『天に聳える塔』作者:宮河柳樹 / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約12.42枚
 きらめく太陽の昇る青く澄んだ空の下、彼は天をも貫きそうなほど高い塔の前に立っていた。周りには美しい草原が広がり、少し遠くの方には湖が見えた。
 なぜ彼はここにいるのか。それは彼さえも分からなかった。自分の名前すらも思い出せなかった。しかし頭の方は、かなりすっきりとした感じがした。念頭にあるのはただ一つ。この塔を何としてでも上ることだ。なぜかは分からない。だが上ることで、何か良いことがあるように思えた。
 目の前には小さな扉。彼の背丈よりも、一、二センチ高いほどだ。幅はそれに見合ったバランス。決してアンバランスではない。今思えば、この場所にアンバランスなものは一つもないように思えた。草原のど真ん中に塔が立っているにもかかわらず、それがアンバランスとは思えない。自分一人だけ、その塔の扉の前に立っているのに、アンバランスとは思えない。全てが全てのために、バランスをとっているように思えた。
 彼は疑問に思いながらも、前に進み、その扉を開けた。中の様子も良いバランスを保っていた。雪のように白いじゅうたんが、やや赤みがかった灰色の石で敷き詰められた床に敷かれている。そして中央から奥の方に階段が伸び、それは奥の壁で右に曲がって、その後が塔の壁面に沿って作られた螺旋階段になっている。とても調和がとれた光景だ。装飾品は一つとしてないにもかかわらず、そのシンプルな内装に魅了されそうになるほどだ。なぜかは分からない。きっと、全てバランスがとれているからだ。
 しばらくそこにボーッと立ってから、彼は再び前に進んだ。じゅうたんの柔らかい肌触りが、足の裏から全身に伝わってくるようだった。彼は裸足だった。彼はそれをおかしいとも思わずに、階段を上っていった。階段からは、今までの白いじゅうたんとはうってかわり、血のように赤いじゅうたんが続いていた。そのじゅうたんを見て、彼は何か頭に引っかかるような感じを覚えた。
しかし、彼はそれを気にせずに、前へ進んだ。
それから数分後(ここに時間という概念があればの話だが)、ようやく彼は異変に気付いた。すぐに気付かなければいけなかったはずなのに、彼は全く気付かなかった。なぜおれはここにいるんだ? しかしその答えはすぐに見つかった。それが当たり前のことだから。いつもなら、彼は真っ先にこの答えを非難するだろうが、今は違う。彼自身、それが一番当てはまった答えだと思ったからだ。
ここは実に不思議なところだった。

しばらく進み、赤いじゅうたんが青いじゅうたんになった頃、前方に二人の人が見えてきた。一人は腰の少し曲がっている老人。顔が隠れているため、性別が分からなかった。服装では何とも言えない。その横に若い女性がいた。その老人を介抱しながら一緒に螺旋階段を上っている。黒いワンピースに、質素ながら上品なハイヒール。しかしながら、そのハイヒールの靴音が聞こえなかった。じゅうたんが敷いてあるせいだろうか?
