『シークレット・ノーマッド(第七話〜第十三話まで)完結』作者:江保場狂壱 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
学園スパイアクションです。第七話から第十三話まで掲載です。
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原稿用紙約197.33枚
『第七話:ツインレイカー』

「コウちゃん、ちょっといいかね?」
 放課後、授業が終わってほっとする時間に丸尾虹七は教室で声をかけられた。声の主は同じクラスの男子生徒猿神拳太郎であった。彼はニホンザルが人間並みに大きくなったような人種である。かといって猿のように醜いわけではなく、愛嬌のある顔であった。
「あたいたちはねぇ、今日はデートしたいわけよ。それで今日は風紀委員室にはいかないから市松先輩に断ってほしいのよね」
 猿神の横には金髪で肌が黒い黒ギャルが立っており、猿神の代弁をした。彼女は猿神の恋人で白雪小百合という。名前は白いが本人は黒いというなんともミスマッチな人間だ。
「そう、なんだ……。ボクとしては三人一緒のほうがよかったかも」
 虹七は少ししょんぼりした口調であった。それを白雪が何あら思案ありげに見つめている。
「コウちゃんてさぁ、お仕事はいつもひとりでやってるの?」
「うん、そうだけど?」
「仲間とかはいないの?」
「協力者はいたよ。あらかじめ人質とか組織の一員として潜り込んだモール(工作員)と協力することはあったよ」
「つまりそれだけの関係ね。プライベートな付き合いをした人はいたの?」
「いたよ。ハナト……」
 自分の上司の名前を言いかけて虹七はあわてて口をふさいだ。それを見て白雪は目を細めた。
「プライベートな付き合いをした人はいたんだ。でもスパイとしては協力者に協力することはしても、あまり一般人と仲良くするのはまずいんじゃないの?」
 虹七は口をつぐんでしまった。白雪の言うとおり自分が猿神と白雪と付き合うのは一般人である彼女らを危険に逢わせることだ。虹七と知り合いになるということは敵対組織に弱点を晒すようなものである。白雪の言葉は的を得ていた。
「ヘイヘイヘイ! ユリーどうしたんだ? コウちゃんにそんなことをいうなんて。コウちゃん困っているぞ」
「……そうね。困っている顔がまたかわいいよね。でもコウちゃんはこのことを予測できなかったわけ? スパイなら感情を押さえ込むとか、冷静に判断するとかが必要じゃないの? あたいたちが巻き込まれて危険な目に遭うかもしれないとか予測できないわけ? それをあたいら三人と一緒にいたいなんてコウちゃんてさ、まるで子供だよね」
「小百合!!」
 猿神が怒鳴った。白雪は動じなかったが、虹七がうさぎのようにビクっと震えた。
「言っていいことと悪いことがある。コウちゃんが俺たち三人と一緒にいたいならそれでいいだろう? 確かにここ最近デートが出来なかったことは謝る。だが不満をコウちゃんにぶつけるのは卑怯じゃないか? 幸い俺様の生活に変わりはない。ほかの教師や同級生に無視されていたのはコウちゃんと出会う前と一緒だ。むしろコウちゃんと出会えたことで楽しい学園生活を送れるようになったんだ。それを……」
 猿神は最後まで言えなかった。白雪が右手の人差し指でふさいだからだ。そしてふさいだ人差し指を白雪は自分の唇に入れた。
「うふ、間接キス♪」
 猿神は顔が真っ赤になった。いちゃついても間接キスみたいな子供じみたことをしたことがないのか、照れくさそうである。この男は恥じらいがないように見えるが、実際は純情なのだろう。
「そう変わりがないのよね。災難はすべてコウちゃんが受け持っていて、あたいらには何もなし。執行委員のやつらはあくまでコウちゃんを狙っているし、ケンが参加しなけりゃコウちゃんひとりで相手をしていた」
 白雪の言い分に虹七は気づいた。敵はあくまで自分だけを狙っているのだ。猿神にも白雪にも、風紀委員会長の市松水守やその顧問大槻愛子には一切触れていないことを。
「なんとなくだけど生徒会はコウちゃんに個人的な恨みを抱いている気がするんだよね。前の転校生はコウちゃんほどではなかったわけよ。でも今の生徒会は異様なまでにコウちゃんを憎んでいる。あたいらに被害が及ぶ前に生徒会がなぜコウちゃんが憎まれるか調べることだと思うわけね。今はデートと称して校外に待機しているから、その間にコウちゃんには生徒会を調べてみることをお勧めしたいわけ」
 白雪の提案に虹七は目が丸くなった。彼女は素人だが、人を見る目がある。虹七の態度と生徒会の行動を客観的に見比べ、判断したのだろう。
「じゃあ、デートはブラフかね?」
「うふふ、今はいいじゃない。今度の休日に、ね?」
 再び二人は甘えだした。虹七は複雑な顔で二人を眺めていた。



 虹七は体育館の中に来た。その理由は生徒会役員で会計の鮫泥姉妹が中に入っていくのを目撃したからだ。時々教室から校庭を覗いてみると鮫泥姉妹はあまり運動が得意ではなさそうだったからだ。妹の美土里は小柄ながらまるで蒸気機関車のように身体を熱くし、突っ走るのである。
 今日の体育館は誰も使用しない日である。中はカーテンで締め切っており真っ暗であった。厚手のカーテンなのか、日光をまったく通さず、漆黒の闇が生まれていた。
(あの姉妹何しに来たのかな。鮫泥河南華は見かけによらず鋭い人だ。ボクの尾行など気づいていてもおかしくはない。でもボクをおびき寄せるにしても何をするのやら……)
 虹七の学生服のポケットには銃が潜り込んでいた。これは特製の文具銃であり、秘密合体拳銃である。
 カンペンケースは薬莢で、ヘアブラシはグリップである。それに万年筆のバレルと学生服のボタンのトリガーを取り付ければ完成する。薬莢は一発こっきりで、はずしたら次はない。鮫泥姉妹に拳銃を使いたくはないが、どうなるかわからない。できるなら硬質セラミックで作られた三十センチ定規で勝負したかった。
 本来なら相手が襲ってくるのを待ち受けるべきである。大使館事件にしろ、人質救出にしろ、セッル国のイワノフ博士救出にしろ、あらかじめ敵の勢力や武器を理解していたからだ。今回は違う。乙戸以上に鮫泥姉妹がどんな力を持っているのかわからない。
 本当なら花戸か松金から情報を得た後行動を起こすべきだが、情報とは飲食チェーン店のようにすばやくない。重大な情報ほど出し惜しみというか、検閲するにふさわしいか吟味されるのである。それゆえ時間がかかるわけだ。花戸ならあっさり教えてくれるかもしれないが、虹七にはできない。指令書に書かれていないことを自分はやろうとしている。
 本当なら一般人である猿神や白雪のことなど無視するべきだが、自然と虹七は彼らが大切に思えてきた。スペクターの協力者と風紀委員顧問の大槻は言うが、それ以上に二人といるとなんだか楽しく、春の陽気みたいに心が羽のようにふわふわしてくるのである。
 二人が協力してくれるのだ。ここでやらなきゃ男が廃る。虹七はとりあえず鮫泥姉妹から情報を得ようと彼女らを尾行していたのだ。
 体育館の中は真っ暗だった。一寸先は闇という言葉が似合った。出入り口だけが唯一の光であった。
 いきなり扉が閉められた。体育館は文字通り真っ暗闇に支配された。虹七は急いで扉に向かい、開けようとしたが鍵がかかっているのか開かなかった。予想していたとはいえ虹七は体育館に閉じ込められた。
「オホホホホ……。よくぞ私たちの狩場へ身を投げてくださいましたね。その勇気に敬意を評しますわ」
 どこからともなく可南華の声がした。もしかしたら妹の美土里かもしれないが、口調はこの間聞いた可南華のものと同じである。
「私たち鮫泥姉妹の恐ろしさを骨の髄まで味合わせるには、この墨のように真っ暗な闇と小箱のように限られた空間が必要でした。あなたは私たちに狩られる獲物でございます。約五分間、私たちが織り成す技に恐れおののいていただきますわ」
 声が途切れると、虹七は眼鏡の縁に手をかけた。相手は闇の中で虹七を始末しようというのだ。虹七自身闇の中での戦闘方法は学んでいる。虹七の眼鏡には赤外線スコープの機能がついており、相手の温度をさぐり当てることが出来るのだ。
 さっそく赤外線モードに切り替えると体育館の窓の側に二つの真っ赤なものが動いていた。そして何やら空気が漏れる音が聴こえたと思ったら何がが虹七めがけて飛んできた。
 それはまるで鷹であった。夜の闇を飛び交う狩人だ。虹七はよけたが、その瞬間眼鏡を奪われた。相手は虹七の眼鏡の秘密を知っているようだ。
 だからといって虹七は挫折する人種ではない。眼鏡がなくとも闇の気配を読むことは出来る。定規を構え、敵が来るのを読むのだ。
 自分がどこにいるのかわからない。自分の立ち位置が区別できない。普通の人間なら自分すら見えない闇に発狂してしまうものだが、虹七は訓練しているので平気だ。
 ただし闇は平気でも闇の中にどんな人種が襲ってくるかがわからない。闇夜にアサルトライフルを持つテロリストを相手にするのは大丈夫だが、鮫泥姉妹は予測がつかないのだ。
 また空気の漏れる音がした。まるでロケットのような噴射音だ。恐らく二人はガスで空を飛んでいるのだろう。これほど高速に飛ぶとなればガスの容量はそれほど大きくはないはずだ。彼女らの体型を考慮すればガスの容器は彼女らが無理なく背負えるタイプと思える。飛行時間はせいぜい一分も満たないと思われた。
 虹七がそう考えていると再び闇の鷹が虹七の横を通り過ぎた。その際頬に小さな傷を負ったが気にしなかった。
「オホホホホ、オホホホホ……。私たちは闇夜の烏。鳥は夜目と申しますがそれは間違いでございます。私たちの目はしっかりと丸尾様の姿を捉えておりますわ。スペクターと呼ばれようとも所詮は生身の人間。人間は同じ人間に殺されるのが運命でございますわ」
 可南華の声が体育館に響いた。なんとも妖気に満ちた声だろうか。人食い森に迷い込んだ人間に魔女が語りかけていると思えるくらいだ。
 ガスの噴射音は絶えずに聴こえる。その音を頼りに定規を構える。
 虹七は背中に強い衝撃を感じた。何者かが体当たりをしたのである。双子だから相手が前に集中しているときに後ろを狙えるのだ。卑怯ではない。勝つためなら当然のことだ。虹七は相手を卑怯と思わない。自分も相手の命を狙うわけだから、相手も自分の命を狙っても文句は言えないと思っている。
 ガスで空を飛ぶ双子。かなり厄介な相手だ。
 そのとき携帯電話の着信音が鳴った。虹七が電話に出ると相手は大槻だった。
『丸尾。お前今どこにいる?』
「体育館ですよ。今鮫泥姉妹と交戦中です。真っ暗なんでまったく見えないですよ」
 虹七の携帯電話は特注なので普通にしゃべっても盗聴先には雑音しか聞こえない作りになっている。迫りくる鮫泥姉妹をよけながら大槻にそう報告した。
『……今職員会議で教頭のやつが異常なまでに絡むんだ。いつもならすぐ諦めるのにな。お前、鮫泥姉妹に何を言われたか教えろ』
「えっと、自分たちの狩場に誘い込んだとか、ボクを五分以内に殺すとか言ってました」
『……!? 五分以内だと? 今から何分経った?』
「二分くらいだと思いますが」
 すると通話がぷつりと切れた。向こうが切ったのだ。なぜか大槻はあせっていたと思える。
 しかし虹七は慌てなかった。彼女らの攻撃はどれも致命傷にならないのだ。ガスの音が大きいので目が見えなくても相手の位置を特定できる。彼女らの武器がなんだかわからないが、相手に殺意がある以上油断はしない。
 五分以内に自分を殺すと言っているが、もうじきその五分は過ぎようとしている。
 とくん。
 心臓の音が高鳴りだした。もしかしたら緊張しているのかもしれない。
 風が舞った。虹七の横を鮫泥姉妹が飛び去ったのだ。しかし何かしようとするわけでもなく、ただ自分の周りを飛び回っている。いったい彼女らは何がしたいのだろうか。
「オホホホホ、あなたは終わりです。もうじき終わります。死神が鎌を片手にお出迎えをしている姿が見えてきましたわ。オホホホホ……」
 可南華は体育館の中を飛び回りながら、皮肉っぽい言葉を投げる。心臓はますます太鼓のように鼓動し、息が苦しくなってきた。自分はなぜ焦っているのだろうか。虹七はわからなかった。
 そこに突如扉が開かれた。飛行中の鮫泥姉妹が手で目を覆った。暗視ゴーグルをつけていたので突然の光に目が眩んだのだ。そのまま出入り口に突っ込む、壁に衝突するまで止まらなかった。壁は蜘蛛の巣のようにひび割れ、鮫泥姉妹は頭から血を流し、動かなくなった。その様子を現場に駆けつけた猿神と白雪が呆然と立ちすくんでいた。
「ドリーちゃん!!」
 鮫泥姉妹、おそらく姉のほうが激昂して虹七に突進してきた。腰に小型タンクを装着し、ガスの噴射で低空飛行をしていたのだ。可南華は眼鏡を投げ捨て、三十センチ定規を両手に持ち、突き出していた。虹七めがけて突き殺そうというのだ。
 しかし感情に支配され、まっすぐに突っ込むものなど虹七の敵ではなかった。
 虹七は可南華の片手を取ると、そのまま一本背負いの要領で彼女を投げ飛ばした。投げ飛ばした先には駆けつけた大槻と市松がおり、市松が急いで出入り口に縄で蜘蛛の巣のように張り巡らし、飛んできた可南華を受け止めたのであった。



 大槻は可南華の身体を調べだした。彼女は両腕を後ろに縛り上げている。すると小さなケースを見つけ出し、中を開けるとそこにはビニールに入った注射器が二本収まっていた。
 大槻は虹七に歩み寄った。
「あんた、こいつらから何か傷を食らってない?」
「はい、頬のほうを少し……」
 虹七がそう答えると大槻は頬の傷を見た。そして虹七の右腕をまくると、備え付けのアルコール入りのガーゼで消毒した後、注射器を突き刺した。突然の行為に猿神たちは目を丸くした。
「ヘイヘイヘイ! 教授どうしたんだい? いきなりコウちゃんに注射してさぁ」
「そうですわね。きっちりと話をしていただきたいですわ」
 猿神の問いに市松も賛同した。そこで大槻は彼らに説明する。
「丸尾は最初の一撃で毒を食らったんだ。おそらく遅効性で五分以内に効く毒だろう」
 毒? 虹七は信じられなかった。
「おそらく丸尾を殺すにはその毒しかなかったんだろう。解剖されても発見できない毒を使えば自然死として扱われる。五分以内云々は虹七自身を焦らせるためだろうね」
 大槻の言うとおりである。最初は緊張で心臓が鳴ったと思ったがよく考えれば自分は緊張を制御する訓練を受けている。
「この手の毒は万が一自分にも被害が及んだとき、保険として解毒剤を用意する。だから会計の身体を調べたわけか」
 白雪がいった。虹七は納得した。同時に情けなくも思った。
「まったく間抜けな話ね。スペクターのくせに人に助けてもらうんだから、あきれて物が言えないわ」
 大槻がいきなり虹七を罵倒した。あごをあげ、見下した格好である。あまりの展開に虹七は硬直した。
「私がこんなに早く行動できたのは前もって調書を読んでいたからよ。雷丸学園に関わる暴力団員が原因不明の病で意識不明になったことがあったから。あなたはそれを調べていたのかしら?」
 虹七は首を横に振った。
「雷丸学園は満月生徒会長が来る前は借金で暴力団に催促された時期が合ったらしい。ところがある日その暴力団がいきなり原因不明の病で寝たきりになったという話を聞いたことがある。さらにマスコミや警察が学校を調べようとしたら、突然マスコミが発狂したり、警察は帰ってくるころには人形みたいに感情がなくなっていたりしたことがあったんだ」
 猿神が補足した。虹七は雷丸学園とセッル国につながりがあるとにらんでいたが、細かい事件のことは調べていなかった。一般人の猿神ですら知っていたのに、虹七はまったく知らなかった。穴があったら入りたいくらいだ。
「それに丸尾くんは猿神たちが協力するといったそうね。なのにどうして一人で鮫泥姉妹を狙ったわけ?」
 大槻はいつ知ったのか虹七と猿神たちの約束を知っていた。それに対しもじもじする虹七。
「あんたは自分ひとりで何でも出来ると思っているの? 自分は何でも出来るから他人の力なんていらないと思っているの? 鮫泥姉妹は私たちがいなければあんたは毒で死んでいたかもしれないよ。私が教頭の行動に不審を抱かなければそうなっていたかもしれないんだよ」
 確かにそうだ。大槻は普段は諦めていた教頭がなぜかしつこく自分に食い下がっていたことを説明していた。席を立とうとすれば「いやいやまだ話は終わりませんよ」と取り留めのない話を何度も繰り返していたのだという。おそらく鮫泥姉妹の催眠術で足止めされたのだろう。そこに猿神たちが口を挟もうとしたが、大槻は無視した。
「あんたは他人を信じていない。それどころか自分すら信じていないんだ。誰も信用しない人間に誰が信用するっていうの? 信用されない人間がこの世で生きていけると思っているわけ? 世の中そんなにあまくないのよ。人に聞けばいいことを、つまらないプライドが邪魔して聞けないなんて子供じゃないんだから。あんたは身体が大きいだけの子供ね」
 大槻のあまりの毒舌に猿神たちは呆然となった。猿神がちらっと虹七を見ると、虹七の両目から滝のように涙がこぼれていた。
「……だって、だって、ボク、言われたことを守っているだけなのに……」
 まるで母親にいたずらで叱られた子供のようである。大槻の口調はますます荒くなる一方だ。
「はぁ!? 言われたことを守るだと? そんなのは子供じゃない、自分の意思で決めたことはないの? そんなのはロボットよ、いいや、ロボットよりたちが悪いぞ。お前はロボットだ、ロボット人間だ!!」
 大槻のあまりの罵倒に虹七は号泣し、走って体育館を出て行った。
「ヘイヘイヘイ!! 教授、あんたは何のつもりだい? 返答しだいでは俺様の鉄拳をあんたの面にぶち込まなきゃならないぜ?」
「あたいも。今の教授……、すごく嫌いだ」
 猿神はシャドーボクシングをはじめ、白雪はジト目で大槻を見下していた。
「……丸尾を真っ白な状態にするためだ。今のあいつはスペクターとして叩き込まれたマニュアルに支配されている。丸尾のすべてを否定し、生まれ変わらすにはあれしかないんだ……」
 大槻は猿神たちに背を向けた。語尾はトーンが落ちているので、罵倒した本人も自己嫌悪に陥っていたのだろう。猿神たちは教授の性質を知っている。意味なく相手を罵倒などしない女性だ。
 それに虹七も意外だった。人に罵倒されて泣き出すとは思わなかった。スペクターというスパイなのに、心が弱いとは思わなかった。もっとも虹七が言われたことを守るといっていたから、任務を忠実に守る点では一流かもしれないが、任務が曖昧だと困惑してしまうのだろう。
「ほうっておけないな。俺様は追いかけるぜ」
 猿神は振り向かずに体育館を出た。
「あたいも右に同じ。また後でね」
 白雪も彼氏の後ろについていった。後に残るは大槻と市松。縛られた鮫泥可南華の三人だけになった。
「ところで鮫泥美土里はどうしましょうか?」
 話に加わらなかった市松が声をかけた。美土里は壁に衝突していた。しかも頭部に。衝撃で頭部が割れ、血の海に染まっていた。
「……保健室へ連れて行こう。その後救急車を……」
 大槻がつぶやくと、美土里の身体がぴくりと動いた。美土里はむくりと起きると首を振り、頭をぼりぼりとかき、一言つぶやいた。
「死ぬかと思った」
 それを見た大槻と市松の目は丸くなっていた。
 
