『天秤 第一話〜第四話』作者: / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角17851文字
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原稿用紙約44.63枚
 たとえ終わりが見えていても。あたしはあなたを愛したい。この両手にあふれるほどの思いをあなたに届けたい。
 傷付くってわかっててもあなたからはなれない。自分の可愛さより、彼への愛のほうがずっと重い。秤にかけるまでもない。
 最後の最後の瞬間まで、ずっと傍にいるよ。





















天秤







 




 彼は、寂しい目をしていた。とても、愛に飢えてる目だと思った。


第一話


 奈緒は重い気持ちで交差点をわたった。人の波に流されるようにふらふらと歩く。クールビズ、とかいうのの所為で、シャツから露出されたサラリーマンのじっとりした腕が二の腕にあたり、気分が悪くなる。腕に抱えた花束がつぶされないように、庇うようにぎゅっとそれを抱いた。色とりどりの花たちが腕の中で苦しそうに身をよじる。
 この大きな花束を受け取る相手は、父の知り合いの上司の、そのまた知り合いのお偉いさんだそうだ。何でもその人が大きな精神化病院を経営していて、そこで最近少しボケが入ってきた奈緒の祖母が世話になったらしい。今日はそのお礼にその病院に向かっている。普通父親か母親、どちらにしろ娘が行くような幕ではないのだが、二人ともどうしても外せない用事がある、とかいって、結局奈緒が押し付けられたのだ。奈緒はいらだたしげに、腕からずり落ちてきた花束を子供を抱きなおすように持ち直した。こんな暑い日に、どうして父の上司へのゴマすりのためにはるばるこんなところまで来なければいけないんだ。第一、お礼の品が花束なんて、なんだかおかしな話だ。こういうときはちょっと豪華な店のお菓子とかを持ってくものだと思う。花束を焼けるように熱いアスファルトの上に叩きつけたくなる。花束はそんなことは露知らず、奈緒の腕の中で静かにゆれていた。







 白い壁でできたその建物は、陽炎の向こうで涼しげに建っていた。ハンカチで額の汗を拭いながら奈緒は腕の中の花束を見下ろした。この暑さと人ごみにもまれた所為で少し萎れてしまっている。さっきまでは誇らしげに天をむいていた花が、今はぐったりと俯いてしまっている。ごめんね、と奈緒は心の中で謝った。人の勝手で、こんなに命を削ってしまって。
 暗い気持ちで自動ドアを通ると奈緒の顔を冷気が撫でた。クーラーがよく聞いているらしい。小奇麗に統一されたロビーにはあまり人がいなかった。年老いた女性が乗った車椅子を押しながらきびきび歩いている看護婦、杖をつきながらゆっくりと歩いていく男性。病院というよりは、なんだかホテルのような印象だった。戸惑いながらカウンターで何か書類を書いている看護婦に近づく。彼女は奈緒に気付くと、顔を上げにっこりと微笑んだ。奈緒は緊張しつつも、以前ここで祖母がお世話になった、父はこういう者で、ここの院長先生にお礼がしたくて来た……ということを大まかに話した。看護婦はしょうしょうおまちください、と歌うような声で言うと、手元にあった電話を手に取り、ボタンをおし始めた。どうやら内線電話らしい。やがて相手が出たらしく、彼女は何か二言三言話していたが、やがて電話を切り、申し訳なさそうに奈緒に切り出した。
「申し訳ございません。本日院長は不在でして……」
「あ、いいんです、ごめんなさいわざわざっ」
 奈緒はあわてて頭を下げた。看護婦は申し訳なさそうに微笑み、来られたことはお伝え申しますので、といったあと、腕の中の花束に目線を移し、目を細めた。
「お知り合いが入院してらっしゃるんですか?」
「え」
 奈緒は腕の中の花束に目線を移した。どうやら、御礼の品ではなく見舞いの品だと思われたらしい。だから反対したのに、と父親に向かって内心舌打ちする。いえこれは院長先生に、とは言い出せなくて、結局曖昧に微笑んだ。









 すっかり萎れてしまった花束を抱きながら奈緒はため息をついた。病院の中庭には色とりどりのみずみずしい花が綺麗に咲いていた。生命力あふれるその花たちとは逆に、包装紙の中ですっかり打ちひしがれている花を見る。
 看護婦には見舞いの品だといったが、実際にはここに知り合いなんかいない。さっき少し病院の中を精神病は普通一日二日で直るものじゃないから、まあ当たり前といえば当たり前だろう。ちらりと見えた個室は広々としていた。ここがホテルのような印象だったことも頷ける。
 この花、どうしよう。
 誰か知らない患者にあげるわけにもいかないし、今更看護婦のところに行って「実はこれは院長先生に」というのも嫌だ。家に持って帰ったら親がうるさいだろうし(「院長先生に差し上げろって言ったじゃないか」)。
 迷いに迷った末に、捨てることにした。花には非常に申し訳ないと思うのだが、そうする以外いい方法も思いつかない。
 あまり人気のない庭の隅。奈緒は周りの人が誰も見ていないことを確認してから、そっと花束を地面に下ろそうとした。
「それ、なんで捨てるの?」
 奈緒は飛び上がり、あわてた所為で花を落とした。包装紙ががさりと音を立てる。振り返ってみると、一人の青年が立っていた。患者なのか、薄い水色のパジャマを着ている。卵形の顔にくりっとした目が乗っていて、黒い髪がさらりと頬にかかっている。なかなかの美青年…そんなことを思いながら彼の目を見た途端、急に力が抜けた。彼は、寂しい目をしていた。とても、愛に飢えている目だと思った。
「なぁ。なんでそれ捨てるの?」
 こちらに近づいてきながら、彼がもう一度奈緒に尋ねた。まっすぐ見つめてくる彼の目に戸惑い、目をそらしながら奈緒は答えた。
「だって…こんなに萎れちゃったから」
「それ、誰かにあげるんじゃないの?」
「別に……」
 彼は奈緒を見、花束を見て首をかしげた。
「じゃあなんで持ってきたの?」
「…いろいろあるの」
 髪をくるくる指に巻きつけながら答えると、ふうん、と彼は言って、花の隣にしゃがみこんだ。奈緒はびくっと飛び上がった。いつの間にこんなに近づいてきたんだろう。彼のつむじのてっぺんを見下ろした。彼は花束をそっと拾い上げ、萎れた花びらに触れた。しばらく彼はそうしていたが、やがて花束を抱え、すっと立ち上がった。ぼんやりとつむじを見ていた奈緒はあわてて一歩飛びのいた。彼は一瞬不思議そうな顔をしたが、やがてあの、と遠慮がちに口を開いた。
「誰にもあげないんなら、この花…俺、もらってもいいかな」
 奈緒はきょとんとして彼を見た。彼は気まずそうに奈緒を見、だめ?と呟いた。奈緒はゆっくりと首を横に振った。夏の日差しを受け微笑んだ彼は、光の加減か、なんだかすごく嬉しそうに見えた。






