『挑戦の密室』作者:文矢 / ~Xe - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
この物語で、読者の皆さまに挑戦するのは次の二つの問題です。・犯人は誰なのか?・どうやって密室にしたのか?物語内には全てのヒントが書かれている筈です。あなたは、この謎を解けるでしょうか?
全角33434文字
容量66868 bytes
原稿用紙約83.59枚
登場人物紹介 ()内は年齢

【自殺者】もしくは【被害者】 狩野太郎(56)……白馬館、宿主
【容疑者】 狩野冬美(56)……太郎の妻
      七岡智彦(56)……太郎の親友。201号室宿泊
      多田武(21)……204号室宿泊
      稲本淳(36)……205号室宿泊
      稲本明美(36)……淳の妻。205号室宿泊
      宇野敏明(29)……206号室宿泊
【容疑者外】 倉本高(26)……古本屋。私。202号室宿泊
       立川正志(26)……刑事。202号室宿泊
       松本(44)……県警の警部。
       有辻興太(26)……トマト学者

※本当の事件なら、誰も容疑者から外せない筈だが、これはあくまで推理小説。知的ゲームである。よって、シリーズキャラクターでもあり、ワトソン役などもつとめる倉本高、立川正志の二人は容疑者から外される。有辻はそもそも、現場にいなかった。犯人は【自殺者】、【被害者】、【容疑者】の中にいる。かの有名な作品のようなトリックは仕掛けられていない。
※この物語では、動機から犯人を決める方法は無理であることをここで告げておく。犯人は人を殺したいと思っている殺人狂で動機など無いのかもしれないということだ。あくまで現場の状況から論理的に犯人を決めてほしい。作者は全てのヒントを出している筈だ。


1.
「まず、最初は死体の発見シーンから始まる。これは、読者の興味をこの物語に引き込みやすくする為であって、叙述トリックなどの意図は無い」
 
 どんどん、と誰かがドアを叩く音と川の流れの音で目が覚めた。叩かれているドアは、私の泊まっている部屋のドアでは無いようだが。よく聞いてみると、音源は一階だということが分かった。川の流れについては外の小川から聞こえてくるのだろう。
 時計を見る。午前七時十一分。隣のベッドを見ると、まだ立川は寝ている様子だ。
 様子を見てみるか―― 私はそう思ってベッドから抜け出し、すばやく着替えて、靴を履き、顔も洗わずに部屋から出た。
 廊下に出ると、さらに音がはっきり聞こえる。やはり、一階から聞こえてくる様子だ。私は階段を下りて、一階に向かう。
 旅行先の朝というのは何とも不思議な空気を出すものだな、とか考えながら、私は階段を下りていく。まだ頭がハッキリしていない。顔を洗ってから出るべきだったか? 目ヤニだけは目をこすって取り除く。
 ドアを叩いていたのは、冬美さんだった。叩いているドアは102号室……ここの宿主、太郎さんの部屋だ。太郎さんの、趣味の部屋。パソコンと本棚があると聞いている。彼は昨日、そのパソコンで推理小説を書いていると言っていた。
「どうしたんですか?」
「あら、倉本さん。おはようございます……ちょっと、うちの人がこの部屋に入ったまま出てこないんです」
「……いつからですか?」
「それが分からないんです……昨日の夜、私が部屋に帰ってからずっとここにいるみたいで……」
「本当に、この部屋にいるんですか? 電気もついてないみたいですし……どっか外に行ったのでは?」
「裏口も、表門も、中から鍵がかかっているんです」
「成程……」
「お客さんの部屋にも行っているとは思えませんし……でも、いつもはこの部屋にいる時もいない時も鍵なんかかけてないのに……」
 冬美さんが少し笑った。私も笑い返す。
 そして、冬美さんはドアを叩くのを再開した。しかし、やはり返事はない。私も「太郎さん」と呼んでみるが、何も返ってこない。結構大きな声を出していると思うのだが。寝ていても、そろそろ起きるんじゃないだろうか?
 そうこうしている内に、立川と201号室の七岡智彦が下りてきた。二人とも着替えては来ている。立川は大分眠そうだったが、七岡にはそういう様子は無い。
「あ、本職の人が来ました」
 私がそう言うと、冬美さんは「本職?」と私に聞いた。私は答える。
「あれ、言っていませんでしたっけ。立川の職業は刑事なんです」
「そうなんですか……」
 冬美さんは本当に知らなかったらしく、驚いた様子だった。
「おはよう。どうした? 倉本」
 立川が言う。
「太郎さんがこの部屋の中に入ったまま、出てこないんだよ」
「この中にいるのは確かなのか?」
「寝室にもいなかったし、裏口も表口も中から鍵がかかっていたとさ。だから、中にいるとしか思えないだろ?」
「成程ね。冬美さん、合い鍵は無いんですか?」
「他の部屋はつくっていたんですけど、この部屋は主人の趣味の部屋なのでいらないか、と……」
「無いんですか……」
 立川が冬美さんをドアの前からどかし、ドアを叩きはじめる。さすが本職、というべきかかなり大きな音がでる。さっきの冬美さんとは比べ物にならない。比べる物でもないのだが。やはり、二十六歳の若者と五十歳を過ぎた女性では力が全然違う。
「じゃあ、俺は外から様子を見てみますよ。窓から。たくっ、太郎の奴人騒がせな」
 七岡はそう言うと、玄関から出て行った。立川はドアを叩き続ける。
 二階から、また人が下りてきた。そっちを向くと、すぐに金髪が見えた。多田だ。大学にも行ってない、フリーターの男。
「オハヨーゴザイマス」 
 多田はそう挨拶をした。私と冬美さんは返事を返す。立川は返さない。冬美さんが多田に事情を説明する。
 七岡が外から帰って来た。
「駄目だ。雨戸が閉まっている。外から開けられないようにロックもかかってた」
 その報告から、私は一つの連想をした。もしかしたら、もしかしたら、今この部屋は推理小説で言う密室なのではないだろうか? だとしたら、だとしたら? そのパターンなら……中には……。不吉な連想が私の脳内を走る。
「中に閉じ込められているわけでも無いみたいだな。最初は鍵をかけてから、鍵を無くしてしまったのかと思ったんだが……」
 七岡が呟く。ここの鍵は、中からかける時にも鍵が必要なタイプなのだ。
 立川は力強くドアを叩き続けたが返事は無かった。立川はゴツイ指で自分の頭をボリボリと掻き、もう一度ドアをドン、と叩くと中に向けて叫ぶようにして言った。
「一分間の内に返事がありませんでしたら、ドアを破らせてもらいますよ! 聞こえますか? 鍵を開けてください!」
 しかし、中から返事は一向に聞こえない。聞こえる気配すらない。太陽神は部屋に隠れたままだ。一分間はすぐに過ぎた。
「ドアを破ってもいいですかね?」
 立川が少し苦笑いをしながら冬美さんに聞く。
「そうですね……どう考えても普通な状況じゃありませんし、いいです。やっちゃってください。もし、中で寝ているだけだったら笑い話にして済まします」
 冬美さんが小さく笑いながら言う。この言葉を聞いて、立川は覚悟を決めた様子だった。
 私は蝶つがいを確認する。やはり、このドアも他のドアと同じように内開きだ。ドアを破りやすくはあるのだろう。
 ドン、と大きな音がした。立川がドアにタックルを始めたのだ。一回、二回、三回と何度も何度もタックルをする。ゴツイ体がタックルをしていると、かなり迫力がある。ラグビーやアメフトの試合みたいだ。手伝おうにも、手伝い方が分からない。私達はただ、立川を見ていることしかできなかった。
「何やっているんですか?」
 二階からまた人が下りてきた。そっちを見ると、眼鏡をかけた男がいた。キチッとしたイメージを見ている者に抱かせる男。宇野だった。宇野には、多田が状況を説明している。
 そして、ドアが破られた。
 立川が走るようにして部屋の中に入る。私たちもつられるようにして部屋の中へと入って行く。
 太郎さんの趣味の部屋、というとほこりっぽいのかもしれないな、と思っていたのだが、そんなことはなかった。その代わり、何か変な臭いがしたような気がした。
 まず、立川の足が止まった。次に立川のすぐ後ろの位置についた私。三番目は七岡。後ろがつかえる。多田の「何止まってるんだ?」という声が聞こえる。冬美さんが、七岡と私の間から部屋の中を見る。そして、冬美さんが悲鳴をあげて倒れる。誰も、冬美さんを支えようとしなかった。冬美さんが倒れるよりも、注意を惹きつけられる物が部屋の中にはあった。
 部屋は暗かった。電気はついてなく、雨戸も閉まっている。部屋の中で光がついているのは窓の左端に置かれているパソコンのディスプレイだけだった。そのディスプレイの画面が、部屋を照らしている。
 部屋は四角形の形をしていて、部屋の右側と入り口側の壁には本棚が置いてある。本棚にはズラリと本が並んでいる。本の題名は暗くて読めないが、随分とたくさんある。左側の壁には何も無く、後の一辺は窓だ。雨戸の閉まっている。暗いが、ほこりが積もっている様子ではない。
 そして、部屋の真ん中に倒れている物。それは、太郎さんだった。ただし、死体の。
 パソコンの白い光に照らされて、その死体はよく見えた。胸にナイフが刺さっている。あまりでかいナイフでは無い。果物ナイフだろうか。ナイフは刺さったままで、あまり血は出ていない。顔は驚いたような表情をしているが、人間誰でも死ぬ時にはそういう顔をしているんじゃないかと思う感じの顔だ。そして、奇妙なのはその手だ。手袋を、ゴム手袋をはめているのだ。よく見てみると、太郎さんの横にはタオルみたいのも置いてある。どういうことだ?
 吐き気は無かった。あまりグロテスクではない死体だからかもしれない。だが、足が震える。気を抜いたら、女の人みたいにヒステリックな声が出てきそうだ。目の前の光景に、現実感がない。まるで、遠い国の出来事のよう。ありえない。私が生きている世界は、推理小説の世界ではない筈だ。それなのに、それなのに。
 密室殺人―― 今まで、小説の中でしか見たことがない言葉だ。それが現実に起こっているのだ。ドアの鍵は閉まっている。雨戸も閉まっている。そして、中には太郎さんの死体が……
 立川の足がようやく動く。死体の方向ではなく、パソコンの方だった。私の足は震えて動かない。ここに座りこみたい。
「何だ……これは?」
 立川の声が聞こえてくる。パソコンのディスプレイを見ている。立川のゴツイ体が影となって本棚に映し出されている。
 私の足がようやく動くようになる。そして、パソコンの方へ歩いて行く。死体の方にはいきたくない。死体を視界に入れたくない。それでも、好奇心はある。自分が分からなくなってくる。何かで、何かで気を紛らわせたい。
 私もパソコンのディスプレイを除きこむ。開いているのは、パソコンのメモ帳機能のようだった。中には文章が書き込まれている。ページの上にはタイトルが見える筈だが、タイトルは無い。保存はされていない様子だった。
 そこに書かれているのは、まさに謎の文章としかいいようがなかった。見ている者を混乱させる文章。そこに書かれていたのは、挑戦だった。死体からの、挑戦。
 

「私は自殺したのか? それとも、殺されたのか?

