『堕天使の翼』作者:九宝七音 / ~Xe - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 北野純香は、盆休みを利用して、久しぶりに都会から田舎の実家へと帰省するが、その途端に《記憶のない記憶》に苛まれる……。『僕の……僕の翼を返しておくれ……』との電話の後で現れる正体不明の殺人鬼……。 やがて事件は、十五年前に起きた惨劇へと純香を導く……。 事件の陰で見え隠れする『天使』の正体を突き止めるため、O県警の新藤冴子が事件に挑む。
全角82453文字
容量164906 bytes
原稿用紙約206.13枚
プロローグ


<1>                                                                                                  
 じわりじわりだ。喉元から血液がトクリトクリと溢れ出してくる。とても嫌な感じだ。
 突然喉仏から、異形なものが飛び出してくる……。
…こ、これは。
 耳元に聞こえてくるのは、異様に歪んだ不気味な音楽。否、亡者どもの呻き声だろうか……。
…やめてくれ、やめてくれないか。
 ひどく背中が痛む。片方の翼をもぎ取られたせいなのか。それとも、何者かの仕業……?
…俺の、俺の翼はどこだ? 否、俺のじゃない。あいつの翼だ!
 音楽が、否、亡者どもの呻き声がだんだんと大きくなってくる。 
 何もかもが闇の中に吸い込まれていく。
…誰か、誰か助けてくれ!!

                   ※

 青木祐介(あおきゆうすけ)は、ゆっくりと目を開く。体中からは不快な汗がふきだしていた。
 どうやら、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。ステレオからは、先ほどまで聴いていた音楽がエンドレスリピートになって、ながれたままになっている。
…なんだ、夢か。
 青木は半身を起こすと、額の汗をぬぐって壁に掛けている時計で時刻を確認した。すでに深夜の二時を廻っている。一体いつの間に眠ってしまったのだろうか。
 シングルベッドから降りると、青木はテラス側の窓ガラスのカーテンを開け、外の様子を伺った。今日の昼過ぎから降り始めた雨は、どうやらまだ衰えることを知らずに降り続けている様である。ときおり暗黒に染まった空が青白く光り、しばらくの間をおいてゴロゴロと、鈍い空鳴りを響かせていた。
 青木は部屋の電気を点け、ステレオのスイッチを切ると、テーブルに置いてあった煙草を口に咥え火を点けた。ゆっくりと、部屋の中に紫煙が広がる。
…あの電話……。
 青木の住むマンションに、奇妙な電話が入ったのは、ちょうど昼食を食べ終わった頃だっただろうか。おもむろに取った受話器から、変声機かなにかで声色を変えた甲高い声が聞こえてきたのである。
『翼を……僕の翼を返しておくれ』
 受話器から聞こえた声は、確かにそう言っていた。声色が変わっているために、その声の主が男か女なのか判断するのは難しい。
『翼を……僕の翼を返しておくれ』
 受話器の声は、執拗(しつよう)なまでにその言葉を繰り返す。
『翼を……僕の翼を返しておくれ』
…馬鹿な!
 その言葉を聞いた刹那、青木の顔面からは一気に血の気が失せ、脂汗が額に滲んできた。
「だ、誰だよ、お前、誰なんだよ!?」
 受話器に向かって青木は叫びかけるが、返ってくる言葉は動じることなく同じ台詞を繰り返すのみであった。
『翼を……僕の翼を返しておくれ……』
 青木の記憶が、一気に十五年前に遡(さかのぼ)る。


 血に染まったダイニングルーム。
 そこにナイフを持ってたたずむ一人の『天使』。その天使も返り血を浴びてか、手のひらがどす黒く染まっている。
 そして、その『天使』の足元に横たわる二つの死体。
…違う、天使なんかじゃない! あれは……。
(お前が殺したのか?)
 当時、八歳だった青木が尋ねた。
(違う、僕じゃないよ)
 『天使』が震えながら答える。
(嘘つけ、お前が殺したんだ!)
 青木の後ろにいた同級生、染谷が叫ぶ。
(違う、違うよ。僕じゃないよ!)
(お前が殺したんだ! 皆、あいつを捕まえろ!)
 もう一人の同級生、穴井が泣き叫ぶ『天使』の方を指差して合図する。
(いやだ!!)
 『天使』は手に握ったナイフを青木たちのほうに投げつけて、裏口のほうへ逃げていった。
(追いかけろ。あいつはノロマだからすぐに追いつけるぞ!)
 穴井の声に合わせて、三人は『天使』の後を追いかけた。
 そして……。


『翼を……僕の翼を返しておくれ』
 再び受話器から聞こえてくる声に、青木の思考は十五年前から現実へと引き戻された。
…馬鹿な。あいつは死んだんだ!
 青木は、泣き出しそうになる自分を必死で抑えながら、受話器を電話にたたき戻した。
…悪戯だ。たちの悪い悪戯だ!
 そうして青木はベッドに潜り込み、ステレオを掛けてそのまま眠り込んでしまったのである。
…だから変な夢を見たんだ。
 青木はそう思った。自分は考えすぎなのだ。あの事件はあの場に居合わせた三人以外に知っているはずがない。そうなのだ、あの電話は単なる偶然の悪戯なのだ……青木は無理にそう思い込もうとした。
 真っ暗な空に激しい紫電が走り、一瞬青白く光る。そして、そのあとすぐに、耳を劈(つんざ)かんばかりの雷鳴が響く。雷が近づいてきているようだ。雨のほうも、その激しさを増している。アスファルトに叩きつけられる雨音が、しんとした青木の部屋まで聞こえてくる。
 青木は煙草を灰皿でもみ消し、少しでも気分を変えようと、そばにあった新聞を手にした。今日の新聞(正確には昨日になるのだが)には、まだ目を通していない。まず、テレビ欄にざっと目を通してみるが、今の時間帯に青木が興味を持つような番組はやっていないようだ。次のページを開いてみる。
…あ、ああ、これは!?
 青木の目は、あるひとつの記事に釘付けになった。それほど大きな記事ではなかったが、付近で起きた事件記事である。
…染谷俊彦(そめやとしひこ)って、あの染谷か!?
 その記事には、かつて青木の同級生であった一人の名前が記されていた。
…D公園で、何者かに襲われ死亡。
 記事にはそう書かれていた。被害者の名前が染谷俊彦……。
 染谷とは故郷の小学校、中学校とで仲の良かった友人の一人であったのだが、高校へ入ってからは、何の連絡も取っていなかった。ずいぶんと懐かしい名前を目にしたわけだが、まさかこんな形で目にするとは青き自身思っても見ないことであった。

『翼を……僕の翼を返しておくれ』

 怪電話の声が、青木の頭に甦る。
…違う! これは偶然だ。
 激しく頭を振り、新聞を放り投げる。
 その時である……。

         ピンポーン

 青木の部屋にインターホンの音が響いた。
 再び汗が体中から噴出す。一体こんな時間にどんな来訪者があると言うのか。

         ピンポーン

 虚(むな)しく響き渡るインターホンの音。
 青木はおもむろに立ち上がると右腕で汗をぬぐい、恐る恐る玄関の覗き穴に目をあててみた。
 玄関の外に立っているのは、帽子を目深にかぶった人物。帽子の鍔のせいで顔がうかがえず、男か女かさえも解らない。
 空が青白く光る。そして爆発音にも似た激しい雷鳴。どこか近くに雷が落ちたようだ。
「ど、どなたですか?」
 青木は、震える声で玄関越しに尋ねた。すると相手は帽子を脱ぎ、覗き穴に向かって一礼する。
「あ、あんたは!」
 青木はその人物の顔を見て驚いた。知らない顔ではない。しかし、ずいぶんと久しぶりに見る顔である。思わず玄関の鍵を開け、相手を部屋の中に招き入れた。
 相手はどうやらレインコートを着ているらしく、玄関前でコートについた雨粒をはたいて中に入ってきた。
「一体、こんな時間にどうし……」
 驚く青木の言葉を無視して、相手はずかずかと部屋の中に入り込む。
「ち、ちょっと」
 慌てて青木も後を追いかける。
「どうしたんですか、こんな時間に?」
 突然、部屋の中央で立ち止まった相手に、青木は再び尋ねた。
「ええ、あなたに聞きたい事がありまして……」
 ゆっくりと青木の方を振り返り、その人物はそう声を発した。
 刹那、青木の表情は凍りついた。その声は、電話で聞いたあの声であったからだ。恐らく、ヘリュウムガスか何かを飲み込んでいるのだろう。甲高い、不明瞭な声である。
「翼を……僕の翼を返しておくれ」
 その人物は、電話と同じイントネーションで同じ言葉を呟いた。
「ああ、お前は!?」
 青木は驚愕し、その場から逃げ出そうとした。しかし、それよりも早く、相手はポケットからナイフを取り出すと、青木に向かってそれをふりおろした。
「ひっい!」
 青木は悲鳴を上げ、両腕で自分の体をかばう。

           グサッ

 鈍い衝撃が、青木の右手のひらに広がる。相手のナイフが、手のひらを貫通したのである。
「ぐゎぁぁ!」
 どす黒い血液が、手のひらからしたたり落ちる。
「翼を……僕の翼を返しておくれ」
 相手は、冷酷なまでにその言葉を繰り返しながら、再びナイフを振り上げる。
「や、やめてくれ、助けてくれ!」
 青木は尻餅をついたままあとずさろうとするが、恐怖のため体が言うことを聞かない。
「なんでだよ、なんであんたがこんなことすんだよ。まさか、染谷を殺したのも、あんたなのか!?」
 青木の質問には答えず、相手はじりじりと青木を追い詰める。
「翼を……僕の翼を返しておくれ」
 相手はそれだけ言うと、冷徹な眼差しのまま青木に向かってナイフを振りおろした。
「ぎゃややゃあ!」
 青木の首筋にナイフは突き刺さり、鮮血が噴水のごとく辺りに飛び散った。
 意識が遠退く。その間にも、相手は何度も何度も青木の体にナイフを突き立てる。
 再び空が青白く光り、激しい雷鳴が響いた。
  

 

<2>

 八月十三日 月曜日。

 薄く紫色に染めた、肩まである髪。紺色のスーツのスカートの丈は、少し短めである。藍色のアイシャドウが目立つ化粧は、切れ長の細い目を強調しているようで、新藤冴子(しんどうさえこ)は一度髪を後ろに振り払い、事件現場である部屋の中に入ってきた。
 一見すると冴子の格好は、水商売人のそれであるが、実はれっきとしたO県警の第一課の刑事なのである。まだ二十八歳と言う若さであるが、なかなかの検挙率を収めており、県警の中でも注目を集めている人物であった。
「あっ、おはようございまーす。冴子さん」
 両手に手袋をはめようとしていた冴子に声を掛けてきたのは、糸永慎二(いとながしんじ)という、今回冴子と初めてパートナーを組むことになった、二十六歳の新人刑事である。男にしては妙に甲高い声で、態度のほうも実に飄々としている。太い眉毛に、スポーツ刈りの髪型。大きな二重まぶたは今にも眠りそうなほどに垂れているのだが、それが糸永の生まれつきの容貌なので仕方がない。
「まったく、こんな朝早くから叩き起こされて、冗談じゃないわ」
 冴子は大声で愚痴をこぼしながら、あたりの様子を伺う。 
 1LDKのその部屋は、最低限の家具しかないらしく、実に質素である。ただっ広いリビングには、何人かの鑑識員が写真を撮ったり 指紋を検出するためのパウダーを振りまいたりしていた。そのリビングの中央には、どうやらシーツを掛けられた被害者が横たわっているらしく、その周りはおびただしい血液が飛び散っていた。
「朝早い、って言うわりには、きちんとメークきめてますね」
  冴子のあとを、金魚の糞のごとくちょこまかとついて来る糸永が余計なことを言う。勿論、冴子はそんな糸永を睨み付け、スポーツ刈りの頭をぴしゃりと叩いた。
「痛いっスヨ、冴子さん」
 甲高い声で、叩かれた頭を撫ぜる糸永を尻目に、冴子は被害者の元まで歩み寄り、シーツをめくった。
「ああ、酷いわね、これは。……それで、被害者の身元は?」
 冴子は死体の状態をよく観察しながら、糸永に尋ねた。すると糸永は、ええっと、と呟きながら手帳をめくる。
「今わかっているとこまで言うと……、被害者の名前は青木祐介、二十五歳。このマンションで一人暮らしをしていたようですね。勿論独身ですよ。詳しい死亡推定時刻は検死のほうに回さないと解りませんが、死体の状況から見て、恐らく午前二時から四時の間ですね。体中を鋭利な刃物で数十箇所刺されています。……現場は荒らされた形跡がありませんから、多分、物取りによる犯行ではないでしょうね。……それよりも、被害者の右手に握られているもの、見てください」
 糸永に言われて、冴子は死体の右手に注目した。その右手は、どうやら刃物の一撃を受けているらしく、どす黒い血がこびりついていたが、握られているものが何なのかはすぐに確認できた。
「白い羽根……。この前と一緒ね」
 三日前、D公園で男の刺殺死体が発見された。男の名前は染谷俊彦。今回と同じ、二十五歳の独身男であった。彼も体中を鋭利な刃物で滅多刺しにされていて、右手には白い羽根が握られていたのである。
「どうやら、三日前の事件と同一犯らしいっすね。どうして犯人は被害者に、白い鳥の羽根なんか握らせるんでしょう? 我々に対する何かのメッセージすかね。ほら、アルセーヌ・ルパンみたいな、警察に対する挑戦状とか。それとも、犯人は愛鳥家だとか……」
 糸永は、冴子の横でぺらぺらと訳の解らぬ事をぶつぶつ言っているが、冴子はそれを無視する。
「マンションの住人で、怪しい人物を目撃した人はいないの?」
「へ? ああ、それは今のところないみたいっすね。……それよりも冴子さん、僕の鋭い推理聞いてます?」
「争うような物音とかは? 隣の住人に聞いてみたの?」
「それは勿論ですよ。だけど、なかなかここのマンションの壁は分厚いらしくて、そういう証言は取れてませんね。第一、昨日は雷がうるさくって、ろくに眠れませんでしたよ。僕、雷苦手なもんでして」
 冴子はうんざりして、糸永を一瞥した。
「誰もあなたのことなんか聞いてないわよ」
 冴子に言われて、糸永は苦笑いを浮かべる。
「またまたぁ、そんなに冷たくしなくてもいいじゃないっすか」
 そういう糸永に対して、冴子は大きく溜め息をついた。どうしてこんなわけの解らぬ男と、パートナーを組まされたのだろうか。いつもパートナーを組んでいる双葉と言う男も、糸永とさほど変わらぬ年齢なのだが、真面目一直線の彼は、冴子に対していろいろと説教を垂れる癖があるので、冴子はその男もあまり好きではないのだが、少なくとも、この糸永と言う刑事よりかは幾分かましなように感じる。ちなみに、双葉は急性盲腸炎にかかって、現在入院中である。
 冴子は、被害者にシーツを掛けなおすと、おもむろに立ち上がり、再び部屋の中を見渡した。確かに荒らされた形跡は無いようだ。となると、物取りの線は薄い。
…怨恨の類かしら……。
 髪をかき上げながら考える。
「ねえ、糸永君。確かD公園の事件の被害者の名前は、染谷俊彦だったわよね」
「はい、そんな名前だったように思いますけど」
 糸永は自信無げにうなずく。
「いいわ。あなたは今から、被害者二人に何か共通点は無いか調べて。私はしばらく、近くで聞き込みをしてみるわ」
「もしかして、連続殺人事件になるんですかね?」
「被害者の状況から見て、その線が濃厚ね」
「うわっ、なにか大変なことになりそうっすね」
 糸永は、甲高い声で大袈裟にそう言うと、にやりと笑った。
「な、なによ、その笑みは?」
 不審に思いながら、冴子は糸永に尋ねる。
「へへっ、冴子さん、僕に任せといてください。こう見えても、学生時代は推理小説の愛読家だったんですから。連続殺人事件だろうが、密室殺人事件だろうが、僕の頭脳に掛かれば、ものの見事に解決ですよ!」
 糸永は、自信に満ちた表情で、喜々と宣言する。
 冴子は、再び大きな溜め息をついた。一体どこから、そんな根拠の無い自信がわいてくるのであろう。
…あなたが、ただの馬鹿でないことを祈るわ。
 呆れた視線を糸永に投げつけ、冴子は心の中でそう呟いた。

               ※※※

 遠くで、陽気な笛の音や太鼓の音が聞こえる。今日は夏祭りの日だ。
 天空を真っ赤に染める夕日は、まるでそれが何か不吉な予兆であるかのように、無言で町を覆っていた。
 三人は、彼の家へ向かっていた。彼は面白い。なぜなら彼は、三人にとっては奴隷のようなものだったから……。だから、三人は彼を夏祭りに誘うことにした。彼を連れて行けば、いろいろと都合が良い。 
 三人は彼の家の前まで来ると、インターホンを押した。しかし、返事が無い。代わりに、家の中から悲鳴が聞こえてきた。
 三人は驚き、彼の家へ急いで駆け上がる。

 鮮血に染まったダイニングルーム。

 そこにたたずむ、一人の『天使』……。彼だ。

 そして、『天使』の足元に横たわる二つの死体。

(お前が殺したのか?)
(違う、僕じゃないよ)
(嘘つけ、お前が殺したんだ!)
(違う、違うよ。僕じゃないよ!)
(お前が殺したんだ! みんな、あいつを捕まえろ!)
(いやだ!!)
(追いかけろ。あいつはノロマだからすぐに追いつけるぞ)
 『天使』は跳ぶように、裏口の方へ逃げていく。
 三人も慌てて、天使のあとを追う。
 
 今日は、夏祭りだ……。


第一章・帰郷

<1>

 北野純香(きたのじゅんか)はかすかに振動の伝わるバスの、一番後ろの席に座っていた。憂鬱そうに今まで読んでいた新聞を閉じると、大きく溜め息をつく。そして、流れる景色を窓越しに見つめ、死んだ二人のことについて思いを馳(は)せた。
 染谷俊彦と青木祐介が何者かによって殺害された。そんなニュースが今、週刊誌やワイドショーを賑わせている。二人とも純香の知っている人間だ。二人の実家が、純香の帰ろうといる実家とそれほど離れていないところにあるのである。特別に親しい仲ではなかったが、彼らは純香よりも三つ上の先輩になる。そんな二人が、何者かによって殺害されたのだ。あまり人事として捉えるのは難しかった。
…二人の被害者の手の中には、一枚の白い鳥の羽根が握らされていた……。
 そんな記事が、純香の脳裏に染み付いていて離れない。なんとも猟奇的で、暗示的な犯人の行動である。一体、何の意味合いを含めて、犯人はそのようなことを二人の死体に施したのであろうか。しかし、そんなことを、今の純香が知る由は無かった。
 バスはやがて、ずいぶんと田舎道にさしかかる。
 純香が実家を出て、都会で暮らし始めてもう二年にもなる。初めのうちはずいぶんと魅力的に思えた都会暮らしも、慣れるにしたがってすさんだものに感じてきていた。一年間付き合っていたボーイフレンドと最近別れたこともあって、純香は二年ぶりに盆休みを利用して、帰郷することにしたのである。
 久しぶりに見る、それでも見慣れた風景がバスの窓を通り過ぎる頃、バスはひとつの寂れたバス停で止まった。本当ならば、もうひとつ先のバス停で降りたほうが実家には近いのだが、純香は少しばかり歩こうと思って、そのバス停で降りることにした。
 バスを降り、暫くその場で立ち尽くしてみる。四方を囲む田んぼや畑。遠くに見える雄大な山々……。何も変わっている様子は無い。蝉の声が聞こえ、鳥囀りが聞こえる。都会では厳しい猛暑が続いていたが、この田舎は都会に比べて、幾分か涼しいように感じる。
 北野純香は、一度大きく息を吸ってから歩き出した。

 実家へは、三十分ほどでたどり着いた。他の家に比べて、北野家は少し大きい。だからと言って、別段裕福なわけではないのだが……。
 錆びれた鉄門を開けると、突然犬の鳴き声が純香を襲う。『五郎』と名づけられたその柴犬は、純香が都会へ出る前に、純香の兄がどこからとも無く連れ帰った犬であった。どういうわけか、兄以外の人にはなつかず、兄以外であれば、深夜日中構わずに誰でもかれでも五郎は吠えかけてくるのである。純香が家を出るときは、まだほんの小さな子犬であった五郎であるが、もうずいぶんと逞しくなった感がある。
「ただいま、五郎ちゃん」
 犬にウインクして見せて、純香は玄関の扉を開けた。
 玄関を開けると、実家特有の匂いが純香の鼻に漂う。なんとも懐かしい気分で、
「北野純香、ただいま帰りました!」
 と声を張り上げて叫んだ。
 しばらくすると、部屋の奥からゆっくりと人影が現れる。長身で色白の好男子……北野純香の兄、春人(はるひと)であった。
「やあ、お帰り、御転婆お嬢ちゃん。都会暮らしはどうだったかな?」
 ゆったりとした口調で、それでも茶化すように春人が笑顔で妹を迎える。眼鏡をかけた、少しインテリ風の兄の表情には、別段変わった様子は無い。確か今年で三十路を迎える歳になるはずだが、どうやら結婚相手は、まだ見つかってないらしい。
「はぁ〜、疲れたよ。結構実家まで遠いもんだね」
 靴を脱ぎながら、純香は手に持った荷物を兄に預けた。
「ははっ、そりゃそうだろう。……それより、仕事のほうはうまくいってるのか?」
「うん、まぁそれなりにね」
 純香は言いながら玄関を上がり、まずダイニングルームへ向かう。少し喉が渇いたので、何か飲み物がほしい。
 広いキッチンに入ると、純香は冷蔵庫を開け、麦茶を見つける。

…えっと、コップは、っと。

(いい加減にしないか!)

…えっ!?

(あなたこそ、よく人のことが言えるわね!)

…な、なんなの!?

