『蒼い髪 14話』作者:土塔 美和 / t@^W[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角52340文字
容量104680 bytes
原稿用紙約130.85枚
 憲法も作られ竜神様の祭礼の準備も整い、後残るはルカの自室だけになった。
 彼に任しておいては何時になっても片付かないという奥方様(シナカ)の合図の元、皆で手伝うことになった。ルカは遠慮したが、守衛たちがトリスを筆頭に五人もいきなり押しかけてきた。
「手伝いますぜ」
「別にいいですよ、一人でぼちぼちやりますから」
 それで半年が過ぎようとしている。それなのにこの様。
「いいから、是非とも手伝わせてください」
 普段仕事をやりたがらない彼らが、今回だけは不思議と率先して手伝おうとしている。ルカはそこに何かを感じた。
「何か、あったのですか」
「別にー」と後を濁すトリス。
「でしたら、リンネルとロンは弓の練習に行っていますから、レイの方が手薄になるでしょ。こちらはまにあっていますから」
 既にシナカを筆頭に数人の侍女がたすき姿で本の詰まった箱を移動し始めている。
「でも、男手もあったほうが」
 トリスがそうは言うものの、ボイの女性は下手なネルガルの男より力がある。現に重い箱を軽々と持ち上げていた。
 ルカは不思議そうにトリスを見る。彼はこんなに雑用をやりたがる性格だっただろうか。守衛の仕事はそれなりにまじめにやるが、それ以外のことは結構さぼっていたような。
 ルカに見詰められ、ヘヘェーとトリスは笑うと、
「守衛所にいても暇で、あそこじゃ博打ぐらいしかやることないしな」
「読書でもしたらいかがです。本、貸しますよ」
 トリスは慌てて顔の前で片手を大きく振る。
「本なんか、いりませんよ。どうせ読まないし」
「読めない、の間違いだろう」
「てめぇー、こら」と、トリスは茶々を入れた奴の首を絞める。
「こいつよ、負けがかさんでいるんですよ。これ以上やったら、パンツまで持っていかれそうなほど」
「相手は誰なのですか?」
 トリスはギャンブルは得意な方だとルカはみていた。
「曹長ですよ」
「曹長って、ハルガン?」
「曹長は二人いませんからね」
 大規模な軍隊なら曹長は何人もいる。だがルカがボイ星へ連れて来た人数は、本当に少なかった。
「ハルガン、ギャンブルも得意なのですか?」
「ギャンブルは、女性に好かれるための必須アイテムです」
 なるほどとルカは感心したように頷く。
「てっ言うことで、仕事してりゃ、声かけられねぇーし」
 ルカの部屋の整理をハルガンから逃げる口実にするようだ。
「手が多いほうが早ぇーだろ。早く終わられても困るんだが」
 ルカはやれやれと思いながらも、
「ではとりあえず、箱に番号がふってありますからその順番で並べてください」
 どうやら、本を箱に詰めるとき後で並べやすいように番号を振っておいたようだ。がたがたやっていたわりには、そういうところは抜け目が無い。
「よし、じゃ、こっちは俺たちがやるよ」と言いつつ、守衛たちは箱を持ち上げる。
「おっ、重めぇー、これ」
 足がふらつく。
「何やってんだ、そんなへっぴり腰じゃ、ボイの女どもに笑われるぜ」
「じゃ、おめぇー持ってみろな」
 いきなり箱を渡された相棒もふらついた。いかにボイの女性が逞しいかがよくわかる。
 ぶうぶう言いながらも守衛たちは箱を同じ番号がふってある棚の前に運び、本を並べ始めた。公達が衣装や装飾品を山積みしてきたのに対し、ルカの荷物は大半が書物だった。
「こんなにどうするんだろーな。ネットで読んだ方が早かろーに」
 ルカはある箱の前に立った。その箱にはネルガルでは禁じられている書物が収められている。
「ネルガル語の書物ですね」と、キネラオが背後から覗き込んで言う。
 ボイ人は最初、この文字こそネルガル語だと思っていた。
「古代ネルガル語です。今のネルガルでは使いません」
「あっ、そう仰られておりましたね。ですが我々は、こちらの文字こそネルガルの文字だと思っておりました」
 数千年前にボイに水と文明をもたらした異星人。彼らが使っていた文字が古代ネルガル語であり我々ネルガル人と外見がよく似ている。お陰で私はすんなりと彼らに受け入れられた。だが既にその頃には、ネルガルではこの文字は使われなくなっていた。
「私はこの本が欲しいばっかりに、ハルメンス公爵と付き合うようになりました」
 リンネルやハルガン、カロルの忠告を無視して。
 キネラオには、いまいち古代ネルガル語と今のネルガル語との違いが解からない。確かに微妙な字と発音の違いはあるが、全体的にはあまり変わらないような気がするが、古代ネルガル語で話しかけても守衛たちには意味が通じない。たまたま殿下はこの字に興味を持たれていたお陰で会話ができたが。
「既にご存知でしょうが、私の母の故郷も竜を祀っております」
 それは村人から聞いた。そして村人が言うのには、殿下は竜神様の御子だと。彼はギルバ王朝ではなくネルガル星の守護神だと。だからボイには連れて行かないでくれと嘆願された。
「それで私は、必然的に竜に興味を持つようになりました。そんな折、ハルメンスさんが私にくれたのがこの本なのです」と、ルカは箱の中から一冊の絵本を取り出しキネラオに見せる。
 それは古代ネルガル語で書かれていた。
「彼は言いました。まだ何冊か持っていますので、よろしかったらお持ちいたしましょうと。それで私は彼とまた会う約束をしてしまいました。本の数を見ればお解かりになると思いますが、まんまと彼の仕掛けた罠にはまってしまいました。何時しか私は本よりも彼に興味を持つようになり、彼に連れられてよく下町へ行くようになりました。そこで見たものは」
 ルカは暫し息を呑む。
「私は王宮の中にだけいては決して知ることのない世界を知ってしまったのです。それがよかったのかどうかは疑問です」
 今の自分には、知っても彼らに何もしてやることは出来ない。どうせ出来ないのなら、知らなかった方が自分を苦しめなくてすむだけましだったのではないか。
「よかったのではありませんか。王になる者、下々の生活まで知っているに越したことはありません」
「それは、王になれればの話です」
 ルカの身分では絶対に王になることはないし、また何故か知らないが自分もそれを望んではいない。だがそこまでして彼らを助けようと思わないでもないが、そうすることによって起こる混乱の方をルカは憂いていた。
「ボイ星では、次期国王ですよ、あなたは」
 ルカは黙ってしまった。
「ボイの国王になって、その経験を生かしてくだされば幸いです」
 ルカは苦笑すると、
「そうしたいと思っております」出来る事なら。と小さな声で答えた。
 キネラオはルカの心を汲んで、話題を変えるためにルカの手から本を受け取ると、
「白竜伝説ですね」
「やはり、ご存知でしたか」
 ボイ星は母の故郷とよく似ている。おそらくどちらもイシュタル人が絡んでいるとルカはみている。
 キネラオはその絵本をパラパラとめくる。
「その絵本の中の紫色の髪の少女は、母に言わせると私だそうです」
 キルラオは絵本から目を放してルカを見た。
「でも、おかしいですよね、私は男ですから。もしその主人公が私なら、少年となるはずです。しかし母に言わせると、神の子は三分の二の確率で男の子が生れるそうです。物語の主人公を少女にしたのは、竜がオスだからでしょうと。その方が話的に面白いからだそうです」と、ルカは微かに笑う。
「ボイでは竜はメスですよ。竜と紫色の髪の少女は姉妹だということになっております」
「そうなのですか」
 そこへ守衛たちがやって来た。
「殿下、何時までそこで二人でずぐんでいるのですか」
「もうこっちは、片付きましたぜ」
「そうですよ。そんな二つや三つの箱で、何時まで時間かけているのですか」
「あっ、いけない。すっかりさぼってしまいました」
 ルカは本を持って慌てて立ちだす。
 ルカの手にした本を見て守衛たちが、
「あれ、その本」
「悪魔の本じゃないですか。何でこんなものを?」
 ネルガル人の中にはイシュタルと聞いただけで夜も眠れないほど怯えてしまう者もいる。悪魔の星。青い髪の悪魔の住む星。
「縁起でもない、どうして処分してこなかったのですか」
「これは、私の宝ですから」
「殿下!」
 守衛たちは咎めるように言う。
 ボイ人もイシュタルの噂は聞いている、ネルガル人を通して。
 キネラオはイシュタル人が今でも古代ネルガル語を使っているということは、先日ルカから聞いた。
「俺たちも見るのは初めてだが、殿下がやたらあの星に興味を持ってな。ろくな事ねぇーから止めろって言ってんのに、あのハルメンスの野郎が、どっかから手に入れて来やがるんだよ」
 守衛たちはいかにも迷惑そうに言う。
「そんなに嫌わなくてもいいのではないですか」
「ハルメンスのことか?」
「あのキザ野郎、殿下にろくな事教えねぇー」
 それはどちらだ。と言いたいところだが。
「いえ、イシュタル人のことです。彼らは元を正せば私達と共通の祖先を持つのですから。何かの理由があって、彼らはあの青い星に移住した」
 青い星。水が多いため遠目には青く見える。それならネルガル星も同じなのだが、何故かネルガル人はイシュタル星を青い髪の少女に掛けて、青い星と言って嫌う。
「先祖が同じって言うけどな、イシュタル人は化け物だ。こんなでかくて」と、守衛の一人は手を高々に伸ばし爪先立ちになる。
 爪先立ちになっても、ボイ人よりやや小さい。大きいと言えばボイ人もネルガル人より大きい。
「角があって、牙があって、目玉がぎょろぎょろしていて」
 まるで御伽噺に出てくる鬼のようだ。
 ルカは可笑しくて噴出してしまった。
 大の大人が、増して軍人が、子供の頃に親から聞かされた話を鵜呑みにしている。
「そんなはず、ないですよ」
 笑いが止まらない。
「あら、私もそう聞いたわ」と、シナカ。
 侍女たちも頷く。
 どうやらシナカたちの方も片付き応援に来たようだ。後残っているのはここだけ。
「イシュタル人は私達ネルガル人と見分けが付きませんよ、向こうからそうだと言ってこない限り。おそらく会っていてもわかりません。もしかするとあなたたちの中にもいるのではありませんか。ネルガル人に成りすまして」
「殿下!」と、守衛たちは驚いたようにルカを見る。
「冗談ですよ。私は神だの悪魔だのというものは信じませんから。イシュタル人も普通の人間です」
 一番神に近い、否、神だと言われて生れてきた者の言葉。
「そう言うところをみると、殿下はイシュタル人に会ったことがあるのですか」
 守衛のひとりがズバリと訊いてきた。
「あります」と、ルカははっきり守衛たちの言葉を肯定した。
「あるって! 何処で」
 守衛たちの驚きようはただ事ではなかった。
「イシュタル人は奴隷としてもう何千人もネルガルに輸入されているのですよ、知らなかったのですか」
「奴隷として、輸入?」
 トリスたちには初耳だった。
 ここ数十年、ネルガル人によく似ていておとなしいしいイシュタル人は、他の異星人より使いやすいとみえ、上流貴族の間では持てはやされていた。もっとも王宮では異星人を見ること自体あまりないので、イシュタル人を見る機会もなかっただけだ。
「何処で? まさか下町を散歩していて?」
「いえ、ハルメンス公爵の館で」
「あの野郎」
 殿下をそんな危険な獣に会わせていたなんて。
 まだイシュタル人を人間として見ていないようだ。
「それで、どういう姿、してました?」
「ですから先程も言ったとおり、私達と何ら変わらない姿をしておりました」
「言葉は? やはり古代ネルガル語?」
「いいえ、私達と同じネルガル語を話しておりました」
「えっ!」と、守衛たちは驚く。
「私達の言葉は銀河共通語ですから、彼らも習っていたのでしょう。向こうからイシュタル人だと名乗ってもらわなければ、私は気づきませんでした」
 守衛たちは黙り込む。
「そういう訳で、イシュタル人をあまり化け物扱いするのは止めた方がいいですよ。会話も普通でした」
「普通って?」
「ですから、ネルガルのお茶は美味しいとか、天気がいいとか。そんな感じです」
 だが実際は普通の会話ではなかった。ルカは知らない。だが自分の中にいるもう一人の自分(エルシア)は、何かを知っているようだった。
「ふーん」と、守衛たちは腕を組みながら頷く。
「とにかく彼らを化け物だの悪魔だのと偏見の目で見るのはやめましょう。この世に悪魔などいませんから」
「殿下は、本当に神も悪魔も信じないんだから」
 守衛たちは呆れたように言う。
「そう言えは近頃、笛をお吹きにはなりませんね」と、キネラオ。
 また神を信じる信じないでシナカと揉めるのを避けるため話題を振った。
 ヒベスの笛の音を聞いてかと言うもの、ルカは自信をなくしたのか笛を吹かなくなった。それをサミランは気にしていた。よかれと思ってヒベスを紹介したのだが、かえって悪いことをしてしまったのではないかと。
 ルカにしてみれば、ボイの生活に慣れボイ人の友達もでき、寂しさを紛らわせる必要が無くなったからなのだが。
「もう、意味が無いのではと思いまして」
「意味が無い。とは?」
「母に言わせればあれは竜を眠らせるための、つまりネルガル星に封じてある何かのエネルギーを押さえておくためなのでしょう、あの笛の波長で。ならボイ星では意味がありません。ここで吹いたところで、ネルガルまでこの笛の音が届くはずがありませんから」
 ルカはあくまでも、竜の子守唄はネルガルの地底に埋められている古代の何かの兵器となんらかの関係があるものだと思っている。例えばその兵器の周波数と笛の周波数を連動させることによって、その兵器を作動させるとか。もっともこれはあくまでも古代に、今のネルガル人でも想像出来ないほどの兵器が存在していたらの話だが。
 ルカは知る由もない。ルカが吹く笛の音が、ネルガルを遥かに通り越し、イシュタルの先日生れた王子の子守唄になっていることを。
「確かに言われればそうなのだが」
「でも、たまには聞きたいですよね、殿下の笛。ネルガルに居る仲間を思い出すから」
 やはり守衛たちも守衛たちで、ルカの笛の音で寂しさを紛らわせていたところもあった。

 その日の夕方、ルカは久々に笛を手にした。池の手前に立ち笛を吹き始める。
 ここはボイ星、もうあの幻を見ることもないだろう。案の定、幾ら吹いてもあの幻は現われなかった。
「素敵ね」と、シナカ。
 やはり竜の子守唄は特別な曲のようだ。どの曲よりもうまい。
「久々だな、この曲聞くの」
「他の曲は吹いても、この曲だけは暫く吹いていなかったからな」
「ヒベスとかいう奴の笛の音もいいが、やっぱり俺は殿下の方がいいな」
 ちょっと雑っぽいが、そこがたまらない。
「暫く吹かなくとも、腕は落ちないものなんだな」
「それどころか、うまくなっていねぇーか」
「ヒベスとかいう奴が、少し教えたみてぇーだぜ」
 いつの間にか守衛たちが集まって来ていた。
「なんか、ネルガルを思い出すな」

