何者だコヤツ、と驚きながら読み進めて、ああコヤツならばやりかねんと思った(笑) 言語性に対し俗として毒されていない、いやそうでなく、言語性にどうしようもなく付帯する毒された定形としての毒を解毒する、重力に抗う浮遊感。凡庸に感じ、凡庸に「物語」を享受して凡庸にそれを吐き出すしかできない精神の地平には決して届くことも、指先を伸ばすこともできない異世界であり、当たり前の世界。
ここにある、常識の範疇としての因果の連鎖の崩壊、つまりはわかりにくいこと、何を言いたいのかさっぱりわからないということ、それを、その謎を、読み解こうという気はさらさら起きない。それは食べ方が違う。ただひたすらに奔放な言葉の連鎖、細かいモザイク紋様のさざめく姿、その有様を前にし、呆然と唖然と眺めやるだけだ。そしてその感触が心地いい。後背にある鋭い、切り詰められたイメージに圧倒されるのが心地いい。
これを書きたい、そう思う時、待ったをかけるもの、それは非常に俗悪な、他人に理解を求めることであるとか、よりいっそう俗悪な、他人に理解してもらうために媚態をつくすとか、そういう心根になる。
それを取っ払う。しかも功名心を感じない。蛮勇。それを見る。それが実にいい。
宿命。この作品においてどうしようもなくつきまとうもの。それは帰結するということ。ラスト、帰結している。ところがこの作品は決して帰結しないもの。敢えて散漫な言葉で言えば堂々巡り。力学的に渦を巻くエネルギーが、そのはじまりも見えなかったものが、「終わる」 でもこれは多分目には見えない或る極めて厄介な世界を抱えてしまった表現者にとって、額縁を付与しなければならない、作品を作るということの逃れられない拘束でもある。終わらないものを終わらせている、そのことと、そのことの不自然さを覚えつつ、だけれど何ら終わっていない、決着などついていないことを類推する。そうあってほしいと思う。だから読了後のそれは願望。
俗悪な意味において、「わかるか」と問われると、「わからない」と答える。だけれども、「わかる」ことを敢えて「わかる」として書くというのは、人生の無駄遣い。だったらもっと楽しいことをする。わからないものに対して全力で言葉を、文章を当てはめていく。それだから文学は楽しい。だから、この作品を読むことも、今これを書いていることも、僕にとっては自分の文学の本道を歩むことに他ならない。
この場で、こんなことを書いているのがたまらなくうれしい。この場でこんなことを書ける日が来るとは正直思っていなかった。
もうしわけない。例によって、こんなものを書いてしまうとこの後レス続かないかもしれん。承知の上で危惧しなお、力を傾注してこれを書く以外に遇する術知らず、やむなく。
2006-08-19 14:53:05【★★★★★】タカハシジュン
まるで知らない物に触れてしまいました。簡単に言えば新世界、しかし、どこか心覚えがある世界でもあります。私はきっと、この物語の真意を十分の一も理解出来てはいません。しかし、確かに心に残る物はありました。これを感想にしてみたい。正直、これは挑戦です。
その作品は、悉く私の「小説」と言う定義を破壊してくれた様に思います。何と言うか……この作品は「絵的」にも優れている様に感じます。言葉の流れ、語句の選択、繰り返し。そしてそれらを言葉としてでなく、一つの形として見た時。本当に流暢で美しく、正直、私は激しく嫉妬しています。素晴らしい小説、文学作品だと思います。
世界、思想が深すぎるが故に私はこの小説に感想を書き込む気がありませんでした。しかし、タカハシ様の感想を読み、「書かなくては」と思いました。私もこの世界に触れたい! と強く望んだからです。とても読者冥利に尽きる作品だと思います。
私は音楽でも小説でも、常に「永遠に楽しめるもの」を探しています。過去に読んだ本、聞いたアルバム、全て何年か経って聞き直すと物足りなく感じます。当然です。既にその内容を熟知してしまっているのですから。ありえない事だからこそ、それが私の夢です。
この話は私のそんな夢へと向かう扉を開いてくれた気がします。私の知る世界はあまりに矮小で俗物的なものだった様に感じます。
