『季節が変わる頃』作者:あひる / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 彼女は変わりたかった。

 変わりたくて、変わりたくて、何を犠牲にしても変わってやると決意した。どんな壁が立ち向かおうと、何を言われようと、自分の主張は通しとおそう、そうベッドの上で自分に誓った。
 それは蒸し暑い夏の出来事。

 季節は夏から秋へと、変わろうとしていた。そしてあたしも、このうんざりした生活から、新しい生活へと変わろうとした。親に止められながらも、既に色素の薄い髪を、もっと薄くして、耳にピアスの穴を開けた。スカートの長さは、学校指定の膝上3センチをやぶり、膝上
10センチにした。
 全てが変わって、見慣れない風に途惑う時もあったけど、もう万引きだって何だって、不良行為だと言われることなら色々とした。自分が生まれ変わるために、どんな卑劣な行いでもそう自分に言い聞かせて、仲間と呼べる存在と共に笑い合った。あたしは母親に縛られた世界から、解放されたんだ。もう言いなりにはならない、全てはあたしのために、あなたもあたしのためにいる、そう考えられるようになった。
 自分でもこの変貌ぶりには驚ろくものだった。三つ編で眼鏡な地味女から、こんなに脳味噌が軽そうな女になるなんて。
 けれど幸せは長く続かないんだって、耳を強く引張られるように、教えられた。
 それ以前に、あたしには幸せなんていうものは無いんだと思い知らされた。現実の壁にぶつかって、それでも起き上がったあたしだけれど、今回だけはもう戻せない。自分の主張は通しとおす、そうやって自分に誓った昔の自分が腹立たしくなった。黒の絵の具の上に、白い絵の具を混ぜても、真っ白にはならない。汚い色になって、その色はもう使えないっていわれて、捨てられてしまう。あたしはそんな存在だった。
「浅倉、なんだその格好は。後で職員室に来なさい」
 先生からの言葉には、酷く傷付いた。今日も夕暮れの廊下で、先生に注意された。理由は分かっていたのに、納得できない自分がいる。それに無性に腹が立った。味方だった先生が、いつも優しくしてくれた先生が、今ではどうだろう。いつも罵声を飛ばして、あたしのことをゴミとしか思っていない。
 それ以前に先生の目が怖かった。目をあわせたら、殺されそうなほどの恐怖感を覚える。どうしてだろう。何故か自分の頭の中でつくられていく、妄想の先生の顔。酷く引き攣っていて、あたしをいつも叱る。
「……はい」
 静かに返事をして、すぐ傍の窓から景色を見つめる。色褪せたような赤と蜜柑色をした夕焼けが、わたしを馬鹿にするように見ている。今までの自分は、怒られることなんてない、褒められるだけの偉い自分。それなのに、授業をサボったり、テストを放ったりで、自分は中身も外見も、全てが変わってしまった。
 長所なんて無い。わたしは運悪く落とし穴にはまってしまった馬鹿な人みたい。いい部分だけとられて、悪い部分だけになった自分が、とても醜く感じた。綺麗な夕焼けは、そんなわたしをちっぽけに感じさせる。
 勉強がとりえの地味でなんの意味のない自分から、もっと楽しくなるように変わったつもりだった。
――つもりだった
 それなのに今の自分はどうだろう。とりえなんて何処にもない、全てが持ち出されて、体だけのわたし。馬鹿みたいにへらへら笑って、仲間に話を合わせている。母親から見放されて、ただ一人街をぶらぶらと彷徨う。行く宛なんかなくて、お金もあまりないので、そこらにいる男を引っ掛けては、捨てられる。
 脳味噌のない頭で、考える。自分は何をしたかったんだろう。長所なんて何もない人間になりたかったのだろうか。いいや違う。こんな自分に呆れて、悲しくなって、死ぬほど追い詰めた。だから変わったんだ。それなのに何も得るものはなかった。
「唯、どした?」
 仲間から呼ばれる。けど答える気にもなれない。あなたたちの所為で、あたしはこうなった、と言いたかった。けれど本当は、認めたくないけれど、あたしが選んだ道だ。あたしは仲間に話した。注意されたの、昔の事を思い出したの、辛かったの。こんな気持ちを受け止めてもらいたかった。母みたいに、自分が思っていることを吐いたら、ちゃんと聞いて、全てを受け止めてくれるみたいに。
 けど、わたしが選んだ道は、耕された土のように柔らかいものではなく、アスファルトのような冷たく、硬い道だった。
