『眠りから覚めて』作者:cocoHa / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角8906文字
容量17812 bytes
原稿用紙約22.27枚


     眠りから覚めて



 チチチ、小鳥の鳴く声。
 けたたましいというほどでもなく、でも耳が慣れるとただの雑音でしかない音。
 僕はベッドの上で体を起こし、しばらくぼうっとした。厚い濃緑のカーテンの隙間から、すでに強い日差しが射し込んでいた。
「ん……」
 衣擦れの音で、沙希が目を覚ましたらしい。小さな声をもらして、目をこする。
「おはよう、沙希」
 僕は枕元に置いてあったタバコに火をつけながら、そう声をかける。あたりにはマッチを擦った後の独特のにおいが漂った。
 沙希はまだ完全には起きていないらしく、掛け布団を手繰り寄せて顔を隠した。僕は沙希をそのままにして寝室を出る。
 1LDKのマンション。リビングは八畳ほどの広さで、二つある大きな窓からは、もう真昼に近いらしい日光がまぶしいくらいに飛び込んできている。
 二人暮しには少しだけ狭いけれど、新しい部屋に移る金銭的余裕も、新しいところで始まる生活に順応するだけの精神的余裕も、僕たちにはなかった。
 もう、三ヶ月になるんだ。
 三ヶ月前に父が亡くなり、僕は部屋から一歩も外へ出ない生活を始めた。仕事も辞めて、なんの収入も無い状態で、それでもなんとか生活を続けることが出来ている。それも全て、ずっと一緒にいてくれた沙希のおかげだった。
 リビングのソファに座って、ただタバコをふかしていると、吐き出す煙にまぎれて僕自身の魂まで抜け出てしまいそうだった。放心状態。何をするでもなく、パジャマのままで、窓の外に広がる大きな空を眺めている。三階のこの部屋にいれば、人ごみも雑踏も、息苦しい現実も、何も見なくて済む、それが今の僕には幸いしていた。
「もう起きたの?」
 沙希がしばらく遅れてリビングに出てくる。眠そうな顔には化粧っけがなく、疲れみたいなものが見えていた。茶色に脱色した首までの髪の毛も、寝て起きたそのままの姿だった。
「今日の仕事は、何時から?」
 僕はいつも通りの質問を彼女に投げかける。部屋にいて、彼女を見送るだけの生活にももう慣れた。
「夕方からだけど、区役所に行って健康保険の手続きをしてこなきゃね。ヒロ、会社辞めてそのままになってるでしょ?」
 そうか、そんなことすっかり忘れていた。健康なんていう言葉は、今の僕にはどこか不似合いな言葉に思える。
「体には気をつけないとね、いつかはヒロも働くことになるんだし」
「……うん」
 働く、か。僕は心の中でそう独りごちて、ガラスの灰皿にタバコを押し付けた。





「瓜生弘人(うりゅう ひろと)さんですね」
 そう電話がかかってきたのは、得意先回りを終えて自分のデスクに腰掛けた時だった。携帯電話のバイブレーションに、何かいつもとは違う知らせがやってきた、そんな予感があった。
「はい、失礼ですが、どちらさまでしょうか」
「こちら、豊島警察署の松原と申しますが」
 嗄れた力強い男の声が、どこか冷徹な響きを持ってスピーカーから聞こえてくる。その声に、僕は何故か胸の高鳴りを覚えた。
 警察など、全く縁の無い人生を送ってきた僕に、松原という人物が電話をかけてきた。その出来事は確かに多少僕を戸惑わせたが、それだけではない、何かもっと別の予感が、僕に極度の緊張を感じさせたのだ。
 そして、その予感が外れていないことが、次の松原の言葉ではっきりした。
「瓜生正太郎さんが、亡くなりました」
「え……」
 言葉を失った僕は、オフィスの雑音も、デスク上の電話の鳴る音も、そして壁に掛けられた鮮明な風景画も、全てのものから色彩と音が消えていくような錯覚を覚えていた。
「一体、何が」
 何が起こったんですか。そう訊こうとした僕を無視するように、抑揚の無い声で、松原はさらに続けた。
「自宅の屋根の上に突き出ている煙突にロープを掛けて、自分の首に巻きつけて、飛び降りたようです。近所の方が警察に通報したのが二時半頃、救急隊員が現場に到着して確認したのが二時四十五分。その場で死亡が確認されました」
 耳鳴りがした。目の前が真っ暗になった。言葉の意味が半分以上理解できなかった。
 父が死んだ、父が死んだ、父が死んだ。頭の中にはただそれだけのことがぐるぐると回った。
 父が、あの父が。
 もう五年も会っていなかった。地元を離れて働いている僕を気遣ってか、盆正月も決して「帰って来い」とは言わなかった父。僕が生まれてすぐに死んだ母親の分まで、僕に愛情を注いでくれていた父。強かった父。交わす言葉は少なくても、お互いに分かり合えていた、そう思っていたのに。
 精一杯働いてるよ、そう久々に会って報告した時、父は何も言わずに大きく頷いてくれた。優しい笑みで、それが一番だ、そう無言で伝えてきた父。
 涙があふれた。


