを地面に置いた。そして西に一気に詰め寄った。
 西は呆気にとられ、僕を両腕で捕まえようとした。しかし僕は素早く背後に回ると、西の腹部を両腕でつかみ、そしてブリッヂを描くように投げた。
 へそ投げ式のバックドロップだ。西の気がとられた瞬間、西の身体は軽くなった。もちろん空気のようになったわけではない。力が入っていない状態のことだ。僕はその隙を逃さず、西にバックドロップをかけたのだ。
 西の頭部が地面に激突した。西は自分の見る世界が一気に正反対になったことを理解できず、頭部を叩き付けられたのだ。
 うん。今日もいい調子だ。
 西はそのまま動かなかった。コンクリートの上なら危険だけど柔らかい地面なら安心だ。僕は怯えている女の子に駆け寄った。
「ひぃ、ひぃぃぃぃぃ!!」
 上級生たちの叫び声が聞こえた。なんだろう。女の子が西のほうを指差す。西の頭部からだくだくとトマトジュースのように血が流れている。周りの空気には鉄さびのような臭いが漂い、鼻を刺激する。
 あれ? 地面の上に投げたはずなんだけど。よく見ると西の頭部の下は固い石が埋まっていた。西はその石に頭を叩き付けられたのだ。
「人殺しぃ!!」
 上級生の一人が僕を指差し、非難する。その眼は完全に怯えきっており、僕を人間ではなく、獰猛な獣のように恐れている。
 違うよ。僕は殺してなんかいない。
「どうしてこんなことを!!」
 騒ぎを駆けつけた大人たちが気絶した西を取り囲む。そして携帯電話で救急車を呼んでいた。そして大人たちは僕を一斉ににらむ。例え小学生とはいえ、体格のある中学生をこん睡状態に追い込んだのだ。彼らの目も尋常ではなく、僕を小学生の皮を被った怪物のような目を向けていた。
 僕は悪くない。だって君たちが悪いんじゃないか。僕はやられたからやりかえしただけだ。どうして僕だけ批判するの。どうして僕だけが悪者なの? 答えてよ!
「起きてぇ、起きてよぉぉぉ」
 僕は西に駆け寄った。西の目は見開いており、顔色はどんどん土色へ変色していった。
 悲痛な声と、罵声が絶えない。僕が、僕のせいで、僕、僕がぁぁぁぁ!!
「いいえ、大丈夫です」
 僕の後ろから声がかかり、左肩に手を置いた。その手は暖かく、安心する香りがした。
 僕は泣きじゃくるのを抑え、後ろを振り向く。
 そこには女の子がいた。彼女は僕を恐れず、にっこりと笑った。
「私があなたを支えます」

 *

「ほほう、図星のようだな」
 風螺は黙り込んだ僕を見てにやりと笑った。
 そうだ。あの日僕はバックドロップを封印したのだ。あの後僕は西を気絶させた罪は不問になった。そもそも中学生が小学生をいじめようとしたのだ。あくまで事故として片づけられた。しかし次の日から僕は学校で孤立することになる。
 クラスメイトにとって僕は異常な存在になったのだ。嫌がらせやいじめはなかった。やったら僕が西にしたことをやると思っているのだ。
 変わらないのはリサだけだが、僕はなるべく彼女には学校で関わらないよう釘を刺した。僕ではなくリサに嫌がらせをするかもしれなかった。
 西は病院を転移した。なんでも両親が離婚して西は母方に引き取られたというらしい。僕のせいで家族団らんが壊れたのだ。僕は恐ろしくなった。
 母さんは学校に呼び出しを食らったが、僕のしたことは間違っていないと担任教師やPTAに啖呵を切った。あとはリサのお母さんも擁護した。ちなみにリサのお母さんは娘と違い、でっぷりと太った中年女性だが、肝っ玉母さんというにふさわしい女性だ。
 僕は自分の技が怖くなった。父さんの唯一の思い出であるバックドロップは実は他人を傷つける凶器だと思い知らされたからだ。
