『闇の目』作者:時貞 / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 僕はこの春大学を卒業し、某製薬会社で営業の仕事を勤めている社会人一年生だ。
 長かった研修期間を終え、今は直属の上司のもとに着いて、営業のノウハウを実地で叩き込まれている。
 営業の仕事は正直言ってきつい。
 真夏にも関わらずびっしりとスーツを着込み、重い鞄を引き摺って、炎天下を歩き回らなければならない。
 それだけではない。わずかばかりの営業手当てが付くだけで、どんなに遅くまで仕事をやっても残業代などは一切出ない。客先からのクレーム対応で、一日中頭を下げっぱなしの時だってある。
 僕の上司は言う。
 ――営業マンの仕事は毎日二十四時間、年中無休のような心構えで臨め――と。
 社会人一年生にとって、営業の現場は本当に厳しいものがある。がしかし、僕は決して営業の仕事自体が嫌いではない。たしかにきつい事はきついが、その分やりがいもある。僕は営業こそが、ビジネスの基本だと思っている。どの企業も営業が仕事を取ってこなければ、経営は成り立たないのだ。
 僕は必死で駆けずり回り、先月ついに、同期入社の営業マンの中ではトップの成績をおさめた。しかし営業の仕事は、もちろんそこで満足してしまってはいけない。トップを取るだけではなく、それを維持し続けることが求められるのだ。
 前置きが長くなったが、今の僕は仕事を中心に据えて日々の生活を送っている。それまでずっと実家暮らしだった僕が、この夏、一人暮らしをはじめる事に決めたのもそのためである。
 実家に住んだ方が何かと便利な面も多いが、とにかく通勤時間が長く掛かってしまう。片道約一時間と四十五分。午後十時に仕事が片付いても、帰宅するのは深夜近くになってしまうのだ。その分近くに引っ越したほうが、もっと時間を有効的に使える。
 僕は休日を利用して、不動産屋めぐりを行なった。
 目安は会社から片道三十分以内。贅沢は言わないが、なるべく安い物件を探したい。築年数が古くても、間取りが狭くても構わない。ただ、シャワーだけは完備されているとありがたいのだが……。
 不動産屋を何件か回って、そろそろ引き上げようかと思った矢先、僕はふと電柱に貼られた手書き広告を目にした。
『家賃月々五万円。――○○駅より徒歩五分、ワンルーム八畳、簡易キッチン冷蔵庫完備、バス・トイレ付き……』
 この地区でこの条件――願ってもない物件である。そうなのだ、何も不動産屋を仲介しなくても、貸し手と直接交渉したほうが手っ取り早いし余計な費用も掛からない。
 僕はさっそく携帯電話を取り出すと、その広告に書かれている電話番号をプッシュした。

 僕の一人暮らしがはじまった。
 二階建てアパートの二階の角部屋に位置するその部屋は、確かに作りは古いが、南向きで日当たりも良く、僕としてはなかなかに満足のいく部屋であった――はじめの数日間のうちまでは……。
 僕がその部屋に違和感を感じたのは、引っ越してからちょうど十日ほど経った深夜であった。
 仕事の付き合いで酒を飲み、かなり酔っていた僕は、自室に帰るなり着替えもそこそこに横になった。
 どれくらい経った頃であろうか。
 僕は寝苦しさを覚え目を覚ました。全身が汗でびっしょりと濡れ、気持ちが悪い。ふらふらと立ち上がり着替えを済ませ、水道の蛇口に直接口をつけて水を飲んだ。
 そのときふと、理由も無く背後にぞくりと寒気を感じた。意識を研ぎ澄ますと、何か背後に人の気配を感じる。僕は一気に、酔いも眠気も覚めてしまった。
 背中に感じる強い視線――体が硬直し、額から冷たい汗が流れる。その何者かの気配は、じりじりと徐々に近づいてくるようであった。僕の心の中の声が、「このままではまずい!」と警告を発する。僕は勇気を振り絞り、一気に背後を振り返った。
 ……しかし、そこには誰の姿もなく、乱れた布団と脱ぎ捨てたスーツが散乱しているだけであった――。

 それ以来、僕は自分の部屋に落ち着いていられる事が少なくなった。
 終始、誰かの視線を感じるのである。まるで、僕の行動を逐一監視しているような、正体不明の誰かの視線が常につきまとうのだ。
 横になって天井を見つめていると、その天井の木目が人の目に見えてくる。シャワーを浴びていると、シャワーカーテンの隙間から誰かが息を殺して覗き込んでいるように思えてくる。
 僕はこれまで以上に仕事に全精力を傾注し、自室ではただ単に眠るだけの生活を続けた。食事も外で済ませ、休日も夜遅くまで出歩いたり、会社に顔を出して仕事を行なったりした。それでも夜、自室で一人になると落ち着かず、自然に酒を飲むことが多くなっていった。酒を飲んで無理にでも眠りに落ちないと、神経が高ぶって言い知れぬ不安に襲われるのである。
 ――誰かが見ている。
 ――誰かが覗いている。
 ――誰かが、僕を見張っている!