 この文を読んでいるあなたへ私は質問をしている。
 この部屋の中に、死体が転がっているだろう。もちろん、あなたは既にそれを目にしていると思うが。
 そして、この部屋の鍵は閉まっていた筈だ。窓の方も、雨戸が閉まっていて鍵がかけてあっただろう。
 部屋の鍵は、このパソコンのある机に置かれている筈だ。キーボードの横を見てほしい。そして、次に窓の鍵を確認してほしい。ちゃんと閉まっている筈だ。緩みなく、きっちりと。
 そう、この部屋は密室状態なのだ。そして、その中で私が死んでいる。
 ナイフの位置は、自分でも刺せる位置に刺さっている筈だ。
 確認は終わっただろうか?
 それでは、もう一度問おう。
 
 私は自殺したのか? それとも、殺されたのか?

 この文書がパソコンに打ち込まれているのは私が書いたのか、それとも私を殺した殺人犯が書いたのかを分からなくなる為であるというのは、言うまでもないだろう。」

 
 何だ、これは? さっき、立川が呟いた言葉を私も呟きそうになる。どういうことだ? これは何の為に書かれたのだ?
 鍵は、言葉通り机の上に置かれている。それを見ると、私と立川はすぐに窓の方の鍵を確認した。その鍵も、「挑戦」通り、きっちり閉まっている。完全な、完全な密室だ。
 七岡と多田と宇野の三人も、部屋の中に入ってきていた。各々が、色々な反応をしている。私と同じように、死体から逃げるようにパソコンの画面を見たりしている者もいる。結局、その三人も全員パソコンの前まで行ったことになった。
 立川は急に正気づいたように大声で言う。
「おっお前ら、現場から出ていけ! こっここは立ち入り禁止だ!」


2.
「ここで時間は少し遡る。トラベルミステリが好きな人には悪いが、倉本と立川の二人の旅の様子はあまり描写されない。勿論、事件を解決するヒントはこの時点で出されているのでご注意を。探偵役となる男、有辻興太が少し登場する。彼がトマト学者というわけ分からない職業についていることは事件にはあまり関係ない」

 私は旅行をすることが好きだ。
 いや、嫌いな人などいるのだろうか? とにかく、私は旅行が好きだ。大学生の頃から友人たちを誘ってよく旅行に行った。城めぐりも好きだし、のんびりと宿で時間を過ごすのも好きだ。
 二十六歳になった今でも、同じように旅行に行きたくなる時がある。そんな時、私は友人である有辻興太から旅行に誘われたのだ。彼は私の古本屋に来ていつものように「トマァト」と挨拶――彼曰く、トマトを愛している者同士ならトマトの一言でも挨拶になるということらしい。私はトマトなんて愛していないのだが――をした。
「旅行に行かないか? 立川と僕とお前の三人でさ。男のみの旅行はまあ、空しいちゃあ空しいけどまあいいだろ」
「古本屋とトマト学者と刑事の三人か? カオスだな」
 私はそう言ったが、旅行に行くことには賛成した。
 立川も、有辻も小学校に通っていたころからの友人だ。腐れ縁とでも言うべきなのだろうか。
 古本屋は私の職業、刑事は立川の職業、トマト学者は有辻の職業だ。もちろん、そんな職業がこの世界に存在するわけは無いのでトマト学者というのはただの自称なのだが。彼は実質フリーターだ。しかし、彼はあくまでトマト学者だと言い張っている。
 そうやって、私達は二週間後に旅行に行くことに決定した。三人でメールとかで旅行先を決め、私が宿を探して手配するという役割分担となった。誘ってきたのが有辻なのだから、私が手配するのはおかしいと思うのだが。私は古本屋という職業があるのに有辻は実質フリーター。暇なのはどう考えても有辻だ。
 予想外な出来事が起こったのは旅行の一日前だった。私のところに、有辻から電話がかかってきたのだ。
『……トマァト……』
 いつもとは違う、元気のない声が受話器から聞こえてくる。いつもは嫌ってぐらい元気に、陽気に大声で言ってくるというのに。私が「どうした?」と言うと、有辻は咳をしながら答えた。
「風邪を、風邪を、ひいた……」
「明日旅行だぞ?」
『二人で、行ってくれ……明後日には、間に合う、かも、しれない』
「トマトを食べてれば常に健康じゃないのか?」
『大局的には、健康、なんだよ。時々は、風邪ぐらい、ひくさ……』
「ああ、お大事にな……」
 おいおい、と思いつつ私は電話をきった。そして、そのまま宿の方へと電話をかける。一部屋分キャンセルの電話を。二人で二部屋は快適だろうが、値段が高すぎる。
 ということで、私と立川の二人で旅行に行くことになったのである。

「旅行に行くなんて何年ぶりだよ」
 旅行先に行くまでの電車の中、立川がそう呟いた。ボックス席の電車だ。おお、旅って感じじゃん。私はかなりワクワクしながら駅弁を食べていた。
 友人、立川はかなりゴツイ体をしている。言っちゃ悪いが、動物に例えるならゴリラって答えるだろう。だが、かなり優しい男だ。人の見た目と中身というのは分からないものだ。
「俺はそこまで久々じゃないけどな。一人でブラブラ旅行に行くのは好きだな。鎌倉ぐらいなら結構フラフラしてるよ」
 緑色のパッケージのお茶を飲みながら私が言う。
「いいよな。古本屋は。自分の都合で店も休めるんだろ? バイトとかも雇ってないから。その点、刑事は違うんだよ……もしかしたら、旅行中でも呼び出されるかもしれないからな」
「携帯の電源切っとけば?」
「それはできないんだよ」
「まあ、大変だねえ。でもさ、俺も生活していけるかどうか分からないっちゃあ分からないんだよ。結婚もできない儲けだし」
「お前が結婚できないのは顔のせいだろ」
「……お互いな」
 二時間ほど、そんな話をしながら電車に揺られた。そして、アナウンスが流れる。目的地にたどり着いたのだ。まずは、寺巡りだ。