今の私の心中を素直に伝えられる力が無くて残念です。鬱の様な、恍惚とした様な、はたまた涅槃でも見た様な。
嬉しく思います。悔しく思います。
溶けよ溶けよ溶けよ解けるまで。
深い言葉ですね。私は、最後の『解ける』とは束縛からの解放、平常心への帰還なのかな……と考えました。真意は知りません。ただ、こうして考えるのが至極幸せです。
ありがとうございました。多感な時期にこの様な作品に出会え嬉しい限りです。モラトリアムな今だからこそ、私は喜び嫉妬できる。
さてさて、気付いたら感想云々より自身の事を書いてしまっていました。なんだか申し訳ありません。やはり、私にこの話の細部に突っ込む度量はありません……。ただ漠然と全体を眺め、感性を頼りに書きなぐる事が限界で。それでも、私は今、この空間に立ち会えた事で自己満足に浸っています(笑)
すいません。そしてありがとうございました。
2006-08-19 19:37:17【★★★★☆】仁科
感想ありがとうございます。でも、そんなイイモノじゃありませんよ。あんまり褒められるとテレるし、勘違いして天狗になってしまうじゃないですか(笑
>タカハシさん
オー? ノーノー! ワタシ、ショタイメンデ−ス。と、いうのは冗談として。この書き物、「タカハシさんの目に止まるだろうなー」とは感じていましたよ。タカハシさんが登竜門に来たばかりのころ、意図的に言語と辻褄をブラした書き物がありましたからね。伝えたくても齟齬ばかりで三分の一も伝わらない、そう嘆いているのも聞きました。だったら始めからブラしておいて伝えたい部分にスポットを絞るという方法は、そんなに難しくなく辿り着けるチェックポイントです。この方法のおかげでいろいろと自由ができましたよ。冒険もできました。できうる限りのものを詰め込めたので満足しています。一本槍で勝負してしまっているから、感想も一個ぐらいかなと予想していたし、それでいいやと思っていました。
【わからない】って、タカハシさんの感想もワケワカランよ。ね、もう。この書き物の感想を書くのは容易ではないだろうけれど、こんな手放しで褒められたらリプライも書きづらいよ。うーん。【わからない】で停滞せずに一歩も二歩も進んでもらえているだけで書き手冥利に尽きるというか、感謝しています。
>仁科さん
そんな肩肘張ることはありませんって。真面目な人間ではこんな書き物しませんよ。
『絵的』という評価、嬉しく思います。小説には視覚的な表現も必要であるし、それはまだ開拓されていない部分もたくさん残っていると思うのです。正規表現の読みやすさを認めたうえで効果としての文字表現を行うには、私ではまだ早すぎる気もしますけれどね。仁科さんの感想を読んでいると言葉の『音』も楽しんでいただけた様子ですので、少ない中での語彙選択をやりくりしてきたことが無駄ではなかったなあ、と胸を撫で下ろしています。
『永遠に楽しめるもの』については私も昨日考えていたばかりでしたので驚いています(それとも、リンクを飛んで来てくださってから感想を書かれているのかな)。仁科さんの『永遠に楽しめるもの』ができること、私も願います。
2006-08-20 00:35:12【☆☆☆☆☆】模造の冠を被ったお犬さま
実は読んでいて、僕もアレに似てるかなあって思ったのね。いや、クオリティはこちらのほうが段違いだから拙作を持ち出すのはおこがましいのだけどさ。
何ていうんだろう。本来言葉で表現するのって、わからないものに対して架けられた架け橋なんだと僕は思うのね。だから疎通が容易なら、どんどん簡略化される。数十年来連れ添った老夫婦とかがさ、身の回りのこととかで疎通する時、あれとかそれとか、そういうのでわかる時がある(笑) それとは全く逆に、ほんの小さなことについて理解を求め、また理解しようとするのに、何万語も費やさねばならないこともあるし、それでも届かないことなんてザラにある。
そのときに、わかったこと、疎通できたこと、それのみが価値を有するのか。「そもそもわかるって何さ。単にそれはわかったと思い込んでるだけじゃないのか」という疑問を側においての煩悶。そういうのがあるから、僕は言葉を弄し続けているんだよなあというのがあるんだよね。
