『夢現(ゆめうつつ)』作者:森木林 / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
生きることを教えてくれたのは、誰よりも大切な人でした。月の煌く幻想的な描写と共に、人のそれぞれの思いを描く。
全角9359文字
容量18718 bytes
原稿用紙約23.4枚

序節−−或る秋の宵−−


 秋の風に煽られて、木造の古い家はぎしぎしと音を立てていた。その音が妙に
怖かったから、僕は厠に用を足しに行くのにもためらいの気持ちを隠せなかった。
そっと寝床を出て、ゆっくりと長い廊下を歩く。ぎしぎしと嫌な音を立てながら。
 やがて、祖父の部屋を通り過ぎようかという時に、ふすまが少し開いているこ
とに気が付いた。そこからは明かりが漏れている。まだ起きているのだろうか、
と不思議に思い、そっとその隙間から中をのぞいてみた。
 部屋には祖父と祖母がいた。二人とも神妙な面持ちだった。
「どうやら今年も漁はうまくいかないようだ。収穫量は減ってるし、そのくせみ
んな肉食だの洋食だの、魚の需要は減ってしまってる。挙句には船を動かす燃料
の値段も上がって、赤字どころじゃない。」
 祖父の、疲れた声だった。僕は見つからぬように覗くのを止め、そっとふすま
に耳を伏せて中での会話を聞くことにした。
「先代の蓄もとうに底をついてるんだ。もう余裕なんてないんだよ。」
「だからって、カズを養護施設にあずけるなんて……、」
 祖父の言葉に対して、祖母が僕の名前を出すものだから、僕は驚かずにはいら
れなかった。心臓の鼓動が荒く波打っているのが分かった。
「もうどうしようもないんだ。可哀想だとは思うけどさ。」
 無口な祖父は言葉に感情を込めるのが苦手のようで、吐き捨てるように冷たい
言葉を発した。
「でも、もうすこし我慢すれば、あの子を離さなくても……、」、祖母はいつ
ものように優しい情のある声で言う。しかし、祖父はドンと机を叩いて怒鳴った。
「お前はいつもそうだ。ただでさえ厳しい生活をより切り詰めなければならない
んだ、二人だけでもこれからを生きて行くのは大変だと言うのに、」
 僕はその場にいられなくなって、足音を立てないようにして厠へ向かった。母
屋を出て左に厠がある。草履を履いてそこへ向かう途中、僕は悲しいのか苦しい
のか分からぬずきずきとした胸の疼きを抱えて、声を押しくるめる様にして涙を
流していた。
 

 今まで見たことのない白い光を目にしたのは、その後のことだった。
 拭っても拭っても止まぬ涙は、用を足した後も変わらなかった。ぽとぽととを
足跡ならぬ涙跡を、厠からの帰り道に残しながら、ふと何気なく屋敷の南にある
竹林を見た時だった。
 竹林の奥の、手の行き届いていないであろう草木の、よく茂っている場所が、
夏の陽炎のごとく薄くなって見えた。とても不思議な光景だった。他の場所は普
通に見えるのに、その一部分だけが妙に薄いのだ。あれはどういうことだろう、
と僕はその竹林に近づいてみることにした。
 近づくほどにそれは不思議だった。その一部分は徐々に白さを増していき、向
こう側の見えない程に濃さを増していった。気のせいか、風鈴の鳴る音が頭の奥
に響いている。鉄の鳴るような音。懐かしい風。りんりんりん、かず、こっちよ。
こちらへいらっしゃい、素敵な場所よ。
 鈴の音に紛れて、誰かの声が聞こえた気がして、はっとした僕は周りを見渡し
た。しかし、それを合図にするかのように、あっという間にその声は聞こえなく
なってしまった。それだけではない、風鈴の音も、白い霧も、僕の目の前から消
えてしまっていた。僕がいるのは、何の変哲もない竹林の前で、何の違いのない
いつもの屋敷だった。僕はその庭に一人いるだけだった。

