『取調室』作者:春日井 / ~Xe - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
ベテラン取調調査官である主人公は、とある事件の取調を担当することになった。被害者の息子は犯行を自供、あらゆる証拠も息子が犯人であることを示している。一見、簡単と思われた事件に潜む違和感。主人公はその違和感の正体を暴けるのか。
全角14170文字
容量28340 bytes
原稿用紙約35.43枚
取調室。机と椅子しかない殺風景な小部屋である。取調調査官である私にとっても、この部屋に入るのは気分のいいものではない。まして、被疑者として座らされた人たちの心境は…。

―3月30日―

 「ふう…。」
ドアの前に立って、私は一息いれた。後ろにいた同僚からも、ため息に似た声が聞こえた。心を落ち着けるための慣習である。今日の一息は特に長かった。「よしっ」と小さく意気込んで、ドアを開けた。取調室と言えば、うす暗く湿っぽいイメージがあると思うが、実は意外に明るいものだ。だから、相手の表情もよくわかる。私の目に飛び込んだ彼は…あくまで無表情だった。
「純君、気分はどうだい?」
「…いいわけないでしょう。」
小さくぼそっと、しかしながらはっきり聞こえる声だった。その口調は、明らかな敵意をたたえていた。
「もう一度だけ、事件の話を聞かせてほしいんだ。」
「………。」
黙り込んで顔を背ける。そんな彼の横顔は…母親のそれによく似ていた。