だから読んで感想を書くときに、こちらから必死に架け橋のばしましたですよ(笑) もちろんあなたのテクストも彼岸の彼方からこちらに向かって架け橋伸びてきてましたよ。そして、このふたつが開通すれば、そりゃあ結構なことだけれどさ、開通しなかったからといってそれがよろしくないという発想は、僕には到底できないし、ましてね、こちらはぽかんと口開けて向こう岸から橋がやってくるのを待っていて、橋が届かない、悪い、なんてことは口が裂けてもいえないですよ。昔拙のあの作品が叩かれた時(笑) 僕は大げさに言えばカルチャーショックだったものね。読み手は橋を伸ばさないのかと唖然としたもの。
僕自身にとってこの作品はね、わからないものに対して必死に立ち向かった作品だし、読むということがただ単に享受するということでなく、読むことそれ自体がクリエイトである作品。彼岸から伸びてくる霞んで見える橋に向かってこちらも架橋する作品。そして、あなたの自由、あなたの冒険に感嘆してしまう作品ですよ。
そういうところに価値を置いて読まねばならない作品。僕はそう思っております。だから大いに照れておってください(笑)
2006-08-20 07:38:30【☆☆☆☆☆】タカハシジュン
作品を読ませていただきました。素直に感想を書くと何を言わんとしているのか私には理解できませんでした。文章の断片をまき散らした文字の万華鏡を見ているような、見知っているようでいて分からない不可思議さを感じました。途中からは単純に単語の持つ「音」だけを楽しんでいたと言っても過言ではありません。私には理解できない作風ですが、世の中には色々な書き方をする人がいると知らしめてくれた作品でした。「模造の冠を被ったお犬さま」様のこれからの活躍を楽しみにしています。
2006-08-20 22:48:23【☆☆☆☆☆】ARADO196
思ったより感想が多くて嬉しい。
>タカハシさん
『ワケワカランの小説』。
まるで読み手を拒む難解といえそうなワケワカラなさに満ちたふてぶてしい書き物を、私はそのあまりある好意と厚意を総動員して真剣に立ち向かい頭をフル回転させて読破したとして、それでもワケワカラン書き物はやっぱりワケワカラン書き物としてそこにあったとき。
うん。ハラ立つわ。私でも。
そこでじゃあ腹いせに「こんなもん公共の場に載せるんじゃねえ」って怒鳴り込もうと思ってもその書き物はなんだかとても神妙な顔をしていて「『小説じゃない』とでも言い出すつもりかいフフン」ってな雰囲気でいられると振り上げた拳はやり場をなくして「どっちに転んでも相手の思う壺、やりあうだけ無駄じゃねえか」とがっくりと肩を落としてしまう。
そんなとき残されている道はふたつあって、ひとつはこのワケワカラン系統全ての書き物を今後一切読まないようにし読書中に似たような芳香が漂ったら直ちにその本を壁に叩きつけるというワケワカラなさを全部諦めてしまう方法に出ることともうひとつ、こちらは書き手の伝えたいことを読解することだけ諦めてそのワケワカラなさを読み手である自分自身が補完してしまい読み手がオリジナルの書き物の印象を作ってしまうというふたつの方法。
タカハシさんはこの後者の方法を採っている、と感想から読み取りました(というか、感想を焼き直しただけ)。
恋愛の名言に【私の正面にあなたがいなくてもいい。同じ方向に顔を向けて一緒に歩むことのほうが大事だから】みたいなのがありましたが、そんな感じかなあと思いました。書き手と読み手が対照とならずに互いに立場を入れ替えることのできるようなよく似た存在になるような。
でもそんなとき、当の書き物は「ひとに『小説じゃない』とは言わせないけど、でもやっぱり私って小説じゃないんじゃないかなあ」と悩んでいるような気がします。
>ARADO196さん
ワケワカランよね。それが通常の感想ですよ。でも書き物は通常じゃない。通常じゃない書き物に通常に感想は書きにくかったことだろうと思います。ARADO196さんが快と感じたか不快と感じたかはちょっとわかりませんが(【楽しんだ】と書いてあるから悪くはなかったと思っておこう)、感想ありがとうございました。