 その夜、僕は寝床に入っても眠ることが出来なかった。それはあの祖父と祖母
の会話のせいだけではなかった。いくら羊を数えても、いくら月を数えても、眠
りが訪れることはなかった。
 風鈴の音が響いていた。懐かしい風鈴の音。胸の奥に、優しい風をくれたあの
音。懐かしいとは言っても何も覚えていない。もやもやとした気持ちが、僕を眠
りから遠ざけているのは明らかだった。気になって何度も起きてあの竹林へ行っ
てみたが、やはり何の変哲もなかった。ただの竹藪だった。
 不思議な夢だ、と僕は思った。眠っているわけでもないのに、僕は夢を見てい
るようだった。それは僕に何かを伝えようとしているのだろうか。でも僕にはそ
の意味を理解することは出来ない。それ以上でもそれ以下でもない、そこから与
えられる意味などは無かった。
 もやもやが空に浮かんで、月の明るい空の雲に紛れる頃、僕は気付かぬうちに
眠りに落ちていった。



第一節−−生ま来る疑問−−


 あの夜から幾度目かの昼下がり、僕は祖母と二人っきりで縁側で詩を詠んでい
た。小学生の僕にとって、遊びたい昼時に詩を詠むことは、決して嬉しいもので
はなかった。昔の偉人の書いた詩歌のまどろっこしい表現が、どうしても好きに
はなれなかったのだ。それならば、思いっきり川原をかけてボールを蹴っていた
方が、よっぽど面白いものだろう。
 しかし詩を詠むことは祖母の趣味の一つだった。だから僕は、自分の意思とは
関係なく、その時は付き添うことに決めていた。仮にも居候の自分にできる、老
婦人への恩返しの一つだと思っていたからだ。特に、あの夜のあんな言葉を聞い
てからは、今までよりより神経質になって祖母と祖父に接するように心がけてい
た。


 まだあげ初(そ)めし前髪の
 林檎のもとにみえしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり


 祖母が島崎藤村の「初恋」の一節を詠んだ。祖母はいつもこの詩を詠む。初々
しいこの詩の感じが気に入っているらしく、詠むたびに祖父と出会ったばかりの
頃を思い出すのだそうだ。
「この作品の素晴らしい所は、まるで自分の生きてきた場所であるかのような、
静かな秋の情景の元に、自分自身をこの少女と重ねられる所です。」
 祖母は庭の池の陽だまりをぼうっと眺めて呟いた。僕は分かったふりをしてう
なずくしかない。
「カズは近頃何か物思いに沈むことはありますか?」
 祖母は僕のほうを微笑み見た。その瞳は澄んでいて、少女のようだなと僕は思
った。
「わかりません。」と僕は答えた。
「世の中には、どうしようもならない事はあるものです。そんなときは、素直に
それを受け入れることも肝心です。何だろうと疑ったり、うらんだりしてはいけ
ません。そこにそれ以上の意味は無いのです。」
 祖母は、僕のことを気遣ってくれているのだろうか。幼い頃から僕の味方だっ
た祖母は、僕を養護施設に預けることが辛いのかもしれない。呟きは僕に向けら
れたものというよりは、祖母が自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
 僕は祖母にあの夜のことを言おうか考えた。もちろん祖父と祖母の会話を盗み
聞きしたことではなく、あの白い光についてのことを。しかし、何と聞けばいい
のだろう。ありのままに言うのは躊躇った。きっと頭がおかしくなったと思われ
るだろう。祖母は優しいながらも、自分に理解の出来ないことにたいしては冷た
く接し、よそよそしい所があることを僕は知っていたから。今の状況を考えて、
うっかり変なことを口走る訳にはいかなかった。
「……あの、一つ聞いても良いですか?」
 散々迷った挙句、僕は祖母に切り出した。
「何ですか?」
 祖母はやはり優しい笑みを湛えていた。
「僕の母は、どんな人でしたか。」
 祖母は笑顔のまま返した。
「あなたのお母様は、とても優しい人でした。それゆえに、あんなことに巻き込
まれたのはとても痛ましく思います。心無い男に気を許してしまったために、大
きな借金を抱えて、悲しみに暮れてこの世を離れてしまったことは、私にとっ
てもあなたにとっても非常に残念なことです。」
 それははじめて聞いたことではなかった。今までに何度も聞いたことだ。母は
悲しい最期を自ら迎えて、この世を去った。いい加減な父はどこかへ逃げてしま
って、残された僕は母の在所のこの家に引き取られた。ただ、母は祖父や祖母と
結婚のときに言い争いにあっていた。祖父や祖母は父の不甲斐なさに気付いてい
て、それで結婚を反対したようだった。しかし母はその反対を押し切って結婚し
た。そんなこともあってか、僕がこの家に引き取られた時の境遇は、それほど温
かいものではなかった。
 僕は意を決して祖母に尋ねた、「母は、どんな最期を迎えたのですか?」と。
 すると、祖母は一瞬顔をしかめた。が、次に瞬間にはまた元の笑顔に戻ってい
た。
「それについては、私から言えることはありません。悲しい最期を自ら迎えたと
いうことだけです。」
 祖母は笑んだまま、また詩を読み始めた。まだあげ初めし前髪の、いつもの詩
の一節だ。僕は祖母の苦しみのような悲しみのような表情を、無言のまま詩の朗
読を耳にしながら見つめていた。



