『余計な奴ら』作者:山茶花 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角27415文字
容量54830 bytes
原稿用紙約68.54枚
                         

 コンビニを過ぎると、通りの闇の色が濃くなった。空っ風だけが転がる住宅街、薄汚れた外灯がぶらさがる電柱の角を曲がると、足の運びがゆっくりとなる。いつしか着いていた癖だった。他人の視線が気になる、張り込みは? 不安は俺の身体から離れることはなかった。
 ポケットから鍵を取り出すと、アパートのドアに差し込んだ。体の芯までかたまりそうな部屋、突き刺すような冷たさは外気の温度と変わらない。それでも部屋に入ると、ホッと気が緩んだ。コートはまだ脱ぐ気になれない。石油ファンヒーターの温風が懸命に部屋の空気を撹拌させる。まだ暖まらないコタツに足を突っ込んだ。座布団の冷たさが服を通してひんやりと伝わる。かじかんでいる指先をコタツの電熱器に当てた。徐々にこわばっていた頬の筋肉が緩んでいく。凍りついた指先の毛細血管が緩やかに溶け出していくのが分かった。
 テレビのスイッチを入れると弁当を広げた。コンビニで買った弁当はすっかり冷えていた。
 九時のニュースが始まっている。
 民主党の支持率が三十%台に落ち込んだのは、党内の権力の二重構造のせいだといっている。
 普天間の米軍基地移設問題で、鳩山首相の三月末までに、腹案を出すとの公言には、大方の見方は懐疑的であった。
 青森の田舎町で火事があり、親子二人が焼け死んだ。不審火として警察が調べていると報じていた。続いて海外のニュースへと移った。
「なかった」
 俺は胸の中で呟いた。
だが、まだやらなければならないことがある。食い終わった弁当をゴミ袋に放り込むと、ノートパソコンに向かう。顔にはそげ落とせない不安と脅迫観念が混在していた。
 インターネットのソフトを立ち上げる。ヤフーの画面が表示された。
 検索の欄に「女子高生殺人事件」と打ちこむ。
 須山高校女子高生殺人事件、事件は平成十二年六月に起きた……。
 尼崎女子高生殺人事件、当時高校一年生だった平山恵美さんは……。
 岐阜第一高校女子高生殺人事件、二月十五日早朝に発見された……。
 何も変わっていない。
 次に故郷のローカル紙を検索に打ち込こんだ。ここにも出ていなかった。俺は疲労から開放されたようにコートを脱ぐと畳に寝転がった。百七十センチの細い身体がうっとうしく感じる。天井の木目がまだら模様を描く。何度見ても慣れないし好きになれない。誰かに覗かれているような気がする。いやあのときのあいつの目に似ている。恐怖に慄き、救いを求めていた。いい加減にしろと目を閉じる。だがまぶたの裏に張り付いた映像が消えることはない。
 あと二十日。二十日何事もなく過ぎてくれれば。
 壁に掛かった二〇一〇年のカレンダーを眺める。×印が並んでいる。一日一日を消しこんだ日付。じれったくなるほど緩やかな時の流れ。爪をかみながら息を殺して今日までやってきた。
 大丈夫だ、これまで何事もなく過ぎた。じっと通りすぎるのを待てばいい。


「武田さん、お客さんです」
 突然に訪問者がやってきたのは三時のお茶を飲んでいるときだった。俺の仕事は電子部品の在庫と出荷の管理。客と会うことも、打ち合わせをすることもなかった。それはそれで俺には都合が良かった。人付き合いが苦手というわけではないが、他人と会うのは避けている。避ける理由はそれなりにあった。いやそれが今の俺の人生を支配している。人並み以上のルックス、だが三十三にもなって未だに恋人の一人もいない。
「木下さんとおっしゃる方です。第一応接室にお通ししておきました」
 入社一年目の江上利恵は気を利かしたつもりだろう。小柄な身体にシャープな顔をしている。笑うと片方の頬にえくぼが出来、理知的な瞳は笑うと可愛い。独身の男性や、特に主任の棚橋がぞっこんであった。どこかのテレビ局のアナウンサーに似ていると噂だ。
 余計なことをと舌打ちしたくなる。
 だが木下という名前に覚えはない。友人でないのは確かだ。仕事の関係だろうか?
 俺の仕事は一日中コンピューターと睨めっこだ。今使っているコンピューターは三ヶ月前に入れ替えたばかりだった。そのときコンピューターの機種選定を須田部長に任された。出来れば辞退したかった、棚橋が希望していたのを知っていたから。
「お前が選ばれたって、出来るのかよ?」
 メタルフレームの奥から意地の悪い瞳が刺すように俺を見つめた。俺は答えなかった。何かを言えば、二倍三倍になって返ってくる。棚橋の性格は知り抜いている。陰険でしつこく、人の足を引っ張るのを喜びとしている。
「大人しそうな顔しているが、やることはちゃんとやってるわけだ。部長にゴマすっているのは耳に入っているからな」
「僕はそんなことは…」
「じゃあ辞退しろよ。須田部長に出来ませんから他の人に代えてくださいと言って見ろよ」
 社内でもめるのは避けたかった。出来るだけ目立ちたくないのが俺の気持ちだ。部長に代えて欲しいと願い出た。
「社内には、いろいろ言う奴がいるが無視しろ。僕は君の能力を買っている」
 多分、須田が棚橋に釘を刺したのだろう、それ以降は棚橋からの誹謗中傷はなくなったが、遠くから睨みつける視線はなくならなかった。今に何かを仕掛けてくる、覚悟しなければならない。
 メーカーの営業マンたちは、いろんな誘い文句を並べ俺を食事や飲みに誘った。何とか自社のコンピューターを売りつけようとの魂胆だ。恐らく棚橋はこれを期待していたのだろう。彼の酒好きは有名だった。お車代と言って何がしかの現金が貰える。だが博之は誰の誘いにも応じなかった。清廉潔白な取引をと考えているわけではない。賑やかな場所に連れ出され、人目に晒されるのが嫌なだけだ。
 木下という男、そのときの一社かも知れないな。
「江上さん、すみませんけどお茶をお願いします」
 俺は利恵に頼むと、応接室のドアを叩いた。
やはり知らない顔だ。だが、木下は違った。まるで何十年来の知己に会えたように、満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
 前頭葉の髪の毛がやや後退していた。ぎょろりとした瞳は荒れていて、何かに飢えた目だ。百六十センチほどの身長に、らっきょうを思わせるような顔立ち。歳の頃は自分と同じか、年上に見えた。
 決して上等とはいえない紺のスーツ。白のワイシャツにノーネクタイ、普通のサラリーマンだとしたらあまりにも崩れている。横に置かれたグレイのトレンチコートも汚れが目だった。
「やあ、久しぶりだ。元気か、懐かしいなあ」
 木下は乗り出さんばかりにオーバーなしぐさをして見せた。
 俺の記憶の中には、どれだけまさぐろうとその顔はなかった。懐かしいと言われてもまるっきり覚えがない。戸惑いが咽喉を詰まらせる。どう反応していいのか分からない。
「あのう申し訳ありませんが、木下さんって、どちらの……?」
「おいおい、何言っているんだ、俺だよ、俺。覚えていないの?」
「すみません、どうしても思い出せないんですが」