 次の日、宮廷からお呼びがかかった。その間ルカは、昨日やっと片付け終わったばかりの自室へ閉じこもり、しかもテーブルの下の狭い空間にずっと潜り込んで何かを懸命にやっていた、新しい装置を接続するとか言って。ボイの服では袖口が邪魔だとみえ、今日はネルガルの服を着ている。それも腕を捲り上げ。
「ああなると誰が何を言っても駄目なのですよ」と、入り口で眺めているシナカにモリーが声をかける。
 そう言えばハルメンス公爵が忠告していた。姫が声をかけた時は直ぐに止めること。それを条件に何かを渡していた。
「なるほどねぇ」と、ルカの姿を見てシナカは納得する。
 取扱説明書、その一。
 殿下がコンピューターをいじり出した時は、大声で呼んでも聞こえないから、傍まで行ってぶん殴る。
 まあ、酷い。とシナカは思いつつも、本とコンピューターが何よりも好きなのね、と感心した。
 シナカはハルメンスの言葉を試すかのように、
「お父様がお呼びですよ」と、声をかけてみた。
 するとテーブルの下で頭をぶつけるような音がし、ルカが頭をさすりながら顔を出した。
「陛下がですか?」
「陛下ではなくてよ」
「お父様が?」
 モリーが驚いた顔をしているので、シナカはにっこりする。
 反応が早い。どうやらこれだけは取扱説明書とは違ったようだ。それともハルメンス公爵の忠告が効いているのか。ならハルメンス公爵はどのような手を使ったのか、シナカは興味を持った。
「私に、何の用でしょう」
「さあ、それは行ってみませんと」
 シナカは父の伝言を持って来た侍女に、
「私も同行してよろしいのかしら」と、訊く。
「ええ、姫様もご一緒に」
 ルカはそのまま立ち出すと、陛下のもとへ向かおうとする。
「殿下、お顔とお手ぐらい洗われた方が」と、モリーが忠告する。
 さんざん床を這いつくばっていたのだ。いくら掃除がきちんとされているとは言え。
 ルカは自分の手を見た。
「そっ、そうですね」
 ルカは洗面所に行くと台を引き出し、その上に乗って顔や手を洗い出した。全てのものは大人サイズに作られている。最初ルカに合わせるかシナカに合わせるか迷っていたようだが。ましてボイ人はネルガル人より少し大きい。そのため、何処にでも踏み台が用意されていた。その内成長されれば踏み台も不要になるでしょうと。
「お召し替えは?」と、訊くモリーに、
「否、そんなに待たせては申し訳ありませんがら」
 ルカは服の埃を掃うと、
「行きましょう」と、シナカの手を引く。
 長い回廊を進み、宮殿の奥へと案内された。今まで見たこともない所。
 シナカは何処に行くのかわかったようだ。
「今から行くところは、このコロニーで一番神聖なところなの。書斎なのですけど、そこは他の書斎と違って、この星を創ってくださった人々が書き残した書物が安置されている場所なのです」
「この星を創った?」
「ええ、このボイ星を今のような星にしてくださった人々です。彼らはネルガル人なのです」
 やはり。とルカは思った。ボイ人はイシュタル人とネルガル人を勘違いしている。
「今から五千年前のことなのですが」と、シナカは説明を始める。
「五千年前、この星にネルガル人が来たのですね」
「ええ。ですからあなたを私の婿に迎えることになった時、それは反対する人もおりましたが、あまり揉める事も無く進んだのです」
 それであの町の人々の歓迎か。ルカは納得した。
 最後の扉を開けると、そこは十五畳ぐらいの部屋だった。南は大きく開かれ庭が眺められる。北は襖が閉まっている。どうやらその奥がありそうだ。中央にテーブルが置かれ、国王と宰相、それにキネラオとホルヘが既に座っていた。
 ルカの姿を見るとホルヘが立ちだし、空いている席へと案内する。
「もう、帝王学の勉強ですか」と、シナカは言う。
 シナカはルカの方を見ると、
「このボイ星を背負って立ちそうな人々は、十歳になるとここへ閉じ込められて勉強させられるのよ、人の上に立つとはどういうことかと。もうそれはさんざん」
「シナカ」と、国王は少し黙っていなさいという感じにシナカを目で制した。
 ルカは国王の前に正座した。
「楽にしてくれ。実はその逆だ。私達があなたに教わろうと思いまして」
「教わる? 私に? 何をですか?」
 ルカは驚いたように国王を見た。
 宰相とは不平等条約に関してしばしば意見の交換はした。私が知る限りのネルガルのやり口を説明したつもりだ。あまり心地よいものではなかったが。出来るだけ速やかにあの条約を改正してもらい、ボイ人たちにも平等に利益が行き渡るようにと思い。
 国王は目の前に置いてあった書物をルカの方に差し出す。
「これは、今から五千年前、あなた方ネルガルの祖先が国の在りようを書き示して置いて行って下さったものです」
「私達の祖先が? 見てもよろしいのですか」
「どうぞ」
 ルカは書物を受け取り、表紙を開いた。
 一冊は導く者。そしてもう一冊は、導かれる者と題されていた。
「私達はおもにこちらを」と、宰相は一冊目の書物を指し示して言う。
 それからもう一冊の方を指し示しながら、
「こちらの書物はボイ語に訳して町の図書館に置いてあります。一部は教科書としてもつかわさせてもらっております」
 ルカは読み出した。その速度は速い。だが途中まで読むと、目を上げパラパラとめくり始め最後のページを確認する。
「これは、五千年前に書かれたものなのですね」
 国王は頷く。
「この書物には自分たちが何者であるかは、どこにも書かれていないようですね」
「その通りだ。どこにも書いていない。それで訊きたいのだが」
「キネラオさんやホルヘさんにはもうお話ししましたが、おそらくこの書物を書いたのはネルガル人ではありません」
「だがこの書物には」と、宰相は別な本を取り出した。
 それは今ルカが借りて読んでいる本より遥かに古そうだ。
「ここには、この通り」と、宰相は書物の一部を開き指で指し示した。
 その本は古代ボイ語で書かれ、そこには彼らがネルガル人であることが記載されている。
「この書物は?」
「これは当時宰相を勤めていた者が、彼らの行為を鮮明に記載したものなのです」
 そこにはネルガル人が田畑を作り、町を整備していった様子が記載されていた。
「しかし」と、ルカは考え込む。
「既にキネラオさんたちにもお話したとおり、五千年前ではもう我々ネルガル人は、このような文字は使っておりません。この文字は一万年も前の文字になります。よほど古代史に興味のある者でもなければこの文字は読めません。ただ、イシュタル人なら今でも使っているようです。彼らの時間の流れはゆったりとしておりますから」
 ボイ人もかなり時間をゆったり使うようだが、イシュタル人に至っては。
 ルカはハルメンス公爵の館で会ったイシュタル人を思い出していた。
「イシュタル人!」
 やはりとは思いながらも、どうしても驚かざるを得ない。それは噂によるイメージから、どうしてもよい印象を持てないから。そのイメージは残虐な悪魔。だが、誰もイシュタル人に会った者はいない。
「ではあなたは、この書物を私達に与えてくれたのはイシュタル人だと」
 宰相は確認を取ってきた。
「おそらく。キネラオさん達はネルガルにいらしたからもうお解かりだろうとは存じますが、文字どころか生活様式もこの書物に書いてあるのとは違います。おそらくこの様式はイシュタル人のものかと。しかしこの書物、おもしろいですね。八歳の私にも直ぐに理解できます」
「そう、当たり前のことが書いてあるのよ」と、シナカ。
「ええ、人として当然のこと。でもこの当然のことが、なかなか当然にできないのです」と、ルカは苦笑した。
「そうだな、誰も偉ぶることは無い。当然のことを当然のようにやる。これが一番偉いことなのだ」
「この本、貸していただけますか」
「駄目よ、これは持ち出し禁止ですものね」
「否、かまわん」
「お父様!」
 この書物こそが、このボイ星で一番神聖とされている。
「実は、これは複写なのだ。本物は」
 国王はホルヘに合図する。
 ホルヘは立ちだし書庫へと入って行く。暫くして塗りの素晴らしい一つの箱を持って来た。
「実はこれが本物なのだ。なにしろ古い書物だから、皆でめくると破れてしまうものでな、何時しか複写するようになった。今ではコピーという物があるのでかなり簡単になったが」
 それでこの本は当時の宰相が記載したという本に比べて新しかったのか。だがルカに渡されたのはコピーではなかった。何百年か前に誰かの手によって複写されたもの。
 紐が解かれ箱が開けられた。中には銀糸で美しい刺繍がほどこされている表紙がついた本が治められていた。その刺繍の色は五千年の時を感じさせないほどの鮮やかさ。
「白竜」
 ルカとシナカは同時に言った。
 シナカもこの書物を見るのは初めて。
 ルカは思わず自分のベルトに挟んである笛を取り出し、袱紗を開いた。中から竜の絵が掘り込まれている笛が姿を現す。
「同じだ」
「違うわ」と、シナカ。
 シナカはルカから笛を取りあげると本の横に置く。
「ほら、よく見比べて」
 見れば確かに違う。角の数と長さ、それに指の数と爪の鋭さ。
「以前にも申しましたが、竜の角は気性を現し、数が多く立派なものほど気性が激しいと言われております。また指の数は多いほど器用と言われております」
「つまり私の主は気性が荒く、不器用なのです。よくそうからかわれたものです」と、ルカが言う。
「えっ?」と聞き返すシナカに、ルカも今自分の言った言葉に戸惑う。
「一体誰から、からかわれたのだ? 何時? 私の主とは?」
 自分で言っていて訳がわからない。
「会ってみたい、もう一度あのイシュタル人に。そして竜のことを、否、この笛のことでもいい。聞ければ何か私のことが解るのではないか。もしかすると私はイシュタル人なのでは」
「それはないでしょう」と、キネラオ。
「私達はネルガルに行き、あなたのDNA鑑定を見せていただきました」
 キネラオたちはルカがイシュタル人と言うよりも、眷族ではないかと疑った。もし紫竜様なら結婚されるはずはないし、弓の名手なのだから弓を恐れるはずもない。竜に愛された人なら白竜様を主と呼ぶはずはない。すると残るは眷族。彼らなら白竜様を主と呼び、武で仕える者と文で仕える者がいるそうだ。もし文で仕えている者なら武官とは違うから弓を恐れても不思議ではない。
 ルカはキネラオの言葉に苦笑した。
 ネルガルでは誰の子だかわからない場合が多い。そのため父親を認定するためにDNA鑑定はよく使われる。
「ボイ星は彼らが来る前は荒涼とした星だった」と、国王は話し出す。
「水は無く」
 暑いのにからっとしているのはそのせいだ。
「我々の祖先は何時も飢えていた。水が少なく食糧が満足に作れないからだ。それを見かねて彼らが湖を創ってくれた」
 今度祭りを執り行うという湖のこと。
「ここだけではない。ボイ星の十二箇所に」
 だが二つは枯れ、残るは十箇所。だがその湖も近年は小さくなりつつある。
「どうやって?」と、ルカは問う。
「それはここに記載されております」と、宰相はそのページを開いてルカに見せた。
 ルカはそれに目を通して驚く。
「そんな、馬鹿な」
 そこには大地が沈み、水が湧き上がって来たと記載されているだけ。
「記載れているのはただそれだけなのです。一夜のうちに」
 ルカは唖然とした。どうやればそんなことが出来るのだ。川を堰き止めたのでないことだけは事実だ。そもそもボイ星に川はない。起伏がないのだから水の流れが出来ない。おそらく雨が降って水が流れるときは河というよりも面という感じで流れるのではないか。例え爆撃機で穴を掘ることは出来ても、一夜のうちにこれだけの湖に水を張るには相当な量の雨を降らさなければならない。否、一夜の雨だけではこの湖の水は満たせない。地下水脈にレーザー砲でも撃ち込んだのか。ならばその記載があってもおかしくないのだが、その記載はない。
「大地が沈み、地下から水が湧き上がってきたそうだ」
 それは当時宰相だったという者が書いた書物にしっかりと記載されている。
 あの湖の水は湧いているのか。まあ、流れ込む川がないのだからそうとしか考えられない。
 水を湧かしたと言うのか。人外の力。イシュタル人にはそれがあると言われている。悪魔の力。それ故にネルガル人は彼らを忌み嫌う。
「あの、当時のことを記録した書物は、これ以外にもあるのでしょうか」
「まだ、数冊書庫の中に」
「できればそれらも全部貸していただきたいのですが」
「いろいろ持ち出すのは大変だから、なんならここを使ってもかまわんぞ」
「ここで読んでも、よろしいのですか」
「ああ、そのうちそうしてもらおうと思ってはいたのだ。少し早いが、興味があるのでは丁度良い。ホルヘ、書庫を案内してやりなさい」
 ルカはホルヘに従い書庫の中へと入っていった。中はプーンと古書の香り。ルカには悪くない臭いだ。
 書庫の奥手の一角、
「ここら辺がその当時の書物です。彼らが書を残してくださったのはあの二冊なのですが、これらはその時のボイの指導者がそれぞれの立場から、彼らの行動を記録したものです」
 そこには国の政から田畑の作り方、道具の作り方、強いては装飾品の作り方までさまざまだ。
「ボイ星が今のような細工物を作るようになったのは」
「ええ、この本が基です。と言うよりもこの時伝授された技術が基になっております」
 ルカはさっそく数冊の本を手にする。
「お持ちいたしましょうか」
「いえ、大丈夫です」と言い、嬉しそうに書庫から出て来る。
「楽しそうね」と、シナカ。
「ええ、知らないことを知ると言う事は楽しいことです」
 ルカはそれらの本を横に置くと、さっそく先程の本の続きを読み始めた。こうなるとそこに国王が居ることもシナカが居ることも既に頭の中にはなくなっていた。
 暫く国王たちはルカのそんな姿を眺めていたが、
「居てもしかたがないな」と、国王は立ち出す。
「私が残りましょう」と、ホルヘ。
「あんなに本に夢中になるとは知らなかったわ」
 取扱説明書には収録されていたが。
「お前に帝王学を教えるのは、大変だったらしいからな」
「そうでした。あそこにじっとして居て下さらなくて」と、宰相は当時を思い出しながら言う。