2006-08-22 19:13:55【☆☆☆☆☆】模造の冠を被ったお犬さま
ああダメだ。レスが派生して面白くなりすぎてるよ。申し訳ない。書かせてくださいまし。
うん、恋愛になぞらえるのすごく面白いし適切だと思う。あの、やっぱり、愛して愛し抜いてですね(笑) 墓場まで共にするような相手がいたとしてもね、その人間の全てを理解するのって極めて困難だと僕は思うのですよ。それほどの間柄の他者であっても他者は他者で、それはもう絶望的に彼岸にいる。それが僕らのリアルライフだと思うんです。(こう書くと非常に虚無的かもしれないけど、だんだんとそういうことに慌てなくなってきた。当たり前だものね)
だからわからない間柄というのは、少なくとも僕にとっては極めて当たり前の常態なのですよ。
もちろんその折々において、わかった、心が通ったという瞬間も存在すると思う。それがただ単に個々人の妄想だ、と冷厳に切り捨てられるほど僕も血の通わない人間じゃないからね。でもそれは美しい思い出(笑:さぶいぼやね) という極小の例外になるほどの常ならずなものでね。基本的には地面は自分の範疇までしかつながっていないものでしょう。まあ相手の地平線まで自分がつながっているっていう幸せな人もいるかもしれないんだけど。
僕に言わせると書くことも全く同じなんですね。
他人の世界を捕食して、自分のものにすることはできるけど、自分が思う書き手の世界と、書き手の思う書き手の世界とは、イコールではないから。
文学というのは面白いんです。言葉、という作品を組み立てるパーツ、ユニットは、共通であり、共有されることによってはじめて価値を有するものなんです。ところが個々人がその言葉に抱く個々人の身勝手な思いや世界まで一緒になって共有されるわけではないんですね。
読むという行為は、だからどうやったって自分なりにしか読めないし、どう読んだって本質的には自分独自のクリエイトになるんですね。それが書き手のいる岸辺に向かって橋をかけること、或いは書き手が存在すると思っている岸辺に向かって橋を架けることで、もう恋愛と一緒(笑)
書くということも、架橋である。となると、読み手と書き手の橋が合致するのは、橋としての規格を整える必要がある。というので、小説には体裁、ルール、常道定石というものが、まあ存在するわけですよね。書き手というのは読み手が有している規格に適合する、規格品としての橋を作る、その巧拙によって評価されるべき、という考え方もあるわけです。
面白い、スンナリ読める、そういう評価というのは、読み手になるべくオリジナルの部品を作らせないようにして橋を架けさせることだと思う。それはそれで書き手としては正しいありようですね。
ところが悪いことに書いていると、規格品の部品で、規格内の工法で橋を架けることが苦しくて仕方がなくなることが、まあ僕にはあるんですよ。橋は開通した。向こう岸で読み手は喜んでいる。だけれども僕は自分が架けた規格品の橋に何も感じることができない。
この時、本当の意味で橋は架けられているか。というと、またそういうわけでもないんですわね。全面的にノーとは言わないけれど、イエスからも遠い。
そして、僕はもう純粋に読み手として作品を読むことは随分減ってしまっていて、必ずどこかに書き手としての意識が関与してしまうけれど、それだけに、読み手に回った時に向こう岸から架けられてくる規格品の橋に辟易しもするのですね。自分がそうだから、橋を渡ったその向こうに本当に書き手の世界があるのだろうかといぶかしんでしまう。そして、機械的に自分の中でも規格品の橋をこしらえて書き手の伸ばす橋と合流することが、面白いわけでもないし興奮するわけでもない。書き、読み、その中でクリエイトしている自分自身が乏しいですからね。
だから、橋がちゃんとこちら側まで届いた。道が開通した。そういうのって、小説としては先ず第一に尊ばれるけれど、僕はそれはどうでもよくて(笑) 橋それ自体より、橋をかけてくる書き手の作業の様子に勝手に感動したりして(笑) 検討があっているのか違っているのか、自分で好き勝手に規格品じゃない橋を架けたがるんですね。
2006-08-23 19:08:46【☆☆☆☆☆】タカハシジュン