―3月27日―


「ふう」
ドアの前で、いつも通り一息いれる。今にも、取調室に飛び込んでいきたいはやる気持ちを抑えるのに必死だった。やや勢いよくあけたドア、正面に飛び込んできた女性の表情は、おびえきっていた。
「急にお呼び立てしてしまいまして、申し訳ありません。」
「…いえ。息子のことですから。」
なんとか絞り出した声は、震えていて聞き取りにくかった。
「あまり深刻にならないでください。聞かれたことに、率直に答えてくだされば結構ですので。」
緊張をほぐしてもらうために、笑顔で語りかける。しかし、母親は顔を背けてしまった。どうも嫌われたらしい。まあ、自分の息子が逮捕されているのに警察を好きになる母親はいないだろう。背けた横顔からも、この女性の器量がうかがい知れる。上品で繊細な印象をもつ美人だが、その顔には疲れが隠しきれない。小柄な体で気は弱い方だろうと思われる。今のような緊張感の中で、精一杯耐えているように感じられた。
「…あなたの息子さんの犯行は明白です。」
いつまでも彼女の様子をうかがっているわけにはいかず、話を切り出すことにした。まず、事件の概要について話始める。分かりきっていることではあるが、一応の確認である。事実、今回の事件は説明もないくらいに、シンプル事件だった。被疑者は斎藤純(さいとうあつし)。17歳の少年である。一昨日の3月25日、純は父親である斎藤圭太(さいとうけいた)を神奈川県内の自宅において殺害した。その殺害を目撃したのが、母親である斎藤裕子(さいとうゆうこ)、つまり今取調を受けている女性である。純は母親の説得を受けてその日の内に警察署に出頭している。捜査の結果、父親の死因は鋭利な刃物で刺されたことによる出血多量であり、凶器は現場に落ちていた出刃包丁。そこには圭太の返り血とともに純の指紋がべったりと付着していた。しかも、この包丁は3月23日に純が横浜市内のスーパーで購入したものだということも発覚している。純と圭太は以前から折り合いが悪かった。純が高校を中退したことを機に2人の関係は修復不可能となっていたようだ。22日にも、2人で大喧嘩をしている。つまり、動機も十分にあるということだ。
「…という状況です。」
「…はい。」
話をしていくうちに、表情がさらに暗くなっていく彼女を見るのは正直少しつらかった。「うちの息子に限って」とかばうこともせず、小さく相槌をうつ。自分が犯行を目撃していることもあって、あきらめているのだろう。
「こちらとしては、近々殺人罪で立件することになると思います。純君は17歳ですから、通常の刑事事件として裁判を受けることになるでしょう。」
我ながら、無情なことを言っていると思う。私が一通りの説明を終えた後、しばらく沈黙が支配した。私としては聞きたいことがいくつかあったのだが、どう切り出せばいいか思案しながら彼女の様子を見ていた。
「…あの子が…父親を殺したのは…私のせいなんです。」
沈黙を破ったのは、母親からだった。下を向きながら、少し涙ぐんだような声で、母親は語りだした。
「私たちはどこにでもある普通の家庭だったと思います。平凡で幸せな日々でした。…でも、5年ほど前から状況は一変しました。旦那が他に女を作って、それ以来人が変ったように粗暴になりました。家にもあまり帰ってこなくなり、たまに顔をみせれば暴力を振るうようになって…。でも私は、どうすればいいか分からずただ耐えるしかありませんでした。」
「その話は、純君からも聞いていました。」
「そうですか…。あの子は強くて優しい子です。いつも私と旦那の間に入って、私をかばってくれました。本当だったら私が守ってあげなきゃダメだったのに…。」
「つらい思いをされたんですね。」
「…ある日、純が学校から帰ってくるなり『働き口が見つかったから、来週から働きにでる』と言い出しました。びっくりして学校はどうするのかと聞いたら『今日、辞めてきた』って言うんです。」
「一刻も早く、お金を稼げるようになって、あの家から出たかったと言っていました。その時に母親も一緒に連れて出るんだと…。」
取調室ではいろんな話を聞く。時には、こういった美談も聞くことができる。もちろん、すべてが真実の話とは限らないが…。ここまでの話は純の供述と一致していた。高校を中退していざ働きに出ようとした時、父親が激怒したという。
「『勝手なことをするな!お前らは俺の言うとおりにしていればいいんだ!』といって怒鳴り散らしたんです。そんなこともあって、結局あの子は働きに出ることもままならない状況になりました。」
「お母さんのことが心配だったんでしょうね。」
「…心配なんか…かけちゃダメだったんです。私がもっとしっかしていれば…。さっさと
あの家を出れていれば…。あの子が父親を殺す理由なんて。」
感情が高ぶっているのだろう。もはや、人目を気にすることなく大粒の涙を流しながら、自分の気持ちを吐露していた。
「あまり、自分を追い詰めない方がいいですよ。」
「…すいません。」
またしばらくの間、沈黙が支配した。必死で涙を抑えようとする母親の姿をみて、私はついに決心した。
「これからお話しすることは、あくまで私個人の違和感を解消するためのものなのですが…。若干、お付き合い願いたいのです。」
「…は…はい?」
一応返事はしたものの、母親は明らかに怪訝そうな顔をしていた。無理もないだろう。この場で、どんな個人的な話をするのか、私だって逆の立場なら不思議がるに違いないのだから。
「あらゆる状況や証拠が純君の犯行を物語っています。」
「…はい。」
「凶器についた指紋、殺害の動機、お母さんの目撃情報、本人の自白。」
「……」
「あと、これはお話していなかったかも知れませんが、圭太さんの手には純君の毛髪が握られていました。」
「えっと…それは…どういうことでしょうか?」
「おそらくですが…圭太さんは刺されて即死ではなかったのです。殺害の瞬間、圭太さんが抵抗をして2人はもみ合いになった。その時に、圭太さんが純君の髪の毛をつかんだのだと思います。抜けた髪の毛を、圭太さんが握ったまま力尽きていったのです。まあ、圭太さんのダイイングメッセージとでもいいましょうか…。」
「そうですか…。」
彼女の対応はだんだんそっけなくなってきている。純が犯人であるということはもう十分すぎるほどに分かっているのに、今さら何を言っているのだと言わんばかりのめをしている。
「ここまでご理解いただいた上で、これからの質問に答えてほしいのですが…。」
「はい。なんでしょうか?」
「あなたが事件を目撃した日のことをできるだけ詳しく教えていただけませんか?」
彼女は、ここまで話を聞いて「ふう」と一息ついた。結局は目撃証言を聞きたいだけか、と思われていることだろう。
「…夕方頃でした。旦那が帰ってきて、そのまま自分の部屋に入りました。その日は、いいことがあったのか、機嫌はよさそうでした。しばらくして、純も帰ってきました。どこに出かけていたのかは分かりません。帰ってくるなり『あいつは帰ってきてるのか?』と私に聞いてきました。あいつとは…旦那のことです。純は、落ち着きがなくてどこか興奮している様子でした。私が部屋にいるはずだと答えると、純はなにも言わず2階にあがりました。2階には旦那の部屋と純の部屋があります。」
「あなたはその時、純君に何か声をかけましたか?」
「いえ…。純は自分の部屋に入ったのだろうと思っていました。旦那が帰ってきているときはなるべく自分の部屋でおとなしくしおくというのが暗黙のルールでしたから。」
「そうですか…いや、続けてください。」
「純が帰ってきて…10分くらいだったでしょうか…。急に2人の怒鳴り声が聞こえてきました。喧嘩が始まったのだと、すぐに分かりました。2人は次第に熱くなっていったのだと思います。怒号はだんだんと大きくなって行きました。」
「あなたは、その時何をしていましたか。」
「…何もできませんでした。ただただ1階で、2人の喧嘩が終わってくれることを願っていました。…役に立たない母親なんです。」
「いえ、仕方ないですよ。」
「急に…本当に急に…絶叫が聞こえました。どちらの声かは判然としません。その後、さっきまでの怒号が嘘のように静まりかえしました。何が起きたのか分からず、私は勇気を出して2階に様子を見に行くことにしました。2階に上がると、純の部屋はあけっぱなしになっていました。中には誰もいません。旦那のドアの前に立って…手が震えていました。よくないことが起こっているというのは…なんとなく分かっていましたから。」
彼女の語り口は、淡々としているにも関わらず、思わず息をのんでしまいそうな不思議な臨場感をかもし出していた。それは、この話が本当に見たことを素直に話しているからだろう。
「一息ついてから、思い切ってドアを開けました…。そうしたら…。」
「そうしたら?」
「…なんと言っていいのでしょうか…。」
そこが一番大切な所であるのだが。言葉にならないという様子で黙り込んでしまった。ここまできて話が簡潔されては困るので、こちらからボールを投げてみることにした。
「…純君の供述ではこうです。『無我夢中だった。父親がゆっくりと倒れこむのを見て、殺したんだという実感がわいた。そのまま立ち尽くしていると、ドアが開いて…母親と目があった。』…どうですか?」
「ええ…そうです。私は、あまりの光景にすぐ座り込んでしまいました。そのまましばらく動けずに…。」
そう言うと、一気に力が抜けたのだろう。がっくしと肩を落として、そのまま動かなくなってしまった。私は少し間をとって、頭の整理をしている振りをした。
「ここまで聞いて、はっきりしました。」
「…はい。」
「あなたは殺害の瞬間を目撃していないんですね。」
「…えっ?」
彼女は当然、自分の目撃証言が純の犯行を証明するために使われるものだと思っていたに違いない。だから「はっきりした=純の犯行」と考えたのだろう。しかし、大事なことはそこではない。
「あなたが目撃したのは殺害する瞬間ではないんです。その後の光景、つまり純君が血だらけの凶器を持って死体の前に立ちつくしている光景だったはずです。」
「ええ…そうです。」
「…いや、まあそれだけなんです。深い意味はないんですけどね。」
「……はあ。」
「ちょっと、休みましょう。」
そういって、私と同僚は取調室を出た。