 僕は自分の部屋で、得体の知れない何者かの視線に脅かされ続けた。
 
 そしてついに、僕はこの部屋を引き払うことに決めた。
 精神的に、もうこれ以上この部屋には住んでいられないと思ったからだ。
 とりあえずは、もう一度実家に戻る事に決めた。引越しを明日に控え、出来るところから荷造りをはじめる。ダンボールに衣類を詰め込んでいると、ふいに、またもや誰かの視線を感じはじめた。
 僕はそれを振り払うように、無心でダンボールに荷物を詰め込む。
 しかし、僕を見つめる誰かの視線は、いつにもまして鋭く迫ってくるように感じられた。僕が無心になればなるほど、その視線の鋭さもますます強烈に感じられてくる。
 ついに堪えきれなくなった。
 荷造りをしていた僕の手が止まる。そして、意を決して背後を振り返った。
 もともとは白かったのであろうが、今では全体的に黄ばんで染みだらけとなっている背後の壁に、僕の目が吸いつけられる。
 そのまま、五秒……十秒……十五秒……。
 ――誰かが見ている。
 ――誰かが覗いている。
 ――誰かが、僕を見張っている!
「――そ、そこに居るのかっ!」
 僕は壁に向かって大声で怒鳴りつけた。そして、ベランダから工具箱を持ってくると、中から大型のノミを取り出した。
 ノミの刃先を壁に押し当て、力を込めて壁面を少しずつ削り始める。
「そこに居るのはわかってるんだ! 出て来い! 出て来いいいい――!」
 僕は一心不乱に壁面を削りつづけた。手が痺れ、やがて手のひらの皮が擦れて血が滲み出てくる。全身は汗でびっしょりだった。それでも僕は、ノミを振るう手を休めない。
「出て来い! 出て来い! 出て来いいいいいい――!」
 額から流れる汗と、削れた壁面から舞い上がる粉塵とが目に染みる。しかし僕は、決して手を休めなかった。
 ――この壁の中には何かがいる。そいつが、ずっと僕を見張り続けていたんだ!
 ノミの刃先が、更に深く壁面に食い込んでいく。ぎりぎりと、深く、深く……。
 ――そのとき!
 僕の全身に強烈な電流のようなものが駆け巡った。全身が総毛立ち、手からノミが落ちる。僕は大きく目を見開き、開いた顎はがくがくと震えていた。
 僕が削り取った壁の中――そこに、明らかに人間の片目があったのだ!
 自分の発した絶叫が部屋にこだまする。
 そしてそのまま、僕は意識を失っていった……。

  ●

 はいはい、確かに、お隣さんはちょっと変わった方でしたねえ。
 いえいえ、まったく親しくしていたわけじゃあないんですよ。たまに階段や廊下で顔を合わせるくらいでしたからね。
 なんだかあまり部屋にはいらっしゃらなかったようですよ。噂に聞いたところでは、ずいぶん仕事熱心な方だったようで。毎日夜遅くまで仕事、休日も返上して仕事、ってな人だったみたいです。
 きっと、ストレスが溜まってノイローゼになっていたんじゃないですかね。
 え? はいはい、あの夜も、こっちが驚いて腰を抜かしそうになりましたよ。なんせ外で一杯やって帰ってきたら、お隣と面した壁から変な音が聞こえてくる。こう……ごりごり、ごりごりってね。こっちも酔っ払ってたもんだから、最初は空耳かと思ったんだけどどうもそうじゃあない。
 不思議に思って壁に顔を近づけてみたら、いきなりボカっと穴が開いてねえ! いやいや、驚いた驚いた! びっくりしてその穴に目を当てて覗いたら、突然ものすごい絶叫が聞こえてきて……。
 いやあ、本当に驚きましたよ。まさかお隣さんが壁に穴を掘ってたなんてねえ……。
 え? そのお隣さん? ああ、私が救急車を呼んだんですが、なんでも噂じゃあいまだに入院中らしいですよ。


   了
2005-08-30 11:28:33公開 / 作者:時貞
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■作者からのメッセージ
お読みくださりまして、誠にありがとうございます!!
