『夜行列車と彼女と(読み切り)』作者:rathi / t@^W[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 探し物は、最後に探す場所で必ず見つかる。
                               【ブーブの法則】


――ガタン、ゴトン。

 暗闇の中、一本の列車が走っている。
 列車の中からは、蛍の光のように淡い光を発しながら、どこまでも続いている線路を走っていた。
 この列車が何処を目指しているのかは分からない。時刻表も、線路図も無い。けれども、列車は何処かにあるであろう〈目的地〉を目指して走り続けていた。
 列車の中の椅子は木で作られており、少し上等な緑色のシートが張られている。座席はボックス型になっており、座ると乗客と乗客が向かい合う設計になっていた。つまりは、一つの区画で四人座れるようになっており、必然的に互いの顔を見ることになる。これを意図して作られてのか、それとも限られた空間を効率良く使う為の方法なのか、この列車の制作者に聞いてみなければ分からない事なのだろう。
 そしてその座席に座っている乗客達は、それはそれは摩訶不思議な『人』達ばかりだった。
 物の怪のように奇怪な姿をしている訳ではなく、身体が透けているのだ。人の形はしているのだが、目や鼻は無く、まるでのっぺらぼうのような顔立ちで、全身が透けている。身体の色は青紫で、例えて言うならば巨大なスクリーンの間に人を置き、紫色のライトを照らしたときに出てくるシルエットにそっくりだった。
 そのシルエット達は、各々が違った服や帽子を被っており、あたかも個性を主張しているかのようだった。
 黒い煙突のようなシルクハットを被ったシルエット。
 貴婦人のような高貴な服装のシルエット。
 クリーニングに出した後のように、糊が良く効いたスーツを着込んだシルエット。
 実に様々である。
 列車の座席は、ほとんどそんなシルエット達で埋め尽くされていた。
 だが、一ヶ所だけ一人しか座っていない区画の座席があった。その座席には、少女が座っていた。他のシルエット達とは違い、目も鼻もあり、まして透けていることも肌が青紫色ということもない。
 正真正銘の人間であり、何の変哲もない少女だった。
 上は雪のように真っ白なタートルネックを着ており、下は脛まである墨のように黒いスカートを履いていた。どこにでも居そうな、普通の格好をした少女だった。
 ただ、上着が白いせいなのか、漆黒のように長く垂れ下がった髪がやけに栄えて見えた。
 彼女は奥の席に座っており、窓の下に設置してある肘掛けに肘を乗せ、頬杖を杖きながら物憂げな表情で窓を見つめている。その窓の向こうにあるのは暗闇だけ。暗闇は、彼女の髪質に似ていた。
 時折、思い出したように現れる街頭の眩しさに彼女は目を細めていた。あの街頭には、列車の線路を照らす以外に役目はあるのだろうか、彼女はふとそんな事を思った。
 彼女は頬杖を杖いたまま、何も見えない真っ暗な外を見つめ続けている。
 何もすることがないからそうしているのか、それとも真っ暗な外を見るのが好きなのか、彼女が外を見つめている理由はそのどちらかなのだろう。
 列車は何の予告もなく、スピードを落とし始めた。徐々に徐々に、眠っていれば気づかない程にゆっくりと。
 そうして、列車は何処かに止まった。
 外を見ても、ここが駅であることを標した物は何もない。故に、ここが駅であるかどうかすら不明だ。
 幾何か停車した後、何の音もなく、何の振動もなく列車は再び動き始めた。
 列車は徐々に徐々にスピードを上げていく。眠っていれば気づかない程に、ゆっくりと。
 ややあって、連結部の扉がガタガタと音をたてながら開く。そして、一人の男が入ってきた。
 男は、これから会社に出社でもしようとしていていたのか、少し青みがかった黒いスーツを着ていた。顔はまだ幼さが残っており、スーツを着てなければ学生に見間違えられてもおかしくはないだろう。
 好奇心はあるが不安もある。そんな顔をしながらきょろきょろと辺りを見渡す姿は、まるで路頭に迷った子供のようだった。
 やがて男は、革靴を鳴らしながら通路を歩き始める。
 座席に座りたいのか、シルエット達が占領している座席を見ては肩を落としていた。次を見ても、その次を見ても、座席はきっちり四人座っていた。それでも懲りずに男は歩き、やがて彼女が座っている席に辿り着く。
 ようやく空いている席を発見した男は、まるで喫煙家が外で灰皿を見つけたように、ホッと胸を撫で下ろし、ため息をはいた。
 しかしそこは、完全な空席ではない。一人だけではあるが、先客が居る。進行方向に座席が全て向いているのなら、或いは左右に座席が並んでいる形なら特に断り無く座るが、ここはボックス型である。
 男にとってボックス型というのは、仲の良い者同士で座るのなら最適な形だが、見ず知らずの赤の他人同士で座るとなると、これ以上ないくらいに最悪なタイプだった。
 一番遠い位置――対角上に座っても、膝と膝がぶつかり合うほどに距離が近い。ましてや、少女の横に座るわけにもいかなかった。そこは車でいう助手席のようなもので、親しい者しか座る権利がないのだ。
 かといって、辺りを見渡してみても他に空いている席はない。ここ以外、全てあのシルエット達で埋め尽くされている。
 少しオドオドしながら、男は拝むように片手を上げ、彼女に向かって言う。
「相席、いいかな……?」
「ええ……構わないわよ」
 窓の向こうにある闇を見つめたまま、彼女は素っ気なく返事を返した。
 男は、「どうもね」と軽く頭を下げながらお礼を言った後、通路に近い方――彼女の対角上に座った。