(やめろよ)

 ガラスコップの割れる音。
 そして……、血が、血がいっぱい床に拡がって……。

…血の臭いが、血の臭いが!
 ゆっくりと倒れる、二人の体。
 ナイフを振りかざす人物。

…あの人は、あの人は……。

「……おい、純香。純香、どうしたんだ?」
 声に気づき後ろを振り向くと、心配げな表情で純香を見つめる兄がいた。
「えっ、いや……」
 冷蔵庫を開けっ放して、純香は麦茶の容器を持ったままだ。
…今のは何だったの?
 突然、純香の頭の中に浮かんできた映像。それはまるで、幼い頃に見た映画を突然思い出したような、そんな感覚であった。
「お前、顔色が悪いぞ。長旅で疲れてるんじゃないのか?」
 春人は、純香の顔を覗き込む。
「う、ううん、大丈夫よ。少し立ち眩みがしただけだから」
 無理に笑顔を作り、微笑む。
 純香がそういうと春人はそうか、それならいいんだけど、と言って、自分の部屋へ引き返していった。
 純香は気をとり直し、コップに麦茶を汲むとそれを一気に飲み干した。

 

<2>

 糸永慎二は、椅子に座ったまま真剣な顔で新藤冴子の顔を見つめている。
「な、なによ、急に」
 冴子は食べかけていたラーメンのお椀の上に箸を置く。
「いゃね、冴子さん。僕はふと思ったんすよ」
 糸永は、相変わらずの真摯な眼差しで冴子を見つめ続けている。
「なにを?」
 冴子が訝しげに尋ねると、糸永は残念そうに目をそらした。
「冴子さんが、ラーメン食ってる姿って……、あまり似合わないっすね」
「はあ?」
 糸永の訳の解らぬ返答に、思わずそんな声が冴子の口から漏れた。
 八月十四日、午後八時……。冴子と糸永は、とあるラーメン屋で夕食を食べていた。勿論、プライベートではなく、仕事の途中である。
「糸永君、あなたなにを言ってるの?」
 溜め息をつきながら、冴子は再び箸を取り、麺を口に運ぶ。
「だってですよ、O県警第一課の新藤冴子って言えば、婦警たちの憧れの的っスヨ。なんか冴子さんがそうやってずるずるやってラーメン食ってるの見たら、なんか僕、幻滅っす」
「あのねぇ、糸永君。普通、ラーメンって言うのはこうやって食べるもんでしょう? 別にあなたに幻滅されるのは、一向に構わないけど、スプーンとフォークを使って食べろって言うのなら、あなたがそうすればいいわ」
「いや、別にフォークやスプーンを使えとまでは言いませんが、もっと上品に……こうやって」
 糸永は自分で実演してみせるが、どうやらそれが失敗したようで、咳き込み、右の鼻の穴から数本の麺が飛び出してきた。
「あはははっ、ほらみなさい。慣れない事するからそうなるのよ。私は別に女だからといって、上品に振舞うつもりは無いわよ。そんなことを言うやつに限って、人間ちっちゃいやつが多いんだから。うちの上司みたいにね」
 冴子は言って、お椀に残っていた麺を全部平らげると、お冷を一気に飲み干した。
 確かに、新藤冴子は男勝りの気性の荒さもあるし、乱雑なところもある。それは自分でも自覚しているつもりなのだが、別にそれを治そうと思ったことはただの一度も無い。
「冴子さんって、彼氏とかいるんですか?」
 糸永はなおも苦しそうに咳き込んでいるが、それでも何とか言葉を発している。その姿がなんとも間抜けでおかしい。
「あなたにそんなことを答える義務は無いわ」
 冴子はきっぱりそれだけ言うと、苦しそうに咳き込んでいる糸永の背中を一応擦ってやった。
「ああ、すいません、だいぶ落ち着きました。……で、やっぱり彼氏はいないんですね」
「まあね。……って、違う、違う!」
「えっ! いるんすか!?」
 糸永は心底驚いたような顔をする。
「だぁからぁ、そんなことをあなたに答える義務は無いって言ってるでしょう」
「じゃあ、好きなタイプの男性は?」
「そうねぇ、お金持ちで、ダンディーで、ハードボイルドで、背中に哀愁を背負っている、三十代後半の人かな……って、なに言わせるのよ!」
「やっぱ、彼氏いないんだ」
 にやにやしながら、糸永が突っ込む。
「いいじゃないの。何か文句でもあるの? 大体、急に私のことを詮索しだしたりして……」
「ああ、気にしないでください。ただの好奇心すっから」
 糸永は、あっけらかんと答える。
 冴子はそんな糸永の頭を力強くはつる。その勢いで、糸永の顔面はラーメンのお椀の中に突っ込んだ。
 まわりから、客たちの笑い声が響く。これではまるで、下手なコントだ。
「今度私を馬鹿にしたら、これ程度じゃすまないわよ」
 冴子は凄んでそういってみせた。
「酷いっスヨ冴子さん。ほんの茶目っ気じゃないっすか」
 泣きそうな顔で、糸永はお椀から顔を上げた。
「まあ、そんなことはどうでもいいわ。……それで、被害者のほうは何か解ったの?」
 自分の顔を丹念にぬぐう糸永に、皮肉な笑みを浮かべながら冴子は尋ねる。今日、二人が合流したのは、このラーメン屋が始めてであった。冴子は、事件現場付近で聞き込みをしており、糸永は本署で冴子に言われたとおり、二人の被害者の関係を調べていたのである。
「ええ、解りましたよ。染谷俊彦と青木祐介は、小学校、中学校の同級生なんです。当時はずいぶんと仲が良かったらしいですよ」
 糸永は、手帳のページをめくりながら言う。
「同級生、か……」
 冴子は腕を組み、髪の毛をかきあげる。
「そうなんですよ。でも、高校生になってからは、何の連絡も取ってないみたいで、ここ最近二人が会ったとか言う形跡はないっす」
 冴子はふーんとうなずき、思考する。被害者の状況から見て、恐らく染谷と青木を襲った犯人は同一人物である。現場に荒らされた跡は無く、勿論紛失したものも見あたらないし、犯人とさほど争った形跡も無い。
…顔見知りの犯行か?
 被害者二人が、小、中学校の同級生であるなら、その当時の二人を知っているものが犯人である可能性が高い。
 それから……、
…あの、白い羽根には一体何の意味があるのかしら。
 冴子は、大きく溜め息をつく。
「それから冴子さん。最初に殺された染谷なんですけど、なんでも友人たちに近々、大金が入るかもしれない、なんてことを洩らしていたようですよ」
 糸永が、冴子の顔を覗き込むようにして言う。
 その情報は冴子も知っていた。染谷俊彦はギャンブルで多額の借金を抱えていたらしく、ホウホウノテイだったと言うのだが、最近では友人や会社の同僚たちに、大きな金が手に入る、と嘯いていたというのだ。しかし、誰もその訳を知るものは無く、多くのものは染谷のハッタリだと思っていたらしい。
「青木のほうは、借金とかあったの?」
 冴子が糸永に尋ねる。
「いいえ、そういうものは無かったみたいですね。青木のほうは、借金のシャの字も無いくらいに綺麗なもんでしたよ。それに、染谷のほうも、実際に大金が入った様子は無いみたいっすね」
「そうすると、金銭トラブルの可能性は少し薄くなるわね」
「まぁ、そうなりますね。……あと、これはたまたま二人のことを調べているときに出てきたんですけど……、でも、今回の事件には関係ないかな」
「なんなの?」
「ええ。被害者二人が小学生のとき、その二人が住んでいた付近で殺人事件が起きてるんですよ。今から十五年前ぐらいですかね。だけど、その事件の犯人は捕まってないんです。確か、あと一週間ほどで時効じゃなかったかなぁ」
「どんな事件なの?」
「さあ、関係ないと思ってましたから詳しく調べてません。でも確か……、誘拐殺人じゃなかったですかね。ある一家の両親が殺されて、その息子が行方不明になった……とかいうことが記述されていたように思うんですけど」
…誘拐殺人事件、ねぇ。
 冴子はなんとなく、その事件が気になった。別に何らかの根拠があってそう思うわけではなかったのだが……、本当になんとなくそう思っただけである。しかしながら、今の時点でそれらを関連付けるようなものは何も無い。しょせんは刑事の勘、というやつだ。
…あとで、個人的に調べてみようかしら。
 冴子は、一応その事件を心に留めておくことにした。
「ねぇ、冴子さん。今回の事件はさほど難しい事件じゃないように思うんすっけどね。だって、被害者二人は過去に繋がりがあったわけだし、その線で捜査を進めていったら、自然と容疑者が浮かんでくるんじゃないっすか? 僕の鋭い推理によりますとですね、犯人はきっと被害者の顔見知りっスヨ」
 糸永は得意げにそういって、人差し指で鼻面を擦る。
「そうだといいんだけど」
 冴子は呟くように言ってから、いまだに湯気の立ち上るラーメンのお椀をじっと見つめていた。
 
<3>

 北野純香は、仏壇の前で手を合わせる。
「お父さん、お母さん、お爺ちゃん、お婆ちゃん。純香は無事に戻ってきました。」
 そう呟いて、線香に火を燈す。
 純香の祖父と祖母は、純香が生まれる前に既に他界していたのだが、両親のほうは、純香が物心つく前に交通事故で亡くなったと聞いている。そのため、勿論祖父と祖母の生前の姿など見たことは無いし、両親のほうもおぼろげにしか覚えていない。兄の話だと、両親が亡くなったのは、純香がまだ幼稚園の頃だそうだ。
 純香はこの家で、兄と二人で過ごしてきた。無論、両親が亡くなったときは兄の春人も中学生であったから、収入などあるはずも無く、隣人の『吉良』(きら)家によく世話をみてもらったのである。
…あとで隣のおばちゃん達にも、挨拶しとかなくっちゃ。
 純香は立ち上がり、もう一度だけ仏壇に手を合わせた。
 そんな事情もあり、兄の春人は中学を卒業すると、高校へは行かずに近くの印刷工場に就職を決めた。そこで働き始めて、もう十五年ほどになるだろうか。春人は、いまだにその印刷工場に勤めているらしい。
…お兄ちゃんにも、いろいろ迷惑かけたなぁ。
 純香はいまさらながら、そう思う。兄の春人は、純香に対してずいぶんと優しかった。物腰の柔らかい喋り方……。決して喜怒哀楽の激しいタイプではなかったが、純香はここまで自分を育ててくれた兄のことを尊敬し、勿論、兄妹としての好意も持っていた。兄の春人は、純香が胸を張って自慢できる唯一の肉親なのだ。
…だけど……。
 春人は、純香に何か隠し事を持っているようであった。否、春人だけではない。隣人の夫婦も純香に対して、何か隠し事を持っている。なにを隠しているのかは知らないが、それはきっと『弟のこと』ではないのだろうか。
…私より、ひとつ年下の弟。
 春人も、隣の人間も、何故かそのことを詳しく話したがらないのだ。そのため純香は、弟の吉行(よしゆき)がいつごろから姿を消したのか知らないでいた。
…何かを隠している。
 それは春人や隣人だけではない。この近辺の人間たちも、何故かよそよそしかったり、身に覚えの無い同情を振りまかれたり……。しかしそれは、幼い時分に両親を亡くした自分への同情なのだろう、と純香は今まで思っていたのだが、高校に入ってからは、そうは思えなくなってきていた。

…一体、私が幼い頃になにがあったと言うのだろう?

      ピ〜ヒャラ ドンドン ピ〜ヒャラ ドンドン

 不意に遠方から、笛の音と太鼓の音が聞こえてきた。
…そういえば、もうすぐ夏祭りか。
 その音は、恐らく盆祭りで子供たち披露する楽器の音であろう。今はどこかで、皆そろって練習をしているのだ。純香も小学生の頃は、その練習にサボることなく参加したものである。祭りの日には、部落の者たちが集まり、その音にあわせて独特の盆踊りを踊りだす。広場には出店が並び、花火が打ち上げられる。……決して大きな祭りではなかったが、純香はその祭りが大好きであった。いつのことだったかは忘れたが、ある男の子に俺と一緒に祭りを見に行かないか、と誘われたことがある。その誘ってくれた男の子は、純香も気に掛けていた男の子だったので、ずいぶんと嬉しかったことを覚えていた。……その日は、その男の子と一緒に花火を見た。
…あれは、中学生の頃だったかな。
 今では良い思いでである。
 そんなことを思い出しながら、あの頃の自分はずいぶん純粋だったと純香は思う。今の自分はどうだろうか? …最近別れた男は、ずいぶんと自分勝手な男であった。少しでも気に食わないことがあれば、純香に怒鳴り散らし、暴力を振るうまでは無かったが、関係の無いことでも八つ当たりなどをされ、長い間険悪なムードが続いていたように思う。おまけに、手もつけられないほどの浮気性で、とっかえひっかえ違う女を連れて歩いていた。……そんなことが続いて、痺れを切らした純香が、結局は別れ話を持ち出したのであるが、それでも都会暮らしを始めたばかりの純香にとって、彼の存在は少なからずとも大きいものであった。慣れない都会に心細さだけが募る純香にとって、彼はとても優しい存在に思えた。しかし、そう感じていたのも最初のうちだけで、時が経つに連れて、それは百八十度回転したのである。……彼は変わった。否、そう言うには、あまりにも自分を正当化しすぎているかもしれない。きっと自分が変わったのだ、と純香は思う。しょせん、人と人との付き合いは偽善の上で成り立っているものだ。長く付き合うにつれて、その偽善もやがてバナナの皮のように剥がれていき、いずれは現実の自分というものがあらわになる……。
 人間というものは、あまりにも無責任な理想を抱えているものだ。それは家庭にしてもしかり、仕事にしてもしかり、そして恋愛にしてもしかりだ。町に溢れるもののほとんどが、手を伸ばせば驚くほど簡単に手に入る。しかし、それを手に入れて初めて、それが紙くず同然のものだと気づくのだろう。……理想と現実はやはり違うものなのだ、ということを純香はしみじみ心に感じた。

        ピ〜ヒャラ ドンドン ピ〜ヒャラ ドンドン

 かすかに聞こえる笛の音や太鼓の音に耳を澄ませながら、純香は小さな溜め息をついた。あと五日後には夏祭りの本番である。子供たちの練習は、うまくいっているのであろうか。
 そんなことを思いながら、純香はおもむろに仏壇の前を去った。

                  ※※※

 三人は天使……否、彼のあとを追いかけていた。彼はずいぶんと森の奥のほうへと逃げていくが、三人がその後姿を見失うことは無い。
(おい待てよ、人殺し)
 三人のうちの一人、染谷俊彦が『天使』に向かって言う。その表情は、実に楽しそうな、それでいて子供特有の残酷な笑みが浮かんでいる。
(おとなしく警察にいけよ、人殺し)
 三人のうちのもう一人、青木祐介が染谷と同じような表情で、『天使』の後姿を追いかける。
(お前はきっと死刑だぞ!)
 そしてもう一人、穴井圭造(あないけいぞう)が冷酷な声を発する。
 この三人が本気を出して走れば、『天使』には安易に追いつくことができるのだが、三人はあえてそうしなかった。もう少しこの鬼ごっこを楽しみたい、もう少し『天使』の動揺ぶりを見ていたい……。三人にはそういう気持ちがあったのだ。
(もっと早く走れよ)
(早く走らないと、追いつくぞ)
(俺たちに捕まれば、お前は死刑だ!)
 天使の姿をした彼は、三人の声に急き立てられるかのように、無我夢中で走っている。
(僕じゃない、僕は何もやってない!)
 悲痛な『天使』の叫び声が森の中に響き渡るが、その声は薄暗くなり始めた夜の帳(とばり)にかき消されるだけであった。
(ほら、早く逃げろよ。捕まえるぞ)
 三人が手を伸ばす。
 三人の手が、『天使』の後ろ背に付いた翼を掴んだ。

                 ブチッ

 翼のちぎれる音。それと同時に、前のめりに転げる天使の姿をした彼。
(あははは、転んだ、転んだ)
(あははははっ)
(あはははははははっ)
 三人は立ち止まり、声高らかに笑う。
 『天使』はおもむろに立ち上がると、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を三人のほうへ向けた。

(僕の……僕の翼を返しておくれ)

 震える声で、『天使』は呟くようにそういった。



第二章・隣人

<1>

 北野純香は、久しぶりの我が家を一通り回り終ると、すぐ隣にある『吉良』家へ向かった。
 吉良家は、純香の家とは対照的に小じんまりとしていて、ずいぶんと質素な感じを受ける。玄関の近くには、これもまた五郎とは対照的な貧相な雑種犬が繋がれているのだが、こちらは見知らぬ人間が来ようともまったく吠えようとしない。確か名前は、外見に似合わず『パンジー』と呼ばれていた。
 純香は真夏の温度にぐったりしたパンジーに久しぶり、と声を掛けてからインターホンを押した。
 ややあって、部屋の奥からはい、と返事が聞こえるとゆっくり玄関が開いた。
 玄関の隙間から顔を覗かせたのは、初老の婦人で、白髪の混じった髪の毛を丁寧に後ろ背で束ねている。少々皺の入り始めたその顔には、温和な笑みが浮かんでいた。
「あら、誰かと思えば純ちゃんじゃないの! いつこっちに帰ってきたの!?」
 驚きの表情で細い目を大きく見開いて、吉良温子(きらあつこ)は大袈裟とも思える大きな声で口を開いた。
「へへへっ、ついさっき帰ってきたところなの」
 純香は、笑顔で都会から持ち帰ったお菓子のお土産を、温子に手渡す。
 温子はありがとう、とそれを受け取り、純香を家の中に招き入れた。
 居間のほうには温子の夫、貞治(さだはる)が新聞を広げて座っていた。額がむき出しになった薄い頭髪に、鼻先までずり下がった眼鏡はいかにも定年をまじかに控えた、日本サラリーマンの風貌である。
「おっ、純ちゃんじゃないか。帰ってきたのかい」
 貞治も、驚いたように人差し指で眼鏡を持ち上げる。
 純香は、慣れた様子であいていた座布団の上に軽やかに座ると、うんと大きくうなずいた。
「どうだい、都会の暮らしは? 思ってたほど楽しいもんじゃないだろう」
 貞治に言われて、今度は小さくうなずく。
「うん、いろいろと大変だった。でも、向こうの生活にも慣れてきたし、仕事のほうも順調だから、今のところは大丈夫」
 純香は、自分の親に語りかけるように話す。実際、吉良夫婦は純香の親が亡くなって以来、本当の親のように純香たちの面倒を見てくれたのだ。
 暫くは、三人でお茶を濁しながらたわいの無い世間話をしていたが、やがて純香は辺りをきょろきょろと見渡し始めた。
「ねぇ、おばちゃん、亮(りょう)ちゃんいないの?」
 純香が尋ねる。
「ああ、庭のほうにいるんじゃないの。相変わらずいろんな花をいじってるわよ。別にあの子にどうこう言うわけじゃないけど、二十歳を過ぎた男の子が、庭で花いじりをしているのはどうもみっともなくってねぇ」
 温子は顔を顰めながらお茶をすする。
「そうかなぁ、私は別にいいことだと思うけど」
「まぁな、人様に迷惑掛けてるわけじゃないし。……だけどよ、彼女の一人縺れてこんとこ見ると、親としては心配になるもんだよ」
 貞治も、鼻筋に皺を寄せた。
…う〜ん、確かに亮ちゃんは暗いところがあるかな。
 口には出さなかったが、純香はそう思う。
 吉良亮二(きらりょうじ)は、温子と貞治の一人息子で、純香と同年の幼馴染でもあった。幼少の頃から植物の類には執着していたようで、口数も少なく、人見知りも激しかった。そのためか、あまり学校のほうでも友達できるわけでもなく、滅多に外で友達と遊んでいる姿を見ることは無かった。隣人で幼馴染でもある純香にだけは、さすがの亮二も話しかけてくることがあったが、それも珍しいことであった。
 
 純香は一旦、吉良家の居間を退き、庭のほうを覗いてみた。
 そこには、キャップ帽を目深にかぶって、額からしきりに汗を流している細身の青年がしゃがんでいた。手には小さなスコップを持って、眼前にある小さな黄色い花をいじっている。青年はその仕事に没頭しているようで、窓際から自分を見つめる純香の視線には気づかないようであった。
 純香は一度庭を見渡す。いろいろな形をして、いろいろな色彩を携えた花たちが、整然として庭の四方に並んである。
「亮ちゃん」
 いくら見つめていてもその視線に気づかない青年に、純香はようやく声を掛けた。
「ああ、お前か……」
 青年……吉良亮二は、一瞬作業をしていた手を止めたものの、振り返りもせず、無愛想に満ちた低い声でそれだけ言い、何事も無かったかのように先ほどと同じ作業を繰り返す。
「それだけ?」
 純香は相変わらずね、の意味も含めて肩を竦めると、庭を降りて亮二のそばまで歩み寄った。
「なにしてんの?」
「見れば解るだろう」
 亮二は純香の顔を見ずに言う。そんな亮二に、純香は小さな溜め息をつくと、
「もっと社交的にならないと駄目だぞ」
 と亮二を指差した。
 暫くは亮二の作業を見ていたが、やがてその作業も終わったようで、亮二は一度帽子を脱ぎ、額の汗を右腕の袖でぬぐってから、ようやく純香と目を合わせた。
「なんか俺に用か?」
 まるであかの他人のように純香に尋ねる。
「別に用事があるわけじゃないけど……。久しぶりにこっちに帰ってきたから、顔を見せようかと思って」
「ああ、そう」
「お土産ってほどじゃないけど、お菓子買ってきたからおばちゃんに渡してあるよ」
「ああ、そう」
「……あのさぁ、亮ちゃん。昔から言ってるけど、もう少しこう、なんて言うのかなぁ……」
 いい加減、亮二の無愛想に腹が立ってきたので、純香は説教の一つでもしてやろうかと思ったのだが、亮二がそれを途中でさえぎり、
「もうガキじゃねぇんだから、『亮ちゃん』なんて呼び方はやめろよ」
 と先に怒られてしまった。
 純香は頬を膨らませ、機嫌を損ねたような態度をとってみせるが、亮二はどこ吹く風と言った様子で立ち上がると、家の中に戻ろうとする。
「ち、ちょっと、待ってよ亮ちゃん」
 純香がそう声を掛けると、亮二はゆっくりと振り返る。なんだか、亮二の表情は前よりも少しやつれた様だ。……その状態のまま、暫く沈黙が続いたが、ややあって声を発したのは純香であった。
「染谷さんと、青木さんが殺されたの知ってる……?」
 純香が暗い面持ちで尋ねると、亮二は少しばかり目を細め、鼻を鳴らした。
「ふん、いい気味だよ。殺されて当然の奴らさ」
「亮ちゃん……」
 純香は知っていた。昔、亮二が酷いいじめを受けていたことを。そのいじめをしていたメンバーの中に、染谷俊彦と青木祐介がいたことを……。
「あんな奴ら、死ねばいいんだ」
 亮二は怒りに満ちた表情で、右手に持っていたスコップを振り上げる。

…スコップ……ナイフ……えっ!?
 突然、純香の脳裏にナイフを振りかざす人物の、シルエットが浮かび上がる。
…だれ、誰なの?

 次に、鮮血に染まったダイニングルームに倒れている、二人の姿が浮かぶ。その倒れている二人の体も、血の色で染まっている。
 倒れているのは……。

…男と女だ。
 どこかで見たことがある……。

…あれは、あれは……。
 純香は激しい眩暈を覚えた。まるで、頭の中の脳みそがいきなり溶け始めたかのような感覚だ。
…ああ、あれは『お父さん』と『お母さん』だ。
  見に覚えの無い記憶が、純香の頭の中を駆け巡る。
…事故なんかじゃない、お父さんとお母さんは事故なんかで死んだんじゃない!

…『殺された』んだ!
…誰が、誰がお父さんとお母さんを…。
…思い出せない、思い出せないよ!

 純香は頭を押さえ、その場にしゃがみこんだ。体中から不快な汗が噴き出してくる。
 そして、純香は亮二の顔を見上げた。
 吉良亮二は、不気味な笑みを浮かべていた……。

  <2>

 八月十五日 午後八時……。

 事件は、新たなる展開を見せ始めていた。

 穴井圭造……その男が、今回の事件直後から行方をくらませていると言う事実が浮上したのである。勿論、捜査本部はその穴井を、今回の事件の重要参考人として緊急指名手配した。
 新藤冴子にそのことが伝えられたのは、つい先ほどであった。
「事件が解決するのも、もう時間の問題っすね。間違いなく、染谷と青木を殺したのは穴井とかいう男っスヨ」
 相変わらずの甲高い声で、糸永慎二はまくしたてた。
「まだそう決め付けるのは早いんじゃないの? 今のところ、穴井圭造は容疑者ではなくて、重要参考人なんだから」
 冴子は、テーブルに運ばれてきたいかにもインスタントな味のするコーヒーを一口啜ってから、そう答えた。
 冴子と糸永は、今日はファミリーレストランで夕食を摂っていた。夏休みと言うことだろうか、ずいぶんと若者の姿が目に付く。
「でもですね、過去に二人の被害者と関わりが濃厚だったのは、穴井とか言う男しかいないんですよ。しかも、事件直後から姿をくらますなんて、ぜ〜ったいおかしいっすよ」
 糸永の言い分は珍しくもっともなのだが、どうも冴子は腑に落ちない。何故ならそれは……。
…二人を殺害した動機が浮かんでこない。
 冴子は顰め面で、髪をかきあげる。
 調べでは、染谷、青木、穴井は小、中学校の頃とずいぶん仲の良い三人組だったらしいのだが、近所や学校での評判はすこぶる悪く、ずいぶんと悪どいことをしてまわっていたらしいのだ。盗み、万引き勿論、中学校に入ってからは、喫煙や飲酒、バイクの無免許運転、そして弱いものに対して暴力をふるうなど……、いかにも悪がきの見本であったらしい。
「どうしたんすっか? 冴子さん」
 鹿爪らしいらしい表情の冴子を覗き込みながら、糸永が尋ねてくる。
「二人を殺した動機よ。……あなたの言うように、穴井がもし二人を殺したのなら、その理由はなんなのかしら?」
「ああ、そんなものは奴をとっ捕まえて吐かせればいいじゃないっすか。どうこう悩む必要はないっすよ。第一、姿を消したのは事実なんですから、きっとやましい事があったに違いありません」
 そうなのだ、穴井圭造は事件直後から姿を消している。穴井の勤める職場には、なんの届出も出されておらず、親類や友人たちにもその足取りは知らされていなかった。
…もしかして、穴井はもう殺されているのでは……。
 そんな考えが冴子の頭をよぎったが、それならば、穴井の死体が見つかってもおかしくは無い。今までの状況から見て、犯人が死体を遺棄した様子は無いので、被害者の骸はすぐに発見されている。それならば、穴井の死体もすぐに見つかってしかるべきではないのだろうか。しかしそれは、今回の事件とは関係の無い事件に巻き込まれていたとするならば、別の話になるのだが……。
「冴子さん、そんなに悩むこたぁ無いですよ。犯人は間違いなく、穴井圭造です!」
 糸永は、必要以上に嬉々爛々としている。
…確かに、穴井の消息を掴むほうが、話は早いかもしれない。でも……。
 冴子には気になることがあった。それは先日、糸永が言っていた、十五年前に起きた誘拐殺人事件のことである。
 昨日、冴子はその事件を調べるためにいろいろと資料を漁っていたのだが、今回の事件と妙な一致を見つけたのである。

 それは、現場に落ちていた『白い羽根』であった。

 今から十五年前、K村という(今回の被害者二人の実家が存在するところなのだが)ところで、殺人事件が起こった。被害者は北野秀二(きたのしゅうじ)、三十七歳とその妻、薫(かおる)、三十五歳の二人であった。事件現場は二人の住んでいた家内で起きたらしく、二人ともダイニングルームで重なるようにして倒れていたらしい。二人とも腹部を数箇所刺された模様で、その凶器は床に落ちていたキッチンナイフであることが判明している。
 被害者には三人の子供がいて、一人は長男で、当時中学三年生であった春人、十五歳と、長女で当時五歳であった純香。そして、事件当日に行方不明となった一番年下の次男、吉行、四歳である。
 死体を発見して、一一〇番したのは長男である春人らしく、学校から帰りつくと、両親が死んでいた、と証言している。そのとき、長女である純香は、高熱を出していたため寝室で眠っていたらしく、事件のことにはまったく気づいていなかった様子だったらしい。そして、行方不明となった次男の吉行……。彼は、いつものように幼稚園のバスで送り迎えをされていたらしいのだが、その事件当日も、確かに家の前まで吉行君を送り帰した、と幼稚園の先生は語っている。つまり、吉行の消息は、家に入ってからすぐに消えたことになる。それに加え、被害者二人の死亡推定時刻と、吉行の消えた時刻が大体一致するのである。現場は荒らされた形跡は無く、紛失しているものなどまったくなかったらしい。そんな状況から見て、当時警察は、吉行の誘拐を目的とした殺人事件として捜査を進めていたらしいのだが、事件当日は、ちょうど部落の夏祭りだとかで、近所のものたちは皆、家にはいなかったという。そのため目撃者は無く、吉行を誘拐したと思われる犯人からも、何の連絡も入ってこなかった。