第二節−−再開ノ時−−


 やわらかい風が頬をかすめて、僕はふと目を覚ました。どうやら縁側で眠って
しまっていたようだった。さっきまでいた祖母の姿はもうなかった。うんと詩を
詠んで満足した後なのだろう。何かががりんりんと鳴る音が聞こえる。あの夜の
音と同じ、鉄の鳴るような音だ。何だろうと上を見上げると、頭上で天井に吊る
された風鈴が風で揺れていた。「りんりん。」懐かしい音だ。
 あの夜の鉄の鳴る音は、たしかに風鈴の音のようだった。では一体どうしてあ
の夜に、あの瞬間に、風鈴の音が聞こえなければならないのだろう。

 りんりんりん。胸の奥のどこかに焼きついた音。気が付くと僕は無心で歩き出
していた、あの竹林へ。
 竹林の方へ行っても、不思議と風鈴の音は続いていた。そこに風鈴はないはず
なのに。
 りんりんりん。かず、こっちよ。こっち。
 頭の中にあの夜と同じ女の人の声が響いてきた。でも今度は僕は周りを見渡し
たりはしない。そうしない限り、僕を導く音たちは消えることはなかった。
 竹林の前に立つと、そこにはたしかに部分的な霧があった。りんりんりん、り
んりんりん、さっきよりも強くその音は響いている。僕は怖いもの知らずの勇者
よろしく、その白へと吸い込まれていく。りんりんりん、りんりんりん、さあ、
こちらへ。