――ガタン、ゴトン。

 しばらくの間、二人は特に会話することなく、ただ寡黙に座っていた。列車の振動音と、空気を切る音だけが聞こえる。
「貴方の名前、聞かせてもらえないかしら?」
 顔だけを動かし、彼女は男を直視しながら唐突に質問した。
「え? あ、えっと……?」
 男は酷く困惑した。
 何の脈絡もなく質問されたというのもあるが、初対面の、しかも相席しているだけの少女から名前を聞かれる事など、予想もしていなかったからだ。
 聞かれた以上、無視する訳にもいかない。何の為にと疑問に思いつつも、動揺している所為か少し上擦った声で男は質問に答える。
「す、鈴木鳥壱(すずきとりいち)ですよ。あ、貴女は?」
 どもりながらも鳥壱が返すように質問すると、彼女は微笑を浮かべながら言う。
「さぁ……何て名前だと思う?」
 名前を聞いてきて、名前を聞き返したら、さぁ私の名前は何でしょうなんて答えは、今まで体験したことも聞いたこともなかった。
――からかわれている?
 だが、彼女の微笑はとても素敵で、酷く蠱惑的な魅力があった。これがもし生意気な子供や禿げたオッサンからの質問だったら、無視するか怒鳴るかすると思うが、このままからかわれ続けるのも悪くないと鳥壱は思った。
「名前……ねぇ?」
 鳥壱は眉間に皺を寄せ、目頭を押さえながらそれを考える。
 ポンと、何の前触れもなしに思い浮かぶアイディアのように、鳥壱の記憶からその名前が浮かんできた。
「美奈(みな)……かな? なんとなくだけれどね」
 鳥壱は少し朱に染まった頬をぽりぽりと掻きながら、「小学校の頃に好きだった女の子の名前なんだ」と付け足した。
 しかし、そう言ってから、鳥壱は急に後悔した。初対面の人に、いったい何を言っているのだろうかと。
 朱に染まった頬は、先程とは違う理由で急速に赤くなっていった。さながら、リンゴのように。
 彼女はそんな鳥壱の様子など気にもせず、眼を細め、今度は意地悪そうに笑みを浮かべた。
「当たりよ。私の名前は美奈。よろしくね」
「……へぇ?」
 思わず、男は素っ頓狂な声を上げた。彼女が何を言ったのか、理解出来なかった。
 だが、自分が言った答えが正解だった、ということに気が付き慌てて返事を返す。
「あ、あぁ……よろしく」
 生返事を返しながらも、やっぱりからかわれているんだろうな、と男はそう思った。
 何となく、それでこそ記憶の底からぽっと出て来たような名前が彼女の名前だったとは、にわか信じがたいことだったからだ。更に、小学校の頃に好きだった女の子と同じ名前だなんて、偶然にしては出来過ぎている。
「……本当に美奈って名前なの?」
と、鳥壱が疑心に満ちた声で恐る恐る聞いた。
「ええ、本当よ。もう本当に驚き。何か豪華賞品でもあげたくなりそうだわ」
と、言っている割には差して驚いた様子もなく、彼女なりの洒落を淡々と語った。
「……そいつはどうも」
 鳥壱は眉間に皺を寄せ、目頭を押さえながら、ため息混じりに礼を言った。
「ところで……」
 鳥壱は、ここに来てからずっと疑問に思っていた事を切り出した。
「この列車は、いったい何処へ向かって進んでいるんだ? 気づいたら僕は、この列車に乗っていたんだけれど……」
 そう言ってから、鳥壱は何故自分がこの列車に乗っているのかを疑問に思った。
 確かに、通勤の時には電車に乗る。しかし、これは列車であり、ましてやこんなに空いていない。座れる余裕どころか、箱寿司のように隙間なくみっちりと詰められる有様だ。
 思わず、自分の格好を見る。既に戦闘服に着替えている。今日は何曜日だっただろうか。平日なら、会社に行かなくてはならない。この列車は朝礼時間に間に合ってくれるのだろうか。けれど、この列車は会社にはたどり着かないだろう。そんな気がした。
 そんなことをぼんやりと考えていると、鳥壱はこの列車に乗る前の事をようやく思い出せた。しかし不思議な事に、自分はいつこの列車に乗ったのか、自分はなぜこの列車に乗ったのか、という記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
――どういう事だ?
 記憶喪失に陥ったように、鳥壱は酷く混乱した。
 何とか自分の平常心を保つために、今の事態を整理するために、そして自分が自分であるためを確認するために、鳥壱は押入に仕舞った冬物を探すときのように、記憶を乱雑に掘り返し始めた。

――僕は鈴木鳥壱、二十三歳の筈だ。私立大学を出たけど、希望した会社は悉く落ちて、何となく応募した会社に受かってしまった。
――勉強したのは文学だったのに、就いた仕事はIT関係。経験は何よりも財産だとか言うけれど、それが役に立たない今の仕事では、逆に僕を苦しめる。
――今、僕は家賃三万円という安くてボロいアパートに住んでいる。思いの外広いけど、田舎。でも、嫌いじゃない。
――職場は結構遠く、電車でも一時間半も掛かる。近くに引っ越したいけど、それもこれもお金が貯まってからだろう。
 鳥壱は満足げに頷く。
――そうだ、ここまでは良い。
 問題は、ここからだった。
――今朝もいつも通りに、掃除しても掃除してもいつも散らかっている部屋で起き、UFOキャッチャーで取ったトースターで、特売で買ったパンを焼き、早朝並んで買った卵と、賞味期限が近く半額で売っていたトマトを乗せて食べ、安売りしていた洗顔で顔を洗い、貰った歯磨き粉で歯を磨き、就職祝いで買って貰ったよれたスーツに着替え、駅で二本千円で売っていたしなびたネクタイを締め、さあ会社に向かおうと玄関を開けると――。

