『秋桜』作者:asahi / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 僕が、聡美を殺した。ただ平凡な大学生活を送っていた大山裕太は、心に傷を持つ女子大生、青柳聡美と出会う。二人で過ごす楽しい日々。あの天体観測の日から、君の命を僕が奪うまで。二人の出会いを、誰かが奇跡と呼んだ。 哀しさと幸福に包まれた、「その日」までの軌跡を描きます。
全角10287.5文字
容量20575 bytes
原稿用紙約25.72枚
 花柄のクリーム色のワンピースを着た女性が、僕の目の前に仰向けに横たわっている。肩まで伸びた黒髪と、端整な顔立ち。名前を、聡美という。ボロアパートの六畳一間。シミがいくつもある汚い畳の上に敷かれた白い布団の上に、今彼女はいる。僕はただ、彼女の横であぐらをかいている。そしてただ顔を見つめている。安らかに目を瞑った、聡美の顔。左目の下の泣きぼくろがいとおしい。
 僕は彼女を愛していた。
 玄関の側の小さい冷蔵庫が、低く鈍い音を立てた。それが僕を現実へと引き戻した。聡美の顔から目線を切り、ゆっくりと腰をあげた。上から聡美を見下ろす。もう目を覚ますことも、僕の名前を呼ぶこともない。僕が、聡美を殺した。
 ……これから、どうしようか。焦燥感ではなく、冷静な思考が働いた。静かな空間に、遠くの救急車のサイレンと冷蔵庫の音だけが在った。

 1
「おはよ」
大橋芳子の短いあいさつに、僕は自販機の取り出し口に身を屈めながら答えた。今日は珍しく1限から来たんだ、と芳子がからかうように言った。
「後期は本腰入れないと、進級できないから」
ペットボトルのふたを開けながら僕が言うと、へー、と気のない返事をした。
 芳子は僕が所属するイベント運営のサークルの仲間だ。ショートの茶髪に、いつも露出の高い服を着る。必要以上とも思える明るい性格で、おとなしめな僕は少し苦手だった。しかしサークルには熱心に参加してくれていて、二年生で副代表の僕は助けられている部分もあった。
「どうだった?夏休み」
その問いかけに、僕はうーんと首を捻った。夏休み。昼頃起きて、夕方からバイトへ行って、夜遅くにまた床について……。その繰り返しだった。
「思えば夏らしいこと、全然してないかもなぁ」
同じ教室に歩き出しながら、僕は自分で確認するように言った。芳子の肌をふとみると、元々色白な彼女の肌が、少し焼けていることに気付いた。
「芳子は満喫したみたいだね」
僕がそういうと、うつ向いた顔をあげてまぁねー、と笑顔になった。
 大教室にはいると、席は後ろの方までいっぱいだった。その人混みのなかで、僕に向かって手を振る伸治を見つけた。芳子も友達を見つけたらしく、そちらの方へ楽しそうに歩いていった。久しぶりー、と甲高い声が聞こえた。
 「伸治、久しぶりじゃん」
席へ行き声をかけると、伸治と泰弘が座っていた。
「お前生きてたのかよ」
泰弘の声に、僕は少し笑って席についた。
 この二人もサークル仲間で、僕はシンジの誘いでサークルに入った。好色な伸治は、女の子が動機だったらしい。茶色い長髪とひょろっとしたからだで、顔の整ったおしゃれな男だった。泰弘は大柄な体育会系の男で、ラグビーのサークルと掛け持ちで入った。伸治とは対照的に、強面のせいで異性の噂はあまり聞かない。
「伸治来ると思わなかったわ」
僕がノートを出しながらそういうと、伸治も俺の台詞だろ、とわざとらしく身をのけぞらせた。
「芳子、落ち込んでなかった?」
「なんで?」
「夏休み中に片田先輩と別れたらしいよ」
「嘘だろ?」
僕は先程軽々しく芳子にかけた言葉に、申し訳なさを感じた。
「そんな様子、無かったよ。いつも通りの笑顔で」
伸治は納得するように軽くうなずいたが、僕はなんとなく別れた理由を聞いてみた。
「なんか、マンネリって言うの?お互い冷めちまったんだとよ」
「意外だねぇ、仲良さそうに見えたのに」
泰弘がおっとりとした口調で言った。見かけによらず、温和な性格をしている。
 芳子と片田先輩は、かれこれ二年以上の付き合いだった。片田先輩は真面目な性格で、芳子の彼氏としては何となく違和感があったが、芳子はその頼れるところに惚れていたようであった。
「片田先輩も、勉強忙しそうだったし。二年生の芳子とは、波長が合わなくなってたんじゃん?」
僕はあの二人が一緒にいるところを思いだし、芳子が先程と同じ笑顔をしていたことも思い出した。
「それよりさ、秋の天体観測はどうなったの?」
伸治はペンを回しながら僕に聞いた。秋口に一度、他の大学と合同で旅行に行くのだ。そこで星を見ながら、みんなで騒ぐ。天体観測とは名ばかりで、伸治は昨年来この旅行を楽しみにしていた。
「日にちは9月の19日で確定かな。誰が行くかはまだはっきりしないけど」
サークルの代表は呑気な性格で、僕が大体の行事の幹事をしていた。
「まぁ、かわいい子が来れば何でもいいよ」
伸治が歯を見せてまたわざとらしく笑った。

