『終わらない夏』作者:山椒魚 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
小学生の孫を誘拐された。要求された身代金は三億円分のダイヤダイヤの受け渡し時に犯人逮捕を目論む警察、だが意外な方法でダイヤは犯人の手に
全角30085.5文字
容量60171 bytes
原稿用紙約75.21枚
 「終わらない夏」


 暴力的とも、まるで死に急ぐみたいに忙しないセミの声だ。
 もうすぐ夏が終わろうとしているのに、暑さだけをだらだらと垂れ流していた。
 亮太は公園に面した西側の窓を開け放った。
 まっさかさまに落ちてくる陽の光は、青葉に乱反射し白くハレーションを起こしている。停滞した空気は膨れ上がり、今にも爆発しそうに思えた。じっとしていても背中や胸元に汗が吹き出てくるのが分かる。紺のTシャツにシミが滲んでいた。
「暑いな」
 堪らずTシャツを脱いだ。分厚い胸元に汗が光っている。百七十五センチの火照った身体を冷やそうと、扇風機のツマミを強に合わせるが、あまり役立ちそうになかった。
 争うようなセミの声は、亮太の中の記憶を引っかきまわす。
 聞かなければよかったのだろうか。知らなければ何事もなく過ごすことが出来たかもしれない。いや、あのとき聞いていなければ、後悔がずっと付き纏っただろう。十年近く胸の奥で燻っていたものだ。
 義父の、正確には伯父であったが、最後に病院を見舞ったのは三年前だ。肝臓がんを患っていた。すでに伯父の顔には死相が浮かんでいた。死期が近い、そう感じさせる皮膚の色をしていた。
 病室には亮太と伯父の二人だけであった。白い壁に囲まれた四角い部屋、白いベッドに白のシーツ、色があるのはベッドの横に飾られた赤と黄色の花。窓の外はいまと同じようにうるさくセミが鳴き、何もかもが溶け出しそうな暑さの中にあった。
「すぐにお前の父さんや母さんと会えるな」
 ぼそりと伯父が言った。
 あれほど農業で鍛えた体をしていたのに、肉は落ち骨と皮だけになって痛々しい。パジャマの袖から出ている腕は頼りないほど細かった。目はくぼみ鼻だけがやたらと高くとがっていた。
「馬鹿なことを言わないで、すぐに良くなるから」
「自分の体のことは自分が一番分かっている。もう長くない。もって一、二ヶ月だろう、だがこの世に思い残すことなんかない。楽しかったよ、お前が俺たちの息子になってくれて」
 咽喉ぼとけがごくりと動くと、細い息の中で昔の話を始めた。
「ほら、覚えているかい。お前が学芸会で演じた猿蟹合戦の猿の役。お前の身振り手振りをみて、みんなが上手い上手いと誉めていた。それに運動会ではいつも一番だったもんな、父さん鼻が高かったよ」
 伯父も伯母も亮太を可愛がってくれた。休みになると三人で出掛けた。デズニーランド、サファリパーク、富士急ハイランド、亮太を退屈させないようにと気を遣ってくれた。伯父にはどれもが楽しい思い出だったのだろう。
東京から新幹線を乗り継いで一時間、函南という場所で伯父は小さな農園を営んでいた。食べるのがやっとだと思えるその場所は母の実家であった。
 伯父夫婦には子供が居なかった。それだけに亮太を小さい頃から可愛がってくれた。
 あれは小学二年の夏だった。休みに入るとすぐに亮太は一人で伯父の家に遊びに行った。それまで何度も母と訪ねていたから、一人であろうと別段気後れすることもなく我が家のように自由に振舞うことができた。
 それに伯父の家の近くにナラやブナの雑木林があって、そこにカブト虫やクワガタが生息しているのを知っていた。
学校では大きなクワガタを持っているやつは皆の羨望の的だった。デパートに行けば大きいのを売っている。だが小さいながらも、安易な手段に訴えるのは自分の気持ちが許さなかった。
 俺は他のやつらとは違う、この手で大きいのを見つけてやる。夏休みが終わったら皆に見せて自慢するのだ。亮太はそう思うと胸がはち切れそうだった。
 伯父はカブト虫やクワガタが居そうな場所に蜜を塗って、夜になると一緒に捕まえに行ってくれた。懐中電灯と虫かごを持つと亮太の頭の中にはいろんな昆虫が蜜に群がっている景色があった。走り出したくなるような思いが亮太を包む。期待とは裏腹に亮太が満足するような大きなクワガタはなかなか見つからなかった。
 それでも熱中できるものがあり毎日が楽しかった。だがそんな日々がある日突然壊れた。
 その日も一人で雑木林に入ってクワガタを探していた。
「亮ちゃん、亮ちゃん」
 激しい伯母の声だった。火のついたような声にせっつかれるように亮太は雑木林を飛び出した。いつもは笑っている伯母の顔が青く引きつっていた。子供心にそれは不吉な前兆であることを感じ取っていた。
 家に帰ると、伯父は普段の野良姿ではなく、こざっぱりとした格好をしていた。
「亮ちゃん、東京に行くぞ。支度しなさい」
 伯父の顔にも今まで見たこともない厳しい表情が浮かんでいた。伯父の言葉に両親に何かが起きたのだと思った。だがそれが何なのか分からない。
 伯母が車で駅まで送ってくれた。
「伯父さん、いったいどうしたの?」
 そう尋ねたかったが、それを許さないような伯父の表情に、口を閉じると電車の窓を流れる景色に目をやった。陽の中で青葉がやたらとまばゆく光っているように思えた。
 張り詰めた時間に耐え切れぬよう伯父の顔を盗み見た。伯父は目を閉じていたがそれは決して眠っていないことは分かっていた。
 連れて行かれたのは大きな病院であった。母さんが入院をしたのでは、亮太がそう思ったのにはわけがあった。亮太の母は日ごろからあまりからだが丈夫ではなかった。心臓が弱かったのだ。
 消毒液の臭う廊下を足早に進んだ。リノリウムの床がぬめるように光っている。
 白いナース服を着た看護婦に出会うと、心臓がどきどきと音を立てて鼓動が身体の外にあふれそうだった。
 着いた部屋は色のない世界だった。目に入ったのは、真っ白なベッドの上に横たわった父の体だった。壁も床も、そして光までが白だったような気がする。冷たく、ピクリとも動かなかった。あの丈夫な父の顔が土気色に変わっているのが気味悪かった。
 母は何も言わずに亮太を抱いた。
 そのときは父が亡くなったという現実を理解できなかった。死というものがどんなものなのか分からず、ただ父がどこか遠くへ行ったという感覚しかなかった。悲しみは感じなかったと思う。死というものを理解するにはあまりにも幼さ過ぎたのだろうか。
 だが、母が四年後に病死したときには、さすがに涙が止まらなかった。八歳から十二歳へと年齢を経たことで、死を現実として捉えることができたのか、それとも大好きな母ともう会えないという寂しさが押し寄せたのか、三十になった今でも分からない。
 父方に身寄りのなかった亮太は、伯父夫婦に引き取られた。名前も小田切から楠田へと変わった。
 父母の亡くなった寂しさは伯父夫婦が懸命に紛らわしてくれた。伯母は亮太の好物を食卓に並べてくれた。ハンバーグが好きだと言えば、飽きるほどに作ってくれた。食事はいつも三人が一緒であった。伯父夫婦は学校であったその日の出来事を熱心に聞いてくれた。亮太が中心の話の輪があった。怒るということを知らない二人であった。何不自由なく欲しがるものを与えられて、大切にされた。一番幸せなときであったろう。
 中学、高校と函南で過ごし、東京の大学へと進んだ。
 新幹線を使って大学へ通うこともできたが、亮太は一人アパート住まいを始めた。若者特有にありがちな、伯父夫婦の優しさが、疎ましく思えたのかも知れない。それに一人で住むことへの強い憧れがあったような気がする。
 疑問が噴出したのはこのころであった。いやそれは父の死以来ずっと心の底にわだかまっていたものだと思う。それがふと芽を出したに過ぎないのではないのか。自殺という言葉はあまりにもイメージとしては強烈過ぎた。
 父を自殺に追いやったものは? 