 とりあえず、予定としていた寺や神社、観光地を回りきった。予定より少し遅いぐらいの時間で、二人で話し合った結果、さっさと宿に行こうということになった。ということで、私達二人は宿のある辺りまでバスで行き、そこから歩いて宿へ向かうことにした。ボストンバッグを駅のロッカーから取り出して。
 バスから降りて地図を見ながら宿を探す。だが、なかなか見つからない。二十分程探し回った末、タバコ屋のおばちゃんに場所を聞くことにした。
「お姉ちゃん、白馬館って宿知らないか?」
 立川がそうタバコ屋のおばちゃんに話しかける。お姉さん、と呼んだのは聞き込みの時のテクニックだろうか。
「それならそっちの山を少し登ったところだよ」
「山?」
「ほら、あれだよあれ。あそこの道を歩けばすぐに分かるよ」
 おばちゃんが指差す方には、確かに小山があった。道も続いている様子だ。成程、あの道を歩いていけば私たちの泊まる宿、白馬館に辿りつくのか。あまり厳しそうな道ではないが、木に囲まれているので夜に通るとかなり怖そうだ。
 そう思いながら辺りを見渡していると、ちょと違和感を発見した。タバコ屋の正面が空き地になっているのだ。かなりでかい敷地が、空き地になっている。いや、よく見れば木材が転がっている。あれは何だ?
「すいません、前のあの土地……何かあったんですか?」
 私がおばちゃんに聞く。おばちゃんは即答してくれた。
「あれはね、火事だよ、火事。火事があったのさ」
「火事?」
「前はね、ちょっと洒落たイタ飯屋と鍵屋と……ああ、本屋だ。まあ、その三軒があったんだけどね。タバコの不始末か何かでボワッだよ。イタ飯屋の人だけは生き残ったんだけどね……鍵屋と本屋の人は焼け死んじまってさ……」
「そりゃ、大変だな。放火なら遺族の怒りの先もあるが、タバコの不始末じゃあ遺族もどうしようもねえしな」
 立川はそう言うと、私に声をかけた。日が暮れない内に行こう、ということだ。私達はおばちゃんに礼を言うと歩き出した。さっさとこのボストンバッグを部屋に放り投げたい。
 山の中に入って行く感覚が好きだ。なんかワクワクする。山道に入る直前はものすごくワクワクする。これは私だけなのだろうか? そんなことを思いながら、白馬館へ向かう道を歩いていった。
「さっきの話だけどさ、俺は放火っていうのが一番苦手なんだよな……まず、事件が発生した直後は警察が介入できないだろ? 証拠も何もかも燃えちまう」
「まあ、そうだろうね」
「で、死体が発見されたらさらに嫌になる。誰の死体かってところから捜査が始まるからな。遺族に見せるわけにもいかないし」
「黒こげの死体なんて想像したくないよ。というより、死体を想像したくないよ。俺は」
 道の途中で「左 白馬館へ」と書かれた看板を見つけた。そこで左に曲がり、少し歩くと白馬館の姿が見えた。
 名前の通り、真っ白な建物だった。あまり大きな宿ではない。アパートぐらいの大きさの宿だが、お洒落といえばお洒落だ。建物の前に、小川が流れている。小川といっても、飛び越えることはできない。勿論、橋がかかっている。幅が広い橋で、車一台ぐらいなら楽に通れるくらいの幅だ。よく見ると、建物の横に駐車場という看板が立てられていて、車が一台止まっている。
 テラスも無いし、キレイなネオンもあるわけではない。もちろん、プールなんて存在しない。本当に、小さい宿だ。外から見たら宿かどうかの判断に苦労する。しかし、キレイだな、とは思わせる。白馬館はそんな建物だった。
 ただ、建てられたのはかなり昔であるらしく、壁も真っ白というわけにはいかないようだった。少し黒ずんでいるところがあったり、ひび割れているところもある。だが気になる程ではないし、むしろ味が出ているんじゃないか、と思う感じだ。ただ、建物の入り口の横に自動販売機が二台あったのが少し残念だ。缶ビールと、ジュースの自販。
「あれだね。宿泊料があんなに安いのに、外見からはかなりお得な感じだね」
 私はそう言うと、入り口に向けて歩き出した。後ろから立川が追って来る。
 玄関は、白い両開きのドアだった。その片側だけが開いていて、片方に「WELCOME! HERE IS HAKUBAKAN!」と書かれた看板が掛けられている。この看板は、はっきり「古いな」と思ってしまった。
 私より先に立川が中に入って行った。さっきから私と立川の位置が入れ替わりまくっている気がする。いや、別にそんなことはどうでもいいんだけど。
 中に入ると、初老の女性がまず目に入った。ガラス越しに彼女が見えた。壁の一部分がガラスになっている、といった感じで、そのガラス部分の上には「受付」と書かれた紙が貼ってある。
 なんとも、説明が難しい。まず、左右を逆にしたL字型の廊下を思い浮かべてほしい。その角の部分に玄関がある。短い方の辺の先にはソファがあり、長い方の辺の先には階段がある。その短い辺の方の廊下の玄関から見て向こう側の壁の一部がガラスになっていて、受付になっているのだ。
 そして、その女の人が言う。
「ようこそ、白馬館へ。狩野冬美と申します。ご予約のお客様ですか?」
 私は、この人のことをキレイな人だな、と思った。別に、恋愛感情的な意味でも何でもなく、この人は、キレイだ。私はそう思ったのだ。
 私は答える。
「倉本です。……予約、してましたよね?」
「はい、もちろん。倉本高さんですね? 二人で一部屋、ご予約の」
「はい、すみません。一部屋キャンセルしてしまって……」
「いえ、別に構いませんよ。あなた、鍵」
 彼女は自分の後ろに向けてそう言った。すると、彼女の後ろから「はいよ」という声が聞こえてくる。そして、ドアから初老の男性が出て来た。大柄な体だ。服はかなりラフな感じで、顔は職人、といった感じの顔だ。だが、ムッスリ、という顔はしてない。手に、茶色い何かを持っている。
 初老の男は言う。
「はい、ようこそいらっしゃいました。白馬館オーナーの狩野太郎と言います。これがあなた方の部屋の鍵です。一つしか渡せないんで気をつけてください。部屋番号は202号です」
「一つしか渡せない? ああ、合い鍵があるんですね」
「ええ、そういうことです」
 この夫妻、二人ともさん付けをしたい印象があった。太郎さんは少し無骨というか、昔ながら、といった感じのイメージなのだが、それでもさん付けをするべき感じを受ける。
 太郎さんは立川に鍵を渡した。四面が長方形、残りの二面が正方形の直方体の、黒っぽい木のキーホルダーが付いている。一面にだけ、金文字で「202」と彫られている。それに紐でつないである鍵に別に変なところは無い。
「ああ、鍵は全ての部屋の鍵が同じデザインなんで気をつけて下さいね。ちゃんと部屋番号を確認するように」
 冬美さんが受付から言う。私が答える。
「はい、分かりました」
「部屋については、バスとトイレットが各部屋についているので、それをご利用下さい。一階はこの部屋ともう一つ隣の部屋が私たちの部屋で、その向こうの広い部屋が食堂となっております。食堂は食事の時以外は出入り自由ですので、交流スペースとしてお使い下さい。食事は七時から、と決まっておりますのでその時間には食堂にいて下さいね」
 冬美さんはそう言うと、二コリと笑った。
 やはり、キレイな人だ。


3.
「倉本と立川が宿泊者の面々と出会う。会話の中でもヒントがある程度出されているのは言うまでもない。彼らの話の話題はころころ変わる。食堂の中についてはあまり描写されないが、それは事件に関係がないからである。事件はまだ起こらない」

 階段を上がると、二階に出る。
 私達が宿泊する202号室は階段をあがったところから見て、二つ目の部屋だった。鍵を持った立川が先にドアの前に立つ。そして開ける。
 部屋は、しっかりとした物だった。入ったら、右側にドアがある。多分、トイレと風呂なのだろう。それを過ぎると、ベッドが二つ置いてある。ベッドとベッドの間には電話が置かれている。テレビや冷蔵庫は壁際にあり、クローゼットもある。テレビや冷蔵庫の隣あたりに、机とイスが置かれていた。ベランダは無かったが、窓は大きく、外の様子が見える。森や、その後ろに街の様子が見える。中々キレイだ。夕暮れの街。
「へえ、かなりキレイじゃん」
 立川がそう言いながら、バッグを右側のベッドに放り投げた。おい、勝手に自分のベッドを決めるなよ。自然に、私のベッドは左側になる。いや、別に位置なんかどうでもいいっちゃあどうでもいいのだが。
 立川はベッドに寝転がり、私は壁際にあるイスに座った。やっと一息つけた、という感じだ。立川が部屋の鍵を投げてきた。私はそれを机の上に置く。
 旅行先の空気。これこそが、旅の最大の楽しみだ。私はボーッとしながら思う。この空気。いつもとは違う場所で寝たり、物を食べたりする。私は、この感じがたまらない。修学旅行の旅行先に早めについた時の、あの時間。皆が帰って来るまでのあの時間。あれと同じというか、何というか。とにかく、ワクワクしたりドキドキする。一人旅でも、二人旅でも、何人旅でも。
 ふと、時計を見る。午後五時四十七分。確か、冬美さんは午後七時から夕食と言っていた。まだ、大分時間がある。もうちょっと寺を回っていたりしても良かったな、と思う。
 十分ぐらい、そうやってボーッとしていると、立川がごろごろ転がりながら――ゴリラのようなあの体で! 立川の方を凝視してたら私は噴きだしていただろう――私に話しかけてきた。
「そういや、食堂が交流スペースとか言ってたな」
「ああ、ここに来る時も何か聞こえてきたな」
「行ってみるか」
「ああ」
 私達は立ち上がり、部屋から出る。無論、鍵はきっちりとかけて。泥棒がこの宿に泊まっているとは思えないが、それでも鍵はかけとくべきなのだろう。アメリカとかだったら鍵かけないとか自殺行為なんだろうが。
 階段を下り、「食堂」と書かれたプレートのかかったドアを開ける。すると、中の声がハッキリ聞こえてくる。当然すぎることなのだが。
「おや、お仲間さんか。何号室です?」
 まず、初老の男性――太郎さんや、冬美さんと同じぐらいの年齢だろう――が、話しかけてきた。
「202号室ですね。倉本高といいます」
「俺は立川正志です」
「倉本さんと立川さんね。俺は七岡智彦って言います。ここの主人の太郎の友達だ。よろしく」
「よろしくお願いします」
「そう固くなるなって」
 七岡は大分、フランクな態度で話していた。私と立川は食堂の中から適当にイスを選び、そこに座った。
 食堂といっても、そうは広くない。長いテーブルが二つ置かれていて、そのテーブルの横にイスがある。奥はカウンターになっていて、今はそこに誰もいない。台所らしい。イスは各テーブルに左右六個ずつ置かれている。中にいる人数は五人だった。それぞれが自己紹介をする。
 一人は、七岡。この男は入り口に近い方のテーブルの真ん中の席に座っている。太郎さんが大分、大柄なのに大して七岡は小柄だった。だが、顔のゴツさはあまり変わらない。職業は靴会社の副社長ということだった。中々偉そうな肩書だ。白馬館には三日前から泊まっているらしい。たまに、泊まりたくなる時があるからだとかいう、私にはいまいち分からない理由だ。
 その七岡の右側の席に座っているのが多田武。ワックスで頭をかためている金髪の若者――二十一歳らしい。私達が二十六歳だから若者と言ったって構わないだろう――だ。顔はあまり良くないが、一瞬格好よく見える。愛想は中々良い。職業はフリーターとのこと。フリーターと言っても、私の友達のトマト学者とは大分違うフリーターだ。こいつは昨日から泊まっているとのこと。今日はただ、ブラブラこのあたりにいただけだとか言っていた。
 玄関から見てもう一つのテーブルに座っているのが稲本夫妻だった。稲本淳と、稲本明美。両方、中々の器量だ。稲本明美は見た目からしておとなしそうな人で、稲本淳は大分明るい感じの人だ。どちらも話していると大分面白い。夫妻で喫茶店をやっているらしい。この二人は私達と同じように、今日観光した後、ここにやってきたとのことだった。
 その右端に座っているのが宇野敏明。見るだけでキッチリとしたイメージを抱く。そんな人だ。服装は大分ラフなのに。七三分けのせいだろうか? 職業はサラリーマンとのこと。見た目通りだ。こいつも今日から泊まっているとのこと。
「今日は何処に行って来たんですか? ここに来るってことは旅行ですよね?」
 稲本淳が聞いてくる。
「そうですね。俺達は寺巡りをしてきました」
 立川がそれに答える。
「寺ですか! 私もそうなんですよ。何処の寺に行って来たんですか?」
 宇野がそれに反応する。寺好きなのか? こいつ。どうも、きっちりしている。偏見とかそういうのなんだろうが、このきっちりさがどうも気になる。だから友達少ないんだな、自分。
 そうやって話が続いていると、ドアが開いて太郎さんが入って来た。
「おう、太郎」
「何だよ、智。えー、皆さん。食事まではまだですが、コーヒーはどうでしょうか?」
 七岡の言葉を太郎さんは適当に受け流し、部屋の皆にそう言った。勿論、反対する者はいなかった。太郎さんは食堂のカウンターの向こう、台所に行き、コーヒーを用意し始めた。
「期待していいぞ。太郎は料理だけは、料理だけは上手いからな」
 七岡が笑いながら言う。それに違和感を持ったのか、多田が言う。
「だけはってやけに強調してないスカ?」
「本当にだけになんだよ。太郎は料理以外は家事を一切しないからな。冬美さんも可哀そうだ。掃除機の使い方すら知らないだろうな、多分」
「ちょっとそこ黙れよ」
 七岡の言葉に太郎さんが言う。部屋が笑いに包まれる。
 太郎さんのコーヒーは、七岡が言う通り美味しかった。普段、インスタントしか飲まない私のような人には勿体ないぐらいだ。いや、勿体ない。
「そういや、こういう時に太郎さんのコーヒーとかって言いますけど、英語でミスタータロウズコーヒーって言ったら意味が変わりますよね」
 宇野がコーヒーを飲みながら言う。そういうところが気になるのか。やはり、きっちりとしている。
「そうですね。コーヒーってやって、関係代名詞とかを使うんでしたっけ?」
 明美が反応する。
「まあ、英語でやるといまいち意味が伝わらない物ってのはありますよね。吾輩は猫であるなんて、英語にしたらアイアムキャットでしょう?」
 淳が言う。この夫妻はお喋り好きらしい。悪い人達ではない。
「英語から日本語にする時もまあ、色々とありますよね。推理小説とか読んでて、「あたい」とか「俺」とかも翻訳者がやったもので、本当は全部アイムでしょう?」
 私がコーヒーを飲みながら言う。すると、太郎さんが反応した。
「推理小説? いやあ、私も好きなんですよ。コレクション的には中々自慢できるくらいでしてね」
「へえ、どのようなものです?」
 太郎さんの言葉に私は答える。コレクション? 私の古本屋という職業としての興味と、推理小説好きとしての興味の二つがそそられる。
「私はどうも、カーが好きでね。カーはポケミスのカーから文庫のカーまで全て持ってます。カーのサイン本もありますよ。他にもクイーンのサインやら、島田荘司やら……あ、ミーハーと思わないでくださいね。サイン本手に入れたら、嬉しいものでしょう?」
「ほう。そりゃあ、見せてもらいたいですね。ミステリ好きとしてはもちろんですし、私は古本屋なのでそっちとしての興味もありますしね」
 私がそう言うと、太郎さんは笑いながら「じゃあ、行きます?」と聞いてポケットに手を突っ込んだ。
「いやあ、そろそろ時間的にあれだろ。六時過ぎてるぜ」
 七岡が言う。
 太郎さんと七岡は名コンビなのだろう。年十年来ぐらいの。二人とも、そこら辺の漫才コンビよりピッタリ息が合っている。私はコーヒーを飲みながらそう思った。
「六時過ぎててもねえ。まあ、確かに俺は料理つくりに来たんだけどさ」
「それにしても、クイーンとかカーのサイン本ですか。私はどうも、そういう本には出会ったことがないんですよね。クイーンのサインってリーとダネイの二人のサインですかね? それとも、エラリークイーンでまとめてますか?」
「エラリークイーンでまとまってるやつですよ」
 太郎さんはそう言うと、台所部分の方へまた歩いて行った。
 どうでもいいが、こういう時、俺とか私とか一人称が安定しない。太郎さんもそうだし、私もそうだ。初対面の人の前で俺とかはあまり言えない。まあ、実生活でそこを注意してくる人なんていないだろうが。
 その後も、同じような調子でフラフラと適当に話題が変わる。段々と、全体的に場が和んでくる。
 そして、夕食の時間となった。


