『静かな喫茶店の話』作者: / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約50.79枚
僕がこの喫茶店でアルバイトを始めてから、もう四ヶ月が経った。田んぼが賑わっていた夏の終わりにここに来て、今気づいたら田んぼには何にも無くて、冷たい風が地面を撫でている。

ミルを引く手を止めて、店の中を眺める。磨きあげられて光沢を持った渋茶色のテーブルや椅子。窓の向こうにはたゆたう河が遠くに見えて、そして寂しい田んぼが整列している。その全てが空と地面の切れ目へと帰っていく夕日のオレンジ色の光を受けて、今日しか見れない輝きを放ちながら息づいている。

明日はどんな輝きが見れるんだろうか。今から楽しみになる。雨でも雪でも曇りでも、きっと新しい姿を見せてくれるだろう。なぜなら、毎日全てが変わっていくんだから。

眠気で緩んできた視界に、銅製のカップが置かれる。カップから立ち上るほのかな湯気が景色にかかって、それもオレンジ色を帯びていく。

「どうも」
「どういたしましてにぇ〜」

ここのもう一人の従業員、兼店長が答える。四十を越えたぐらいの丸顔の女性で、どこか人懐っこい風貌をしている。性格はこの店とおんなじようにゆっくりしていて、どこか力が抜けるような喋り方をする人だ。

この店は、お客が少ない時と多い時の落差が激しい。今日だって、昼間は近所の主婦やサラリーマン、果てには仕事をさぼってここにくる人などで賑わっていたのに、今みたいに夕陽が眺められる時間には誰もいなくてすっきりとしていて、まるで時間に取り残されたかのように寂しくて静かだ。

けど、こんな時間ももうすぐ終わる。少なくとも、店長と僕だけの時間は。

銀色のベルが透き通った音を響かせながら、重々しいドアが開く。途端に長い人影を携えた紅い光が差し込んで、少しだけ眩しくなる。
彼女だ。

男の子みたいに短くて少し乱れた髪。それと同じに、凹凸の少ない体のライン。青いYシャツの上に紺色のブレザーを着込んでいる。多分、どこかの高校の制服だろう。黒と青のチェックのネクタイ、それと真っ黒なスカート。そこから覗く白い肌を、よりくっきりと浮かび上がらせる。右手には学校指定であろうバッグが握られている。多分、中身は本だ。

「いらっしゃい」
「いらっしゃ〜い。毎度ありがとうね、三重棚ちゃん」
「いえ、その、このお店好きですから」

軽くお辞儀をして入ってきた彼女は、いつもの席に座る。店の隅っこにある、彼女の為にあると言っても間違いじゃない電気スタンド付きの席。

そうしてバッグからいつも通りに本を取り出す。ビニールカバーとバーコードが貼られている、図書館の本だ。一日おきにタイトルが変わっているのと、ページを捲るスピードから見てかなりの読書家だろう。文庫とハードカバー、統一されることなく借りてきている。気になった本しか借りてないのだろう。

彼女はいつも同じものを注文するから、先読みして淹れ始める。薄めのコーヒーが彼女の好み。アメリカンとは少し違う、彼女の為の味。それに砂糖もミルクも入れずに、本を読みながら味わう。それが彼女の好み。

きっと、ここでしか出来ないことだと思う。

もっとも、それは全てのことにおいて当たり前なんだけれど。けどその当たり前が、日常できちんと感じられることは少ない。なぜなら、感じる暇もなく忙しく全てが過ぎていくから。自由の無い忙しさは、そういう風に特別を日常へと変えていってしまう。

けどここは違う。時間、光、空気、香り、景色、人、そして心。そういうものが、特別で、命がある。

時間の止まったような場所なのに、それを肌で感じられる。

ミルで豆を荒く挽く。彼女はあんまり苦いのが好きじゃないから、そのためだ。それからその粉をフィルターに通し、上から細く静かにお湯を注ぐ。するとしっかり粉が小山を作って応えてくれる。新鮮な証拠。それから30秒くらいはおいておく。それが終わったら、最後に神経を使いながら抽出する。バイトを始めたての頃は、店長は絶対にやらしてくれなかった作業だ。笑いながら、見て覚えな〜とだけ言われた。

ドリッパーをポットから外して、カップに注ぐ。あとはこれを彼女に持っていくだけ。

僕がコーヒーを持っていくと、彼女はなぜか真っ赤になってしまう。本を読んでいるから分かりづらいが、耳や首筋がそうなっているので、それが分かる。よっぽど恥ずかしがり屋なんだろう。見た目とは正反対なその性格や仕草が、今では彼女らしく思え、また可愛らしい。

カウンターに戻ると、相変わらず店長がニヤニヤしながら待っていた。多分、いつも通りに僕をからかうつもりなんだろう。いつもの気の抜けた顔とは違う種類の笑みだから、手に取るように分かる。

「青春だにぇ穂南くん。ええ?」
「からかわないでくださいよ」
「私の店での楽しみを奪う気かい、君は〜?」
「はぁ……もういいです」

そんな風に、ここでの止まったような時間は過ぎていく。

じわじわと、ぽつぽつと。豆から染み出る、コーヒーのように。

強い雨の日だった。手に落ちる雨粒が痛いくらいの。

大学が終わってすぐに自転車置き場に走る。流石に雨の日に自転車でここに来てるのは僕ぐらいみたいで、そこには薄いひさしのお陰で何とか雨を凌いでいる相棒が一人寂しく僕を待っていた。朝から籠に放り込んであった合羽を着こむ。ズボンと上着が別の、一番防水効果が高いやつだ。正直、これがないと自転車で雨の日は走れない。レインコートだとどうしても長時間は乗れないのだ。必ずと言っていいほど、裾から垂れる水がズボンをこれでもか、と濡らしてしまう。

走り出すと、顔に当たった雨粒が張り付いて顔に居座る。けどそれはそんなに長いことじゃなくて、すぐに新しい雨粒に押されて首筋へと落ちていく。その感触はまるでミミズが顔を這っているようで、絶対に気持ちのいいものじゃない。特にイライラすればするほど、それは顕著に気分を邪魔する。

マンホールやドブ板を気をつけて、黒く色が変わったアスファルトの上を走る。もしも滑る場所に乗ってしまったら、絶対にハンドルを切っちゃいけない。そうしたらたちまちに車輪は機嫌を曲げて、行き先までも直角に曲げてしまう。要は恐れず進んでしまうこと。これが長い自転車通学の際に僕が覚えた一つのテクニックであり、心意気だ。