 死んだ母の口から聞くことはなかったし、母は父の思い出に触れることもなかった。まだ小さな俺への気遣いだったのか、悲しませたくないと遠慮したのかも知れない。
 今更知ってどうなる、俺は無視することにした。一方で知るのが怖くもあった。どうしてそんなに感じたのか分からない。
 しかし、疑問はふとしたときにひょっこりと目を出し頭の中で徐々に膨らんでいた。やがてそれは臨界点に達した。
 亮太は病院のベッドの上で思い出話を語る伯父にぶつけた。もし父の自殺の原因を知っているとしたら、伯父以外には居ないだろうと思ってのことだった。伯父が死んでしまえば永久に分からなくなるのではないか。やはり知りたいと思った。
 母の死も、父の自殺が引き金だと信じていた。
「聞いてどうする?」
「どうもしません。ただ知りたいだけです」
「どうしても知りたいのか?」
「ええ」
 伯父は口を閉じると、目をつぶった。迷っているのだろうか。聞くべきではなかったのか。
「約束してくれ、変な気は起こさないと」
 亮太は頷いた。


 東京を出るときは雨が降っていたが、目的地に着く頃には殆ど上がっていた。いつもだったらたっぷりと三時間はかかる道路も二時間と少しでやってきた。本道からわき道に入ると何とか車が二台すれ違いが出来そうなくらいの道幅となる。
民家が並ぶ通りを過ぎると杉木立の茂る道を進んだ。
 乱立する木立の中にポツン、ポツンと洒落た家が建っている。貸し別荘であった。八月もあとわずかで終わる。夏休みに浮かれる時期は過ぎて人影は消えていた。
 静けさの中で、時折鳥の羽音がけたたましく空気を裂く。木立の影から得体の知れないものが出てきそうな寂しさだ。
 ひんやりとした湿った空気が開け放った窓から侵入する。
 白い車は一番奥まった別荘の前で停まった。ログウッドで作った山小屋風の建物だった。
「やっと着いたか」
 亮太は車から降りるとトランクを開けた。トランクの中にはダンボール箱が入っている。軍手を嵌めると箱を重そうに持ち上げた。滑りそうになる木の階段を用心して上がると、ドアを開けた。
「これだけあれば充分だろう」
 お茶や、コーラの入ったペットボトル、何種類かのサンドイッチ、おにぎり、ゆで卵にお菓子類。即席のカップ麺も入っている。
 取り出すと、冷蔵庫に詰めた。
ポットに水を入れ電源をオンにする。カラフルな箱を開けると、中から機械を出した。ゲーム機だ。それをテレビに接続する。
 残ったのは鉄の鎖と鍵であった。どうするかと迷ったが、今心配しなくてもいいと放り出す。確認するように部屋の中を動き回る。
「大丈夫だ」
 これだけやっておけば文句はないだろう。
 亮太は掃除機を回した。ずいぶんと床にホコリが溜まっている。チリ一つ残さないようにと動き回った場所のごみを吸い取る。
 もう一度部屋の中を見回すと、満足そうに頷いた。
 だがまだ終わってはいない、次はあいつに頼まなければならない。別荘地を出ると、函南へと向かった。
「こんにちは」
 一軒の農家の前で車を留めると庭で草むしりをしていた女性に声をかけた。
「あら、亮ちゃん。帰ってきたの。今日はひとり?」
 麦藁帽を被った女性が顔を上げた。
「小母さん元気そうですね。幸ちゃんは?」
 小野田幸造、裏表のない正直な男だ。小学校からの友人であった。気が良くておっとりとしている。何をするにしても他人より行動が半拍遅れていた。それをイジメのネタにしてからかうクラスの仲間たちがいたが、亮太はそんな相手に喧嘩を吹っかけさんざんぱら痛めつけ、謝らせたこともあった。
「裏よ、いつものところ。相変わらずでね」
 日よけの麦藁帽の下で女の顔が笑った。勝手知った家だった。亮太は軽く会釈をすると庭を突っ切った。
「よう」
「あれ、どうした?」
 鳩舎のなかから幸造が返事をした。小屋を掃除していたようだ。
「ああ、ちょっと頼みがあってな」
「そうか、すぐに終わるから待ってくれ」
 亮太は小屋の中を覗きこんだ。


 目の前には、打ちひしがれた女性と、その肩を抱く男性、もう一人は怒りとも不安とも取れるような表情をして口を一文字に結んでいた。
 息子を誘拐され、不安と混乱と悲しみにくれるしかない母親の姿。何度か目にした光景だった。だが、事情を聞かなければならない。時間との勝負でもある。長くなればそれだけ子供の生存率は少なくなる。板倉はいたわるような言葉を選んで話しかけた。
「お子さんのことを考えるとご心配でしょう。少しでも早く解決して、お子さんを無事に救出するよう努力しますので、ご安心ください」
 板倉はそこで一息つくと、
「それで、最初から詳しくお話を聞かせていただきたいのですが、大丈夫でしょうか?」と尋ねた。
「弘子、どうだ話せるか?」
「ええ。大丈夫です」
「では、最初からお話していただけますか?」
 小学一年の息子、浩は町内のサッカークラブに所属していた。日曜日には早朝の練習があり、六時半に家を出たという。
 いつもであれば、十一時には帰ってきて何か食べ物を欲しがるのだが、今日は十一時を過ぎても戻ってこない。練習が長引いているのだろうと、浩の好物のアップルパイを作って待っていた。
 十二時を廻ったときだった。電話があり、蛙を踏み潰したような甲高い声で、
「宮部智弘を出せ」と相手が言った。誰かが冗談を言っているのでは、以前からいたずら電話が頻繁にかかり、電話番号を変えた経緯があった。
「いたずら電話なら切りますよ」と答えたが、相手は「宮部智弘を出せ」と同じ言葉を繰り返した。
 埒が明かないと思い、
「失礼します」と受話器を下ろそうとした。すると、
「浩がどうなってもいいのか」と口にした。
 どうして浩のことを、まだ息子は帰っていない。そのとき急に不安が押し寄せてきた。何か浩にあったのでは。相手に問いただしたが、「宮部智弘を出せ」と繰り返えすだけだった。
「それで宮部さんが話をされたのですね?」
「ああ、わしが弘子と代わって話した」
「それで相手が金を要求してきたのですか?」
「ああ、そうだ。孫を返して欲しかったら三億円用意しろと言って、すぐに切れた。また電話すると言って」
 宮部には何が起きているのか、よく分からなかったようだ。誘拐事件、自分の孫が巻き込まれたなど誰も考えたくはない。
 次に宮部が取った行動は、浩が本当に居ないのかを確認させたことだった。いたずらに騒ぎ立て間違いだったと分かれば、いい恥さらしだとでも思ったのだろう。年商百億の企業のトップとしてのプライドがあったのかも知れない。それにしてもさすがだと、板倉は感心した。普通であればパニックに陥り、何も出来ない。弘子にサッカークラブのコーチに連絡させ、友人にも確認している。練習には朝から参加していないとの答えだった。
 練習に出掛けると言って家を出たのが六時半、練習場までは歩いて十分の距離だった。その途中で拉致された可能性が高い。すでに十二時間が経っていた。
「声に聞き覚えはありませんでしたか?」
「いや、奇妙な声だった。弘子はどうだ?」
 弘子は頭を振るだけであった。
 板倉は浩の写真と出掛けたときの服装を聞くと、すぐに付近での聞き込みを指示した。
「最近、不振な人物を見かけたことはありませんでしたか?」
「分かりません」
「何かトラブルは?」
「なかったと思います」
 消え入るような弘子の声、ここは頑張って捜査に協力してもらうしかない。犯人は浩の日常行動を把握していた。恐らく随分と前から家を張り込みなり、準備をしている。
 宮部の家は周りの家とも比べて、金がかかっているのが分かった。成城という金持ちの住む街でも、ひときわ目立っている。
 犯人は何故浩を狙った。三億円という途方もない金額を要求しても、それに応えられるだけの資産を持っていると踏んでのことか。それとも他に理由があるのか。犯人はいきなり宮部智弘を出せと言っている。つまり目の前の老人をよく知っている人物の可能性が高い。宮部は企業のトップ、仕事上のトラブルのもつれでの犯行か。あるいは個人的な恨みも考えられた。
「板倉警部、逆探OKです」
 板倉と一緒にやってきた若い刑事だった。まだ三十前後だろう。一方板倉は四十を過ぎている。柔道で鍛えた体は服の上からもはっきりと分かる。百八十センチの上背は見ている者を圧倒するほどだ。
「寛ちゃんたちは?」
「周辺で張っています」
「長場になるかもしれんな、交代で休むように言っておいてくれ」
 犯人から金の要求の電話があったのが十二時、三億の金を用意しろと言っている。今日は日曜、銀行が休みなのは犯人も知っている。だとすると、次の電話は明日。
「それで、犯人が要求しているお金ですが、用意出来ますか?」
 いくら金持ちとはいえ、そう簡単に揃えることが出来るのだろうか。だが板倉の疑問はすぐに消えた。
「ああ、大丈夫だ。取引先の銀行に明日用意するように言った」
 なるほど犯人は宮部の財力について熟知しているようだ。浩の行動範囲も宮部智弘個人の名前を電話口で告げたこと、若しかしたら身内の犯行とも考えられる。
「笹原くん、ちょっといいか」
 板倉はリビングの外に若い笹原を呼んだ。