2

 私の名前は、青柳聡美と言います。
生まれは埼玉で、育ちも埼玉。都心の大学に憧れて、H大学へ進学しました。家から通える距離だし、満足しています。この前、W大学に通う友達の芳子に旅行に誘われました。芳子のサークルが他の大学と合同で、天体観測旅行に行くんだって。望遠鏡も持ってないし気が引けたけど、大丈夫みたい。現地調達するなんて無茶なこと言ってた。なんだか楽しそう。他の大学の人と知り合えるいい機会だし、行ってみたい。最近塞ぎこみがちだったし、気分転換にもなるよね。家に一人のママには悪いけど、きっと行ってきなって言ってくれるはず。
 ママといえば、私にはパパがいません。私が中学生の頃、いなくなっちゃった。嘘。自殺しちゃったんです。ママはもうその事には触れないし、私も忘れたい。だって、パパが嫌いだったから。ママも私もおうちのことも省みないで、遊んでばっかりだった。それで自分で勝手に追い込まれて、マンションの最上階から飛び降りちゃった。
 でも私とママの人生はまっ逆さまにはならなかった。ふたりで頑張って、いまこうして楽しく過ごせてる。天体観測、楽しみだな。どんな人と出会えるだろう。一つ一つの出会いを大切に。それがママを喜ばせることにもなるんだ。ちょっと、臭いか。

 3
 19日は、あっという間にやって来た。計画がギリギリまで固まらなかったけど、無事この日を迎えられたことに、僕は胸を撫で下ろしていた。参加者はW大のサークル仲間とその友達が中心になった。H大の芳子の友達が来るらしい。
 集合は朝9時に東京駅。十分前に改札につくと、伸治と泰弘の姿をすぐに確認できた。泰弘の大きな体はひと目でわかる。泰弘は青いジャージと短パンを着てボストンバックを肩に掛けていた。バックが小さく見える。
「裕太、おはよーう!」
僕に気付いた泰弘の太い声が、伸治を振り向かせた。二人の奥に、女の子が二人見えた。
「おーっす!結局、俺らの大学だけなんだって?」
伸治は紺色のパーカーにハーフパンツだった。お洒落だな、と悔しいながらも思う。
「今日は聡美もいるでしょー?」
明るい芳子の背中に申し訳なさげに、黒髪の女の子が立っている。初めて見る子だった。
「ほら、副代表に自己紹介自己紹介!」
芳子がその子の腕を引っ張ると、女の子は僕の前に戸惑いながら立った。
「青柳聡美、です。H大学で、芳子の友達で……」
小さい声でうつ向きながら話したので、後半はうまく聞き取れなかった。でも、名前が聡美ということはなんとか聞き取れた。
「大山裕太です。一応、副代表やってます。今日から、よろしくね」
聡美は顔をあげて、笑顔ではい、と言った。なんだかんだ、楽しくやっていけそうだと思った。
9時15分ごろにはみんなが集まり、僕らは天体観測へと向かう電車に乗った。
 