「いいの?こんなに萎れちゃってるのに」
 窓の外を眺めている彼の背中に奈緒は問いかけた。花を生けた花瓶を棚の上におく。水分を与えてやっても、花は相変わらずぐったりとうつむいている。彼は何も答えない。奈緒は彼に近づき、もう一度声をかけた。
「ねえってば」
 横から彼の顔をのぞきこむ。窓から差し込む日差しにまぶしそうに目を細めながら、彼は頷いた。
「うん。この部屋、なんかすごい殺風景だし」
 悲しそうに微笑み、窓際から移動し、部屋の隅のベットに腰掛けた。奈緒は窓枠にもたれかかり、彼に話しかけた。
「入院してるの?」
「うん」
「長いの?」
「いや、検査入院。昨日からだから、明後日には退院するよ。まあ、もう6年ぐらい前から何回もしてるから、もう慣れたけど」
「…何の病気?」
 聞いてから、やっぱり聞かなきゃよかったと思った。彼は一瞬すごく悲しそうな顔をした。でもそれはほんとに一瞬で、彼はすぐに顔を上げた。
「うん、ちょっとした記憶障害でさ。別に普通に生活するうえでは、何の問題もないんだけど」
「そうなんだ……」
「うん」
 そういったっきり、彼は黙ってしまった。奈緒も別に話すこともなくて、黙り込む。外でセミが鳴く声以外は静寂。気まずい雰囲気にあせり、奈緒は部屋の中に視線をさまよわせた。そして、はっと目線を止め、ドアの近くの棚に駆け寄った。彼もそれを目で追う。奈緒は嬉しそうに彼を振り返った。
「見て」
 奈緒は彼に見えるように花瓶を持ち上げた。彼もあ、と言い、嬉しそうな表情になる。
 さっきまで萎れていた花が、また数時間前のように、ぴんと天井を向いていた。水を入れたおかげでまた復活したらしい。やるじゃん、と奈緒は小さな花びらを軽くつついた。
「あの」
 奈緒は振り返った。彼はベットから立ち上がり、奈緒に近づいてきた。二人の距離が一メートルぐらいになったとき、彼は立ち止まり、口を開いた。
「花、ありがとう。居間までずーっと病室に花なんかなかったから…嬉しい」
「ずっと、って……」
「俺、見舞いに来てくれるような人、いないからさっ」
 彼は明るくそういった。でも、奈緒は見ていた。悲しそうな、彼の目を。夜の海みたいに、心細い彼の瞳を。奈緒の目線に気付いたのか、彼は気まずそうに目をそらし、病室のドアに近づき、開いた。
「ごめん、呼び止めちゃって。花、大事にするよ」
「あ、ううん。あたしこそ、どうしようか困ってたんだし」
 奈緒はふわりと微笑んだ。彼も微笑み返す。軽く頭を下げると、奈緒は病室から出た。後ろ出てドアをしめながら、奈緒は入り口にかけられたプレートを見た。黒い字で「宮野達也」とかいってあった。
 宮野、達也。
 誰もお見舞いに来ることもなく、花さえもないあの四角い部屋の中で、一人でいる達也。なんだか、胸が押しつぶされそうな思いだった。真っ白な廊下を歩き、病院を出、人に飲まれ、電車に乗り、家についても、彼の悲しそうな目が頭から離れなかった。











 


 奈緒は、自分なんかとこれ以上一緒にいちゃいけない。自分にそんな権利はないんだ。


第二話


 一昨日と同じ道を奈緒はまた歩いていた。暑い日差し、じっとりした人の波。二日前と変わらない環境の中で奈緒は目が覚めるようなオレンジの花束を抱いて歩いていた。
 あの後、家に帰っても達也の見せた悲しそうな目が頭から離れず、結局たまらなくなって今日お見舞いに来たのだ。名前も知らない相手にお見舞いなんて来られると迷惑かな、なんて思いもしたけど、もし迷惑だって思われればやめればいい、喜んでくれるかもしれないと自分を納得させた。確か今日で退院だったはずだから退院祝いでも通じるだろう。前お世話になったお礼に…と。
 腕の中の花束を見下ろして奈緒は微笑んだ。あの殺風景な部屋をこの花がどれぐらい明るくしてくれるだろう。