「何でしょう、警部」
「お手伝いさんに確認を取ってくれ、この家の親類関係に金のトラブルをかかえている人物がいないかどうか、また不仲のものがいないか」
「では?」
「犯人は、この家にかなり精通しているとみていいだろう」
「分かりました」
 笹原はキッチンへと向かった。
 板倉の予想は当たった。翌日の昼、暗く沈みかえったリビングの電話が華やかな着信音を鳴らした。
「まだ取らないでください」
 板倉は弘子を制止すると、笹原を見た。やがて笹原がOKのサインを送る。板倉は弘子にどうぞと手で指し示した。
「もしもし、宮部ですが」
「宮部智弘を出せ」
「浩を、浩の声を聞かせて、お願い」
「宮部を出せ」
 イヤホーンから聞こえる声は何処までも機械的だった、奇妙な声だ、ガスを使っているのが分かる。進が弘子を抱きかかえると、宮部が受話器を握った。
「代わった、わたしだ」
「金は?」
「今用意させている。すぐに届く。それより浩はどうした。無事なのか?」
「心配するな孫は無事だ。それより計画を変更する、一度しか言わないから良く聞いていろ。三億円の金を全てダイヤに替えてもらう。それも最高級の三カラットの石でやれ、期限は明日の昼までだ」
「無理だ、そんなことは」
「出来るさ、なんせ可愛い孫がかかっている。時間が長引けば孫の命が危ないと思え、今日から三日分の食料と水を渡し放置した。それが過ぎれば喉が渇き飢えるだけだ。それにお前の娘がひいきにしている銀座の尚美堂があるじゃないか。あの店に頼めば、その位はなんでもないだろう。ではまた明日の昼に電話する」
「あ、待ってくれ」
「あ、そうそう、偽のダイヤはやめとけ、それと安物のダイヤも。すぐに分かることだ」
 そう言うと電話の切れた音が流れてきた。
「逆探は?」
 板倉は笹原の顔を見た。
「駄目です、短すぎます」
 だろうな、と思う。
「相手も用心しているようですね。しかし犯人のあの妙な声はヘリウムガスを使用しているんじゃないですか?」
 板倉は笹原に「ああ」と頷いた。
 やはり犯人はこの家の事情に詳しい。宮部の娘、弘子が馴染みにしている宝石店までも知っていた。声を隠そうとしているのは自分の身元がばれると怖れている。身内か、この家に出入りしている御用聞き、あるいは近所の者。あとは会社関係者。だが笹原がお手伝いから聞いた話では、身内での関与はなさそうだった。ただすんなりとそれを認めるつもりもない。
 今は全員が動転している。思い出すのも思い出せない状態だろう。それに身内の恥をさらすのは躊躇いがある。徐々に聞き出せばいい。
「どうでしょう、やはり聞き覚えはありませんか?」
 板倉は三人の顔を見渡した。お互い顔を見合わせているが、一様に頭を振った。
「ちょっとした言葉遣いとか、抑揚など、なんでも構いません」
 ガスを使って声を変えているが、使う単語などに癖がでる。日ごろ話している相手だったら、気付くこともあった。
 駄目か、板倉はバックの音に耳を澄ました。電車の走る音や、警報機の音、工事現場から出る音や楽器のなる音、たまにはテレビやラジオの音が入っていることもある。それから犯人の居る場所などを特定できる。
 だがそれらしい音は聞こえない。後はプロの鑑識に任せるしかない。
「鑑識にまわしてくれ」
「三億円分のダイヤですか、犯人はどうして現金ではなくダイヤと言ったんでしょう?」
 笹原が疑問を口にした。
 それは板倉も感じていた。何故犯人は現金からダイヤに変更した。ダイヤを現金化するのに無駄な手間をかけなければならない。それにそう簡単に換金できるとも思えない。最初から現金で受け取ったほうがずっと楽なはずだ。それに偽のダイヤを掴ませられる可能性もある。犯人は余程ダイヤのことに詳しい人間とみていい。
「宮部さん、ダイヤは手配できますか?」
「ええ、頼んでみます」
「ガラスで代用することも出来ますが」
「いや、やめておきましょう。もし犯人に偽のダイヤだと言うことがわかったら、浩の命に危険が及ぶかもしれません」
 そういうと、宮部は尚美堂に連絡を入れた。余計なことを言わずに、ただ三カラットのダイヤの石で、三億円分揃えて欲しいと頼んだ。
 相手がどのような反応をしたのか分からないが、宮部は
「では、明日の午前中に届けてくれ」と結んだ。
 銀座の尚美堂、板倉も名前だけは聞いたことがあった。自分が知っているということは、それなりの有名店なのだろうと思う。
 自分の身内の、可愛い孫の命が掛かっている。宮部も真剣である。
本物のダイヤを揃える、それ以上板倉も反対はしなかった。過去に苦い経験がある。同じ誘拐事件で身代金を偽札で用意し犯人に気付かれ、犯人逮捕も出来ず、拉致被害者も死亡させてしまった。板倉は泣き叫ぶ親の前でひたすら頭を下げるだけだった。もう二度とあの思いは繰り返したくない。
 犯人の要求がダイヤであろうと、金であろうと、ブツの受け渡しをしないわけにはいかない。そのときにはいやでも犯人と接触できる。そこにチャンスがある、但し一回のみだ。それまでは口惜しいが相手の言いなりになるしかない。
「もう今日は電話がかかってこないと思います、皆さん少し横になってお休みになってください。我々も交代でやすみますから」
 戦いは始まったばかりだった。長期戦に備えて体力を温存しておかなければならない。次に電話をしてくるのは明日の昼。三億円分のダイヤが揃ったかどうかを確認し、さらに受け渡しの方法も指示してくるだろう。これからが犯人との智恵比べだ。俺は負けない、あのときの苦い経験は生きている。必ず子供は取り返す。誘拐という卑劣な事件を起こした犯人に強い憎しみがあった。
 目を閉じても、疑問が頭を廻る。犯人は何故ダイヤを要求した。純粋に金が欲しいのか、或は個人的な恨みがあるのか。
この家に出入りしている親類縁者は、甥と姪、それに進の兄弟もいた。彼らの誰かが加担してはいないのか。顔見知りの相手であれば浩を誘い出すのは容易なことである。不遇を囲っているものはいないか。やることはいっぱいあるな。いつか眠りに付いていた。
 翌朝十時を過ぎたころに二人の男性が現れた。ほっそりとした老年の男性に、屈強なボディガードが付いていた。板倉や他の者がいて、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに商売人の表情にもどっていた。
「すまないね、無理を言って」
「とんでもありません。このたびはご注文ありがとうございます」
 老年の男は丁寧に頭を下げると、アタッシュケースを開け、中から黒の小さなケースを取り出した。
「ご希望の通り三億円分のダイヤ、すべて最高級の三カラットで用意しました。こちらがそれぞれの鑑定書でございます」
 果たして犯人が鑑定書など欲しがるのか分からないが、ないよりはましだろうと思える。
 ケースの中にいくつものダイヤが整然と並んでいる。高貴とも思えるまばゆい光に圧倒されそうになった。
 美しい、これなら多くの女性が血眼になり、憧れるのが分かりそうな気がする。もっとも三億円という価値が分かっているから、そう思うのかも知れないが。板倉には縁のない煌めきであった。
 これで三億円か、その価値とは対称的にあまりにも頼りないほどの量だ。片手の平にすっぽりと入ってしまいそうな数。それを見たとき板倉は犯人の意図が分かったような気がした。現ナマと違って持ち運びに便利である。ポケットの中に入れてしまえば分からない。重さなど数十グラムであろう。札束三十キロと比べれば、はるかに身軽になる。だがどれだけ便利であろうとも、犯人はダイヤを受け取るために姿を現さなければならない。いいか、それが貴様の致命傷となる、板倉は見えない犯人に嘯いた。
「これで三億円ですか?」
 笹原も同じ思いなのだろう。ため息を漏らすようにしてダイヤを覗き込んでいる。我々が一生かかっても拝めない金額だった。
 時刻は十二時を指そうとしている。
 まもなく犯人との約束の時間、誰もが口を閉じたまま、居間にいる全員の目が受話器に注がれていた。
張り詰めた空気の中でリビングのドアがノックされた。弘子の声に顔を出したのはお手伝いの娘だった。
「どうしたの?」
「あのう、これが届きました」
「宅配便、どなたから?」
 弘子が手にしたのはB5ほどの大きさの分厚い封筒だった。
「お父さん、岡村さんからですけど」
「岡村が?」
「どなたです?」
「うちの会社の専務です、でもなんで宅配便など?」
「ちょっと宜しいですか」
 板倉はポケットから薄い手袋を取り出すと、手に付けた。
 過去の経験が非常灯を点滅させた。犯人が何かを送りつけてきた。過去に同じような例がある。誘拐した子供の服や持ち物を送り付け、相手を動揺させる。時には切り取った指などを送られてくることもあった。親はパニックに陥る、そうすることで相手の判断力をなくしてしまう。理性を失った親は、相手の言いなりであった。
注意深く裏と表を調べる。
 宛名は宮部智弘、差出人は岡村忠雄と書かれている。だが文字の書かれ方が不自然に角ばっている。筆跡を分からなくするためにわざと書いたのだろう。恐らく定規を使ったと思えた。