『第八話:メイド喫茶の丸尾虹七』

 丸尾虹七は新宿中央公園へ走ってきた。中央公園に来たことに意味はない。なんとなくだ。汗で顔がべしょべしょになり、視界が悪くなった。学生服の中もサウナを着たような蒸し暑さだ。のどが渇く。水がほしい。虹七は水飲み場を探し、蛇口を思い切り開く。冷たい水が噴出し、むさぼるように飲み込む。熱くなった身体に一気に水を入れたので余計身体が熱くなる。それでもそれでも水を飲み続けると身体が冷えてきた。ようやく虹七は人心地ついた。
 そしてベンチを探した。近くにあるベンチにはボロボロの服を着た浅黒く焼けたひげ面のホームレスが新聞紙をひいて高いびきをあげていた。虹七は一人分空いていたので座った。すると寝ていたホームレスは目を覚ました。ホームレスはじろりと虹七をにらみつけるが、虹七は気づかなかった。
 ホームレスは起き上がるとベンチの後ろにおいてあった紙袋を取り出した。
「このベンチは俺の家だ。俺が帰ってくるまで待っていろよ」
 公共施設のものなのに自分の家はないだろうが、ホームレスははき捨てるようにつぶやき、その場を離れようとした。だが一度立ち止まって虹七に声をかけた。
「ガキは責任を取らなくていいが、大人になったらそうはいかねぇんだ。好き勝手にやっているように見えるやつでも、見えないところじゃいろんなしがらみでがんじがらめになっちまう。今のうちに悩んでおくんだな」
 そういってホームレスは去っていった。虹七はベンチに腰を下ろし、今日の出来事を考えてみた。
 鮫泥可南華と美土里の双子の姉妹。彼女たちを尾行し、体育館に入った。催眠術が得意なのはわかったが、まさか空を飛ぶとは思わなかった。体育館に自分たちの狩場を作り上げ、闇の中でいたぶり、毒で殺そうとしていたとは。
 虹七は任務のときは大抵上司の花戸利雄から情報を叩き込まれる。敵の素性や、所持している武器、そして潜入する場所の地形などを記憶させる。覚えること自体苦労はない。なぜなら虹七には瞬間記憶能力があり、一度見たら忘れないのである。虹七は市販された、今まで内閣隠密防衛室が入手した武器を記憶している。拳銃からショットガン、アサルトライフルにスナイパーライフル。そして特殊な銃を一通り射撃訓練で使ったことがある。クリーニングは得意だし、解体もできる。
あらゆる武器の対処の仕方や、爆弾解除など一度教本を読ませ記憶した。そして実戦で経験し身体で記憶させた。世界のテロリスト事件の調書を読んだりもした。
 虹七はあらゆる対処法を学んできた。しかし鮫泥姉妹のように空を飛ぶ相手の対処はできなかった。大槻愛子が機転を利かせて電話をしてこなければ虹七は毒殺されていただろう。正直死ぬことは怖くない。怖いのは漠然とした指令であった。きっちりしたマニュアルがないことが恐ろしいのだ。自分は何をしたらいいのかわからない。乙戸帝治のように自分を襲ってきたら対処はするが、あくまで受身だ。自分から何をしたらいいかわからない。暴力を振るわれたらやり返すだけだ。
 虹七は子供のような人間であった。これには理由があるのだが、まだ語るべきではない。虹七は不安でたまらなかった。最初は前に行ったセッル国のイワノフ博士救出と関係があると思ったが、正直わからなくなった。
 涙が出てくる。頭の中で竜巻が起こってすべてをめちゃくちゃに荒らされた感じだ。心臓の音がドラムのように激しく鳴り、腹部も蛇が蠢いているように気分が悪くなってきたのだ。
「まったくお前は何をしているのかな?」
 渋い中年男性の声がした。虹七はその声に聴き覚えがあった。しかし彼がこんなところにくるはずがない。これるわけがない。それでも虹七は顔を上げようとした。まるでさび付いたようにぎちぎちと金属音が聞こえそうに首を上げる。
 ドォンとドラムが叩き付けられたような感覚であった。
 そこには自分が見知っている人物が立っていた。
 身長は百七十の半ばで、恰幅がよく、紺色のダブルスーツを着ているが、ひ弱なサラリーマンというより、セキュリティポリスのような屈強な体つきであった。
 年齢は四十代後半で、顔は馬のように長く、あごが大きいが、ニヒルな笑みが似合う不思議な男である。
「花戸……、さん?」
 内閣隠密防衛室の室長である花戸利雄。彼は多忙な日々を送っており、同人ショップユニバーサルの社長は仮の姿。普段は秘書の松金紅子にユニバーサルの仕事を任せ、世界中を駆け回っているのだ。なぜ彼がここにいるのか。自分は夢を見ているのではないか、目の前に立つ花戸は自分が生み出したまぼろしではないかと頬をつねってみる。
 痛い。夢ではない。一体どういうわけなのだろうか?
「大槻から連絡があった。彼女がいなかったら死んでいたそうだな?」
 花戸は唐突に口を開き、冷たい言葉を投げかけ虹七に近づいた。
虹七は花戸に叱られたことはない。子供のころにいたずらをして叱られたことはあるが、怒られるのが嫌でできるだけいたずらをしないようにしてきた。あとは躾で松金紅子に叱られたことがあるくらいだ。
 虹七は頭の中が真っ白になった。花戸利雄がなぜ自分の目の前に立っているのか、まったく理解できないのだ。夢なのか、夢であってほしい、でも夢ではなく現実だ。自分は知らない間にチョッキを着た白兎の後をついていき、不思議の国に迷い込んでしまったのではないかと思った。
「まったくお前は子供だな。私に命じられたことがまったくできていない」
 花戸はため息をついた。それを聞いた虹七は反論する。
「でも花戸さんからもらった指令書は雷丸学園に行けとしか書いていませんでした。それ以外に何を……」
「たわけがっ!!」
 虹七の反論に花戸は大声を上げてさえぎった。
「言われたこともまともにできないのに、生意気に言い訳か? それにお前は自分の意思で考えて行動することが出来ないのか?」
「……」
「自分の考えで行動できないのは子供と一緒だ。いや、お前は子供以下だな。指示されないと何も出来ない。お前は人間じゃない、ロボットだ。ロボットなら同じことを何度も出来るがお前はそれすら出来ない。ロボット以下だよ」
 花戸は何もいえない虹七に対して言葉の弾丸を撃ち続ける。虹七は口を紡ぎ、一切反論できなくなった。
「でも……」
「でもも、かかしもない! お前がいかに無能か、私が教えているのに余計な口出しはするな!」
 そういって花戸は虹七が口を挟むことを許さず、恫喝していた。虹七は花戸に怒鳴られ、言葉を返す気がなくなった。
「おい、どうしてお前は指示通りに動けないんだ、説明してみろ」
「せっ、説明も何も、指令書……」
「それはさっき聞いた! もっとそれ以外に説明しろ!!」
 虹七が何を言おうとしてもすべて否定し、別の意見を言わせようとしていた。そして虹七が言い訳すればすぐ怒鳴りつけ、話を聞こうともしなかった。虹七の目から涙がこぼれそうになった。
「ヘイヘイヘイ!! おっさんさっきから勝手なことばかり言っているね」
 虹七の後ろから声がした。振り向くと茂みから猿神拳太郎と白雪小百合が立っていた。二人は虹七を追ってきたのだろう。そして目標を見つけたが花戸がいたので今まで茂みの中に隠れていたのだ。
「……猿神、さん?」
 花戸の独り言は聞こえなかったのか、白雪はまくしたてる。
「おじさんさぁ、コウちゃんが指令書にろくな命令しか書かなかったんでしょ? それはおじさんの責任だと思うわけね」
「なんだ、君たちは?」
 花戸はセキをした後高圧に訊ねる。
「俺様たちはコウちゃん、丸尾虹七のダチさ。あんたとコウちゃんは知り合いらしいが、あんまりひどい暴言に我慢が出来なくなったわけさ」
 猿神の言葉に花戸は虹七に睨み付けた。
「お前は無関係な一般人を巻き込んだのか? そして自分の秘密を話したのか?」
 虹七はおびえてしまい、ウサギのように震えていた。
「コウちゃんじゃないよ。あんたの知り合いの教授、いや大槻愛子から教えてもらったんだ。なんでもかんでもコウちゃんの責任にするのはよくないね」
 白雪はきつい目で花戸をにらんだ。そして虹七の腕を引っ張り、自分たちのほうへ寄こした。それを見た花戸は鼻を鳴らした。
「虹七。過程などどうでもいいのだ。結果的にお前はこの二人に秘密を話した。だから私はこいつらを殺す。私が規則だ」
 すると花戸はポケットからナイフを取り出し、白雪めがけて投げた。ナイフが白雪の鼻先に飛来する寸前、猿神は左ジャブでナイフを叩き落した。
「ヘイ! 女にナイフを投げるとはとんだ紳士だね。紳士の皮を被った人面獣心といったところか。俺様たちを殺すというなら自分も殺される覚悟を決めているんだろう」
 猿神は身を掲げながら花戸に突進する。そして右ストレートを繰り出した。
 花戸はゆらゆら海中の昆布のように揺れながら、パンチをかわした。
 猿神は執拗にパンチを繰り出すが、花戸にはまったく当たらない。
 猿神の顔に汗がたれる。一見暴力には無縁な紳士が顔色ひとつ変えず紙一重でかわすのだ。
 花戸という男が得体の知れない怪物に思えてきた。焦りで息が切れそうになる。花戸は猿神の右ストレートをひらりとかわすと、猿神の右腕をつかみ、投げた。
 公園の芝生の上に叩きつけられた猿神は大の字になってうめいた。
「うわっ! ケンをきれいな一本背負いで投げちゃったよ!」
「花戸さんは武道の達人なんだ。ボクなんか全然相手にならないよ」
 虹七は自称気味につぶやく。花戸は倒れた猿神に腹部を蹴り上げた。咳き込む猿神に白雪が駆け寄った。
「卑怯者! 倒れている相手にとどめさして何が面白い!!」
「卑怯だと? 私は生きている相手には油断しない性格でね。きっちりとどめを刺さないと安心できないのだよ」
 そういって花戸は猿神の腹部をぐりぐりと踏みつける。そのたびにうめき声を上げる猿神に白雪は花戸にしがみついた。
 虹七は突然のことに思考が混乱した。自分が何をすればいいのかわからなくなった。
 すると猿神は花戸の足をつかんだ。花戸は必死に引き剥がそうとしたが猿神の指はかぎ爪のように深く握り締めていた。
「コウちゃん! 今のうちに逃げろ!! 俺様がこいつを引きとめている間にな!!」
 猿神は搾り出すような声を上げて、虹七に逃げるよう命じた。
「君はバカか? 彼を逃がしても意味はない。どうせ君たちは私が殺すんだ。それになぜ彼を恨まないのだ? 彼のせいで君たちの生命に危機が迫っているのだぞ? 彼を恨むのが筋ではないのかね?」
 花戸の問いに白雪が腰に抱きつきながら答えた。
「コウちゃんの秘密を知ったのはあたいらの責任だよ。どうせあたいらにはろくな未来なんかない。それならダチのために命を張るのがかっこいいというもんさ」
「だからコウちゃんは俺様たちに責任を感じる必要はない。ほら、さっさと逃げろ!」
 猿神たちの必死の言葉に虹七は硬直していた。どうして二人は自分を守ろうとするのか。それが理解できなかった。
「どうして、どうしてボクを守ろうとするの? ボクらは知り合ってまだ間もないのに」
 虹七の問いに猿神はにやりと笑いながらこう答えた。
「ダチに時間は関係ないね。お前が俺様たちをダチと思ったらダチなんだよ」
 その言葉に虹七は目が覚めた。友人が危機に晒されている。花戸は怖い、逆らうのはいやだ。だが猿神たちのほうがずっと大切だ。守る、守らなくてはならない。
「やめろぉぉぉぉ!!」
 虹七は花戸を殴った。殴られた花戸はよろめいただけで倒れなかった。すぐに虹七は白雪に声をかけ、猿神を守るように指示した。
「……虹七。私に逆らうつもりか?」
「……逆らうわけではありません。ただ花戸さんのやり方が気に入らないだけです」
「たわけがっ!! お前は私の命令だけを聞いていればいいのだ!!」
「いくらあなたの命令でも聞けません!!」
 虹七は花戸に立ち向かう。花戸は構えを取る。
 虹七は拳を放つ。まるで猟犬が飛び掛っていそうな素早い動きであった。それを花戸は冷や汗もかかずに払いのけている。
 まるで香港映画の殺陣に見えた。肉同士を打つ音が公園内に響き渡る。やがて一分も満たない時間が過ぎたが、突如花戸が一歩踏み込み、虹七の頬を平手打ちした。
 脳を揺らされ、膝から崩れ落ちる。花戸は手がしびれたのか、ふるふると振るっていた。
「まったくお前ときたら……。殺す以外に何か方法があるのか?」
 花戸は今までの高圧な態度から一転し、優しげな口調で語りかけてきた。
「二人は、ボクの協力者にします。そして将来はボクと同じ役職についてもらう。それなら秘密を暴露したことにはなりません」
「スペクター、内閣隠密防衛室は甘いところではないぞ。文武両道はもちろんのこと、それらがすべて他人より秀でてなければならない。あの二人にできるのかね?」
「できます。できなければ死ぬんですから、二人とも死ぬ気でがんばってくれますよ」
 それを聞いた猿神たちは抗議の声を上げた。
「ヘイヘイヘイ! コウちゃん、それはあんまりだぜ。俺様たちにがんばれだなんてな」
「そうそう。あたいらもそんな面倒なことはごめんだよ」
「でも普通の学校生活と比べれば張り合いがあるよね。二人は平凡な学校生活がいやなんでしょう。だったらボクの仕事を堂々と手伝えるほうが、張りがあるんじゃないかな」
 虹七の言葉に二人とも目が丸くなった。そして二人は腹を抱えて笑い出した。
「あっはっは。こいつはコウちゃんに一本取られたね」
「そうだね。こいつはひとつコウちゃんに乗っちゃおうか」
 猿神も白雪も最初から虹七に乗るつもりだったのだ。それを横で聞いていた花戸はソフト帽をかぶりなおして立ち去ろうとした。彼らを見る顔は柔らかく、暖かいものを見る目になっていた。
「花戸さん!」
 虹七は花戸に声をかけた。花戸は立ち止まったが振り向かなかった。
「大槻先生が協力者なら先生から詳しく話を聞きます。そして猿神くん、白雪さんたちには協力してもらいますから!」
「……わかった。がんばれよ」
 花戸はソフト帽のつばをつかみ、下げた。そしてコツコツと歩き出し、消えていった。
「あれ? コウちゃんの胸ポケットになにか入っているよ」
 白雪が虹七の胸ポケットを指差した。そこには名刺くらいの大きさの黄色いカードが入っていた。



「お帰りなさいませ、ご主人様♪」
 エプロンにカチューシャをつけたメイドたちが一斉に頭を下げる様に、猿神と白雪は目を丸くした。
 ここは新宿駅の近くにある雑居ビルの三階にあるメイド喫茶『デズモンド・新宿店』である。虹七の胸ポケットに入っていたカードにこの店の住所が書かれてあり、特別会員カードと書かれていた。虹七はカードをメイドの一人に見せると、虹七たちを特別室に案内してくれた。
 店内はクラシックな造りで、椅子やテーブルは木製で銘柄はわからないが、高そうな印象を受ける。店内に流れる音楽はアニメソングだが、それはオーディオからではなく、バイオリンで弾かれていた。
 テーブルにはその手の道の人種が占めていたが、皆、上品にかしこまっていた。そして彼ら自身服装に気を使っているようであった。テーブルの上には高級そうだが品のよいティーカップや皿が置かれていた。そしてあるテーブルにはメイドの一人が自らオムライスに文字を書いていたので、かろうじてメイド喫茶らしさがあった。
 メイドたちは品がよく、きびきびした動作をしていた。かといって硬すぎではなく、客にはメイドらしさを強調している。
 虹七たちは特別室へ案内された。そこは大きな樫の木で作られたテーブルと、木製の椅子が並べてあった。そして調度品はどれも骨董品で、陶器で作られたピエロ人形に、ゴスロリ衣装を着たセルロイド人形。そしてオルゴールなど置かれている。雑におかれているのではなく、自然に感じる配置であった。
 そしてメイドの一人がメニュー表を持ってきた。メニューの内容はコーヒーからクリームソーダ、パンケーキやパフェにオムライスやハンバーグなど写真付きで並んでいた。さすがにメイド喫茶にふさわしいラインナップである。
「当店ではドリンクとデザート及びフードをセットで注文することになっております。ですが特別室のご主人様たちは無料でございます」
 虹七はホットミルクにメイドパフェ。猿神と白雪はアイスコーヒーにパンケーキを注文した。メイドはぺこりとお辞儀をしたあと、部屋を出た。
「コウちゃん、この店って秋葉原では品のよさを売りにしたメイド喫茶なんだよね。いったいコウちゃんとはどういう関係?」
 白雪が質問した。
「うん。この店は花戸さん、ユニバーサルと関係のある店なんだ」
「ユニバーサル!? それって同人ショップのユニバーサルなのかね!?」
 白雪が虹七に詰め寄った。あまりの豹変に虹七はおろか、猿神も驚いた。あまりに鬼気迫る白雪に虹七は無言で首を縦に振った。すると白雪は一気に燃え上がり、猿神は恐る恐る今口にした固有名詞について質問した。
「ユニバーサルといえば秋葉原で有名な同人ショップだよ。同人誌の数は日本一と言われているんだよ。新刊からレアなビンテージ物も揃っているすごい店なのさ」
 白雪は興奮気味であった。こんなに興奮した白雪を見るのは初めてだった。さらに猿神も意外だったようで、ぽかんと口を開けている。
「白雪さんは同人誌が好きなの?」
「好きも何もあたい自身コミス(コミック・スクエア)で買い漁ってんのよ! 今の旬はソルシエール・コント(フランス語で魔女の物語)に出てくるサルヴィダール(フランス語で使用人)のブラン(白)とノワール(黒)よ! あたいは迷わずブラン×ノワールね。逆は認めないわ!!」
 ひとしきり興奮すると、虹七と猿神の目に気づいたのか、こほんと咳払いをすると席に着いた。
ちなみにソルシエール・コントとは毎週日曜日の朝に放送されるテレビアニメで、主人公は若林ラブという中学二年生で、魔女ソルシエールに変身するのである。ブランとノワールはラブの従者サルヴィダールで普段はパグの姿をしているが、ラブが変身するときには美青年の姿になるので有名だ。腐女子の間ではブラン×ノワールとノワール×ブランのカップリングについてネット上では毎日議論されているそうだ。
「白雪さんは腐女子だったんだね」
「つーか、俺様という男がいながらほかの男に浮気をしていたのかい?」
 猿神の冷たい視線に白雪は甘い声を上げる。
「いや〜ん、あくまでファンタジーとして楽しんでいるんだよ? 現実でケン以外にいい男はいないよ。これだけは信じて、ね?」
 白雪は猿神の胸に指でくるくると円を描く。
「白雪さんはリア充でもあるんだね」
「というか、コウちゃんはオタクのスラングを知っているんだね。そういえばコウちゃんとユニバーサルってどんな関係なのさ?」
 ようやく脱線した話を修正できた。
「花戸さんはユニバーサルの社長なんだ。この店もユニバーサルの息が入っているんだよ。よく秋葉原の店には行っていたけど、新宿にも支店があったとは思わなかったな」
「それってコウちゃんがメイド喫茶のファンというわけじゃないんだよね?」
 白雪が質問すると、ノックの音がした。ドアが開くとメイドがトレイを持っていた。そしてテーブルの上に注文されたものが置かれた。猿神と白雪の目の前には一回り大きな皿に盛られたパンケーキがほかほかの湯気をあげている。そこにメイドの一人がお辞儀をした後、手に持ったチョコチューブで文字を書いた。
 相合傘を書いた後、ケンとユリーの文字を書いた。それを見た猿神と白雪は頬を赤くなった。そしてメイドをひとり残し、退室する。
「ふふふ。丸尾虹七さま、おひさしぶりでございます」
 部屋に残ったメイドが声をかける。二十代後半で栗毛の長い髪を後ろにまとめ、化粧は控えめで、めがねをかけていた。立ち振る舞いがきびきびしており、本物のメイドはこうではないかと錯覚するほどである。聖母と呼んでもおかしくない美貌の持ち主であった。
「クイーンさん!? あなたがなぜここに?」
 虹七は目の前に立つ美人メイドと面識があるようで、驚愕の声を上げた。白雪も彼女を見て魚のように口をパクパクしていた。クイーンと呼ばれたメイドは柔らかい笑みを浮かべた。
「私は花戸さまのご命令でここに来ました。虹七さまたちにお渡ししたいものがあるからです」
 そういってクイーンはテーブルの下からトランクケースを取り出し、テーブルの上に置いた。そしてトランクケースを開くと中に入っていたのは学生服であった。しかも雷丸学園指定の学生服であった。
「この学生服は猿神さまのものです。虹七さまの着ているケブラー素材で作られたものです。もちろん白雪さまの制服もそろえてございます」
 そういってクイーンは猿神たちに制服を渡した。着心地は悪くない。むしろ自分たちに合わせて作られていた。いきなり自分たちの制服を用意されて驚く猿神と白雪だが、すぐに冷静になった。
「なるほどね。おそらくあのおっさん、花戸さんは最初からこうなることを予測していたというわけか」
「猿神くん、どういうことなの?」
「実を言うと俺様たちはコウちゃんがベンチに座っているとき、茂みの中に隠れていたんだ。憔悴していたから声をかけるタイミングを計っていたんだが、そこに花戸さんが現れて罵詈雑言を並べたといったところか」
 虹七は驚いた。しかも気が動転していたとはいえ後ろに猿神たちが隠れていたことに気づかなかったのだから、穴があったら入りたい気持ちになった。それにメイドがパンケーキに猿神と白雪のあだ名を書いている。最初から花戸は虹七たちがこの店に来ることを予測していたのだ。
「それに俺様が投げられたときにわざわざ芝生の上に投げたからな。本気で殺すつもりならアスファルトの上に叩きつければいい。花戸さんは最初からお前に俺様たちを助けるように仕向けていた気がするな。しゃべり方がなんとなく芝居がかっていたからな。それに最初に俺を見たとき、猿神さんとつぶやいていた。年下にさん付けするときは顔見知りの人と勘違いしたわけだ。秘密の仕事仲間の知り合いといえば、俺の親父だろうな」
 猿神の父親はSATの隊長だった。もっとも父親の秘密を知ったのは父親の葬式で隊員に教えてもらって初めて知ったという。花戸は内閣隠密防衛室の室長だ。秘密裏に行動する組織としてSATは切っても切れない関係だろう。猿神はそれに気づいたから、自分に暴力を振るった花戸にさん付けをしていたのだ。それを聞いた虹七は思わずうなる。
「そう、なんだ……」
「そしてこいつは教授、大槻先生も絡んでいるね。あの先生は傍若無人だが筋の通らないことはしない人だ。他人の秘密を絶対漏らさない人だ。コウちゃんの、スペクターの秘密を俺様たちに暴露する必要はないし、むしろ危険に晒すことになる。この学生服を用意したってことは最初から俺様たちに協力してくれといっているようなもんだ」
 虹七は用意された学生服を見た。二人の寸法に合わせて作られているという。花戸は最初から猿神たちを協力者にするつもりだったのか。自分が魂を絞り上げた想いはすべて花戸の手の平に踊らされていたのだろうか。
「虹七さま。花戸さまはあなたをロボットなどと思っておりません。あの方はあなた様を人間として育ってほしいと願っております。人は間違いを犯しつつも、それを戒めにたくましく育つものです。虹七さまに厳しく当たるのは虹七さまに間違いと失敗を教え、それを教訓にさらなる高みに上ってほしいのでございます」
 クイーンは母親のように優しく虹七に声をかけた。虹七の表情がほんのりと柔らかくなった。
「それであんたはなんなんだ? コウちゃんや花戸さんを知っているということは、ここは内閣隠密防衛室の支店か?」
「ううん、クイーンはね、デズモンドの店長兼プロデューサーなんだよ。秋葉原では中堅だけど、アキバのメイド文化を広く、自然に広げている人なのよ」
「どちらも同じでございます。私は内防、虹七さまたちが扱う装備品を製造しているのでございます」
 猿神と白雪の問いにクイーンはにっこり笑って答えた。
「装備の受け渡しはそのつど違うけどね。今回みたいに直接クイーンさんが装備を渡すのは珍しいかも」
「猿神さまたちは初心者ですので、私が直接説明してくれと花戸さまに頼まれましたので」
 そしてクイーンは装備の説明を始めた。
 防弾学生服は銃弾の衝撃だけでなく、打撃や刃物も通さないという。ただし過信しないように釘を刺された。
 猿神には特性手袋を渡された。指の部分はないタイプだ。素材は衝撃を吸収する新素材で作られており、メリケンサック並みの威力を発揮するという。
 白雪には消しゴム型煙幕を渡された。戦闘向けではない彼女には目くらましの煙幕が必要だからだ。そして催眠ガスを噴出するタイプも渡され、それを防ぐマスクも渡された。
 そして二人には新規の携帯電話を渡された。様々なツールを記載し、盗聴器や探知機、いざとなればスタンガンにもなる代物だ。猿神たちは携帯をいじるとすでに自分たちの携帯番号とケータイサイトの加入など済ませてあった。さすがスパイと二人とも舌を巻いた。
「市松水守さまにも同じ制服と携帯電話は渡しております。ですが、あの方はあまり携帯を好みませんので」
 クイーンは一通り装備の説明を終えた。メイド喫茶の一室でまさかとんでも装備の説明を受けるとは思いもしなかった。虹七は説明を受けながらパフェを食べていた。猿神たちのアイスコーヒーは半分に減ったが、パンケーキは手付かずであった。
「どうして食べないの?」
 虹七が訊ねた。
「いや、だってね……」
 猿神はなぜかもじもじしながら決まり悪そうにつぶやく。それを白雪が代わりに答えた。
「パンケーキを切ったら、あたいらの仲が二つに切れてしまいそうだからさ」
「へぇ、そうなんだ」
 虹七はつぶやいた。別に揶揄しているわけではなく、なんとなくだ。
「それでは横から切ってはいかがでしょう」
 クイーンが助け舟を出した。
「ヘイ! そいつはいいアイデアだ。さっそく切ろう」
 猿神はナイフでパンケーキを切った。名前を横切り、半月のようになる。
「これであたいらは死がふたりを分かつまで一緒……」
「俺様たちの愛は永遠だぜ」
 猿神と白雪は互いに熱い視線を交わしていた。それを見た虹七は笑顔を浮かべている。
「ふたりとも仲良しなんだね」
「あれは仲良しというより愛し合うふたりでございますね」
 クイーンも一緒に笑った。なんだか心が温かくなる、不思議な時間であった。



 虹七たちと別れた後花戸利雄は中央公園の外で待機していたリムジンに乗り込んだ。リムジンには花戸の秘書である松金紅子も同席していた。
「虹七くんはどうでした?」
 松金が質問すると、花戸は嬉しそうに答えた。
「ちょっと学校でテンパっていたが、友達のおかげで元気を取り戻したようだ」
「まあ、友達が出来たのですか。それはいいことですね」
「ああ、それも猿神さんの息子だったのだ。情報としては知っていたが、直で見ると気質は父親そっくりだったよ。やはり虹七を雷丸学園に行かせたのは間違いではなかったようだ」
 花戸は走行するリムジンの外を眺めていた。流れゆく街頭や自動車の光を見ていると、天の川のように思えてきた。それを窓に肘をかけて、ぼんやりと眺めながら、つぶやいた。
「華やかな光の下にどれだけ不幸な人間がいるだろうか。華やかな舞台の上に立つ人間でも心の中に闇を抱えるものはどれだけいるだろうか。いくら虹七がスペクターとして優秀だとしても、私が様々な業界の要人たちの脅迫材料を持っていたとしても、すべての人間を救うことはできやしない」
 それは長年、内閣隠密防衛室という特殊な職場にいたためだろう。政治家や大企業の大物たちの弱みを握り、脅迫し、自分たちの思い通りに事を運ぶ。日本のため、平和のためとはいえ自分のやっていることはあくどい政治家や官僚と変わらない。むしろ彼らより最悪だといえる。
「ですが花戸さんのおかげで救われた人は大勢います。虹七くんもあの学園で人を救うでしょう。指さえ見えない闇の中に一人泣きじゃくる子供を救い出してくれるでしょう」
 松金が慰めた。彼らを乗せたリムジンは新宿の渋滞の中へ消えていった。

