『Days』作者:二摸詩要 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
ある日の夕方、「俺」は突然、どこか遠くへ行きたくなった。行き先も決めずに家を飛び出し、足の赴くままに進む。旅の終着点は想像も出来ず、けれど、今分かっていることは、遠くを夢見るこの気持ちが、止まらないということ。
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原稿用紙約9.22枚
――別に、探す必要はないからな。
 汚い字でそう書きなぐったメモ用紙を、机の上に置いておく。
 脱いだばかりの制服を、ソファーの上に放り投げると、私服へと着替えた。その後で、自分の鞄の中を覗き込み、忘れ物や他に必要な物はないかを改めて確認する。
「よし――」
 俺は鞄を持ってリビングを出た。玄関前で、もう一度後ろに振り返り、部屋を見渡す。
 マンションの狭い一室。なじみの深いこの部屋を去るのは、少し寂しい気持ちがした。俺は名残惜しさを振り払うようにして首を振ると、ドアを開けて外に出た。
 ドアを施錠した後、鍵を上着のポケットへと入れた。
 そこで、気づく。考えてみれば、この部屋にはもう戻ってこないのだから、鍵を持っていく必要は無い。
 けれど――。
 一瞬の躊躇が俺に鍵を手放すことをやめさせた。
エレベーターに、乗り込む。エレベーターが動き出すと共に、俺は考える。
……これから、どこへ行こうか。
 当ては無い。けれど、どこかに行かずにはいられない。もはや、今の俺には、この衝動を抑えることはできないのだ。
……今までの日常は、すべて捨て去ってしまえばいい。
 エレベーターが開き、俺は歩き出す。
 顔を上げると、街の遠く彼方で夕日が輝いていた。空は、地に近づいていくほど、より濃い朱の色に染まっていた。それを見つめていると、胸に哀愁が広がっていく。同時に、その様子を楽しんでいる自分が、わずかに存在する。
 何とも言えない独特な情感に酔いしれながら、俺はこの情景を忘れまいと、夕日を眼に焼き付け、街を去った。

* * *

 既に十一時を回っている。静まり返った駅のホームは、闇にぼんやりと浮き上がり、周囲には、ベンチの上で鼾をかいて横になっている酔っ払いの他には、誰も見当たらなかった。
 一人、ホームに突っ立っている俺は、漫然と線路を見下ろす。ふと、頭上を蛾が舞い、当てもなくふらふらと辺りを徘徊した後、線路の先へと消えていった。
 静かな夜だった。味わったことのない、孤独を身に沁みさせる夜だった。
 胸が、苦しい。この奇妙な苦しさは、見知らぬ場所に身を置く心細さから来るのか、それとも無断で家を飛び出してきた罪悪感から来るのか。いずれにしろ、もう戻る気はない。だから、この苦しさは些細な問題にすぎない。
 電車が来た。甲高い音を響かせて、停車する。ドアが開き、俺は乗り込もうと足を出す。その時、ふと後ろに振り返り、ベンチの上の酔っ払いを見た。視線をその男に投げかけながら車内へ入ると、そのままドアの前に立った。
 ドアが閉まります、とアナウンスが流れる。それと同時に、酔っ払いが目を覚まし、首を持ち上げて辺りを見回した。そして、電車に気づくと、慌てて起き上がり、駆け出した。
 男が駆け込むよりも早く、ドアは閉まってしまった。走ってきた勢いで、男はドアに正面からぶつかりそうになり、咄嗟に両手を前へ出した。どん、とドアが大きな音を立てて、震えた。ドアの前に立っていた俺は、思わず身を引く。
 男は両の手の平をガラスに張り付けたまま、肉付きのいい顔を、悔しそうに歪めた。そして、男の大きな目は、眼前の俺へと向けられた。
 視線が合う。俺は、金縛りにあったように身動きが取れず、息を止めた。
 電車が発進した。男は口を開き、俺に何かを叫んだ。何を言っているのかわからなかった。動き出すと、男はドアから身を引いた。ガラスの向こうの景色は滑るように流れていき、ホームに立ち尽くす男の姿は、あっという間に遠ざかっていった。俺は見えなくなるまで、ずっと視線で追った。