「がっかりだなあ、俺は武田のことをよく覚えているのに。まあ座ろう」
 木下は呼び捨てにした。それだけ親密な知り合いだと吹聴したいのか。汗が噴出してくるのが判った。
「あのう、仕事の関係でしょうか?」
「何言っているんだ。岐阜一高で一緒だった木下だよ」
 木下は笑った。
 高校の同級生、ほっとしながらも、警戒のベルが鳴った。
 憶えているのは、数人に限られた。成績優秀でいつもトップだった杉崎、仲の良かった市原と小久保、ひょうきんだった富岡、あとは学校一の悪だった小野田と彼のちょうちん持ちだった久米。それともう一人……。
 記憶を追い払うように目の前の男を見つめた。
 荒んだ目は落ち着きのない動きをし、剣呑な色も混じっている。名前を聞いても思い出せないようなクラスメイト。そんな男が予告もなしに突然現れ、同級生だと懐かしそうな顔を見せる。そこにはどんな魂胆が隠されている。
 俺の勤め先を知っているのは田舎の両親と兄弟だけだ。親友だった市原と小久保にだって報せていない。それなのに木下は俺の会社を訪ねてきた。どうして知った。両親からでも聞き出したのだろうか。
「そうですか、申し訳ありません、思い出さなくて」
「しょうがないか、親友とまでは行かなかったからな」
 自嘲めいた笑いをしている。
「失礼します」
 利恵がお茶を持って現れた。お茶をテーブルの上に載せる利恵を木下は無遠慮に眺めている。視線の先で利恵の服を剥ぎ取る露骨ないやらしさが出ていた。利恵は頭を下げて部屋を出るときに、木下を睨み付けた。
「それで、今日は?」
「うん、実は困ったことが起きてね、それで助けてもらおうと思って寄ったんだけど」
 木下はお茶を一口すすると、
「昨夜こっちへ仕事できたんだが、今朝方電車の中でスリにあってね、財布を掏られてしまったんだ。お陰で田舎に帰る電車賃もままならず、どうしようかと困っていた。ところが急に君の事を思い出してね、図々しいかも知れないが、ここはひとつ君に頼るしかないかと思って、やってきた次第だ」
「スリですか。それはひどい」
 同情を示したものの、木下の言うことをそのまま鵜呑みにしてはいない。それほど純情ではないつもりだ。
「都会は怖いね、油断も隙もあったものじゃない。何も俺みたいな貧乏人から盗まなくてもいいだろうと思うのだが……いや、それなりに注意はしていたんだ。だが相手がひとつ上だったのかやられちゃったよ。それで厚かましいと分かっているんだが、同級生のよしみで助けて欲しいのだけど、帰りの電車賃とホテル代を貸してもらえないだろうか。いや、帰ったらすぐに借りた金は返すから」
 やはりそうか、予想通りの答えが返ってきた。
「いくらぐらい必要なんだろう?」
 同級生というだけで俺を訪ねてきた図々しさが鼻につく。金が必要なら交番に駆け込めばいい。消費者金融だってある。クレジットカードだってあるだろう。そんな思いがあったが、口に出来る性格ではなかった。
「すまん。二万、いや三万あれば助かる」
 下から掬い上げるような目は卑しく、口元は引きつっていた。
 出せない金ではなかった。飲んで歩くこともなければ、女に金を掛けることもない。特別趣味があるわけでもなかった。給料の殆どが貯金に廻っている。三年くらいは仕事がなくても食っていけるだけの金が溜まっていた。
 俺は札入れから一万円札を三枚抜き取ると、木下に手渡した。
 多分この金は戻ってこないだろう。こんな男にと思うと、腹立たしい気もする。しかしいつまでも居座られるよりはましだ。恵まれない奴に寄付したと思えばいい。ただしこれっきりのことだ。
「ありがとう、助かった。いま借用証書を書くから」
 木下は胸のポケットから名刺入れを出すと、名刺の裏に書き出した。
「いいです、そんなこと」
「いや、俺の気が済まないから」
 そう言って、木下は自分の携帯電話も書いて寄越した。
 意外と律儀だな、返すつもりでいるのだろうか。俺の思い過ごしかも知れない。一瞬の気の緩みが起きた。
「ところで武田、あのことは今でも覚えているのか? まあ忘れるはずがないよな。あんなとんでもないことをしでかしたんだから、俺は信じられなかった」
 突然脈絡のない話を出した。
 俺は鋭く木下の言葉に反応した。自分でも顔色が変わるのが分かった。あまりの突然のことに身構える余裕がなかった。不意を食らい、心は大きく揺らいでいる。こいつ何を言っている。まさかあのことを知っているというのか。蓋をしている悪夢、頭の中であの日のことがフラッシュバックしている。いやそんなことはあり得ない。誰も知らないはずだ。もしこいつが知っていたら、とっくに警察に知らせているだろう。
 木下は出鱈目を言っている、それともなにか別の話をしている。
 俺は自分が特別目立つ子だったとは思っていない。勉強はクラスの中で中の上。運動でも何かに秀でているということはなかった。だからといって馬鹿にされるほどの運動音痴でもない。それなりの生徒だと思っている。
「なんでしょう、あんなことって?」
 唇が震えている。自分でも情けないと思うが、一度芽吹いた不安はからだの根っこを揺らしている。
「あんなことってあんなことだよ。分かっているじゃないか。しかしあれを見たときには驚いたなあ、まさかお前があんなことをやるなんて。ばれたらえらい騒ぎだよな。ずいぶんと大胆なことをやってしまった。でもまあ、今更騒いだって元に戻るわけではないし、それに武田、実はって、なればお前が困るだろう。俺が言わなければ、分からないことだから。心配するな、黙っててやるよ」
 いつの間にか卑屈な態度は消え居丈高になっている。
 俺は額に手をやった。指先が汗で濡れている。木下の言葉に翻弄されている、視線が痛い。こいつ何を知っているというのだ。息苦しく胃が締め付けられるようであった。
 俺は黙した、言えば何か余計なことを言いそうな気がする。
「どうした? 顔色悪いな」
「いや何でもありません。ちょっと風邪気味だったから」
「そりゃいけない。医者に診せたほうがいいんじゃないか? いまインフルエンザが流行っているらしいから」
「いや、薬は飲んでいますので、大丈夫です」
「そうか……じゃあ、そろそろお暇するか。これ以上いて仕事の邪魔をしちゃ悪いからな」
 頂くものを頂いたと木下は立ち上がった。
「また連絡する」
 そう言うと不敵な笑いを残して部屋を去った。
 俺は立ち上がることも出来ず木下の背中を見送った。十分か十五分の会話だった。それなのに疲労感を覚えた。
 仕事に戻っても、木下の言葉が頭から離れない。
「お前とんでもないことをしたな」
「黙っててやるよ」
 俺は知っているぞ、お前のしたことを、と木下の顔が脅しをかける。
 いやあいつが知るわけがない。誰にも見られていないはずだ。嘘だ、ハッタリだ。だが否定する言葉は弱くなる。
 どうしてあいつは俺を訪ねてきた。どんな目的があって。本当に仕事でやってきたのか。身なりからはまともな仕事についているようには見えなかった。決して楽な生活を送っているとは思えない。スリに会って金を取られたというが口実に過ぎないだろう。本当は俺に会ってあのことを知っていると言いたかったのでは。
 でもどうして?