 そして現在に至る。時効まであと数日……。犯人はいまだ捕まっていない。

…白い羽根。
 十五年前にも、事件現場でそれが発見されている。しかし、今回の事件とは違っていて、白い羽根は被害者が握っていたわけではなく、現場に数枚落ちていたというのだ。調べによると、その羽根は吉行の『つけていた物』だというのだ……。というのも、当時、吉行の通う幼稚園では、お遊戯会の練習をしていたらしく、行方不明となった吉行は、その格好が甚く気に入っていたらしく、バスに乗って帰るときも、そのままの格好で帰っていたらしい。つまり、現場に落ちていた数枚の羽根は、吉行のつけていた作り物の翼の羽根だったのである。

 冴子は考える。果たして、それだけの共通点で、十五年前の事件と今回の事件を、結び付けて考えてもいいものか、と。
…ちょっと考えすぎよね。
 そう思って、自嘲気味に笑った。
「なに一人で笑ってるんすか? 思い出し笑いっすか?」
 糸永が、訝しげな表情で冴子を見る。
「違うわよ。……ちょっと昔の事件のことを考えていただけ」
「昔の事件? それって、思わず笑っちゃう様な事件なんすか。どんな事件なんです? ……あっ、やっぱり言わないでくださいね、僕が鋭い推理で当てて見せますから」
 なにをどう推理するのか、糸永は一人ではしゃいでいる。この男は、恐らく『推理』という意味を理解していないんだろうな、と冴子は思った。
「……解りましたよ! あれでしょう、《女子大学寮連続下着紛失事件》。確かあの犯人は、近くの銭湯の変態親父でしたよね。やけに色と形にこだわってましたっけ」
 やはり糸永慎二はただの馬鹿だ、と冴子は思う。よくそれで刑事になれたものだ。きっと賄賂かコネで入ったに違いない。
「アホ……」
 冴子は極端に冷たい視線を糸永に投げつけて、一言毒づいた。
「へっ、違うんすか?」
「ぜんぜん違うわよ。的外れもいいとこね」
「じゃあ、なんなんです?」
「あなたがこの前言ってた事件のことよ」
 冴子が言うと、糸永はようやく合点がいった様で、ああ、あのことですか、とうなずく。
「あの事件のことなら、僕も少し調べて見たんすよ。冴子さんが気にしていたようですから……」
 それは意外であった。少しだけ、糸永の評価を上げることにしよう、と冴子は思う。
「……しかし、妙な事件っすよね。子供を誘拐しておいて、身代金の要求もしてこないなんて」
「なにも営利誘拐だけが誘拐じゃないわ。本当に子供がほしくて誘拐したのかもしれないし……。結構あるのよ、そういうことは」
「へえ、そうなんですか。……でも、それでも変ですよ。わざわざ家の中まで押し入って、子供の両親まで殺して……。そんなことしなくても、子供を誘拐するチャンスなんていくらでもあると思うんすけどね」
 確かに、糸永の言い分はもっともである。冴子もそのことは気になっていた。
…本当に、誘拐殺人だったのかしら。
 どうも捜査の根本的なものが間違っているような気がしてならない。だから、今に至るまで犯人は捕まっていないのではないのだろうか。そもそも、犯人の目的は誘拐ではなく、その子の両親殺害が目的だったのではないだろうか。その現場をたまたま子供に目撃され、口封じのために殺害し、死体をどこかへ隠した……。
…それはおかしわよね。
 矛盾している。もし子供を殺したならば、わざわざ子供の死体だけ隠す理由が無い。隠すならば、常識的に考えて、両親の死体もそうするはずである。やはり、犯人は子供を……吉行を誘拐したのであろうか。
 その時である、突然冴子の携帯電話のベルが鳴り出した。
「はい、もしもし?」
「ああ、新藤君か。田島だが……」
 田島警部……冴子の上司である。確か今年で四十五になる、頭の固いオジサンだ。……冴子は、あまり田島のことが好きではない。
「……糸永も一緒なんだろう?」
「ええ、いますよ。どうしたんですか?」
「先ほど、一一〇番に穴井圭造と思われる人間から、電話が入った」
「本当ですか!? …それで、なにを言ってきたんです?」
 冴子は一瞬電話を強く握り締めると、そう尋ねた。
「それが……、途中で切れたんだ。ナンバーディスプレイは残ってるんだが、掛けなおしてみても誰も出ないんだよ」
 一一〇番は、現在では主流になっているが、随分と昔からナンバーディスプレイを搭載している。それを知らずに、悪戯電話を掛けてくる輩が時折いるのだが、すぐに所在は判明する。
 田島警部は続ける。
「……気にはなるんだが、本当に本人か、ただの悪戯か」
「なんていってたんです?」
「それが、『犯人は北野吉行だ、早く捕まえろ』などと言ってたらしんだが、何のことかさっぱり……」
「ええっ!?」
 思わず冴子は叫んでしまった。まさかこんなところでその名前が出てくるとは思わなかった。
「どこからなんです、その電話!?」
 冴子は声を荒げる。
「Mコーポレーションというアパートだ。二〇三号室だな」
 このファミリーレストランから、そう遠くは無い場所だ。
「今、私達がいるところからそう遠くないんで、すぐに行ってみます!」
「あ、ああ。私も冴子君にそう頼もうと思ってたところなんだが……。どうしたんだ、興奮して」
 田島警部は不審そうに尋ねてくるが、冴子はそれを無視して、
「それじゃあ、今から行ってきます!」
 と言い残し、電話を切った。
「どうしたんです、冴子さん? そんなに興奮して」
 間抜けな声で、先ほどの上司と同じようなことを尋ねる糸永の言葉も無視して、冴子は言った。
「早く行くわよ、糸永君!」

 
 Mコーポレーションへ向かう車の中、ハンドルを握っているのは糸永である。
「それって、間違い電話なんかじゃないんでしょう?」
 冴子が先ほど語った電話の内容を聞いて、糸永は頓狂な声を上げる。
「そうね、『北野吉行』って名前が出たからには、間違いないわね。偶然だとしたら、あまりにもできすぎてるわ」
「ってことは、冴子さんの読みが当たってるってことっすか。十五年前の事件と、今回の事件が何か関係がある……」
「それはまだ解らない」
 冴子はそう答えて、髪をかきあげた。
 車は一度、赤信号で止まるが、その時間が冴子にはもどかしかった。何か悪い予感がする……。
 それにしても……と、冴子は考える。電話の相手は、北野吉行が犯人、ともらしていたというが、一体どういうことなのであろうか。北野吉行は十五年前に姿を消していて、その行方は現在に至るまで要として知れてない。もし、電話の相手が穴井本人であるならば、そのことを知った上でそんなことを口走ったのであろうか。それとも、何らかの魂胆があってのことか……。
 そんなことを考えてるうちに、車はMコーポレーションの前で止まる。
 着きましたよ、と言う糸永の声が終わる前に、冴子は既に車を降りていた。糸永も急いでそのあとに続く。
 鉄筋造りのそのアパートは、三階建ての割合綺麗な建物であった。各階ごとに、三部屋ずつ設けられており、廊下にともる薄暗い蛍光灯が、アパートの前から窺える。
 冴子と糸永は、アパートの入り口に設けられた郵便受けで、二〇三号室の住人を確認した。
…徳永。
 その郵便受けには、厚手の上質紙にそれだけが書かれ、貼られてあった。二階の向かって一番左側の部屋である。
「徳永って、穴井の友達か何かですかねぇ?」
 糸永が独り言のように冴子に尋ねてくるが、冴子はそれには返事をせずに、そそくさと二〇三号室を目指す。
 その部屋の玄関前までたどり着くと、冴子は一度荒れた息を整えるために、大きく深呼吸をした。そして、橙色の玄関の向こう側で、何か物音がしていないかと耳を澄ます。
…何も聞こえない。
 次に、インターホンを鳴らしてみる。しかし、甲高い電子音が部屋の奥で響くだけで、誰かが出てくる様子は無い。
「本当に、ここなんすかねぇ」
 訝しげに眉を顰める糸永を尻目に、冴子は玄関のノブを回してみた。
…開いてる……。
 どうやら鍵は掛かってないようで、玄関は少しだけ外側に開いた。
「すいません……」
 冴子はそう言いながら、玄関をおもむろに開けた。
 玄関には何足かの靴が、無造作に並べられている。
 そして、その玄関口のフローリングの床に覆いかぶさるようにして、一人の男がうつ伏せに倒れていた。
「あ、ああっ、冴子さん、これは!」
 明らかに動揺を見せる糸永とは裏腹に、冴子は冷静に倒れている男のそばでかがみこむ。そして手袋をはめると、男の体を仰向けにしようとする。
「ほら、糸永君なにしてるの、あなたも手伝いなさい」
「あ、は、はい」
 冴子に言われ、糸永も慌てて手袋をして、倒れている男のそばへ寄る。
 玄関口の電気は点けられていたので、うつ伏せとはいえ、倒れている男の様子は脈を取らずとも解った。
…死んでいる。
 冴子はそう思いながら、男の右腕を掴んだ。まだ肌の温もりがわずかに残っているようだ。倒れてからそれほどの時間は経過していないのだろう。
「ほら、糸永君もこっちを持って」
 落ち着きなげにそわそわする糸永に、冴子は指示を出す。
「いい? 一,二の三でひっくり返すわよ。……一,二の三!」
「えっ、ひっくり返すって……、現場の保存を…」
「いいから、早くしなさい!」
 冴子は顔をしかめながら、糸永を一喝して重たい男の体を仰向けにひっくり返す。
「うぎゃぁぁ、冴子さん!」
 男の体を仰向けにしたと同時に、糸永は情けない悲鳴を上げた。男の体の下には、どす黒い血溜りができていたのである。どうやらそれは、男の腹部から多量に出血したもののようで、すでにその血液は固体化しようとしていた。
 冴子は男の顔をよく観察してみる。首筋まで伸びた長い髪は、まっ茶色に染められている。瞳は大きく見開かれたままで、それと同様、口も大きく開かれたままになっている。まるでそれは、何かに驚いたままで一瞬に氷付けにされたかのごとく、その表情は固まっていた。恐らく、年齢は二十代半ばであろう。致命傷は、どうやら腹部にできた二箇所の傷跡のようで、そこから血液が流れ出しているようだ。鋭利な刃物かなにかで突然襲撃されたのであろう。
「冴子さん、こいつ穴井じゃないっすよ」
「ええ、多分この部屋の住人ね。徳永でしょう」
「じゃあ、穴井はどこに行ったんです? この男を殺して、逃走したんですか?」
「……それは、解らないわ。……私は部屋の奥を調べてくるから、あなたは署に連絡して」
 冴子はそういって、糸永を促した。糸永はうなずくと、駆け足で外に出て行く。
 冴子は糸永の姿が消えると、靴を脱いで部屋に上がった。広い部屋ではない上に、ずいぶんと洗濯物やビールの空き缶などが散らばっているため、それらを踏まないように歩くのはなかなか困難であった。実に乱雑な部屋である。
 冴子は部屋を右に曲がり、もう一つの部屋に入った。どうやらそこはリビングらしい。
…やっぱり、いた。
 冴子は、リビングの隅に穴井の姿を確認した。
 穴井圭造は、先ほどの男と同じく、腹部から血を流して息絶えていた……。
 

<3>

 高校時代の後輩である、徳永栄吉(とくながえいきち)の家に転がり込んできたのは、つい最近のことであった。
…染谷と青木が殺された……。
 それがただの殺人事件ならば、穴井圭造もこれほど怯えることは無かったであろう。ただの偶然として、いつもと変わらぬ日常を過ごしていたに違いない。
 しかし、現実はそうではなかった。殺された二人の手の中には、『白い羽根』がにぎられていたのである。それは穴井にとって、ただの殺人事件として見過ごすには、あまりにも恐ろしいことであった。
…次に殺されるのは、俺だ!
 そう思い始めたとき、穴井ゆうちょに自宅で生活しているどころではなかった。いつ奴が来るか、気が気ではない。染谷と青木は、決して強盗やいきずりの事件に巻き込まれたのではないのだ。
…これは、奴の復讐だ!
 それは二人の手のひらに握らされていた、白い羽根が物語っている。今現在では、その意味を知るものは、恐らく穴井と犯人しかいないだろう。
…あいつは生きていたんだ……。でも、どうして今頃になって?
 忘れかけていた過去が、鮮烈に穴井の頭に浮かび上がる。それは、天使の格好をした……。
…北野吉行。
 その男に殺されるかと思うと、穴井は気が狂いそうになった。だからこうして、後輩の家に逃げ込んできたのである。それは穴井にとって、自宅にいるよりもはるかに安全に思えたからである。

「先輩、ラーメン伸びちゃいますよ」
 徳永が、穴井の前に置かれているインスタントラーメンを指差しながら言った。
「あ、ああ」
 穴井は気の抜けたような返事をすると、ようやく箸を取った。しかし、まるで食欲というものが湧かない。
「ねえ、一体なにがあったんです? 先輩なんか元気ないですよ。また女のことですか?」
 こいつは実に呑気だな、と徳永を見て穴井は思う。徳永にはまだ、あの過去のことについては何も話していなかった。否、徳永だけではない。『あのこと』は他の誰にも話したことが無かった。あれは、染谷と青木と穴井の間では、頑ななまでのタブーだったのだ。
 穴井は考える。このまま徳永に黙ったまま、果たしてここに居ついていいものだろうか、と。勿論、適当に嘘百八なことを吹き込むことはできるのだが、そうすることで、穴井はなんだか自分で墓穴を掘ってしまいそうな気がしていた。
…本当のことを話そう。
 穴井はそう思い、実に気の無い口調で、後輩に語り始めたのである。

「ふーん、そんなことがあったんですか」
 語り終えた穴井に、徳永は別段なんの感慨も無いふうな返事をして、
「……でも、それって事故なんでしょう?」
 と尋ねてきた。
…そうだ、あれは事故だったのだ。
 穴井は少し戸惑いながらもうなずく。
「じゃあ、別に先輩に非は無いじゃないですか。復讐だなんて、先輩の考えすぎですよ。まぁ、殺された二人がどんな人たちだったのか、僕の知るところじゃないですけど」
 違う、違うのだ。そういうことじゃない……。やはり、お調子者のこの後輩に、こんな話をしたのは間違いだったか、と穴井は今更ながら後悔した。……自分たちにも『非はあった』のだ。だからこうして復讐の影に怯えているのではないか。
「でも、その吉行って奴は死んだんでしょう?」
 徳永が、あっけらかんとしたようすで尋ねる。
「解らない……。完全に死んだのを確認したわけじゃないんだ」
 穴井は答えると、徳永はへえ、そうなんですか、と呟くように言う。
「でも先輩、それが事故ならば、やっぱり警察に言っといたほうがいいんじゃないんですか?」
「それはできない! 俺が警察に捕まっちまうだろう」
「どうして? 別に殺したわけじゃないんでしょう?」
 やはり徳永は解っていない。自分が殺したも同然だから、警察や他人には言えないのではないか。
「しかも、十五年も前の話でしょう。法律的には時効ですよ」
「あと、五日残っている……」
 穴井がそう呟いたあと、暫く二人の間に沈黙が割って入った。
 ややあって、沈黙を破ったのは徳永であった。
「やっぱり警察に言うべきですよ。どっちにしたって先輩が警察に追われているのは事実なんでしょう? ここの居場所が見つかるのも時間の問題ですよ」
 後輩にいわれてそうだな、と穴井は思う。もしこの場所が警察に見つかったならば、関係の無い徳永まで巻き込んでしまうのだ。それは徳永にとって、実に迷惑なことであろう。
…それに、警察に拘束されていたほうが安全かもしれない。
 穴井はそう思った。もし警察に捕まって、十五年前のことで何か罪に問われたとしても、まさか死刑などにはなるまい。それならば、警察署の取調室にでもいたほうが少なくとも、奴に命を狙われる心配は無いだろう。
「……そうだな、警察に電話してみるよ……。一一〇番でいいのか?」
「えっ、今からするんですか? ……う〜ん、別に構わないと思いますけど」
 徳永がそういったとき、不意にインターホンがなった。
「おっ、誰か来たのかな?」
 徳永はそう言って、玄関のほうへ姿を消した。その間に、穴井は受話器を取り、一一〇番する。
「……あっ、もしもし。……先日殺された、染谷俊彦と青木祐介のことなんですけど……。俺、二人を殺した犯人知ってます……。北野吉行って奴です……。俺も奴に命を狙われてるんですよ。早く捕まえてほしくて……」
 突然こんな話を聞かされて、電話の相手はさぞかし驚いているだろうな、と穴井は思った。
「えっ、はい……、俺の名前ですか? ……穴井です。穴井圭造……」
 その時、玄関のほうで何か大きな物音がした。何か重いものが床に倒れたような音……。穴井はその音に驚き、思わず電話を切ってしまった。
…今のは!?
 穴井は立ち上がり、玄関のほうへ向かった。
 電話が鳴り出す。しかし、穴井はそれを無視する。否、その電話の音は、穴井の耳にすでにはいっていなかった。何かしらの悪い予感で、頭がいっぱいだったのである。
「おい、徳永……?」
 呼びかけてみるが、返事は無い。
…まさか!?
 その刹那、突然何者かが穴井に襲い掛かってきた。
「ひぃぃいいっ!」
 穴井は悲鳴を上げ、その場に尻餅をつく。
 そこに立っていたのは、鮮血の滴り落ちるナイフを持った、ある人物であった。帽子を目深にかぶっているため、顔がよく確認できない。
「やっと見つけたよ……。僕の、僕の翼を返しておくれ」
 その人物は、変声機を使ったかのような不明瞭な声で、呟くようにそう言った。
「ああ、お前は!?」
 ようやく相手の顔が確認できたとき、穴井は思わずそう叫んで、息を飲んだ。
 知らない顔ではない。
「僕の……僕の翼を返しておくれ」
 その人物はナイフを振りかざしたまま、じりじりと穴井に詰め寄る。
「そうか、あのとき見ていたのはお前だったのか!」
 尻餅をついたまま退く穴井は、再びそう叫んでいた。
 しかし、相手はそれに構わず穴井の髪の毛を掴み、穴井を立ち上がらせる。
「や、やめろよ、なにする気なんだよ!」
 涙を流しながら訴える穴井を尻目に、相手はナイフを腹部めがけて突き刺した。
「うぐっ!」
 そんな声が、穴井の口から漏れたが、穴井自身、なにが起きたのか一瞬理解できなかった。ただ、腹部になにか異物が侵入したような感覚……。
…刺された?
 そう思った時には、既にナイフの二撃目が穴井の腹部に突き刺さっていた。
「ゲボッ……」
 と、妙な咳のような声が穴井の口から漏れる。それと同時に、口の中に広がる鉄のような臭い。血だ。
 穴井は口から血を流しながら、ふらふらっとリビングの壁に寄りかかった。急に力が抜けたのだ。そして、恐ろしいほどの眩暈……。
「僕の…僕の翼を返しておくれ」
 相手の不気味な声が、かすかに聞こえる。そして、三度目の相手の攻撃。
 その時穴井はようやく、痛いと思った。
 体を支える力がなくなり、がくっと膝が折れる。
「あ、ああ……」
 自分の腹部にできた傷を押さえながら、必死で流れ出る血液を止めようとする。
…血がなくなっちまうよ……。俺、死ぬのか?
 眩暈がする。意識が朦朧とする。酷く気分が悪い。
 穴井は、自分の体が完全に倒れてしまう前に、もう一度自分を襲った相手の顔を見上げた。
 電話のベルは、いまだなり続けている……。
 
<4>

 北野純香は、実に暗澹たる面持ちで吉良家をあとにした。両足に重りでもつけているかのようで、すぐ隣の自分の家に帰るのも、ずいぶんその足取りは重かった。
 鉄門をくぐり、玄関を開ける。その途中、柴犬の五郎が吠えかけてくるが、その声も純香の耳には入らない。
 欝な瞳のまま純香は靴を脱ぎ、ダイニングルームへと向かう。そして、小さな食卓の椅子にゆっくりと腰掛けた。
…ここで、お父さんとお母さんが……。
 床を見つめたままで、暫くはじっとしていた。
「おっ、帰ってたのか」
 突然、後方で声がしたので純香が振り返ると、兄の春人がそこに立っていた。
「隣には、ちゃんと挨拶したのか?」
 そう尋ねる兄の声を無視して、純香は再びうつむくように床を見つめる。
「どうした……?」
 純香の様子がおかしいことに気づいたのか、春人は純香のそばまで歩み寄ると、隣の椅子に腰掛けた。
「ねえ、お兄ちゃん。……どうして嘘ついてたの?」
「え?」
 純香の唐突な言葉に、春人は面喰ったようだった。
「なんのことだ?」
「父さんと、母さんのこと……」
 純香がそういうと、春人は一瞬目を細めて、暗い表情を宿した。
「……私、もう子供じゃないんだよ。父さんと母さんが事故で死んだなんて……。どうして今まで本当のことを話してくれなかったの? 私が死ぬまで、ずっと黙ってるつもりだったの?」
 そういう純香の声は痛いほどに震え、瞳からは涙が流れてくる。
「おばちゃんたちに聞いたのか?」
 春人は低く、暗い声で訪ねてくる。
 純香は首を横に振る。
「じゃあ、誰に聞いた?」
「そんなの関係ないよ! どうして、私に本当のことを話してくれなかったの!?」
 少しヒステリックな上擦った声で、純香は兄の春人を睨む。春人はそんな純香から目をそらし、暫く黙り込んだ。
「……すまない……。お前にはいつか話そうと思ってたんだけど……」
 ややあって声を発したのは、春人だった。
「……お前の言うとおり、親父とお袋は事故なんかで死んだんじゃない。……殺されたんだ」
 そういって春人は、今度はしっかりと純香の目を見据える。
「……十五年前、お前がまだ五歳のときだ。……俺が学校から帰ってきたら、親父とお袋は既に死んでいたよ。このダイニングルームでな……。勿論、すぐに警察に電話したけど、ちょうど夏祭りの日だったから、犯人らしき人間を目撃した人はいなかった。そんなこともあって、親父とお袋を殺した犯人は、いまだに捕まっていないんだ……」
「私の弟は? 吉行も何か関係があるんでしょう?」
「それは解らない。……ただ、事件当日に、弟の姿が消えたのは事実なんだ」
 そう語る春人の表情も、純香と同様、暗澹たるものであった。
 純香は、とりあえず自分の気持ちを落ち着かせようと、一度大きく深呼吸をした。
「だからだったのね……。近所の人たちが、私たちに同情の目を向けていたのは」
「ああ、そうだ。だけど、そういう事実を知るには、当時のお前では幼すぎた。でも、それをずるずる引きずったままで、結局今までお前には話せなかったな。本当にすまないと思ってる」
「もういいわ、ちゃんと話してくれたから。……だけど、どうしてお父さんとお母さんは殺されたの?」
「解らないんだ、何も解っていない。警察も、何度も家に足を運んできたけど、結局何も掴めないままだ。弟の行方も……」
 春人がそういい終えると、再び沈黙が二人を包んだ。
 純香は一瞬、壁に掛けてある緑色の丸時計に目をやる。時刻は午後の八時を廻ろうとしている。窓の外も、既に夜の帳が降りていた。
「私は……」
 沈黙を破ろうと純香は何か言おうとしたが、春人がそれをさえぎるようにして、
「お前は高熱を出して、寝室で寝ていたんだ。だから事件のことには気づいていなかった。まあ、お前が五歳のときだから、憶えていないのも無理はないが」
「ううん、違うの。私、《憶えてる》の……。正確に言うと、憶えていたの。私は《事件が起きる瞬間を見ていた》の」
 純香がそう告げた刹那、春人の顔がこわばり、続いてすさまじい形相で純香の両肩を掴んだのである。
「なんだって!? じゃあ、お前は犯人の顔を見ているのか!?」
 今まで兄と暮らしてきた中で、純香はこれほどまでに恐ろしい表情をした兄の顔を見たことがない。
 思わず純香はうなずき、
「で、でも、犯人の顔を思い出せないの。それに、事件のことを完全に思い出したわけじゃないわ。所々の部分が、断面的に思い浮かぶだけ」
 と、動揺した口調で告げた。それでも尚、春人は純香の両肩を強く掴み、真っ赤に充血した目で純香を睨み続けている。
「痛いよ、お兄ちゃん……」
 ようやく純香がそれを伝えると、春人ははっとした様子で、すばやく純香の肩から手を離した。
「あ、ああ、すまない。つい力んでしまった……。お前が犯人を見た、なんて言い出すから……、親父とお袋を殺した奴が解るかと思って……」
「ごめんなさい、よく思い出せないの。あともう少しで犯人の顔が思い浮かびそうなんだけど」
 純香は、深刻そうに自分の頭を軽く叩いた。
…何か切っ掛けでもあれば。
 と純香は思っているのだが、それがなんなのか、純香自信、皆目見当がつかない。
「そんなに焦る必要は無いさ。なにせお前が五歳のときだからな、憶えていないのも無理はない。別に記憶喪失って訳じゃないんだから」
 それはそうだけど、と純香は呟くが、どうもすっきりしない。なにかその抜けた記憶の中に、とてつもなく恐ろしいまでの『何か』が潜んでいるような気がしてならない。それは……。
…忘れているんじゃなくて、『記憶を封印』してるんだわ。
 純香は、自分自身でそう思った。幼い頃に目撃した惨劇。それがあまりにも深い心の傷(トラウマ)となって、純香はその記憶を封印したのだ。一体なにを見たというのだろうか……。それは、この世に存在し得ない怪物であったのかもしれない。
 そんなことを思うと、純香は思わず体をぶるっと震わせて、
「なんだか怖い……」
 と、思わず呟いた。
「どうして?」
 春人が訝しげな表情で尋ねる。
「お兄ちゃん……。染谷さんと青木さんのこと知ってるでしょう……?」
 純香が逆に尋ね返すと、春人は少しうつむいた。
「ああ、勿論さ。小さいときはよく遊んでやったよ。悪ガキだったけど、いい奴らだった。……でも、あんなことになるなんてな」
 二年ぶりに実家に帰った懐かしさとともに、純香の内に秘められた記憶の封印が薄れ始めている。それには、この二人の死も関係してるのだろうか。
「染谷さんと青木さんが殺された……。なんだか怖いの」
 再び純香は、悲痛な面持ちで呟く。
 春人はそんな純香の肩を、今度は優しく掴んだ。
「心配ない、お前には俺がついている。だから何も心配するな。お前は俺が守ってみせる……」
 唯一の肉親、兄の春人……。
 純香は、そんな兄の言葉におもむろにうなずいてみせた。


                  ※※※

(翼を返してよ。お遊戯会の大事なお洋服なんだ)
 天使の姿をした彼……北野吉行は、涙ぐみながら言う。転んでできた膝の傷からは、少量の血液が流れ出している。
(あははっ、泣いてるぜ、こいつ)
 青いTシャツに茶色の半ズボンの、染谷俊彦が笑う。
(やーい、泣き虫、泣き虫)
 坊主頭の、青木祐介が茶化す。
(泣くなら、牢屋の中にしろよな)
 右頬に絆創膏を貼った、穴井圭造が舌を出す。
 それらの罵声に耐えながら、北野吉行は小刻みに体を震わせ、必死で涙を堪えようとしていた。天使の衣装は、すでに泥と土で汚れており、所々が小さく破れている。勿論、吉行がいくら幼いとはいえ、怒りの感情は既に備わっているのだが、なにぶん相手が年上なため、腕ずくでは到底かなうはずなどなかった。いいようにいたぶられるのが目に見えている。
(お願いだから、その翼を返して)
 悲痛な声でそう訴えても、三人はまるでどこ吹く風、といった様子だ。
 そのうち、三人は少しずつ吉行に接近してきた。
(さあ、おとなしく捕まれよ)
(そうだ、そうだ!)
(そうだ、そうだ!)
 それに反し、吉行は少しずつ後退する。三人に捕まれば、なにをされるか解ったものではない。もし本当に警察に突き出されることになったらどうすればいいのだろう……。幼い吉行にとって、それは恐ろしいほどの不安であった。
 三人が吉行に一歩近づくたびに、吉行は一歩退く。
 その時である……。

                  バサッ!
                 (うわっ!)

