『白桃夢』作者:カオス / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
『僕』が出会った奇妙な男。この甘い香りは、何の『甘い香り』?
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白桃夢

それは、甘い香りを身に纏った男だった。
かといって、それは香水のような人口的な香りでもなく、花のような自然が齎す香りでもなかった。
ただただ、それは甘い香りだった。
黒く光る長い髪を、後ろでゆるく纏め。牛乳瓶の底のような銀縁眼鏡をかけていた。
男は、黒いーーー喪服のようなスーツを着ていた。
場違いな程に、真っ白な手袋がヤケに目に焼き付いた。
男の薄い、紙のような唇がゆっくりと左右に釣り上げられた。道化のように、赤い唇だった。
「こんばんは」
男が嗤ったのだと、気が付いたのはそれから少し経ってからだった。
黒いスーツの裾が夜風にはためいた。
僕は、改めてその男を見た。
余りにも場違いだった。何故なら、ここは僕の家から学校までの通学路で、人通りも少ない寂しい通りで、そして今は夜で。
兎に角、こんな男に話しかけられる理由が分からなかった。
僕はゆっくりと、後ずさった。背中を冷たい汗が、すぅっと流れて行った。
「少し良いですか?」
男が一歩、僕に近づいた。
暗闇の中でも分かるような、上等な靴だった。磨き上げられた、靴の中には月が光っていた。まん丸と肥え太った、月だった。その月は、僕の頭上にもあって、外灯もないこの通りを照らしている。
何故かその月が、目の前の男とダブって見えた。
安っぽい黄色の月光の下、男が嗤っていた。まるで、現実味が無いお芝居。
「これ、見えます?」
何処から取り出したのか、男の白い手袋を填めた手の上には柔らかな円を描いた、瑞々しい白桃が載せられていた。ごくりと、咽が動いた。
美味しそうな白桃だった。
「ああ。ちゃんと見えているようだ………」
何処か楽しそうに、男は言った。
また、一歩男が僕に近づいた。それでも男の顔はどこか霞が、かかったように分からなかった。僕は、指一本ですら動かすことが出来なかった。
つるりとした、白桃の表面を男の手袋に包まれた指が撫でた。
「美味しそうな、桃でしょう?」
男は、僕の目の前まで着ていた。それでも、僕が動くことはなかった。否、動けなかった。蛇に睨まれた、蛙はこんな心境なのだろう。どこか、他人事のようにそう思った。
ふっと、甘い香りが鼻腔を掠めた。
くらくらと、脳髄を直接揺らすような、甘い香りだった。
僕は、うっとりと目を閉じた。真っ暗な世界で、その香りは先程よりも、濃密になる。
心地の良い目眩を覚えた。
「不老不死になれる桃が、存在するのをご存知かな?」
男の声が、甘い香りと共に僕の脳髄を揺らす。
「中国の伝説の一つでね。何千年かに一度、食したものを不老不死にと変える、桃が実るのだよ。その桃が何時実るのかは、誰にも分からないのだよ。もしかすると、今年かもしれないし、来年かもしれない………」
何処までも、何処までも、その香りも声も心地よい。
僕は、まるで子守唄を聞かされている幼子のだった。
「そして、この桃なんだがね」
うっすらと、目を開けると月光の中、白桃が安っぽい光を浴びて熟して行くのが見えた。
夏場特有の湿気を孕んだ、風が僕の頬を撫で、白桃の香りを運んで来た。僕はまた、うっとりとした陶酔を味わうように、目を閉じた。
暗闇の中、一人男の声に耳を傾ける。
「その伝説のーーーー人を不老不死に変えてしまう桃なのだよ」
さらりとした、感触が頬を撫でた。
湿気を孕んだ風でもなければ、僕の手でもない。
それは、男の白い手袋だった。
「………さぁ。お食べ」
甘い。そう思った。
甘く、とろとろとした白桃が口の中に入って来る。むせ返る程の、甘さと香りが僕の口腔を支配した。
とろとろ、甘い香りを放つ果汁が僕の頬を流れて行く。
「ふふふふ………。美味しいかい?」
男のゆるく纏められた髪が、夜空を背景に広がっていた。
僕は、その言葉にこっくりと、顔を動かした。
道化のように赤い唇が、これ以上無い程左右に釣り上げられた。安っぽい黄色の月光のもと、道化のように赤い唇で嗤う男はさぞかし不気味だっただろう。
推定なのは、僕はその時にはもう、恐怖など感じる余裕など持っていなかったからだ。
甘い桃を貪り喰うことに、夢中だったのだから。
暫くすると口腔には、桃の無惨にも剥がれた皮と、大きさばかりの種だけが残った。
ほぅ。
口から溜息が勝手に出る程、美味しい桃だった。
「これだけじゃ、足りないかい?」
牛乳瓶の底のような、眼鏡が僕の顔を無遠慮に覗き込んだ。レンズには僕が映っていて、レンズの中の僕は男の問いにこっくり、頷くのが見えた。
にぃんまり。
男の笑いを、言葉に記すならそんな感じだ。
「ではーーーーそこにあるのもお食べ」
男の白い手袋が指差す先には、大きな桃を実らせた樹があった。
安っぽい月光の下でも、その樹は威風堂々とそこに存在していた。僕の頭には、ここが何時も通う通学路なのかとか、いつからそこに樹があったのかとか、そんな基本的な疑問さえ過らなかった。ただ、僕がしたことは桃を貪り喰うことだけだった。
「たーんとお食べ」
男がそう言った。
僕は樹に駆け寄り、ちょうど取れる高さにあった桃を一つ毟り取った。そして、皮も剥かずに口の中へと押し込んだ。
再び甘みと甘い香りが、口腔を満たした。
それから暫くして気が付いたことなのだが、その桃の樹の根元には、白い大きなキノコが生えていた。ちょうど、バレーボールぐらいの大きさの白いキノコが、樹の根元に点々と映えていた。
良く考えてみれば不思議なことなのだが、その時の僕にとって重要なことは桃を貪り喰うことなので、それは頭の中からさっさと除外された。
僕は、心ゆくまで桃を貪り喰った。
「美味しかったかい?」
心ゆくまで、桃を食べ満足していた僕に、男は話しかけて来た。
何処か楽しそうに嗤いながら。
こくりと、頷く。牛乳瓶の底のような眼鏡の奥で、男の目が細められた。
「それは、良かった……」
男の手が、だんだんと近づいて来る。夢心地の中、ぼんやりとそれを見た。
ふわりと、甘い香りが僕の鼻腔を掠めた。それは、男が身に纏っていた香りだった。しかし、それは桃の甘い香りではなかった。