「よろしいですか?」
 板倉は丁寧にナイフで封を開いていった。どうか子供の体の一部が入っていないようにと願う。それらしいものがあれば、途中で止めるしかない。息を詰め最後の紙を開いた。
 封筒の中には、携帯電話、他に直系一センチ、長さ二、五センチ程のアルミニウムの管が十個入っている。蓋がついていて何かに引っ掛けるのかフックのようなものもあった。
「何ですかね?」
 笹原の問いに板倉は注意深くひとつを取り上げた。何に使うのか想像がつかない。いったいこれは何だ。今回の誘拐事件と関係があるのだろうか。それとも全く関係のないものなのか。
「岡村さんに、この品物を送ったのかどうか訊いてもらえませんか?」
 宮部は会社に電話を入れると「専務を」と言った。
「社長どうされました?」
「君、僕宛に宅配便で何か送ったかね?」
「宅配で、ですか? いえ、何も。何かあったのですか?」
「いや、送ってないのならいいんだ」
 やはり違っていた。
 すると、これは誰が送って寄越した。考えられるのは誘拐犯、他には思いつかない。では何のために。
 その理由は犯人からの電話が答えを出した。予想通りに犯人は十二時半を回ったところで電話を寄越した。
 相変わらずガスを使った奇妙な声で話しかけてくる。
「ダイヤは揃ったか?」
「ああ、言われた通りに三カラットのダイヤで三億円分そろえた」
「ではこちらから送った宅配便は着いただろう? 中に携帯電話とアルミニウムの管が十個入っていたはずだ」
「あれはやはりお前だったのか」
「そうだ、じゃあダイヤをその管に入れろ。ひとつの管に五個入るはずだ。そしてしっかり蓋をしろ。余ったダイヤは無視していい」
「分かった。それより浩は無事なのか、浩の声を聞かせてくれ」
「言われた通りにすれば孫には危害は加えない。それより警察には連絡していないな?」
「ああ、していない。だから浩を」
「本当か? まあ、信用してやるか。孫はダイヤを受け取ったら戻してやる」
「いつダイヤを渡せばいい?」
「もう一度電話する。そのときに受け渡しの方法について詳しく話す」
 傍で板倉が宮部に、会話を延ばすようにと手で示す。それをあざ笑うかのように電話が切れた。
「もしもし」
「くそ、利口な奴ですね」
「逆探は諦めたほうがいいだろう」
 板倉の頭の中には、ダイヤの受け渡しの時に、どうやって犯人を逮捕するか、それしかなかった。
 ここで取り逃がしたら、二度と犯人が接触してくることはない。一度だけの失敗を除けば、過去何度かの身代金目的の誘拐事件は全て人質を取り戻し、犯人逮捕もしている。俺には実績がある、大丈夫だ、どれだけ相手が利口でもどこかにミスがある。うぬぼれが強い奴ほどポカがあるものだ。確実に、しかも時間をかけずにそれを探り出してやる。
 失敗は許されない。まして子供が殺されたとなると、警察の威信は地に落ちてしまう。絶対に捕まえる、己に言い聞かせた。
 犯人から三度目の電話がかかってきたのは五時間後であった。
「これから受け渡しの方法について話す。一度しか言わないからよく聞け。ダイヤはすべて管に入れたか?」
「ああ、全部入れた」
「それをある場所へ持ってきてもらう。ダイヤを運んでもらう人間だが、お前の会社の営業部に楠田亮太と石場洋一という男がいる。そいつらのどちらかを使うことにした。都合のいいほうに今日送った電話をダイヤと一緒に持たせろ」
「うちの会社の者を、どうして?」
 宮部は会社の人間を使えという犯人の申し出に戸惑った。それに楠田と石場という名前など聞いたこともない。
「運び屋が警察では困るからな、俺もリスクは取りたくない。そこに警察がいるだろう、隠しても駄目だ。そしてこの電話も聞いている」
 犯人は甲高い声で笑った。
「いや、警察には報せていない」
「まあ、いい。とにかく俺は二人の顔は知っている。お前らが余計なことをしないようにそいつを使う。どちらかに明日の朝六時にそこを出て東名高速を走らせろ。次に海老名のパーキングエリアに入ると、二階のレストランで朝食を取れ。その後のことはまた連絡する。車はお前の使っている緑色のジャガーをつかうこと」
 そこで電話は切れた。


「ただいま。暑いなあ、嫌になるよ」
 亮太は自分のデスクに疲れたと腰を下ろした。
「どうだい、うまく行ったか?」
 同僚の樋口も疲労困ぱいの顔をしている。うまく行っていないのだろう。
「駄目だな、景気が悪すぎるよ」
「全くだよなあ。今週もまたカスかなあ」
「石場から連絡は?」
「病院から電話があって明日も休むらしい、あいつの得意先が数軒潰れたからな、参っているんだろう」
「でもあいつのせいじゃないだろう。会社が悪いんだ。もう少し支払いを待ってやれば潰れることもなかったのに。取引先潰しておいて売り上げ上げろじゃめちゃだよな」
 気の弱い男だった。どうしてこんな男が営業に、と思えるほど繊細であった。このところの不景気で売り上げは落ち込み、おまけに得意先が倒産。石場は神経をやられ、身体の調子を壊していた。病院にいくように進めたのも亮太だった。
「うちを恨んでいる奴は多いだろうな」
 目の前の電話が鳴る。樋口が素早く取ると、
「はい、営業一課です」と明るい声を出した。
「楠田と石場ですか、楠田ならいますが、はいちょっと待ってください」
 受話器の一方を手で押さえると、
「おい楠田、電話だ。本部長から」と告げた。
「本部長?」
「うん、なんだか様子がおかしい」 
「はい、楠田です」
「石場君はいないそうだな。これから悪いが、僕と一緒に社長の家まで行ってくれないか」
「え、社長の家に、ですか?」
 亮太の言葉に樋口が驚いた顔を見せた。
「急いでいるようだから、すぐに仕事を切り上げてくれ」
 受話器を下ろすと、「お前、何かやったのか?」と不安そうな顔で樋口が尋ねた。
「分からん」
 すでに玄関で岡村は待っていた。タクシーを捕まえると、宮部の家の住所を告げる。岡村はのっぽの体を折り曲げるようにして座席に座った。
「あのう、どういうことでしょう?」
「僕にも何のことだか分からない。とにかく向こうに着けばはっきりするだろう」
 タクシーは青山通りから世田谷街道を抜けて宮部の家へと向かう。まだ帰宅ラッシュが始まる前のせいか、車の流れはスムーズであった。四十分ほどで宮部の家が見えてきた。
 赤レンガ作りの洋風な建物だった。
 一階と二階あわせて八十坪はあるだろう、バルコニーも見える。女性が好きそうな様式である。社長の妻が設計したのか、大きな門をくぐると、広い芝生の庭が広がっていた。
「すごい広さですね」
「ああ、二百坪くらいあるんじゃないか」 
「成城に二百坪の土地ですか、それだけでもすごいですね」
「そんなことより、急ごう」
 磨き上げられた廊下の先に居間がある。お手伝いに案内され中に入ると見慣れない顔が大勢いた。岡村は何事かと驚いている。
「社長、これは一体?」
「それは私から説明させてもらいます」
 男が自己紹介をした。世田谷署の板倉警部だと言った。板倉はどうして亮太を呼んだのかを説明した。
「どうして僕を?」
「相手は君かもしくは石場君だと指定してきた。どうして君たち二人を指名したのかは分からない。ただ会社内部に通じたものだと思える」
「申し訳ない、君には関係のないことで迷惑をかけるが、どうか孫の浩の命を救うと思って手伝って欲しい」
 宮部はてっぺんの薄くなった頭を下げた。会社で見る傲慢で人を見下ろすような激しい顔の宮部はなかった。ただの孫を持つ年老いた男であった。
「いえ、僕で出来ることなら……」
「それで、楠田さんにはこの十個のアルミの管を持って明日の朝六時にここを出発してもらうことになります。この中にはダイヤが入っているので気をつけて扱って下さい」
 板倉がこれからの手順について手際よく話し出した。その話っぷりには自信が見える。恐らく警察でも切れ者として通っているのだろう。
「あのう、車は僕一人で運転するんですか?」
「失礼ですが運転は?」
「ええ、出来ます」
「よかった、犯人はあなた一人で運ぶように言っています。でも安心してください。我々が別の車で後を尾けます。それにあなたとの連絡は、無線マイクで取れるようにします。それとこの携帯電話を持ってください。相手はこの携帯に連絡してくるはずです。お二人の話は無線を通じて我々も聞いています。もちろん我々には犯人の声は聞けませんが。でもあなたの声で何を言っているのか推測できます。それでなるべく相手の言った言葉を復唱するようにしていただければ助かります」
 板倉は社長の家に泊まるかと聞いたが、その気は無かった。どんなに朝が早くとも、自分のベッドでないと落ち着かない。
 五時の時間を約束すると、宮部の家を出た。
 犯人から送ってきたという携帯電話の所有者はすでに割り出していた。さすがプロである、やることは早い。だが、分かった名前は実在の人間ではなかった。
 おそらく偽装した身分証明書で契約し、闇で売りさばいたものを使ったのだろうと板倉は説明した。指紋も発見されていない。