 鳥壱がそこから先を思い出そうとしても、やはり思い出せなかった。――いや、思い出せないのも当然なのだろう。その記憶自体が、初めから頭の中に存在していないのだから。
「答えてくれ。ここは何処で、何処へ向かっているんだ? 僕は……どこへ行くんだ?」
 緊張した表情で、鳥壱は質問した。
――何かが、起ころうとしているのか?
 彼女は男の質問を受け、まるで吟味するかのように間を置くと、緊迫した男とは対照的に素っ気なく答える。
「さぁ、どこかしらね?」
「……えっと……」
 あまりにも素っ気ない答えが返ってきたので、鳥壱は心の中でこけた。
「ちょっと待ってくれ……」
 鳥壱は眉間を寄せ、目頭を押さえる。
「……つまり、君も分からない。そういうことか?」
「まぁ、端的に言えばそうなるかしら。それと、『君』という呼び方は止めてもらえないかしら? さっき自己紹介したばかりでしょう?」
 鳥壱に『君』と呼ばれたのが余程気に入らなかったのか、彼女は眉を顰めていた。
「美奈……さん。これで、いいの……かな?」
 照れながら、鳥壱は彼女の名を呼んだ。
 それで満足したのか、彼女は眼を細めて微笑する。
「ええ、改めて宜しくね。鳥壱さん」
「え? あ、はは……。よ、よろしく」
 彼女の笑顔に照れたのか、鳥壱は再び熟れたリンゴのように頬を赤くし、痒くない頭を掻き、挙動不審気味に辺りを見渡した。すると、つい先程までは気にならなかったシルエット達が眼に付いた。
「ところで、『アレ』は一体何なんだ?」
 半透明で青紫の物体達。どこをどう見ても、普通の乗客には見えない。人の形を成しては居るが、あれらを人と呼ぶには抵抗感があった。何故今まで気にならなかったのが不思議なくらいである。
「……アレ?」
 彼女は首を傾げる。男はシルエット達を刺激しないように、こっそりと右手で指差した。
「ああ、彼らね。……怖がらなくていいわよ、別に噛みついたりしないから。ついでに言うと、動いたりすることもないわね」
「そ、そうなのかい……?」
 鳥壱は警戒しつつも、シルエット達を再びまじまじと見つめる。だが、見れば見るほど、目の前にある摩訶不思議な物体に困惑するだけだった。
「お化け……じゃないよな?」
「そうね、そんな俗っぽいものではないと思うわ」
「人……でもないよな?」
「そうね。アレが人だなんて、冗談にしては過ぎるわね」
「妖怪……かな?」
「なら、この列車は百鬼夜行の最中かしら? お化けの方がまだ説得力があるわね」
「――で、結局のところアレは何なの?」
 彼女は両肩をすくめ、おどけたように、さあ、と微かに首を傾げながら言った。
 鳥壱はその答えを聞き、眉間に皺を寄せ、目頭を押さえながら思った。
――あのシルエット達は、イースター島にあるモアイ像のように、解明できない摩訶不思議現象の一つなんだ。
 鳥壱はそう思い込むことにして、考えることを放棄した。分からないものは分からないと見限った方が、楽だからである。
「……もう一ついいかな?」
 鳥壱は少しだけ身を乗り出し、核心にでも迫るように質問する。
「君は一体、何者なんだ?」
 正体不明のシルエット達に囲まれ、動揺する素振りも見せないこの彼女こそ、ここを知る上での最重要の人物なのだと鳥壱は思った。
 しかし彼女は、その質問を聞き、やや興奮している鳥壱とは対照的に、冷めた様子で少々呆れ気味答える。
「貴方って質問ばかりなのね。まあいいわ、答えてあげましょう。鳥壱さん」
 その答えを見て、彼は既視感(デジャ・ビュ)を見た後のような目眩に襲われた。なぜなら、彼女は先程と同じように両肩をすくめ、さあ、と微かに首を傾げながら言ったからだ。
「……お前は何も知らないのか?」
と、鳥壱は不躾に言った。
「ええ、特に何も」
と、彼女は素っ気なく答えた。
 鳥壱はまたしても軽い目眩に襲われ、眉間に深い皺を寄せながら目頭を押さえた。そして、思った。
――ここで起こっている事は全て超常現象であり、ナスカの地上絵のように科学では説明できないものばかりなんだ。
 鳥壱は、そう割り切ることに決めたのだった。そんな小難しい事は学者に任せて、解明された事実だけを知れば良い。どうせ自分は、しがないサラリーマンでしかないのだから。
 しかし、そうは思っても、今その摩訶不思議で謎の超常現象に巻き込まれているのだ。解明する云々はともかく、何が起こっているのかは把握したかった。
 鳥壱は眉間に皺を寄せ、目頭を押さえたまま何かを考え込む。そして、三度彼女に質問する。
「逆に、逆にだ。美奈さんはこの列車の何を知っているんだ?」
 鳥壱の質問を受け、彼女は記憶の彼方でも探るように宙を見つめた。時折眼をつぶり、頭の中に存在する辞典を開き、自分にとって必要な言葉を検索する。
 しばらく間を置いた後、彼女の辞典でようやく見つかった言葉が、
「そうね。ここに来る人達は、何かしらの悩みを持った人達が来る……ということかしらね」
 思わず、鳥壱は訝しげに彼女を見た。
「悩み……?」
「そう、悩み」
「……なぜ僕に悩みがあると思う?」
 彼女は両肩をすくめ、微かに首を傾げながら言う。
「さぁね。私には、貴方が悩みを持っているかどうかなんて知らないわ。ただ、この列車に乗ってくる人たちの多くは、何かしらの悩みを持っているわね。だから、あくまで確率的に、よ。絶対じゃないわ」
 彼女の言葉を受け、鳥壱は眉間に深い皺を寄せながら、目頭を押さえた。そして、自分に悩みがあったかどうかを記憶のアルバムを開きながら考え始める。


――僕に悩みがある…? それは何だ…?
――ここへ来てしまった事か?
――いや、違う。
――今の生活に対してか?
――いや、違う。
――彼女居ない歴五年を突破したからか?
――それも違う。
――給料が安月給な事か?
――……確かにあれは安い。残業代もたまに出ないし。でも、違う。
――じゃあなんだ? 何なのだろうか?
――思い出せない。
――思いつかない。
 そのことに関して、鳥壱は死ぬほど悩んだ筈だった。
 鳥壱の人生全てを変えてしまうような、重大な考えだった筈だった。
 なのに、思い出せない。深い霧に包まれてしまって、『それ』は見えない。掴めない。
 酷く、もどかしい気分だった。
 子供の頃にあった冒険心や好奇心、全てを恐れず、どこへでも行けたその強さ。それらを全て井戸の底に放り投げてしまったような、そんな喪失感に包まれる。
――僕はいったい、何を忘れてしまったのだろうか……?
――僕はいったい、何を……。