 愛情のない者に抱き締められても、なんの幸せも感じない。今のあたしはそれと一緒。優しくあたしの名前を呼んでも、あなたが偽善者だってことはすぐに分かってしまうの、皮はすぐに剥がれてしまうの。それならば、そんな偽りの優しさなんて欲しくない。
「センコーに呼ばれたくらいでショゲるなよ。優等生ぶってるつもり? もうお前は不良なんだ、相手にされなくて、当たり前なんだよ」
 冷たく言い放される言葉に、酷く傷つけられる。あたしはうん、と曖昧に返事をすると、その場を離れた。
 怖い、これが自分の選んだ道なのに。目を瞑って選んだものを、一生背負ってなんて生きていけない。あたしはそう思った。

 放課後も、何処も行く宛がない。そういえば先生が後で職員室に来いって言われていたな、けど怒られるだけなんだ、やっぱ行きたくない。色々な思いが頭の中で行き交う。そうやって悩んでいるうちに、街をすぎ、商店街をすぎ、住宅街の真ん中、懐かしい我が家についていた。
 一番最後に親を見たのは、いつだったろう。髪を染めると言ったら反対されて、どうしようもない怒りがこみ上げてきた。今思えば、どうして、怒ったんだろう? と不思議になるほどのつまらない理由で。そしてあたしは、家を出て行ってしまった。全てが嫌になって、どうしてもこの家にいられなくなって、適当に荷物をまとめると、公園の滑り台の下でずっと泣いていた。その後はもうぐちゃぐちゃ。初めて出会う難問ばかりで、当然痛い思いをしたし、けれど何よりも精神的に辛かった。
 重いドアノブに、手を掛ける。まわすとぎいという軋んだ音がした。懐かしいと感じながらも、ドアノブを引くことはできなかった。この中には愛しい家族が居る。会いたい。ごめんねって謝りたい。けどもう遅いんだ。こんなあたしを見て、親はどう思う? ショックを受ける、こんな格好で、やさぐれたあたしを見て。
 ドアノブを引くことはできない。会いたい。けど会えない。それも自分勝手な理由で。愛おしいほど、会ったときの辛さは増倍する。その時の親の顔が、絶対に見られない。あたしはドアノブを握ったまま、強く唇を噛み締めた。情けない。だけど償えるものは何もない。けれど、見守ることならできる。
 あたしは決心して、裏庭の方へと回った。大きな窓に、リビングが見える。いつもカーテン閉めてって言っているのに。あたしの中に懐かしさが込み上げてくる。リビングには料理を作る母、その母と話をする妹たち、そしてテレビを見ている父。
 何も変わっていない、全てが、いつものまま。

「今日はね、学校で図工があったの。楽しかったよ」
「あたしもあったの」
「よかったわね」
「おい、母さん。夕刊は何処だ?」
「ちょっと待ってね、そこらへんにあるから」
「お母さん、あたしの体育着は?」
「洗濯物、そこにあるでしょう?」

 誰が抜けたの、誰が居なくなったの、何が変わったの。
 抜けてないよ、誰も居なくなってないよ、誰も。あの家族に、何かが欠けたなんて思えないの。あたしなんて最初から居ない、実在しない人物だったの? こんな風景を見て、あと1ピースつで完成するパズルが崩れる。パズルのピースは全て飛んでいってしまって、何処に行ったのか分からない。あたしは迷路にいるように彷徨って、一人、途方に暮れている。一生懸命探したのに、何一つ見つからないの。
 ホームランを出した。それなのにそのボールは何かの理由でファールになった。ちゃんとホームランを打ったのに、バットにボールを当てたのに、なんでファールになったのか分からない。あたしの信頼は無くなって、レギュラーじゃなくなって、補欠になってしまう。ちゃんと打ったよ、ちゃんと打ったのに、何かがいけないの、反則はしてないの、見ていたでしょう? 必死に訴えるのに、誰もあたしの声なんかに応えようとしない。見向きもしない。ただあたしは一人なの。 そんな気分になった。誰もあたしを見てくれないの、手伝ってくれないの、あたしは独りなの。寂しくて、何も出来ないような感覚に陥る。
 あたしの特等席の、母の隣。誰もないのに、違和感がない。いつもと同じ風景で、あたしが抜けたことなんて分からないくらい。この家族は笑顔がいっぱいで、きっとあたしがいなくなっても、皆は変わらないで笑顔でいるんだろうと思った。現にそうなのだから。
 そう、変わったのはあたしだけ。そう思うと悔しさが溢れてきた。もうあたしはいらないの? 居場所はないの? どうすればいいの?
