『アイウィッシュ』作者:模造の冠を被ったお犬さま / TXyX - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 テンシがみんなのネガいをカナえるはなし。
全角8654.5文字
容量17309 bytes
原稿用紙約21.64枚
 アイウィッシュ







 ──千代がずっと幸せでありますように。

 大神が夜空を見上げると、箒星が南西に消えていくところだった。
 齋の行動からすると、千代が外出してから二十分ほどにはなるだろうか。春になったというのに冷える。身体の末端がかじかんでうまく動かない。年齢のせいかもしれない。きっと、冬が身体を老衰させたのだ。夏が精神を老衰させるように。
 動く影があった。はっとして顔を向けたが、千代ではなかった。また、両手で器を作り、そこに息を吹きかけようとして気づく。一度目より早く振り返る。誰もいない。
「ワタシを知っているのか?」
 背後──首の裏──耳元で囁く、調子外れな音程。
「ヒデアキ」
 笑った気がした。しかし、確かめるすべがない。表情は包帯に隠されている。眼球だけが、ぎらりと生身を伝える。
「ぼくは死ぬのかな」
 頭部が崩れ落ちる。これが首肯らしい。
 せめて、千代が婚姻するまでは見届けたかった。それが父の務めではないか。
「ネガいは蝶だ。キレイな花のミツを吸って、枯れればツギに移る。シぬまで」
 包帯が似合わぬ詩を口ずさむ。可笑しなことだ。
「ワタシのソンザイを知っているなら、シに瀕してもヨロコべ」
 ヒデアキは死に神ではない。ヒデアキは天使だ。包帯に身を包んだ天使、その話を聞いたのは齋が一匹猫と紹介した人物からだった。
 私は斎のプライベートに干渉するつもりなどない。それ以前に、齋には個という感覚がないように思われた。人間に対して不適切な比喩かもしれないが、私は彼をロボットのようだと感じたのは一度や二度ではない。あるとき、そんな彼が友人と語らっているのも見て、私は少なからず驚いた。挨拶をしようと声をかけると、齋はばつの悪そうな顔をする。こんな人間的な反応も、あまりないことだった。
「こちらは私の知人の一匹猫です。一匹猫、こちらはハソクデパートを経営する大神社長」
 真面目な顔で『一匹猫』などと紹介する。冗談にしか思えないことを真面目にこなすのは齋にはよくあることなので、どうということはない。しかし、一匹猫と呼ばれた人物にはぞんざいな口の利き方をするのだな、と意外に思った。口汚いわけではない。気心の知れた仲なのだろうな、と邪推したのだ。
「よくわからないがこう呼ばなければならないようだな。よろしく、一匹猫くん」
 私が手を差し出すと、一匹猫なる人物も立ち上がる。ずいぶんと身を乗り出して話し込んでいるなと思っていたが、生来の猫背らしい。
「立派な肩書きをおもちですね、大神社長」
 目を覗かれて、握手をする手が震えた。社長という肩書きは、なにもしない王様ではない。雑務としか思えない仕事に骨抜きにされる中、玉座を狙う暗殺者に注意を怠ることもできない。その暗殺者とは権謀術数を巡らすペテン師の場合もあるし、比喩ではない場合もときとしてある。一匹猫は、ただものではなかった。
「きみが言うと厭味に聞こえないのが不思議だな」
「厭味にしか聞こえない台詞を、厭味だと思わせないように言うのが趣味なんですよ」
 何色ともいえない寒色系に染まった長髪をかきあげて、ソファの脇に置いたビニル傘を掴む。
「仕事だろ、齋。サボって僕に構ってちゃあいけないね。お暇しますよ、社長さん。またお会いします」
 傘を優雅に振りながら、ロビーを去っていった。
 今ではそれを予言と知る。一匹猫の言葉通り、彼とはそのあと二度ほど会った。そのときにヒデアキの話題に触れたのだ。
「千代の幸福を約束しろ。天使」
 包帯の切れ端が揺れる。
「シンプル。オオガミがシねばチヨは幸福になる」
 私が千代の幸福を邪魔しているとでも。
「チヨにとってオオガミは腫瘍。ナヤみのタネだ」
「ぼくが」
「じきにワかること」
 なにが。私のなにが千代の幸福を邪魔する。私は千代を愛した。肉親などよりも深く。生命を賭けてもいい。いまさらだ。今まで私は人生を賭けて千代を愛した。馬鹿なほど。溺れるほど。愛し尽くした。絆がある。そうだ。きっと、嘘だ。なぜ私はこんな包帯を信じる。嘘でなければ、はずれだ。間違えることはきっと、誰にでもある。
 ──きっと。
「ヒデアキは嘘を吐かない。なぜならヒデアキは天使だからね。天使を疑うことはなんぴとにもできないよ」
「しかしそれでは。天使というより、まるで、悪魔」
「なぜかな。死に際に現れるから不吉の兆しと感じるのかい」
「そうかもしれない。願いの代償に命を奪うなど」
「違う違う。死に際に現れて最期の願いを聞き届ける」
「だが、死は確かなのだろう?」
「死が確かなのは生物共通だよ」
 私は首をもたげる。
 ヒデアキの姿はなかった。代わりに、千代の姿が小さく見えている。私を見つけ、駆けてくる。
 私はできるだけ朗らかに笑う。