「仕事は、うまくいっているのかしら?」
 彼女がふと呟いた言葉で、鳥壱の思考は中断された。
 思いもよらぬ言葉に、鳥壱は驚愕の表情を浮かべて彼女を見た。
「……どうしてそう思うんだい?」
 彼女は目を細め、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あら、図星かしら?」
 鳥壱は反論しようと、何かを言おうと手を掲げるが、喉仏の辺りで絡んでしまって言葉にならず、静かに手を下ろした。
「……多分、いやきっとそうなのかも知れない」
 鳥壱は深いため息をはき、両肩を落とし、人生の崖っぷちにでも経たされたように酷く落ち込んだ。
「どうして分かったんだ?」
 彼女はその質問を受け、吟味するように間を置いた。そして、両肩をすくめ、
「やっぱりいい。答えは、同じような気がするから」
と、鳥壱に中断されてしまった。
 彼女は、何となくそのことが気にくわなくて、
「そうよ、どうせ知らないわよ。ふん」
と、ぶっきらぼうに言った後、そっぽを向いてしまった。
 外見とは裏腹に、幼さ残るその行動に鳥壱は思わず笑ってしまった。ギャップがあるというのは、こういう事を言うんだろうな、と鳥壱は思った。
「それで、仕事はうまくいっているのかしら?」
 視線を鳥壱に戻し、彼女は先程の言葉を繰り返した。
「……仕事はうまくいっているんだ。それでこそ、順風満帆に」
 鳥壱は両肘を両膝に乗せ、俯いたまま、つい先程思い出した悩みを語り出した。不思議な事に、胃を痛めるほどそれに悩んでいた筈なのについ先程までそれを忘れていた。――いや、忘れていたかったのかも知れない。考えても、悩んでも、どうせ解決出来ないのだ。忙殺してしまった方が、よっぽど楽だから。
「特に目立ったミスもなく、何の障害もなく、口うるさい筈の上司にも怒られることない。社内でもまずまずの評判だし、同僚や上司の付き合いだって悪くない。給料は安いけど、そんなに辛くないし、食うに困るほど低賃金ってワケでもない。長く続けるのなら、ある意味理想的かも知れない。……けれども、僕は悩んでしまうんだ。この仕事は……本当に僕が望んだものだったのだろうか。この仕事が、僕の人生の象徴と呼べるのだろうか、って」
「よくある話ね。それで?」
「仕事を辞めて、自分の好きなこと、自分の好きな職業に就こうかと何度も思ったよ。けれども、分からないんだ。本当に自分がやりたい仕事があるのか、人生を掛ける程の価値がある職業があるのか、って」
 言い終えた鳥壱は、深いため息をはき、更に深く俯いていく。
 そんな鳥壱を、彼女は眼を細めて見る。そして、意地悪そうな笑みを浮かべながら鳥壱に質問する。
「それでは質問。貴方が、高校生の時に望んだ職業は何かしら?」
 まるで就職の面接のような質問に、思わず鳥壱は顔を上げた。
「なんでそんな質問を?」
「質問を質問で返さないで欲しいわ。貴方が答えたら私も答えるから、貴方から先に答えてもらえるかしら?」
 鳥壱は不承不承といった様子で頷き、質問に答えようとする。
 鳥壱は口を開けて何かを言おうとするが、言葉が出てこない。短い息を吸って、勢いをつけて何かを言おうとするが、やはり答えは出てこなかった。
 クイズ番組で、分かっているはずなのに巧く答えられない時のように、酷くもどかしい気持ちになる。 
 結局、少し俯き、眉間に深い皺を寄せ、目頭を押さえ、唸りながら考え始めた。
 これだったかな、それは違う、ああこんな夢もあったな、などと独り言をブツブツと言いながら男は必死に思い出そうとしていた。
「……これか。そうだ……。そうだ、これだ! 思い出した!!」
 鳥壱はようやくそれを思い出し、勢いよく顔を上げた。その顔は、暗い夜道で明るく光街頭を見つけたような、そんな希望に満ちた顔だった。アルバムでどうしても見つからない写真が、実は二枚重なって入っていたのを見つけた時のような顔にも似ていた。
「僕は高校の頃、ちょっとしたバンドを組んでいたんだ。学園祭でライブもやった。僕はギターとボーカルを担当していたんだ。そしてさ、ライブの時に最前列に居た女の子達が『鳥壱先輩、カッコいいー!』なんて黄色い声で叫んでいたんだ。信じられないかもしれないけど、本当だよ。その後、ラブレターを二通も貰ったんだから。……そんな顔しないでよ美奈さん、本当なんだってば」
 彼女はため息をはいた後、淡々と自分の答えを語り始めた。
「まあ、過去は美化されるのが人の心理だから、深くは追求しないわ」
 彼女はついと視線を上げ、鳥壱の眼を真っ直ぐ見つめる。その瞳は、漆黒の髪と、何も見えない真っ暗な外と、よく似た色をしていた。全てを拒否していそうで、全てを包み込んでくれそうな、不思議な瞳だった。
 少しの間、その不思議な瞳に見蕩れていたが、やがて気恥ずかしくなり、鳥壱から視線を外した。こうも真っ直ぐ見つめてくる人は初めてだった。
「それで、今やっている仕事を辞めて、過去の栄光を元にバンドを再び組んで、それで一生を暮らしたいと思うのかしら。鳥壱さん?」
 彼女は先程よりも一層目を細め、より一層意地悪そうな笑みを浮かべながら男に質問した。まるで、この男を試しているかのように。
 鳥壱はその質問に対して、また例の如く眉間に皺を寄せて目頭を押さえ、しばらく考えた後、静かに首を振りながら答えを言う。
「……いや、きっと無理だと思う。美奈さんが言ったように、所詮は過去の栄光を美化したに過ぎないのかも知れない。学園祭だもんな。その場の『ノリ』ってヤツがきっとあったんだろうな。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損……ってね。だから、それを元にご飯を食べていくなんて到底無理な事だと思う」