 狙いは一つしかない。俺がどんな生活をしているのかを調べにきたのだ。あの三万円を貸してくれと言ったのは、そんな意味があるのかも知れない。すんなりと出した俺には金があるとほくそ笑んだのではないのか。もし狙いがそうだとしたら、これっきりで済むことはないだろう。もう一度連絡してくる。そして……
「武田さん、武田さん」
 利恵の声にはっと我に返った。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですけど」
「あ、うん、大丈夫です」
 工場から電話だと言った。受話器を握る。ぬるっとした感覚が走る。手にびっしりと汗をかいているのに気付いた。
 

 気が早い街角では、店のあちこちでチョコレートを飾っている。 
 暖冬だといいながらも、夜になると気温はぐっと下がる。それでもまだマイナスを記録することはなかった。コートの襟を立てながら俺は地下鉄の駅へと歩いていた。
 肩を並べるように利恵がいる。一緒に帰ろうとくっついてきた。
「すぐにバレンタインデーですね」
「ああ、そうだね」
 興味はなかった。いやバレンタインデーを嫌悪していた。どうして世の中、チョコレート一枚にあれだけ騒ぐのか。メーカーが販売促進のために、勝手に作ったストーリー。もともと何の繋がりもない。それなのに一枚のチョコレートで取り返しのつかないことをした。作った奴が憎らしい。
「武田さん、チョコレート一杯貰うんでしょうね」
「僕なんかにくれる物好きはいないよ」
 会社の女子社員とも殆ど話すことはない。一日中コンピューターを睨み、数字を確認して、終わればまっすぐに家に帰る。最初のうちは飲み会に誘われることもあったが、そのうち誰も声を掛けることはなくなった。酒も飲まず話もしない。声をかけられてもただ頷くか頭を振るだけ。人と目を合わせず、黙々とただ食べるだけの俺に面白みを感じるやつはいないだろう。それでいい。俺の存在など無視してくれれば。
「本当ですか、じゃあ私があげていいですか?」
「僕なんかより、他の人にあげたほうがいいと思うよ」
「いえ、わたし武田さんに上げます」
 利恵が恥ずかしそうに見上げた。
 バレンタインデー、今年だけは特別な日になる。
あと二週間と少しで二月の十四日。早くやって来い。そうすれば俺は自由になれる。だが、ひとつだけ面倒なことが起きた。 昨夜も家に帰ると、パソコンを開け、インターネットで新聞のローカル紙を調べていた。
 ちゃぶ台の上の携帯電話が振動を起こす。表示された番号に覚えはない。不吉な予感が走る。無視しようか、躊躇いながら通話ボタンを押した。
「よう、武田。俺だ、元気か?」
 木下の声だった。馴れ馴れしい言い草は、親しさを越えて、明らかに上位に立ったものが発する言葉であった。不安が染み出すように身体を濡らしていく。
「何か?」
 思わず声が用心している。やはり連絡をしてきたか。予測はしていたものの心穏やかではない。何を切り出すつもりだ。
「借りた金まだ返してなくてすまんな。もう少し待ってくれ」
「ああ、いつでもいいです」
「それで、ついでといっちゃなんだが、もう少し金を都合してもらえないだろうか。いやなに、今月に入るはずだった売掛金が一ヶ月延ばされちゃってさ、資金繰りが詰まって困っているんだ。百万ほどでいいんだ、なんとかならないか?」
 どこまで図々しい奴だ。馬鹿を言うな。電話を叩ききる自分を想像しながらも口は優しい言葉を吐いていた。
「そんな金は……」
「百万が無理だったら、五十万でもいい。な、頼むよ」
「しかし僕には……」
「同級生を助けると思ってさ。恩に着るから」
「もうこれ以上は。誰か、他の人に当たってくれませんか」
 やっとのことで吐き出した言葉だった。それでも心臓が早鐘を打っている。もう少し強く出られればと思うのだが、性格が災いしていた。いや正確には、あの事件が俺を極端に引っ込み思案にしていた。
「これだけ頼んでもだめか?」
「申し訳ありません」
 諦めてくれるのか、木下は返事をしなかった。
 どれだけの沈黙が続いたのだろう、五秒、十秒、電話が切れたのかと一瞬思った。
「おい、武田。おまえ分かっているのか」
 突然声のトーンが変わった。まるで別人だった。荒々しく、威圧的で、やくざを思わせるような言葉遣いだ。
「俺が、お前の知られたくない秘密を握っているのを忘れんな。俺が一言喋れば、お前の今の地位などたちまち吹っ飛ぶことを、分かっているんだろうな?」
 そうだ、木下は俺のしたことを知っている。出るところに出て喋られれば何もかもが終わってしまう。だが本当に知っているのか。いまひとつ信じられないところがあった。
 木下は続けた。
「お前、まさか忘れたとは言わないよな。あんなひどいことをしたんだ。忘れるわけがない」
 忘れてはいない。いや忘れることが出来たならどれだけ幸せだったか。なんどそうなることを願ったことか。事故を起こして記憶喪失にでもなりたいとも思った。洗濯機で汚れ物を洗濯するように、洗い流せたらどれだけ楽だったか。
 たった一度だけの過ちが俺を苦しめる。
「俺は覚えているぜ、お前にやられたあいつの悔しそうな顔を。苦しみで歪んでいた」
 俺だって覚えている。いや脳裏から離れない。大きく目玉をひん剥いて、苦悶に満ちていた。あれだけの顔、どうすれば出来るのか。食いしばった歯の色が妙に白く輝いていた。両手は宙をかきむしるように伸び、指先は鷲のつめのように折れ曲がっている。ピンク色のマニュキアがやけに綺麗だったのが目に残っている。
 木下は知っている。俺がやったことを。
どこかで見ていたのだ。息を潜め、闇の木立に隠れてじっと一部始終を。恐怖が胸を締め付けた。
「君はいったい何を……」
「だからさあ、言っているだろう。金を用立ててくれって。自分の身と引き換えだ、安いものだろう。いやなら出るところへ出るだけだ」
 どうすればいい。木下に警察に行かれたら身の破滅だ。
 もうあと十八日ほどで時効を迎えるというのに、どんな気持ちでこの日を待っていたか。なんとしてでも止めないと。
「五十万円でいいのですか?」
 それで済むのなら、目をつぶるしかない。
「…いや、気が変わった。そうだな…とりあえず二百万都合つけてもらおうか」
 木下は足元を見ていた。本性をむき出しにしてしゃぶりついてくる。
甘いと分かると、とことん吸い尽くすつもりだろう。俺のところへやってきたのはこれが目的だったのだ。一度渡せば、二度、三度と続くのはあきらかだ。諦めるわけがない。俺の金がなくなるまで離そうとはしない。
 ダニのようなやつ。俺の身体にしがみつき針のような嘴を刺す。抜こうとしても、食い込んだ針は、抜けはしない。
そうだこいつはダニだ。許せない。怒りは爆風のように広がっていった。ダニは駆除をしないと世間に迷惑を掛ける。百害あって一利なしだ。いなくなっても誰も困るやつはいない。強い殺意が芽生えながらも、残り十八日という期限が俺の意思を挫いた。それを過ぎれば木下がなんと言おうと関係ない。時間を稼ごう。
「分かった。二百万なんとかします」
「最初からそう言えば良いんだよ。俺だって何もお前を脅したくはない。なんてったってもと同級生だからな。同級生は困ったときにはお互い助け合わなくてはな、お前もそう思うだろう」
 木下は満足そうに笑った。
「それで、いつ払える?」
 貸してくれと言っていたのが、払えと言っている。だが文句は言えなかった。
「来週の月曜日はどうでしょう?」四日後だった。
「駄目だ、そんなに待てない。明日振り込め、振込先はメイルする」
 木下は一方的に電話を切った。
「ねえ、武田さん、急いで帰らないと駄目ですか?」
 地下鉄の階段を並んで下りているときに利恵が尋ねた。
「いや、別に急いでいない」
「じゃあ、一緒に食事をしません? 私中華の美味しい店を見つけたの」
 あまり気乗りはしない。人の目に晒される場所は遠慮したい。それに棚橋が利恵に好意を抱いているのを知っていた。二人で食事したのが分かると、また嫌がらせをしてくるだろう。だが利恵の訴えるような眼差しに、何となく頷いていた。
 店はビルの二階にあった。「春華楼」飲茶の専門店。スモークガラスのドアを開けると、若い女性たちが順番待ちで椅子に座って賑やかだ。かなりの繁盛ぶりで、それだけ味がいいのを教えている。だが人目が多いのは俺には苦手だった。
 席から通りが眺められる。人の欲望と同じ色をした街のネオンが夜空を明るくしている。青い色は物欲か、赤い色は性欲か。欲と欲がぶつかり合い、弾けあってこの街は形成されていた。