彼はその二人に向かって走っていった。一人だけでは何となく心細いような気がしてきたのだ。走りながら下をのぞくと、もうかなりの高さまで上っていた。七十五階分の高さぐらいだろうか。彼はそれほどまで上ってきていた。それなのに、今まで一度も心細く思ったことがないのが不思議だった。
――それにしても、このじゅうたんの青。どこかで見たような気がするぞ。しかし、どこで見ただろうか。
彼はさらにスピードを出して走った。急にじゅうたんの色から恐怖を覚えたのだ。なぜかは分からない。そもそも青というのは人をリラックスさせる色ではなかったのか。そのようなことは事実無根のことだったのか。そう考えながら、彼は必死に走った。
「おーい!」
 彼が叫ぶと、前にいる二人はこちらを見た。前と言っても螺旋状であるから、実際には横の上方の位置にいた。
老人は男だった。しわしわの手をゆっくりとこっちに振っている。女性は長い黒髪をかすかにたなびかせてこちらを見て微笑んでいる。風がないのに、髪がたなびいていた。しかしこれでいいんだ。彼は思った。全てが調和をなしているのだから。
彼女たちは待っていてくれた。お陰で思ったよりも早く追いつけた。女性はとても若くスタイルも良い。顔は不細工ではないが可愛いとは言い難い。老人は歯のない口をもぐもぐさせて、こっちを向いて微笑んでいる。彼には二人とも善人だと思った。
「あら、そんなに慌ててどうしたのです?」
 女性が彼に訊いた。彼は肩を息をし、呼吸もとぎれとぎれの状態だったが、なぜか汗はかいていなかった。
「いや……この下に敷かれた青いじゅうたんが、何となく怖く思えて」
 彼は恥ずかしそうに頭を掻きながら答えて、下のじゅうたんに目を向けた。赤いじゅうたんのように、途中で途切れて違う色になっているのを彼は期待していた。しかし、依然として青いじゅうたんはそこに敷かれていた。
「青い、ですか? 今あたしの足下に敷かれているじゅうたんの色は肌色ですよ?」
「いいや。わしには緑色に見える」
 老人も話しに加わった。しかし、同じ足元を見ているにもかかわらず。三人とも全く別の色を言っている。彼は首を傾げ、また女性も首を傾げ、老人は眉をつり上げた。
どうなっているんだ。三人ともそう思った。
三人の間を、さわやかな風が通りすぎた。彼と女性の髪がなびく。普通ではありえないことだった。この塔は全面石造りで、窓は一つもない。換気用に開けられた穴も見あたらないし、換気扇のようなものや通気ダクトのようなものもない。だが三人ともそれは当たり前のことだと信じて疑わなかった。
全てバランスがとれているんだ。
しばらく経ち、足が止まっているのに気付いた彼は、突然口を開いた。
「続きは歩きながら考えましょう。ところで、あなた方の名前は?」
 二人は黙って歩き出した。彼は首を傾げながら後を追って答えを待ったが、一向に答えてくれる様子もなかった。そこで彼は再び訊いた。
「わからないわ。お爺さんも同じよ。あなたもそうでしょ」
 ようやく返ってきた答えは、素っ気なく、それでもって呟くような小さな声だった。だが彼女の言葉は正しかった。彼も自分の名前が思い出せないでいた。
彼の中で、何かがうごめき始めていた。トラウマとなった出来事を無理矢理回想させられているような感じだった。
――これは……これはなんだったか。思い出せそうなのに、全く思い出せない。……いや、思い出したくもない!
「じゅうたんが黄色になったな」
 老人が呟いた。
「あたしはピンクに見えるわ」
 女性も言った。彼はおそるおそる視線をじゅうたんに移した。それを見て、彼の目は見開かれた。さっきより強い恐怖を感じたのだ。いや、これは恐怖だけじゃない。少しだけ愛しく感じられる色だ。
「おれのじゅうたんの色はシルバー。おれのく……」
 彼は思い出した。自分の身に何が起こったかを。そして自分が今何をしているかも。何もかも思い出し、そして理解した。
「どうした?」
 老人が彼に訊いた。女性も不思議そうにこっちの顔を見ている。いつのまにか、また足が止まっていた。時間の流れは止まり、時々吹いていたさわやかな風もやんだ。そこには静寂だけがあった。とてもバランスの良い静寂だけが。
「思い出したぞ! おれの名前は吉田純だ。そうだ。このじゅうたんの色は、おれの車と同じシルバー。全く一緒の色だ。そして――」
 彼の表情が暗くなった。彼は一つ大きな溜息をつくと続けた。
