『暑さも寒さも彼岸まで 第五話の続き〜閑話その四』作者:月明 光 / RfB/΂ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 藤原が訪れたのは、近所のスーパーだった。
 冷房の効いた冷たい空気に包まれながら、明は頼まれた物を買っていく。
 夕食の材料から、破損してしまった日用品まで。
 明の買い物を手伝う事もあるので、割と楽に買い物籠はいっぱいになっていった。
「……こんなのアリかよ」
 カートの下段は、箱ごと買ったティーバッグでいっぱいになってしまったが。
 そろそろ、明と色々話し合う必要があるのかも知れない。
 一通り買うべき物は揃えたが、あと一つ、牛肉だけが残っていた。
 明のメモに、買う時間を指定されていたからだ。
 一体、この時間に何が起こるのだろうか。
 そんな事を考えながら適当に店内を歩いていた時、藤原は妙な人物を目にした。
 二十代くらいの青年で、その手にはバックを抱えている。
 監視カメラをやたらと気にしたり、明らかに店員を避けていたりと、行動も不自然だ。
 ――これは……まさか……。
 藤原の脳裏に浮かぶ、ドキュメンタリー番組でよく見かける光景。
 何もこんな時に……と、藤原は己の不運を嘆く。
 だが、一度疑ってしまった以上、見届けなければ夢見が悪い。
 藤原は溜息を吐き、彼を密かに見張る事にした。
 彼の罪を立証する為ではなく、寧ろ無罪を確認する為に。
 彼は、缶詰が置かれている棚の前で立ち止まった。
 周囲を見回し始めたので、藤原は棚の陰に隠れる。
 どこかの家政婦の様に、顔を少しだけ出して彼を見張る事にした。
 彼は、やはり周囲を見回し、誰も居ない事を――実際はそうではないが――を確認し、そして……。
 藤原は、自分の目を何度も疑った。
 だが、確かに見てしまったのだ。
 彼が、目にも留まらぬ早業で、魚の缶詰を二、三個バッグに入れた事を。
 それが確信に変わった瞬間、藤原の中のあらゆる躊躇が消える。
 この時の自分は、間違いなく、自分ではない何かが動かしていた。
 彼が気が付くよりも早く、藤原は彼に彼に歩み寄る。
「……ちょっと、良いですか?」
 藤原が呼ぶと、彼はビクリと身を震わせた。
「な、な……何だよ?」
 少し上擦った声で、彼は尋ねる。
 その表情は怯え切っていて、腰も若干引けている。
「貴方、商品をそのバッグに入れましたよね。会計も済ませていないのに……おかしいですよね?」
「い、言い掛かりは止せ!」
「でしたら、バッグの中身を見せて頂けませんか?」
 藤原の問いに、彼は真っ青になった。
 ――この挙動、間違い無い。
 言い逃れの出来ない状況に追い込み、藤原はひとまず安堵した。
 だが、彼は完全には屈しない。
 次に顔を顔を上げた時、彼の表情は開き直ったものになっていた。
「くっそぉおおおおおおおおおおおッ!」
 自棄になったのか、彼は藤原に殴り掛かる。
 藤原が驚くよりも早く、体は反射的に動いていた。
 彼の拳を軽々とかわし、その手首を掴み、足を引っ掛け……。
 藤原が気付いた時には、綺麗な一本背負いが決まった後だった。
 放り出された彼の鞄から、ここの商品と思われる物が散乱する。
「どうしました!?」
 騒ぎを聞きつけて、数人の店員が駆け付けた。
「窃盗と事後強盗の現行犯です。警察に突き出して下さい」
 そう言って、明は男を店員に突き出した。
「そ、そんな……! 警察だけは勘弁してくれよ!」
「いいえ、許しません。いい歳してこんな事をすれば、どうなるかくらい判りますよね? それに、一度にこんなに大量に盗む人が、初犯とは考えられません」
 容赦無い言葉を浴びせている事に、藤原自身が驚いていた。
 自分では思ってもいない事を、口が次々と喋るのだ。
 確かに、自分も彼を許そうとは思っていない。
 それでも、自分はここまで言わないだろう。
 彼の万引きを確認してからというもの、この体は思い通りに動いてくれない。
 その上、自分には出来る筈の無い、一本背負いまでやってのけた。
 まるで、自分ではない誰かがこの体を動かしているかの様だ。
 となると、今、この体を動かしているのは、恐らく本来の持ち主の……。
「ま、まあ、お客様のお陰で盗まれずに済んだ訳ですし、ここは大目に……」
 店員が、二人の間に割って入る。
 だが、『明』の怒りは収まらない。
「つまり、事を荒立てたくないからこの人を見逃したいと?」
「そ、それは……」
「彼は初犯ではないんですよ!? 今見逃せば、確実に繰り返します。ここが万引きに甘い店だと思われれば、他の常習犯にも狙われるかも知れません。それとも、ちゃんとお金を払っている人を馬鹿にしているんですか?」
「そ、そんなつもりでは……」
 『明』の言葉に、店員はたじたじだった。
 普段は見られない明の怒る姿に、藤原も戸惑い気味である。
 だが、理は明にあるだろう。
 万引き犯を見逃しては、客に余りにも失礼だ。
 金を支払うつもりが無い時点で、客とは違う対応をしなければ。
「……それに、これが彼の為でもあるんです。ここで逮捕されておけば、もう罪の上塗りはしないでしょう。誰かに怪我を負わせる前で、本当に良かった。下手に誰かを傷付けてからでは、取り返しがつきませんから」
「…………!」
 『明』が覗かせた優しさに、男は感極まった。
 零れる涙を気付かれないように、少し俯く。
 『明』は男の前で屈み、顔を見上げた。
「ちゃんと償って、もう同じ事はしないで下さいね。ルールを守る人を、ルールは必ず守ってくれますから」
「はい……すみませんでした……!」
 男が反省した事を確認すると、『明』は何食わぬ顔で買い物に戻っていった。


 教室に戻った明は、もう気が気ではなかった。
 もうすぐ、夕の英語の授業が始まるのだ。
 姉として、とても冷静ではいられない。
 ちゃんと授業出来ているだろうか。
 虐められていないだろうか。
 変なコスプレをさせられていないだろうか。
 心配し始めたら限が無い。
「もうじき、夕先生の授業だな」
「はい」
「今度は如何なコスプレをさせられておるか……実に楽しみだ」
「はい」
「…………」
 秋原への返事がおざなりになってしまうのも、仕方の無い事だろう。
「……こう見えて、結構腹黒い」
「はい」
「自分より胸の小さい女性を見下している」
「はい」
「実はむっつりスケベだ」
「はい」
「他に巨乳キャラが出たら、全力で潰すつもりだ」
「はい」
「正義キャラの真琴嬢がロリコンなのは、矛盾していると思う」
「はい」
「親の金をすくねた事がある」
「はい」
「後付けの妹なんて要らない」
「はい」
「堀って誰?」
「はい」
 こうして、五限目が刻一刻と近付いてくる。


 明が秋原の問いに一通り頷いた頃、五限目のチャイムが鳴った。
 ドアが開き、明の緊張はピークに達する。
 それと同時に、生徒達がカメラを取り出した。
 デジカメだったり、携帯電話のカメラ機能だったりと、人それぞれだ。
 秋原の構えたデジカメが、恐らく一番高価だろう。
 異様な光景に、明は面食らった。
 そして、ドアの向こうから教師が現れる。
 サイドポニーの胸が薄い少女……夕だ。
 生徒達のカメラが、一斉に彼女を写す。
 秋原に至っては、席を立ってポジションを変える程だ。
「あ……あの、そろそろ止めて貰えませんか……?」
 夕が控えめに拒むが、生徒達が冷静でいられる筈が無かった。
 明も、逆に身動き一つとれない。
 何故なら……。
「西口先生、また今宮先生の賭けに負けたんですか?」
「はい……ジェンガでイカサマされました」
 罰ゲームで着せられている衣装が、明のメイド服だったからだ。
 割と速やかに撮影会も終わり、生徒達は授業の体勢が整う。
 夕は軽く溜息を吐き、教卓に荷物を置いた。
 明は、まだ驚きを拭う事が出来ない。
 何故、いつの間に、自分のメイド服を持ち出されていたのだろうか。
「先生、今日も今宮先生が用意した服なんですか?」
「ううん。メイド服を着せられる事になったから、自分で持ち込んだんです」
 生徒の問いに答える夕。
 やはり、あの服は自分のメイド服の様だ。
「自分で用意したんですか?」
「はい。姉さんの仕事がメイドだから、姉さんの服を着てみたいな、って思って」
 夕の発言の後、一瞬の沈黙。
 その後、反動の様に一気に湧き上がった。
「え!? メイドって日本じゃ普通じゃないの!? 日本は空前のメイドブームだって、アメリカに居た時確かに……」
 予想外の反応に、夕は狼狽する。
 どうやら、国を隔てて情報が歪んでしまったらしい。
 どうにか生徒達を静め、再び溜息を吐いた。
「……とにかく、今日は姉さんの服を着てきました。その所為か、何だか気分が落ち着くんです。多分、姉さんの匂いがするからかな? 姉さんが傍に居る様な……抱きしめられている様な感じがして……」
 そう言う夕の表情には、早くも笑顔が戻っていた。
 明は、赤面しそうになるのを必死に抑えて、やはり抑え切れていない。
「では、雑談はこの辺りにして……授業を始めます。Stand up!」


 騒動がひとまず落ち着き、藤原はようやく体の自由が利くようになった。
 自分がした事を思い出すと、今でも冷や汗が出る。
 万引き犯相手に、あそこまで躊躇い無く出て行くなんて。
 あの時、自分の体を動かしていたのは、明らかに自分ではない何かだった。
 だとすれば、この体の本来の持ち主である明を想像するのが自然だ。
 そもそも、明の体を自分が動かしていることが、既におかしいのだ。
 今更、この程度の事で驚く方がどうかしている。
 ――それにしても……。
 明さんは本当に凄い人だな、と藤原は思う。
 あの状況で、あんなに毅然とした行動が出来るだろうか。
 その上、桜の話通り、男性一人くらいなら息すら乱さず制してしまうくらい強い。
 普段からは想像出来ない怒の感情は、深い博愛の裏返しなのだろう。
 何をしても怒らないという事は、優しさではなく無関心の証なのだから。
 自分の周りのお転婆達は、四年後に明の様になれるだろうか。
 ――ガキとロリコンだからなぁ……。
 そんな事を考えていた時、藤原は、スーパーの人口密度が急上昇している事に気付いた。
 同時に、明が牛肉を買うのに指定した時間も迫ってきている。
 もしかして、何かしらの関係があるのだろうか。
「あら、西口さん!」
「えっ……は、はい」
 突然声を掛けられ、藤原は少し戸惑いながら応えた。
 声の主は、見るからに中年の専業主婦だった。
 明の人柄なら、買い物先で知り合いが出来ても不思議ではないだろう。
 今度こそ本当に知らない人なので、藤原は主語回避を心がける。
 受身の会話に徹すれば、どうにかなる筈だ。
「聞いたわよ〜。今度は万引き犯をしょっ引いたんですってね」
「ええ。見てしまったからには、放っておけませんから」
 明っぽく振舞いながら、藤原は情報の広まる速さに驚いていた。
 主婦の情報網は、光ファイバーよりも速い。
 情報力に長けた秋原が、よく話す事だ。
「やっぱり若さよね〜。二十歳前後なんて、怖いものなしでしょ?」
「あはは……そうかも知れませんね」
 明に限ってはそんな問題ではない気もするが、藤原は相槌を打つ。
 彼女の方が三つも年上なのだし、自分も三年の間にあんな風になるかも知れない。
「私も昔はそうだったんだけどね……五年前が懐かしいわ」
「…………」
 彼女のしみじみとした発言の後、数秒の沈黙。
「お、奥様って、そんなに若かったんですか!?」
 藤原は驚きを口にするが、もちろんこれは芝居である。
 普通なら、ここはツッコむところだろう。
 だが、明の場合は特別だ。
 真面目な彼女は、相手の言葉を常に真剣に受け止めてしまう。
 だから、相談相手にはこの上ない適材だろうが、この手のボケにツッコむ事は出来ない。
 明を演じるのなら、ここは堪えなければ。
「…………」
 しかし、彼女はどうにも納得がいかない様子だった。
「……西口さん、本当は嘘だって気付いてるでしょ?」
「えっ!? い、いえ、その……」
 図星を衝かれ、二の句が継げない藤原。
 ――もしかして、不味いか……?
 藤原の頭を、一抹の不安が過ぎる。
 自分が演じたのは、あくまで自分が知っている明だ。
 それが全てだと思うのは、単なる自惚れに過ぎない。
 実際、明が次々と犯罪者を倒している事など、今日まで知らなかった。
 自分が知らない明は、もしかしたらツッコミが上手いのかも知れない。
 紅茶好きに見えて、実は緑茶好きなのかも知れない。
 だが、こんな風に何もかも疑ってかかれば、終いには人間か否かまで疑わなければならなくなる。
 だから、最後には信じなければならないのだ。
「やっぱりそうなのね。西口さんに見破られるようじゃダメだわ。あざと過ぎるネタも考え物だもの。もう少し妥協して……『十年前』の方が良いかしら。それとも、逆の方向から攻めて『一万年と二千年前』の方がウケるのか……。いやいや、ここは根本的な部分から変えて、『昔が懐かしいわ』『それって戦時中?』というのも……。でも、これはもう一人誰かが居ないと成り立たないし……」
 そんな藤原の考えとは裏腹に、彼女は別の事でいっぱいいっぱいの様だった。
 どうやら、如何にボケるかを考えているらしい。
 ――俺の周りは、こんな人ばっかりか……。
 改めて認識し、藤原は溜息を吐く。
「ところで西口さん。今ここに居るって事は……」
「……? あとは、牛肉を買うだけなんですけど……」
 彼女に尋ねられ、藤原は少し怪訝な表情を浮かべた。
 やはり、これからここで何かが起こるらしい。
「やっぱりそうなのね。思った通りだわ。嗚呼、こんな若い娘までもを戦いに駆り立てるなんて……肉って怖いわ」
「はい?」
 訳が解らず、藤原は首を傾げる。
 彼女の言う『戦い』とは、一体何なのだろう。
 自分は、牛肉を買いに来ただけなのに。
「…………!?」
 その時、藤原の全身が鳥肌立った。
 店内の冷房とは違う、とても嫌な寒気。
 人のあらゆる負の感情が、この辺りを漂っている気がする。
 辺りは殺気立っていて、ぴりぴりとした空気を感じた。
 本能が、危険を告げている。早く逃げろと叫んでいる。
 だが、殺気に中てられた藤原は、それすらもままならない。
「いよいよね。行くわよ、西口さん!」
「え!? ちょ、ちょっと……」
 彼女に手を引かれ、藤原は半ば無理矢理連れて行かれる。
 進めば進む程、悪寒が強くなっていった。
 恐らく、元凶に近付いているのだろう。
 主婦の群に突っ込んだ時、寒気が格段に強くなる。
 寒さがピークに達したところで、手が離された。
 そこで藤原が見たものは……。
「皆様、大変お待たせしました! 本日の目玉商品、牛ロースの大特価です! 間も無く解禁となりますので、線の内側でお待ち下さい! この商品は、一人一パックのみの販売となります! 数は十分用意してありますので、どうか順番に、押さないで下さい!」
 声を振り絞る店員。
 それすら掻き消すほどの喧騒。
 獲物を見つけた鷹の様な鋭い目線の数々。
 まさに、戦いの最前線だった。
「さあ、ここからは個人行動よ。誰が勝っても恨みっこなし!」
「えっ……え?」
 目まぐるしく変わる状況に、藤原は混乱していた。
 何故、自分はこんなに危険な場所に居るのだろうか。
 何故、スーパーでこんなに殺気を感じなければならないのだろうか。
 何故、こんな時間まで牛肉の購入を待たされたのだろうか。
「秒読みに入ります! 十、九、八……」
 ようやく理解が追い付き、藤原は全てを悟る。
 解ってみれば、単純な事だった。
 喧騒が水を打った様に止み、秒読みの声以外聞こえなくなる。
 刹那の静寂の最中、藤原は思った。
 ――明さん……謀ったな。