 出会いは偶然で、それは運命なんだと誰かが言っていた。僕と聡美は、こうして出会った。出会ってしまった。それは奇跡か、哀しい運命だったのか。今となっては、答えはわからない。

4

芳子という名前が、嫌いだった。よしこ、なんてちょっと今時古くさくないかい?世の中のよしこさん、ごめんね!でも、最近は好き。大学に入ってから、大好きになったよ。今までは大橋って名字て呼ばれてばっかりだった。今はサークルの皆さんが、あたしを名前で呼んでくれるんだ。すると不思議なことに、自分の名前が大好きになった。大事にしたい。
 そうそう、それで天体観測の話。田舎列車を降りて駅に降り立つと、緑緑、緑。景色いっぱいに広がる山々は、秋の匂いを感じさせながらも、まだ夏の面影を残していた。地名はよくわかんなかったけど、山中の宿に泊まって夜天体観測って感じみたい。参加者が少なかったから、アットホームな雰囲気でよろし。あたしと聡美しか女の子はいなかったけど、裕太くんや伸治くんが一緒だから気が楽だったよ。
 駅からでて、寂れた駅前で深呼吸。未だに鳴いてるアブラゼミ。少し涼しい風があたしを通り抜けて、深呼吸の意味が変わった気がした。生き返るー!伸治と泰弘が子供みたいにはしゃいでじゃれあってた。伸治くんはかわいい子が来れば、なんて言ってたけどやっぱり口だけだね。ただ一番楽しみたいだけなんだ。
 裕太くんはいつも、二人のとなりで静かに笑ってる。騒ぐような性格ではないけど、いつも皆のために頑張ってくれてるね。感謝。聡美は電車のなかで、そんな裕太くんとずっと話してた。心なしか、目が輝いてないかい?短め黒髪、爽やか系だけどどこかラフ。いつか言ってた聡美のタイプまんまだもんね。もしかしたら、なんて考えちゃいますなぁ。
 あたしたちは少し古い木造の民宿に荷物をおいて、散歩にでかけた。三年の先輩たちは部屋でトランプしてたみたい。民宿の前を、きれいな川が流れていた。ガードレールとコンクリートの土手、その袂に砂利が広がっていて、その向こうをキラキラと流れていた。泰弘が泳ごうよぉ、なんて言ったもんだから、伸治もその気になってシャツを脱ぎ始めた。あぶねーから!いつもの調子で裕太くんが注意したら、二人は裕太くんのシャツを剥ぎ取っていた。なんかもう、いつも通りで安心したよ。ぶらぶらとアスファルトの山道を歩いた。川に沿って歩くと、向こう岸に民家がポツポツと見える。不便じゃないかなぁ、こんな田舎だと。失礼だねあたし。夏休み中の嫌なことが、静かに消えていくことが嬉しかった。