「あの、すいません。宮野達也さんのお部屋ってどこですか?」
 この前は達也に連れられて病室に行ったので平気だったが、この広い病院の中であの部屋を探し出す自信はなかった。間抜けにも部屋の番号も見てこなかったし、名前のプレートを見てきただけでも幸いだった。
 カウンターで尋ねると40代半ばぐらいの看護婦は一瞬怪訝そうな顔をした。あれ、と思っていると看護婦はすぐに笑顔を作り少々お待ちください、といった。
「203号室ですね。3階のエレベーターを降りて、すぐのお部屋です」
「ありがとうございます」
 3階のエレベータを降りてすぐ、と頭の中で繰り返しながらぺこりと頭を下げた。カウンターに背を向けるとあの、と声をかけられて振り返る。看護婦はさっきと同じ、怪訝そうな表情で奈緒を見ていた。
「ご家族の方ですか?」
「え?いえ、違いますけど……」
「あ、じゃあ……」
 看護婦の妙に納得したような声に奈緒はあわてて首を振った。どうやら恋人だと勘違いされたらしい。
「あの、別にそういうのじゃなくて、この前」
 奈緒はふっと口をつぐんだ。看護婦はとても嬉しそうな、でもなんだか切ないような表情で奈緒を見ていた。 
「良かった…彼にも、お見舞いに来てくれるような人ができて」








 扉を開けたのが奈緒だとわかると、ベットに腰掛けていた達也はとても驚いた顔をした。もう退院するからなのか、彼は今日はパジャマじゃなく普通の服を着ていた。
「君、あの花の……」
 そういって達也はちらりと棚の上の花を見た。なおもそこに目線を移す。さすがに少し萎れてしまっている。奈緒はその花瓶の隣にそっとオレンジの花束を置き、達也を振り返った。
「こないだ、花貰ってくれたから…そのお礼と、あと退院祝いに」
 今日だったよね?と聞くと達也は困ったように笑い、うなずいた。やっぱり迷惑だったかなと心配になる。そんな奈緒の心配を払うように、達也はベットから立ち上がり棚の上の花束を抱くようにして持ち上げた。甘い香りがぷんと香る。
「うわー、ありがとう。なんか悪いな」
「いいよ。前のお礼だし」
「あれ俺が欲しかったから貰っただけなのに」
「それでもだよ。あたし、あの花どうしようか迷ってたんだし」
 あんまり彼が喜ぶから奈緒はなんだか照れくさくなって、無愛想に受け答えした。達也は小さい子供のように無邪気な表情でオレンジの花びらをそっと撫でた。
「いい色。夏って感じで」
「お見舞いの花にしてはちょっと派手かなって思ったんだけど」
「ううん、すっごいいいよ。この部屋季節感もないし、ぴったりだ。あ、もう退院するんだけど」
 あんまり夏、夏といって喜ぶもんだから、これならいっそヒマワリでも買って来てやればよかったと思った。達也は相変わらず嬉しそうに花を眺めていたが、やがてふっと顔を上げた。
「言うの遅くなったけど、俺宮野達也。22です」
 知ってるよ、年は知らなかったけどと少し笑ってから奈緒も答えた。
「あたしは大崎奈緒、21歳」
「おおさき、なを?」
「うん」
 なんだか達也は不思議な発音をした。説明するのは難しいが、なんというか「お」の発音がア行のほうではなくワ行の「を」の発音に似ているのだ。
 そのあと、奈緒は達也の片付けを手伝った。入院のために持ってきた服や洗面用具を、達也はボストンバックに適当に放り込んでいた。そんなんだからバックはパンパンでチャックが閉まっていなかった。これでも持って帰れるから、と達也は笑っていたが、ボストンバックはこれ以上にないというぐらい膨らんでいて今にも物がこぼれ出しそうだ。奈緒はバックの中身を一度すべて出し、服を一つ一つたたんでいった(下着類は達也に任せたが)。達也のパジャマはすべて薄いパステルカラーで、そのすべてが達也に良く似合っていた。
 たたんだ服をきちんとバックにつめ、チャックを最後まできちんと閉めた。はいできた、と軽くバックを叩くと達也は感心したように言った。
「へぇ、すごいなぁ。俺こんなに綺麗にできたことないや」
「別にあたしだってそんなに上手じゃないよ」
「いや、なをうまいよ」
 彼はいつの間にか奈緒のことを名前で呼んだ。そんなに親しいわけじゃないのに、と奈緒は戸惑いつつ、達也に感心してもいた。あってそんなに時間がたっていない人間にこんなに親しげに接する。奈緒にはとてもできない芸当だった。
「よし、準備もできたことだし、もう出るかな」
「え、いいの?そんな勝手に決めて」
「主治医の先生には言ってくよ。今から行ってくるからちょっと待ってて」
「あ、いいよ急がなくても。もうあたしも帰るし……」
「いいから、ちょっと待ってなって」
 病室の扉から顔だけこっちに向けて達也は微笑んだ。
「片付けのお礼に昼飯ご馳走するからさ」