 葬式は、結局叔父が勤めてくれた。本来は長男である僕が勤めなければならなかったのに、叔父は僕の顔を見てすぐに、俺がやる、何も心配するな、そう言ってくれた。その優しさがありがたかった。
「全く、遺書も何も残さずに、自分勝手に逝きやがって」
 仏壇の前で叔父がもらした言葉。僕の記憶はそこまで飛んでいる。不思議なほど、葬式の記憶は無い。
 ただ葬式のことで唯一覚えていることといえば、父の顔があまりにもきれいだったこと、それだけだった。
 縊死、首を吊って死ぬと、遺体はもっと無残になるとどこかで聞いたことがあった。だけど父の顔は、あまりにもきれいだった。生前の父の顔よりも。それはどこか人形みたいに見えて、僕の心には悲しみよりも、父が喪われてしまったということがより強く焼き付けられていた。
 遺骨は父の両親の墓に一緒に納められた。位牌は、叔父の家の仏壇に置かれた。
 叔父はとにかく、僕のことに心を砕いてくれた。何も言わなくても、叔父が全てやってくれた。
「兄貴は、借金もずいぶんあるみたいだけど、心配するな。俺がなんとかしてやる。だからはお前は心配せずに、自分のことだけ考えていればいいんだからな」
 グラスに注がれたビールを飲み干して、叔父は力無い笑顔でそういった。僕は頷くよりほかに反応を見せることは出来なかった。
 僕の部屋に掛かってきた電話によると、父はカード会社、消費者金融、それに住宅ローンをあわせて、千六百万円ぐらいの借金を背負っていたらしい。一体そんな金を何に使ったのか、叔父に何度聞いても答えてはもらえなかった。もし教えてもらえたとしても、僕にはその借金を返し切れる自信は無かった。
 父の葬儀にも費用がかかっている。密葬だが、それでも百万位の金がかかっていた。それだけでも僕には重荷だった。
 残ったものは、小さな土地付の家だけ。叔父は弁護士と相談し、相続放棄の手続きをとってくれた。そうすれば、むずかしいことはわからないが、借金を被らなくても済むのだと叔父は言っていた。
 長い時間慣れ親しんだ家が、売りに出される。でも、あの家にはもう父はいないのだ。父のいない家に、一体何の価値があるんだろう。僕には、わからない。
「何も心配するな」
 繰り返しそう言ってくれた叔父の顔に、僕は父の面影を見出していた。





「じゃあ、ちょっと行ってくるね。冷蔵庫にあるもの、好きに食べていいから」
「うん、いってらっしゃい」
 沙希を玄関からそう送り出して、僕はリビングに戻り、再びタバコに火をつける。
 明日、百箇日法要がある。叔父が昨日電話でそう言っていた。夕方四時から、たしかそのはずだった。まだ時間は一時過ぎ、十分余裕はある。
 沙希は―――、毎日夜に働きに出ている。水商売、とだけ言っていた。実際にどんなところで働いているのかは何も知らない。
 沙希と知り合ったのは高校生のときだった。三年生の時クラスが一緒になり、半年ぐらいしてよく話すようになって、でも高校生の僕は沙希をそれほど特別な目で見てはいなかった。
 身長は150センチといっていたけど、多分もう少し小さいと思う。その身長に、幼い顔立ちを合わせると、子供みたいにしか見えなかった。かわいいとは思っていても、付き合いたい、どうこうしたいという気持ちにはならなかった。
 それが、高校を卒業して、六年目の同窓会で会った時の変わりようにはびっくりした。変身した、と言ってもいいぐらいに、沙希は大人の女性になっていた。
「あたしね、高校の時、ヒロのこと好きだったんだよ?」
 アルコール混じりの言葉に、僕の心は揺らいだ。鼻をくすぐる香水の華やかな香りが、僕の酒のピッチを早めた。
 その日のうちに、僕たちは体を重ねていた。気が早い、もっと気持ちを大切にしなきゃ、そういう思いはあっても、体を突き動かすような衝動には勝てなかった。
 そして、僕たちはベッドの上で、恋人になった。
 それから二年。沙希は今、僕との暮らしを支えるために、働いている。もともとやっていた仕事も辞めて、夜の世界で働いている。
 酒のにおいを漂わせながら帰ってくる沙希を出迎えるたび、そして仕事のストレスを吐き出すみたいに僕に愚痴る沙希を見るたびに、僕は悲しくなった。僕がもっとちゃんとしていたら。僕が働いていたら、沙希にこんな思いをさせなくて済むのに。それがわかっているのに、動き出せない自分自身が、悲しかった。付き合いだした頃は胸のおどった沙希との時間が、今はひどく悲しかった。
 もう、準備しておこうか。僕はソファから立ち上がって風呂場へ向かう。
 痩せていく僕。風呂場で見る自分の青白い体を直視することは出来なくなっている。体重は、もう十五キロ落ちた。食べなきゃ体を壊すよ、沙希にそう言われても、体が食べ物を受け付けなかった。最初のうちはほんのちょっと食べるだけでも吐き気を催した。今はなんとか沙希の半分ぐらいは食べられるようになってきたけど、それでも父の死以前と比べるとあまりにも少ない。
 熱いシャワーを浴びながら、僕は頭の奥が痺れたような状態で続いたこの三ヶ月を振り返っていた。