8月の終わりになって、がっくりと夏バテがきてしまいました(汗)課題が終わり、精神的に油断してしまったのかもしれません(汗)
この夏最後のSSを書いてみました。何でも結構ですので、一言でもご意見を伺えたらありがたいです。よろしくお願い致します!!
この作品に対する感想 - 昇順
読ませていただきました。有栖川でございます。話運びもきれいだし、SSとしてきちんとまとまっていたと思います。個人的にこういうお話好きです^^
最初は夏だし幽霊モノかと思って微妙に身構えて読んでいたのですが、オチはある意味そっちより怖かった……仕事ノイローゼって!一度気になると何をしてても気になる感じとか、もううなずきながら読んでおりました。それにしてもお隣さん、のぞくタイミングをちょっとあやまったらすごい危なかったですよね(笑)ノミが……!
ご自分の書き方を身につけていらっしゃるという印象で、完成度も高かったと思います。夏バテを早く治されることをお祈りしつつ、次回お待ちしておりますね。
2005-08-30 14:27:49【★★★★☆】有栖川
どうもこんにちは。メイルマンと申します。読ませていただきました。すっきりと読めて良かったです。素敵なまとまり方でした。もう少し何かの要素を入れれば、もっと楽しめた気もします。
2005-08-30 14:52:38【☆☆☆☆☆】メイルマン
今晩は、ミノタウロスです。これ、いい!!とっても面白かったです。壁に死体でも埋まっているのかと思いきや……。久々に読み終わった瞬間に【いい!】って言葉が浮かびました。こう言うときは細かい事言う気しないので、大した感想じゃなくて申し訳ありません。でも、この落ちホント良かった。次回作品も期待させて頂きます。ではまたの機会に。
2005-08-31 01:39:57【★★★★☆】ミノタウロス
有栖川様、メイルマン様、ミノタウロス様>
お読みくださりまして誠にありがとうございます。そして、とても励みになるご感想をありがとうございました!!お蔭様で夏バテも吹っ飛んでしまいそうです(笑)メイルマン様の仰るとおり何か更なる趣向を盛り込めば、より楽しんでいただけたのかもしれませんね。今後の自分の課題として、ありがたく受け止めさせていただきます。皆様、本当にありがとうございました!!今後ともご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。
2005-08-31 10:05:38【☆☆☆☆☆】時貞
初めまして、読ませて頂きました緋陽です。
ぞくっ、ときた! ぞくっときましたよ私は! 夏の最後に背筋がひやりとしてよかった……のかな?(ぇ
なにはともあれ、面白かったです。ノイローゼとは思わなかったし完璧に幽霊かなと思ってた私って……。
夏ばてを早く直してください。そしてお体を大切に。
では次回作を期待しております。
2005-08-31 10:36:32【☆☆☆☆☆】緋陽
 読ませてて頂きました。月海という者です。皆さんが言われている通り、まとまりの良い話だと思いました。『天井を見つめていると、その天井の木目が人の目に見えてくる』ってのは私も良くありますよ。なんせ築四十年の家に住んでいますからね(爆
 ラストは幽霊ネタかと思わせておいて現実的なオチ。『この世に不思議なことなどなにもないのだよ』ってことですね。
2005-08-31 14:38:37【★★★★☆】月海
拝読しました。綺麗な纏め方と言うよりは簡素に纏まった、ように感じます。オチにむかって一直線、キャラクター性はある程度提示しつつもそれは輪郭を曖昧にしないくらいの領域、いや、わるいって意味合いではなくそのあたりの統制が巧くきいているなぁと。これまでの怪談SSよりすっきりした読後感を味わいました。オチはこれでいいとして、副産物の要素を絡めつつ、それに掻き消されないよう制御すれば二重に楽しめた気もします。うん、でも、心地好いものが御座いました。次回作御待ちしております。……連載は?(笑)
2005-08-31 15:38:29【☆☆☆☆☆】京雅
緋陽様、月海様、京雅様>
皆様、お読みくださりまして誠にありがとうございます。
緋陽様:お褒めのお言葉、ありがとうございます!!ぞくっとしていただけたとの事、書き手としては嬉しい限りでございます。これで夏バテも一気に治りそうですよ!(笑)ご感想、誠にありがとうございました!!