僕が目覚めたのは、病院のベッドだった。
話に依れば、あの奇妙な男と出会った夜から、約一週間程行方不明になっていたらしい。
そして、僕が行方不明になったあの人通りの少ない通学路で、発見されたらしい。
意味が分からない。
僕にしてみれば、たった一晩奇妙な男と桃を食べただけなのだ。
それなのに、何故一週間も行方不明になっていたのか。
それでも、両親は僕が戻って来たことを手放しで喜んだ。その喜びようといったら、一晩桃を貪り喰っていました、なんて言えない状況だ。
仕方なしに、僕は記憶が全くないということにした。
けれども、これは嘘ではない。何故なら、半分は真実なのだから。
あの夜。男から漂って来た香りは、桃の甘い香りでも、香水の香りでもなかった。
アレは、腐乱臭だった。腐る一歩手前の果実は、途方も無く甘い香りを漂わせる。それは、生と死の狭間の香り。
男が身に纏っていた香りは、まさにその香りだった。
これは、余談だがあの通りには僕が生まれる前に桃の樹があったそうだ。
だが、相当な古木だったのかだんだんと枯れ始めた。まるで、腐って行くかの如く。その内に、あの通りで行方不明者が出る事件が続出した。月日を重ねるごとに、行方不明者は増えて行った。そして、それに比例するように、桃の樹が肥え始めた。全く実ることがなかった桃が、どんどん実るようになったのだ。
こうなると不気味に思った住人が、その樹を切ってしまった。それから、ぴたりと行方不明者は出なくなった。
そしてちょうど、僕が行方不明になった日が、その桃の樹が切られた日にあたるらしい。
あの奇妙な男は、桃の精だったのだろうか…………。
僕は、白い病室の窓際でゆらゆらと揺れるカーテンを見ながら、あの桃の甘い味を思い出す。