「……という訳で、『I love you even if hundred million two thousand years pass』は、『一億と二千年経っても愛してる』と訳します。ちなみに、『Even if hundred million two thousand years pass,I love you』でも意味は同じです」
 メイド服の件を除けば、夕の授業は滞りなく進んでいた。
 明は、優しい瞳でそれを見守る。
 大勢の生徒の前でも、臆せず授業をする夕。
 実家に居た頃の、人付き合いが苦手な彼女を知る明は、様々な思いを抱いていた。
 彼女の成長を喜ぶ心。
 自分も頑張らねばと思う心。
 彼女が飛び立っていく事を寂しく思う心。
 それらが複雑に絡まり合い、今の明の心情を形作っていた。
 まだまだ甘えたがりだと思っていた夕が、職場ではこんなにも凛としている。
 生徒の人生を左右する職である事を重く受け止め、それでも押し潰されていない。
 教育への情熱と、勉学で培われた冷静さ。
 それらがあるから、同い年を相手に教師でいられるのだろう。
 そう思うと、妹ながらも誇らしく思ってしまう。
 恐らく、次に夕が藤原宅に来る時も、何だかんだで甘やかしてしまうだろう。
 彼女は既に社会人で、住み込みとは言え、あそこは藤原の家なのに。
 でも、それでも、夕には甘く接してしまう。
 彼女の事が、可愛くて仕方ないからだ。
 弟や妹が居るならば、誰しも大なり小なりそういう思いがある筈だ、と明は思う。
 今は、週の半分程を夕と過ごす事が出来る。
 しかし、それも永遠ではないだろう。
 藤原の両親が戻れば、自分は次の勤め先を探さなければならない。
 転勤になれば、アパート暮らしの夕は引っ越してしまうかも知れない。
 いつまでも、このままではいられない。
 だからこそ、今のうちに可愛がっておきたいのだ。
「では、藤原君。『You are not a peony but a pig!』を訳して下さい」
「……は、はい!」
 突然夕に当てられ、明は少し驚きながら返事をする。
 ――今は集中しないと。
 物思いに耽っていた自分を責め、明は即答した。
「『あなたは牡丹じゃなくて豚よ!』」
「よく出来ました。『not A but B』はテストに出すので、憶えて下さいね」
 無事に乗り切ることが出来、明は小さく息を吐いた。
 同時に、夕に褒められるという珍しい経験に、不思議とくすぐったい気分になる。
 一方、明の前の席の秋原は、
「明さんが……明さんが言った事に意味があるのだ……!」
 一人何やら興奮していた。
 その時、明の目に時計が映り、ある事を思い出す。
 ――もうすぐ、ですね……。
 もう一分も経たぬ後に、『戦』が始まるのだ。
 家計と食卓を担う者の、全てを賭した戦が。
 明は、今更ながら少し後悔する。
 特売品を求める屈強な主婦達の最中に、何も知らない藤原を放り込んでしまった事を。
 だが、あれをこなさなければ、自分の代わりは務まらない。
 あれが、いつも自分がしている事なのだから。
 今までは、はしたない姿を見られたくないので、藤原が付き合ってくれる日は断念していた。
 しかし、これで彼も解ってくれるだろう。
 何かを安く求めるという事が、どういう事なのかを。
 自分も『洗礼』を受けた時には、衝撃を受けた。
 犯罪集団と戦った事もある自分が、手も足も出なかったのだ。
 藤原も、恐らく無事では済まないだろう。
 それでも、主婦の群に揉まれる事は、人生に於いて有益な筈だ。
 人間、いずれは社会の荒波に揉まれなければならないのだから。
 いよいよ、『戦』が始まるまであと数秒。
 四……三……二……一……


「うわぁあああああああああああああああああああああああああああああぁっ!」


「……はい、今日の予定が終わったので、授業はここまでです」
 夕の授業は、休憩のチャイムよりも早く終わった。
 生徒達の緊張が解け、思い思いにくつろぐ。
 明も、授業直後の解放感を、久しぶりに味わっていた。
 生徒として妹の授業を受けた感想は、流石は夕、といったところであろうか。
 教えるべき点を効率良く教え、無駄が無いので早く終わる。
 だれる前に終わるので、最後まで集中して授業に取り組めた。
 これも、授業内容を綿密に計画しているからだろう。
 色々と心配していたが、教師としてしっかりとやっている様だ。
「あと、私からの連絡。来週の水曜日の放課後に補講を行います。希望者は、職員室前の名簿にチェックを入れておいて下さい。では、特に質問が無ければ、残りは自習にしようと思うのですが……」
「先生! 姉について詳しく!」
「ですよね……」
 違う意味の質問がきたので、夕は溜息を吐く。
 明は苦笑する一方、これはチャンスだと思った。
 夕が自分の事を本当はどう思っているのかを、直接聞く事が出来る。
 嫌われてなければ良いのだが……。
 観念したのか、夕は話をする体勢に戻った。
「さっき言った通り、姉さんはメイドの仕事をしています。姉さんは中学を卒業してすぐに実家を出たので、そこに至るまでの経緯は知りません。ただ、姉さんは、昔からメイドという仕事に憧れていたんだと思います。……いえ、正確には、憧れていた人がメイドだった、と言うべきでしょうか。いずれにせよ、久しぶりに会えた姉さんが自分の夢を叶えていた時は、自分の事の様に喜びました」
 明は、ひとまず安堵した。
 勝手に家を飛び出した事を、夕は本当に気にしていない事を確認出来たからだ。
 そして、あの頃の夕も、幼いながらに自分の事をちゃんと見ていたのだと思い知らされる。
 自分がこうありたいと願っていた人を、知っていたのだから。
「小さい頃から、私は姉さんに憧れていました。社交的で、家事が得意で、運動も出来て、何よりも研鑽を怠らない人でしたから。知識ばかりで知恵が無い私なんて、全然敵いませんでした。……今でも敵いませんけど。甘える私に姉さんは優しく接してくれて、私はそれに気を良くして更に甘えて……そんな関係でしたね。お洒落に無頓着だった私の髪を初めて結ったのも、姉さんでした」
 そう言って、夕は自分のサイドポニーに触れる。
 ずっと昔の事を思い出して、明は思わず頬が緩んだ。
 胸ではなく、髪が運動の邪魔になっていた頃。
 髪の結い方を教わり、リボンをたくさん貰った自分は、勉強の最中だった夕を襲撃したのだ。
 ボサボサに伸びた髪を纏め、色々な結び方を試した。
 まるで、着せ替え人形で遊んでいるかの様に。
 その時に一番しっくりきたのが、今の髪型である。
 蝶々結びが上手く出来ない彼女に手取り足取り教えるのは、とても楽しかった。
 今でも、彼女が遅刻間際の時には、朝食を食べさせている間に結ってあげているのだが。
「そんな姉さんでも、流石に苦手なものはありました。雷を尋常じゃないくらい怖がったり、ドアノブの静電気で気絶したり……。雷雨の夜には、一晩中私に抱き付いて離れませんでした。私は、そんな姉さんを可笑しく思う反面、今だけは姉さんの為になれているかな、と思ったりもしていました」
 緩んでいた明の頬が、そのまま固まる。
 前の席の秋原が、凄まじい勢いで何かをメモしていた。
 ――夕の口止めを忘れていました……。
 明は、迂闊だった自分を責める。
 藤原は口止めしていたが、夕は盲点だった。
 お互いの事を良く知っているから、改めて口止めする事が無かったのだ。
 この事がアリスや真琴に知られたら、恥の上塗りになってしまう。
 果たして、夕や秋原をどうするか。
 話さない様に頼むか、万が一拒否されたら、話せない身体にしてしまうか……。
「本当に姉さんは憧れの人です。優しいし、紅茶を淹れるのが上手いし……」
 そこで、夕は少し言葉を詰まらせる。
 両手を両胸に添え、自嘲気味に溜息を吐いた。
「……胸も大きいし」
 ――やはり、そうなりますか……。
 ある程度予想していたものの、明は羞恥心を覚える。
 大勢の前で、余り自分の胸の話はしないで欲しい。
「だって、身長も他のサイズも、私とそんなに変わらないんですよ!? なのに、トップバストだけは雲泥の差が……姉妹なのに……。このメイド服も、胸の部分だけサイズが全然合わない……」
 夕の語気が、見る見る衰えていく。
 明には、夕がそこまで思い詰める理由が、今一つ解らなかった。
 胸が膨らみ始めた頃は、大人に近付きつつあるという期待と不安が入り混じって、少しくすぐったかった。
 しかし、ある程度大きくなってくると、寧ろ邪魔に思えてくる。
 肩は凝るし、動く度に揺れて気になるし、男性の目線を集めてしまう。
 慣れる頃にはブラを買い換えなければならず、就寝時にも装着するので束縛感すら覚える。
 中学生の頃から、それらにずっと悩まされているのだ。
 叶うのなら、一日だけでも夕くらいの大きさに戻りたい。
 その為には、十年くらい若返らなければならないが。
「……そんな訳で、色々な意味で凄い姉さんですけど、やっぱり弱い面もあります」
 ふと、夕の声のトーンが落ちる。
 どうやら、雷の事ではないらしい。
「姉さんは、いつも頑張り過ぎてしまうんです。優しくて真面目な性格だから、自分の事を顧みずに、他人の事ばかり考えて……。誰の目から見ても充分頑張っているのに、姉さん自身だけが最後まで認めないんです。早朝から夜まで働いて、今も研鑽の為に勉強を欠かさないで……。憧れていた人に追い付こうと、そんな生活を毎日続けているんです。だから姉さんには、頑張れ、じゃなくて、頑張ってるね、って言ってあげる人が必要なんだと思います。でないと、姉さんはいつか壊れてしまいそうな気がするから」
 夕は、心配そうな表情で話す。
 それを見て、明は胸の奥が痛んだ。
 自分は、憧れていた人に追い付く事だけを、ずっと考えていた。
 それこそが自分の人生に安寧を与える唯一の術だと、信じて疑わなかった。
 それが、夕の目にはそう映っていたとは。
 確かに、自分は人生の視野が狭まっていたのかも知れない。
 心のどこかで自覚していた事だが、妹にまで心配させていた事が、明にはショックだった。
 少しだけ間を置き、夕は続ける。
「……だって、もうこの世に居ない人に追い付くなんて、出来る訳無いじゃないですか。残された人は、先に逝った人を、どうしても美化してしまうんですから」
 夕の言葉が、明の胸に突き刺さった。
 自分が我武者羅に頑張っている理由を、まさに正確に言い当てていたからだ。
 自分の中の師匠は、きっと際限無く美化されている。
 それに追い付こうと思えば、一生走り続けなければならないだろう。
 その途中で事切れるのも、或いは悪くないかも知れないと思っていた。
 前だけを見て、その他のものには目もくれない人生。
 それならば、幼い自分に付きまとっていた不安を、全て拭い去る事が出来る筈だ。
 正確には、目を背けているだけなのかも知れないが。
 でも――――
「私は、姉さんにもう少し楽になって欲しいんです。真面目過ぎる姉さんの人生に、もっと彩りをあげたいんです。かつて勉強しか頭に無かった私に、姉さんがしてくれた様に」
 ――夕は、私の横に居る。
 それを無視してまで走り抜けた人生を、師匠は褒めてくれるだろうか。
 自分を大事にしなければ、心配してしまう人が居る。
 自分の身体は、自分一人のものではないのだ。
「実は、私が今宮先生と賭けを続けるのは、姉さんの為なんです。今宮先生は、エステや温泉の券を賭けて下さるので。今はイカサマを見破れなくて勝てませんけど、いつかきっと勝ちます! そして、姉さんに休みの日をあげるんです! 一日中羽を伸ばせる様な! その為なら、私は何度でも挑戦しますよ。コスプレさせられても、撮影されても、学校のHPに載せられても!」
「…………!?」
 夕のその言葉が、明の中に引っかかっていた疑問を解いた。
 何度負けても夕が賭けを繰り返す動機が、どうしても判らなかったのだ。
 まさか、それすらも自分の為だったなんて。
 幼い頃は、ずっと自分が夕の面倒を見てあげていた。
 そんな夕が、いつの間にか、こんなに姉の事を気遣うようになっていたとは。
 自分の中では、夕はまだ子供だと思っていた。
 その認識が、間違いだったと思い知る。
 やはり、社会人としての経験が大きいのだろうか。
 いずれにせよ、夕は、もう立派な大人だ。
 そう明が思った時に、終わりを告げるチャイムが鳴った。
「では、今日はここまでです。Stand up!」


 『戦』を終えた藤原は、ふらふらの足取りで帰路に着いていた。
「な、何とか牛肉を買えて良かった……」
 すっかり草臥れた声で、藤原は呟く。
 揉みくちゃにされながらも何とか手に入れた牛肉は、今までに得たどんなトロフィーよりも眩しい気がした。
 安い物を、命を賭けて……そんな主婦達の熱い生き様を、今日は誰よりも至近距離で体感出来た。
 明は、こんなに大変な事を、毎日こなしているのだろうか。
 ……否。本当はこれ以上に大変なのだろう。
 明の性格から考えて、いつもと全く同じ量の仕事を任せるとは思えない。
 学校から帰ってから出来る事や、彼女にしか出来ない事は、彼女がやるのだろう。
 そうだとすれば、つくづく頭が上がらない。
 朝早く起きて朝食を作り、炊事洗濯をこなし、スーパーという名の戦に挑み……。
 何よりも大変なのは、家事に休日が無い事だろう。
 これからは、もっと明の労を労う事にしよう。
 手伝いも積極的にして、少しでも明の負担を減らさなければ。
 彼女の仕事とは言え、このままでは彼女が持たない。
 そんな事を考えていた時、藤原は鼻の頭に冷たい感触を覚える。
「……やばい!」
 雨を予感し、藤原は早足になった。
 天気は、見る見るうちに崩れていく。


「……さて、感想を聞かせて貰おうか」
 夕が教室から出ると同時に、秋原は明に尋ねる。
「とても有意義な時間でした」
 明は、簡潔に一言で纏めた。
 その表情は笑顔だが、目尻には滴が溜まっている。
 それだけで、秋原が全てを察するには充分だった。
「色々と気になる事も話しておったが……ふっ、訊くだけ野暮というものだ」
「ありがとうございます」
 秋原の気遣いに、明は頭を下げた。
 今はまだ、無闇に触れて欲しくない事もある。
 でも、周りの人達がこれならば、きっといつか話せる時が来るだろう。
「ところで……今日の天気を知っておるか?」
「いえ、朝はバタバタしていたので……下り坂だとは聞いているのですが」
「……昼過ぎから、雷を伴う雨だそうだ」
「…………」
 秋原の言葉に、明はすっかり固まってしまった。
 同時に、狙い澄ましたかの様に雨が降り出す。
 始めは小雨だったが、あっという間に本降りに変わった。
 弾丸の様な雨が、大地に降り注ぐ音がする。
 少し風が吹くだけでも吹き込んでくるので、生徒達は慌てて窓を閉めた。
「……今すぐ早退して良いですか?」
「案ずるな。俺が上手く言っておく」
「ありがとうございます、秋原さん」
「ふっ……美少女の感謝こそ、俺の原動力だからな」
 明は荷物を纏めると、教室を飛び出していった。
 『藤原』として悲鳴を上げる姿を見られる前に、何としても家に辿り着かなければ。
「……それにしても、この西口姉妹……相思相愛ではないか。真琴嬢の言う通り、大輪の百合を咲かせても不思議ではあるまい。俺は寧ろ大歓迎だが、ギャルゲー的には……そうか、その為の姉妹丼か」