店から吐き出される明かりと街灯、それに重なる車のヘッドライト。昼間と見間違うほどの光の渦を行きかう大勢の人。だれもが欲望の虜となっている。危険なほどに悪意を剥き出しにする奴。善意の羊の仮面に心を隠す奴。彼らには今だけがある。
 あの中に一人でも二人でも、俺と同じ苦しみを持っている奴がいるだろうか。ため息を隠しながら視線を外すと目の前の利恵を見た。
「嬉しい、わたしずっと夢見ていたんです。武田さんと一緒に食事するの」
 ジャスミン茶の入ったティーポットと湯飲みが置かれた。すかさず利恵はティーポットを取ると、お茶を入れてくれた。若い女性なのに細かいところに気がつく。そういえば、利恵が趣味でやっている造花がいつの間にか俺の机に飾ってあった。
 口に含むと広がる軽やかなジャスミンの香り。
「私、ここの海老シュウマイが好きなの。海老がぷりぷりしておいしいんですよ」
 利恵の頭は料理で一杯なのかも知れない。
 他の席を見回すと、女性連れの客が半分以上を占めていた。その間を、蒸し器を載せたワゴンが通る。蒸し器から立ち上がる湯気は食欲をそそる。利恵がワゴンの女性に注文した、小龍包だ。俺もそれに倣った。
「どうですか」と利恵が心配そう。
「おいしいよ」
「良かった。不味いって言われたらどうしようと思ってた」
 片方の頬にえくぼが浮かんだ。
 利恵お勧めの海老シュウマイ、チマキ、肉饅頭、と口に運んだ。
「武田さんの血液型ってなんですか?」
「A型だけど」
「ウワー、やっぱり想像してた通りです。A型の人って真面目な方が多いんですよね。私もそうなんです。でも友達は嘘だ、B型だって言うんです。私が無茶なことをするからかしら」
 いたずらっぽい笑いを見せた。
「武田さん、彼女いないって本当ですか?」
「え?」
「ごめんなさい変なことを聞いちゃって。でも先輩たちがそんな風に話していましたから、本当かなって思って。でもそんなはずないですよね?」
 変わったやつだと噂されているのは知っている。変人、奇人、それに「三ない男」とも呼ばれているらしい。意味するところは、「もてない」「金ない」「味気ない」の三つ。
「いや、当たっているよ」
「えー、本当ですか、…信じられない、じゃあ土曜とか日曜とかどうされているんですか。退屈ですよね」
 聞かれるまで考えてみたこともなかった。
「そうだね」
 退屈かどうかは分からなかった。だが本人は別に不満もない。人と顔を合わせないようにとパソコン相手に部屋に籠るうちに、慣れっこになっていた。
 利恵はどうしようかと迷っていたようだが、
「わたし、今度遊びに行ってもいいですか?」
 と会社でも時々驚かせるような質問をする。本人には悪気はないのだろうが、答えに詰まることはたびたびであった。
「それは…」
「迷惑ですか、私が行ったら?」
「いや、そんなことはないけど。でも僕の家に来ても何もないし、それに男の一人住まいだから汚いし、ものは散らかっているし、面白いことはなにもないよ」
「私平気です」
 黒い瞳を正面からぶつけてくる。よく分からない娘だった。
「テメー舐めてんのか!」
 木下の怒鳴り声だった。金が振り込まれていなかったので、怒って電話を寄越した。
「申し訳ない、仕事が忙しくて外に出る暇がなかったんだ」
「うるせえ、てめーの都合など聞いちゃいない、いいか明日中に送れ。さもないと分かっているな」
「明日は無理です。土、日ですから送金は出来ない。月曜日まで待ってくれませんか。必ず送るから」
「くそ…、月曜日また電話するからな」
 月曜日が来たら、残りは二週間。そうやって少しずつ延ばして行けばいい。十四日の午前零時、全てが終る日だ。だが博之は自分の考えが甘かったのを月曜の昼に知らされた。
「武田さん、またあの人が来ているんですが」
 利恵の表情は硬かった。その顔から、木下がやってきたのが分かった。
「利恵ちゃん頼みがある」
 俺は利恵に二言三言囁いた。「任して」と利恵が笑った。
「今日が約束だったな。振り込むのは大変だろうから、取りに来てやった。昼飯に外にでるんだろう。そのときに銀行に一緒に行こうや」
 会議室のソファに座り木下は見下したように笑っている。
「そうですか。でもわざわざ出向いてこなくても、間違いなく振り込みましたのに」
「なあに、ちょいと東京にも用があったから、ついでよ」
 木下は足を組み、タバコをふかしている。
 ドアがノックされ利恵が入ってきた。お茶をテーブルに載せる。木下の目が利恵の身体に纏わりついた。
「あのう、武田さん、課長が大至急来るようにと仰っていました」
「あ、そう。何だろう。ちょっと失礼します」
 俺は利恵と部屋を出た。
 十分ほどして会議室に戻ると、俺は「申し訳ない、これから課長と出かけなくてはならないんだ。あとで電話しますから」と木下に言い残す。
「おい、ちょっと待て…」
 何か言いかけていたが、それを無視すると急いで会社を出た。
「上手く行きましたね」
 昼から戻ると、利恵が嬉しそうに声をかけてきた。
「ああ、ありがとう、助かったよ」
「あの人、武田さんを困らしているんでしょう。あんまりひどいようだったら警察に届けたらどうですか」
「いや、いいんだ」
「でも…」
 俺の表情から何かを読み取ったのか、利恵はそれ以上なにも言わなかった。六時を過ぎると俺は事務所を出た。
 木下から何度も電話が入っている。俺は通信のボタンを押した。
「テメーいい加減にしろよ!」
「いま仕事が終わってお客さんのところを出るところなんです。済まなかった」
「いいから、早く金を用意しろ」
「すまないが、これから会社に戻って会議があるので今夜は無理かもしれない」
「貴様…」
 言葉が続かない。あまりの怒りで声が出ないのか、ざまあ見ろ、とほくそ笑む。だが、あまり怒らせると、最後の手段に出かねない。それだけはどうしても避けなければならなかった。
「明日の朝一番で必ずやりますから、今夜はひとまず家に帰ったらどうですか?」
「うるせえ、いいか俺はここに泊まる。明日の朝連絡するから俺のホテルに金を届けろ、分かったな」
 思いもよらない木下の言葉だった。
 明日の朝、どうやって切り抜ければいい。何か策を考えなければ。もう少し、あと十三日でご破算になる。それまでは何とか引き伸ばさないと。だが、それで十五年前の出来事が消えるとは思っていない。
 何故あんなことになった。
 由梨絵が悪いのだ。あいつが俺の心を踏みつけにするような態度を取らなければ。言っても過ぎたことは戻らない。
 見られていると感じた。通学の電車の中のことだ。
 視線の先を辿っていくと、由梨絵の顔があった。つり革にぶら下がり立っている乗客の間から由梨絵が見える。
 セーラー服のミニスカートから、すらりと伸びた脚の素肌がまぶしい。
 ボブカットの髪に、鉛筆でなぞったような二重まぶた。定規で引いたような鼻筋は、アイドルタレント顔負けの美人。おまけに学内模試ではいつも上位クラスを占めている。俺の通う高校は県内でも有数の進学学校であった。頭が良くて美人、由梨絵に憧れる男子生徒は多かった。
 そんな由梨絵に俺は心を奪われた。勿論自分の気持ちを打ち明けることなど出来ない。あまりにも頭の出来が違う。遠くから眺めているだけで精一杯だ。そんな高値の花が自分を盗み見ている。視線が合ったときに由梨絵が笑った。いやそんな気がした。俺の心は一気に舞い上がった。もしかしたら、彼女も俺のことを。若い欲望は都合のいいように物事を解釈させる。
 ある日由梨絵が話しかけてきた。他愛ない話だったが、俺には愛の告白に思えた。やはり彼女も俺のことを好きなのだ。それを機に毎朝挨拶を交わすようになった。
 俺の頭の中は由梨絵で一杯だった。夢の中にも現れた。由梨絵は優しく微笑みかけた。
俺は思い切って心の中を打ち明けた。由梨絵、君が好きだ。君が欲しい。由梨絵が答えた、私も愛している。堪らず由梨絵を引き寄せると、口づけを交わした。柔らかで熱い唇は本能を刺激した。いつの間にか由梨絵は全裸になって、身体を開いていた。目が覚めると下着が汚れていた。
 バレンタインデー、夢が打ち砕かれた日だった。
「お前何個貰った?」
「俺か、一個だよ」
 友人たちが貰ったチョコレートの数を披露し合っている。
「お前も一個か、俺もだ。もうちっと貰えると思ったんだけどなあ」
「杉崎のやつ五個か六個もらってたろう」
 学年でいつもトップか二番目の学力を誇っていた。おまけにスポーツが出来、男が見ても惚れ惚れするような顔をしている。女が放っておくわけがない。
「それに桑野から貰ったらしいぞ」
 聞き間違いかと思った。だが次の言葉が俺を叩きのめした。
「ああ、知っている。メッセージ付きの手作りのチョコレートだってさ。まあ桑野と杉崎じゃ似合いだもんな」
 俺は由梨絵からチョコレートを貰っていなかった。