 父の借金の原因が、だんだんとわかってきた。
 仕事の仲間とタイに遊びに行き、その費用を父が全て負担していたらしいのだ。
 タイに遊びに行った時期にクレジットカードの使用額が百万を超えることもよくあり、本来は見栄っ張りでその上独り者だった父は気前良くカードを切っていたらしい。周りの人たちは皆家庭があって、遊ぶ金にも困っていたんだろう。
 僕が一緒にいたら、そんなことは無かったのかもしれない。僕と父が一緒に暮らしていたとき、父は借金を背負っているなどということを口にしたことは無かったし、郵便物を見てもそんな形跡は何も無かった。父は僕のためにいい父親であろうとして、それによってさまざまな誘惑を振り払っていたのかもしれない。そして僕があの小さな家から巣立っていったとき、父は、ふっと無力感を抱いたのかもしれない。
 僕が家を出て数年で、元は住宅ローンだけだった借金が突然千六百万円という額に増えてしまったのは、どうしても僕がいなくなったから、そう思えてならなかった。
 毎月のカードの支払いが増え、手持ちが足りなくなって消費者金融から借金をして支払いにまわし、そしてとうとう月の支払い額が七十万円にまで達した。そんな状況になっても、父は叔父にも、僕にも、相談もしてこなかった。僕たちにすら出来ない相談を、仕事仲間たちに出来るはずが無い。見栄と欲望と、そんな小さなもののために、父は徐々に自分を身動きできない状態にまで追い込み、そして命を絶ってしまった。
 父さん、僕は、そんなに信用できなかったんですか。
 僕は父さんを信用していました。
 決してお金持ちではなかったけど、僕は父さんと一緒に暮らせて幸せでした。
 父さんの息子に生まれてよかった、ずっとそう思っていました。
 仕事は人一倍出来て、言葉は少なかったけど責任感があって、いつも僕のために心を砕いてくれていた、父さん。
 父さんは、僕を、信頼できなかったんですか。
 父さん、教えてください。
 父さん……。





「どうしたの!」
 沙希の声で我に返った。
 シャワールームの扉に手を掛けて、沙希は目を丸くしていた。走ったのか、息が切れている。
「え」
 何に驚いているんだろう、僕はそう思って自分の体を見る。
 どのくらいの時間、僕はシャワーを浴び続けていたんだろう、指はふやけきってでこぼこになっていて、体中の肌の感覚がおかしかった。
「シャワーから出てこないから、心配したんだよ……」
 そうか、僕は体も洗わずにずっとシャワーを浴び続けていたのだ。それで、もしかしたら僕が手首でも切ったんじゃないかと心配した、そういうことだろうか。
「ごめん、すぐ出るから」
 僕はそう言って、シャンプーを手に取る。指の感覚が鈍かった。
 沙希は安心したのかため息をついて、もうすぐ三時だよ、そう言い残してドアを閉めた。
 もうすぐ、三時か。シャンプーを髪の中で泡立てるようにして洗いながら、僕は考える。もう二時間もずっと僕はここにいたんだ。
 あと一時間後、百箇日法要というのが叔父の家で行われる。坊さんが来て、経を上げて帰るらしい。親戚は誰も呼んではおらず、叔父とその奥さん、そして僕だけが集まることになっていた。
 気は重かったが、出ないわけにはいかない。僕はシャワーで泡を流すと、コンディショナーを手に取った。