 彼女はその答えを聞き、片方の眉を吊り上げた。
「その夢は諦める、という事かしら?」
 鳥壱は項垂れ、両肩を落としたまま頷いた。まるでこれから、死刑執行でもされそうな有様である。
 しかし彼女は、失意のどん底にいる鳥壱に追撃を仕掛けるように言葉を重ねる。
「水商売を目指すのは止めて、安定している今の仕事を続ける、という結論で良いのかしら?」
 その答えを聞いて、鳥壱はもの凄く嫌そうな顔をしながら激しく首を振った。その結論が嫌だからこそ、こうして悩んでいるのだ。
「じゃあどうするの?」
 鳥壱は目の前にぶら下がっている答案用紙から眼を避けるように、眉間に皺を寄せながら目頭を押さえ、頭をフル回転させて思案する。
 彼女はそんな光景に飽き飽きしながらも、悩み続ける彼を見ていた。
「そうだ、中学時代にも夢があったんだ!」
 鳥壱は再び光を見つけ、勢いよく顔を上げた。
「僕は中学校の頃、サッカー選手になりたいと思っていたんだ。その時僕は、ディフェンダーを務めていたんだ。友人に田中ってヤツが居たんだけどね、そいつと一緒にディフェンダーをしていて、仲間内からは『七岡中のガーディアン』なんて呼ばれていて他のチームから恐れられていたものさ。……本当だよ、お願いだからそんな怪訝そうな顔をしないでくれ。県大会の上位に食い込んだ事だってあるんだから」
 彼女は先程よりも大きなため息をはき、冷ややかな視線を送りながら、また自分の答えを淡々と語り始めた。
「そんな前置きはいらないわ。貴方がどんなに素晴らしい功績を残して、どんなに輝かしい中学校時代を送ったかなんて、私にとってはどうても良い事なの。大事なのは、今話していることは、『貴方が今の仕事を辞めて、そしてそれを一生の仕事にしたいのか』、という事なのよ。分かったかしら、鳥壱さん?」
 彼女は片方の眉を上げ、鳥壱を指差しながら言った。
――一生の仕事に? プロサッカー選手に?
 見慣れたというべきか、見飽きたというべきか、鳥壱は眉間に皺を寄せて目頭を押さえ、唸りながら考える。
 そうして出た結論が、やはりというべきなのか先程と同じように男は首を振った。
「とてもじゃないけれど、今その夢を目指すには遅すぎるよ。僕は次の誕生日で二十三歳になるけど、あと数年で成長のピークを迎えることになる。高校に入ってからサッカーなんてほとんどやってなかったし、あまりにもブランクが長すぎるよ」
 彼女は大きなため息をはきながら、眼を細め、呆れた様子で鳥壱を見ながら言う。
「つまり、諦めるということかしら?」
 鳥壱は両肩を落とし、深いため息を――それでこそ、『漢の人生』に於いて欠かせない物を壊されたような深いため息をはいた。そして、力無く頷いた。
「結局、今の仕事に落ち着く、という結論で良いのかしら?」
 鳥壱はその答えを聞くと、苦虫を噛み潰したような顔になり、激しく首を振った。
――その結論だけは嫌だ。
 毎日毎日、自宅と会社の行き来を繰り返す。変化も、進化も無い。ただ毎日満員電車に乗り、人混みにまみれ、鳥壱と同じように疲れたサラリーマンの背中を見ながら階段を昇り、当たり障りのない会話をして、特に楽しくもない仕事を淡々とこなし、家に帰っては一人酒をしながら晩飯を食べ、明日に備えて早めに寝る。そんな、くだらない毎日。生きているのか死んでいるのかも、どんどん分からなくなっていく。
 そんな日常に嫌気が差したからこそ、変化を求めて悩み続けるのだ。
 そして、皺が付くほど寄せた眉間を飽きずに寄せ、跡が付くほど押さえた目頭をまたしても寄せた。
 彼女に言っているのか、自分自身に言っているのか、譫言のようにレーサー、小説家、漫画家、郵便屋さん、政治家、教師、料理人、などと男がなりたかったという職業を次々と挙げていった。
 それらに一貫性はなく、本当に思いつくままに言っているようにしか聞こえなかった。
 彼女はそんな煮え切らない態度に苛つき、
「鳥壱さん、ハッキリと言いましょう」
と、冷たく言い放った。
 鳥壱は思考を中断し、顔を上げて彼女の顔を見た。彼女は鳥壱の眼を見つめる。裸の姿を見られたような気恥ずかしさを感じた。
「貴方は、その職業を辞めるべきではないわね。貴方は言った筈よ。今の仕事は上手くいっている、と。なら、辞めるべきではないのよ。人には向き不向きがあるわ。適材適所よ。不向きなら、巧くいかないもの。貴方がどんな仕事をしているのかは、私は知らないわ。でも、きっと、貴方にとってその職業が天職だったのよ」
 淡々と、感情が籠もっているべき言葉なのに無感情な声で、彼女なりの答えを語った。だが、鳥壱はそれを鼻で嘲笑った。
「天職……? 今僕がやっている仕事が? 冗談は止してくれ。つまらないつまらないと思いながらやる仕事が天職なら、面白いと思える仕事は天職じゃないのか?」
 鳥壱は苛ついた声で言った。それに、彼女は片方の眉を釣り上げて、
「あら、冗談ならもっと気の利いたことを言うわよ。例えば、私と一緒に組んでお笑い芸人でも目指しましょう、てね」
「……は?」
 何を言っているのか理解できず、鳥壱は思わず素っ頓狂な声を上げた。停止した思考がそれを冗談だったと判断するのに、それなりの時間を要した。そして、苦笑した。
 彼女と一緒に、という部分は鳥壱にとって有り難かったが、絶対になりたくない職業の一つにお笑い芸人があった。生真面目な性格の所為か、人を笑わせるのは得意ではないからだ。