 何かがぷつんと切れて、溢れた。今まで溜めてきた何かが、涙と一緒に流れていくのを感じた。家からそっと離れて、とぼとぼと歩き始めた。途轍もない悲しみと、あふれ出る怒り、そしてどこへぶつければいいのか分からない寂しさ。あたしには何もなくて、本当に一人になったんだって感じられた。
 高校生にもなる女が、道端で、大声で泣いているなんて、変だ。けどあたしは、その涙が途切れるまで、ずっと泣いていた。もうあたしのために叱ってくれる人もいない、笑ってくれる人もいない、泣いてくれる人もいない。あたしはずっと、あたしのために泣いていた。寂しくて、もうどうしようもない気持ちになった。
 あたしは泣きながら立ち上がって、道を歩き始めた。いつも通学路として使用しているこの道は、何処にも辿り着かない、永遠に続く道なのかと思えた。
 あたしは何がしたいんだろう、何を求めているんだろう。戻りたい、あの幸せな頃に戻りたい。どうして変わりたいなんて思ったの。あたしの前の生活に、不自由な所なんて一つもなかったじゃない。
 自分に自分で問いかけた。けどあたしは答えられない。きっと変わりたいと思ったのは、一時の迷い。少し憧れていたんだ、自由に過ごしている人たちを。けどそれはただの憧れだった。なりたいとは思ってなかった。あたしはあたしの気持ちを、勘違いしてしまったんだ。ただの勘違い、所詮勘違い。けどそれで、あたしの運命が全て狂った
 その時あたしは、改めて自分が愚かだと感じた。

 教室ではいつも憂鬱だった。あたしは不良仲間からも、一目置かれる存在だった。教室では、真面目から不良に変わった変人。いつも居心地が悪かった。授業はサボることが多く、二人一組や、グループでやる授業はとても辛くて、必ずサボった。
「おはよー」
 楽しい朝の時間。教室では色々な声が飛び交う。
 おはよう、宿題やってきた? 昨日のテレビ見た? 