「ホントにね、なんでこんなことになっちゃったんだろうね」
 あの出来事以来、僕の顔を見るたびにそういう義叔母に、僕は応える言葉を持ち合わせていない。ただ無言で小さく礼をするだけだ。
 沙希はもうすぐ仕事に出ると言っていた。帰りはまた三時過ぎ。叔父さんと義叔母さんによろしく言っておいて、そう言って彼女は僕を送り出してくれた。
「お前も、そろそろ踏ん切りをつけて、ちゃんと働かないとだめだぞ」
 厳しい口調の叔父がそう言った。
 整理の行き届いたフローリングのリビング。窓から吹き込む風が夏のにおいを運んできた。毎日隣の仏間で焚かれている線香の薫りが、少しだけ薄れる。
 家族の生活が垣間見えるカウンターキッチンの上には、叔父夫婦の息子の隆俊が持ってきたのだろう学校のプリントが置かれていた。家族にとっては当たり前の、そんな平凡な情景が、今の僕には少し痛かった。
 僕が叔父の言葉に何も言えないまましばらく黙っていると、玄関のチャイムが鳴った。義叔母が慌てるようにして玄関に出て行く。
 墨染めの、もう見慣れた坊さんがリビングまでやってくると、叔父は立ち上がり、仏間に座布団を並べ始めた。
「やあ、弘人君。元気にしてたかな」
 穏やかな、多分三十代中盤といったところだろう痩せ型の坊主が、静かな笑みを浮かべて僕に声を掛けた。
「はあ」
 応える言葉が見つからず、僕はあいまいにつぶやく。この家に来てから、ずっとこんな調子だ。
「お父さんも、きっと君の事を一番心配しておられるよ。だから、早くお父さんを安心させてあげるんだよ」
 坊さんの優しい言葉は、ありがたかった。
 本当は、坊さんなんて、いや、神主だろうと神父だろうと、全く信用していなかった。結局金儲けのために能書きを垂れるだけの存在、そうとしか以前の僕の目には見えていなかった。それが現実かどうかは今もわからない。
 ただ、この坊さんの誠実さは、たとえそれが金儲けのためのものであったとしても、僕の心を少しずつ軽くしてくれた。嘘でもいい、騙されていてもいい、そんな優しさだった。だから僕はこの人のことを嫌いじゃなかった。
「それでは、早速始めましょうか」
 そう言って坊さんは、仏間へと入っていく。赤い色の数珠がちらと袈裟の袖から覗いた。


 厳かに、僧侶は般若心経を唱えている。義叔母がそのお経に合わせるようにして同じお経を唱えた。このお経が般若心経というのだということを、僕は彼女から教えられた。般若心経の意味や成り立ちについても教えられたが、よくわからなかった。父の宗派が何であるかすら知らなかった僕だから、当然だ。
 木魚を打つ音、蝋燭の揺らめき、遺影のなかで笑うでもなく怒るでもなく、真剣な眼差しをこちらに向ける父。
 父に、このお経は届いているんだろうか。
 この不思議な言葉の連続は、父を安らかにしてくれるんだろうか。
 僕にはなにもわからなかった。
 焼香の盆が回されてきて、僕は父のことを想いながら静かに焼香をした。立ち上る一筋の煙は、震える指先を撫でるように天井へと、天上へと上っていく。
 父に届くように、父の眠りが、辛く悲しかった死から解き放たれるように、僕は願った。
 お経が止み、坊さんが正座のままこちらに振り返る。
「経は百箇日法要ですね。これを別の言い方で申しますとソッコクキといいます。コク、口へんに犬と書いて吠、吠える事を卒業する忌、そういった意味合いです。これは亡くなられた方が四十九日であの世へと旅立たれて仏となり、百日経つと、この世に残してきた家族や物について悔いることになる、そういう釈尊の教えであります。つまり卒吠忌とは、地上に残された皆さんが、亡くなられた方のことについて思い悩んで罵り合ったりすることを卒業する為の行事なのです」
 その言葉が、心に響いた。
 僧侶は僕に目を向けて、目元をほころばせた。
「悲しむこと、思い悩むこと、苦しむこと。故人を想えば想うほどに、亡くなられた方の未練や後悔は高まっていきます。もう、百日が過ぎました。長かったでしょう、苦しかったでしょう。ですが、もう故人を、そして自分自身を、解き放ってあげるべきなのではありませんか? 苦しみを、悲しみを、卒業しましょう」
 もう枯れ果てたと思っていたのに、僕の目からは涙が流れた。まだこんなに、僕の中には流すべき涙が残されていたのか、僕はそう思っていた。
 涙にゆがんだ視界に、父の遺影が映る。
 父さん、ありがとう。もう僕は、思い悩んだりしないから。だから、安心してくれていいよ。
 僕は強くなるから。強く生きていくから。ずっと見守っていてね。
 父の遺影が、優しく笑った気がして、僕の心はすっと軽くなった。