「一人暮らし?」
「そ。だからちょっと汚いけどさ、我慢してくれよ」
 達也のアパートは言っちゃ悪いがボロボロだった。クリーム色の壁は、どうやら元は白に塗られたものが黄ばんだものらしいし、そのペンキもあちこちはげている。鉄製の階段は踏むたびにギシギシなったし錆びた手すりは折れそうでなんだか危なっかしい。達也は別にそんなことは気にする風でもなくギシギシ音を立てながら階段を上り部屋のドアについている郵便受けに手を突っ込んだ。まもなくしてその中から鍵をとりだす。
「そんなとこに入れてたらなんだか空き巣に入られそうじゃない?」
「いや、自分でもってるほうがなくして危なそうだし。第一取られて困るようなもん何もないよ」
「実家においてきたの?通帳とか……」
「いや、実家なんかないよ」
 あんまりさらっと彼が言うもんだからタイミングを逃してしまった。どうして、という言葉は奈緒の空っぽの胃の中に飲み込まれていった。
 部屋の中は外観とは違ってなかなか綺麗だった。部屋自体は相変わらず古いのだが物がちゃんと整理されてるからそう見えるんだろう。いや、整理されてるというか、あまり物がない。ベット、机、本棚、小さなテレビと小さな物入れ。それ以外のものはほとんどなかった。そして、病室と同じぐらい殺風景。奈緒がきょろきょろしてる間に達也はバックをその辺にほっぽって狭いキッチンに入っていった。冷蔵庫の中をあさりながら話す。
「なをー、なんか嫌いなもんある?」
「あ、かぼちゃ。他のものは大丈夫」
「かぼちゃね。…簡単にオムライスでいいか」
「手伝うよ」
腕に抱いていた花束を机の上にそっと置いて奈緒は台所に入った。オレンジの花は殺風景な部屋をなんだかぱっと明るくしてくれたような気がした。
 達也はとても手馴れた手つきで料理を進めていった。そんなんじゃ嫁にいけないぞ、と父にからかわれるぐらいの腕の奈緒は特にやることもなく、というか手伝ったら逆に邪魔になりそうだったので、皿やスプーンを棚から出すだけであとは達也の隣でオムライスができる過程を見つめていた。
「うまいね」
「ん。慣れてるから」
「もう長いこと一人暮らししてるの?」
 チキンライスを起用に丸く皿に盛りながら達也は答えた。
「いや、俺弟とか妹とか多いからさ。嫌でもこういうことしなきゃいけなかったんだ」
「へぇ。大家族なんだ」
「まあ、そうかな」
 ふんわりした卵をチキンライスの上にのせ、ケチャップをつけて達也はそれを机に運んだ。奈緒もその後ろに続く。
「あ、だから誰もお見舞いにこれないんだ」
「え?」
「ほら、そんなんだから両親とも忙しくてさ、長男の君はなんとなくほったらかしなんでしょ?」
「え…あ、うん、そうなんだよ」
 ひどいだろー、とおどける達也を見て笑いながら、奈緒はほっとため息をついた。達也は怪訝そうに奈緒の顔を覗き込む。
「なを?」
「あ、ううん。よかったなーって」
「え?」
「あの…あたし、もしかしてもっと複雑な事情で誰もお見舞いに来ないのかなーってちょっと心配してたんだ」
「ああ、うん」
 達也は笑った。でもなんだかさっきまでとは違う、奈緒はそう感じた。さっきよりもずっと温度の低い、薄い微笑。気を悪くしたのか、と心配になる。
「あ、ごめん、あたしそんなつもり」
「別にそんな複雑な事情なんかないよ。だから、もう俺のことなんか気にしてくれなくていいから」
 その薄い笑みを浮かべたまま彼は席に着き、スプーンを手に取った。湯気の昇るオムライスの端をスプーンで切り取りながら、彼は静かに言った。
「もう、会いに来てくれなくていいから」
 
モウ、アイニキテクレナクテイイカラ

 そういったきり達也は黙々とオムライスを食べ始めた。奈緒は呆然と立ち尽くしていた。達也がいった言葉といろんな考えが頭をぐるぐる回る。どうして?そんなにひどいことを言ってしまったんだろうか。
 ぼんやりと奈緒が立っている間に達也はオムライスをぺろりと平らげてしまった。空になった皿を持ってキッチンに入っていく。流しで皿を洗いながら達也は目線もくれずに言った。
「それ食べたら帰れよ。俺ちょっと出かけるから。鍵開けといてくれていいから」
「あ、待って……」
 奈緒が何かを言おうとしたときにはもう達也は奈緒に背を向け、ばたんと扉を閉めたあとだった。
 奈緒は力なく座り込んだ。なんだか、取り返しがつかないことをした気分だった。
突然冷たくなった彼の笑顔。冷たい言葉。一つ一つをぼんやりと思い出しながら奈緒はオムライスを口に運んだ。なんだか妙に、しょっぱかった。









 
 やたらギシギシ鳴る階段を達也は一気に駆け下りた。肩で息をしながら今さっき逃げるように出てきた部屋を振り返る。奈緒が追いかけてくる様子はなかった。大きく息をつきながら壁にもたれかかる。夏の日差しに焼かれて熱くなっているのが服を通して肌に伝わってくる。
「…なを……」
 口の中で転がすようにつぶやく。微笑みながら言ってくれた言葉。「ちょっと心配だったんだ」。
 うれしかった。たまらなく嬉しかった。だからこそ、奈緒を自分から離さないといけなかった。奈緒は、自分なんかとこれ以上一緒にいちゃいけない。そして自分は、奈緒を好きになんかなっちゃいけない。自分にそんな権利はないんだ。たとえ結ばれたとしても、奈緒を傷つけるだけだ。
 達也は目を閉じ、額に手を当てた。悔しい気持ちでいっぱいになる。こんな障害さえなければ、いくらでも誰かを好きになれるのに。誰かを壊れるぐらい愛することも、いつまでも一緒にいることもできるのに。自由に恋愛することは達也には難しいことだった。
 こんな、こんな記憶障害さえなければ……達也は力なくその場にしゃがみこんだ。