俺に寄越さないで杉崎にあげた。その事実は俺の自尊心をぼろぼろに打ち砕き、勝手に思い込んでいた甘い期待を踏みにじられた。
 由梨絵の気持ちを聞かなければ。何故俺ではなく杉崎なのだ。いや百歩譲って杉崎にあげるのを許そう。しかしこの俺にないとは解せない。携帯を取り出すと、由梨絵の携帯にメイルを入れた。
「五時過ぎに森林公園で会いたい、君にとって重要な話がある」
 駅へ向かう途中にある公園、この寒い時期に森林公園にやってくるような物好きはいない。それに午後五時以降は全員が下校しなくてはならない規則になっていた。
「なに、重要な話って?」
 最初から由梨絵は機嫌が悪かった。
「ごめんなさい」
「寒いんだから、話があるなら早く言って」
「…じつは…」
 顔を見るまでは強く問い詰めてやろうと思っていたが、由梨絵を目の前にするとうまく言葉がでてこない。
「じれったいわね。何なの? 用がないんなら私帰る」
「君、…杉崎にチョコレートをあげたんだって?」
 予期しない言葉に由梨絵は驚いたようだった。
「なにそれ。いいじゃない、私が誰にチョコレートを上げようと。あなたにどうこう言われる筋合いはないわ。そんな事を聞くために私をよびだしたの?」
 俺は言葉に詰まった。由梨絵の言っていることは正しい。正しいが俺の気持ちはどうしてくれる。相思相愛の仲じゃないか。俺はお前から貰えるものと思って期待していたのだぞ。女の子が好きな男にチョコを上げる日だろう。どうして俺にくれない。俺は泣きそうな表情を見せた。
 由梨絵は俺の表情から感じ取ったようだ。
「え、なに。嫌だあ、あんたまさか私から貰えると思っていたの? 嘘お、信じられない。やめてよね、そんな気持ち、これっぽっちもないんだから。私帰る」
 由梨絵はきびすを返した。
「待ってくれ」
「なに」っと身体をねじる。
「由梨絵、君は毎日僕と話してたじゃないか。あれはなんだったんだ?」
 やっとの思いで出した言葉だった。
「何言ってんの、あんたと話などしないわよ」
「だって、毎朝電車で……」
「電車?……馬鹿みたい、あれたんなる朝の挨拶じゃない。おはようって、どこが会話なの。それにあんたがあたしに気があるようだったから、からかってみただけ。あんた少し頭おかしいんじゃない。病院で一度診てもらったら。ああ気持ち悪い」
 由梨絵は身体をぶるっと震わせると、無視したように背中を向けた。
 許せん。俺の気持ちを弄びやがって。怒りが身体を染め上げた。ずたずたにされたプライドはかろうじて保っていた理性を崩し去った。
 由梨絵の肩を掴むと、ぐいと引いた。身体がくるりと向きを変える。
驚いたような由梨絵の顔に俺の右こぶしが突き刺さった。
「あ」っと叫んでコンクリートの上にひっくり返る。青白い外灯の光にスカートがめくれ白い脚と、小さな青色の下着が目に入った。
 かっと頭に血が上る。由梨絵は気を失って下半身を晒している。夢の中で何度も犯していた白い肉体が転がっている。
「畜生」
 俺は青色の下着に手をかけた。淫らな叢の色が目に入ったときに、身体の中心が熱くな
った。停めることなど出来ない。本能のままに由梨絵の下半身を割ると体を沈めた。と同
時に身体の中を電流が走り、由利恵の中で弾けていた。
「いやあだあー」
 突然由梨絵が大きな声を出した。
 慌てて左手で口を押える。逃れようと由梨絵は必死の抵抗をしている。由梨絵の爪が博之の顔を引っ掻いた。
「誰かあー」
黙らせないと。
 ポケットのガットを掴む。ギターの弦を新しく張り替えようと持っていたガットだった。取り出すと由梨絵の首に巻きつけた。柔らかで白い首だった。ガットが食い込む、由梨絵が苦しみもがいて首を振る。それでもガットを緩めることはなかった。
 

 部屋を出ようとしたときに電話が鳴った。相手は分かっている。
「俺だ、いいか、俺はサンロイヤルホテルに泊まっている。部屋五一二号だ。十時までに金を持ってこい。もし一分でも遅れたらサツに垂れ込む。分かったな」
 木下の脅しが耳に刺さる。
 サンロイヤルホテルは俺の会社から十分ほどの場所にあった。ビジネスホテルとシティホテルを合わせたようなホテルだった。
「ああ、分かった」
 言いなりになるつもりは無かった。このあとの策は考えている。十時少し前に木下に電話する。あいつは嫌だとは言えないはずだ。
 女子社員たちは十二日後に迫ったバレンタインで、はしゃぎまわっている。男子社員も「俺、期待している」などと冗談とも本気とも付かぬ言葉を吐く。棚橋もその中の一人だ。  
俺は横目で見ながらパソコンを立ち上げた。メイルをチェックし、急ぎの仕事を片付ける。三十分ほど過ぎたところで立ち上がった。
 部屋を出ると携帯電話を開けた。
「おう、金の用意は出来たか?」
「じつは困ったことが起きたのだが」
「おい、金が無いなどと言わせないからな。あと三十分で十時だ、それ以上は待てん」
「残念だが、それまでに行けそうにない。いま警察にいる」
 木下の息を呑む声が聞こえた。警察という言葉に鋭く反応している。無理もない、木下も自分がやっていることが犯罪になると分かっている。
「なんで警察にいる。おまえ、まさか…」
 俺が警察に駆け込んだと思っているようだ、どんな気分だと聞いてみたい。
「いや君のことは何も言っていない、他の件で警察に呼ばれた」
「それはそうだろう。俺はまだ何もお前から受け取っていない」
 木下の言う通りだった。彼はまだ金を受け取ったわけではない。この時点では犯罪は成立しない。
「それより、今日中に金は用意しろ。もし出来なかったら警察に手紙を送る。すでに手紙は出来上がっている。投函するだけだ」
 もう、これ以上延ばすのは無理だろうか。俺は携帯電話を閉じると、窓際に寄った。やたらと冬の陽があかるい。どうしてこんなに明るいのだろう。それなのに息が詰まりそうだ。
 仕事をする気になれない。ドーンと胃の中に消化不良の汚物が溜まったように感じる。冬の陽の明るさから逃げるようにトイレに入ると便座に座り込んだ。このままどこかに逃げようか。だが何処へ逃げれば良いのか分からない。
 トイレを出た俺を利恵が待っていた。
「武田さん、あの人から電話がありました」
「何だって?」
 あいつ俺の言ったことを確認するのに電話を寄越したのか。博之は顔色が変わった。
「武田さんを頼むって」
 やはり間違いなかった。
「わたし、出かけていると言っておきました。不味かったですか?」
「いや、それでいいよ。ありがとう」
 俺は部屋の扉に手をかけた。
「武田さん、あの人、サンロイヤルホテルに泊まっているんでしょう。もし構わなかったら何があったか話してくれませんか。わたし武田さんが苦しんでいるのを見ているのが辛いんです」
 俺はそんな表情をしているのだろうか。自分では分からない。だが利恵が言うくらいだ、恐らく態度に出ているのだろう。
「大丈夫だよ、なんでもない」
「でも…」
 心配する利恵を残して席に戻った。
「お前、なにふらふらしてるんだ。仕事しろよ。それが嫌なら辞めちまえ」
 棚橋が斜め前から睨みを利かす。彼が俺を辞めさせたがっているのは知っていた。あんな小さなことに、これほど根を持つとは。何年前になるだろう、業務部の仕事の改善で須田からいくつか指摘があった。パソコンをつかった現在の仕事の効率をもっと上げられないのかと須田が問うた。
「今のソフトでは難しいでしょう。新しいのに入れ替えれば効率化が出来ると思います」
 棚橋がいくつかのソフトを紹介しながら、説明を始めた。だが、そのソフトを採用するには現状のパソコン自体も入れ替えが必要となる。あまりにも初期投資が大きすぎる。
「金を掛けずに出来ない物かな?」
「むりですよ。部長」
 棚橋としては、何故か新しいソフトにこだわった。
「課長、どうだね。何か言い考えがないか?」
「やはり、棚橋君の言う通り、新しくするしかないのではないでしょうか」
 してやったり、という顔を棚橋はした。
 須田は一人ひとりの意見を聞いて周った。そして俺のところへ。
「武田君、どうだ何か無いか。君はパソコンが得意だったが」
 俺には前から疑問があった。業務の流れが複雑すぎる。コンピューターに頼りすぎるあまりに、余計な仕事を増やしていた。 いくつか他の部門と重複する業務を無くしたら効率化できると思っていた。ハンコを押したいためだけに余分な仕事が作られている。だが、今の業務のシステムを作ったのが棚橋だった。それを真っ向から否定する形になった。当然棚橋は反対した。だが、部長と課長は検討に値するとして、結果俺の意見で、業務のスリム化が行われた。そのせいで、存在価値が無くなった者がいる。棚橋もその中の一人になった。