『第九話:勇ましき獲物たち』

 その日の丸尾虹七は晴れやかな気分で登校した。今まで燻っていた気持ちがすっきりしたのである。
 これまでの自分はただ内閣隠密防衛室の諜報員スペクターとして活動してきた。室長である花戸利雄の指令書に従い、何の疑問を抱くことなく任務を遂行してきたのだ。
 それが雷丸学園に転校してからは心情に変化が生じた。指令書には詳しい指示が書いておらず、担任教師の大槻愛子がスペクターの協力者であることも知らなかった。さらに彼女が顧問を担当している風紀委員会に入会されたのである。今までにない出来事に虹七の思考はこんがらがった。
 そして昨日の晩花戸に罵倒され、自分自身がつぶれそうになったとき、クラスメイトで同じく風紀委員にされた猿神拳太郎と白雪小百合に助けてもらった。虹七は初めて自分の意志で花戸に抗議し、花戸はそれに納得して帰って行った。
 のちに花戸の偽装会社である同人ショップユニバーサルの分店、メイド喫茶デズモンドで猿神たちの装備を受け取った。虹七と同じケブラー素材の防弾学生服だ。きっちりサイズは合っていた。
 サイズが合っていたということはおそらく彼らの身辺調査を行ったうえで調べたのだろう。花戸は最初から猿神たちを虹七に協力者にしようとしていた。一般人である彼らを巻き込んだのだ。花戸は他人を巻き込む性質ではない。猿神も疑問視していたが大槻も秘密を他人に暴露する性質とは思えなかった。あと風紀委員長の市松水守も秘密を知っているが、市松は大槻の妹だ。
 猿神と白雪なら暴露してもいいと思ったのだろう。そして市松も将来はスペクターではないにしろ、そっち関係の仕事に就くことが予測されるのではないか。
 猿神の亡くなった父親はSATの隊長だった。息子が死んだ父親と同じ道を歩もうとしているのかもしれない。今は不良ぶっているが元々雷丸学園は進学校だ。それに不良といっても暴力を振るったのはあくまで生徒会執行委員たちが複数で暴行してきたからであり、本人が不良扱いされるのは生徒会に反発しているからである。
 短い間だが猿神の口調は軽いものの、性質は誠実だということを虹七は気づいている。猿神は自分の意志で虹七の仕事を手伝うことで何か見出そうとしているのではないか。虹七はそう思った。
 ただわからないのは白雪のほうだ。彼女は金髪の黒ギャルでいつも猿神に甘えてバカなことばかり言っている。しかし本質はかなり頭の切れる女性で知識も豊富だということはわかっている。虹七は彼女の過去を知らない。しかし花戸は彼女の過去や家族構成は調べているはずだ。そこで彼女も協力者として選んだのだろう。そして彼女がそれを受け入れることも。
 このあたりの話は自然に彼らが話してくれるだろう。とにかく虹七は彼らと一緒にこの学園の謎を解くことだ。まず担任の大槻から次の行動について話し合うべきと考えていたら、校門の前が騒がしかった。
 


 校門の前には他校の生徒と思わしき男子が十人ほど集まっていた。手には木刀やチェーン、釘バットなど持っており銃刀法違反で逮捕されてもおかしくなかった。容姿はスキンヘッドにハートに矢が刺さった入れ墨を入れたり、耳や鼻にピアスをびっしりつけたりと一般生徒とは言い難い連中であった。
 雷丸学園の生徒たちは遠巻きで彼らをよけて校舎に入っていった。誰も彼らに注意することはなく、目を合わせまいとしていた。それは教師でも同じことで、ウサギのように震えていた。そしてそいつらに声をかけられると奇声を上げて脱兎のごとく逃げ出す始末であった。
 虹七も他の生徒と一緒に彼らを避けようとした。
「おい、待てよ、てめぇ」
 男の一人、スキンヘッドの男が虹七の肩をつかんだ。手には釘バットを持っており、目はシンナーでも決めているのかどこか胡乱で、開いた口からは歯が数本かけており、涎をだらしなく垂らしていた。
「何の用ですか?」
 虹七が質問すると、スキンヘッドはげっげっげと調子はずれな笑い声をあげた。舌を動かすがピアスをしてあった。
「決まってんだろぉ? ここの学校の生徒会長を呼べって言ってんだよぉ」
「そうそう、俺たち象林(ぞうりん)高校生徒会は、うちに恥をかかせた雷丸の連中を潰しに来たんだよぉ」
「こいつらのおかげでうちの学校には新入生が少なくなる一方なんだぁ。コネを使ってキタネェ真似をする雷丸におしおきをしなくちゃなぁ、いっひっひ!!」
 男たち、象林高校の生徒会と名乗ったが、やっていることはただの暴力だ。自分たちの学校に新入生が少なくなったのはその学校に問題があるからだろう。人は見た目で判断する。そして付き合って中身を知ることができる。彼らは見た目だけでなく、中身も腐っているようだ。他校に乗り込み、悪評を垂れ流すことで相手を陥れようとしている。自分で努力するのを忌み嫌い、他人に嫌がらせをすることを努力と勘違いしているのだ。
 生徒会というより不良集団といったほうがしっくりくる。彼らはさっきから無視されているのでおとなしそうな虹七を捕まえ、雷丸学園の生徒会長を呼び出すつもりなのだ。ほかの生徒や教師たちは相手が問題の転校生なのではなから助けるつもりはなく、一応生徒会に報告することで義務を果たしたと思うだろう。
 虹七にとって彼らは素人だ。だが虹七にとって鍛えられたプロより、ずぶの素人を相手にするのが苦手だ。プロは動きが決まっているが、素人は動きがでたらめなのだ。ましてや相手は十人もいる。集団の前で彼らをいなすのは至難の業だ。一度学校から逃げて改めてこいつらを相手にしようと思ったその時。
「君たちは何をしているのかな?」
 濃厚かつ高貴な含みのある声がした。
 満月陽氷。身長は百八十くらいで、背筋は伸ばしており、か弱さを感じなかった。総髪で腰まで伸びており、女性のように滑らかな艶があった。
 目つきは日本刀のように鋭く、鼻はすらりと伸びており、口は頑なに閉じていた。美男子ではあるが、人間味が薄く、能面を被っているのではと錯覚するような造りであった。
 だが問題は顔ではない、この男自身がまとっているオーラだ。まるで王族のように堂々としており、ゆるぎない自信を抱いた人物に見えた。
 それが雷丸学園生徒会長である。年を取っただけで偉いと思い込む大人とはわけが違う。象林高校生徒会も満月に押されて後ろに下がりかけた。しかし人数と所持している武器を思い出し、満月に食って掛かった。
「げっげっげ、俺は象林高校生徒会会長魚健(うおけん)だ!! 今日は雷丸学園の命日だ。てめぇらが調子に乗っているからうちの学校は日陰者扱いされるんだよ。腐肉にまとわりつく蛆虫扱いされているんだよ!! 今日、ここで傷害事件を起こしてやる。校舎のガラスをすべて割り、教室の机はみんな窓から放り投げてやる。そうすればマスコミはおもしろおかしく全国区で問題学校として扱われるんだ。お前らの名声は地に落ちるんだ。まずはてめぇを袋にしてやる。そのすかした面を大根おろしのように削り取ってやる!! たとえお前が死んじまっても俺たちは未成年だから罪にならないんだよ!! げっげっげ、おまえらぁやっちまえぇぇぇぇ!! なんでもかんでも蹂躙しろぉぉぉぉぉぉ!!」
 魚健が大声を上げると、他の生徒たちも雄たけびをあげて満月に襲い掛かってきた。しかし満月は動かず、目をつむった。それを見た魚健たちは満月がおびえて目をつむったと勘違いした。
「くあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
 満月が一喝した瞬間、落雷の音が聴こえた気がした。事実、雷丸学園周辺ではテレビの映像が一瞬ゆがんだと言われている。
 満月の喝は魚健だけでなく、近くにいた生徒や教師たち、校舎のガラスや走行中の自動車などを振動させた。木陰で休んでいた鳥たちは一斉に飛び立ち、下水道からはネズミたちが大群で這い出ていき、犬たちは狂ったように吠えはじめ、同じ場所をぐるぐると徘徊し始めた。
 虹七も一瞬固まってしまったが、すぐに自分を取り戻した。この男見かけ倒しどころか中身も一流であると確信した。
 虹七は、おそらく周りの生徒たちも満月陽氷の体が天高く、雲を突き破らんほどに巨大に見えただろう。
 その証拠に魚健たちは戦意を喪失した。白目をむき、口からはよだれを垂れ流し、さらに小便だけでなく大きいものまで漏らし、悪臭を発していた。そして手にした武器が落ちて、ゆっくりと腰から地面に落とし、そのままぶつぶつ独り言をつぶやいていた。まさに魂の抜け殻状態である。
 満月は一喝だけで象林高校生徒会を無力化したのである。
 そして満月は呆然としていた生徒たちの前に向き直り、両手を挙げた。
「みなさん、問題は解決しました。みなさんの登校を妨げてしまったことを深くお詫びいたします。申し訳ありませんでした」
 満月はぺこりと頭を下げた。その瞬間生徒たちから雷のような拍手が送られた。生徒会は確かに問題がある。しかし生徒会長は一喝だけで他校の生徒を無力化した。
 強い生徒会長。頼れる生徒会長。彼さえいれば雷丸学園は無敵だ。そんな錯覚を覚える。実際は彼が卒業すれば終わるのだが。
 満月は虹七を一瞥したがすぐに背を向け、校舎に入った。虹七はしばし彼の後姿に見惚れていたが、そのうちチャイムが鳴った。その日、虹七は遅刻する羽目になる。



「今日は災難だったなコウちゃん」
 昼休み、虹七は風紀委員室で昼食をとった。風紀委員長の市松水守に呼び出されたからだ。もちろん風紀委員である猿神と白雪も呼ばれている。市松は自分が朝から用意した四段の重箱でみんなと一緒に昼食をとろうと提案したのだ。
 重箱の中身は海苔巻にいなり寿司、煮しめに伊達巻など和食が勢ぞろいしていた。どれも丁寧に作られており、味も良かった。あと魔法瓶に熱いお茶も入っている。
「ヘイヘイヘイ! 市松先輩の料理はマジうまいですね」
 猿神は素直にほめていた。それを聞いて照れる市松。
「でも重箱を重そうに運んでたから、無理しなくてもよかったのに」
「それはわたくしの背が低いからという意味ですか?」
 余計なことを言ったために猿神は市松に顔をつかまれる。紅葉のように小さな手のひらだが握力が強く、猿神は苦悶の声を上げた。それを虹七と白雪は横で笑っていた。
「ところで市松先輩。象林高校の生徒会はどうなりましたか?」
 虹七が質問すると市松の表情が曇った。
「一応救急車を呼びました。警察を呼ぶにも相手はうちの学校の敷地の範囲外ですしね。前にも満月が他校の生徒にもやりましたが、元に戻るにはひと月はかかったそうです。もちろん、依然と違い、魂の抜け殻みたいになって、覇気を失ったとのことです」
 満月陽氷。威張るだけの生徒会長ではないことが判明された。しかし彼はなぜこの学校で生徒会長をやっているのだろうか。それが不思議であった。
「そういえば鮫泥姉妹はどうしました?」
 虹七は彼女らを放置して逃げ出した。残っていたのは市松と大槻だった。あのあと鮫泥姉妹をどうしたのか虹七は知らなかった。
「二人とも軽い打撲で済んだそうよ。今は坂田大学病院で精密検査を受けている最中らしいわ」
「軽い打撲って……。確か片方はコンクリの壁に頭から衝突したんじゃ……」
 白雪はデザートのウサギ剥きのリンゴをほおばりながら訊いた。衝突した双子、鮫泥美土里は頭から壁に衝突し血を流していたのを見ているのだ。さすがに血の流れる現場に出会ったことは内容で、白雪は身を震わせた。それを見た市松はぷるぷると首を横に振るった。
「あれは幼少時に負った傷が開いただけで、問題ないと言われたわ」
 それを聞いた猿神たちはどんだけ頑丈なんだよと心の中で突っ込んだ。
「丸尾くん。授業が終わったら鮫泥さんたちのお見舞いに行きなさい。場所はこれ」
 そういって市松は病室の番号が書かれたメモを虹七に渡した。猿神たちは市松が虹七を手伝うにはどうすればいいか教えるという。
「ヘイヘイヘイ! そういや昨日メイド喫茶のメイドからもらったもので、変なものがあるんだけど、わかるかね?」
 猿神が右手を挙げて、市松に質問した。猿神の手には赤い風邪薬のカプセルのようなものがのせてあった。昨日メイドのクイーンからケブラー学生服と一緒にもらったものだが、説明書がなく、クイーンから説明を受けただけだった。それで忘れてしまったものがあったのだろう。
「ああそれですか、それは……」
 市松は猿神に説明し始めた。虹七は改めて白雪に質問をしてみた。
「そういえば白雪さんはどうしてボクの仕事を手伝いたいと思ったの?」
 白雪はアツアツのお茶を飲んでいた。
「うーんとねぇ? それは面白そうだったから?」
 白雪は舌をぺろっと出して茶化した。それを見た虹七は、彼女は嘘をついていると思った。彼女の見た目は黒ギャルで遊んでいそうに見えるが、実際は頭の回転が速く、道徳のある女性である。花戸にしてもただ面白半分で首を突っ込む女子高生をスペクターの仕事に巻き込むはずがない。彼女には何か隠されたものがある。虹七は直感で判断した。
「それにあたいが死んでも悲しむ人はいないからね。生みの親も含めて」
 そういって白雪はお茶を飲みほした。それ以上は答えたくないという意思表示なのだろう。
「……そんな薬って使い道があるんですかねぇ?」
「世の中にはどんな使い道があるかわかりませんわよ。持っていても損はないでしょう」
 どうやら市松の説明を聞き終わったようだ。猿神は手に乗せたカプセルを眺めてつぶやく。



 放課後、虹七は坂田大学病院に来た。レンガ造りのおしゃれな外見であった。玄関前は石畳でできており、街頭も彫刻を施したおしゃれなものである。庭は外国の公園を意識したあずまやや、ベンチ、噴水などがある。新宿御苑の近くにあるから病院は森に囲まれており、無機質な病院とは違っていた。
 昼間なので患者らが庭で日向ぼっこをしてた。中には看護師が車椅子を押していたり、松葉杖をついているものもいた。
 虹七は受付で鮫泥姉妹のいる部屋を訪ねた。三階の二人部屋だと案内された。
 虹七は部屋に入った。
 二人部屋なのでベッドは二台置いてあった。小型冷蔵庫の上にはテレビが置かれている。料金カードを使わないで見られるタイプだ。
 部屋には鮫泥可南華がベッドに寝ておらず、部屋に備え付けられた椅子に座っていた。妹の美土里は窓際のベッドで食事をとっていた。頭には包帯が巻かれている。
 ベッドには食事を置く台が設置されていた。そこに大きな皿が置かれてあり、手羽先が山盛りになっていた。どんぶりには白米が盛られており、野菜ジュースの大型のペットボトルが置かれていた。
 美土里は黙々と手羽先を食べていた。それも骨をかみ砕きながらだ。手羽先を骨ごと二〜三本食べてどんぶり飯を書き込み、野菜ジュースを一気に飲み干す。見ると床には空になったペットボトルが二〜三本捨ててあった。可南華の横には業務用の炊飯器が置かれてあり、美土里のどんぶりが空になったら可南華がよそっているのだ。
「すごい食欲だね」
 虹七は素直に感心した。美土里が手羽先を骨ごとかみ砕くことに関しては興味がないのか触れなかった。
「美土里ちゃんは食欲旺盛ですから」
 どんぶりに白米を盛りながら可南華は答えた。
「彼女の頭の傷は大丈夫なの?」
「問題ありません。精密検査を受けましたが異常なしでした。血が流れたのは昔の古傷が開いただけです。今は栄養を取るため食事をとっているのです」
 市松から話は聞いていたが、美土里は相当頑丈な体質なのだろう。美土里は虹七に興味を抱かず手羽先をばりばり食べていた。
「ところで君たちはどうして生徒会に入ったの?」
 虹七が訊いた。鮫泥姉妹は男爵の家系だという。爵位はすでに過去のものになったがそれでも日本には名家や血筋を重視する場合がある。東大出身のキャリアでも家柄などが重視されることがある。爵位の血筋ならもっとそれにふさわしい学校があるのではと虹七は思った。
「あたしたちは妾の子なので」
 可南華がつぶやいた。確か市松が以前そういっていたことを思い出した。
「あたしたちは生まれてはいけない存在でした。生みの母親は小学生のころに亡くなりました。本家では後継ぎがおらず、代わりにあたしが後を継がせるために幼少から英才教育を施されました。ドリーちゃんはあまりおつむがよくないのでよく折檻されてましたが、頑丈な体なのでいつも折檻するほうが手首をひねって泣き出す始末でした」
 ところが本妻から男の子が生まれたことで鮫泥姉妹の運命は一転する。妾の子供など跡を継がせるものかと本妻が地下牢に二人を閉じ込めたのだ。
 光が一切差さない、闇だけが支配する世界。刑務所でも少しはましな設備と思えるほどの劣悪な環境だった。妹の美土里は姉のために自分の食べる分を渡し、あとは死ぬように眠っていた。普通人間は冬眠などできない。長時間眠っていると脳が鈍くなるのだ。美土里は常人とくらべて脳が未発達だった。それゆえ感情表現は乏しく、知能は小学生並みであった。
 その代わりに美土里は獣と同じ性質を持っていた。カロリーを消費しないために仮死状態になったり、たんぱく質をため込むことによって長期にわたって食事をとらずに済むことを可能としていた。
 そして姉の可南華は知能が発達していた。もっとも秀才というより天才に近かった。発想が常人の常識を超えていたのである。鮫泥姉妹の生みの母親は姉妹を愛した。いつも自然の中で遊ばせていた。普通は子供に常識を教える。虫がいたら虫と教え、花を見たら花と教える。しかし母親は彼女らに固定概念を押し付けず、ただ笑顔を向けていた。常識はおいおい小学校で教えてくれると思ったそうだ。天才は固定概念に捕らわれない人種である。可南華は独自の発想で小学校の教師らを悩ませたそうだ。逆に鮫泥家の家庭教師たちは可南華の発想に驚かされていたという。
「あたしたちは闇の中で死ぬはずでした。ところが去年満月生徒会長があたしたちを助けに来てくれたのです。本妻の秘密で脅迫してあたしたちを光のある場所に連れてきてくれたのです」
 だからこそ鮫泥姉妹は満月陽氷に忠誠を誓っているのだ。ちなみになぜ満月は彼女らの居場所を知っていたかというとある情報源を基にしたという。それが何かは教えてくれなかったそうだ。
「そして今は満月会長を守るためにいます。あの方は強い。ただし物理的であって、精神的には弱いのです」
 可南華は満月を弱いと評した。虹七は今朝登校途中で象林高校の生徒たちを一喝で退けていたのを見ている。とても弱いとは思えない。そう考えていると後ろから声がかかった。
「やあ」
 振り向くと満月陽氷が立っていた。手には花束が掲げられていた。その横には小柄で銀髪の少女が立っていた。美少女なのだが能面に例えられたように何の感情も伺えない無機質な顔であった。しかも彼女の制服をゴスロリ系に改造しており、白いニーソックスを穿いていた。頭に白いリボンをつけており、セルロイド人形みたいである。
 書記の円谷皐月である。彼女は両手に果物がいっぱい詰まったバスケットを持っていた。
「丸尾虹七くんだったかね? よくもまあ、鮫泥さんたちの目の前にノコノコやってきたものだねぇ?」
 満月は皮肉たっぷりに笑った。虹七はどこか彼に違和感を覚えた。ここまで露骨に悪意を表す人間だったのかと思った。
「私はねぇ。帝治をいじめた君を許したくないんだよ。できるなら私のこの手でぶちのめしてやりたいんだ、自分が生まれたことを徹底的に後悔させてやりたいんだ。私はお前が大嫌いなんだよ!!」
 満月は吐き出すように激高した。今朝の高貴な雰囲気は消し飛び、子供のように感情をむき出しにしているようだった。額に血管が浮かび、目は血走っている。純然たる殺意を虹七に向けているのだ。手が震えている。今にもとびかかってきそうであった。
「会長、落ち着いてください」
 円谷がたしなめる。ハスキーのかかった声であった。アニメで女性が少年を演じていそうな声である。
「丸尾虹七に関しては私がなんとかします。会長は会長らしく、どんと構えてください。いいですね?」
 円谷は満月をにらみつけた。満月は何か言おうとしたが円谷ににらまれると何も言えなくなった。なんとなく母親に叱られた子供のように思えた。そしてこほんと咳払いをする。
「丸尾くん、君には含むものがあるが今日は帰ってくれないか? これから私たちは生徒会の大切な話があるのでね」
 そういって虹七を病室から追い出した。虹七は素直に従い、病院を出た。出る前に壁を叩きつける音が響いていた。
 虹七は病院を出ると、ポケットからイヤホンを取り出し、耳につける。すると声が聞こえてきた。虹七は病室に盗聴器を仕掛けていた。
『どうしてヤツを帰したんだ!!』
 満月の怒鳴る声が聞こえた。人前では冷静を装っているが激高する今が彼の本当の姿かもしれない。
『あいつは帝治と可南華と美土里を傷つけたんだぞ!! その仇を討って何が悪い!!』
『落ち着いてください。感情的になっては話が進みません』
 激高する満月に対し、円谷は冷静であった。その態度にますます反発する満月。
『五月蠅い!! 落ち着いていられるか! 落ち着きたくないんだ!!』
 満月は獣のような咆哮を上げる。
『落ち着きなさい』
 円谷が冷たく、きっぱりとたしなめる。それに怯えたのか満月は黙り込んだ。
『それに乙戸副会長にしろ、鮫泥さんたちにしろ、生徒会長であるあなたに独断で行動していました。彼らの処罰を考えなくてはなりません』
『処罰って……。そもそも帝治は僕のために転校生を殺そうとしてくれたんだよ。それなのに転校生に返り討ちにされたのに、復讐をしないで帝治を停学処分にするなんてあんまりじゃないか』
 満月の一人称が私から僕に変わった。それにどこか甘えた感じがする。
 前に乙戸帝治が襲い掛かり、返り討ちにしたが、その翌日乙戸は停学一週間の処分を受けた。実際は入院なのだが乙戸の名誉を守るために停学にしたのだろう。武闘派で名を通す乙戸が武道で負け、入院したとあれば彼の名前が落ちる。なら暴力事件を起こして停学にしたほうがいいと円谷は判断したのだろう。
 虹七は満月と握手したときに、満月自身から指の動きでメッセージを伝えていた。円谷が止めたとはっきり言っている。生徒会長の暴走を止めるのは書記の役割なのかもしれない。
『会長。少しは乙戸さんや鮫泥さんたちを信用してください。みんな会長のために独自でがんばっているのですよ。乙戸さんの転校生狩りも、鮫泥さんたちの催眠術もみんなあなたを守るためにやっていることです。あなたは生徒会長で、学校で一番偉いんだから堂々としてなさい』
『冗談じゃない! 僕は守られるなんて嫌だ、みんなを守りたいんだ!!』
『……』
『僕はいままで皐月に守られてきた。僕の人生はいつも誰かに守ってもらうばかりだった。だからここでは僕がみんなを守りたいんだ。お願いだから僕に守らせてよ。僕でも大切な人を守れることを証明させてよ』
『……守られてもいいではないですか。無理して自分にできないことを無理やり必要はありません。ゆっくりと自分のできることから始めるべきです』
『そんな……』
 満月の声に悲壮感が混じっている。これが本当の満月陽氷なのだろう。そして円谷こそが満月を押さえつける鍵なのだ。しかし彼はいったい何者だろうか。そして円谷にも謎がある。少なくとも二人には固い絆で繋がれていることはわかる。ただの生徒会長と書記ではないことは一目瞭然だ。
やはり花戸に満月たちの情報をもらうのが一番だ。虹七は携帯電話を取り出すと、メールを打った。そして情報の受け渡し場所を指定され、そこへ向かう。
 その様子を円谷は窓際あら遠目で眺めていた。そして右手には黒いボタンほどの大きさのものをつまんでいた。虹七が仕掛けた盗聴器である。円谷は盗聴を見抜いていたのだ。
「……丸尾虹七。陽氷のためにもお前は殺す。それももっとも残酷な方法でね。そしてあの男のもとにお前の首を冷凍宅急便で送ってやる。それが陽氷を守る唯一の手段……」
 無表情と思われた円谷に悪魔の微笑が浮かんだ。そして手にした盗聴器を親指でつぶす。
 ばりっばりっばりっ!
 鮫泥美土里は相変わらず手羽先を骨ごと食べていた。
「……美土里さん。手羽先を食べすぎではないかしら?」
「いえ、これでもドリーちゃんにとって少ないほうですよ。いつもならスペアリブでしたから」
 ちなみにスペアリブは豚の骨付きばら肉である。手羽先より骨はずっと固い。
「お土産の果物はいらなかったかしら?」
 円谷がつぶやくと美土里はぶんぶん首を横に振った。そして右手で親指を立てる。
「それもいただきます」
 その後美土里はリンゴとバナナ、メロンにパイナップルをデザートとしておいしくいただいた。しかも皮ごと食べた。さすがの円谷はあきれ返ったが、満月と可南華は素直に感心していた。