―3月30日―

「…純君、君が父親を殺したことは明白だよ。」
横を向いて黙秘を続ける彼に、私は強い口調で話しかけた。彼は動じた風もなく、ただゆっくりとこちらをにらみ返してきた。
「こういう状況になって、酷なことをいうようだけれども…。純君がお父さんを殺したという事実には変わりがないから…。明日にでも、正式に起訴されることになると思う。」
本当に嫌な仕事だとつくづく感じる。相手の精神状態を見ながら、なだめたり、脅しすかしたり、ゆさぶりをかけたり。まあ、それが仕事だと諦めるしかないのだが。
「…母は、優しい人で、弱い人でした。」
「そうか。」
彼の言葉に、私ははっと我に返った。今は取調中であった。自分の仕事を嘆いている場合ではなかったのだ。
「僕が知っているだけで、4回自殺未遂をしています。」
「それは…お父さんとの関係?」
「…はい。1回目は父の浮気が発覚した日でした。夜、風呂場をのぞいてみたら血だらけで…。救急車呼びましたよ。」
「大変だったんだね。」
月並みな相槌しか出てこない自分に、少し苛立ちを感じた。この後、彼が何を言おうとしているのか、嫌というほど分かる。分かるからこそ、なお苛立つのだろう。ほんの三日前、この場所で彼の母親も同じ苛立ちを感じていたに違いない。