4.
「事件はまだ起こらないが、重要なヒントがここで出されるので注意。この章の後に事件が起こる。また、狩野太郎の夕食についてはあまり触れないのでご了承を」
  

 夕食は美味しかった。
 この料金で、こんなに美味しいのを食べても良いんだろうか? 他の宿泊客も思ったらしく、淳が冗談めかして太郎さんに聞いていた。冬美さんがその質問に「主人の趣味ですから」と答えていた。
 夕食の後片付けは冬美さんがやっていた。太郎さんは、料理をしても後片付けとかは冬美さんにやらせるらしい。七岡が「ほら、何もやんないだろ?」と冷やかす。食事を運ばせるのも冬美さんがやらされていた。コーヒーは太郎さんがいれていたが。
 食事の時、少し席が変わった。まず、入り口から見て一列目のテーブルの入り口側に私と立川、向かい合って太郎さんと冬美さん、多田。二列目のテーブルの一列目に七岡、宇野。それに向かい合って、稲本夫妻。という形だった。この席の変更には特に意味はなく、食事を運んだりしている時に皆が席を離れて、もう一度座りなおした結果、こうなっただけのことだった。誰かの意思は働いていない。
「そういえば、白馬館って言うと、野生の馬を思い出しません? 馬しか共通点ありませんが」
 宇野が言う。食事の時も、こいつはきっちりしていた。きっちり、きっちり。しかし、この質問はどうもきっちりしているとは思えない。野生の馬? え?
 この言葉に立川が反応する。
「ああ、あれか? 小学生の頃に歌った合唱曲ですか」
「ああ、ありましたね。やせいのうーまー、やせいのうーまーってやつ」
 立川の言葉で宇野の言っている意味がやっと分かったのか、淳がその話にのる。さっきから、そのパターンばかりな気がする。稲本夫妻がいなかったら、宇野は微妙な空気を醸し出すのみの存在だったろう。
「でも、俺はあの歌は思い出さないねえ。確か、俺の息子が歌ってたよ……」
 七岡が言う。何処か、さびしげな口調で。息子? 
「アレ、息子さんいたんスカ?」
 多田が七岡に尋ねる。
「ああ、昔な……事故で、ちょっと……な……」
 どうやら、タブーに触れてしまったらしい。少し気まずい空気が、食堂に流れる。
「ほら、気まずい空気にするなよ智」
 ここで太郎さんが言う。
「あ、ああ……そんなつもりはねえって。変な空気になったならすまないね」
 少し空気が緩む。太郎さん、ナイス。と私は心の中で呟いた。旅行先なのにそういう気まずい空気に出会ってたまるか。
「そういえば、あの歌って野生の馬が何故走っているのか、明かされませんよね。何故走る、何故走るって言ってるだけで」
 明美が話をさっきの方向へ戻す。歌詞とかもあまり覚えてない私としては、「そうだっけ?」という感じだ。まあ、確かにそうだったような気がする。
 私があの歌で思い出すのは、やはり草原を颯爽と駆ける馬の姿だ。勇ましく、美しい。どうしてそんなイメージになるのかは分からない。とにかく、そういうイメージなのだ。
「小学生の頃なんて、俺はもう覚えてないですねえ」
 立川が言う。
「まあ、覚えている人の方がマレなのかもしれませんね」
 宇野が言う。何度見ても、きっちりしている。何でだろう。きっちり。きっちり。
「私は野生の馬なんてまったく思わずに、名前つけたんですがねえ。今じゃほとんど、覚えてませんよ」
 太郎さんが食後のコーヒーをすすりながらそう言うと、冬美さんの声が台所から聞こえてきた。
「覚えてないんですか?」
 軽く怒っているような調子だ。どうやら、白馬館という名前は冬美さんと太郎さんの思い出か何かで決めた名前らしい。私はそう推測しながらコーヒーをすする。美味しい。マジで、美味しい。
「じゃ、じゃあ、私はそろそろ自分の部屋に行かせてもらいますよ」
「ああ、あの部屋か。いってくりゃいいんじゃねえの?」
 太郎さんが立ちあがると、七岡がそれに反応する。太郎さんの姿は逃げるようで少し滑稽だ。ただ、冬美さんともそう険悪な雰囲気でもない。冗談の一環なのだろう。
「それにしても、最近やけに眠くてね。年のせいかねえ」
「パソコンやりながら寝るとか笑えるな」
「ああ、一昨日だっけな。マジでやっちまったよ」
 太郎さんはそう笑うと、自分の趣味の部屋へと旅立っていった。趣味の部屋にはパソコンもあるらしい。クイーンとカーのサイン本は見せてもらいたかったのだが、私は結局この部屋にいることに決めた。
「太郎さん、あの部屋で何やってるんスカ? あの部屋っていっても、俺は本とパソコンがあることしか知らないけど」
 多田が言う。そういえば、さっきから多田はほとんど会話に参加していない。無口そうに見えた宇野や稲本夫妻の方がよく喋ってる気がする。まあ、別にいいけど。
「ああ、あそこね。俺もよく知らねえんだよな。机があって、パソコンがあって、ぐらいだ。一度、夜に不意打ちでドアを開けたことがあるよ。中にいたあいつはびっくりしてたな」
 七岡が言うと、台所の方から冬美さんが話しかけてきた。
「あの人はあそこで推理小説を書いてるんですよ。自分で。まあ、趣味の範囲ですが。明日にでも見てみます? 私と一緒なら、自由に出入りしてもいいですよ」
「いや、遠慮シトキマス」
 多田はそう言うと、カップに余ってたコーヒーを飲みほした。
 成程、推理小説を自分で書いているわけか。私だって、パソコンは持っているが小説を書こうとは思ってなかった。書くのも面白いかもしれないな。でも、書く気にはならないな。
「推理小説ですか。私にはとても書けませんね。頭良い人しか書けませんよね」
 淳が言う。私はここで、有栖川有栖が推理小説を書くのは頭が悪くても別にいいんだ、みたいなことを小説中で言っていたことを思い出した。私は淳に言う。
「でも、筋さえ思い浮かべば後はそれを隠すようにして書けばいいだけでしょう。案外、書くのは簡単なんじゃないですかね。読者として事件を解くのはムズくても」
「そういうもんですかねえ……」
 淳はそう言うと、コーヒーを飲み干した。
 その後も、しばらく話は続いた。フラフラと、話題を変えながら。
 午後九時ぐらいになると、解散のムードを出し始めた。最初に七岡が立ちあがり、部屋に戻って行った。次に、明美。その次が多田、と言った具合だった。
 私たち二人と、淳については大分気が合って、ずっとペラペラ喋っていた。さすがに食堂でずっと喋っているのは冬美さんが迷惑だろう、ということで202号室で話そうということになった。
「どうせなら酒を飲みません?」
「あ、玄関のところに自動販売機があったな。俺が買ってくるよ」
 立川はそう言うと、玄関から外に出て行った。一分もしない内に銀色のラベルのロング缶を四本抱えて帰って来る。自分は二本飲むつもりなのだろう。
 階段を上がって行き、鍵を取り出して開ける。淳がいるので、鍵をかけるのはやめておいた。面倒くさい。私は鍵を部屋の中の机に放り投げる。
 ビールを私と淳に分配して、宴が始まる。宴といっても、そう大したものではないが。