 ──さらなる領土を! さらなる忠誠を!

 野性味など疾うに抜けた、膨らし過ぎてぺしゃんこになった餅の顔の犬がアパートの窓際で溶けている。
「ふわぁう」
 然し、其の平穏も破られる。窓硝子が叩かれたのだ。
 びく、と犬の毛が立つ。流石に警戒心までは溶けきっていない。
「ばうう」
 吼えてはみたものの、だが肝心の相手の姿が見えず犬も困惑気味である。暫くしても反応がなく、犬は硝子戸を開けてみた。器用な犬なのだ。
(コチラだ)
 犬が吼えていたのとは反対方向、部屋の中から声がする。犬は振り返ったが、其れで即座に敵と認識し攻撃を仕掛ける事が出来た訳ではなかった。縄張りに他者が張り込むことを極端に嫌う此の犬が、である。何故なら、さらなる困惑に嵌まり込んでいたからだ。
「ううう」
 此れ程まで奇怪な人間を見たことがない。妖怪木乃伊男を思わせる風貌。包帯の端が幾枚か棚引いている。
(警戒しろ。それがスんだら警戒を止めろ)
 敵ではない、と判断した。そう判断を下す様に言ってきたのだ。だが然し、此れは本当に声なのか。我輩と言葉を交わす人間など、文字通りの言語道断。
(困惑はカマわない。スきなだけすればいい)
 何者なのか。敵意や害意は感じられないが、だからといって味方にはならない。
(イヌ。なにかネガいはあるか?)
 犬は感じた。此れが初めて会う、自分より上位の存在だと。
「くん。くくうん(我輩の願いを知って如何する?)」
(そう警戒するな。ワタシはキバをもたない)
 掌をひらひらとさせる。同時に、包帯も。
「くう、くくくう(牙等なくとも、お前達の狡智を知っている)」
 木乃伊男の腰が折れた。笑っているやも知れない。
(見た目のワりに、タイソウとウタグり深いんだな)
 其の仕草は犬の目に不快と映った。我が群れに属さないものは皆、敵だ。
「ばくん(我輩とマキの縄張りに何用だ)!」
(そうカッカするな。ハジめに言ったろう。イヌのネガいをカナえてやる)
 犬は団栗眼を更に大きくさせる。
「ばうっばうっばうっ(我輩の願いは、縄張りをあらゆる場所に巡らすことだ)」
 そして、呵呵大笑する。
「ばうっばうっばうっ(だが勘違いするな。其れは我輩の此の前足で行うのだ)」
 木乃伊男の腰が、今度は鋭角に折れた。声も洩れている。其の笑いが、我輩の夢を蔑んでのものなのか其れとも圧倒されてのものなのか、其れは歴然としていた。
(イヌ、スまない。ミクビっていた。おマエのウツワは確かだな)
 手持ち無沙汰になったらしい木乃伊男は、包帯の切れ端を掴むと解いてゆく。くるくると巻きながら、そうして包帯の中からは──何も現れなかった。
 犬はもう動じない。(木乃伊男ではなく透明人間だったか。無様なものだな)と、そう感じていた。
 残されたのは包帯一巻。
 ゆるゆると犬は定位置に戻り、溶け出してゆく。