 昼頃になって、ルカはやっと本から目を離した。周りを見回すとホルヘ以外は誰もいない。
「あれ? 陛下は?」
「先にお戻りになりました」
「そっ、それは存じませんで、失礼なことをしました」
「気になさらなくともよろしいのですよ。そっとしておくようにとの仰せでしたから」
「そうですか。でも、シナカは怒っていたでしょうね」
「怒る?」
「たぶん私は無視をしていたのではないかと思います」
 コンピューターや本を読み出すと、自分では無視するつもりはないのだが、相手が話しかけているのがまったく聞こえなくなる。それをハルガンなどに言ったところで、俺が耳元でこれだけ怒鳴っているのに、聞こえないのか。お前はつんぼか。などと言われるのがおちだ。
「その心配もご不要です」
 シナカはもとよりホルヘたちは知っていた。ルカが一つのことに集中し始めると、どんなに耳元で怒鳴っても無駄だということを。これもルカの侍女たちが作ってくれたプロフィールの中に収められていた。
「それより、お昼、どうなされます」
「ここで、と言うわけには行きませんよね」
「大丈夫ですよ。ではこちらに用意させましょう」
 暫くしてホルヘが侍女を数名連れて戻って来た。
 食事は二人分。
「私もお付き合いいたしましょう」
 二人で食事をとることにした。
 ルカはホルヘのわきに置いてある本を見て、
「何をお読みですか?」
「ネルガルの書物です」
「それでしたら、私の部屋にも何冊があります。興味がおありでしたらお貸ししますが」
「軍事の書物が多かったような気がいたしましたが」
 ルカの自室の片づけを手伝いながら、それらの本の背表紙を見た。
「ええ。私は軍事は好きではありませんでしたので、ネルガルに居た頃はその手の本はあまり読んだことがなかったのです。でも後々役に立つのではないかと思いまして、こっちへ持って来たのです。政治や経済の本もありますよ」
「そうですか、では後ほど借りに伺います」
 ルカは食事をしながらも本をめくっている。
 ホルヘは説明書通りだとにっこりしながら、
「いかがです、それらの本は?」
「ホルヘさんはもう、お読みになられたのですか」
「ええ、大半は」
「大変おもしろいですね。当たり前のことが書いてあるのですが、なかなかこうは行きませんよね」
 全ては和、人と人との。親、兄弟、友達から始まり、最後は宇宙にまで大きな和が記されている。
「これなんか面白いですよ。導かれる者なのですが」と、ルカはある文章を指し示しながら、そこを古代ネルガル語で読み上げた。
「そんなに文句があるなら自分でやってみろ。と記してあります。自分の思ったようには行かぬものだから」と、ルカはそこを読んで笑う。
「そうですね。自分がよかれと思ってやったことが、良い結果を生むとは限りません」
 これはホルヘの経験から出た言葉のようだ。
「そうですね」と、ルカ。
 そこにはいろいろな人の思いが入って来る。そしてまるで違う結論になってしまうことがたたある。人の思惑ほど怖いものはない。
「だから自分が信じた主を信じて協力しなさいと。そして信じられた者は、それに値するように努力しなさいと」
 ボイ人は、ルカをボイの次期国王としてネルガルから強制とは言え受け入れた。ボイ人の中には未だにこの書物は生きている。そして指導者としてのルカは彼らの協力に対し何かを答えなければならない。
「大変なことです。当たり前のことなのですが」
 きちんと答えようとしているルカの態度を見、ホルヘは関心を持った。
「お夕飯はどうなさいます」
「お夕飯も、ここへ用意してもらうわけには参りませんか」
 どうやら全部読み終わるまで、この部屋を出来る気はなさそうだ。
「わかりました、こちらへ用意させましょう。ただ私は午後から少し用がありますので、代わりのものを」
 午後から弓の練習だ。誰にも負けるわけにはいかない。
「いえ、一人でかまいません」
 ルカからはそう言われたものの、ホルヘはその足でリンネルの所へ向かった。
「それで昼、食事に顔をださなかったのか」と、守衛のひとり。
 いつも国王夫妻たちと一緒に食事をしているルカの姿が今日だけはなかった。それで守衛たちは焦った。もしや殿下の身に何かあったのではないかと。急いで殿下を探しに行こうとしているところへ、レスターがのんびりと盆を持って少し離れたところに腰掛け、ゆっくりと食事を取り始めた。
「あいつでも、飯食うのか」
 レスターはめったに食堂に姿を見せることは無い。普段何を食っているのかと気にはしていたが、盆に乗っているおかずを見る限り、俺たちと変わりはなかった。否、俺たちよりあっさりしている。もっと脂っこいものを好むのかと思っていたが。
「あいつがゆっくり飯を食っているということは、殿下の身に危険はないということだよな」
「俺、訊いて来る。殿下が今何処にいるのか。あいつなら知ってんだろう」と、トリスがレスターのところへ行く。
「俺も」と、もう一人が立ちだす。
「よっ、殿下、何処にいるんだ?」
 レスターは一瞬、食事の手を止めたがまた食べ始めた。
「おい、何処にいるって訊いてんだよ」
 レスターはちらりとトリスを見ると、また視線を盆に移し、
「知るか」とだけ答えた。
「知るかって。お前が見張っていたんじゃないのか」
「守衛は、俺だけじゃない」
 そりゃ、そうだけど。とトリスは口ごもる。
「じゃ、何でここでのんびり飯なんか食ってんだよ」と、もう一人の守衛が言う。
「そりゃ、お前らも同じだろ」
 それもそうだけど。と、トリスは納得せざるを得ない。
「のんびり飯食っている場合じゃねぇーだろ。殿下、探しに行かなきゃ」
 そこへハルガンがやって来た。
「何処にいるんだ?」
 レスターはハルガンをちらりと見たが、また食事を始めた。
「お前が殿下の居場所を見失って、そんなにのんびりしているはずがないからな」
「クリスに訊け」
 そう言うとレスターは自分の盆を片付け食堂を出て行った。
 それと入れ違いにクリスが入って来た。
「あっ、レスターさん」と、声を掛けたがレスターはクリスをそのまま無視して外へと行ってしまった。
 クリスは守衛たちのただならぬ雰囲気を読み取って、
「何か、あったのですか」
「いや、別に。それより、殿下は?」
「あっ、殿下でしたら、この宮廷の奥の書斎におります」
「書斎?」
「今朝方、侍女が呼びに来て」
 それならトリスたちも知っていた。
「その後を付けたのですが、途中で追い返されてしまいました。何でもこれより先は国王の許しがある者しか通れないとかで」
「それで、おめおめと引き下がって来たのか」
「暫くそこで迷っていたらレスターさんが来て、侍女に暗示を掛けておいたから、後で聞きだすとよいと言われまして。それで先程まで、殿下が中で何をしているのか聞いていたのです。陛下たちは出て来たのに殿下だけ出てこないものですから」
「暗示って、あいつ、催眠術も使えるのか」
「自分がさんざん掛けられたから、やり方は知っているそうです」
 フーンと守衛たちは納得した。
「少し、奴に頼りすぎるな」と、言い出したのはハルガン。

「まさか、おこもりが始まったんじゃ」
「まさか、昼食、そこへ持って行ったのか?」
「はい」と、ホルヘが返事すると、
「そんなことしたら、駄目だぜ。出てこなくなっちまう」
「せっかく侍女たちが口をすっぱくしてまで躾なおしたのに」
「何をですか」
「殿下の悪い癖だよ。誰にも無くて七癖って言うだろう。殿下にはちっと困る癖が二つあってね。一つが裸で池で泳ぐこと。あと一つが、好きなことを始めると一切が見えなくなること。特に本とかコンピューターは駄目だ。あれをやらせ始めると誰が何を言っても聞こえない」
「そうそう、耳元で怒鳴ったって駄目。あのつんぼ度は並みじゃないぞな」
「つんぼ度じゃなくて、集中力だろう」
「だからこの星へ来る前に侍女たちがさんざん言い聞かせていたんだよ。それなのに、こもらせた上に飯まで与えたんじゃ、もうで出て来やしないぜ」
「そうだよ、ここでもそれが出来ると思わせたら、アウトだ」
「こら、お前ら、何がアウトだ。持ち場に戻れ」と、リンネルは呆れたように言う。
「だからこれは、殿下が誤解されないように、決して殿下にしてみれば悪気があってやっているのではないと。癖なんだから仕方ないと」
「そっ、そう言うことを俺たちは言いたくて」
「ええ、それならもう知っておりますわ」と、シナカはくすくす笑いながら言う。
 ほんとにこの守衛たちは面白い。
「奥方様、いらしたのですか」
「でもそれなら余計、誰か傍にいてやらないと、時間の感覚もないのでしょうから」
「それはそうなんだが、居てもなぁー」
 殿下が話しかけてくることはないし、やることもない。
「私がおりましょう」
「大佐、じゃ、弓の練習は?」
「一回ぐらい休んでも」
 リンネルにとっては、大会での優勝よりルカの方が大切だった。何にそれほどまで興味を持ち始めたのか。
「ホルヘさん、悪いですが殿下の所へ案内していただけますか」

 ルカは南よりに配置されたテーブルで本を読み続けていた。既に数冊の本の束がルカの脇に積み重ねられている。
「有難う御座います、ここで」と、リンネルはホルヘに戸口で言う。
「おそらくトイレにでも立たない限り私の存在には気づきません。何か始まるとそういうお方なのです」と、リンネルは苦笑した。
「では」と、ホルヘは一礼すると去って行った。
 リンネルはルカが何を夢中になって読んでいるのかと、そっと脇に積み重ねられている本を覗き込む。
 ボイ語の本のようだが、隅に置かれているのは古代ネルガル語、しかもその表紙は竜。
 これか、原因は。
 リンネルはそこに座り、その本をめくり始めた。かなり年代ものの本だ、慎重に扱わなければ破れてしまう。リンネルもいつしかボイ語を習い、古代ネルガル語も習うようになっていた、簡単な単語ぐらいなら読み書きできるほどに。そんなリンネルにも不思議とこの本には理解できた。難しい言葉は使われていないからだ、誰が読んでもわかりやすいように。
 ルカは一冊読み終わり、目を上げた。
「あれ、リンネル。何時から?」
「先程からここにおりました」
「弓の練習はいいのですか?」
「今日は」
 ルカはリンネルの読んでいる本に目を移すと、
「帝王学だそうです」
 リンネルは思わずその本を閉じた。自分のような者が呼んではいけない書物だ。
「読んでもかまいませんよ。おそらくその書物は、ボイ人の誰もが読むようにと、イシュタル人が書き残して行ったものだと思います。そのため言葉が単純で鮮明です」
「イシュタル人が?」
「その時代、古代ネルガル語を使うのは、イシュタル人しかおりませんから」
「しかし」
 悪魔と言われている彼らが記したにしては、理想郷すぎる。

 夕食にもルカは顔を出さなかった。
「お招きいただきまして、有難う御座います」
 深々と頭を下げたのはハルメンス公爵とクロード男爵。
 テーブルの顔ぶれを見回して、ルカがいないことに気づく。
「あの、失礼ですが、殿下はご一緒では」
 これだけの顔ぶれが揃っているのに王子の姿が無いのはおかしい。まだ、その地位を認められてはいないのか。
 ハルメンスの心配をよそに、シナカはにっこりすると、
「今朝ほど父が、ボイ伝来の書物を見せたところ大変興味をもたられ、それからずっと書庫で」
「まさか、そこでお昼も?」
「はい」
「いけませんね、それは」
 守衛たちと同じ事を言う。どうやらルカのこの習性は有名なようだ。
「どうしてですか」
「まだ日が浅いので、殿下の習性をご存知ないのは無理もありませんが、それをやらせると二、三日はそこから出て来ませんよ。せめて食事だけでも、強引にこちらで取るように仕向ければよろしかったものを」
「二、三日?」
「酷いときなど、一月ぐらいは軽く、ボイに行ったらそのようなことがないようにと、随分侍女たちが忠告していたようですが」
 シナカは呆れたような顔をした。あの集中力は尋常ではないと思っていたが。
「こうなっては、まあ、気が済むまでそこから離れないでしょう」
「まぁ」と、シナカは呆れたように返事をしたが、
「でも丁度よかったかも知れませんよ。あなたとこうやってお話できる機会が持てましたもの。侍女たちは私があなたに会うのを喜ばないのです。特に彼の守衛たちは」
 ハルメンスは苦笑すると、
「それはあなたが私に心を移すのを心配してのことでしょう。そんなことを心配する必要はないのに。彼女たちは自分の仕えている主の大きさを理解していない。もっともまだ子供でお小さいから仕方ないことなのでしょうが。我々ネルガルの男性は、相手と対峙した時、瞬時に相手の力量を見抜く力がないと出世はおろか、生きていくことも出来ないのです。ですから自ずとそういうことには敏感になるものです。常に相手の力量が自分より上か下かと言う感じに見てしまいます、お恥ずかしいことですが。ですが女性はこれを本能的に持っているようです。それは常に選ぶ権利が女性側にあるからなのでしょうね。男性が女性を選べるようになるには、それなりの地位や財力を身に付けてからでなければ、その権利を取得することはできません」
「でも、私の場合、選んだ訳では」
「彼が、お嫌いですか」
「えっ?」
 愛と言えば違うような気がする。しかし嫌いではない。
「そこら辺なのです。女性はどんなに押し付けられても、自分が選んだ人でなければ好きにはなりません。少なくともネルガルの女性はそうです。そして自分より格の低い男性を決して選びません。彼に比べれば私など遥かに下です。それは、後十年もすればはっきりすることでしょう。まずこの中に」と、ハルメンスは卓に集う男たちを見回してから、
「彼と互角に渡り合える者はいないと私は思っております。シナカ王女、あなたは素晴らしい人を選ばれましたよ」
 シナカは黙り込んでしまった。何故、この人は彼をここまで高く買うのだろう。この人だって格が低いようには見えない。
「まあ、彼の実力に一番気づいていないのは彼自身なのかも知れませんね。よく本当に力のある者はその力をひけらかさないと言いますが、案外自分の力に気づいていないからではないかと思います。誰かが気づかせて差し上げなければ」
「それをあなたが?」
 ハルメンスは大きく首を横に振ると、
「私は彼に警戒されておりますから」
 何故? とシナカは思ったが、ハルメンスにうまく話題を摩り替えられ、それからはネルガルの国の話になった。特に上流社会の生活はシナカの興味を駆り立てた。

「今宵の食事はいろいろと楽しかったわ。あなたは話が上手だと聞いてはおりましたが、本当ですね。それにボイ語もお上手」
「それはお褒めいただき有難う御座います」
「また、いらしてくださいます?」
「お招きに預かればいつでも。ですがこの次は、このテーブルの半分は女性にしてくださいませんか。出来れば半分以上でもかまいませんが」
「まぁ、ハルガンさんと同じようなことを仰るのですね」と、シナカは笑う。
「失礼な、私をあんな野獣と一緒にしないで下さい」
 シナカは驚いたようにハルメンスを見る。
 この二人、仲が悪いと聞いてはいたが。
「では次は、夫人同伴と言うことで」
「それは、面白いですね」
 シナカは何を思い立ったのか、
「明日も来ていただけるかしら」
 ネルガルの話を、否、彼の故郷であるネルガル星の話を、もっと聞きたい。
「明日ですか?」
「何か、ご都合でも?」
「いえ、これと言って都合という都合はありませんが」
 結局ハルメンスはルカがいない席を埋めるような形になった。

 ルカが書庫にこもっている間と言うよりも、ここの所、ケリンは情報部の者とたびたび会っていた。相手の諜報員はケリンからボイの情報を聞き出すのが目的だったのだろうが、ケリンの方が一枚上手だった。無口を装い、さり気なくネルガルの現状を聞き出す。
 そしてハルガンは、もっぱらハルメンスが建てた娼館に入り浸りだ。やっぱり女はネルガル人に限ると言いつつ。ハルガンにしてみれば、頭から尻尾の先まで嫌いなハルメンスのところに通うには目的があった。敵の敵は味方。この際好きだの嫌いだのとは言っていられない。ここは銀河各地から来た商人が集う情報の坩堝だ。無論、地下組織の奴等も闊歩している。
 二人は軍の整備をリンネルとレイに任せ、情報の収集に専念していた。