 どうしようもなく彼に会いたがっている自分がいる。会えなくて悲しくて、泣き出した
い自分がいる。


第3話


 達也と会ってから、もう3週間がたとうとしていた。会ってからといってもたった2回だけど。アパートであったのを最後に奈緒と達也が顔をあわせることはなかった。会いに来なくていい、つまり「会いに来るな」といわれてまで達也に会いにいく勇気はなかったし、そうまでして会いに行くような関係でもない。…そう、別にそんな親しい関係じゃないのだ。たまたま病院であって、ちょっと世話になって、御礼に家でお昼をいただいただけ。たったそれだけの関係だ。
 それなのにどうして彼に会いたいんだろう。













「最近どう?調子は」
 カルテの上で軽快にペンをはしらせながら津山は達也に尋ねた。ポニーテールにした髪がペンが動くといっしょに小刻みにうごいている。達也の主治医の彼女はいつも忙しく手が動いている。達也は軽く苦笑した。
「別に変わりないです」
「まあそんな自覚できるような変化があるようなモンじゃないけどね」
 津山はそういって笑ったがでもなぁ、といって達也の顔を覗き込んだ。
「なーんか達也君、また辛そうな顔してんだよね」
「そうですか?」
 達也はおどけて笑って見せたが津山は真剣な顔で達也を見ていた。
「笑い事じゃないよ。なんかあったでしょ」
「…………」
 達也の顔からすぅっと笑顔が引いた。小さくため息をつきうつくむ。少し小さめの丸いすがきぃ…と音を立てた。
「先生…俺、いつまでこんなんなんですか。どうして俺はこんなんなんですか」
 ささやくような声。外で鳴いているせみの声にかき消されそうなほど小さな声だった。津山は気遣わしげに達也を見た。前髪に隠れて表情は見えなかったが、小刻みに震えているのがわかった。
「…辛いです、もう……。いつになったら俺、まともに人を好きになれるんですか……?」
「…こればっかりは、ちょっとずつ時間をかけていくしかな」
「ちょっとずつって、一体あとどれだけかかるんですか!?」
 相変わらずうつむいたまま達也が叫んだ。泣き叫ぶような、痛々しい声。
「この6年で一体何が変わったんですか!?あと6年過ごしたら障害は消えるんですか!?」
 達也は顔を上げた。津山はただ黙って達也を見ている。達也は彼女から目をそらした。普段はこんな風に突然感情を爆発させたりしない。やはり奈緒にあってから少し不安定になっている。
 沈黙に耐え切れなくて達也は震える声でつぶやいた。
「…答えてくださいよ……」
「…答えたらあんたが救われるとは限らないよ」
「それでもいいです。イエスでもノーでもいいんです…知らないのは、わからないのは嫌なんです」
 津山はすっと立ち上がり、達也に近づいた。彼の前でしゃがみこみ、両肩に手を置く。軽く力を込めて自分のほうを向かせる。
 達也は泣いてこそいなかったが泣いている以上に脆い表情をしていることを感じていた。今にも壊れてしまいそうな危うい表情。自分で見たこともあるが、触れたら崩壊してしまいそうで怖かった。そして、そこまでどん底に落ちている自分が情けなかった。
 津山は軽く息を吸い、はっきりと、ゆっくり話し始めた。
「あんたの病気はあたしが今まで見てきたものの中でも、かなり難しい。はっきりどうすればいいっていう治療法はいまだにわからないし、あと6年たっても10年たっても20年たっても、それは変わらないかもしれない」
 達也はゆっくりと目を伏せた。暗い道のりだった。ここまでだって手探りでようやく歩いてきたのに、まだ終わりが見えないどころか、終わりがあるのかどうかもわからないなんて。
 津山はこら、といって彼の肩をゆすった。達也はまた顔を上げる。
「目をそらすな。最後まで聞きな。治療法も、どれだけ時間がかかるかもわからない、こんな不安定な状況であんたも不安なのは良くわかる。…辛いのもね。でも、あんたが弱気になってちゃ直るモンも直らないよ。あんたが逃げてちゃ始まらないんだよ。あんたの精神力が何よりも一番大きく関わってくるんだからね」
 達也は顔を歪めた。自分は強くあらないといけない。これ以上暗い深みに落ちていかないために。自分の体重を支えるだけで精一杯なのに。これからもずっと気を張り詰めて生きないといけないのだ。
 達也の心情を読み取ったように津山は優しく微笑み、達也の頭を腕の中に包み込んだ。
「大丈夫、ここまでやってきたんだから。まだまだいけるよ。直る可能性だってゼロじゃない」
 達也は腕の中でこくんとうなずいた。母親のようなぬくもりは不安を少しだけ取り除いてくれた。
「…たんです」
「ん?」
 ポツリと達也がこぼした言葉を津山は聞き取れなかったらしい。聞きなおされてと達也はさっきとほとんど変わらない、でもさっきよりはほんの少しはっきりといった。
「人を、好きになりかけたんです」
「…どんな人?」
「…優しい人でした。一度しか会ったことなかったのに、俺のこと気にかけてくれた……」
 そこまで優しげだった表情が、ふっと自虐的なものに変わった。達也はくっと小さく嘲笑してから話し始めた。
「でも、結局は自分から突き放しました。これ以上自分に関わっててもいいことないからって。…傷つくのは彼女だからって。ホントは自分で傷つきたくなかっただけなのに」
 津山は優しく達也の髪を撫でた。小さい子供にするようにくしゃくしゃと撫でながら彼女は小さな声で言った。
「しばらく、入院しようか。ここにいればちょっとは癒えるかもしれないしね」
「…はい」
 津山は達也の腕の中から解放すると、もう一度くしゃっと頭をなで立ち上がった。達也は照れくさそうにそっぽを向いた。やっぱりこういうのにはなれない。「母親」に触れたことが極端に少ないから、だろうか。
「達也君。その人、なんて名前?」
 さっきと同じようにカルテを書きながら津山は尋ねた。達也は一瞬驚いたように顔を上げたが、やがてふっと微笑み言った。
「なをです」
「ナオ……か」
 試すように言ってから津山は優しく微笑んだ。
「いい名前だね」