雨の日は、部屋の中で窓から外を眺め、雨音に聞き入るに限る。自転車で雨を感じると、つくづくそう思う。

人がちらほらいた大学近くの通りは、既に遥か過去のこと。今はもう喫茶店近くであり僕の自宅近くの、主な景色が田んぼと林ばかりの場所まで来ている。河沿いに行けばずっと似たような景色が広がり、河の反対に行けば住宅地が広がる。

右と左で全く違う景色。河沿いの道を走るといつもそう思う。

河の方は雨で対岸が見えづらくなっていて、霧がかかったようになっている。対して右側は、自動車の水を撥ねる音や雨の中歩く人の傘で、これはこれで面白い。

あの店は住宅地の近くにある林に隣接したような場所にあり、夜は危ない事件も起こるらしい。だから夜はお客が少ないんだろう。でも僕はそんなの、一度も見たことがない。けれどそういう噂があるということは、やっぱりなんかあったんだろう。痴漢とか、ひったくりとか、よく分からないけど。

十字路を右に曲がって、住宅地に入る。少しばかり退屈な場所だ。上手くガーデニングしている人もいないし、大声で騒ぐような子供もここらにはいない。でもいつも通りに挨拶を返してくれる犬は、今日もいた。今日はいつもと違って庭を走り回っているわけじゃなく、自宅の小さい犬小屋でしょんぼり留守番。けれど、僕が片手を上げて「よー」というと、きちんと吠えて返してくれた。やっぱり動物は素直だ。

そうして晴れた気分でまた前を見て走る。本屋が見えてきた。昔からずうっとある、錆びたひさしや、ポスターが貼ってあった跡など、色々歴史を感じさせる佇まいをしている本屋だ。昔はよくここで絵本を買ってもらったものだ。今ではご無沙汰だけど。

感傷に浸りつつ、ビニール製の緑色のひさしの下に視線を向けた。

そして、そこから動けなくなった。

佐藤書店と書かれた金具の錆びたひさしの下。そこに彼女がいた。髪の先に透明な雫を滴らせて、不安げに空を見上げる。それをとても短い時間の間に何度も繰り返す。ブレザーは見るだけで重いだろうなぁ、と思う程にびしょびしょで、スカートも端から水滴を垂らしている。多分、頑張ってここまで歩いて来たんだろう。けどここからあの喫茶店までは、歩いて五分。ここまで来てるんだからと気にせず進むか、止むまで待つか。はたまた自宅に帰るか。彼女の家はここら辺にあるらしいので、案外この本屋の道が分かれ道になっているのかもしれない。

このまま声を掛けないで通り過ぎるのも、なんだか後味が悪い。それに、自分は折りたたみ傘を持っている。貸してあげればいいだけの話だ。

ひさしの下に自転車を滑り込ませ、彼女とは心持ち離れた場所に止める。けど彼女は一瞬こちらを見ただけで、すぐにまた視線を空に戻す。落ちてくる雨粒を眺めているのか、気付いてないのか。

どうやら僕には気付いていないみたいだ。全身真っ青の合羽を着て、しかも顔が隠れるぐらいフードを深く被っていたから当然だと思うけど。けどそれでも、なんとなく悔しくなって、少しばかりいたずら心が芽生えた。鞄からタオルを取り出す。雨の日の必需品だ。ちなみに何層も中が分かれているバッグの中に入れておけば、大抵の場合、中の物は濡れないことが多い。

それを持って彼女の背後に忍び寄る。足音をたてないように、慎重に。そして彼女の頭を、少しだけ力を込めて拭いてやる。父親が子どもの頭を拭くような、あんな感じで。

「よっ」

強く振り向いた彼女に、片手を上げて挨拶する。

彼女は目を見開き、見てて分かるほどに瞬時に、首から耳までを真っ赤に染め上げた。そうして胸を押さえたかと思うと、地面にへたり込んでしまう。砂埃とか、スカートにつかないだろうか。少し心配だ。

「ごめん。大丈夫?」

小さく頷き、そのまま俯く。ちょっと驚かせすぎてしまったみたいだ。息が荒く、整っていない。当然と言えば当然だ。いきなり後ろから、しかも知人もいない状況で頭に何かされれば普通そうなるだろう。

「傘ある?」

彼女は俯いて黙ったまま小さく首を振る。その時彼女の髪から滴が飛んで、コンクリートの地面に斑点を作った。

元々彼女が傘を持っていないのは分かっていたけど、一応聞いた。けど今気づいたんだけれど、これは僕が馬鹿な問いをしたことになるんだろうか。少し質問を間違えたなぁ。

「とりあえず傘貸すよ。持ってるから」

バッグから折り畳み傘を出して彼女に渡す。ワンタッチで開くような物じゃなくて、下手をすると手が挟まりそうになってしまうタイプのやつだ。三年前の年代物で、ビニールの部分もよれよれだけど、問題なく使える。なにより、無いよりはマシのはずだ。

傘を受け取った彼女は迷っているみたいだった。僕と傘を何度も見返して、口を金魚のようにパクパクさせている。

「……僕が誰だか分かる?」

そう聞くと、彼女は凄い勢いで頷いた。その姿は犬が自分に付いた水滴を振り払う仕草に似ていて、ちょっと笑ってしまった。良かった。てっきり彼女が僕が誰だか分からなくてこんなに混乱しているのか、そう考えていたから。もしもそうだったらどうしようと思っていたが、思い過ごしで済んだみたいだ。

「喫茶店行く? それとも帰る? 傘は今度返してもらえばいいから」

雨の中に自転車を押し出しながら、そう聞く。振り返って彼女を見ると、すぐに立ち上がって傘を開いていた。そして僕の傍に寄ってくる。来てくれるみたいだ。本当は聞かなくても分かってた事だったけど。彼女は雨の日も、風の日も、血が沸騰しそうな夏の終わりの日も、お店に来ていたから。そうすることが日課みたいに。いや、きっと日課になってしまっているんだろう。

歩きだして、すぐに彼女の歩幅に合わせる。こうやって並んで歩くことなんかなかったから今まで気づかなかったけれど、彼女は僕の胸ぐらいまでの身長しかない。すらりとした体系と雰囲気から、自然ともう少し背があると思い込んでいた。だから彼女の歩幅に合わせることが必要になる。