 5

 民宿に帰った僕らは、部屋でトランプをしたり、風呂に入ったりしてゆっくりとした時間を過ごした。随分遠くまできたもんだ。窓からの山々をみてそう思った。聡美ちゃんも無事サークルのみんなと馴染めたみたいで、楽しそうにトランプもしていた。
 夜9時を回り、大部屋の隅で代表がそろそろいくぞ、と呼びかけた。
「ねぇ、望遠鏡は?」
芳子が怪訝そう伸治に聞いたが、現地調達なんて不可能なことは皆わかっていた。
「車で山頂まで上がるんだろ?民宿のひと、二台ぐらい貸してくれるって言ってたよな」
「そうだな。それまでお酒は我慢だな」
伸治の確認に僕はなるべく冷たくあしらったつもりだが、伸治はお構いなしにビニール袋一杯の缶チューハイを泰弘に持たせていた。
「俺は、後部座席だから」
その一言は、僕がハンドルを握ることを意味していた。
 山頂までは、車で十分ほどだった。幸い空は快晴で、月明かりも眩しいほどだった。車から降りて空を見上げる。僕は言葉を簡単に失った。
 絹のネイビーの絨毯に、ダイアモンドのビーズを散りばめたように……そんな僕の精一杯の詩的表現をも嘲笑って、星は輝いていた。手入れされた芝生に立ってただそれを見上げている僕は、とっくに宇宙に置き去りにされていた。伸治たちの無邪気な歓声は、空の静寂に打ち消された。
 僕は大きな芝生の広場のすみのベンチに腰掛け、小さく息を吐いた。不思議と、心は切ない気持ちだった。
「綺麗ですね」
こちらに歩きながら声をかけてきたのは、青柳聡美だった。
「うん。すげーな、これは」
安っぽい言葉しか出なかったが、それがすべてだった。
「ほんとに、綺麗」
呟くようにいいながら、聡美は僕のとなりに腰かけた。それでも、ひと一人分くらいの間は空いていた。僕は上を見上げる聡美の横顔をみて、すぐに視線を下に落とした。
「ありがとうございます」
聡美の小さな声が僕に届いた。
「なにが?」
「この旅行、ほとんどあなたが企画してくれたんでしょう?」
ベンチに両手をあて、少し前屈みになって聡美は僕を見た。
「まぁ、うん。毎年やってるし、代表が僕に任せてくれてるから」
民宿の予約も、一日のタイムテーブルも、ほとんど僕が計画した。それが代表の怠慢だというのは、何となく気が引けた。
「他の大学のあたしとみんな仲良くしてくれるし、ほんとに楽しい」
少し前後に揺れながら、聡美は嬉しそうに笑っていた。
「なら、よかった。俺のまわりは遠慮するような奴等じゃないから」
「最初は迷ってたんだ。なんだか、芳子だけじゃ不安で」
声のトーンが少し下がる。遠くで芝生に座りこんで酒を飲んでいるみんなの声が、二人の沈黙を防いだ。
「不安って、なにが?」
みんなとの関係が。普通に考えれば、僕はそう捉えていただろう。しかし聡美の声は、なにか含みを持たせている気がした。
「全部、終わっちゃいそうな気がしてね……」
足元を見つめたまま、消え入りそうな声で言った。僕はもう、深入りして聞くことはできなかった。彼女の中の暗闇。それに触れるには、僕らはあまりに遠すぎた。
「大学生活はまだまだ長いのに、私の人生も、まだまだ長いのに」
僕の思案をよそに、聡美は続ける。
「この景色を見て、なんだか辛くなっちゃった」
聡美はどこを見て話しているのだろう。僕は遠くの伸治達から、目を離せないでいた。
「私、なんだか変わってると思うでしょう?その通りだと思う」
その通り。なんで出会って間もない僕に、こんな話を続けるのだろう。
 ベンチの後ろの草原で、鈴虫が鳴いている。
「裕太くん。君だからって、特別に言うわけでもないだけどね」
もしも僕が、聡美を自然な、ごく普通の女の子としていま、認識できていたら。きっとこの言葉の後に、愛の告白でも期待しただろう。
僕の鼓動が自然と早くなっていく。触れてはいけない大きなものが、一方的に迫ってくる気がした。
「この日に、こういう気持ちで君に出会えたのが、きっと運命ってやつなのしたら」
僕の呼吸が速くなり、たまらず僕は聡美の顔を見た。
「言おうと思うんだ」
長い沈黙。僕は少し息をあげて、聡美の目を見て動けない。きっと、目を見開いて絶望したかのような顔をしていただろう。