「奈緒やぁ、こっちおいで。おばあちゃんがウサギさんの折り方教えてあげるよ」
 奈緒は祖母を振り返った。祖母は折り紙を二、三枚広げニコニコ笑っている。何か冗談でも言ってるのかと思ったが、祖母がニコニコと手招きしながら言った言葉で奈緒は凍りついた。
「おいで、奈緒。今日は幼稚園で何したの?おばあちゃんに聞かせておくれ」


「お義母さん、奈緒はもう21ですよ」
「なに言ってるんだい夏子さん。奈緒は先月5つになったばかりじゃないの」
「違いますよ。それは16年前の話ですよ」
「あれ、夏子さん。あんたずいぶんしわが増えたねぇ。疲れてるんじゃないのかい?まだ27なのに」
「お義母さん…私はもう43ですよ」
 どうやら祖母の記憶は16年前まで飛んでしまったらしい。母は何度も祖母にいろんなことを説明していたが祖母は何を言われても納得しない。母は何を言っても無駄と思ったらしく部屋を出て電話をかけ出した。相手はどうやら仕事先の父のようだ。
 母がいなくなってしまうと、祖母は奈緒に盛んに話しかけてきた。
「奈緒、こっちおいで。おばあちゃんとウサギさん折ろう。あ、それともおはじきしようか」
「おばあちゃん…あたしもう21よ。折り紙もおはじきももうしないよ」
「あらぁ、奈緒はずいぶんませたこというようになったねぇ」
「おばあちゃん、しっかりして。あたしはもう大人よ」
「ああ、そうだねぇ。奈緒は大人だねぇ」
 祖母は楽しそうにけらけら笑っている。奈緒も母同様途方にくれた。もともと祖母は話を聞かない人だったがボケが入ってますますひどくなっているようだ。
 しばらくして、奈緒は祖母に今のことを納得させることを諦めた。何を言っても無駄だったし、何より祖母がずいぶん楽しそうなのでなんだか無理に納得させるのも気がひけた。祖母は12年前に夫、つまり奈緒の祖父を亡くし、ずいぶん元気がなくなってしまった。だが祖母は今、自分が16年前の世界にいると思ってる。つまり、祖母の記憶の中で祖父はまだ生きているのだ。その記憶を否定することが奈緒にはできなかった。
 20分ほどして母が廊下から奈緒を呼んだ。
「奈緒ー、出かける準備してー。お母さんタクシー呼ぶから」
「どこいくの?」
「病院。ほら、この前あんたが御礼に行ったあそこよ」
 心臓が一度大きく鳴るのを感じた。あの病院。あの、達也がいた病院……。
「先生に電話したらたぶん入院になるらしいからおばあちゃんの荷物も用意してあげて。お父さんは後から来るって……ちょっと奈緒、聞いてる!?奈緒ー!!」
 まあ会えるかもしれない。彼に。奈緒は楽しそうに折り紙を追っている祖母の隣で立ち尽くしていた。












 奈緒はがっかりして中庭のベンチに座った。夜の中庭は人影がなく、ライトアップされた花だけが明るい色を放っている。
 達也はいなかった。まあよく考えればいないはずだ。達也はもう1ヶ月ほど前、奈緒が最後に会った日には退院している。
 期待していただけに落胆は大きかった。その上祖母は長期入院だという。いやなことばかり続いて、なおは大きくため息をついた。
 達也とはたった2度会っただけだ。それなのに、どうしようもなく彼に会いたがっている自分がいる。会えなくて悲しくて、泣き出したい自分がいる。
 会いたい。会って話がしたい。どうして達也は急に自分と会うことを拒んだんだろう。
「なを?」
 誰かに名前を呼ばれた。誰?父?母?祖母?いや、この発音はその中の誰のものでもなかった。こんな微妙な発音をするのはただ一人。
 奈緒はばっと顔を上げた。そこには、達也がいた。