 奇妙な沈黙が、この場に訪れた。

「……こほん」
 場を取り繕うように、彼女はなんともわざとらしい咳をした後、
「じゃあ聞くけれど、何故貴方はその職業を選んだのかしら?」
と、話を戻した。
「何故って……」
――たまたま、そこが受かったから。
 それ以外、理由は無い。別に好きで選んだ訳でもないし、特別な事情があってそれを選んだ訳でもない。
 鳥壱はそれを言おうとして、何故か言葉に詰まった。
 言葉にしたくなかった。言葉にしたら最後、鳥壱の中にある何かが、粉々に砕け散ってしまいそうだったから。
――たまたま受かったから、実家を出たのだろうか?
――たまたま受かったから、辛い電車通勤を我慢しているのだろうか?
――たまたま受かったから、この一年間頑張ってきたのだろうか?
――生活のために? 社会のために? 世間体のために?
 確かにそれもあるのかも知れない。しかし、どれもこれも違うような気がした。
「誰かに強制されたのかしら?」
「……いや」
「敷かれた線路の上を辿っていたら、そうなったのかしら?」
「……いや」
 彼女は目を細め、男に見せた笑顔の中では一番意地悪そうな笑みを浮かべながら質問する。
「それとも、自分自身でその職業を望んだのかしら、鳥壱さん?」
 鳥壱は口を開き、その答えを言おうとするが、戸惑い、口を紡ぐんだ。
 眼前で両手を組み、悩む。
 言葉にしたら最後、それが鳥壱を縛り付けるだろう。
――でも、そうなることは嫌いじゃない。
 しばらくすると、鳥壱は何かを決断したような清々しい顔つきで、その答えを語り始めた。
「……そうだ。それは、僕が望んだ事だ。確かに夢は叶えられなかった。無職は避けたかったから、やむを得ずその仕事に就いたというのは否めない。友達に、フリーターだなんて馬鹿にされたくなかったから。そりゃ、最初の頃は嫌々ながらも仕事をやっていたよ。今も、好きとは言えないけど、嫌いじゃなくなった。たまにサボったりもするけど、それなりに誇りを持って仕事に取り組んでいるんだ。頑張っていると、同僚は僕を認めてくれた。頑張ってるなって、励ましの声をくれたんだ。それは、本当に嬉しかったんだ……。上司も、僕の頑張りを認めてくれたのか、今度給料を上げてやるって言ってくれたんだ。安月給だからね。それが、一番嬉しかったかなぁ……」
 振り返ってみると、あれだけ嫌だと思っていたのも、いくらかマシな気持ちになった。今の仕事が嫌だという気持ちはまだある。けれど、まだ頑張れる気がした。
 彼女は鳥壱の答えを聞き、くすくすと笑いながら言う。
「あら、それは良い事ね。今度、何か奢って貰おうかしらね?」
「ご飯ぐらいだったら奢れるよ。フランス料理とかは無理だけど、美味しいラーメン屋さんとか知っているから、それで我慢してよ」
「ラーメンねえ……。私、結構味には五月蠅いわよ?」
「だろうね、そんな感じがするよ」
 彼女は少しだけ眉をひそめる。
「……それって、褒め言葉かしら?」
 鳥壱はその問いを聞き、両肩をすくめ、さあ、と微かに首を傾げながら言った。
 その行動に、彼女は思わず苦笑する。
「……他の人にやられると、結構嫌になるわね。それ……」

――ガタン、ゴトン。

 列車が少しだけ大きく揺れた。
 鳥壱が入ってきた扉とは反対側にある扉が、ガタガタと音を立てながら開く。思わず、鳥壱はそちらの方に視線を向けた。
 そして、入ってきた『それ』を見て鳥壱は、小さな声を上げるほど驚いた。
 扉から入ってきた『それ』は、一見すると帽子、上着、手袋、ズボン、靴と一式着た人のように見えるが、よく見ると人の身体はなく、空中に浮いた服だけが存在していた。
 周りに居るシルエット達も不思議な物体に見えるが、この空中に浮いている服はもっと不思議な物体だった。
 人の身体は一切見えないのだが、普通の人が帽子を被った位置に青みがかった黒の帽子があり、帽子と同じ色の服があり、またしても同じ色のズボンがあった。
 純白の手袋をつけ、古びた黒い革靴をカツカツと鳴らしながら通路を歩いてくる。
 彼女たちの前まで来ると、その『服』は立ち止まり、屈んで鳥壱を見る(もっとも、顔が無いので本当に見ているのかどうかは分からないが)。
<乗車券を拝見致します>
 聞こえてきた声に驚き、鳥壱は思わず辺りを見渡した。なぜなら、その声が鳥壱の頭に直接響いてきたからだ。鼓膜を通さずに聞こえてくるそれは、夢の中で聞こえる声のような、スピーカーを直接頭の中に埋め込まれたような、何とも表現し難い感覚だった。
 初めて味わうその感覚に、鳥壱は見るからに狼狽する。
<乗車券を拝見致します>
 再度『服』からの要求の声が聞こえ、鳥壱は何とか対応しようとする。
「乗車券? ちょっと待って、乗車券?」
 だが、鳥壱は要求された物をただオウム返しするだけだった。
 列車に乗るにあたって必要な物、それは乗車券。なのに、鳥壱はこの列車に乗る前に乗車券を買った覚えなどなかった。そもそも、乗る前の記憶などないのだから、覚えなどないのは当たり前なのだが。
「えっと、その……」
 どう弁解するべきなのか分からず、鳥壱は喘いだ。
 鳥壱の常識――『社会のルール』からいえば、乗車券を買い忘れたということでその分の料金を払えば良い、という事なのだが、目の前に居るのは普通の車掌ではない。空中に浮いた『服』なのだ。
 仮に目の前に居るのが一風変わった車掌だとしても、鳥壱が持っている通貨で事足りるのかどうか、かなり疑問視された。
 どうするべきなのか、平謝りでもすべきなのだろうか、それとも土下座か。そんな事を鳥壱が悩んでいると、彼女は鳥壱の胸ポケットを指差す。
「捜し物は、大体ポケットの中に入っているものよ」
――ポケットに? まさか、買った覚えもないのに。
 そう思いつつも、鳥壱は胸ポケットに手を入れてみた。すると、紙切れのような物が手に触れる。
 それを慎重に取り出してみると、長方形の白い紙――乗車券らしき物が出て来た。
 紙には何か文字が書いており、鳥壱は訝しげにそれを見つめた。そこには、『玄関→アパート』とだけ表記されてある。
 それが何を意味しているのか理解出来なかった鳥壱は、首を傾げた。
 だが、そんな事はお構いなしに、『服』がそれを鳥壱から奪い、爪切りのような物でパチン、と挟んだ。
 『服』は帽子の鍔を摘むように掴み、軽く会釈した。
<あと少しで『駅』に到着致します。貴方の乗車券はそこまでなので、そこでお降り下さい>
 抑揚のない事務的な声で言った後、『服』は乗車券を持ったまま先程入ってきた扉に戻って行き、向こうの車両に消えていった。
 鳥壱は、その方向を呆然と見つめていた。田舎では珍しくない事だが、よもや宙に浮いた『服』がその業務をこなしているとは、想像もしなかった事だった。
「今のはね、この列車の車掌さん。一人しか居ないから列車の運転と乗車券の確認を一人でこなす働き者よ」
 彼女は親しい友人を紹介するかのように、先程の『服』について語った。
「そう……なのか」
 現状を把握出来ず、混乱しきった鳥壱にはそれを言うのが精一杯だった。
「もう少しぐらいお話をしていたかったのだけれど、残念ね。もう、時間がないなんて」
 残念そうな顔をしながら、彼女は短いため息をはいた。
「時間が、ない……? それはどういうことなんだ……?」
 そう彼女に質問した時、列車はゆっくりとスピードを落とし始めた。徐々に徐々に、眠っていれば気づかない程にゆっくりと。
「こういうことよ。貴方は貴方の『駅』に着いてしまった。それが答えよ。貴方はここで降りなくてはならないの。さっきの車掌さんが言ったように、貴方の乗車券ではここまでが限界。ここが、貴方にとっての終着駅なのよ」
 彼女が言い終わると同時に、列車は止まった。駅なのかどうかすら分からない、何処かに。
 鳥壱は、窓から何も見えない真っ暗な外を見つめた。一筋の光もなく、真の暗闇だった。
「そう……か」
 鳥壱は譫言のように呟いた。外を見つめるその瞳は、酷く哀愁を漂わせていた。
――これで、終わりか。
 鳥壱は、本能的に理解していた。この列車から降りるということは、この『夢』から目覚めるということ。そして、彼女と永遠の別れを意味するということを。一時の夢物語は、もう二度と見ることはないだろう。
「……本当に残念だよ。君とは……ああ、ごめん。美奈さんとは、もっと話をしたかったのにさ……」
 名残惜しそうに言った後、鳥壱は席を立ち上がる。目的地に着いたのなら、することは一つしかない。
「そうね、本当に……残念だわ」
 彼女は小さく手を振った。それに応えるように、男も小さく手を振る。
「美奈さんと一緒に、ラーメンを食べたかったなぁ……」
「ふふ、本当にね。貴方が豪語する『おいしいラーメン』とやらを、是非味わってみたかったわ」
 鳥壱は噛み締めるように、ゆっくりと木目の通路を歩き始める。一歩一歩、悔いを残さないように。
 やがて、鳥壱が入ってきた扉の前に辿り着く。
 眉間に皺を寄せ、目頭を押さえ、軽く頭を振るった。
「さようなら」
 小さく呟いた後、鳥壱はガタガタと音をたてながらその扉を開けた。