瞬間、泰弘の太い笑い声が耳に届く。
「私、人を殺したんだ」
聡美は静かに、微笑んでいた。



 6

 青柳聡美の母は、聡美の将来を何よりも気にかけていた。夫が死んでから、その感情はより一層強まったようだった。自分自身、世間では一流といわれる国立大を卒業しており、夫が死ぬまでは大手の商社に勤めていた。
「今は学力ってものが少しずつ軽視されつつある世の中でしょう?それって、この国の大学の環境が悪いからだと思うの。学力よりコミュニケーション能力だとか、学歴に左右されない就活だとか耳にするでしょう。あんなの、逃げてるだけなのよ。改善できない現状から目を逸らして、別のもので代替したいだけなのよ」
進学したくても出来なかった者はどうするのか、と聡美が聞くと、
「そういう人たちとは最初から土俵が違うのよ、聡美」
と少し笑いながら言った。
キャリアを積みながらも聡美を一人前に育て上げることが、人生の目標だった。そんなことを聡美は聞いたことがあった。
 だからこそ、夫の死は彼女にとって誰よりも大きな転換点となった。もちろん聡美を育てていく為の金銭的余裕もなくなり、仕事も今までのように続けるわけにはいかなくなった。聡美はまだ幼い。どこかに預けるにしても、迎えの時間に仕事を縛られてしまう。今までは迎えは夫に一任していたし、彼女が帰るまでの子守も彼がしていた。しかしその夫亡きいま、聡美と彼女ふたりだけになった。聡美の全てを、自分が見ていかなければならない。頼れる家族も親戚も近くには住んでいなかった。
「引っ越すことも考えたけど、身内に迷惑はかけられないなって思って。一種の意地よ」
仕事をやめた。辞めることを暗に求められたのだという。彼女は自ら自分が思い描いていた表舞台から降りたのだ。両親はすでに年老いているし、親戚とは何年も疎遠なままである。兄弟はいない。孤独の二文字が彼女を押しつぶさなかったのは、聡美がいたからだった。
「あなたは幸せになってね。もちろんあたしも、あなたがいて幸せだけどね」
それが彼女の口癖だった。それを聞くたび、聡美は自分が殺した男の悲鳴を思い出し、少しだけ後悔するのだった。


 旅行から一週間後だった。僕は重い扉を開け、広い階段教室に入った。古い木材のにおいが鼻をついた。教室の匂い。教室内は多少の話し声があるものの、静かだった。昼休み後だからであろう、机に伏せて居眠りをする学生が目立つ。マイク越しの講師の低い声が響いている。
「裕太」
康弘が扉のすぐそばの席から声をかけた。僕らはいつも後ろの方に席を取る。
「座れよ。席とっといたから」
僕は三列の机の一番端に座り、リュックを置いた。
「で、連絡はあったかよ」
伸二が小声で聞いた。
「誰から?」
「馬鹿、誰からってことはねぇだろ。聡美ちゃんに決まってんだろ」
「ないよ」
「おかしいよな、絶対おかしいよな。旅行の時も変わった様子なんかなかったじゃないか。お前が一番仲良さそうにしてたし、お前には何か連絡来てんじゃないのか」
「だから、無いって」
僕は少し苛立って答えた。
青柳聡美は9月20日、自宅に置き手紙をおいて行方不明となった。聡美の母親はすでに捜索願を出しているという。
「なんて書いてあったか知ってるか。償いをする為に、だとよ。あの子何をしたってんだ」
「俺が知るかよ」
「お前心配じゃないのか、もう1週間経つんだぞ」
僕は知っている。彼女が償わなければならない罪を。しかし、それの償いをするためには、ただ行方をくらますだけではなし得ないはずだ。
「いやぁ、何なんだろうねぇ。彼女なりの事情でもあったんじゃないかなぁ」
「俺が心配してるのは、俺達との旅行が原因でいなくなったんじゃないかってことなんだよ」
「伸二、考えすぎだよ。僕達、犯罪行為をしたなんてなかったじゃない」
伸二は随分心配しているようだった。もっともだ。旅行の翌日に行方不明……僕らとの時間が原因だと考えてしまうのは当たり前だ。
 