 という激しい物音と悲鳴がしたかと思うと、吉行の姿が、突然三人の目の前から消えたのである。一瞬何事が起こったのか、と三人は顔を見合わせたが、それがすぐなんであるのかを悟った。
 吉行は、地面にできた穴の中に落ち込んだのだ。
 どうやらそれは、人工的に掘られたものではなく、自然によってできたもののようである。それほど大きな穴ではないが、子供が一人落ち込むには、じゅうぶんな広さがあった。
 三人は、恐る恐るその穴の中を覗き込む。暗い穴の中、深さはなかなかにあるようだ。その穴の一番底……。
 吉行の姿はそこにあった。ずいぶんと窮屈そうな格好で蹲っているが、その体はピクリとも動かない。
 三人はさらに目を凝らしてみる。
(ひっい!)
 三人のうちの一人、青木が悲鳴を上げた。
 なんと、吉行の喉元から、『杭』のようなものが突き出ているではないか。吉行のその喉元から、どくどくと血が溢れ出てくる。
(あ、あああああっ!)
 三人は声にならない悲鳴を上げて、穴から一歩退いた。
(死んだのか!?)
 染谷が、青木と穴井の顔を交互に見ながら叫ぶように尋ねた。
(し、知らないよ。俺、知らないからな!)
 青木が激しく首を振る。その顔は、先ほどとまでは打って変わって、顔面蒼白になっている。
(逃げるからだ、あいつが逃げたりするから悪いんだ……)
 穴井が呆然として言う。
(俺たちは、何も悪くないよな)
 染谷がそういうと、三人はうなずいた。そして、手に持っていた、吉行から奪った翼をその穴の中に放り込んだ。
(誰にも見られていないさ。このことは、俺たちだけの秘密だぞ!)
 穴井が、辺りをきょろきょろとして窺う。
(でも、警察に言ったほうが……)
 青木がそう言おうとしたが、それを染谷が途中でさえぎった。
(馬鹿! そんなこと言ったら、俺たちが警察に捕まるだろう!)
 染谷の声に青木は黙り込むと、暫くしてうつむいた。

                 ガサッ ガサッ

 何かの気配、そして視線……。
 三人はぴくりとして辺りを窺うが、何もいない。

               ピ〜ヒャラ ドンドン

 遠方で聞こえる笛と太鼓の音。どうやら夏祭りが始まったらしい。
(いいか、絶対にこのことは誰にも言っちゃ駄目だぞ!)
 震える声で染谷がそういうと、三人は再びおもむろにうなずいた。


第三章・堕天使

<1>

 八月十六日、午前九時……。
 新藤冴子と糸永慎二は、O県のK村に向かっていた。十五年前に、例の事件が起きた村である。ハンドルを握っているのは珍しく冴子のほうで、糸永は助手席で眠そうなあくびを漏らしていた。
 昨夜は穴井圭造の死体発見で、署内はずいぶんと騒がしくなった。そのため、冴子たちは一睡もしていない。疲労はかなり溜まっていたが、家に帰ってゆっくりと寝ている暇などなかった。穴井が電話で漏らした、ある人物の名前……。
…北野吉行。
 冴子はそのことを捜査本部長に報告し、十五年前の事件を洗いなおすべきだと主張したのだが、あと何日かで時効となる事件、ましてや手掛かりが圧倒的に少ないそんな事件に人員は割けない、と部長は難色を示したのだが、被害者の口から吉行の名前がでた以上、十五年前の事件を洗いなおさないわけにはいかなかった。そこで、冴子と糸永のコンビがK村に赴き、聞き込みをすることになったのである。
 いま、車はちょうど高速道路に乗ったところで、目的地にはあと一時間ぐらい掛かる予定である。
「ねえ、冴子さん……」
 糸永が眠そうに目をこすりながら、冴子に尋ねてくる。
「……本当に犯人は、染谷と青木を殺した犯人と同一人物なんスカね?もしそうなら、どうして今回は《穴井の手に白い羽根が握られていなかった》んすか?」
 そうなのである。今回の被害者の手には、白い羽根が握らされてなかったのである。今までの事件の流れからすると、被害者の手に羽根が握られていてしかるべきなのだが、それがなかったのである。しかし、検案の結果、使われた凶器などは一連の事件と同一のものと判明しており、殺害状況も酷似していた。
「へぇ、あなたにしてはまともな指摘ね」
 冴子は少し皮肉を込めてそういった。
「当たり前じゃないっすか。僕はまかりなりともO県警の第一課の刑事なんスヨ。しかもかなり敏腕」
 糸永も疲労が溜まっているためか、ある意味、開き直っているところがあるようだ。冴子は軽く糸永の言葉を受け流す。
「それで、穴井圭造の殺害は……、冴子さんはどう見てるんすか?」
「私は、同一人物だと思ってるわよ。殺害状況も凶器も一致してるからね」
「じゃあ、どうして犯人は、今回に限って白い羽根を被害者の手のひらに握らせなかったんすか?確かに、現場の状況から見れば、便乗殺人の線は薄いっすけどね。マスコミに知らせていないとこまで似ているし」
 それは、たとえば染谷と青木に使われた刃物などがそうである。マスコミには、鋭利な刃物としか伝えていないはずなのだが、穴井殺害に使われた凶器は、傷口の形状や刃渡りまでもが一致しているのである。
 となると、糸永の言うとおり、『白い羽根』が問題となってくるのであるが、冴子にはいくつかの考えが浮かんでいた。
「まず一つは、犯人がただ単に羽根を握らせるのを忘れた、てことが考えられるわね」
「冗談でしょう? もしこの事件が推理小説の類だったら、それはブーイングものっすよ。それに、指紋も証拠も残していない犯人が、そんな事忘れたりしますかね」
「糸永君、一応言っておくけど、この事件はあなたが好きな小説やドラマじゃないのよ」
「そんな事は解ってますけど、なんかそれじゃあ納得いきませんよ」
 冴子はうなずく。
「確かにそうね。あなたの言うとおり、指紋も証拠も一切残さない用意周到な犯人が、そんなことを忘れるとは思えないわ」
「それじゃあ……」
 糸永が何か言おうとするが、冴子がそれをさえぎる。
「二つ目は、犯人に時間がなかった場合」
「それも考えにくいでしょう。だって、死体は死後二十分以上は経っていたんすから。ただ被害者の手のひらに、白い羽根を握らせるだけでしょう? 何分も掛かりませんよ」
 冴子は再びうなずく。
「そうね、私もそう思うわ。……それにしても、今日のあなたはなかなかに冴えてるわね。少し寝不足のほうが、あなたにはいいんじゃないの?」
「余計なお世話っす」
 今日の糸永は、冴えてる代わりに少々不機嫌らしい。返答がずいぶんとまともだ。
 冴子は続ける。
「あと一つはね、《穴井圭造で最後だった》場合。つまり、穴井を殺したことで、犯人の目的は達成されたの」
 冴子が言うと、糸永は一瞬不意打ちでも喰らったかのように、垂れ気味の目を大きく見開き、暫く間をとった後で、
「へっ?」
 と、間抜けな声を発した。
「あ、あの冴子さん、どういう意味っすか? 穴井が最後だとか、犯人の目的達成とか……」
「これは、飽く迄も私の推測なんだけど……。あの白い羽根は、『警告』だったんじゃないかしら。勿論、それは殺された三人と犯人にしか意味の解らないもの。つまり、被害者に白い羽根を握らせることで、犯人は生き残っているものを『威嚇』していたのよ。次はお前の番だぞ、ってな具合にね。犯人は、最初から染谷、青木、穴井を殺すつもりでいたから、最後に残っていた穴井を殺すことで、もう威嚇する相手がいなくなった。だから、犯人は白い羽根を穴井に握らせる必要が無くなった。……どうかしら?」
「なるほど……。じゃあ、同一犯人による殺人は、もう起きないってことっすか?」
「そうなるわね」
 冴子がそう答えると、糸永は暫く間をあけ、それから尋ねてきた。
「最初から三人を殺すつもりだったってことは、犯人には三人を殺害する明確な動機があったってことっすよね」
「それを浮き出させるのは、北野吉行なのよ」
「どういうことっすか?」
「十五年前、K村で起きた殺人事件。三人はそこで、《何かを目撃したがために殺された》んじゃないかしら?」
「ち、ちょっと待ってくださいよ。殺された三人は、十五年前の事件に何か関係してるんですか!?」
「そう思うわね」
「一体なにを目撃したというんです?」
 糸永に尋ねられ、冴子は切れ長の鋭い眼光を助手席に向ける。
「北野吉行が、両親を殺害している現場……」
 一瞬、車内がしんと静まり返る。糸永は、今まで助手席の背もたれに沈むように座っていたが、いきなり半身を起こすと、
「そんな馬鹿なことが!」
 と、甲高い声で喚くように叫んだ。
「北野吉行が両親を殺害したって……、彼は当時幼稚園児っスヨ。それに、警察の懸命な捜査にもかかわらず、行方不明のまま。それに、どうして今頃になって、そんなことを!?」
「あなたも憶えてるでしょう? 染谷が借金に追われていたってことを。それなのに、友人たちには近々大金が入る、って豪語していた……」
 冴子がそこまで言い終わると、糸永はぽんと手を叩いた。
「そうか、《脅迫》か!」
「そうよ。借金の返済に困った染谷は、十五年前の事件のことを思い出し、北野吉行を脅迫した。時効寸前のことだから、脅迫の効果は絶大だったでしょうね」
「そういうことか。それで、吉行は染谷をD公園に呼び出し……金でも渡す、とか言ったんでしょうね……。そしてそこで、染谷を殺した。……でも冴子さん、染谷は別として、青木と穴井はそんな大金が入るような情報はないっすよ」
「それは恐らく、染谷が単独でやったことでしょうね。もし、三人が三人で北野吉行を脅迫していたのなら、何らかの連絡を取り合ってたはずでしょう? でも、そんな痕跡はない」
「だけど、その脅迫で恐れをなした犯人は、残りの二人も殺したって訳ですか……」
 糸永が、冴子のあとを続けた。
 高速道路の前方は熱射のため、薄惚けた陽炎を立ち昇らせている。じっと見つめていると、どこかしら蜃気楼でも見えてきそうな、そんな錯覚にとらわれそうになる。これも疲労のせいだろうか。
「でも冴子さん。北野吉行は、当時四歳。しかも殺害したのは自分の親。それに加え、自分で姿をくらますなんて……、そんなことがありうるんですかね?」
 糸永は、再び背もたれに深くもたれると、一つ大きな溜め息をついて、そう尋ねた。
「常識的には考えにくいわね。でも、糸永君。捜査に先入観は禁物よ。その可能性が消えない限り、やっぱり頭にとどめておくべきだわ」
「だけど……」
 糸永は、さらに食い下がろうとするが、冴子はそれを制し、表情を緩めた。
「解ってるわよ。前にも言ったように、ただの個人的な推測に過ぎないって言ったでしょう。私だって、本気で幼稚園児が自分の両親を殺して、姿をくらますなんてことは考えてないわ。だけど、現時点では、その推測が一番成り立ってるように思えるの」
 冴子がそういうと、糸永は思い出したように懐から煙草を取り出し、口にくわえた。
「北野吉行は十五年前の事件当時、天使の格好をしていたんでしょう? もし、今回の事件の犯人が、冴子さんの言うとおり北野吉行だとすると、まさに復讐に燃える堕天使っすね……」
 呟くように言って、おもむろに煙草に火をつけた。
 

<2>

 朝、北野純香が目覚めたとき、既に兄の春人の姿は家の中になかった。恐らく、早朝の散歩にでも出掛けたのだろう。春人の習慣である。
 純香は昨日にも増して憂鬱であった。何故なら一昨日の晩、つまり、純香が実家に帰る前日の夜に、もう一人死んでいたという事実を知ったからである。本来なら、昨日知りうるべきことを、純香は今日まで知らないでいた。勿論、その事実は、今日マスコミに流されたことであるから、純香が知らないのも無理のないことであるが、純香は頭のどこかでその『予感』を感じていたのだ。
 穴井圭造の死。それは純香にはごく自然なことのように思えた。無論、そのこと自体は純香にとって大きなショックではあったが、何かしらそれが当然であるかのごとくに感じていた。
…どうしてだろう?
 自分に問いただしてみても、その答えは得られない。
…あの三人は、昔仲がよかったから?
 否、そんなことではない、そんなことではないのだ。

(殺されて当然の奴らさ)

 昨日の吉良亮二の言葉が、純香の頭の中に甦る。
 純香は、落ち着きなく家の中を歩き回る。兄の春人は穴井圭造の死を既に知っているのであろうか?
 家の外では、騒がしいくらいに蝉時雨が飛び交い、夏の蒸し暑さを精神的に増幅させる。そんな状況に、純香は苛々したものを感じて、髪の毛をかきむしるようにしてその場に座り込んだ。
…父さんと、母さんが殺された。

(いい加減にしないか!)

(あなたこそ、よく人のことが言えるわね!)

(やめろよ!)

…あれは、あの声は……?
 頭が痛む。夏風邪でもひいたのだろうか。それとも、無理に記憶の封印をとこうとするために起きるものなのだろうか。
 純香は大きく溜め息をつくと、天井を見上げた。
 そんな時、玄関の開く音が聞こえた。
…お兄ちゃんだ。
 純香は反射的にそう思い、玄関のほうへ駆け寄った。
 そこにはやはり、兄の春人が立っており額に浮いた汗を右手でぬぐっているところであった。
「どうした純香? 朝から家の中を走り回ったりして」
 春人は、軽く微笑みながら純香を見やる。
「お兄ちゃん、穴井さんが……」
 純香は、顔を曇らせて兄に今朝のことを伝えようとするが、何故かそのことを伝えるのが躊躇われて、語尾のほうが小声になってしまう。しかし、春人は妹がなにを言わんとしているのが解ったようで、純香と同じように顔を曇らせて、ああ、知ってるよ……と、うつむいた。
「だけどな、純香。そんなに暗い顔をしたって、なにがどうなるわけじゃないんだ。確かに、死んだ三人は知らない人間じゃないけど、俺たちには関係のないことだ……。冷たい言い方かもしれないけどな」
「そうかもしれないけど……、だけど……」
 純香は言いかけて、途中でやめた。
…だけど……、なんなのだろう?
 自分に問いかけるが、やはり答えは導き出せない。
…なんなのだろう、この胸のもやもやは?
 なんとなく、胸の辺りがむかむかする。特別に気分が悪いわけではなかったが、どうもすっきりしない。
…俺たちには関係ないって、本当に?
 何故か、頭の中にそんな言葉が浮かぶ。しかし、純香はそれを声に出して言うことはない。
 やがて、玄関口に立ち尽くしていた春人は、靴を脱ぎ、家の中へおもむろに入っていく。
 純香は、そんな兄の後姿を、ただ無言で見つめているだけであった。
 

<3>

 新藤冴子と糸永慎二の乗った車は、ようやくK村へと到着した。和やかな田園風景の広がるその場所は、おおよそ十五年前にあの陰湿な殺人事件が起きた場所であるとは、到底思えない。空には鳥が舞い、肌をやかんばかりの太陽は爛々として輝いているが、そこに吹く風は遥として涼しげである。四方のいたるところからは蝉たちの声が響き、新藤冴子は円形のサングラスを掛け、車を降りた。
「へぇ、中々いいところっすね」
 糸永も車を降り、大きく背伸びをする。
「さて、どこから手をつけていくんすか? 冴子さん」
 糸永に尋ねられ、冴子はその場で腕を組む。
「そうねぇ、とりあえずはここら近辺で何らかの情報を集めましょうか。そのあとで、被害者の家に行くって言うのはどうかしら?」
「それが妥当っすね」
 糸永はうなずき、後頭部で手を組みながら歩き出した。

 暫くは、目に付いた民家や店に立ち寄り、事件当時の状況や村の様子などを聞き込んでみた。K村は、それほど大きな村落ではないので、どうやら部落のもの皆が顔見知りであるらしい。しかし、十五年も昔の事件のことだ。これといってめぼしい情報や、目新しい情報など手にはいらなかったが、それは予想されていたことなので別段冴子たちは落ち込む様子も無く、ただ淡々と聞き込みを繰り返していた。
 二時間ほど歩き回っただろうか、ほとんどの民家は廻れたようである。
「冴子さん、僕、腹減ったす」
 舗装されていない狭い農道を歩きながら、糸永は鼻の頭に浮いた少量の汗を親指でぬぐいながら、なんとも疲れ切った様子で呟くように言ってきた。
 糸永にそういわれ冴子がおもむろに腕時計に目をやると、時刻は既に午後の一時を廻っていた。
「そうね、どこかで一休みしましょうか。昼食をとった後で、北野さんの家に向かっても遅くはないでしょう」
 そういって、冴子は歩き始めた。

 寂れた小さな定食屋を出る頃には、時刻は既に二時を廻っていた。
「店の雰囲気は悪かったっすけど、僕の食べた生姜焼きは中々うまかったスヨ。冴子さんのとんかつ定食はどうでした?」
 爪楊枝を口で弄びながら、糸永は呑気にそんなことを聞いてくる。
 冴子はそんな糸永を無視して、足早に北野家に向けて歩みを進めていた。
…北野吉行が生きていたら……。
  冴子は考えていた。もし仮に、冴子の推測通り、北野吉行が生きていて、今回の白い羽根殺人事件の犯人だとしたならば、北野家はどうするのだろうか。その事実を素直に受け止めるのであろうか。否、そんなことではない。北野家が吉行の身柄を匿っていたとしたら、自分たちはどういう出方をすればよいのか。勿論そうであるなら、北野家はそのことを巧妙に隠そうとするだろう。もしそうなれば……。
 冴子の頭の中には、とめどなく『もし』という言葉が溢れてくる。
「冴子さん、見えてきましたよ。あの家でしょう?」
 糸永が前方に見えてきた一つの大きな家を指差す。そのすぐ右隣にも、塀を隔てて一軒の家が建っていた。
「糸永君、先にお隣の家に寄ってみましょう。北野さんの家はそれからでいいわ」
 冴子が言うと、糸永は素直にうなずく。
 北野家の隣の家の門柱には『吉良』という表札がつけられてあった。鉄門の向こう側には、中型のみずぼらしい雑種犬が寝そべっている。
「あひゃ、ぼ、僕、犬苦手なんすけど!」
 妙な悲鳴を上げながら、糸永が一歩後退するが、冴子がそれを引き止める。
「男のくせに、なぁに情けないこといってるのよ。仕事でしょう、しごと」
 そういいながら、糸永の背中を力強く押し、冴子はわざと糸永の体を犬の前に押しやった。
「や、やめてくださいよ、冴子さん! わっ、ちょっと、マジやばいって」
 騒がしい糸永の声に気づいたのか、雑種犬はゆっくりと重そうなまぶたを開き、糸永を一瞥するが、けだるそうに再び目を閉じた。
 糸永は胸をなでおろし、大きく溜め息をついて少々怒ったような表情で冴子のほうを振り向こうとするが、冴子は既に、吉良家の玄関前に立っていた。
 冴子はインターホンを押す。それからややあって、一人の男が部屋の中から顔を覗かせた。冴子の見たところ、その男の年齢は二十代前半で、まだ少しのあどけなさを残している顔つきだが、なんとなくその表情に無機質なものを感じる。
「なんですか?」
 青年がくぐもった声でそう尋ねてきたので、冴子は懐から警察手帳を取り出して、こういうものですけど、と手帳を一瞬青年の前に差し出した。一般の善良な市民は、こうした突然の警察の来訪に多少なりとも驚きの表情を見せるのだが、その青年の表情からは、そういうものは読み取れない。
「なにか、あったんですか?」
 飽く迄も、無機質な表情で青年は尋ねてくる。
「ええ、ちょっとお尋ねしたいことがありまして……」
 冴子は、サングラスをはずしてポケットにしまう。
「……失礼ですけど、あなたはこの家の息子さん?」
「そうです」
「お父さんか、お母さんはいらっしゃるかしら?」
「二人とも外出してます。今日は帰ってきませんよ」
「そうですか……」
 冴子はそれを聞いて、この家での聞き込みは断念しようかと思った。その時、青年が呟くように突然ぼそりといった。
「染谷たちのことですか?」
 冴子は、はっとする。
「殺された三人のことを知ってるの? お友達かなにか?」
「はん、冗談じゃないですよ。あんな奴らと友達なわけがない。頼まれても願い下げですよ」
 青年は、汚らわしいものでも見たかのような表情ではき捨てる。
「あなた、お名前は?」
「そんな事、事件に関係あるんですか?」
「いいえ。ただ聞いただけよ」
 すると青年は少しの間を空けて、
「亮二です。吉良亮二」
 と、無愛想に答えた。
「亮二君、ね。……亮二君は十五年前、隣の家で起きた事件のことは知ってるかしら?」
 冴子がそう尋ねると、今まで無表情だった青年の顔に、少しだけ不意を突かれたようなものが見て取れた。
「あんたら、市内で起きた事件を調べてるんじゃないのか? どうして十五年前の事件なんか……」
「それがね、あるかもしれないんです。まだはっきりとは言えないんですけど」
「どういうことだ?」
 青年……吉良亮二は、眉間に皺を寄せて冴子の顔をを睨みつけるようにして窺うが、冴子はあえてそのことを口にせず、挑戦的な眼差しで亮二の視線を跳ね返す。
 暫くは、その状態のままで沈黙が続いたが、ややあって、亮二はふんと鼻を鳴らし、冴子から目をそらした。そして、天使の仕業か? と、うつむいたまま冴子に尋ねてきた。
「なにか知ってるのね?」
 冴子が逆に尋ね返すと、青年はようやく顔を上げ、おもむろにうなずいた。
「はじめに染谷が殺されて、その手に白い羽根が握らされていたってニュースで聞いたとき、なんとなく俺は勘付いたよ。あれは天使に殺されたんだろうな、って。なんて名前だったかな? ……ああ、確か『吉行』だっけ? 北野吉行。……十五年前、あの事件が起きた時、俺、そいつの姿見てるんですよ。ちょうど夏祭りのときだった……」
 亮二はそう言って、遠くを見るような眼差しで目を細める。
「あの時、ある理由で俺は夏祭りには行かないで、自分の家の庭で花を弄ってた。多分、自分で植えた花が初めて咲いたのがうれしくって、それをじっと眺めてたんだと思うけど。……親父とお袋は、祭りに出ていて家にはいなかった。……俺が、そんなふうに花を眺めていると、いきなり隣の家から悲鳴が聞こえたんだ。何事かと思って、台を使って庭の塀越しに隣の家を覗いてみたけど、中の様子が見えるわけでもなかった。それでも、俺は気になってずっと見てたんだけど、突然、隣の家の裏口が開いて天使がそこから出てきたんだ。森のほうへ走っていってた。そして、そのあとを追うように染谷、青木、穴井が森のほうへ走っていったよ」
「森の方?」
 冴子は、切れ長の細い目を、さらに細める。
「ああ、この家の裏側を抜けて少し行った所が森になってるんだよ。滅多に人が寄り付かないし、昼間でも薄暗いところさ。樹海ってほどではないけどね。……ずいぶん前に、俺もその森に行ったことがあるけど、薄気味悪いところさ」
 冴子はうなずくと、ちらりと家の裏手の方に視線を向けてみたが、家自体が邪魔になって、よく確認できなかった。
…やっぱり殺された三人は十五年前の事件に、なんらか関係してるみたいね。
 冴子は腕を組み、前髪をかきあげる。
「それで、結局四人は戻ってきたの?」
「さあね、そこまで知らないよ。暫く経ってから、パトカーのサイレンの音が近づいてきたんで、隣の家を覗いてみたら、隣の兄ちゃんが血だらけになった親を抱えて、おいおい泣いてたよ。勿論、俺は警察にその場を追い出されたけど」
「隣の夫婦は、生前どんな感じだった?」
「そんなの知らないし、よく憶えてもないよ。十五年も前の話だ。俺は幼稚園児だったんだぜ。……でも、俺の親が言うには、あまり仲のいい夫婦とはいえなかったらしいよ。しょちゅう喧嘩してたらしい。あれじゃ、子供が可哀想だとか言ってたな。それこそ、隣に聞けばいいだろう?」
 青年はそう言って、無機質な表情を少し歪ませた。
「……もういいだろう、刑事さん? あとは隣に聞いてくれよ。俺には関係ないことだ」
 と、無遠慮にドアを閉めようとする。
「ち、ちょっと待って!」
 冴子は慌てて閉まりかけるドアを押しとどめると、吉良亮二に尋ねた。
「ねえ、吉行君たちが森の方に言ったって話は、誰かにしたの?」
 すると青年は、ふんと鼻を鳴らす。
「親には言ったけど……、さっきも言ったとおり、当時俺は五歳の幼稚園児だ。まともに取り合ってはくれなかったさ」
 亮二は吐き捨てるようにそれだけ言う。
「あと一つだけ、いいかしら?」
「なんだよ」
「さっき、事件当日の夏祭りに、あなたはある理由でいかなかったって言ったわよね? それってなんなの?」
 冴子が尋ねると、亮二は少しだけ躊躇いの表情を見せたが、すぐに無機質な表情に戻ると、
「憶えてない……」
 と言って、ばたりとドアを閉じた。
…森の方、ね。
 暫く冴子は、腕を組んだままその場に立ち尽くしていた。