「おい、武田、気をつけろ。主任は執念深いぞ。前にも何人か犠牲になって辞めさせられている」
一年先輩の篠原が忠告した。それ以来の天敵となっている。
 五時半を過ぎた頃だった。「武田さん、電話。広瀬さんと言う方」女子社員の声にキーボードの手を止めた。広瀬? と、思い出さないまま受話器を握る。
「おう、居たな。今日は逃がさないぞ」
 油断していたところに突然ナイフを突きつけられた気がした。思わず心臓がビクンと撥ねた。
 木下が電話の向こうで舌なめずりしているのが見える。自分の名前を名乗ると、居留守を使われると思って広瀬と偽名を使ったのだろう。
「いいか、これからすぐに金を持って来い。今すぐだ」
「今すぐは無理です。今日中にやらなきゃならない仕事がある。あと二時間、二時間だけ待ってくれ」
「もう、その言葉は聞き飽きたんだよ」
「頼む、今度は間違いない、頼む」
 木下は無言を続けている。そして静かな声で「八時だ。それが最後だ」それだけ言うと電話を切った。
 俺は暫く受話器を握ったままだった。
「武田さん、大丈夫?」
 利恵の声にふっと我に返った。利恵が心配そうな視線を向けている。俺は慌てて受話器を下ろした。だが手元が狂って受話器を落とした。激しい音が響く。棚橋がじっとこちらを見つめていた。
感情を押し殺した声は、怒りに満ちた激しい罵倒よりも凄みがあった。もう限界だ、金を払うしかない。二百万、それで暫くは黙るだろう。だがまだ十日以上も残っている。更に木下は金を要求してくるに違いない。次は三百万か、それとも五百万か。神経がぼろぼろになりそうだ。
 いっそ、あいつを殺してしまおうか。俺はATMで限度額の百万を降ろした。今夜はこれで何とか話をつけよう。これだけ渡せば、二三日は延ばせるだろう。その間に次の策を練るしかなかった。
「お先に」と仲間達が退社する。もう回りは誰もいなかった。
 八時少し前にホテルに着くと、そのままエレベーターへと向かおうとした。「不味い」俺は後ろを向くと、人の波に隠れた。棚橋が誰かと待ち合わせているのか、きょろきょろと辺りを見回している。左手指には白い物を巻いていた。避けるようにして上がると五一二号室のドアをノックした。返事が無い。
 居ないのだろうか? 俺はドアノブに手をかけた。ロックは掛かっていない。
「武田だけど、居るのかい?」
 部屋の中に入ると、窓際の椅子に木下が座り、少しだけ首を傾げている。眠ってでもいるのか俺が入っても身動きもしない。テーブルの上にはグラスとウイスキーの小瓶が載っている。飲みすぎたのだろう、と近づいた。
「約束の金だけど、持ってきた。それで…」
 そこで息が止まった。木下の首に巻かれた茶色の線が俺の視界に入った。その線は首の後ろで二、三回捻られている。
 俺は指先を木下の鼻の先に当てた。空気の流れは感じられなかった。間違いない、俺は焦った。逃げなければ、そのとき部屋の電話が鳴った。激しく心臓が鼓動する、それに追われるように部屋を飛び出した。
「誰が?」電車のつり革にぶら下がり、窓の向こうの闇を見つめた。
 誰でもいい、あいつを処分してくれた相手に感謝したかった。これで、あと少しで俺は自由になれる。窓に映った自分の顔に笑みが浮かんでいる。だが、降りる駅に近づく頃、血の気が引くのが分かった。
「指紋!」
 迂闊だった。五一二号室の扉に自分の指紋が残っている。木下の死に我を忘れてしまった。だがもう引き返せない。


 浅い眠りだった。邪推だけが頭の中を駆ける。
 木下の部屋に入るときに誰か見られたかもしれない。木下との関係知っている奴は。利恵の顔が浮かんだ、他にも数人。
 六時のニュースにあわせてスイッチを入れる。
「昨夜サンロイヤルホテルの五一二号室で男性の死体が発見されました。男性は木下満さん、三十三歳。死因は首に巻かれたひも状が原因の窒息死と見られ、殺人事件として警察は捜査に乗り出しました。なお部屋の中は荒らされた形跡も無く、また争った跡もないことから顔見知りの犯行ではないかと、警察は見ています」
 そこで他のニュースに切り替わった。
 どうしよう、暫く休もうか。そんな弱気が心を埋め尽くす。駄目だ、いつもと変わらない態度をしていないと、目立つ動きは不味い。自分にいい聞かすと俺は部屋を出た。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 利恵の態度はいつもと変わらない。ニュースは見ていないのだろうか、気になるが聞けば余計な考えを相手に植え付けるだけだ。俺は咽喉まで出かかる言葉を飲み込んだ。
 二日目だった。
 受付の女子社員が来客を告げる。
「誰?」
「柿崎さんっておっしゃるの。どちらの会社ですかって聞いたら友達ですって」
 頭を捻る、そんな名前の友人はいなかった。高校や大学の同級にもいないはずだ。それともまた木下と同じ穴のむじなだろうか。
 不安が頭を掠めた。それを吹き消すように立ち上がると、入り口へと向かった。
 男は登山帽を被り、細身の身体をやすっぽい黒のコートで包んでいた。年齢は四十を超えているだろう、日に焼けた顔をしている。背丈は百七十くらいか。自分とは違う種類の男であるのを嗅ぎ取っていた。
「柿崎さんでしょうか?」
 俺は男に声を掛けた。
「ええ、武田博之さんでいらっしゃいますか?」
 男は帽子を脱ぐと、軽い会釈をした。標準語を話すがイントネーションに関西訛がある。
「そうですが、私にどんな御用でしょうか」
 木下の件があったから警戒心が働いている。男の目が鋭いのも余計にそんな気にさせる。暴力に似た臭いがした。
「実は、私こういう者ですが、ちょっとお話を聞かせて頂きたいと思いまして。お時間宜しいでしょうか?」
 柿崎はポケットから黒に金色のバッジを取り出すと、警察の身分証を見せた。
 動悸が早くなる。由梨絵のことが分かった? いやそんなはずはない。昨夜もインターネットで調べていた。捜査は何も進展していないはずだ。それとも木下のほうか。だが俺と木下の関係を警察は知ることは出来ないはず。それとも木下は俺との関係を誰かに漏らしていた。
「じゃあこちらの方に」
 動揺を隠すように柿崎を応接室に案内した。
「それでお話というのはどんなことでしょう?」
「木下満という男はご存知ですか?」と柿崎は写真を差し出した。
「木下満ですか…」と受け取る。
 やはりそうか。この刑事は木下の殺害事件を調べていた。どうする、知らないと白を切るか、それとも事実を言うか。白を切っても、他の社員に確認を取られたら、嘘がばれる可能性は高い。いや、利恵が居る。嘘を言えば立場が危うくなる。素早く頭の中で計算をしていた。
「ああ、彼ですか。そう言えば、一週間くらい前でしたか、急に会社へ訪ねてきました」
「成る程、それでそのときどんな話をされたのか教えて頂けませんか?」
「よろしいですよ、別に大した話はありませんでした。高校時代の話をしたくらいですか」
「突然押しかけて、それだけの話ですか?」
 柿崎はまるで信用できないと顔に表情を表わした。
「それと、同窓会でもやりたいようなことを言っていましたので、その件もあったのだと思いますが」
「同窓会ですか、それ以外には何かありませんでしたか?」
 もっと他にあるだろうと、少しずつ手繰り寄せる腹積もりなのだろう。
「それだけだと思います。それより彼が何か?」
「ご存知かと思いますが、二日前に殺されましてね」
「え、殺された」
「ええ、サンロイヤルホテルの一室で、ニュースはご覧になりませんでしたか?」
「ああ、そういえば、そんなニュースをやっていたような。しかし気にもしませんでした。でも彼が殺されたなんて…、一体誰が彼を?」
「それをいま捜査しているところです。ところで木下さんがあなたを訪ねたのは、本当に昔の話と同窓会の話だけでしたか、他にあったんでは?」
柿崎の目が心の底まで見透かすように細くなった。
「どうして、そんな事を?」
「彼の持ち物から手帳が見つかりましてね、その中に十名近い名前が書かれていたんですよ。そこには武田さんの名前もありました。書かれた人は皆高校の同級生、調べるとその人たちを訪ねているのが分かりました」
 と博之の顔を覗き込んだ。
 成る程、それで俺を訪ねて来たわけか。だが、木下がそれほど多くの同級生を訪ねていたことが意外だった。すると、その中の誰かから俺の勤め先を知ったのだろうか。それでも俺は木下の訪問を素直に話したことに、ホッと安堵していた。
「木下という男はずる賢い男だったようですな」 
 柿崎はポケットからタバコを取り出すと、「宜しいですか」と尋ねた。俺は「どうぞ」と頷く。