それはとてもいいことに思えた。自分より背が高いと好みじゃないからとか、そういう刹那的なことではなくて。

僕が彼女に合わせればいいだけだから。

出来る方がそれをすればいい。

必ずしも向こうが自分に合わせてくれるとは限らない。むしろそれは、実際は少ない部類に入る。

だから気づくべき人が自分だというのは、もしも気付けなかった時、僕が謝ればいいだけで済むから楽だ。僕は他人に何かを強要するのは苦手だし、それが性に合っている。

雨が合羽に当たる音、雫が彼女の傘にぶつかる音、雨が地面に帰る音、雨が木々や葉っぱに触れる音。それと時々通る車の音。雨にかき消されそうになりながらも、カラカラとした音を出し続ける自転車。それと僕の吐息と、彼女の足音。

それだけが僕と彼女に聞こえていた。会話はなかった。けどそれよりももっと大事な言葉を共有したような気分になって、なんだか不思議な気持ちになった。あったかいような、満たされるような。そんな不思議な気持ちだ。

途中、彼女が何度かこちらを覗いた。けど僕はそれに気づいていたのに、彼女の方を向こうとはしなかった。わざと無視して店までの道をゆっくりと歩いた。もしも目を合わしたら、この満たされた気分が溢れそうになる気がしたからだ。それは悪いことじゃない。けど僕はしなかった。

今が幸せなのに、それ以上を求めていいのか。そんな問いが胸に響いたから。

そうして歩いていると、いつの間にか喫茶店はすぐ目の前にあった。

時間は早く過ぎる時と、ゆっくり流れる時があると、僕はこの時初めて感じた。

自転車を脇に止めて、鍵を掛ける。どんなに寝不足でも、ぼうっとしても、これだけは自然にやってしまう。それだけこの自転車との付き合いが長いんだろう。思い返すと確かに長い。中学三年の頃からだから、多分もう四年になる。

鍵を掛けている間、彼女は雨の中で、心を置き忘れたように直立して僕を待っていた。

それに気付いた僕は笑って、彼女の肩を叩く。そうしないと彼女が動きそうになかったからだ。案の定、肩を叩くまで彼女は反応しなかった。それどころか叩いた後の彼女の反応はビデオに撮っておきたいぐらいあたふたしていて、彼女の性格が見て取れる。ぼうっとしがちで慌てんぼ、それと極度の恥ずかしがり屋。最近には珍しい性格だ。

彼女が傘を畳んで店に入った後、僕も店に入る。

入口の前で合羽をはたき、水気を飛ばす。これをしておかないと、バッグにしまった後に色々と後悔することになるし、店内で掛けさせてもらうにも水気をある程度飛ばすのは最低限のマナーだ。それから彼女の水浸しのブレザーをコート掛けに掛けてしまう。良かった、中はそんなに濡れてないようだ。スカートはびしょびしょだけど。

可愛らしい音が店内に響いて、僕はその中に足を踏み入れる。中は暖かく、慣れ親しんだコーヒーの匂いが気分を落ち着ける。

それと同時に、店長の予想通りの攻撃が飛んでくる。きっといつか言ってやろうと狙っていたに違いない。

「ありゃりゃ〜ついにデートぉ?」
「違います。傘がなくて困ってたから傘を貸して、ここまで一緒に来ただけです。ところで、合羽って掛けていいですか?」

「いいよ〜。そこに掛けといて」

合羽をドアの横のコート掛けに掛け、すぐにカウンターの裏に回る。店員の印である、エプロンを着るためだ。

「そういえば、どうして傘なんか持ってたの〜? 合羽でしょお?」
「ああそれは……自転車が壊れたりとか、台風で自転車に乗れそうになかったら使うんです。駅まで歩くにも、バス停でバスを待っている
間にも必要ですから。意外と自転車って壊れるんですよね、毎日乗ってると」
「備えよ常に、なんだにぇ〜。私には真似できないよ〜」
「だから時々ミルク足らなかったりとか、フィルター足らなかったりとかするんじゃないですか?」
「その通りだにぇ〜」

僕が少し呆れてため息をつくと、店長は思い出したように天井に備え付けられた戸棚を開ける。そして中をあさって、二つの瓶を取り出す。それを数回確かめるように振ると、目を見開いてカウンターに突っ伏した。それから顔だけ僕の方を見て、申し訳なさそうに笑う。それだけで一体どうしたか見当はついた。

「ギャグだと信じたいんですけど、何か足らないんですか?」
「砂糖とね……ハーブが少し足らない〜」
「それぐらいなら何とかなりませんか? 明日買う方向で」
「フレンチトーストの仕込みの分が足らないんだよ〜あれうちの目玉なのに〜」
「あ、そうでしたね」

ここのフレンチトーストはたかがフレンチトーストなのに、前日から仕込みをする。それをするかしないかによって、味も触感も大分変わってくる。だから大切なのだ。たかがフレンチトーストなどとバカにしていると怒られるので、注意することも大切だ。

しかもこのフレンチトーストはかなり人気で、毎日必ず誰かが注文する。朝に昼におやつに、そしてごく稀に夜食に。夜食に頼みに来る人は近所に住んでいる50代の後半の人ぐらいだ。曰く執筆が息詰まった時に食べるのが至福だとか。

「買ってきて〜」
「……車があるんだから店長が行ってくださいよ。スーパーまで結構あるんですし」
「スーパーじゃないよぉー。調味料はちゃんとしたお店で買ってきてるんだよ〜?」
「なおさら僕には行けませんよ」

そんな場所も知らない所に、豪雨の中行けるはずがない。もし行けと言われても、多分店長の車を借りて行くだろう。

「だよねぇ。はぁ〜しょうがない。自分で行ってきますよ〜」

エプロンをつけたまま、店長はカウンター奥の扉の向こうに消えた。裏口から出るつもりなんだろう。

それからすぐにミルで豆を挽いて、一連の作業をなるべく急いでこなす。冷えてしまった体には、中から温めるのが一番だ。店長がいたら、絶対に体で温めてもらった方がいいとか言うんだろうけど。

コーヒーを準備して、右から二番目の戸棚からクッキーを取り出す。四かけ二百円の、手作りクッキーだ。一つが握り拳ぐらいあるので、決して高くはないと思う。これは毎朝店長が早起きして作ってるらしい。もっとも、生地は夜に保存しておいて朝は焼くだけとも言ってたけど。