 冴子が吉良家の鉄門を抜け、敷地を出ると糸永慎二が辺りをきょろきょろとしながら、そこに立っていた。
「そういえば、なんか静かだと思ったら……。あなた、どこに行ってたの?」
 冴子が渋顔で尋ねると、糸永は苦笑いを浮かべて、
「僕、やっぱり犬が駄目っす」
 と、スポーツ刈りの頭を掻いた。
 冴子は、そんな糸永の頭を力強くはつると、
「隣に行くわよ!」
 と、糸永を一喝するように言った。
 糸永は、今にも泣き出しそうな表情でうなずくと、冴子に叩かれた頭を撫ぜながら渋々冴子のあとをついていった。

 吉良家のすぐ左隣の門柱には『北野』と書かれた表札が掛けられてある。鉄門の向こうには側には、隣家とは対照的な体躯の良い柴犬がこちらを睨みつけて、ウウッと低く唸っている。恐らく鉄門を開けたとたんに吠え掛かってくるつもりなのだろう。鎖でつながれているものの、態勢を低く構えていて、いつでも飛びかかれるようにしているようだ。
「ちょっと勘弁してくださいよ。なんでここにも、あんな犬がいるんすか。しかもさっきの犬とは違って、かなり好戦的な態度っスヨ……」
 糸永は顔を顰め、甲高な、いかにもひ弱な声を発して、冴子の顔を見る。
「さあ、呼び鈴は鉄門の向こうの玄関にあるわよ。どうする糸永君?」
 冴子はわざとらしい笑みを浮かべて、糸永を挑発する。
「どうするって……、冴子さんが行ってきて下さいよ。到底僕には無理な話っすよ」
「あら、また仕事をサボるつもり? まぁ、私は別に構わないけど。ただ、事実を部長に報告するだけよ」
「そんなぁ、そりゃないでしょう。これって、半分イジメっすよ」
 糸永は、再び今にも泣き出しそうな表情で冴子にしがみつこうとするが、冴子はどこ吹く風といった感じである。
「……ああ、そうっすか。解りましたよ。行けばいいでしょう、行けば! ふん、たかが犬ごときで、この僕が本当にビビルとおもってるんすか!?」
 糸永は、完全に開き直った様子で冴子にそう吐き捨てると、鼻息荒く勇んで鉄門に手を掛けた。それと同時に、態勢を低くしていた犬が、けたたましく糸永に吠え掛かってきたのである。
「ひゃぁ!」
 糸永は、一声甲高い悲鳴を上げると、脱兎のごとく両腕を高く掲げ、どことも知れぬところへ駆けていった。
 一人取り残された冴子は、そんな糸永の後姿を眼で追いながら、大きな溜め息をつくと、いまだ吠え掛かってくる犬をも気に留めず、北野家の鉄門をくぐっていった。
 

<4>

 玄関越しから、犬の鳴き声が聞こえてくる。どうやらそれは五郎の鳴き声らしい。ということは、誰か人でも来たのだろうか。
 北野純香が、よくとおる犬の鳴き声を耳にしながら、そんなことを考えていると案の定呼び鈴が鳴った。
「誰か来たのか?」
 テーブルに置かれていた煎餅をほうばりながら、兄の春人が腰を浮かせようとしたが、純香がそれを制し、いいわ私が行ってくるから、とソファから立ち上がった。
 尚も五郎は来客人に向かって吠え続けているようで、その吠え声はやむ気配がない。早く来客人を玄関内に入れなければさぞかし迷惑していることであろう、と純香は急ぎ足で玄関を開けた。
 はい、といって玄関を開けると、そこには見覚えのない、スーツ姿の長身の女性が立っていた。薄紫色に染まった肩まである髪の毛に、少しきつめの紺色のアイシャドウが目立つ化粧をしたその女性は、純香の顔を見るとにこりと微笑み、懐から黒革の手帳を差し出した。
…警察!?
 純香は驚き、少しばかり身を引いてしまったが、すぐにそれを取り繕うと、
「あのぉ、なにかあったんでしょうか……?」
 と切り出した。
「こんにちは。私はO県警の新藤というものなんですけど……、北野純香さんですね?」
 新藤と名乗ったその女刑事は、純香にそう尋ねると、返事を待つかのようにして純香の顔をじっと見つめる。
 純香が不安な面持ちでゆっくりうなずくと、とりあえずは、犬の鳴き声がうるさいので、刑事を玄関口に招きいれて扉を閉めた。するとようやく、五郎は吠えることをやめる。
 女刑事は犬の鳴き声がやんでのことか、小さい溜め息をつくと再び純香の目をまっすぐ見つめて尋ねてくる。
「純香さんはこちらのほうへ帰ってる、という情報があったものですからね。……えっと、確かお兄さんがいらっしゃると思うんですけど?」
「えっ、は、はい。呼びましょうか?」
「ええ、お願いするわ」
 女刑事に言われ、純香は声を上げて兄を呼んだ。
「お兄ちゃん、ちょっとこっち来て!」
 ややあって春人が姿を現すと、女刑事は軽く会釈して、純香に言ったような簡単な自己紹介を済ませる。
「なにかあったんですか?」
 訝しげにそう尋ねる春人の顔は、心なしか少し血の気が引いて蒼白に見える。
「市内で起きてる事件をご存知ですよね? 染谷俊彦、青木祐介、穴井圭造……」
「はい、三人ともここの出身ですからね。子供の頃は、よく一緒に遊んでましたよ」
 春人はうなずくが、その動作にはどことなく力が抜けているような感がある。
「そのうちの一人、穴井圭造が……、恐らく殺害される直前と思われるんですが……、警察のほうに電話してるんです」
「なんですって!?」
 突然、兄が大声で頓狂な声を上げたので純香は驚き、ぴくりと一瞬体を震わせた。
「そ、それで、なんと言って……」
 女刑事はそう問われて、暫く口を閉ざすがややあって、
「犯人は、北野吉行だ……、と」
 呟くように言った。しかし、その目には一片のにごりもない鋭い光が純香と春人を捉えているような、そんな感じを純香は受けていた。
 勿論、純香はその名を聞いてずいぶんと驚いたのだが、それは兄の春人も同じようで、一瞬きょとんとした表情を見せたかと思うと、次の瞬間には大きな笑い声に変わっていた。
「ははははっ、刑事さん、それは本当ですか? 吉行が生きてるんですか? 吉行が生きていて、三人を殺したと? 何のために?」
 春人の突然の笑い声に、女刑事は少々面喰った様で、暫くの間、押し黙ったかのように二人の様子を窺っていたが、一度咳払いをし態勢を立て直すと、
「実は十五年前、お宅で起きた事件を目撃した、という情報がはいりまして……」
 と、ゆっくり言葉を告いだ。
 新藤刑事がそう告げた途端、春人の表情が凍りついたかのように固まり、笑い声が急に途切れた。
「……といっても、殺害現場を直接見たわけではなく、先日頃された三人とあなた方の弟さんの吉行君が、《この家から出て行く》のを目撃したらしいんです」
「どういうことなんでしょうか?」
 今度は純香が尋ねる。
「詳しいことは解りませんけど、目撃者の話では、吉行君が三人に追われているようだった……と。そして、そのまま吉行君は姿を消した……」
「ちょっと待ってください。……つまり、私たちの両親が殺されたときに、染谷さんたちはここにいたというんですか? 十五年前の事件に、なんらか関係してるんですか?」
 純香の頭の中で、なにかどす黒いものが蠢く。それは実に暗澹としていて、ジャングルの奥に潜む大蛇のようにとぐろを巻いている。しかし、その暗黒に満ちたとぐろが、少しずつほつれていくような、そんな感じが純香にはしていた。昔に見た映画が突然頭の中に浮かび上がり、そしてノイズを伴ったような声が……。

(お前が殺したのか?)
(違う、僕じゃないよ)
(嘘つけ、お前が殺したんだ!)
(違う、違う、僕じゃないよ!)
(みんな、あいつは人殺しだぞ、捕まえろ!)
(いやだ!)

 キーンと、耳鳴りがした。

…ああ……。
 純香は眩暈を感じて、その場でふらつくが、春人と刑事には気づかれなかったようである。
「それで、刑事さんはなにが言いたいんですか? 確かにあの時、いつもは閉めている《裏口》の鍵は開けてましたけど、それと今回の事件とはどんな繋がりがあるんです? ましてや弟が生きていて、染谷たちを殺したなど、一体どんな根拠があるんです?」
 何故か、春人は憮然とした様子でそうまくし立てる。
「まだ詳しいことはいえません。ただ、そういう新事実が浮かび上がった以上、私たち警察はもう一度、十五年前の事件を洗いなおすつもりなんですよ」
 女刑事は淡々と言う。
「ふん、なにを今更……。もう時効まで、一週間もないんです。僕たちのことはほっといてくれませんか。今更両親を殺した犯人を見つけたところで、少なくとも僕は何の感慨も持ちませんよ。もう、両親は帰ってはこないんですから……」
「そうでしょうね。あなたたちに再び迷惑を掛けるのは、百も承知です。でも、事件解決のためなんです。協力してください」
「……僕たちに、なにをしろと?」
「簡単なことです。今日のところは私の質問に答えてくれるだけでいいんですから」
 女刑事は言うと、少しの間をおいて質問を始めた。
「行方不明の弟さんから、何らかの連絡はなかったですか?」
「あるわけがない! 十五年のあのときから、弟の姿も見てないし声も聞いてない。僕はもう、あきらめていますよ……」
「あなたがたの両親を、恨んでいたような人はいなかった?」
「そんな質問なら、むかし嫌というほど警察に何度も聞かれましたけど、一切そんなことは解りません。当時、僕は中学生だ。大人の事情など解るはずがない」
「あなた方の両親は、あまり仲が良くなかったと聞いてますが」
 女刑事の突っ込んだ質問に、春人は一瞬怒りの表情を見せたが、すぐにその表情を曇らすと、
「それは、事実です……」
 と、力なく答えた。
 暫く三人の間に沈黙が訪れた。
 純香は気分が悪くなり、立っているのもやっとだったのだが、目を瞑って必死にそれに耐える。
「もう……いいですか?」
 ようやく口を開いたのは、春人であった。なにやら考え事に耽っているようだった女刑事は、春人の声にふと我に返ったような表情を見せると、
「そうですね、今日はもうじゅうぶんです」
 と、今までの鋭い眼光を瞳から消して、笑顔を浮かべた。
「また近いうちにお邪魔するかもしれませんが、そのときは連絡します。なにか他に思い出したことでもあったら、県警のほうに連絡してください。私の名前を出せば繋いでくれるはずですから」
 そういって、新藤と名乗る女刑事は軽く会釈すると、静かに玄関を出て行った。
 再び五郎の吠え声が聞こえてきたが、それはやがてやむ。
 兄の春人は、一瞬純香と目を合わせたが、無言で部屋の奥へと消えていった。
 純香は暫くうつむいていたが、青白い顔をしたままで自分の部屋へ引き返していった。
 

<5>

 思ったよりも収穫があったかな、と新藤冴子は思う。短い時間ではあったが、それなりに情報を手に入れることができた。
 やはり、今回殺害された三人は十五年前の事件と何らかの関わりがありそうだ。そうなると、いよいよ冴子の推測が正しいことになってくる。事件解決まで、もう余り時間は掛らないはずだ、と冴子は思った。
 依然日は高く、蒸し暑い日射を辺りに振りまいてはいたが、そこに吹く風は、やはり都会に比べるとずいぶんと涼しいものだ。この近辺には子供の姿が見当たらないが、今頃は夏休みを大いに楽しんでいるに違いない。
 冴子は自分の乗ってきた車のところまでたどり着くと、大きく深呼吸をしてから運転席のドアを開けた。
「ちょっと〜ぉ、どこ行くンすか、冴子さーん!」
 向こうのほうから、糸永慎二が手を振りながら駆け寄ってくる。
…そういえば、あんなのがいたっけ。
 冴子は、すっかり糸永の存在を忘れていた。
 息を切らし、冴子のもとまで駆け寄ってくると、糸永は満面の笑みを浮かべて、どうでしたか? と、相変わらずの甲高い声で尋ねてくる。
「なにが、どうでしたか? よ。さっさと車に乗りなさい!」
 冴子は大声で糸永を怒鳴りつけると、自分は目ざとく運転席に乗り込んだ。
「ち、ちょっと、どこに行くンすか?」
 糸永も、慌てて助手席に乗り込む。
「どこに行くって、帰るに決まってるでしょう。今日はとりあえず、部長に報告してから、明日またここに来るわ。勿論、あなたが仕事をサボってたことも、ちゃーんと報告するから、そのつもりでいてね」
「そんなぁ! サボってたなんて人聞きの悪いこといわないでくださいよ。それに、明日またここに来るって、明日は昼から捜査会議が入ってるんすよ」
「会議が終わってから来ればいいでしょう?」
「終わってからって、夕方ぐらいっすよ」
「だから? 別にいいじゃないの」
「ああっ、明日も残業か……」
「私たちには、残業もへったくれもないの! 常に二十四時間態勢なんだから」
 冴子がそういうと、糸永はそのまま黙り込んでしまった。どうやら観念したのだろう。
「明日は、しらみつぶしに森の方を散策してみるわ」
 冴子は独り言のようにそう呟いて、車を発進させた。


<6>

 ふと、天使が目の前に現れた。白い衣をまとい、背中では大きな翼をはためかせ空中に浮いている。
(お姉ちゃんは知ってるんでしょう?)
 天使はそう呟くと、にんまりと笑った。その笑みが、果たして邪悪なものなのか、そうでないのか、北野純香には解らない。何故かといえば、その天使の顔があまりにも不明瞭で、ぼやけているのである。
…あまり、弟の顔を覚えていないからかな?
 純香は、自然とそう思う。なにせ、幼稚園以来、弟の姿は一度も見かけていない。しかし、それなのにどうして弟の姿が天使の姿と重なるのであろうか?
 果てしなく広がる闇の中を歩きながら、やがて純香は見覚えのある場所にたどり着く。
…ここは……。
 どうということはない、自分の家のダイニングルームだ。そこに、幼い頃の自分と母親がいて、何か話をしている。
…なにを話してるんだろう?
 母親は、幼い純香の額に手のひらを当てたかと思うと、首を小さく横に振り純香に何かを手渡した。すると、幼い純香は泣き出すのである。
…あれは、薬だ……。
 純香は思い出す。十五年前のあの日……、夏祭りの日、純香は風邪をこじらせて高熱を出したのだ。隣家の吉良亮二と一緒に夏祭りを見に行くはずだったのだが、母親がそれを制し、純香に薬を手渡したのである。しかし、幼い純香は平気だから、と母親に食い下がるが、それでも外出は許してもらえず、純香はとうとう泣き出してしまったのだ。
 そして純香は、渋々その薬を飲み、自分の部屋に戻って寝ていた。
 不意に、物音がした。何かが割れるような音。そして、怒鳴り声。幼い純香は目覚め、自分の部屋を出ると、ダイニングルームをそっと覗いてみた。
 床に散らばったコップや皿の破片。そして、両親の死体。その死体の上に馬乗りになって、誰かが何度もナイフを突き立てている。
…やめて!
 そう声を上げようとしたが、怖くてできなかった。体中が震え、純香は凍りついたかのように、その場面をただ黙って擬視している。
 ふと、その人物が純香のほうを振り向いた。
…ああっ……!
 足元がおぼつかなくなり、純香は脱力したかのようにその場に座り込んだ。

 知らない顔ではない。

 両親を殺した人物は、ゆっくりとナイフを掲げたまま、純香に近づいてくる。
 恐怖と戦慄が、幼い純香の体を駆け巡り、体中のすべての機能を麻痺させた。
…殺される!
 そう思った刹那、
(ただいまぁ)
 玄関から声がした。

                   ※

 純香は突然ベットから半身を起こすと、暫くはただ呆然と暗闇に染まった、自分の部屋の中空を見つめていた。体中からは不快な汗が噴き出していて、今まで見ていた夢の余韻に恐怖して、体を小刻みに震わせた。
…あの人は……。
 夢の中では、両親を殺した人物の顔ははっきり見えていたかに思えたのだが、自分が目覚めた今、やはりその人物の顔は思い出せない。
 純香はややあって、ベットの傍らに置いてある目覚まし時計に目をやると、ようやく現実の自分を取り戻せたような気がした。
 時刻は午後の九時……。どうやら女刑事の訪問のあと、気分が悪くなって自室で横になっていたら、そのまま眠ってしまったらしい。純香は慌てて起き上がると部屋を飛び出した。
 家内は異様なほどしーんとしていた。兄である春人の姿は見当たらない。どこかへ出掛けたのだろうか。
 不意に、ガラガラと玄関の開く音がした。
…お兄ちゃん?
 そう思って、おもむろに玄関口に向かったが、そこには誰もいない。気のせいだろうか、と思った刹那、物陰から声がした。
「出て行け、ここから出て行け」
 変声機を使ったかのような、不明瞭なくぐもった声。思わず純香は戦慄して声のしたほうを振り向こうとしたが、その瞬間、そこから何者かが急に躍り出て来て、純香の顔面になにかスプレーのようなものを吹き付けてきた。
「きゃぁ!」
 純香は小さな悲鳴を上げると、よろめきながらあとずさる。
「出て行け、ここを出て行け」 
 不気味な声でそう呟く人物は、よろめく純香の背後を素早くとると、純香を羽交い絞めにし、声を上げられないように手のひらで純香の口を押さえてきた。
 純香は必死に抵抗しようとするが、先ほどのスプレーが目に沁みて、すぐ目の前の視界さえも翳んでしまう。
 刹那、純香の首筋に何か冷たいものが触れた。それがナイフの切っ先であることに気づくには、それほどの時間はかからなかった。
 純香は抵抗するのをやめたが、恐怖のため涙がとめどなく溢れてくる。
…誰か助けて!
 心でそう叫んでみても、相手のナイフに少し力が入るだけである。
「出て行け、ここを出て行け」
 相手は、執拗なまでに純香の耳元で囁く。
…こいつだ、この人が私の父さんと母さんを殺したんだ。
 純香は、直感的にそう思った。しかし、今の純香には成す術がない。
 相手の鼓動が、純香の体にも伝わってくる。
「出て行け、ここを出て行け」
 相手は、純香の首筋に突きつけたナイフに更なる力を込めると、再びその言葉を繰り返した。
 純香は訳の解らないまま何度もうなずき、必死で涙を堪えようとした。
 がつん、と突然後頭部に衝撃が走った。どうやら相手が、ナイフの柄の方で純香の頭を力強く殴りつけたらしかった。目の前が一瞬回転したかと思うと、純香はその場に倒れた。
…顔を、あいつの顔を……。
 遠くなりかける意識の中、純香は相手の顔を確認しようと努力するが、目の前が翳み、それはおぼろげながらにしか確認できなかった。
 相手は、暫く倒れた純香を見下ろしていたようであったが、やがてゆっくりと玄関口から出て行った。
…!?。
 何かがおかしい、一瞬だけ純香はそう思った。なにか違和感のようなもの。……それが一体なんなのか、今の純香には解らなかった。


「おい、純香!どうした、しっかりしろ!」
 そんな声が聞こえてきて、体が揺さぶられるのに気づいた純香は、ゆっくりとまぶたを開いた。
…ここは?
 純香は暫く、悪い夢でも見ていたのだろうか、と鈍い痛みの残る後頭部を押さえながらぼおうとしていたが、そこが玄関口であることに気づいて、さきほどの出来事は現実であったことを悟った。
「純香、おいっ!」
 尚も倒れたままの純香を揺さぶりながら、春人が心配そうな表情で純香の顔を覗き込む。
「お、お兄ちゃん……」
 純香の両目はいまだに痛みを残していて、視界のほうもおぼつかなかったが、しばらくすると兄の顔もしっかり確認できるほどに回復してきた。
「お兄ちゃん!」
 純香は半身を起こし、突然兄の体にしがみつくと、声を上げて泣きじゃくった。
 あれからどれだけの時間が経ったのか、純香はわからないでいたのだが、相も変らぬ恐怖が純香の心をいまだに覆っていた。
「なにがあったんだ?」
 春人は純香の背中を叩き、宥めるように優しく聞いてくるが、今の純香は歯の根も合わないほどに震えていて、簡単な発声でさえもうまくできない状態であった。

 純香が、先ほどの出来事を春人に話せるようになったのは、深夜をとうに過ぎた頃になる……。


                   ※※※

 青木祐介と穴井圭造は、人目を憚りながら、そそくさとその場所から逃げ出そうとする。
 染谷俊彦もその場を早々と立ち去ろうとしたのだが、もう一度だけ、穴の中を覗いてみた。
 一瞬、北野吉行の手がぴくり、と動いたような気がした。まさか、と思い染谷は目をこする。
(ああ、まだ生きてる)
 染谷は、それが気のせいではないことに気づくと慄然とした。
 刹那、吉行の目が突然見開かれた。
(ひっぃ!)
 思わず染谷は小さな悲鳴を上げ、その場に尻餅をつく。
 吉行の手が、中空を掴もうとするかのごとくに高く掲げられ、血ばしったその目が、染谷の視線とぶつかる。それと同時に、吉行の喉元から、多量の血がさらにあふれ出した。
(助けて……)
 苦痛で、かすれたような声で吉行はそういった。
(僕じゃない……)
 今にも消え入りそうな声だ。
 染谷は恐ろしいほどに見開かれた吉行の目を、射すくめられたかのように、ただ見つめながら呆然としていた。
(……ちゃん、が……)
 一度だけそういうと、突然脱力したかのようにばたりとし、それ以降ぴくりとも動かなくなった。
 染谷は、それを見届けると尻餅をついたまま後ずさりながら、やがて立ち上がると、急いでその場を逃げ出した。