月海様:はじめまして!拙作をお読みくださり、誠にありがとうございます。また、ありがたいご意見大変励みになりました。今後ともご指導いただけたら幸いでございます。本当にありがとうございました!!
京雅様:いつもながらに的確かつご丁寧なご感想、誠に感謝であります。京雅様のご指導を受けて、ほんの少しずつでも前進できていれば良いのですが(汗)今回も大変参考になるコメント、有難うございました。そして、連載ですか(汗)頓挫している物が過去ログに流れているので、細々とそちらを更新しようか、それとも心機一転新たな連載をはじめようか、等と考えてはいるのですが・・・・・・(汗)が、頑張ります!!(笑)毎回ながらとても勉強になるご意見、ありがとうございました!!
2005-08-31 16:13:44【☆☆☆☆☆】時貞
拝読いたしました。うん、すっきりとした読みやすい作品です。ただ作品構成的に少々それが仇になっているかなとも。この作品の構成、非常に難しいですね。自分の妄想で(他人から見た)狂を発するならば、語りはもっと乱脈にならねばならず、さりとて語りが進行と共に乱脈に進めば、折角のオチが先読みされる。非常に難しい。現段階だと、常と狂の差異というものが、オンオフのように見えてしまう、切り替わりが明瞭なところが正直ありましたねえ。狂が、やはり仕事の厄介さに端を発するのならば、これは五段階変速くらいで、ゆっくりと、徐々に、おかしくさせていく語りが重要かなあと。そしてなおかつオチを類推させない仕掛けを何かひとつ、人称を三人称にチェンジする、それも何か手管を用いて自然に変化させるとか、ここに一工夫あるのもいいかなあと。アイディアはすばらしいと思うのですよ。ただ正攻法ばかりでなく、搦め手から調理するというのも面白いかなあと思いまして、駄弁を弄しました。大変失礼いたしました。
2005-08-31 17:58:03【☆☆☆☆☆】タカハシジュン
 一人称で書くとき、私は主人公の視界をベースにして物語を紡いでいきます。読み手になるときは、それほど気にしていませんが。この書き物の一番重要な部分【目】が、主人公から見たときとお隣さんの話に出てくるときとは、視覚的に一致しませんでした。言葉の上では矛盾したことは書かれていないのですが、その視覚的なズレによってオチに強引なものを感じてしまいました。心理描写『恐怖』を書きながらでは難しいかもしれませんが、ここが書き物の核なので、その恐怖のもと【目】をもっとグロテスクにイメージできるぐらいの描写で書くといいかと思います。
2005-08-31 20:19:12【☆☆☆☆☆】clown-crown
タカハシジュン様、clown-crown様>
お読みくださりまして誠にありがとうございます。また、非常にご丁寧なご意見・アドバイスをいただく事が出来まして、本当に感謝の念が絶えません。これほどまでに吟味・ご指摘していただけるなど、書き手としては本当にありがたいことです。大変励みになるとともに、今後の大きな原動力ともなりました。まだまだ未熟者ですが、これからも厳しい目でご指導いただけますよう、よろしくお願い申し上げます!!ありがとうございました!!
2005-09-01 09:47:48【☆☆☆☆☆】時貞
作品を読ませていただきました。簡潔に纏められていて、読みやすく、雰囲気も良かったです。主人公の狂気に至る始発点はなんだったんでしょう? 部屋に引っ越してきた時に無かった違和感が10日後に起こった理由(些細な事柄でいいのですが)のようなものが欲しかったですね。また謎の視線を調べる行為とか、部屋にいられない状況を、段階を追って狂気じみた表現で描いていっても面白かったかもしれませんね。戯れ言を書いてすみませんでした。では、次回作品を期待しています。
2005-09-03 18:45:46【☆☆☆☆☆】甘木
甘木様>
2ページ目に流れてしまっていたにも関わらず、お読みくださりまして本当にありがとうございます!!お返事が遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。仰るとおり、主人公が精神的に追いつめられていく様子をもっと丁寧に書き込めば良かったですね。後から自分でも、少し書き急ぎ過ぎたといった反省点を抱きましたので、甘木様のご指摘はごもっともであると思いました。ご丁寧なご感想、誠にありがとうございました!!
2005-09-05 09:45:42【☆☆☆☆☆】時貞
計:12点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。