「あーっ! またベランダの窓が開いてる。駄目でしょうが、どんぐり!」
「まあまあ、どんぐりは眠っていますよ。もう少し寝かしてあげましょう」







 ──私は。

 冥闇の中を彷徨っている私に与えられたのは、冥闇。
 その希望が絶たれた状態を絶望のうちに囚われた私は躯を冥闇に浸している。なにもない。なにもなく、なにもなく、なにもなく、虚無がある。虚無があり、虚無があり、虚無があり、だからなにもない。ただ思考する私の意識だけを感ずる。感ずる私の意識が「なにもない。虚無がある」と感ずる。再入力。「なにもないから虚無がある」。「虚無があるからなにもない」。エンドレスリピート。虚無の謳う永遠。冥闇ばかり。
 ──円。
 冥闇が震えて戦慄いて、私に声を届けてくれた。
 二音ながら、ここまではっきりと鮮明でくっきりと瞭然な音は初めてのこと。円たる意識を傾ける。意識が注がるる。
 ──ウィッシュ。
 万能なるかなその文句。意味を識らずして、伝わる。冥闇を使役するより迅く、実像を映写するより適う。
 意識のみの持たざる私に願うことが適うとなれば、その欲望で困窮の頭脳が転回し、その欲望は枯渇した舌根を旋回させる。留まりの限度を識らずして、宇宙の膨張を再現する。叶えられてなお、願いの愚かしさに疎かさに恐ろしさに後悔するを待ち、身悶える。
 ──ネガわずばカナわず。
 曖昧なる舞舞たる声よ。汝人の欠乏を視よ。私にはまだ躯がある。活動の基盤。自己の象徴。体験の絶対要素。汝人にはそれがない。
 ──クラいクラいクラいクラいクラい。
 止め。辞め。已め。病める。休め。狂わしく壊し戮す気か。
 ──なあ、シにたくなるだろう?
 願いを。希みを。夢を。未来を。将来を。理想を。断ち斬ることこそ願いなどそれは。連鎖する言葉。連鎖する思考。連鎖する意識。斬るOneself。
 意識が傾く。注がるる。思考が傾く。言葉が注がるる。躯が迫る。自壊のほうへ。
 転がる。転がり落ちる。堕ちる墜ちる。転がり落ちる斜面は角度を益して、転がり落ちる私の加速度が益して。堕ちる墜ちる。狂えるほうへ。
 苦しいやめて援けてやめて苦しい援けて苦しいやめてやめて、援けて苦しいやめて、援け、て。
 迅い鼓動の共振を聴く。
 私。
 援けて私。
 私を援けて私。
 苦しい私を援けて私。
 私の頬に触れる私が自分の頬に触れる。私の鼻に触れる私が自分の鼻に。唇に触れる私が口に。目に触れ瞼。耳に触れ耳。頸に頸に。肩に肩に。腕に腕に。胸に胸に。腹に腹に。腿に腿に。膝に膝に。脚に脚に。
 やめて。
 やめて私。
 私の瞼が開く。おそらくは同時に。抱かれる。抱くのではなく。
 ──誰?
 堪えられず応えられずに答えられない。私ではない私はその眼に私を宿していない。私ではない私はその眼に自分を投射している。私に自分を視ている。幻想を視ている。幻影を視ている。夢幻を視ている。夢想を視ている。幻想を視ている。冥闇が混じり陶酔した脳漿は虚像を視せている。
 この違いは。それは絶対的な差異。あれは正当化するための自己弁護。どの外部も私ではなく、私は私。私は他者に戮される。

 同じ皮膚を持つもの同士、肌はとてもよく馴染む。
 唇を襲ね躯を襲ね求め求められ止められもせずに。
 生き写しの瞳が互いの瞳を映して瞳の私を歪める。
 舌を絡ませ指を絡ませ表皮の境界線を塗り潰して。
 こころも躯も魂も襲ね合わせて一体となり同化し。
 狂って壊して戮して狂って壊して変わらず歿ぬる。

 同一視からくる同一化は。もともと別物であるから適うこと。私は捕り入られた。活動の基盤。自己の象徴。体験の絶対要素。それらは私の統制下にはない。私は歿んだ。
 ひとつ、この新たな愚かしく疎かで恐ろしい私に忠言を与えてやろう。
 ──往け。
 愚かな私よ、泅げ。疎かな私よ、生あることに苦悩しろ。恐ろしい私よ、生きるために今このとき立ち向かえ。私を戮した私よ、歿ぬのは赦さん。
 嗚呼、晄。晄が視える。冥闇を抜けた先の純皓の。夢見た声。鼓膜を打つ確かな振動が。
 希望が在る。未来が在る。可能性が在る。嬉しみも哀しみも。
 私よ、視える。聴こえる。感じる。