 それからしばらく、食堂の時と同じように話題をころころ変えながら喋っていた。変化があったのは、十時半ぐらいだった。
 ガチャリと、多田が202号室に入って来たのだ。赤い顔をして、片手にビールの缶を持っている。どうやら、外の自販で買ってきて飲んでいるらしい。多分、酔っている。
「あり? スイマセン。部屋間違えました」
 多田はそう言うと、部屋から出て行った。
 数秒後、次は隣の部屋――201号室。どうして、202に入った後に201に戻るのかが分からないが――から声が聞こえてきた。多田の「スイマセン」という声と、七岡の「間違えるか? 普通」という声だ。
 次に203号室のドアをガチャガチャやった後、204号室に移り、ようやく静かになった。
「いやあ、面白いですねえ。多田君。ハハ……」
 淳はそう言って笑った。
 
 結局、ベッドに入ったのは午後十二時と、大分早かった。私達が寝る前に、淳は自分の部屋へ帰って行った。
 そして、朝。起きると、どんどんとドアを叩く音が――


5.
「死体を発見した日の夕方へと時間は飛ぶ。倉本は混乱しつつ、今日一日を振り返る。事件の正体を限定する重要なヒントがここで出るので注意」


 時計を見ると、午後五時だった。
 あの死体の発見から、十時間ぐらい経ったわけだ。あの、太郎さんの死体の発見から―― 102号室で、太郎さんの、太郎さんの。思い出すだけで、体が震える。
 あの後、立川が警察を呼んだ。宿泊客は立川の指示で食堂へと集まっていた。無言で、とにかく、無言で。誰も喋るような空気ではなかった。警察がやってきて、やっと沈黙が破られたのだ。冬美さんについては、101号室で明美が寝かせていた。誰ひとり、外には出なかった。
 県警の、松本と言います―― あの警部は、確かそう言っていた。松本警部。あまりにも、ドラマちっくなので笑ってしまいそうだった。笑えない状況なのに。松本警部はゴツイ顔をした、中年のおっさんだった。
 その後、その後。食堂で警部が全員にある程度の概要を聞き、上の空き室、203号室を使って一人ずつ呼び出した。私も、もちろん。あれは、事情聴取というやつだったのだろうか。どんな質問されたのかほとんど覚えてない。変なことは言ってなかった筈だが。
 密室? はあ……まあ、自殺でしょうね―― 私が密室でした、と言うと松本はそう言って苦笑いした。変な自殺をするような奴がいるものだと。自殺? 本当に、そうだろうか? 私はそう疑問に思ったが、声に出さないようにした。
 そして、気が付いたら午後五時。とんでもないことが起こったのに、と言うべきか。とんでもないことが起こったから、と言うべきか。時間はあっという間に過ぎ去って行った。
 昨日の夜まで、皆で楽しく飯を食っていたのにな……そう思うと、何やら悲しい気持ちになってくる。
 自分の頭の中でも、まだ整理できてない。だが、検討すべき事項がたくさんあることは分かっている。
 太郎さんは自殺なのか? 他殺なのか? 他殺だとしたら、どうやって密室にしたのか? これだ。これが、疑問だ。
 まず、一つ目の疑問。自殺か、他殺か。昨日の様子を見る限り、自殺とは思えない。自殺する人があんなに、あんな風に、振る舞えるだろうか? 私にはそうは思えない。じゃあ、他殺か?
 他殺だとしても、疑問はある。密室だ。まず、ドアの鍵はきっちりと閉まっていた。雨戸もびっちり閉まっている。それ以外の出入り口は無い。換気扇があったように思うが、それがどうしたというのだ? 何の助けにもならない。じゃあ、自殺か?
 考えれば考える程、わけが分からなくなってしまう。推理小説であれだけ見慣れた光景なのに。実際に起こったら、何もすることができない。何も考えることができない。
 そうだ、あれは完全な密室だったのか? ふと考える。もしかしたら、前提条件が間違っているのかも。まず、状況を確認しよう。ドアと窓は閉まっている。部屋の鍵はパソコンの机の上。はい、これで終わり。完全なる密室状態だ。
 もう駄目だ。完璧に、アウトだ。何も思い浮かばない。私はため息をつく。
 窓から外を見ると、夕焼けがキレイだった。そういえば、今日帰る予定だったんだよな―― 私はそう思った。松本はしばらく、ここにいてもらうことになるでしょうと言った。
 一緒に住んでいる家族がいない男は、これだから楽だ。
 その時、私の携帯が鳴った。画面を見ると、有辻からだった。
『トマァト!』
 ボタンを押すなり、有辻のハイテンションな声が耳に入って来た。この前の電話とはうって変わって、元気な挨拶だ。小学校なら先生が「良い子ねー」と褒めてくれるだろう。
「何でそんなに元気なんだよ。風邪は治ったのか?」
『もちろん! 今は元気にトマトスープを飲んでるよ。僕は』
「そりゃ良かった」
『今、何処? 電車に乗っているところ? 僕に御土産買ってきた?』
「……今、まだ宿にいる。それどころじゃないんだよ、それどころじゃ」
 私は能天気な我が友人に、今私が置かれている状況を説明した。すると、有辻はしばらく喋らなくなった。多分、受話器の向こうでは何かしら考えているんだろう。
 そういえば、と私は思い出す。有辻は前、立川が喋った話を聞いただけで殺人事件を解決したことがある。ちょっとした安楽椅子探偵というやつだ。もしかしたら、有辻なら……という思いが一瞬、頭を過る。
『倉本、新しいデータが出たら僕に連絡をくれないか?』
「おい、何か分かったのか?」
『うるさいなあ。まだ仮説トマトだよ。まだ固まってない。データをくれたら、仮説が完成するかもしれないから、電話してくれよ』
「あっ、おい」
 有辻は電話を切った。
 仮説って何だよ。教えてくれよ。全部分かるまで話さないとか、お前は何処のエラリークイーンだよ。私は携帯電話を壁か床に叩きつけたい衝動に駆られたが我慢した。
 そうやってボーッとしているとドアが開いた。立川が帰って来たのだ。
「どうだった?」
「どうだったも何も……あの松本って警部いるだろ? あいつが方針を自殺方面に切り替えやがってよ……」
「自殺?」
「ああ、まだ検死の結果が出てないんだけどな」
「鑑識の結果とかは?」
「ああ、とりあえずパソコンの机やら鍵やらには指紋がついてなかった。指紋を拭きとったと思われるタオルは、死体の横に転がっていたあれと見られているよ。ただ、あのタオルとゴム手袋とナイフ――果物ナイフ――は全部、台所から持ち出されたものだってよ。で、台所は冬美さんが全ての施錠を確認する午後十二時までは誰でも入れた。本棚とかは埃とかは無かったけど、指紋がついていた。つまり、犯人は本棚には触れてないってことだな。本棚の指紋は太郎さんと、冬美さんのがちょっと見つかったぐらい。ところどころで俺とお前と、あの三人の指紋が発見されたがな。パソコンの所に置かれていた鍵はもちろん、102号室の鍵。会い鍵も冬美さんが言った通り、102号室のは無かった。会い鍵はあの銀色のリングにジャラジャラさせるタイプにまとまってたな。ついでに食堂の合い鍵も無かった。パソコンについては、あれとは別に推理小説が保存されていたよ。素人目で見ても、どうかと思う文章だったが」
 立川は一息にそこまで喋って、ふう、とため息をついた。つまり、ヒントは何も無かったってことか。
「ああ、そうだ。大体の犯行時刻は分かったよ。午後八時ぐらいから午後十二時まで。その間、ずっと酒を飲んでいた俺達と稲本は無実決定ってことだな」
「そいつは良かった」
「ついでに、本当に完全なる密室だったらしいぜ。ドアが閉まっていて、雨戸まで。しかも、合い鍵は無いと来た。何てこったいってやつだよ」
「密室ねえ……そりゃ、自殺説になるよ」
「ああ、だけどなあ……昨日の太郎さん、自殺するような顔してねえよ。たくっ」
 立川はそう言うと、ベッドに寝転がった。ゴリラみたいな巨体が。
 立川と私は密室についてしばらく話し合ったが、結局役に立たない結論しか出なかった。私は推理小説の密室トリックの解説をやらされた。そうやって、一時間ぐらいが経った時、ドアがノックされた。
「私です。松本です。立川さん、来てください」
 呼ばれた立川はすぐに外に出て行った。そして、松本と何かしら話をして戻って来た。そして、私に言う。
「太郎さんの死体から、睡眠薬が検出されたってよ」
「睡眠薬?」


6.
「睡眠薬を仕込んだ犯人が分かる。だが、睡眠薬をいれた者イコール殺人犯とは限らないし、他殺とも限らない。読者はこの章の最後には犯人を指摘することが可能な筈である」
 