ここまで手慣れたものだ。だから店長も僕に店を任せて出て行くんだろう。といっても、こんな豪雨の中客は来ないだろう、という打算の方が大きいかもしれないが。

お盆にそれらとおしぼりを載せて、あとタオル四枚も持っていく。

テーブルにお盆を置いて、彼女にタオルを渡す。持って来て正解だったと思う。彼女は濡れてしまった椅子をどうしようかと、とても慌てていたから。

それで慌てて椅子や自分を拭く彼女の頭を今度はきちんと拭いてやる。それからブレザーの前や後ろ。彼女の手の届かない所をなるべくきちんと。嫌がると思ったけど、なんだか固まってしまって何も言わなかった。むしろ、何も言えなかったんだろう。彼女の恥ずかしがり屋な所は、どうやら筋金入りらしい。

それは奢りだから、と伝えてカウンターに踵を返す。そういえば、なぜかテーブルの上には本が置いてなかった。そういう日もあるんだろう。

「あの」

だが途中で彼女に呼び止められた。

「ん?」

振り向くと、真っ赤な顔で僕を見ようとする彼女の姿があった。僕を見上げて、押し黙って俯いて、またなんとか顔を上げて。口が何か言いたそうに動いていたが、言葉は出てこない。

そんな静寂が、僕の意識が雨の音に飛んでしまうまでの長い時間あった。

そろそろ僕が眠気を感じ始めた頃、勢いよく彼女が顔をあげ、僕のことを数秒見つめた。そして雨の静寂を遮る。

「あ、あの、傘……ありがとうございました」
「どういたしまして」

なんだそんなことかと、拍子抜けした。あんまりにも物々しい雰囲気が漂っていたから、何か無くしたりしたのかと思った。あるいはコンタクトを落とした、だとか。

彼女は本当にとんでもない恥ずかしがり屋なんだな、と再認識した。

それから彼女は本も開かずにテーブルに突っ伏していたけど、僕には理由は分からなかった。多分、僕と同じで雨のオルゴールに耐えられなくなってしまったんだろう。あれは心の奥から眠気を誘うから。

雨のせいで訪れた、珍しくて記念すべき日は、そうして過ぎていった。

とぽとぽとぽとぽ……。

コーヒーを注ぐポットから、微かな音が漏れる。それはもしかしたら、喫茶店中に響いているのかもしれない。

僕はそれを五月蠅くないかと少し気にして、すぐに問題ないか、と考え直した。

洞窟のように静かなこの喫茶店では、小さな音でもとてもよく響く。それはBGMを決してかけない店長の趣味のせいかもしれないし、お客が殆どいないせいかもしれない。そのお客だって、店内のぬるさに負けて眠ってしまっている。電気スタンドも本も点けっぱなしの出しっぱなし。朝から何も変わっていない。

そう、彼女は朝からずっと眠っていた。朝食をとるスーツ姿のサラリーマンや、新婚風の男女。昼にはコーヒーを味わいに足しげく通ってくる常連さんや、うるさくも楽しげに喋る主婦たち。そんな他人の群れに、一人混ざって。

だから彼女がこんな音で起きてしまう訳がない。そう考え直したのだ。

でも僕の結論を揺らがせるように、実にタイミング良く彼女は動く。

体を数回揺らして、腕の枕の位置を直す。くしゃくしゃの髪の毛が揺れて、冬の光を反射した。起きたのかな。

「う…ん……」

いや、起きた訳ではないようだ。そのまま動かず、また眠りの中へと落ちていってしまった。

なんだかとても微笑ましくなる。自然に口元が綻んでしまうのは、どうやら防ぎようがないらしい。何度か無表情でいようと試みたのだけれど、それは努力の甲斐なく失敗に終わっていた。

「幸せそうに寝てるねぇ……。やっぱり安心できる人が近くにいると落ち着くのかなぁ〜穂南くん?」

後ろでコーヒーを啜っていた店長が、妙に含みのある声色でそう尋ねる。だから僕は無表情になるように努めていたのに、やっぱり色んな意味で努力は無駄だったようだ。

「さぁ……ここって凄く眠くなりますから」

彼女が眠る姿を二人で眺めていると、店長がくーくー寝てると言った。それを聞いて一瞬すーすーじゃないかな、と思ったけど、やっぱりくーくーの方が似合ってるな、と思い直した。なんだか猫が寝てるような、そんな感じだから。

その時不意にベルが仕事をして、店内に透き通った音色が響いた。そのすぐ後にドアが閉まる音が続く。

お客は常連のお婆さんだった。サングラスとつばの広い帽子、それとまっ白な杖。一見すると魔女みたいに見えるぐらい、ちょっと怪しい。実際近所じゃ魔女ばあちゃんなんて子供たちに呼ばれているんだそうだ。けれども実際はとてもいい人で、店長や僕にお手軽に作れるメニューなんかを教えてくれたり、面白い話をしてくれる気さくなお婆さんだ。言葉遣いが若干きつめなのが玉に瑕だけど。

「今日も来てやったよ。いつものね」

「はいは〜い」
「ハイは一回!」
「は〜い」

店長がそう返事して、マグカップを奥の棚から引っ張り出す。それとアプリコットのジャム。それから先読みしてカンカンに沸騰させておいたお湯をポットに注ぐ。紅茶は生ぬるい温度では上手く茶葉が開かないので、そのためだ。それから三分くらい待って、マグカップに注ぐ。その上からジャムを落してかき混ぜる。アプリコットティーとは全然違うけど、これはこれでとても美味しい飲み方だ。

どうでもいいけれど、このお婆さんが来る時は必ずマグカップだ。店長がこだわって選んだ、銅製で持ち手に芦の装飾が施されたものではなく。理由を前に尋ねたら、あのお婆さんは銅が嫌いなのよと言っていたけど、多分嘘だろう。あのカップは何かコーティングされてるのか銅の匂いなんて全然しないし、お婆さんがそんな文句を言っていたのも聞いた事がない。

お婆さんと店長は、なんだかんだ言って仲がいい。それは店長に几帳面で自分にも他人にも厳しいタイプの人を受け流せるおおらかさがあるかもしれないし、お婆さんの何だかんだいってお節介な性格のおかげかもしれない。

だからここにお婆さんが来ると、二人はとてもよく喋る。普段ぼーっとした目で遥か彼方を眺めている店長の目が、まるで古い友人に再会したかのように力を取り戻すのだ。というより、悪戯を企てているどこぞの小学生の目に似ていないとも言い切れない。

二人が話している間は僕の仕事はない。やることもないし、今までのように現実と眠気の狭間で店の中を眺めているだけ。でもやっぱり、いつの間にか視線は彼女に向いてしまう。綺麗な物を見るのは好きだし、なによりそれが許されるならずっとそうしていたい。実際、誰だってそうだろう。一度くらいは、半分眠った頭で自分が大事にしているものを眺めたことがあると思う。