――ガタン、ゴトン。

 鳥壱は寝ぼけ眼を擦りながら、深い夢から目覚めた。
――……夢。
 そう、『夢』。何か大事な夢を見ていた気がする。内容は全く覚えていない。しかし、公園のベンチで、木漏れ日を浴びながら木の葉のせせらぎを聞いていたような、そんな心地よい気持ちだけが残っていた。
――どんな夢だったかなぁ……。
 眉間に皺を寄せ、目頭を押さえ、必死に思い出そうとする。しかし、鳥壱よりも遅く目覚めた時計が鳴り出した。
 そこで思考は完全に中断され、もやもやとした霧が一斉に晴れた。――いや、もう飛散してしまって収拾がつかなくなってしまったと言った方が正しいか。
 結局、鳥壱は思い出すのを完全に諦めた。元より、夢とはそういうもの。記憶に残らないからこそ、夢なのである。加えて言えば、思い出せないからこそ余計に甘美に、愛おしく感じるのだろう。
 目覚まし時計のベルを止め、ここ二週間ほど干し忘れた煎餅布団から起きあがる。背伸びをすると、背骨がボキボキと気持ち良いくらいよく鳴った。
 鳥壱は顔を洗おうと洗面所へ向かう。途中、転がっていたビール缶をうっかり踏み潰してしまう。微かに残っていたビールが、外に飛び出る。
――やっちゃったなぁ……。
 雑巾で拭こうと、部屋の中を見渡す。改めてみる部屋の中は、相変わらず汚い。ポテチの欠片が散乱し、綿埃は我が物顔で部屋をうろつき、袋の切れ端やレシートがゴミ箱から脱走していた。
 絶対に彼女なんて連れ込めるような部屋ではないな、と鳥壱は苦笑した。
 お風呂と一緒のタイプの洗面所に入る。床に水垢の跡があり、いい加減に掃除しないと不味いだろうかと悩む。何度も休みの日に掃除しようと計画は立てるのだが、実行されたのは小学生が考える『夏休みの計画』ぐらいに守られた試しがない。
 洗顔を手に付け、擦り付けてからバシャバシャと顔に水を浴びせかける。それから、もう何日も洗っていないタオルで拭き取った。
 さっぱりとしたところで、トースターにパンを突っ込む。焼き上がるその間を利用して、上に乗せる具を作成する。
 フライパンに油を引き、目玉焼きを焼く。その時間を利用し、冷蔵庫からトマトを取りだして、縦にぶつ切りにした。
 しばらくして、ポンという間抜けな電子音と共にパンが飛び上がった。UFOキャッチャーで獲得した品物なのだが、チンと鳴らない辺りがいかにも景品らしい安っぽさだ。
 そしてそれを取りだし、具を乗せてかぶりついた。
 もごもごと口を動かしながら、糊が落ちてきた背広を着て、しなびたネクタイを締め、変な癖が付いたズボンを履いた。それからコロコロ(カーペットの毛や埃を取るヤツなのだが、正式名称は知らない)を手に持ち、背広やズボンの毛や埃と取る。これが、いつの間にか日課となっていた。
 時計にちらりと眼をやると、いつの間にか出発しなければならない時間になっていた。遅刻ギリギリの時間で動いている為、電車を一本でも乗り遅れると確実に遅刻となってしまう。
 サンドイッチを口の中に押し込み、流し込むように牛乳を飲む。いかにも安っぽい鞄を持ち、玄関でツヤが無くなった革靴を履いた。
 ドアノブに手を掛けると、ふと鳥壱は思ってしまった。
――今日もまた、退屈な一日が始まるのか……。
 これから満員電車に揺られ、面白くもない仕事をし、上司に怒られないように言葉に気をつけて、同僚と当たり障りのない会話をし、定時になったら今度は帰りの満員電車に揺られて、そしてまたこの部屋に戻ってくるだけなんだろう。
――サボってしまおうか。
 ちらりと後ろを見ると、干していない煎餅布団がやけに魅力的に見える。休みの日にしか起動していないゲーム機が、鳥壱を誘っているように見える。
 しかし休めば、給料は減るし、サボったという後ろめたさから思いっきり楽しむことは出来ない。けれど、会社に行くのは非常に億劫だった。
 どんどんやるせない気分が募り、鳥壱は深いため息をはいた。
 いつか今の仕事を辞めて、好きな事をしたいと考えていた。貯金はそれなりにある。その間に、その好きなことを飯の種に昇格させれば良いのだ。
 だが、そんな事を考え続けて早一年。未だに実行された試しはなかった。
 再びやるせない気分になり、もう一度深いため息をはいた。
 携帯電話で時間を確認すると、もう出発時間は過ぎている。駅まで全力ダッシュしなければならないなぁと、鳥壱はますます憂鬱な気分になった。
 結局サボるのは止め、酷い気分のままドアノブを握った。
 ふと、『誰か』の言葉が鳥壱の頭を過ぎった。