「睡眠薬ってどういうことだよ」
「どういうも何も……って感じだな。成分的には市販の睡眠薬らしいんだけどな」
 そういえば昨日の夕食の後、太郎さんが最近寝るのが早いとか何やらとか言ってたな―― 私はそう思い当る。あれは睡眠薬のせいなのか? だとしたら、その犯人は誰だ? 決まっている。そんなことができるのは、ずっと、この宿にいた者。つまり、一人……
「冬美さんが、やったのか?」
 私は少し震える声で言った。立川は答える。
「ああ、松本もそう検討をつけていたよ。後、死亡推定時刻がもうちょっと絞られた。午後九時から午後十一時。俺達は完全に除外だな」
「で、今は何をしてるんだ? 松本警部は」
「101号室で事情聴取をするって言ってたな」
 事情聴取か―― となると、松本警部の意見は変わるのか? さっきまで、自殺の線で捜査をしてるとか立川が文句を言っていたのに。
 しかし、冬美さんがやったとして、どうやったら密室がつくれるんだ? その一番重要な謎が解明されなければ何にもならない。不可能犯罪だ。ディクスンカーだ。そういえば、カーのサイン本があると太郎さんが言っていたっけ。
 また密室について考え始めるが、やはり答えは出ない。そもそも私はカーよりもクイーンが好きだ。だから密室トリックはあまり好きではない。クイーンにもチャイナ橙とニッポン樫鳥とか密室ものがあるが。
 
 一時間が経過した。
 またドアがノックされ、立川がそれに出る。ノックしてきた人は松本警部だった。今日の朝に会ったばかりなのに、松本警部の顔はもう見慣れた感じがする。何故だろうか。宿泊客達はさらに見慣れた感じがする。
 松本警部の話を聞いた後、立川が肩をすくめて私の方に戻って来た。
「睡眠薬をいれたのは認めたってよ」
 立川は苦笑しながら言った。
「のはって何だよ。のはって」
「だから、殺したのは認めてないってことだよ」
「説明しろ」
「松本警部の取り調べから分かったことだからな。彼女は睡眠薬は太郎さんの食事にいれていたらしい。その目的は太郎さんを殺すこと。だけど、昨日実行はしなかったってよ。アリバイは無いが、密室なんて私にできるわけがないという主張らしい。で、松本警部は自殺説で捜査しているからそれをちょっと質問しただけで受け入れたとのこと」
「いやあ、怪しすぎるんじゃないのか?」
「まあ、俺もそう思うがね。ただ、密室の謎が分からなきゃどうしようもないよな。証拠も何も無いんだから。あ、質問される前に言っとくけどな、冬美さんは殺そうと思った理由については何も言わなかったとさ」
 立川はそう言ってため息をついた。
 松本警部はどうも強情らしい。しかし、今の状態じゃあ自殺説が濃厚なのは仕方ない。奇妙な遺書を残した自殺ってところだ。しかも、睡眠薬が加わったから薬を飲んだことで頭がボーッとして、という言葉だって成り立つ。
 だが、私にはどうも自殺とは思えない。何か、何かだ。犯人につながる何かは掴めないのだろうか?
 動機の面からではどうだろう。動機だと、冬美さんと七岡が第一候補だ。冬美さんはまあ、夫婦で何十年も暮らしてりゃ何かあるだろうし、七岡も友人として何かしら恨みがあるかもしれない。もしかしたら、昨日の食堂の会話で出てきた家族が死んだ事件に太郎さんが何か関わっているのかもしれない。他の稲本夫妻、多田についてはあまり思い浮かばない。となると、犯人は七岡か冬美さんか? だが、根拠としては弱い。もしかしたら、隠された動機が多田や稲本夫妻にあるのかもしれない。なら、なら、どうなのだ?
 他、他の説は?
 凶器。凶器は果物ナイフ。ここから何かしら推測できないだろうか? 台所から持ち出されたナイフ。ここから何か―― だが、全くもって思い浮かばない。強いて言えば、冬美さんが一番果物ナイフを取りやすかったことぐらいだろう。しかし、チャンスは誰にでもいくらでもあるのだから、どうしようもない。ゴム手袋とタオルも同じだ。
 パソコンについては? だが、これも詰まる。今時、老人がパソコンを使ってても何の違和感もない。私の古本屋によく来る小学生の爺ちゃんだってパソコンを使ってるらしい。これもアウト。
 密室にした理由は? ミステリではしばしテーマになる物だが、これも駄目だ。こんなもん決まっている。自殺に見せかける為だ。これも駄目。
 頭を抱えたくなる。と言うより、実際に抱えた。
 どう頑張っても、答えが出るようには思えない。考えれば考える程わけが分からなくなる。私はどうも、名探偵には向いてないらしい。自分自身、私はワトソン役の方に向いているのだろうな、と思っている。
 事件の真相を探るのは警察の仕事だ。そうも思ったが、やはり考え直す。警察じゃ、このまま自殺で終わりそうじゃないか。自殺じゃどうも、モヤモヤする。何か、何かが違う気がするのだ。自殺だとしても、何かしらの納得する出来事が欲しい。
 私はため息をついて、携帯電話を手に取った。
 あいつは、データが揃えば解決できるかもとか言っていた。もしかしたら、という気持ちが頭を過ぎる。私は、携帯の電話帳を開き、有辻興太のところでボタンを押した。


7.
「探偵役である有辻興太が登場する。彼は自分の推理の証拠となる物を発見する。その物についてはこの章では明かされないが、読者には十分想像可能なものである」


 午前九時過ぎ。死体が発見された日の翌日の午前九時過ぎだ。私は白馬館の外で、有辻を待っていた。
 昨夜、私は有辻に電話をした。私は、有辻に事件のことを全て話したのだ。昔、殺人事件を解決した有辻に。もしかしたら、もしかしたら、有辻なら解決してくれるかもしれない。そんな気持ちだ。そうしたら有辻が「明日そっちに行く」と言いだしたのだ。そして、私は指定された時間に、白馬館の外で有辻を待っている。
 中々やって来ないなと思いつつ、私はとにかく待った。自動販売機で黄色いラベルの缶コーヒーを買ったが、アホみたいに甘くて飲むのに時間がかかった。何だよ、この甘さは。
 そして、時計の短針が九時に達してから三十分。奴は現れた。
 遠くから見ても、すぐに有辻だと分かった。あいつには、特徴がありすぎる。
 有辻の外見は、何とも異様だ。まずはその髪の毛。アフロみたいにボリュームのあるクルクルの髪の毛。天然パーマとのこと。次に、その服装。真っ赤な上着に真っ赤なズボンに、真っ赤な靴。奴の顔は中々に整った顔をしているが、この服装のセンスで全ては台無しだ。どうしてこんな服装をしているのか? 答えは一言で済む。トマト学者だから。
 そのトマト学者君は私を見るとすぐに大声で叫びだした。
「トマァト!」
 私は「よう」とごく普通に挨拶を返す。
 有辻は、ついさっきまで風邪をひいていたとは思えないぐらいのテンションの高さだった。どうしてこんなにテンションが高いのだろう? 人が死んでいるのに、このテンションの高さは不謹慎だ。
 ピョンピョンと飛び跳ねるように私に近づいてくる。というか、飛び跳ねている。
 そういえば、こいつはここまで来るのにずっとこの服装だったのだろうか? 電車の中でも、街中でも? こいつと旅行を本当にしていたら、とんでもなく恥ずかしかっただろうなと今さらながらに思う。
「倉本、あの車は何? 誰の?」
 有辻がげっ歯類のような顔で笑いながら聞いてくる。
「ああ、あれは太郎さんの車だよ。買い出し用の」
「買い出し? 太郎さんは家事とか一切しないんじゃなかったのか?」
「だから冬美さんのアッシーだなアッシー」
「アッシーで死語だよ」
「トマトトマト言っている奴に言葉のことで文句を言われたくない」
「冬美さんは運転できないわけか」
「まあ、そういうことだね」
「ふうん……ということは、これからあれを売るのかね。そういえば、廃車の中を家庭菜園にしている友達がいるよ。僕はあまりオススメしてないんだけど」
 有辻はそう言った後、しばらく考えた様子を見せて、歩き出した。白馬館の玄関には向かわない。その周りを散歩するように歩きはじめたのだ。グルグルと。一応、私もそれに付いていく。
 有辻は白馬館をじろじろと観察している。私には別に何かがあるようには見えない。玄関以外の三面ほとんどに窓があるぐらいだ。後、壁にヒビが結構入っていることには気付いた。しかし、どうもそれは関係ありそうに思えない。壁のヒビを使った密室トリックなんてあってたまるか。
 一周周り終わった時、有辻は少し考えた素振りを見せた。そして、行動し始めた。
 まず、有辻は小川の方に向かって走り出した。そして、小川の前まで行くと靴と靴下を脱ぎ始め、上着とズボンの裾をまくり、川に飛び込んだのだ。あれよあれよという間に、というやつだ。
 水しぶきがはね、さっきまでキレイだった川の流れの音が少し変わる。有辻はジャブジャブと川を歩いて行く。
「何やってるんだ! 意味が分からないぞ!」
 私はそう叫ぶ。有辻は叫び返す。
「うるさい! トマトの剪定の意味が分からない奴はさっさと僕を手伝って川に飛び込め! 良いトマトをつくるには犠牲が必要なんだよ!」
「意味が分からねえ!」
 有辻はそうやって意味の分からないことを言いながら、水の中をジャブジャブと進む。赤い何かが川の中で何かをやっている。遠くから見たら少しホラーに見えるかもしれない。私はそうくだらないことを考えつつ、ただその光景をボーッと見ていた。何をやっているんだ、何を。
 一分ぐらいだろうか。有辻はその時点で、大分遠くまで歩いていた。そしてその時、急に有辻はかがみ込み、水の中から何かを拾いだしたのだ。
 有辻はその何かを持ち、高笑いしながら言った。
「ハハ! やったねトマト! 倉本、今から十分後に102号室に宿の奴以外全員を集合させてくれ。立川に頼めば、まあ何とかしてくれるって! でもなあ、真面目な席になるな。トマトって言わないように気をつけなきゃ」
 私はこいつが何を考えているか全く分からなかったので、とりあえず一言言うことにした。
「ヤッタネトマトって何だよ」


8.
「本編の探偵役、有辻興太による解決編が始まる。事件の謎は全て解かれる。また、この推理においても有辻のトマト学者という職業は関係ない。本編において、彼はトマト学者という記号的存在である」