「うわー……ドボドボじゃねえか」
 藤原宅の玄関。
 何とか家に着いた藤原は、何とか守り抜いた買い物袋を、ひとまず置いた。
 問題は、何よりも自分自身。
 突然の豪雨で全身水浸しになってしまい、上がるに上がれない。
 髪もジーンズも水を吸って重たくなり、ブラウスは透けてしまっている。
 床が濡れてしまうのは諦めて、まずは風呂にでも入ってしまおうかと藤原は思ったが……
「……うわわわわ!? じ、冗談じゃない!」
 一瞬でもそんな事を考えた自分を恨んだ。
 まずは、身体を拭く事を考えよう。
 靴下を脱いだ方が、床を濡らさないで済むだろうか。
 そんな事を考えていた時、ドアが乱暴に開かれる音が背中から聞こえ、藤原は驚いて振り向く。
 そこには、同じく水浸しになっている『藤原』……もとい明が居た。
 ここまでずっと走ってきたらしく、すっかり息が上がっている。
「あ、明さん!? 学校は……?」
 その瞬間、開いたドアから飛び込む閃光。
 それと同時に、明は藤原に抱き付いた。
 轟音と共に、悲鳴が轟く。


「……そっか。俺に恥をかかさない為に帰ってきたのか」
 明が少し落ち着いた頃に、藤原は事情を察した。
 彼女自身の為でもあるだろうが、自分の為にしてくれた事ならば、咎める理由も無いだろう。
 秋原ならば、恐らく上手くフォローしてくれる筈だ。
 抱き締めた腕を離さない明を、藤原はそっと抱き返す。
「今日、明さんとして生活して……色々と勉強になった。家事が大変だって事が、身に染みて解ったよ。痛いくらいに」
「済みませんでした……私、光様を……」
「だから、『痛いくらいに』解ったって」
 謝る明に、藤原は苦笑しながら言う。
 随分な目に遭ってしまったが、明にとっては日常なのだ。
 強いとは言え、まだ若くて綺麗な女性なのに……。
「私も、光様として学校に通って……光様の事を、少しは理解出来たと思います。尊敬出来る先生方や、お互いに高め合う御学友が居るからこそ、今の光様が在るのですね」
「……そんな人居たっけ?」
 明の言葉に、若干戸惑う藤原。
 彼女が言う程高尚な人物が、あの学校に居ただろうか。
「はい。好きなものを好きと言える、我が道を行く鶴橋先生。結婚しても愛が冷めず、常に妻の事を想う、愛妻家の天王寺先生。子供の純真さを失わず、小さな命をも尊ぶ梅田先生。勉強面だけでなく、人間としても教わる事が多い方ばかりです」
「何というか……物は言い様だな」
 あくまでもプラスに捉える明に、藤原は言及を諦める。
 彼女が尊敬しているのなら、わざわざ口を出す理由も無いだろう。
 確かに彼らは、ある意味で、明には絶対に無いものを持っている。
 そういう意味では、明にとって尊敬出来る人達なのかも知れない。
「あ、あと、その……寺町先生も……同じ女として……」
「え? 何て?」
「い、いえ、何でもないです」
 明が小さく何かを言い加えた気がしたが、藤原には良く聞こえなかった。
「で、本命の夕はどうだった?」
「そうですね……とても立派に職務を全うしていたと思います。姉として、鼻が高い様な、少し寂しい様な……複雑ですね。単に、私が夕を溺愛しているだけなのかも知れませんけど」
 藤原の問いに、明は少し照れくさそうに答えた。
 明の場合、溺愛という言葉が大袈裟ではないので、少しリアクションに困る。
「……まあ、明さんは満足したみたいだし、入れ替わった甲斐があったな」
「はい。無理を言って、済みませんでした」
「こういう時は、『ありがとう』って言う方が良いと思うよ」
「そうですね……では、ありがとうございました」
 藤原の言葉に、明は小さく笑って言い直した。
「礼を言われる程でもないんだけどな。俺も、色々と気付けた事があるし」
「と、言いますと?」
「その前に……そろそろ離れないか?」
「そ、そうですよね。私とした事がいつまでもはしたない……」
 藤原に言われ、明は恥ずかしそうに身体を離した。
 近過ぎて逆に見えなかった明の身体が、ようやく目の前に現れる。
 雨に濡れた長い髪は、彼女の性格と同じくしっとりとしている。
 ブラウスが肌に張り付いているので、綺麗な身体のラインがそのまま再現されていた。
 張りのある若い肌の上で、雨粒は玉の様に光っている。
「……あれ?」
 ここで、藤原は何か違和感を覚えた。
 おかしい事は無いと思うのだが、間違い無く何かが変だ。
 どうやら、明も同じ様な事を考えているらしい。
 そして、二人同時に、もやもやとした感覚の輪郭が見えてくる。
「――――!」
 何もかもに気付いたのも、二人同時だった。
「戻った!?」


「やれやれ……この前のアリスの件でびしょ濡れになったばかりなのに」
 明に先にシャワーを浴びて貰い、藤原も冷えた身体を温めた。
 新しい服に着替え、リビングに入ると、いつものメイド服に着替えた明がテーブルを囲む椅子の一つに座り、紅茶を飲んでいた。
 明の向かいの席に座り、藤原は溜息を吐く。
「いざ戻って振り返ると……俺達、とんでもない事してたんだな」
「お互い、労を労いましょうか。……光様の分も、用意しておきましたよ」
 そう言って、明はアイスミルクティーをキッチンから持ってくる。
 溶けたそれで薄まらないように、氷もミルクティーを凍らせたものだった。
 ありがとう、と一言言って、藤原は冷たい一口を口にする。
 風呂上り――と言うには少し御幣があるが――の冷たい一杯は、何物にも代え難かった。
「それにしても、何で元に戻れたんだろうな?」
 軽く一息吐き、藤原は筆頭の疑問を口にする。
「判りません……そもそも、入れ替わっていた事が既におかしい訳ですし」
「……それもそうだな」
 明に正論を言われ、藤原はそれ以上何も言えなかった。
 起きた原因が判らない以上、終わった原因も判らない。
 結局、何もかも判らないままオチを迎えてしまいそうだ。
「ところで光様。先程仰っていた『気付けた事』とは一体……?」
「ああ、あの話か」
 戻った時のゴタゴタで、危うく忘れてしまうところだった。
 しかし、間を置いて考えてみると、これはかなり恥ずかしい気がする。
 その場でなら勢いで言える事も、時が経つと言えなくなるものだ。
 言葉は生物、とはよく言ったものである。少し意味は違うが。
 だが、返答を待っている明を見るに、今更誤魔化しは効きそうにない。
 止むを得ず、藤原は話す事にした。
「明さんとして生活してる時に気が付いたんだけどさ。何て言うか……俺達って、同じ家に住んでるのに、変な壁を作ってた気がするんだよな。俺は明さんの事を良く知ってるとは言えないし、俺の事も、明さんにあんまり話してないし。理由はどうあれ、今はこれが現実なんだし、そろそろ認めないといけないな、って。……要するに、もっとお互いに色々な事を知り合っても良いんじゃないか、と思う訳で。何せ、今の俺達は、もう殆ど……その……か、家族……みたいなもんだろ?」
 恥ずかしさの余り、一気に言い切ってしまった。
 我ながら、よくもこんな歯が浮く様な話が出来るものだ。
 ――でも、これが本音だしな。
 これ程にプライベートの時間を共有する人を、他人と区切る訳にもいかないだろう。
 その上、仕事とは言え、身の回りの面倒を見て貰っているのだ。
 『家族』という言葉を使っても、語弊は無い筈である。
 夕が家に来る事をすんなりと受け入れられたのも、『明』がこの家に溶け込んでいる証拠だ。
 そして、家族の事を何も知らないなんて、余りにも寂しい。
「……そうですね。私達は、もう家族と同じですよね」
 藤原の言葉に、明は笑顔で同意した。
 この瞬間、新しい何かが始まった事を、藤原は感じていた。
「それにしても、驚きました。望月さんの説が、ここまで真実味を帯びるなんて」
「……? あいつが何か言ったのか?」
「ええ。実は、昼休みの事なんですけど……」


「ただいまー」
 すっかり日が落ちた頃、夕が藤原宅に帰ってきた。
 キッチンに居た明は、火を止めて夕を迎える。
「お帰りなさい、夕」
「ただいま、姉さん」
 夕は改めてただいまを言い、靴を脱いだ。
「今日、光が早退しちゃったんだよね。秋原君に訊いても、『オヤシロ様の祟りだ』の一点張りだし。姉さん、何か知らない? というより、ちゃんと帰ってきたの?」
「い、いえ、その……体調を崩されたらしくて。今は何ともないそうなのですが」
 夕に問われ、明はどぎまぎしながら答える。
 流石に、本当の事は言えないだろう。
 それ以前に、秋原が上手く言ってくれるのではなかったのか。
「そう、良かった」
 藤原の安否だけが気掛かりだったらしく、夕は何の疑いも無く安堵した。
 教師として、純粋に生徒が心配だったのだろう。
「……安心したら、お腹空いたな。私も手伝うから、早く夕食にしよ!」
「ふふ……判りました。光様も手伝って下さっているので、早く出来ると思いますよ」
 子供っぽく振舞う夕に、明は小さく笑った。
 でも、明は知っている。
 あどけなさの裏に隠れた、真面目な面。
 教鞭を振るう凛とした横顔。
 そして、誰よりも自分の事を心配してくれる、姉思いな優しさ。
 それらを隠す為に、夕は甘えてくるのだろうか。
 それとも、本当は自分の方が甘えているのだろうか。
 色々な事を考えて、結局答えは出なかったので、
「ね、姉さん!? まだお茶の間の時間帯なのにこんな……」
 自分が求めるままに、夕を抱きしめた。
 自分の感情をぶつける様であり、自分の感情で包み込む様でもある抱擁だった。
 自分とよく似た匂いのする彼女は、不思議な温かさを帯びている。
 それは、冬の暖炉の様に、来る者を優しく迎え入れる優しさだった。
 考えてみれば、今日、こうして誰かに抱きつくのは、もう二回目だ。
 自分は、なんて幸せなのだろう。
 恐怖心を委ねられる人が居て、離れたくないと願える人も居るなんて。
 叶うなら、この幸せが少しでも長く続いて欲しい。
 雨水がやがて雲に還る様に、見送った人が帰ってくる生活が、ずっと続けば良いのに。
 だが、それは決して実現する願いではない事は、一番辛い形で思い知らされている。
 だからこそ、願わずにはいられないのかも知れない。
 腕に力がこもり、抱擁から束縛に変わる一歩手前まで抱き寄せる。
 愛慕と欲望の間の、危うい均衡を保った力加減だった。
「夕……私は、貴女の事を、世界中の誰よりも愛していますからね……!」
 胸を詰まらせて、明は言う。
 これが、自分の夕に対する気持ちの全てだ。
 夕は始め、少し驚いていたが、やがて、優しさと嬉しさが混ざった表情になる。
 そして、そっと明を抱き返した。
「……私もだよ、姉さん」


「……秋原先輩」
「どうした、堀?」
「青春って、どうしてしょっぱいんでしょうか?」
「未熟な果実……即ち坊やだからさ。美少女のそれは言うまでもなく、若人の涙は美しい。歳を食った時に、きっとそれは価値ある物になっているであろう」
「じゃあ、僕の涙も、いつか価値がある物になるんですね」
「まあ、八セントくらいにはなるであろうな」
「……何で日本円じゃないんですか?」
「しかも、貨幣だから換金出来んしな」



第五話 完



閑話その四 藤原を我が物と思う望月の


 その日も、アリスは早々と藤原の家に来ていた。
 愛しの人と一緒に、学校へ行く為に。
 朝の緩やかな日差しと清々しさは、眠気を静かに吹き飛ばした。
 アリスは、今のうちに簡単に身だしなみをチェックする。
 ツインテールは左右とも綺麗に纏まっていて、リボンの位置もずれていない。
 制服は汚れていないし、着こなしもいつも通り。
 ニーソックスとスカートが織り成す絶対領域もバッチリで、食い込み具合もそそる筈。
 初めて挑戦した上げ底の靴も、今は特に違和感を感じない。
 これで、身長は夢の百四十代。いつもと違う、オトナな魅力で攻められる。
 もちろん、恋する女の子は、毎日が勝負下着だ。
「……よし!」
 満足げに呟くアリス。
 あとは、藤原が家を出るのを待つのみだ。
 ――今日は、どんな風にメロメロにしちゃおうかな。
 例えば、さりげなくスカートの中身を覗かせてみたり。
 例えば、二の腕に抱きついて胸を当ててみたり。
 例えば、ストレートに押し倒してみたり。
「……そうだ!」
 その時、アリスは良い考えを思いついた。
 今から、藤原の家に突入するのだ。
 望まない結婚式の最中に居る恋人を、式場に飛び込んで攫い出すかの様に。
 我ながら、なんてドラマティックなのだろう。
 これなら藤原も、ワイドショーで取り沙汰される少女漫画の様に、激しく愛してくれるに違いない。
 思い立ったが吉日。
 アリスは、早速門を開けた。


 中に入ると、明と夕がいつも漂わせている匂いがした。
 春風の様に優しくて、秋風の様に爽やかなそれだ。
 この匂いを嗅ぐと、同じ女性である自分でさえも、彼女達に惹かれてしまう。
 どんな相手も優しく包み込む、あらゆる意味で完璧なメイドの明。
 膨大な知識と青い情熱を有し、いつも真剣に教育に励む教師の夕。
 二人とも、女性としても、人としても魅力的である。
 彼女らには藤原に粉をかける意思は無いだろうが、万が一は常に想定しておかなければならない。
 その為にも、アリスは藤原宅に突入を開始した。
 靴を脱ぎ、それを揃える事も無く廊下を進む。
 折角底上げした身長が台無しになっているのだが、恋とは須く盲目である。
 ――今なら、リビングで朝ご飯かな?
 そう判断したアリスは、忍び足でリビングの前まで移動した。
 そして、ドアを僅かに開け、片目でこっそりと室内の様子を覗く。
 そこに居たのは、予想通り朝食の最中の藤原と、テーブルを挟んで向かいに座っている明だった。
 ――突撃! 隣の朝ご飯♪
 ノリが悪戯好きな小学生のそれになっているが、そんな事は気にせずにアリスは突入しようとした。
 が…………。
「……君が好きだから」
 ――……え?
 信じられない声が聞こえ、アリスは耳を疑う。
 今、リビングに居るのは、藤原と明だけの筈。
 その藤原からあの台詞が発せられたということは、つまり……。
 一旦ドアを閉め、アリスはそれにもたれ掛かった。
 慎まやかな胸に触れ、不協和音を奏でる心臓をなだめ、アリスは深く息をつく。
 ――な、何かの間違いだよね、きっと。
 そうだ、これは何かの間違いなのだ。勘違いなのだ。
 世界で一番藤原を愛している自分を差し置いて、他の女性に恋するなんて有り得ない。
 大体、こんな朝から告白イベントなんて起こる訳が無い。
 告白と言えば、基本的に夕方以降が定石ではないか。
 放課後の教室然り、夜闇と光が彩る噴水前然り、息を潜めた海神が見守る砂浜然り。
 朝っぱらから告白されては、ムードもへったくれもない。
 ――告白の勢いで夜伽も出来ないし、ね。
 どうにか平静を取り戻し、アリスは今度こそドアノブに手を伸ばす。
「何というか……夫婦みたいだな」
「えっ!? あ、あの、その言い方は……」
「端から見れば、明らかに仲の良い夫婦だろ」
「そ……そうなのかも……知れませんね」
 ――夫婦!?
 追い討ちをもろにくらい、アリスは暫し固まった。
 自分を落ち着かせるのに精一杯で、その間の会話は聞き取れていない。
 だが、今の会話は……。
 身体がわなわなと震え、怒りにも悲しみにも似た感情が胸中で暴れる。
 それが身体を飛び出した瞬間、発した声は、
「お幸せにぃいいいいいいいいいいいいいいッ!」
 何故か祝辞だった。
 それを叫びながら、アリスは藤原宅を飛び出す。
 やり場の無い感情と引き換えに、一粒の涙を残して。