 やわらかい風が頬をかすめて、僕はふと目を覚ました。どうやら縁側で眠って
しまっていたようだった。あれ、しかし何で一体僕はここで眠っていたのだろう。
さっきまで、僕はたしかに竹林の前にいたはずだ。
「かず、またそんな所で眠っていたのですか。」
 向こうの方から声が聞こえて、振り向くと、そこには女の人がいた。若い女の
人だった。それは間違いなく僕の母だった。いくら時が経とうと忘れることはな
い、若い母の姿だった。
「こちらへいらっしゃい。今麦茶を持ってきますよ。」
 母は座敷を指して、僕を手招きした。気付けば懐かしい風が僕の心に吹いてい
た。りんりんりん、上を見上げると天井に風鈴が吊るされていた。
 母は麦茶を入れにいったらしく、もうそこに姿はなかった。僕はゆっくり体を
起こして、座敷のほうへ歩いていった。
 母がいる。死んでしまった母がいる。もう会えないはずの母いる。
 僕の心はごろついていた。ごろごろと急な下り坂を転げる岩のように。時に岩
に当たって跳ね、木に当たって方向を変えて。きっとこの先には壁がある。そこ
で岩は粉々になってしまうのだろうか。
「麦茶ですよ。」
 母のその声で、僕は空想から目覚めた。はい、と麦茶を受け取った。綺麗で透
き通った麦茶だった。僕は一口お茶を飲んだ。味の薄いお茶だった。母の入れる
お茶はこんなに薄いものだっけ、考えていると僕は気がついて、そっと涙を流し
ていた。すべてが儚いものなのだ。味の薄いお茶、色の薄い世界、音の寂しい世
界。
 僕は涙を堪え切れずに、そっと母の胸に顔をうずめた。
「私が悪いのです。」
 母の優しい声を聞いて、また涙が溢れてくる。堪えようとして息を止めても、
堪えきれずに息とともに涙は余計に溢れ出て来る。
 ここにそれ以上の意味はないのです。受け入れるのです。疑ったり、恨んだり
せずに−−祖母のそのような趣旨の言葉がふと胸に浮かんだ。
 母の鼻をすする音を聞いて、泣いているのは僕だけではないことに気付いた。
悲しそうな表情だった。そして、僕は悟った。ごめん、母さん、心配かけて。で
も僕は母さんのことを恨んでないし、悲しくともこんなことは望んだりしないよ。
僕は、そっと心に決めた。母さんを、これ以上悲しませないために。
「僕、そろそろ帰るよ。」
 母さんにそう告げると、
「こっちでともに生きる道もあるのですよ。」
 と母は言った。ううん、僕は首を振る。
「帰るよ、辛いことだってあるけどさ。」
 僕がそういうと、母は涙を堪えてそっと後ろを向いてしまった。
 そっと僕の目の前に、白い霧が現れ始める。りんりんりん、という風鈴の音と
ともに。さようなら、僕は薄れ行く母の背を見て言った。



第三節−−告別−−


 あくる日の真昼。僕は屋敷にある小さな食堂で昼餉をとっていると、祖父があ
なたに用があるそうですよと、祖母が伝えにきた。祖父が僕に用? 今までめっ
たに口を聞いたこともない祖父が、僕に一体何の用があるというのだろう。北の
奥部屋で待っているそうですから、早いうちに顔を出しなさいね、と祖母は言っ
た。

 北の奥部屋と呼ばれる部屋は、その名の通り屋敷の北側にある広間のことだ。
おもに祖父が暮らしている部屋で、先代からの家宝といわれる(僕は見たことがな
いけれども)貴重な物々も奥には保管されているらしい。
 とんとん、とふすまを叩いた。入ってよろしいよ、祖父の声だった。
「失礼します。」
 かしこまって、僕は部屋に入った。祖父の待つ北の奥部屋に。
「そこへ座りなさい。」
 祖父が自分の手前の敷物を指して言った。静かな声だった。
 祖父は、部屋の奥に掲げられた水墨画−−大きな伝説の魚が描かれている−−
を僕に見るように促した。
「カズを呼んだのは、ほかでもない。どうだ明日の漁に私と共にきて、手伝いを
してくれないか。」
 僕はその言葉を聞きとても驚いた。祖父が今まで僕を漁に呼んだ事などなかっ
た。物静かな祖父は、自分の働く姿を人に見られることをあまり好まない人だっ
たのだ。それがどうだろう、僕に明日の漁に来るように言ったのだ。何かあるに
違いない。
 何かあるに違いない、僕はそう思ったけれども、できるだけ動揺したしぐさを
見せないようにして、はい、と頷いた。
「そうかそうか。良かった。」と、祖父は安堵の表情を浮かべた。
「じゃあ、明日の昼に。」
 事が済むと、祖父は早く僕に部屋を出て行けといわんばかりに予定を繰り返し
た。
「明日の昼に、」と僕は反復して部屋を出た。