 そんな中、あたしは一人、本を読んでいる。寂しいけれど、勝手に話しに入って軽蔑の目で見られるよりは、遥かにマシだった。
 あたしが教室に入ると、皆が小声になる。あたしはきっと、あたしの事を言っているんだと思う。それはあくまでも予想だけど、小声とは気分が悪くなるものだ。
 あいつマジウザイよね、なんかあいつが教室にいると、雰囲気暗くなるっていうか。殺したくなるんだよね? ああ、そうそう。ていうか、あいつの思考回路読めないんだけど。キモイし。
 たまに聞こえる、小声。小、中学校の頃から、がり勉とか言われていて、慣れているけれど、やはりキツかった。高校になると、特に女子の声が鬱陶しい。一々五月蝿いんだよ、とキレそうになる時もこの頃ある。
 ちゃんと日本語で言ってよ。意味分かんない。あたしはそう思っているものの、声には出さなかった。いや、出せなかった。それほどあたしが臆病だから。
 なかでも沢村中心の男子グループは、嫌いだった。けれどリーダー的存在の沢村は、あまり小声にはならなかったし、あたしを避けたりもしなかった。
 けれど何故だろう。そんな沢村が嫌いだった。いつも明るく笑っていて、あたしとは大違いで、鬱陶しかった。あの笑い声が、楽しそうな笑顔が、いつも満足気な表情。クラスのリーダー的存在で、いつでも真ん中にいる。皆が沢村のために動いている。先生でさえも、沢村に慕っているような気がして。
 全てが嫌いだった。沢村がいつも楽しそうな人間、というわけではないのだが、どうしても自分の前でいつも笑っている沢村は、好きになれない存在だった。
 あたしはHRに出ると、嫌いな授業だと図書室にサボりに行く。今日も廊下を走って、図書室へ向かう。あたしは昔から本が好きだった。こんなになってしまったあたしだけど、本が好きなのは、変わらない。それに図書室は入りやすい。司書のおばさんは、いつも眠っているので、楽々とゲートを潜れる。そうするとあたしは、窓際の暖かい席を選んで、座った。お気に入りの本を何冊か手元に置き、秋風に頬を撫でられながら、ページを丁寧に捲っていった。それがあたしの日課。サボっているという感覚なんかなくて、ただ自分の自由の時間みたいだった。唯一羽を伸ばせる場所、時間。だが今日は、違った。

「今日寒いもんな。体育なんかできるかって」
 元気な声が聞こえる。あたしは反射的に本棚の影に隠れた。誰だろう。いつもは此処に来る人なんていない。一時間目からサボる奴なんていない。あたしは必死に空の脳味噌で考えた。
「だよな。けど図書室でサボるって、なんかカッコいいよな」
 この声は沢村?
 あたしは体を震わせた。なんで沢村がいるの、授業はどうしたの、内申下がるよ。あたしはこっちに来るな、と必死で願った。きっとからかわれる、無視される、 変な目で見られる。恐怖で顔が引き攣るのを感じた。
「そーか? 俺は保健室がいいけど。そだ、行こ、保健室」
 沢村と喋る、もう一つの声は遠ざかっていく。あたしはほっとし、胸を撫で下ろした。きっと沢村も一緒に出て行く。保健室に行く。大丈夫。
「いや、いい。お前一人で行けよ。俺、読みたい本あるから」
 だが沢村の声は、遠ざかるどころか、近づいてくる。あたしは沢村の足音らしき音を、怯えて聞いていた。
「ああ、分かった。後で保健室来いよ」
 二人きりにしないで。あたしは小さな身をもっと縮めて、見つかりたくないとずっと思っていた。けれど事は上手くいかないのだ。自分のわがままで全てを失った女に、神様は幸せなんてくれない。
「あれ……浅倉?」
 近づいてきた足音が止まる。床がぎしっと体重がかかった音がした。顔をあげる勇気なんてない。必死で顔を隠したのに、なんで分かっちゃうの?