「たーだいまー!」
 深夜三時過ぎ、沙希が大きな声を部屋中に響かせて帰ってきた。
「きょーおもつーかれーたぞーっと!」
「おかえり、沙希」
 沙希がリビングに入ってきて、紙袋を置くと同時に、僕はそう声を掛けた。
 彼女はそれを見て、一瞬固まってしまう。
「あれぇ……? どーしたのぉ? なんか、顔色いいね」
 頬を赤くして、沙希は僕の座っているリビングに「よいしょ」と腰掛ける。
 僕は微笑みながら、沙希の髪を撫でる。
「うん、今日は卒吠忌だから」
「……ソッコクキぃ? お米を白米にするやつ?」
 脱穀機か何かと勘違いしてるんだろうか。
 僕はまあいいや、と笑う。何ヶ月ぶりだろう、こんな風に笑うのは。なんだか頬の筋肉が突っ張るような感じがする。
 僕は沙希の肩を抱き寄せた。沙希は一瞬驚いたみたいで、それから僕に体を預けた。
「なんか、イイコトあった?」
 沙希の問いかけには応えずに、僕は沙希に口付けた。
 酒のにおい。僕を支えるために、身につけたにおい。
 解き放ってあげるべきではないですか。坊さんの言葉。
「沙希」
 唇を離して、僕はすぐに言った。
「なに?」
 真剣な表情の沙希が、僕を見つめ返す。
「僕は、沙希のことを愛してる。これからもずっと、一緒にいたい。今はまだ何も言えないけど、僕がちゃんと働き出して、沙希が働かなくても済むぐらいになったら、僕の子供を産んでくれないか?」
 僕の言葉の間中、沙希の表情はコロコロ変わった。改めてそんな沙希が、愛しいと思う。
 あせってるんじゃない。一年以上前からずっと考え続けていたことだった。これからの長い人生、きっと沙希以上に愛せる女性とは出会えない。沙希と結婚しなきゃ後悔する。だけどその踏ん切りがつかなくて、そのままになっていた。
 でも、この三ヶ月間、沙希に支えられて暮らした時間が、僕の心をどれだけ守ってくれたか。どんなに感謝してもしきれないくらい、沙希は優しく僕に接してくれた。沙希がいなかったら、今頃僕はどうなっていたかわからない。
 沙希のおかげで、叔父のおかげで、周りの温かいたくさんの人に支えられて、僕は今日のこの日を迎えたんだ。
 沙希のために、叔父のために、周りの人のために、父のために、そして僕自身のために、悲しみを、苦しみを、卒業しよう。
「嬉しい……」
 沙希が、涙を浮かべながら、キスをした。受け入れてくれた。
 僕は心の奥からわいてくるあたたかい気持ちに、全身を包まれるみたいな気がした。
「でも、ヒロ。あたし、花嫁姿でダンナさまにお姫様だっこされるのが夢なんだから、体鍛えなきゃだめだよー?」
「へーい、お水の仕事始めて太ったんだもんな、沙希」
「あー! あたしの気にしてることをー!」
 唇を尖らせて怒る沙希の、その表情豊かなかわいい顔を、守っていこう。
 父さん、僕は卒業するよ。
 悲しみも、苦しみも。
 孫が生まれるのを、楽しみにしていてね。






                 完
2007-06-23 16:52:10公開 / 作者:cocoHa
■この作品の著作権はcocoHaさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お読みいただきありがとうございました。感想などお聞かせ願えたら幸いです。
この作品に対する感想 - 昇順
もしかして……お久しぶり? のココハ様ですか? 同名の別の方でしたらごめんなさい。嬉しかったものでつい。
物語はお名前で惹かれたのでは無く、タイトルに惹かれて読ませて頂きました。(お名前に気付いたのはコメント書こうとして……あれ?!って感じだったので)
初めは淡々としたお話だな、と思ったのですが、卒吠忌についての説教は涙が出てしまいました。心が軽くなる感覚、いい話でした。全体的に淡白なのが、物語自体を説教臭くしていないので良かったと思います。
では、次回作お待ちしております。
2007-06-28 21:59:47【☆☆☆☆☆】ミノタウロス
計:0点
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