―3月27日―

タバコが2本吸い終わる頃あいで、私達はあの部屋に戻った。疲れ切った女性は、先ほどと変わらずきちんと椅子に座っていた。
「もう少しだけ、お付き合い願います。」
強引なお願いに、こくりとうなずいた。予想以上に体力の消耗が激しいらしい。あまり悠長に話をしているわけにはいかないようだ。
「純君は、こちらの捜査に協力的で助かっています。」
「そうですか。」
まあ、そんなことを褒められてもうれしくはないだろうから、この反応は当然だろう。
「実ですね、純君が協力してくれたおかげで凶器の入手ルートもすぐに分かりましてね。純君、いつどこで購入したかをはっきり覚えていたんです。それだけじゃなくて、レシートも持っていまして。私達に提供してくれました。」
「そう…なんですか。」
少し意外そうな顔を見せた。こうした表情の変化は重要な情報源だ。見逃してはならないと教えられる。
「はい。おかげで凶器の入手ルートはすべてクリアになりました。ただ、ひとつ残念なことがありまして…。店員さんがね、覚えてなかったんです。」
「どういうことですか。」
「まあ、大型スーパーの一番込み合う時間帯ですから、店員もいちいち客の顔なんか覚えてなくてですね。当時、レジを担当していた店員さん全てに聞いたんですけど、誰も覚えていないんです。」
「それは…なにか問題ですか。」
「いえ、店員さんが覚えていなくても、問題はありませんでした。レジの機械には記録が残っていますから。ちゃんとありました。純君が提供してくれたレシートと全く同じ記録が。買った時間も、その時も担当者も、買った物も、ちゃんと全部あっていました。」
「…あの。」
「純君が購入したということ意外は全部証明できました。」
何かを言いたそうな彼女の言葉を遮るように、私は核心をつきつけた。だが、彼女はまだそのことに気が付いていないようだった。こちらのつかみどころのない話に苛立っているだけのようである。
「ところで、純君は普段料理の手伝いをしたりするんですか。」
「…いえ。台所に立っているのを見たこともありません。」
「そうですか。まあ、一人暮らしでもしなきゃ料理なんてしませんよね。」
彼女の苛立ちが募っていくのが、傍目から見ていて分かった。しかし、気の弱さが災いしてかなかなか切り出すことができないようだ。
「いやね。そもそもなんで出刃包丁買ったのか、ってちょっと疑問に思ったんです。で、純君に聞いてみたら『家には細身の短めの包丁しかなかったから、より確実な凶器を準備しようと思った』んだそうです。」
「そう言えば…あまり大きな包丁はありません。私、大きいのは使いにくくて。」
「その時は台所に立って包丁を調べたんでしょうね。」
不謹慎な話だと思う。自分が逆の立場だと、怒鳴りたくもなるだろう。しかし彼女はじっと聞いている。顔だけはだんだん不機嫌そうになっていくが。
「そして純君は出刃包丁を買いに行ったわけです。そう言えば…その時、純君が何を買ったか知ってます。」
「ですから、出刃包丁を買ったんでしょう。」
「ええ、もちろん。ただね、出刃包丁だけ買ったわけではないんですよ。よく考えれば、主婦でにぎわう時間帯のスーパーで、いい年した男の子が出刃包丁ひとつ買ってたら目立ちませんか。私だったら『おやっ』と思います。レジに並んでるんですよ。出刃包丁だけ持った男の子が。」
「まあ…そうかもしれませんね。」
「実際、いろいろ買ってるんです。レシートに全部書いてました。ニンジン・ジャガイモ・玉ネギ・大根・豚肉200g等々。」
「それだけ色々買っていれば、お使いで買いにきたみたいですね。」
「でしょう。この日はカレーですね。大根ってなんでしょうか。」
「味噌汁の具じゃないでしょうか。」
「カレーに味噌汁ですか?」
「うちでは結構、一緒に出しますよ。」
彼女がくすりと笑う。私も少し大げさに笑って見せる。非常に穏やかな時間が流れた、ここが取調室ではなければの話だが。
「これらの食材、どうしたんでしょうかね。」
彼女の笑顔が急に凍りついていく。こちらの意図していることが少し分かったようだ。
「食材を処分する最適の方法は食べてしまうことでしょうね。これだと、まあカレーと味噌汁で食べてしまえばいい。」
「まあ、そうでしょうけど。処分する方法は他にいくらでもあ…。」
「レシート」
わざと大きな声を出すことは、場を支配するためには重要なことだ。話し方の調子を支配できれば、自然とその場に流れる空気感というもの掌握できるもので、小さな部屋ではこの方法は非常に効果的である。
「なんで持ってたんでしょうか。レシート。」
「なんでと言われましても…。」
「だって、自分が凶器を買った証拠ですよ。真っ先に処分しませんか。それをずっと持っていて、事件後にそれが出てくるなんて、出来すぎてませんか。まるで、そのために持っていたような。」
「レシートを貰ったその場で捨てるわけにもいかず、処分するつもりで持って帰ったけど忘れていたとか」
そんな大事なことを忘れるはずがない。はずはないが、ここは水掛け論になるだけなので、とりあえずこれで終わらそう。目的は十分に果たされている。彼女に自分が置かれている立場を気づかせるという目的は。