 「……殺した?」
消えいるようなか細い声だということは自分でもわかっていた。聡美は口元にうっすら笑みを浮かべて僕を見つめている。
――そんな馬鹿な。
だとしたら、僕の隣に座る人は殺人犯なのか。人ひとりの命を奪い去った経験があり、それを笑いながら僕に語っているというのか……。青柳聡美……大丈夫なのか、この子。
「半信半疑?信じてないかもしれないね、その顔は」
ただ、言いようのない恐怖が体を支配していた。冗談でも人を殺したなどと言うだろうか?この子は一体何なんだ。
「信じてくれなくていいよ、裕太君。重要なのは、そこじゃないの」
いつ?どこで?誰を?……殺した?
「君は、何を言ってるんだ」
そう言いながら、僕は少しだけ笑った。馬鹿げてる。
「そんなこと、あるはずがない。たとえあったとしても、なぜ僕にそれを告白した?……そんなふうに思ってるだろうね。そうだね、その通りだと思うよ」
聡美はベンチから立ち上がり、大きく伸びをした。少し冷たい空気が僕らを通り抜けた。
「あたしが殺したのは、あたしの大事な人の、大事な人だった。その人の大事な人は、あたしの大事にしたい人だったのよ」
広場の中央の伸二達を見つめたまま彼女は伸びからふっと力を抜いた。
「笑っちゃうよね。あたしが壊したいと思っていたものを壊したら、あたし自身の大事な人がそれを悲しんでるの。結局誰も幸せにはならなかった」
僕は小さく息を吐き、また問う。
「本当に、殺したのか」
彼女は振り返り、真剣な顔で言った。
「殺したよ」
「君が……」
「あたしは裕太君に真実を言った。これが必ず、大きな意味を持つわ」
僕は頭をうなだれ、目を閉じた。数多くの疑問が頭の中を駆け巡っては絡まっていく。
「戻ろっか。このことは、内緒にしてね」
僕は何も言えず、ただ膝に腕を置いて地面を見つめていた。
「星、本当に綺麗だね……」
そう言って彼女は広場の中央に歩き出した。