 『第十話:猿神拳太郎は二度死ぬ』

 丸尾虹七は学校からまっすぐメイド喫茶『デズモンド』にやってきた。そして特別室に招待された。そこは大きな樫の木で作られたテーブルと、木製の椅子が並べてあった。そして調度品はどれも骨董品で、陶器で作られたピエロ人形に、ゴスロリ衣装を着たセルロイド人形。そしてオルゴールなど置かれている。雑におかれているのではなく、自然に感じる配置であった。テーブルにはメイド店員が置いたカプチーノが湯気を立てていた。
 数分後、虹七が椅子に座って待っていると一人のメイドが入ってきた。二十代後半で栗毛の長い髪を後ろにまとめ、化粧は控えめで、めがねをかけていた。立ち振る舞いがきびきびしており、本物のメイドはこうではないかと錯覚するほどである。聖母と呼んでもおかしくない美貌の持ち主であった。
 店主兼メイドのクイーンである。クイーンというより、ザ・ホーリー・マザーがふさわしいが、それは彼女の表の顔で、裏の顔は内閣隠密防衛室御用達の武器発明家であった。虹七が着ている学生服と文房具に見立てた武器は彼女が作ったのである。クイーンの手には大型の封筒を手にしていた。
 虹七は封筒から書類を取り出した。そして書類をじっくり見る。書類をめくるたびに冷や汗が出てきた。これは虹七が松金紅子に情報を依頼したのである。松金は内閣隠密防衛室の室長花戸利雄の秘書である。
「何かわかりましたか?」
 クイーンは優雅にエスプレッソを口にした。源氏名はクイーンだが、お姫様かお嬢様という雰囲気である。その表情は子供を温かく見守る母親の顔であった。
「はい。よくわかりました。でも花戸さんがなぜ黙っていたか、ボクにはわかりません」
 虹七の読んでいる資料は虹七が知りたかった情報が書いてあった。最初から指令書に書いていれば虹七はそれを基づいた捜査をしていたはずだ。それだと効率がよかったのではないか。わざわざ資料を取り寄せるなど無駄と思えるのだ。クイーンはエスプレッソを飲みながらこう答えた。
「花戸さまは虹七さまをただのスペクターにしたくないのです。あの方も昔は大変苦労をなさいました。スペクターも設立当初は大変だったと聞きます。その苦労を若いスペクターに味あわせたくないのです。自分たちが培った技術を、そして自分たちが犯したミスを後続に伝えることでより多くのスペクターを生み出すとお考えのようです。もっともひねくれた年輩の方は自分が苦労したのに若者は苦労してないと憤慨しているようです。そういう方は自分の身が一番大切で責任を取りたがらず、他人に責任を押し付けるものです。花戸さまはそういった方々を口八丁で丸め込んでおります」
 花戸はまだ四〇代だ。内閣隠密防衛室でも年輩の人は大勢いる。彼らは魑魅魍魎、百鬼夜行が闊歩する権力の世界を生き延びてきた。そんな中まだ若輩といえる花戸が飄々と生き延びている。相当な能力の持ち主といえるだろう。クイーンもまだ花戸の魅力に憑りつかれた一人なのだ。
 虹七は資料をしまうと、クイーンに渡した。虹七には瞬間記憶能力がある。ちらっと見ただけですべての資料の中身は頭の中に刻み込まれた。あとは資料をクイーンに処分してもらうだけである。
 そこで虹七の携帯からメール音が鳴った。虹七は携帯を取り出して、メールの中身を見る。
「お友達からですか?」
 クイーンはエスプレッソをすすりながら訊いた。
「はい。でも……」
それは猿神からのメールであった。それは今から新宿中央公園にある熊野神社で待つとのことであった。
こんな遅くに……。虹七は首をかしげつつも、店を出た。



 熊野神社には人はいなかった。もう日はどっぷり沈んでいる。街灯だけが神社と虹七を照らしていた。遠くでは車の通る音が響いていた。虹七は境内で待っていた。しばらくすると人影が現れた。それもふたつ。猿神拳太郎と白雪小百合の二人組であった。
「あれ? 白雪さんも一緒なの?」
「ヘイ! ユリーも一緒って、お前さんがユリーを呼んだんだろう?」
 猿神が怪訝そうな顔で答えた。顔つきは猿に似ているが、醜いという意味ではなく、愛嬌のある部類に入る。短く刈り上げた髪は真っ白に抜けており、顔は浅黒いのでニホンザルに似ていた。身長は百七十五くらいの高さで、さらに彼はボクシング部に所属していたことがあり、体つきは引き締まっており、拳は何度もサンドバッグをたたきつけた証として岩のように硬くなっている。その容姿は猿よりゴリラに近いだろう。無論威圧感ではなくゴリラ特有の愛嬌のよさを兼ね備えていた。
 一方で白雪のほうは名前に反して肌の色は黒かった。いわゆる日焼けサロンでこんがり焼いた小麦色の肌である。髪の毛は金髪に染めており、ウェーブがかかっており、肩までそろってあった。目はアイラインで黒く染めていた。いわゆる昔流行ったヤマンバギャルの進化系、マンバというやつだ。白いブレザーで、チェック柄のスカートをはいていた。白雪の指にはネイルアートが目立っていた
「そうだよ。ちなみにケンも呼んだよね。あたいは来る途中ケンと会ったから一緒に合流したんだよね。いったいこんな時間に何の用さ?」
 白雪の言葉に虹七は呆然となった。自分は猿神に呼ばれたからここに来たのだ。しかし、猿神は自分に呼ばれ、白雪も同じく自分に呼ばれたから来たという。自分は彼らにメールなど送っていない。いったい誰が送ったのか。
「……そうか。こいつは罠だ。誰かがボクらの携帯にメールを送ったんだ!!」
「ヘイヘイヘイ! いったい誰がそんなことを? そもそも俺様たちのメールアドレスをいつ調べたんだ?」
 猿神が質問した。口調は軽いが事態は深刻と感じているようだ。
「メールの管理はそれほど厳重じゃない。実際ボクも調べようと思えば調べることができる。総理大臣でも合衆国大統領のメアドもね」
 それを聞いた猿神が口笛を吹く。白雪も肌の色は黒いが真っ青になっているのだろう。不安げな表情を浮かべていた。
「猿神くんや白雪さんのメアドを調べるのはたやすいと思う。でもボクのメアドは簡単には手に入らない。そう同じスペクターでなくては……」
  その瞬間、植木の上から音がした。そして木の上から何かが落ちてきた。それは猿のように見えた。なぜなら長い尾をばねのようにぐるぐると巻いていたからだ。そして尾は白雪の周りからとぐろを巻いた。
 それは白雪の体に巻きつき、彼女を縛り上げる。そしてそいつは地上へ降り立った。白い猿のように見えた。
そして足元に巻きついたそれは白雪の頭の高さまで伸びてゆき、先端の部分には鋭い針が光っており、ガラガラヘビのように白雪の頬を狙っていた。
「生徒会役員書記、円谷皐月!!」
 虹七が叫んだ。そう白雪を拘束したのは円谷皐月であった。小柄で銀髪が腰まで伸びている美少女であった。美少女なのだが能面に例えられたように何の感情も伺えない無機質な顔であった。しかも彼女は制服をゴスロリ系に改造しており、頭に白いリボンをつけている。セルロイド人形みたいである。
 その少女は邪悪な笑みを浮かべ、白雪を拘束していた。円谷は手ぶらでひもなど握っていない。では白雪を束縛する紐は誰がやっているのだろう。猿神はあたりを見回すが、円谷と白雪以外誰もいない。
「電気紐……」
 虹七がつぶやいた。それはなんだと猿神は軽く虹七をひざでついた。
「節電義手と同じ技術だよ。それは脳が筋肉に送る電気信号を読み取って、それを義手の動きにフィードバックするものなんだ。それで腕を失っても、手を握ることをイメージすることができる。腕に微小な電極を埋め込み、その脳から信号をキャッチすれば、義手を自在に動かせるんだ。乙戸くんと同じ技術だよ」
「なるほどねぇ。だがあいつは紐を蛇のように操っているぞ。それについてはどうご教授してくださるのかね?」
「たぶん円谷さんの尾骨に紐を移植したんだ。ヒトでも尻尾が生えて生まれてくる人はいる。あの電気紐は円谷さんの体の一部なんだ」
 とはいえ、人間には尻尾を振るというイメージはない。円谷は自在に電気紐を操っている。それがどれほどの苦労か、虹七は冷や汗が出た。
「ヘイヘイヘイ!! 書記さんよぉ、俺様たちを騙してここにおびき寄せた挙句、今度はユリーを人質にとるとはどういった了見だ? ご説明願おうじゃないの」
「説明も何もない。丸尾虹七、猿神拳太郎。この女の命が惜しければ今すぐ殺しあえ」
 かわいい顔してえげつないことをさらりと言った。もともと人形みたいな人間だが、ハスキーな声も手伝い、ことさら円谷は人外の魔物に見えてきた。
「……円谷さん。君は元スペクターだった。乙戸帝治の鉄の義手、鮫泥姉妹の空飛ぶガスタンクに毒、そして君の扱う電気紐、すべて内防が扱う技術だ。それに気付かなかったボクはまぬけだね」
 虹七は自傷気味に答えた。それを聞いた円谷は般若のように表情を一変させた。
「お前のように幸福な人生を送った人間にはわからないでしょうよ! 私と陽氷さまがどれほどの苦労、いや、地獄を味わってきたか、お前には一生わかるはずがない!! 余計なおしゃべりは認めない。この女の命が惜しければ殺しあえ!! 五分以内に誰かが死ななければこの女を毒針で刺してあげる。一刺しで地獄の入り口を垣間見るほどの猛毒だ。苦悶の表情を浮かべ、見るに堪えない死に顔をさらす羽目になる。さあ、殺しあえ!!」
 円谷は紐を強く締め上げた。白雪は苦痛でうめき声をあげる。虹七は頭の中で辞書を引く。電気紐は簡単にはちぎれない。ナイフどころかチェーンソーでも傷一つつかない素材でできている。ましてや先端の毒針は常に白雪の顔を狙っている。白雪を救うには虹七と猿神、どちらかの命が必要なのだ。
「脅しではない。早く殺しあわないと先にこいつが死ぬよ?」
 円谷は唇で笑うと針の白雪の喉にぎりぎりに刺そうとしていた。思わずうめき声をあげる白雪を見て猿神は覚悟を決めた。
「……ヘイ! コウちゃん。俺様にとってユリーは大切な人だ。結婚はしないが一生彼女を守るつもりだ」
 そういって猿神はポケットから特性手袋を取り出した。以前クイーンからもらった特別素材で作られた手袋だ。布でもメリケンサック並みの威力を発揮するすぐれものだ。
 虹七も特性手袋をはめ、構えをとる。そして猿神も構えをとった。
 ここに熊野神社で観客は二人しかいない死闘が開始された。
 猿神は一瞬で懐に潜り込み、パンチを繰り出した。
 それを虹七が紙一重でよける。その風圧で虹七の学生服は削り取られた。
 虹七は右足で猿神の顎をめがけて蹴り上げる。猿神は後ろにのけぞり、かわす。虹七は右足を大きく蹴り上げた後、両手で地面を着くと今度はそれを軸に左足で蹴り上げた。
 猿神の左わき腹に左足が決まる。猿神は一瞬よろけたが、すぐに体勢を整えると今度はしゃがむように腰を下げ、大地を蹴り上げた。
 虹七の顎めがけてアッパーカットを繰り出した。まるで両足を伸ばした蛙のように見える。
 虹七は瞬時で顎を両手で交差させ守ったが、猿神の拳に吹き飛ばされ、虹七の体は吹き飛んだ。
 あわや地面にたたきつけられる瞬間、虹七は猫のように着地する。顎をやられ視界が揺れていた。
 猿神のほうも先ほどの左わき腹の蹴りが効いているのか、先ほどからつらそうである。しかしそれをけとられないよう虹七をにらみつける。
 虹七と猿神は境内の石畳を二周ほど回った。さっきは相手をけん制するというか、一撃で倒すつもりだった。それが失敗したとなればあとは相手の油断を突くしかない。そして時間はない。
 円谷も白雪も一言も声を出さなかった。この凍りつく空気に充てられたのか、肌寒さを覚えた。
 猿神は左ジャブを数発放った。普通の人では風が吹いたとしかわからないほどの速さだが、虹七にはスローモーションで五発放ったことがわかる。あくまで見えるだけでまともに食らえばただではすまない。
 虹七は余裕綽々で後ろにのけぞり、柳の枝のようにひらりとかわしているように見えるが、実際は一撃も当らないようにかわしているのである。内心はスペクターでもない一般人がこれほどの力を得ていることに驚いていた。
 猿神はのけぞる虹七に右ストレートを繰り出した。虹七の左耳をかすった。まるでジェット機のようにつんざく感覚であった。
 虹七は反撃のチャンスをつかめずにいた。
 猿神を最初は自分の仕事を邪魔するうざい男だと思った。しかし付き合っていくうちに実はいい人だとわかった。そして彼の父親がSATの隊長と知り、そして任務中に殉職したことを知った。
 ただSAT隊員は基本的に独身でなければならないはずだ。もしかして猿神がお腹にいるとわかって退職を希望した矢先、殉職したのではないか。花戸は猿神の顔に亡き父親の面影を見たのではないか。
 猿神の表情を改めてみる。猿に似ているがその瞳は力強さを感じさせる。自分との戦いにも真剣に向き合っている。
 このDQNに見えて実際は人情に篤い人間に、虹七は敬意を抱いていた。
 猿神の攻撃はスローモーションのように見える。あくまで虹七の視点でだ。汗が玉となり散ってゆく。虹七への友情と、白雪への愛情が板挟みになり、瞳に悲しみが浮かんでいた。
 ボクは、彼を倒さねばならない。
 白雪さんを救うために。そして命がけで戦う猿神に報いるために。
 虹七はバック転をして後ろに下がった。そして右手を突き出し、表情を固める。
 その瞬間猿神の背中に衝撃が走った。まるでロケットが噴射したかのような感覚であった。
 猿神は胃の中のものを吐き出すと、膝から折れ、そのまま前のめりに倒れた。そして猿神は冷たい石畳の上に寝転んだ。



「ひぃ、やぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 白雪が獣のような叫び声をあげた。すでに円谷の電気紐は解放されていた。目的が達成されたので彼女は解放されたのだ。しかし白雪はこと切れた猿神に駆け寄り、愛する者を揺り起こそうとした。だが猿神は冷たい石のように固くなっている。白雪の目から色が消えた。
 円谷は白雪に向けてナイフを投げた。ナイフは白雪の手元に突き刺さる。白雪はナイフに気づいていないようだ。
「白雪小百合!! 丸尾虹七は猿神拳太郎を殺した! 口では友達とか言っても結局自分の命が大事だから殺したのさ!! さあ、そのナイフを手に取れ。そして愛するものを奪った虹七にその断罪のナイフを振りかざすのよ!!」
 円谷が煽った。白雪は泣きじゃくるわけではなく、ただ涙を流していた。そして突き刺さったナイフを手に取ると虹七にその切っ先を向けた。無言のまま虹七にナイフを突き刺そうと駆け寄った。
 虹七は図らずも二回戦に突入する羽目になった。白雪のナイフは素人で虹七は楽にかわせるが、この勝負に終わりはない。白雪にとって虹七は友達ではなく、愛する恋人を奪った仇なのだ。例え彼女を押さえつけたとしても、白雪が虹七に抱く憎しみと恨みは消えることがないだろう。
 それこそ円谷の狙いなのだ。虹七が猿神に殺されてもよかった。虹七が猿神を殺せば恋人の白雪が虹七を憎むからだ。どちらが死んでも円谷には好都合だったのである。虹七を憎んでいる円谷はできるだけ彼が苦しむことを望んでいるのだ。
 白雪はナイフを振りかざし、虹七を追いかけた。虹七は逃げ回る最中もやめろとか、許してくれとか泣き言を口にしなかった。ただ白雪がナイフを振り回すことに疲れることを待っているようだ。
 それを見た円谷はヒステリックに叫んだ。
「白雪小百合! そいつはお前をバカにしているぞ。お前ごときの力では自分を殺せないとたかをくくっているぞ!! 愛する人、大切な人を奪っておきながら、その男は脳の片隅に置いといて、目の前のお前の凶事をかわすことに専念しているのだ! そいつはスペクターといって国の奴隷だ! 国に命じられれば物を盗むことも人を殺すこともためらわずにやるロボット人間だ!! お前の愛しい人は心が壊れている人間に殺されたのだ!! 白雪小百合!! お前にはそいつを殺す権利がある、そいつに正義の鉄槌を下す資格がある!! 殺せ、殺してしまえ!!」
 円谷は感情をむき出しにして叫んだ。セルロイド人形のような表情が硬く、心が凍っていそうな人間である円谷が虹七に向かって呪詛の声を上げていた。ここまで興奮しきった円谷を見たのは初めてである。
「ヘイ! まったく、ここまで感情むき出しのあんたを見たのは俺様たちが初めてだなぁ?」
 円谷は突如首を腕で絞めつけられた。だが電気紐で絞めつけた相手を攻撃しようとするができなかった。円谷の股間が握られていたからだ。
「あぐぅ!!」
 円谷は目をむき出し、悲痛の声をあげた。口から涎がたれだした。いったい円谷を拘束しているのは誰だろうか。
「それは俺様で〜す♪」
 猿神であった。猿神は右腕で円谷の首を絞め、左手で円谷の股間を握りしめているのである。
「しっかし、驚いたね〜。書記さんは実は男だったんだな〜。男のシンボルの感触が熱すぎるぜ」
 猿神は左手の力を強めた。すると円谷は呻きだす。円谷は女の子に見えて実は男の娘だったのだ。これには白雪も驚いた。
「嘘……でしょ? こんなかわいい子が女の子のはずがない!!」
「心は女でも、体は男というわけか。だが俺様は嫌いじゃないぜ?」
 猿神は震える円谷の左耳に息を吹きかける。身体をびくっと震わせる円谷。猿神の右手が円谷の左胸に触れた。
「ほほう。胸は膨らんでいるな。完璧な男ではなかったわけか。男の娘としては失格かな。あれはあくまで完璧な男が女の子にしか見えないのがいいのだが」
「なっ、なぜ……」
 円谷がつぶやいた。なぜ死んだはずの猿神が生きているのか、理解できなかったのだ。
「おたくらスペクターが使う仮死薬と蘇生薬を使ったからだ」
 それを聞いた円谷は目を見開いた。元スペクターである円谷は猿神がリアルな死んだふりをしたことに気付いたからである。
 仮死薬はフグの毒で有名なテトロドキシンというアルカロイドが含まれている。テトロドキシンは神経毒なので神経細胞や筋線維の細胞膜に存在する電位依存性ナトリウムチャネルを抑制することで、活動電位の発生と伝導を抑制する。そのためフグ毒の摂取による症状は麻痺だ。脳からの呼吸に関する指令が遮られ、呼吸器系の障害が起き、それが死につながるのだ。
 ちなみに仮死薬と蘇生薬は一緒に飲む。先に仮死薬が効いて、その後カプセルに入った蘇生薬が解けて生き返るのである。猿神は虹七との対決の最中にそれを飲んだのだ。
「なっ、なぜお前みたいな一般人がそれを持っている! いや、お前らは最初からそのつもりで作戦を立てていたのか!!」
「うんにゃ。単にユリーは人質に取られたから死んだふりをしただけ。コウちゃんより俺様が死んだほうが説得力あるだろう?」
「それでケンの仇討ちのためにあたいが乱心したわけ。そのおかげで書記の気をそらすことができたってこと。いやー、出たとこ勝負で焦ったわ」
 猿神と白雪がのんきそうに答えた。二人は虹七から詳しい作戦を聞いたわけではない。虹七は猿神と戦っている最中に、円谷には聴こえないように死んだふりをしてくれと伝えた。そこで猿神は昼間、市松から薬の説明を聞いていたので試してみることにした。
 そして猿神が仮死薬で倒れた時、白雪に対して人差し指でひょいひょいと動かした。それを見た白雪はともかく虹七のほうに来いと判断したのである。あとはアドリブで愛する人を奪われた悲劇のヒロインを演じればよかったのである。
「バカな!! お前らは出会って数日しか経っていないはず!! たった数日で信頼関係が生まれるはずはない!!」
「信頼とは長い時間をかけなくてはならないわけじゃない。自分の誠意を相手に示せば相手は信じてくれる。ボクはそう思っている」
 虹七はしれっと答えた。それを聞いた円谷はさらに激高した。
「ふざけるなっ!! 私と陽氷がどれだけの時間をかけてきたか!! 陽氷が私に心を開くのにどれだけ時間がかかったか!! 丸尾虹七! 貴様は私たちを侮辱するのだな!!!」
 円谷は相手が呪われんと言わんばかりに罵詈雑言を並べた。それは無表情は人形が初めて人前であらわにした熱くどす黒い感情であった。その眼には瞋恚の炎が宿っている。
 猿神は一年近く直接ではないが円谷を見ていた。満月陽氷や乙戸帝治の後ろについてきた、師の影を踏まずにいた円谷。その姿は生気に欠けたぜんまい人形であった。それが密着していると体からはぬくもりを感じるし、その表情は表現が豊かであることが分かった。
 円谷の顔は涙と涎でぐちょぐちょになっていた。敵に急所を握られた苦痛と、自分の正体を知られた屈辱で表情は般若のようになっている。身体も石炭を焚かれた蒸気機関車のように熱くなり、湯気が出そうな勢いであった。
 猿神はふと見ると円谷の電気紐の先端の針が蛇のようにくねくね動き出していた。そして針は弱弱しく上に向かっていき、針が円谷の首ぐらいの高さまで登ってきた。そして針は横に倒れた。
 虹七はそれを見て針が猿神を狙っていると思った。しかし、針の狙いは猿神ではなかった。円谷の細く真っ白な喉を狙っているのだ。おそらく円谷は自殺するつもりなのだ。虹七はポケットから文具銃を取り出した。弾数は一発限り、外したら次はない。
 熊野神社の境内に銃声が鳴り響いた。
 発射された弾丸は円谷の命を奪おうとする針目がけて飛んでいく。
 弾丸は針の真ん中を見事に折った。針を折られて電気紐は一旦全体を震わせた。
 しかし、針は折れたがすぐに形勢を立て直した。再び針は円谷の喉を狙っている。おそらく針の先端ではなく、針自体に毒が塗ってあるのだ。せめて針の根元を撃つべきだったと虹七は後悔した。
 そして肉にぐにゃりと突き刺さる嫌な音がした。鉄の臭いが漂い始め、石畳には命の雫がぽたりぽたりと落ちる音がする。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 女性の絶叫が上がった。
 相手は白雪であった。
 針が突き刺さったのは円谷の喉ではなかった。
 猿神が円谷に突き刺さる寸前、自分の右手を突き出したのだ。
 針は手の甲を貫いたのである。
 円谷はそれを見て呆然となった。今までの憤怒の炎が吹き消されてしまったかのように。
「なっ、なぜ……?」
 円谷は声を絞り出した。自分は自殺しようと思ったのに、どうして猿神が邪魔をしたのか理解できなかったのである。
「なぜかって? ……さぁね。俺様の目の前で命を投げ出す行為は認められないってところか?」
 猿神は顔中に脂汗を流しながら、歯をむき出しにして笑った。今まで自分を苦しめてきた人間に対する笑みではなかった。
 猿神は膝から折れて倒れた。電気紐は抜かれると、手の甲から血が噴き出した。虹七は急いでポケットから応急手当セットを取り出し、猿神の手の傷に応急手当てを施した。
「白雪さん! ボクの携帯から坂田大学病院に救急車を呼ぶんだ!!」
 虹七に言われるまで白雪は魂が抜けた人形と化していた。虹七の声によって魂は宿り、言われるままに虹七の携帯電話を手にし、リダイアルボタンを押した。
「相手が出たら雷丸学園生徒会の人間がけがをしたと言うんだ。そうすれば救急車は絶対に拒否しないと思う」
 事実、白雪がそういうと病院はすぐに救急車を回すと言ってくれた。とりあえず猿神の応急手当は終わった。あとは病院できちんとした治療をしてもらうだけである。ほっとする白雪だが大事なことを思い出した。
「あれ? 確かケンが刺された毒は猛毒だって……」
 白雪は虹七の学生服を下敷きにして石畳に寝かされた猿神を見下ろした。顔は脂汗でびっしょりで、息も不定期だが、まだ生きている。
「円谷さんはボクを憎んでいる。ボクが白雪さんを殺した後、ボクを罪悪に悩ませた後、なるべく長く細く苦しむための毒を用意すると思っていた。だから猿神くんが刺されてもすぐには死なないと思っていたんだ」
 虹七が冷静に分析すると白雪は今度こそ安心した。円谷は石畳の上に座り、電気紐で手首を後ろで縛られている。
「でもさ。どうして書記はコウちゃんを憎んでいるのさ。それにさっきどさくさで生徒会長のことを呼び捨てにしていたし。それって書記がコウちゃんと同じスペクターであることと関係があるの?」
 白雪の質問に円谷は顔をそらした。それを見た虹七は白雪に説明する。
「確かに円谷さんは元スペクターだよ。でもただのスペクターではないんだ」
 虹七は円谷をちらりと見た。そして二人の目が合った。
「そうさ。私は丸尾虹七と同じスペクターだった。満月陽氷もね」
 白雪は目を見開いた。円谷だけではなく、満月陽氷も虹七と同じスペクターとは思わなかった。
円谷は吐き捨てるようにつぶやいた。そして悪魔がほほ笑むような禍々しく口を釣り上げて笑った。
「私の本当の名前は丸尾虹五(まるお・こうご)。陽氷は丸尾虹六(こうろく)なのさ。私らと虹七は血の繋がった兄弟なのよ?」