―3月30日―

 「僕は、自分が犯人だと言い続けてきたじゃないですか。証拠だってあるのに、なんで。」
「なんでといわれても。」
段々と彼の感情は高ぶっていた。まあ、無理もないことだと思う。彼の中では全ての段取りができていたのだから。
「確かに母にも動機はありました。」
椅子に座りなおして、少し気持ちを落ちつけてから彼はまたゆっくりと話始めた。
「母は、あの性格ですから…。ストレスを発散させるということがうまくありません。自分の中でため込んで、それを一気に爆発させるタイプでした。でも多くの場合、その爆発は自分に向けられました。」
「…自殺…だね。」
「自殺未遂ですけど。でも、僕が知る限りでは1度だけ父に怒りを爆発させたことがあります。」
それは、正直想像できなかった。私に何を言われても結局一度も強く言い返さなかった彼女がどう爆発するのだろうか。
「2年ほど前の出来事だったと思います。酒に酔って暴力を振るう父親に、母が花瓶で殴りかかったんです。」
「か…花瓶で!」
「はい。部屋に置いてあったものです。結局、それは父には当たらず壁を叩いただけになりましたが。それから数週間だけ、父がおとなしくなったのを覚えています。」
その父親の様子を想像して、不覚にもくすりとしてしまった。それにしても、その種の爆発には周期があったりするのだろうか。以前の爆発が2年前だったということは、と計算せざるを得なかった。
「私は父親を恨んでいました。母はそれ以上に恨んでいたかも知れません。普段、気持ちを外に出さない分…深い闇があったのかもしれません。でも、だからって…。」
何故だろう。彼は母親をかばいたかったのではないのか。ここまでの話を聞けば、あたかも母親こそ犯人と言わんばかりではないか。