「……という訳で、お兄ちゃんがいつの間にかアカリンルートまっしぐらだったんだよ」
 その日の放課後、アリスは早速三人――秋原、真琴、堀――を集めた。
 今日は将棋部が休みなので、藤原や夕は居らず、副部長である秋原の権限で部室を自由に使える。
 何としても対策を練り、あの泥棒猫を打ち破らなければ。
「心配無いっス、望月さん! 失恋した幼女の乙女心、私が一生かけて癒してあげるっス!」
「……もしかして、ツッコミの居ないボケ合戦?」
 早くも人選ミスを予感し、アリスは頭を抱えた。
 とは言え、こんな事、他の人には頼めない。
 一人の男性を愛してしまった以上、周りの女性は全て敵だ。
 そうなると、相談できる相手は限られてくる。
 子供しか愛せない真琴は、唯一安心して味方に出来る女性。
 藤原を良く知る秋原も、今回は欠かせない。
 そして……。
「……何で居るの、堀君?」
「呼んだのに!?」
 とにかく、この三人が頼みの綱だ。
「ふっ……それで良いのだ、アリス嬢。幼馴染たるもの、主人公に集る美少女には嫉妬せねば。明さんが本編で躍進したのだ。次はアリス嬢の番だな。なに、現美研の力を以てすれば、今以上の萌えキャラになるのは容易だ」
 早速、秋原が立ち上がる。
 明らかに育てゲー感覚だが、彼の萌えへの情熱は格別。
 アリスを、藤原好みの美少女にする事も容易いだろう。
 思えば、最近の自分は少々慢心していた。
 作中唯一の幼女だから、出番を減らされたりはしないだろうと油断していたのだ。
 それが、今はどうだろう。
 同じ胸無しキャラの夕が現れ、似非ロリキャラの梅田先生が現れ……。
 このままでは、新キャラの山に埋もれてしまう。
 最早、単なる藤原の取り合いではないのだ。
 ――お兄ちゃんの為なら、何だってするもん!
 二人の幸せな未来への期待に、アリスは胸を膨らませた。
 本当にそんなもので大きくなるのなら、誰も苦労しないが。


「さて、空白の二行で、部室を会議室っぽくしてみたわけだが……」
 部室の真ん中で四つの机をくっつけ、テーブルの代わりにした。
 アリスの隣が真琴で、真琴の向かいが堀。
 堀の隣が秋原なのだが、彼は用意したホワイトボードの傍に立っている。
「では、第一回アリス。をプロデュース……開始する」
 こうして、アリスが藤原に接近する為の会議が始まった。
「まずは、アリス嬢のスペックを改めて確認しておこう。望月アリス、明草高校の一年。俺と藤原の後輩で、真琴嬢と堀のクラスメイト。身長は百三十九センチ、胸はつるぺた、髪はツインテール……判り易い幼女だな」
「正確には、身長百三十八センチと七ミリ、胸はAに程遠いAAっス」
「好きな食べ物は甘い物全般。猫舌故に、熱い物を苦手とする」
「休日は、巨乳を夢見てマッサージしたり、身長を伸ばそうと懸垂したり、本番に備えてAVを見たりしているっス」
「……何でそこまで詳しいのかな?」
 アリスの問いは無視して、秋原はホワイトボードに書き込んでいく。
 ――絶対、盗撮とかされてるよね?
 彼らの人間性を疑うが、取り合えず今は後回しにする事にした。
「ここまで書けば明白だが、アリス嬢は天下御免のロリ属性……即ち幼女だ。背が高く、胸もたゆんたゆんな明さんとは、まるで正反対……。だが、敢えて俺は、これを武器に明さんに対抗しようと思う」
「異議無し! 幼いからこそ望月さんっス!」
 秋原の意見に、真琴は強く同意する。
 ある程度判っていた事とは言え、これは迷走を極めそうだ。
 ――ボク、一応高校生なんだけど……。
 幼女だのロリだのと立て続けに言われ、アリスは少し落ち込む。
 明の様に大きな胸も、夕の様にスレンダーな身体も持ち合わせていないので、言い返せないのが尚更虚しい。
「という訳で、だ。アリス嬢には、基本中の基本である『笑顔』を練習して貰おう」
「……笑顔?」
 秋原の言葉に、アリスは怪訝な表情を浮かべた。
 秋原の事だから、もっと過激な事をさせると思っていたのだ。
 そんなアリスの意を読んだのか、秋原は小さく笑う。
「ふっ……甘いな、アリス嬢。笑顔を疎かには出来んぞ。
大抵のギャルゲーの大抵のシナリオは、美少女の笑顔で終わる。ハッピーエンドに笑顔は外せんからな。それに、幼女に限らず、笑顔にはその人そのものが表れる。正統派ヒロインは満面の笑顔、クーデレなら上品に……といった具合にな。故に、笑顔を極める事は、ヒロインとしてのスペックを上げる一番の近道なのだ」
「近道……!」
 近道という言葉に、アリスは強く反応した。
 人は誰しも、近道という甘い誘惑には弱いものだ。
 『楽して儲かる』などといった甘言に引っかかる人が未だに後を絶たない事が、何よりの証拠である。
 そういう人は何かと騙され易いのだが、
「じゃあ、やってみようかな」
 無垢な幼女は、まさしくその類である。
「よし、決まりだ。となると、アリス嬢に合った笑い方だが……。アリス嬢の様な幼女は、大きく二つに分けられる。無口で儚げな薄幸の幼女と、無垢で明るい御転婆な幼女。言うまでもなく、アリス嬢は後者だ。そして、そんなアリス嬢の笑顔は……八重歯だ。八重歯を意識してみよ」
「うん、判った」
「ならば、実践あるのみだな」
 秋原に促され、アリスはホワイトボードの前、秋原の隣に移動した。
 子供のピアノの発表会でも見るかの様な視線で、真琴が見守る。
 その視線が余りにも強烈で、アリスは怖気付くが、いつか藤原を落とす為に踏ん張った。
「では……朝、玄関先で藤原を迎えて一言」
 秋原からお題が出され、アリスは集中する為に、そして真琴の視線から逃げる為に目を閉じる。
 大切な一日の始めだから、一番の笑顔で迎えなければ。
 演技だと思えば難しいが、大好きな人の為だと思えば容易い。
 軽く呼吸を整え、状況を思い浮かべ、無理に力を入れずに……。
「おはよう、お兄ちゃん♪」
 軽快な挨拶と同時に、アリスは爽やかな笑顔を見せる。
 口から覗かせる八重歯が、健全でありながら小悪魔的な幼さを醸し出していた。
 その後、数秒間沈黙する教室。
「ちぃいいいいいいいいいぶぅわぁああああああああッ!」
「うわぁああああたぁああああああべぇええええええええええッ!」
 それは、秋原と真琴の断末魔によって破られた。
 錐揉みながら吹っ飛ぶ秋原。
 新婚夫婦の痴話話を聞いた落語家の様に椅子から転落する真琴。
 どちらも、全てを成し遂げた様な安らかな顔で果てた。
「最近、やたらリアクションがオーバーになってる気がするんだけど……」
 そんな二人を見て、アリスは呆れながら呟く。
 彼らならいずれ、さぞかし幸せな萌死にが出来るのだろう。
 あるいは、末代まで恥じる様な恥ずかしい死に方かも知れないが。
「秋原先輩! 新谷さん!」
 ここにきてようやく二言目を発した堀が、秋原に駆け寄る。
 この場面だけ見れば、戦争物の映画でも見ている様だ。
「ふっ……堀よ、俺は……些か慢心していた様だ。これは……人類が……扱える代物ではなかった……。永久に神の御許に……在る……べき……」
「……先輩? 先輩!?」
 シリアスっぽいやり取りだが、少し前の出来事を思えば、とてもそんな風に考える事は出来ない。
 秋原を断念した堀は、今度は真琴に駆け寄った。
 すっかり世界感が出来上がってる様なので、アリスはゲンナリしながら顛末を見守る。
「新谷さん! しっかりして下さい!」
「嗚呼……堀さんが……相方だけがブレイクした若手芸人……みたい……に……見え……」
「新谷さん!? 新谷さん!」
 ――それは元々だと思うんだけどなぁ……。
 完全に成り切っている二人を尻目に、アリスは心の中で呟いた。
 真琴がガクリと力尽きると、堀は悲痛な声で叫ぶ。
「どうして、人間はいつまでも萌えを繰り返すんですか!?」
 最早意味がわからない。
 それにしても、堀が目立つ為に必死である。
 三人も一度にボケられては、普段ツッコまないアリスには為す術も無い。
 一通りやり終えると、秋原と真琴が何事も無かったかの様に立ち上がる。
 そして、三人がそれぞれ二人の方を見て、親指を立てた拳を突き出し、同時に言った。
「Good job!」
 ――もう、ついて行けないや……。


「何はともあれ、笑顔は合格だ。涙は漢を引き寄せるが、繋ぎ止めるのは笑顔の役目。併用出来れば、これ程心強いことはあるまい。まあ、喜怒哀楽の激しいアリス嬢には、今更な話であろうがな」
 アリスの笑顔の破壊力の余韻に浸りつつ、秋原は進行を続ける。
 真琴は、萌死に直前にデジカメで撮ったアリスの笑顔を、嬉々として眺めていた。
 ――ひょっとして、自分が楽しんでるだけ……?
 懐疑心が少しずつ膨らみ始めるアリス。
 秋原は徐に携帯電話を取り出し、どこかに電話を始める。
「……俺だ。少々頼みたいことがあってな。B−19番ロッカーに入っている物を持ってきてほしいのだが……そうか、済まんな。手芸部の連中に管理を委ねておるから、頼めば出してくれるであろう。将棋部の隣まで頼む。アリス嬢が目印だ。――うむ、いつも話している幼女だ。すぐ判る」
 通話を終え、秋原は携帯を仕舞う。
「次は、着こなしの修行をして貰おう。女性の歴史は美の歴史。衣類の種類は億千万。それらを使いこなす事が出来れば、女性として深みが出るであろう」
「言ってる事は説得力あるけど……」
 さっきがさっきなので、アリスはやや躊躇いつつも頷いた。
 女として、綺麗な服を格好良く着こなしたいとは思う。
 スタイルこそやや控えめだが、自分に似合う服はある筈だ。
 だが、秋原や真琴に任せて、果たしてそれが叶うのだろうか。
「今回は、俺が服を用意した。直に隣の空き教室に届くであろう。向こうで着替え、こちらでお披露目、という形でいく」
「じゃあ、向こうで用意してくるね」
 疑いは晴れないが、アリスは隣の空き教室へ向かう。
「望月さん、私が手伝うっス!」
「絶対イヤ!」


 数分後、アリスが隣から戻ってきた。
 制服の上から重ねているのは、一枚のエプロン。
 布は白く、腹部辺りに有袋類の様にポケットが付いている。
 数箇所に縫い付けてある動物のアップリケが、幼さを醸し出していて可愛らしい。
 後ろ手では上手く結べなかったらしく、背中の蝶々結びは少し歪だった。
「えっと……アッキー……これって……?」
 予想外の展開に、戸惑いを隠せないアリス。
 着こなしというから、どんな服だろうと思っていたのに。
 これでは、ただのコスプレではないか。
 しかも、エプロンを纏っただけである。
 しかし、コスプレとはいえ服は服。
 これくらい着こなせなければ、どんな服も着られないだろう。
 そう思ったアリスは、ここは堪える事にした。
「エプロンっスか。初めて料理に挑戦する愛娘みたいで可愛いっス!」
 真琴が絶賛するが、『娘』という単語が出てきた時点でおかしい。
「慌てるな、真琴嬢。目先の萌えに囚われ、もののあはれに気付かぬは素人だ。モザイクすら無に帰すその炯眼で、もう一度見てみるが良い」
 秋原に言われ、怪訝な表情を浮かべつつも、真琴はアリスを注意深く見つめる。
 何を思ったのか、スカートの中まで見ようとしたので、アリスは必死になって抵抗した。
 そして、何かに気付き、真琴の表情に驚きが加わる。
「気付いたか。そう、これはただのエプロンではない……制服エプロンだ」
「制服……エプロン……!」
 無駄に物々しい空気に、アリスは何も言えなかった。
 蚊帳の外、という表現がぴったりである。
「制服エプロンは、アリス嬢が持つ属性『幼馴染み』と大変相性が良いのだ。毎朝主人公を起こしに来てくれ、朝食まで作ってくれる世話好きな幼馴染み。それがエプロンを纏えば、その姿はさながら新妻だ」
「素晴らしいっス! 制服にエプロンというパラドックスが堪らないっス!」
「ふむ……確かに、制服とエプロンは、一見矛盾している様に見える。制服は学生の象徴で、エプロンは家庭の象徴だからな。だがな、真琴嬢。何か大切な事を見落としてはおらんか?」
「……と、言いますと?」
 首を傾げる真琴に、秋原は肩をすくめた。
「制服とエプロンは、決して矛盾した存在ではないのだ。何故なら、学園物には定番のイベント……即ち調理実習があるからだ」
「あっ……!?」
 秋原の言葉に、真琴は再び驚きを隠せなかった。
 この二人を見ていると、さながら師弟の様だ。
「調理実習では、全ての生徒が制服エプロンになる。まあ、クラスに一人くらいは、エプロンを忘れる者が居るがな。調理実習室という名の楽園で舞う乙女達は、理屈抜きで美しい。プロ顔負けの達人はもちろん、レンジを爆発させるドジッ娘もな。そんな彼女達の思いの詰まった料理が食べられるからこそ、漢達は皿洗いに追いやられても文句を言わないのだ。エプロンを纏った美少女達の姿を見て、将来の家庭像を妄想する。これこそがが調理実習の醍醐味と言っても過言ではない」
「制服の上からエプロンを纏っただけで、これ程の萌えが溢れているなんて……! 流石は秋原先輩、私なんてまだまだ足元にも及ばないっス」
 滾々と溢れる湧き水の如く萌えを語る秋原に、真琴は深々と溜息を吐いた。
 藤原が普段吐いている溜息とは違う意味のそれだ。
「崇めるべきは俺ではない! 萌えだ! エロだ! 美少女だ! 人の歴史は、女性に魅入られた漢達が動かすもの。その証拠に、トロイア戦争、赤壁の戦、安史の乱と、美女が絡んだ歴史的事件は少なくない。即ち、美少女とは神より賜はれし絶対的且つ圧倒的存在なのだ! さあ、真琴嬢。アニソンという名の讃美歌を、共に叫ぼうではないか!」
「はい! オールナイトで是非!」
 こうして、宗教紛いの耽美な世界へ、更に深く沈みこんでいく真琴であった。
 ――この二人、ある意味スゴくお似合いだよね……。
 延々と萌え話を続ける二人に、アリスは呆れるばかりだ。
 自分の為に始まったはずなのに、すっかり二人きりで楽しんでしまっている。
 ――でも、ちょっと、羨ましいな……。
 呆れる一方で、羨望の眼差しを向けるアリス。
 ほんの少し前までは、自分も、藤原と登校しながら話をしていたのに。
 ツッコミを交えつつ、藤原は自分のどんな話も聞いてくれた。
 魔術師としての修行の話や、最近見たAVの話まで。
 後者の時は、照れ隠しなのかどつかれてしまったが。
 昔から、藤原は自分の色々な事を許容してくれた。
 自分が魔術師である事も、それを隠していた事も。
 そんな彼を心から愛している事は、今も変わらない。
 なのに、何故、明に彼を寝取られてしまったのだろうか。
 ――やっぱり、家庭的なコの方が良いのかな……?
 鏡越しに、自分の制服エプロン姿を見るアリス。
 確かに、我ながら可愛いとは思うが……何故だろう。
 明のエプロンドレス姿の様な、身を委ねられる温かさを感じないのだ。
 制服エプロンとメイド服が全くの別物である事は、もちろん承知している。
 それでも、自分のエプロン姿は、コスプレ以上のものを感じない。
 これが、自分と明の……子供と大人の差なのだろうか。
 だとしたら、自分ではとても敵わない。
 明は、自分より四年も早く生まれているのだ。
 十代二十代のうちは、四年も違えば雲泥の差がある。
 その差で負けたのならば、自分は……。
「後ろ向きになれば、きりが無いのではないか?」
 どうやって察したのか、秋原がアリスに声を掛けた。
 首を傾げるアリスの肩に手を置き、更に続ける。
「言ったであろう。アリス嬢は、幼さこそが武器だと。時として、コンプレックスは魅力になり得るのだ。某ネコ型ロボットの中の人(旧)も、昔は自分の声が嫌だったらしいしな。俺や真琴嬢は、今のアリス嬢に萌えておるのだ。我々の為にも、無闇に己を卑下するでない」
「アッキー……」
 秋原の言葉に、アリスは胸が熱くなった。
 何だかんだ言って、自分の事を思ってくれていたのだ。
 とんでもない人達を頼ってしまった、などと思っていた自分が情けない。
 彼らも、今では大切な存在なのだ。
「次の服は、幼さを上手く引き立ててくれる筈だ。さあ、青春は待ってくれんぞ」
「うん!」
 秋原に促され、アリスは次の服に着替えに行った。
「……しまった。エプロンを着せたのに料理をさせんとは……不覚!」
「私、連れ戻してくるっス」
「お願いですから止めて下さい! 料理だけは! それだけは!」