「浅倉だろ? いきなり髪染めるから、ビビったよ」
 腕の間から見える沢村は、笑ってた。自分が幸せそうに、あたしの事を見下しているんだ。そう思うとどうしようもなく腹が立って、大声で叫びたくなった。何か分からないけど、大声で、思いっきり、何かをぶつけたい気持ちになった。
「いつも此処でサボってるわけ? いいよな、此処。温かいし、サボってる気がしないっていうかさ」
 押し黙っているあたしに、沢村は気にも止めず話し続ける。あたしはそんな沢村が、何故だか嫌いと言い切れなくなった。
「司書のおばさん、意味ないよな、ずっと寝てるし。浅倉は此処好きなわけ?」
 探っているという感覚より、あたしのことを知ろうとしてくれるみたいで、なんだか嬉しいなんて感情が、浮き出てきた。そんな沢村に、あたしはつい、口を滑らせてしまった。
「……好き」
 この場所、好きだよ。沢村もすきなの? 知ってた、此処って一杯本があるんだよ。沢村のすきそうなのもあるの。史書のおばさんは、いつもパートをやっているから眠くなるんだって。言いたいことは、一杯あった。隠しても隠し切れない寂しがり屋のあたしだから、本当は構って欲しかった。たとえ相手が沢村だとしても。
 沢村はこんなあたしに、やや驚きながらも、柔らかい笑みを見せてくれた。
「うん、俺も好きなんだ」
 心の中の何かが、溶けたような気がした。初めてあたしの言う事に頷いてくれた。嬉しくて、ちょっとだけ涙が滲んだ。
 それからあたしたちは、少しだけ話をした。どうしてこうしたのか、どうしてこうなったのか、あたしの主張はどうなのか。あたしのいう事を真っ直ぐに受け止めてくれて、仲間とは大違いだった。優しく、一つ一つをあたしの言葉から考えて、ああそうだね、と相槌を打った。適当に返事しているとは思えなく、話していて不快感を与えなかった。その逆に、話していて気持ちが清々したのは何故だろう。
「――自分勝手だけどね、変わりたかったんだ。そうしたら自分じゃない自分になっちゃったの」
 あたしはぽつりぽつりと、今まで言えなかったことを簡潔に、搾り出しながら話した。軽蔑されたっていい。この思いが伝わればいいんだ。あたしはそう思いながら、涙声になりつつも、今の自分の心情を伝える。
 こんなに自分の気持ちを素直に伝えたのは初めてだった。母親には、本当は勉強が嫌だと言えなかった。先生には、本当は大学なんて行きたくないと言えなかった。本当は何もかも嫌なんだって、いえなかった。全てがぐしゃぐしゃ。自分の思いを伝えられなかったのに。今のあたしは、魔法がかかったみたいに沢村に話していた。
「そうか。でもさ、俺思うには、浅倉すごいと思うよ。だってさ、変わったんだ。自分のなりたいものに、変われたんだ」
 すごい? あたしが? こんなあたしが?
「……違うよ。あたしはわがままなの。自分に嫌悪感を覚えたから、変えたの。あたしはあのままで幸せだったのに。これは自分の所為なの。あたしがわがままだからいけなかったの」
 家族にも、友達にも、学校にも、全てに迷惑を掛けて、やっとの思いで変わったあたし。それなのに何も得るものはなかった。馬鹿みたい。何を望んで、こんなことをしたのだろう。
「だからさあ、浅倉はなんで自分を責めるわけ?」
 違う。責めてないよ。あたしはちゃんと分かっているんだから。あたしがいけないこと、迷惑かけたこと。自分が責められる人だって事。
 強い意志を持った目で、あたしに訴えてくる。居場所が狭くなった。せっかく聞いてくれているのに、なんで言わないの? チャンスなのに、自分から言えないあたしにとっては。
 ぐっと目に力を入れた。涙が零れないように。沢村に心配をかけたくないから。
「まだ浅倉は戻れる! 外見は変わったけど、まだ浅倉は浅倉のままだ。ただこんな自分に、驚いて、焦っているだけなんだ」
 それなのに沢村は、あたしを感情的にさせる。自分はまだ戻れる、あの笑えた日々に。沢村の言葉は、あたしを魅了した。それはあたしを分かってくれているから、こんなことがいえるんだ。あたしの事を見下ろすわけでもなく、同じ目線から、あたしに声を掛けてくれた沢村に、感謝の気持ちを伝えたい。
「……そうかな。あたし、戻れるかな」