第四章・天使の骸

<1>

 翌日、北野純香は帰宅の準備をしていた。市内のマンションに帰る準備である。
 昨夜は深夜遅くまで、兄の春人と話し合っていた。純香自身が何者かによって襲われたこと。その人物がここを出て行け、と警告したこと。そして、その人物こそが純香の両親と、染谷たちを殺した犯人ではないか、という疑惑のこと……。

『警察には言わないでおくか……』

 春人の言葉である。純香もそれにうなずいた。警告どおり自分が出て行けば、恐らく『奴』は何の危害も加えてこないだろうとの結論だった。下手に警察に報せれば、かえって純香の身が危険に晒されるかもしれない。
 話し合いの最後に、泣きじゃくる純香の前で、春人は悲痛な面持ちですまない、と一言呟いた。
…これでいい……。

 純香はそう思う。純香の疑惑どおり、自分を襲った人間が、十五年前の事件の犯人だったとすれば、もうすぐで時効である。その時効さえ過ぎてしまえば犯人にとって純香は、何の危惧も持ち得ない存在になる。昨夜純香を襲ったのは、純香が『十五年前に犯人の顔を見ていた』からだろう、と純香は解釈している……。
…本当に、それだけだろうか。
 純香は釈然としない。もしそうであれば、犯人はこの家の近辺に住んでいる可能性が極めて高いように感じられる。となると、犯人は《純香の記憶が曖昧なことを知っている》人物になる。このことはなにを意味しているのであろうか。
 判然としない思考を振り払うかのように、純香は三度ほど頭を大きく横に振ると、急いでバックの中に荷物を詰め込んだ。
 兄の春人は、今日は不在である。急な仕事が入ったとのことで、休日出勤を命じられたそうだ。恐らく夕刻過ぎまでは戻ってこないであろう。また日を改めて帰ってきます、とでも書置きをしておいて、居間に置いておけばよい。純香がそう思って、おもむろに立ち上がろうとしたときである。不意に玄関のほうで五郎の吠える声が聞こえてきた。そして、呼び鈴の電子音が響く。
…誰だろう?
 一瞬、純香の体に緊張が走ったが、意を決して玄関へ向かう。少し神経質になっているようだな、と思いながらも、純香は少し身構えてから返事をした。
「はい、どちらさまですか……?」
 しかし、返答はない。依然、五郎の吠え声が聞こえるばかりだ。
 刹那、ガラガラと玄関の扉が開かれた。
…亮ちゃん?
 そこには、隣家の吉良亮二が不審気な表情で立っていた。
「なんだよ、いるなら返事ぐらいしろよ」
 無愛想に亮二は言うと、右手に持っていた小さなプラスチックの容器を純香に差し出す。
「うちのお袋が、白菜を漬けたからお前らのところにも分けてやれってよ」
 そういって、純香にそれを手渡す。
「あ、ありがとう」
 しばし呆然としながら、純香はそれを受け取る。
「どうした? なんかお前、顔色悪いぞ」
 亮二が、相変わらず表情の読めない無機質な眼差しで尋ねてくるが、純香は首を横に振りなんでもない、と答えた。
「あ、そう、それならいんだけど。……じゃあ、それだけだから」
 亮二がそういって、踵を返そうとするのを、純香が突然呼び止めた。
「亮ちゃん。さっき、私返事したよ」
 不意に、そんな言葉が純香の口から漏れた。
「ああ……、そう。この馬鹿犬がうるさくって聞こえなかったよ……」
 亮二は、吠え続ける五郎を睨みつけてそういう。
…ああ……。
 眩暈がした。足がガクガクと震える。
「おい、どうした……? やっぱりお前変だぞ」
 亮二のその表情には、薄ら笑いが浮かんでいるような気がした。
「な、な、何でもないよ」
 純香は激しく首を振り、玄関を力強く閉めると、逃げるようにしてダイニングルームのほうへ駆けていく。
…あの時、あの時!
 酷い頭痛の中、純香はそこに倒れるように座り込んだ。頭の中で、何かが爆発したような衝撃。それと同時に、今まで凝り固まっていたものが急に溶け出して、激流のように純香の頭を支配する。

 ようやく純香は、《すべてを思い出した》。


<2>

 時刻は既に、午後の八時を廻っていた。思っていたよりも会議が長引いたせいで、こんな時間になってしまったのである。
 新藤冴子と糸永慎二は、昨日と同じK村の定食屋で軽い夕食を済ませると、足早に例の森の方へと向かっていた。二人の右手では懐中電灯が心許ない光で目の前を照らしている。
「本当に行くんすか? もうかなり暗いっスヨ」
 糸永は、自分の足元を照らす光をぐるぐるとまわし、半ば投げやりな様子で前を歩く冴子に尋ねてくる。
「当たり前でしょう。何しにわざわざここまで来たと思ってるの」
 冴子は呆れたように、後方の糸永に振り向く。
「そりゃあ、まあ、そうっすけど。何も今日こなくったって……」
「時効まで日がないことは、あなたも知ってるでしょう? 明日できることは今日しておけ、よ」
「僕の場合は、明日できることは明後日まで延ばせ、って格言に変わるんすけど」
 糸永はそういって、一人でがははっと笑う。
 冴子はそんな糸永に取り合うのをやめて、歩みのスピードを少し速めた。

 鬱蒼とした森に足を踏み入れた頃には、二人ともずいぶん歩き疲れていた。思ったよりも遠く、途中の民家で聞いた話では、北野家か吉良家の裏口を抜ければこの森までの近道になるらしい。そのほかの道を通ってこの森を目指すなら、かなり迂回しなければならないらしかった。なんとも不便なことだ、と冴子は思いながらも、ようやく目的地にはたどり着くことができたようである。
「なんか気味悪いっすよね、夜の森って……」
 糸永は落ち着きなく、辺りをきょろきょろとしながらそんなことを呟く。
 確かに不気味な場所ではある。夜の闇と静寂が辺りを支配し、聞こえてくるものといえば、自らが踏みつける小枝の音と、時折聞こえてくるフクロウの鳴き声。そして、無数の虫の羽音……。これらは決して無音とはいえないのだが、かえってこの森の静寂さを際立たせているような、そんな気が冴子にはしていた。
 冴子と糸永は、さらに森の奥へと足を進ませる。
「冴子さん、僕ふと思ったんすけど、穴井と一緒に殺されていた、徳永っているじゃないっすか。彼は、単なる巻き添えで殺されただけなんすかね?」
 そのことは、今回の捜査会議でも持ち上がったことである。確かに冴子の頭の中では、被害者は染谷、青木、穴井の三人なのだが、事実上、徳永を入れれば四人の被害者がいたことになる。勿論、冴子もそのことをまったく考えなかったわけではない。たとえば、犯人が本当に殺したかったのは、徳永一人で、あとの三人は単なるカモフラージュではないか、という考えも浮かんだことがある。しかしながら、徳永のことを調べてみたところ、穴井以外、他の被害者となんらかの関係を持っているようなものはなかったのでやはり徳永という男は、巻き添えで殺されたのだという結論に冴子は達した。これ以上、徳永のことを詮索しても恐らく何の意味も持たないであろう。考えてみれば徳永という男は、哀れである。
「それと、あと一つ……」
 糸永は、右手の人差し指をオーバーにつきたててみせる。
「……一体、この森でなにをしようとしてるんすか?」
 冴子は立ち止まり、糸永の顔面に向けて懐中電灯の光を当てる。すると糸永は、まぶしそうに顔を顰めた。
「少し静かにして頂戴。さっきからぶつぶつぶつぶつとうるさいわよ。いい、五月の蠅と書いて、『うるさい』と読むの。あなたは、蠅と一緒よ」
「なっ、なにもそんなに怒んなくったっていいじゃないっすか。ただ僕は……」
 甲高い声で抗議しようとする糸永が、途中で言葉を止めた。
「どうしたの?」
 冴子は、訝しんで糸永に尋ねる。
「い、今、笛の音が聞こえませんでした? いかにも幽霊が出てきそうな……、ほら!」
 糸永に言われて、冴子は耳を澄ます。
 確かに遠方から笛の音が聞こえてくる。笛の音だけではない、太鼓を叩くような音もだ。
…夏祭り?
 冴子は、ふとK村の住人に聞いた、夏祭りのことを思い出した。なんでも夏祭りの日には、村の子供たちがこぞって笛や太鼓で大いに祭りを賑やかすとのことだったが、夏祭りの日はもう少し先の日である。となると、今聞こえてくるのは、恐らく村の子供たちがどこかで集まって、練習でもしているのであろう。
…そういえば、十五年前の事件当日は、夏祭りの日……。

 冴子は目を閉じる。十五年前、一体ここでなにが起きたのか? 冴子は知るはずのない他人の過去を必死で思い描こうとする。これは、冴子が時々もちうる『捜査方法』でもある。自分の知りえないものを、いかにして辻褄が合うように自分の思考の中に取り入れるか……。今日、ここに来たのも、それを行うためだといってよい。
 不意に、ひゃぁ、と小さな悲鳴がした。糸永の声である。何事かと目を開けて糸永を見やると、なにやら地面に足を取られて必死でもがいている。
「どうしたの?」
 冴子は、人事のように尋ねる。
「こんなところに穴が開いてたんすよ! 枯葉が詰まってて気づかなかったんすけど」
 冴子はふーん、といって糸永の足元を懐中電灯で照らしてみる。
…あれは……!?
 それは、本当に偶然であった。懐中電灯の光の先に、なにか細く白い枝のようなものが見えたのである。
 それは枯葉の中から起立するように突き出していた。糸永もそれに気づいたらしく、目を凝らしているようだ。
「う、うひゃ! 冴子さん、これ骨っスヨ! 人間の骨っスヨ」
 糸永は、慌てて穴に埋まっていた右足を引き抜くと、冴子のもとに飛びつくように駆け寄ってきた。しかし、冴子はそれを無視し、糸永とは逆に穴のほうへ近づいていく。
 確かに糸永の言うとおり、それは人間の手の部分の骨である。その骨が、穴の奥底から枯葉を突き破るようにして突き出ている。恐らく胴体部分は枯葉の中に隠れているのであろう。冴子はその場にしゃがみこむと、急いで穴を埋めている枯葉を掻き出しはじめた。
「糸永君、なにやってるの。あなたも早く手伝いなさい!」
 がたがた震えている糸永を一瞥(いちべつ)し、冴子は怒鳴った。

 穴の中に、土でも詰まっているのならば、それを掘り起こすのにずいぶん時間がかかったに違いない。しかし穴には、枯葉とごく少量の土が埋まっている……否、積もっている程度で、それほどの労力を要せずに、その作業はできた。
「冴子さん、これ!」
 途中、糸永が大声で叫ぶと、枯葉の中からなにか取り出した。
…これは!?
 冴子は、それを糸永から受け取る。
 それは、片方だけの大きな翼であった。長年この中に埋まっていたためか、酸化したような薄茶色に変色していたが、その翼がもともと白色だったというのは、安易に判別できた。勿論、これほど大きな翼である。良くはできているが、作り物であるのに間違いない。
 冴子はしばし、その翼を観察していた。天使の背中にでもついてるような翼……。
…天使……。まさか!
 冴子は突然としてその翼を放り投げると、今度は先ほどよりもピッチを早めて枯葉を掻き出しはじめた。糸永もそれに釣られるように、作業を再開する。
 白骨体の身体全体があらわになった頃、冴子と糸永は汗だくになっていた。しかし、額に浮いた汗をぬぐうことも忘れて、二人はしばし呆然とその白骨体を見下ろしていた。
 恐らく、子供の骸であろう。中空を掴むかのように右手を前方に突き出している。衣服はまとっているようで、ぼろぼろになったその色は、先ほどの翼のように薄茶色に変色している。そして、その背中にはもう片方の翼……。
「冴子さん、もしかしてこれは……」
「ええ、北野吉行の死体でしょうね……」
 糸永が言い終わる前に、冴子が言った。
 十五年前の事件当時、北野吉行は天使の姿をしたまま行方不明となったのだ。そして今、その骸と思われるものが、冴子と糸永の前に横たわっている。
 冴子は軽い衝撃を受けていた。真剣には思っていなかったものの、『北野吉行犯人説』はこれで薄れたのだ。鑑識にまわして見ないと解らないものの、ほぼ間違いなく、この白骨死体は北野吉行のものであろう。つまり彼は《十五年前に既に死んでいた》のである。
 となると、今回の事件は一体なんなのであろうか。十五年前の事件とは無関係なのであろうか。それならば、穴井圭造は何故、北野吉行の名前を出したのか。犯人は一体……。
 すべてが白紙に戻った気がして、冴子は肩を落とした。北野吉行犯人説が薄れたとなると、十五年前の事件と、今回の事件をどう結びつければよいのだろうか。
「ねえ、冴子さん。《自殺した》ってことはないっすよね?」
 糸永が控えめに聞いてくる。それに対し冴子は首を横に振り、遺体を指差した。
「白骨体の喉元を見て……。杭のようなものが突き出ているでしょう。それと、その首周りの衣服にできた染みのようなもの……。他のところと極端に色が違うでしょう? あれは多分血痕よ。つまり、この死体はこの穴に落ちて、その杭が喉元に刺さって、絶命したんでしょうね」
「なるほど。となると、冴子さんの説がいよいよ正しくなった気がしますね。にわかには信じがたいっすけど……。つまり、北野吉行は自分の両親を殺し、その逃走途中にこの穴に落ちて死んだ」
「それは違うわ。十五年前の事件の犯人が北野吉行ならば、今回の事件も彼じゃなければいけないのよ。そうでなければ、辻褄が合わない。……だけど吉行は、既に死んでいた。今回の事件の犯人であるわけがないのよ。要するに、十五年前の犯人であるわけがない」
「どういうことっす? じゃあ、犯人は別々にいるってことですか?」
「そう考えると、穴井の残したメッセージが無意味なものになるのよ。どうして穴井は、今回の事件の犯人を北野吉行だ、なんていったのかしら? そう考えると、やっぱり十五年前の事件と結び付けて考えるのが自然でしょう。でも、北野吉行が犯人でなくなると、染谷、青木、穴井を殺した動機が解らなくなるのよ」
「つまり、今回も十五年前も、北野吉行ではない別の犯人がいると?」
「そう……」
 冴子はうなずき、じっと白骨体を見つめた。一体自分の推理のどこが間違っていたのだろうか? 染谷が犯人を脅迫して、それが切っ掛けとなって、今回の殺人事件が起きた……。その考えは間違っていないような気がする。では、染谷俊彦は一体誰に、なにを脅迫したのであろうか。
…そういえば……。
 冴子は、不意に妙な引っ掛かりを覚えた。
…あのときの会話は、何かおかしかった……なんだろう?
 冴子は目を瞑って、必死で記憶をたぐる。
…そうよ。あの時、私は《そんな事》を言ってなかったのに、何故知ってたの!?
 一瞬、頭の中が白くなる。
…まさか!? でも、十五年前の返り血はどう誤魔化したのかしら?
 思考に集中する。
…そうよ、そうだわ! 誤魔化す必要なんてなかった。
 冴子は目を開くと、唐突に糸永に叫んだ。
「すぐこの場所を署に連絡して! 私はちょっと確かめたいことがあるから」
 そう言って、突然駆け出していった。
「ち、ちょっとぉ、こんな不気味なところに置いてけぼりにしないで〜!」
 糸永は甲高い声を発すると、冴子のあとを追いかけていった。

 どこかで、フクロウが一声鳴いた……。
 

<3>

 ダイニングルームの食卓で、北野純香は目を瞑ったまま、ただじっとしていた。壁に掛けてある時計の秒針の音が、やけに耳に障る。それは普通にしていれば無音に等しいごくわずかな音なのだが、今の純香には、その音が家全体を揺るがすような大音響に思えた。自分の鼓動の音にしてもしかり、時折水道の蛇口から落ちる、水滴の音もまたしかり……。
 ずいぶんと長い間、純香はそうしている。何時間もの間そのままの姿勢で身動きもせず、それは修行僧の座禅のようでもあり、瞑想のようでもあった。ただ、底知れぬ孤独と恐怖が純香を支配し、そして途方もない絶望感が純香を苦しめていた。
 ガラガラ、と玄関の開く音が聞こえる。純香はようやく目を開けると、壁時計で時刻を確認した。
…午後の八時半。
 兄の帰りは、思ったよりも遅くなったようだ。不審気にダイニングルームを覗いた春人の顔はずいぶんと驚いてるようで、仕事用のかばんをその場に置くと、
「お前、まだいたのか……?」
 と、半ば呆れているような感じで呟いた。
 しかし、純香はそれには答えずに、ただじっと兄の顔を見つめているだけである。
 春人は、そんな純香の様子を見かねてか、どうした? と穏やかな口調で尋ね、純香の向かい側の席に腰掛ける。
「お兄ちゃん……、私、全部思い出したの」
 苦痛に満ちた表情で、純香が呟く。
「なにをだ?」
「お父さんと、お母さんが死んだ日のことよ……」
「そう、か……」
 意外にも、春人は平静さを保ったままでうなずく。
「……じゃあ、犯人の顔も思い出したわけか?」
「ええ」
 純香もうなずく。
「誰だ……?」
 真摯に純香の目を見つめたまま、兄の春人は問う。
 夏祭りのために、子供たちが日夜練習している楽器の音が、遠方からしきりに聞こえてきていた。


                   ※※※

 北野純香は泣いていた。その現場を目撃するには、あまりにも幼すぎたのである。言い知れぬ恐怖と衝撃……。
 純香は、両親殺害の現場を間近で見てしまったのである。そして今、それに気づいた犯人が、たった今両親を殺害して血塗れたナイフを純香のほうに向けて、ゆっくりと近づいてきてるのである。
 体中が震えた。真夏だというのに身体の芯から冷え切ったような、そんな感じがした。恐怖のため、涙が止まることなくまぶたを濡らしているが、その恐怖があまりにも純香の常識を超えているため、声を上げることができない。純香は、その場に座り込んだまま、自分のほうに近づいてくる犯人の顔を、ただ凍りついたかのように見つめていることしかできなかったのである。
(ただいま)
 不意に玄関の開く音が聞こえ、そんな声がした。犯人はぴくりと一瞬反応したが、すぐに身構えると、純香の背後に向かい、純香の口を右手で封じて壁の陰に引きずるようにして身を隠した。
 声の主は『弟の吉行』だった。壁の陰から犯人は、ダイニングルームの様子を窺っている。純香は口が封じられているため、声を上げて助けを呼ぶこともできない。ただ犯人のそばで事の成り行きを見守ってるしかなかった。
 吉行がダイニングルームに来ると、弟はしばしその光景に呆然としている様子だったが、やがて血塗れで倒れた両親のそばまで来ると、だんだんとその顔が震えだし、泣き顔に変わろうとするのが解った。それを見かねてか、純香の口を封じていた犯人は、ダイニングルームに躍り出ると吉行のほうに近づいていった。
(ひゃっ!)
 と、弟が小さな悲鳴を上げる。それとほぼ同時に、再び玄関の開く音……。
 それにはさすがの犯人も慌てたようで、握っていたナイフをその場に取り落とすと、それに構わず純香の元へ駆け寄り、再び口を封じて身を隠した。
 弟は、その血塗れのナイフを拾い上げる。
 その時、ちょうどあの三人組が現れたのである。染谷俊彦、青木祐介、穴井圭造……。
 三人は、その現場を見て一瞬唖然としていたが、やがて吉行を指差し、こう言い出した。
(お前が殺したのか?)
(違う、僕じゃないよ)
(嘘つけ、お前が殺したんだ!)
(違う、違うよ。僕じゃない)
(お前が殺したんだ! 皆、あいつを捕まえろ!)
(いやだ!)
 そうして、弟はナイフをほっぽり出して裏口から逃げていった。
(追いかけろ。あいつはノロマだからすぐに追いつけるぞ)
 三人もそう言って、弟のあとを追いかけていく。
 暫く、沈黙があった。
(いいか、このことは誰にも言うなよ)
 犯人は威圧するように、純香にそういうと、自分も裏口から四人を追って出て行った。
 一人取り残された純香は、ただ呆然とその場に座り込んでいたが、やがて放心したような表情で自室に戻ると、ベットの中に潜り込んだ。
…何も見てない、何も聞いてない。私は何も知らない。
 純香は、心の中で何度もそう念じた。
…忘れよう。あれは全部夢なんだ。
 そうして純香は、深くまぶたを閉じた。


第五章・歪んだ真相

<1>

「誰なんだ? 犯人は……」
 兄の春人は、暫くの沈黙の後、再び純香に尋ねた。しかし、今度のその声は、先ほどの穏やかさとは違い、少々威圧的なもののように純香は感じていた。
 時刻はもうすぐ、午後の九時を廻ろうとしている。純香は何気なく壁時計に目をやって、それからゆっくりと語り始めた。
「昨日の夜、私が襲われたとき、犯人は《正面玄関から入ってきて、正面玄関から出て行った》の。あの時私、何か違和感のようなものを感じた……。そのときはそれがなんだったのか解らなかったけど、今日それに気づいたとき、すべてのことを思い出したわ」
「違和感? どういうことだ」
 春人は、不審気に眉根を寄せる。
「解らない? お兄ちゃん。すごく簡単なことよ……。そのことが犯人の名前を指し示してるの」
「なんなんだ? 俺にはわからない……」
 春人が言うと、純香は暫く間を空けた。悩んでいるのだ。このことを兄に打ち明けるべきなのか、それともこの話はなかったことにして、おとなしく自分は市内のマンションに身を退くべきなのか。しかし、今の純香には、このまま事を終わらせることなど到底できそうになかった。たとえ、純香が春人には何も告げず、マンションのほうに引き返したとしても、きっと毎晩悪い夢にうなされるに違いない。何より人が殺されているのである。純香もか弱い普通の一般市民だ。自分は犯人を知っている。知っていながらこのまま一生過ごすことなど、到底できない。
…言うしかない。
 純香は決意した。たとえそれが、どんな事態を招こうとも、自分はそれを受け止めなければならない。そう思い、純香はゆっくりと言葉を発した。
「五郎のことよ。犯人が正面玄関から出入りしたのなら、犬の五郎が吠えないはずはないの」
 そうなのである。あの時、五郎は一鳴きもしていなかった。普段、誰であろうと、どんな状況であろうと、ところ構わず正面玄関から入ろうとするものに吠えかけるはずの五郎が、一声も発しなかったのである。ただし、《例外が一人だけいる》のだ。つまり、五郎がその人間を見ても吠えない人物が……。
 あからさまに春人の顔色が変わるのが解った。
「もう解ったでしょう? 五郎が吠えない人間は、私の知っている限りでは一人しかいない……」
 純香は、ゆっくりと兄の視線を受け止めた。
「……お兄ちゃん……。あの時私を襲ったのは、お兄ちゃんなんでしょう?」
 純香は、かみ締めるようにして兄の名前を吐き出すと、暫くは兄の視線を受け止めていたが、やがて目を伏せた。
 長い沈黙が訪れた。まるで周りの空気が流れる事を忘れたかのように、このままずっとその沈黙が続くのではないかと純香には思われた。
 春人が声を発したのは、それから五分ものあとであったのだが、純香にとってその五分という時間は、あまりにも長い時間に感じられた。
「それで十五年前の事件の事も、思い出したというわけか……」
 春人は、冷静を装ってるようではあったが、その目は充血したかのように赤く血走っている。
「それなら、何の言い訳もお前には通じないわけだ。そうだなぁ、たとえば、その時五郎は寝ていたんだとか……」
 そういう春人の顔には、わずかな笑みが浮かんでいる。
「……でも駄目だよな。あの犬は神経質だから、たとえ寝ていたとしても人の気配に気づいて、すぐに起きてしまう。それに、たとえそのいい訳がお前に通じて、あの時お前を襲ったのは俺じゃないと信じ込ませる事ができても、お前の頭の中にある十五年前の記憶までは誤魔化せないよな」
 春人は、純香の顔を見つめながら、一言一言ゆっくりと言葉を発した。
「染谷さんたちを殺したのも、お兄ちゃんなの?」
 純香は、少しばかりの緊張と恐怖のため、そう尋ねる声は少し震えていた。
「今更嘘をついてもしょうがないからな。……ああ、そう。俺が殺したよ」
「どうして!?」
 なんとなく解っていた事とはいえ、実際に兄の口から肯定の言葉が出てくると、純香はたまらなくなり、泣き叫ぶようにしていった。
「お前には、関係のない事だ」
「昨夜、私にあんな事をしたのは何故!?」
「それは、簡単な事さ。お前が久しぶりにこの家に帰って来た事によって、お前が忘れていた記憶が甦りそうだったからな。自分でもそう言ってたろう? だから、お前をここから早く追い出したかったのさ。まぁ、でも、かえってそれが裏目に出てしまったみたいだけど」
 春人は、平然と言い放してみせる。
「そんな……、酷すぎるよ」
 あまりのショックに、純香はついに泣き出す。
「おいおい、何も泣く事はないだろう。ただ少し脅かしただけじゃないか」
 そういう兄の言葉一言一言が、純香には、冷酷な響きを宿しているように聞こえた。
…お兄ちゃんじゃない。目の前にいるのは、私のお兄ちゃんじゃない!
 純香は必死でそう思い込もうとしたが、それは無理な事であった。目の前にいるのは、紛れもなく自分と血のつながった実の兄なのである。
「自首して……。今なら遅くないでしょう?」
 震える声で純香はそう訴えたが、その言葉は春人を怒らせたようだった。春人はいきなりテーブルを力強く拳で叩くと、
「冗談じゃない、なにが自首しろだ!」
 と怒鳴り、立ち上がった。
「いいか純香、よく聞け! 親父とお袋を殺したのは、お前のためでもあったんだぞ!」
…私のため?
 何の事か、純香には解らなかった。一体、兄はなにを言っているのであろうか。
 刹那、五郎の吠え声が玄関先で聞こえてきた。そして、インターホンの音……。
「すいません、北野さん。昨日お尋ねした新藤です!」
 そんな声が聞こえてきて、再びインターホンの音。
…新藤? 昨日の刑事さんだ。
 純香はとっさに立ち上がる。
「純香、どこに行くんだ!」
 春人は、純香の腕を慌てて掴む。
「決まってるでしょう、刑事さんに全部話すのよ」
 純香がそういうと、春人はチッと舌打ちをして、テーブルに置かれてあった小型の果物ナイフを取り上げ、それを純香の首筋に当てると、左手で口を封じた。
「きゃぁ……!」
 と純香は小さな悲鳴を上げたが、それはすぐに春人の手でふさがれる。
…これは……!
 純香は、突然眩暈を覚えた。この状況は、十五年前のあの時と似ている……。
…ああっ。