ただ眺めることに時間を費やす。長い時間を、惜しみなく。躊躇いもなく。

しばらくそのまま過ごしていると、突然声をかけられた。

「おいぼうず」
「はい?」

ちょいちょいと手招きされて、お婆さんの傍に寄る。

「あんたに一言だけ言っておくけどね、光るもんは見つめすぎると盲目になるよ」
「へ? え?」
「外だけ見るんじゃないよ、って言ってるんだよ」
「ええ、まぁ……そりゃ」
「……ま、おのずと分かる日が来るさ、それも近いうちにね。そん時はあたしのありがたい言葉を思い出すんだね」

しわを極限まで寄せてお婆さんはそう言った。目を細めていたようだったがそれはサングラスのせいで分からない。だが心の奥の方を見られるような感覚はした。本当に何者なんだかよく分からないお婆さんだ。

「じゃああたしはもう行くよ。休憩も済んだし。御馳走様」

手提げの小さいポケットから前もって用意しておいたであろう、丁度代金と同じ金額の小銭を取り出すと、カウンターに置く。そしてあの年代の人にしては珍しくしっかりとした足取りで店から出て行った。ただ、杖はかんかんとうるさかったけど。

「店長、前から聞いてみたかったんですけど……あの人は何者ですか?」
「おりょ、ただの近所のお婆さんだよ〜」

にやにやと笑いながら言われても、説得力は皆無に等しい。けどこの人を問い詰めても無駄だと悟っていたので、僕はもう、それ以上は何も言わなかった。

閉店時間が近付いていた。もう店内に残っている人はいつもの三人以外にはおらず、店長と僕は閉店の準備をしていた。といっても大してやることはない。洗いものは暇な時に済ましてしまっているので、僕の出来ることは店内の掃除だけだ。既にエプロンは外して片づけてある。

カウンターの奥の物置に入り、ズラリと並んだ豆の袋の隅っこに置いてある箒を持ってくる。ホームセンターなどでもよく見る、大型の箒だ。だけれどコーヒーの匂いが染みついて、この店独特の素晴らしい逸品になってしまっている。

「あ、そうだ。三重棚ちゃん起こして家まで送ってってあげてね〜」

けど今日は仕事が一つ増えた。そう、彼女はまだ眠りこけていたのだ。途中にあんなにけたたましく喋るお婆さんや、他にも主婦の方々などがお見えになってヘビィメタル並にごちゃごちゃとした音の中に居たというのに。恥ずかしがり屋なのに実は図太い神経を持っている、ある種の奇才なのかもしれない。

「僕がですか? 起こすの店長やってくれません?」
「ヤダ」
「ヤダって……」

あまりにも身も蓋も無い言い方に半ば呆れてしまう。それぐらいやってくれてもいいのに。

「それぐらいやってくれてもいいじゃないですか」
「なら穂南くんがやればいいじゃない。それとも何、女の子を起こすのは恥ずかしいって?」
「い、いやそういう事じゃなくてですね」

客と店員って関係から脱するのが怖いんです、と喉から出かかる。だけどそれは、すんでの所で胸の奥にしまわれた。別に言ってもいいのだが、それを言うことで冷たい人間だと思われたくなかったからだ。

「じゃあ三重棚ちゃんに話しかけるのが嫌なの? かわいそう……泣いちゃうね、きっと」
「違いますっ! そうじゃなくてですね、その」
「つべこべ言ってると給料下げるよ〜?」

スペードのエースをここで切りますか。

「……鬼め」
「さらに下げるよ?」
「あーもう、わかりました。わかりましたよ」
「じゃあよろしくね〜。そっちは任せるから」

そう言い残すなり店長は、店の奥に消えて行った。フレンチトーストの仕込みでもしに行ったのだろうか。もしかしたらクッキーの生地を作りに行ったのかもしれない。

どちらにしろ、既に店長の手を借りられる状況ではなく、尚且つ二人きりの状況になってしまったわけだ。冷たい雨の音が、沈黙した空間に響き続ける。たんたんと、けれど小気味よく。

仕方ない、とりあえず彼女を起こすか。

「お客さん、起きてください。お客さん」

耳元で呼びかけるがぴくともしない。相変わらずくーくーと幸せそうに寝ている。こんなに寝られるなんて実は過眠症なんじゃないだろうか。

「三重棚ちゃん、三重棚ちゃん、起きて」

試しに言い方を変えると、彼女の肩がぴくりと震えた。このまま呼びかければ起きそうだ。

「三重棚ちゃん、閉店時間ですよ、起きてください。起きて〜」

最後の起きて〜、だけはかなり大きな音量で呼びかけたのだが、それでも彼女の睡魔には勝てないらしい。きっと僕の睡魔がポストぐらいなら、彼女の睡魔は体育館並だろう。大変立派だ。無意味に。

しょうがないので彼女の肩を掴んで大きく揺さぶる。もちろん口では起きてくださいよ〜、と言いながら。手に伝わってくる感触がやはり柔らかく、女の子なんだなぁ、と実感させられてしまう。なんだか少しだけ、悪いことをしている気分になった。

「ふ……え……?」

やっと薄目を開けてくれた。といっても放っておいたらまたすぐ寝いってしまいそうな瞳だ。

「あの、お客さん。もう閉店時間なので起きて貰えませんか?」
「あ……はっはい! すみっ……ごめんなさい!」

顔を真っ赤にして彼女はまた俯いてしまう。そりゃあ、机に突っ伏した寝姿を見られて尚且つ店員に起こされるまで眠りこけ続けていたなんて、とてもじゃないが普通にできることではない。僕だったら走り去って逃げてしまいたい所だ。

「大丈夫? 一人で帰れるよね?」

一応、念の為、まさかとは思うが聞いておく。

「三重棚ちゃん、帰りは穂南くんに送ってもらいな〜。今の世の中物騒だからね〜」

振り向くと店長が笑いながら、正確にはにやつきながらカウンターの椅子に座って僕らを眺めていた。今までのやりとりも全て見ていたに違いない。奥に消えたのは囮だったのか。単に仕事が早く終わっただけかもしれないけど、あの表情から見るに確実に見ていた。そして楽しんでいた。今この瞬間も。

「まさか穂南くんは、か弱い女の子を夜道で一人にするわけ無いよねぇ。そんな外道じゃないもんね〜。三重棚ちゃん、穂南くんにべったり頼って家まで送って貰っちゃいなさい。遠慮はいらないよ〜。穂南くんは素晴らしい優しさを持つ子だもの〜。きっと進んでボディーガードを引き受けるに違いない。ねぇ〜、穂南くん?」