 全員、揃った。102号室はそう大きな部屋ではない。だから少し窮屈な感じもする。
 入り口付近には稲本夫妻、入り口から見て夫妻の右横にいるのは宇野。左隣にいるのは冬美さんだ。その右隣が七岡。さらに右隣が多田。私と立川は窓側。そして、中心には有辻がいた。「名探偵 皆をそろえて さてと言い」という状況だ。
 あまり良い気持ちではない。死体は運ばれ、血もそんなに出てなかったので犯行の跡が残ってないような感じもするが、それでもここは殺人があった場所なんだ。つい昨日まで、つい昨日まで、そこに太郎さんの死体があったのだ。有辻はそんな所を踏んでいて大丈夫なのだろうか? 私にはとても無理だ。
 七岡と宇野は、あからさまに不審そうな目を見せていた。確かに、変な赤い奴が自分たちを急に呼び出したのだから変な顔もする。稲本夫妻と冬美さんは表には出していないが、それでも迷惑に思っていることは変わってないだろう。
 そして、有辻がニヤリと笑って話し始めた。
「皆さん、初めまして。僕はトマト学者、有辻興太です」
「トマト学者ぁ?」
 七岡が不満そうな声を出す。有辻はそれに二コリと笑って「そうです。トマト学者です」と言ってから話を続ける。
「今回、僕が皆さんを集めたのは他でもありません。僕が考えた事件の真相が本当に真相かどうか確かめる為です。僕の推理は、倉本という僕の友人の証言――ついでに、この倉本は記憶力に無駄に定評があるんですがね――をもとに組み立てています。その証言自体が間違っているのかもしれません。ですから、皆さんに間違いを指摘してほしいということですね」
「はあ……」
 宇野がため息をつくような調子で言う。有辻は続ける。
「もう一つ。もう一つは、犯人に自首をしてほしいからです。もし、僕が指摘する犯人が合っていた場合ですが。ここに警察の人が――松本警部さんだったっけ? 倉本――いないのは、犯人に自首という形で逮捕されてほしいからです。皆さんなら、その犯人に自首するように勧めてくれると思っています。立川は確かに、警察の人間ですが、今はあくまで『僕と倉本の友人で、変死事件に巻き込まれた男』です。後、警察的に事件のデータで間違っているのを指摘する為でもあります」
 有辻は長ったらしく喋る。ここまで、トマトやら何やらを交えないで真面目に喋る有辻を見るのは初めてだった。何故だろうか? 今の私には、有辻が異常にカッコよく見える。何故だろうか?
 次に、有辻は事件の内容とデータについて一通り確認した。睡眠薬の件については、知らない人が多かった。私がここで行われた会話やら何やらをしっかりと覚えていたので、それに驚いている人も何人かいた。別に変質者的に覚えていたわけじゃないんですよ、と言いたくなる。
「さて、それでは僕の推理の部分に入っていきます」
 いつの間にか、私達は有辻のペースに巻き込まれていた。有辻の話の調子は実に上手く、いつの間にか話に引き込まれているのだ。
「まず、僕達が考えるべきことを挙げていきましょう。一、これは殺人なのか? 自殺なのか? ――二からは殺人だとしたらを前提にしますね――二、犯人は誰なのか? 三、どうやって密室にしたのか? 四、どうして密室にしたのか? 五、これは突発的なのか? 計画的なのか? 六、どうしてナイフで刺したのか? 七、どうしてパソコンにあんな文章を残したのか? ハ、どうして一昨日に殺人を起こしたのか? 九、どうして太郎さんを殺したのか? まあ、こんなもんでしょう」
 有辻はそう言った。今まではその場に突っ立っているだけだったのだが、今奴はテクテクと部屋中を歩きながら話をしている。探偵だ。まさに、探偵だ。
「それではまず、一つ目。これは殺人なのか? 自殺なのか? です。倉本の話を聞いたところ、太郎さんは自殺をしそうな様子なんて示していないそうですね。これだけでは決められませんが、ここまで考えてみると、殺人の方が可能性が強そうです」
「……でも、それだけでは決めつけられないでしょう? じっ自殺なんて、誰がいつやるかなんて人には分からないものですし……」
 淳が言う。私もそれはもっともな意見だと思う。私の友達に、どうして自殺なんてするんだ? とこっちが聞きたくなる程に突然死んだ奴がいた。
「ええ、その通りです。ですから、僕はこう証明したいと思います。これが殺人だということが、証拠まで揃って完全に証明されたら、それは殺人でしょう? それが完全に証明できなかったら、それは自殺。これでいいですか?」
「ま、まあ、良いんじゃないでしょうか」
 淳。少し動揺しているように見える。
 部屋の空気は、ピンと張りつめている。異常な緊張感。私はこれ程の緊張感を味わったことが無い。その緊張感の中、赤い奴は歩いている。
「前提条件として、誰にでも犯行は可能だったということを確認しておきます。稲本淳さん、倉本、立川はその晩飲み会をやっていたそうですので、容疑者からは外されます。しかし、それ以外の全ての人に犯行は可能でした。アリバイがありませんし、凶器も何もかも台所にあったものですからね。太郎さんは睡眠薬を飲まされていたので、女性でも楽に殺せたでしょう」
 とりあえず、容疑者から外れたので安心する。淳も立川も安心している様子だった。
「さて、まずは五と六についでですね。これについては、突発的な犯行の可能性が高いと僕は思います。まず、自殺に見せかけるならナイフなんかで刺さずに、ロープで首を吊らせるでしょう。このナイフを刺した場合の説明は二通りぐらい考えられるのではないでしょうか? 一つ目は、突発的犯行の場合です。ナイフで刺してしまったので、苦肉の策として自殺工作をした。二つ目は、計画的犯行の場合。つまり、ナイフを使った密室トリックですね」
 この有辻の意見は、中々にまとまっているんじゃないだろうか。思わず、納得してしまった。確かに、その通りかもしれない。本当は三通りで、殺人に見せかける自殺をする為にナイフで刺したから、と言うのもありえるのだが。まあ、それは前提で排除しているので良いだろう。
「しかしです。いくら密室トリックでナイフが使えるからと言って、わざわざナイフを使うでしょうか? ナイフで刺すよりも、首を吊らせた方が良いというのは分かりきっています。鍵がかかっていなくたって、首を吊っていたのなら大抵は自殺で処理されます。結論を言えば、突発的な犯行の可能性の方が高いという結論になります」
 有辻は部屋をグルグルと歩きまわりながら言う。
「突発的な犯行、ということはあまり複雑なことはできないということです。ですから、密室トリックを犯人が使ったとして、それはそこまで派手なものではない。複雑な過程は無く、簡単にできるようなトリックだったということです。これは三で良いヒントになるでしょう」
 簡易的な密室トリックということは、どういうことだろうか? ミステリだったら心理的なトリックが多いが。私はボンヤリとそう思った。
「次に、四。どうして密室にしたのか? これは分かりきっています。自殺に見せかける為です。これはこれで結論が出てます。次に七、八、九。これについては、ここではあまり言えません。犯人が指摘されたら、それについて論理的な解説はできるでしょうが、今これを考えたって無駄なだけだと僕は思います」
 ここで有辻は十秒ぐらい、間を置いた。十秒? いや、それよりももっと長いか? 私はとにかく、この間を長く感じた。
「それでは、肝心の二、三に入りたいと思います。これは密室トリックについてですね。恐らくは、この三を解明すれば犯人が見えてくるんじゃないでしょうか?」
 始まるぞ。始まるぞ。私は不謹慎ながらにも、ワクワクしていた。
「どうやってこの部屋を密室にしたのか? 先程、あまり複雑な密室ではないだろうと見当をつけたので、その見当に従って推理をしていきたいと思います。つまり、糸を使ったり、建物を動かしたりやら、そういうトリックは使っていないという見当ですね。となると、どのような物が使われたのか? もう一度、確認していきたいと思います。まず、部屋のドアの鍵、窓の鍵が閉まっていた。机の上には鍵が載っていた。そういう状況でしたね?」
「あ、ああ。その通りだ」
 これには立川が反応する。緊張感の中、有辻は話を続ける。
「まず、ドアと窓を疑っています。例えば、窓が窓ごと外れる。ドアが外れる。しかし、これについてはありえないということが鑑識にも確認されています。なら、疑うべきはドアの鍵でしょう。机の上にあった。ここで考えられるのは、鍵のすり替えです。つまり、自分の部屋の鍵を部屋の中に置いていて、それを後からすり替えたという場合です」
 すり替え! そうだ、ミステリでは随分とありがちじゃないか。どうだろう。どうだろう、すり替えがあったのならば犯人は?
「例えばです。中に入ってから鍵をすり替えたとしましょう。それができるのは誰でしょうか? 例えば、死体発見時にこの部屋に入ったのは倉本、立川、七岡さん、多田さん、宇野さんの五人です。この宿の鍵は中から閉める時も鍵が必要ということですので、昨夜一人だけの筈なのに部屋の鍵を閉めていなかったらしい七岡さんが犯人、という推理が証明されます」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
 七岡が言う。有辻は冷静に続ける。
「ええ、誰もあなたが犯人だとは言ってません。この説は、よくよく考えたらおかしい点があるからです。発見された鍵に指紋がついていなかったからです。その時に手袋をつけている人がいたら、さすがに周りにいた人が気づくでしょうし、指紋をつけないようにやっていても他の人が気づく筈です」
 七岡が胸をなで下ろす。有辻が説を自分自身で否定した? となると、どういうことだ? 私は混乱する。
「じゃあ、他に何かが考えられるでしょうか? 僕は何も考えられるパターンは無いと思っています。これ以上考えると、複雑な密室トリックの分類に入るでしょう」
「じゃ、じゃあ、自殺という結論になる、ということでしょうか?」
「いえ、僕はそういう結論にはいたりませんでした。冬美さん。僕はもう一つ、考えました。犯人が鍵を持っていた場合です」
「え?」
 冬美さんと有辻のやり取り。私は驚く。鍵があった? どういうことだ。私に考える暇も与えずに、有辻は続ける。
「鍵を持っていた。つまり、これは前提条件を崩す話なわけですね。さて、それではこの話に根拠はあるでしょうか? 可能性はあるでしょうか?」
 有辻は、テクテクと部屋の中を歩きながら話し続ける。
「ここで皆さんに言っておきたいのが、太郎さんが生きていたその日の夜です。倉本の話だとこうです。倉本が太郎さんの部屋に行ってみたい、と言った時。太郎さんは、ポケットに手を突っ込んだそうです」
「そっそれが何だっていうんでスカ?」
 多田。有辻はニヤリと笑って続ける。
「いいですか? 考えてみてください。ポケットに手をいれる時、どういうことが考えられますか? 人前、しかもほぼ赤の他人の前で、ポケットに手をいれる。何か必要性があって、ポケットに手をいれたとしか考えられないでしょう。その必要性とは何か? 僕はこう考えました。太郎さんは、部屋の鍵を取り出そうとしたんじゃないか?」
 有辻は話を続ける。
「まず、考えてみてください。この部屋にはパソコンと貴重な本があります。不特定多数の人間が出入りする宿で、そんな部屋に鍵がかかってないということがありえるでしょうか? ありえない、という可能性の方が高いのは明白ですね? この二つの根拠は、部屋に鍵がかかっていたという証明には十分だと僕は思います」
 有辻は『その人』を見ながら言う。そのまま、話を続ける。
「となるとです。違和感が一つあります。この部屋がキレイなことです。太郎さんは家事を一切やらない人だったそうです。それなのに、この部屋は実にキレイだ。犯人が指紋を拭いたからじゃないか? いいえ、本棚からは太郎さんの指紋が見つかった、つまり本棚は指紋を拭かれていない筈です。しかし、見てもらえれば分かる通り、本棚は実にキレイです。掃除をしていたとしか思えません。しかし、太郎さんが掃除をしていたとは考えられない。つまり、他の人が掃除をしていたことになります。しかし、この部屋に鍵がかかっていたのなら、掃除をするのには不便だ。毎回、太郎さんから鍵を受け取るのも考えにくい。実に面倒くさい。となると、どういうことでしょう?」
 『その人』は何も言わず、ただ黙っていた。有辻は続ける。
「ここで出てくるのが、合い鍵の可能性です。冬美さん、あなたは合い鍵を持っていたのでしょう?」
 冬美さん。冬美さん。冬美さん。ここで、有辻は、犯人を、指摘した。