「さぁ、俺と決闘をしろ。嫌だと言ってもこっちには人質がいるのだからな」
 風螺は禍々しい笑顔で言った。
 人質? まさかこいつら……。
「お前の幼馴染の浅川リサだよ。あいつは今頃レスリング部のリングの上で素っ裸に吊るされているだろうさ。早く助けに行かないと風邪をひいてしまうかもしれないぜ」
 僕の頭に血が上った。溶岩のごとく熱くなった血液が頭を大噴火しなかったのが不思議なくらいだ。リサを巻き込むなんて許せない。僕はどうなっても構わないけど、リサだけは無事に救わなくては。
 僕は風螺たちについて行った。そして物陰から一人の少女が悲しげな顔で見つめていたことに僕は気づかなかった。

 *

 天龍高校のレスリング部は体育館の横にあるブリキとトタン屋根で作られた部室がある。校舎の影に遮られ、日が入る時間が少ないためか、じめじめとした生臭く、薄暗い雰囲気を醸し出していた。
ひび割れにガムテープで補強したガラス戸を開くと、目の前に古ぼけた、汗と血、カビがしみ込んで悪臭を放つ、リングがあった。
 その横にはバーベルや鉄アレイ、サンドバッグなどのトレーニング器機が置かれてある。どれも錆びとカビの臭いが混じっており、部室全体に男臭さが充満して、常人では耐えられない空気が漂っていた。
 リングの上では一人の女子生徒が両手を吊るされていた。少女は下着姿だった。地味な安価の下着である。運動靴だけは履かされていた。しかし幼児体型なので色気がないのが難点だ。
 相手は浅川リサであった。最初彼女は目をつむり、うつむいていたが、部室の扉が開き、風螺たちの中に僕がいると知ると満面の笑みを浮かべた。
「竜!! あたしを助けに来てくれたのね!! リサうれしい!!」
 リサは感激していた。気のせいか、囚われた悲壮感がないのは気のせいだろうか。
「おい、女を下ろせ」
 風螺はレスリング部員に命じた。彼らはすぐにリサをおろし、脱がしてあった制服をリサに返した。あまりにあっさりと釈放したことに僕は驚く。
「さぁて、帝頭。リングに上がってもらうぜ。お前は断ることはできない。なぜなら俺たちはそこの女の裸を写真に収めているのだからな」
「きゃっ、恥ずかしい! どうせなら化粧をばっちり決めてから撮ってほしかったわ」
 リサは見当違いなことを言っている。彼らが写真をネットで公開したらどうなるかわかったものではない。ネットアイドルですら危険なことが起きるのに、素人が恥ずかしい写真を暴露したら悲劇しか起きない。
「どうして、どうしてそんなひどいことができるの? リサが何をしたっていうの? 僕が嫌いなら僕だけを狙うべきでしょう?」
「おいおい質問が多すぎるぜ。俺はなぁ、お前と勝負ができればいいのさ。この女はそのためのエサだ。とはいえお前が本気にならないと意味がない。お前は自分の痛みより他人の痛みが我慢できない性質だ。それを利用したというわけさ」
 風螺はリングに上がった。すでに制服は脱いでおり、鍛え抜かれた上半身をむき出しにしていた。見た目は黒人のプロレスラーに似ている。
 僕はリサの恥ずかしい写真を奪い返すためにリングに上がった。そして学生服を脱ぎ、リサに放り投げた。
 その瞬間、部室内にいたレスリング部が驚きの声を上げる。僕の上半身を見たからだ。僕が毎日練習を繰り返しているので肉が盛り上がっているのだ。僕は着やせする性質なのである。風螺も僕を見て口笛を吹いた。
「こいつは決闘だ。喧嘩じゃない。最低限のルールを決めさせてもらうぜ」
 風螺が取り仕切った。
「目つぶしに噛みつき、金的の攻撃はなし。これだけがルールだ、いいな」
「……わかった」
 風螺は構えた。僕も構える。
 僕は風螺をにらんだ。風螺も僕をにらんでいる。