―3月27日―

「科学捜査ってやつはすごいですよ。」
また突飛な話を切り出してみる。まずキーワードを頭出ししてやることが、今後の話をうまく回すコツだ。そうすることで、相手にそのキーワードを強く印象づけることができ、今後の話もそのキーワードを元にイメージさせることができる。
「科学捜査…ですか?よくわかりませんが。」
「人の皮膚って、結構簡単にはがれちゃうらしいですよ。こう、ほっぺとかをちょっと強めにポリポリすると肌の表面がはがれてるんです。」
「へえ…。」
どうも彼女は文系らしい。科学はよく分からないというより、興味がないのだろう。
「はがれた皮膚はどこに行くか。下に落ちるものありますが、実は結構爪に残るんです。この爪の垢がたまるところ。」
「まあ、そうなんですか。」
空返事の典型例のような回答だが、気にせず続けることにする。
「この爪に残された皮膚を調べると、色々面白いことがわかるんです。」
「それが、科学捜査ですか。」
「ええ、それが誰のどの部分の皮膚なのか、どれくらいの強さでひっかいたのか。」
「すごいですね。」
少し興味を持ったのか、最期の返答には若干心がこもっているようであった。
「圭太さんの爪も調べてみました。」
「…。」
せっかく興味を持ってもらったところで、突き放して申し訳ないとは思ったが、ここからが本題である。
「驚くべきことがわかりました。」
「何ですか?」
「圭太さんの爪からは、純さんの皮膚片が検出されませんでした。」
「それが、どうして驚くべきことなんですか?」
彼女は何も出てこなかったということの重要性を認識していないようであった。爪からよっぽどすごいものが出てくると思っていたのだろうか。
「さっきお話したことを覚えているでしょうか。圭太さんの手から純君の毛髪が発見された話です。」
「ああっ…はい。」
「その時に、圭太さんが抵抗したのではないかという話をしました。これも覚えてますか。」
「ええ…もちろん。」
「あくまで一般論ですけど。抵抗している時は、相手の色々な場所をひっかいたりするものなんです。腕をつかんだりとか、頭を押さえたりとか。するとね、自然とついちゃうんです。爪に皮膚片が。」
「じゃあ、爪から皮膚片がでてこなかったということは…。旦那は抵抗しなかったということですか。」
「そうかもしれません。ただ…その場合手に握られていた毛の説明ができません。」
「では、髪の毛だけをひっぱる抵抗だけをしたということでしょうか。」
そんな局所的な抵抗などあるものか。仮にそうだとしても、爪には確実に頭皮の皮膚片が残るはずだ。抵抗はほとんどなかったはずだ。刺殺は、即死になりにくいと思われがちだが、実はそうでもない。勢いをつけて、急所を狙えればほぼ即死となる。圭太の手にあった毛髪は、後から誰かが握らせたものだろう。
「もう一つ、科学捜査の話をしましょう。」
「まだあるんですか?」
「発見された凶器には、圭太さんの返り血と純君の指紋がべったりついていました。なんか気持ちのいい話ではないですね。すいません。」
「…いえ。」
「まあ、仕事上そういう気持ちのよくない物も調べるわけです。」
「大変ですね。」
ここで同情されるとは思っていなかった。先ほどから少しずつ感じてはいたが、どうも彼女は、いわゆる天然の要素が入っているのではないか。
「それで分かったんです。純君の指紋は、返り血の上から付いているものだったんです。」
「それは…どういうことですか。」
「想像してほしいのですが、包丁を握って人を刺すとします。血が吹き出ます。この瞬間、包丁の柄はどうなっているでしょう。もちろん血まみれです。一部分を除いて。」
「…握っている部分ですね。」
「その通り。握っている部分は手が邪魔になって血がかかりません。」
「もう一度、持ったのかも。」
「どういう意味ですか。」
「たとえば、刺して抜いた時に一度包丁を落としてしまう。そうすれば柄全体に血が付きます。それを拾いあげたときに指紋がつく。というのは?」
さっきまでの少しとぼけた感じから、雰囲気が変っている。一応の理屈は通じている。しかも、こちらの意図したことをしっかり察している。それにしても、この言いぶりでは、純を犯人に仕立て上げたいように感じる。
「ところがですね。その指紋というのが、握ってるんですよ。はっきりと分かります。ただ持っただけではないんです。両手でしっかり握っていました。まるで、これから刺すような形だったそうです。」
「まだ、抵抗してくるかと思っていたから、拾った瞬間にしっかり握ったのかもしれないですよ。」
私の中で疑惑が確信に変わっていく瞬間だった。

―3月30日―

「純君、ひとつ聞いてもいいだろうか?」
「…なんですか。」
「全ては、計画通りだったんじゃないのか。」
うつむいていた純の顔が、ほんの一瞬だけ凍りついたように見えた。しばらくの間があって、彼はなんというべきか思案しているようであった。
「刑事さん…。それはどういうこ…。」
「たいしたものだと思う。」
私は、これまでの彼の言動が全て演技だったと確信している。非常に巧妙な演技で、私もすっかり騙されていた。彼はいい取調調査官になるだろう。
「君の供述の端々には、いつも母親の存在があった。私達としても母親というものを意識せざるを得なかった。」
彼はぴくりとも動かない。こちらの話を一つ一つじっくりと聴いているようであった。
「そして君が残した過剰な証拠。これらすべてが違和感へとつながっていった。ずっと持っていたレシート、父親の手に握らされていた毛髪、つくはずのない指紋。」
これら全てのピースを操っていた人物こそ、純だった。