「……アッキー。ボクは言いたい事、判るよね?」
 戻ってきたアリスは、不満そうな表情をしていた。
 その頭に付けているのは、黒い毛が柔らかそうな猫の耳。
 両手は、肉球も再現されていて、つい触りたくなってしまいそうな猫の手になっている。
 首輪や尻尾まで付いていて、その姿はさながら黒猫だ。
「ふむ。魔女っ娘といえば黒猫だと思っていたのだが……気に食わんか?」
「そうじゃなくて……まず、これ、そもそも服じゃないよね? 着ぐるみなら百歩譲ったとしても、猫耳猫尻尾猫パンチだもん。アクセサリーだもん」
 前提から間違えている秋原に、アリスは文句たらたらだった。
 エプロンならまだしも、こんな物を着ける機会などある訳が無い。
「ふっ……案ずるな、アリス嬢。理由はちゃんとある」
 軽く流すと、秋原はホワイトボードに書き込みながら話を始めた。
「まず、猫は今や愛玩動物だ。現代日本では鼠など、千葉県なのに『東京』と銘打っている某所でしか見んしな。特に、子猫の愛くるしさは堪らん。最早犯罪レベルだ。俺の知り合いも、ペットショップでは子猫ばかし見ているらしいしな」
 数学の複雑な式の様な、難しい何かでホワイトボードが埋められていく。
 一息吐いて、秋原は更に続けた。
「そして、幼女もまた愛くるしい存在。抱きしめたくなる無垢な瞳は、愛玩動物に通じるものがある。つまり、幼女と猫は、非常に近い存在なのだ。ならば、それぞれの良いところを混ぜようと考えるのは自然な流れ。アリス嬢の良いところを殺さずに、猫を混ぜるとなると……」
 そこで口を止め、秋原は水性ペンを持った手を離す。
 ホワイトボードに書かれた式の様なものは、『猫耳猫尻尾猫パンチ』で終わっていた。
「……こうなる。ちなみに、首輪は俺なりの隠し味だ」
「全然納得できないのに、言い返せないのは何でだろう……?」
 答えになっていない答えに、釈然としない思いを抱くアリスであった。
 ひとまずアリスを説き伏せた秋原は次の段階へ移る。
「まあ、とにかく最後まで付き合ってくれ。猫の魅力の一つとして、甘えるのが上手いという点に俺は着目した。素っ気無い態度を取りつつも、都合の良い時に擦り寄ってくる。そんな憎めないところが、常に飼い主に忠実な犬との大きな違いであろう。明さんはプロのメイド。その姿は忠実な飼い犬に置き換えても違和感が無い。それも、血統書付きのレトリバーぐらいハイスペックな、だ。アリス嬢が下手に追随したところで、まず敵わんであろうな。そこで、『犬』は明さんに譲り、アリス嬢は甘え上手な『猫』になるのだ。乙女がシンデレラストーリーを夢見る様に、漢はヒーローを夢見る。可愛らしいヒロインを格好良く護りたいと、誰もが願っておるのだ。それを現実に当てはめれば、一番近いのが『甘えられたい』となる。即ち、甘えるという行為を極めれば、如何な漢も一撃という訳だ」
「……もしかして、猫っぽく甘えろって事?」
「ふっ……ご名答」
 かなり安直な結論に、アリスは溜息を吐いた。
 何度も疑ってはいたが、もう確信出来る。
 彼らは、自分自身が楽しむ事が第一なのだと。
 これで本当に藤原が振り向くのなら、別に構わない。
 だが、こんな事をしていて、本当にそれが叶うのだろうか。
 さっきも同じ事を考えた辺り、これはもう泥舟なのかもしれない。
「……藤原先輩に、頭撫でて貰えるっスよ?」
「う…………」
 アリスの懐疑心に気付いたのか、真琴が甘く囁く。
 確かに、猫の様な愛玩動物なら、躊躇い無く撫でて貰えるだろう。
 今でもたまに撫でて貰えるが、もっと撫でて欲しいと願うのは当然だ。
「顎の下なんかも、撫でて貰えるっスね」
「うぅ…………」
 更に甘言を仄めかす真琴に、狼狽を隠せないアリス。
 猫といえば、顎の下を撫でるのが定番だ。
 ゴロゴロと気持ち良さそうに喉を鳴らしているのだから、さぞかし気持ち良いに違いない。
「膝の上で寝かせてくれるかも知れないっス」
「ひ、ヒザ……ッ!?」
 日向の縁側、藤原の膝元で、頭や顎の下を撫でてもらいながら眠る。
 そんな光景が脳裏に浮かび、アリスの瞳がトロンととろけた。
 ――し、幸せ過ぎる……!
 大好きな人と、そんな緩慢な時間が過ごせるなんて。
 もう、秋原や真琴の思惑なんてどうでも良い。
 全ては、藤原と過ごす時間の為に。
「じゃ、じゃあ……やってあげようかな」
 こうして、アリスは煩悩の渦へ引きずり込まれていった。
 あくまで猫だからして貰える事であって、人がして貰えるかは定かでないのだが、都合の悪い事は考えないのが若さである。
「よし。ならば、今回はアリス嬢に任せよう。シチュエーションや仕草に関して、我々は口出しせぬ。とにかく、自分が一番だと思う甘え方をしてみよ」
「うん、判った」
 秋原に言われ、アリスは再び目を閉じ、手を胸に添えた。
 大好きな彼に甘えたい時、何をすれば良いのだろう。
 どうすれば、自分の欲求を彼にぶつけられるだろう。
 狂おしい程のこの想いを、彼に伝えたい。
 熱く脈打つこの胸は、とにかく彼を求めている。
 彼に、いつまでも触れていたい。
 一億の甘い囁きと、百年の温もりさえあれば、他に何も入らない。
 愛しさで胸がいっぱいになった時、アリスは目を開いた。
 秋原の腕にギュッと抱きつき、伏し目がちに見つめる。
 添え木に絡まる蔓の様に、傍にさえ居れば誰でも良かった様だ。
 アリスに釘付けになってしまった秋原。
 羨望の眼差しを秋原に向ける真琴。
 独り占めするが如く抱きつく力を強め、アリスは囁く。
「ご主人様……頭……なでなでして欲しい……にゃあ」
 その瞬間、教室中の何もかもが停止した。
 吐息の音さえ聞こえない無音が、数秒間続く。
 そしてそれらは、失った時を取り戻すかの様に、慌しく動き出した。
 その場で力尽き、崩れ落ちる秋原。
 興奮気味に、真琴はアリスに飛びついた。
 突然の事で、アリスは抵抗すらままならない。
 堀は、倒れた秋原に駆け寄り、懸命に揺さぶった。
「先輩!? 立って下さい! 先輩!」
「萌え尽きた……真っ白な廃になっちまったよ……」
「くぁ――――! 可愛過ぎるっス! うちで飼いたいっス!」
「マコちゃんに撫でられたかったワケじゃないんだけど……」


「ふと、思ったのだが……」
 アリスが次の服に着替えている最中、蘇った秋原は呟く様に言った。
 猫アリスを抱きしめた余韻に浸っている真琴と、そろそろ帰りたくなってきた堀が、秋原の方を向く。
「……何故、アリス嬢は向こうで着替えておるのだ?」
 余りにも突飛な発言に、少しの間、教室が静まり返った。
「何故って……先輩がそう言ったんですけど」
「その通りだ、堀。故に、俺は己自身に問う」
 そう言って、秋原は机を思い切り叩いて立ち上がった。
 いきり立つ秋原に、真琴と堀は声を呑む。
「何故! 何故俺は、アリス嬢を見えない所で着替えさせたのだ!? この手の小説において、白けない程度のお色気は必須! 着替えシーンは、その際たる物ではないか! 読者に萌えと冒険と興奮を提供するのが、我々の最たる役目。少年誌すら乳首券を発行する昨今、基本中の基本を忘れ、エプロンや猫耳に現を抜かすとは……不覚!」
「つまり……望月さんに、ここで着替えて貰うという事ですか?」
 本気で後悔する秋原に、堀は若干引き気味に尋ねた。
 実行したら捕まるのは明白なので、堀としては否定して欲しいのだが。
「ふっ……ご名答だ。今日の貴様、なかなか目立っておるな」
「いえ、先輩程では」
 逃げ出したい衝動に駆られ、堀は頭を抱えた。
 藤原が居ない所為か、今日は全員が自由過ぎる。
 藤原が将棋部の部長に座する理由が、何となく判った堀であった。
「よし、アリス嬢をここに移動させるとしよう。読者サービスになる上、我々も視姦を堪能出来る……まさに一石二鳥だ」
「ほ、本気ですか先輩!? 駄目ですよ、捕まりますよ!」
 教室を出ようとする秋原を、堀は慌てて引き止めた。
 目立つ為に、二人にある程度合わせていたが、これは流石にやり過ぎだ。
 このままでは、秋原を主犯に全員が捕まってしまう。
 質素ながらも、平凡な毎日の為に、堀は必死だった。
「止めてくれるな、堀。愛とは躊躇わない事なのだ。これこそが俺の愛!」
「宇宙刑事みたいな事言わないで下さい! 捕まる側ですよ!?」
「案ずる事はない。コメディなら精々ボコボコにされる程度であろう」
「それが嫌だって言ってるんです!」
「解せん奴だな。幼女の着替えシーンに遭遇して負った名誉の傷であれば、末代まで誇る事が出来るであろう」
「駄目だこの人……早く何とかしないと。新谷さん、女性として何か言って下さい!」
 収拾がつかないので、堀は真琴に呼びかける。
 ロリショタと正義をこよなく愛する真琴なら、秋原の悪行を無視出来ないだろう。
 その上、秋原曰く、真琴はハイスペックな後輩キャラ。
 そんな彼女の言葉なら、秋原にも届くかも知れない。
「秋原先輩! それには異議を申し立てるっス!」
 反対の意思を表明する真琴に、堀は安堵した。
 これで二対一。多数決では必勝である。
 その上、真琴を擁したのなら、秋原も引き下がるを得ない筈。
 やや特異な性癖を持つ真琴故に、秋原側に付くのではと懸念したが、どうやら杞憂だったらしい。
「衣擦れの音に胸ときめかせ、見えそうで見えないアングルに興奮するのが生着替えの醍醐味っス。もろに見えたら台無しっスよ! それなら、DVDや愛知版や盗撮で十分っス!」
「……まあ、予想はしてましたけどね」
 こうして堀の期待は、数秒と経たずに裏切られてしまった。
 正義だ何だと普段から言っておいて、盗撮とはどういう事なのだろうか。
 これも、割といつもの事なので、今更殊更に驚く事もないのだが。
「ふむ、一理あるな。ならば、擦りガラスを用意しよう。真琴嬢は、擦りガラスを挟んで見るが良い。我々は直に見る」
「そういう問題じゃないですから! と言うより、『我々』って僕込みですか!?」
 案の定巻き込もうとする秋原に、堀は懸命にツッコむ。
 藤原の様な手練のものではなかったが、それ故に熱だけは勝っていた。
「私、どちらかと言うとシルエット派っス」
「だから捕まりますってぇええええええええええええッ!」
 かくして、後の世のツッコミを担う若き芽は、今日も戦うのである。


「えっと……とりあえず、堀君にお礼言った方が良いのかな?」
 次の服に着替えたアリスは、教室に戻るや否や、力尽きた堀を目の当たりにした。
 空白の時間に何が起きたのかは知らないが、何食わぬ顔でいる二人が何かしようとしていた事は充分察せる。
 証拠が無いので問い詰めることが出来ないのが残念だが、より一層の警戒を警戒を心掛ける事にしよう。
「さあ、アリス嬢! その無粋なタオルを脱ぎ捨て、幼い肢体を解き放つのだ!」
「うぅ……」
 とかくテンションの高い秋原に、アリスはそれを躊躇う。
 校舎内では余りに恥ずかしい格好なので、タオルを羽織って隠しているのだ。
 タオル一枚という格好も充分恥ずかしいのだが、そこまで頭が回るアリスではない。
 あくまで立場の差があるだけで、ここにいる四人の中に、生粋のツッコミ役は一人としていないのだ。
 極力タオルを脱ぎたくないアリスだが、秋原と真琴が向ける期待の眼差しが突き刺さる。
 それは決して健全なものではない筈なのだが、余りにも直球なのでたじろいでしまう。
 何よりこのままの姿でいれば、もしかして下には何も着ていないのではと妄想されそうで恐ろしい。
 やむを得ず、アリスは羽織っていたタオルを脱ぎ捨てた。
 そうしてアリスが晒したのは、幼いスクール水着姿。
 ダブルフロントが印象的な旧型で、色はオーソドックスな紺だ。
 胸には、『ありす』と書かれたゼッケンが刺繍されている。
 肩や尻の食い込み具合も絶妙で、その姿そのものが芸術の域に達していた。
 脇に鎖骨に生足と、様々なフェティシズムに応える姿が、そこにある。
 夕方の日差しがアリスを照らし、さながら放課後のプールサイドの様な演出だった。
「くぁ――――――! まさか、望月さんのスク水が拝めるなんて! 私、感動と興奮で涙と鼻血が止まらないっス!」
「良い、実に良いぞ、アリス嬢。やはりスク水はつるぺたにこそ似合うものだな。水着イベントは、それだけでアニメ一本になる程のテコ入れ要員だ。苦情が来ない程度の健全なエロスで、主人公と視聴者の心と股間を鷲掴みにする。これが出来ずして、ヒロインを自負する事は出来まい」
 褒めちぎりながら、秋原はアリスを撮影し始めた。
 負けじと、真琴も鼻血を抑えながらカメラを構える。
「水着は良いとして……何でスク水なのかな?」
 身体を腕で隠しながら、アリスは尋ねた。
 水着の出番といえば、やはり夏の海だろう。
 情欲を煽る砂浜、出会いを演出する海、悪戯な太陽、二人の距離を縮める波、そして恋は花火の様に……。
 そんな一夏のアバンチュールも、スクール水着では台無しである。
 コスプレ物のAVではないのだから、もっと可愛い水着がある筈だ。
「アリス嬢、人には得手不得手というものがある。仮に、アリス嬢が普通の水着を着たとしよう。しかし、アリス嬢には強調する胸が無い。魅せるウエストラインも無い。つるぺた幼児体型でそんな物を着たところで、自虐以外の何物でも」
「うわぁああああああああああああああああん!」
 秋原が言い切る前に、アリスは教室を飛び出して行ってしまった。
 どうやら、突き付けられた現実が、相当堪えた様だ。
 水着姿を校内中に晒すのだから、泣きっ面に蜂である。
「ふむ……『つるぺたでビキニも、それはそれでギャップがあって萌える』と続けるつもりだったのだが」
 何のフォローにもなっていないが、堀が力尽きている今、誰もツッコむ事はない。
「乙女心は複雑っスからね。他人の話を最後まで聞けない年頃っスよ。はぁ……水に濡らせたり、食い込みを直させたり、肩紐をずらしたりしたかったっス……」
 心底残念そうに言い、真琴は溜息を吐いた。
 脱がす事を全く考えていないのが、何とも粋である。
 相手の同意を一切得ていないものの、無理矢理もなかなか乙なものだ。
「まあ、そうしけた顔をするでない。これで、真琴嬢のたっての願いが叶ったのだからな」
「…………? 私、何かお願いしたっスか?」
 秋原の言葉に、真琴は首を傾げる。
「なんと、忘れたと言うのか。真琴嬢に頼まれて、この時までスク水を預かっておったのだぞ」
「――あ! お、思い出したっス……あのスク水は……!」
 真琴の身体が、わなわなと震える。
 胸の奥から湧き出る興奮が、全身を満たしている様だ。
 そして、秋原がそれに着火する。
「そう……アリス嬢が着たスク水は、かつて真琴嬢が着用していた物だ」
「ふんぬはぁあああああああああああああああああああああッ!」
 歓喜の咆哮が、教室の隔たりをも越えて響き渡った。
 熱を帯びたあらゆる感情が溢れ出す余り、言葉にすらならない様だ。
 全てを解き放ち、真琴は放心する。
 それは、さながら真っ白に燃え尽きたボクサーの様であった。
「おお、真琴嬢よ。萌え死んでしまうとは情けない。だが、その気持ち、俺は理解して余りある。かつて自分が着ていた服を、愛らしい幼女が着ている……興奮して当然だ。しかも、水着は直に身に着ける物。これはある意味、間接キスに近い。間接キス……何と背徳的で甘酸っぱい響きであろうか。経験の無い学生にとって、これ程胸躍るものは無かろう。俺が小学生の頃など、月に二回は女子の縦笛が盗まれたものだ」
「それって、要するに無法地帯じゃないんですか?」
 若き日の回想に浸る秋原に、真琴と入れ替わる様に復活した堀が問う。
 果たしてその回数に、秋原自身は含まれているのだろうか。
 そんな事を堀が考えている最中、廊下から物音がする。
 三人が音のした方を向くと、そこにいたのは、
「…………」
 呆然と立ち竦んでいるアリスだった。
 恐らく、戻ってきたところで話が聞こえたのだろう。
 次第に血の気が引き、身体が震えているのが判る。
 水着一枚で寒いから、ではないらしい。
 今すぐにでも脱ぎ捨てたいという防衛本能と、ここで脱ぐ訳にはいかないという理性がせめぎ合っている様だ。
 拮抗状態だったそれらが、ふとした拍子に爆発する。
「うわぁああああああああああああああああああああああああああああん!」
 悲鳴にも似た声を上げ、アリスは隣の教室に飛び込んでいった。
「私のお下がりを嫌がるなんて……もしかして、昔はお下がりばかり着せられてた、とかっスかね?」
「よもや、実は姉がいるなどという後付け設定ではあるまいな……余りにも強引が過ぎるぞ。……否。もしかすると、敢えて妹かも知れん。それも、アリス嬢より発育の良い、な。姉より発育の良い妹は、この手の業界では常套手段。生物学など、元より眼中に無い。あらゆる方面で妹より小さい事を気にする姉……うむ、なかなかどうして萌えるな。妹のお下がりを着せられるという屈辱を味わう様も、実に微笑ましい。巨乳分が若干欠乏しているこの小説に於いては、貴重な人材となるやも知れんな」
「それ以前の問題だと思うんですけど……」
 加害者の自覚が皆無な二人に、堀はそれ以上何も言えなかった。
 馬に念仏が理解出来ない様に、この二人にモラルは理解出来ないのだ。