 風螺は肉食獣のように僕の喉元を噛みつく機会をうかがっている。だが相手は草食動物ではない、と感じているのだ。
 リングの上を石像のようにじっと動かないので、レスリング部がヤジを飛ばすかと思いきや、彼らはおとなしかった。たぶん部長の躾がよいのだろう。彼らも固唾をのんで見守っていた。
 僕は怒っている。関係ないリサを巻き込み、裸にして吊るし、恥ずかしい写真を撮ったこいつを。そして僕の思い出したくない過去を暴き立てた無神経な男が許せない。
 だが同時に僕は心が躍っているように思える。こんな気持ちは初めてだ。
 風螺が動いた。僕の背中を回り、バクドロップをかけようというのか。まるで草原を縄張りにした肉食獣のような動きだ。
 だが僕はその気配を感じている。僕は人の敵意の視線を感じるのは得意なんだ。
 僕は風螺の両手から逃げると、風螺の後ろに回り込む。
 そしてへそに腕を組んで投げようとした。
 しかし風螺は僕の足をかけて自由を奪った。そしてそのまま後ろに叩き付けられる。
 リングの上に叩き付けられた音が派手に響く。僕の身体も風螺の体重に押しつぶされた。内臓がぐちゃぐちゃになり、一瞬戻しそうになった。
 だが僕は立ち上がる。今度は風螺が僕の後ろに回った。そしてそのまま投げようとする。
 今度は僕の番だ。僕は風螺にヘッドロックを決めた。そして風螺を押し潰し、相手のクラッチを切る。
 風螺は苦しそうだがすぐ振りほどいた。リングサイドの部員たちは「あいつすげぇ」だの「部長のバックドロップが決まらないなんて」とざわめいている。
 僕には関係ないね。僕は再び風螺の背中に回り、バックドロップを決めようとした。
 風螺は投げられた瞬間に空中で捻って覆いかぶさるようにつぶしてきた。
 風螺はバックドロップを愛しているゆえにバックドロップの切り返し方もマスターしているようだ。
 うれしいなぁ。僕のバックドロップ投げがこうも決まらないなんて嬉しいじゃないか。
 僕のバックドロップは魔法なんだ。かけたら相手はすぐにバックドロップを決められて昇天する。
 西にしてもそうだ。あの巨体を小さな僕が投げ飛ばしてやった。あの時の快感は忘れられようにもない。
 ……アレ? ボクはそのバックドロップを嫌っていたのではないか。
 血まみれになった西を見て後悔したのではないか、周りの人間が見る恐怖と畏怖の目を見て怖くなったのではないか。
 ……だめだ。頭を捻っても答えは出ない。今は目の前の風螺との戦いが最優先だ。
 全身が汗でベトベトだ。バイトで働いてもここまで汗だくになったのは初めてだ。毎朝の練習でも汗をかくが、ここまで心地よい疲労感はなかった。
 風螺が僕の後ろを取った。僕はあえて投げられる。その投げられる瞬間がみそなのだ。
 僕は後方に一回転してマットに足から着地した。
 風螺にバックドロップを決めた。そしてそのままブリッヂを崩さずピンフォールした。風螺はたまらずギブアップをした。

 *

 ああ、人生において僕はなんて早まった真似をしたのだろうか。酒に酔った人がしらふに戻ると後悔するというが、僕の今の状況がそれだ。
 僕は風螺に勝った。勝ってしまったのだ。負けた風螺は敗者に似合わないすがすがしい笑顔であった。部員たちも風螺を負かせた僕に対し、怒りと尊敬の混じった視線をよこす。リサもうっとりとした目で僕を見つめていた。
「……あの浅川さんの恥ずかしい写真を返してくれないか」
 僕は早く目的を達成し、この場から逃げ出したかった。しかし風螺は首を横に振る。
「最初からそんなものはない。そもそもそいつは浅川の狂言だからな」
 僕は一瞬風螺の言葉が信じられなかった。狂言? リサは嘘をついていたのか?