 タバコを口に咥えライターで火をつけると、うまそうに目を細めた。狭い部屋に煙と一緒にタバコの匂いが広がる。拡散した匂いの粒子が俺の鼻腔をくすぐった。
「すみませんね、どうもこいつがないと落ち着かないもので」
 余程のニコチン中毒のようだ。
柿崎は言葉を続けた。
「彼は友達のところを訪ね、あらぬ作り話をし、それで金をせびり取っていたようです」
「え、どういうことです?」
 柿崎の言う意味が分からなかった。
「うまく考えたものですな。適当な作り話をして、もし相手が顔色を変えたり、あわてたりしたら、それを口実に、これ幸いにと強請っていたようです。まあ誰でもひとつやふたつ、人には知られたくない秘密って物がありますから。中にはかなりお金を取られた方もいたようですね」
 くそ、何と言うことだ。あいつは由梨絵のことは何も知らなかった。
 口からでまかせの言葉を吐いて、俺を試していたのだ。そんなことも知らず、俺は見事あいつの術中にはまってうろたえた姿を見せた。いいように振り回されたってやつだ。俺が顔色を変えるのを見て、してやったりと思ったのだろう。
 考えてみれば、あいつは一度も由梨絵の名前は出してはいなかった。
「もっともそれで命を落とす羽目になったのかも知れませんが」
「すると、彼を殺したのは同級生だと?」
「いやまだ分かりません。その可能性があるというだけです」
 柿崎は短くなったタバコを灰皿に押し付けると、テーブルの上に乗った木下の写真をビニール袋にしまった。
「最後にひとつ、二日前の夕方ですが、六時から八時までの間、どこで何をされていたのか教えていただけますか?」
「アリバイですか」
「お気を悪くなさらないでください。手帳に名前が書かれていた方皆さんにお聞きしていますので」
 俺は七時過ぎまで会社に居て、そのあと街をぶらぶらして家へ帰ったと告げた。
「会社を出られた正確な時間は分かりますか?」
「タイムカードを見れば。ちょっと待ってください」
 俺は受話器を取ると総務課に連絡した。
「七時二十分ですね」
 俺の言葉を柿崎は手帳に写した。
「それで家に戻られたのは?」
「八時半を過ぎたころだと思います。家の側のコンビニの時計が八時半を指していましたので」
 コンビニの場所と名前を聞くと、柿崎は「ありがとうございました」と会議室を出た。


 コツコツとドアを叩く音がした。こんな時間に誰が、と布団を抜け出る。
「誰?」
「あのう、私です」
 控えめな声が返ってきた。利恵? 声の主は利恵に間違いなかった。だが、どうして利恵が自分を訪ねてきた。慌ててパジャマの上にジャンパーを羽織ると、ドアを開けた。
「ごめんなさい、急に訪ねたりして。心配だったから」
 熱があるから休ませて欲しいと、会社に連絡していた。それを利恵は心配して訪ねてきたようだ。
「ごめんね、ちょっと待ってて」
 俺は利恵を玄関口に待たせ、慌てて布団を片付けた。
「汚いところだけど、どうぞ」
 ファンヒーターのスイッチを押し、コタツの電源を入れた。
「コタツに入って、すぐに暖かくなると思うから」
「すみません、お邪魔します」
 利恵はコタツの前に正座すると物珍しそうに部屋の中を見回している。暗い部屋もそれだけで明るくなった気がする。若い女性の放つ独特のオーラなのだろう。湿っぽい臭いのなかに春のような香りがたった。
俺はキッチンに立つと手早く熱いお茶を入れた。
「少しは温まるよ」
「もう身体は大丈夫なんですか?」
「ああ、一日寝ていたからね、もう熱も下がったし」
 利恵は湯飲みを抱きかかえるようにして、口に当てた。青白かった利恵の顔に少し赤みが戻ったようだった。
「そうだ、武田さんお食事は?」
「まだしていない」
 食事を取るのを忘れていた。いや空腹を覚えていなかった。
「よかった。わたしお料理作ってきたの」そう言って持っていた紙袋の中からタッパウエアーを三つ取り出した。
「冷えちゃっているけど…、電子レンジあります?」
「ああ、それだったらキッチンに」と立ち上がりそうになる博之を「休んでてください」と押しとどめると、利恵はコタツから出た。四畳半のキッチンにある電子レンジにタッパウエアーをいれる。チンという音を待って取り出した。
 温まった料理は、酢豚、海老のチリソース、温野菜、それにおにぎりがついていた。
「美味しいかどうか自信ないけど、食べてみてください」
 これだけの料理いつ作ったのだろうか。昼間は会社だったろうに、その疑問をぶつけた。
「私も昼からお休みもらったんです」
 と、いたずらっぽく笑った。
「君も食事はまだなんだろう、一緒に食べよう」
 さほど食欲はなかったが、自分のためにそこまでして作ってくれた利恵のためにも少しは口にしないと。
「じゃあ私も頂きます」
 奇妙な甘さが転がっていた。この部屋で若い女性と二人で食事をしている。そんなことが起きるとは考えたこともなかった。初めてのことであった。勿論この部屋に女性を誘うことなど今までになかった。
 利恵の料理の腕は期待以上のものであった。容姿からすると家庭的とは思えないのだが、俺の知らない側面を持っていると利恵を眺めた。
 ふっと目があった。利恵が恥ずかしそうに微笑む。
「すごく美味しいよ」
「本当? 良かった。作った甲斐があったわ」
 本当に嬉しそうだ。その顔を見て可愛いと思う、そんな感情は抱くのは何年ぶりだろうか。ずっと昔のような気がする。
 だが今度も駄目だろう。肝心なときになれば、あいつが邪魔をする。あのときのあの瞳が女性の顔と重なってしまう。
 俺は学生時代と社会人になってすぐのときに女性を好きになった。惚れた女性といれば一瞬でも由梨絵の顔を忘れることが出来ると思った。そして普通の男女のようにホテルへ向かった。
 しかし、ベッドで女性を抱いたときに、女性の顔が醜く歪んで由梨絵の苦悶の顔と重なっていった。欲望は恐怖に変わり、女を跳ね飛ばしていた。
 それ以来女性との交際を絶っている。
「だいぶ遅くなったね。途中まで送っていくよ」
 時計は十一時を指そうとしていた。
 利恵は以外という顔を見せた。何か言おうとしている利恵を無視して博之は立ち上がった。女性が一人住まいの男の部屋を訪ねる、それがどんな意味を持っているか、分からない俺ではなかった。利恵も意を決してやってきていたのだろう、だが今はそんな気になれない。
 利恵も立ち上がるしかなかった。

 
「お呼びして済みませんね」
 柿崎の顔にはどこか余裕がある。柿崎の横には柿崎よりは若いと思われる体格のいい刑事が座っていた。名前は杉田。将棋の駒のような顔をしている。
 何も無い部屋だった。四角い部屋に明かり鳥の窓が一つ、テーブルがあって、安っぽい椅子。部屋の隅に書記官がいる。テレビで見るのと同じだった。
「武田さん、本当のことを話してくれませんか。あの日あなたは木下さんをホテルに訪ねていますね?」
警察に呼ばれたときに覚悟していた。誰かにホテルに入るのを見られたに違いない。あの時棚橋が居た。隠れたつもりでも、見られたのかも知れない。俺の手のひらは汗が滲み出ていた。どう答えればいい、訪ねたといえば、理由を聞かれるだろう。知らないと白を切りとおすほうがいいのか。
「武田、観念しろ。全部分かってんだ!」
 杉田が怒鳴るのを柿崎が抑える。
「どうして私が彼のホテルを訪ねたと?」
「あなたの指紋が見つかったのですよ。ドアの取っ手から。覚えがあるでしょう」
 確かに指紋は残した。だが、どうして俺の指紋だと分かった。その疑問に答えるように柿崎が話した。
「ほら、あなたに写真を見てもらったでしょう、あの写真に付いたあなたの指紋と照合したら、バッチリでした」
 こいつら汚い、それと同時に自分の愚かさを罵った。
「申し訳ありません、仰るとおり彼を訪ねました。彼から、どうしても会いたいと言われ、八時少し前に部屋を訪ねたのですが、でも、そのときはもう彼は死んでいました。それでびっくりして部屋を飛び出したのです。嘘ではありません」
「なぜ、警察に通報されなかったのですか?」
「分かりません、多分気分が動転していたのだと思います。逃げなくてはと、それだけがあったような気がします」
「ふざけんな、そんな言い訳が通用すると思っているのか!」
 机を叩き、またもや杉田が横から口を出した。
「本当です。嘘は付いていません」
 叫び声を挙げたかったが、声が弱々しくなっている。自分でも情けないと思った。
「ところで武田さんの血液型は何でしょう?」
「A型ですが」
「A型ですか。じゃあ、ちょっとこれで歯の裏側をこすってもらえますか」
 柿崎はプラスチックのケースに入った麺棒を取り出し、俺に手渡した。言われたとおりにして、麺棒を戻すと、柿崎はケースに入れ、杉田がそれを持って部屋を出た。恐らくDNAを調べるのだろう。