―3月27日―

「最後に一つだけうかがってもよろしいでしょうか。」
「…本当に最期ですか。」
「はい。」
「なんですか?」
彼女の眼は精魂尽き果てているようであった。私の粘着な取調にここまで文句も言わず付き合ってくれていたのだから、感謝しなくてはならない。だからこそ、最期は短刀直入に聞こうと思った。
「どうして、純君に罪を着せようと?」
「!」
顔が一気にこわばっていく。声がひきつって、言葉にならないようであった。
「これは私の推理でしかありませんが…罪をかぶると言いだしたのは純君でしょう。17歳の純君なら、少年法の観点から刑罰が若干軽くなる可能性がある。しかも、母親をかばうための殺人となれば情状酌量の余地も十分だ。うまくいけば執行猶予ということもありうる。あなたが犯人よりずっといい。」
彼女はあくまで違うというべきかどうか悩んでいるようだった。悩んで結局何も言いだせないというジレンマだろう。
「実はまだ判然としないこともあります。あなたが何をどこまでやったか。出刃包丁はあなたが買いに行ったのでしょうね。晩はカレーにしたんですね。お味噌汁も出すんでしたっけ。実際の殺人をあなたが行ったという根拠はありません。でもそうじゃないかと思っています。」
実は事件の調書を見たときから、違和感があった。何故25日に殺害したのか。純と圭太の大喧嘩が22日、出刃包丁の調達が23日、そうなれば23日の夜か24日どちらかに決行するのが普通だろう。23日の夜が見送られた理由は簡単だった。その日、圭太が帰ってこなかったのだ。圭太は24日の昼過ぎに家に戻っている。だとすれば、普通に考えれば24日、これ以外にあり得ない。だが実際には24日に決行されることはなかった。何故か。
「24日、あなたは朝から出かけていたそうですね。高校時代の同窓会があるとかで、夜遅くまで帰ってこなかった。純君が殺害するなら24日です。そうすれば、より確実に自分が罪をかぶることができるからです。母親の目撃証言という証拠はなくなりますが、それよりも母親にアリバイを作ってあげれるほうがいいですからね。でも実際は25日に殺人は行われた。誰の手によってか…想像にかたくはない。」
「私が。」
泣いていた。絞り出すような声は、そこはかとなくか細くて聞きづらいものだった。それでもなんとか必死に言葉をつなげていく。
「私が、犯人だとすれば…全て説明が…つくんですか?」
「そうですね。違和感は解消されます。ただ…はっきりいえば証拠はありません。私の推測でしかない。」
「そうですか…。」
「しかし、あえてあなたにこういう話をしたのにはわけがあります。あなたはこれまで息子である純君に甘えて生きてきたと思うのです。圭太さんの暴力からあなたをかばってくれたのは誰ですか。それを考えてください。あなたが本当のことを話してくれれば、純君を守ることができるのではないですか。」
「私が…純を守れる。私が犯人なら…」
どうも、混乱しているらしい。私の望みは彼女が真実を語ってくれることなのだが。とりあえず、今日はこれが潮時だな。
「今日は、ご自宅に戻っていただいて結構です。一晩、ゆっくり考えてみてください。あっ、最後に一言申し添えておきます。今回の話は私が独断で話したことです。組織としては純君を立件する方向で動いてますので、お忘れなく。」
彼女は言葉なく一礼して、取調室を出た。自宅まで送った捜査官の話では、終始涙ぐみながら何か独り言をつぶやいていたそうだ。