「今日で、五日目ですね」
「何が?」
「殿下がお姿を見せない」
「そうです」と、シナカは少し寂しそうに答えた。
 普段傍に居ても、これといって気にしてはいなかった。弟がいるようで。だが五日も姿を見せないとなると。書庫に行けば会える。だが彼は私が来たことにすら気づかない。リンネルが気づかって彼に声を掛けようとするのだが、それを私の方から断った。邪魔になるといけないからと言って。でも。
「何処におられるのですか、殿下は? 出来れば食後にそこに案内していただきたいのですが」
 シナカは国王を見た。
 国王はさり気なく頷く。
「わかりました、私が案内いたしましょう」と、シナカが答えると、
「男同士の話がしたいものですから、できれば妃殿下以外の方に」
 ハルメンスにそう言われて、ホルヘが案内役を買って出た。
 夕食が済むとホルヘはさっそくハルメンスを宮廷の奥にある部屋へと案内した。
 その部屋の南よりのテーブルに、ルカは本に埋もれるようにして突っ伏して寝ている。肩にはリンネルの物であろう上着が掛けられていた。そしてその傍らでリンネルが本を読んでいる。
「これはリンネル大佐。随分愛読家におなりになったこと」
 ハルメンスの嫌味に、リンネルは嫌な顔をして視線を上げた。
「ここでは本を読む以外、やることがありませんから。それより何しに来られたのですか」
 まさか私に嫌味を言うために。
「殿下に、ご挨拶に」
「今やっと眠られたところです。ここ数日、ろくに睡眠をお取りになられておりませんでしたから」
「そうですか」と、ハルメンスは返事をしたものの、リンネルの話を聞いていなかったかのようにルカの傍によると、肩を揺すり始めた。
 ハルメンスの手は他の貴族たちと比べて特別大きいわけではない。子供であるルカの体がまだ小さいだけだ。そのため軽く揺さぶられても、ルカは起きざるを得なかった。
「お早う、殿下」
 ルカは眠そうに目を擦りながら顔を上げた。
「これは、ハルメンスさん」
「識別できるようですね。ではまだ、完全に脳がお休みになられている訳ではありませんね」
 ルカは大きなあくびをすると、またテーブルに伏せようとした。
「お話が」
 ルカはしょぼしょぼした目でハルメンスをねめつけると、
「後にはできませんか」
「妃殿下のことですが」
 そう言われてルカは思わず顔を上げた。妃殿下と聞いただけで目が覚めた。
「シナカが、何か?」
 弓の練習中に怪我でもしたのか。
「五日も、放置しておいたそうですね」
「放置って、私は別に」
「ご存知ないのですか、女性の方を五日も放置しておくと、どのようになるか」
「どうなるかって、どうなるのですか」
「怒っておられます、それもかなり。あれでは離縁も」
 ルカはがばっと起き上がった。
「そっ、それは、本当ですか」
 侍女たちにも言われていた。いくらなんでも三日も四日も部屋にこもるのはよくないと。
「リンネル、私はここにどのぐらい?」
 自分か何日こもっていたのかも解らない。
「今日で、五日になります」
「どっ、どうして教えてくれなかったのですか」
 人を攻める資格はないと思いつつも、ルカは慌てて立つと部屋から駆け出す。
「リンネル、後を頼みます」
 そして本につまずき転ぶ。
「痛っー」
 ぶつけたつま先を抱え込んだとき、
「殿下」と、ハルメンスはルカを覗き込んだ。
「話は後だ。早く行ってシナカに謝らなくては」
「怒らせた女性をなだめるよい方法があるのですが」
 ルカはハルメンスを上目ずかいに見た。
「よろしければ教えて差し上げますが、なにしろ私は経験が豊かですから」
 ルカが返事に苦慮していると、ハルメンスは一通の封書を出した。
「何ですか、それは?」
 見ればパーティーの招待状のようだが。
「まずは平に謝ること。言い訳や口答えは一切いけません。ただただ謝る。そして相手の気持ちが揺らいだところで相手が興味を引きそうなものを贈るのです、お詫びにと付け加えて。いかがですか、これ、使ってみませんか。本当はもう少し後でお持ちしようと思っておりましたが、少し早いのですが」
 そのパーティーは二ヵ月後のものだった。ルカはその封書をじっと見詰めていたが、
「使わせていただきます」と言うと、その封書を受け取り走り出した。
 ハルメンスとクロードはその後姿を見詰めながら微笑む。
 ルカの姿が完全に見えなくなってから、
「どういうつもりだ。こんな星までやって来て。もうあなたの目論みは潰えたはずだ」と、リンネル。
「そうですね。でも諦めきれないというものもあるのですよ」
 リンネルは本を片付け始めた。
「いけませんね、あなたが付いていながら、こんな所に五日も居続けさせては」
「仕方ありません。言ってもお聞きになられるような方ではありませんから」
 リンネルは本を積み上げると書庫へと運び始めた。
 ハルメンスは卓上に竜の刺繍のしてある書物を見つける。
「このせいですか」
 ハルメンスはその本に歩み寄ると、表紙を開いた。
「随分、古そうな本ですね」
「五千年ぐらい前のものです」と、ホルヘ。
「そうですか」
「この書物が今のボイの基礎になっております」
「ほー」と、ハルメンスは感心する。
「古代ネルガル語のようですが」と、クロード。
「そのようですね。殿下もそう仰せでした。私は最初これがネルガル語なのかと思い、これらの文字を習ったものですが、どうやら違うようで」
「そうですね。ネルガル人がこの言語を使わなくなってかれこれ、一万、否、それ以上になりますかな」
あれからネルガル語はいろいろと変遷し、今のようなネルガル語になった。これからも変わっていくだろう。
「この言語を今でも使っているのはイシュタル人だ」
 それを聞かされてもこの部屋にいる者は誰も驚かなかった。
 やはりこの星は、イシュタル人と何か関係があるのか。ナオミ夫人が話してくれた町並みに、どことなく似たような所があるのでもしやと思ってはいたが。
 クロードはボイの基礎を成したと言われた書物をめくっている。
「なかなかいい事が書いてありますね。しかし面白いですね。彼らは支配者のことを王とは言わないのですね。否、支配者とも言わない」
 リンネルが一人で片付けているのを見て、
「手伝いましょうか」と、ハルメンス。
「結構です。それよりそろそろネルガルに戻られたらいかがですか」
「私はわりと往生際が悪い方でして、まだ諦めてはいないのですよ」
 リンネルはハルメンスを睨み付けた。
「替え玉という手があるのですが」
 リンネルは驚いたようにハルメンスを見た。
「お二人がこのまま仲良くされてもボイにとっては利益にはなりません。ボイ人とネルガル人の間には遺伝子的にかなりの隔たりがあり、子はできませんから。つまり世継ぎができないと言うことです。ならばシナカ嬢がきちんとしたボイの男性を選ばれたほうが、よっぽどボイのためになります。ただネルガルから使節が来たときだけネルガルの王子がいればよいのです。それを替え玉に演じてもらうのです。無論替え玉なのですから王子としての権限など与える必要はありません。ネルガルの使節が帰った後は、シナカ嬢のお好きなようになさればよろしいのです」
「替え玉と言うが、相手は子供だろう」
「それはそうですね。殿下が子供なのですから、大人と言うわけにはまいりません」
 リンネルは暫し考え込み、
「その子の人生は?」
「そもそもスラム街で食うや食わずの生活をしている者です」
 その言葉の中には、そのまま放置しておけばその内餓死すると言う意味が込められていた。
「毎日食事にありつれるだけでも幸せなのではありませんか。しかも、王侯貴族の生活ができるのですから」
 リンネルは何も答えなかった。
 ルカはただの和平のためにこの星へ送り込まれたわけではない。それはあなたも知っているはずだ。その時、その子の命も亡くなることを。それを知りつつ殿下が。
「この件、私には判断しかねます。殿下に直接お尋ね下さい」
 ハルメンスは軽く笑うと、
「始めからそのつもりです。ただこれには身近な者の協力が不可欠なもので」
「もし殿下がそうしたいと仰せなら、いくらでも協力いたしましょう。ですが、殿下はおそらく」
 リンネルはその後の言葉を濁した。
「殿下は他人を犠牲にしてまで自分の自由を得ようとはなさらないでしょう」
 もっとも今度はハルメンス公爵に利用されることになるのだが。
「その時は力ずくでもと思っておりましたが」
 リンネルは苦笑した。
「それだけは止められた方がよいかと存じます。ああ見えてもご自身で納得なさらないことは、決してやるお方ではありませんから」
 一見、色白で脆弱そうに見える。それに他人との争いを嫌うルカは、自分が下手に出ることで争いが避けられるなら、誰にでも平気で頭を下げるところがある。そのためネルガルの王宮ではプライドのない弱虫と判断されている。もっとも平民の血を引くのだから無理からぬことだが。現に付き添って来た公達もそう思っている節がある。ここのところボイ人に対する彼らの行動が目に余る。それで再三忠告しているのだが、あんな弱虫王子に何が出来ると相手にしない。彼らは知らない。ルカの理不尽に対する強い怒りを。それを知るのはカロルを始め一部の者たちだけだ。
「さようですか」
 連れ帰ったところで、こちらの意に沿わなければ意味が無い。
 ホルヘは黙ってこの二人の会話を聞いていた。
「用は済んだ。帰ります」と、ハルメンスはクロードに声をかけた。
 クロードはお邪魔しました。と言う感じに丁寧に頭を下げてからハルメンスに従う。
 リンネルは暫く考え込む。
 替え玉は考えなくも無かった。ネルガルを発つ前に用意し、ボイへ着くと同時に入れ替える。だがそれをルカはいさぎよしとはしなかった。
 リンネルは我に返るとホルヘの存在に気づき、
「今の話は聞かなかったことにしてください。殿下はこのようなことは考えておりません」
「何故、私に」
 あのような重大な話をボイ人である私の目の前で話したのだろう。
「替え玉には協力者が必要です。それもいつも傍に仕えているような人が。あなた方は適任でから」
 ハルメンスは世継ぎの件を持ち出して彼らをなびかせようとした。だが世継ぎを重要視するのはネルガル人の倫理観であって、ボイ人にはあまり当てはまらないということをハルメンスですら気づかない。やはりハルメンスもネルガル人。いくら銀河を旅していろいろな異星人に会っていてもネルガル人の思考からは抜けられない。その点ではルカも同じ。
「殿下も世継ぎのことをお考えになられていないわけでもないのです。ネルガルでは世継ぎはなによりも大切なことですから。それでネルガルにはハーレムがあるのです。権力のある男性は複数の妻を持つことが許されております。先妻に子供ができなかったときの用心に。ですからその逆があってもよいのではないかと言うのが殿下のお考えです。遺伝的に子供は不可能だということを知った時、殿下から相談を受けました。ですから私は、そのお考えは殿下が成人なされた時にもう一度熟考されるとよろしいのではと申し上げました。理屈的にはそうなのですが、感情的にそれを認められるかということが問題になりますから」
 ホルヘは笑った。
「なるほど、ネルガル人はなかなか面白いことを考えますね。私達ボイ人は世継ぎには重点をおいておりません。それよりもは適任者が後を取るべきだと考えております。なぜなら肉体と魂は別のものですから。肉体は親子でも魂が違うということもありますし、その逆もありますから」
「それは、イシュタル人の考え方ですな」
 リンネルもここで本を数冊読み、浅くだがイシュタル人の倫理観を学んだ。
「そうかも知れませんね」
 この書物がイシュタル人のものならばそう言う事になる。今までネルガル人の教えだとばかり思っていたが。それにホルヘはこれらを書物から学んだ覚えはない。母親から教わった。おそらくホルヘだけではなく全てのボイ人が両親や祖父母、または身近な大人から。それほどまでにこれらの書物はボイ人の血肉になっていた。

 シナカは何時もの場所で守衛たちと一緒に弓の練習をしていた。祭礼まで後二ヶ月、練習にもいよいよ気合が入ってきた。今年こそは十本の指に入りたい。それがシナカの目標だった。
「凄い腕だな」
 シナカの扱う家宝の弓、ホルヘのよりもは小ぶりだとは言え、男でもそれを引けと言われればかなりの力を必要とする。
「ボイ人は男女の見分けがつかないと思っていたら、やることまで男女差がない」
 練習を見に来ていた守衛たちが感心する。
「あら失礼な、弓は特別なのよ。ボイの竜神様は弓の名手なのですから。ボイ人なら誰でも弓は扱えます」
 これと似たような台詞、何処かで聞いたことがある。
 守衛の一人があっ、と思い出す。
「そう言えばナオミ奥方様の故郷でも、なんでも竜神様は笛の名手で、村の人なら誰でも笛が吹けるとか」
「あっ、俺もそれ聞いた」
 キネラオはそれを黙って聞いていた。
 紫竜様は笛の名手であり弓の名手でもある。おそらく殿下の母君であらせられるナオミ夫人の村では笛の方を取り、私達ボイ人は弓の方を取ったのだろう。祀るは同じ神。
 そこへルカが走り込んで来た。まるでそこにある弓矢も見えていないようだ。
「シナカ、ご免」
 いきなり地面に座り込むと謝った。
「どっ、どうしたの」と、シナカはルカのもとへ弓を持ったまましゃがみ込む。
「あなたを五日間も放置したことです、ご免なさい」
 シナカはやっと意味がわかった。すると急におかしくなり笑い出した。
「怒っていないのですか」
 否定すれば嘘になる。だが弓の練習もあり、放置したのは私の方だとシナカは思っていた。だが、こうも素直に謝られると少しいじわるしたくなるのが女の性。
「少しは怒っています」
「やっぱり」と、ルカは溜め息を吐いた。
 侍女たちからは館を発つ前にさんざん忠告を受けた。それなのに。
 困り果てたルカの顔を見てシナカは笑う。
「でもね、モリーさんがあなたに代わって平謝りしてくださいましたから」
 ルカはモリーがと思いながらも、
「ご免なさい、もう二度としませんから」
 シナカが笑って許した瞬間、ルカはほっとしたせいか、シナカの背にある物に目が止まった。
 矢。そう思った瞬間、顔から血の気が引き意識を失った。
「ルカ、あなた!」
 崩れていくルカをシナカはしっかり抱きとめると、
「誰か、オリガーさんを」
 守衛の一人が駆けつけて来た。
「心配いりませんよ、奥方様。気絶しただけです。気付け薬をかがせれば。それより背中の矢筒を」
 そのままでは意識を戻せばまた失う。
 シナカもそれに気づいたのか、ルカを一旦守衛に預けると矢筒を下ろし、代わりにルカを背負った。
 その姿を見て、守衛たちは思う、逆だろうと。普通、夫が妻を背負うんじゃないかと。何時になったらそういう姿が見られるのだろう。この体格差。後十年は無理かな。
「済みませんが、扉を開けてもらえませんか」
 守衛たちは我に返ると、引き戸を開いた。
 部屋へ向かう途中で寝息が聞こえる。
 あれ? と思いシナカの背中を覗き込むと、
「奥方様、寝てますよ」
「どうりで、重いと思った」
 結局そのままベッドに寝かせることにした。
「ほとんど寝ていなかったのかしら」

 そのまま夕飯の時間になってもルカは起きなかった。
「起こしましょうか」と、ルイ。
「そのままでいいわ。私も少し横になりますから。お手数ですが夕飯はこちらに用意してくれますか」
「かしこまりました」と、ルイは去った。
 シナカはルカの隣に横になる。まるで母親が子供に添い寝しているように。