 あたしがそう呟くと、おおと、沢村が相槌を打った。そしてあたしは、久しぶりににっこりと笑った。嬉しい。話が通じたんだ。一人じゃなくて、もう沢村がいる。
 そんな時、あの声が聞こえた。保健室に行こうと、一緒にサボりにきた男。あたしが反応すると、沢村が優しく言った。
「俺のダチ。クラスメートの宮下。変な奴じゃねえからさ」
 そう言って沢村は、おい、こっちだと大声で叫んだ。そんな大きな声で言ったら、司書のおばさんが起きてしまうのではないかとひやひやしながらさっきは声しか聞こえなかった沢村の友達の宮下を少し期待しながら待った。
 けどそんなに現実は甘くない。偶然に沢村が優しかっただけで、沢村の友達の宮下も優しいわけじゃないのに。だからあたしは言い聞かせたのに。大きな壁にぶつかって、痛い目を覚える前に、その予防をしておけと。それなのにあたしは、馬鹿だった。
「沢村! 来いって言ったのに! ……誰こいつ」
 沢村の友達、宮下は、あたしのことをまるで汚物のように見る。あたしは少し宮下を睨んだが、効果無しだった。
「色々な理由があってさあ。ほら、浅倉」
 沢村の言葉に、宮下が顔を歪ませる。さっきまで馬鹿みたいに期待していてあたしに、少し恥じらいというものが沸く。あたしは床を見た。新しいものは、時間が経てば汚くなるの。あたしは汚くなったの。何考えているのよ、あたし。馬鹿じゃない。全てがあたしの為にあるわけじゃないのよ。
「ああ……不良になっちゃった浅倉サンね。すごい変わりよう。何がしたかったんだか。俺にはサッパリ。てかさ、何お前打ち解けちゃってんの?」
 宮下の牙が、沢村に向く。あたしは俯いた。何も成すすべもない、沢村を助ける事も出来ない。自分の無力さに呆れたのだ。けれど沢村は、宮下の毒づいた言葉を、するりと交わしていく。
「別に? ただ浅倉がいたもんで、話しただけ。別にそんな意味深な事はないけど」
「ふーん、そう、つまんない。ていうかさ、浅倉何したいわけさ。んなとこ突っ立って」
 ぐっと手に力をいれる。別に悪い言葉じゃないけれど、心の奥に引っかかる。
「……あたしは……分からない」
 何をしたいのか、何の為に此処にいるのか。そんなの分からなかった。あたしはただ何をすればいいのか分からなくて、困って、誰かに流されて生きているのだ。そんな虚しい生き方しか出来ないあたしは、本当に人間だろうか? と考える部分もあるほど。
「違うだろ、浅倉」
 だけど沢村は、そんなあたしを変えようとしている。
「は……? 何が? 本当に分かんないんだもん」
 自分の意見も、まともに言えないあたしを、積極的にしようとしている。ちゃんと話せる勇気を備えようとしている。こんなあたしを、治そうとしてくれる。
「ほら、話してくれたじゃん、俺に。忘れたわけじゃねえよな。それが、お前のしたいことだろ」
 話してくれたこと、それはあたしが変わりたかったって事。あたしは勇気を振り絞って、宮下に言った。
「あ、あたしは、変わりたいんです。もっと、自分に自信が持てるように、変わりたかったんです……」
 それが意味のないことだったとしても、どうしても変わりたかった。意味がない日を送るだけじゃつまらない、そう思って変わった。そうしたらもっと、自分の思うようにいかなくて、失望した。失敗したんだと思っていたら、沢村が現れた。失敗したんじゃなくて、まだ元に戻れるんだよ、だって昔の自分に変わりたいって思ったんなら、また変わればいいことでしょ? あたしに教えてくれた。あたしは変わって、さっきのままの自分が一番なんだってことに気づいた。意味のない日じゃないんだって、気づいた。それがあたしの毎日で、家族がいて、友達と喋って、いい成績をとって色んな人に褒められて、自分の帰る家がある。それが幸せな日々なんだってことを、気づかせてくれたんだ。
 全てのことを吐いた。そうしたら、何故かスッキリした。宮下は、こんなに沢山喋るあたしを見て、呆然としていた。あたしは沢村の方を向いて、微笑んだ。有り難うって気持ちを込めて。
「彼女は、こう思ってるらしいよ。分かった?」
「ああ、こんなに馬鹿みたいに喋る女、初めて見たわ」
 宮下は、なおも鋭い目で見ていたけれど、あたしは気にしなかった。