「……新品だよね!? これ、新品だよね!?」
 先程の件が余程ショックだったらしく、次の服に着替えたアリスは、涙目で秋原に詰め寄っていた。
 そんなに嫌なら帰れば良いのだが、頭に血が上ったアリスに、冷静な判断など不可能だ。
 秋原が用意した服は、単純明快なワイシャツ一枚。
 アリスの身の丈には明らかに大きく、袖がかなり余っている。
 下半身まで覆う一方、横から露出する生足は眩しい。
 上のボタンはいくつか外されており、いっそ下の方まで外したい衝動に駆られそうだ。
 胸元に谷間は一切見受けられず、果てしない平地が続いていた。
 人前に晒すには充分恥ずかしい姿なのだが、スクール水着を着せられたアリスは、感覚が麻痺してしまった様だ。
「あの……先輩。望月さん、上半身しか着ていない気がするんですけど」
 アリスに視線を向けるのを躊躇いながら、堀は秋原に尋ねた。
 セックスアピールの欠片も無いとは言え、十六歳の少女にさせて良い格好ではない。
 本当はもう少し強めに言いたいが、やはり控えめになってしまうのが地味キャラの性だ。
「服なんて飾りっス! 偉い人にはそれが解らないっス!」
 そんな堀に、真琴が答える。
 ワイシャツ姿のアリスに興奮気味で、デジカメのシャッターを惜しみなく連打していた。
「着こなしの練習じゃなかったんですか……?」
 趣旨を根本から否定する真琴の発言に、堀は呆れるしかなかった。
 結局のところ、自分達の欲望さえ満たせれば、アリスの件はどうでも良いらしい。
「まあ慌てるな、堀。これも立派な着こなしだ」
 飴玉でアリスを宥めた秋原が、堀に反論する。
 当のアリスはすっかり飴玉の虜で、舐め終わるまで会話に参加しそうにない。
 至福のイチゴ味に浸り、恐らく声すら届かないだろう。
「これは俗に裸ワイシャツと言い、ワイシャツ一枚で完成するのだ。例えば、ミロのヴィーナスは両腕が欠けているにも拘らず、至高の彫刻として名を馳せている。ならば、裸ワイシャツがスカートやパンツを履かなくとも不思議ではあるまい」
「後者は警察沙汰ですけどね」
 ここが公の場である事が一番の問題なのだが、その辺りに触れるつもりはないらしい。
 向こう見ずな秋原の話は、まだまだ続く。
「これの良いところは、果てしなく見えそうなのに見えないところだ。しかも、前後が長いという形状のお陰で、横から太股を大胆に見せる事が出来る。同じ事をワンピースでやろうとしたなら、丈が短くなり過ぎて、どうしてもあざとくなる。恐らく、ワンピースがあくまで上下共に隠す為に作られた物であるからであろうな。だが、ワイシャツは本来上半身のみを隠す物。しかも男物だ。スカートとしての丈が短くとも、文句を言われる筋合いは無い。故に、スカート以上に丈を削る事が出来、究極のチラリズムを求める事が出来る」
「……そもそも、ワイシャツ一枚って時点で充分あざと」
 堀は何か言おうとしたが、どこからか凄まじい殺気を感じ、息と共に言葉を飲み込んだ。
 どうやら、これは声優の年齢に並ぶ禁句らしい。
「美少女が男物の服を着ているという点も着目すべきだな。先程も言ったが、かつて自分が着ていた服を、美少女が着るというシチュエーションは実に良い。だが、同姓はともかく、我々漢がそれを実現するのは困難だ。その中で、ワイシャツは現実味を帯びた数少ない服。言わば、これは漢のロマン。裸エプロンと並び、嫁に一度は着せてみたい夢なのだ。それをアリス嬢が着たとなれば、藤原も嫁にせざるを得まい」
「既成事実でも作るんですか……」
 ツッコミどころ満載な秋原に、堀は却ってツッコむ事が出来なかった。
 ワイシャツに思い入れがある事は充分解ったが、それが倫理的に認められるかは別問題だ。
 しかし、世の常は多数派によって決まるものであり、現在のそれは秋原である。
「うーん……先輩の意見には概ね同意なんスけど……」
 どこか納得のいかない様子の真琴が、アリスに歩み寄る。
 飴玉に夢中で、無防備な姿をさらすアリス。
 そんな彼女を狙う真琴は、さながら獣だ。
 それも、爪と気配を隠し、音も立てずに忍び寄る猫である。
 飴を舐め終わり、ようやくアリスが気づいた時には、既に手遅れであった。
 無防備なまま、真琴の射程圏内に入ってしまったのだから。
「私は、こっちの方が良いと思うっス」
「え……う、うわああああああああああ!?」
 ワイシャツのボタンを外し始めた真琴に、アリスは悲鳴を上げる。
 そんな事はものともせずに、真琴は手馴れた手つきでボタンを外していった。
 最後の一つが外れ、全てが露になろうとした時、アリスは慌ててワイシャツを手で押さえ、真琴を突き飛ばした。
「な、な、ななな……!?」
 言葉にすらならないらしく、アリスは涙目を真琴に向ける。
「突き飛ばすなんてヒドいっスよー。私はただ、上より下のボタンを外した方が萌えると思っただけっス」
「だったら、せめて先に上を留めてよ! 何で全部外すの!?」
「一瞬のエロスも乙なものっスよ」
 あくまで反省しない真琴に、アリスは爆発寸前だった。
 貞操の危機に直面しただけあって、飴玉では済みそうにない。
 一方真琴は、アリスの膨れっ面に萌えていた。
「まあ待て、二人共。焦りは禁物だ」
 それを知ってか知らずか、秋原が二人の間に割って入る。
「真琴嬢……俺もその気持ちは解るぞ。下のボタンを外せば、臍と下半身が露になる。平らな胸元も捨てがたいが、人の考えというものは、結局下半身に直結するもの。しかし、欲望に流されるままに脱がすは尚早。頭の悪いAVがする事だ。例えば、今、アリス嬢の下半身を露にし、下着が見えたとしよう。確かに、パンチラに興奮するは世の理。実に自然な事だ。しかし、裏返すと……『穿いてない』という可能性の否定に他ならぬ」
「あっ……!」
 秋原の言葉に、真琴ははっとさせられていた。
 一触即発の危機も、秋原にとっては大した問題ではない。
 アリスの戦意を削ぎ取りながら、秋原の話は続く。
「穿いてない……何と甘美で趣深い響きであろうか。聖地と俗世を隔てる物が、布一枚でしかないとなれば、誰もが覗いてみたくなる。しかし、手に届きそうな星が遥か彼方にある様に、その一枚が越えられない。近過ぎる故に遠い距離、なればこそ沸き起こる探究心……。例え証拠が無くとも、それを想像するだけで堪らぬ。一時の快楽の為だけに、その可能性を否定される事が、俺はとても悲しい。漢とは、いつまでも浪漫と美少女を追い続ける生き物。スカートを穿いている美少女全てが、実は穿いていないと信じているのだ」
「アッキー……流石にそれはちょっとヒクよ……」
 秋原の衝撃発言に、アリスは思わず一歩下がる。
 自分も含まれているかも知れないのに、真琴は共感するのみだった。
「かつて、イギリスのネス湖にて、ネッシーを求め大規模な調査が行われた事があった。しかし、ネッシーは見つからなかった……果たして、一体誰が得をしたであろうか。世の中には、有耶無耶にしておいた方が良い事もある。『永遠の十七歳を自称する声優は本当に十七歳か否か』等が、その際たるものだ。事実か否かが問題なのではない。信じるか否かが肝要なのだ。それを弁えず、全ての事象に答えを求める……まさに愚か者の極みなり」
「先輩は、そこまで考えて、上のボタンを外したんスね。人類最後の秘境を見たいばかりに、私は……」
 秋原の深謀遠慮を前に、真琴は打ちひしがれていた。
 聳え立つ二人だけの世界に、アリスや堀は近づく事さえ出来ない。
「そう落ち込むでない、真琴嬢。パンチラを全否定する程、俺も無粋ではない。この話は、裏返すと、真琴嬢の肩を持つのだからな」
「と、言いますと……?」
「下着が見えると『穿いてない』という浪漫が消えてしまう……。言い換えれば、下着を見せる事で『穿いてない』という不健全な発想を排除する事が出来るのだ」
「あっ……あぁあああああああああッ!」
 秋原が提示した逆転の発想に、真琴は全身に稲妻が走るかの様な衝撃を受けた。
 一見不健全と思えるそれが、実は健全な描写だった。
 真琴にとっては、人生観さえ変えかねない発見だ。
「少年漫画でよくあるパンチラは、確かに少年には充分な色気だ。スカート捲りという伝統が廃れた今、リアルでは滅多にお目にかかれんからな。しかし、それは同時に『下着を穿いている』という健全性を主張している事にもなる。そもそも、下着とは本来見えても大丈夫な物であった。本のカバー宜しく、見えてはならん物を覆うのが役目であるからな。海外の際どい下着の普及や、ミニスカートの流行によって初めて、パンチラに恥じらいや価値が生まれたのだ。これを否定するという事は、五十年以上に及ぶチラリズムの歴史を否定するに同じ。それに何より、マリリン・モンローや小川ローザに度肝を抜かれた漢達への侮辱だ」
「わ、私は一体どうすれば……」
 決して相容れない二つの要素に挟まれ、真琴は弥次郎兵衛の様に揺れていた。
 『穿いてない』という優しい嘘か。『パンチラ』という大衆受けか。
 外食先で注文に迷う、などといったレベルではない。
 べらぼうに高いが特典が魅力的な初回限定版を買うか否か、に匹敵する究極の選択だ。
「さあ、悩むのだ若き者よ。浪漫と健全、選べるは片方のみ。考え抜いた末の決断なれば、健全を選んだとしても文句は」
「言うから! ボクが言うから!」
 勝手に話を進める二人に、アリスはようやく割って入る事が出来た。
 当事者を無視してそんな判断をされては、堪ったものではない。
 結局、アリスは怒るタイミングを失ってしまった。
 この二人の前では、誰もがそのペースに振り回されるのみである。
「正しい事は一つにあらず……真琴嬢が理解すれば良いのだが」
 秋原の呟きは、誰の耳にも届かずに消えた。
「でも、望月さんも望月さんじゃないですか? 言われるままに、そんな服ばっかり着て……嫌なら断った方が良いですよ」
 見かねた堀が述べたのは、至って正論だった。
 当たり障りの無い、地味キャラらしい発言である。
「だって、アッキーやマコちゃんが、こんなに興奮するなんて思わなかったもん。ボク、いつもこの格好で寝てるのに、そんな目で見られるなんて……」
 言い訳の最中、アリスは妙な沈黙に気付いた。
 ふと見ると、三人が石の様に固まっている。
 時間が止まったのではと錯覚するが、外からは部活の掛け声がする。
 ――ボク、スタンド使いじゃなくて魔法使いなんだけど……。
 それでもやはり、皆の時間を消し飛ばしてしまった気がして、戸惑うばかりだ。
「なん……だと……!?」
 秋原の時間が、僅かだが動いた。
 信じられないといった表情で、額には汗が浮かんでいる。
 一体、彼らは何を驚いているのだろうか。
「もしかして、ボクが男物の服を持ってる事? お兄ちゃんの着古したワイシャツを処分するって言うから、アカリンから貰ったんだよ。ダボダボした感じが丁度良くって、ぐっすり眠れるんだよ」
「な、なんだって――!?」
 三人が、誂えた様に合わせて叫んだ。
 秋原や真琴は疎か、堀までもが驚きを隠せない。
 アリスがそれを不思議に思う間も無く、秋原と真琴が詰め寄る。
「俺も、たった今ワイシャツを着古してな……アリス嬢に差し上げよう」
「是非とも私の下着も!」
「ふ、二人共、どうして脱ぎながら迫って……うわぁああああああああああああああッ!?」


「さて……これでアリス嬢に着せたいコスプレは終わった訳だが」
「望月さん、勢い良く女が上がっているっスよ。まさに鰻登りっス!」
「どうもありがと……って言ってあげれば良いのかな」
 乱れた服を整えている二人に、どうにか守り切ったアリスが、敵意剥き出しで言った。
 好きな人以外の人が脱いだばかりの服なんて、着たい訳が無い。
 藤原が嘗て着ていたワイシャツだからこそ、喜んで貰い受けたのだ。
 毎晩、彼の残り香に包まれて眠る為に。
 もちろん、それが本物ならば尚良い。
 眠れない夜になれば、それこそ幸福の極みだ。
 その為にも、明から藤原を奪い返さなければ。
「こうなったら、ボクの魅力でお兄ちゃんを誘惑するんだから!」
「え〜!? 魔法少女補完計画とかしないんスか!?」
「悠長な事言ってられないの! お兄ちゃんの操は危ないし、話の尺の問題もあるし!」
 真琴が文句を垂れるが、もう聞いていられない。
 彼らが好き勝手振舞ってくれたお陰で、そろそろ尺が厳しいのだ。
 魔法少女の設定を忘れられようが、知った事ではない。
 自分の望みは、藤原ただ一人なのだから。
「ふっ……ならば尚更我々が必要であろう。数多の恋を成就させた我等の策を以てすれば、藤原など千五百秒で落ちる」
「今、『恋』に『フラグ』って振り仮名があった気が……まあ、良いや」
 こうして、女を磨いた(つもりになっている)アリスが、間も無く藤原に襲いかかろうとしていた。