反論しようと僕が口を開いた瞬間、ゆったりとした口調で鋭い言葉が矢継ぎ早に飛んできた。どうしても僕に彼女を送らせたいらしい。それにここまで言われて退いたら、本当にド外道みたいじゃないか。

「分かりました……。僕が送ります」

いつか似たような返し技を言ってやる。心にそう刻み込む。

「じゃあ、行こうか。お客さん」
「あ、その……、はい」

小さく頷いた彼女は回路が切れたロボットのように時々硬直しながら荷物をバッグに詰め終えた。

学校指定の飾り気の無い、革製のバッグ。他に見る女子高生のように、ぬいぐるみもラメも貼られていない。その代わりに、銀のフクロウのストラップがちょこんとくっついていた。もう長いんだろうか、表面が削れて地肌の胴の部分と銀の部分に分かれている。顔半分が銅色で、まるでどこぞのツギハギ天才外科医のようだ。でもそういう古めかしいものを大事にしているのは、好感が持てた。そう言う性格だからこそ、この喫茶店に惹かれるのだろう。

「じゃあ送ってきますね。」
「いんや、もう穂南くんもアガリでいいよ〜。一緒に帰っちゃいな」

入口まで来てそれを言うか。最初から言ってくれれば楽だったのに。でもまぁ、楽になる訳だからいいんだけれど。

「いいんですか? じゃあお言葉に甘えて」

入口のコート掛けの下に置いてある鞄を取り、手にぶら下げる。重い教材は友人のサークル部室に置いているから、薄い教材しか入っていない。だから正直、荷物という感覚がしない。それからしっかりとコートを着込む。今の時間では相当に寒いはずだ。

「じゃあ行こっか」

扉を開けて彼女をエスコートする。まるでリムジンの運転手の気分だ。いや、カボチャの馬車の従者かな。どちらにしても主役じゃない。そういう性格ではないし、それを望んでもいないから。

なるほど、夜の道を一人で歩くのは怖いかもしれない。ここは街灯も少なくて、すぐ隣は林だ。風が吹けば盛大に木々が騒ぐし、右側を見ても田んぼと川面しかない。人の気配は確かにまるでない。昼間は景色も良くていい散歩道になっているのだけれど、夜は怖い。自転車だと意識しないのだが。不思議なものだ。

わざと遅く歩いてるんじゃないだろうか、というような速度で彼女は歩いている。僕の自転車の籠に掴まりながら、小さい歩幅で地面を睨みながら。付いてきて正解でした、ごめんなさい店長。

「大丈夫? 怖い?」

彼女は無反応で、ただじっと爪先を見つめていた。

そこに強い風が吹きこんで、顔に冷気の張り手をかまして去っていった。いつも店内にいるから忘れがちになってしまうけれど、やはり外は寒い。朝には霜が降り始めてるんだから当たり前か。

街灯は少なく、時々あるのはオレンジ色のナトリウム灯。まるで夕陽の中のように、草も木も僕達もオレンジ色に塗りたくられる。夜の道に浮かぶ太陽みたいだ。

小さい歩幅で歩いていた彼女が、その電燈の少し前で不意に止まった。僕もそれに合わせて立ち止まる。しばらくの沈黙。風の音が耳に響く。木々のざわめきが、大きくなる。

「どうしたの?」

彼女は答えない。その代わりに、また冷たい風が吹き抜けて行く。

僕の方をきっちりと見据え、彼女は何かを言おうとしているみたいだった。強い瞳だ。僕にはあんな瞳は出来ないから、羨ましくもある。彼女がいつも本を読んでいる瞳に似ていなくもない。真剣に目の前の文章を理解しようとしている時の、そういう眼差しだった。

けどその瞳は僕の視線の先で少しずつ弱くなっていく。僕は何もしていないのに、まるで朝日に溶ける霜柱のように、徐々に力を失い崩れて行く。

「あの、その……。ほ、穂南さんは、あの喫茶店が……好き、ですか?」
「そりゃもちろん。お客さんはどうですか?」
「はい。……私も大好きです」

そう答えた彼女の顔は、気のせいかも知れないけれど、悲しげに見えた。ナトリウム灯のせいで逆行だったから、よくは分からなかったけど。

「あの、私もう大丈夫です。帰れます」
「え? いや送っていきますよ。危ないですし」
「いいんです。大丈夫です。じゃあ……その……また今度」

そう言うが早いか、彼女はまるで陸上選手のように素早いスタートを切っていた。それがあまりにも突然だったのと、その素早さに呆気にとられている内に、彼女は既に次のナトリウム灯の近くまで走り去っていた。こちらを一度も振り返らずに。そういえば彼女は陸上部だったそうだ。通りで跳ねるような早さだと思った。

木々のざわめきで気を取り直すと、自分一人だけだということが妙に身に染みた。

ベルの透き通るような音色が店内に響き、いつものようにドアが開く。夕方の、普段なら彼女が来る時間だ。

期待を込めてドアへと視線を向けるが、それはやはり不発に終わってしまった。彼女はもう一週間はこの喫茶店に来ていない。その間、あの電気スタンドの付いた席は、あるべき主人を失ったちぐはぐな場所になっていた。まるでそこだけぽっかりと、この喫茶店の場所ではないような……。

「今日も来てやったよ、いつものね」
「ほいほい、いらっしゃいお婆ちゃ〜ん」

入ってきたのはあのお婆さんだった。白い杖を鳴らしながら、カウンターに居る僕らの方へと向かってくる。店長はやはり、いつもの銅のカップでは無く、白くてぶ厚そうなマグカップを用意していた。そこにアプリコットのジャムを落とし、上から紅茶を注ぐ。

それを撫でるように触ってから、お婆さんは取っ手を掴んで紅茶を啜った。

杖を僕が預かり、カウンターの横に立て掛ける。いやに軽い杖だ。こんなにひ弱そうで体重を支えられるのだろうか。

しばらく店長とお婆さんが雑談し、僕はそれを聞き流しながら、彼女の居た席をぼうっと見つめる。そこに彼女がいないのに、もう習慣になってしまっているのかもしれない。けれどやはり、彼女のいない席は寂しかった。ページを捲る音も、彼女が本の展開に息を呑む音もしない。けたたましい話し声の中でも微かに聞きとれたそれがしない。