 僕はリサを見た。僕と視線が合うとリサは目をそらす。こいつ僕を騙していたのか。
「どうしてそんな嘘をついたんだ。どうして!!」
 僕は怒った。リサのせいで僕は風螺と決闘をする羽目になったのだ。そして大勢が見ている前でバックドロップを決めてしまったのだ。僕は弱虫という設定なのに。
「だって竜は自分らしくないじゃない」
 リサは膨れた顔で言った。
「大体あの時の事故は小学生のあんたを中学生がいじめにきて、それで返り討ちにしただけじゃない。悪いのは中学生のほう。あんたが責任を感じることはないのに」
「それはお前が何も知らないからだ。僕は相手を血の海に沈めた事実は変わらない。僕はこの力を封じなくてはならないのだ」
 リサの言い分はあまりにも勝手だ。確かに身長差のある中学生を小学生がバックドロップで再起不能にしたとて、事故で済まされる。だが相手は人形ではない、生きている人間なのだ。その人間の人生を台無しにした罪は決して消えない。僕は一生十字架を背負って生きなくてはならないのだ。
「それに彼らに僕の昔の話をするなんてひどいじゃないか。いくら幼馴染でも言っていいことと悪いことが……」
「お前の過去を教えたのは浅川ではない。俺だ」
 突如男の声がした。部室の入り口には一人の男が立っていた。筋骨隆々で黒い革ジャンを着ていた。サングラスをかけている。そいつはのっそのっそとリングの近くまで歩いてきた。その際に体から陽炎が浮かんでいるように見える。この男の闘気だろうか。
「東郷さん!!」
 レスリング部が闖入者に対して頭を下げる。そういえばどこかで見た顔だと思ったらオリンピック出場を決めた東郷という人だ。
「ひさしぶりだな。お前たち。元気にしていたか?」
「はい!」
 レスリング部でも三年生が特に気合を入れて返事をした。
「帝頭もひさしぶりだな。かれこれ六年ぶりか」
 東郷は僕のほうを見た。僕は彼とは初対面のはずだが、なぜか向こうは僕に対して親しげなのが気になる。
「俺だよ。お前にバックドロップを見舞われた中学生だった男だ」
 そういって東郷はサングラスを外した。その眼は見おぼえがあった。六年前に僕がバックドロップをかけ、意識不明に追い込んだ中学生、西だった。
「……そんな、あなたは意識不明になったはず」
「なってないよ。正確には搬送された病院先で目が覚めた」
「でも名字が……」
「ああ、親が離婚して母親に引き取られてな。東郷は母方の性だよ。退院した後引っ越したから俺がこん睡状態で退院させられたと思ったんだろうな」
 そういえば僕は西の両親が離婚したことは知っていた。僕のせいで両親が離婚してしまったのだ。しかし東郷は否定する。
「ちなみにお前に投げられたことと、親の離婚は関係ない。ちなみに最初は親父に引き取られる予定だったが、お前に投げられたおかげで親父は問題児の俺を引き取るのを嫌がった。お前のおかげで俺はおふくろに引き取られたのさ。お前には感謝しているぜ」
 そうだったのか。西が、いや東郷が元気でよかった。だが東郷は僕をにらみつける。
「俺はあのとき荒れていたんだ。親の離婚でエリートサラリーマンの親父に引き取られそうになった。だから小学生のお前をいじめて問題を起こそうとした。いまさらながら幼稚な行為だと思うよ。しかし俺はお前に敗れた。俺より体が小さいお前にバックドロップを決められたとき、世界が文字通り反転したんだ。おふくろに引き取られたあとはレスリングを習うようになり、今ではオリンピックに出場できるようになった。俺は生まれ変われたんだ。なのにお前はなんだ。俺の人生に道しるべの松明をともしたお前が過去の鎖に縛られ、自分が身に着けた技術を錆びらせようとしている。お前の偉大なる母親江戸三輝(えど)が泣くぞ」
 江戸三輝。その名前を聞いてレスリング部員たちが騒ぎ出した。
「あの全日本柔道選手権大会、優勝者の?」
「オリンピック金メダリストの?」
 そう僕のお母さん、帝頭三輝の旧姓は江戸だ。友永さんのお母さん八戸教子のライバルだった人だ。母さんは僕を生んだ後柔道の講師として働いている。僕も母さんに憧れて柔道を習っていた。バックドロップというか、岩石落としは母さんの必殺技だった。相手の体重が重かろう、軽かろうと関係ない。出てくる相手にはバックドロップで落とすのが母さんの信条であった。
「そうだ。お前がいかにバックドロップを否定しても、蛙の子は蛙だ。江戸三輝の現役時代のビデオを見たが、あれほど美しいバックドロップは見たことがない。お前のもそうだ。先ほどの決闘を見せてもらったがあんなに素晴らしいバックドロップの切り返し技はお目にかかれない。なのにお前は美しく磨かれた宝石を曇らせるどころかどぶに捨てる行為をしている。俺はそれが許せんのだ」
 東郷の言い分はもっともだ。あのとき投げ飛ばした不良が僕に影響されて、しかもオリンピック選手になったのだからすごい。だがそれとこれとは別だ。相手がたまたま死ななかっただけだ。運が良かったに過ぎない。
「僕はもう、バックドロップはやりたくない……」
「それは嘘です!!」
 そう言おうとした僕だが突如それを遮る声が響く。相手は友永さんだった。
「バックドロップに興味がないのならなぜあなたは毎朝練習をしているのですか。例え義務にしても目的のない行為に長年できるものではありません!!」
 友永さんが叫ぶ。きっと今朝のことは知っていたのだ。知ってて僕を試したに違いない。
「先ほどの試合を横眼で見ましたが、あれほど素晴らしいバックドロップは見たことがありません。それに試合をした風螺先輩をごらんなさい。すっきりした表情ではありませんか。それは竜様がバックドロップに対して真摯な態度を示したからです。あなたのバックドロップは常に真剣で、嘘交わりのない意思表示だからです。だから私は好きになったのです!!」
 突如愛の告白をして真っ赤になる友永さん。そこにリサが横から出る。
「何言っているの。竜はねぇ、あたしのために戦ったのよ。あたしを救うためにね。あんたなんかお呼びじゃないわ」
 突然リサは友永さんに牙をむき出した。いったいどうなっているんだ?