「そしてさっきの青はそのおれの車と衝突した車の色だ。よく覚えてる。階段の最初のじゅうたんの色――赤は、おそらく血の色だと思う。自分のか、それとも相手のかは分からない。ただ、これだけは言えるよ。おれたちは今死んでいて、生きているときに『三途の川』と呼んでいたものを渡っているんだ。実際には塔だったわけだな。そしてこのじゅうたんの色は、おれたちが死んだときに印象に残った色だ。おれのように交通事故にあった場合、一番印象に残る色は流れ出る血、二番目は衝突した車の色だろう」
 そして彼は笑った。悲しみを紛らわすために。女性もぽつりぽつりと涙を流し、老人は歯のない口を食いしばっていた。
「仕方ない。登り続けよう」
 老人は言った。老人の瞳は遠いところを見つめているように見えた。全ては思い出してはいないものの、子供、孫を残してきたことに未練を感じるのだろう。
「おれは行かない。まだ死にたくない」
「でも、もう死んだのよ。これから生き返るなんて……」
 彼女は涙を流しながら引き留めたが、彼は手すりに寄っていき、それに触れると二人の方に振り返った。
「話では三途の川から落ちれば生き返るそうじゃないか。じゃあ、塔の場合はどうだ?」
「まさか……。早まるな、若造が! そんなうまい話があるはずがない!」
 老人の言うことも訊かずに、彼は塔の吹き抜けから飛び降りた。高さはすでに二百八十階のビル(もしそれがあればだが)の高さよりも高い位置にあった。みんながいる世界は大気があるが、この塔のある世界にはない。スカイダイビングのように大気の抵抗も受けずに、彼は床にめがけて落下していった。もう上にいる二人の声は聞こえない。
 床も近くなってきて、彼は急に恐怖感を覚えた。かれは思いっきり目をつぶり――。

 吉田は白いベッドの上で目を開いた。腕には点滴がされていて、心拍数をはかる機械の音が聞こえた。周りでは白衣を着た男と女の話し声がし、ごく普通の服を着た人たちが歓喜の涙を流し、彼の周りに集まっている。腕や足、頭までが包帯で巻かれ、九死に一生を得たことを物語っているようだ。実際に「奇跡だよ、吉田さん。あんたの旦那さんは強いお人です」という医師の声が聞こえる。
 ああ、現世に戻ってきたんだ。みんながいる世界へ戻ってきたんだ。あの女性もそうすればよかったのに……。かれはそう思い、再び目を閉じた。
 死んだときのことを思い出していた。思い出したくないのだが、つい考えてしまうのだ。あのおぞましい光景。考えただけでも身の毛がよだつ。
 彼が乗っていたのはシルバー塗装の軽自動車。彼の愛車だ。赤信号で止まっていると、向こう側から青の自動車が突っ込んでくる。その時、その運転手が後ろを向いていたのをかすかに覚えていた。後部座席に誰がいるのは分からなかった。そして――衝突。彼の愛車は前から押しつぶられ、同時に後ろに吹っ飛ばされた。エアバックは役に立たなかった。一瞬だけ開き、そして一瞬で縮んでしまった。フロントガラスの破片が飛んできて、全身に刺さっていった。ハンドルと椅子の間に押しつぶされた。不思議と痛みはなかった。目の前には自分の血が手から、胸から、目から口から鼻から、そして尻の穴から流れ出しているのが見える。フロントガラスがあったところからは、自分の愛車と同じようになった青の車。そしてすでに握りつぶしたアルミホイルのごとくつぶされた愛車のシルバー塗装。そしてそこで目が閉じ始めたんだっけ。
 そこまで思い出した瞬間、落ちるような感覚が全身を襲い――。

 気がつくと、暗く湿ったところに立っていた。壁や床、天井はさっきの塔と同じ石造り。正面には下に続く階段があった。さっきのように開放感がなく、殺風景のうえに壁と天井に囲まれている。上にさっきの塔がそびえ立っているのを感じる。ここは塔の地下だ。上から下へ、下から上へ行けるはずのない壁を通り抜けて、いま塔の地下に彼はいた。
 階段はものすごく長いと思ったが、奥の方から悲鳴が聞こえてきた。
 彼は進んだ。一歩進むたびに、ほんの少しずつ暑くなっていくのが分かる。
 彼はようやく悟った。
 これは現世で言う『地獄』。さっきの塔の螺旋階段は『天国』への道だったのだと。
 彼は『天国』を捨て、『地獄』への道まで来た。彼はこの先起こることについて恐怖心を抱きながら、階段を下りていった。
2007-03-06 09:22:39公開 / 作者:宮河柳樹
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■作者からのメッセージ
 初めまして、宮河柳樹です。
 この作品については五年前に思いついたことを思い出して書きました。内容については自分でも何とも言えない状態です。
 ……以上です。メッセージとかは特に苦手なもので。
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