『第十一話:花戸より愛をこめて』

 時刻はすでに夜になっていた。白く清潔感があふれる病室に猿神拳太郎は運ばれた。個室なのでベッドはひとつしかなく、テレビや冷蔵庫などが置いてある。すでに猿神は医者の診断を受けており、治療は終わり麻酔が効いていて眠っているところだった
 病室には丸尾虹七と恋人の白雪小百合、そして虹七が電話で呼び出した担任教師の大槻愛子、三人が所属する風紀委員会の風紀委員長である市松水守も来ていた。最後に生徒会役員書記である円谷皐月の五名がいた。
 病室は沈黙に包まれていた。分離した油が沈下したようなどんよりとした気分が部屋を覆っていた。誰もが口を開く機会をうかがっているが、どうにも言い出すことができずにいた。
 原因は円谷皐月にある。彼女、いや女子生徒に見えるが実は男なのだが、猿神の入院は円谷が原因なのである。円谷は虹七を嫌っていた。いや、この世から抹殺したい、それも徹底的に地獄の責め苦を味あわせた挙句、毒で徐々に体を蝕ませ、生まれてきたことを後悔させてやろうという悍ましい憎しみを抱いていた。
 重苦しい雰囲気の中円谷はそっぽを向いており、皮肉った笑みを浮かべている始末である。それが気に食わないのか市松は不機嫌そうな表情を浮かべていた。白雪は椅子に座り、ベッドで眠る猿神の手を強く、そして母親が赤ん坊を抱くように握っていた。
「……やはり、円谷は丸尾虹五、スペクターだったのか」
 大槻がつぶやいた。それを虹七が質問する。
「やはりって、大槻先生は円谷さんに確信を持っていなかったのですか?」
「丸尾虹五は尾てい骨あたりに電気紐を移植されているとしかわかっていなかった。虹五と虹六が脱走したのが三年前。二人のデータは脱走前に消去されていたそうだ。ただし、虹五の電気紐のデータだけは残してね」
「その電気紐は丸尾虹五の他に使える人はいるのですか?」
「いない。動物実験や別の人体実験はあるだろうが、成功例は虹五だけだ。スペクター、丸尾シリーズなら瞬間記憶能力で電気紐のデータやメンテナンス方法を頭の中に叩き込んだのだろう」
「なるほどね。でも円谷さんの秘密がどうしてわからなかったのかな。体育の時なら服を脱ぐだろうし」
 虹七の疑問を白雪が答えた。
「書記さんはきちんと体育には出ていたよ。でも人前で裸にはならなかった。たぶん電気紐とやらを隠すのと、自分が男であることを隠していたと思う。ちなみにプールには一度も入らなかったよ」
 おそらく電気紐はシャツの中に巧みに隠されていたのだろう。むろん、男であることを隠すのも大事だったはずだ。プールは生徒会役員の特権で免除したのだろう。
「電気紐を持っているということは、円谷皐月が三年前に研究所を脱走したスペクター候補、丸尾虹五であることは明白だ。もっとも満月陽氷が丸尾虹六という証拠はどこにもないな」
「どういうことですか?」
 大槻の意外な言葉に虹七は聞き返す。逆に市松が答えた。
「よくわかりませんが、今までの話を聞きます限り、丸尾虹五である証拠を持つのは円谷さんだけですわ。逆に満月陽氷が丸尾虹六というのはあくまで円谷さんの自己申告でしかない。例え満月と一緒にいてもあくまで生徒会の中であって、丸尾虹六とは限らない。だって丸尾虹六と満月が同一人物という証拠がないのですもの。あくまで円谷さんが丸尾虹五である以外、満月に手出しはできないということですわ」
 すると円谷が唇で笑った。円谷は満月を自分と同じスペクターと答えた。しかし実際には円谷に証拠は合っても、満月にはないのだ。あくまで円谷だけ証拠があるのである。
「ちなみに満月陽氷には新宿区内に家がある。一応そこには両親が住んでいる。もっとも家にはあまり立ち寄っていないし、両親は息子に似ていない。二年前に引っ越してきたようだ。ちなみに戸籍上、データは存在している」
 おそらく満月という戸籍は本物だろう。父親役の男が満月で、母親役の女性をどこからか拾ってきた。そして架空の夫婦を作り、架空の親子を作り上げたのだ。さらにハッキングをして戸籍を改ざんしたのだろう。今はコンピューターの時代だ。例え両親が作り物でも気づかない。大都会なら隣人に無関心だろうし、役人もお役者仕事で真剣には捜査などしない。
 もっともよく考えればなぜ円谷は自分が丸尾虹五である証拠を残したのか。丸尾虹六の証拠は消したのなら自分の証である電気紐のデータも一緒に消すことができたはずである。
 そこに白雪が思い出したように質問した。
「そういえば前からコウちゃんに聞きたかったんだけど、スペクターってどうやったらなれるの? なんか書記さんの話じゃ脱走うんぬんといってるから、求人広告を出してるわけじゃないよね?」
 スペクターとは内閣隠密防衛室の秘密諜報員である。スペクター候補は基本的に福祉施設から引き取った十代前半の男女である。下手に家族や親戚がいると悪意と敵意を持つ者に人質にされ、自身はそれをネタに情報を引き出され、最後は命すら奪われかねないのだ。
 よってスペクターには身寄りが一人もいない子供を選び、訓練して育てるのである。幼少時から食べ物はなんでも食べられるようにしている。訓練のために筋の入った固い肉や、固いパンを噛むことで顎を鍛え、おやつに大豆を食べさせられる。さらにサバイバル訓練では野生の植物の見分け方や、キノコの判別、水の調達の仕方や、石鹸の代用になる植物などを教え込まれる。
 毎日訓練と勉強の日々だが、自由時間は漫画やアニメなどを見たり、流行のおもちゃで遊ぶことはできる。スペクターは亡霊なのだ。特殊部隊のような訓練はするがあくまで自己を守るためであり、基本的な任務は日常にある。不自然に軍隊用語などをしゃべれば目立ってしまう。あくまで普通に、一般人として生活し、情報を得るのである。
 もちろん厳しい訓練の中で死亡してしまう者もいる。その時は病院に頼んで診断書を書いてもらい、病死として処理し、自分たちで葬るのだ。子供たちには事前に説明してある。スペクターとなり国に宙を尽くすか、逆に普通の生活を送るか。独裁国ではないのだ、彼らにも選ぶ権利はある。だが子供たちのほとんどは親に捨てられたり、虐待されたものが多い。子供たちは自分が悪い子だから捨てられ、虐待されていると思っている。自分たちは必要とされていない存在だと思い込んでいる。
 スペクターは自分を必要としている。それに恩を報いようとしているのでほとんどの子供たちはスペクターを希望する。死亡率は二割で、百人のうち二〇人は死ぬ確率である。これは昔なら八割を超えていたのだが、現在では訓練方法や薬品投与などで生存率が格段と上がったためだ。
 こうして大体一五歳になったスペクターたちは国を守るために全世界をまたにかけて活躍している。丸尾虹七が雷丸学園に転校する前にセッル国で生理学者イワン・イワノヴィッチ・イワノフ博士を救出したのもそのためだ。
「普通は孤児を中心に訓練するらしいね。そして団体生活でお互いの結束を固め、独自のネットワークを作っていくらしいね」
 虹七の問いに白雪は首をかしげた。その言い方ではまるで虹七は一般的なスペクターとは違う言い方ではないか。それに丸尾虹五と虹六がいるということは丸尾虹一とかいてもおかしくないのではないか。
 そんな白雪を見たのか、円谷は邪悪な笑みを浮かべて言った。
「そいつはね。普通の人間じゃないんだよ。そいつの本当の年齢は六歳。小学一年生と同じなのさ」
 円谷は吐き捨てるように言った。
 六歳? 小学一年生? 円谷は何を言っているのか。それを察した大槻が説明する。
「……資料を読んだだけだから詳しくは知らない。虹七は遺伝子操作で生まれた子供なんだ。こいつは通常の四倍の速さで成長し、四年経てば成長が止まる。そして約二十年は十代後半の健康な体を維持できるって話だ」
 大槻の説明に白雪と市松は目を見開き、虹七を見た。虹七は二人に見つめられ、目をそらす。それが肯定である証だ。
「ちなみに遺伝子は丸尾虹一という人で約三十年前に始まったらしい。遺伝子操作で成長を改造したのは虹六と虹七だけらしい。あとはスパンがあいているらしい。虹五は実際に十六歳だよ」
 なんという話であろうか。虹七が見た目は自分たちと同じでも、年齢が六歳だったとは。円谷は虹七の秘密を暴露し、それで白雪らが彼を嫌うことを願っているのだ。円谷の性格の悪さには辟易する。
「それは丸尾さんが望んだことかしら?」
「え?」
「話を聞く限り、丸尾さんが自分からやってくれというはずがありません。それに丸尾さんはあくまで成長が人より早かった、ただそれだけのことですわ。それに猿神くんも今は寝ておりますが、起きていたらきっとこういうでしょう。単に人より大きくなっただけと」
 それを聞いた白雪も同意した。大槻も生徒の秘密を知っていたがそれを露骨に出していない。それを見た円谷は不快感を示した。
「なんで、なんで丸尾虹七だけ特別扱いするの? こうろ、陽氷は冷たいコンクリートの部屋に固いベッドの上で毎日震え、サプリメントと栄養食だけの食事。そして毎日実験でいたぶられ、苦しめられ、研究者に罵声を浴びせられていたのに。どうして虹七だけ暖かい部屋で暖かい食事を取り、太陽の下で緑の下で新鮮な空気を吸う。どうして陽氷だけが悪魔に魅入られ、虹七は天使に祝福されているの? ねえ、どうして!!」
 円谷は血の涙を流さんばかりに悪態をついた。虹七と満月、二人の境遇に対し、怒りを感じているようだ。しかし先ほどから円谷は自分のことより満月のことだけに文句を言っている。そうなると円谷が虹五の証拠となる電気紐のデータを残したのも、自分が犠牲になってでも満月を守ろうとしているのではないか。
「私はねぇ、自分の人生を諦めていた。男でもない、女でもない中途半端な存在、化け物のような体で自分の人生はこんなものだと達観していた。だけど陽氷と出会い、私は変わった。世界が変わったわ。誰も自分を必要としていない、自分のことなど見てくれない。だけど陽氷だけが私を必要としてくれた。陽氷が私を救ってくれたのよ!! 陽氷を守るためならなんでもする! たとえ世界中の人間がすべて敵に回っても構わない!! 私一人だけでも守って見せる!!」
 血を吐かんばかりに言葉を浴びせつける円谷。無感情と思われた生徒会書記の意外な面を見て驚いた。おそらく円谷は感情を腹の中に抑え込み、ひたすら満月生徒会長を守るために骨身を砕いたであろう。円谷の心の中には溶岩のようにどろどろとした熱気をためていたのである。
「そしてお前は脱走し、セッル王国に革命を起こしたわけか」
 大槻が言った。おそらく円谷の話をそらすためだろう。だがそれは爆弾を投下されたような威力があった。
「セッル王国に革命? どういうことですか?」
 質問したのは市松だ。丸尾虹五とセッル王国。何の因果関係があるのだろうか。
「研究所には花戸さんが残した脅迫データが盗まれていた。こいつは医療関係に関わるもので、大学病院や、製薬会社、それに関わる政治家や官僚の弱みを握ったデータがつまった機密事項だ」
 セッル国は中東にある小国だ。中国と国境の近い国でいつもいざこざの絶えない国であった。以前は王立制だったが王族は腐敗し、民のための政治をやめた。王族は民が干からびるまで税金を搾り取り、自身を肥やすことしか考えていなかった。民は虫けらのように干からびて死ぬ寸前だった。ところが二年前にカズブ大佐の主導による軍が革命を起こして以来民主主義の波がこの国に押し寄せてきた。特に日本企業の進出が目覚しかった。住民のために家を作り、ガス、水道、電気を配備した。そして自分たちが修理、整備できるように彼らを教育した。さらに日本の医学病院から見習い学生がやってきて無償で病人の面倒を見ていた。さらに農地も日本から最新の耕運機で整備された。   
  国民の生活は一気に向上した。国民は腐敗した王政より、民主主義を受け入れた。しかし全員それを受け入れているわけではない。特にカズブ大佐の虐殺を逃げ延びた王族たちは腐った資本主義から解放するためセッル解放戦線と名乗り、テロを起こしていた。しかし軍隊は隣国から武器をもらっており、王家中心のゲリラたちはどんどん衰退していったのである。
 数日前は虹七がセッル国のゲリラに捕えられたイワノフ博士を救うために侵入したのだ。
「ここ三年間、脅迫データにあった者たちが金を絞られていることを確認されている。そしてその関係者にはここ坂田大学病院にハロルド製薬なども混じっている。それがセッル国には坂田大学病院をはじめ、セッル国内に病院を建て、ハロルド製薬などがセッル国向けに薬品を届けている。これは脅迫データを使い、セッル国を買ったのだろうな。カズブ大佐を傀儡とし、王族を追い出したのだろう」
「買った? どうしてでしょうか?」
 市松が質問すると虹七が答えた。
「いざとなったらその国にかくまってもらうためだよ。小国とはいえ国は国だからね」
 それにしても脅迫データを使い、小国を買い取るとは信じられなかった。さすがの白雪たちも呆然となった。
「でも脅迫された人はかわいそうですわ。よく訴えませんでしたね」
 市松が憤慨すると白雪が答えた。
「たぶん訴えたら自分が破滅すると思うね。それ以前に相手は損どころか、得をしていると思うね」
 白雪の言葉に市松は首をかしげた。
「おそらく坂田大学病院などはセッル国に医学生を送ることで、セッル国民、いや難民を相手に手術をしていたと思うね。難民相手なら手術に失敗しても文句は言われないし、医学生たちにも机上より手術台のほうが勉強になる。さらに製薬会社は大手製薬会社から新薬投与の実験ができる。難民に新薬を投与してその経過を記録すれば大金を得ることができるしね。そしてメインは臓器売買でしょう。これも難民相手なら文句は言われないでしょうし、臓器を取り放題だし」
 すると市松は立ち上がった。その顔は真っ赤に染まっている。
「なんですかそれは!? 人の命をなんだと思っているのですか!! それが同じ人間のすることですか!!!」
「悲しいことだけど、法律が通用するのは先進国も発展途上国も関係ないわけで。見えないところで死んだ人間など最初からいないも同じだしね。人体実験にしても同じこと、いつあたいらもされるかわかったもんじゃないしね」
 そう答える白雪はシニカルな笑みを浮かべる。
 乱暴な話だが現在では腕がいいというか、知名度の高い医者を指名する時代だ。大学病院でも有名人の教授を指名するが、執刀経験のない医者を入れることを患者は激しく拒絶する。患者は自分たちが実験扱いされることを恐れるのである。そのため若者は手術経験を積むことができず、ベテランの高齢化が進み、若手はボンクラしか育たなくなるという悪循環に陥った。
 坂田大学病院は近年裏口入学が一般化し、医者の子供が医大卒の証明さえ取れればいいというありさまだった。ところがセッル国では難民を相手に盲腸など胆石など毎日患者を相手にしていた。帰国後はセッル国で経験を積んだとして若手に手術をすることができた。おかげで坂田大学病院だけでなく他の大学病院も医師の資質が向上したので入学希望者が増えた。さらに入学金を半分にしたので入学しやすくなった。
 新薬の実験にしても近年ではマウス実験すら動物愛護団体の反対にあっている。諸外国ではマウスを殺したと言って実験した人を殺害する人間もいる。セッル国ではまだまだ物騒なので人権団体は入国できずにいる。もっとも初期にはその手の団体が入国したがゲリラにAKの銃弾のフルコースをいただいて以来、来なくなった。
 もちろん医学生すべてが事情を知っているわけではない。後を継ぐ病院がない者、貧乏人の苦学生に新薬投与や臓器売買などをやらせていた。帰国せず後輩の指導をするのはそう言った者だ。
 そして実験に使う難民は各隣国の大使を務めたものをパイプ役としている。自国では処分できない国民をセッル国へ流すのである。そしてその分金を渡す。難民たちは母国に売られたのだが、難民たちはその事実を知らない。
 それに人体実験ばかりではなく、難民たちの就職は傭兵である。数か月間訓練し、中近東に派遣されるのだ。近年では先進国は自軍の兵士がゲリラのために命を落とすので、指導者に世論の非難が集中している。傭兵のほうが報酬は高い代わりに死んでも文句は言えない。そして武器も隣国から購入するので金になる。金のためなら人の命は塵芥なのだ。
 市松は警視総監の娘だが世間には疎い。世界にはセッル国より悲惨なところがある。奴隷は今でも存在する。鉱山などでは狭い穴に作業させるために小柄な子供を奴隷として働かせている。コーヒーの原産地では自国民はコーヒーを飲んだこともなければ、チョコレートを食べたことはないという。父親の虐待に逃げ出し病気にかかってもホームレス生活を余儀なくされる子供がいる。いじめや、児童虐待が文字通り子供の遊びに見える。市松は悔しそうに唇をかみしめた。
「セッル国ではそれ以外に人体実験を行っていることが確認されているらしい。丸尾は知っていると思うが生理学者イワン・イワノヴィッチ・イワノフ博士はお前の誕生に深くかかわっている。いわばお前の生みの親ともいえるな。その彼がセッル国に赴き、反政府ゲリラに誘拐されたのは皮肉なことだ」
 大槻の言葉に虹七は驚いた。まさかイワノフ博士が自分の誕生にかかわっていたとは。不思議な縁を感じた。そして彼がセッル国で自分と同じ人間を作ろうとしていたのか。複雑な気分である。それに対して円谷は苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
「じゃあ、書記さんが雷丸学園に来たのはどういうこと?」
 白雪が質問すると円谷はそっぽを向く。セッル国の秘密を暴露されても、そっちのほうは口にしたくないようだ。
 ノックの音がした。虹七はドアを開けると、目の前に一人の男が立っていた。生徒会副会長乙戸帝治であった。
「よぉ、元気にしていたかね?」
 突然の訪問に目が丸くなった虹七をよそに、乙戸は気さくに挨拶した。
「乙戸くん? こんな時間にどうして……」
「お前さんに手紙を届けに来たんだよ」
 そう言って乙戸は虹七に手紙を差し出した。それは左封じであった。手紙には決闘状と書かれてあった。虹七は封を開けると、手紙を読む。内容は今日の二時、草木も眠る丑三つ時に雷丸学園の屋上で決闘しろと書かれていた。宛名は満月陽氷であった。
「どういうことかな?」
 虹七は手紙を上に掲げた。なぜ満月が決闘状を送ってきたのか理解できなかった。
「俺が説得した。お前が円谷のあそこを握りしめて辱めたことが知ったようでな。怒りで爆発しかけたところを俺が説得して止めたんだ。あいつは一度感情を破裂させると暴走機関車のように突っ走るからな」
 乙戸の口ぶりから円谷が実は男だと気付いているようだ。そして満月生徒会長をあいつと呼んでいるが、侮蔑ではなく、親しき者同士の気さくさがあった。しかし咳をした後、改めて言い直す。
「満月陽氷は完璧超人だ。まるで漫画のような強さを誇っている。もちろんお前さんも普通じゃないと思うが、生徒会長の強さは次元を超えていると言って間違いないだろう。ただし某超人漫画みたいにタッグは組んでいないし、地球の磁気を取り入れたりはしないが」
 乙戸の言葉は半分しか理解できなかったが、虹七は満月が本気であると感じた。
 虹七は思い出す。自分が幼少時だったころの記憶を。
 虹七は生まれた時から花戸利雄と松金紅子に育てられていた。スペクターとしての専門知識やトレーニングはもとより、体を安定させるための薬品投与や、データ採取はすべて松金が行っていた。
 虹七の食事も筋の固い肉やパン、サプリメントに大豆だったが花戸と松金も一緒に食べていた。
 そして虹七は花戸と一緒に世界を見て回った。
 先進国では最新の科学技術で漫画に出てくる未来の家庭電化製品や、真夜中でも真昼のような街灯やネオンに囲まれていた。しかし、都市の暗部にはスラムが存在し、子供たちは法律の網目をすり抜け、スリなどをしていた。
 発展途上国では一部の金持ちが私腹を肥やし、最下層では雨風を防ぐ家すらなく、その日の食べ物にも困る始末であった。電化製品はおろか前世紀並みの農業で人は家畜のように働かされていた。病気になっても薬はなく、ただ体が虫に食われていくだけであった。
 花戸は問うた。貧しく恵まれていない人を救うにはどうしたらいいか。
 虹七は答えた。お金持ちがお金を与えればいいと。だが花戸は首を振った。
 ただ金を与えただけでは貧しい人は自分が何もしなくてもお金をくれると思い込み、働かなくなる。共産主義は平等といっても世の中には要領のいい人間がいる。他の人がみんなと同じ生活をしている中で贅沢な生活をする人がいるのだ。
 ただ金を与えるのではない。金を使って人々を働かせるのだ。土木作業や運搬などいろいろある。そして給料をもらい、食べ物を買う。金が人々の生活を回すのだ。国が公共事業を行い、国民を働かせる。税金はとられても、税金で給料が支払われる。食の連鎖と同じなのだ。小さい虫を魚が食べて、その魚を鳥が食べて、そしてその鳥を人間が食べて、肥料のもとを生み出す。命の循環だ。弱い者を強い者が喰らい血肉となる。弱肉強食だ。だがその強者は弱者がいなくては飢えて死ぬ。絶えず命は生まれ、消えていくのだ。
 この世には人生の一から十まで幸福な人間などいない。誰もが傷つき、痛めつけられて、それでも前に進む人間だけしか生き残れない。例え権力の座に固執してもやがて寿命で死ぬ。責任を持つ者は様々な責任を背負わされる。贅沢はその代償なのだ。貧乏人も確かに生活が苦しく、世の中を呪っているかもしれない。しかしすべてがそうではない。自分が生きていることだけで贅沢だと思っている人もいるのだ。お前も実際にそれを見たはずだ。
 何が不幸で何が幸福かはその人でしかわからない。だがあからさまに人々を不幸にする人種はいる。お前は人間を知るのだ、人間を理解するのだ。スペクターとは命の輪を乱すものに天罰を与えなくてはならない。人の営みを正す、平和の使者なのだ。
 自分が報われることはないかもしれない。人に指を差され、罵倒されるかもしれない。だがお前はスペクターになるべくして生まれ、その使命を背負った者なのだ。
 力を持つ者にはそれ相応の責務がある。自分は権力という常人にはない力を持っている。その力を見極め、そしてどう使うか考えなくてはならない。
 力を持つことはそういうことだ。そして力を持ったお前は責務を全うしなくてはならない。
 お前は自由ではない。しかし自由とはなんだ。好き勝手に生きることか。法律を無視してやりたい放題やることか。
 違う。自由とは規則を守り、道徳を守り、命を守ることだ。規則があるから自由の価値が生まれるのだ。
 お前は生まれ落ちた時から責任という十字架を背負っている。その十字架の重さを知っているからこそお前はスペクターとして生きなければならない。
 お前はこの世でもっとも束縛され、もっとも自由な存在なのだ。お前は責務を、責任を果たさなくてはならない。そう、それがお前の生まれてきた理由なのだから……。
「……満月陽氷は自由ではなかったのかもしれない」
「なんだって?」
「自由じゃないから、自由だと思っているボクを憎んでいる。転校生狩りは主に自分の身を守るというより、自由なスペクターたちを憎んでいたのかもしれない。主に生徒会長をわが子のように慈しむ円谷さんが、転校生狩りを積極的に指示してきたのかもしれない」
 乙戸は首を縦に振った。
「俺はお前に負けたが、生徒会長を売るつもりはない。お前さんに万に一の勝機はない、と忠告しておこう」
 そういって乙戸は立ち去った。生徒会長が強いから気をつけろと忠告してくれたのだろう。そして話が終わったと見計らって大槻が声をかける。
「満月陽氷は本当に強いぞ。以前他校の不良が武器を持って数十名で闇討ちしてきたが、満月は無傷、相手は全員複雑骨折で入院した。もちろん威圧だけで相手を追い返すなど朝飯前だ。はっきりいえば満月が丸尾虹六として、そのデータはまったくわからない。脱走時に丸尾虹五によって当時の研究員は頭のネジが抜けてしまったようになったんだ。気をつけろよ」
 虹七は振り向かずに右手を挙げて挨拶すると、病室を出て行った。その様子を白雪や市松、大槻が黙って見守っていた。
 そして円谷は三人に気づかれないように、フリル付きの袖から携帯電話を取り出し、ボタンを押した。そして携帯電話は赤いランプが光ると、円谷は薄く笑みを浮かべた。