ふと、甘い香りが鼻腔を掠めた気がした。
2008-08-07 00:02:49公開 / 作者:カオス
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この作品に対する感想 - 昇順
こんにちは!読ませて頂きました♪
途中で主人公が食べてた物は、本当に桃だったのか?とドキドキしていましたが、大丈夫だったのかな。こういった、少しホラー色のある作品は、好きなので読んでて楽しかったです。香りについての表現もよかったと思いました。一度、その香りを味わいたいですね。
では次回作も期待しています♪
2008-08-07 18:32:21【☆☆☆☆☆】羽堕
初めまして。作品を読ませていただきました。
文章の運び方や表現方法が巧かったので、小説を書き慣れた方なのかな、という印象を受けました。文頭にスペースをひとつ開けるというルールがこの掲示板にある様なので、次回の投稿からは気をつけていただくととても良いなと思います(いきなり偉そうにすみません)。

羽堕さんと同様、「本当に桃だったのか?」と思うとドキドキしました。
無闇に気持ち悪い描写を取り入れるよりも、謎を残して終了させる方が、私の心臓的には助かります(笑)。ですが、バレーボールのような大きさの白いキノコについての説明が曖昧であったり、“本当はもっと書きたいことあったのかな? それならば説明してもらいたいなぁ”と感じる部分もありました。恐らく、過去の行方不明者とキノコには関係があると思われます。ですが、裏付けさせてくれる決定打が無くて、読者としては“気持ち悪いかも、想像したくないかも”と逃げたくなる気持ちもあって。……うーん、まとまってなくてすみません。

それと、疑問点ですが。どうして男が主人公を桃の樹に導いた時、桃の実がたくさん生っていたんでしょうか? 行方不明者の数と、桃の実が生るのが比例していたという描写がありましたが。男が行方不明者を作るとき、今までも「通りすがりの人に樹の桃を食べさせて夢中にさせる」という部分があったのだと思います。ですが。それまで何人も行方不明者がいても、主人公が来るまでには、今までの行方不明者が桃を食べちゃうのに。どうして、主人公が行った時は再び桃がたくさん生っていたのかなぁ? なんて思っちゃいました。

まとまっていない感想ですねぃ。疑問点もズレていると思います。すみません。ですが、ここまで感想を書こうという気持ちになれたのは、カオスさんの表現力に惹かれたからです。序盤から、作品の世界観にどっぷりと浸かることができました。どうもありがとうございます。うふふ、蟻地獄にハマる蟻のような気分になりました。では、次回作品も楽しみにしていますね、失礼します。
2008-08-07 21:06:04【☆☆☆☆☆】目黒小夜子
作品を読ませていただきました。得体がしれない気持ち悪さというものが上手くでていたと思います。日常の中でありきたりのものが醸す気持ち悪さとでも言うのかなぁ、不思議な世界観が面白かった。ただ『桃』『古木』『行方不明』『不老不死』『行方不明』などの因果関係が解りませんでした(たぶん桃源郷伝説などにかけているとは思うのですが)。重箱の隅を突くようですが『人口的な香りでもなく』とありますが『人工的』のあやまりではないでしょうか。では、次回作品を期待しています。
2008-08-15 00:41:09【☆☆☆☆☆】甘木
計:0点
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