「最初から、です。太郎さんの部屋にはいつも鍵がかかっていなかったと言っていたのも。合い鍵が無いと言っていたのも、冬美さんあなたしかいないのです。あなたが嘘をついていれば、全てがひっくり返ります」
「おっ俺は、太郎の部屋に不意打ちで入れたことがあるぞ」
「それは、太郎さんが部屋にいる時でしょう? それなら、別に鍵をかける必要はありません」
 有辻は七岡の反応に自然に返す。そして、冬美さんを見ながら話を続けていく。
「合い鍵があったとして、それを持っていることができるのは誰か? どう考えても、あなたしかいないでしょう。あなたが幸運だったのは、下の街の鍵屋が焼けたことです。ここから警察は、鍵について詳しく調べることができず、だから、あなたの嘘がつき通せたのです。この宿は相当古い。鍵屋のデータも相当古いでしょう。多分、データは全て紙です。それが全て焼けてしまい、鍵屋の店主も焼けてしまった。だから警察は追跡捜査が出来なかったのです。ましてや自殺の線で調べていたのなら、そんなこと考えもしなかったでしょう」
 冬美さんは、何も言わない。有辻は続ける。
「合い鍵があるならば、話は実に簡単です。あなたがやった行動はこうです。夜、食事の後片付けが終わった後、太郎さんが寝ているかどうか確認する。寝ていたので、今日こそは、とばかりに椅子からずり下ろして無我夢中な気分でナイフで刺した。殺した後に、この状態じゃやばいと気づく。そして、合い鍵の存在を知っているのがこの世でもう自分一人しかいないことに気付き、密室工作をしようと思い当る。パソコンに文章を叩き、窓の鍵などをキッチリ閉め、手袋やタオルを太郎さんの近くに置き、外に出て合い鍵で鍵を閉める。言ってしまえば、本当に実に簡単だと思いませんか?」
 謎が、解けていく。密室の謎も、犯人についても、あっけない程。拍子抜けな程。解けていく。
 有辻は冷酷な裁判官にも見えたし、誰かを救うヒーローにも見えた。赤い服は裁判官の制服か、ヒーローのスーツ。そして、私には彼が格好よく見えた。何故だろう。
「あなたが犯人ならば、五、六、七、八の説明は簡単です。五、これは突発的な犯行なのか。犯行をしよう、という意志自体は計画的なものかもしれないが、殺人計画などは考えていなかった。六、どうしてナイフを使ったのか。女性でひ弱なあなたには、太郎さんの反撃に耐える自信が無かった。だから、確実に相手を殺せるナイフを使った。七、どうしてパソコンに文章を残したのか? 鍵は一つしかないという先入観を見る人に持たせたかったからです。八、どうして一昨日に罪を犯したのか? あなたにとっては、一昨日も昨日も明日も明後日でも関係ないからです。宿が営業中の状態ということは変わりません。数日前からずっと、睡眠薬を太郎さんに与えていた。毎日、夜にコーヒーを持っていくか何かをして、102号室で寝ているかどうか確認したのでしょう。一昨日、やっと太郎さんが寝ているのを発見した。だから一昨日に太郎さんを殺した。あなたは、立川が刑事だということも知らなかったそうですしね」
 有辻はもう、冬美さんの目しか見ていなかった。
「動機については、まあ僕には分かりませんがね」
 ここで、沈黙が走る。
 その沈黙を破るように、七岡が冬美さんに言う。
「冬美さん……嘘だろ?」
 有辻はそれを見て、悲しそうな顔を一瞬見せる。
 冬美さんは、震える声で有辻に言う。
「しょ……証拠は……? 証拠がなければ、数学の二次方程式みたいなもので、自殺か殺人か分からないでしょう? 合い鍵があるというのもあなたの推測です」
 有辻は、静かにポケットから小川の中で拾った物を取り出した。それは、銀色に輝く鍵だった……
 冬美さんが犯人だということは、これで証明された――
「どっどうして、冬美さん……?」
 七岡。
 冬美さんは二コリと笑い、それに答える。
「長年住んでいれば、色々とある……これで良いでしょう?」
 そう言って笑う冬美さんは、何故かとてもキレイに見えた――


9.
「ここはいわばエピローグ。有辻が鍵が小川にあるとどうやって見当をつけたかが明かされる。そして倉本は日常の中、事件について考える」


 あれから、もう二週間が経った。
 私は今、古本屋のレジに座ってボーッとしている。いつも通りの日常に戻ったわけだ。殺人とかは本の中の世界。ただ、人に古本を売り、ボーッと過ごす。そういう日々に戻った。
 「どうやって合い鍵のありかを見当つけたって? そんなもんも分からねえのかよ。トマト的に考えれば簡単なことだろ?」―― 帰りの電車の中、有辻はそうやってまたわけ分からないことを言った。
 「合い鍵が唯一の証拠だから、冬美さんがそれを捨てようとしたということは分かるだろ? 書類関係は燃やしたとして、鍵は燃やせない。じゃあ、外に出て捨てようと考えるわけだよ。となると、その鍵をどうする? まず、遠くには捨てに行けない。車は使えないし、暗い中あんな道を通って捨てに行くのもどうかと思われるし、時間がかかる。玄関の面以外の三面には、窓がある。となると、誰かが見ている可能性があるわけだ。玄関の面から何処かに捨てるしかない。となると見えるのは小川。こう考えて、小川を調べたんだよ」―― 言ってしまえば、ヤマを張っただけということか。私はそこで少しガックリときた。こいつ、見つからなかったらどうするつもりだったんだ?
 私はコーヒーを啜る。いつものインスタントコーヒー。太郎さんのいれてくれたコーヒーを思い出せば、天と地の差。マズイ。
 新聞にも、事件の記事は載った。冬美さんの自首の件、事件が少し異様な件。色々なことが報道されたが、冬美さんの動機は結局分からなかった。何処も報道しなかった。
 分からなかったといえば、有辻がどうしてあんなに事件に熱をいれたのかも分からない。あいつは、事件の真相が分かってもそれで犯人を指摘してやるというタイプでは無い。
 私はカップに残ったまずいコーヒーをまた飲む。
 ただ、一つだけ。一つだけ、分かったことがある。
 どうして冬美さんがキレイに見えたのか。どうして有辻が格好よく見えたのか。
 分からないからだ。どうしてあんなことをやっていたのかが分からないから、彼女はキレイに見え、彼は格好よく見えたのだ。
 食堂での会話を思い出す。野生の馬について、宇野が言いだした他愛もない会話だ。
 「そういえば、あの歌って野生の馬が何故走っているのか、明かされませんよね。何故走る、何故走るって言ってるだけで」―― 明美はそう言っていた。そうだ、それだ。
 私が野生の馬に勇ましく、美しいイメージを抱いているのは、それだからなのだ。
 野生の馬が勇ましく、美しいのはどうして走るのか分からないから。ライオンから逃げている為だとか、理由づけされたら、台無しだ。勇ましくも無く、美しくもない。ただのそこら辺にいる馬と同じ。何の感動も与えない。
 分からないからこそ、良いものもあるのだ。
 私はそう思いながら、今日もコーヒーを啜る。
2010-02-10 06:17:26公開 / 作者:文矢
■この作品の著作権は文矢さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
なんといっても、本格ミステリです。
旅行先でも何でもいい。
不思議な事件が起こって、それを名探偵が解決する。見事な論理で。

初心に帰り、そんなミステリを目指してみました。
この作品に対する感想 - 昇順
こんにちは! 羽堕です♪
 犯人か、もしくは死体となった本人どちらか、からの挑戦という始まり方は面白かったです。そして時間を少し遡っての状況説明に、それぞれの人物の紹介や会話など読みやすい流れだったと思います。そして、それぞれの過去などに、そっと触れたり今の習慣や、事件前の状況などがあったのですが、やっぱり私にはパッと犯人は誰だとか出てこなかったです。その後も、有辻の登場を待つ感じで読み進めてしまいました。解決編があって良かったです。なるほど、そういう風にも考えられるのかと。有辻も真面目に話してたからなのだとは思うのですが、もう少し有辻のキャラが出ていても良かったのかなと思います。
であ次回作を楽しみにしています♪
2010-02-11 16:37:44【☆☆☆☆☆】羽堕
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。