その晩、斎藤裕子が死んだ。自宅の寝室で首をくくっていたそうだ。枕元には走り書きで「純、ごめんね」と書かれたメモが残っていた。


―3月30日―

「純君…お母さんをも…殺したね。」
今まで色々な犯罪者に、さまざまな事実を突き付けてきたが、これほど辛い経験は初めてだった。純はずっと黙ったままだった。
「母親の性格をよく知っている君だからこそできる計画だった。自分が罪をかぶれば、息子を助けられる。あの母親ならそう考えるはずだと分かっていたんだろう。」
彼は自殺という結末まで予想していたのだろうか。もしかしたら、ただ単に母親が自首して罪をかぶってくれるのを期待していただけかもしれない。しかし、今日の話を聞いている限り、母親の自殺まで織り込み済みだったような気がしてならない。
「母が自殺したことに対して、私は何の罪に問われるのでしょうか?」
はっきりとした口調で彼が切り出した。私はびっくりして彼の顔を見た。その表情は…笑顔だった。もはや、演技をする必要がなくなったのだろう。やはり、彼には分かっていたのだ。分かっていて…ここまで作り上げてきたのだ。
「悔しいが、どうしようもない。」
「そうでしょ。僕は何一つやってない。母を追い詰めたのは刑事さんでしょう。」
その通りだ。…これほどまでに計算された殺人を私は今まで見たことがない。それは…二人殺して、一番罪を軽くするにはどうすればいいかと計算。決してしてはいけない命の計算。
「母親を殺す動機は…なんだったんだ。」
私は下を向きながら、うめき声のような低い声で尋ねた。それとは対照的な明るい声が返ってきた。
「普通に考えれば分かりますよ。5年間、母のためにどれだけ苦労してきたと思ってるんですか。『何泣いてるんだよ…お前がしっかりしろよ。』父の暴力を代わりに受けながら、そう思うのはおかしいですか。でも、本人には言えませんよ。小さくなって耐えてる女性にどうやってストレスぶつけるんですか。ゆっくりたまっていくストレスはいつか爆発するんです。母と同じですよ。」
取調室の椅子に座る人は、どんな心境なのだろう。私はそれを深く考えたことがなかったかもしれない。追い詰める側の理論ばかりを追い求めてきて、追い詰められる人間が何を胸に抱いているかを顧みなかった。
「刑事さん。一つだけ、聞いてもいいですか?」
うなだれている私に声をかけた彼は妙に楽しげだった。
「…なんだ。」
「どうして、そう思ったんですか?」
「…どういうことだ。」
私はおもむろに頭をあげた。よっぽど真剣な顔をしていたらしく、そんな怖い顔でにらみつけないでください、と笑われてしまった。
「どうして…僕が父親を殺したと思ったんですか。」
「どうしてもこうしてもないだろう…。いったい何が言いたいんだ。」
彼はこちらを見たままだった。その表情は、どうしてだろう…笑顔だった。背筋がすっと冷たくなった。追い詰められている被疑者の気持ちは、こういうものか。
「刑事さんの仮説はどちらも筋が通っていました。僕の母親を追い詰めた第一の仮説、つまり父親を殺したのは母親であり僕がその罪をかぶったという仮説。そして今僕に突き付けた第二の仮説、父親を殺したのはやはり僕で、その殺人を利用して母親を精神的に追い詰め自殺に追い込んだという仮説。どちらもよくできています。つまり、僕でも母でもどちらも父を殺せたということです。」
「えっ…。」
何故だろう、とても嫌な予感がした。胸の鼓動が速くなっているのを感じざるを得なかった。これまで笑顔だった彼の顔が一変して、すこぶる真面目な顔になっていた。私はぞっと身震いをした。
「ここだけの話です。……父を殺したのは…。」

―5月25日―

「被告、斎藤純を懲役5年、執行猶予3年に処す。」
この日、彼は殺人犯としての刑を言い渡された。
あの日以降、私が彼と言葉を交わすことはなかった。4月に入って斎藤純の裁判が始まった。彼は検察側の主張を全て認め、弁護側も事実関係について争うことはしなかった。裁判はもっぱら量刑が争点になった。結局、少年法の力と父親からの暴力という情状酌量もあり、異例の軽い刑であった。
私は彼の判決が出たという話を、職場で耳にした。特に感慨もなく、そうかとしか思わなかった。すでに新しい仕事に取り掛かっていたからである。
「ふう」
いつものように一息ついて、取調室のドアを開けた。
2010-05-30 19:33:34公開 / 作者:春日井
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