日常から欠けた1ピース。

ふっと気がつくと、店長とお婆さんの話声は止んでいた。なんでかな、と思い振り返ると、そこにはニヤニヤと笑う二人がいた。ただ、お婆さんの方はサングラスを掛けているので笑っているのは口元だけだけど。

「なんですか」
「別に〜」
「そういえば、今日はあの子は来てないのかい?」
「ええ、まぁ……。ここの所、来てないんです。先週の土曜日からです」

そう答えると、お婆さんの形相がみるみる内に険しいものへとなっていった。真剣で、油断を許されない顔だ。サングラスの奥の見えない瞳に射抜かれているような気さえする。いや実際、きっと凄い眼光で僕を睨んでいるんだろう。

「何やったのさ。え、言ってみな」
「そうそう、言っちゃいなよ〜。あの日の帰り道で、ナニをしたのかなぁ〜? それともナニをしたのかな? 初体験は青カ」
「馬鹿は黙ってな! 何があったのか洗いざらい話してみな。あの子が自分からここに来なくなるなんて、理由は明白さ。だけどあんたが何をしたのか興味があるさね。さぁほら、言ってみなよ!」

殴りつけるようなお婆さんの猛攻に耐えきれずに、僕は洗いざらいあったことを全て話した。会話の内容なんかは、大したことはないけれど話すのは恥ずかしかった。それでもこの人の見えない眼光には気押されてしまったのだ。

「はぁ〜。これだから男ってのはさ……」
「ありゃりゃ。そりゃー三重棚ちゃんもショックだったろうね〜」

二人して大袈裟とも取れるような溜息を長く長く僕に浴びせかける。

「え、え、何がですか。別に僕何もしてませんよ?」
「したさ。無意識にね」

お婆さんがおもむろにサングラスを外して、カウンターの上に置いた。白くて濁った瞳。

目が、見えないのか。

「あたしゃ大分前に目が見えなくなってね。それでも外に出たいから、この店に週一で通ってるのさ。ここは車の通りも少ないし、コーヒーは旨いしね。あたしが前に言ったことを覚えてるかい?」
「見つめすぎると盲目になる」
「そうさ。見つめすぎると盲目になるって言うのはね、人間も一緒なのさ。相手に気を遣えば遣うほど、相手は気疲れするもんさ。それで傷つけることだってあるってことさね。あんたの場合は、呼び方のことさ」
「呼び方?」
「お客さん、って言葉さ。あの子はね、あんたとの距離を崩してたがってたのさ。お客と店員っていう距離をね。だけどあんたときたら、いつまで経ってもお客さん。あの子があんたを名前で呼んでも、そうだったんだろう?」

僕は彼女とあれ以上親密になるつもりはなかった。だから軽々しく名前なんか呼べるわけがないと思って、そうしなかった。店員とお客以上の関係になるなんて、僕には想像つかなかったのだ。けど、彼女はそれを望んでいた。この距離感なんだ。この距離感が大切だと思っていたんだ。

けれど、それが彼女を傷つけた。

「女はね、待つ生き物なのさ。アタックしていくものじゃない。あの子はずっと待ってるんだよ、あんたのことを。あの席に座りながら。あんたに察して欲しいんだよ。けど、そういういい方をされたらどうなると思う? 諦めるだろうね、勇気の出ない自分を責めちまうだろうね。あんたが分かってやらなくてどうするのさ」
「おぉ〜。流石お婆さん、云十年の含蓄がありますなぁ〜。皺の数だけロマンチック?」
「茶化すな馬鹿たれ! あんただって似たようなもんのくせに!」
「うぐっ」

厳しい一言が飛んで店長が押し黙る。

「言葉だけ、態度だけじゃない。そう言うもんから心を見てやりな。自分から歩み寄りな。怖がるんじゃないよ。……分かったかい?」
「……はい」

そう答えるしか僕には出来なかった。それ以外の言葉が浮かんでこなかったから。

「行けよ少年! メロスの如く!」
「あんたいい加減にしな。店はこいつ一人で十分なのは分かってるんだろう? 気兼ねしないで行きな」

ぎろり、と濁った瞳で店長を一瞥する。それだけで店長は押し黙った。

「じゃあ、行ってきます」
「行ってら〜。避妊は必要だからね〜」
「あんた、その口縫った方がいいんじゃないかい?」

手早くエプロンを外して畳んで、奥に片付ける。それからすぐに店を出て、自転車の鍵を外す。ペダルを踏み込むと、気のせいかもしれないけれど、いつもより軽い気がした。コートも着ずに出てきてしまったので、体中を寒波が叩きつける。でもそんなのすら、思い切り体を動かす自分には感じなくなってしまっていた。

住宅街の方まで出て行くと、あの本屋が目に入った。店のガラスを下手したら割ってしまいそうな速度で突っ込んだが、幸いなことにフルブレーキで後一寸の所で止まってくれた。

引き戸のドアを開けて中に身を進ませるが、どの戸棚を見ても彼女も彼女の学校の制服を着た人も、居はしない。読書離れのせいか、お客は全くいなかった。彼女が稀有な存在であるのが良く分かる。

店の店主が訝しげな表情をして僕を覗き込んでいた。この人なら何か知ってるかもしれない。

「あの、女の子なんですけど男みたいな背格好で、髪がくしゃくしゃの女の子知ってますか? 丘央東高校の子なんですけど」
「あぁ、三重棚ちゃんかい? 最近は来てないねぇ。ところで君は誰? あの子を付け回してたりしてないだろうね」
「そんなんじゃありません! 彼女のよく行くトコとか知りませんか?」
「この先の喫茶店とか……。って、あぁー君はあの喫茶店の子だね。なるほどなるほど、うんうん。事情はよーく分かったよ。青春だねぇ。教えてもいいけど、そうだなぁ……」
「コーヒーと店長オリジナルクッキーでどうですかッ!? 奢ります!」
「忘れんなよ? あとは丘央公民館の中の図書館かな」
「はい! ありがとうございます!」

またペダルを踏み込む。しっかりと、踏み外さないように、全力で。

数分走ると、黄色に変色した古い公民館が見えた。一体何十年あるんだろうか。

消えかけた自転車置き場の白線内にドリフトを掛けて止め、鍵も掛けずに走りだす。自動ドアが開く僅かな時間にさえ苛立つ。

図書館に入る前に、呼吸と気持ちを落ち着ける。ここにいるとは限らない。けど、図書館というのは大抵の場合、時間の流れが緩やかだ。あの喫茶店と同じで。だからここにいる気がするのだ。