『第十二話:ドクター宇野』

 丸尾虹七は真夜中の雷丸学園にやってきた。さすがにあたりは真っ暗で人っ子はおらず、犬の遠吠えや、猫の盛り声だけが聞こえてくる。
 校門はすでに閉まっているが虹七はズボンのベルトを外すとそれを校門の上に目がけて鞭のようにたたきつける。するとベルトはコンクリートのように固くなった。特殊素材で作られたベルトで、ボタンを押すと固まる仕組みである。虹七は猿のように上ると校庭の中に入った。
 遠目からでも校舎は真っ暗闇に包まれている。せいぜい非常階段のランプか、非常用の消火器の赤いランプだけが鬼火のように薄らと闇の中に漂うくらいであった。
 一応警備員はいるはずだが、彼らは警備室でのんきに深夜テレビでも楽しんでいるのだろう。職員室や校長室などは非常ブザーが設置されているから、鳴らない限り行動は起こそうとはしないはずだ。
 虹七は広い校庭をライトもつけずに歩いていた。すると背後から気配を感じた。虹七は硬質セラミックでできた三十センチ定規を振り払った。
 虹七が見たものは黒い影であった。そいつは全身真っ黒なタイツをまとっており、トカゲのように両手両足を地面につけていた。そして目のあたりには赤外線スコープを装着している。
「君は誰だ」
「ワタシハ影ノ生徒会(ザラーム・ジャイシュ)ノ一人、セフレッヤ(蜥蜴)。丸尾虹七、オ命イタダキマス」
 拙い日本語であった。おそらく雷丸学園に留学しているセッル国の生徒だろう。しかし影の生徒会とは恐れ入った。乙戸帝治率いる生徒会執行委員とは違う、影の組織なのかもしれない。そして前任のスペクターたちは執行委員たちにリンチにされ、影の生徒会にとどめを刺されたのかもしれない。虹七は気を引き締める。
 セフレッヤは地面を這いずり回った。人間とは思えない異常な動きであった。さらに闇に溶け込んでいるうえに砂煙まであげており、居場所を特定できない。
 そして虹七は風の音に混じって、殺意を感じた。それはハヤブサのようにきりもみしながら落下してくる。
 虹七は殺意の風を間一髪でかわした。右頬が切られて血を噴いた。
 そいつは空を飛んでいた。正確には小型のハングライダーのようなものを身に着けていた。セフレッヤと同じ全身タイツで手には虹七を切ったかぎ爪が闇夜の中で冷たく光っていた。
「コッファーシュ(蝙蝠)」
 影はそう言った。コッファーシュと名乗る男の腰には小型のガスタンクを身に着けていた。鮫泥姉妹と同じ仕組みなのだろう。
相手は円谷が仕込んだ特殊部隊なのだ。闇の中から生徒会に逆らう者たちを闇討ちにする集団なのだろう。つくづく円谷は恐ろしい相手だと戦慄した。
「このことを満月生徒会長は知っているの?」
 相手は答えなかった。沈黙は肯定と取れるが、円谷の指示だと虹七は思った。円谷の満月に対する愛情は度が過ぎている。満月陽氷を守るためなら自分が汚名を着ようと知ったことではないのだ。逆に円谷にそこまで愛されていると言える。
 地面はセフレッヤが、上空はコッファーシュが襲いくる。しかし虹七は相手が二人だけとは思わなかった。狙撃手がいたらアウトだが、相手はあくまで自分を苦しめていたぶることを目的としている。あっさりと殺したり、狙撃銃を使ってそこから弾丸が摘出されたら雷丸学園はひと騒動になる。満月や円谷がそれをよしとするはずがないからだ。
 案の定もうひとつの気配を感じた。だが視線はコッファーシュから外さなかった。
 コッファーシュが自分の目の前に飛んできた。そして背後からはセフレッヤの気配がする。ならもう一人はその隙に攻撃を仕掛けてくるに違いない。
 虹七はコッファーシュ、セフレッヤがぎりぎり接近するまで動かなかった。そして腕を伸ばせば届くような距離までコッファーシュが迫ってくると、虹七は膝を曲げ、大地を蹴り上げた。そしてそれと同時に地面から黒いつぼみが出てきた。つぼみは右回転し、めりめりと成長していく。
 それは人間の手であった。なんと地面の中に人が隠れていたのだ。そしてそいつは虹七の足元から襲い掛かってこようとしているのである。
虹七はコッファーシュより高く飛んだ。さながらえびのようにのけぞる姿は三日月のようであり、イルカの曲芸のように見えた。
コッファーシュとセフレッヤは相手を見失った。しかし次の瞬間、セフレッヤの頭に衝撃が走る。
虹七が逆立ちでセフレッヤの頭部をつかんでいるからだ。そして再びセフレッヤを踏み台にして、虹七は腕の力で飛んだ。セフレッヤはバランスを崩し、地面から体を回転させ、土や小石を飛びちらしながら飛び出た者の頭部に衝突した。
 セフレッヤはその拍子に顎を打たれた。そしてゲートボールの玉のように弾かれると、今度はコッファーシュの顎に頭をぶつける。コッファーシュも顎を打たれ、意識が飛んだ。バランスを崩した二人は地面に叩き付けられた。
 そして地面から飛び出た影はセフレッヤの顎に頭を衝突させたために、目がちかちかしていた。
 地面から飛び出し、そのまま足を大地に踏みしめた影はくらくらする頭を振り払おうとした。そして背後から肩を叩かれる。
「君の名は?」
 その瞬間、影の体が吹き飛んだ。影は校庭に前のめりに倒れこんだ。虹七の突きが影の肝臓に決まり、口から血を吐いた。
「コッ、コルド(モグラ)……」
 コルドはつぶやくと、そのまま気絶した。
「影の生徒会……。恐ろしい相手だ。こんなのがあと何人いるのだろうか」
 虹七は不安になった。セフレッヤもコッファーシュもコルドも、自分が経験したテロリストたちとは違っていた。ただ虹七は特殊装備を装備した人間との戦いを何十回も練習している。練習と本番では全く違う。彼ら三人に勝てたのはたまたまだと肝に銘じた。



 虹七は校舎の中に入った。当たり前だが電気はつけるわけにはいかない。そして普段は人で賑わう校舎に人がいないということがこんなにも寂しいものとは思わなかった。
 廊下で音をたてないように歩いていると、ふと非常用の消火器に何か気配を感じた。中にはホースが収納されているはずだが、まさかここに人が入れるはずがないと思った。
 それは大きな音を立てて開き、飛び出した。
「ワタスハ、ハラズーナ(かたつむり)デゴザンス。丸尾虹七、我ラガ、マレク(王)ノ元ニ行カセルワケニイキマヘン。ココデ死ンデケレ!!」
 ハラズーナは手にナイフを握っていた。そして虹七に襲い掛かる。
 虹七は三〇センチ定規で対応した。ナイフと定規の打ち合う音は小さく、警備員には何の音か気づかないだろう。
 打ち合っているうちに虹七はふと頭に疑問が湧いた。
 ハラズーナはおそらく奇襲を得意としているのだろう。それなのに奇襲が失敗しても自分とやりあっている。何より相手がハラズーナだけとは限らない。この手の場合は決まって……。
「後ろからの奇襲だ!!」
 虹七は後ろから回し蹴りを繰り出した。後ろは壁だが壁を蹴りあげる音はしなかった。すると壁からうめき声が漏れた。
 何もない壁から黒いコールタールのような染みがにじみ出る。それは人の形を取り出した。そして壁からコールタールがべりべりと引きはがされるかのように現れた。
「ヤラカーナ(ナメクジ)……、オジャリマスル」
 敵に敬意を表すためか、自分の名前を言って右手で敬礼した後気絶した。おそらくナメクジのように這い回り、壁とか擬態する能力者なのだろう。しかし影の生徒会は日本語をどう勉強しているのだろうかとつっこまずにはいられない。
「ヨクモ!!」
 ハラズーナは激高してナイフを突き出した。しかし奇襲専門の人間が姿を現した以上、相手はすでに無力(虹七にとって)であった。虹七の突きを顔面に喰らい、ハラズーナは鼻血を流して気絶した。
 虹七は二人を放置すると階段のほうへやってきた。別に迷路ではないから階段を登ればすぐに屋上に行ける。だが上から冷たい殺意が迫ってきた。
 それは自らを回転させ、落下してきた。虹七ははじめそれが何かはわからなかった。
 目の前には全身タイツをまとった影がロープで吊るされ、さかさまになっていた。全身タイツのためか相手は女性であることがわかる。胸部や臀部が女性特有のものと判別できたからだ。そして影は足を一八〇度開脚していた。足の先には刃物が仕込んであり、相手は回転させながら落下してきたのだ。
「アチキハ、アンカボート(蜘蛛)。アンサンヲ、ナマスノヨウニ切ッテアゲマショウ」
 拙い胡散臭い日本語でしゃべると、一気にロープで引っ張られていった。次に落ちてくるときは自分を切り刻むつもりだろうか。だがこの手の場合は相手に手の内を見られないように、一気に勝負をかけるものだ。もしかするとアンカボートは別の手で攻めてくるかもしれない。
 そして再びアンカボートは落下してきた。今度は両足を頭の上まで上げて、一気に振り下ろそうとしていた。だが相手が落下する場所は自分のほうだ。対処はできる。虹七は殺意の斧を、三〇センチ定規を構えて待ち構えていた。
 その瞬間、足に激痛が走った。身体が揺らぎ、アンカボートが振り下ろした脚で三〇センチ定規はへし折られてしまった。
 アンカボートは再び上へ戻ってしまった。そして虹七は自分の足を刺した者を探していた。
 すると闇の中から影が一人現れた。それは全身タイツを身にまとっているのは同じでも、一番小柄な影の生徒会であった。その影は手に紐を手にしていた。先端には鋭い針が付いてあり、赤い血に染まっている。虹七の足を刺したのは間違いなくこいつだ。
「ケケケッ、アタイハ、アフアァ(毒蛇)ダヨ。ドウデスカ、アタイノ牙ハ? 毒ハナイカラ、安心シテヨ。デモ、ヤラカーナハ自分ノ使命ヲ果タシタヨウデスナ」
 ヤラカーナ。壁に擬態していた影のことだ。一体彼は何をしたというのか。アヒルのように甲高い女の声は無気味であった。
「ヤラカーナハ、日本デハなめくじダヨ。デモ馬鹿正直ニ名前ハ体ヲ表スワケデハナイ。オマエハ知ラナイ間ニ、毒ヲ吹キ刺サレタノサ。蚊ホドノ針デネ」
 もしかするとヤラカーナを倒した際にハラズーナが激高してきたときに、吹き矢を使ったのかもしれない。その時に蚊ほどの針なら気づかなかっただろう。もしかするとハラズーナの奇襲自体がこのための伏線だったのだ。
「ケケケッ!! オマエニ、マレク様ト会ウコトハ、ナイ。円谷様ノ命令デ、オマエヲ殺ス。ヒト思イニハ、殺サナイ。苦シンデ、アノ世ニイケ!!」
 アフアァは他の影と比べて饒舌であった。そして手にした紐を投げつける。紐はまるで蛇のようににょろにょろととびかかってきた。紐は虹七の足を縛り上げる。
 そして頭上からはアンカボートがその名の通り、蜘蛛のように自分を捕らえ、食い殺そうとしているのだ。
 毒のせいか、頭がくらくらしてきた。セフレッヤやハラズーナたちはあくまで捨石であり、本命は彼女たちなのだ。
 闇夜に潜む毒蜘蛛と毒蛇がか弱い子ウサギの輝く命の光を消し去ろうとしている。アンカボートの細長い足が獲物を捕らえ、アフアァの毒の尾がとどめを刺そうとしているのだ。
 ああ、虹七の命は彼女らの手に握られてしまったのか! 否、我らが主人公である虹七がこのまま何もできずに息絶えるはずがない。スペクターとして生まれ、育成された彼にはこの窮地を抜け出す頭脳があるのだ。
 アンカボートが急降下してきた。足を大きく広げており、足の先にはきらりと光る刃物が獲物の血をよこせとよだれをたらしているようだ。そしてアフアァの毒針が虹七の喉を突き刺そうとしていた。
 アンカボートのは足が虹七の両肩を切り裂こうと振り下ろした。しかし、虹七は刃が下される瞬間、彼女の足をつかんだ。そして流れに逆らわず、力を相殺した。
 動きを止められたためにアンカボートは虹七の手を振りほどこうとした。そこにアフアァの毒針が虹七を刺そうとするが、あやまってアンカボートの胸に刺さった。その瞬間アフアァの目が丸くなった。そして虹七はアフアァの顔面に掌打を加える。
 鼻血を噴き出しながらアフアァは冷たい廊下の上に倒れた。アンカボートは毒の効果が弱いためか気絶しただけであった。相手が勝利を確信したために招いた慢心である。虹七はいかなる不利な状況でも冷静に対処できるのだ。ただし今のような死線でなら問題はないが、自分のことになると混乱しやすかったりするのである。



 応急処置を施した後、虹七は屋上にあがると満月が夜空のカーテンの中にくっきりと浮かんでいた。そしてその月の下に一人の男が立っていた。満月陽氷である。
 満月は月光を浴びてキラキラ光っていた。その横に乙戸帝治が立っている。
「来たか」
「来たよ」
 虹七と満月は軽く声をかけた。
「帝治に言われて我慢したが、まっ、さか、お前が、影の生徒会を、全員、倒すとは、思わな、かっかっかっ、たッ!!」
 満月はどもりながら言った。彼にとって黙って影の生徒会が倒させるのを見るのは苦痛だったようだ。額にはうっすらと汗がにじんでいた。乙戸帝治が止めなければすぐに虹七を殺しに行っただろう。
「ボクはすべてを知っている。君が丸尾虹六であることをね。君はこの学園を持てる限りの技術とコネで支配した。そして君はいったい何をしたいのかな?」
「支配だと? 俺は学園を支配などしていない。俺が望む学校生活がここにあるんだ。あるマンガを読んだことがある。それには容姿端麗、才色兼備、スポーツ万能な生徒会長が学園を支配するのだ。生徒たちだけではなく、教師たちをもサーカスの猛獣のように操っているのだ。外の世界をろくに知らなかった、信号機の設置の意味や、二十四時間営業のコンビニの存在する意義すら理解できない俺だったが、皐月がすべて俺のために用意してくれたものだ。この学園に来て帝治や鮫泥姉妹と様々な友達ができた。俺にとっては俺の身体の重さほどの黄金より、友達という目には見えないが、確かに存在するか細くも頑丈な糸に繋がれている友情が何よりの秘宝なのだ。
 丸尾虹七。お前は俺、いや、皐月が作り上げてくれた楽園を泥にまみれた靴で踏みにじり、そこに住むか弱き小動物たちをいたぶりなぶりものにし、清らかな空気を悪意という煙でかき混ぜに来た悪魔なのだ、地獄の血の池から哀れで痩せこけた羊たちを甘い音色を奏でるラッパを吹く道化師の姿をした悪魔だ。俺は七色に輝き、すべての生きとし生けるものが安らげる空気を出し、暖かく柔らかな光を刺すこの学園を守るために、我が拳を血で汚すことも覚悟しよう」
 虹七は満月の長い口上を聞き終えると、どっと力が抜けた気がした。この男はやはり円谷皐月の傀儡なのだ。いや、円谷という母親(実際は男だが)に甘やかされた善悪の区別がつかない子供なのだ。
 満月は両腕を天につきだした。そしてYの字のように構えると、胸元が風船を膨らませたかのように大きくなった。そして学生服が紙のようにびりびりと破れ、上半身裸になった。
 満月の上半身はギリシャの彫刻のような黄金分割と呼ばれる素晴らしい筋肉があらわになった。そして夜の冷気も彼の前では冷やすこともままならなかった。
 満月は口から息を吸った。その音は遠くにいる虹七の耳にすら届いていた。乙戸は二人から離れた。あくまで介錯人としての立場をとるためだろう。
 虹七は満月が息を吸っている最中に攻撃すればいいのだが、それができなかった。一見無防備に見えるが、この男にとって構えなど必要はなく、あるのは目の前の敵を完膚なきまでに粉砕し、踏みにじる意思であった。
 満月は息を吸い終えると両腕をクロスした。その瞬間風圧が起きた。虹七の目の前には黄金に輝くクロスが自分目がけて迫ってくるのだ。
 虹七は間一髪でよけた。例えるなら時速二百キロで走行中のスポーツカーをぎりぎりでよけた危うさであった。そして虹七の後ろの金網がこれまたクロスの形で穴が開いたのである。満月は唇で笑った。
「どうかね? セッルレスリング奥義『サリーブ・バラク(十字の稲妻)』セッル国に伝わる秘伝の技だ。セッル国でも王族にしか教えないと言われる幻の技。初見でよけたのは帝治に次いで二番目だな」
 満月は自慢そうに答えた。
 セッルレスリング。セッル王国は意外に歴史の古い国で中国四千年より古い、五千年の歴史があった。セッル王国では王族が民衆を守るためにセッルレスリングと呼ばれる格闘術を代々受け継いできた。打撃や関節技だけではなく、独自の呼吸法によって生み出される気孔術。先ほどのサリーブ・バラクのように腕を交叉することで十字の気を放出する技などがある。近年では王族は民衆を守らなくなり、セッルレスリングも形骸化し、後継者はいないとされていた。しかし満月はそれを習っていたのだ。考え方は幼稚だが、覚えることに関しては天才といえるだろう。
「さらにいくぞ!! イサール・ヤルクル(竜巻蹴り)!!」
 満月が右足を腰のあたりまであげると、ヘリコプターのプロペラのように回転し、宙に浮かんだ。そして虹七目がけて襲ってきたのだ。
 虹七は急いでしゃがむと、満月の回転が生みだす風に息ができなくなった。満月は金網をまるでふすまのように切り裂いてしまった。
 満月は回転し続けた。そして虹七を追い続ける。先ほどのアフアァから受けた傷が痛むので動くこともままならない。
 やがて回転を終えた満月は地面に降り立った。彼は目が回っていなかった。
「どうだ。この技は大勢の人間を一気になぎ倒す技だ。これも帝治が初見でよけたな」
 陽氷は自慢げに語った。確かにセッルレスリングはすごい。だが虹七にはどうも彼の技はあまりに大仰で、こけおどしに見えた。わざわざ必殺技の名前を叫ぶこと自体子供じみていた。虹七も陽氷よりも年下だが花戸と松金に教育された。陽氷の見かけは美丈夫で威圧感はあるが、頭の中身は子供である。彼には花戸のように子供をしつける大人がいなかったのかもしれない。
 陽氷は拳を振るう。まるで拳の嵐だ。虹七は拳の雨をかわしている。とてもではないが陽氷に近づくことができない。思考は小学生並みだが、実力は英雄ヘラクレスか、サムソンだ。
 虹七は手を出さなかった。出せば陽氷の拳の突風が虹七の肉を瞬時でえぐるだろう。実際に学生服は削られている。ケブラー素材がまるで粘土のようだ。
 虹七は瞬時で陽氷の左足を蹴った。
 その瞬間、陽氷は絶叫を上げる。
 虹七は陽氷のアキレス腱を蹴り上げたのだ。
 痛みに慣れていない陽氷は今まで氷像のように固まっていた表情が、一気に崩れ落ちている。
 そして虹七は次に右足のアキレス腱を蹴った。そしてみぞおちに突きを入れる。
 陽氷は白目をむいて、泡を吹いて倒れた。



 虹七は勝った。陽氷は勝負といいながらどこか遊んでいるというか、真剣勝負の意味を理解していなかった。虹七にとって戦いとは生き抜くことであり、遊ぶことはない。戦闘力の高さだけなら陽氷が上回っていたが、覚悟の差では虹七に分があった。
「大したものだ。陽氷を倒してしまうとはな」
 決闘を見守っていた乙戸が倒れた陽氷を介抱しながらいった。
「怒らないの? 大切な人が傷つけられたのに」
「陽氷はなんでもかんでも自分で解決したがるのだ。実際に生徒会の運営は円谷が一通り教えたらすぐに理解したぞ。確かに頭はいいかもしれないが、すべてを自分で背負いこみたがるのが難点だな。今回の敗北はいい意味で教訓になっただろう。
 丸尾虹七。お前は陽氷に対して手を抜かず、前に立ちはだかり、まっすぐに立ち向かった。だからこそ俺はお前に敵意を抱かない。そして同時に転校初日でお前を倒せなかったことを後悔しているよ」
 乙戸がため息交じりで言った。
 虹七がこの学園に来たということは丸尾虹六こと満月陽氷を捕まえに来たことになる。乙戸は負けた相手に膝は屈したが、相手を売る気はない。逆に虹七はどうかはわからない。仕事のために陽氷を連れて行くかもしれない。それだけは阻止するつもりであった。
 一方で虹七も自分が何をすればよいのかわかっていない。あくまで雷丸学園に転校しろとしか指示をもらっていない。
 しかしこのまま陽氷を花戸に引き渡していいのか思案に暮れていた。彼は自分と同じスペクターであり、遺伝子改造で生まれた異端児だ。虹七には花戸と松金がいた。だが陽氷や円谷にはまっとうな大人がいなかったのだろう。だからこそあんなにゆがんだ性格になってしまったのだ。
 一応花戸に連絡を入れるか迷っていた。それに任務が終われば自分は転校しなくてはならない。それは猿神と白雪たちの別れを意味する。任務で他の工作員と協力することはあるが個人的感情はなかった。それなのに今回は別れがつらい。
 どうしようかと悩んでいると突然周りが昼間のように明るくなった。いや、証明が数台自分たちに向けて当てられているのだ。いったい誰の仕業なのだろうか。
「のわっはっはっはっ!! 丸尾虹六、ひさしぶりだねぇ!!」
 光の中から現れたのは六〇代くらいの男であった。身長は百五十くらいの小男で白衣を着ている。背が低いので白衣は地面すれすれになっていた。肌は浅黒く焼けており、頭は禿げ上がって、もみあげ部分は真っ白でちぢれていた。ビン底メガネをかけており、ちょび髭をはやし、出っ歯であった。
「あなたは、ドクター宇野(うの)?」
 虹七がつぶやいた。ドクター宇野。本名は宇野博士(うの・ひろし)。内閣隠密防衛室の化学班の主任を務めている男だ。もともとは孤児で貧乏人の苦学生だったが、寝る間を惜しんで勉強した努力と、学生時代に結んだ友人たちのおかげで現在の地位に這い上がった努力の人である。虹七は数えるほどしか会ってないので、花戸に聞いた話を思い出していた。花戸はキャリア組だが宇野を尊敬していた。
「むむ〜ん? そういうチミは丸尾虹七かね? クソ生意気な花戸のガキのペットちゃんですね。お前も私が飼ってやりたかったが花戸に取り上げられてむしゃくしゃしていたんですよ。もーいや、もーいやッ、もーやだっ!!」
 宇野は子供じみた言動で、地団太を踏んだ。虹七は花戸の話で聞いたのと、目の前に立っている本人の違いに驚いていた。そして宇野は陽氷に歩み寄った。そして気絶している陽氷を短い足で蹴り上げた。
「起きなさい、起きんシャイ!! いつまで寝ているんですか、コンクリートの地面の上で寝ていたら風邪をひきますよ。風邪をひいても学校は休ませませんけどね」
 蹴られて陽氷は目を覚ました。陽氷は宇野を見て目を見開いた。
「ひっ、ひぃぃぃぃ!!」
 陽氷はいきなり怯えだした。そして胎児のように体を丸めてしまったのである。よほど宇野にひどい目に合わされたのだろう。かっこよくて威風堂々な陽氷がまるで赤ん坊のように怯えているのだ。
「のわっはっはっは、私の躾はまだまだ体に垢のごとく染みついておりますね。けっこう、けっこう」
 あまりに無礼な態度に乙戸はきれそうになった。ところが宇野が右手を挙げると光の中から複数の男が現れた。男たち黒い背広を着ており、サングラスをかけていた。しかし肌の色や顔立ちは中東風であった。彼らは虹七と乙戸を取り囲み、自動小銃を突きつけたのである。
「やあ、カルブ・ヒサーラ(番犬)。元気だったかね?」
 光の中から一人の男が現れた。年齢は四十代前半で屈強な体つきをしていた。それは他の黒服と違い、粗野だがどことなく気品にあふれた男であった。
「覚えていないかね? 今は日本に来て整髪したからわかりずらいと思うが」
「アミール……」
 虹七は目の前にいる男がかつてセッル国でマカーン・イルカー・イルケマーマ(ゴミ捨て場)を拠点にし、生理学者のイワン・イワノヴィッチ・イワノフ博士を誘拐した、セッル解放戦線のリーダー。
「アミールはあだ名だ。王子という意味を持つ。俺の名前はアル・サーレス。セッル王家第三王子という意味だ」
 アミールこと、アル・サーレスは流ちょうな日本語で答えた。
「これで二度目ですね。まさか日本で会うとは思いませんでした」
「いや、三度目だよ。二度目は新宿中央公園だ」
 アル・サーレスの問いに虹七は頭をひねった。中央公園? いつ出会ったのだろうか。
「あっ、あのときのホームレス……」
 虹七の回答にアル・サーレスはにやりと笑った。だが今はそれどころではない。なぜセッル解放戦線のリーダーが日本にいるのだろうか。一応彼はICPOに指名手配を受けている身だ。飛行機はおろか、国を出るのも難しいはずである。それになぜ雷丸学園に唐突に現れたのか、わけがわからない。それを宇野が代わりに答えた。
「のわっはっはっは。彼らは私が連れてきたのだよ。セッル国の紛争など中近東の紛争やテロに比べたらまだまだ毛が生えたようなものですからね。それにセッル国民にも元王子である彼を支持する者は大勢いる。金をもらい、生活が豊かになろうとも、その土地に根付いた文化は消せないのですよ。そこんところを理解できないのはまだまだガキですかねぇ?」
 宇野は怯えて泣きじゃくる陽氷を踏みつけながら答えた。そして今度はアル・サーレスが言葉を紡いだ。
「我々が突然この学校に現れた理由だがね。実はセッル大使館、元はサンダーボールの屋敷とここは秘密の地下道で結ばれていたのだよ。初代理事長のテレンス・サンダーボールが女子生徒を誘うために作った通路だ。裏ではかなり派手に遊んでいたようだな」
 アル・サーレスは葉巻を手にしながら答えた。虹七はなるほどと思った。雷丸学園とサンダーボールの屋敷が秘密の地下道で結ばれていることを知った円谷が、屋敷を買い取り、セッル大使館にしたのだ。いざとなったら雷丸学園からセッル大使館に逃げ込むために。そのためにセッル国に支援をしたのだ。国際的立場を強化することで自分たちをセッル国に守ってもらうために。もくろみは外れてアル・サーレスたちに利用されてしまったのは皮肉である。
「だけどわからないことがあります。アル・サーレス。あなたはなぜ日本に来たのですか。そしてドクター宇野。あなたはなぜ彼らをここに連れてきたのですか?」
 宇野は笑い出した。醜悪な笑い声をあげていた。腹の底からおかしいという感じである。
「私はねぇ、丸尾虹六たちが作ったこの学園をぶっ壊したいのだよ。学校ごっこで遊ぶこいつが気に食わないのだよ。だからセッル解放戦線を連れてきて、日本で大暴れしてもらうのさ。そうなればまだまだ弱い立場にあるセッル国は崩壊し、脅迫されて金を出した企業や政治家も名前をあげられ、没落する。そして丸尾シリーズがいかに駄作だったかをアピールし、今度こそ私にふさわしい地位を手に入れるのだ。のわっはっはっは!!」
 宇野は狂ったように笑い出した。自動小銃を突きつける黒服たちは無表情で、アル・サーレスは葉巻を吹かすばかりであった。
 果たして雷丸学園の未来はどうなるのか? それは神にしかわからないのであった。