 私は
 お前とともに活きる。







 ──この気持ちをそう呼ぶのであれば、そうなのだろう。ぼくが欲しているのはそういうこと。

 虐げられるのは御伽噺の中だけではなかったらしい。亀ヶ滝タスク。亀の名をもつ、人間。
「夢だったんです。……いえ、理想とか希望って意味じゃなく、寝ているときに見るほうの」
「アクムか」
 この男の勤める会社の屋上。見下ろす土手には桜が舞う。
「そう、普通は悪夢と言いますよね。会社の人間を殺戮して徘徊する夢なんて」
 男は私と顔を合わせようとしない。私の姿が恐ろしいのもあるからだろうが、それは些細な理由。人に慣れていないためだ。顔を合わすことも、誰かと話すことも、誰かに会うことすら機会がないのだろう。そういう生き方をするのは、そういう人生を送るように作ってきたからだ。自ら望んで。
「でも、夢の中の私は笑っているんです。狂ってしまったような笑いを。狂ってでも楽しくてでも悲しくてでも、現実に笑ったことなんて思い出せないほど遠い昔なのに」
「ナツかしいのか」
「そう、なんでしょうね。嬉しいんだと、思います。私が笑っていることが。本当の私まで狂ってしまったみたいだ」
「みたいではない」
「うん。狂ってる。そうさ、ぼくは狂ってる。どうだい、ぼくは狂ってるだろう。どうかな。狂ってるから、ぼくは今のぼくを素敵だと思うんだ」
 屋上を踏み潰して、軽やかに踊るようにステップする。
「ワタシも、クルっていることはキラいではない」
「そうだよね。でもたまに虚しくなるんだ。起きたとき。夢だったって。覚めると、褪める」
「ユメをユメにする気はないか」
「ん? 寝ているときの夢を理想や希望の夢にするって?」
「そう」
「いくら狂ったぼくでも現実に人を殺したりはしないよ。ぼくにはまだ理性が残ってる。だから、その衝動を止められる」
「ロンリがおかしい。リセイがあるから止めるだと? リセイがミチビいたのが職場殺しだ。そうまでしなければリセイがタモてなくなっている。ユメをカナえたあとのことは気にするな。どうせすぐにリセイなど吹き消える。衝動があることは否定していないだろ」
 男はぶるっと、身震いする。桜吹雪がこちらまで飛んできた。
「でも……。ですが……。人を殺すなんて、大それたこと……」
「シなばモロトモでも?」
「え」
「おマエの余命はノコりいくばくかしかない」
 呆気にとられて腰を抜かしている。尻餅をつき、ワタシを見上げる。
「そ、そんな。なぜ?」
「ワタシは天使だ。これは天命。イサギヨくウけイれろ」
 見上げるのも精一杯だったのだろう。がくりと項垂れる。
 ワタシは男の脇に、新聞紙を投げ捨てる。その新聞紙は中身の入った乾いた音がした。男は焦点の合わない目で見つめ、震えの止まらない手でぺり、と新聞紙を剥がした。
 玩具の軽さ。光沢のある新品の漆黒。テレビジョンの中でなら何度も目にしただろう。
「けんじゅう」
 認識野はまだ健在か。
「メイドのミヤゲじゃない。ジサツドウグでもない。生きるために使え」
 腰を落としたまま、ワタシから一歩遠ざかる。いまさら、このワタシが本当に恐ろしくなったらしい。鈍い男だ。亀か。
「そろそろ昼休みも終わるのだろう? さっさとタちアがれ、マエをミろ、ススめ」
 もっと面白い男だと思ったが、期待外れだ。ワタシは消える。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
「ありがとうございます。大事に使います。あ、あれっ」
 おかしいなあ、ひとりごちながら亀ヶ滝タスクは狂気の笑みを浮かべながら屋上の階段を降りてゆく。







 ──もしも……、少しだけ運命が異なっていたら。

 “人生に疑問を抱いたことは? あのとき、ああしていればと思ったことは? 過去に帰ってやり直したいと思ったこと、あるよね?”。当たり前だ。竜は吐き捨てるように、声に出して言った。占い本を読んで落胆している。その本が女学生向けの本であり、なにか人生における価値を見出そうという素材ではないことに気がつかず購買したらしい。天才というのはわずか一ヶ所が突出していて、あとは無残な状態なもののことを指す。
 竜は天才と呼ばれていた。