「相手はなかなか利口なやつのようです。我々が尾行していないか、当然用心しているはずです。だから犯人と話をするときは自然な話し方をしてください」
 あくびをかみ殺しながら、亮太は指定された時間にジャガーに乗った。少し離れて黒のレクサスがあとを追う。その後ろにも、もう一台警察の車が続いている。
 レクサスの運転席には笹原、助手席に板倉、そして後ろの席には宮部と岡村が乗った。
 板倉は宮部に家で待つようにと言ったが、宮部は聞き入れなかった。
「俺の孫だ。なんとしても着いていく」
「社長は私と家で待たれたほうがいいのでは」
「そうですよ、お父さんの身体が心配です」
「俺の身体より浩のほうが大事だ、どんなことがあってもわしは行く」
「分かりました、ではご一緒してください」
 心臓の悪い宮部を心配して岡村も付き添うと言った。こんなところでもワンマン振りを宮部は発揮している。
 道路の流れは順調であった。世田谷通りを南下して多摩川を渡る。左に折れて東名川崎のインターへと向かった。インター入り口の掲示板には東京方面一キロ渋滞の表示が出ている。
「まだ相手からは何も連絡がありません」
 亮太の声は胸につけられたピンマイクを通して板倉に聞こえる。左の耳にはイヤホーンが刺さっている。絶えず自分が見張られているようで、どこか落ち着かない。
 板倉は相手からの連絡がなくとも、十分おきには連絡をとるようにと指示した。
「了解しました。我々は五十メートルほど後ろをつけています。そのまま東名に入ってください」
 バックミラーを覗いた。白のワゴン車の後ろに黒のレクサスが見える。一台の車はどこだと探してみるが、見つからない。
 板倉たちはジャガーの周りの車に視線を這わしているだろう。すでに戦いは始まっている。いや宮部の家の門を出たところから彼らは臨戦態勢に入っているはずだ。二台の車以外にも警察はあらゆる場所に人員を配置しているだろう。どれだけの警官が俺の後ろにくっついているのか。
『警部、相手は単独犯ですかね?』
『どうかな』
『今までの電話は一人のようですが』
『一応共犯がいると思って動いたほうがいいだろう。単独犯であれば楽だが』
 一人であれば、物の受け渡しのときに逮捕に全力を尽くつもりだろう。だが、共犯が居るとなれば、子供に危険が及ぶことを考え慎重に行動するしかない。
『海老名のパーキングで物を受け取るつもりでしょうか?』
『どうだろうな』
 板倉は否定的だな、亮太の耳にはそう聞こえた。
 確かにそうだ、海老名パーキングはいつも大勢の人でごった返しをしている。そんな人ごみの中で受け取るようなことをするわけが無い。高速道路では道路封鎖をされればすぐに行き詰まってしまう、少し利口な犯人な誰だってわかることだ。
『受け取るつもりが無いのに、そこに行けとはこちらの動きを見るつもりですか?』
『その可能性はある』
『しかし、口惜しいですよね、相手が男か女か、単独か複数か、何も分からないとは』
『なあに、そのうちに尻尾をだすさ。焦ることはない』
 様子を見るか。たしかに今はがたがたと騒いだところで何も判りはしない。じっくりと待つしかないだろう。だが、待ちすぎて取り返しのつかないようになりはしないか、板倉さん。マイクに向かって声を出しそうになった。
『それにしても変なやつですね、現金ではなくてダイヤとは』
『持ち運びを考えてのことだろう』
『たしかに、三億じゃ三十キロですが、ダイヤだと数十グラムですものね。でもあの宝石屋が言っていたじゃないですか、国内ではこれだけのダイヤを闇で簡単に換金出来ないのではないかと』
『だろうな、しかし海外とネットがあれば別だ』 
『すると外国人が絡んでいると?』
『可能性があるということだよ』
 なるほど、面白い推理だった。確かに銀座の宝石店が強盗に襲われ何億円もの被害が出たが、あれも海外の有名な窃盗団というのがあとで分かった。すると空港や港の税関にしかるべき手配をしたのだろうか。しかし相手がどんな奴か分からずには手配のしようもない。金を渡してからでも遅くないと思っているのでは。犯人が特定できて、それから全ての税関に手配できるまで、どれだけの時間がかかるのだろうか。
 いや、例え税関に手配しても、海外に逃げられたという例は幾らでも聞いている。亮太は前方を見つめながらハンドルを握った。
『しかし、あのアルミ管の意味が分かりませんね』
『そうだな、何を考えているのか』
『小分けにして、どうするのだろう、若しかしたら犯人の数の分とか』
『相手が十人だというのか』
『ないですよね。それに朝早く家を出ろと言ったのもよく分かりません。車の混雑を恐れてでもいたのでしょうか?』
『そうとも思えるが……』
 板倉も笹原も、まだ困惑の中にあるようだ。
 犯人の意図が判らずイライラしているのが分かる。それとも板倉は何かを掴んでいながら、知らぬふりでもしているのだろうか。伊達に歳をとってはいまい、それにあの顔つき。笹原との会話は、一緒に車に乗っている宮部や岡村にも聞かれる。それにマイクを通して俺にも筒向けだった。そんな中で自分の考えをいうのに躊躇っても仕方のないことだ。
 ひとつだけ分かったことは、笹原はあまり利口じゃなさそうだと言うことだった。
 亮太はアクセルを踏み込んだ。折角の高級車だ、少しはドライブを楽しんでも罰は当るまい。ぐっと加速すると、体がシートに押し付けられる。やはり高級車はいい、あいつらはいつもこんな車に乗っていやがる。こちらが汗だくになって外を這いずり回っているときに涼しい顔をして生活をエンジョイしている。そんなことを考えるとハンドルを叩いた。
 追い越し車線へと方向指示器を出す、だがすぐに止めるように指示が聞こえると、聞こえない舌打ちをした。
 東名を走る車はほとんどが大型のトラックや商用車だった。早い時間にも拘わらず、前後に多くの車が走っている。青葉インターを過ぎ、横浜インターを通り越せば、海老名パーキングは近い。標識がパーキングエリアの近いことを報せた。
 左のレーンを走る車は申し合わせたように海老名PAへと吸い込まれて行き、既に駐車場はほぼ満杯の状態になっていた。亮太はジャガーを中央よりの場所に駐車させる。それを確かめるよう、笹原が少し離れた場所に車を止めた。
「レストランに入ります」
「我々も後に続きます。ダイヤを忘れないようにしてください」
 二階のフードコーナーは朝食を取るドライバーたちで溢れていた。
 匂いに反応したかのように腹が鳴る。早朝の出発だったので何も口には入れていなかった。亮太はコーヒーとサンドイッチを購入すると、窓際の席に腰を下ろした。さりげなく板倉たちのほうに視線を送ると、板倉、笹原、宮部、岡村、四人の視線が入れ替わり自分に注がれるのが分かる。そろそろ犯人からコンタクトがあると思っているのだろう。亮太もすわり心地が悪い。
『我々も何か食べますか?』
『少しはお腹に入れておいたほうがいいですよ』
『社長サンドイッチでも』
イヤホーンを通して亮太の耳に達した。
「あ、連絡が入りましたけど、どうしますか?」
「落ち着いてください、ゆっくりと相手と話をしてください。前に言いましたように、出来るだけ相手の言葉を繰り返すようにしてください」
「分かりました……もしもし……ええ海老名です、ここに持っています……外に向かって、それを見せろというのですね、分かりました」
『見せろって、ダイヤですかね?』
『多分そうだろう』
 板倉たちの声を聞きながら亮太は立ち上がると、ダイヤの入ったビニール袋を持ってガラス越しに外に示した。眼下の駐車場には何百台という車が駐車している。彼らの中に、いまここで何が起きているのか知っている奴はいないだろう。今俺は三億分のダイヤを手にして見せびらかしているんだ、そう思うとなんだか愉快だった。
『何処だ、何処から確認している。外に駐車している車の中からか。すると相手は双眼鏡か何かでぶつを見ているはずだ、探せ』
 イヤホーンの向こうで板倉たちが騒いでいるのが伝わってくる。
この駐車場にどれだけの警察関係者がいるだろう。亮太隅から隅まで視線を這わせてみる。あの白い作業着を着た奴がそうか、それともゴルフウエアに身を包んだ男がそうなのか。その気になってみれば、誰もがそれらしく見える。だが勿論分かるはずもない。この馬鹿でかい駐車場の中で携帯電話を使っている人間は数えればきりがなかった。つまり警察も犯人がいても見つけ出すのは無理だということだ。ご苦労なことを、とダイヤを振って見せた。
「この後、厚木インターで降りて、小田原厚木道路に入り、箱根タ―ンパイクを上って伊豆スカイウェイに向かえというんですね?」
『伊豆スカイウェイ?』
『今度は何処へ行く気ですか』
『我々の尾行をまくつもりかも知れないな』
「これから、伊豆スカイウェイに向かいます」
「了解」