 その日の朝、藤原は自然と目が覚めた。
 カーテンが閉まっているので、正確な時間は把握出来ない。
 鳥のさえずりが聞こえるので、恐らく朝だろう。
 豆球が照らす薄暗い部屋で、藤原はまどろむ。
 起きるべき時間が来れば、明が起こしに来てくれる。
 それまでは、夢現に身を委ねるとしよう。
 藤原がそう考えていた時、誰かが階段を駆け上がる音が聞こえた。
 明の足音にしては、余りにも軽い。
 第一、明は階段を駆け上がるような事はしない。
 まるで、小さな子供の様な……。
「お兄ちゃん!」
 ドアが勢い良く開いたかと思うと、寝起きには聞きたくない程に元気に満ちた声。
 聞こえる筈のない声に、藤原は混乱する。
 そんな事は気にも留めず、その声の主はベッドに飛び込んだ。
「朝だよ、起きて!」
「あ、あり……ッは!?」
 アリスの圧し掛かりをもろに受け、藤原は悶絶する。
 小柄なアリスのそれとは言え、人の体重に飛び掛られては堪らない。
 顔を覗き込んできたアリスが、笑顔で言う。
「おはよう、お兄ちゃん」
「永遠に寝かせようとした奴が言うか……」
 朝から殺意が芽生える藤原であった。
 開け放たれたドアから差し込んでくる光で、アリスが制服を着ている事が判る。
 こんな朝早くから、よく準備出来たものだ。
 子供は朝に強いものだが、それを押し付けるのはどうなのだろう。
「お兄ちゃん、朝から元気無いよ? 下半身もヘナヘナだし」
「こういうのは個人差があるし、毎朝そうなる訳じゃないんだよ。それ以前に、そんなところ触るな。保健の授業でやれよ」
「お兄ちゃん一筋のボクが、お兄ちゃん以外にこんな事すると思う?」
「……取り敢えず、俺以外に被害が及ばない事を喜んでおくか」
 痴女かこいつは、と思いながら、藤原は溜息を吐いた。
 こんな時間にこんな仕打ちを受けて、元気でいられる方がどうかしている。
「望月さん!? 何しているんですかこんな時間に!?」
 明が遅れて現れ、事態は尚更ややこしくなる。


「うむ、出だしは好調だな。幼馴染に妹となれば、朝起こしに来るのがお約束。優しく起こす明さんに対し、アリス嬢はやや乱暴に、それでいて人懐こく起こす事で対抗する。これで差別化を図る事が出来、藤原にとっても新鮮だ」
「先輩が羨ましいっス。私も、幼女に起こされて組んず解れつしたいっス!」
「新谷さんの場合、寧ろ幼女と寝たいんですよね」


 どうにかその場を収め、藤原は今日も学校へ向かう。
 傍らにアリスが居るのはいつもの事なのだが、
「えへへ……お兄ちゃん♪」
 今日はやけにベタベタしていた。
 二の腕にすがり、猫撫で声で甘え、やたらと目を合わせようとしてくる。
 目を逸らそうがお構いなしで、目を合わせる度に笑いかけてきた。
 歩幅をアリスに合わせているのは、こんな事をされる為ではない。
 かといって、抜き去ってしまうのも大人気ない。
 対処に悩んでいる間も、アリスは胸か腹かも判別出来ないそれを押し付けてくるのであった。
「何だよ気持ち悪い……拾い食いでもしたのか?」
 流石に藤原も限界に達し、少し尖った口調で言う。
「むぅ、そんな言い方はないでしょ、お兄ちゃん。さっきからずっと、腕にボクの胸が当たっているんだよ? もっとこう……ドキドキしたり、ムラムラしたりしないの?」
「胸? お前にそんな物があったのか?」
「ひ、ヒドいよ! いくら何でも女のコにそんな言い方……!」
 少し言い過ぎたのか、アリスは今にも泣き出しそうだ。
 ――絡んできたのはそっちだろう。
 釈然としないが、登校中に泣き出されても困る。
 藤原は溜息を吐きつつ、鞄から飴玉を取り出し、アリスの口の中へ突っ込んだ。
「悪かったよ、言い過ぎた。それで許してくれ」
「むぅ……お兄ちゃんてば、こんなアメ玉にボクが釣られるとでも……」
 アリスは暫く不機嫌な表情をしていたが、やがて顔を綻ばせる。
 レモン味を与えるのは初めてだったが、どうやらお気に召したらしい。
 舌で戯れ、口内を自在に転がし、小さくなれば歯で噛み潰す。
 心底幸せそうに飴玉を堪能するアリスには、彼女が激怒しそうな比喩しか思い浮かばない。
 初キスはレモンの味、などとはよく言ったものだが、アリスにはおよそ縁の無い話だろう。
 結局、学校に着くまでに、持っていた三つを全て食べられてしまった。
 扱いやすくて便利だが……。
「……そのうち誘拐されそうだな、真琴に」


「ふっ……アリス嬢も粋な事をする。漢は、異性に触られる事に弱い生き物。少し触れられただけでも、あらぬ誤解を抱いてしまうものだ。積極的なスキンシップで藤原を落とす……策としては上出来。強いて注文をつけるなら、もう少しさりげなく攻めるべきだな。抱き付かれるのも悪くはないが、ふと手が触れ合う瞬間に勝るものはあるまい」
「確かに、先輩ドン引きしてますからね」
「ところで、真琴嬢の姿が見えんのだが……」
「飴を買いに行きました」


 体育の授業の前、藤原は準備の為に体育倉庫に来ていた。
 普段、この様な役目が回ってくる事は無いのだが、先生に頼まれたのなら断れない。
 特に鶴橋は、焼肉の話を交えた説教を延々と続けるので厄介だ。
 開けた扉から差し込む光を頼りに、薄暗い倉庫内を物色する。
 サッカーボールさえ探せば良いのだが、他の道具も所狭しと保管されており、退けるのも一苦労である。
「あ、お兄ちゃんも準備なんだ」
 七面倒な時に、七面倒な少女の声が背後から聞こえた。
 僅かな期待を寄せて振り返るが、そこに居るのは、やはり七面倒なアリスだ。
「アリスも、何か取りに来たのか?」
「うん。体育館のバレーボールが足りないから、こっちに予備を取りに来たんだ」
「ば、バレー!?」
 アリスの言葉に、藤原は思わず声を上擦らせてしまった。
 そして、まじまじとアリスを見つめる。
 体操服姿のアリスを、上から下へ、下から上へ。
「お、お兄ちゃんてば、ボクのブルマニーソ姿に欲情したからって、見てるだけ……いやいや、見つめちゃ」
「先生も酷な事をさせるな……」
 言葉で拒絶し、声は一切嫌がっていなかったアリスだが、藤原の一言で固まってしまう。
 アリスが藤原の真意を理解するのに、この一言以外必要無かった。
 やがて、嵐の前の静けさは足早に通り過ぎていく。
「ひ、ヒドいよお兄ちゃん! スパイクやブロックの時に手が届かないって思ったんでしょ!?」
「誰もそこまで言ってねえよ……」
 半泣きになる百三十八センチと七ミリに、藤原は溜息を吐いた。
 わざわざ自分から、恥ずかしいエピソードを告白する必要も無いであろうに。
 身長にコンプレックスを抱いている所為で、この手の話に過敏になっている様だ。
「もう怒った! 今度はアメなんかじゃ許してあげないもん!」
 どうやら、簡単には許して貰えないらしい。
 朝の件はアリスが発端だったが、今回は自分の発言の所為。
 しかも、アリスが言った通りの事を、口には出さなかったものの既に想像していた。
 ここは、飴よりも誠意ある対応をするべきだろう。
「判ったよ。後でチョコレートな」
「本当!?」
 一瞬で頬を綻ばせるアリスに、藤原は再び溜息を吐いた。
 仮にも十六歳が、こんな思考回路で良いのだろうか。
 藤原が本気で心配し始めた時、アリスはハッと我に返る。
「だ、だから! お兄ちゃんのそーゆー扱いに怒ってるの! ボクはもう十六歳なんだから、いつまでも子供扱いしないでよ!」
「飴玉に釣られた奴が言うかよ……」
 流石に、毛の生えた程度の手段は通用しない様だ。
 ――毛も生えていないくせに……。
「じゃあ、どうしたら許してくれるんだ?」
「う〜ん……それじゃあ……」
 藤原の問いを受け、アリスは倉庫のドアを閉めた。
 僅かに漏れる光のみが頼りとなった倉庫内で、アリスは藤原に寄り掛かる。
 ありもしない胸を押し付け、上目遣いで藤原と目線を合わせ、指で藤原の体をなぞる。
「あ、アリス……?」
「ボクはもう大人だって事を、身体で覚えて貰おうかな。お兄ちゃんが……悪いんだからね。ボクの事、いつまでも子供扱いするから。場所が場所だし、初めてだけど、お兄ちゃんとなら……きっと……」
 囁く様に言い、しな垂れるアリス。
 目を瞑って背伸びをし、その顔は明らかに口付けを求めていた。
 三十センチ以上の身長差は、アリスの努力だけでは埋まらない。
 爪先立ちが辛いからか、小さな身体は震え、更に身体を預けてくる。
 アリスの心臓の高鳴りが、紙の様に薄い胸を通じて如実に感じられた。
 藤原は三度溜息を吐き、紅潮している頬に手を添えた。
 小さな身体がビクリと震え、そのまま石の様に固まる。
 そして藤原は、
「ひ、ひたひひたひひたひ!」
 熱を帯びた頬を摘み、左右に引っ張った。
 思う様に口を動かせないアリスが、大半をハ行にして叫ぶ。
「あのな。そんな事するだけで大人だと認めて貰えるなら、誰も苦労しないんだよ。俺の知っている『大人』は、少なくとも、もう少し慎みがある筈なんだけどな」
「ほ、ほへんなはひ……」
 手短に説教を済ませると、藤原は手を離した。
 ヒリヒリする頬を押さえて呻くアリスを余所に、サッカーボールを数個抱え、体育倉庫を後にする。


「ううむ……鶴橋先生の助力を得て、このシチュエーションを用意したというに……。二人きりの体育倉庫で、それもブルマ姿で誘惑されて尚、藤原の牙城は崩れんのか」
「信じられない理性っスね。私なら、体育倉庫で二人きりって時点で襲ってしまうっス」
「新谷さん、いい加減捕まりますよ」
「しかし、幼女のブルマ姿は実に良いものだな。か細い脚が劣情を駆り立てて止まぬ」
「全くその通りっス。でも、望月さんは、いつも体操服の裾をブルマの中に入れるっスよね。偶には外に出して、裸Tシャツっぽくして欲しいっス」
「ふむ、一理あるな。差分CGで補完しよう」
「それは嬉しいっスけど、二周しないとCGコンプ出来なくなるっスよ」
「案ずるな。選択肢直前でセーブデータを二つ作れば良いのだ」
「なるほど。流石は先輩! 私とは年季が違うっス!」
「ふっ……この程度は常識。回想モードの無いゲームでも役立つ故、憶えておくが良い」
「……さっきから、話についていけないんですけど」


「秋原め……絶対にわざとやりやがった」
 体育の授業中。
 秋原の強烈なオウンゴールを鳩尾に食らった藤原は、よろめきながらも保健室に到着した。
 自分の見える範囲に秋原が居る時点で警戒するべきだった、と藤原は悔やむ。
 せめて、秋原の発した
「ここから居なくなれぇッ!」
 が、自分に向けられたものだと気付くべきだった。
 朦朧とした意識の中で聞こえた、
「正気でオウンゴールが出来るか!」
 は、暫く忘れられそうにない。
 今度から、軽い気持ちでキーパーを引き受けるのは止めよう。
 保健室のドアを開けると、白衣を着たこの部屋の主、今宮が居た。
 新聞と数枚の紙切れを見比べており、藤原には気付いていない様だ。
「失礼します」
 藤原がそう言って数秒後、ようやく今宮は顔を上げた。
「あら、いらっしゃい。休憩? それとも宿泊?」
「せめて、二人連れに言って下さい」
 早速学生相手に際どい事を言う今宮に、藤原は遠慮無くツッコんだ。
 先生相手だからと躊躇していては、この学校ではやっていけない。
 ここは、違う意味の猛者が集う、いわば梁山泊なのだ。
「鳩尾にオウンゴールを食らったので、暫く休ませて下さい」
「ふーん……味方のシュートが『当たった』のね。そのツキ、羨ましいわ。こっちは、宝くじ全部外したのに……あ、下二桁は当たったわよ」
「こっちは、当たりたくて当たった訳じゃないですけどね」
 生徒の事などどこ吹く風で、今宮は宝くじの当選番号を見ていたのであった。
 仕事中にどうかとは思うが、藤原は既に諦めている。
 体育のテストで牛の部位の名称を答えさせられ、教師の結婚記念日を理由に社会の授業が潰れる。
 そんな学校で、勤務中の教師が宝くじに一喜一憂していても、殊更に驚く必要は無いだろう。
「ちょっと用事があって部屋を出るから、適当に休んでおいて良いわよ。……そうそう、小学生みたいな娘がベッドで寝てるから、起こさないでね」
「小学生……アリス!?」
 今度ばかりは、藤原も驚いてしまった。
 保健室から一番遠い場所に居そうなアリスが、まさかベッドで寝ているなんて。
 先程までは、様々な意味で元気そうだったというのに。
「まあ、大した事ないから、ちょっと寝てれば良くなるわ。女の子が寝てるからって、くれぐれも襲わないようにね」
「いや、それはないですから」
 警告よりは期待を込めて言う今宮に、藤原はキッパリと否定した。
 楽しげに笑みを浮かべつつ、今宮は保健室を出て行く。
「やれやれ……うちの学校に、常識人は居ないのか」
 溜息混じりに愚痴りながら、藤原はソファに腰を掛ける。
 背もたれに身を預け、身体の力を抜くと、自然と大きく息を吐いてしまう。
 朝から今までの疲れが抜けていく様な、重りを外した様な脱力感。
 今宮さえ居なければ、保健室はさながら夏の木陰であった。
 もっとも、それは虎の居ない虎穴の様なものだが。
「襲うなよ? 絶対に襲うなよ?」
「やるとは思ってましたけどね」
 再び扉を開ける『虎』に、藤原は冷静に接した。
 面白くなさそうな表情をして、今度こそ今宮は保健室を去る。
 藤原は再び溜息をつき、軽く伸びをし、靴を脱いでソファに寝転がった。
 鳩尾の痛みも、ここに来るまでに多少は和らいでいたので、気を抜くと寝入ってしまいそうだ。
 ――それにしても……。
 寝る間際に限って、どうでも良い事を考えてしまうものだ。
「アリス……大丈夫なんだろうな」
 どうしても気がかりなので、藤原は上体を起こし、靴を履いてソファから降りる。
 ベッドは複数あるが、周囲をカーテンで囲われているのは一台のみ。
 アリスを起こさないように、藤原はそっとカーテンを開いた。
 余り大きくないパイプのベッドに、小さな少女が一人眠っている。
 普段の彼女からは想像出来ない程に、その寝姿は静かだった。
 流石のアリスも、寝ている時は一端の女の子に過ぎないという事だろうか。
 布団は少しはだけており、先程の体操服姿である事が判った。
 体育の授業中に、体調を崩したといったところなのだろう。
 前髪を払い、藤原はアリスの額に手を添える。
 どうやら、熱は無さそうだ。今宮の言った通り、大した事は無いらしい。
 藤原は胸を撫で下ろし、安堵と脱力の入り混じった息を吐く。
「まったく、変な心配掛けさせやがって……まあ、ともかく良かった。お前は元気が取り柄なんだし、今のうちに、しっかり充電しておけよ」
 聞こえていないのは承知で、藤原は優しく語り掛けた。
 髪の流れに沿って、そっと頭を撫でながら。
 藤原の心配を余所に、アリスは寝息を立てたままだ。
 何となく寝顔を見ているうちに、自然と欠伸をしてしまう。
 目の前で、さも心地良さそうに人が寝ているからだろうか。
 休むだけのつもりであったが、やはり少し寝ていく事にした。
 アリスの隣のベッドで、彼女を見守る様に。