 純香の記憶がフラッシュバックする。
 そう、紛れもなく十五年前のときも今回も、仰ぎ見た顔は……、兄の春人であった。


<2>

「ちょっと冴子さん、どこ行くンすか?」
 早足で進む新藤冴子のあとを、糸永慎二はしつこくついてきて、何度もそう尋ねてくる。はじめのほうは、まったく無視していた冴子であったが段々と糸永が鬱陶しくなってきたので、急に立ち止まり糸永のほうを振り返った。
「昨日、職務怠慢を犯したあなたには解らない事よ!」
「職務怠慢って、またまたオーバーなんだから。そんな意地悪なこといわないで、僕にも教えてくださいよ」
 糸永は、悪びれることなく、あっけらかんと言うが、その態度が冴子には腹ただしい。
「昨日、北野さんのところで質問をしていたとき、変な突っ掛かりがあったのを思い出したのよ」
「突っ掛かりって、なんなんすか?」
「だから、あなたはあの時、犬が怖くて逃げ出していたでしょう!」
 糸永は、わざとらしくギクリと言って、短く刈った髪の毛を撫ぜる。
「ま、まぁ、それはそれとして、僕にも教えてくださいよ」
 冴子は呆れたふうに溜め息をつくが、一度肩をすくめると、渋々糸永に話すことにした。
「北野家の隣家の亮二って子が、十五年前の事件の一部を目撃していた、って事は会議でも話したでしょう? 昨日、その事を北野さんたちのも話したのよ。勿論、目撃者の名前は伏せてね。……そう、私はあの時こんなふうに言ったの、『十五年前の事件当時、この家から染谷たちが出て行くのを目撃した人がいるんです』てな具合にね。それに対して彼は……北野春人はこんな事を言ったわ。『確かにいつもは閉めている裏口の鍵は開けてましたけど……』てね。……なんだかおかしいとは思わない?」
 冴子は糸永に尋ねた。しかし、糸永は不思議そうな表情で首を傾けるだけである。
 冴子は溜め息をつくと、あきらめたように再び歩き出しながら、糸永に解答を教える。
「いい。私は、この家から染谷たちが出て行くのを見た、としか言ってないの。一言も『裏口から出て行った』なんて言ってない。なのにどうして、春人は裏口から出て行った事を知っていたのかしら? 普通なら、目撃者もいるって言ってるんだから、正面玄関から出て行った思うのが当然のはずだわ。それなのに、彼は何の躊躇いもなく《裏口》という発想に至った。つまり、春人は十五年前、事件現場にいた、ってことにならないかしら。彼は、《染谷たちが裏口から出て行くのを目撃》しているのよ」
 冴子が一気にそうまくし立てると、糸永はうーんと唸る。
「確かに、おかしいといえばおかしいっすね。そうすると、どうなるんすか?」
「簡単な事よ。容疑者が一人増えるだけ」
 すると糸永は、あからさまに驚いた顔をする。
「ええっ、北野春人が自分の両親を殺した!? そんなことが……。だって、彼は事件の第一発見者ですよ。自分で殺しておいて、自ら警察に電話したっていうんすか?」
「そうよ、何かおかしいかしら。当時、春人は中学三年生。つまり十五歳ね。吉行犯人説よりかよっぽど説得力があるわ。最初からそう考えていればよかったのよ。第一発見者になれば、自らが容疑者からはずれる心理的な盲点となる」
「ち、ちょっと、まだ彼が犯人と決まったわけじゃ……」
「解ってるわよ。だから、今からカマ掛けに行くんじゃない」
「ああ、なるほど」
 糸永はようやく納得したようで、一人うんうんとうなずいている。
「もし、本当に春人が犯人なら、なかなかに頭の切れる人間よ。少なくとも、あなたよりはね。……第一発見者になりすまして、自分の容疑を薄くする。そして、あたかも悲しそうに両親の血塗れの死体を抱きかかえて、自分についた《返り血》を誤魔化す……。中学生にしては中々のものよ」
「返り血? ああ、そうっすよね。あれだけ被害者を滅多刺しにしてるんだから、犯人は返り血を浴びてるはずっすよね。……はあ、なるほど、そうやって返り血を誤魔化す手もありますね。そうすれば変な小細工はいらなくなるか」
 糸永は、再び感心したようにうなずいた。

 冴子と糸永が、北野家の前についた頃には時刻は既に午後の九時を廻っていた。
 いまだどこからともなく、笛や太鼓の音はかすかに聞こえてきていたが、それ以外は閑散としていて、不気味なほど静まり返っていた。
「さあ、糸永君どうするの? あなたの苦手なワンちゃんは、相変わらずの様子で番をしているみたいよ」
 冴子は、鉄門越しに見える犬小屋を指差しながら、悪戯な笑みを浮かべる。番犬は、既に冴子たちに気づいているらしく、態勢を低くして、こちらを痛ましいほど睨みつけているようだった。
「な、なに言ってるんすか。今度はへ、平気っスヨ」
 口ごもりながらそういう糸永の表情は、暗闇にまぎれてよくは確認できないが、その表情がありありと引きつっているのは安易に想像できた。
「あらあら、そんなに無理しなくていいのに」
 そういって、冴子は鉄門に手を掛ける。その途端に番犬はけたたましい吠え声を上げた。
 ひっぃ、と糸永は悲鳴を上げたが、冴子は構うことなく玄関の前まで進んでいく。
 インターホンを押す。そして、少し糸永の様子を見るために振り返ったが、どうやら鉄門の前でいまだびくびくしているらしい。番犬は、そんな糸永をからかうかのように吠え続けている。
「すいません、北野さん。昨日お尋ねした新藤です!」
 冴子は玄関越しに呼びかけた。しかし、応答がない。
…留守かしら?
 その時、家の奥で何か物音が聞こえたような気がした。
 冴子はもう一度インターホンを押す。
 刹那、かすかだったが、悲鳴のようなものが冴子の耳に届いた。はっとして、冴子は再び糸永のほうへ振り返る。
「糸永君、今悲鳴が聞こえなかった?」
「はぁ、この犬がうるさくって、ぜんぜん聞こえません」
 どうやら、糸永はまったく使えないらしい。今頃気づいたわけではなかったが、冴子は大きく溜め息をついた。
「北野さん、いらっしゃるんですか?」
 冴子は気を取り直して、もう一度インターホンを押す。
 やはり返答はない。
 仕方なく、今度は玄関に手を掛けてみる。
…開いてる。
 鍵は掛かっていなかった。
「すいません、誰かいませんか?」
 玄関を開け、部屋の奥を覗いてみる。明るい。どうやら電気はついているようだ。
 冴子は耳を澄ます。
 ガタッ。
 一瞬だったが、物音がした。
…やっぱり、誰かいる。
「糸永君、行くわよ」
 三度糸永のほうを振り返り、冴子は言った。
「行くって……、家の中に入るんすか? それって、不法侵入じゃ……。だって、誰もいないんでしょ?」
「それじゃあ、そこにいればいいわ」
「わ、解りましたよ、今そっちに行きますから」
 糸永は今にも泣き出しそうな顔で、暫くは吠える犬の様子を見ていたが、意を決したように目を瞑ると、冴子のそばまで全速力で駆け寄ってきた。
 糸永が玄関口に入ると、冴子は扉を静かに閉めた。それと同時に、犬の鳴き声もやむ。
「は、はははっ……、見ました冴子さん? あんな犬なんか、僕へっちゃらっすよ!」
「静かにして」
 冴子は、自分の口に人差し指を当てると糸永を黙らせた。
「誰かいるんすか……?」
 糸永が小声で尋ねてくる。
 ギシィ。
 かすかに床のきしむ音。
…やっぱり誰かがいる。息を潜めて……。
 冴子は少し緊張しながら、髪をかきあげた。
 糸永のほうも、どうやらその気配に気づいたらしく、少し表情がこわばる。
「誰もいないんですか!? お邪魔しますよ」
 冴子は、今一度部屋の奥に声を掛けると、靴を脱ぎ、玄関を上がった。糸永もそれに続く。
 どうやら、電気がついている部屋は一部屋らしく、冴子たちは足音を忍ばせながらその部屋へ向かう。
「僕が先に部屋を覗いて見ますよ」
 糸永が小声で冴子に伝えると、糸永は冴子の前方に踏み出た。
「気をつけなさいよ」
 冴子は言うと、いったん糸永の背後まで退く。糸永はその言葉にうなずくと、ゆっくり部屋を覗いた。
「あれっ、冴子さん。やっぱり誰もいません……」
 部屋を覗き、冴子のほうを振り返った糸永が言う。
 そのときである、壁の陰から人影が突然現れ、糸永の背後に立った。恐らく、冴子たちの立つ場所からは、死角になるところに身を潜めていたのだろう。
「糸永君、うしろ!」
 冴子の声にはっとして、糸永が人影のほうに振り返ったその刹那、人影は糸永の体に体当たりをしてきた。しかし、糸永の身体はふきとばず、その場で男の体を受け止めている。
…体当たりじゃない?
 冴子がそう思った瞬間、糸永の両膝がガクリと折れた。
「あ、あ、あれ?」
 床に少しずつ広がっていく血液。糸永は、床に突っ伏したまま、それを不思議そうに見ている。
「さ、冴子さん、血が、僕のお腹から血が出てますよ……。痛い……、痛いです……。……救急車を……」
 傷口を押さえながら、糸永は震える声でそういうと、その場に完全に倒れ伏した。
「糸永君!!」
 冴子はとっさに腰から拳銃を抜き出すと、人影に向かって銃口を向けた。
「チッ、一人じゃなかったのか」
 男は血に塗れたナイフを握りなおし、冴子のほうへ向き直る。
「あなたは、北野春人……。やっぱりあなただったのね」
 冴子は銃口を向けたまま、呟くように言う。
「ああ、ついてないなぁ、刑事さんまで来るんだもん。タイミング悪すぎ」
 北野春人は、薄笑いを浮かべながらナイフを弄ぶ。
「お兄ちゃん……?」
 不意に、春人のうしろにもう一人現れた。春人の妹の純香だ。純香は倒れた糸永の姿を認めると、小さな悲鳴を上げた。
「まさか、お兄ちゃん……!早く救急車呼ばないと!」
「動くな!」
 電話のほうへ向かおうとする純香の髪を引っ張り、春人は自分のもとへ寄せ、妹の首筋にナイフを突きつけた。
「きゃぁ!」
 悲鳴が上がると、冴子は引き金にあてた指に力をこめた。
「おっと、女刑事さん。そのまま引き金を引くと、俺の可愛い妹に当たるかもしれないぜ。それとも、射撃には自信があるのかな?」
「そのこを放しなさい。あなたの妹でしょう? 本気で殺すつもり? もしそうならば、無意味な事よ。あなたの罪が増えるだけ」
「なんだい、なんだか俺の事をよく知ってるふうな言い方だな。昨日一度会っただけなのに」
「あら、あなたはその一度で、私にぼろを出しちゃったのよ。……あの時、誰も裏口から染谷たちが出ていった、なんて言ってないのに、あなたはあたかも知っていたような発言をしたわ」
 冴子も、冷静に相手の様子を窺う。
「あれ、そうだったかな? よく憶えていない」
 春人はあっけらかんと言うと、いったんナイフを、純香の首筋から離した。そして、一度大きく息を吐く。
「はっぁー。大体さぁ、あんたら刑事は生きてもいないはずの吉行が犯人だって睨んでたんじゃないの? 昨日、そんなこと言ってたじゃん。俺、あの時、あんたらの勝手な思い違いで、自分の身(たちば)がますますよくなった、って心中思ってたのに」
「どうやら、自分の弟が既に生存してない事を知ってるようね。やっぱりあなたは十五年前、あの事件現場にいたのね」
「今更違う、なんていっても、もう刑事さんを一人刺しちゃったしな。……そうだよ。その場にいたって言うか、俺が殺したんだ」
 春人は、半ば開き直ってる様子でそういった。しかしその目は依然、狂気が宿ったかのように血走っている。
「どうして、自分の両親を?」
 冴子は言いながら、純香の様子を盗み見る。肩を小刻みに震わせて涙を流しているが、それが恐怖のためか、絶望のためかは、今の冴子の知る由ではない。
「そんなこと、刑事さんには関係ない。黙秘権ってやつだ」
「両親の不仲のせい、じゃないの?」
 冴子がそういうと、春人が一瞬、体を硬直させた。
「うるさい、黙れ!」
 春人は、少し激高してそう叫ぶ。
「染谷たち三人を殺したのも、あなたね?」
「あいつらは、復讐だよ。弟の仇だ!」
「あら、復讐だなんて、そんな格好のいいものかしら」
 冴子は、わざと揶揄してそういった。
「なんだと!?」
「あなたは、十五年前の事で染谷に脅迫された。それで染谷を殺した。それで怯えをなしたあなたは、十五年前の事件を知ってるほかの二人、青木と穴井も殺害した。……動機はそんなもんじゃないの?」
 春人の顔色が変わる。
「は、ははっ、あんた、中々頭がいいみたいだな。そこらにいる馬鹿な警察とは違うみたいだ。でもよ、すぐにその口をふさいでやる! ……あんたに何が解るって言うんだ」
 春人はそういうと、再び純香の首筋にナイフの切っ先を当てた。純香は小さな悲鳴を上げる。
「刑事さん、早くその拳銃をしまえよ。こいつを殺すぞ!」
「あなたが、妹さんを解放するなら考えてもいいわ。私もできれば、こんな物騒なもの使いたくないの。ハリウッド映画みたいに、簡単に銃は撃てないのよ。あとで始末書やら報告書とかでめんどくさくなっちゃうのよ。……大体、これからどうするつもりなの? 妹さんを殺して、私も殺して逃げるつもり? 日本の警察は、あなたが思ってるほど無能じゃないわ。だから、どこに逃げても無駄よ。あなたにはもう、逃げ場が無いの……」
 その時、春人の後方のドア(恐らく、あれが裏口だろう)が、わずかに開いた。そこから誰かが静かに入ってくる。どうやら春人は、それには気づかないらしく、血走った目で冴子を睨み続けている。
…あれは?
 裏口から入ってきたその人物は、右手になにやら太い棒のようなものを持っていた。冴子はその人物が誰か解ったとき、不意に拳銃を床に置いた。
 春人は、そんな冴子の行動に、一瞬不意を突かれたような表情をしたが、やがてにやりと笑う。
「はん、やっと観念したのか?」
 そういう春人を見て、冴子もにやりと笑う。
「そうね。……でも、あなたの負けみたいよ」
「なんだと!?」
 春人が訝しげな顔をしたその直後、裏口から入ってきた人物が春人の後頭部を、持っていた棒で思いっきり殴りつけた。
 鈍い音が響いた。ぐっわ、と春人が悲鳴を上げながら、前のめりに倒れる。純香も、突然の事に悲鳴を上げる。
 冴子はその瞬間を見逃さなかった。素早く春人のそばへ駆け寄り、腕を後ろ背に締め上げると、すかさず手錠を掛けた。
 春人は、暫く痛みに耐えながらもそれに抵抗していたが、やがて観念したように肩を落とし、ぐったりとうな垂れる。
 冴子は大きく溜め息をつくと、侵入者の顔を見て、
「よくこんな事になってるって解ったわね」
 と、首を傾げた。
「あれだけ騒いでりゃ、普通気づくだろう。俺の家は、すぐ隣なんだぜ」
 侵入者……吉良亮二は、持っていた棒を冴子に手渡しながらいう。その棒のようなものは、木刀などではなく、錆びて古くなった金属バットであった。
「こんなもので、本気で殴ったの?」
「ああ」
 亮二は、悪びれることなくうなずく。
「……痛そうね」
 冴子は肩をすくめると、床に倒れている糸永の様子を見た。
「糸永君、生きてるの?」
 冴子は言いながら、糸永の頬を叩く。最初は何の反応もなかったが、ややあって糸永の腫れぼったい目がゆっくり開いた。
「ああ、母ちゃん。どうして味噌汁の中に、パイナップル入れるのさ……」
 糸永は訳の解らぬ事を呟くと、再び目を閉じた。しかし、小さな寝息をたてている。どうやら腹部の刺し傷は、思ったよりも浅いようだ。今だ出血はしているものの、ごく少量だ。
「救急車と警察を呼んで」
 純香は自失呆然としていて、何を言っても無駄な様子だったので、冴子は亮二にそう頼んだ。
 亮二がうなずき、電話のほうへ向かった頃、冴子は今一度手錠を掛けられ、うずくまっている春人を見下ろした。

 北野春人は、声を上げて泣いていた……。


                  ※※※

 学校の帰り道。北野春人は憂鬱だった。
 春人は、中学三年生である。もうすぐで高校受験だ。だから学校へ行けば、必ずといっていいほど進学の話が出るのである。春人は、それがたまらなく嫌だった。
…自分の進路が、まだ決まっていないから。
 確かにそれもあった。自分は何がしたいのか、どこの高校へ行きたいのか、それとも働きたいのか……。まったくといっていいほど、自分自身の進路が定まっていなかった。それに対する自己嫌悪。
 しかし、それだけではない。教師や親の言葉。勿論、彼らは否応なしに高校へ行く事を勧めた。春人が何故か、と問うと、それは決まって春人の胸を悪くするような返答ばかりであった。

『いまどき、高校も出てないでどうするのよ。常識でしょう』
『高校ぐらい出てないと、まともな職に就けないぞ』
『みんな高校へ行くのよ』

 まったくもって、春人の意志を尊重するような返答ではなかった。確かに、春人自身、意志などというものは持っていなかったが、もう少し別な言い方があってもいいものだと思う。何故か大人たちは、常識や世間体で自分の考えを子供に押し付ける。皆が高校に行くからあなたも行きなさい、などという言葉は、はっきりいって春人には理解できなかった。そんな事を言うのならば、皆が死ねば子供にも死ねというのだろうか。そういうふうに反論すると、親や教師に『屁理屈だ』、と言われて簡単に受け流されてしまう。無論、親や教師は、春人の将来の事を考えて言ってくれてるのであろうが、自分の将来が明確ではない春人には、ただただ虫酸が走るような言葉でしかなかった。
 だから春人は、あまり大人たちの言葉には耳を貸さなかった。別にひねくれていたわけではないし、世間で言う『不良』でもなかった。ただ、うわべだけは良く聞いてるような振りをして、実際は上の空だったのである。今の春人にとって、大人という生き物は、今だ理解できない生き物であった。
 それでも春人は、最近になってようやく高校へ行こうと決心した。親のためではない、教師のためでもない。自分のためだ。自分のやるべき事がわからないから、高校へいってそれを探そう。春人はそう思う事にしたのだ。勿論、高校へ行ってそれが見つかる保証などなかったが、それでも今はいいと思っている。見つからなければ、自分はただ無気力に生きるだけだ。無気力であれば、やがて生きる意味を失ってしまうだろう。そうなると人間はどうなるのだろうか……。
…自殺。
 春人は一瞬、自分の将来が垣間見えたような気がして、首を振った。
 そんな事を考えながら歩いていると、やがて自分の家の前までついた。夏祭りのため、周りの家の人間たちは、ほとんど広場のほうへ行っている。そのためだろうか、やけにしんとしていて、鉄門を開けるときの軋み音が酷く大きく聞こえた。
 玄関を開け、家の中にはいる。そのとたんに、両親の罵声が春人の耳に届いてきた。
…またか……。
 夫婦喧嘩はいつもの事だ。何の理由でそんな大声を上げ、物を投げつけあったりするのか、春人にはまったく解らなかった。否、解りたくもない。人前では必要以上にニコニコしている両親も、一度二人きりになるといがみ合いの表情になり、一言も口を利かなくなる。否、二人だけのときに喧嘩をするなら、別に春人もこれほど頭を抱える事はなかったであろう。しかし、春人の両親は、子供の前でも平気で大喧嘩をしていた。妹の純香と弟の吉行はそんな親の姿を見て泣き喚き、最後には決まって母親が泣き出す。そしてあとに残るのは、割れた皿やコップ、戻ることのない夫婦の溝だけである。子供たちは心を傷つけられ、それを慰めるのは、いつも春人だった。
 それほどまでに仲が悪く、顔を見るのも嫌ならば、いっそうのこと別れてしまえばいいのに、と春人は思うのだが、それも親権やら慰謝料などという、今の春人にはよく解らない問題が出てくる。
…でも、結局は世間体だ。
 春人はそう思う。両親は、何よりも世間体を気にする人間だった。だが、春人にとって、世間体などというものは、くだらぬ迷いごとのようにしか思えなかったのである。
…そんなことのために、俺たちを平気で傷つけて!
 気づくと、春人はダイニングルームのほうへ駆け上がっていた。
(いい加減にしないか!)
 父親が、母親に向かって皿を投げつけていた。
 皿の割れる音が、家内に響く。
(あなたこそ、よく人のことが言えるわね!)
 母親は泣き叫びながら、父親に向かって両手を振り回している。
…どうして、どうしていつもこうなんだ……。
 学校で募る憂鬱のせいか、それともあまりにも無神経な両親のせいか、急に春人の頭の中は真っ白になり、涙がとめどなく流れてきた。
(やめろよ!)
 春人は、キッチンに置いてあったナイフを取り、両親の間に割って入った。それからあとの事は、よく憶えてはいない。とりあえず、二人を黙らせようとして、両親に向かってナイフを振り上げた。
 まず父親……。抵抗されると、春人の力ではかなわないので、不意をついて胸の辺りにナイフを突き刺した。すると父親は、あっけないほどに驚愕の表情を残したまま倒れた。
 次に母親……。悲鳴を上げられたりすると、うるさくてしょうがない。間を置かず、すぐに母親の胸も刺す。やはり母親のほうも、あっけなく倒れる。
 しかし、もし起き上がってきたら……。そんな不安が春人の心を覆った。
…確実に起き上がれなくしないと!
 倒れた両親の体にまたがり、何度も何度もナイフを突き立てた。床に広がる鮮血。自分の体にも血飛沫が飛んでくる。
 気がつくと、春人の周りには血の海ができていた。眼下には血に染まった肉の塊……。それは、春人の両親の体であった。
…ああ……。
 両親の血液と脂でぬるぬるする自分の手で、春人は一度顔をぬぐうと、ようやく正気を取り戻した。
…死んだ……、俺が殺した。
 そう思った途端、再び涙が溢れてきた。しかし、その涙がなんのために出てくるのか、春人自身よく解らなかった。別に悲しいわけではなかったし、後悔もなかった。かといって、ある種の達成感による喜びでもなかった。ただすべてが虚しい……、そんな感じであった。
 不意に視線を感じた。春人は後ろを振り返る。
 そこには、幼い妹の純香が、がたがたと震えて座り込んでいた。
…妹は、これからどうなるんだろう。
 自分で両親を殺しておきながら、そんな無責任な考えが頭に浮かぶ。
…殺してやるか……。
 そう思った。自分は警察に捕まる。そうすれば、妹も行き場をなくしてしまうのだ。それならいっそうの事、死なせてやったほうが妹のためだ。
 春人は妹に近づいていった。純香はそんな春人を、恐怖の目で捉え、身動きせずにただじっと座っているだけであった。
 しかし……、妹を殺す事は、春人にはできなかった。何故かは解らない。ただ、妹の体が小さかった。妹はまだ何もしらなすぎる。そして、妹が何より可愛かった。無抵抗な幼い純香を殺す事など、春人には到底できなかったのである。今、家にはいないが、弟の吉行にしても同じだ。何より可愛い。きっと両親に殺意を抱いたのも、妹と弟のためだったのだ。二人の心を平気で傷つける両親が許せなかったのだ。
…そうだ、高校など行かず働けばいいんだ。そうして金をもらって、俺が二人を養うんだ。
 そんな考えが春人の頭に浮かぶと、急に生き甲斐ができたような気がして、無気力だった自分の意志に光が差したような気がした。
…そのためには。
 この場を何とかして誤魔化すしかない。警察に捕まるわけにはいかないのだ。幸いにも、近所の者たちは夏祭りのため、近隣にはいないはずである。恐らくこの異変に気づいてるものなどいないだろう。自分が警察に電話して、現場の第一発見者の振りをすれば……。まさか、息子が自分の両親を殺したなど、中々思われないであろう。体に浴びた返り血は、両親の体を抱きかかえて、さも悲しそうに振舞っていれば誤魔化せるだろう。
 その時、不意に玄関の開く音がした。
…誰か来た!?
 春人は咄嗟に妹の口を右手で封じると、壁の陰に身を潜めた。
(ただいまぁ)
 そんな声が家内に響く。どうやら弟の吉行が帰ってきたようである。春人は少し安堵して、肩の力を抜いた。
 吉行がダイニングルームのほうへ来ると、弟はその光景にずいぶんと衝撃を受けたらしく、暫く呆然としていた。無理もないだろう。彼はまだ幼い幼稚園児にすぎないのだ。大の大人でも、こんな場面に遭遇したのなら、気が動転して自失呆然とするだろう。
 春人は、大声で弟に泣かれるとまずいな、と思い、泣き震えている妹の純香をいったん解放し、吉行の前に姿を現した。
 弟は、血に塗れたそんな兄の姿を見て、一瞬体をぴくりと震わせ声を発した。しかし、それは悲鳴であった。
(ひゃっあ!)
 刹那、再び玄関の開く音。
…くそうっ!
 春人は慌てて身を隠すが、ナイフを取り落としてしまう。
 弟は、その落ちたナイフを拾い上げる。
 どたどた、と廊下を駆け寄ってくる音。一人ではない。複数の足音だ。
…あれは?
 春人は、壁の陰に隠れながら、家に上がってきたものたちを確認した。
…染谷俊彦、青木祐介、穴井圭造……。
 春人は一瞬絶望した。ここら近辺では有名な悪がき三人組だ。今すぐにでも大声を上げながら外へ飛び出して、この現状を廻りに言いふらすのであろう。
 しかし、春人の予想は大いにはずれる事となる。悪がき三人組はナイフを握っていた弟の吉行を犯人だと思い込んで、混乱している吉行に詰め寄っている。
 吉行と悪がき三人組は、なにやら激しい議論を撒き散らしたあと、裏口のほうから森の方へと駆けていった。
 春人は一瞬逡巡したが、妹の純香に一応口止めしておいてから、自分も四人のあとを追って出て行った。
 暫くは、四人に気づかれないようにゆっくりとあとをつけていたのだが、悪がき三人は執拗に吉行を追い詰めていたようなので、春人もだんだんと腹が立ってきた。
…弟は関係ない!
 何度もそういって、木陰から飛び出そうとしたが、そうすれば自分の人生は無茶苦茶になってしまう。
 春人は周りを見渡した。こんなところに人がいるわけもない。
…悪がきどもも殺すか。たかが小学生三人ではないか。足元に転がってる石で、頭でも殴れば簡単に殺す事ができるだろう。
 そう考えてた刹那、異変が起きた。吉行が視界から消えたのである。否、消えたのではない、どこかの穴に落ち込んだのだ。悪がき三人の顔色が、あからさまに変わるのが春人のところからもよく確認できた。
…何が起きたんだ!?
 すぐにでも飛び出していきたい気持ちを必死で抑え、春人はじっと息を殺し様子を窺っていた。
 やがて、穴井が、青木が、染谷が、それぞれに怯えた様子で、そこから逃げ出していった。
 三人が完全に姿を消すのを待って、春人は木陰から飛び出した。
(吉行!)
 名前を叫び、そこに駆け寄る。
 そこにはポッカリと穴が開いていた。
 その穴の底でうずくまる、血塗れの弟の姿。
 吉行は、死んでいた……。