* * *

 真っ暗な景色を見つめながら、長い事、物思いに耽っていた。いつの間にか、終点だった。俺は駅を出ると、見知らぬ街中を、足早に歩き始めた。
 適当に道を辿っていくと、狭い通りに入った。
通りは明るく、闇に慣れた目には眩しすぎる。通りの左右に、怪しげな店が立ち並んでいて、そこから強い光が放たれ、容赦なく目に刺さる。その無数の光の棘の下で、人が楽しそうに徘徊している。
 深夜にも関わらず、通りには様々な声が飛び交い、賑わっていた。
 俺は顔を俯けて、徘徊する人々の間を、通る。すれ違った何人かが、物珍しげに見てきたが、素知らぬふりをして歩き続けた。
 そうするうちに、明りの灯った店が徐々に少なくなり、闇がぽつぽつと現れ始める。頼りない街灯の光に照らされ、薄暗い足元を見ながら歩いた。
 すると、道の先に一つ、黄色い光が浮かんでいて、近寄ると、それは漫画喫茶の看板だった。看板の枠を球が囲って、その中を光が進んでいく。
 灰色の建物の下で、黄色い蛇が四角い縁を絶えず這っているのを、目で追いながら、二階へ続く狭い階段へと近づいた。
 前で立ち止まって、首を上げ、急斜面の階段の奥を見やる。しばらく躊躇していたが、ふと耳元で、虫の羽音を聞き、黒い粒が頬をかすり、目の前を煩わしく浮遊した。自分の眉が引きつるのが解り、反射的に足を段の上へ強く乗せた。
 金属でできた薄い段の鈍い振動が、右足から伝って、弱い俺の心を揺さぶろうとするが、止まらずにもう片方の足を乗せた。
 宿が決まり、俺の覚悟も決まった。