 夕方遅く、ルカは目を覚ました。
 ここは? と辺りを見回す。
 寝室だ。どうやってここへ? 周囲には誰もいない。
 ルカは起き出し居間へと向かう。居間には食事が用意してあった。そして窓辺にシナカの姿。刺繍をしているようだ。
 シナカはルカに気づいたのか、
「お目覚め?」
「お早う御座います、ではないですよね」
「そうね」と、シナカは笑う。
「お腹、すいたでしょ?」
「今、何時なのですか?」
 ルカはすっかり時間的感覚がなくなっていた。
「もう食堂の方は片付けられてしまったので、ルイに頼んでこちらへ運んでもらったのです」
「私は、いつから」 寝ていたのだろう。
 ルカは、はっと思い出した。そしてしみじみとシナカを見る。だが今のシナカは武着を脱ぎ、いつもの服に着替えていた。
「練習の邪魔をしてしまいました」
「いいのよ別に。それより食べましょうか、冷めてしまいましたけど」
 食事を待っていてくれたようだ。
 そこへルイがやってきて、
「暖めなおしましょうか」
「私はこのままでかまいませんけど、あなたは?」
「私もこのままで」
「ではそういうわけなので、ルイももう休んで。後は二人でやりますから」
 ルイは一礼して出て行った。
 シナカはルカを差し向かえに座らせるとご飯をよそった。
 ルカはバツ悪そうにそれを受け取る。
「たまには、こういうのもいいでしょ」
 いつも大勢で食事をとるボイ人。だがたまには夫婦水入らずということもあるようだ。
 ルカはかるく頷いてから、
「本当に怒っていないのですか」
「どうして?」
「だってハルメンスさんが、あなたがかんかんだって」
「まあ」と、シナカは呆れたように笑う。
 弟ぐらいにしか思っていなかったはずなのに、合わないと寂しい。
「そうね、またやったら離縁かしら」
「やっぱり、怒っているのではありませんか」
 シナカはまた笑った。
「それで靴も履かずに私のところへ飛んできたのですか」
「靴?」
 ルカには記憶が無かった。シナカのところへと思う一心で、弓すら目に入らなかった。
 だがほっとした瞬間、全てがよく見えた。あれほど訓練したのに、目の前で弓矢を見た瞬間。
 ルカは黙り込む。
「気にすることないわ。なるようにしかならないもの。駄目なら病気ということにしてしまえばいいわ、本当よ。それより、去年の優勝者、誰だと思います」
「えっ」とルカは考え込む。
「ホルヘなのよ。だからあの弓、使ってもいいって父が。でも今年は難しいわね」
「どうしてですか?」
「だってあなたの連れてきたネルガル人、とても筋がいいのですもの。教えがいがあったわ」
 それはそうだとルカは思った。彼らの武術は一流だ。リンネルが懸命に仕込んだから。それに実戦を経験している。戦いを知らずにただ儀式としてだけやっているのとは訳が違う。
「それにあなたの顔を潰すわけにはいかないから一生懸命練習するし、いい人達ね」
「それはどうかな、確かにリンネルはそうかも知れないが他の者たちは、そこで優勝すれば女性にもてるから。あるいは賞金狙いというところですか」
「まぁ」と、シナカはまた笑う。
 明るい人だ。ネルガルの王女でこんなに屈託なく笑う人はいない。たとえ笑ってもそこには何らかの陰がある。
「でもそう言ってくださるのはあなただけです、シナカ」
 シナカはまた笑うと、
「彼ら、ネルガルではかなりの評判だったそうですね」
 しかもマインスの。とはシナカは付け加えなかった。
 ルカは頷きながら、
「ひとりひとり話すと、とてもいい人たちなのですけどねぇー」と言いつつ、どうしてそんなこと知っているのですか。と言う感じにシナカを見る。
 シナカはまた楽しそうに笑うと、
「父はあなたに会う前から言ってました。あれだけの悪評判の部下たちを一つにまとめあげられるのだから、かなりの器だろうと」
「まとめたのは私ではありません。リンネルが、骨をおってくれたのです」
 この人は気づいていないのかしら、彼らがリンネル大佐に従うのは、そうすることがあなたの利益になると確信しているから。もしその利益が違った時は、レスターが一番いい例だわ。おそらく誰もが彼のような行動を取る。あなた以外にこの組織をまとめることはできない。きわどい組織だわ。
「あなたが私を放任している間、ハルメンスさんが私の話し相手になってくださったのです」
 それを聞いてルカの心は騒いだ。どうして私の周りには、ハルガンといいハルメンスといい。
「ハルメンスさんが」と、ルカは冷静を装ったつもりだが。
「ええ、とても楽しかったわ」
 ルカはじっとシナカを見詰めた。
「どうしたの?」
「彼は、話が上手ですから。彼のこと、好きですか?」
 ネルガルの貴婦人で彼を嫌う者はいない。
 シナカは納得したように頷くと、
「妬いているの?」と訊く。
「そんなことはありません。ただ彼とはあまり深入りしない方が」
 彼の背後にある地下組織の存在。だがシナカは何も知らない。
「素直ではないのね。素直に言えば、私も本心を言ってもいいと思いましたのに」
「本心?」
「ええ、そうよ。妬いていますって。他の男など見ないで、自分だけを見て欲しいって」と、シナカは自分で言って赤くなる。
「そんな、私にはそんなこと言う権利はありません」
「あら、どうして、私の夫でしょう。私なら言うわよ。他の女など見ないで、私だけを見なさいって。ボイ人は皆そうよ。だから側室など持たない」
 ルカは暫し黙り込んだが、
「彼の方が私より遥かに上なのです」
 ルカはハルメンスがシナカに言ったこととは逆のことを言った。それでシナカは不思議な顔をした。
「彼の母君は現皇帝の姉君ですし、父君は先代皇帝の弟君です」
 なるほどとシナカは納得したように頷くと、
「それで皆が彼に対しては敬語を使うのね。あの公達ですら」
 ネルガルの貴族で、彼にかなう血筋の者はいない。
「そのような方がどうしてこのような星へ」
 この人を追ってきたということは知っているが、そのような身分の人が、こんなに自由に振舞えるのだろうか。
「それは」と、ルカは言いかけ一呼吸おいてから、
「彼の父君、つまりロンブランド公には既に正室がおりまして、お子様もおられたのですが、彼の母君との縁談がまとまると、その方を格下げして彼の母君を正室にしたと言ういきさつがあるのです」
 現皇帝、つまりルカの父親だが、彼がロンブランド公の力を恐れる余り、自分の姉を嫁がせた。
「それで彼はそれを嫌い、弟、実際は自分より一つ年上になるそうですが、その方に家督を譲り自分は自由の身になったそうです。もっとも体が弱かったということもあったようですが」
「そうなのですか」
 ネルガルの複雑な家系は解りにくい。何故、そのようなことをするのか。ボイ人のシナカには理解できない。
「それであなたは彼より格下ということになるの?」
「はい。私の血の半分は平民ですから」
「ネルガルの女性は結婚していても、より格上の男性を選ぶと聞きました」
 それで離縁し、別な男性と結婚することもある。そう言う意味ではシナカが彼を選んでも何らおかしくない。それだからこそ、ルカには何も言えない。ハルガンの時とは違う。まして相手が自分より格下の女性なら言いようがあるが、シナカは王女だ。しかもこの星の跡継ぎ。
「彼、言っていたわ。私はあなたの足元にも及ばない人間だと。私があなたを選んだのは正解だと」
 ルカは驚いたような顔をすると、
「それは彼の思い違いです」
「彼はこうも言っていたわ。あなたのことを知る者はあなたを恐れると、知らない者はあなたを馬鹿にすると、丁度あの公達みたいに。でもあなたのことを一番知らないのはあなた自身ではないかと」
「そんなことありませんよ。彼は何か勘違いしている。それで私を追いかけているのです」
「そうかもしれませんね」
 だが勘違いにしても、そうさせる何かがこの人はあるのだろう。
「まあ、そんなことどうでもいいわ」と、シナカはあっさりと話題を変えようとした。
「どうでもいいことではありません。彼にだけは」
 近づかない方がいいとルカは言いたかったのだが。
「心配しないで、私、あなたしか見ていませんから」
 ルカは驚いた顔をしてシナカを見た。そうでなくともいいのだが。と心の中で思いながら。本当は素敵なボイの男性を見つけて世継ぎを。ルカもネルガルの習性からは抜けられない。
「それより」と、シナカは一枚の封筒を出しおどけて見せる。
「何、これ?」
 ルカははっと思いポケットを探ってみたが、ない。
「握っていたから」
 そうだったと思っても後の祭り。
「パーティーの招待状みたいね」
「行きたいですか」と、ルカは仕方なく訊く。
「あなたは?」
「シナカさんしだいです」
「シナカでしょ」
「はい」と、ルカは素直に返事した。
 シナカは暫し封筒を眺めていたが、
「行ってみたいわ。今度は彼の館でやるのでしょ。彼、ボイに豪勢なネルガルの館を建てたと聞きました。ネルガルの館というものを見てみたいわ。キネラオやホルヘから話は聞いていますが」
 ネルガルはこの銀河の最先進星だ。実体はどうであれ、その華やかさは力と共に銀河全体にとどろきわたっている。だれもが憧れて当然。ましてハルメンス家の財力を尽して建てた館なら、一見の価値はある。
「シナカがどうしてもと言うなら、返事を出しておきます」
 ルカが気乗りしていないのは見れば直ぐにわかった。だがシナカは、否、だからこそシナカは、「ありがとう」と、ルカの首にわざとらしく抱きつく。
 無邪気な方だ。ルカはシナカのあまりの無邪気な振る舞いに罪悪を感じ、
「実はこれ、私があなたを放置しておいた償いに使うようにと、ハルメンスさんからいただいたものなのです」
 言わなくともいいことを言ってしまった。
「あら、あなたの周りにはけっこう、いろいろな先生がいらっしゃるのね。子供だと思って侮れないわね」
 ルカは苦笑した。

 ボイの歴史学者が国王の前で嘆いた。
「もう私には、あの方にお教えするものは何も御座いません」
「それは、また」
「殿下はあの五日間で、ボイのことはあらまし勉強なされてしまわれました」
 ボイのことを何も知らなくては、否、ボイをもっとよく知ってもらおうと思い、国王がルカに講師を何人かつけていた。
「頭のよい方だとは伺っておりましたが」
 これほどとは思わなかった。
 他の講師も、科学に関してはボイよりネルガルの方が上だし、政治や経済に至っては、ボイとネルガルの違いを説明するだけで、かえって教えられることがある。
 政治学を教えている学者が、
「どうでしょう、帝王学もお一人で学ばれたとのことですし、いっそのこと議会にもご出席できるように差し上げては、きっと建設的なご意見を出してくださるのではないかと存じます」
 経済学の講師も、
「私もその意見には賛成です。殿下にかえって我々の方が教わるようでして」
「やはりこの銀河を支配している星の王子だけのことはあります。幼いとは言え、それなりの教育は受けておいでです」
「そうか」と、国王。
「お前はどう思う」と、国王は隣で静かに控えていたキネラオに訊く。
「私もそれはよい考えだと思います」
「そうか」と、国王は頷くと宰相の顔を見た。
 既に彼はルカのアドバイスを受け、不平等条約を改正するため、ネルガルの領事と交渉に入っている。その限りでは抜け目のない子だ。
「よかろう、次の議会から」
 ルカはシナカと一緒に出席することになった。

「よろしいのですか、私などが」
「ええ、本当はまだ少し早いのですが、国王の許可がおりましたから」
 国王が許可を出すには議会の承認が必要だ。つまりルカが議会に出席することを議員たちが認めたことになる。
 会議室は五十人ぐらいが収容できる広さで、テーブルと椅子が円形に配置されている。テーブルの一画が議長席になっており、議長は国王が勤める。大概の法案や行事はここで話し合われ、一旦国民に開示され、国民の意見を取り入れた上でもう一度話し合われ試行されるようだ。
 議会で決まったことが即結論になる訳ではない。のんびりとしたボイ人の気質が良く出ている面白い仕組みだとルカは思った。だが有事の際はどうするのだろう。これでは間に合わない。
 議題はもっぱら近々行われる祭りのことだったが、それ以外にもこまごまと話し合っている。ルカは黙って聞いているだけだった。
「いかがでしたか」
 議会が終了した後、キネラオが感想を訊いていた。
「面白いですね、こうやって国の方針が決まるのですね」
「ネルガルとは違うのですか」
 ネルガルは国民主権の星と聞いていた。だがそれは過去の話。今では金に任せた帝政になっている。
「まだ私は子供でしたから、お恥ずかしいのですが、その頃は国政に感心がありませんでした」
 当然だ。その年で感心があること事態不思議なぐらいだ。まだ政より母と遊ぶ方が忙しい年頃だ。
「もう少しネルガルの政を学んでおけばよかったですね。何かお役に立てたかも知れません」
 だがルカは感じていた。この星にこそ、ネルガルが学ぶべきことが沢山あるのではないかと。
「仕方ないわ、私があなたの年の頃には、鬼ごっこの方が忙しかったもの」
 姫のおてんばにはキネラオはさんざん手を焼かされた。
「次回はどうなされますか。まだお小さいですから、出席は殿下しだいでよいそうです」
「出席してかまわないのでしたら、次回も是非、出席させてください。皆さんの意見を聞いているのは楽しいです」
 国をよくしようとそれぞれの利害関係者がそれぞれの利害を超えて話し合う。ルカはそれをゲーム感覚で聞いていた。
 ルカは自室に戻るとさっそくコンピューターの前に座り込み、今日の議会に掛けられていた話題を入力し始める。そしてそれらに関する細かい情報を集め始めた。市場の事、貿易の事、ネルガルとの取引の事、水の事、その他国民からの苦情。
 貨幣経済が未発達なのかと思っていたが、どうやらそうではない。
 利益の内、一人当たりの基礎所得を引いた残りの半分がコロニー税のようだ。税はそれのみ。所得がろくにないのに半分とはかなり高いような気もするが、食事と医療と教育がただなのだから利益の半分も残れば充分なのだろう。それに税は物納でも労役でもかまわない。農民は定期的にコロニーに農産物を納めることで税を払い、医師や教師はコロニーで定時間働くことで税を納めたことになる。そのた公共の施設の修理をするのもそのために物を収めても、それらは税とみなされる。
 なるほど、うまく出来上がった仕組みだ。
「何しているの?」
「今日の議題、いくつかは判断するのに資料がたらないのではないかと思いまして」
 既にルカのコンピューターはボイのいくつかのコンピューターとアクセスできるようになっていた。それどころかハッキングまで。これは誰にも内緒だが。
 ルカはくるりと椅子を回すとシナカの方に向き直り、
「一つ訊いてもいいですか」
「何でしょう。私にわかることなら」
「ボイの労働時間は、半日ですよね」
「ええ、子供たちの勉強時間も半日でしすが、随分長く感じたわ」
 これはシナカの子供の頃の思い。
 ルカは苦笑してから、
「キネラオさんたちは私たちの面倒を見てくれていますよね、ルイさんも、あれって一日ではありませんか」
「半日よ、三交代になっているのですから、キネラオとホルヘとサミランで。ルイも他の侍女たちと交代制になっているのよ」
「でも、ほとんどいますよね」
「後は、本人の趣味なの、労働とは違うの」
「趣味?」
「そう、あれは好きでやっているのですから、かまわないのよ。何もこちらが気兼ねすることはありません」
「好き?」と、ルカが首を傾げていると、
「そうなのです。ほかの事をしているより姫様のお傍に居たほうが楽しいから。ですから余り気にしないで下さい。用があればさっさとかえりますので、既に半日分の労働は済んでいますから。キネラオさんたちもきっと同じだと思います。現にいろいろと用向きを考えてはこちらに見えるのですもの」とルイはあっけらかんと言う。
 ルカは不思議な顔をした。ルカには理解できない。
 労働と趣味。どこで区別するのだ? つまり何時まで働いても自由だが、半日は労働と認めそれに対して対価を支払うが、後はボランティアと言うことになるのだろうか。
 そう言えば母の故郷でも、学者が一日中研究しているのは趣味だから、でもそれらは何時しか私達の役に立つ日が来るので、半日は労働として認めているの。と言っていたことがある。労働している以上、村人である権利は保障される。つまり食と医療と教育はただだ。無論子供たちにもそれは適応されている。学校へ行って真っ先にやるのは掃除。公共の施設を掃除するのだから立派な労働になる。そして授業が済めば使った物の整理整頓。それをやることによって子供たちもコロニーの一員となり、食と医療と教育をただで受ける権利を得られる。子供を育てるのも立派な公益だから、母が子に授乳しているのも労働になる。よってその母にも食と医療と教育はただになる。機織を一日していれば、半日は労働とみなされ、出来たもの売れば基礎所得を引いた半分を税として納める。コロニーに寄付すればそれは物納ということになる。物で納めるか金で納めるかは市場価格によるようだ。ここら辺は市場経済の観念がある。だがそもそも所得の低いボイでは市場価格も高が知れている。ここへネルガルの大量生産、大量消費の市場が導入されたら、ボイはどうなるのだろう。もっともネルガルのこの方式は惑星自体を破壊する。イシュタル人はそれを見据えた結果、ネルガルを離れたのか? 
 経済が行き詰ると暴動が起こりせっかく築き上げた文明を破壊する。破壊は破壊を生み、何百年もの恨みへと凝り固まる。作っては壊し作っては壊し、その繰り返しがネルガルの文明。これ以上の進歩をすることなく三次元に留まり続ける。それに対しゆっくりと流れるイシュタルの文明は、次の次元をも支配しつつある。否、彼らは支配という言葉は決して使わないだろう。彼らが言うとすれば共存、つまり新しい次元に住まわせてもらう。そして彼らはネルガル人が忌み嫌う超能力を自在に使う。
 ルカが考え込んでいるのをよそに、
「私、弓の練習をして来ます」と、シナカは部屋を出た。
 ルカは弓と言う言葉にドキッとして我に返る。
「負けたくないのです」
 ルカは苦笑すると、
「私に断ることないですよ、この星の祭りなのですから。充分に稽古して優勝してください」
「優勝は無理だわ、ホルヘがいるもの」
 ここら辺がボイ人の面白いところだ。弓の大きさに多少の男女差はつけるものの、あとの条件は全て同じ。早い話、肉体的に男女差が余りないのかもしれない。
「私も、これがまとまりましたら伺います」
 大丈夫なの。と言う顔をシナカがした。
「私も稽古をしなければ。先日はあまりにも近かったもので驚きましたけど」
 まあ、あまり無理をしないでと言う感じにシナカは軽く手を振ると、部屋を出て行った。