 小田原のインターを出、小田原厚木道路に入ると目の前に大きな富士が見えた。夏には珍しいな、この前走ったときには見えなかった。あれはいつだった、休みに彩乃からせがまれて伊東へ遊びに行った帰り道だった。綾乃が横でスピードを上げろと騒ぐ、アクセルを踏み込んだ途端、後方の車がサイレンを鳴らした。覆面パトカーがぴったりとくっついている。汚いやろうだと罵りながら、二十キロのスピード違反にサインした。あれ以来この道は用心している。
 小田原西を降りると、すぐに箱根ターンパイクの入り口、右に折れた。急勾配のヘアピンカーブが多い有料道路だ。排気量の小さな車が息切れしそうに登っている。その横を苦もなくジャガーはすり抜けて行く。変な優越感、金持ちの気持ちが分かる。後に黒のレクサスの陰が見える。今頃後ろでは何を思っているのだろうか。
『誰も後ろについて居ませんね』
『相手はこっちを自由に操れる。様子を見ているのだろう』
『しかし口惜しいですね』
『もう暫くの辛抱だ。相手に口惜しがらせればいい』
『そうですね……警部、バイクが』
 つんざくような排気音が耳に入るとすぐに低くなった。バイクがレクサスの横をすり抜けて行ったのが想像できた。バックミラーを覗くと二台のバイクが見る見る姿を大きくする。そのまま追い抜くかと思ったが、ジャガーの後ろにぴったりとくっついた。
『警部、あいつら』
『慌てるな、他の者は?』
『後方百メートルを走っています』
『急がせろ』
 泡を食っている板倉たちの様子がひしひしと伝わってくる。
 バイクを運転している相手はフルフェイスのヘルメットを被りジーンズの上下を着ている。年齢も性別も外観からは識別不可能であった。もし彼らが犯人だとしたら、どうやって受け取るだろう。ダイヤはビニール袋に入っている。走りながら窓越し受け取ることも可能だな。その方法も面白かも、亮太はそんなことを考えていた。
 警察はこの山道で彼らを追うことが出来るだろうか。小回りではバイクに叶わない。これから検問を張っても、そのときはすでに遠くに逃げているのでは。
 だが、コーナーを曲がったところで、バイクは一気に加速しジャガーを抜いて行くと、すぐに笹原たちの安堵の声が漏れた。
 山の頂上に近づくにつれ、ガスが流れ出した。平地では三十三度まで気温が上昇していたが、ここまで来るとひんやりとした空気が肌に和らぎを与えてくれる。小鳥のさえずりが聞こえ、緊迫した中にいるのを忘れさせてくれた。綾乃もここが好きだった。
「電話がはいりました」
「了解、こちらは大丈夫です」
「もしもし……そうです。間もなく伊豆スカイウェイの入り口に差し掛かります……伊豆スカイウェイに入って、そのまま天城高原のほうに進めばいいんですね」
『え、天城まで行くつもりですかね?』
「 何ですって? 途中にスカイパークゴルフ場があるから、そこで休憩を取れというんですね?」
『次はゴルフ場で休憩ですか、何を考えているのだろう』」
 笹原が文句を言い出している。
『相手はどうやら別のルートを取っているようだな』
『え、警部、どういうことです?』
『向こうの意図は、こっちの動きを知ることだよ。だから朝早く出発させ、海老名に止め、そしてターンパイクを走らせた。恐らく我々をゴルフ場に足止めさせ、その間にさきまわりしてどこかで待つつもりだろう』
『すると、そこで』
『ああ、多分な』
 やはり板倉はだてに経験をつんではいないようだ、笹原とは大分違っている。だが無事事件を解決出来るかな。亮太は板倉の顔を思い出した。体もごついが顔もごつかった。あれで怒鳴られればたいがいの奴らは恐れおののくだろう。知能犯相手よりヤクザ相手のほうが似合っている気がする。
「切れました」
「分かりました。相手の言うゴルフ場によって休憩してください。このまま進めば、右手に見えるはずです。我々も休憩します」
「すみません、ちょっとトイレに行ってきます」
 コーラとお茶で尿意を催していた、それに冷たいのを呑みすぎたせいか腹の調子がおかしい。
「分かりました。電話とダイヤは身につけていってください。いつ連絡が入るか分かりません」
「承知しました」
 クラブハウスに向かって歩く亮太の耳に板倉たちの声が届く。まるで傍で一緒に動いているようで時々変な感覚に襲われる。
『我々はどうしますか?』
『僕と笹原君はここに残ろう。宮部さんと岡村さんは、トイレに行かれるのでしたら今のうちに。多分暫くは相手から連絡がないと思いますので』
『じゃあ、そうさせてもらいます』
『警部、どう思われますか。相手は本当に取引するつもりがあるんでしょうか。いつまで引きずりまわすつもりですかね?』
『どうだろう、犯人にきかないと分からないな、それより気になることがある』
『何ですか?』
『あの二人だ』
『二人と言いますと?』
『宮部さんと岡本さんだ。どこかおかしい』
『おかしいと言いますと?』
『気付かなかったか、二人の様子』
面白い会話だった。と同時に違和感を覚えた。二人の話はマイクを通じて俺に聞こえる。それを板倉は知らないわけは無いだろう。俺が聞いても平気だと思ったのか、それともうっかりか。
 それにしても板倉は何に気付いた。宮部と岡村、二人にどんな動きがあったのだろう。四時間近く走っているが、宮部と岡村の言葉はほとんど聞いていなかった。笹原も気付いていない。もっとも笹原にしては前のジャガーを追うことでせいいっぱいだったろう。だが板倉は後ろの座席の二人に異常を感じ取っている。
トイレの個室の外で、岡村の声が聞こえた。何を話しているのか分からない。宮部の声も聞こえる。水の流れる音、トイレを出て行く音がした。
「電話がかかりました」
「聞いています。落ち着いてお願いします」
「もしもし……いまゴルフ場のトイレの中に居る。勿論ダイヤは手元にあるから心配しないでくれ、それで何処で渡せばいいのだろう……これから伊東に向かえと……海岸線にある伊東マリンホテルのコーヒーラウンジで待てばいいのですね、分かった」
 亮太は大きく息を吸った。
「お聞きの通りです。これから伊東にあります伊東マリンホテルへ向かいます」
「了解しました。いま地図で確認したのですが、そのマリンホテルというのは百三十五号線のバイパスで海岸沿いにあります」
「助かります。でも不思議ですね。百三十五号線だったら、わざわざこの道を走らせて、遠回りをさせる必要はないのでは」
「相手の意図は分かりませんが、警察の介入を怖れているのかもしれません。とにかくいまは相手の言うと通りにするしかありません」
「そうですね」
 トイレを出ると、鏡の前に立った。疲れた顔があった。疲労と緊張で目の奥が痛い。睡眠不足が祟っているのだろう。刑事たちも同じ思いをしているのだろうか。それとも彼らはこんなことは慣れっこか。亮太は大きく背伸びをすると、ジャガーの待つ駐車場へと向かった。
 チラッとレクサスに視線を送ると、ジャガーに乗った。スカイウェイから宇佐美に下りるルートへとハンドルを切る。曲がりくねる坂道にエンジンブレーキを利かしながら降りていった。
『宮部さん失礼ですが、最近仕事上でトラブルはありませんでしたか?』
 始まったかと板倉の声を聞いた。
『いや、特別には』
『もしかしたら、犯人は仕事に関係しているのではないかと思われるのですが』
『ビジネスには多少のいざこざはありますが、幾らなんでも誘拐まではしないでしょう』
『そうですか、ところで岡村さん、伊東マリンホテルに覚えはありませんか。私は海老名のパーキングもスカイパークゴルフ場も何か意味があるのではないかと思っているのですが?』
 亮太は神経を耳に集中した。板倉が疑問に感じたことを訊ねている。宮部はなんと答える。犯人が何かの意図を持って、それぞれの場所を指定してきたのではと板倉は思っている。いい目のつけどころだと思う。
『前に一度、家族旅行で行ったことがあります』
『そうですか、宮部さんは?』
『知らん』
『そうですか、もし何か気が付かれたら教えてください。どんなことでも構いません』
 そうだろうな、たとえ知っていても知らぬと答えるだろう。だが、板倉はそれを信じるとは思えないが。さあ板倉刑事どうしますか、もっと追及してはどうですと亮太はエールを送りたかった。
 宇佐美の海が見えた。
 坂道を降りきると百三十五号線にぶつかる。右折して海岸線を走る。平日なので殆ど走る車は見えない。通りにはいくつもの干物の店が並んでいる。やっと店開きを始めていた。潮の香りと干物の匂いが一緒になって車の中に押し寄せる。あの店で試食の干し魚を食ったな、と思い出が甦った。
 気温も一気に上がっていた。
 伊東の海岸を左に見ながら走ると、ホテルが見えてきた。海沿いに建ったしゃれたつくりのホテルだった。
「じゃあ、ホテルに入ります」
「分かりました。我々も少し遅れて入ります」
 亮太は海の見える窓際の席に腰を下ろすと、ホットコーヒーを頼んだ。トイレに行ったもののまだ腹の調子は完全ではない。昼下がりの退屈そうなラウンジだった。夏休みは終わり、客は亮太の他に二組ほどがテーブルについていた。
 若い男女のペアが一組、もう一組は中年の男性が二人であった。遅れて板倉たちがやってきた。男四人、あれじゃ目立ちすぎるだろうと思う。
 ウエイトレスが亮太のテーブルにコーヒーを運んだ。彼女からもやる気は見えない。