引き戸を開け、挨拶をしてくれる司書さんに返事を返す。入ってすぐの読書スペースには彼女はいない。

だけど不思議なことに、足先が勝手に行く方向を決めていた。そこは子供のいない絵本コーナー。窓辺にあるそこは、冬の暖かくはない日差しに照らされていた。そこだけがまるで図書館の中でも浮き上がって見える。

立ち並ぶ本棚を通り過ぎる度に、段々彼女へと近付いているという実感があった。彼女の雰囲気の様なものを、敏感に感じたのだ。それはページを捲る音なのか、それとも彼女の吐息なのか。それか、それ以外の何かか。不思議な感覚だ。目に見えないそういう空気を、体中が感じていた。

最後の本棚の脇を通り、そのスペースへと足を運ぶ。冬の光の中に。

絵本のラックに両側を挟まれたそこに、彼女はいた。いつも通りの紺色のブレザー。代わり映えしない、その代わりにしっくりくる学校の制服。隅っこに背もたれの無い椅子で座り込み、壁を背もたれにしていた。瞼はうっすらと絵本を眺め、ページを捲ろうとはしない。いつもはあんなに早く本を読むのに、その動作は緩慢だった。心がまるで絵本の中に潜り込んでいるような、そんな顔をしている。

「沙那さん」

彼女の名を呼ぶ。一度も呼ばなかった名を。

「ごめんなさい……」

ゆっくりと顔を上げた彼女は、僕の事を見つめ、それから静かに謝った。押し殺し過ぎて、胸から絞り出した悲しそうな声で。

君がそんな顔をするのは間違ってる。悪いのは僕だ。

「沙那さんは悪くない。悪いのは僕だ」
「……そんなことない」

微かに首を振りながら彼女は言う。

「私も、逃げてたから。待ってただけだった。だから言わせて下さい」

僕を見上げる彼女の瞳は、僅かに潤んでいた。それでも、その奥にはきっちりとした決意の色が宿っている。いつも真っ赤なその頬は、いつもよりも余計に紅潮しているように見える。

しばしの沈黙の後、彼女はその瞳には不釣り合いなほど小さな声で呟いた。

「……好きです」

雨が触れるように小さな言の葉は、冬の光に照らされる僕らにゆっくりと響いていった。

二人で喫茶店に戻って一番最初に聞いたのは、馬鹿笑いするお婆さんの甲高い声と、店長の悲壮な叫び声だった。

「ほらね! ほら言ったじゃないか! あたしの勝ちだよ、あっははははは」
「なんでよ〜二人乗りはロマンでしょう! なんで自転車持ってて二人乗りしないの? ね〜ぇ〜!」

それらの雑言を無視してカウンター席に座る。三重棚も隣にちょこんと腰かけた。ここに座っているのを見るのは初めてだ。なんだか少し落ち着かない様子。

「というわけで2回分のコーヒー代はタダってことだね」
「あ〜も〜。 穂南くん、なんで二人乗りしてこなかったの。ロマンでしょ」
「何が言いたいんですか。大体分かりますけど」

どうせ二人乗りして来るか来ないかで賭けでもしてたんだろう。なんていうか、自由な人達だ。

「二人乗りか歩いてくるかで賭けてたのに〜。はぁ〜」
「せっかく二人で手に入れた二人だけの時間を、二人乗りなんかで縮める訳ないじゃないか。まだまだだねぇ。ひっひっひ」

三重棚が首を振って頷く。

それを見てまるでカラスのように笑うお婆さんは、今まで見たことがないくらいに生き生きしていた。

「このマグカップと同じさ。目が見えないあたしが相手なら、熱くなってる場所を触らないように、すぐに熱くならないものに注ぐ。心遣いを探ってけば簡単さね」
「そうそう。そういう心遣いが〜」
「あんたはあたしに言われてからそうした癖に威張るんじゃないよ」
「ありゃりゃ」
「ふふ……」

三重棚が綻ぶように笑った。控え目だけど綺麗な笑い声。三重棚らしい笑い声。それに釣られて皆が笑いだす。僕も店長もお婆さんも。冬の光の中で。

冬の暖かくない光の中なのに、そこだけは何故か暖かかった。

2010-04-06 22:25:24公開 / 作者:飴
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ありがとうございました!
出来ればこの作品が、少しでもあなたの心にゆとりを与えるものになってくれれば、嬉しく思います。

この作品に対する感想 - 昇順
初めまして、鋏屋【ハサミヤ】と申します。御作読ませていただきました。
周りの風景や、その場の雰囲気の描写がとても繊細で、それが物語り全体の雰囲気をとても綺麗な物にしている感じがしてそれがこの作品の味なのかなと思います。
ただ、所々の改行とスペースが作品を全体的に安っぽくさせてしまっている感じがするのが残念です。台詞と地の文をわざわざ分ける必要はないように思いますし、台詞を2回以上連続させるのは、お話自体を薄くしてしまう恐れがあるのと、読み手に混乱を招く危険性が…… その部分が凄くもったいない気がしました。あと、字下げをしましょうかw
物語的には青春の1ページを切り取った感じで、すっと入り込めて良かったと思います。
次回作もお待ちしております。
鋏屋でした。
2010-04-09 12:01:59【☆☆☆☆☆】鋏屋
ありがとうございます。

前に書いた小説なのでコピペで貼り投稿しました。
誤字はないと思われますがもしかしたら改行ミスがあったかもしれません。

次回作は今の時点では未定ですが過去作品を載せるかもしれません。
その時はまたよろしくお願いします。
2010-04-09 12:53:23【☆☆☆☆☆】飴
こんにちは! 羽堕です♪
 登場人物の誰もが個性があって良い雰囲気だなって感じました。常連のお婆さんとか好きです。
 主人公と彼女との微妙な距離感や、店長とお婆さんとのやり取りなど楽しめました。ラストも、そうなったら嬉しいなって展開で、本当に青春だなって感じで面白かったです。
 少し全体的に空白行が多いように感じました。あと文頭の一字分字下げは、してあった方が読みやすいです。
であ次回作を楽しみにしています♪
2010-04-09 16:24:34【☆☆☆☆☆】羽堕
羽堕s>>
ありがとうございます。

前にも言ったように過去作品のコピペなのでそこらへんのミスが生じるかもしれません。
今度からは空白行や一文字下げなどに気をつけていきたいと思います。

次回作もどうかよろしくお願いします。
2010-04-11 11:22:19【☆☆☆☆☆】飴
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