 ずっと君に、会いたかった。


第4話


 入院してもう2週間がたとうとしていた。こんな長い入院は久しぶりだ。別に何か治療を行ってるわけではなかったが、ここにいるほうが精神的に楽だった。家に帰れば、いやでも奈緒のことを思い出す。
 ゆっくりと中庭を歩きながら達也は思った。奈緒の相手になるのは、一体どんな人だろう。その人がうらやましくて仕方なかった。何の気兼ねもなく奈緒を愛することができるその人が。自分は奈緒に限らず、どんな女性でも気兼ねなく愛することなんてできなかった。そして、自分が愛した相手に愛されることも望めなかった。
 中庭には色とりどりの花が咲いている。奈緒が持ってきてくれたオレンジ色の花束を思い出した。2週間もほったらかしじゃ、もう枯れてしまったかな。
 そんなことを思いながら歩いていると、向こうのベンチに誰かが座っているのが見えた。患者かと思ったがパジャマを着ていないからどうやらそうではないらしい。患者の家族だろう。でも、なんだか様子が変だ。ベンチに座ってうつむいたまま動かない。具合でも悪いのかと思って近づいた。どうやら女性らしい。ブラウンの髪が頬や額にかかっている。
 達也ははっと立ち止まった。ブラウンの髪。彼女と同じ色。そういえば見覚えがある。細長い腕、パステルブルーのマニキュアを塗った爪。まさか……。
「なを?」
 恐る恐るたずねてみる。彼女はしばらく動かなかった。人違いか……そう思った途端、彼女がばっと顔を上げた。達也を見て、驚いた表情になる。間違いない。奈緒だ。奥二重の目も、小さな顔も。記憶の中にある彼女と同じだった。
「あなた……あの時の?」
 奈緒の声が胸に響く。荒んで乾ききった心を潤すように染み込んでいく、彼女の声。その声を聞いた途端、ダムが決壊したように思いがあふれ出した。
 ずっと君に、会いたかった。
 そう叫んで奈緒を抱きしめたくなった。でも、それは許されない。達也は硬く目を閉じた。本当ならもう会うこともしちゃいけなかった。でも会ってしまったなら、奈緒を突き放さないといけない。
「…何してんの?」
 口から出た声は思ったよりも低かった。
「…おばあちゃんがちょっと具合悪くなって…入院することになったけど…」
「ふうん……」
 黙ってしまった達也に奈緒は恐る恐る話しかけてくる。
「また入院してるの?」
「ん」
「どうして?調子悪くなったの?」
「別に」
「そ、そう。ごめんね、変なこと聞いて」
 奈緒が気まずそうに目線を泳がせる。達也は何も言わなかった。奈緒が諦めて立ち去るのを待った。喉まで昇ってくる言葉を何度も飲み込みながら。
「あの……」
 小さな声。奈緒のほうを見ると、彼女はうつむいていた。
「前の、あなたのアパートでのことなんだけど」
「何」
「あたし…きっとあなたに悪いこといったんだよね。ごめんね…嫌な思いさせちゃって」
 最後のほうはほとんど聞こえなかった。達也は目を閉じた。ここで許したらだめだ。本当は何も気にしてなどいなかった。むしろ自分のことを心配してくれた奈緒には感謝している。だからこそ。自分との関わりを断ち切らないといけない。
「…許してくれ、ないよね。でも、ちゃんと謝っときたかったんだ。…あたしの顔なんか見たくもないよね。ごめんね。…もう、行くから」
 達也は目を開けなかった。このままでいい。彼女の中で、自分は冷たい男として映っていればいい。
 どれだけ待っても達也は返事をくれないと気付いたのか、奈緒が動く気配がした。少しずつ遠ざかっていく足音にそっと目を開ける。が、彼女の後姿を見た途端、達也は思わず手を伸ばし、
「なを、」
 伸ばした手は彼女の細い手をつかんでいた。奈緒が驚いたように達也を見つめる。達也ははっとして手を離した。
 傷ついた奈緒の後姿を見た途端、体が動いてしまったのだ。自分がつけた傷。それが月の光に照らし出されていて、そこからはまだ鮮血が流れ出していて。それを見たらやりきれない思いがわいてきたのだ。
 達也は奈緒から目をそらした。どうすればいいかわからなかった。一度呼び止めてしまったらまた突き放すこともできなくなってしまった。奈緒もこのまま達也をおいて背を向けるわけにもいかないらしく、途方にくれたように達也を見ている。沈黙が二人を包んだ。
「あれ、達也君?」
 達也は振り返った。助かった、そんな思いだった。中庭を通ってこっちに来るのは津山だった。
「だめだよ、こんな時間にうろうろしてちゃ。病室でおとなしく……」
 そこまで言って、津山は奈緒に気付いたようだった。奈緒はしばらくぽかんと津山を見ていたが、やがてあわててぺこんと頭を下げた。津山も会釈する。
「達也君、どちらさま?」
「あ、あの、大崎奈緒といいます。あのこれは」
 奈緒の言葉を切るように津山がぽんと手を叩いた。
「ああ、奈緒さん!!こないだ達也君が言ってたのはこの子ね?」
 奈緒はきょとんとして津山を見、達也を見た。達也は奈緒から目をそらした。いい言い訳も、突き放す言葉も出てこなかった。
「達也君の主治医の津山です。はじめまして」
「あ、はじめまして」
 奈緒がやわらかく微笑んだ。津山も微笑んだが、ちらっと達也のほうを見た。訊いているのだ、自分にどうして欲しいのか。達也は目をそらした。何も望まない。ただもうここにはいたくなかった。心がずっと悲鳴をあげ続けている。
「先生、俺そろそろ部屋に戻ります。もうおそいし」
 何の感情も込めずに、ただ並べる様に話す。津山はそこから達也の気持ちを感じ取ったらしくああ、と頷いた。奈緒が何か言おうとしたのが見えたが、その言葉を聞かずに彼女に背を向けた。中庭を横切って病棟に向かう。その間にもずっと奈緒の視線を背中に感じていた。