『警部、これじゃ』
『ああ、ここも違うようだな』
『まだ引きずりまわすつもりですか』
 笹原がうんざりしたように呟く。
 無理もない、いい加減疲れてきているのだろう。ここだと思ってやってきたものの、どうも様子がおかしいと、落胆しているのがよく分かる。
 やがて若い男女のペアと中年の男性たちは席を立って、ラウンジに残っているのは亮太と板倉たちだけであった。
「連絡がありませんけど。どうしますか?」
 亮太が口にした。
「もう少し待ってみましょう」
 さらに十分が経った。
「ひょっとしたら、犯人は我々に気づいたのかもしれません。ここは我々が先に出ますから五分ほど遅れてラウンジを出てください」
「分かりました」
 板倉は立ち上がると、駐車場のほうへ向かった。亮太も遅れて車に戻る。手にはビニール袋がぶら下がっていた。
『警部、犯人は我々に気付いてダイヤを諦めたのではないですか』」
『いや、それはないだろう。ここまで引きずりまわしたのだ、簡単に諦めるとは思えない』 
『そうだといいんですが』
 宮部はどんな気持ちでいるのだろう。犯人が諦めた、それは自分の孫の命が危ないことを意味する。心中穏やかではないだろう。あの傲慢な顔がどう変わっているか覗いてみたい気もする。
「あ、来ました、電話です」
「どうぞ、続けてください」
「もしもし……ホテルを出て、熱海のほうへ向かえばいいんですね……ええ、分かります右側の海のほうに駐車場があって……はい、渚公園ですね、知っています……ええ、このまま切らずに走ります」
 亮太はジャガーのキイを捻った。
『我々もでますか?』
『いや、もう少し離れてからにしよう、いく先は分かっている』
 用心している板倉の声が聞こえる。焦って相手に気付かれては元も子もないと思っているのだろう。懸命な判断だ。
「これから駐車場に入ります。そのあと公園に向かいます」
 亮太は駐車場に車を停めた。海岸沿いに作られた公園の歩道を除くと一面の芝生となっている。かなりの広さだ、ところどころに魚をモチーフにしたオブジェが飾ってある。海風が残暑に晒された肌に気持ちいい。
「ええダイヤは持っています、海のほうへ向かうんですね」
『いよいよじゃないですか?』
『ああ、そうかも知れん。寛ちゃんたちは?』
『後ろについています』
 寛ちゃん、とは別の刑事たちのことだった。板倉たちとは別に四人の刑事が後を追っていた。
 亮太は後ろを振り向いた。まだ板倉は車の中に居る。この距離だったら、何かことがあれば、すぐに駆けつけられると思っているのだろう。それに公園の片側は海に面している。逃げようとしても、板倉たちにいる出口を通らざるを得ない。
 亮太は芝生を踏みしめ指定された方向へと向かった。孫なのか、小さな子供を連れた白髪の老人がベンチに座っている。芝生に腰を下ろし笑っている若い男女。一人で黙々と歩いている若者がいる、携帯電話を使っている。観光客と思われるような男女のグループが三組ほどいる。ここにも携帯電話を耳に当てている者がいた。
 板倉たちにとっては誰もが怪しく思えるに違いない。
『どうします、出ますか?』
『いや、もう少し様子を見よう。寛ちゃんたちを公園の出口に配置しろ』
 笹原の指示する声が聞こえた。
「ああ鯨の像が見えました……その下にダンボールが置いてあるから、その箱を開けるんですね」
 鯨の像は海に突き出した一番端にあった。亮太はその像まで近づくと後ろに回りしゃがみこんだ。板倉たちの視界から姿が消えたはずだ。
「箱があった。今中を開ける……なんだ、鳩が入っている鳥かごが……なんだって、ダイヤの入った管を鳩の足につけて鳩を放せばいいのですね?」
『あっ』と板倉の息を呑む声が聞こえた。
「分かった、今すぐにやる」
「待ってくれ、楠田さんちょっと待って」
「でも、相手が」
「いや、少しだけ待ってください」
 どうやら敵の考えは板倉には意外だったようだ。思わぬ敵の出方に焦っていた。笹原も動揺している。
『警部どうしますか、このままだと』
『分かっている。宮部さんとんでもないことになりました。犯人はダイヤを鳩の足に付けて回収しようとしています。このまま相手の言うなりにダイヤを渡したら、犯人の思う壺になってしまいます』
『ヘリで追えないのですか?』
『これから手配じゃ間に合いません。それにヘリで果たして鳩が追えるかどうか』
『警部、やはり止めたほうが』
 ここでダイヤを取り上げられたら、もう犯人と接触する機会は訪れない。欲しいものを手に入れた犯人は一切連絡を絶つと思っているのだろう。無理もない。それに果たして孫を無事に開放するのかそれさえも分からないと不安がある。
 いや、最悪のケースが板倉の頭にチラホラしているのでは。
「あのう」
 亮太は遠慮したように声を出した。
「どうしました?」
「相手が、これ以上ぐずぐずするようなら、取引は終わりだと言っていますが。それに孫の居場所も教えない。食料はあと一日で底をつく。責任はそちらにあるとも」
「それは……」
『警部さん、ダイヤを渡してやってください。それで智之が帰ってくるなら安いものだ。今頃あいつ寂しがって泣いているかもしれません。いや恐怖で震えているはずです』
『しかし』
『いいんです、金なんか幾らでも稼げます。智之は一人しか居ない』
 宮部が泣いていた。
「あのう、もう終わりだと言っていますが」
「分かりました、渡してください。その代わり間違いなく子供を返すように言ってください」
 亮太はダイヤの入った管を鳩の足に取り付けると、大空へと鳩を放った。十羽の鳩は大空で数回円を描くと、そのまま北のほうへ向かって飛び去った。やがて点となり、視界から完全に姿を消した。


「もう一度思い出してもらえませんか?」
 板倉は貸し別荘を管理している事務所を訪ねていた。
「そういわれましてもねえ」
 もう六十を過ぎただろうと思われる管理人は、うんざりしたような顔をしている。
 今日で五回目であった。
 犯人はまんまとダイヤをせしめた。警察の手で鳩を追うことは不可能であった。悔しいが相手の見事なやり方に脱帽するしかなかった。
 残された手がかりは浩が監禁されていた貸し別送を借りにきた男の正体を探り出すことであった。
「若い男だったのですよね。二十代、それとも三十代?」
「二十代だったのか、三十代だったのか、」
 管理人はあいまいだった。
「どうでしょう、この男ではありませんか?」
 板倉は石場と亮太の写真を見せた。どうして犯人は石場と楠田を運び役に選んだのか。そこがずっと引っかかっていた。犯人は、宮部の家の事情に詳しいもの、そして会社に精通しているもの。そう見て間違いないだろうと思った。
 宮部の娘がひいきにしている銀座の宝石店を知っていた。宅配便の送り主の名前に岡村の住所と名前を使った。岡村の犯人説も考えていた。だが彼はずっと一緒に行動をしていた。共犯説も考えたが何一つ証拠はない。誘拐された浩も相手の顔を一切見ていなかった。
 宅配を受け付けたコンビニの店員は、白のつなぎを着ていたことと、野球帽を被りマスクをしていたのを覚えていたが、それ以外はまったく記憶がなかった。
 別荘に残された、オートリバースのテープレコーダー、ゲーム機、食べ物や飲み物。どれからも犯人に結びつくような証拠は得られなかった。浩はただいい匂いがしたとだけ言った。
「何度も言いましたように、覚えていないんですよ。似ているようでもあるし、違うような気もするんです」
「背丈も思い出しませんか?」
「私より高かったのは間違いないと思うんですが」
 男の身長は百六十ぐらいしかない。ほとんどの男だったら彼より高いだろう。
「何か、他に思い出すことはありませんか、どんなことでもいいんです」
「そうは言われてもねえ、私もお手伝いしたいのですが」
「そうですか」
 どうしようもなかった。「またお伺いします」という言葉を飲み込んだ。もうここに遣ってくることはないだろう。他の事件が待っている。今日が最後だというのを知っていた。


「楠田さん、本部長が戻ったら連絡を欲しいそうよ」
 亮太が営業から戻ると、同じ課の北村洋子が声をかけた。
 仕事の話でないのはすぐに分かった。業務事項であれば、課長の柴田を通してくるのが筋道であった。
 考えられるのはこの前の事件のことしかない。何か新しい事実でも出たのだろうか。しかしそれであれば警察が動くはずだ。警察からは何度か事情聴取をされたが、話すことは全て板倉が知っていることだった。
 あれから一ヶ月が過ぎていた。宮部と岡村も何事もなかったかのように仕事に精をだしていた。
「楠田、調子はどうだ?」
 樋口が営業から戻ってきた。その顔から仕事がうまく行ったのが判った。先週の月曜日の成績発表では生き生きとしていた。
「相変わらずだよ」
「お前らしくないな。あんまり成績悪いと、飛ばされるぞ」
「そのときはそのときだよ。仕方ないだろう」
「ずいぶんとあっさりしているな、それよりどうだ、今夜やるか?」
「いや、本部長に呼ばれているから」
 亮太は席を立った。何を話すつもりだろう。まあ気にしてもしょうがない。亮太はドアを叩いた。