「すいません、こんなずらずらと」
 あたしが笑いながら謝ると、宮下は
「沢村があんなに楽しそうにしてるの、初めて見た」
と言って図書室を後にした。それはどういう意味か、そんなもの恥ずかしくて考えられなかった。

 公園で毛布をかぶって寝ていた。もう秋だ。寒気がするのは当たり前だろう。あたしは温かい我が家を思い出しながら、のそのそと起き上がる。冷たく、硬いベンチに横たわるあたしはなんか馬鹿みたいで、いつも犬の散歩に、早朝から来る人に見られないように、早く起きる。昔から寝起きはいい方で、起きようと思った時間に、確実に起きられたのだ。
 白い息が目立ってきたこの季節。それはホームレスたちに立ちはだかる壁。特にあたしみたいな、夏用の制服しか持っていない奴にとっては。どうして冬服を持ってこなかったんだろう、後悔が体を埋め尽くす。
「はよー、浅倉!」
 そんな感傷に浸っていると、どこからか元気な声が聞こえた。この辺りに住むホームレスの声じゃないのは確かだ。あたしが振り向くと、そこはジャージ姿の沢村がいた。
「さわっ……」
 驚いて、声が漏れる。先端部分から、徐々に赤くなってくる手で頬を冷やした。本当に沢村、なんで此処にいるんだろう、色々な思いが体中を駆け巡る。
「昨日見つけたんだ。部活の帰り、違う道で帰ってみたらさ、ほら浅倉がいるんだぜ。マジ
ビビってさあ。 あ、ストーカーじゃないぜ?」
 沢村は階段を駆け下りて、土手から公園へと下りる。下り終わったら、フリスピーを投げて、それを取って戻ってきた犬のように、笑顔であたしの元に駆けて来る。可愛くて、ふふと笑いが込み上げる。青い学校指定のジャージに身を包み、寒さで赤く染まっている頬が、チャームポイントみたいで可愛い。そしてあたしの前で立ち止まり、そう言った。
 最後の言葉に、吹き出す。可笑しくて、ずっと笑ってた。けど、だんだん涙も混じってき
た。次第に頬を伝う雫は多くなり、あたしは両手で目を押さえた。
 こんな些細なことで泣くなんて、涙腺緩んだのかな。
 いつも中心に立っていて、嫌いだった沢村が、こんなにも自分の身近な存在になっていた。こんなに温かくて、優しくて、あたしの心の中で支えてくれる存在になっていた。こんなになってしまったあたしを認めてくれる人も、喋りかけてくれている人も、いないと思った。それなのに、沢村はあたしに自ら歩み寄ってくれた。それがすごく嬉しかった。
「浅倉……? おい、何泣いてんだよ? え、気に障ること言った?」
 動揺する沢村に、あたしはさっきまで眠っていたベンチに腰掛けて、呟いた。
「ううん……嬉しかったの。ごめんね、沢村。迷惑掛けて……」
 目尻に溜まる涙を、指で掬い上げる。沢村は少し、あたしに躊躇いながらも、さっきから
持っていた大きな紙袋をあたしのほうへ差し出した。何の意味を示しているかわからなくて、あたしは自分の方に指を指して首を傾げてみた。これ、あたしに? と言うように。そうすると沢村は笑顔で、頷いた。
 あたしは紙袋を受け取ると、中に入っている大きなビニール袋を取り出す。何が入ってい
るのかなど、なんの期待もしなかった。プレゼントなのか、それとも何か学校関係のものなのか、そんなのあたしには関係ないと思っていたし、そんなものもらったことがないから。
「……それ、開けてみろよ」
 沢村がビニール袋を指す。あたしはこくんと頷いて、セロハンテープで雑に両端を閉じてある大きなビニール袋を開ける。セロハンテープが破けて、中身のものが露になる。布、紺色で、赤いタイがついている。もっと破いて、中のものを取り出した。
「冬……服?」
 それはあたしがさっきまで求めていたものだった。もしかして思いが通じたのかな、なんて馬鹿なことを考えながら、沢村を見る。どうして持っているの、と問うように。
「お前、一人だけまだ夏服だろ。家に帰れないって昨日言ってたからさ、お前の家、行ってきたんだよ」
「あたしの家に? なんで? どうやって持ってきたの?」
 あたしの顔が歪む。あたしはベンチから立ち上がって、叫びながら沢村の腕を掴む。
 わざわざあたしの家に行ったの? 親は、なんで渡したの? あたしの事、なんて行言ってた?