「……妙だな。アリス嬢は寝た振りをしている筈なのだが」
「先輩が恥ずかしい台詞を言った瞬間に目を覚まして、甘ったるい流れに任せて……ってパターンっスよね。そうっスね……この場合……あ、待ち惚けているうちに、本当に寝てしまったんスよ!」
「だ……駄目だ、まだ笑うな……堪えるんだ……し……しかし……」
「失敗の中身が、望月さんらしくて微笑ましいっス。目覚めた時のリアクションも見たいっスね」
「確かにその通りだが、これで四連敗か……。仮に寝てしまったとて、無防備な寝顔に襲わざるを得なくなると思ったのだが。おのれ藤原……主人公は鈍感なものとは言え、度が過ぎると嫌がられることを知らんのか」
「クレーマーが怖いっスし、『後でスタッフが美味しく頂きました』のテロップが要るっス。……ところで、さっきから誰か居ない気がするんスけど……気の所為っスか?」
「世界は交換で成り立っておってな。今宮先生の助力を頂くにも、何かしらの対価が必要であったのだ」
「もしかして、さっき今宮先生が出て行ったのは……」
「またの名を『生贄』と言う」


「今度こそ……今度こそお兄ちゃんを振り向かせるんだから!」
 昼休みになり、アリスは屋上へ続く階段を上る。
 普段、藤原や秋原、真琴達と一緒に昼食を取る屋上。
 しかし今日は、秋原達の計らいで、藤原と二人きりになれる。
 明から藤原を奪い返す為にも、まだ諦める訳には行かない。
 例え何度失敗しても、真琴の劣情に火を付けたとしても。
 この言葉は、自分への戒め、不屈の表明である。
「待ちなさい」
 踊り場を通り過ぎようとした時、静かな声が聞こえると共に、ツインテールの片方を引っ張られた。
 頭皮に痛みを覚え、アリスは思わず一歩下がる。
 引っ張られた方向を向くと、そこに居るのは細身の男性。
 壁に寄りかかり、冷たい印象を与える目をこちらに向けていた。
 髪を掴む、艶色の良い爪で飾った白い手も、彼の物である。
 入り浸っている将棋部で、何度か会った事のある顔。
 中性的な容姿と、正に体を表したその名は、一度覚えれば忘れられない。
「い、痛いよひーたん。髪は女のコの命なんだからね」
「言葉通り、後ろ髪を引いてみた丈ですよ。後、呉々も其の呼び方を人前でしない様に」
 可愛らしい渾名を付けられた事が、棗広美は余程不満らしい。
 棗が手を離すと、アリスは手櫛で髪を整え始める。
「もう、今からお兄ちゃんに逢うのに……」
「『逢う』……ですか。これからも然う云えれば良いですね」
「その言い方……もしかして、ひーたんも知ってるの!?」
 棗の意外な一言に、アリスは髪を整えるのも止めてしまう。
 この話は、秋原と真琴と堀しか知らない筈なのに。
 下手に流出して、藤原の耳にでも届いたら、全て台無しだ。
 そんなアリスの焦りを知ってか知らずか、棗は相変わらず悠々としていた。
「昨日から将棋部が何やら騒がしかったので、斥候を出しました。私直属の部隊ですので、秋原さんも御存知無いでしょうね」
「お願い! 皆には内緒にして!」
 アリスは、手を合わせて懇願する。
 誰にも藤原を奪われたくないし、藤原が何も知らないからこそ意味があるのだ。
 藤原に身構えられてはやり辛くなるし、明にでも知られれば最悪である。
「別に、貴女の恋路に抔興味は有りません。そして、貴女の恋煩いに巻き込まれるのも御免です」
「むぅ、相変わらず冷たいんだから。でも、ボクはひーたんに迷惑掛けたりしないよ?」
「貴女は兎も角、秋原さんや新谷さんが事を大きくしているのは事実です。教師と掛け合い、体育倉庫や保健室を私的に使用。剰え、未遂とは云え情事に及ぼうと為る抔言語道断。此以上此の様な事が続けば、秋原さん……延いては現美研の立場も危ぶまれます。然為れば、現美研副部長である私も巻き込まれる事は、火を見るよりも明らか。故に、私は貴女を止めなければなりません。降り掛かる火の粉を掃う為に」
「そ、そんなぁ……」
 棗の答えに、アリスは何とか食い下がろうとする。
 確かに、棗の話は正論だ。明らかにこちらの方が分が悪い。
 しかし、正論を振りかざすだけが正解ではないだろう。
 こっちは、乙女の恋路が懸かっているのだ。
「せめて、昼休みくらいは見逃してくれないかな? もう一回アタックすれば、きっとお兄ちゃんもボクを……」
「どうやら、貴女の眼は節穴の様ですね。それとも、現実を直視出来ない丈か。今の貴女では、藤原さんを振り向かせる事抔、百年経とうと不可能ですよ」
「そ、そんな事無いもん! ボクは、世界一お兄ちゃんを愛してるんだよ! だから、お兄ちゃんだって絶対解ってくれるもん!」
「ふん、莫迦莫迦しい。此だから物の哀れも解せぬ浅学の輩は」
 頬を膨らませるアリスに、棗はやれやれと首を振る。
 そして、嘲笑の眼差しをアリスに向けた。
「世界一藤原さんを愛している……だから何だと云うのですか? 貴女が愛せば、同じ様に藤原さんも愛して呉れるとでも? そんな押し付けがましい愛、迷惑も甚だしい。藤原さんも、嘸かし御困りでしょうね」
「そ、そんな……事……ボクは……」
 棗の歯に衣着せぬ物言いに、アリスは反撃の言葉も出て来ない。
 かつて、藤原は棗を指してこう言った。
 棗は、言葉を武器に人を自在に操る、と。
 愛用のエアガンは、話し合いの席に無理矢理着かせる為の道具に過ぎない、と。
 そして今、アリスは棗の言葉に為されるがままだ。
 言い返す事が出来ないのが、とても悔しい。
 だが、棗の言葉には隙が無い。
 言葉に詰まるアリスを、棗は冷たい眼差しで見下ろす。
「……ま、彼の迷惑抔、私には関係有りませんね。質問を変えます。慥かに、今現在、藤原さんは貴女を異性として意識していないでしょう。精々、妹分程度が関の山。……然し、其れが何故不満なのですか? 彼の貴女に対する遠慮無いツッコミは、気が置けない仲の証明だと思うのですが。貴女の望む仲とは違うでしょうけど、充分幸せな部類だと思いますよ」
「ひーたんの言った事は、ボクもその通りだと思う。お兄ちゃんは、何だかんだ言って、ボクの事を大切に思ってくれてる。初めて会った時から、その事は解ってるつもりだよ。もし、お兄ちゃんがアカリンと結ばれたとしても、それは変わらないと思うんだ。だって、お兄ちゃんにとって、ボクは『妹』だもん。恋人は二人居ちゃいけないけど、妹ならそんなの関係無いもんね。でも、お兄ちゃんがボクを大切にしてくれる理由は、ボクが『妹』だからに過ぎない……。だからボクは、女のコとして……『望月アリス』として見て欲しいんだ。お兄ちゃんに大切に思われる事が、ボクの存在意義だと思うから」
 棗の問いに、アリスはありのままの気持ちを話した。
 『魔法使い』という影を抱く自分に、手を差し伸べてくれた藤原。
 どんな時でも、自分の為に行動してくれた藤原。
 そんな彼への想いは、『妹』などという枠に収まるものではない。
「……詰り、今、藤原さんが貴女を大切にしているのは、貴女が『妹』だから。
『妹』を大切にするのは当然で、『妹』という関係が無くなれば、今の関係は瓦解為る。故に、『妹』ではなく、一人の女性として見て欲しい、恋人として扱って欲しい……。其れが、貴女が藤原さんの『妹』という立場に甘んじる事を潔しとしない理由ですか」
「う、うん……そんな感じだと思う」
 棗が短く、しかし少し難しい言い回しで纏め、アリスは頷いた。
 その瞬間、アリスの眼前に黒い物体が現れる。
 それは、棗が突きつけたエアガンだった。
 突然の事に動揺するアリス。
 棗が撃つ相手を決して選ばない事は、藤原や秋原から聞き及んでいる。
 老若男女の分け隔てなく、自分にとって都合の悪い人物を平等に穿つ、と。
「でしたら、今直ぐ其の考えと言葉を改めて頂きましょう。身内ならば大切にされて当然……其の言葉は、私達に対する挑戦と受け取ります」
「そ、それってどーゆー……」
 冷や汗をかきながら、アリスは棗の顔を見る。
 その目は、さながら青い炎の様に、静かな怒気を放っていた。
「貴女の様に、真っ当な愛を受けて育った人には解らないのかもね。でも、歪んだ愛を押し付けられたり、愛すら貰えなかったり、憎しみを向けられて育った人も居るのよ。私達から見れば、貴女の願いは唯の贅沢……子供の我侭にしか聞こえないの! 信頼出来る身内が居て、帰りたい家が在る事がどんなに仕合せか、貴女に解る!? 身内が誰よりも憎い、誰よりも怖い、其れがどれ程私達を苛むか解る!? 両親に『性別を奪われた』なんて、貴女にはどうせ理解出来ないんでしょう!?」
「あっ……!」
 その言葉で、アリスは棗の憤る理由を理解する。
 棗は、娘を欲しがった両親によって、女性の様な名前を付けられた。
 それだけでなく、言葉遣いから立ち振る舞いまで、全て女性である事を求められた。
 幼稚園や保育所にも通わせない箱入りだった為、小学校に通うまで、本人は自分を女だと思っていたらしい。
 だから、今でも女性らしさが抜け切らないという。
 感情が大きく揺れた時に口調が女性のそれになるのは、その片鱗だ。
 女として生まれず、男として育てられる事も無く。
 正に、身内によって性別を奪われたのだ。
 そんな彼の前で、身内には大切にされて当然などと言ってしまった。
 それは、飢えている人の前で残飯を捨てる行為に等しい。
「ゴメンねひーたん……ボク、スゴく無神経な事を……」
 軽はずみな言葉を後悔するしかないアリスは、俯いて謝る。
 棗は、暫く銃口をアリスに向けたままであったが、やがてそれを懐にしまった。
「……失礼。つい熱くなってしまいました。後々面倒ですから、此の事は内密にお願いします。御詫びと云う訳ではありませんが、昼休みの間丈、何が起きたとしても、見なかった事にしましょう」
「え……良いの?」
 棗の意外な提案に、アリスは目を白黒させる。
 彼の逆鱗に触れたというのに、事態は寧ろ好転したのだ。
 エアガンを向ける事の是非はともかく、どういう風の吹き回しなのだろうか。
 そんなアリスとは対照的に、棗はすっかり熱が冷めていた。
「私が頑なに拒んだ所で、貴女が意思を変えるとは思えませんから。違いますか?」
「う、うん……。ひーたんに迷惑掛けちゃうのは悪いけど、これだけは譲れないんだ。お兄ちゃんがボクを大切にしてくれたのは、単に『妹』だからじゃない事も、ちゃんと解ったよ。でも、だったら尚更、ボクは『妹』に甘んじていたくないんだ」
 棗の問いに、アリスは躊躇いつつも頷いた。
 棗の言葉には、確かに反論する事が出来ない。
 自分が我侭である事も、自覚しているつもりだ。
 それでも、自分の気持ちに嘘を吐く事は出来なかった。
 どんなに責められても、藤原が好きである事に変わりはない。
 このまま、明に取られるのを黙って見ていられない事も。
「でしょうね。戀に取り憑かれた人は、凡そ常人には理解出来ない思考回路をしていますから。理性を奪い、非効率的な選択を強いる……全く以て、戀は罪悪ですよ。ま、屋上には貴女達以外行かないでしょうし、生徒会の連中も口出し出来ないでしょう。私が不利益を蒙らないのであれば、貴女達が何をしようと、知った事ではありません」
「ありがと、ひーたん。今度、秘蔵の無修正を見せてあげるよ」
「要りません」
 棗との会話を終え、屋上へ向かおうとするアリス。
「……少し、待ちなさい」
「あれ? まだ何かあるの?」
 しかし、すぐに再び棗に呼び止められ、アリスは再び棗の方を向く。
 やはり、無修正が見たくなったのだろうか。
「何処かで誰かが、こんな事を云った気がしましてね」
 そう言うや否や、棗はアリスのツインテールに手を伸ばす。
 先程『後ろ髪を引かれた』事を思い出し、アリスは思わず身構えた。
 だが、棗の両手は、ツインテールの根元、髪を結ぶリボンへ向かい――。
「……女の子は、エレガントに」


 藤原は、今日も普段通り屋上へ来ていた。
 昼休みになると、秋原やアリス、真琴が昼食を食べに来る。
 もちろん、藤原もその一人なのだが……。
「……誰も居ないな」
 秋原ともいつの間にか逸れてしまい、屋上は静まり返っていた。
 真っ青な空を白い雲が泳ぐ、平和な一時。
 藤原の勘が正しければ、こういう時は大抵、
「あ、お兄ちゃん、もう来てたんだ」
 嵐の前の静けさに過ぎない。
 背後から迫る小さな大嵐に、藤原は溜息を吐いた。
 こうなる事が判っていたのなら、保健室で止めを刺していたのに。
 普段のアリスが相手ならば、流石にここまでは考えない。
 しかし、今日のアリスは、何かがおかしい。
 具体的に何がとは言えないが、男の勘がそう告げているのだ。
「えへへ、二人っきりだね」
「何を今更。これで今日何回目だと思……」
 適当にあしらおうとした時、藤原はある事に気付いた。
「アリス……お前、髪型……」
「あ、気付いた? イメチェンしてみたんだけど……どうかな?」
 藤原の反応が余程嬉しかったのか、アリスは頬を染めて尋ねた。
 ダークブラウンのロングヘアが、そよ風に誘われて靡いている。
 アリス自身も、返答次第で舞い上がってしまうだろう。
 いつものツインテールとは打って変わって、少し大人びた髪を下ろした姿。
 真琴が見たら、鼻血を出して倒れてしまいそうだ。
 馬子にも衣装を、身を以て体現しているといえる。
 もちろん、そんな事を正直に言えば、
「むぅ、どーゆー意味!?」
 と頬を膨らませるか、
「むぅ、子供の次は孫扱い!?」
 と少し勘違いして結局頬を膨らませるかのどちらかなのだろうが。
 どうせ、誰かの差し金なのだろう。
 アリスは、思春期の小学生レベルで心身共に成長が止まっているのだ。
 そんな彼女が、髪形を変えて相手の気を惹こうなどと考える訳が無い。
 自分で思いついた訳でもないのに、べた褒めするのも気に入らない。
 とは言え、多少なりとも可愛いと思ったのは事実なので、
「まあ、年に二回くらいは、悪くないかもしれないな」
「むぅ、全然褒められた気がしないんだけど」
 程々に褒めておく事にした。


「ふむ……ロングヘア仕様のアリス嬢も乙だな。髪型的に淑やかな印象を受けるが、その実そんな物とは無縁なのも良い。しかし、これでは明さんと被りかねんな。その他のスペックの差で誤魔化せれば良いのだが。否、逆に考えるのだ。これから新キャラが増え続ければ、多少の被りは致し方ないと。いっそ三十一人くらいまで増やせば、被りがネタになるやも知れん」
「あの、先輩。新谷さんが鼻血を……」
「ふっ、案ずる事はない。鼻血は変態の勲章だ。……しかし妙だな。我々はこんな事教えておらんぞ。之ほどに乙女チックな入れ知恵をする輩……さては棗か。さすれば、生徒会の連中も……早速嗅ぎ付けてきおるとは。棗はともかく、生真面目な連中だ。風紀は乱してこそ価値があるというに。興を醒まされては厄介だ。尺の問題も鑑みると、この昼休みが勝負だな」
「この小説、いつから楽屋ネタに寛容になったんですかね……」
2008-10-15 03:22:58公開 / 作者:月明 光
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■作者からのメッセージ
思ったより長引いてしまいました。これで現行スレがまた遠のく……。
しかし、修正しまくっても別段誰も困らないのは、なかなか良いかも知れない。
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