『モーゼ (加筆修正)』作者:江上 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 地下道にはモーゼが住んでいる。
 アタシがバイトに行く途中のでかい地下道に、モーゼはじっと目を閉じて座っている。糸みたいなごわごわの白髪と顎髭を足元まで垂らし、硬そうな肌に布を巻いた格好をしているから、あれで杖でも持たせたら海でも割っちゃいそうだ、って前友達が言ってた。いつかの社会科の教科書に載ってる挿絵にそっくりで、だからモーゼ。まぁ、ひと目見たら変わってるってわかる風貌だ。風変わりで、イシツなモーゼ。都市だからモーゼみたいな人たちは沢山いて話題にもならないけど、アタシは一人一人憶えているくらいだからきっと彼らがそんなに嫌いじゃないんだと思う。学校帰りに声を掛けられたら、親しみをこめて笑顔を返せるぐらいには。そう、少なくとも、今のバイトの連中よりは。広告主のいなくなった板だけの看板を見ながら、十月の乾き始めた空気から逃れるようにマフラーを口元まで寄せた。
 視線の先の空がピンクのグラデーションをつくり淡い夕焼けが出始めるのを見ると、憂鬱な気分になった。冬なんか来なきゃいいのに。それでなくとも、今年の冬はきっとひとりで過ごす。
 十九のアタシは専門学生で授業もまぁ出てて、電車で二駅のところに実家もあって、将来の不安とかはいまいち無い。先輩も遊んでたけどいま就職してるし、数年後にはアタシも味もそっけもない制服でOLやってんじゃないかな。努力とか、ねぇ? 隣を追い越してったストライプのださいスーツ着たおじさんの、靴下が大きく覗いた足首を見ながら薄く笑った。寒くない? アタシはこれから、黒のスカート履いてバイトに行ってきます。半年前から始めたスナックのバイトはキツいけど条件いいからちょっとのことじゃ辞められないし、今から次のバイト探すこと考えたら遅刻してる場合じゃないのだ。寒いなぁ、急に寒くなりすぎだよ十月だからってさぁ、足を前に出すのもすうすうするよ。腕を組んで二の腕をさすりながら地下道の幅の狭い階段を降りると、むぁっと生暖かい温度に包まれた。季節柄中にいる人も多くなっているから薄暗い地下道は異様な圧迫感があって、背を押されるように自然に足が早まっていく。冬用の制服を着た中学生とすれ違うとき、俯いて目に入った自分の柄物のストッキングに、あ、と思った。
 そうだ、これ圭ちゃんと選んだやつだ。捨てなきゃ。
 ポン
 足に、何かが当たった。振り返って見ると、ヒールの踵の傍に汚れたみかんが転がっている。薄暗い地下道の中でそれに手を伸ばし拾ったのは、モーゼだった。ピンクの毛布を肩に被ったモーゼが俯き気味にゆっくりと体を起こす。あれ、珍しいな。モーゼはいつも、”うちら”と別の空気を吸っているように関わらなかった。たまにいる物乞いするホームレスみたいなマネしてるとこも見たことないし、モーゼのいるとこだけ雲の上のようだだと思っていたのに、モーゼとアタシはいま目が合っていた。白髪と髭の間に小さな目が覗いてる。二重だ。
 なんだよモーゼ、けっこう可愛い目してんね。
 アタシがじっと見つめても、モーゼは黙ったまま灰色のみかんに手を伸ばしてすぐに目を背けた。コンクリの上を、ずりっ、と音がしそうな擦り方したから、みかんの皮潰れたんじゃないかな。ヒビ割れのように深いしわがモーゼの指にも顔にも刻まれていて、アタシの目はそれを木の肌を見るように見詰めた。