* * *

「だから、違うと言っているだろうが」
 足元の赤いカーペットの、長く伸びた先から、太い声が伝わってきた。後ろで自動ドアの閉まる音を耳にしながら、赤い太線の通る狭い廊下の奥を見た。
 小さな戸口の先の、正面のカウンターに若い女性店員と、中年男性が向かい合っている。白が混じる黒髪を短く刈り上げた、男の後頭部の横から、目を見開いた店員の顔が見える。
「長谷川って誰だ。他の店員にも言われた。人違いも大概にしておけ」
 その男は、店員に人差し指を向けて言うと、こちらに振り返った。吊り上がった太い眉の先が、使い古した筆のように散開していた。顔は卵のようで、その表面には鬼の顔が描かれていた。
 その顔から視線をずらすと、女性が、不機嫌そうに眉をよせつつ頭を下げるのが、男の肩越しに見えた。
 戸口の前で、男とすれ違った際、その、よれよれの汚れたジーパンが、俺の腰の横で揺れる鞄を擦った。体臭が鼻をかすめ、俺は思わず口を歪ませて、「おえっ」と声を漏らした。
 すると、男が足を止め、振り向くのが視界の隅に見えた。俺ははっとし、逃げるように早足で戸口をくぐり、カウンターに近寄った。店員の驚いた目が、俺をーーいや、俺の顔よりわずかにずれた、背後を見ているのがわかった。
 耳が熱くなり、カウンターの前で立ち止まると、恐る恐る振り返る。それと同時に、右肩を、無骨な硬い手の平でつかまれた。俺は飛び上がった。
 肩へと伸びてきた太い腕を間近で見ると、その手首から徐々に視線を上げ、男の顔を見た。怒ってはおらず、驚いた表情が浮かんでいた。大きな下唇を滑稽に下げて、目は見開かれて白い部分が飛び出ている。
 俺ははっとして、その顔に見入った。
「卓郎、どうしてここに」
 と、男は声を張り上げた。別のことに驚いていた俺は、その言葉を聞いた途端、眉をひそませ、「卓郎?」とつぶやく。
「九州の大学は、どうしたんだ。まさかお前、中退したんじゃないだろうな!」
 突然、両肩を激しく揺らされ、さらに怒声を浴びせられ、驚いて心臓が止まりそうになり、呆然と見返した。
 しかし、俺を食い入るように見つめる男が、突然、「ん」と眉を曲げて、顔をよせた。
「卓郎……?」
 と、不信そうにつぶやき、まじまじと見つめられる。ガスのような異様な吐息を鼻に受け、俺の頬の筋肉は、激しく引きつっていた。その猛毒に耐えつつ、頭の片隅で、このおやじは一体どこの星からきたのだろうと、考える。
「卓郎じゃない……」
 男は身を引いて目を伏せ、複雑そうな顔でつぶやいた。だが、すぐに俺を見て、
「すまないな、人違いだ。……あんまり似ていたから」
 と、苦笑いし、そして、ふと視線を俺の顔から右へずらした。すると、途端に無表情になって、そっぽを向き、ばつの悪そうな顔で、俺に背を向けた。
 後ろへ振り返って見ると、店員は目尻を吊り上げ、俺の顔越しに、男を睨んでいた。その恐ろしげなる視線の矢が、頬を掠めて、自分に向けられている訳でもないのに身震いした。男のさっきの顔より、よっぽど鬼の顔と言える。
「自分だってしてるのに」
 女性は、唇を小さく開いて零し、険しい表情を浮べる。しかし、俺の存在を思い出したのか、はっとして振り向いて笑顔を作り、いらっしゃいませ、と穏やかに言ってきた。その声には、まだ黒い感情が混じっていて、先ほど男が怒っていた理由を、聞くに聞けなかった。
 店員とやりとりする中で、卓郎って誰だよ、と俺は心中で毒づき、訳のわからない出来事にひどく混乱していた。
2008-07-21 00:01:28公開 / 作者:二摸詩要
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この作品に対する感想 - 昇順
はじめまして。
この先の展開がまだ私には読めませんが、どうなのかな、ちょっと独特な雰囲気があるように思えて楽しんでいます。ほとんど「〜た」で終わっているのが一度気にしてしまえば気になるんだけど、とはいえ意図的にそういう文章にしてあるのであれば、それもまた雰囲気をつくってるってことで良いのかなとも思います。電車が終点につくまでが、瞬間的で物足りなく思いました。もう少し細かい描写を(とはいっても別に描写がぜんぜん足りないとかそういうことではないんですが)いただけると、もうちょいスカーンッと物語のなかに入れるかな、と思いました。それではそれでは、次回をお待ちしますねん。
2008-07-21 10:57:13【☆☆☆☆☆】ゅぇ
こんにちは!読ませて頂きました♪
私もたまに、何もかも捨てて、どっかいっちゃいたいとか思うけど、絶対できないんですよね。だから、物語が始まらないのでしょうけど。後半の漫画喫茶のやり取りは、何かありそうで、凄く惹きつけられました。今後の展開が楽しみです。
では続き楽しみしています♪
2008-07-21 20:33:05【☆☆☆☆☆】羽堕
>ゆえさん
読んで頂いて、そしてご指摘して下さって、有難うございます。電車の場面からの唐突な切り替えや、文章中の自分の癖など、よく見直してみようと思います。少し文学に近い書き方をやってみようかな、と自分では思って書いてみましたが、「〜た」には気付きませんでした。見直す機会を与えてくれて、有難うございます。
>羽堕
わざわざ読んで頂いて、有難うございます。僕は、そうした欲求を作品の中で満たしたいと思っているのかもしれません。続きも、頑張ります。
2008-07-23 19:55:39【☆☆☆☆☆】二摸詩要
作品を読ませていただきました。とにかくどこかに行きたいという気持ちは解るなぁ。私も高校ぐらいの時に感じていました。この作品を読んでいてこの感覚を思い出しました。欲をいえば家を出て行くというか関係を断ち切る後悔とか不安みたいなものをもっと書いてくれると、さらにこの主人公に同期しやすかったと思います。では、次回更新を期待しています。
2008-07-27 22:18:11【☆☆☆☆☆】甘木
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