 あの笑顔の家庭を、壊しに行ったの、沢村は。それとも何事もなかったの? あの、あたしが入る隙間もない家族に、いきなりあたしの話題を持ちかけて。それを考えただけで、おぞましくなった。あたしは何か爆発したように、沢村に叫び付けた。
「やっ……沢村は壊しに行ったの?! あたしは見ているだけでよかったの……!」
 あたしは、見ているだけで幸せなの。あたしの家族が幸せであれば、いや、もう家族なんて呼べないよね。勝手に失望して、勝手に落ち込んだ。
「寒そうだから、行ったんだよ。そしたらやっぱ警戒されてさ、けどな、お前の母親、お前の事心配してたぜ」
 痛そうに顔を歪めながら喋る沢村を見て、慌てて手を離す。ごめん、と謝りながらも、その頭の中はぐちゃぐちゃで、ごめんなんて思ってなかった。心配、あたしのことを? 心臓にナイフが刺されたような寒さを感じた。どうしよう、苦しめたくなかったから、出てきたのに、反対に心配させてしまうなんて。
「……あたし、何ができるのかな」
 あたしは、親の為に何ができるんだろう。できる事があるのならば、ちゃんと実行したい。迷惑をかけてしまったから、その償いもしたい。少し涙声になったが、沢村はちゃんと答えてくれた。今時の世の中、こんなことをちゃんと言ってくれる人なんていない。
「――俺が思うには、きっと家に戻ってきてくれることを望んでいるよ」
 その言葉に、何かの衝動を覚えた。あたしが家に戻れば、親は安心するの? 本当に?
「あ、俺部活の途中だったんだ。ごめん、それじゃ学校でな」
 沢村は腕時計を見て、そう呟いた。靴紐を直して、また公園の門から出て行った。
 言わなきゃ、有り難うって。あたしはぐっと手を握り、勇気を振り絞って、
「有り難う!」
と叫んだ。それが沢村に聞こえてなくても、きっと気持ちは伝わっているはず。
 本当に有り難う、沢村。この気持ちを気づかせてくれて。きっとあたしは戻れるから。
 白黒の写真に、色がついたように、あたしの気持ちは明るくなった。パレットに今までにないようあ綺麗な新品の絵の具を出して、筆で丁寧に塗っていく。例え何年もかかっても、きっと完成する、そんなあたしを、色んな人に見つめて欲しい。あたしがどのように苦しい道のりを超えてきたか。
 家族、沢村、あたしを心配してくれる人はちゃんといた。一人で泣いているなんて惨めな事はやめて、この毎日に頑張って、色をつけていこう。
2007-03-18 18:15:29公開 / 作者:あひる
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■作者からのメッセージ
こんばんは。お久しぶりな方も、初めましての方もいらっしゃるでしょう。
今回はリメイク編ということで書かせていただきました。以前のおかしなところを出来るだけ改善し、最後の部分まで書けなかったので、前回とは違うストーリーを作ってみようかと思っています。
それと、どこかおかしな点があったらどうぞご指摘お願いします。そのようなコメントを頂けると嬉しいです。
それでは乱文失礼しました。
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