 庭のはずれで矢が風を切る音がする。
 ルカは痣のあたりを押さえながら音のする方へと近づいて行った。
 ここで逃げたら。と自分に言い聞かせながら。何でこんなものが怖いのだろう。銃口を突きつけられてもこれほど怖いとは思わないのに。
 やっとの思いで近くの木に寄りかかり、皆の練習を眺める。
「あっ、殿下だ」と、守衛の一人がルカの存在に気づいた時から、ロンの矢が的からはずれるようになった。次にシナカ、さすがにリンネルははずさない。
「やりづらいな、あそこにいられると」
「本番はこういう状態だろう」
 おそらく主賓の席にルカは座るはずだ。ルカのことを気にしながら矢を射なければならない。
「今のうちに慣れた方がよい。殿下の存在ぐらいで的をはずすようではな」
 そう言いながらリンネルはまた見事に的を射抜いた。
 拍手の音。
 見ればルカが拍手をしている。
「耳栓でもしているのか」
「大丈夫なのか」と、守衛たち。
 見ればルカの背後に支えるようにしてレスターが控えている。おそらく本番もあんな感じなのだろう。

 祭りが催される数日前、まるで前夜祭のようにハルメンス公爵の館でパーティーが開かれた。ルカの受け取った招待状には、完成した館をじっくり案内したいというハルメンスの希望で、パーティーの開催時刻より少し早い時間が記載されていた。
 招待状にはルカ夫妻と今夜のクロードのダンスの相手にとルイの名前が記されていた。シナカとルイはネルガルのドレスを纏い、守衛たちの忠告も聞かずにハルメンスが差し向けた車に乗り込む。
「危険はないでしょう」と、軽く言うルカ。
 ルカにはパーティー以外に目的があった。
「まったく、ハルメンスの野郎、何考えているんだ」

 ハルメンスの館はコロニーの中心街から少し離れてはいたが、広大な敷地にネルガルにあるロンブランド館をそのまま移築したような豪華さだ。
 シナカとルイは門を潜った時から開いた口がふさがらない。
「町外れ、おそらく館の直ぐ裏は砂漠だというのに、この緑はどうしたことでしょう」
 シナカとルイは驚く。
「おそらく水はボイから買ったのでしょう。空のように見えるのはドームです。水蒸気を逃がさないために敷地全体を特殊な膜で覆っているのです」
 ネルガルではその膜は敵襲から館を守る役も担っている。
「ネルガルの館はだいたいそういう作りになっております。そのドーム内は温度はもとより太陽の明暗、季節まで自由に指定できるようになっています」
 季節のないボイ星に住む彼女たちに季節を説明しても実感は湧かないだろうと思いながらも、ルカは説明した。
 館が見えた時にはシナカとルイは唖然としてしまった。
「ここに、一人で住んでいるの?」
「否、一人ではありません。使用人がいるはずです」
 さもなければこれだけの館、維持できない。
 ルカは一つも動じている気配はなかった。おそらくこれがネルガルでは一般的な屋敷。否、本当は特別な貴族だけが持てる館なのだが、その事情は今のシナカたちにはわからない。なぜならボイ星では王族でも平民でも、(もっとも王族という言葉すらないようだが)同じような屋敷に住み同じ食べ物を食べ同じようなものを着ている。ただ屋敷が一般の人より広いのは、そこに執務室だの会議室だの公用で使用する部屋があるからだ。
「そっ、それにしても」
 何千人住めるのだろうと思わせるほどの大きさ。ボイにこれほど大きい建物はない。
 ルカたちの車がエントランスに着くと、ネルガル人のドア・マンが車のドアを開けてくれた。
 やはり使用人の大多数はネルガル人。
 ドア・マンに案内されホールへと入る。エントランスホールは吹き抜けになっており、天井からは円盤を思わせるほどの巨大なシャンデリアが垂れ下がり、色とりどりの光を放っている。
「すごいわ、まるで宝石箱をひっくりかえしたみたい」
 シナカとルイがその美しさに感動しているのに対し、ルカは、
「落ちてきたら、ひとたまりもありませんね」
「もー、あなたって女心がわからないのね。もっともまだ子供だから、仕方ないけど」と、シナカはわざとルカを子供扱いした。
 最近わかった、ルカは子供扱いされることを一番嫌うということを。だから生意気なことを言ったりした時は、わざとそうしてやるのだ。すると案の定、
「私は、科学的に言っただけです」と、脹れる。
 シナカは顔を隠してほほえんだ。
 頭がよくおとなびいた振る舞いをするルカが、唯一気の許せる相手にだけ見せる子供っぽい反応。シナカはそれが好きだった。
「何がおかしいのですか」
「いえ、なんでもありません」と、シナカはルイを見る。
 ルイも笑っていたようだ。急に顔の筋肉を引き締めた。
 一つ二つと部屋を通り抜けると広いホールへと出た。そこが今夜の会場になるようだ。準備は着実に進められている。そこから中庭へと出られる。そこにハルメンスは居た。
「やっ、こっちです」とハルメンスがある装置の前で手を振る。
「何なのですか、この装置?」
「映写機です」と、即答したのはルカだった。
「姫は、私に質問されたのですよ、あなたが答えたのでは私の経つ手が無い」と、抗議したのはハルメンスだった。
 どうするのですか? という顔をしているシナカへ、
「ネルガルの夜空をお見せしようと思いまして。ボイの夜は明るすぎる」
 五つの月を持つ惑星。常備二つや三つは夜空に輝いていることになる。よって昼間とまでは言わないが、ボイの夜はネルカル人にとってはかなり明るく感じる。
 中庭でも沢山のネルガル人が会場の用意をしていた。その中にボイ人の姿もまじっている。
 ハルメンスは装置のセッテングを他の者に任せると、いくつかの自慢の部屋を案内し始めた。シナカたちは銀河の逸材を集めた装飾品に感嘆する。だがルカは、一流の物は一流と認めても必要以上の装飾は邪魔だと考えるところがある。
「素敵ね」
「気に入っていただけましたか。実は今までお見せした部屋の装飾をほどこしてくれたのはボイの職人なのですよ」
 それを聞いてシナカもルイも驚く。
「やはり手先の器用さはボイ人にはかないません」
 どことなく違和感を受けたのはそのせいかとルカは思った。重厚観のなかにある繊細さ。これがボイ人ならではの技。
「こちらは客間なのです。よかったら泊まっていかれませんか。ボイの方でもゆっくり休まれるように大きめなベッドを用意いたしました」
 見ればキングサイズのベッド。
「こんなに大きい必要ないわ」
「寝相がかなりよいと伺いましたので」
「誰に!」と、シナカは振り向きざまルイを見た。
 ルイは俯いて笑う。
「ルイ、あなた何をこの方に言ったの?」
「いえ、私はただ」
 ベッドに寝たことのないシナカが初めてネルガル式にベッドに寝た時、掛けていた布団を全て落としてしまったことを話しただけだ。
 だがベッドは腰掛けるとふかふかして気持ちよい。そして窓からは三階ということもありコロニーの町並みが見渡せた。ボイには高い建物がない。よってその中央に広がる巨大な湖も眺められる。
「素敵な景色。こんなふうに町を見たことはなかったわ」
 しみじみと外の景色を眺めながら、
「ねっ、一晩ぐらい泊まっていきません?」
 もともと結婚する前は屋敷をよく抜け出し守衛たちを困らせていたものだ。結婚してからは外泊は減り、出かけるたびに報告してくれるものでほっとしていたところだ。
「私はかまいませんが、ハルガンが何と言うか」
「そうね、彼、ハルメンスさんに嫉妬してますから、あなたを取られるのではないかと」
「少し待ってください。私は男ですよ、それどういう意味ですか」
 だがハルメンスもその意味がわかっているのか、
「それは面白いですね、是非とも泊まっていただきたいですね。彼の苛立つ顔が目に浮かぶようです」と、意地悪そうに笑う。
 まったくこの二人、どういう関係。とシナカは心で思いながらもこの別世界に憧れずにはいられなかった。
「ねっ、泊まりましょ」
「ではルイさんのお部屋は、お隣に用意させましょう」と、ハルメンスはさっそく使用人に合図する。
「話が決まったところで、お探しのものは見つかりましたか」と、ハルメンスはルカに訊く。
 見れば先程からルカは使用人の間に視線を送っていた。
「彼は、一緒では?」
 これだけの使用人を連れて来ているのだ、もしやと思った。
「彼にも声を掛けたのですがね、この星に来るとあなたに会うことになるからと言って断られました」
「私に会うのがそんなに嫌なのでしょうか」
「嫌というのではないようです。本当は会いたいのでしょう。ですが、あなたに会う資格がないと」
「それは、どういう意味なのでしょう」
 ハルメンスは肩をすくめて見せると、
「イシュタル人独特の価値観とでもいうのでしょうか」
 ネルガル人には理解できない。確かに身分からすれば相手は王子、片や平民。だが彼が言っているのはそんなものではない。もっと別なイシュタル人だけが感じることができるもの。それによって彼らは自分たちの身分を格付けする。結局それも差別ではないのか。とルカは思うのだが。
「彼って、どなたのことですか?」
「私の館に仕えているイシュタル人です」
「イシュタル人!」とルイは驚く。
 彼らは悪魔と言われこの銀河から嫌われている。もっともそう仕向けたのはネルガル人だが。
「イシュタル人は我々と同じ姿をしてますから、傍目には見分けが付きません。もしかするとあなたがたもネルガル人だと思って言葉をかわしたことがあるかもしれませんね。彼の名前は怠け者といいまして、私の館にきた当初は午前中しか働かなかったのです。午後は休息の時間だと言って。それで私がそう名づけました。そう言えばボイも仕事は午前中で終わりですね」
 ボイの職人を頼んだのはよいが、昼になると引き上げられてしまった。しかも手を抜くことをしらない。どんなに見えない所でも気が済むまでやらないと先に進もうとはしない。お蔭で完成までに倍以上の月日がかかった。それでもボイ人はのんびりしている。その内できるさ、止めてしまうわけではないのだから、と。
「そうね」と、シナカ。
 これはボイの昔からの慣習で、一日中働いている民族がいるなど考えもしなかった。
「ところがそんな彼が殿下に会われてから変わりまして、今では勤勉になりましてネルガル人顔負けです。事務など取らせてもクロードより早いもので、私がすっかり仕事を任せたら、あの男をそこまで信用してよいものかと、クロードは心配しております」と、ハルメンスは笑う。
「どうしてそんなに急変したのかしら?」と、シナカはルカを見る。
 ルカはわからないという感じに肩をすくめてみせた。
「彼に、何かを約束されたのですよね」
「約束? 私は約束などした覚えはない」
「だが私が差し上げたスカーフに古代ネルガル語で何か書かれた。それを見た途端、彼は号泣しそれ以来まじめに働くようになった」
 ルカはじっと考え込む。
「約束したのはもう一人の私。私は何を約束したのかすら知らないのだから、その約束を守ることも果たすこともできない。彼に会うことがあったら、そう伝えてくれませんか」
 自分で書いておきながら、自分に記憶がない。
「多重人格ですか。案外、リンネル大佐あたりが真実を知っているのではありませんか。あなたは彼の話を本気にしないようですが」
「本気に出来るはずがありません。この天井を覆い隠すほどの大蛇。もしそのような大蛇があの病室に入れば、看護婦か医師の誰かが見ていてもおかしくありません。誰にも見られずに、第一、そんな巨大な大蛇、ネルガルにはおりません」
「宇宙は広いのですよ、どんな生物がいても」
「私は、ネルガル星のことを言っているのです。ネルガルにあんな大きな大蛇はおりません。それともあの大蛇が他の惑星から来たとでも言うのですか。何のために、私の病室などに」
「あなたを助けるために。とは考えられませんか。そもそもあなたは神の子なのですから」
 ハルメンスがそう言った途端、ルカは嫌な顔をして両手を前に突き出した。
「ハルメンスさん、私はあなたはもっと理性的な方かと思っておりました」
「では、白蛇は。あの白蛇は神に仕えているそうですね」
 ハルメンスはその話をナオミから聞いている。
 無論、神とはルカのこと。
「では、あなたにも見えたのですか」
「いいえ、残念ながら私はまだ見たことがありません。ですが、ナオミ夫人を始め、カルロさんやジェラルド王子には見えるようですね」
 そう、数人の者が見かけている。侍女の中にも見たという者はいた。そしてここボイでも、あの白蛇は現われた。
 誰があのホースを持って来たのか。意外にリンネルだったりして。
「一度リンネル大佐とじっくり話されたらいかがです」
 あのイシュタル人からもっと竜のことを詳しく聞こうと思っていたのだが、それがかなわないのならリンネルと話すしかないのかもしれない。
 シナカとルイはきょとんとした顔をして二人の会話を聞いている。
「お聞きになりませんでしたか、殿下のネルガルでの噂を」
「ハルメンスさん、止めてください。私は普通のネルガル人です」
「ええ、聞いております、神の生まれ変わりだと」
 ルカは驚いたようにシナカを見た。まさかそれを信じてこの婚姻を。
「でも私達とネルガル人では神の考え方が違うようです、ねっ、ルイ」
 ルイは頷くと、
「私達の神、竜神様は水そのものですから、あの湖こそ神であり人の姿はしておりません」
「それが正しいと私も思います。大自然こそ神であり、人を神として崇めてはいけない。間違いの元ですからね。どんな賢人でも間違うことはありますから」
 ハルメンスは黙った。そうはいうものの私は、神の血を引き王の血を引き平民の血を引くあなたが欲しいのだ。
「こちらでしたか、そろそろお客様が」と、クロード。
 このパーティーには地下組織の幹部たちもこれからボイと取引をする貿易商人として姿を見せるが、そのことはルカには言ってはいない。実を言えばこのパーティーの真の目的は、組織の幹部たちにルカという人物の人格を見定めてもらうためにハルメンスが企てたもの。ネルガルでは秘密警察が煩く大々的にはできないが、ここボイではまだ自由が利く。今のうちにルカと言う人物を組織の者たちに知ってもらおう。そしていざとなった時に、組織を挙げて彼を救出する。