「あたしはね、竜の幼馴染なのよ。卒業したら告白するつもりだったの。それを横から泥棒猫のようにかっさらっていくなんてなんて我慢できないわ」
「まあ好きになる時期など関係ありませんよ。人が好きになるのに時間や規則など関係ありません。いかに人を愛しているかが大事ですわ」
「出会って数日しか経ってないくせにもうお母様に取り入るなんて図々しいにもほどがあるわよ!!」
「いいえ、竜様との出会いは六年前からです。竜様を支えるのは私だと約束しましたから」
 僕を支える? もしかしてあの時に僕が庇った少女は友永さんだったのか。そういえばあの時の少女は父親の友達に会いに行くと言った。子供のころの記憶を手繰り寄せると小学校に上がる前に母さんがげんいちろうという人が遊びに来ていたのを思い出した。その人は真っ白な背広にサングラスをかけていたから、友永源一郎と連想できなかったのだ。
「何言ってんの。子供の頃ならあたしだってプロポーズされたわよ」
 え? リサ、お前何言ってるの?
「幼稚園の頃結婚してくれる? といったら、うんいいよと答えてくれたから」
 ちょっと待てリサ!! そんな幼稚園の話なんか持ち出すなよ。でもなんでいきなり僕を取り合って友永さんと喧嘩するの? お前は僕に対して無関心だったのでは?
「ふふん。幼馴染だと互いのいい部分悪い部分が露悪されるからね。ある程度距離を置いて魅力を引き出す予定だったのよ。とあんたのお母さんの助言だけどね」
 そうだったのか。というか母さんは余計なことをリサに吹き込みやがって。
「ですが、その勝負は私の勝利ですわ。なぜなら私と竜様は同居しておりますもの。もちろん子供は禁止されていますが、既成事実を作ることはお母様から許されておりますわ」
「何がお母様よ! このエロ帰国子女が!!」
「はい。エロですわ」
 友永さんはあっさり肯定した。あまりに堂々としているのでリサも毒気が抜けたようだ。
「ですが竜様は固いですわ。どうにか柔らかくなってもらわないと……」
「あたしも賛成。竜はもう少し頭を緩くしてもらわないとね」
 あれ? なんか二人は険悪な雰囲気から、協同する空気になってきたぞ?
「というわけで竜様。今日から二人でひとつの布団に寝ましょう。愛情は肌を密着してこそ育まれますわ」
「そんなわけないでしょう!! 竜! あんたはあたしの裸を見たんだから責任取りなさいよ。そうね、今度の日曜日映画に連れて行ってくれるならチャラに……」
 僕は逃げ出した。過去のバックドロップに対する嫌悪感は薄れたけど、今度は二人の女性に迫られる羽目になった。後ろで友永さんとリサが追いかけてくる。勘弁してくれ。
 その後ろでレスリング部員たちは呆気にとられ、東郷は笑みを浮かべていたのを見た。
 翌日男子生徒全員が僕に対して敵意の視線を浴びせるようになったのは勘弁してくれと思った。

終わり
2012-06-28 14:21:02公開 / 作者:江保場狂壱
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■作者からのメッセージ
ラノベを意識した作品です。
突っ込みどころ満載を意識しました。
非日常なことを日常的に書きました。楽しんでいただければ幸いです。
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