 僕は北の奥部屋を出たあと、おそらく自分はもうこの場所に長く入られないな、
と改めて感じた。祖母や、祖父とも顔を合わせるのはあとわずかだろうな。それ
については多少もの悲しい気持ちになるけれども、そうたいしたことではない。
僕はそれより、もう母に会えなくなることのほうが余計につらかった。もう会う
ことの出来ない母に、本当にもう会うことが出来なくなる。

 その夜、僕は眠れなくて夜中に寝床を起き出した。廊下を歩いていく途中、祖
父の部屋に明かりがついていて、なにやら話し声が聞こえたけれども、僕はもう
それを聞こうとは思わなかった。何を話しているかは、ある程度検討がついた。
 僕は屋敷の南の竹林へ向かった。
 竹林はいつもの通り静かだった。白い光も、風鈴の音も、母の姿も、そんなも
の始めからなかったと言うように、跡形もなく沈黙していた。僕はたしか白い霧
が出ていた辺りに行って、そっとひざまずいた。ぽろぽろと涙が流れだした。
 月の綺麗な夜であった。風の優しい夜であった。空の雲は薄くて柔らかかった
けれど、時折月にかぶさって、暗い影の部分を作った。その影は風に流され流さ
れ、あっという間に屋敷の向こうからあちらへと行ってしまう。それは時々僕を
包んで僕の影を消したりする。動いてる物といえばそれだけだった。そこにいて、
僕は無言で涙を流しているだけだった。
 悲しくて悲しくて、泣き続けたけれども、母はもう来てはくれなかった。当然
だ、と僕は思った。当然だ、もうお別れはしたのだ。
 帰る前に、別れる前に、僕は霧の出ていた場所に、そっと花を供えた。庭に咲
いていた美しい花を適当に摘んできたものだった。ただの夢だったのかもしれな
いけど、僕はそうすべきだと思ったのだ。その、墓に、僕は背を向けると、後ろ
からか弱い視線を感じた。涙を拭って、振り向かずに、僕は寝床へと駆けた。



第四節−−意を告げる−−


 翌朝、祖父と祖母と僕は一緒に朝食をとった。なかなか珍しいことだった。せ
っかくなのだから何か話をすればいいのだろうけど、僕は何一つ話題を思いつけ
なかった。明るい話題なんてなかった、暗い話題は出すべきではないと思った。
 食事を終わると、祖父は僕に早いところいそぎをしてきなさい、と言った。僕
は自分の衣類や物の閉まってある部屋に行って、手早く着替えをした。そして、
手早く出て行けるようにと、荷物も出来る限り整えておいた。

 昼近くに祖父と共に屋敷を出て、祖父の船のとめてある港に着くまで、僕らは
何の話もすることはなかった。気まずい空気を感じながらも、それに気付かぬふ
りをしながら、弱弱しい、けど凛々しい祖父の背を追いかけ続けた。空の青い日
だった。青い空に、もくもくとした白い太い雲が、綿毛をみなもに浮かべたよう
に、ふわふわと浮かんでいた。風が心地よかった。口を開けて吸い込むと、少し
だけ潮の匂いがした。海が近づいているのだ、と僕は気付いて意識を空想から取
り戻した。
 海が近づいていた。長い長い丘を登り終えると、そこには一面の海の輝きが広
がっていた。
「うわあ。すごく綺麗だ。」
 始めて見た海の綺麗さに僕は感嘆した。祖父は振り向きもせずに丘を下ってい
ってしまう。ふううと大きく息を吸い込んでから、祖父に追いつこうと僕も下り
坂を駆け下りた。