「木下さんは、あなたに何を話したかったのでしょう?」
「すみません。それは分かりません」
 これだけは何があっても守り通さなければならない。あと八日、早く来い。
「そうですか、ところで今夜一晩ここで過ごしてもらいますよ」
 柿崎の言葉には否応はなかった。だが、翌日の柿崎の表情には戸惑いがはっきりと見えていた。
「すみません、もうお帰りいただいて結構です。」
 何があったのか、俺の問いかける視線に、柿崎はDNAの鑑定の結果、犯人のものと思われるDNAと合致しなかったと言った。
「後で分かったのですが、犯人の首に巻かれていた銅線の切れ端の先端に微かな血が着いていたのです。恐らく犯人が銅線を捻るときに自分の手を切ったのでしょう」
「すると犯人もA型なんですか?」
 柿崎は頷いた。
「しかし、銅線を使うなど、犯人は銅線の効果を良く知っていますね。細くて柔らかで簡単に捻ることが出来る。一度巻かれたら、取り外すのは至難の業です」
 柿崎はもう一度頭を下げると、背中を向けた。
 あと一週間、もう自分を邪魔する奴はいない。長い間俺を苦しめた呪詛から開放される。今のこの喜びを誰かに伝えたかった。それが出来るのは一人しか居ない。
 携帯電話を手にする。利恵の番号は知っていた。
「どうしたの武田さん?」
「この前の夜のお礼を言いたくてね」
「いいんです、そんなこと。私が勝手に行ったことですから」
「今日暇? もし良かったらこの前のお礼に食事でもご馳走しようかと思って」
「え、本当。うれしいな。暇です、たっぷり時間あります」
 俺は夕方の時間を約束した。
 決めたのは小さなレストラン。家庭的なフランス料理が楽しめるとネットに書いてあるのが気に入った。それに人の目も少ない。名前は「プチメゾン」。それでも中の装飾は安っぽくなく、重厚な木材を使った作りは、落ち着いた雰囲気を出していた。行ったことはないが、フランスの田舎はこうではないのかとひとり想像した。
 久しぶりのワインを楽しむ。料理も悪くなかった。
 利恵はいつにもまして饒舌であった。酔いが手伝っていたのかも知れない。
「武田さん、どうして結婚しないんですか?」
「残念だけど相手がいない」
「じゃあ相手がいたら結婚するんですか?」
 目元が潤んでいる。生臭い女の色気が滲んでいた。
「そうだね、江上さんみたいないい人がいたら、その気になるかも知れない」
 あっ、というように利恵の表情が変わった。喜びと恥じらいが重なりあっている。困ったように面を伏せたが、緩々と顔を上げると、
「私みたいな女でいいんですか?」
「僕みたいな男でいいの?」
 利恵は大きく頷いた。
「わたしずっと武田さんのこと好きだったんです」
 賑やかな繁華街の裏通りにある、小さな連れ込みホテルへもつれるように吸い込まれていった。
 裸になった利恵の身体は俺の中心部を大きくうずかせた。お椀をかぶせたような乳房、蜂のようなウエスト、豊かなカーブの腰、大腿部から足首に向かって理想的な脚線美を描いている。締まった足首は特に俺の好みであった。
 俺は細い腰を抱き寄せ唇を合わせ舌を絡めた。右手と舌先を使って丁寧に愛撫を続ける。胸から腰、更に下腹部へと指先を這わせる。中心部が充分に潤ったのを確認すると、身体を合わせた。
 俺の下で利恵が喘ぐ。利恵は懸命に陶酔の世界に入ろうとしている。顔が歪む、またかと不安がよぎる、だがそれは利恵の顔だった。俺はゆっくりしたリズムで利恵を攻める。
 現れない、あの苦悶に満ちた由梨絵の顔が、瞳が。
 俺は解放された、自由になった。激しい律動を加えると、利恵の悲鳴とともに思い切り利恵の中に熱いものを放射していた。


 二月の十四日の午前零時まであと六時間。心は浮き立っていた。
「はいチョコレート、あまり自信はないけど」
 利恵がやってくると、手作りのチョコと見事なバラの造花を差し出した。それを受け取り、利恵を抱き寄せ接吻をする。もう何年もそれが当たり前のように利恵は濃厚なキスを返した。何もかもがばら色に輝いていた。
「そんなことはないよ。利恵が作ったのは何でもおいしいさ。でもこのバラは見事だね、まるで本物みたいだ」
 俺はバラの花束をしげしげと眺めた。
「このバラの枝や、ハッパ、どうやって作るの」
「簡単よ。これの芯は銅線なの。その上にグリーンの紙を巻いていくの。ほら簡単に曲がるでしょう、銅線って柔らかでどんな形にでも出来るから便利よ」
「銅線?」
「ええ、急にアイデアが浮かんだときに、形を作ってみるの」
 ほら、と利恵はバッグを開けると、まかれた銅線を取り出した。
「利恵、君は」と声を掛けようとしたときに、ドアをノックする音が聞こえた。
 ドアの前に立っていたのは、柿崎ともう一人の男だった。鋭い目つきとがっちりとした身体をしている。杉田とはちがっていた。不安が色となって顔の表情を変えた。
「こんな時間に申し訳ありませんね。こちら岐阜県警の野沢刑事です」
 岐阜県警の言葉に、顔色が変わった。
「武田博之だな、桑野由利恵殺害容疑で逮捕状が出ている」
 野沢は紙をひらひらと目の前で振った。
 血が下がるのが分かった。嘘だ、そんなはずはない。
「どうして」と声を出していた。
「私の詰まらん好奇心が首をもたげましてね。木下がどんなことであんたを脅そうとしたのか、気になってそれであんたの高校時代の事件を調べてみたんですよ。すると同じ学校の女子高生が乱暴され殺害された事件がみつかった。まさかとは思ったんですが、それであんたのDNAを照合してみたら、これが大当たりということになりましてね」
 俺の手を握る利恵の手が震えていた。
「いやあ、木下が殺されたお陰で、とんだおまけがついてきました。喜ぶべきか、それとも悲しむべきか」
「喜ぶべきでしょう、死んだ桑野由利恵はこれで成仏出来ます」
 野沢が強い口調で言った。
「そういうことでしょうね」
 柿崎は野沢に目配せをした。野沢は手錠を取り出すと俺の手首にかけようとした。
「すみません、支度させてください」 
 俺は二人から離れると利恵を抱きしめた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい、こんなことになるなんて」利恵が涙を浮かべながら耳元でつぶやいた。やはり利恵が。
「いいんだよ」
 利恵のくれたチョコレートを口に入れた。甘くてほろ苦い。これが最初で最後のバレンタインチョコだろう。
「くそ、余計なことをしやがって!」ぐっと言葉を飲み込むと俺は両手を野沢に差し出した。
 了
2010-12-25 21:14:24公開 / 作者:山茶花
■この作品の著作権は山茶花さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
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あっとういうまに話が解決してしまったというのもそうなんですが、いくつか設定で気になった点があったので。

まず、DNA鑑定で歯の裏からの採取を知らないだけかもしれませんが、普通は頬の内側から採取するのが一般的です。鑑定の結果も、数週間はかかります。鑑定の結果を待つために勾留するというのも、主人公に対して明確な令状などが提示されていない、任意同行の範囲だと思われますので、まず不可能だと思います(正式な逮捕後でなければ、いくら容疑が濃厚でも勾留できない法律があるため)。かわりに、軽犯罪等で立件して重大事件の捜査をする事はあります。

さらに、警察は主人公の指紋を採取していますが、逮捕でもされないかぎり、ドアノブのものと一致した事を含めて、主人公にその事実を教えることはまずないと思います。また、犯行で使われた凶器についても言及していますが、具体的に「銅線」であると明言することはありえません。「バールのようなもの」という表現が有名ですが、凶器と状況説明の二点において、容疑者の証言と一致することは、裁判において、被告人が真犯人であるかを判断を下すために扱われる、「秘密の暴露」に値する情報です。取り調べを行っている過程で、わざと逮捕した人間に教える事で冤罪へとつながることはありますが、通常の捜査では犯人はもちろん、マスコミなどに流す事もありえません。証言自体も、十分な証拠となりうるからです。

話がシンプルな分、こうした粗は目立ってしまうので、もっと作り込みを深めるといいのではないかと思います。
2010-12-26 00:32:22【☆☆☆☆☆】AoA
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