「おい、レスター。付いて行かなかったのか」
 レスターは池の辺で昼寝をしていた。
「ボイの連中が行ったんだろー、なら奴等に任せればいい」
「奴等だけじゃ心配だから、お前に言ってんだろーが」
「そんなに心配なら、お前が付いていきゃよかったんだ」
「俺はな、あいつが苦手なんだ」と、ハルガン。
 ケリンは隣で笑った。
 ハルガンはケリンをねめつけると、
「こいつの情報だと、かなりの地下組織の幹部が集まるそうだ」
「秘密警察の奴等が今ここにいりゃ、涙こぼして喜んだだろーにな」と、レスターは大きな伸びをした。
「心配じゃねぇーのか」
「心配なかろー。奴は紳士だ。婦人の前で手荒なことはしない。それに奴が欲しがっているのは生きている殿下だ。死んだ殿下はいらない。なら何かあれば全力で殿下を守るだろうから、奴に守らせておけばいい。まあ今夜はゆっくり休養した方がいいな、こんなにゆっくりできる日はめったにないから」
 レスターはまた大きな伸びをすると寝返りをしてから目を閉じた。

 パーティーは夜通し行われた。ネルガルのパーティーはそのまま政治や経済の取引の場とも化す。各方面の貿易商人がやって来てはルカやシナカに挨拶する。無論その中には地下組織の幹部もまぎれていたが、ルカはどの商人に対してもボイとの同等な取引を主張した。ネルガル人だからと言ってその特権は認めない。
「殿下はネルガル人なのでしょ。ならネルガルの利益を」
 優先すべきだと言いたげな商人には、
「お互いが利益を得て、初めて取引は成り立つものです」と言ってきかない。
 最後にドーム全体を使った巨大なプラレタリューム。この闇にはシナカを始め招待されたボイ人たちは驚いた。
「ネルガルの夜は、こんなに暗いのですか」
「月が一つしかありませんから。これでも昔に比べれば随分明るくなったのですよ、都会の明かりが夜空に反射して」
 昔とはどのぐらい昔のことを言っているのだろう。とルカは自分で言ってそう思った。戦争が起こる前は今より明るかったのではないか、町並みも今より整然としていたし。今は何処の町も紛争で破壊されてしまった。都会の明かりが残るのはネルガルのほんの一部。
「でもこれだけ暗いと、星がはっきり見えるのですね。星がこんなに多いとはしらなかった」と、ルイは降るような星の数に感激する。

 ベッドに入ってからシナカは問う。
「ネルガル人って、いつもこんな生活をしているの?」
「一部の人達だけです。圧倒的な人達は」
 その先は、ルカは言葉に出来なかった。
 今食べるものにすら事欠いているなど。
 所得はネルガルより遥かに低いとは言え、飢えるということを知らないボイ。ネルガル人ほど贅沢な暮らしはしていないが、この星は幸せで満ち溢れている。
「圧倒的な人達は?」
「ボイ人と変わらない生活をしていますよ。ただ労働時間はボイ人より長い。だから贅沢な暮らしもできるのかも知れませんね。私はどちらが良いのかと考えてしまいます」
「そうなの、私はネルカル人に憧れますけど」
「遠くの芝は青み見えるものです」

 数日後、いよいよボイの人達が待ちに待った湖の神を称える祭りの日がやって来た。どこのコロニーも祭り気分で一色だ。特に今回の弓の会場となったシナカたちのコロニーには、湖畔に設けられた矢場には各コロニーで名を挙げた選手が集まり、それと同時にその試合を見物しようと客人も各コロニーから集まって来ていた。
「凄い人ね」
「今回は地元だから、負けるわけにはいきませんね」
 会場は毎年順番で回る。以前は湖が十二あったから十二年に一回だったが、今は十しかないため十年に一回の割合で回って来る。
 主席に国王夫妻が姿を見せると会場は割れるばかりの喝采に包まれた。その次にルカとシナカ、宰相夫妻、各大臣たちと並び、各コロニーの代表者たちが席に着いた。いろいろな催し物が行われた後、いよいよ今回のメーン・イベント、弓の腕比べが始まる。
『選手の方は準備をお願いします』
 アナウンスが入った。
 シナカはすっと立つと、
「じゃ、行ってくるわ」と、ルカに声を掛ける。
「がんばってね」
 シナカは頷くと、ルカの耳元に口をよせ、
「無理をしないでね」と、囁く。
 ルカもそれに軽く頷く。
 シナカは父母の方を見ると、
「お父様、お母様、優勝してくるわ」と、大きな見栄を張って席を後にした。
 父親はやれやれと言う顔をしたのに対し、母親は笑って送り出す。
「姫様、がんばってください」と、大臣の中からも声援。
 リンネルも軽く会釈をするとその場を去った。宰相の三人兄弟も。代わりに彼らが居たところにはハルガンとレスターが現われた。
 会場では今までの催し物の後片付けが済み、白と黒の的が運び込まれてきた。ルカはそれを見た瞬間、手に汗を握った。
 会場までは想像していた以上に距離があるというのに、こんな調子では駄目だ。と自分を鼓舞するものの、やはり怖いものは怖い。
「どうかなさいましたか」と、ルカの異常に気づいた大臣が声を掛けてきた。
「何でもありません、ただシナカが」
「姫様のことでしたら心配にはおよびません。あれで弓の腕はなかなかなものなのですよ」
「そうなのですか」
 シナカは両親にだけはルカのことを話していた。
 王妃がシナカの席に座ると、
「ここで見させてもらってもいいかしら」とルカに尋ねる。
「ええ、どうぞ」
 王妃はそっとルカの手の上に自分の手を重ねた。暖かい手だ。まるで母のようだと思いルカは王妃の顔を仰ぎ見る。
「無理だったらいつでも声をかけてください。話はシナカから聞いておりますから」
「申し訳ありません、大事な祭りに水を差すようで」
「いいのよ、誰にも苦手なものは一つや二つあるものです」
 ルカは恐縮しながら、手から伝わる王妃の温もりを感じていた。
 いよいよラッパが吹き鳴らされ、弓の大会が始まる。
 ルカはぐっと腹に力を入れ肝を据わらせた。
 今から三時間あまり、否、たった三時間で終わるのだ。
 ルカはそう自分に言い聞かせた。三時間、我慢すれば。
 既に予選は数日前から行われていた。ここに残っているのはその予選を勝ち抜いてきたつわものども。
 矢は五本、その合計で点数が付けられる。一本たりとも外せない。的は五箇所設けられ順番に射る。
 最初に五人が整列した。そこにはルカの知っている顔はなかった。右端から順番に矢を射る。
「最初に射る人はかなりのプレッシャーですね」
「そうですね、でもこれはくじですからしかたありません」
 射る順番も場所もくじ。すでにその時点から勝負が始まっているのかもしれない。
 矢が放たれるたびにルカは胸を押さえた。だが不思議と逃げ出したくなるほどまでの恐怖心はなかった。王妃が私の手を握っていてくれるせいか。
 三回目にホルヘが現われた。左から二番目、ということは射る順番は四番目だ。
 さすがに予選を勝ち抜いてきただけのことはある、一番目の人も二番目の人も中央を射抜いてきた。
「これでは後からやる方が不利ですね」
 だがさすがにホルヘ、五本の矢とも中央を射抜いた。
 満場の拍手。ホルヘにとってはこのぐらい朝飯前なのかもしれない。
 無論このグループの優勝者はホルヘだった。これでホルヘは二回戦に進める。
 次はロンが現われた。ネルガル人だということで会場も盛り上がった。
「あれではロンは、やりづらいですね」
 だがルカの心配をよそに、ロンもみごとにグループ内優勝を果たす。これたま会場から満場の拍手。
「勝ち残ったようですね」と、王妃。
「そうみたいですね」
 そしてキネラオ、シナカと進んだ。
 シナカが出た時には、神など信じないルカが手を合わせて拝んでいた。
 もし紫竜とかいう神がこの場に居るなら、どうかシナカに手を貸してやってくれと。
 そんなルカの姿を見て王妃は微笑む。やっと私達以外にあの子を本気になって心配してくれる人が現われたのだと。
 シナカが射る瞬間、ルカは目をつぶってしまった。一番見ていたいはずなのに、はらはらして目が開けていられない。あっ、と思った時には次の人の番になっていた。だが矢はきちんと中央を射抜いていて、ルカはほっと胸を撫で下ろす。今度こそはと思い、やっと三度目に見ることができた。三本の矢とも見事に中央に刺さっている。後二本、外さなければ。この試合はかなりレベルが高いとルカは思った。四本目と五本目の矢は中央より少しずれたが、それでもこのグループはシナカの優秀と決まった。
 ルカはほっと胸を撫で下ろした。こんな試合、いつまでも続けられたら心臓に悪い。健康を害すると思いながらも、リンネル、サミランと応援を続けた。
 二回戦は皆順調に勝ち進んだ。ルカも額に汗はかいているものの王妃のお蔭で逃げ出すほどの恐怖心は湧かない。
 三回戦、的が少し下げられた。
 えっ。と思っているルカに、
「ここまで勝ち残って来た人達は、あの距離ではほとんど中央を射抜いてしまいますからね、これからは一回戦ごとに的を下げていくのです」
「そうなのですか」
 ここからが本番という感じだ。
 三回戦、キネラオとロンが組んでしまった。どちらを応援しようかと思っているうちにロンが勝ってしまった。
「凄いわね、弓が初めてだなんて思えませんね」
「申し訳ありません」と、ルカは謝りながら、
「シナカ師匠の教え方がよかったようです」と言う。
「まぁ」と、王妃は笑いながらも、
「仕方ないわ、これは勝負ですもの、くじ運が悪かったのね」
 だがいつかは当たる。くじ運だけではない。それは王妃も理解しているようだ。実力のある者だけが残る。
 そしてシナカとサミランも組んでしまった。だが今度はルカは迷う事無くシナカを応援した。
「やった、シナカが勝った」
 いつのまにか恐怖心は何処へやら。
 そして四回戦、的はまた下げられ、挑戦者も絞られてきた。
「ロンとリンネルか」
 これは黙って見ているしかない。
 五本の矢は見事に的の中央を射抜いていた。
『延長戦に入ります』
 アナウンスが流れる。
 五本とも外さなかったのはロンとリンネルだけだ。二人の一騎打ちになる。
 ルカはルールを知らないので王妃を仰ぎ見ると、
「どちらかが外すまで、外したところで勝負が付きます」
 それはきついとルカは思った。
 結局十一本射たところで、ロンが微妙に的を外してしまった。
『リンネルの勝利です』
 ロンはリンネルと握手をして会場を後にした。
 これで残ったのはホルヘとシナカとリンネル、それに他のコロニーから来た男性が一人に女性が一人の五人になった。
「いよいよ次が決勝です」
『ここで十五分の休憩をいれます』
 時計をみれば既に三時間以上は経っていた。
 ほっと緊張を解いた途端、体全身に恐怖が走る。ルカは前のめりになった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。少し疲れが」
 だが怖いとなると体の震えが止まらない。吐き気がしてきた。
 すると体がふぁーと浮き上がる。
 いつの間にかレスターに抱きかかえられトイレへと連れて来られた。
 ルカはそこで思いっきり吐いた。
「まにあったな」と、レスターは笑う。
 ハルガンが戸口に寄りかかってその光景を見て苦笑する。
「休憩が入らなければ」と、愚痴るルカに、
「戻るきか」とレスターは訊く。
「そのつもりです」
「よしたほうがいいな」と、ハルガン。
「もう限界だろう」
 ルカの顔は真っ青だ。
「でも、私があそこにいないとシナカが心配しますから」
「その顔で席に座っていたのでは、よけい心配するだろう。奥方には俺から言っておくよ、少し休んでいると」
 ルカは首を横に振ると、
「もう少しだから、最後まで」
「強情な奴だ」
 ルカは大きく深呼吸をすると、会場へ向かおうと歩き出した。だがタイミングが悪い。ルカがトイレから出ようとすると同時に前から矢筒を背負った武者が数名やって来た。狭い通路ですれ違う。その瞬間、ルカは我慢の限界に達した。意識が遠のき崩れるようにその場に倒れ込む。だがその数名の中にリンネルの姿があった。まさかこんな所で主とすれ違うとは思わなかったリンネルも、やはり矢筒を背負ったままだった。
「でっ、殿下!」
 倒れこもうとするルカを慌てて抱きかかえる。
(リンネル、すまないが会場まで連れて行ってくれないか)
 リンネルははっとしてルカを見る。
 やはり意識はない。では、この声は。
 肉声ではなかった。どちらかと言えば頭の中に直接響くような。
「エルシア様」
 静かに。とエルシアは言うと、もうルカには無理でしょうから後は私が表に出ております。黙っていればわからないでしょう。
 通じるかどうかと思いながらも、リンネルもテレパシーで会話を試みた。
(あなた様は、弓は怖がらないのですか)
 エルシアは笑ったようだ。それから、
(弓を怖がるように、私がルカに暗示をかけたのです。二度と弓を持たないために)
(それは、どういう意味なのでしょう)
 それにはエルシアは答えてはこなかった。
「おい、リンネル、殿下は」
「大丈夫だ。少し意識を、だが今戻られた」
「邸へ運ぶが」
「会場に戻られるそうだ」
「大丈夫なのか」と言うハルガンに、ルカは軽く笑って見せた。
「俺が連れて行こう。お前、試合があるだろう」と、レスターが手を差し出す。
 彼には幽霊が見える。と言う事は今の殿下も。
 リンネルの心配をよそに、ルカはレスターの方へ手を伸ばすと、
「すまないが、席まで」
 レスターはルカを軽々と抱えあげた。
「リンネル、優勝を。見ていますから」
「だとよ」とハルガンは、後は俺たちに任せて試合に集中しろという感じにリンネルの肩を叩いた。

 会場に戻ったリンネルは心を統一した。
 エルシア様が紫竜なら弓の名手と言うことになる。彼の目の前で下手な矢は放てない。だがどうして、それほどまでの腕を封印してしまったのだろう。否、今は余計なことは考えまい。とにかくこの試合に勝つこと、ネルガルのためにも、否、殿下のために。
「どうされました」と、ホルヘ。
「いや、殿下が」
「先程、姿が見えなかったけど」と、シナカも心配している。
「トイレに行かれていたそうです」
「そう、大丈夫なの?」
「王妃様が手を握っていてくださるとか」
「お母様が」と、シナカは少し妬けた。
「ナオミ夫人のような暖かい手をしていると仰せでした」
「そう」
 まだ、母が恋しい年よね。
 シナカがルカの方に気を散らしているのを知ったリンネルは、
「奥方様、手加減はいたしません」
「ええ、望むところだわ」
 ぴっりと緊張の糸が張る。
 ホルヘとリンネルは顔を見合わせた。
 休憩終了のアナウンスが入ると、会場は静かになった。ここで優勝した者がボイ一の弓の名手となる。

 ルカはレスターに手を引かれて会場に戻って来た。
「大丈夫ですか」と尋ねる王妃に、
「深呼吸してきましたら、だいぶ楽になりました。シナカが優勝するかもしれませんから、最後まで見ててやらないと」
「そうですね」
 王妃はまたそーとルカの手の上に自分の手を重ねてくれた。