7

 片桐は黒いプラスチックの灰皿に煙草をねじり伏せ、目の前のテーブルに置かれた新聞を手に取った。一面は政治問題。偽証がどうとか、違法献金がどうとか、昨日と同じような見出しが並ぶ。スーツの胸ポケットから潰れてくしゃくしゃになった煙草を取り出し、またライターで火をつけた。
 古びたアパートの一室で、片桐は白い煙を天井に吹きかけた。床に潰れるようにして、テレビと向かい合って配置されたくたびれたソファに片桐は座り、横に転がる死体を眺める。背中と太ももに突き立ったナイフと、白いワイシャツにいくつもできた赤いシミ。小太りした中年男性は、うつ伏せになったまま死んだ目で片桐の足を見つめていた。
――胸糞悪いから、見るなって。
片桐は男性の顔面を右足で軽く蹴ってみた。無論、応答は無い。
 あなたが悪いんですよ、井口さん……。依頼人は、震える声でそう言いながら、分厚い札束の入った茶封筒を片桐に手渡した。
「詳しいことは聞きませんが、ひとつだけいいですか」
片桐が仕事に入る前に必ず聞くことがある。
「後悔しませんね?」
依頼人はその場で泣き崩れ、呻くように嗚咽を漏らした。片桐は心の中で依頼人を嘲笑した。本当はこんなこと、したくないってか。よく言うよな。金だけ渡して、その井口とやらを葬り去って、また甘い汁を吸うわけだろう。
「しません……お願いします……」
よくできた演技だ、と片桐は思った。井口が死んで、お前は自室でほくそ笑みながら酒でも飲むんだろうに。
 井口大介という男は、大手企業の役員だった。会社の資金を横領し、それがマスコミに暴かれてからは会社自体が傾いていた。会社の立ち入り調査、事情聴取。時間をかけて一つ一つ明るみに出る井口の悪行。そして企業の実態。依頼人もその会社の社員らしかった。
「井口さん、とやらが死ぬことで企業に何か利益があるんですか。自体は余計悪化するようにしか思えませんがね」
片桐は何となく井口が死ぬことになる理由を聞いてみた。興味があったわけではない。
「それでいいんですよ、片桐さん。この会社はとっくに終わってしまったんだ。僕の人生もね。あの人が生きてようがそうであるまいが、『僕にとっては』何も変わらないんだ」
私怨、ってやつか。これほどの金を使ってまで命を奪いたいものなのか、と片桐は依頼があるたび思う。
「わかりました。明日からの新聞は毎朝読んでおいて下さい。それと……」
依頼人ははっと顔をあげた。
「わかってます。あなたと僕は、もう一生会うことは無い」
「よい人生を」
片桐はそう言って依頼人に背を向けた。片桐は依頼人と顔を合わせることを厭わない。信頼関係と言えば随分きれいなものだが、ただ殺しを依頼するロクでもない人間を見たいからであった。自分が警察とやらに捕まる心配はさらさらしていない。この国が腐りきっているからであった。
 テーブルに置いた二つ折りの携帯が振動した。リサ子からの着信だ。
「仕事、終わった?玉ねぎとバター買って来てほしいんだけど」
片桐はソファから立ち上がり、もう一度井口の死体を見た。
「あぁ、今さっき終わったよ。帰りに買っていけばいいんだな?」
「もしかして、まだ部屋に居るんじゃないんでしょうね?もし捕まったりでもしたら、あんたのカードと印鑑もって消えてやるからね」
リサ子は高い声で冗談っぽく言った。
「そうなる前に俺がお前を殺してやるよ」
片桐は笑いながら言う。お決まりのパターンだった。
「いいから終わったら早く帰って来てよね。気が気じゃないんだから」
「そういえば、次の依頼も入ってるんだよ。向こう20年は暮らしていけると思うな」
「もうそれ以上暮らしていけるでしょうに。あんた殺し止められないでしょう」
リサ子はため息をついてあきれたように言った。ご名答、と片桐は頭を掻いた。ドアノブをひねり、アパートの廊下に出た。秋が深まってきたせいか、少し肌寒い。
「じゃあ、今から帰るよ。あっ、そういえば」
電話越しに、テレビの音が聞こえる。バラエティのようだった。
「伸治はもう帰ってきたのか?」
「まだよ、明日旅行から帰ってくるってさ。じゃあね」
リサ子はテレビに笑いながら、電話を切った。
2012-01-17 02:16:44公開 / 作者:asahi
■この作品の著作権はasahiさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初投稿です。趣味の一環である小説を細々と自己満足で続けて参りましたが、誰かに評価していただきたいという思いのもと、投稿させていただきました。
皆さんのご意見ご感想を糧に、より良い形で完結させたいと思います。よろしくお願いいたします。
この作品に対する感想 - 昇順
初めまして、小説読ませていただきました。
しょっぱなから殺人事件で「なんだなんだ」と思わせ、次は一転明るいキャンパス物。あまりにギャップがありますがどことなく妙な雰囲気を感じる文面に恐れを感じさせます。
果たして誰が里美を殺したか、結末に期待して待たせてもらいます。
2011-09-17 09:32:18【☆☆☆☆☆】紫静馬
おおおおっ。インパクトがすごいっ。最初から最後まで、超ハラハラでした(>_<)
2012-01-29 20:50:08【★★★★☆】桃花
計:4点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。