「この船だ。」
 堤防には何隻かの船が並んでいたが、その中でおそらく一番質素な船を指差し
て祖父は言った。船には一枚の木の板がかけられていて、祖父はその板をすいす
いと渡って行って船に乗った。
「大丈夫か? 渡れるか?」祖父は僕に手を差し伸べた。
「大丈夫だよ。」僕は祖父の手は借りずに木の板を渡った。ゆらゆらして気をつ
けないと海に落ちてしまいそうだった。
「危ないなあ、」と祖父はどことなく笑ったような声で言った。それを聞いて、
僕は少しだけ安心した気持ちになって、軽く笑みを浮かべた。
「さあ、船を出すぞ。しっかり捕まっておれよ。」
 祖父はそういうと船のエンジンを付けた。荒々しい音を立てて、そのエンジン
は起動した。船は激しく揺れだし、僕は慌てて強く船の端を掴んだ。
 船はゆっくりと岸から離れていった。徐々に速さを増していく。それと共に揺
れも増していったが、僕はそれに少しずつ慣れてきて、段々周りの海原の景色を
眺める余裕も出てきた。
「海が綺麗だ。」僕はつぶやいた。海は綺麗だった。

 やがて、或る程度のところまで船を運び終えると、祖父は一度エンジンを止め
た。 
「カズ、この網をちょっと持ってくれ。」祖父は大きな網の一端を僕に差し出し
た。僕はそれを受け取り、絡まったそれを広げた。
「こいつを今から海へ投げ込むんだ。それから船を一周くらいさせて、網の中に
魚を誘い込むんだ。」
 いくぞ、という祖父の掛け声に合わせて、僕らは網を投げ込んだ。ざぼんとい
う音を立ててそれは海の中に消えていった。
 再び荒いエンジン音を立てて、船は動き出す。何もない海の上をくるくる回っ
ていると、今自分たちがどこにいるのか、皆目分からなくなってしまった。しか
し祖父は海を熟知しているらしく、不安の表情など一ミリも見せずに船を操って
いた。かっこいいな、と僕は祖父を誇りに思う気持ちが芽生えた。どこか、僕は
祖父に対する気持ちというのが、自分の中で変わり始めたのを感じた。今まで決
めかねていた、大切な決断の答えを、僕はいよいよ出せそうな気がした。

「そろそろだな、」祖父は僕に網を上げるのを手伝ってくれ、と言った。
 僕らはせーので網を海から引き上げた。水しぶきを上げて、大きな音を立てて、
それは海から引きあがった。
「どれくらい獲れただろう。」
 僕と祖父は網の中を覗き込んだ。が、残念な事にそこには一匹の魚もいなかっ
た。僕は自分の仕事ぶりが悪かったのか、と不安な気持ちになったが、
「はっはは、一匹も釣れないのか。運のないものだ。」
 と祖父が声を上げて笑ったので、僕も思わず顔をほころばせた。始めて見た、
祖父の笑顔だった。こんな優しい表情もあるんだ、と僕は驚いた程だった。
 仕方のないことはあるのです、祖母の言葉が浮かんだ。
 仕方のないことはあるのだ、と僕は思った。祖父にとっても、僕を手放すこと
は辛いことなのかもしれない。僕を漁に誘ったのは、最期の思い出作りの機会を
つくるためなのかもしれない。僕と親睦の浅い祖父が、それでも別れの前くらい
はと、一生懸命考えた末の案なのかもしれない。あんなに仕事を見られるのを嫌
っていたのに。
 僕は今、すべてを受け入れようと思った。
 今までもこれからも理不尽なことは数知れないけれど、一つ一つ出来る限り受
け入れようと思った。
「じいちゃん。」と僕は祖父に言った。
 祖父は驚いて僕を見た。僕の言わんとすることを察しているような、落ち着い
ていて、悲しげな表情で。それでさえ僕にとってはい救いだった。
「僕、養護施設へ行きます。」
 僕の言葉は海を渡って、遠くの屋敷で待つ祖母と母のもとまで渡っていく。こ
の広い、青い海を越えて。
2009-08-01 13:32:17公開 / 作者:森木林
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。
ジャンル分けが難しいのですが、テーマは人情で、家族愛、親子愛を書きました。
純文学作品です。
素人の稚拙な作品ですが、読んでいただけたら嬉しいです。
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