「どうぞ」と返事が返る。
「悪いね、疲れているところを呼び出して。まあ、かけたまえ」
 亮太は言われるまま、ソファに腰を下ろした。
「この前は、社長のお孫さんの件で大変だったね」
「いえ、わたしはただ言われた通りにやっただけですから、たいしてお役に立ちませんでした」
「社長も一時はショックだったようだが、無事お孫さんも戻ってほっとされた。それでね僕はあの事件が気になって、自分なりに調べてみた」
 岡村は手にしていた書類をテーブルの上に載せた。丸秘の文字に調査報告書と書かれている。どこかの興信所の名前が印刷されていた。何を調べた。俺の出生の秘密か。
「驚いたよ、君の旧姓は小田切と言うんだね」
「ええ、そうです」
 やはり岡村は俺の出生を調べていた。宮部も岡村も今回の事件の後ろに俺の父、小田切琢磨が絡んでいるのに気付いた。当然であろう、彼らが引きずり回された場所は彼らが何度も父と通ったルートだ。あれで分からないはずが無い。
「君が前社長の息子さんだったとは。僕が知っている息子さんはまだ小学生だった」
「十八年前です」
「そうだね、君のお母さんが亡くなられて二十二年になる。十八年経ってまさか社長の息子さんとうちの会社で会うとは思っていなかった」
「うちの会社ですか?」
「これは言い方が悪かったかな。ところで宮田綾乃君を知っているかな?」
「ええ、知っています。でも彼女会社を辞めましたよ」
「みたいだね。君たちは仲が良かったのだろう?」
「ええ、まあ」
 岡村はもうひとつの報告書を開いた。
「これを見て世の中の不思議というのをつくづく感じたよ。ところで今回の誘拐事件はお父さんの復讐のつもりだったのかな?」
「何のことです?」
「君じゃないのか誘拐事件は。でもお父さんの復讐だったら、それは間違いじゃないかな」
「どうしてです?」
 岡村は答えなかった。どういえば亮太に分かってもらえるか、言葉を捜しているようだった。
「君にとって、お父さんはどんな人だった? いいお父さんだったかい?」
「どうでしょう」
「君にはそうだったのかも知れないな。でもお父さんは厳しい人だった。他人のミスを許さないような、激しい気性だった。それは自分の作った会社への強い愛情のせいだったのかもしれない。だが、いつかそれはワンマンへと変わっていった。何でも自分の思うとおりにしないと気が済まないようになってきた。人間絶対的パワーをもって、好きなことが出来るようになると、やがて勘違いがでてくる」
「意味が分かりませんが」
「そうかな。ひょっとすると君も気づいていたんじゃないか、お母さんが苦労していたことを」
 母親は色が白く、着物の似合う人だった。伯父は俺が母親似だと嬉しそうに言っていた。だけど母はいつも悲しそうな瞳をしていた。
「君のお父さんは私利私欲に走り出した。経営者にあってはやってはいけないことだった。組織が腐り、やがて会社が潰れてしまう。オリエントテクノは小田切琢磨一人の会社ではないからね」
「それであなたたちが父を追いやった」
「信じられないかも知れないが聞いて欲しい。小田切琢磨は気に入らない社員は次々と首を切った。少しでも自分の意に沿わないと容赦なく切り捨てた。それで泣いた社員が一人や二人ではない。それだけではない、君のお母さんを苦しめることもやっていた」
 そこで岡村は言葉を切った。分かっている岡村が何を言いたいのか。
「会社の女性に手を出していたんだよ」と言いたいのだろう。
 伯父の絞りだすような言葉を思い出した。お前には異母兄弟がいると。初めはその意味が分からなかった。そんな馬鹿な、父がそんなことをするはずがない。父は母を愛していたんだ。だが死期の近い伯父の話に嘘があるはずがなかった。そして名前を教えてくれた。宮田綾乃、おれより六歳下だった。
「君のお父さんは土曜日になるとゴルフに行っていたが、いつも女性同伴だった。そしてあのマリンホテルに泊まっていた。我々はカムフラージュに使われていただけにすぎない」
 岡村の話はまだ続いていた。
 綾乃と初めて会ったのは二年前だった。いきなり電話を寄越し会いたいと言ってきた。「お兄ちゃん、あなたが私のお兄ちゃんなのね」
 答えることが出来なかった。目の前に血を分けた妹がいる。天真爛漫というか、綾乃は素直に会えたことを喜んでいた。まるで小さいときから一緒に育ったように、普通のように甘え、いつか二人の間に垣根はなくなっていた。
「たとえそうだとしても、あなたたちのやったことが結果として父を自殺に追いやったのじゃないですか」
「そうだね、その責めは甘んじて受けるよ、ただ我々のやったことは君のお母さんも承知のことだったんだ。いやお母さんが同意してくれたからこそ我々は出来た。君のお母さんも大株主の一人だったからね。君には信じがたいことかもしれないけど」
「そうですか」
「驚かないね。どうやら君は知っていたようだね」
 伯父が言った、お母さんを恨んじゃ駄目だぞ。お母さんはお前の幸せだけを祈っていた。ああするしかなかったのだと。
「専務、まだ私が誘拐事件の犯人だと?」
「どうだろう、話を聞いていると君ではないようだが。でも君は知っているのじゃないかな、誰がやったのかを」
「ええ、知っている」と言うのを飲み込んだ。
「お兄ちゃん、ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」
 そうやって綾乃が切り出したのは事件の起こる三日前だった。
「今度友達と犬つれて遊びにいくの、だから別荘を借りて欲しい、そのときにこれだけのものを買って運んでくれる。それとおにいちゃんの友達から鳩を借りて欲しいんだ」
「なにするんだ」と聞いても内緒と、笑うだけだった。
 だが、あの渚公園で鳩を見たときに分かった。綾乃が事件を起こしたと。すぐに綾乃を捕まえ事情を聞いた。
「おまえ、なんであんなことを」
「決まっているじゃない父さんと母さんの復讐よ、お兄ちゃん口惜しくないの。あの宮部の、あいつのお陰で父さんは自殺に追い込まれたのよ、会社も奪われたわ、何もかも」
 いつもの明るい綾乃の顔はなかった。近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
「でもつかまったら?」
「大丈夫、お兄ちゃんさえ黙っていれば分からない。あいつの苦しむ姿最高だった。金も吐き出させてやった。お兄ちゃんも見たでしょう。心配しないでお兄ちゃんに迷惑をかけるようなことはしない」
 綾乃は復讐をするために会社に入り、ずっとアイデアを暖めていた。それほどの憎しみを持っていたことに驚かされた。だが俺のどこかにも、そんな思いがあったのかも知れない。綾乃のやったことに拍手をおくりたい、そんな気持ちもあった。
「いえ、私にはさっぱり分かりません」
「そうか、分かった。もう終わったことだ。ところで仕事は楽しいかい?」
 岡村はもう専務の顔に戻っていた。
「少し考えたいことがあるので、会社を辞めようと思っています」
「何か嫌なことでもあるのか?」
「いえ、個人的なことです」
 意思が固いのを知ると、戻りたくなったらいつでも歓迎するぞ、と岡村は言った。だがその気はない。
 外はすでにネオンが煌いていた。
「お兄ちゃん、元気」綾乃からの電話があったのは二日前だった。バンコックにいると言った。
「ねえ、お兄ちゃん、お兄ちゃんもこっちにおいでよ。のんびりしていて楽しいよ」
 持っていたダイヤのひとつを換金したら、結構な金になったと笑っていた。
 外国か、全てを忘れてしまうのにいいかも知れない。
 父の死の原因を知りたいと伯父に尋ねた。躊躇した伯父。やがて亮太の熱意に折れて話し出した。伯父は知っている全てを話してくれた。母の気持ちも、母が残した財産も。
 亮太の中の母は、いつも悲しそうな笑い顔をしていた。子供心にその理由を聞くのをどこかで怖れていた、それは亮太の中で父の本当の姿を感づいていたのではないだろうか。母親の悲しそうな表情の中に岡村が言ったようなことを読み取っていたのではないのか。苦虫を噛み潰したような怖い父の顔が思い出された。笑い顔を探そうと記憶を手繰ったが、出てくるのは優しい伯父の顔であった。
 どうしよう、綾乃を訪ねてみるか。
「バンコックか、暑いだろうな」
 ネオンのあふれる人ごみの中を歩いた。街はまだ夏の残りを引きずっていた。
 了
2011-10-15 18:19:05公開 / 作者:山椒魚
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■作者からのメッセージ
伏線と犯人をどうするかを色々と考えてみました。
初めてですが、どうでしたか。批評をお待ちしています。
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2011-11-27 01:55:51【☆☆☆☆☆】壬
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