「ごめんね、あの子今ちょっと不安定なんだわ」
 さっさと行ってしまった達也の背中を呆然と見送っていると津山が声をかけてきた。はっとして彼女を振り返る。
「いえ、もう会いに来るなって言われてましたから。当然だと思います」
「あなた達也君に会いにきたの?」
「いえ、祖母がちょっとお世話になることになって…それで来てたんですけどたまたま彼と会って」
「そう……」
 津山はそこで考え込むようにうつむいた。奈緒は首をかしげた。達也といい彼女といい、どうも真意が見えない。ほぼ1ヶ月ぶりに会った達也は自分を疎ましく思ってるようだったが、なぜか自分が行こうとすると止めた。奈緒はそっと腕に触れた。さっき達也が触れた場所。暖かな体温。それが鮮明に思い出される。
「奈緒さん」
 奈緒は顔を上げた。津山が真剣な表情でこちらを見ている。奈緒は戸惑ってただ津山を見つめた。津山はゆっくりと話し始める。
「あなた、達也君のことどう思ってる?」
「え?ど、どうって……」
 顔が熱くなるのを感じる。どうして?なんでこんなに焦るんだろう。奈緒は熱い頬に手を当てた。そのままうつむいて考える。どう思ってると訊かれても、自分自身よくわからない。これはどういう感情なんだろう。
 奈緒が困っているのがわかったらしく津山が優しく言った。
「そんなはっきりした言葉じゃなくていいよ。どんな感じなのかでいい」
 どんな感じ……?奈緒はゆっくりと考え、話し始めた。達也と会えなかったこの長い時間。「もう会いに来るな」といわれたときに胸にぽっかりと穴が開いたような感じ。腕をつかまれたときに感じたぬくもり。どうしようもなく彼に会いたかったこと。津山はただ話を聞いていたが、やがてふっと困ったように笑った。
「失礼だけど、あなた今までに誰かと付き合ったことある?」
「え?いえ、ありませんけど……?」
「じゃあ、初恋は?」
「…まだ、です」
 恥ずかしくて奈緒は顔を伏せた。別に男嫌いだとかそういうわけじゃない。ただ単に男の子に対してそんな感情を抱いたことはなかった。ウブだねー、とよく友達にも笑われる。20にもなって恋もしたことがないなんて。
 奈緒は上目遣いで津山を見上げた。彼女は優しく微笑んでいた。てっきり呆れてるかと思ったので少しほっとしたが、相変わらず真意は見えてこない。
「あの、このことと彼のことは、何の関係が……?」
「あなたのその感情がなんなのか、知りたい?」
「え?」
「好きなんだよ、あなた。達也君のことが」
 ああ、と奈緒は納得した。そうか、自分は達也が好きだったのか。「好き」ってこういう感情なんだ。普通こういうときは照れて否定したりするもんなんだろうが、奈緒はなんだかすっきりしてしまって何も言い返さなかった。
「ねぇ、奈緒さん。彼を好きになることを悪いことだとは言わないよ」
 津山はさっきとは違い、真剣な目で奈緒を見ていた。奈緒は怪訝に思った。悪いことも何も、達也には別に彼女もいないようだったし、いいも悪いもないと思うが。
「でもね、付き合いたいと思うなら…それなりに覚悟がいるよ」
「え?」
「傷つく覚悟がないなら、彼に近づかないほうがいいよ。中途半端に近づいたら、あなたぼろぼろになるよ」
 奈緒は首をかしげた。どういう意味だろう。この感情が何かわかった以上、できるなら付き合いたいと思う。それなのに、どうしてこの人はこんなことを言うんだろう。
「あの、何のことだか……」
「よーく考えな。傷つく覚悟があるか。彼を愛し尽くせるか。覚悟があるなら、私のところにおいで。カウンターで聞けばわかるから」
 それだけ言うと津山は奈緒に背を向け、すたすた歩いていってしまった。奈緒はさっきと同じように、また呆然とその背中を見送るしかなかった。












 父の運転する車の中で、奈緒はぼんやりと考えた。誰かと付き合うって言うのは、そんなに覚悟がいることなんだろうか?こういうときに経験がない自分が憎くなる。かといって経験がある友達に相談すれば、きっと格好の興味の対象になるだろう。えー、とうとう初恋!?とか20年の眠りを覚ました王子様はどんな人!?とか色々うるさいのだ。そんな風に騒がれるのはいやだし、もし達也に迷惑がかかるようなことがあったら困る。ただでさえ嫌われてるのにこれ以上嫌われるわけには……。
 そこまで考えて、奈緒はふと気付いた。津山はまるで覚悟があれば付き合えるようなことを言ったが、達也は自分を嫌っている。「付き合う」というのはお互いの気持ちがあってこそ成立することだ。
 奈緒はシートに深く体をうずめた。なんだか色々考えた自分が馬鹿みたいだった。要らぬ心配だ。達也は自分を嫌ってる。付き合えるわけがないのだ。
 そう…付き合えるわけないんだ。窓の外を流れていく夜景がかすかに滲んだ。







2005-08-03 18:07:19公開 / 作者:渚
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■作者からのメッセージ
えーと…とにかく、お久しぶりです。渚です。いや、ほんとにお久しぶりで^^;
最近いろいろあって全然小説書いてなかったんですが、久しぶりに頭で考えがまとまったので、また書くことにしました。


今回は2話いっぺんです。夏休みになったのに意外と時間がなくてかけないんですよね^^;ここ2,3日久しぶりに暇だったのでまとめて書きました。


菖蒲さん、京雅さん、甘木さん、感想、アドバイスありがとうございます^^励みになりますm(__)m
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