 ちょうどこの季節だった。短大生の圭ちゃんとアタシが付き合い始めたのは。ふたりとも地元で進学し一年と十一ヶ月付き合って、別れたのは先月。別れた日から、アタシは一週間水しか飲めなかった。背が高くて一緒に持った買い物袋はとても軽かったのを憶えてる。朝が苦手で機械に強くて、アタシと部屋の鉢植えと、ついでにパソコンも世話してくれた。見た目よりずっとマメで世話焼きな圭ちゃん。別れた今もすっかり彼に懐いてしまっていたパソコンは、アタシがいくら呼びかけても応えてくれない。
 さびしいんだよ。
 お前といると、いつも寂しい。
 触れ合えると思った。時間をかければ、きっと。
 アタシも、フリーズできるもんならしてみたかった。


「おはようございます」
 金縁の壁掛け時計の針は6時10分を指している。赤い壁紙、薄暗がりのこじんまりとしたスナックの店内には昨日のグラスが片づけられず乱雑に残っていた。カウンターのホワイトボードにはママの字で、買い物に行ってきますとメモが残してある。窓が開け放してあったせいで、店内はひゅうひゅう風が吹きこんで外と変わらない位の温度だった。だめだな、喉、乾燥する。窓に鍵を掛けながら口元に手を当ててはぁっと息を吐いた。ポットから茶碗にお湯を注ぐついでにシフトを確認すると、今日のバイトはアタシと、先輩の春菜さんと、同い年の咲の三人だ。
「遅れてごめーん」
 どうせ週のはじめに客なんか来ないとのんびり掃除機を出していたら、扉から間延びした声がして春菜さんが服装に似合わない大きなバックを手に入ってきた。客に買ってもらったらしいファーのコートを着た春菜さんは、この店に一番似合う女だ。
「春菜さん、学校からそのまま来たんですか?」
「そーだよー」
 カウンターを拭きながらそろそろ単位ヤバいのかな、と春菜さんの紺のワンピースの大きく開いた胸元を見る。学生バイトばかりのこの店で春菜さんは一番長く、他の先輩から春菜さんが進級のためにやってきた逸話の数々もよく聞かされた。それだけじゃなく、春菜さんに辞めされられたコたちのことも。アタシが見たのは一人、プライドの高かったそのコは客の前でひどく恥をかかされて二度と店に来なかった。
「つーか今日なんも食べてないし。お腹減ったー、先パン食べてていい?」
 どうぞ、と要らない返事をしながら掃除機のコンセントを抜いた。テーブルを見ると、チョコの瓶にアタシの腑抜けた縦長の顔が映っている。足しとかなきゃ、空っぽだ。
「あ、今日は咲休みだから」
「え? あー、じゃあ代わりに誰か来るんですか」
「んーん。ママが月曜なら二人でもいいって」
「風邪とかですか? 咲」
「んー、いやなんか用事あるって」
 咲は、アタシよりバイト歴の長い、春菜さんのお気に入りのコだ。フワフワしててとにかく愛想のいい(この店にはそういう女が多い)、キャラクター物の手帳を使っているような。茶髪で唇がふっくら厚くて、よく気のつく咲。客が立つときにスッ、と近寄ってイスを支える仕草やグラスを置く時の手つきがあんまり自然で、かなわないなぁって思わされるから同じ日に入るのがイヤだった。アタシが入ったばかりの頃、社会人の男に捨てられたと言ってバイトの間ずっと泣いていて、辟易したことがある。その日の帰り店の前まで迎えに来てくれた圭ちゃんを見て、咲は横にいたアタシに泣き腫らした目で笑った。いいカレだね、って。へー、と相槌を打ちながらテーブルに散乱したピーナツを台拭きで屑かごに落とすと、ビール臭さが鼻を刺した。
「昨日の客って前の専務たちですよね」
「そー、あの人たち遅いじゃんいつも。暴れるしィ。んで、疲れてママもそのまま帰っちゃったんだよね。その辺きったないでしょー」
 ごめんねー、と爪の手入れをしながらカウンター越しに声が飛んでくる。会話しながら奥の席の染みの目立ったクッションをパタパタ叩いて菓子の欠片を落としていると、何となく手が止まった。