 『第十三話:消された戸籍』

 その日の雷丸学園の周辺は静かだった。交通量は少なく、通勤中のサラリーマンたちをまったく見かけない状態であった。多くの生徒たちは新宿において交通量や通行人が少なくなったことを異常とは思わなかった。みんな自分だけが大事で他人などどうでもいいのだ。大勢の人間に囲まれていても心にはバリケードを張り、絶対に機密事項は漏らさないよう、見張っている。
 その時呼び出し放送が流れた。生徒全員体育館に集まるようにと。教師も全員集まるようにとの放送だった。
 はてな、今日は月曜日でもないのに。校長が思いつきで朝礼をやるのだろうか、一刻も早く勉強したいのに迷惑な話だ。大半の生徒は心の中で悪態をついていた。
 全校生徒と教師たちは体育館に集まった。生徒たちは面倒くさそうな表情を浮かべていたが、教師たちは困惑の色を浮かべていた。ここにきて生徒たちは異変に気付き始めた。もっとも感じただけで確信があるわけではなく、なんかおかしいなと思った程度だ。
 それは体育館の扉が力いっぱい開かれ、まばゆい後光を浴びながら複数の男たちが闖入してきたとき、確信に変わった。
 男たちは全員黒服にサングラスをかけており、拳銃を所持していた。そして一番貫録のありそうな四十代前半で屈強な体つきをしていた。それは他の黒服と違い、粗野だがどことなく気品にあふれた男であった。
「私の名前はアル・サーレス。セッル解放戦線のリーダーだ。アミールとも呼ばれているがね。今日みなさんに集まっていただいたのはほかでもない。みなさんには人質になってもらうためだ。日本政府にはセッル国にいる日本人をすべて帰国させてもらいたい。一時間ごとに人質をひとりずつ殺すと脅しておけば素直に従うだろう」
 アル・サーレスのあんまりな口調に教師のひとりが怒鳴った。ボディビルダー風の体育教師で髪型はリーゼントだ。彼はセッル解放戦線のことなど知らない。だから彼らの脅威など理解できなかった。
「ふざけんなコノヤロォ!! なんで」
 体育教師はすべてをしゃべることはできなかった。体育館には耳をつんざくような銃声が響いた。そして体育教師の左足には銃創とそこから血があふれ出し、絶叫をあげたからだ。
「あひやぁぁぁァァァッ!!!」
 言葉にならない悲鳴、そして硝煙と混じった血の臭い。これは映画の撮影ではない。本物だと生徒たちは確信した。そして黒服たちは天井に向かって発砲する。その恐怖で生徒たちは縮まってしまった。
「さて逆らう人はこうなります。殺してもいいが、私は無益な殺生は嫌いです。死にたくなければおとなしくしてください。以上」
 生徒たちがおびえていると、黒服たちが大型のテレビモニターを運んできた。そして資材を設置すると電源を入れる。映像が流れた。
 映像にはテレビレポーターが雷丸学園の校門前で実況をしていた。緊急生放送と題してテロリストに生徒を人質に取られたと面白おかしく報道している。
 自分たちも長期休暇にはワイドショーを見てゲラゲラ笑ったり、不正をする企業や政治家に怒ったりするが、自分たちがワイドショーのネタになるなど思ってもみなかった。
 その様子を校長室でモニターしていたものたちがいた。
 雷丸学園生徒会長満月陽氷と副会長乙戸帝治、そして転校生の丸尾虹七。三人は両手を後ろに縛られて、ソファーに座っていた。乙戸と虹七は堂々たるものだが、陽氷はどこか怯えている。大きな体つきにしてはうさぎのように震えているのだ。
「怖いよ、怖いよ……。皐月、助けに来てよ……」
 三歳児のように涙目で、書記の円谷皐月が救助に来てくれることを願っているのである。まるで体は大人で頭脳は子供のようだ。もっとも陽氷の成績はいい。学年首位を保持している。あくまで精神面は子供なのである。
 そして彼らの目の前には宇野博士こと、ドクター宇野が足を組んで座っていた。時折お茶を飲み、三人を眺めてにやにや笑っている。
「くっくっく、いい気味だなぁ六号君。お前が女みたいに怯えているのを見ていると、胸がスカッとするよ」
 六号と呼ばれ、陽氷はさらに体を震わせた。よほど聞きたくない単語だったのだろう。目から一筋の涙がこぼれ、鼻水がたれ、よだれもたれた。それを見た宇野はさらに高笑いする。
「で、おっさん。あんたの目的はなんだ? セッル解放戦線と手を組んで何をしたいんだ?」
 乙戸が質問した。
「ん〜〜〜? 一度説明したはずなんだけどなぁ? 君って物覚えが悪いのかね?」
 完全に相手を小ばかにした態度だが、乙戸は表情を変えなかった。
「ああ、俺って物覚えが悪いんだ。あんたがこの学校を乗っ取り、具体的にどんな風に学校をつぶすか知りたくてね。頭の悪い俺たちにわかりやすく教えてもらいたいのさ」
「ふっふ〜ん♪ そこまで言われたなら仕方がないな。いいだろう、教えてやろう私の偉大なる計画を!!」
 宇野が気分を高揚している間、虹七は学生服の袖から何かを取り出した。それは小さい硬貨のようなものであった。

 *

「私はねぇ、私が所持している情報をテレビレポーターどもの前で暴露するのさ。こいつは内閣隠密防衛室が秘密裏に集めた情報でね。そいつを全世界に暴露すれば日本は大パニックさ。脅迫ネタに企業秘密、さらには素晴らしい発明品の設計図が勢ぞろい。それをマスコミの目にさらしてしまえば、情報がゴミ屑と化す。情報は武器だ、暗器だ。隠して、不意を打つためにある。それが暴露されれば情報は錆びたものと化すのさ」
「わからないな。あんたは日本人なんだろう。なんで日本が不利になるようなことをするんだ?」
「日本だって? 私が日本人とかは関係ないんだよ。すべては大嫌いな室長である花戸利雄を陥れればいいのさ。無論私に関する情報は開示しないよ。第三国に行けば私を受け入れてくれる国はたくさんある。日本が滅ぼうがどうでもいいんだよ。どうせセッル解放戦線と一緒に亡命すればいいだけの話だからな」
「おいおい、テロ行為を起こして逃げるつもりかよ」
「ふふん。無事に逃げおおせるよ。だってね、おそらく国会はくだらない話し合いの真っ最中さ。拙速巧遅なんかできっこない。自衛隊が動けば世論は蜂の巣をつついたように大騒ぎになるし、警察が動けばまた世論が騒ぐ。自分たちの縄張りを守ることが最優先で人質なんかどうでもいいのさ。政治家もいかに自分が責任を負わなくていいか、それだけしか考えていない。国民の安全より、自分の地位と天下り先だけが大事なのさ。そして無駄に時間がだらだら流れ、事態はさらに悪化する。ようやく警察が動いてもその時はすでにセッル解放戦線は国外逃亡さ。いや、ご丁寧に自家用飛行機か、船を用意して逃がしてくれるかもしれない。今の日本は腐っているのさ。いや、腐りすぎて肥料にもなりやしない。大地を腐らせる毒なのさ。新たに息吹く芽を自分たちで踏み潰す。そんな国なのさ。のわっはっはっは!!」
 宇野はまたも高笑いした。乙戸は表情を変えなかった。だが瞳の奥には疑念の色が浮かんでいた。
「ところで俺たち以外の生徒会役員はどうした?」
「生徒会役員? ああ、六号の友達ね。そんな奴らセッル解放戦線の連中が拉致しに行ったよ。もうすぐ帰ってくるだろう。そしたら六号と七号。お前らの秘密を全校生徒の前に暴露してやる。お前らが遺伝子学で生まれた化け物だということを知ったらお前らの友達は手のひらを反して化け物呼ばわりするだろうね。くっくっく、その時が楽しみだ」
 宇野はお茶をがぶ飲みしながらげらげら笑っている。
 虹七は宇野の話を聞いて疑問を抱いた。確かに宇野が内閣隠密防衛室の情報をマスコミに公表すれば日本は大騒ぎになるだろう。しかし、宇野はあくまで化学班の主任という地位でしかない。被験者のデータくらいは自由に取り出せるかもしれないが、肝心の企業の秘密や脅迫ネタは室長である花戸が厳重に保管してある。さらに言うと花戸だけではなくさらに上にいる上司の承認がなければ、花戸でも情報の引き出しは難しい。
 それにいざテロが起きたとすれば警視庁の特殊部隊が動かないわけがない。自衛隊の指揮は総理大臣だが、特殊部隊の指揮は警視庁長官だ。そうなれば宇野とて身が危ない。
 そしてアル・サーレスはセッル王国から日本人全員引き揚げさせろというが時間的に無理だ。一時間後に人質を必ず殺すと予告しているようなものである。セッル国はまだまだ小国だが扱うものは世界の機密事項だ。それに隣国にどんな騒動が巻き起こるかわからない。事態は日本だけでなく、世界中に波紋を起こすだろう。そうなれば第三国へ亡命など難しいのではないか?
 なんとなくだが宇野は情緒不安定のように見える。まったく支離滅裂で筋が通らない。そもそも花戸と宇野は比べることなどできない。なぜ宇野が花戸に敵対心を抱くか理解できないのだ。
 何かある。宇野の後ろに何者かが糸を引いている。虹七は勘を働かせ、思考を回し続ける。
 
 *

 携帯電話の着信音が鳴った。それは宇野からだった。宇野は携帯電話を取り出した。
「ああ、私だが……、なんだとぉ!!」
 宇野が大声を上げた。それに怯える陽氷。乙戸は「しっかりしろ、生徒会長だろ」と小声で励ました。精神面では乙戸のほうが上のようだ。
「体育館の天井から女が二人降ってきただと!? しかも長い縄を所持して……」
 女に長い縄。もしかしたら皐月と風紀委員長の市松水守かもしれない。
 さらに携帯が鳴った。代わりに出るとまた怒鳴った。
「なっ、なんだとぉ!! 校庭で怪しい影が現れただとぉ!!」
 また携帯が鳴った。怒鳴りすぎて宇野の声は枯れてきた。
「なななっ、なんだとぉぉぉォォォ!! 校舎内で壁から影が飛び出して、ゴミ箱からも人が飛び出してきただとぉぉぉォォォ!!」
 あまりに予想外の出来事に宇野のこめかみは血管が浮き出ていた。
 校庭を見るとセッル解放戦線の黒服たちが拳銃を撃ちながら悪戦苦闘していた。
 黒服たちの相手は空飛ぶ双子であった。生徒会会計と会計監査の鮫泥可南華と美土里である。双子は腰に巻かれたガスタンクで空を飛んでいた。
 黒服に単独で突進するかと思ったら、その後ろにはもう一人隠れていて、両手には縄跳びの縄が握られている。そして黒服たちは喉元を縄に叩き付けられ吹き飛んだ。
 黒服たちは空飛ぶ双子に拳銃を向けるが、今度は地面から穴が開く。そして黒服たちは校庭に掘られた穴にすっぽりと首と拳銃を持つ手だけを残して埋まってしまう。
 埋められても懸命に拳銃を撃とうとするが、地を這う影に拳銃を奪われ、手首を鋭利なもので切り裂いた。
 穴を掘ったのは影の生徒会であるコルドで、地を這う影はセフレッヤであった。コルドは校庭の隅に首だけちょこんと出していた。セフレッヤも這ったままである。二人は校長室で自分たちに憎しみの槍を向けている宇野に対し、ウインクをした。コルドはそのまま地面の中に潜っていき、セフレッヤは茂みの中に隠れていった。
「なるほどな。校舎内で現れた影はヤラカーナ、ゴミ箱から出てきたのはハラズーナだな」
 乙戸は楽しそうにつぶやいた。影の生徒会、ザイール・ジャイシュは虹七が打ち破ってきた。一対複数だったがなんとか勝てた。しかし彼らが弱いわけではない。拳銃を持った相手にも臆さず相手を無力化させる。彼らはまさに影の生徒会だ。
「あわ、あわわわわっ、こっ、こうなったらお前らを人質に……」
 宇野が口から泡から泡を噴き出していると、乙戸は立ち上がり、束縛を解いた。そして宇野の顔面に突きを入れる。
「ほげぴゃあ!!」
 情けない声を上げ、涎と鼻血をまき散らしながら宇野は床にみじめに大の字になって倒れた。
「いつ外したの?」
「さっきな。鉄の義手は取り外し自在なのさ。それより見てみろ」
 乙戸が外を指差した。すると生徒たちは一斉に校庭に出ていた。さらに校門の前には複数の人影が見える。
 それはメイド服を着た女性陣であった。ざっと十二人はいる。どれも飛び切りの美人と美少女だ。そして手にはショットガンなどの武器を所持している。
 メイドたちの真ん中に特別なオーラを放つ女性が立っていた。
 メイド喫茶デズモンドのメイドであり、店長であるクイーンだ。クイーンは生徒を追いかける黒服たちに対し、両手を上げてメイドたちに命令する。
 メイドたちは黒服たちに向けてショットガンを発射した。
 その瞬間黒服たちは目を両手で押さえて倒れこんだ。メイドたちの武器はいわゆるノーサルウェポンであり、弾丸はすべてゴムでできているのだ。それゆれに当っても致命傷にはならない。
 別のメイドは地面に向けてライフル銃を撃つ。こちらもゴム弾が発射され、地面を跳弾すると、黒服の顎に命中した。黒服は顎を撃たれて気絶する。
 メイドたちが銃を持って拳銃を持つ黒服たちを撃退する。まるで映画だ。乙戸は携帯電話でテレビを見た。
『……ごらんください。今回はカリスマメイドクイーンさんのプロモーション映画の撮影です。空飛ぶ双子に地を這い、地面をもぐらのように潜る影。さらに壁から影が浮き出たり、ゴミ箱から人間が飛び出したり、天井から蜘蛛のように影が落ちてきたりと荒唐無稽な展開が繰り広げられております。今回の作品は映画監督丹羽哲郎(にわ・てつろう)氏が務めており……』
 レポーターが興奮気味に実況していた。チャンネルを変えてもどこも今回の事件は映画の撮影という内容であった。校庭を覗くと映画関係者が生徒たちに景品を配っていた。あくまで生徒たちにもセッル解放戦線は演技であると信じさせたのだ。
 そして虹七の携帯電話が鳴った。相手は白雪小百合であった。
『あっ、コウちゃん元気? 今ケンがそっちに向かってるのよね』
「そっち向かっているって、大丈夫なの?」
『病院じゃあ書記さんから特別な治療方法を教わっていたみたい。それで速攻で駆けつけられたわけ』
「そうなの……。早く見つけないといけないな」
『でも今はケンより、アル・サーレスって人を探せってさ。あいつを見つけて捕まえないとえらいことになるって、先生が言ってた』
「わかった。すぐに探そう」
 虹七は電話を切ると、ちらりと陽氷を見た。そこには自信に満ち溢れた生徒会長はいなかった。身体が巌のように大きい母親のぬくもりを求める幼子である。
「満月陽氷。ボクと一緒にアル・サーレスを倒そう」
 突然の申し出に唖然となる陽氷。
「君はたぶん強い人間じゃない。強い人間のようにふるまってきただけなんだ。でもそれはボクも一緒だ。花戸さんの命令だけを盲信し、ロボットのようにふるまってきただけだ。自分の意志なんかない。ここに転校してきた理由も最初はわからなかった。ただ指令書に書かれていたから従っただけなんだ。でもここでボクは宝物を手に入れたんだ。君だってそうだろう? 乙戸くんに円谷さん、鮫泥さんたち。この人たちは大切な宝物じゃないかな。でもその宝も悪意のある人に奪われ、踏みつけられるかもしれない。そう花戸さんに教わったんだ。
 満月陽氷。君には力がある。大切なものを守り抜く実力を持っている。あとは経験だけだ。例え一度は失敗してもボクが補佐する。代わりにボクが失敗したら君が補佐してくれ。ボクたちは兄弟じゃないか」
 陽氷の脳裏に映画のように画面が切り替わる。
『……寒いね』『一緒にくるまっているから寒くないよ』
脱走し、皐月と一緒に雪の中を一枚の毛布にくるまり、寒さをしのいだこと。
『君が乙戸帝治君だね。私と一緒についてきたまえ』
『酔狂な奴だ。おもしれぇ、一緒に三途の川を渡ろうじゃねぇか』
乙戸帝治という自分の生き方を貫く人間と出会い、手を握ったこと。
『……だぁれ?』
『私の名は満月陽氷。君たち姉妹を救いに来た』
自分たちと同じ境遇を受けていた鮫泥姉妹を救いに行ったこと。
『アハハハハッ、今日もスペクターの転校生をやっつけたわね!!』
『ああ、だが正直公衆の面前で叩きのめすのは気が引けるがな』
『オホホホホ、馬鹿正直に立ち向かってはだめですよ。念には念を入れないとね。ドリーちゃん?』
『ぼりぼり←手羽先を骨ごとかみ砕いている』
 そして生徒会役員たちと一緒に過ごした時間。
『私たちは生まれた場所は違うけど、絆で結ばれた兄弟よ!』
『俺たちのだれかが危機に陥ったら、真っ先にそいつを助けに行こう』
『だってそれが私たち家族ですもの』
『……ラブアンドピース←そういって右手の親指を立てる』
「そうだ……、僕、私の生徒会、いや、家族、兄弟のため、私がほしかったもの、手に入れたものを守るため、私は強くなくてはならない」
 陽氷の目から大粒の涙が零れ落ちる。
「私は、私の守りたいものを守るために戦うのだ!!」
 陽氷は吼えた。乙戸は唇で笑っている。だが廊下から複数の足音が聞こえてきた。おそらく校舎内を巡回していた黒服たちだろう。三人は校長室を飛び出すと、案の定黒服たちが数名ほど拳銃を構えていた。乙戸は虹七と陽氷の盾になるように構える。
 黒服たちの拳銃が火を噴いた。乙戸は顔を防御しつつ、そのまま突進している。
乙戸の学生服もケプラー素材でできているが、衝撃までは殺せない。いまのであばら骨の数本はいかれた。しかし彼は立ち止まらず突進する。
「日本の学生をなめるな!!」
 乙戸は鉄の義手で黒服たちを殴った。あまりの衝撃に黒服たちは気絶していく。しかしセッル解放戦線の戦士らしく、最初はあわてたがすぐに体勢と取り直した。学生服を撃ってもダメなら頭を撃てばいい。黒服の銃口は乙戸の頭部を狙っていた。そして引き金を引こうとした。
「もしもし、いいですか?」
黒服の後ろから声がした。振り向いた瞬間、黒服の頬に拳が飛んでくる。そして吹き飛び、空中で体を三回転させると、そのまま冷たい廊下の床に口づけした。
「猿神か!!」
 そこに立っていたのはまぎれもない猿神拳太郎であった。猿神は虹七に向けてウインクした。
「へい! コウちゃん。それと先輩、元気にしてたかね?」
「元気って、お前昨日円谷の毒針を受けたばかりだろう。大丈夫なのか?」
「へい! へい! へい! 俺の心配をするなんざ、副会長殿も焼きが回ったね。大丈夫もくそもない。友達の危機を救えずにのんきにナースの尻なんぞ追えるかい」
 それを聞いた乙戸はカカ大笑いした。
「はっはっは!! いい根性だ。だが相手は拳銃を持っているぜ。怖くてちびるんじゃないぞ」
「へい! 言っちゃ悪いが執行委員のほうが手ごわいと思うがな。俺にはこいつらなんぞ駄菓子屋で売っている銀玉鉄砲を振りかざす小学生にしか見えんがね」
「減らず口を叩けるなら上等だ。いくぞ!!」
「へい!!」
 乙戸と猿神は互いに背を合わせ、黒服たちと対峙する。
「ここは二人に任せよう」
 虹七は陽氷の学生服の袖を引っ張った。
「……ああ」
 二人は乙戸たちに背を向ける。
「教授からの伝言だ。この事件のボスは屋上で発見したそうだ。屋上へいけ!!」
 猿神の激励に虹七は振り向くことなく、走り出す。後ろからは銃声と悲鳴が聞こえてきた。