 また的が下げられた。
「随分小さく感じるわね」と、シナカ。
 同じ的でも距離が離れればそれだけ小さく見える。
 くじが引かれ、場所が決められる。くじ運がいいと言うのか悪いと言うのか、三人は中央に固まった。最初に射るのは他のコロニーから来た男性。時差という不利がありながらもここまで勝ち進んできた。
 五本の矢は誰も外す事無く終わった。これからは延長戦。外した者から負けていく。誰の心にも、外せないという重圧がのしかかる。
 六投目、最初の男性は見事に射抜いた。次はシナカ。シナカは余りの緊張で体中の筋肉がこわばった。
「駄目だ、あれでは」
 ルカがそう呟いた瞬間。
 シナカの背後にエルシアの影。
(シナカ、もう少し肩の力を抜いて)
(あなたは、誰?)
(私は紫竜です)
 えっ! とシナカが驚いている間も、足の位置、左手、右手とその形を直された。
(的に集中して)
(的が大きく見えるわ)
(息を大きく吸って)と言いながら、エルシアの手がシナカの腕を支えて弓を引いていく。
 一杯一杯に引かれた弓は、
(今です)と言うエルシアの言葉と同時に矢を放った。
 矢は前の矢にめり込むようにして的を射抜いた。
 会場からどよめきの声。次に歓声と拍手の雨。
(今の要領です)
 シナカが頷くと影は消えた。
 リンネルは苦笑した。
 見える者には見えた。
(あんた様が見方されたのでは、奥方様が優勝ですな)
(手助けは一度だけです)
 リンネルは気を取り直して矢を射る。見事的に命中。そしてホルヘも。結局最後まで残ったのはホルヘとリンネルだった。会場は二人の一騎打ちの場と化した。最初はネルガル人だボイ人だと言っていた観客も、今では二人の腕に魅入られ、矢が放たれるたびに大きな歓声を上げている。
「こりゃ、何時になっても埒が明かないな」
 二十本目を射る頃から、リンネルに次第に疲れが見え始めた。やはり体力的にボイ人の方がネルガル人より勝っているのだろう。二十三本目にして、リンネルの放った矢が微かに中央から逸れた。
 会場から大きな溜め息が漏れた。
 それを見逃すホルヘではなかった。ホルヘの二十三本目の矢は、見事に的の中央を射抜いていた。
 勝負はあった。会場が割れんばかりの歓声と拍手。全員総立ちだ。
 ホルヘはゆっくりリンネルに近づくと、ネルガル式に握手を求めた。
「この勝負、引き分けだな。あなたは私と勝負する前に既に延長戦をこなしている。延長戦は神経と体力をすり減らしますから。あれがなければ私は勝てたかどうか。しかしさすがにネルガル帝国の王子の侍従武官だけのことはあります。どの王子にもあなたのような方が付いて武術を教えていると思うと、末恐ろしい」
「何と言われようと負けは負けです。それが武術の世界ですから。あなたの精神力が私より勝っていたということです」

 一位と二位に国王から記念のメダルが贈られた。そして奇跡のような腕を見せたシナカには特別賞が贈られた。
 シナカは急いでルカの所へ駆け戻る、
「ねっ、見た?」とはしゃぎかけたが、ルカの蒼白な顔を見て、
「邸に戻りましょう」と、心配そうに声をかけた。
 ルカは軽く苦笑すると、
「見ました。矢を二つに裂いたところを」
「見ててくれたの」
 ルカは頷く。それが精一杯の仕種のようだ。
「邸へ」と、シナカが抱えあげようとした時、
「私が」と、リンネルが手を出す。
 ルカは二人の手を遮り、
「今、英雄が二人も会場から消えたら、この後の晩餐会が寂しくなります。私はオリガーに世話になりますから、あなた方は会場に残って。私の心配はいりませんから」
 オリガーが、
「ご使命とあらば、しかたありませんな」と言いつつ、ルカを抱き上げた。
 王妃が心配そうに覗き込む。
「何時ものことですから、弓から遠ざかれば元気になるのですから面白い病気です」
 この医者にかかっては、どんな大病も蚊に刺されたぐらいにしか感じない。もっとも戦場では薬もろくにないため、そう思わせるしか手立てがないのかもしれない。

 夕べは一晩中騒いだとみえ、今朝のボイは静かだった。皆が起き出したのはお昼過ぎ。それから朝食だと言って食事を作り出すのだから、ボイののどかさは限度をしらない。
 そんな中、一人目立って騒いでいたのはシナカだった。夕べもさんざん騒いでいたのだが、誰も相手にしない。
「しかし姫様は破天荒なお方だとは聞いておりましたが、やることが人とは違う」
「あのような美しい線を描いて飛ぶ矢は初めて見ました」
「それも見事に、矢の上から的を射抜くのですもの」
 シナカに合う人は誰もがそう言う。
「ですからあれは、私ではなくて、紫竜様なのです」と、シナカは言い返すのだが誰も相手にしてくれない。
「ほんと、あれこそ神業ね」
「まぐれにしても、凄いですよ」と、クリスまでが言う。
「ですから先程から言っているではありませんか。あれは私ではなく紫竜様が。それにあれはまぐれなどではないのよ、あの方でしたら」
 何度でもできる。そんな気がした。
「シナカ、あれはあなたの実力です」と、ルカは言う。
 ルカは最後の頃の記憶はなかった。誰が優勝したかも、後で知った。だがシナカのあの矢だけは記憶にある。
 シナカはぐっとルカを睨むと、
「あなたは神を信じませんから、あなたに何を言っても無駄です。ですが、あれは確かに紫竜様だったのです。だって、私が誰?と尋ねたら、紫竜だと答えたのですから」
「そうかもしれません」と、答えたのはリンネルだった。
「奥方様の頑張られている様子を見て、応援に現われたのかもしれません」
「そっ、そうよ、きっと」
 シナカはやっと理解者が現われたと喜ぶ。
 だがその場に居た者は皆、首を傾げてしまった。そんなことがあるのだろうかと。ホルヘやキネラオですらそこまで神を信じている訳ではないようだ。
 シナカは何か閃いたかのように手を打った。
「そうだわ、レスターさんは? 彼もあの大会を見ていたのよね、彼、幽霊が見えるそうね、きっと何か見ているかも」
「神は見えないと思いますが」と言うルカに対し、
「でも幽霊が見えるのでしょ」
 結局この会話からすると、幽霊も神も同じものと言っているようにルカには聞こえたが、それを言うとまた百倍言い返されそうなので黙った。
「クリス、レスターを呼んできてください」
「畏まりました」
 シナカがそれで納得するならそれでよしと思って呼んだはずのレスターだが、彼の答えは意外な展開を引き起こすことになった。
「男がおりました。奥方様の手を取り、弓を引きました」
 その場に居た者達は黙り込んでしまった。ただリンネルだけがその答えを予期していたようだ。
「男って、もしその男が奥方様に危害を」と言ったのはハルガンだった。
「俺にどうしろと言うんだ。相手は既に死んでいるんだ、もう一度殺せるわけがなかろー」
 たっ、確かにと頷くしかない。
 ルカはじっとレスターを見る。もしその男に危険性があれば、彼ならもう二度でも三度でも殺すだろう。だが彼は何もしなかった。と言う事は、
「その男と、知り合いですか」
 レスターは怪訝な顔をして自分の主を見た。
「俺が、幽霊とか?」
「あなたはその男に何もしなかった。と言うことはあなたはその男が危険な人物でないことを知っていた。つまり以前に何度か会っているか、もしくは殺気を感じなかったのどちらかです。だが殺気を感じなかっただけでは、今までのあなたからしてじっとしているはずがない」
 レスターはルカをねめつけた。それから視線をずらすと、
「察しのとおり、何度か会っている」
「名前は?」
「知らない。話をしたことはない。俺にはただ見えるだけだ」
「名前を、エルシアと言うのではありませんか」
 ルカのその言葉に、リンネルがぴくりとする。
 それをルカは見逃さなかった。
「やはりそうですか、リンネル大佐。あなたにも見えていたのですね。彼は何しに現われたのですか」
 リンネルはしぶしぶながらに答える。
「あなたの意識がなくなられたもので、代わりに」
「私の代わりにあそこで大会を見ていた訳ですか。だから私には決勝戦の記憶がない。だがシナカのあの一矢だけは記憶がある。どうしてですか」
「それはあなたが見たがっておられたからです」
 ルカは暫し黙り込むと、
「彼は、弓は怖がらないのですか」
「怖がるどころか、かなりの腕前かと存じます」
「もしあれがそのエルシアとかいう人が射ったものなら、そうとうな腕だと私も思う」と言ったのはホルヘだった。
 二人の勇士からそう評価される弓の腕前。
「どうしてシナカの背後に?」
「随分緊張なされておりましたから、リラックスさせるおつもりで」
 現にあの後からシナカの矢筋は落ち着いた。
「ですから私は彼に言ったのです。あなたが見方したのでは、私達は敵わないと。そしたら彼は、一度だけだと仰せになりまして消えられました」
「彼は、紫竜なのですか」
「それは私にもわかりません。ただ彼もあなた同様、合理主義者ですので、あの場面では紫竜と名乗るのが一番効果的だとお考えになられたのでしょう」
 もしエルシアなどと名乗っていたら、それこそあなたは誰? と言うことになってしまう。
「では、休憩時間から後ずーと」
「エルシア様でした」
「レスター、お前、気づいていたか」と言うハルガンに対して、
「気づくも何も、奴は奴だろう」と、レスターはルカを指す。
 レスターにとってエルシアもルカも同一人物。別人格とは考えていないようだ。
 結局、気づいていたのはリンネルだけ。
 ハルガンは一度ナオミ夫人が愛したエルシアという人物に会いたいと思っていたが、
「畜生、俺は一度あいつと話がしてみたかったのに、会っておきながら。どうして教えてくれなかったんだよ」と、リンネルを攻める。
 ホルヘとキネラオは黙ってこの話を聞いていた。
「あの、エルシア様って、彼のもう一つの」
「人格です」と、リンネルは答えたものの、リンネルもレスター同様、エルシアとルカは同一人物だと今では思うようになっていた。何故だか知らないが、全ての点で似ているどころではない、同じなのだ。
 おそらくルカが弓を怖がらなければ、ああしたであろうという行動をエルシアは取っていた。
 ルカは腕を組み考える。
「リンネル、少し話しがある」
 リンネル大佐あたりが真実を知っているのではないか。
 ハルメンスのあの言葉が気になる。
 リンネルの話、頭から否定せず、一度きちんと聞くべきか。

 その時、事件が起こった。
「殿下! 殿下! 身投げだ!」
 トリスが廊下を血相を変えて走って来た。部屋を通り過ぎたかと思うと戻って来て、ぜいぜい言いながら話し出す。
「こっ、ここに居たんですか。探しましたぜ」
 一呼吸おくと、何を告げたかったのか思い出したかのように、
「たっ、大変だ、身投げだ」と、同じ事を繰り返してから、
「外務大臣の一人娘が、今朝方」
 そしてまた呼吸を整える。
 ルカは驚いてトリスを見たが、背後から、
「後追い心中だ」と言うレスターの声。
 ルカは慌ててレスターの方へ振り返った。
「どういう意味だ」
「その件で、俺は呼ばれたのかと思っていた」
 クリスは思っていた。レスターにしては随分大人しく付いて来たと。いつもは殿下が呼んでいても用件によっては来ない時もある。それが今回は用件を聞こうともしなかった。
 レスターはキネラオとホルヘを見た。シナカが動揺しているのに対し、この二人は落ち着いている。
 こいつら、知っていたのか。では、ルカには秘密にするつもりだったのか。
 レスターはさり気なく二人に視線を送った。どうするつもりだと。
 ルカはその視線を見逃さなかった。そして察した。
「話せ!」と言うルカの声と、
「彼女はもう直、式を挙げる予定だったのよ。それが何故」と言うシナカの声が重なる。
「女の遺体があがる前に、ボコボコにされた男の遺体があがった」
 ルカはそれで大体の察しが付いたようだ。キネラオたちが自分に秘密にしていた意味も。
「ハルガン、物的証拠がいる」
 そう言うとルカはくるりと踵を返し、部屋を出て行く。
「あなた」と言うシナカの声に、
「すまないが少し一人にさせてください」
 そしてキネランたちの方へ振り返ると、
「これはネルガル人の問題ですから、ネルガルの法律で裁きます」
 ルカが去ってから、
「ネルガルの法律で裁くって、どうするつもりなのでしょう」と、心配するクリス。
「さあな」と、ハルガンは軽く肩をすくめ、
「とりあえず、物的証拠が欲しいと言うのだから、俺たちはそれを集めるしかなかろう」
 その場の空気を読んだトリスは、
「俺、何か不味いこと言ったか?」
「何時かは、わかることだからな」と、ハルガンは気にするなと言う感じにトリスの肩を軽く叩く。
「お前が言わなければ、俺が言っていた」と、レスター。
2010-01-09 22:29:33公開 / 作者:土塔 美和
■この作品の著作権は土塔 美和さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 明けましておめでとう御座います。今年もよろしくお願いします。さっそく続きを書いてみました。ご感想をお待ちしております。
この作品に対する感想 - 昇順
 プリウスさん、前回コメント有難う御座いました。返事が年明けになってしまい、大変申し訳ありません。あなたのような語学に強い方のコメント、大変参考になりました。これからもよろしくお願いいたします。
2010-01-09 23:51:21【☆☆☆☆☆】土塔 美和
こんにちは! 羽堕です!
 ボイの女性って力持ちなのですね。ルカが男を見せれるとしたら、やっぱり今はまだ知恵でだけなのかな。それと噂だけでイシュタルについての思い込みが、ここまで激しいというのは、見た事がないのだからしょうがないとしても怖いなと。それと、私もルカには笛を吹いて欲しいかったので良かったです。
 ボイを救ったのがイシュタル人だとしたら、やっぱりルカがここに来たのにも意味があるんだなって。そして本に夢中になるルカが、どんな事を知って行くのかも楽しみです。それにしてもレスターは、やっぱり敵に回したくないですねw 催眠術までとは。それとリンネルは優しいお兄さんって感じでかな。
 ハルメンスは、やっぱりルカを認めるだなと。目的の為にルカを祭りあげようとする事は諦めていないのだろうから、注意は必要なんだろうけど、悪い人間には思えなったのですが……まさかの替え玉とは、強引な手は使わないだろうけど、やっぱり要注意人物ですね。
 靴もはかないで走って行ったまではいいけど、まさか背負わせる羽目になるとは、矢のせいとはいえ情けなかったけど、でも寝室で二人だけの話では、なかなか良い雰囲気になっていてホノボノしました。
 半日と言う事は12時間かぁ、なかなかの働き者なんだな、ボイの人々は。それと子育ても労働と認められ、医療などただになる仕組みって良いなと素直に思いました。あっ、あと負けず嫌いのシナカも可愛いなと。
 ハルメンスの館って、どうやって作ったんだろう? と思ったのですが、ボイ人の手先の器用さと、材料などは近くの文化の似た星や商船を利用したのかなと思ったりしました。とにかく半端ない財力だなと改めて実感した感じです。
 祭りでの試合の流れは、次々と早く流れるような気もしましたが、テンポよく読めて良かったのかもです。エルシアの暗示で、そうなっていたのですね。その理由は気になる所です。試合の結果やシナカへのアドバイスなど、楽しめました。
 リンネルに話をしようとした所への身投げの事件と、どうなるのか後の展開が気になります。
であ続きを楽しみにしています♪
2010-01-12 13:22:27【☆☆☆☆☆】羽堕
 羽堕さん、いつも感想有難う御座います。半日、12時間ととってしまいましたか。午前中、又は午後のみという意味で使ったつもりなのですが、表現がたりなかったでしょうか。
 次はルカが一歩大人になる場面です。次回も読んで下されば幸いです。
2010-01-15 00:52:27【☆☆☆☆☆】土塔 美和
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。