 大体ベージュのクッションはこの店に似合わないんだよね。そういえば、地下道に会ったあのピンクの毛布、縛ってあったけど結構新しそうだった。誰かくれる人がいたんだろうか。
 …いいや、今日は二人だ、早く支度しないと。
「春菜さん、台拭きもう一個取ってもらえますか?」
「あれ、週末も入ってんだ?」
 彼女の高く綺麗な声にイラッとするのは、こういう時だ。視線を向けると春菜さんはシフト用のカレンダーを目敏く捲り言外に、いいの? と訊いていた。目を合わせたまま、今月お金ないんで、と正しいタイミングで返した。アタシは圭ちゃんと別れてから、週二日だったバイトの日を増やしていた。お金がいるのだ。彼を思い出すものは全部、処分してしまいたかった。
「あのさぁ、最近暇なんだったら、来週も入ってくんない?咲が土曜もダメんなったんだって」
「……最近、忙しいんですか? 咲」
 語尾までゆっくり話す春菜さんの声に、何かがおかしい、とアタシの感覚が静かに警鐘を鳴らした。粘着質な、女たちが含んだ物言いをする時の独特の雰囲気。
「なんか咲、彼氏の学園祭に呼ばれたって喜んでたよー」
 そこで一旦言葉が途切れた。顔は斜めを向けたまま、横目に試すような視線がアタシを刺した。
「あぁ、彼ってさ、あの古谷クン」
 告げられた言葉に、息を呑んだ。
「………あたしも、いい加減黙っとくの悪いなぁって思ってさぁ。六月くらいから付き合ってたらしいよ?」
「…六月」
 アタシが店に入ったのは四月の初め。咲が圭ちゃんと初めて会ったのは、入ってすぐの頃だった。
 圭ちゃん。なんで?
 頭の中で、圭ちゃんと笑ってる咲の姿が入れ替わり点滅した。わざわざ迎えに来てくれたんだ、いいカレだね。
「あ、やっぱり知らなかったんだ?」
 隠しきれない嘲笑の色が声に滲んでる。
「でも彼もズルいよねぇ、別れる時も何も教えなかった……」
「もう、いいです」
 俯いて、掠れた声で呟いたアタシの姿はどれほど滑稽だったろう。それから何も言えず突っ立いていたら、春菜さんは表情を止め意味ありげにアタシを見ると、つまらなそうに顔を背けてカウンターを出て行った。耳の中に水の膜ができたようだった。もう、何も聞きたくない。そう思うと音がスピーカー越しに聞こえるように遠くぼやけ出した。
 圭ちゃん。知らなかった、何も。アタシだけ。
「ただいまー、アンタたち、もう準備終わったの?」
「あ、お帰りーママ」
 雑音しか、聞こえない。


 圭ちゃんどうして? だって、その女わけわかんないよ。そいつ前のカレシと別れる時どんなんだったか知らないの? なんで待って、待ってよ。
 気付いてなかったの? 嘲るような春菜さんの顔が頭からしつこく離れなかった。悲しいのは何だろう。彼氏に裏切られてたこと? 彼氏を取られて、それを面白がられてたこと? どれもそうだけど、そんなんじゃない。その後に及んでアタシは、圭ちゃんを責める気になれなかった。圭ちゃんに寂しい思いをさせていたのは、逃れようもなくアタシだった。本当は、触れ合えると思ったんだ。伝え合えると思った。悲しいのは、空虚なものしか残らなかったこと。アタシの気持ちが、確かに放たれてはいたのだけれど、そのまま誰にも受け止められることなく電柱を越え、空の彼方まで流れて消えてしまっていたこと。


 馬鹿みたいに空には星が見えた。吐く息が、空っぽのまま暗い街を上がって行く。
 ずっとうわの空でママが小言を言ってたような気がするけどぼんやりとしか憶えていなかった。バイトが終わると逃げるように店を出て、でも細い足首に力が入らなくて地下道の階段を転げ落ちるみたいに降りた。空気の流れが止まった地下道の中に入って息も止めてみたけれど、世界の何一つからも逃れられない気がした。