 *

 屋上にはすでにアル・サーレスが待機していた。部下は一人もいない。リーダーだけがひとり立っていたのだ。
「俺の部下はすでにやられたようだ。まったくすごいものだな。体育館では小柄な少女二人が縄を使ってあっという間に拳銃を持つ手をからめ捕り、一瞬に毒針を刺されて気絶した。日本の高校生はアッラーフ(魔法使い)? いやワハシュ(怪物)か」
 アル・サーレスは感傷にふけっていた。どことなく他人ごとにように思われた。そしてポケットから四角い箱を取り出す。それにはアンテナと小さな赤いボタンがついていた。
「こいつは校舎内に仕掛けられた爆弾の爆破装置だ。ただし押してもすぐには爆発しない。三分間の猶予がある」
 そういうとアル・サーレスはボタンを押した。
「止める方法はたったひとつ。俺を殺すことだ。俺の心臓が停止すれば爆破は解除できる。できなければ校舎の中にいる人間全員巻き込んで心中することになるだろうな」
「なぜ、そんな真似を。校舎にはあなたの部下がいるのに!!」
 虹七が叫んだ。しかしアル・サーレスは無視して虹七たちに殴り掛かる。
 アル・サーレスは黒服を脱いだ。鍛え抜かれた見事な肉体である。ギリシャの彫刻にある黄金分割を実際に見たらこうだろうなと予想できた。
 アル・サーレスの拳は重い。まるで鉈を振るうかのような鋭さだ。さらに突きは槍の如くでコンクリートの壁と給水タンクを障子のように簡単に穴をあけてしまう。
「俺はね、疲れたのさ。正直言えば俺はアル・サーレス、第三皇子だ。世継ぎは兄たちで俺は悠々自適に日本に留学し、富士の樹海で古武術の研究をしながら、自給自足という充実した日々を過ごしていた。
 ところが二年前カズブのバカが革命を起こして、兄たちを殺したせいで、旧王族派のやつらが俺を担ぎやがった。国民の生活が向上するより、自分たちの待遇の悪さに腹を立てやがったのさ。三食付で雨風をしのげる家があり、町に出れば格安で手に入る薬があるのにな。こいつは資本主義だろうか、共産主義だろうが変わらない。自分たちさえよければいいんだ」
 しゃべりながらもアル・サーレスの息は上がっていない。本人が言っていたが富士の樹海での修業が彼に強靭な肉体を与えたのだろう。
「昨日君のセッルレスリングを見せてもらったが、まだまだひよっこだね。俺が本物のセッルレスリングを見せてやろう」
 アル・サーレスは腕で十字を作る。そして膝だけで跳躍した。
 五メートルほど高く飛んだ。虹七と陽氷は思わず見上げてしまった。
 アル・サーレスは両腕を広げる。その姿はまるで猛禽類が翼を広げるようなものだ。怏々しくも美しい姿に虹七と陽氷は心を奪われた。
 「サマー・サリーブ・バラク!!」
 アル・サーレスは空中で腕を十字に構えると、サリーブ・バラクを放った。十字型のオーラが虹七たちを襲う。二人はあわててその場を離れたがそれでも衝撃はすごかった。まるで工事用の鉄球が落下したような威力だ。
 埃が舞い上がる。そして埃が晴れると屋上には十字型に削られた跡があった。
「サマーは空……。サリーブ・バラクの空中版だね」
「私も聞いたことはあるが、さすがに空中では撃てない。あれは大地をしっかり踏みしめ、そこからオーラを吸い上げる技だ」
「たぶん、大気中のオーラを吸い取っているんだね」
 二人がのんきに会話をしていると、アル・サーレスは二人の間にすっと降り立たとうとしている。
「サマー・イサール・ヤルクル!!」
 アル・サーレスは空中でイサール・ヤルクルを放った。虹七と陽氷は蹴り飛ばされる。そしてアル・サーレスはまるで鳥の羽のようにふわりと体を回転させて降り立った。
 虹七は地面に転がった。そして一瞬力が抜ける。アル・サーレスの一撃が脳に響いたのだ。さすがは王族だ。真のセッルレスリングはまさにこのことだ。
「まだまだ行くぞ。ショーラ・イサール・ヤルクル!!」
  今度はイサール・ヤルクルに炎をまとっている。ショーラは炎という意味だ。炎の竜巻が陽氷に襲い掛かる。
  陽氷は腰を深く落とし、右手に力を込める。陽氷もまたすべての技を出し切っていない。むろん、アル・サーレスとてセッルレスリングの技を知っている。知っている技の対処など簡単だろう。
 だが陽氷の目は真剣だ。もはや泣き虫で臆病者の生徒会長はいない。今の陽氷は戦士である。
「君の次の手はタドミール・ザウバア(破壊の大嵐)か。だが俺には通用しない!!」
 アル・サーレスは瞬時でタドミール・ザウバアという技を思い出す。
 この技はアッパーカットのような技だが、拳にオーラを乗せるので、直接脳を破壊する恐ろしい技だ。自身も幼少時に囚人相手に実験した。
 怯える自分を師匠は厳しく叱咤し、囚人に向かってタドミール・ザウバアを放った。
 囚人の顎は砕け、目と鼻、耳から血を垂れ流し、廃人になった。
 師匠はよくやりましたとほめてくれた。しかし拳には嫌な感触だけが残り、人を廃人に変えた罪悪感に捕らわれていた。しばらくは手を洗わないと落ち着かない日々が続いた。
 するとアル・サーレスは突如イサール・ヤルクルを止める。あと二メートルほどの距離で降り立った。
 そしてアル・サーレスは呼吸を整える。大気からオーラを吸い取り、自分のものに変えている。肉がぷくっと風船のように膨れ上がった。
「セッルレスリング最終奥義、ラフザー・ヤクトル(一瞬で殺す)!! これを食らって生き延びた人間は一人もいない。なぜなら教えた人間を殺さねば会得できないからだ!! 俺は師匠をこれで殺した、さあ!!」
 陽氷の周りにも青白いオーラが螺旋を描いている。右拳にはオーラで青く光っていた。
「こほぉぉぉォォォ!!!」
「君にこの技を与えてやろう!! 来い!!」
 アル・サーレスの目が白目になる。そして稲妻のごとく陽氷に突進する。それは滑らかに、風に吹かれるかのように優雅な歩みであった。
「波動! 乱破拳(らんぱけん)!!」
 陽氷は瞬時に高く飛んだ。そして水が抜けた給水タンクへ飛ぶ。そしてタンクを力いっぱい蹴ると、標的を逃したアル・サーレス目がけてオーラをまとった拳を殴りつけた。
 アル・サーレスは飛んだ。左頬に陽氷の拳が決まり、その瞬間折れた歯が飛び散る。
 アル・サーレスは屋上から、さらに飛んでいく。そして塀を飛び越え、走行中の大型トラックの上に墜落した。運転手は気づいていないようで、そのまま走り去った。
「あ、彼を捕まえなきゃならなかったのに」
「それなら追わせよう」
 陽氷は右手を挙げると、校舎の窓から何か黒い影が飛び出した。それは人間蝙蝠であった。もっとも黒い衣装ではなく、鏡張りで作られたミラースーツで、周りの風景に擬態するものだ。
「コッファーシュか。影の生徒会は全員アラビア語の暗号名だけど、どうして?」
「ああ、全員セッル国からの留学生だ。暗号名はかっこいいからつけた。アラビア語をつける組織は滅多にいないからな」
 それを聞いた虹七はあっはっはと大笑いした。それにつられて陽氷も笑う。屈託のない笑いであった。

 *

「なっ、なっ、なんとしたことだぁぁぁァァァ!!」
 校舎内に宇野の叫び声が響いた。すでにセッル解放戦線のメンバーは倒されており、拘束されている。表向きはメイド喫茶デズモンド率いるデズモンドアーミーガールズが悪人どもを逮捕する設定だ。
 ちなみに鮫泥姉妹の空飛ぶシーンは問題にならなかった。人間が空を飛ぶなどあり得ないし、あまりに漫画のような出来事で視聴者らは映画の撮影と称することで納得した。
 虹七と陽氷は一階の玄関から出てきた。校庭には猿神に乙戸、白雪と市松に円谷、鮫泥姉妹が待っていた。
「やったな。コウちゃん。ナイスだぜ」
 猿神は親指を立てて、歯をむき出しにして笑う。本人も銃弾を受けており、学生服のあちこちに穴が開き、硝煙の臭いがする。
「こっちもなんとかなった。ただこれから病院に行かないとな。あばらを何本かいかれちまった」
 乙戸が胸をぱんぱんと叩く。しかしその笑顔は明るい。
「結構なんとか持ったよね。まあ半分は教授の補佐のおかげだけどね」
 白雪は猿神を介抱している。
「まったく無頼漢を相手にするなど初めてですわ。ですが、母校を我が物顔で踏ん反り歩くのを黙って見るわけにはいきませんわ」
「私は陽氷様さえ無事ならいいのだけどね」
 市松は胸を張っているが、円谷はつんとしたものだ。それを見た虹七と陽氷はにっこりと笑った。
「あと爆弾の解除はアフアァさんがすべて終えました。彼女爆弾の解体も得意なんですよ」
 鮫泥可南華が言った。美土里は相変わらず手羽先をばりばり食べている。
「きっ、きさまらぁぁぁァァァ!! ボンクラの分際でぇぇぇ!!」
 宇野が口から泡を飛びちらしながら、校舎から出てくる。もう目は錯乱している。虹七は冷静なもので、あまりに哀れな風貌に二人はため息をついた。
「お前ら!! そこにいる二人はなぁ、化け物なんだよ。遺伝子工学で生まれた落とし子なんだよぉぉぉ!! えっへっへぇ、気持ち悪いだろぉぉぉぉ!!」
 宇野は虹七と陽氷に指を示し、限りない悪態をついた。二人の秘密を暴露すれば彼らの関係を壊せると思っていたのだろう。しかし猿神らの反応は冷淡であった。
「へい、知ってるぜ」
「俺も知ってる」
「あたいも知ってるよ」
「わたくしも知ってますわ」
「私はもちろん知ってます」
「私たちも知ってます。ねえ、ドリーちゃん」
「うん、知ってる」
 それを聞いた宇野はキレた。そして大暴れする。宇野は完全に気がくるってしまったのだ。
 そこに校門から車が入ってきた。それはイタリア車で深紅のフェラーリであった。もっともボンネットにはアニメ調のロリキャラが大事な部分を蔓に隠され、練乳まみれの絵が描かれていた。いわゆる痛車である。
 そして車から降りたのはイタリアのブランド、アルマーニのグレーのスーツに身を固め、同じくブランドのボルサリーノのソフト帽を被った男だ。もちろん靴もイタリア製である。
 イタリアのブランド物に身を包み、痛車に乗るこの男はまさしくヘンタイという名の紳士であろう。大半は呆れ顔だが、白雪だけ目を輝かせていた。
「このキャラはあるファンタジーアニメのキャラでね。エルフなんだ。耳がとんがっているのがわかるだろう? 年齢は百歳だから児童ポルノ法には抵触しない」
 紳士はみんなに説明したつもりだろうが、蔓に絡まれ、練乳まみれの幼女の痛車に乗るのは相当な骨がいる。
「はっ、はっ、花戸ぉぉぉォォォ!!」
 宇野が叫んだ。紳士の正体は花戸利雄であった。花戸はソフト帽を被りなおすと、宇野に向き合った。
「宇野さん。あなたはもう終わりだ。あなたの背任行為はすでに私がつかんでいた。おかしいと思わなかったのかな? この学校の周りが嫌に静かだということを。私が昨日のうちから秘密裏に近隣住民を避難させ、車の通行を制限したのだ」
 そういえば朝は交通量が少なく、通行人が少なかった。あれは花戸の仕業だったのか。しかし昨日のうちとはいえ何の混乱もなく、制限したのは彼の腕前であろう。
「ちなみにテレビレポーターたちは私の息がかかっている者たちだ。あなたの安っぽい計画は終わったのだ。おとなしく年貢を納めたらどうですか」
「うぅ、うぅ、うるさぁぁぁいぃぃぃィィィ!!」
 宇野の心は壊れてしまった。何をやっても思い通りにならない。自分の計画がめちゃくちゃになった。そしてそれは自分の大嫌いな花戸によって幕を下ろされた。もはやこれまで、花戸を殺さなくては自分は救われない。そして自分の言葉を信じない人間も一緒に殺してやれ。
 宇野は奇声をあげながら花戸に突進してきた。しかし花戸はソフト帽を被りなおすと、宇野の顔面に突きを入れる。
 宇野の身体は殴られた衝撃で吹き飛んだ。そして血の泡を吐き、再び気絶した。花戸はポケットからハンカチを取り出すと、殴った拳を丁寧に吹く。そして陽氷に改めて向いた。
「君がこの学園の生徒会長、満月陽氷君だね? 私はそこにいる丸尾虹七の保護者である花戸利雄というものだ。どうぞよろしく」
 そういって花戸は陽氷に右手を差し出した。困惑する陽氷だが差しのべられた手を握る。
 とても暖かかった。そして自分に向ける笑みも厳格だが優しげなものである。
「花戸さん、陽氷は……」
 虹七が口を挟んだが、花戸は口に人差し指を当てた。言わなくていいとの合図だ。
「これからも息子と仲良くしてください。いや、息子の友達は全員私の子供と一緒だ。困った時が来たらすぐ相談してくれ。すぐに飛んでくるから」
 そういって花戸は宇野を抱きかかえ自分の車に押し込むと、そのまま走り去った。テレビレポーターたちはおらず、映画監督らしい人がスタッフに銘じてカメラを回していた。生徒たちもその様子を見て、アカデミー物の演技だと素直に感心した。だがクイーンはなぜか連れ去られた宇野を見て悲しげな表情を浮かべていた。
「これからもよろしくね」
 虹七は陽氷に手を差し出す。
「ああ、よろしくな」
 陽氷は虹七と握手した。すでに日は落ち、校舎は夕焼け色に染まっていた。

 *

「さて宇野さん。説明してもらいましょうか。なぜあなたがあんな暴挙をとったのか」
 ここは千代田区秋葉原にある同人誌ショップユニバーサルの社長室だ。ここには名義上は社長である花戸と秘書の松金紅子、そして先ほど連れてきた宇野博士がいた。
 宇野の表情は穏やかなものになっていた。先ほどの悪鬼羅刹とは大違いだった。
「そ、それが私にもわからないのです。なんで虹六くんをいじめないと気が済まないのか、理解できないのです」
「ほう、それではなんでセッル解放戦線と手を組んだのですか」
「それも、わからない。彼らが知らない間に協力を申し出たのです。そもそもテロリストがどうやってセッル国から出てきたのかわからない……」
 宇野は涙目であった。彼は自分の行動が全く理解できないのだ。頭を抱え懸命に考えているが答えは出てこない。おそらくこれが宇野の本当の姿だ。
「宇野さん。あなたは操られていたのだ。丸尾虹六をいじめ、それを虹五が助けるように仕向けた。そして長官も操り、私にデータを引き出させたのだ」
 花戸は宇野にレポート用紙を差し出した。宇野はレポート用紙を読み始めると顔が真っ青になった。
「あっ、アル・サーレス率いるセッル解放戦線のメンバーが逮捕された? しかも二日前に?」
 セッル解放戦線は先ほど逮捕されたばかりだ。しかもアル・サーレスは行方不明だ。いったいこれはどういうことだろうか。レポートを読むうちに宇野ははっとなった。
 セッル解放戦線のメンバーは全員仮死状態で発見された。彼らは家の中に砂煙を吸わないように床に穴を掘って芋虫のように丸くなっていたという。そのため全員衰弱していたが命に別状はなかったそうな。
 アル・サーレスの話曰く、誘拐したイワノフ博士の目を見ていると、何やら頭がぼんやりしてきたという。そして虹七(アル・サーレスは名前は知らない)にイワノフ博士を奪還されたあと全員がふらふら家の中に入って行ったというのだ。
 ちなみにイワノフ博士は誘拐されたとき、一度セッル解放戦線のメンバー全員の前に引き出された。メンバー全員イワノフ博士の目を見ると軽いめまいを覚えたと証言をもらっている。
「まっ、まさか、あいつの仕業では?」
「ええ、その通りです。虹七たちの兄で、人を操る力を持つ男、丸尾虹二(こうじ)の仕業です」
 花戸と宇野は目を合わせていた。すると卓上に置かれていた電話が鳴った。松金は受話器を取ると、花戸に取り次いだ。
「もしもし、どなたですか?」
『ふふふ、私ですよ虹一(こういち)さん。いや、今は花戸利雄さんでしたか?』
 軽い口調の若い男の声に、花戸の目が険しくなった。花戸は松金たちに聞こえるようにした。
「お前、虹二だな?」
『そうですよ。ちなみに今日虹七君と虹六、いや陽氷君と会いました。いや〜なかなかいい腕をしてますね〜』
「今日……、まさかアル・サーレスはお前が化けていたのか?」
『はい。ちなみに虹七君に助けていただいたイワノフ博士にも化けていました。おっと博士を殺したりなどしませんよ。博士の地元であるカルフォルニアのある病院に入院させました。なに、髪と髭を剃り、一週間ほど栄養剤だけ与えて骨川筋衛門にしただけです。それだけでもイワノフ博士とわからないから人間とは不思議なものですね。まあ看護師に金を握らせたこともありますがね』
 電話の向こうではからからと笑い声が響く。花戸は受話器を強く握りしめた。おそらくイワノフに化けた虹二がアル・サーレスを含めたセッル解放戦線に催眠術をかけたのだ。イワノフに化けたのもそのためだったに違いない。
「お前は何がしたいのだ? なぜ回りくどいことをする?」
『うっふっふ、それはあなたも同じこと。私も弟たちの実力を見たかったのですよ。ではこれからもよろしく。あと私をつけてきた人は眠ってもらってます。場所は、今ユニバーサルの入り口に置いたので解放してあげてください』
 受話器が切れた。花戸は受話器を置くと顔が険しくなった。そして一階にいるガードマンに内線をかける。数分後、確かにユニバーサルの入り口には全身タイツで蝙蝠のコスプレをした外国人がちょこんと座っていたとのことだ。もちろんアル・サーレスを追ったコッファーシュである。命に別状はないという。
「室長、やはり室長の予想通り、陽氷君たちには後ろ盾があったのですね」
「ああ、たとえ脅迫データがあったとしても世間を知らない陽氷、皐月に扱える代物ではない。虹二ならそのデータをうまく使い、国ひとつ買うことは可能だ」
 花戸は窓の前に立った。外には人で賑わう秋葉原が広がっていた。限定盤フィギュアや同人誌を紙袋に詰めて歩くおたくや、メイド喫茶のチラシを配るメイドたち。怪しい日本語を話す外国人露天商や、秋葉原を守るボランティア集団。
「……虹二は思想などない。ただ面白いことだけを望む男だ。ある意味性質の悪い男だ」
「それを虹七君や陽氷君にぶつけるのですか?」
「虹二は悪魔のような頭脳と力を持つ男だ。あいつになくて虹七たちにあるもの。私は彼らは虹二を倒せると信じている」
「そうですか。私も虹七君たちを信じております。ですが……」
 松金は視線を下に落とす。そしてややためらいがちに口を開く。
「室長。美少女フィギュアを握りしめるのはやめてください」
 花戸の手には美少女フィギュアが握られていた。銀色の肌にヒスイ色のメカを頭に着け、水着のように着こなしたものだ。
「ああ、こいつは人間ではない。年齢二歳のガイノイドだ。しかも人間の男性に恋に落ちる設定だよ」
「そんなことを聞いているわけではありません。宇野さんも引いてますよ」
「あっ、ああ……」
 宇野は歯切れが悪そうであった。彼は趣味でガレージキットを作っていた。ちなみに色も組み立てもすべて自分でやっている。貧乏学生時代の頃おたくの友人に頼まれ、制作したのだがそれがいい腕なので口コミで広がり、いい金になった。大学の費用はおろか、生活費もそれで賄うほどであった。
 奥さんも美少年のガレージキットが好きで、娘であるクイーンこと宇野紫苑(しえん)もメイド喫茶に店長だが、メイドのフィギュアを制作し、売り出している。蛙の子は蛙というわけだ。
「松金君。人を見た目で判断してはならない。彼女は自身がロボットゆえに人間との違いに悩んでいるのだ。人と中身が違うことを恐れているのだ。虹七たちはまさにそれ、我々のやることは彼らを見守り、気づかれぬように補佐することだ。差別してはならん」
「それは私も同意見ですが、いい大人がフィギュアを握りしめてニヤニヤするのはやめてください。心の底から気持ち悪いです」
 松金のあまりにきっぱりな口調に花戸はへこんだ。宇野は表面上処罰し、謹慎ということになったが、裏では花戸と繋がり、虹七たちに役立つ道具を作ることを約束した。そして花戸が望むロリババァのガレージキットを製作したが、松金がそれを真っ二つにへし折ったのは後の話である。

 終わり
2012-04-18 12:16:39公開 / 作者:江保場狂壱
■この作品の著作権は江保場狂壱さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 二〇一一年八月二五日:鮫泥姉妹との対決です。

 二〇一一年九月八日:虹七と猿神たちの友情を描きました。私は少年物では大人が子供を支えるものと思ってます。

 二〇一一年九月二五日:生徒会長満月陽氷の裏と表の顔を書きました。彼の強さともろさを表現しました。
 
 二〇一一年一〇月二二日:円谷皐月の秘密が暴かれます。二重の意味で。

 二〇一一年十一月四日:丸尾虹七の秘密が暴かれます。あと数話で最終回を迎えるつもりです。

 二〇一一年一二月三〇日:陽氷との対決です。その前に唐突に影の生徒会(ザラーム・ジャイシュ)が登場します。正確にはザラームは闇で、ジャイシュは軍団です。参考文献はネーミング辞典(笠倉出版社)です。いきなりボスと対決しても盛り上がらないので、登場させました。

 二〇一二年四月一八日:今回で最終回です。学園スパイアクションのはずが段々荒唐無稽な話になってしまいました。

登場人物紹介。

丸尾虹七(まるお こうしち)雷丸学園に転校生としてやってきた。内閣隠密防衛室のスパイ、スペクターの一員。
猿神拳太郎(さるかみ けんたろう)雷丸学園二年生。元ボクシング部所属。
白雪小百合(しらゆき さゆり)雷丸学園二年生。黒ギャルで猿神の恋人。
市松水守(いちまつ みもり)雷丸学園三年生。風紀委員長。背のことを触れると切れる。
大槻愛子(おおつき あいこ)雷丸学園教師。風紀委員会の顧問。傍若無人。
満月陽氷(みつき ようひょう)雷丸学園三年生。生徒会長。
乙戸帝治(おっど ていち)雷丸学園三年生。空手使いの副会長。
円谷皐月(つぶらや さつき)雷丸学園二年生。ゴスロリで書記。
鮫泥可南華(さめどろ かなか)雷丸学園一年生。双子の会計。
鮫泥美土里(さめどろ みどり)雷丸学園一年生。無口な会計監査。
花戸利雄(はなと としお)内閣隠密防衛室の責任者。虹七の上司。同人ショップ『ユニバーサル』の社長を装っている。
松金紅子(まつかね べにこ)花戸の秘書。
クイーン:メイド喫茶『デズモンド』の店主兼メイド。スペクターの武器を発明している。
この作品に対する感想 - 昇順
いやー、やっぱりこのお話はシリアス調でいてどこかクスッと笑わせてくれますねー。狙っているのかそうじゃないのか、それにしても絶妙なバランスです。
空を飛ぶ双子に、ハア?となりつつもそれに続く友情話にジンワリなりました。
コウちゃんが本当の人間、本当のスパイに成長していく物語なのかな、これは。
などと考えていると、美土里の最後のセリフで吹き出してしまいました。やっぱり絶妙なバランスだなあ。
2011-08-28 12:06:31【☆☆☆☆☆】玉里千尋
玉里さま>一応シリアスなのですが、漫画的にシリアスな笑いを入れてます。まあ、漫画と小説は別物ですから下手をすれば作品自体が壊れてしまいますので気をつけてます。

双子といえば空を飛ぶという印象があるので。美土里は無口なので最後にしゃべらせたほうが印象が強くなると思いました。
2011-08-28 19:07:43【☆☆☆☆☆】江保場狂壱
友情が熱いですねー。しかし、二人ともそんな簡単に命がけの職業に決めていいか。
白雪が腐女子だったというのには笑えましたが、何故か納得。
そして虹七がオタク用語を知っているのはやっぱり花戸の影響なのか。
まっとうな大人が出てくる話はホッとしますね。

どうも文章のちぐはぐさが気になります。
たとえば「そこには年齢は四十代後半で紺色のダブルスーツを着ていた。」
そのほか数カ所あったと思いますが、あとはご自分で推敲してみていただければと思います。

では続きも楽しみにしています。
2011-09-11 08:56:41【☆☆☆☆☆】玉里千尋
玉里さまいつも感想ありがとうございます。間違いを指摘してくれないと人間はいつまでたっても成長しませんから。これからも指摘をお願いします。

今はまっとうな大人が少ない時代です。せめてフィクションではまっとうな大人を出し、子供たちの目標になってもらいたいと書きました。
腐女子ネタやオタク用語は場合によっては作品を壊してしまう可能性が高いので気をつけます。では。
2011-09-11 11:12:04【☆☆☆☆☆】江保場狂壱
計:0点
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