<何故貴方は、その仕事を選んだのかしら?>

――いつ、どこで、だれにそんな質問されたのだろうか?
 まるで自問するような誰かの問い。
――自分は何故、この仕事を選んだのか?
 鳥壱は、この難問に度々自問し、胃を痛めるほどに悩むが、出るのはいつも薄っぺらい答えだけ。生活の為だとか、世間体の為だとか、そういったものばかりである。
 けれども、なぜかその誰かの問いかけで答えが出てしまったような気がした。
 どうして、と聞かれても答えられない。
 どうしてか、としか言いようがなかった。
 たまたま受かっただとか、無職は嫌だったからだとか、そんなくだらない理由だったと思う。
 周りの皆は就職して居るのに、鳥壱だけが無職。まるで村八分な状態に、耐えられなかったのだ。鳥壱はその時、自分だけが世界の果てに置いていかれたような錯覚すら覚えた程だった。
 だから鳥壱は就職した。対して興味もない、何の面白みも感じられないこの仕事に。
――じゃあ、僕は何故この仕事を続けているんだ?
――無職は嫌だからか?
――村八分は嫌だからか?
――いや、違う。この仕事はこの仕事で、それなりに楽しいと思った筈だ。
 なのに、鳥壱はつまらないと感じていた。
――どうしてだ?
 もしかしたら、明確な理由はないのかも知れない。ただ何となく、今の仕事に飽き、毎日続くこの日常に嫌気が差してしまったのかも知れない。
 確かに最初は、本当につまらなくてなげやりに仕事をこなしていた。だがある日、一生懸命仕事をしていると――どんな理由から一生懸命だったかは覚えていないけれど――課長が鳥壱を褒めてくれたのだ。そして、同僚も鳥壱の頑張りを認めた。
――嬉しかったなぁ。
 その瞬間だけは、この仕事をやってて良かったと思った。
――ああ、そうだ。だから僕は、仕事をしているのかも知れない。
――その一瞬の喜びの為に、あまり楽しくない今の仕事を続けているのかも知れない。
 まるで花のようだな、と呟いて鳥壱は笑う。
――咲き誇る一瞬の為に堪え忍ぶ、華麗な花のような人生が僕なのか。
――悪くはない。
 何故なのかは分からないが、『例えば、私と一緒に組んでお笑い芸人を目指しましょう、てね』という言葉が思い出され、声を上げて鳥壱は笑った。
――多分、さっきの質問と同じ人だと思うけど、変な台詞だ。
 冗談の筈なのに、やけに真剣な顔でそれを言っていたことだけは覚えている。
 いつ、どこで会った人なのか、結局鳥壱は思い出せなかった。もしかしたら、今日見た夢の住人なのかも知れない。
 鳥壱は、その覚えていない誰かに感謝した。
――僕なりの答えを、見つけることが出来たよ。
 ドアノブを回し、扉を開けた。
 ジメジメとした湿った部屋の中に、爽やかな風と眩しい光が差し込んだ。
 昨日よりは晴れやかに、鳥壱は会社に出勤した。


【了】


2007-02-27 00:37:34公開 / 作者:rathi
■この作品の著作権はrathiさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ども、久しぶりの新規投稿のrathiです。

既にお気づきの方も居るかも知れませんが、去年書き上げた「シングル・ライン」という作品を、また改めて修正したものです。
ちなみに、これで三回目の修正です。これだけ修正かけた作品は初めてですよ。

さておき、とある事情でこれを修正した訳で。んで、ここに出そうかどうか迷いましたが、書いたものはほぼ全てここに上げているので、儀式というか日課というか、まぁそんな感じで投稿しました。

既に読んだ方にはオチが分かっているので退屈かも知れませんが、再読していただけると感謝です。
初めての方は、何でも良いので感想をいただけたのなら感謝です。

ではでは〜
この作品に対する感想 - 昇順
作品を読ませていただきました。懐かしいですね。この幻想的な雰囲気は好きですよ。問いかけのようでいて、その実、自己を見つめ直す精神的な〈旅〉というのは仕掛けとしては面白いです。しかし、この話だけ読むとせっかくの舞台設定を生かし切れていない印象が残ってしまいますね。女と二人きりになる状況だけならば、列車にこだわる必要がないですから。読み切り作品として捉えた場合、舞台設定をもっと生かして欲しかったです。戯れ言を失礼しました。では、次回作品を期待しています。
2007-03-04 11:39:00【☆☆☆☆☆】甘木
感想ありがとうございます。
全くもってその通りで、短編にしてしまうと電車である必要性がなくなっちゃうんですよねぇ。
もう少し何か手を加えれば良かったかなぁと今更ながらに後悔です。
やっぱり小説は難しいなぁとつくづく感じます。

ではでは〜
2007-03-06 22:19:16【☆☆☆☆☆】rathi
計:0点
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