 あぁ、モーゼがいた、モーゼ。
 友達みたいに、勝手に、自然に正面に座り込んだ。コンクリの地面も壁もざらざらしていて、湿っぽいのはアタシの体だけだ。あははハハ。息だけの声は、本当に乾いた音にしかなってくれなかった。足首のほうから爪で引っ掻くとストッキングは簡単にダメになり、寒さで細かい皺の入った指先を見ていたら瞼が勝手に震え始める。でも、泣き叫びたい訳でもない。彼の裏切りを知って今アタシの心にあるのは、ただ空虚さだった。目の前に座ったアタシのことじっと見ていたモーゼは、でもすぐ目を逸らして白髪を揺らしどうでもいいように首を振った。錆びた自転車。積み上げられた汚い毛布。アタシは口元だけで笑った。
 きっと、アタシはモーゼみたいになりたかったんだ。浮浪者の生活にどこか焦がれてた。退屈な晴れた日の授業中に、日暮れの学校帰りに、蹲りたい夜に。それでも、なったとしてもこの空虚さは変わらないんじゃないかなぁって思ったら、すごく怖くなった。伝わらないモノを伝えようとして、わかってほしくて付き合った。優しい人だった。最初軽い男だと思っていた圭ちゃんは、近くにいる人に程誠実だった。抱きしめられて、抱き返して。その温かいはずのやり取りにアタシの心は埋まらなかった。感触があったら、あたたかさを感じられたら、触れていることになるんだろうか。そうだとしたら、あたしはいつも真っ暗な中に浮かんでいる。付き合えば、深く繋がれば、伝わるんじゃないかって期待した心は時と共に諦めに塗り潰されていき、いつの間にか圭ちゃんと付き合っていることも、まるで乾いてヒビ割れた街の風景になってしまっていたんだ。パンプスを寄せて身を屈めた。アタシだ、ガサガサなのは。
 ねぇ、モーゼたちは何でこんな街に住んでるの? 人と碌に関わらなくても、邪険にされても、それでも街がいいの? 食べ物があるから? 似たような人たちがいるから? 触れ合う度に空虚さを覚えてガサガサになってそれでも、それでも人はあったかいの?
 ゴホッ!
 指先がコンクリートに触れた時、頭上で咳きこむ音がした。
「……もーぜ」
 思わず呟いて顔を上げると睫毛に溜まった涙が零れ、モーゼの目がアタシを捕えた。足を引いて身動ぎした音がやけに大きく耳に響く。倦怠感がアタシの全身を支配していて、見上げたモーゼは普段より大きく見えた。
 やっぱり可愛い目だな。
 そうぼんやり思っていたアタシに向かい、彼はその木彫りのように深く固まった皺だらけの顔をさらに皺だらけにして、ニッ、と笑った。
2010-11-22 23:24:12公開 / 作者:江上
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■作者からのメッセージ
この作品に対する感想 - 昇順
最初の書き出し、「地下道にモーゼが居る」って、面白いですね。モーゼの描写もなかなかだと思いますが、主人公が何故モーゼって思ったのか、もう少し背景の描写があればよかったかなと思いました。それと主人公の描写が足りなかったような、感情描写はあるんですが。あとは、突然「咲」の話が会話体で出てきますが、ここはよく状況がつかめませんでした。
2010-11-05 10:30:36【☆☆☆☆☆】山茶花
[簡易感想]
2010-11-22 23:28:48【☆☆☆☆☆】江上
上はミスです。

山茶花さん
コメントありがとうございました。指摘していただいた点を含めて修正しました。以前より解かり易くなっているといいのですが。
2010-11-22 23:32:09【☆☆☆☆☆】江上
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