途中でミスって送信しちまった(汗)
作品としてのワケわからなさというものを必死に解明する、或いはそれができなかった。そのことに僕は落胆したり、憤ったりってないのですよ。もちろん書き手が不誠実で技術も乏しくて、殊更に混迷させるような作品を書いてしまったならば、それは全く話が別だけれども、尋常の橋、規格品の橋の存在をわかっているだろうに、何か得体の知れない方向を向いて橋を架けようとしている、そのエネルギーと向いている方向の世界の奇異でしなやかな美しさというものに心を動かしてしまうんですね。書き手が架けてきた橋について感動するのではない。橋をかける書き手の思惟の流れ、意思、覚悟、そんなものに感動してしまうのですね。それってリアルライフで他人に期待したり落胆したり、妥協したり諦観したりするのと全く同じなんです。僕にしてみると。
現実がわけわからなくて不条理ばっかりだからせめて虚構の世界ではわけわかる楽しいものを、という発想もわかるし、そういうものを全く評価しないわけじゃないけれど、やっぱり僕は僕の虚構との係わり合いというのはリアルライフと地続きなんですね。どうしてもね。
そしてもうひとつ。
他者、自分、と、ここまで便宜上ふたつは揺るがないものとして話を展開したけれど、でも僕は少なくとも書いている最中にあっては、自分自身を丸ごと完璧に捕まえてなんていないのですよ(笑) 読み書くということで相手に向かって橋を架けているようでいて、それは自分に向かっても架けている(笑) 大体僕は自分自身がもっともワケワカラナイ、神秘だもの(笑) 瞬時に変転し、逃げ去り、消えうせて別のものに変化している、そういう自分のどこに向かってかしらないけど、橋を架ける。
だからわからないというそのことに対して他人様を怒る気になれないんです(笑) 何より自分が意味不明だから(笑) 僕はだから自分という領域の中のほんの一部分を引っさげて、迷路の中でウロウロしてるんですね。だからわからないのは当たり前なんだ。ただヘコむこともあるし、それは作品をわかってもらえないというより、何で橋を架けているのかとかそういう自分の立脚点が疎通されてないとね、それはヘコみますよね。仕方がないんだけどさ。
2006-08-23 19:21:25【☆☆☆☆☆】タカハシジュン
初めまして。読ませていただきました――というより、何度も何度も読み返している、のですが。勝手に「考えるな、感じろ」の精神で文章の流れに心地よく酔わせていただいております。解釈なんておこがましいことは出来そうにないのですが、自分でもよくわからない部分が刺激されるのです。気持ちがふわふわします。頭がぐるぐるします。と、幼稚な表現しかできない私がお恥ずかしい。笑 終盤、ちらりと見える光は私の錯覚でしょうか。その部分にすっぱりとしたカタルシスを感じてしまっているのですが。
素敵な議論の間にこんなものを挟んでしまっては失礼かと思ったのですが、どうしても何か言いたかったのです(すみません)。色々考えさせていただきました。ありがとうございます。
2006-08-24 20:46:43【☆☆☆☆☆】キイコ
愛を込めて(いらねえよ)。
>タカハシさん
自らの皮膚を殻にして、その内側に閉じこもって引きこもって、想いだけをぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる何度も何度も巡らせて、手脚は悴み、頭を抱えて、内なる部分へと突き詰めていって、凝縮して、ただ一点に絞り込んで、
そして何も視つからない。
>キイコさん
何度も読み返していただけたのですね。ありがとうございます。『酔う感じ』そうですね、そんな感じでふわふわ気持ちよさを感じていただけるなら書いた甲斐がありました。思わず親指が立ちます。幼稚な表現というのは私のことですよ。こんな寸足らずな文章を書けるのは私ぐらいしかいません。
失礼なことはまったくありません。そんなことで謝ったらそれこそ私は許しません。こちらこそありがとうございました。
2006-08-28 23:08:23【☆☆☆☆☆】模造の冠を被ったお犬さま
計:9点