…なんで、なんでこんなことに!
 涙が出てきた。
…俺が悪いのか?
 そう、自分がすぐにでも飛び出していれば……。
…警察に……。
 春人は首を横に振った。この事を警察に報せれば、自分の立場が不利になってしまう。
…俺にはまだ、妹がいるんだ。
 春人は、その場で両膝をついた。
…あの悪ガキどもめ、いつか懲らしめてやる!
 そう誓うと、春人は立ち上がった。自分はこれから冷静に警察に対応しなければならない。自分が疑われないためにも、この事は胸にしまっておくべきだろう。もし、あの三人が何か言ってきたならば、知らなかったとでも言えばいい。家に帰り着いたら、両親は既に死んでいたんだ……と。
…弟は、あいつらに殺されたんだ!

『翼を……僕の翼を返しておくれ』

 三人に追い詰められながらも、弟の言っていたその言葉が、酷く脳裏に焼きついていた。
 春人は、そして自宅のほうへゆっくりと引き返していった。
 

エピローグ

<1>

…この部屋ね。
 新藤冴子は、その病室の前で立ち止まると、一度ノックしてからドアを開けた。
 部屋の中は割合に狭く、それでも一応個室であるようだった。部屋の隅に置かれた質素なパイプベットに男が一人、いびきをかいて寝ている。あれが糸永慎二だ。冴子は一瞬起こすまいと一応気遣ったのだが、よだれをたらしながらいびきをかいている糸永を見ていると、段々腹が立ってきた。気づくと冴子は、手に持っていたハンドバックで、糸永の頭を殴っていた。
「アイデッ!……ああ、看護婦さん? やっと僕に電話番号教える気になったんすか」
「なに寝ぼけてんのよ」
 冴子はもう一度、糸永の頭を殴る。
「アイタッ……、あれ、冴子さんじゃないっすか。お見舞いに来てくれたんすね。やっぱり僕の事が心配だったんだぁ」
 どうも糸永のこんな態度を見ていると、到底けが人とは思えない。冴子はもう一度、頭を殴ってやろうかとも考えたが、気を静めてベットのそばにあった椅子に腰掛けた。
「まったく、人がこのくそ暑い日に仕事してるっていうのに、あなたはクーラーの効いた部屋でお昼寝?」
 冴子が皮肉を言うと、糸永はスポーツ刈りの頭をなぜながら、
「はははっ、一応けが人なもんで」
 と、何故か誇張した。
 冴子は大きく溜め息をつく。
「それで、どうなの怪我の具合は?」
「ええ、大丈夫っスヨ。傷口もほとんど塞がったし。それに、ここの病院の看護婦さんは、皆綺麗で優しいし……。どこかの誰かさんとは違って……」
「何か言った? 傷口広げられたいの? 三途の川を見せてあげようか?」
「あ、い、否……、たまには入院もいいかなぁ、って……」
「そう思うなら、一生入院してなさい。そのほうが世の中のためよ」
 冴子は肩をすくめ、病院の天井を見上げながらそう言った。

 例の事件が、思いもよらぬ結末を迎えてから、早一週間経つ。その間にも、冴子は報告書やらの事件の後始末に追われて、最近はゆっくりとした時間を持てないでいた。今日、こうして糸永の病室に訪れたのも、別に時間が余っていたわけではない。ただ、一応事件にかかわった者として、糸永にもその後の事件の展開を教えてやるべきだと思ったからである。だからこうして、忙しい時間を割いてここに来たのだ。
「それで、その後はどうなんです?」
 案の定、糸永は少し真面目な顔つきになって、冴子に聞いてきた。
「ええ。北野春人は十五年前の事件も、今回の事件も全面的に犯行を認めたわ。ほとんど私の推測どうりだった……。北野春人は十五年前に両親を殺害し、その事で染谷俊彦に脅迫され、彼も殺した」
 糸永は一度うなずいて、それから少し首を傾げる。
「冴子さん、どうして染谷は今頃になって、そんな脅迫をしたんですかね?」
「前にも言ったけど、染谷はずいぶんと借金を抱え込んでいて、お金に困っていたのよ。そんな時、ふとその事件の事を思い出したようね」
「という事は、春人が両親を殺害した現場を、殺された三人は目撃したんすね。でも、どうしてその時すぐに警察に報せなかったんでしょうか?」
 冴子は首を横に振る。
「そうじゃないのよ。殺された三人は、直接春人が両親を殺害する現場を見たわけじゃないの。みたのは、その《直後》よ。春人はそのとき物陰に隠れていて、姿は見られていないはずだ、って供述してる」
「それにしたって一緒じゃないっすか。人が血だらけで倒れてるんすよ。いくら当時小学生だからって、それくらいの常識はあったでしょう」
 糸永に言われて、冴子は髪をかきあげる。
「そこなのよね。この事件が奇妙な具合になったのは」
「どういうことっすか?」
「その現場にね、たまたま幼稚園から帰ってきた吉行がいたのよ。殺された三人は、その現場で北野吉行を目撃したわけ」
「あっ、そうか! 染谷たちは、吉行をその現場の犯人と思い込んでしまったわけか」
 糸永は、パチンと指を鳴らす。
「そうなの。だけど、吉行は事件には何も関係なかったのよ。彼が帰ってきたのは、やっぱり春人が両親を殺害した直後だったわけだけども、三人はそんな事を知るわけもなく、吉行を犯人だと決め付けて、彼を追いまわした」
「ははん、隣家の吉良亮二が目撃したのは、ちょうどその場面なんすね」
「まぁ、そうなるわね。裏口から逃げる北野吉行。それを追う三人組……。春人も、そのあとを気づかれないように追ったそうよ……」
 冴子は呟くように言うと、一度足を組みなおす。
「……三人に追い詰められた吉行は、その途中であの森にあった穴に落ちて死んでしまった。勿論、これは事故になるんでしょうけど、三人は罪悪感にさいなまれ、何も無かったことにしたのよ。そう、三人だけの秘密……。だけど、北野春人は、その様子をじっと陰に隠れてみていた。ここで自分が出て行けば、両親を殺害した事がばれてしまうかもしれない……。春人はそう思ったそうよ」
「なるほど、そういうわけだったんすか……」
 糸永は言って、右手で少しだけ伸びたひげをさする。
「……しかし、染谷俊彦は、いつ北野春人が真犯人だってことを突き止めたんすかね?」
「春人が言うには、多分、吉行が穴に落ちた直後だろう、って事なの。吉行は即死ではなかったから、自分の意識が薄れていく前に、兄の名を言ったのかもしれないわね」
「そうなんですか……」
 糸永は、なんとも言いがたい表情でうなずくと、今度は前よりも少し伸びた髪の毛を撫ぜた。
「まあ、大体こんなところかしらね。何か他に聞きたいことがあるかしら?」
 冴子は椅子からゆっくりと腰を上げて、糸永に尋ねた。
「ねぇ、冴子さん。春人にとって、吉行の死は好都合なものだったんでしょうか? 事実、警察はその事に目を奪われていたわけだし、そのおかげで春人の身も少なくは安全になった。でもですよ、吉行は実の弟なんでしょう? いくら吉行の死は事故だって言っても、春人にとっては三人に弟を殺されたようなもんですよね。僕は、春人が三人を殺したのは、どうもそういうことも含まれているような気がするんです。復讐っていうか……、そんなものもあったんじゃないんすかね」
「確かにそうね。実際、あなたは気を失っていたから知らないでしょうけども、春人は確かにそんな事も言ってたわ。でもね、春人は徳永って言う関係のない人間まで殺してるのよ。ましてや、自分の妹までも手にかけようとした……。まぁ、あの男は妹を殺せなかったでしょうけどね。……でもね、どんな事が過去にあろうと、復讐なんて言葉は、何の言い訳にもならないわ。罪は罪なのよ」
 一瞬、冴子は罪とはなんだろう? と自分の言葉に疑問した。しかし、それはすぐに冴子の思考から消える。自分は刑事なのだ。そんな事にいちいち疑問を感じていては仕事など勤まろうはずがない。
「両親殺害の動機は、なんなんです?」
 糸永が、不意に尋ねてきた。
「動機……」
 冴子は呟く。やはり、それもただのいい訳にしかすぎない。そもそも動機などというものは、捜査以外ではどうでもいいことだと思っている。人間は、もともと生き物を殺す生き物なのだ。それで食物を得たり、自分の身を守ったりして暮らしている。ただ、そういうことを正当化するために、動機というものがついてくる。殺したものが人間であれば、なおさらだ。訳もなく人を殺す人間がこの世の中を徘徊していれば、毎日が気がきではないし、自分もそうである、とは認めたくない。だからこそ、世間はいろいろな犯罪に対して強く納得できる動機を求めるのだ。それらを聞き、納得し、安心し、自分は違う、と自らを正当化する。人間とは、そういう生き物なのだ。
 冴子は髪をかきあげ、言葉を続けた。
「……両親の不仲、が動機だそうよ」
 冴子が言うと、糸永は酷く驚いた顔をした。
「それだけっすか? そんな動機で、自分の両親を殺害したって言うんですか!?」
 案の定、糸永は冴子が予想していた態度を示した。
「納得できない? どうして? 春人にとっては、それだけで十分な殺害動機になったのよ」
「しかし冴子さん、そんなものは……」
 糸永がなにか言おうとするのを、冴子は途中でさえぎった。
「糸永君、私に何をどういったところで、どうしょうもないの。現実に《それだけの動機》で、殺人事件が起こったの。あなたがそれで納得しようがしまいが、何も変わらないわ。これ以上の議論は無意味なの」
 冴子は言って、腕時計に目をやった。
「じゃ、そろそろ失礼するわ。下で双葉君を待たせているの。あまり遅くなると、また色々ぶつぶつ言われて面倒だから」
「ああ、双葉さん盲腸治ったンすね」
 糸永は苦笑いのようなものを浮かべる。
「ええ、またうるさいのと毎日行動しなきゃいけないわ。まぁ、あなたよりかは使えるけど」
「あっー、酷いっスヨ。今回、僕だって頑張ったんすから」
 糸永は、あからさまに唇をすぼめる。
「そうだったら、少しは良かったんだけどね。まぁ、早くその怪我治して、仕事に復帰する事ね」
 冴子は言って、ハンドバックを脇に抱えた。
「冴子さん……」
 糸永が冴子の名を呼ぶ。
「なに?」
「今度来るときは、フルーツの添え合わせぐらい持ってきてくださいね。だって普通、お見舞いに来たなら何か持ってきてくれるっしょ?」
 冴子は笑みを浮かべ、今一度バックで糸永の頭を殴った。


<2>

 さんさんと太陽の光が降り注いでいる。
 北野純香はバス停の前に立ち、暫くは何も考えずにただ立っていた。とても静かで和やかだ。こんな小さな村で、あのような事件が起き、そして十五年という歳月を経て、この村でその事件は幕を閉じた。
…本当に、すべて終わったのだろうか?
 ついつい考えてしまう。何も考えたくないのに、そう思えば思うほど、純香の思考はそちらの方へ進んでいく。
 正直な話、純香には未だ事件の真相に現実感が持てないでいた。
「あのさ、俺、なんていっていいのか……」
 純香の横に立っていた吉良亮二が呟く。純香が今日、都会のマンションへ帰省する事を知って、ここまで送りにきてくれたのだ。
「ううん、私は大丈夫よ。心配してくれてありがとうね、亮ちゃん」
 純香は首を横に振り、そう言葉を発した。しかし、何がどう大丈夫なのか、純香自身よくは解らなかった。自分の兄が殺人犯……。そのショックは勿論大きなものであった。当分の間、立ち直れそうにないし、世間や会社が純香をどういう目で迎えてくれるのかも不安であった。
…私は、殺人犯の妹なんだ。
 その事だけは、妙に実感があった。なんとなく気持ちが矛盾している。
「なあ、また帰ってこいよ。今度のときは、もうちょっと相手してやるからさ」
 亮二は、少し照れくさそうに突然そういって、髪の毛を軽くかいた。こんな亮二の態度は極めて珍しい。
「もしかして、私に気を使ってるの?」
 純香は微笑みながら聞いた。
「べ、別にそんなんじゃねぇけど……」
「亮ちゃん、本当にありがとう。でもね、もうここには帰ってこないと思う。なんだか、色々とありすぎて、なんていうのかなぁ……。勿論、楽しい思いでもあるけど、でもね、やっぱり気持ちの整理って言うか……。お父さんとお母さんが死んで、弟も死んで、そしてお兄ちゃんは……」
 だんだんと声が震えてくるのが自分でも解った。目頭も熱くなり、ついには涙が流れてくる。
「だから……だからね、今度ここに戻ってきたら、そんなの全部思い出しちゃって、すごく辛くなると思うんだ。それなら都会のマンションで、一人でせっせと生きていくほうが気分がまぎれて、少しでも今回の事を忘れられると思うの。そのうち、素敵な彼氏を見つけて結婚して、子供を産んで……。あっ、でも、やっぱり人殺しの兄貴の妹なんて、誰も好きになってくれないよね」
 言葉の最後のほうは、冗談交じりに言って笑うつもりだったのだが、うまくできなかった。
「そんなこというなよ。お前の兄貴は……、本当に優しい人だったぜ。そうじゃなきゃ、あんなに一生懸命働いて、お前の面倒なんて見るわけがない」
 亮二の言葉に、純香はうなずく。
「……解ってる。お兄ちゃんは本当に優しかった。少なくとも私にはね。この前だって、お兄ちゃんは本気で私を殺そうとはしてなかった。私には解るの……」
 そう思いたかった。
 純香は涙をぬぐって、空を見上げる。これ以上涙を流したくなかった。そうして、呟くように言う。
「ねぇ、優しさってなんなんだろう?」
 純香のその問いに亮二も空を見上げ、暫く間を空けたあとで、ゆっくりと答える。
「そんな事、俺にはわからねぇけど、多分、誰かを愛することが、優しさなんじゃねぇかな。ははっ、ちょっとクサイけどな。……お前の兄貴は、お前を愛してた。それが、それだけがお前に解る答えなんじゃないか」
 暫く沈黙ができた。
 不意に、純香は笑いがこみ上げてきた。堪えきれなくなって、ついには声に出して笑う。
「あははっ、亮ちゃんの言葉とはおもえないねぇ。本当にクサイクサイ。臭ってきそうだわ」
「う、うるせぇ」
 そして、亮二も笑う。
 雲ひとつない青空。目を覆いたくなるようなまぶしい太陽。
「そういえば……。亮ちゃん、警察の人にひとつだけ嘘つかなかった?」
 純香は、思い出した事を亮二に尋ねた。
「嘘? 何の事だ?」
 逆に尋ね返してくる亮二の表情は、しかしわざととぼけている様子だ。
「十五年前の事件で、警察の人にどうしてあの日亮ちゃんは祭りに行かなかったのか、て聞かれたとき、亮ちゃんは覚えてない、て答えたんでしょう? でもね、私は憶えてる。って言うか、つい最近まで忘れてたんだけど……。あの日、本当は亮ちゃんと一緒に、お祭りに行く約束してたんだよね。ちょうど亮ちゃんが初めて植えたお花が咲いた、って私に一番に見せてくれるっていてくれたんだよね。でも、私熱が出ちゃって、結局亮ちゃんとの約束守れなかった……」
 純香は少しうつむく。
 亮二は、そこで何かを言おうとしたのか、途中まで口を開きかけたが、一瞬目を瞑って、首をゆっくりと振り、息を吐いた。
「なに、どうしたの?」
 純香は亮二の顔を見る。
「い、いや、なんでもねぇよ」
「もしかして、愛の告白かなぁ? 俺はあの頃から、お前の事が好きだったんだー、なんて」
「ば、馬鹿いうなよ! な、なんで俺がお前なんかを……」
 あからさまに動揺を見せる亮二の態度がおかしくて、純香は再び笑った。
「へぇ〜、亮ちゃんって、意外と解りやすいんだ」
「ち、違う! お前、少し自意識過剰なんじゃねぇの!?」
 亮二はそう叫んで、そっぽを向いた。
 刹那、純香の目の前に、何か小さく白いものがゆっくりと舞い降りてきた。純香は慌てるように右手のひらを広げ、それを受け止める。
 小さな、鳥の羽毛だった。
「なぁ、今度は約束守れるか?」
 突然、亮二が声を発したので、純香は驚いて亮二の顔を見る。
「……俺さ、いま必死になって金貯めてる。自分の夢を叶えるためにな」
「夢?」
「ああ。俺、小さくてもいいから、このちんけな村に花屋を開きたいんだ。もう少し時間がかかりそうだけど、きっと実現させてみせる! もし……もしさ、その夢が叶ったら、お前にも教えてやるからさ……」
 亮二は、そこでいったん言葉を切った。そして、まっすぐに純香の目を見つめ、微笑む。
「……だから、またここに帰ってこいよ」
 再び、純香の目頭は熱くなり、涙がこぼれた。うまく息ができないくらい、胸が苦しかった。亮二のその言葉が、何よりもうれしかったからだ……。
 純香は涙を拭きながら、小さくうなずく。
「よし、約束な。今度は破るなよ!」
 亮二がそう叫んだと同時に、一瞬強い風が吹いた。純香の手のひらに乗っていた小さな羽根は、その風に飛ばされ、再び舞い上がる。
 純香は慌ててその羽根を目で追った。
 でもその羽根は、既に見えなくなっていた。

…さようなら。

 純香は、心の中でそう呟く。

 陽炎(かげろう)の立ち昇る向こうから、迎えのバスの姿が見えた気がしたから……。


                   《了》


2006-01-19 13:32:28公開 / 作者:九宝七音
■この作品の著作権は九宝七音さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 読んでいても退屈しない物語……。と、言うのをプロットや物語性よりも重視してこの作品に取り組んだような気がします。なにぶん私はすこぶる頭が悪いので、あまり難しいことを考えながら物を書くのが出来ない……と言うのもありますが。
 しかしながら、そう書いてしまうといかにも自己満足的な作品なのかな、と思われてしまいそうですが、読み返してみると思ったよりも、まあ他人様に見せて批評を頂けるものかもしれないと思い、今回、ここへ投稿させていただいたしだいであります。

 未熟者ですが、なにとぞ宜しくお願い致します。
この作品に対する感想 - 昇順
[簡易感想]おもしろかったです。
2006-01-19 23:53:07【☆☆☆☆☆】clown-crown
2006-01-20 01:25:10【☆☆☆☆☆】猫舌ソーセージ
すいませんミスです。とても読みやすく、長いにも関わらず不思議と飽きが来ませんでした。こんな小説も書けるようになりたいと思えました。鈍香の心情がまた私的にかなり良かったです。次回作品も期待しています。
2006-01-20 01:29:39【★★★★☆】猫舌ソーセージ
稚作品を最後まで読んでいただき、さらには読後の感想まで頂き、本当に有難うございます。この作品に関しては『面白いかった』、『一気に読めた』等の感想が何よりも嬉しく思います。
2006-01-20 14:09:30【☆☆☆☆☆】九宝七音
作品を読ませていただきました。作者コメントにあるように退屈することなく、最後まで一気に読めました。作品は良くも悪くも映像的な印象がありました。各人の視点からの情景は臨場感を生み出し良かったです。が、同時に視点が変わることによって物語の主格が不在という感じも受けました。推理的な探偵役と読者の同期が重要だと思うのですが、この作品は探偵役が多すぎた感じがしました。また事件そのものが強引な感じでした。純香が両親殺害の事件を15年も知らなかったのにも違和感があります。あまりのショックで記憶を閉ざしたとしても、村の中で噂になっていたと思います。都会に出るまでの間に一度ぐらいは耳にしたのではないでしょうか。北野家がもの凄い権力者で有形無形の圧力を村人にかけて箝口令を敷いていたのなら別ですが、そのような記述もないので気になりました。また、冴子が拳銃を持っていたことも気になりました。制服警官は常時携帯ですが、刑事は許可が下りて初めて携帯するのではないでしょうか。通常の聞き込みに拳銃を携帯するものなのでしょうか? 長々と戯れ言を書いてすみませんでした。では、次回作品を期待しています。
2006-01-21 09:37:02【☆☆☆☆☆】甘木
甘木様、貴重なご意見と正確なご指摘有難うございます。
そうですね、甘木様がおっしゃるような展開を付け加えると、この物語にかなりの説得力を生み出しますよね。…(なるほど)
拳銃の件ですが……、ただ単に私の勉強不足です…泣。
2006-01-21 12:37:36【☆☆☆☆☆】九宝七音
拝読しました。面白かったです。全体的に過不足なく纏まっているように感じました。ですが、純香が記憶を取り戻す契機が強引に思えます(起因の大きさに対して脳はより強固な防壁をつくると認識しています)。そのあたりが滞りなければもっと楽しめました。次回作御待ちしております。
2006-01-23 11:50:42【☆☆☆☆☆】京雅
京雅様、ご感想有難うございます。
そうですね。実際問題、『失われた記憶』と言うものがどのような過程を得て復活するのか…。私自身、記憶喪失の経験はありませんが(ど忘れは毎回あります)、京雅様のおっしゃる『起因の大きさに対して脳はより強固な防壁を作る』と言う認識は興味深いです。…と、格好つけて言ったものの、人間の脳って難解ですよね。
2006-01-23 14:17:47【☆☆☆☆☆】九宝七音
計:4点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。