 もしも天使に出会わなければ。
 竜がそれに出会ったのはキャンパス内だった。母親から何度も繰り返し写真を見せられ話を聞かされてきた白い相貌を見てすぐに「天使だ」と思った。しかし、それはすぐに二度と開けられることのない厳重で堅牢な引き出しの中にしまわれる。竜の才能はその副産物として──いや副作用といったほうが正しいかもしれない──感情を無機質に扱うようにできている。竜は彼女に声をかけることを躊躇い、二の足を踏んだ。不思議なことだった。母親により長年培ってきた知識に対して刹那的な衝動では行動できないのだろうと自己分析した竜は計画を立てることにした。
 感情を伴わない竜は意識することがなかったが、それは復讐だった。

 もしも二人目の天使に出会わなければ。
 天使は言った。「交われ」と。そのための舞台は用意するし、そのための小道具は用意するし、そのための演出は用意するし、そのためのエキストラは用意するし、そのために必要なものはすべて用意すると言った。竜はこのとき自分の立てた計画が残酷な復讐劇だとようやく気づいたが、それはもう後に戻れなくなった今となっては遅いとも気づいていた。
 天使は悪魔の微笑みを浮かべていた。

 もしも挫折を感じていたら。
 勝ち組人生のモデルがあるとしてそれに竜の人生が選ばれることはないだろうが、彼の主観で彼の人生を顧みるならこれまで一度として負けたことはなかった。一度でも挫折を感じたことがあればもっと慎重に事を進めるだろうし、あんな不用意に天使と接触をしなかった。天使は竜に人生の転換期を与えた。蒔間苫人の言い草を借りるなら“転換期の種を植えた”ことになる。それは竜の人生に根を張って養分を吸い取り、竜の成長とともに大きく成長し、今この大学時代ではつやのある葉を繁らせている。花が咲くのはまだ先のことだ。
 その花が竜の人生で最初で最後にして最大の敗北を味わわせることになる。

 もしも復讐が失敗していたら。
 竜の人生における失敗は一度きりと記した以上明白なことに、目先の結果として竜の復讐は一応の成功を収めた。天使こと之巳と竜は恋愛関係になった。これには天使の強制力が働いていたとしてもそれだけではなく、竜の心の裡に秘められた感情も大いに由来するだろう。彼らは結婚こそすることができなかったが周囲にはそうではないように装い、書類が存在しない以外はまったく普通の夫婦と変わらない生活をして過ごした。そして当然のように之巳は子を孕み、当然のこと夫婦は喜んだ。しかし反面、竜は喜べば喜ぶほど心の片隅にとっかかりを感じていた。
 花のつぼみは開花まであとわずかに迫っていた。

 もしも代価が竜の命だったら。
 悪魔と契約をした男は自分の子供の見返りに富と名声を手に入れたが、引き渡しの段になって子供を手放したくなくなり悪魔を拒んだ。男は激怒した悪魔に殺され、子供は母に連れられて聖なる山にこもる。結界に張られた山に入れない悪魔は巧みな話術をもって子供を誘い出し、連れ去った。悲嘆に暮れた母は谷に身を投げた──。そんな戯曲を思い出す。まさにそのまま、あのときヒデアキと名乗った天使が要求したのは戯曲と同じものだった。子供など自分とは無関係で取るに足りない事柄だと思っていたのに、実際にその状況になってみると自分の命にも代えがたいと知る。
 機を読み制する才能をもった竜がその勝負で天使に読み負けた。

 もしも悲劇と呼ぶのなら。
 ヒデアキにとってそれはAのビーカに入れた溶液とBのビーカに入れた溶液を混ぜるとどうなるかといった配合実験に過ぎない。偶然にAが竜の子種でありBが之巳の母体だったというだけだった。ヒデアキは人生におけるありとあらゆる失敗をしてその経験という土台から二度と失敗をしない経験則を作り上げていた。表れる性質が似通っていても竜とは正反対の構造をもっている。ヒデアキはこの実験結果に満足していた。
 赤子は天使の腕に抱かれて眠っている。







                                        fin.
2007-05-02 14:06:31公開 / 作者:模造の冠を被ったお犬さま
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■作者からのメッセージ
 錆びついた頭のいいストレッチになりました。各パートの味付けの違いを楽しんでいただけたら幸いです。
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